34号 - 日豊教区

2014 年 6 月 1 日 34 号
編集 日豊教区教化委員会
発行 真宗大谷派日豊教務所
〒 879-0471
大分県宇佐市四日市 1425-1
電話 (0978) 32-0050
Fax (0978) 32-0092
孤独で帰依処のない流転は。
まるで転がり続ける
石のようじゃないか。
『Like A Rolling Stone』ボブ・ディラン
り は え ぞ う、 絵 像 よ り は 名 号 」 と、 い う
木 像 」 と、 云 う な り。 当 流 に は、 木 像 よ
他 流 に は 「 名 号 よ り は 絵 像、 絵 像 よ り は
さ っ た の が 蓮 如 上 人 の お 仕 事 で あ り ま し た。
自 ら 生 き る 時 代 の 中 で、 圧 倒 的 な 既 存 の 仏
教 集 団 と 格 闘 し、 本 尊 を よ く あ ら わ し て く だ
は 「方 便 法 身 尊 形」 と 教 え ら れ て き ま し た。
る は た ら き を ご 本 尊 と 言 う の で す。 伝 統 的 に
ても必ず見つけ出すようにはたらき続けてい
探 し だ す の で な く、 迷 い 続 け る 私 を ど こ に い
す。 こ の 教 団 の 一 員 で あ る 私 に と っ て 「真 宗
る活動こそが教団の役割でないのかと思いま
与 「物」 に 息 吹 を あ た え、 生 命 あ る も の と す
る の で し ょ う。 し か し、 そ の 前 に、 教 団 の 授
な っ た ご 本 尊 は、 お そ ら く は 蓮 如 上 人 に 始 ま
能の中に位置付けられ多くの人びとのものと
も 移 動 し ま す が、 必 ず 登 場 し
だ っ た り 下 だ っ た り、 ペ ー ジ
な っ た り し ま す。 場 所 も 左 側
活字は大きくなったり小さく
他流においては自力修行である観仏三昧が基
う な が さ れ、 目 を さ ま し、 生 き る こ と を、 こ
の 本 尊 を 学 ぶ」 と い う こ と は、 本 願 の 歴 史 に
ま す。 こ の よ う に 教 団 組 織 機
な り。(『御 一 代 記 聞 書』)
本 で あ る か ら 「名 号 よ り は 絵 像、 絵 像 よ り は
な教団体制の中に埋没している自分自身を問
木 像 」 と 木 像 が 主 と さ れ る。 し か し、 当 流、 の 身 に お い て 証 し し て い く こ と で あ り、 盤 石
浄 土 真 宗 に は 「木 像 よ り は え ぞ う、 絵 像 よ り
す。
は 名 号」で あ る。 名 号 に お い て 成 就 す る 仏 道。 い 続 け る こ と で な け れ ば な ら な い と 思 う の で
仏道の大転換を訴える蓮如上人の開教宣言で
う 講 座 が 展 開 さ れ て い ま す。講 座 の 概 要 で「本
は な か っ た の で し ょ う か。
金 龍 静 氏 は 蓮 如 上 人 の 本 尊 制 定 を 「无 碍 光
本 尊 が、 本 尊 の 主 流 的 な 地 位 を し め た 時 期
尊を見出した者には無碍の一道が与えられて
私 た ち が 蓮 如 上 人 に 学 ぶ べ き は、 試 行 錯 誤
す る 勇 気 で す。 教 区 で も 「真 宗 の 本 尊」 と い
は、 長 禄 期 か ら お よ そ 十 年 ほ ど の 短 期 間 だ っ
あ る。 や が て 阿 弥 陀 如 来 絵 像 が、 そ し て 寛 正
と 語 っ た が、 こ の 頃 の 理 念 を 象 徴 す る 一 言 で
碍 の 一 道」 を 獲 得 し た 歓 び が、 感 動 が 語 ら れ
道」 を 結 論 に す る の で な く、 こ の 時 代 に 「無
碍 の 一 道 」 は ど う な の で し ょ う。「 無 碍 の 一
た。「 木 像 よ り は え ぞ う、 絵 像 よ り は 名 号 」 く る の で す」と 述 べ ら れ ま す。 こ の 場 面 で「無
の 法 難 以 後 は 自 筆 の 六 字 名 号 が、 本 尊 の な か
迷 い 戸 惑 う 者 に、 自 信 を 失 っ て 立 ち 尽 く す 者
ご 本 尊 は、 日 々 の 暮 ら し を 楽 し く 過 ご せ な
い 者 に、 情 熱 を 持 っ て 過 ご せ な い 者 に、 道 に
よ う。」
(『蓮 如』)と 教 え て く だ さ っ て い ま す。 立 ち 尽 く し 試 行 錯 誤 す る こ
本尊制定の試行錯誤の跡を告げるものといえ
思 う の で す。 私 は 社 会 に 届
に く わ わ り だ し、 主 流 的 地 位 を し め て い く。 る べ き だ と 思 い ま す。 私 た
に、 共 同 体 ・ 組 織 の 中 で 息 詰 ま ら せ て い る 者
ご 本 尊 は 「授 与 物」 と 呼 ば れ ま す。 同 朋 新
聞 に は「 御 本 尊 は 本 山 か ら お 受 け し ま し ょ
く言葉を吟味したいと思い
とが求められているように
ち に は、現 実 に 立 ち 止 ま り、
に、 日 常 世 界 を 超 え た 世 界 に 触 れ さ せ、 こ の
う」 と い う コ ピ ー が 必 ず 出 て い ま す。 皆 さ ん
後藤 立雄
世間において自立して生きる根拠を与えるも
佐伯組 宿善寺
ど ん な ふ う に ご 覧 に な っ て い る の で し ょ う。 ま す。
真宗の本尊
の で す。 そ れ も 私 た ち が そ う い う は た ら き を
念仏のこころ - 願われ、待たれている私を生きん! -
教区・別院 御遠忌テーマ 聞こう
1
No.34
どんな感じだい ?
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22
と、
宗祖は「如来の願心に立っ
て願文を解することに徹し」、
「現生正定聚を理論づけるに
は大変ご苦労されて所要の文
をひいておられる」というこ
とである。
以下は、このことを踏まえ
ての筆者なりの整理・受け止
めである。
如来の無限の大悲が願文と
なり、それを最も衆生が受け
止めやすいように名号を示さ
れた。回向されたその本願に
念仏を通して値遇すること
で、すべてが始まる。あたか
も浄土行きの列車に乗り込ん
だようなもの。回向に乗じた
故に、即正定聚であり、おの
ずからしからしめる故に自然
である。衆生のはからいは何
もないので他力である。これ
はまた還相回向であり、示現・
応現、本地・因地をうたう和
讃の不思議な言葉も頷けるの
ではなかろうか。
従って、凡地にあるものが、
往生は現生・来世どの時点で
成立するのかなど云々するこ
と自体が僭越となる。すべて
お任せである。
江戸時代に赤ん坊の死をめ
ぐり、念仏をいただかないま
まになくなった故、浄土往生
できないと答えた住職があ
り、大問題になったとのエピ
ソードがあった。教条的な理
解は害こそあれ益はない例で
あ ろ う。 如 来 の「 大 」 悲 は、
文字通り例外なくみそなわす
から大悲であって、凡地の者
が相対的に大小を言うのとは
根本的に異なるであろう。
障害があって念仏をいただ
けない人、あるいは拒否する
人、様々であるが、如来はす
べてを包み込んでは働きかけ
救ってくれる。違うのは、そ
の働きかけに気づき、感謝し、
人間らしい豊かな報恩の歩み
を進めるかどうかなのではな
かろうか。
最後にお世話くださったス
タッフの皆さんに感謝しま
す。
大分組 真願寺 半澤秀宣
と に。 坊 守 と 婦 人 会 の 役 員 で 企 画
女と男の寄り合い談義
会をつくり、声明の先生と共に各
組を巡回して何度も稽古を重ねま
第 6 回『 女 と 男 の 寄 り 合 い 談
義 』( 公 開 学 習 会 ) が 3 月 日、 した。久留米教務所の会館は当日、
大 分 市 組 の 光 明 寺 で 開 か れ ま し 女 性 で 埋 め 尽 く さ れ ま し た。 ご 本
た。初めに、時代社会部門の上条 尊に向かい無二の勤行を勤め、坊
順子、廣瀬美奈両委員によるミニ 守会と婦人会の垣根を越えて共に
コンサートにつづいて、久留米教 つくりあげた、またとない法要が
区 の 草 野 龍 子 師 が、『 こ れ か ら の 勤まった瞬間…。
お寺を一緒に考えましょう』とい こんな提起をうけて、参加者か
うテーマで次のように発題しまし ら 様 々 な 質 問 や 意 見 な ど が 出 さ
れ、話し合いを深めました。
た。
第 7 回 は 4 月 日、〝 ど う な る
2011年
どうする これからの日本〟を
春に宗祖親鸞
テ ー マ に 開 か れ、 齊 藤 真 師( 浄 土
聖人七五〇回
真 宗 本 願 寺 派 光 尊 寺 住 職 )、 茶 屋
御遠忌が勤ま
明 郎 師( 日 本 キ リ ス ト 教 団 若 松 教
り、 各 教 区 で
会 牧 師 )、 原 典 正 さ ん( 大 分 マ ス
も御遠忌が勤
コミ九条の会)の三人の発題を受
まっていま
す。 久 留 米 教 区 で は、「 女 性 の 声 けた後、みんなで話し合いを深め
によるお勤め」を初めて勤めるこ ました。
齊藤真師は、
「同朋運動が始まっ
て 年たつが、差別や非戦という
言葉が消えてきた。教団はこれか
ら『非戦平和』を担っていけるの
か。大変危うい」と。茶屋明郎師
は「日本キリスト教団も、礼拝の
中で戦勝を祈るなど侵略戦争に賛
成してきた。1967年に戦争責
任を告白した。戦前と同じように
なってきたが、今は私たちがいる」
と。原典正さんは、「マスコミが、
必ずしも国民の立場に立って真実
の報道をしないことに危機感を
持っている」と。
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時代社会部門幹事 林 正道
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日豊教区ホームページ http://guga-gubutsu.com
教区安居
親 鸞 仏 教 セ ン タ ー 所 長 本
多弘之師を講師に3年目の安
居 が 4 月 ~ 日 開 講 さ れ、
昨年に続き受講した。受講者
は 名であったが、数名御門
徒の方がおられ、熱心な姿勢
に敬服させられた。
さて、講義の内容について
であるが、宗祖は、名号の上
下に讃文を配して本尊とされ
た歴史がある。その讃文を手
がかりに教区中心施策テーマ
の「真宗の本尊」を掘り下げ
る趣旨で標記の講義タイトル
が設定され、今回は、大無量
寿経下巻の「其仏本願力 聞
名欲往生 皆悉到彼国 自致
不退転」および「必得超絶去
往生安楽国 横截五悪趣 悪趣自然閉 昇道無窮極 易
往而無人 其国不逆違 自然
之所牽」が取り上げられた。
字数はわずかであるが、経
文の字釈・時代背景・諸師の
受け止め・現代社会に関わる
問題認識等縦横かつ奥深く講
義されたことから、十分に理
解できず、記録を読み返して
もわからないことの多いのが
正直なとこ
ろである。
強調され
た こ と を
一つあげる
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日豊教区報 ぐーがぐーぶつ
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教区解放研修会
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仏青一泊研修会
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教区推連協 豊前・豊後ブロック研修会
2014年4月 日、大 認知だけではない。無言の
分市組光西寺にて、そして 声を聞く耳、ものの背後に
4月 日、四日市別院仮本 あ る 見 え な い も の を 観 る
堂 に お い て、 日 豊 教 区 推 目 を 持 つ こ と が 大 事 で あ
連協の2013年度豊前・ る。仏法を(に)聞くこと
豊 後 ブ ロ ッ ク 研 修 会 が 開 によって聞こえるもの、見
催されました。
えるものがある。それは何
講師は、両ブロックとも に よ っ て 得 ら れ る か と い
宇 佐 組 勝 福 寺 ご 住 職 藤 谷 えば、人(善知識)から教
知 道 先 生 に お 願 い し、
「 聞 えられること、
即ち「聞法」
こう、念仏のこころ―願わ を続けることによって、次
れ、待たれている私を生き 第 に 身 に つ い て い く も の
ん!―」をテーマとしてご である。
」
法話をいただきました。
つまり、壁の向こう側に
ご法話の大要は、次の通 ある広大無辺の「陰」から
りでありました。
聞こえる声を聞く。阿弥陀
「 仏 法 を 聞 く と い う こ と 仏の光(智慧)によって照
は、単なる言葉の響きを聴 らされる「陰」の存在に気
くのではない。また、仏法 づかされる。その「陰」に
を通してものを見るとい よって生かされている私
うことは、単に視覚による に目覚めたところに「お陰
様 」 と い え る 言 葉 が あ り、
それが念仏のこころにな
る も の と い た だ き ま し た。
有り難うございました。
合 掌
推進員連絡協議会副会長
鈴木正臣
暁史
3月 日、教区解放協議会は
4月 日~ 日、日豊教区仏教青年会 の一泊研修会が開催された。参加者は仏 『差別の歴史を作るのは誰か?』
をテーマに解放研修会を開催し
青会員 人。教区・別院の御遠忌に向け
た。 講 師 は 部 落 史 研 究 者 ・ 大 阪
て、皆で課題を共有し歩んでいくために、
市立大学教員の上杉聰氏。
またどうすれば仏教青年会がより良いも
講 義 の 前 半 で は、 天 皇 制 を 支
のとなるのかを話し合うために企画され えてきたものは「血縁幻想」と
た。会場は大分県九重町「長者の郷」に 「 家 制 度 」 で あ る と し、 実 際 に
ある貸別荘で、風呂は温泉、食事ができ は天皇家という家が続いて来て
るテラスなど立派な一軒家で、参加者は いるに過ぎないことを、あたか
一様に感嘆の声をあげていた。
も天皇の血筋が続い
開会行事として勤行をし、車座になっ て 来 た か の よ う な 幻
て話し合い、後に手分けして食事・寝具 想 が 作 り 出 さ れ て い
の準備などにとりかかり、あいにくの雨 ると指摘された。そし
であったがバーベキューをして親睦を深 て「万世一系」こそ「血
めた。食事や温泉、歌にゲームと夜遅く 縁幻想」であり、皇族
まで楽しげな声が止むことはなかった。 の 女 性 の 存 在 を 抹 殺
することで維持され
翌日は晨朝のお勤め、食事の後に皆で てきたものである。そ
掃 除 を し て 別 荘 を 後 に し、 近 く に あ る
のうえで、私たち日本
九重大吊橋へ向
人 の 意 識 は「 父 系 制 」
か っ た。 霧 の た
に縛られており、これ
め絶景とはいか
が部落差別の元にあ
な か っ た が、 高
るとし、今後、より一層女性の
いところが苦手
権
利が認められるようになれば
な人を励ましつ
「
父系制」が終焉に向かう可能
つ渡ることがで
性があることを示唆された。
き た。 そ こ か ら
後半の講義では部落差別の起
各自解散となっ
源についての学説に触れ、江戸
初期に作られたとする近世政治
たが、普段と違っ
起源説が説得力を失い、近年は
た環境で過ごす
上杉氏などが提唱する「中世政
こ と で、 お 互 い
より親密になれたのではと感じる研修で 治起源説」が広く支持されてい
る 現 況 で あ る と 述 べ、 そ れ は、
あった。
天皇の直接的な主導権が小さく
なり、摂関が実質的な権力を持
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教区仏教青年会会長 手嶋
つようになった時代に遡るとさ
れ る。 史 料 的 に は 1 0 1 5 年 に
藤原道長が天皇を崇め高めるた
め の 祭 り、「 葵 祭 」 の 準 備 の た
めに「検非違使」に命じ「河原
人」を集め清掃や死体処理をや
ら せ た と す る 史 料 に よ る。 つ ま
り「 キ ヨ メ 」 と い う 職 能 集 団 を
政治的に誕生させたのが藤原道
長である。この「キヨメ」が京
都 以 外 の 荘 園 に も 導 入 さ れ、 そ
し て 次 第 に 様 々 な「 穢 れ 」 業 務
を請け負う形で
全国に飛び火し
た。 そ の 名 残 か
ら、 大 小 に 関 わ
らず権力の存在
したところには
「部落」が存在す
ることとなって
いるとする。
最後に上杉氏
は差別とは権力
の作用によって
起こされるもの
であり、私たちはみんな「小さ
な権力」持っており、お寺に居
ることは権力を持つことでもあ
ると述べられた。そして、大き
な権力は小さな権力を持つ者を
束ねてより強大になっていくも
のであるとしたうえで、差別を
解 消 し て い く た め に は、「 小 さ
な権力」と「大きな権力」を峻
別しその両方に対峙していくこ
とが大切であると、私たちに教
示され講演を締めくくられた。
解放協議会常任委員 麻生 透
念仏のこころ - 願われ、待たれている私を生きん! -
教区・別院 御遠忌テーマ 聞こう
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2014 年 6 月 1 日 34 号
日豊教区報 ぐーがぐーぶつ
日~
日)
正副組長改選
正副組長の任
期 満 了 に 伴 い、
新人坊守研修会
宇佐組 組長 甲斐誓次 (
常寂寺) い教えに出合われ、苦労を乗
副組長 林 正道 (安養寺)
り越えられた先輩坊守さんの
副組長 武本正純 (
西賢寺) 目的があるから寺を護れた」
「
中津組 組長 江本 忍 (長仁寺)
というお言葉を重く受け止め
副組長 細川慈照 (
永照寺) ました。
京都組 組長 来山哲治 (
淨喜寺)
その中で、私自身、今まで
副組長 二十二豊 (
真念寺) 何を目的としてきたのか、お
副組長 村上匡一 (
念信寺) 寺の娘として生まれどこか甘
田川組 組長 大場 信 (蓮臺寺)
く生きてきた私だったのでは
副組長 井上道昭 (
法光寺) ないかと改めて振り返り、自
副組長 長尾宣明 (
香岳寺) 分の目的をあきらかにするこ
築上組 組長 小袋雅文 (
西敎寺) との大切さを気付かせていた
副組長 吉田量爾 (
明照寺) だきました。これから、自分
耶馬溪組 組
長 清原 徹 (善正寺) と真剣に向き合いながら聞法
副組長 楢原正純 (
專念寺) することによって、本当の目
西藤 眞 (西福寺)
大分市組 組長
的が定まって行くのではない
副組長 長久寺德純(長
久寺) かと思っています。
大分組 組長 佐藤正範 (
正観寺)
時代の変化と共にお寺を取
副組長 田村文敏 (
專德寺) り巻く状況も加速度的に変化
副組長 三輪國典 (
東岸寺) していることを感じずにはい
組長
古谷 聡 (蓮照寺)
臼杵組
られない中で、ますます坊守
副組長 橘 明 (
立法寺) の役割も大きくなって行くの
副組長 藤島賢昭 (
浄國寺) で は な い で し ょ う か。 こ の
竹田組 組長 藤村 暢 (明尊寺)
研修会をご縁に更に自覚を持
副組長 原田宗照 (
敬念寺) ち、坊守であること、またそ
玖珠組 組長 山田寺元煕(廣
妙寺) の役割を与えられたことに生
副組長 麻生 透 (明嚴寺)
涯をかけて本当に有り難いこ
日田組 組長 平野法好 (
專念寺) とだったと心から感謝出来る
副組長 武内和朋 (
長福寺) ようになれることこそが本当
副組長 大谷 純 (廣圓寺)
の 目 的 な の か も し れ ま せ ん。
別府組 組長 三那三文雄(淨
願寺)
そして、自分に「寺に生き
副組長 小野豊德 (
大智寺) る意味」を問うて行くことが
佐伯組 組長 江藤英成 (
福圓寺) 大きな意義があるのではない
副組長 尾崎 進 (常照寺)
かと思っています。
組長
吉野正純 (
直入組
慶圓寺)
日田組景流寺 浅海久美子
副組長 志賀英俊 (
真樂寺)
31
写真で振り返る 御遠忌風景
築上組 3 月 26 日
選出教区会議員選挙
(任期:2014年4月
教区会(臨時会)報告
武本 正純(宇佐組西賢寺)
上条 弘宣(中津組善了寺)
井上 哲(京都組明増寺)
村上 良靜(京都組善德寺)
寺田 正知(田川組芳永寺)
髙岡 昌之(田川組因隆寺)
荷堂 岳(大分市組常念寺)
半澤 秀宣(大分組真願寺)
相良 義則(竹田組光西寺)
森本 信幸(別府組光蓮寺)
尾崎 進(佐伯組常照寺)
2017年4月
11
5月8日、教区会館において教区会
( 臨 時 会 ) が 召 集 さ れ、 正 副 議 長、 参
事会員が次のとおり決定された。
教区会議長
良靜 (
京都組善德寺)
村上
教区会副議長
岳 (大分市組常念寺)
荷堂
参事会員
哲
(京都組明増寺)
井上
正知 (
田川組芳永寺)
寺田
秀宣 (
大分組真願寺)
半澤
元煕(玖
珠組廣妙寺)
山田寺
雅文 (
築上組西敎寺)
小袋
眞 (大分市組西福寺)
西藤
参事会補充員
弘宣 (
中津組善了寺)
上条
森本 信幸 (
別府組光蓮寺)
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24
24
11
4
日豊教区ホームページ http://guga-gubutsu.com
各組において正副組長選挙が実施された。就任
4月 日、任期満了による選出教区
新 人 坊 守 研 修 会 に お い て、
会議員選挙が行われた。定数 名に対 された正副組長は以下のとおり。
別府組の安楽寺の坊守さんよ
し、 名の立候補があり、無投票で全 (任期:2014年4月1日~2017年3月 日) りお話をいただきました。深
員が当選した。当選者は以下のとおり。
2014 年 6 月 1 日 34 号
日豊教区報 ぐーがぐーぶつ
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音の泉ホールに
前日は、 iichiko
て、「声明と音楽の夕べ」と題して、
5 3 0 人 の 観 客 が 来 ら れ ま し た。
第一部は声明コンサートとして坂
東曲が准堂衆補以上 名により実
演 さ れ ま し た。 入 退 出 に は、 京 都
組 の 雅 京 会 が 入 楽 し ま し た。 御 本
山の報恩講でしか遇い得ない坂東
曲に、大分市組で遇い得たことに、
一同深く感動し、驚きました。
坂東曲終演後は、第Ⅱ部として、
鈴 木 君 代・ 天 白 真 央 両 氏 に よ る コ
ン サ ー ト が あ り ま し た。 天 白 氏 の
爽 や か な 美 声。 鈴 木 氏 の ギ タ ー 弾
き 語 り に よ る 明 る い 信 仰 告 白。 い
ず れ も、 聞 く 者、 皆 等 し く 引 き 込
まれ、時を忘れました。
大分市組妙正寺 小栗栖法秀
16
仏教青年会はなまつり
70
大分市組宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
29
3 月 日 午 後 1 時 よ り、 大 分 市
光 西 寺 御 本 堂 に 於 い て、 大 分 市 組
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法
要 が、 鍵 役・ 信 悟 院 殿 の 御 参 修 に
より厳修されま
し た。 法 要 後、
信悟院殿より参
詣 へ「 念 仏 相 続 」
の勧信がありま
し た。 法 話 は、
前 大 谷 中・ 高 等
学校長の真城義
麿師より頂戴し
ま し た。 ま た、
当日午前 時よ
り同鍵役による
137名の帰敬
式が執行されま
した。
2014年4月6日、毎年の如く
別院活動室主催の東別院仏教入門
講座と、仏教青年会主催によるはな
まつりが合同でお勤まりになりまし
た。
本 年 は、
四日市別
院本堂が
修復中と
いうこと
も あ り、
午前中は
宇佐市観
光協会共
催 の も と、
本堂修復
工事現場
特別公開
及び山門特別公開も実施されており
ました。
約 名にも及ぶ方々が見学に訪れ
るこのご縁に、お釈迦さまの誕生会
であるはなまつりを知っていただき
たいという願いのもと、山門下に花
御堂を設置し、見学に訪れた方々に
灌仏を勧め、たくさんの方に誕生仏
へ手を合わせていただくことができ
ました。午後からの仏教入門講座で
は、修復現場視察に訪れた方々も入
門講座にご参加をいただき、日田組
西岸寺住職の櫻木証師を招きご法話
をいただきました。
はなまつりの意義を通して、いの
ちの大切さや、人と人との関わりを
通じたご自身の学びを、わかりやす
く伝えしていただきました。
教区仏教青年会会員 小栗栖大地
念仏のこころ - 願われ、待たれている私を生きん! -
教区・別院 御遠忌テーマ 聞こう
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2014 年 6 月 1 日 34 号
日豊教区報 ぐーがぐーぶつ
大分組 3 月 24 日
う話を聞くので
中高生の集い
す が、 今 の 子 ど
も達はお寺で遊 芳 友
日豊教区中高生の集
いが、2014年4月
ぶ ど こ ろ か、 お
2日(水)~3日(木)
寺にかかわる事
にロバート・ワトソン
自体難しくなっ
さんを講師に迎え、日
ているんだなと
田組西林寺にて開催さ
痛感しました。
れ ま し た。 参 加 者 は、
1日目は自己
男子5名、女子7名の
紹介のミニゲー
計 名でした。
ム を し た り、 夕
食の材料の買い
私自身、子どもの頃
に一度だけ参加した
出しと調理を子
記 憶 が あ る 程 度 で、 右 も 左 も ども達自身でする事によって、 衛 藤
わからない状態での参加でし みんなの距離がぐっと縮まっ
た。参加した子どもたちに「お た 気 が し ま す。 2 日 目 に は 小
寺 に 初 め て 来 た 人?」 と 質 問 鹿 田 焼 で の 陶 芸 体 験 が あ り ま
を し た と こ ろ、 約 半 数 が 手 を し た。 そ れ ぞ れ 工 夫 し な が ら
挙げた事には驚かされました。 湯 呑 や お 皿 な ど を つ く っ て い
よ く お 参 り に い く と、 お 年 寄 ま し た。 そ し て、 2 日 間 を 通
りの方から、
「子どもの頃はい し て の 講 師 の ワ ト ソ ン さ ん に
つもお寺で遊んでいた。
」とい は「自分らしさって?」をテー
マに先生の人との関わり方な
ど大変興味深いお話をいただ
き ま し た。 子 ど も た ち も 皆 真
剣な様子で聞いていました。
この中高生の集いに参加し
た こ と で、 子 ど も 達 と お 寺 の
距離が少しでも縮まったので
は な い か と 思 い ま す。 そ れ と
同 時 に 私 自 身、 今 後 お 寺 に 足
を運んでもらうにはどうすれ
ばいいかという課題をいただ
きました。
日田組西林寺 長谷山孝之
人
事
異
動
前号 (№ 33) の掲載に間違いがありました。 お詫びして以下
のとおり訂正申しあげます。
新住職紹介
彰宏
玖珠組 芳友寺
月 日修習〕
い
きょう へい
4月1日付で教区別院職員の異動があった
か
1989年1月 日 生
着任 甲斐 恭 平 教区雇員
日豊教区竹田組 西休寺
このたび、日豊教務所の教区雇員と
して勤めることになりました。迷惑を
かけることがあるかもしれませんが、
よろしくお願いします
はるか
退職 相良 義和 かしわ ぎ
1992年8月 日 生
着任 柏木 遥 書記
鹿児島教区宮﨑組 教梵寺
18 日 耶馬溪組別院奉仕研修
〔
ご生前のご遺徳を偲び、 謹んで哀悼の意を表します。
竹田組 松山寺 住職 宮川 弘洋 4 月 16 日寂
玖珠組 寶光寺 坊守 高藤 知代 4 月 18 日寂
《お詫びと訂正》
広報企画を担当
して、3年が無
事終了。最初は
とにかく記事の
収 集 に 躍 起 で、
体裁を確保する
ことのみを考え
ていました。途
中で、記事の収
集が思ったほ
ど簡単でないこ
とを悟り、大層
困った時期が
あ り ま し た が、
「広報されてい
るものの収集を
企画してゆけば
…」と気付いて
から、少し楽に
なりました。有
難うございまし
た。 N・O
6
日豊教区ホームページ http://guga-gubutsu.com
18
28
一生懸命がんばりますので、ご指導
のほど宜しくお願い致します。
7 月30 日 推連協総会・研修会
生まれて初めて、祖師前
の首座に座る意味を知り
つつあります。
開かれた聞法の場にして
行きたいと思います。
大 分 組 光 泉 寺
月 日修習〕
17 日 教勢調査報告学習会
25
28
真
央
〔
宇佐組 林松寺 住職 信國泰之
1月 18 日寂
退職 間下 法慈
6 月 4 日 大分市組婦人会奉仕研修
【3 月~ 5 月】
敬弔
3
2
別院奉仕研修(3 ~ 5 月)
■中津組
参加者 25 名
(3 月 5 日)
講師 長野 淳雄 師
■耶馬溪・別府・直入組婦人会
参加者 58 名
(3 月 17 日)
講師 末廣 法崇 師
■築上・耶馬溪組推進員一泊
(3 月 27~28 日)
参加者 21 名
講師 隈部 悟 輪番
永井 貴宗 駐在教導
■田川・臼杵組婦人会
参加者 64 名
(4 月 16 日)
講師 多田 益子 師
■京都・日田組婦人会
(5 月 13 日)
参加者 80 名
講師 村上 秀麿 師
2014 年 6 月 1 日 34 号
日豊教区報 ぐーがぐーぶつ
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