oymt200908.pdf (601KB) - 大倭紫陽花邑

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8 月 号
芳郎さん撮影(文・8頁)
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湯浅
岡山県真庭市
新庄川の清流
本当の宗教を区別する
お天気 が良 くない のに 、よう こそ お参
り に来て くれ ました ね。 昨日か らの 天気
予 報では 、お 祭りは もう 全て屋 根の 下で
し ないと いか んなと 思っ ていた んで す。
今日は 、東 の山か ら天 の奇瑞 が現 れた
記 念日で ござ います ので 、雨に なっ ても
そ れが神 さん の心と いう ことで 、龍 神さ
ん に﹁天 気に してや ﹂と 頼まな かっ たん
で す。ま あ雨 が降っ たら 来る人 が少 ない
か ら気楽 でえ えやな いか と、そ れぐ らい
の 気持ち でお ったん です 。けれ どね 、朝
は 降って いた のに段 々と 上がっ てき て、
神 さんが 機嫌 良かっ たの かしれ んけ れど
も 、お祭 りの 始まる 午後 二時の 頃に は、
お 日さん も一 回だけ 顔を 出さは りま した
わ。
秋にな った とは言 って もまだ 暑い 時期
で すけれ ど、 ええ具 合に さわさ わと 風が
吹 いて、 全然 扇も使 わな かった し汗 も出
な かった し、 天の恵 みを 非常に 喜ん でお
さ にわ
り ました 。そ んなん で斎 庭で、 先祖 さん
等 の名前 を書 いた塔 婆を 一つ一 つ皆 、入
念 にきち っと 回向さ せて もらい まし た。
東光大 祭の 方は宗 教的 行事で あり ます
け れど、 祖霊 祭は宗 教的 な行事 と違 いま
す ねん。 これ は我々 肉体 の持っ てる 人間
と 、肉体 の持 たない 人間 とが交 流す る日
で 、本当 は﹁ 霊界の 人と 現界の 者が 仲良
く 遊ぶ﹂ とい うよう な行 事なん です 。日
本 の宗教 は、 死んだ 人を 拝んだ りお 経を
上 げたり 、回 向供養 する ことを 宗教 らし
(1)
東光大祭及び祖霊祭法話より(上)
平成4(1992)年8月13日
(題字 矢追日聖)
0 1 0 5 0‐6‐6 7 0 0 2
大 倭 出 版 局
URL http://www.ohyamato.jp
大倭出版局・大倭紫陽花邑
★振替口座
毎月23日発行
年間購読料3,000円
(送料共)
通巻 468 号
★発 行 日 平 成 21 年 8 月 23 日
★発 行 所 大 倭 出 版 局
631‐0042 奈良市大倭町1の12
(0742)44‐0015
★印
刷 大 倭 印 刷 株式
会社
★定
価
1部 2 5 0 円
平成21(2009)年
宗教の根本  自分個人の心の修養
法主 矢追 日聖(満80歳)
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おおやまと
通巻468号
く言 うて ます けれど ね。 その辺 を皆 さん方 には 、
はっ きり と区 別して ほし いと思 うん です。
東方の光によって示された教え
ま ず東 光大 祭の話 をさ せても らう と、終 戦は 昭
和二 十年 八月 十五日 です から、 その 明くる 年の 昭
和二 十一 年八 月十二 日だ ったと 思う んです 。私 は
まだ 自分 の実 家に住 んで おって 、こ こへ来 て田 と
か畑 とか 作っ て百姓 して おる時 代で した。 夕方 、
鏡池 の堤 防で うつむ いて 牛に食 わす 草を刈 って い
ると 、上 から 頭を何 回か 引っ張 り上 げられ るん で
すね 。何 かお かしい なあ と思っ て、 ふっと 力を 抜
いた ら勝 手に 頭が上 がる 。今は この 辺の木 が伸 び
て見 えに くい ですけ ども 、
そ の時東 の方 を見た ら、
春日 連峰 の山 際辺り から 西の生 駒山 の方ま でね 、
虹色 のサ ーチ ライト みた いな光 が広 がって いる ん
です 。濃 い色 のが八 本、 ちょっ と薄 い色の 影が 八
本あ るん です 。
実 に雄 大な 景色で した が、こ れは 一つの 自然 現
象で す。 私だ けじゃ なし に、誰 にで も見え たと 思
うん です よ。 写真も 撮れ たかし らん けど、 その 時
は貧 乏生 活し とって んか ら、カ メラ ありま せん し
ね。 けれ ど未 だにそ の姿 がはっ きり と目に 映っ て
いま す。 絵で も描け るの やった ら上 手に描 きた い
んや けど ね。
太 陽が 、ち ょうど 生駒 の山に 沈ん でいる 時な ん
ですよ。太陽の方からそんな光が出ているのなら、
虹と 一緒 やな あと思 うけ れども ね、 逆に東 の春 日
の山 から 出て くると いう のが合 点い かない 。私 は
天文 学が 分か らない し、 何でこ んな 不思議 なこ と
があ るの かな と思っ て見 ていた んで す。ま たち ょ
うど その 時に 、目で 見て 一間六 尺位 の南か ら満 月
の頭 がち ょっ と出て くる しねえ 。
呆 然とし た気 持ちで 見て おった 時に ね、空 から
﹁黎 明は訪 れた り 東 方の 光 大 法は 立てり 大
タ カ マ ノハ ラ
倭太加天腹﹂というような声が聞こえて来ました。
その 時、人 格霊 が出て 来て 、ある 程度 説明し てく
れる んです 。人 格霊は 神さ んとは 違っ て、今 から
千年とか二千年とか前という場合もあるけれど
も、 昔に死 んだ 人の霊 魂で す。結 局、 私の宗 教的
な一 つの拠 点と いうも のを 、この 場所 に作る とい
うこ とを示 され たこと にな るんで すね 。
大倭の宗教的原理とは
﹁ 大倭太 加天 腹﹂と いう ことは 、大 倭の宗 教的
な原 理だと 言わ れるん です ね。原 理と 言った って
簡単 なこと です 。
﹁ 大 倭 ﹂ は ﹁ オ オ オ ヤ モ ト ︵ 大 親 元 ︶﹂ と い う
こと だと言 われ るんで す。 ここが 、我 々の先 祖さ
ふるさと
ん、 いわゆ る霊 界人全 部の 故郷で ある と。そ して
﹁太加天腹﹂  日本の神道では、神主さんが祝
詞をあげる時でも、ようタカマノハラと言っ
てますわね。文字では高天原と書いて、何か
神さ んが沢 山集 まって おる 高い所 で、 そこか ら天
下って来てというような話が多いわけなんです
が 、﹁ 太 加 天 腹 ﹂ と い う の は そ んな 高い 所 に あ る
のと 違う。 それ は宇宙 の一 つの摂 理・ 原理で あっ
て、 ここの 全て が太加 天腹 なんだ と言 われる んで
す。
タア
カア
太 と 加 と い う 言 葉 の 、﹁ タ ア ﹂ は 陽 性 、 プ ラ ス
と い う こ と 。﹁ カ ア ﹂ は 陰 性 、 マイ ナス の 方 な ん
です 。その タア とカア の二 つの物 が一 つにな る所
を﹁ハラ﹂と言うんですね。分かりやすく言えば、
上が 空で、 下は 土です 。そ の空と 土の 接触し てい
ハラ
る場 所に種 を蒔 いたら 芽が 出てく る。 そこが 腹な
んで すよ。
けれ どね 、陽性 と陰 性が寄 って 全ての 物を 生み
出して くる のが宇 宙の 根本的 な摂 理だと いう よう
なこと は、 日本で は昔 から神 道や 仏教、 哲学 者と
かも皆 、説 いてお るん です。 いわ ゆる相 対性 原理
とかね 、科 学者で も言 ってい るん ですよ 。私 が今
さらね 、神 ながら の原 理やな んて 言うの は恥 ずか
しいん です 。
それ を何 で﹁大 法は 立てり ﹂と いうよ うな こと
を言わ れた んかな あと 思った ら、 ものに は時 期が
あると 私は 解釈し たん です。 例え ば種を 蒔く ので
も、土 があ って水 があ ってお 日さ んがあ れば 、何
でも芽 が出 てくる かと 言えば そう ではな くて 、春
に蒔く 種と か、秋 に蒔 く種と かや っぱり 時期 とい
うのが ある んです ね。
だか ら過 去の人 達が 既にも う説 明して おる んや
けれど も、 これか らの 時代、 神な がらの 宗教 の必
要な時 が来 ている んだ という よう に私は 受け 取っ
たんで す。 何も私 が新 しく神 なが らの原 理を 言う
のと違 うけ れども 、日 本が戦 争に 負けた とい うよ
うな今 の時 期が、 本当 に神な がら の教え を説 くべ
き時で ある と私は 思っ たんで す。
宗教と神社を分別する
そこ でね 、今日 のこ の日に 私が あなた 達に 言い
たいこ とは 、宗教 とい うこと と人 格霊と の関 係を
ね、ち ょっ と頭を ひね って分 別し てほし いと いう
ことな んで す。
よく 神社 に祀ら れて いる人 格霊 は、い わゆ る神
さんで す。 そうい う神 さんを 拝む ことが 宗教 とは
違いま すね ん。宗 教の 根本と いう のは、 個人 個人
の精神 的な 向上を 図っ ていく 、人 間形成 の問 題な
んです 。
だか ら神 さん仏 さん に対し 全く 無信仰 な人 であ
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って も、 人間 的・人 格的 によく 出来 ておれ ばそ れ
で良 いわ けな んです 。日 本人は 、そ の辺を 考え 違
いし てい るん ですね 。
神 社や 寺にお 参り するの や、
神さん仏さんを祀って拝むのが宗教というよう
な、 皆、 そん な考え をし ていま すけ れども 、人 間
形成 の問 題を 宗教と して 考えて ない んです 。そ の
世界 は教 育だ と思っ てお ります 。け れども 人間 が
本当 に向 上し て徳を 積む には、 霊の 世界を 知ら な
けれ ばい けな いし、 また 霊界の 人と お互い の交 流
がな けれ ばい けない 。
宗 教は 何か ご利益 をも らうこ との ように 考え る
のが 普通 です 。神さ ん仏 さんに 物を 供えて 、そ の
代償 とし て自 分に何 かの 力をく れと か、病 気を 治
して くれ とか 、交換 条件 で手を 合わ せてい る人 が
沢山 いる と思 う。日 本の 宗教は 、そ ういう よう に
説明 する 場合 が多い んで す。例 を挙 げたら 、で ん
ぼ︵ =で きも の︶の 神さ んやか ら、 お参り した ら
でん ぼが 治る という よう なこと が世 の中に 通用 し
てい る。 祈祷 しても らっ たら病 気が 治ると か、 他
にも 色ん なこ とが世 の中 にあり ます が、そ んな も
のが 宗教 みた いに思 って いる。 考え てみた らお か
しい話でね、霊界にはそんなもの通用しませんよ。
でき もの は、 医者に 行っ たらい いん ですよ 。
瑞 光が 現れ た時に ﹁大 倭太加 天腹 ﹂と言 われ る
のは 、そ の辺 の区別 を教 えよと いう ことや と思 う
んで すよ 。
神 さん 仏さ んを拝 んで も悪く はな いんで す。 け
れど も、 それ が何か の交 換条件 で拝 むので あっ た
ら止 めと いた らいい 。病 気を治 して ほしい とか 、
ある いは 入学 試験通 るよ うにと か、 また何 かを 叶
えて くれ とか 、まあ 言う てみた ら欲 ばっか りで す
わ。 欲の ない のが神 さん やから ね、 そんな もの 通
用す るは ずな いんで すわ 。
︵ 笑︶
ほ んま のと ころは 宗教 人の金 儲け の手段 にな っ
てい るんで すよ 。お葬 式で も、こ の家 の格や った
らお 布施な んぼ 、戒名 つけ たらな んぼ と、そ うい
うよ うにち ゃん と出来 てい る。宗 教人 でも経 済生
活し てるん やか ら無理 もな いと言 える けど、 やっ
ぱり その裏 をし っかり 考え なあか ん。
加美さまに感謝を祈る
今 話した よう に宗教 の根 本は、 太加 天腹の 摂理
をよ くわき まえ て、自 分自 身が人 間的 に向上 して
いく ことな んで す。だ から 一番簡 単な ことを 言え
ば、 我々が 皆、 お互い 同じ 空気を 吸う て生か して
もら ってい るこ とに、 日々 感謝の 祈り をして ほし
い。 感謝し なけ ればい けな いのは 、万 物一切 を産
み育 ててい る宇 宙の生 命力 、また 万物 を生か して
いる 慈悲の 心に 対して です 。それ が加 美さま なん
です 。
自 分で生 きて いる者 は一 人もい ない んです よ。
全部 が生か され ている んで す。そ の生 かして くれ
て い る 大 き な 心 を忘 れ て し も て 皆 、、勝 手 に 生 き
てい るよう に錯 覚して いる んです 。心 臓が動 いて
いる のも神 様の 力であ って 、自分 の力 で動い てい
るん じゃな いん です。 その 一番大 事な 生命の 根本
であ る宇宙 の大 霊に対 して 、ほん まに 敬い信 仰し
てい る人は あま りいな いと 思うん です 。それ より
も、 個人の 利益 のため に神 さん仏 さん 祀って 一生
懸命拝んでね、そういうのが信仰だと考えている。
これ は大間 違い なんで す。
こ の頃は 、自 然を擁 護し ないと いか ん、自 然を
守ら なけれ ばい かんと 言う 人は沢 山い ます。 けれ
ども 、
自 分自 身の心 臓を 誰が動 かし てくれ るの か、
誰が 子供を 産ま せてく れて いるの か、 そのよ うな
根本的な宇宙の生命力がもっと身近にあるんで
す。 それに 対し て敬い 、心 から頭 を下 げるよ うな
人間に なっ てほし いと 私は思 いま す。
だか ら結 局、感 謝す るとい うこ と。こ れか らの
宗教は そう でない とあ かん。 それ がほん まの 宗教
やと思 うん です。 日々 のその 感謝 の祈り が一 番大
事です 。
加美さんの大慈悲の平等
宇宙 の原 理はプ ラス 、マイ ナス によっ て全 てが
仕組ま れて おりま す。 それが 根本 の力で すか ら、
宇宙の 大加 美さん です 。宇宙 の大 霊と言 って もい
いんで す。 それを 理解 し、そ れに 対して 心か ら敬
ってい るの なら、 同じ ように 肉体 を持っ て生 かさ
れてお る我 々人間 同士 、日本 人だ けやな しに 世界
中の人 間に 対して 、好 きや嫌 いや という よう な偏
見を持 つと いうこ とは 、先ず 加美 さんの 道に 反す
る事は 分か るはず なん です。
泥棒 する ような 、人 殺しす るよ うな人 間は 悪い
奴だと いう ことに なり ます。 他に もいろ んな 人間
が沢山 おり ますけ れど も、宇 宙の 生命力 はど んな
人間に対しても空気を吸わしてくれているんで
す。そ うい うよう な大 慈悲の 平等 観をお 互い に悟
らない とい けない 。先 ず自分 の心 から偏 見を 無く
してい くよ うにす る。 それが 先ず 第一だ と思 うん
です。
それ から 人間に は皆 、喜怒 哀楽 があり ます 。腹
の立つ こと もあれ ば欲 もある 。ど んなこ とも ある
けれど も、 お互い に許 し合え ると いう人 間に なっ
てほし いと 思うん です 。
私は 未だ に腹を 立て た経験 がな いんで す。 人が
腹を立 てる 心はよ く分 かって るん ですよ 。だ から
腹の立 つも のは持 って おるん やけ れども 、今 まで
腹の立 つよ うなこ とに ぶつか った ことが ない とい
うこと なん です。
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そ れは もの の考え 方の 問題や わね 。利害 関係 を
考え ると か、 あるい は優 越感と か劣 等感と か、 そ
んな もの を持 ってい ると 、腹を 立て たり喧 嘩し た
りせ んな らん 。お互 いに 皆、自 然の 力に抱 かれ て
いる 同胞 だと 思った らね 、相手 がど んなこ とを し
たか て私 は悪 いと思 わな いんで すよ 。同じ 人間 同
士や もの 、お 互いに 許し 合える とい うよう な気 持
ちで す。
皆 、何 故そ ういう こと ができ ない のか。 今日 で
もニ ュー ス見 ている と、 西の方 でま だ弾飛 んで 、
同じ 人間 同士 で殺し 合い をやっ てる わな。 何か の
利害 関係 で喧 嘩をし たら 、
命 の取り 合い まです る。
そんな人間が今、世界中に充満しておるわけです。
血 のつ なが ってる 家族 の中だ けで さえ仲 良く い
かな い場 合が 多い。 そん な世の 中や からね 、本 当
の宗 教と して 、神な がら の信仰 が必 要とな って き
てい るん だと 思いま す。
早 く言 えば 、人間 一人 一人の 精神 的な修 養と か
精神 的な 向上 が無い から やねん 。宗 教と言 わず に
大自 然の 力と 言って もい い。そ うい うもの をよ く
知っ て、 その 恩恵に 対し て感謝 し、 どんな 人と で
も皆 、お 互い 仲良く して いくと いう 心にな って ほ
しい と願 うん です。
大倭の加美さんと人格霊
今 日ま で流 行って いる のは、 何か 自分が 得を し
よう とす るご 利益主 義の 宗教で す。 伊勢神 宮に 行
っても、靖国神社に行っても賽銭箱が置いてある。
神社 に祀 って いるの は、 昔に亡 くな った我 々の 大
先輩 です よ。 それに 対し てわず かな 賽銭を 放り 込
んで ね、 自分 勝手な 欲望 を持っ て﹁ 何々し て下 さ
い﹂ と頼 むと いうん だか ら、も う冒 涜です よ。 こ
んな こと をし ている のは 、おそ らく 日本だ けで し
ょう 。
いわくら
大 倭の加 美さ んは、 石︵ =磐座 ︶を 一つ、 自然
神の シンボ ルと して置 いて ありま す。 万物皆 を生
かし ておる 宇宙 の生命 力、 生命体 を石 に例え てこ
こ︵ 拝殿正 面︶ に置い てあ るんで す。 これは 太加
天腹 大神さ んの ご本体 なん です。
く しい な
隣 り︵向 かっ て右側 ︶に 祀って ある のは、 奇稲
だひめのみこと
田姫 命さん 。俗 に言う 出雲 の神さ んで す。お 産や
とか 結婚と かは 出雲の 神さ んに拝 んだ らええ と、
そう 言うて 皆、 山陰の 出雲 へ行く かし らんけ ど、
うち のここ にも 居ては るん です。 奇稲 田姫命 さん
でも 、生き ては った時 には 小便も しは ったし 、須
佐緒 命さん を腹 の上に 乗せ て子供 も産 んでは んね
ん。︵笑︶
た だちょ っと 古かっ たと いうだ けの 相違で 、我
々と 同じ人 間な んです よ。 その当 時の 社会で は良
い位 置にお られ た偉い 人で 、大倭 神宮 で亡く なっ
ては るから 、こ こで祀 って おりま す。
こ っち 向 かって 左側 に お祭り して いるの は聖
あすか ひめの みこと
ふ ひ
武 天 皇 の 皇 后 さ ん 、安 宿 姫 命 な ん で す 。藤 原 不 比
と
等の 娘で光 明皇 后さん です ね。と ころ が、そ ら言
うて みたら 私の 嫁さん ほど 付いて 来は るねん 。だ
から 私は聖 武天 皇にす まん なと思 って ます。 笑
霊 界でも やっ ぱり生 きて いる時 と同 じよう な心
が皆 あるん です よ。肉 体が なくて も人 間だか ら、
心は 一緒な んで す。女 は男 を好き にな って当 たり
前の ことで す。 肉体が ない 霊やか ら、 神さん にな
って はるん じゃ ないん です よ。そ んな わけで 仲が
ええ ねんけ れど ね、相 手は 肉体の ない 人やか ら、
うち の嫁さ んで も、ま た世 間にも 焼き もちを やく
人おらへんもの、気楽や。︵笑︶
そ の代わ り、 皇后さ んの 言われ るこ とをこ こで
実現 してい ます 。
一 二〇〇 年ほ ど前、 奈良 朝の時 代に 、臣下 から
皇后に 上が るとい うこ とは無 かっ てんな 。け ど藤
原一門 とい う権力 者が バック につ いてい て、 その
力で初めて皇后になってはるのが光明皇后やね
ん。い くら 聖武天 皇で も光明 皇后 がおら なか った
ら、奈 良の 大仏さ んを 造るこ と出 来へん かっ たや
ろしね 。そ ういう よう な大し た勢 いの光 明皇 后で
も、自 分の 本当の 心の ままに は出 来なか った こと
が、沢 山あ ると言 うん ですよ 。
大倭 の宗 教につ いて は、光 明皇 后さん にや って
ほしい と言 われた こと もあり ます が、出 て来 て私
に色ん なこ とを言 われ るのは 、大 体聖徳 太子 なん
です。
大倭 には 、どこ を拝 んでも らっ ても賽 銭箱 を置
いてま せん が、そ れも 聖徳太 子が ﹁河原 乞食 みた
いに投げ銭をしないでくれ。心があるのやったら、
きちん と供 えたら いい ﹂と言 われ るから です 。
喜び の心 をお賽 銭と いう形 で、 神さん にお 供え
するよ うな 場合、 その 心は通 じま す。け れど も霊
界人に は必 要ない のや から、 使う のは私 なん です
よ。生 きて いる者 は飯 も食う んで ね、あ りが たい
です。 それ で誰か 知ら んけど お賽 銭を供 えて くれ
たら感謝して、自分個人が使わしてもらうんです。
神さん 仏さ んは関 係な いんで す。 そこを 分っ てお
賽銭を 供え てくれ るん やった ら、 私は喜 んで 色ん
な人の ため に使わ して もらい ます 。
けど ねえ 、初め は貰 うの嫌 やっ てん。 相談 に来
た人は 大抵 、持っ て来 てくれ るや ろ。一 番最 初の
時、私 は﹁ いらん ﹂言 うて拒 否し たんで す。 終戦
直後の 時代 やから お互 い皆、 生活 に困っ てる のに
お金な んか 貰うの は気 の毒で 、冷 汗出ま すが な。
けれど も霊 界人が ね、 これは 人の 好意や から 、貰
わなけ れば 出して くれ た人の 徳が 下がる と言 われ
るから 、私 も気持 ちよ う貰う よう になり まし た。
まあこれは余談やけどね。︵続く︶ 文責・編集部
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私私私私私私私私私私と
とととととととととと戦
戦戦戦戦戦戦戦戦戦戦争
争争争争争争争争争争
私
特集
忠
))))))))))
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(
上上上上上上上上上上上
村
生
波
誠
二
ん
ゃ
き
今
仙
こと を、そ の時 初めて 知り ました 。空 襲下で 得た
新知 識でし た。
同じ頃、高槻でまかれたビラには﹁吹田・高槻、
針 の 山 ﹂、 そ し て そ れ が 8 月 日と いう 予 告 つ き
であ ったと のこ とです 。こ ういう 噂は 実に早 いス
ピー ドで広 がる もので す。 停戦は ︵国 内では ︶8
月 日、あ と3 日戦争 が続 けば、 吹田 も焼け 野原
にな ってい た可 能性が あっ たとい うこ とです 。
住 む場所 によ って、 運・ 不運が ある ことを 覚え
てい ます。 その 点、戦 後は 拾った ﹁余 生﹂と いえ
ます 。
︵﹃ 吹 田 南 3 中 校 区 9 条 の 会 ニ ュー ス﹄ 2 0 0 8
年 月号よ り転 載させ て頂 いたも ので す︶
沖縄戦跡紀行
奈 良県生 駒 市
いて知 るに つれ、 これ を本土 の人 にも知 って ほし
いと思 うよ うにな りま した。
私は 、今 年の四 月初 めに沖 縄戦 の資料 集め と戦
跡めぐ りの ため沖 縄に 行って きま した。 そこ でそ
のときの戦跡めぐりのご紹介をしたいと思います。
沖縄 戦と は、一 般に 一九四 五 昭和 二十 年 四月
ま ぶ に
一日の 米軍 の沖縄 上陸 から摩 文仁 での司 令官 の自
決によ る日 本軍の 組織 的抵抗 が終 わった 六月 二十
三日ま でを いいま す。 沖縄戦 の特 徴は、 日本 領土
で初め て陸 上戦闘 が行 われた とい うこと 、一 般市
民が戦 闘に 駆り出 され 、また 巻き 添えに なっ て当
時の県 民の 約三分 の一 の十五 万人 が犠牲 にな った
という こと 。また 、沖 縄は明 治に なって から 日本
領土に なっ たため 、本 土から は異 文化や 異人 種と
して差 別を 受けて いま した。 それ を取り 戻そ うと
本土と の一 体化が 叫ば れ皇民 化が 推し進 めら れま
した。 その 結果、 本土 の住民 以上 に天皇 への 忠誠
心や 、﹁ 生 き て 虜囚 の 辱 め を 受 け ず ﹂ と い う 軍 隊
の戦陣訓を素朴に受け入れて、﹁集団自決﹂や日本
軍によるスパイ容疑での住民虐殺が起こりました。
沖縄 への 蔑視と 不信 感、ま たそ れを払 拭し よう
と努力 する 住民の 素朴 さ。そ れら が戦闘 に巻 き込
まれた 以上 に被害 を増 やした 面が ありま した 。米
軍の撒 いた ビラを 持っ ていた り、 捕虜と なっ て日
本軍に 伝令 として 来た という だけ で、日 本軍 から
スパイ 容疑 をかけ られ 殺され たそ うです 。
この よう な沖縄 戦の 戦跡を 、米 軍が上 陸し た四
月一日 に廻 ってみ よう と思っ たわ けです 。米 軍は
よみたん
か で な
一九四 五 昭和 二十 年 四月一 日に 読谷、 嘉手 納海
岸に上 陸し ました 。日 本軍は 、上 陸時期 を正 確に
予測し てい ました が、 直前に 最精 鋭部隊 を台 湾に
転出さ れ、 水際で の撃 退戦法 から 持久戦 へと 切り
替えて いた ため、 米軍 は無抵 抗の まま上 陸す るこ
とがで きま した。 当日 はエイ プリ ルフー ルだ った
(
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18
私 は、数
年前 から太
平洋 戦争前
後の 歴史、
とり わけ沖
縄戦 につい
て興 味を持
って 調べて
いま す。沖
縄は 、一九
七二 昭和
四十 七 年、
私が 二十歳
の時 に日本 に返 還され まし た。私 は、 若い頃 から
沖縄 の風土 や人 情、そ して アメリ カナ イズさ れた
エキ ゾチッ クさ が好き で、 何度と なく 沖縄を 訪れ
まし た。そ こで 沖縄の 歴史 や沖縄 戦の 悲惨さ につ
摩文仁丘近くの喜屋武岬にて
多くの人が身を投げたり浜で自決したそうです
大 阪 府 吹田 市
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15
12
吹田・高槻、針の山
15
敗 戦 の 年 、 昭 和 年 ︵ 1 9 4 5 年 ︶、 僕 は 数 え
歳 、旧 制中 学3年 、国 鉄︵今 のJ R︶の 吹田 工
場 ︵ 当 時 の 名 称 は ﹁ 大 阪 鉄 道 局 吹田 工 機 部 ﹂︶ に
学徒 勤労 動員 され、 休日 は月に 2日 という 毎日 を
送っ てい まし た。
敗 戦の 日に 近づく につ れ、大 阪も 東京に 続い て
︵東 京で は3 月に一 夜に して確 か 万人の 死者 が
出 る と い う 大 空 襲 が あ っ た ︶、 組 織 的 大 規 模 の 空
襲が 始ま り︵ まず焼 夷弾 を落と し、 灼熱地 獄と 化
した 街に 破壊 弾を落 とす 、でき る限 り多く の人 命
を奪 うと いう ことを 第一 の目的 とし たもの です 。
それ に比 べる と、最 近の イラク 、ア フガニ スタ ン
での 民間 人犠 牲者の 数に は
﹁ 人道的 配慮 ﹂
が ある と
さ え 感 じ て し ま う の で す ︶、 ま た た く 間 に 大 阪 市
内の 中心 部は 焼け野 原と なって いき ました 。
8 月に 入っ て、そ れも 中旬に なっ てから だと 記
憶す るの です が、あ る日 の夕刻 、僕 の頭の 上に 米
軍機 がま いた 宣伝ビ ラが 舞い降 りて きまし た。 大
日本 帝国 に対 する曇 りの ない忠 誠心 の持ち 主で あ
った 僕は 、た だちに 交番 に宣伝 ビラ を届け に行 き
ま し た 。﹁ 鬼 畜 米 英 ﹂ の 伝 単 ︵ 宣 伝 ビ ラ ︶ は 読 ん
でも なら ぬと 、かね がね 言われ てい ました が、 勝
手に 目に 入っ てくる こと には仕 方が ない、 そこ に
は﹁ この リー フレッ トは 爆弾で もあ り得た のだ ﹂
と、次は実物の爆弾でやるぞという脅しです。リー
フレ ット とい う英語 が1 枚もの のビ ラを意 味す る
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こと もあ り、 無抵抗 なま ま上陸 でき たこと に米 軍
兵士は狐につままれたような状態だったそうで
と ぅ まい ぐ すく
す。 上陸 の地 碑があ る泊 城公園 は平 坦な砂 浜が 続
きっこうばか
いて おり 、
所 々に 沖縄特 有の 亀甲墓 があ りまし た。
米軍 の写 真に は、こ の亀 甲墓で 休憩 をとる 姿が 写
って いま す。
次 に向 かっ たのは 泊城 公園か ら少 し東に 行っ た
所に ある ﹁道 の駅か でな ﹂です 。こ この屋 上か ら
は米 軍の 嘉手 納基地 がよ く見え ます 。広大 な基 地
の中 には 、格 納庫か ら住 宅まで あり ます。 車で 基
地の 周り を廻 ってみ ると 、あま りの 広大さ にこ ち
ら側 が鉄 条網 に囲ま れて いる錯 覚さ え覚え ます 。
嘉 手納 基地 から約 十キ ロメー トル 南に激 戦地 の
か かず
一つ 嘉数 高地 標 高九十 メー トル が ありま す。 日
本軍 は、 首里 城の地 下に 坑道を 掘っ て司令 部を 置
き、 そこ から 同心円 状に 自然の 高台 を利用 して 幾
重に も防 衛線 を築い てい ました 。そ の第一 の防 衛
線の 中核 が嘉 数高地 でし た。こ こに トーチ カを 築
き、 トー チカ 間も坑 道を 掘って 兵士 や弾薬 を自 由
に移 動出 来る ように して いまし た。 米軍が 砲撃 を
して も大 砲を 奥に隠 し、 近づい てく ると攻 撃を 仕
掛け る方 法で ずいぶ ん米 軍を苦 しめ たそう です 。
現在 はト ーチ カや陣 地壕 の入り 口が わずか に残 っ
ているくらいで、激戦の名残りはもうありません。
頂上 には 展望 台があ り、 北側に は移 転計画 があ る
ふ てんま
普天 間基 地が 広がっ てい ます。 展望 台から 基地 を
見て いた とき 、突然 轟音 と共に 大型 ヘリコ プタ ー
が眼 前に 現れ 基地に 降り て行き まし た。二 〇〇 四
年に は墜 落事 故があ った そうで すが 、基地 の町 を
実感 した 一瞬 でした 。
嘉 数高 地の すぐ南 には 、首里 城と の間に 前田 高
地 標 高一二 〇メ ートル があり ます 。ここ は日 本
軍が 嘉数 高地 撤退の 後第 二の防 衛線 とした とこ ろ
です 。米 軍に ﹁あり った けの地 獄を 一つに まと め
う らそ え
(
)
た戦 場﹂と 言わ せた戦 いで した。 ここ には﹁ 浦添
えいそ おうとう
よう どれ﹂ と呼 ばれる 英祖 王統の 墓陵 もあり まし
たが 、砲撃 で破 壊され まし た。沖 縄戦 では、 首里
城を 始め多 くの 文化財 が失 われま した 。もし 私た
ちの 奈良や 京都 の文化 財が 戦争で 焼失 してい たと
した らどう でし ょうか 。首 里城に 司令 部を置 くな
んて 当時の 政府 には沖 縄の 文化財 をど う思っ てい
たの でしょ うか 。
も う一つ ご紹 介した い戦 跡は、 シュ ガーロ ーフ
標 高五 十二 メート ル です 。首里 の東 に当た るこ
の丘 もまれ に見 る激戦 地で 、頂上 を奪 うため 至近
距離 からの 手榴 弾の投 げあ いなど で一 日に何 回も
占領 者が変 わっ たそう です 。米軍 もあ まりの 死傷
者の多さに、遺体を回収できないまま放置したり、
ノイ ローゼ で離 脱する 兵士 が何千 人も いたそ うで
す。 ここは 現在 新都心 とし て免税 店を 始め新 しい
那覇 の顔と して 発展し てい ます。 ここ を訪れ る観
光客 に、こ んな 近くで 六十 年前に 死闘 があっ たと
いう ことを 何ら かの形 で残 せない かと 思いま す。
沖 縄戦は 、米 軍の本 土上 陸を一 日で も遅ら せる
ため の、当 初か ら勝ち 目の ない捨 て石 として の戦
いでした。その戦いの中で、沖縄の人々は傷つき、
戦い の終わ った 後も米 軍の 基地を 押し 付けら れ現
在に 至って いま す。そ れだ からこ そ、 文部科 学省
が二 〇〇七 年の 教科書 検定 で、沖 縄戦 の記述 につ
いて ﹁集団 自決 ﹂が日 本軍 の強制 であ ること を削
除さ せたと きの 沖縄市 民の 怒りが どれ ほどだ った
のか 分かる よう な気が しま す。元 沖縄 県知事 で、
学徒 隊とし て沖 縄戦を 経験 した大 田氏 はその 著書
のな かで﹁ 戦争 とは何 か、 国を守 ると は誰か ら誰
を守 ること なの か﹂と 書か れてい ます 。私た ちも
今一 度真剣 に過 去を見 つめ 直し、 その 見識を もと
に現 在を見 、未 来を見 据え ること の重 要さを 認識
した いと思 いま す。
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東東東東東東東東東東光
光光光光光光光光光光大
大大大大大大大大大大祭
祭祭祭祭祭祭祭祭祭祭・
・・・・・・・・・・祖
祖祖祖祖祖祖祖祖祖祖霊
霊霊霊霊霊霊霊霊霊霊祭
祭祭祭祭祭祭祭祭祭祭
東
+///////////////////,
1
2
1
2
1
2
1
2
1
2
月
日 木曜日
1日 時 平成 年
2
1
2
1
2
*午 後1 時 分 よ り
1
2
東 方 の 碑 拝礼 所 に て
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2
1
2
* 午 後 2時 よ り
1
2
大 倭 大 本 宮 拝 殿 にて 東光 大 祭
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奥 津 斎 庭 にて 祖 霊 祭
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1東光大祭とは 昭和二十一年旧七月十五日 2
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1夕刻、現大本宮の東方の碑前あたりで法主様 2
1が農作業中、瑞光が天にあらわれて、天の声 2
1
2
1「黎明は訪れたり東方の光 大法は立てり大 2
1倭太加天腹」が聞こえ、宗教活動の本宮が現 2
1
2
1在の大倭紫陽花邑であることを示されたのを 2
1記念する大祭です。
2
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1祖霊祭とは 大倭にご縁の皆さん方のご先 2
1祖諸霊を始め、それぞれにご縁のある諸霊を 2
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1鎮魂慰霊するお祭りです。日頃霊界では互い 2
1に会えない霊人たちもこの日は会う事を許さ 2
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1れるお祭りの日です。
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1 当 日 夕 方六 時 ご ろ に 東 方 の 碑 あ た り で 満 月 2
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1の出を待ちながら東方瑞祥について考えてみ 2
1ませんか。直会も用意されます。どなた様も 2
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1お気軽にご参加ください。
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ここ だ まま こ とと だ まま
群 馬県 安中市 ・西
川
弘
二
第 2信の ③
平 成 ︵ ︶ 年4 月6日
そ んな 頃、 母が救 急車 を自ら 何回 も呼ん で、 様
子が 変だ と兄 から連 絡が ありま した 。一緒 に実 家
に行 って みる と、母 は目 がうつ ろで 、かけ るで も
なく メー ルす るでも なく 、ひた すら 携帯電 話の ボ
タ ン を 押 し て い ま す 。 僕 を 見 る と、﹁ お 母 さ ん が
お父さんを殺したんか? そう言っただろう?
お 母 さ ん が 死 ね ば い い ん か ﹂ と 言う の で 、﹁ 気 が
狂っ たか ー。 勝手に 死に ゃがれ ﹂と 言って しま い
まし た。 皆で 相談し た結 果、父 の入 ってい た精 神
病院 で診 ても らうと 、そ の日に 入院 させて くれ ま
した 。
兄 夫婦 とこ の頃か らさ らにギ クシ ャクす るよ う
にな りま した 。着る 物や 手続き など は僕が やり ま
したが、兄は﹁一緒にみよう﹂と言いながら、
﹁仕 事で 行け ない﹂ とか ﹁嫁の 調子 が悪い から 行
けな い﹂ とか 、押し 付け てくる よう な感じ がし ま
した 。確 かに 兄嫁は 膠原 病を患 いな がら人 工股 関
節に して いて 、薬の 副作 用か気 落ち したり 体調 不
良 も あ る の で 仕 方 が な い の は 分 かり ま す が 、﹁ 長
男夫婦がしっかりやれよ!﹂とつっぱね、兄夫婦
と も 連 絡 を 取 る 事 を 止 め ま し た 。︵ 後 で 、 母 の 借
金を、母の親族から﹁子供がみなさい﹂と言われ、
兄夫 婦が 処理 してく れた ことを 知り ました ︶
母 の所 にも 行かず 、兄 夫婦と も連 絡を取 らず 、
﹁こ のま まじ ゃ良く ない けど、 キッ カケが ない と
な あ ﹂ と 過 ご し て い ま し た が 、﹁ ま っ 、 い い か ﹂
と投 げや りで いまし た。 体調も 悪い し、仕 事を 何
とか やっ てい るとい う感 じでし た。
妻 が、 娘の 高校を 妻の 実家の 近く に行く よう に
進めているので、﹁何で?﹂と聞くと、﹁私は子供
のた めに帰 って 来ただ けだ から、 どう しよう と私
の 勝 手 で す ﹂ と 言い ま す 。﹁ 好 きに しろ や ー 。 家
でも車でも何でも持って行け!﹂とつっぱってみ
たも のの、 体が 言う事 をき かない 。
ふ と思い 付い て漢方 薬に 頼って みま した。 一時
し の ぎ に は 効 き まし た が 高 額 で す 。﹁ず っ と 買 う
の は 無 理 だ ろ う けど 、 自 殺 だ け は や め よ う ﹂﹁ 悪
い事 をやっ たの が今来 てい るのか 。シ ンナー だろ
う か ? タ バ コ だ ろ う か ? 酒 だ ろ う か ?﹂﹁ 死
んだ らどう なる んだろ うか 。娘は 元気 でやっ てい
けるだろうか? 学費は?﹂⋮⋮。
ひ どくな った り和ら いだ りを繰 り返 す病気 のせ
いで 、いろ いろ な悪想 念か ら犬に も﹁ 病気の 身代
りに なって くれ ないか なあ 。気楽 なも んだ﹂ と心
の声 で八つ 当た りもし まし た。
平 成 年 2月 、犬の 散歩 中、中 村さ んと漢 方の
話か ら交流 が深 まり、 新皇 教宮︵ ※法 主様に よる
と、 平将門 の終 焉の地 であ るとい う。 その場 所が
屋敷 内にあ った ため中 村家 は長年 苦し められ てき
た。 法主様 が鎮 魂され 、将 玄坊大 善神 と名付 けら
れた 将門霊 をお 祀りし てい る︶の 月次 祭に参 加を
させ て頂き 、大 倭を知 り、 先祖供 養︵ お給仕 等︶
の大 切さを 教え て頂き まし た。
第3 信の①
平 成 ︵ ︶ 年7月 6日
﹁ 死後の 世界 で、現 界で の悩み や苦 しみが 残っ
てい る場合 、血 の縁や 土地 の縁の ある 現界人 に頼
らな いとい けな い。言 い換 えると 、我 々が先 祖供
養や 、また 先に 生きた 先輩 達への 供養 をしな けれ
ば、 その悩 みや 苦しみ が解 消しな いよ うに仕 組ま
れ て い る の だ ﹂ とい う 。﹁ 神 さ んは 面倒 な 事 を 仕
組ん でくれ たも んだ! で も本当 に良 くなる のな
ら、 やって みる かな﹂ とい う軽い 気持 ちでス ター
トし ました 。中 村家の 皆さ んに﹁ 神様 に人間 欲の
お願い事をしても、言う事は聞いてくれませんよ。
求めな くて もすで に与 えられ てい るのに 気付 いて
いない だけ ﹂と、 今ま での神 様の 対応と は全 く逆
の事を 言わ れまし たが ⋮⋮ご 利益 を求め るク セが
すぐに は直 りませ んで した。
半年 位し て、妻 が﹁ 起きて いる と、ず ーっ と涙
が出て くる 。これ じゃ 仕事に は行 けない し車 の運
転も出 来な い。困 った 、私は うつ 病だ﹂ と言 うの
で、精 神科 へ連れ て行 きまし た。 そうい う妻 の状
態を、 新皇 教宮の 月次 祭でポ ロッ と話し てし まい
ました 。桜 井節子 さん が﹁つ いで がある ので 大倭
に聞い てみ ますよ ﹂と 言うの でお 願いを した もの
の、僕 は医 者頼り で心 配をし てい て、霊 的な 事な
ど思っ ても みませ んで した。
する と⋮ ⋮﹁奥 さん の先祖 さん に、将 玄坊 さん
と心を 共に された 方が います 。奥 さんの 肉体 を通
じてうれしいという気持ちが来ているものな
ので、 しば らくし たら 落ち着 くは ずです から 心配
はいり ませ んよ。 奥さ んに話 して もすぐ には 理解
されな いか もしれ ませ んが、 仲間 として 迎え 入れ
て仲良く一緒に暮らす心でお給仕を続けて下さ
い。そ して 大倭の 光に つなげ てい きまし ょう 。千
年も前 の人 の心で すが 、立派 に生 きたと して も、
本心と の少 しのズ レで 霊界で 悩み 苦しん でお られ
るので すね ﹂と聞 かさ れまし た。
﹁立 派に 生きて も霊 界では 悩み ・苦し みを 味わ
ってし まう のか? そ れなら 俺は どんだ け悩 み苦
しむの だろ う。や ばい !やば いぞ ! 今 世の 悪想
念だけ でも やばい ! あれっ !今 苦しい のは 何で
だろう ? これっ て本 心と今 の心 のズレ の反 省か
な?﹂と、お給仕の大切さもズッシリと感じなが
ら、自 分自 身の本 心と の対話 が、 今まで の反 省と
はちが う、 正しく 生き るため の反 省心が わき 出し
てきた よう に思い 、成 長する とい う意味 が分 かり
始めま した 。
︵続 く︶
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午前
日誌
時半から奈良
ワ イ と 見 上 げ ま し た 。︵ 但 し 、
ょうか、神宮の杉の木にアオバ
日本を旅立つ日も近いのでし
8月6・9日
れました。お疲れさま!
爆投下時刻に拝殿の大太鼓が打
広島・長崎の原
もと、紫陽花邑の大掃除が行わ
写真は知り合いからの借り物︶
ズク一家が見えました。
(茂毛蕗園)
8月6日 ﹁ピアノで歌おう﹂
で﹁長崎の鐘﹂を歌いました。
)
(
午後1時
9月3日 木
)
いう天候⋮⋮野外アトラクショ
拝礼。2時より大本宮拝殿で東
(
があり、また﹁エスティームラ
ンは中止して、屋台のみの夏祭
日
イフ学園前﹂館長の渡部徳博さ
りとなりました。
を行います。6頁参照。
旧暦7月
*東光大祭及び祖霊祭
んと後任の末澤靖教さんの歓送
( 菅原 園 )
7月 日 中止になった夏祭り
7月
日
日
夜、大倭会館で﹁弥
大倭神宮月次祭。
禊会。
光大祭、及び奥津斎庭で祖霊祭
*月次祭︵大倭神宮︶
家族と共に過ごしました。
倭神宮にて。
9月6日 日
(
大阪市の安田弘子・喜多多恵
アトラクションを園内で開催、
子、堺市の藤井美保、吹田市の
を始め、5名の住苑者がイズミ
午後2時より大
)
ヤへ行きました。
9月
日 日
)
午後2時より大
(
倭大本宮拝殿にて。
日 火
*月次祭︵大倭神宮︶
9月
(
午後2時より大
)
倭神宮にて。
(
)
日 祝
*月次祭︵大倭大本宮︶
9月
)
午後2時より大
(
倭大本宮拝殿にて。
)
7月
日
栄おどり﹂の準備会。
7月
8月8日
*大倭会主催第四八八回禊会
(須加 宮 寮)
8月2日 今月から
﹁ 買 い 物会 ﹂
大島良介の4人の方が初参加。
ゃんは、青山法義さんと映画
夜、交流の家でFI
8月1∼3日
誕生会/7月
16
日
一・相馬敬子さんは約2ヵ月
7月
WC定例委員会。今夏も、韓国
﹁GIジョー﹂鑑賞。
夏も元気一杯の昇ち
や中国のハンセン病回復者の村
間、青森までの各地を回り8月
宮崎の菊地洋
でのワークキャンプが行われる
(長 曽根 寮)
7月 日 音楽クラブ/7月
真です。高橋良美さん写、右も
美容教
6日広島への途次、来邑。現在、
お
書道クラブ/
日
瀬戸内海の景勝地に原発建設の
室/8月3日
日
他、新たにインドネシアでとい
大倭神宮社務所での珍しい写
う動きもあるとのこと。
動きがあるとのことです。
日
紙芝居
甘は過疎ながら風景美しく、水が甘い。
日
を流れ、渓谷や緩やかな淵をつくる。美
やつ作り・7月
8メートル)の源流からすぐに美甘地区
︵ デ イ サ ービ ス ︶ 7 月
なしがせん
大倭印刷 株 では曇
大倭神宮月次祭。
歳
今、夏の盛りは鮎釣りのシーズンである。
13
15
23
日
8月6日
(八重垣園)
上田森彦
(
(
と誘う。一寸心は動くが、行き
四五匹の鮎届きたる解禁日
かも
み
等、どうぞ少しでも楽しく!
俳句の風物
投句箱より﹁梅雨晴れや快挙の
宇宙飛行士よ﹂
はしい
団扇を手にのんびりと涼んで
端居して旅に誘はれゐたりけ
水原秋桜子
り
来の乗物を思うとつい億劫で。
いると訪れた知人が避暑の旅に
8月9日
あいにくの雨天の
中、午前8時から大倭墓地の掃
むかしは良かった話しの小陰
森彦
が涼しい 自由律
新庄川は岡山を流れる三大河川の一
け
99
芳郎
岡山県真庭市美甘にて 湯浅
27
10
除。9時からは建物内を中心に、
その後雨の止み間を見て外回り
表紙写真について
23
29
7月
り空の切れ間、部分日食をワイ
20
つ、旭川の支流である。毛無山(121
25
分より東方の碑前で
迎会もありました。
点を忘れないようにという挨拶
ち鳴らされました。
日
大倭大本宮月次祭。
パークホテルで邑交会。矢追家
7月
23
麻呂教長さんから紫陽花邑の原
日
15
10
大倭安宿苑では
7月 日 断続的にずっと雨と
7月
夜、大倭会館で邑倭の会。
25
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W
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C
11
18 15 12
19
22
平成21(2009)年8月
おおやまと
通巻468号
(8)
(
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