神代~神武朝と 倭王朝~継体の歴史化 ( 2005/04 2009/03) 長江三苗文化 BC1500~BC1000 縄文 神産巣日神系文化 照 葉 樹 林 系 文 化 500 東 シ ナ 海 系 海 人 ? 山東半島 紀氏? 高 御 産 巣 日 神 系 文 化 300 東 南 ア ジ ア 系 海 人 ? 大 婿己 入貴 り命 少 彦 名 命 北九州 素盞鳴尊 ? 五十猛命 記紀は素尊の 子とする 八島士奴美命 味耜高彦根命 北九州 瀬戸内海運 近畿進出 布波能母遅久奴須奴命 200 深淵之水夜禮花命 九 州 南 西 岸 活 津 日 子 山陰 根 命 天 津 日 子 根 命 天 穂 日 命 島 根 葦原色許男命 近畿の出雲系譜が 関東へ脱出 300 奈良三輪山 ← 東 大物主神 国 の 出 ←東征/豊城入彦命(垂仁の兄) 雲 系 譜 ←東征/日本武尊(景行の子) 諏訪の制圧は失敗 → 東 国 の 出 雲 日本武尊系譜→ 海五 人 瀬 神武誕生 系 命 鹿児島(奴国) 倭王武が上表書を宋に送る478 倭にあった百済の末多王を百済に送り 東城王とする479 孝昭 倭 国 争 乱 孝安 大王権強化 記紀での 神功 倭王旨 仁徳 讃 珍 允恭 安康=済 雄略 =興 九州王朝の支配力低下 近畿王3代 武烈=武 日本海系の男大迹王が 九州系の磐井王を滅ぼす 清寧、顕宗、仁賢(近畿王)の登場は九州王朝が 近畿に手が回らなくなったためであろう 書紀において雄略が皇太子として清寧を指名するのは 書紀での雄略死去の3年前であり、不可信 (雄略は百済本家滅亡時に戦死した可能性をみておく) 0 書紀年代復元による大王 神武 36- 66 神 神武朝は天孫と出雲の合体王朝 武 出雲との抗争はまだない 王 100 朝 懿徳時代に 寒冷化による 北 九 食糧問題発生 州 内部抗争と出雲との抗争 北 九 州 九州倭王済(安康)が 近畿王を支配下に置く この頃の度重なる朝貢と上表書提出は、475の 百済本家滅亡に関連する行動に他ならない 高句麗と新羅との戦闘で九州王朝の国力が減退する BC100 神武の九州統一 福岡(奴国) 綏靖 安寧 懿徳 応神 仁徳、近畿王朝再興 九州王朝と並立 高句麗により百済本家滅亡475 600 記紀はここに国譲りを 置くが、神武周辺の出雲系 九九 人物群から見て矛盾する 州州 天 西東 火 岸 岸 明伊 勢 命 出日 志 水向 摩 神武 九 州 倭 王 朝 成務 400 500 瓊々杵尊 天孫降臨 天火明命 BC100頃 北九州は混乱し 九州倭王朝の主権は 安定だった邪馬壹国の 孝霊 200 卑 日 卑弥呼が継承 (かっての天孫降臨の地) 孝元 弥 向 宮 呼 出雲への 九州倭王朝は 人口過密と 崎 侵攻 開化 食糧問題解決のために 出雲領土の奪取を計る 邪 崇神 纒向遺跡 壹 馬 近 与 奪取した近畿から 九州系祭祀 壹 日 畿 向 国 大量の物資を九州へ移送 大 垂仁 熊 宮 衰 (庄内式土器の登場) 和 襲 崎 亡 王 三角縁神獣鏡 300 朝 景行 九州安定化 婚姻融和策 関東の諸豪族の祖 大 国 主 200 呉楚七国の乱 BC154 天孫の親渡来 BC150頃 ) 倭 迹 々 日 箸百 墓襲 伝姫 承の 婚 姻 出雲神族 東 海 進 出 箕子朝鮮滅亡BC195 素盞鳴尊渡来 BC190頃 ) 出雲風土記 登場人物の 年代が曖昧に 300 大 穴 持 神 ( 聖徳太子の祖の可能性 (随書に書かれる大王) 素尊追放 (後の伽耶へ) 天 之 忍 古出雲 穂 耳 豊前 尊 瀬戸内 豊後 九 州 山陽 北 近畿 岸 へ進出 出雲の 中枢は 奈良へ 唐古・鍵遺跡 寒冷化 で 濃尾 東海 関東 へ 南下 山陰 北九州 ( 200 東 北 蝦 夷 の 誕 生 蘇我氏の祖の可能性 (粟鹿大明神元記) 大 年 神 系 譜 ) ) 寒 冷 化 記紀は この時代の 出雲関連事象を 抹消改ざん 初期開拓者 400 サヒメ 畿内で 結合 500 列島各地に稲作などを伝播 大気都比賣 豊前豊後 国譲り ← 島根へ引退 AD36 建 御 名 方 命 半 島 経 由 渡 来 者 遠賀川 ) ) ( 出 雲 臣 族 建御名方命 事代主命 諏訪へ追放 周防 豊後 探 査 記紀は国譲りを神代とし の 媛踏鞴五十鈴媛 天日方奇日方命 以降の出雲は 神武の妃 (先代旧事本紀) 可 存在しないとする 神武朝の大臣 能 神八井耳命 性 多臣族 八千矛神 高 御 産 巣 日 神 系 文 化 ( 若 狭 出 雲 神 族 大 山 祇 神 ア マ テ ラ ス 大 五男神三女神 グループ 穴 持 神 迦毛大御神 大国主命 豊後 餅 鉄 九 州 北 岸 古出雲 天之冬衣命 半 島 経 由 渡 来 者 山 東 半 島 経 由 畑 作 ( ( 鉄 淤美豆奴命 東 シ ナ 海 沿 岸 経 由 稲 作 福岡 ) 7 世 代 で 2 0 0 年 海 洋 系 文 化 海神族 ~ 東 北 へ 100 大 綿 津 見 神 ( BC100 0 記紀における伊弉諾伊弉冉神の子等 大 屋 彦 命 400 半島南岸 戦国時代~ 縄文末期渡来者 中国系渡来者 環境避難民 BC1000~ BC700~ 欽明 (九州に拠点?) 新羅本紀による事象 59友好締結 107倭国王師升 孝昭105-137 孝安137-175 孝霊175-204 147 桓帝即位 173卑弥呼の使者 189 霊帝没 193飢饉による倭人避難民到来 孝元204-225 開化225-248 239難升米→魏明帝 崇神248-273 266壹与→晋武帝 九州王朝は倭王旨~ 磐井 までの8代、128年間 諸外国はこれを倭王朝と認定 景行311-333 500 允恭439-454 雄略456-479 清寧480-485 顕宗485-488 仁賢488-498 武烈498-507 内戦によって倭王朝疲弊 半島の支配能力の低下によって 任那など支配地の大半を 百済と新羅に奪われる 継体507-530 600 古事記と書紀では雄略没年に10年の差がある 清寧、顕宗、仁賢の錯綜する混乱に伴うものとみる 古代で遊ぼ http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/ 249倭人が于老を殺害 295倭人討伐を画するも水上戦闘不慣れで中止 300倭国と国使を交換 312倭国が花嫁を求め、応ずる 垂仁273-311 成務333-356 仲哀356-360 北九州倭国仲哀謀殺 九 北九州倭国が 神功360-386 州 近畿大和王朝の実権を奪取 王 応神386-402 半島へ進出(広開土王碑) 朝 半島南西岸の前方後円墳 400 仁徳402-434 倭 王 五 代 122倭兵大挙襲来 123倭国と講和 後漢書倭国争乱 北九州倭国の復活 磐井 継体 綏靖 66-78 安寧 78-92 懿徳 92-105 57倭奴国王金印 345倭王が国交を断絶 369七支刀(倭王旨) 七支刀銘文にある 送り先は倭王旨である 364倭兵が大挙押し寄せる 402倭国と国交を結ぶ 408倭人が対馬に軍備増強 倭王五代(九州王朝の大王) 倭夷 宋書412 おそらくは倭王旨の子(応神) 倭王讃(応神の皇子 菟道稚郎子) 宋書421倭王讃 425倭王讃 倭国王 宋書430 (讃死去の報告につき王名がないとみる) 倭王珍(讃の弟 若野毛二派皇子)菟道稚郎子の弟、後の継体の祖 宋書438倭王珍 倭王済(出自不明 記紀での允恭の子の安康) 允恭の太子は木梨軽皇子であり、安康は允恭朝の簒奪者 443倭王済 451倭王済 倭国 宋書460 (済死去の報告につき王名がないとみる) 倭王興(済の子 記紀での安康の弟の雄略)古事記で大長谷命 462倭王興 倭国 宋書477 (興死去の報告につき王名がないとみる) 倭王武(興の弟 記紀での仁賢の子の武烈)古事記で小長谷若雀命 宋書478の倭王武(上表書) 南斉書479の倭王武 梁書502の倭王武 478に宋から南斉に政権交代、475に百済本家が滅びている この頃に集中する倭王の朝貢は倭王の政権交代とは無関係であり 倭王興から倭王武への政権交代はもっと早い時期である 可能性もある
© Copyright 2024 ExpyDoc