平成25年冬 第169号【PDF】 - 太宰府天満宮

-冬号-
宝満山 国指定史跡となる
太宰府天満宮楼門再建百年
天神信仰の教学⑪
誠の道とは
天神さまの御縁
黒田如水の妻・光
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飛梅 冬号 第169号 平成26年1月1日 太宰府天満宮社務所発行
年頭御挨拶
新年あけましておめでとうございます。
謹んで御皇室の弥栄と御国のご平安をお祈り申し上
げますとともに、あわせまして、氏子・崇敬者の皆さ
まのご多幸を衷心よりお祈り致します。
昨年は神宮様で第六十二回の式年遷宮が執り行われ
ました。十月二日に内宮「遷御の儀」に参列させて頂
きましたが、二十年に一度遷宮があることによって、
今を生きる私たちが千三百年前に私たちの先祖が見た
新しい御本殿を目の当たりにすることが出来る、そし
て御神徳をいただき、この国の力も私たち国民も新た
に蘇る。それが神宮様の遷宮ではないかと改めて実感
した次第であります。
さて、今年のNHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が
始まります。太宰府天満宮と黒田家は、歴代藩主の天
神信仰をもって深い絆で結ばれていました。黒田家の
江戸屋敷には、銅製の雛形で半畳程の太宰府天満宮が
あり、藩主は江戸参勤の折は、この宮に拝礼していた
のです。
関ヶ原の合戦の時、官兵衛は天下を取る野望のもと、
俄仕立ての軍勢を編成し、
九州で兵を挙げました。一方、
息子の長政は、徳川方の中核にあって大大名の地位を
獲得するべく東奔西走しました。官兵衛は、
「この戦は
長期戦」とよみましたが、皮肉なことに、息子の長政
の機敏な働きで、わずか半日で家康の勝利で決したの
です。合戦の後、
長政は筑前五十二万石を与えられます。
ここに至って長政の計画は成功したといえますが、天
下取りを目指した官兵衛の思惑は、息子の活躍で水の
泡に帰したのです。
豊前中津十二万石から筑前博多へ転封を命じられた
時、公卿の近衛信尹から筑前への栄転のお祝い状が届
きました。
「筑前国は宰府に菅聖廟があり、その領国に
住いするあなたは幸せ者ですよ」という文面がありま
した。そこで平野に広がる博多の西方に新しく福岡城
を築造します。福岡という地名は備前国にある黒田家
の父祖伝来の地に由来し名付けられました。築造中は
天満宮境内に草庵を設け、隠棲生活を営み、文道の祖
と仰ぐ菅公に篤い信仰を寄せました。官兵衛が使って
いたといわれる「如水の井戸」は現在もその傍らにあ
ります。
官兵衛は、米九十石七斗、銀一七〇〇匁を寄付して、
楼門や回廊、末社や太鼓橋などの境内整備を進め、ま
た社頭にも七百石から二千石に加増しました。江戸時
代以降の太宰府天満宮は官兵衛をはじめとする黒田藩
藩主代々の篤信と多大な寄進により経済基盤は保たれ、
その功績は現在でも称えられています。
また官兵衛は茶の湯や連歌にも造詣の深い文化人で
した。官兵衛の母親は歌道の家の出で、その影響から
官兵衛も若い頃から和歌に親しんでいました。黒田家
の記録「黒田家譜」には官兵衛が十七~十八歳のころ
和歌にのめり込んで兵学や武芸を疎かにしたと記され
太宰府天満宮 宮司
西高辻 信良
ています。
菅公は古来より連歌の神としても仰がれております。
連歌とは五・七・五の上句と七・七の下句を複数の人で交
互に読み繋いでいく和歌です。
室町時代以降には神前での祈願や祈祷が連歌でされ
ていましたが、官兵衛の時代には廃れていました。官
兵衛は連歌会所や連歌による神事の再興をして天満宮
神職と連歌の興隆を図っています。また自身も傾倒し
て数々の連歌を遺しています。官兵衛は夢に「松梅や
末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡」の句を菅公
から頂き、家族や家来、社人と共に百韻を作り「夢想
之連歌」を奉納しています。また、黒田藩では二代目
藩主忠之の代からは正月の福岡城松連歌御会が恒例と
なっていきました。連歌は明治以降、次第に回数は減っ
たものの昭和五年まで続きました。当宮近くの地域に
は連歌屋という地名が残されており、当時の名残が今
も残っています。
皆様方には是非、官兵衛に想いを馳せ、当宮宝物殿
横に御鎮座しております「如水社」にも御参拝いただ
きたいと存じます。
最後になりますが、平成二十六年が皆様にとりまし
て実り多き輝かしい一年となりますこと、心から祈念
申し上げ、新年のご挨拶とさせていただきます。
今年は九州国立博物館で一月十五日~三月九日まで
「国宝大神社展」が開催されます。全国のお社の御神像、
御神宝が一斉に集まるのは今後二度とないかと思いま
す。是非、足をお運び頂き、神々の気配と息吹を感じ
て頂ければと思います
02
とびうめ 冬号 No.169
んで奉納された貴重なこの連歌は、ほ
とんど資料の残されてない如水の妻・
光の史料としても、さらに黒田筑前藩
において早い段階で福岡の名が記され
ている資料としても貴重な史料です。
幸園と記される如水の妻・光は、志
方城(兵庫県加古川市)城主・櫛橋伊
定の娘で、当時の如水の主・小寺政職
の姪でした。如水と結婚したのは、如
水二十二歳、光十五歳の時で、いわゆ
る政略結婚でした。このころから如水
は、主家の小寺姓を名のっています。
翌年には長男が誕生(後の福岡藩初
代藩主・長政)
、主家の信頼も厚く、子
宝にも恵まれ、順風満帆な如水と光夫
妻でした。しかし、乱世の試練は、い
やおうなく光にも降りかかってきたの
でした。
如水の活躍によって主君・小寺氏が
信長に帰属することになると、幼い嫡
子長政は信長の人質とならざるをえま
せんでした。戦国の世の争いは、黒田
家においても現実のものとなり、主家
との争いや如水の幽閉、肉親の危機な
ど、 光 に と っ て 到 底 心 穏 や か な ら ぬ
日々が続きました。
、と
功あって、天正八年(一五八〇)
うとう如水は、一万石の大名に取り立
てられました。如水は姓を黒田に戻し、
戦国大名として大きく羽ばたいていき
黒 田 如 水の妻 ・ 光
長閑に風のかよふ
江の水 幸円
こ
の句は、黒田如水(官兵衛)
が太宰府天満宮に奉納した
「夢想之連歌」のなかに詠ま
れたものです。 「夢想之連歌」は、
『黒田家譜』に、
「 如 水 太 宰 府 に 居 給 ひ し 時、 夢 に 一 首
の和歌をみ給ふ
松梅の末長かれとみとりたつ
山よりつゝく里は福岡」
とあり、奉納された連歌懐紙(詠まれ
た 連 歌 を 書 い た 紙 ) に は、
「慶長七年
正月十六日」の日付があります。
黒田家が筑前藩主となり福岡城を築
城する間、如水は当宮に住まいしてい
ま し た。
「 夢 想 之 連 歌 」 は、 そ の と き
夢にみた和歌を発句と二の句として詠
み始められた連歌で、それに付ける三
句目を円清すなわち如水、四句目を幸
円すなわち如水の妻・光(てる、みつ)
、
五句目を息子の長政、六句目を長政夫
人、次に黒田家親族が続いて詠み、九
句目には如水が当宮に再興した連歌屋
の初代・木山紹印、十句目に当宮別当・
大鳥居信岩と詠み続けられ、百員の連
歌が奉納されています。
如水が当宮に住んでいた短い間に詠
ます。如水の立身出世によって、光も、
大名夫人としての新たな人生が始まっ
ていったのです。しかしそれは、光の
運命も天下の行方とともに翻弄される
ことを意味していたのでした。
如水が豊臣秀吉に従い、天下が秀吉
に傾くと、政略によって大名の妻子が
大坂城下に集められることになりま
す。光も領地を離れ、大坂の天満屋敷
で暮らすことになりました。
如水の活躍は目覚ましいものでし
た。中国攻め、四国攻め、九州攻めと
大いに活躍し、豊前六郡の大名になり
ます。隠居して家督を長政に譲った後
も、朝鮮出兵に出軍するなど こ
( のと
き朝鮮に向かった次男の熊之助は死亡
し て い ま す 、)秀 吉 の も と で 手 柄 を 重
ねていった如水と長政でしたが、秀吉
の死で情勢は一変、天下分け目の一戦
を迎えることになったのでした。
家康方に与することを決した黒田家
は、まず、敵に人質として監禁される
危険性の高い、大坂天満屋敷の光や長
政夫人を脱出させることにしました。
案の定、敵は光らを人質にするべく
やってきました。よく似た身代わりを
たてて屋敷を出た光たちでしたが、市
中は警備が厳しく、用意された船に乗
ることができません。行きあぐねてい
た丁度そのとき、市中に火の手が上が
りました。同じように人質にされそう
になった細川家夫人ガラシャが自害し
火を放ったのです。人々が気を取られ
警備が手薄になったところを、光たち
は辛くも船に乗り、大坂を脱出したの
でした。
承知の通り、家康
方は勝利し世は徳川
の 時 代 と な り ま す。
黒田家も筑前五十二
万石の大大名となっ
たのです。
前述のように如水
は、福岡城が築城さ
れる間、当宮に住ん
でいました。若い頃
から和歌や連歌を好
んでいた如水は、そ
の神さまである道真
公を尊崇していまし
た。しかし戦国の兵
火で荒れた当宮の有
様を目の当たりにし
た如水は嘆き、社殿
を建立し連歌師をお
いて連歌屋を再興し社領を寄進するな
ど、心から天満宮の復興に尽力しまし
た。如水のこの思いは、江戸時代を通
じて黒田家に受け継がれていきました。
如水が当宮に住んでいたおり、光も
住 ん で い た か ど う か は わ か り ま せ ん。
しかし、尊崇する天神様の宮居に住む
ことを切望した如水のもとを、光が訪
ねなかったはずはありません。きっと、
この境内のどこかしらに、仲睦まじい
二人の姿があったのではないでしょう
か。
如水は戦国大名には珍しく側室をお
かず、妻は光ただ一人でした。
光は、七十五歳の長寿を全うし、寛
永四年(一六二七)福岡で亡くなりま
した。
黒田如水 「夢想之連歌」(慶長 7 年(1602))
No.169 とびうめ 冬号
03
41
い
つ
み
宝満山において大宰府の鬼門よけの
ため初めて祭祀が行われてから一三五
〇年。竈門神社においては、百年後の
スタンダードをめざして新しい社務所
が建設された。マスコミ等にも多く採
り上げられ、その斬新さに人々は目を
見張っている。本殿・拝殿の修復も終
わり、平成二十五年十二月十九日には
正遷座祭が執り行われ、玉依姫命の御
稜威もいやましに増している。
か い
つ
しゅくばらい さ
森
ほ う
弘子
(下)
お い
つ
一 六 八 号 で そ の 前 半 を ご 紹 介 し た が、
本 号 で は 大 峯 中 台 小 石 原 の「 深 仙 宿 」
を発って、この行中最大の難所を通り、
出生潅頂など大切な行を行った後半部
分について報告する。
四月二十七日
この日はこの峰入り中、最大の難所、
最 大 の 行 が 待 っ て い る。 午 前 二 時 に、
小石原の宿所で「宿払作法」を行った
後、 入 峰 の 修 行 者 は 闇 の 中 に 消 え て
いった。行く手には糸ヶ峰・笈吊り・
螺吊りといったやせ尾根と懸崖の連続
する難所が待ち受けている。法螺を吹
̶
宝満山から英彦山へ
し
-
27
平成の大峯入り
ちょう
-
秋には九州国立博物館と
当宮宝物殿を会場に竃門神
社 肇 祀千三百五十年記念ト
ピ ッ ク 展「 山 の 神 々 九 州
の霊峰と神祇信仰 」が開
催 さ れ、 第 三 十 四 回 日 本 山
岳 修 験 学 会 太 宰 府・ 宝 満 山
学術大会も九州国立博物館・
太宰府天満宮を会場として
開 催 さ れ、 全 国 か ら 集 っ た
大勢の研究者に宝満山はじ
め太宰府を取り巻く山々の
信仰の歴史を知っていただ
く 機 会 と な っ た。 折
も 折、 十 月 十 七 日 に
は官報告示によって宝満山が国
史 跡 に 正 式 に 指 定 さ れ た。 い く
つ も の 慶 事 の 重 な り で、 宝 満 山
は全国にその名をとどろかすこ
ととなった。
一 連 の 秋 の 記 念 行 事 に 魁 け、
春、 四 月 末 に は 明 治 維 新 以 来 途
絶 え て い た、 宝 満 山 か ら 英 彦 山
への峰入りが宝満山修験会に
よ っ て 再 興 さ れ た。
『飛梅』
̶
糸ヶ峰を行く山伏
じょう
き
じ ょ う ぐ ぼ だ い
ぎ
しゅっしょう か ん
きながらあるいは笈を背負ったままで
は通行できない。まず笈や法螺を降ろ
し、数人が先に絶壁を飛び降り、あと
で上から笈や法螺を吊り降ろしたため
名づけられたという。宿に残った人た
ち は、
「この暗い中無事に通り抜ける
ことができるだろうか」と、手を合わ
せ誦経する人もいた。
「全員無事通過」
の無線が入った時には涙を流す人もい
て、本当に宝満山修験会が一丸となっ
てこの入峰行を行っているのだと、胸
が熱くなった。このような危険なとこ
ろで精神を集中することも修行の大事
な要素である。
ここを越えれば愛法窟(愛敬の瀬戸)
である。愛法窟は、高さ約一〇メート
ルの垂直な岩盤にある亀裂で、傍に巨
大な陽石もある。その陰窟の愛法窟で、
新 客 に と っ て は 最 も 重 要 な「 出 生 潅
頂 」 と い う 秘 儀 が 行 わ れ た。
『修要伝
法集』には「愛法窟深秘儀軌」と言う
項 目 が あ り「 先 ず 新 客 が 窟 前 に 進 み、
先達は後に立って閇塔印を結び金剛界
大 日 の 明( バ サ ラ ダ ド バ ン )
を 三 返 誦 し 撥 遣 し、 新 客 に 口
授 す る。 大 先 達 は 窟 の 後 に 立
ち開塔印を結んで胎蔵界大日
如 来 の 明( ホ ー ア ビ ラ ウ ン ケ
ン)を三返誦しながら新客を
迎 請 す る。 要 は、 新 客 が 大 日
如 来 の 呪 を 授 か り、 岩 の 割 れ
目を金剛界から胎蔵界へ通り
抜けることによって仏の子と
し て 生 ま れ 変 わ る の で あ る。
そ れ ま で「 上 求 菩 提 」 の 身 で
愛法窟での出生潅頂
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とびうめ 冬号 No.169
げ
け
しゅじょう
さ ん ぞ う は ん
あ っ た 者 が「 下 化 衆 生 」
、つまり罪深
い衆生を救うことができる身に生まれ
変わり、衆生済度の為の修行に移って
いくという儀式なのである。
今回の入峰でこの儀式は再現された。
目 隠 し を さ れ 貝 ノ 緒( 今 回 は ロ ー プ )
に縛られ岩の割れ目を降りてゆく新客。
「 何 も 見 え な い 恐 怖、 何 も 考 え る こ と
ができず、無心で唯々生きようとする
ことに一生懸命。赤子が生まれる時も
同じなのでしょう」
。そんな悟りも聞
かれた。そしてさらに「生まれ変わっ
たという気持ちで、これからの道を歩
いて行きたい」と力強い宣言もあった。
ここからの一日はさらに長い。大日
岳(八二六m)に登ると英彦山の領域
に入ったと云うことで、宝満修験獅子
流法螺の奥伝「三匝半」を、英彦山に
向かって吹きたてる。力強い法螺の響
き り い し
が く
め
き
だ け
こだま
お お みなみ
ぞ く た い ご ん げ ん
じょうじゃっこう ど
い ざ な ぎ の みこと
し
け っ か い
に ゅ う ぶ じょうまん
し し の し ゅ く
を発掘調査した添田町教育委員会の岩
本教之さんが登ってきて説明をしてく
ださる。備宿は宝満山の獅子宿にあた
る彦山の「本宿」で、彦山へ入峰した
宝満山伏はここで歓待を受けたのであ
る。この宿は南北に長く、西側に開け
ているという。西の方、遙かに見渡せ
ば宝満山が見える。そういえば獅子宿
も 南 北 に 長 い 建 物 で 東 に 向 い て お り、
英彦山を見晴るかすことができる。峰々
で繋がった宝満山と英彦山。そして両
山 の 山 伏 は 常 に 相 呼 応 し て い た の だ。
そう思い、一同深い感動に襲われた。
奉幣殿前には前日から護摩壇が築か
れ、神宮の計らいで重要文化財の奉幣殿
の屋根にスプリンクラーで散水し、入峰
の一行の到着を待っていた。若葉に縁取
られた石段を下り、石の鳥居をくぐって
奉幣殿に入峰成満の奉告をする山伏た
ち。そして歴史的な採燈大護摩供が彦山
神宮奉幣殿の広前で行われた。宝満山伏
が奉幣殿広前で採燈大護摩供を修する
こ と は、 歴 史 的 に も 初 め て の こ と で あ
り、英彦山神宮にとっても、昭和四十七
年の聖護院の国峰修行に於ける採燈護
摩供以来の出来事であった。奉幣殿から
のご神火で焚く護摩の煙は高く高く英
彦山頂へと登っていった。
今 回 の 奉 幣 殿 前 で の 採 燈 護 摩 供 は、
竃門神社一三五〇年大祭であればこそ
実現できたことであり、英彦山神宮の
高千穂秀敏宮司・高千穂有昭禰宜、竃
門神社の松大路秀一禰宜も参列しての
護摩供は、神仏分離から一五〇年経過
し、新しい両山のあり方を示唆するも
No.169 とびうめ 冬号
05
か ね
そなえじゅく
行者堂の奥に備
ど
き は 英 彦 山 に 向 か っ て 谺 し て い っ た。
いる。社殿の鍵は早田さんが開けてく
斫石峠に一旦下り食事をとった後、釈
ださって、中で勤行し碑伝を据え置く
迦 岳( 八 四 四 m )
、 湯 谷 越、 深 倉 越、
こ と が で き た。
「昔も宝満山伏が彦山
三 国 石 を 経 て 岳 滅 鬼 岳( 一 〇 三 六 m )
に入ると、彦山の山伏が山内を案内し
に登る。この間はものすごいアップダ
てくれたであろうことを思うと、本当
ウンの道。ついて行けない山伏も出た。 にありがたい」石橋弘勝先達の言葉に
早めに谷伝いに降りてくる山伏を迎え
一同頷いた。
ようと車を走らせ、ぎりぎりの所まで
さらに登ると材木石。安山岩の柱状
行って、川に石で渡しを作った修験会
節 理 な の だ が、 弥 勒 菩 薩 の 化 身 と も、
の人。サポート隊も必死である。夕刻、 鬼が社殿を建てようとして伐りだした
しゃくなげ荘に全員揃った時の安堵感
材木の残りが石になったものともいわ
は大変なもので、明日の英彦山上宮参
れている。さらに鎖を伝う岩場が続き、
拝、奉幣殿前での護摩供に想いをはせ
七時頃に南岳の山頂に到達した。頂上
た。
に俗躰権現・伊弉諾尊の石の祠と鳥居
四月二十八日
が あ り、 こ こ で 勤 行 す る。 そ の 間 に、
ワンゲルの高校生らしい若者が次々に
五時出発。この日は英彦山のガイド
ボランティアの早田利光さんが同行し
横を通り抜けていく。勤行を終わると
てくれた。鬼杉を修め、大南窟へ。大
上宮へ。大願成就である。どの顔も晴
南窟は窟に神社の社殿がはめ込まれて
れやかで喜びに満ちている。
上宮での勤行を済ませた後、九合目
にある行者堂に詣でる。行者堂の入り
口付近には木の鳥居がある。この鳥居
は 結 界 を 示 し て い て、 こ れ か ら 上 は
「常 寂光土 」
、つばを吐くことさえ禁じ
られた絶対の浄土なのである。初めて
英彦山に登った時、山頂付近を包む熊
笹のそよぎがあくまでも清浄で本当に
浄 土 に い る 感 じ が し た も の だ っ た が、
今は鹿に食い荒らされたとかでそれが
な い こ と が 悔 や ま れ た。 英 彦 山 に は、
下から銅の鳥居、石の鳥居、木の鳥居
があり、それぞれが四土結界の境にな
り、守るべき潔斎の程度が定められて
いた。
宿の跡がある。ここ
英彦山大南窟
ち な み
のでもあるように思われた。
五月二十六日
竃門神社で毎年恒例の採燈大護摩供
が修せられた。三二回目の護摩供であ
るが、今年は英彦山への大峯修行成満
の報謝の意味を込めた護摩供であった。
採燈大護摩供奉納奉告祭に、これまで
一度も欠かさず『竃門山』の琵琶を奉
納されてきた中村旭園師。今年は九十
六歳の演奏である。今回は、東京から
初めて護摩供にこられた中野房子さん
も参列された。そして図らずも八尋千
世さんも並んでの参列であった。中野
さんの父君は大正十五年十月から昭和
十二年十月九日のご逝去の日まで宮司
を務められた西高辻信任 の
( ぶとう )
宮司、そして八尋さんの父君はその前
任者。大正九年十一月から宮司を務め
られた大久保千濤宮司である。この二
代の宮司は、竃門神社が経済的にも最
も苦しい時代に、現在の本殿建設に邁
進されたのである。八十歳を超えられ
※写真提供 筑紫野市教育委員会
たお二人の令嬢を通して九十年ぶりの
邂逅である。
一 三 五 〇 年 大 祭 を 迎 え た 竃 門 神 社。
宝満山が信仰の山にたち返ろうとして
いる様を、きっと手を取り合い喜んで
いらっしゃるのだと確信せずには居ら
れなかった。
大 峯 入 り が 行 わ れ た 四 月 末 の 山 は、
新緑が萌え立ち花々も美しい。四日間
とも天候に恵まれ無事に満行を迎える
ことができたのも、宝満大菩薩(玉依
姫命)
、彦山権現のご加護の賜とただ
ただ感謝あるのみである。
な お、 こ の 峰 入 り の 記 録 は、 十 月
二十六日・二十七日の日本山岳修験学
会の折、九州国立博物館エントランス
ホールにおいて筑紫野市教育委員会に
よって写真パネル展示・記録映像上映
が行われ、尾登憲治監督のドキュメン
タリー『ザ修験道』がミュージアムホー
ルで上映された。
奉幣殿より御神火をいただく
心には何時の時代も宝満宮・竈門
神社があり、その信仰は連綿と今
日に引き継がれています。
山中には祭祀跡、寺社の堂舎跡、
祭祀や修行に関係する窟、山伏の
坊跡など、古代から近世に至る遺
構が良好に存在し、殊に古代大宰
府 の 祭 祀 と 密 接 な 関 係 を もつ 信 仰
の山という面が評価され、我が国
の山 岳 信 仰のあ り 方 を 考 える う え
で重要であると指摘されています。
指 定 総 面 積 は 六 四 万 四 三 四 一、
五六 ㎡。上 宮 が あ る 山 頂 周 辺、中
宮 跡 か ら 百 段 ガン ギ 周 辺 の西 院 谷
地区、座 主 跡、坊 跡 や 修 行 窟 な ど
が あ る 東 院 谷 地 区、承 平 三 年(九
三三)
、最澄の遺記に基づき建てら
れた六所 宝 塔のう ち 安西 塔の跡 と
推定される本谷地区、愛嶽山山頂
地 区、竈 門 神 社 周 辺 の 下 宮 地 区、
近年、平安時代の大型建物の跡が
発 掘 された大 門 地区 等 が含 まれま
す。
全国の山々にさきがけ、富士山・
鳥 海 山 と 並 び「信 仰 の 山」と して
国 の お 墨 付 き を も ら っ た 宝 満 山。
永 遠 に「霊 山」と し て の 姿 を 保つ
ことができるよう、努めなければ
ならないと思います。
宝満山 国指定史跡となる
竈 門 神 社 が 鎮 座 す る 宝 満 山 は、
奇 し く も、一三五〇年 大 祭 の 年 に
国の史跡に指定されました。
平 成二十 五 年 六 月二十一日、国
の文 化 審 議 会 が宝 満 山 を 史 跡 指 定
するように意見具申し、十月十七
日の官報告示によって正式に国の
史跡に指定されたのです。この指
定 は 単 な る 遺 跡 と しての 指 定 では
なく、
「霊山」としての指定で、秋
田 県・山 形 県 境 にあ る 鳥 海 山、今
年 世 界 遺 産にも 登 録 され大 変 話 題
となった富士山に続き三番目の指
定でした。
天智天皇三年(六六四)
、大宰府
の 鬼 門 除 けのために 宝 満 山 頂 で八
百 万 神 を 祀っ た の が こ の 山 に 於 け
る 祭 祀 の 始 ま り と『縁 起』は 伝 え
ますが、それを物語るかのような
出 土 遺 物 が上 宮 をはじめ 山 中 諸 処
で発見されています。また天台宗
を開いた最澄をはじめ多くの入
唐・入 宋 の 僧 達 が 祈 願 し、海 外 か
らの文 物 も 数 多 く も たら さ れて 大
いに繁栄します。中世以降は彦山
を 胎 蔵 界 と す る 金 剛 界の修 験の山
として栄えます。歴史の変遷と共
に、さまざまな形態の信仰がこの
山に繰り広げられますが、その中
06
とびうめ 冬号 No.169
丸山 道和
中島神社九州分社
六十周年記念大祭によせて
福岡県菓子工業組合理事長
九州橘花会会長
中島神社九州分社は、昭和二十九
年七月二十三日九州菓業界の熱い思
いを一つに、太宰府天満宮様のご厚
意 を い た だ き、 天 満 宮 ご 本 殿 東 側、
天神の杜に、兵庫県豊岡市の中嶋神
社本社から御分霊され九州菓子業界
の 守 護 神 と し て 御 鎮 座 さ れ ま し た。
今年は六十年の節目を迎え記念大祭
を十一月七日(木)に挙行すること
が出来ました。今回は、創建以来の
老朽化に伴い、記念行事の一環とし
てご本殿縁板の全面取り替え等出来
る範囲の修復を終え、朝まで降り続
いた雨も、嘘のようにあがり、すば
らしい秋空の元、大祭行事が滞りな
く終了致しました。六十年の還暦を
迎えるにあたり、創建当時の原点に
立ち戻り、九州各県菓子工業組合の
代表が揃って大祭をすることが出来、
まさに九州は一つという合い言葉が
実感でき、心からうれしく思ってい
ま す。 ま た、 今 回 は 道 真 公 御 神 忌
千百十一年祭の関係から、青森県リ
ンゴ対策協議会の皆様も参加をして
頂き、尚かつ沢山のリンゴを九州各
県菓子工業組合に配布、このリンゴ
を使ってお菓子を作り、ご神前にお
供えしました。神事終了後午後三時
より楼門前の参道でお菓子の無料配
布を行い、リンゴのお菓子等併せて
約一五〇〇個のお菓子が二十分足ら
ずの間に無くなる大盛況でした。こ
れより会場をホテ
ル日航福岡に移し、
午後五時より太宰
府天満宮西高辻宮
司による記念講演
を行いました。大
変有意義ですばら
し い お 話 を 頂 き、
参加者の皆さんも
聞き入っていまし
た。また、行事最
後の直会を同ホテルで午後六時より
開催、最初に天満宮巫女さんによる
神楽奏上、開会の辞を大分県菓子工
業組合田口理事長、そして、九州ブ
ロック会長で熊本県菓子工業組合提
理事長の乾杯で、和気藹々の直会が
始まり、青森からの使者、ミスリン
ゴのお二人には花を添えて頂き本当
にありがとうございました。二時間
以上の和やかな直会も、佐賀県菓子
工業組合中原理事長の一本締め、長
崎県菓子工業組合岩永理事長の閉会
の辞で無事お開きとなりました。今
日の感激を忘れず、先輩諸氏の偉業
を た た え、 九 州 菓 子 業 界 の 守 護 神、
心の拠り所として後輩たちに伝えて
いく責任を痛感致しております。今
回の六十周年大祭が菓子業界の今後
の発展の一助と成ることを願ってい
ます。
No.169 とびうめ 冬号
07
八尋千世
して威信を現存せり。
観る者、皆、御神慮ならんと賛嘆せ
り。
東廻廊の片隅に納め置きたる御神輿
及装飾等を一切焼失せり。
大 正 三(一 九 一 四 ) 年 四 月 九 日 の
福岡日々新聞(西日本新聞の前身)
官幣中社、筑前太宰府神社の楼門及
び東西回廊、透塀等が去る明治三十七
年三月、日露戦役中、出征軍人の家族
が其の武運長久息災延命を祈願するた
め、楼門に灯明を捧げ遂に火を失して
回録するに至らしめたる次第は当時の
紙上に詳報して普く世人の知る所なる
が、同神社社務所にては、その後、広
く信者の浄財寄附を受け、明治四十
三年一月起工式を挙行し、楼門の工事
に着手。以下略
楼門其他建築趣意書
当 社 楼 門 ハ 慶 長 三( 一 五 九 八 ) 年、
豊大閣ノ命ヲ奉シ石田三成ノ奉行再興
スル所ニ係リ、
又廻廊ハ元禄七(一六九
四)年ノ再興ニシテ、前者ハ参百七年、
後者ハ貳百拾壱年ノ星霜ヲ閲シ、其間
厳然トシテ社頭ノ壮観ヲ支持セリ。
然ルニ去ル明治三十七年三月不幸ニ
ま ん せ い
ともがら
し
ふ
シテ、此ノ雄大ナル建造物ハ共ニ回
禄ノ災ニ羅リ今ヤ毀損セラレタル礎
石ヲ其ノ名残ニ留ムルノミニテ、社
頭ノ荒涼甚ダシク職ニ神明ニ奉仕ス
ル吾、㑪ノ恐懼措ク能ハサル所ナリ。
頃者、内務大臣ノ許可ヲ得タルヲ
以テ、前記ニ大建造物ノ再築ト社務
所ノ新築(従来社務所ノ設備ナク廻
廊ノ一部ヲ充用シ来レリ)ヲ併セ並
ニ其ノ附帯工事ト共ニ着手セント
ス。而シテ其ノ費用ハ約八万円ノ巨
額ヲ要スルモノアリ。望ムラクハ各
地、敬神ノ諸士、幸ニ資斧ヲ揮ヒ工
事ノ竣成ヲ助ケ、社頭ノ荘厳ヲ復シ、
万姓ヲシテ益々神威赫々ヲ仰カシメ
ラレンコトヲ敬シテ牒ス。
明治四十二(一九○九)年一月
福岡県筑紫郡太宰府町
官幣中社太宰府神社
宮司男爵 西高辻信稚
称宜 與子田教行
主典 梅岡厳謹
大正三(一九一四)年
四月十一日
08
とびうめ 冬号 No.169
◀楼門起工式
地鎮祭
太宰府天満宮楼門再建百年
大 正 三( 一 九 一 四 ) 年 四 月 十 一 日。
楼門再建の落成式が盛大に執行されま
した。
二十六(二○一四)年で、丁度
平成
百年になります。再建までの資料(社
務 日 誌 他、 写 真 等 ) が あ り ま す の で、
記録しておきたいと思います。
明治三十七(一九○四)年
三月十三日
同夜午前一時三十分頃、不図、楼門
正面より発火し猛然と打ち揚げ、東西
廻 廊 に 類 焼 し て、 僅 か に 本 殿 付 の 処、
東西共残りたり。
西高辻宮司は、自宅より直に本殿に
馳付け、謹んで御神体を拾護せられ祢
宜以下雇員、夫々消防の準備をなさし
め、宝器、其の他器具、合議所まで持
ち運ぶ事を命ぜしに、直に運び終わる。
而して尚、万般の事注意をうながしつ
つありしに、殆ど本殿も危き場合とな
りたる。折しも風位変じて不思議にも
消し留むるを得たるは、全く御神威の
ためならん。
尚ほ驚くべきは火焔のため楼門内の
梅樹は満開の候なりしが、悉く花しぼ
み、或は半焼のものありて非常の惨憺
を極めたるに、飛梅のみは尚ほ依然と
▲楼門 明治 28 年頃
▲楼門覆屋
し
ふ
ま ん せ い
が く
つかさ
し
〃 宮垣暢丸
再築 楼門 東西門 廻廊
建築 楼門脇透塀 平唐門 本殿裏
透塀 水吐修理 社務所
資斧=旅費または学資
万姓=もろもろの司(司)
マ マ
当日、参列員とし寺原知事を始め貝
原会計課長、知友房崎□□長代理、警
部、巡査、氏子総代□□、集雇等七十
名、奈祭儀了て、文書館に於て、宴会
をなし、午後四時頃□居して散会せり。
大正三年 四月十一日
楼門、廻廊、東西門並に唐門、透塀、
社務所建築落成に付、午前六時、楼門
前に於て、上棟式祭典執行、終りて餅
撒きをなす。
萓島秀山筆 境内図 明治 17 年ごろ
明治四十三(一九一〇)年
一月廿二日
楼門再築起工式及地鎮祭を午前十一
時半開始、一時四十分終了。
建築主任、宮垣主
典は先ず楼門上層に
登り、東西南北に徹
初めをなし、 より
山監督等、之を投ず。
社務所屋根よりも
餅 ま き を な し た り。
右、終りて神殿左右
の握舎に、左記階級
の議員を参列せしむ。
当日参列の為、招
待状を発せし人員は
当野勅奏判任官、貴、
衆議院、県議員、群
参事会員、当町全議
員、有志者、五十円
以 上 寄 附 者 等、 約
七百名なりき。祭典
終了の後、文書館に
於て直会供応なした
り。
今回、寄附せし者
にして、参拝したる
者には白、青、赤等
切符、豫め発送し置
き、其の色に依りて、 々の待遇をな
し、合議所を宝物拝観を充て、寄附者
には無料拝観を許したり。
回廊内外には、軒灯燈を吊し、楼門
前置道の左右には高張提灯を集し、心
池 反 橋及廻辺には五燭の電灯を 点 し、
北神苑領徳碑附近には、点々、電灯を
ともしたり。
お百度まいり
戦前は男子、二十才になると徴兵検
査を受けて、甲種合格の人は各連隊に
入隊する義務がありました。
家族の人は無事に過せますように
と、楼門と太鼓橋を往復してお百度ま
いりをしたものです。私共子供達(親
類)もおまいりするのによく動員され
ました。楽しんで置道を走ったもので
す。
遠い遠い思い出です。
萓島秀山筆・天満宮境内図説明
① 太宰府天満宮本殿
② 楼門 明治三十七年焼失
③ 絵馬堂 余香殿東側に移築
④ 薬師堂(鬼すべ堂)
昭和十四(一九三九)年焼失
⑤ 一夜の松 落雷の後枯死
⑥ 志賀社
⑦ 門前五軒 千年祭の時四軒は北神
苑へ、一軒は東神苑へ
移転(茶店)
⑧ 相輪塔
⑨ 浮殿 弁財天の跡へ移転
⑩ 延寿王院 西高辻邸
No.169 とびうめ 冬号
09
昭和8年銅灯篭が奉献され、
昭和 18 年戦時中に献納されました。
僅か 10 年のご奉仕でした。
銅の鳥居
御神威を感じる次
崇敬会 研修旅行
第でございました。
金沢は和菓子屋
が 非 常 に 多 く、 京
平成二十五年十一月六日(水)~八
日(金)の二泊三日、六十五名の御参
都よりも多いとの
こ と で す。 こ れ は
加をいただき「ぐるっと北陸能登加賀
屋和倉温泉めぐり三日間」と題し、太
前田家が和菓子を
こよなく愛してい
宰府天満宮崇敬会研修旅行を開催いた
しました。
たためと言われて
い ま す。 ま た 尾 山
出発日、今回の旅行地である石川県
小松空港は晴天で到着を迎えることが
神社近くにある
で き ま し た。「 名 月 や 北 国 日 和 定 め な
「金沢二十一世紀
し」という松尾芭蕉の句にもあるよう
美術館」の来場者
数は全国でも指折
に、能登や北陸では一年のうち晴天は
り で あ り、 現 在 若
およそ八十日と少なく、初日はそのう
ちの貴重な一日となりました。
者の発表の場とし
ても活用されてい
到着後は空港付近のホテルにて昼食
ま す。 加 賀 百 万 石
の「加賀百万石膳」をいただき、まず
藩祖前田利家公そしてお松の方を御祭
前田利家公のお膝元は今日では食文化
やアートなどの面でも非常に隆盛な印
神とする尾山神社へ参拝にまいりまし
象を受けました。
た。御神門は和漢洋の要素を兼ね備え
たステンドグラスが輝く国の重要文化
金沢を後にし、夕刻には今回の旅の
財 で あ り、 も と は 御 神 灯 が 点 灯 さ れ、 目玉の一つでもある「和倉温泉加賀屋」
その放つ光は金沢の街を照らし、また
に到着しました。加賀屋は「プロが選
ぶ日本のホテル・旅館百選」でも日本
日本海の帆船の目標ともなっていたそ
一に輝く老舗中の老舗で、御参加の皆
うです。石川県を代表する神社として
さ ま 方、 と て も 楽 し み に さ れ て お り、
市民より厚く崇敬を集めており、その
若女将の丁寧なお出迎えに感動してお
雄大な社殿は利家公の仁政、そして市
られました。各お部屋では抹茶や和菓
民の忠誠を見事に表しています。正式
子のおもてなしを受け、海近くならで
参拝を行ったあとは御社殿の御案内を
はの塩分の強い温泉にて道中の疲れを
伺い、改めて前田家、そして利家公の
そ う
こ
の
す い せ ん
と
こ ん ご う
ちょうぼう
こ う だ い
ろくしょう
ゆ う す い
じんりょく
癒し、宴席へとうつりました。日本海
の新鮮な刺身をいただき、カラオケ大
会ではのど自慢の皆さまが力を存分に
発揮され、時間が足りなくなるほどの
盛り上がりをみせ、初日の夜を盛会に
閉じました。
二日目は一千年以上も続く、日本の
三大朝市である輪島の朝市に向かいま
した。北陸で有名なカニの水揚げも前
日から解禁されており、カニや海産物
を眺めながら輪島塗のお箸などを買い
求める方もいらっしゃいました。
次に能登地方のお祭の際に担ぎ出さ
れる巨大な御神灯「キリコ」をキリコ
会館にて拝観。これは御神輿のお供と
して担ぎ出すもので、江戸時代中期以
降は高さ十mを超える大型で豪華なキ
リコも現れるようになりました。会館
の中にも大きく迫力のあるキリコが展
示されており、能登のお祭の勇壮さや
力強さを感じました。
二日目の午前中は雨風が荒ぶる天候
の中の移動となり「弁当忘れても傘忘
れるな」と言われるまさに北陸らしい
気候を過ごし、能登を代表する景勝地
である、能登金剛を訪れ日本海の荒波
が作りだした猛々しい海岸美を見学し
ました。
昼食の和会席の後は日本三大庭園と
し て 有 名 な「 兼 六 園 」 を 訪 れ ま し た。
もともと、金沢城の外郭として城に属
した庭であり、園名は中国栄の時代の
詩 人・ 李 格 非 の 書 い た「 洛 陽 名 園 記 」
の 文 中 か ら と り、 宏 大、 幽 邃、 人 力、
蒼古、水泉、眺望の六勝を兼備すると
いう意味で兼六園と名付けられまし
た
で ら
た い ちょう じ ん ゆ う ぜ ん
じ
な
た。 十 一 月 一 日 よ
り園内の樹木を雪
害より保護する雪
吊りが行われてお
り、 唐 崎 松 を は じ
め九州では見るこ
とが出来ない金沢
の風物詩を堪能し
ました。
そ の 後、 二 日 目
の宿である山代温
泉 の「 ゆ の く に 天
祥 」 へ 移 動。 こ ち
らは自家源泉と引
湯源泉の二つの豊
富な湯量と鮮度を誇る天然温泉で、趣
の異なる三つの大浴場で十八種類の湯
船 が あ る 中「 一 泊 三 湯 十 八 湯 め ぐ り 」
をお楽しみいただき、宴席では昨日か
らのカラオケ大会に引き続き、石川県
のお土産が当たる福引大会も行いまし
た。この旅行最後の夜ということもあ
り、食事や温泉に大層盛り上がり、皆
様お楽しみのご様子でした。
翌朝は紅葉が見頃ということで、予
定を変更し、山岳自然信仰で名高い那
谷寺へお参りしました。自然豊かな那
谷寺は泰 澄 神融禅師によって創設され、
お作りになった十一面千手観世音菩薩
を洞窟内で安置し岩屋の胎内をくぐる
ことで人としての罪を清める霊場とさ
れました。石窟の仏像や色付いた紅葉
に北陸の秋を感じながらの散策。最終
日は地元のお菓子が多く取り揃えてあ
るお菓子城にてお土産を購入し、九谷
焼のお店「九谷満月」ではカニの釜飯
10
とびうめ 冬号 No.169
をいただき、焼き物の御案内の後、お
薦めの醤油さしや急須を皆様ご覧に
なっていました。
最 終 日 は 新 幹 線 に て の 帰 郷 の た め、
一路福井県、滋賀県、京都府を抜け新
大阪駅から博多駅へと向かいました。
この度の研修旅行では、崇敬会とし
て唯一訪れていなかった北陸能登にま
いりました。移動時間も長く、日本海
からの海風も強い中ではございました
が、普段味わえない北陸ならではの風
情を満喫していたけたのではないかと
存じます。二日目のみ若干くずれまし
たが、北陸らしからぬ晴天にも恵まれ
無事に全日程を過ごすことができ、皆
様の御協力に感謝を申し上げます。
国際奉仕婦人部主催
第四十二回留学生との国際親善
「料理交歓会」
去 る 十 月 二 十 七 日( 日 )「 第 四 十 二
回 留 学 生 と の 国 際 親 善 料
理交歓会」が崇敬会国際奉
仕 婦 人 部( 西 高 辻 典 子 会
長)、九州大学留学生会(ガ
ブリエル アデイエミ フ
ランシス)の主催により中
村学園大学において盛大に
開催されました。
白梅委員会(蟻川由江委
員長)御担当のもと留学生
二 十 チ ー ム( 二 十 五 ヶ 国 )
留学生家族・友人・各後援・
協賛団体総勢三〇五名の御
参加をいただきました。
福岡県下の九州大学全
キャンパスに呼びか
け、本年も箱崎、伊
都、大橋から参加い
ただきました。九時
か ら の 開 会 式 の 後、
調理を開始しまし
た。 各 留 学 生 の 方、
婦人部の皆様・後援
の各ソロプチミス
ト、ガールスカウト、
中村学園大学の学生
の方達が交流を深め
ながらお国自慢の料
理を作っていただきました。十二時半
より料理交歓会が始まりました。会は
終始、笑顔の絶えない会でございまし
た。ホールにて閉会式を執り行いまし
た。 楠 名 誉 教 授、 三 成 教 授 に こ の
四十二回続いた料理交歓会への篤い想
いを語っていただき毎年恒例となって
おります「福引」を行い、すべて無事、
盛会に執り行うことができました。
本年はいつも使用させていただいて
いる中村学園大学の第一学生ホールが
工事中ということで食育館にての開催
となりました。例年と違う場所で勝手
が違いましたが皆様の御協力でトラブ
ルなく行うことが出来ました。参加さ
れた方からは「とてもきれいな会場で
よ か っ た 」「 広 く て 食 事 も ゆ っ く り で
きた」などのありがたい御言葉も頂戴
いたしました。
最後になりましたが今回御担当いた
だ い た 白 梅 委 員 会 の 皆 様 方 を は じ め、
この料理交歓会の開催にあたり御後
援、御協賛、御協力いただきました各
団 体 の 皆 様、 ま た 御 参 加 い た だ い た 皆
様に篤く御礼申し上げます。
第二十五回崇敬会青年部主催
清掃奉仕
幹事 平田 博
平 成 二 十 五 年 十 月 五 日( 土 ) に 第
二十五回青年部主催清掃奉仕が開催さ
れました。
当日は朝からあいにくの雨天となり
参加者が少なくなると推測しておりま
したところ当初の想定人数の方がご出
席 に な り 崇 敬 会 各 連 合 会、 個 人 会 員、
別府梢風園グループ、顕彰会奨学生等
皆様方を合わせ二百名以上の方が、ご
奉仕致しました。
皆様の思いが天神様に伝わったので
しょう清掃を始める時間になるにつれ
天候が回復し雨に降られることなく作
業ができました。これについては青年
部一同大変驚きました。今回は心字池
(太鼓橋・桜門前)、崇敬者会館周辺(禁
足 地・ 摂 末 社・ 回 廊 )、 余 香 殿 の 区 域
で雨天だった為、予定エリアを変更し
清掃を行いました。私は摂末社グルー
プで奉仕させて頂きましたが、足元の
悪い中、丁寧にまた早いペースで作業
は終え、回廊の方の拭き掃除まで進み
終了時間となりましが見違える程綺麗
になっていました。
清掃奉仕終了後、余香殿にて参加者
全員で昼食を頂きました。昼食前の時
間には大型モニターにて今年、式年遷
宮を迎えた伊勢神宮のお祀りの模様の
DVD鑑賞を行い由縁、歴史など一般
にはあまり知られていない内容が含ま
れており大変興味深く拝見させて頂き
ました。鑑賞を終え皆様と一緒に青年
部一同、昼食を取らせて頂き和やかに
時間を過ごさせて貰いました。
ご奉仕終了となり解散時間に境内に
お見送りに出たところ、あまり良い天
候ではないのに参拝される方が多かっ
たことに少し驚きましたが、ふと聞い
た話を思い出しました。同日正午から
太宰府政庁跡にて太宰府市民政庁まつ
り が 開 か れ る こ と を。『 ご 奉 仕、 参 拝
されるみなさんの天神様への崇敬、歴
史への興味』と こころの奥にある日
本人としての精神がそうさせるのだろ
うと思いました。毎
年清掃奉仕させてい
ただいております
が、今年は特に感慨
深くご奉仕を終える
ことができました。
崇敬会青年部一
同、皆様のおかげで
清々しく充実した時
間を過ごすことが出
来ました。
毎年続きますこの
清掃奉仕活動に皆様
の近しい方々に声を
掛けて頂き、ご一緒
にまた参加して頂け
ましたら幸いでござ
います。参加頂いた
皆様方お疲れ様で
ございました、本当
に有難う御座いまし
た。
No.169 とびうめ 冬号
11
十月二十四日(木)大野城連合会
(大分県別府市 八幡朝見神社)三十五名
秋の奉納スポーツ大会
十月十八日(金)日佐GG (井尻公園)三十八名
十一月一日(金)太宰府GB (観世多目的広場コート)二十名
十一月十四日(木)日田ゲートボール大会
(旧小学校グラウンド)八十五名
十一月十三日(水)大野城連合会GB
(彦田公園上筒井グラウンド)六十三名
12
とびうめ 冬号 No.169
秋の日帰り研修旅行
那珂川連合会
各連合会 秋の奉納行事
九月二十七日(金)杷木連合会
(長崎県長崎市内 松森天満宮)三十八名
九月二十八日(土)小郡連合会
(大分県別府市 八幡朝見神社)三十八名
九月三十日(月)春日連合会
(佐賀県 呼子 田島神社)四十五名
十月三日(木)太宰府連合会
(大分県別府市 八幡朝見神社)二十名
十月二十一日(月)那珂川連合会
(大分県別府市 八幡朝見神社)二十三名
十月二十三日(水)筑紫野連合会
(長崎県長崎市内 松森天満宮)三十五名
春日連合会
小郡連合会
当宮崇敬会は天神さまの御神徳「誠
心」をいただいて、日本の輝かしく美
しい世界に誇る文化伝統と心を後世に
伝えるべく敬神崇祖の宗として活動し
ております。
各連合会その趣旨の基、天神さまとの
ご縁を広げ、会員の拡大をはかるべく、
活発な事業を計画、展開されています。
平成二十六年も旧正月頃の三社詣な
ど各連合会、様々な事業を予定してい
ます。
杷木連合会
大野城連合会
曰佐連合会
大野城連合会
太宰府連合会
筑紫野連合会
太宰府連合会
日田連合会
崇敬会大祭並びに大会
と こ わ か
第四十五回太宰府天満宮崇敬会大祭
並 び に 大 会 が 十 月 十 五 日( 火 )、 十 六
日(水)の二日間、本年は両日あわせ
て、約七百名と多くの御参列をいただ
き、執り行われました。
御本殿での祭典は午前十時より厳粛
に斎行され、皇室の弥栄、国家の安泰、
そして崇敬会会員の皆様方の平安をお
祈りいたしました。その後、社務所二
階余香殿にて大会式典が盛大に執り行
われました。
国家斉唱、敬神生活の綱領を唱和し、
宮司より挨拶をいたしました。挨拶の
中で神宮式年遷宮を行なうことは社殿
や神宝の技術の継承だけでなく、私達
に常に瑞々しく新しいお力をお分かち
いただくということ(古来より脈々と
受 け 継 が れ る「 常 若 」 の 精 神 )、 そ し
て内宮の「遷御」に参列した際の静寂
に包まれた御神域の話をいたしまし
た。次に崇敬会の役員として長年にわ
たり、御神徳の宣揚に御尽力いただい
た役員の方々への表彰を行いました。
式典後の講演は、本年平成二十五年
は伊勢の神宮の第六十二回神宮式年遷
宮、そして出雲大社の六十年に一度の
御遷宮の佳節であり、これを祝し、
「伊
勢神宮・出雲大社の御遷宮」というテー
マ の も と、 当 宮 の 味 酒
禰宜より講演をいたし
ました。
神宮とは天照坐皇大
御神様をお祀りする内
宮と豊受大御神様をお祀りする外宮だ
けでなく、別宮、摂社、末社、所管社
を含む百二十五社の総称が神宮であ
り、遷宮とは御社殿だけではなく鳥居
や神宝、宇治橋、神職の装束に至るま
で す べ て、 新 し く 造 り 替 え ら れ ま す。
神宮の式年遷宮の制度は天武天皇によ
り天武十四年(六八五年)に定められ、
最初の遷宮は持統四年(六九〇年)持
統天皇の時代に行われており、その時
は内宮のみ行われ、その二年後に外宮
の遷宮が行われました。戦国時代に百
年間途絶えてしまいましたが、江戸時
代には再興し、現在まで脈々と伝わっ
ています。伊勢の遷宮は二十年おきに
斎行されているわけですがこれは(諸
説ございますが)親から子へ、師匠か
ら弟子に技術を正確に後世に伝えるス
パンが二十年とされている為です。そ
れは現代でも同じで
あり、洗練された精
神性や技術を継承す
るために遷宮が行わ
れているのです。日
本は木の文化と言わ
れています。木の建
造物は百年ほどで朽
ちるものですがそれ
を建て替えることで
甦 る こ と が で き る、
“甦りの文化”であ
ります。西洋は石の
文化と言われてお
り、石で造られた建
造物は半永久性があ
るため、技術の継承
が成されておらず、近年の補修におい
て復元に大変苦労をしたとのことで
す。技術、文化の継承がされているの
が神宮の式年遷宮であり、工法は弥生
時代、奈良時代のものが続いています。
式年遷宮は日本の文化を表す貴重な神
事といえます。
出雲大社の遷宮は屋根の葺き替えを
行なうことがメインであるため、正式
には遷御と言われています。御祭神は
大 国 主 命 を お 祀 り い た し て お り ま す。
昔の日本には巨木文化、巨石文化とい
うものがあり、どれだけ大きいものが
あるかで権力を表していた時代があ
り、当時日本で一番大きい建物は出雲
大 社 で あ り ま し た。 上 古 の 時 代 に は
九 十 六 m、 中 古 の 時 代 に は 四 十 五 m、
安永三年(一七七四年)には二十四m
のお社があったと記録されており、今
までは山を見立てたのではないかとい
われていましたが、宝治二年(一二四八
年)に造営された巨大な柱が平成十二
年( 二 〇 〇 〇 年 ) に 出 土 し て か ら は、
実際に巨大なお社があったことが示さ
れています。
講演の最後には来年の大河ドラマと
しても注目を浴びている黒田官兵衛
(如水)と天満宮とのご縁についても
話をいたしました。天満宮に移住をし
た際には現在の宝物殿の付近に住まわ
れ、現在では如水社としてお祀りをし
て お り ま す。 如 水 作 の 連 歌 に は 天 神 様
より発句をいただいたものがあり、そ
の中に「福岡」という言葉が含まれて
おり、これが「福岡」という言葉の初
見であるというご紹介もされ、天神さ
まと如水そして福岡県
についてのご縁をお伝
えし、講演を終えまし
た。
直会では崇敬会会員の皆様方による
多くの演芸や出し物で賑わい、笑顔の
溢れる大会となりました。
当 会 は 昭 和 四 十 三 年 に 創 立 発 会 し、
本年で四十五年という節目の年を迎え
ました。これからも天神さまの誠心を
いただき、崇敬会の和が多くの方に広
がり、御崇敬を賜りますよう、本部と
いたしましてもより一層、努力してい
く所存でございます。最後になりまし
たが、天候も心配される中、御参列を
いただきました皆様に重ねて厚く御礼
を申し上げます。
役員委嘱
崇敬会支部並びに皆様のお世話をし
て頂く役員の委嘱が左記の通り行われ
ました。何卒、御協力賜りますようお
願い申し上げます。
別府支部
(世話係) 坂 井 教 正
熊本梅林支部
(副支部長) 中 林 洋二朗
春日連合会 上白水支部
(世話係) 河 鍋 宥 伸
那珂川連合会 片縄第二支部
(支部長) 坂 井 正 之
那珂川連合会 今光支部
(支部長) 中 原 輝 男
(順不同敬称略)
No.169 とびうめ 冬号
13
大麻頒布式
飛梅講社・崇敬会の各連合支部・連合会等に
おきましては、毎年新年に各家庭におまつりす
る大麻の頒布式を、十一月一日より十二月中旬
まで各地の施設等に於いて執り行われました。
役員の皆様におかれましては、御参列いただ
き、支部長様、会長様に代表として大麻を授与
いたし、祭典後の直会では役員の皆様方と懇親
を深めていただきました。
また年末お忙しい中に各講員・会員の皆様方
に御配布いただきしたこと衷心より御礼申し上
げます。
伊 勢 神 宮・
氏 神 神 社・太
宰 府 天 満 宮の
お札を各家庭
に お 祀 りい た
だ き 、平 成 二
十 六 年が皆 様
にとりまして、
良 き一年 で あ
り ま すよ う お
祈 りい た し て
おります。
古賀連合支部大麻頒布式
平成二十五年飛梅講社・崇敬会 大麻頒布式
十一月 一日 飛梅講社 甘木連合支部
二日 崇敬会 鞍手連合会
五日 飛梅講社 嘉穂連合支部
十二日 飛梅講社 篠栗町連合支部
十四日 飛梅講社 筑穂町連合支部
十七日 飛梅講社 須恵町連合支部
〃 崇敬会 若久連合会 二十一日 崇敬会 春日連合会
二十二日 飛梅講社 古賀連合支部
二十四日 飛梅講社 志免町連合支部
二十六日 飛梅講社 粕屋町連合支部
〃 崇敬会 曰佐連合会
二十七日 崇敬会 太宰府連合会
二十九日 崇敬会 筑紫野連合会
三十日 飛梅講社福田蜷城地方支部
十二月 一日 飛梅講社 壱岐連合支部
二日 崇敬会 大野城連合会
四日 崇敬会 別府支部
六日 崇敬会 小郡連合会
八日 崇敬会 那珂川連合会
十一日 崇敬会 杷木連合会
当宮の大麻(御神札)をお受けになりたい方は
御送付も致しております。
《お問い合わせ》
℡092
(922)
8484
太宰府天満宮飛梅講社本部
講社員の皆様のお世話をしていただく新役員の委嘱が左記の通り行
われました。
何卒、
宜しく御尽力賜りますようお願い申し上げます。
支部長
世話係
〃
〃
支部長
武雄市朝日町中野
宮若市三ヶ畑
糸島市志摩小金丸
〃
〃
久留米市田主丸町地徳
野口 昭 支部長
浦郷 顕應 事務長
野見山正光 〃
山北 正博 〃
中野 陸男 〃
綾部 慶幸 〃
鹿毛 伸男 〃
那須 明 〃
上野 勝昭 支部長
〃
糸島市二丈福井
粕屋町連合支部
うきは市浮羽町妹川
糸島市二丈鹿家
糸島市志摩新町
〃
宗像市野坂
糸島市二丈吉井
唐津市肥前町中浦
松島 幹彦
進藤 学
吉丸 信秀
田代 勝男 佐々木順子
楢崎 泰雄
中川 龍彦
占部 政治
鎌瀬 博志
立藤 篤
山下 秀人
氏名
〃
小城市牛津町勝
芳野 晋 〃
太宰府市国分
萩尾 興孝
住所
〃
朝倉市隈江
重松 省三 〃
〃
井川 伸二
役職
〃
朝倉市小隈
長谷 裕之 〃
北九州市八幡西区金剛
酒見 忠則
氏名
〃
筑紫野市柚須原
市川 隆 〃
朝倉郡筑前町中牟田
堀江 昭一
住所
〃
筑紫野市大石
市川 秀美 〃
うきは市浮羽町妹川
草野 節子
役職
〃
筑紫野市香園
森木 宏男 世話係
太宰府市国分
朝倉郡筑前町石櫃
〃
筑紫野市原
斉藤 奉文 支部長
支部長
〃
筑紫野市原
〃
〃
支部長
久留米市北野町金島
伊万里市波多津町辻
東松浦郡玄海町
宇和島市三間町迫田
稲益 汀 副支部長 〃
井上 光治 〃
津田 幸夫 支部長
鶴田 安人 世話係
築留 政雄 〃
橋本 康治 〃
古賀市小竹
太宰府市観世音寺
日田市中津江村栃野
竹田市吉田
東松浦郡玄海町小加倉
田代 郁夫
中野猪寿夫
吉鹿 馨
長谷部国男
吉良 君孝
平田 英人
副支部長 〃
〃
〃
〃
副支部長 藤津郡太良町
〃
14
とびうめ 冬号 No.169
天神様の杜につどいて
天神信仰をいただいています方に人生や天満宮について、
ペンリレーの形で御執筆いただきます。
ときさつ
かずまさ
時札 一正 さん
満願御礼参拝の日は太宰府天満宮か
ら戴いた、ノート・鉛筆の学業用品を
景品に村の氏神様の前で子供の相撲を
行い奉納し、大人は御神酒を酌み交わ
し一日を楽しく過ごしています。この
日は太宰府天満宮からも来所いただき
盛大な日となっていましたが最近では
子供も少なくなっており行き詰まりを
感じております。
ここで氏神様について申し上げるこ
とにします。
筑紫國風土記には
『 隼 鷹 神 社、 筑 前 國 夜 須 町 松 延 村 二 六
ムラウチ、神殿一間、一間半、拝殿二
間三間、祭日九月十七日、産土神ナリ、
菅神ヲ祭ル、鎮座ノ初メ詳ナラズ、社
内二三石アル、後身毘沙門大日ト云ウ』
とある。
隼鷹天神社については、その縁起に
よれば、『仲哀天皇ガ熊襲征伐ノ砌リ、
大 保 ノ 行 富 ニ 於 テ 天 神 地 祗 ヲ 祀 ラ レ、
其ノ後、神功皇后ノ勅ニヨリ其ノ神霊
を祀レタ所、鷹ナッテ現レタノデ、神
号ヲ隼鷹天神ト稱シチ御神体ヲシテ鷹
ヲ 安 置 セ ラ レ タ。』 と あ る が 松 延 の 神
社も江戸時代頃隼鷹天神社と古文献に
記されているので、同じ縁記を体した
ものであろう。天神とは天ノ神、アマ
ツ カ ミ の 意 で 天 神 地 祗 と は、 天 ツ 神、
國ツ神の総称であり総ての神々の意で
あるが平安時代の初期延喜三年二月
二十五日菅原道真公の薨去の後道真公
を火雷天神とする信仰が起り、京都に
北野天神が創建され、天神即ち天満宮
として全国的に其の信仰が広がり、松
延の地に於いても古来の産土信仰に天
神信仰が併せ祀られたものと思料され
る。 文献では、寛政十年筑紫國風土記附
録が編纂され、また文化年間、筑紫國
風 土 記 拾 遺 が 成 っ た、 江 戸 期 ま で は、
松延隼鷹天神社と記されているが、明
治五年、神社庁に登録の際は松延天満
宮と記されている。
松延の氏神様の記述については松延
在住の歴史家、砥上淳一氏の研究を引
用させてもらった。
これからも天神様の御加護のもと飛
梅講社の発展に努力したいと思いま
す。
No.169 とびうめ 冬号
15
飛梅講社朝倉郡筑前町松延支部支部長
私
の住む朝倉郡筑前町松延は太宰
府 天 満 宮 と は 近 い 距 離 に あ り、
私の小学生の三月のお別れ遠足は毎年
歩いて学校から中牟田、山家、阿志岐、
只越、太宰府へと行った思い出があり
ます。
又、私の住む松延は純農村でありま
したので初夏の田植えが終わると区民
揃って太宰府天満宮に参拝に行き、五
穀豊穣と家内安全の祈願をして、七月
と八月の二ヶ月間区民交代で日参し御
朱 印 と 御 饌 米 を 受 け て 各 戸 に 配 布 し、
八月の終わりに氏子全員で満願御礼の
参拝に行っていましたが今では、区民
交代での日参と御饌米配布は行わなく
な り、 七 月 の 願 立 て の 参 拝 、 九 月 の 満
願の参拝を氏子 全 員 で 行 っ て お り ま す 。
松延の氏神様
企画展
「天神さまと連歌」開催
平成二十五年八月八日(木)~十月
十 四 日( 月・ 祝 )
、 宝 物 殿 第 二・ 第 三
展 示 室 に て 企 画 展「 天 神 さ ま と 連 歌 」
(有川宜博氏監修)を開催しました。
会場では、道真公が「連歌の神様」と
崇敬される由来にはじまり、連歌祈祷の
修練のために社人が集めた連歌作品や資
料、道真公の御墓所としての「連歌の聖
地」=天満宮に参詣叶った連歌師たちの
旅 行 記、 戦 国 武 将 の 戦 勝 祈 願 の 連 歌 を
行った記録、さらには現在活動中の各地
の連歌会などを紹介しました。
会期中には、有川氏による二度の展
示解説が行われた
他、 宝 物 殿 で 博 物
館学芸員実習を
行った大学生が
「展
示見どころマップ」
を 作 成 す る な ど、
連歌に初めて触れ
る方にもわかりや
す い 展 覧 会 と な り、
多くの来館者があ
りました。
連歌展、
連歌会、
奉納
文書館で連歌会開催、
御神前に奉納
太宰府天満宮では、戦乱の世で一度
は途絶えたものの、
黒田官兵衛(如水)
・
長政が連歌屋の復興に尽力し、神事と
して連歌が再び中核をなすようになり
ました。神主は技量を磨くために、月
に一度の連歌会を開き、
昭和九年(一九
三四)まで続いたと記録されています。
その最後の会場となったのが文書館で
した。
その後、太宰府天満宮に縁ある有志
により、太宰府天満宮神縁連歌会が昭
和 六 十 二 年( 一 九 八 七 ) に 結 成 さ れ、
太宰府天満宮で再び連歌会が開かれる
ようになりました。
、その由緒
九 月 二 十 三 日( 月・ 祝 )
ある文書館に於いて、太宰府天満宮神
縁連歌会と、展覧会でも紹介した大阪、
京都、松山、山口の連歌会の方々あわ
せて三十五名が集まり、二座を設けて
の連歌会が開催されました。
床の間に天神像が掛かる中、西高辻
信良宮司の「秋晴れや空に波打つ祭旗」
を発句とし、二座それぞれ四十四句の
世吉連歌が巻かれました。実作は丸一
日かけて行われ、最後の句である挙句
が詠み上げられると、拍手と歓声が起
こりました。
その後直会では、各会の活動報告や
今後の抱負などを発表し合い、充実し
た時間となりました。
、御旅
そ し て、 九 月 二 十 五 日( 水 )
所から還御され
た天神様の御神
前に二帖の連歌が無事奉納されました。
連歌が持つ可能性
有し、一つの作品を作り出す〝座の文芸〟
連歌は、複数人が同じ時間・場所を共
です。それぞれの個性や持ち味を生かす
ことが作品の豊かさに繋がります。
また、連歌には、同じ季語を連続で
詠むことができる回数や、
「月」
、
「花」
の句を詠む場所などのきまりが細かく
定められた〝式目〟があります。これ
は、連歌全体に森羅万象を含み表すよ
うな変化に富んだ展開へと導くための
ものです。
この式目に則り、日本古来の大和言
葉を用い、詩の情景に想いを馳せ、参
加者と対話し、お互いの存在を大切に
しながら詠まれる連歌は、日本人の国
民性に合った伝統的な文化であり、連
歌を通して得られる教養は、豊かな人
間性を育成するなど、様々な可能性を
秘めていると言えます。
太宰府天満宮では、戦勝連歌や追悼
連歌など、数多な連歌奉納が御神前で
行われてきました。その歴史の一ペー
ジを新たに刻むように、連歌会や奉納
が 行 わ れ る こ と を、
「連歌の神様」で
ある天神様は見届けてくださることで
しょう。
、
最後に、企画展「天神さまと連歌」
文書館での連歌会及び奉納に際しまし
て御理解・御協力いただきました多く
の方々に深く御礼申し上げます。
文化研究所 清水蓉子
16
とびうめ 冬号 No.169
〝飛梅連歌会〟の
活動を通して
三橋彰弘
私たち〝飛梅連歌会〟は、天満宮の若手
職員を中心に太宰府市役所、大宰府市ふれ
あ い 館 の 職 員 の 方 々 に も ご 参 加 い た だ き、
平成二十四年に連歌の勉強会として発足し
ました。当時、文化研究所顧問の有川宜博
氏から連歌に触れるきっかけを与えていた
だ き、 そ の 楽 し さ に
魅せられたことが発
足の大きな理由です。
当 会 の 活 動 は、 月
に 一・二 度 程、 社 務
の後に有川宜博氏の
指 導 の 下、 文 化 研 究
所で実作練習を行っ
て い ま す。 勉 強 会 を
平成二十五年十一月十一日
むら
もろ
た か ら
お
宜博 雑
紗繪 雑
泰彦 冬
彰弘 冬
睦 冬 喜美子雑
宜博 雑
紗繪 雑
彰弘 夏
で連歌を学ぶ意義は、連歌がやまとことば
を重視する点、何よりかつて太宰府で連歌
が盛んに行われていた点に見いだすことが
できます。日本古来の、また、太宰府古来
の思想を探ることによって、神職としてこ
れから先の未来どう進んでいくべきか考え
る足がかりとし、以って御神徳の宣揚に尽
力したいと考えています。
ほど
城戸 睦 四
高松麻美 四
渡邊康彦 四
有川宜博 三
城戸康利 二
西山 瞳 三
一 おとなしく歩みを止むる牛車 二 里近けれどいまだとどかず 三 五月雨の音響かせて川溢る 四 雄滝雌滝は落ちつ結びつ 五 いくどなく変はらぬ日々をくり返し
六 藤の紫ほのかに匂ふ 七 待ちかねし花の宴の契りけふ 八 鶯来鳴くつくし御社 西高辻信良 一
三橋彰弘 六
山川喜美子 五
木本紗繪 五
木村弥生 三
加納知枝 四
瞳 雑
彰弘 雑
紗繪 夏 睦 夏
知
枝 雑
麻美 春
喜美子春
弥生 春 十 弛みし草鞋ねんごろに締め 喜美子雑
十一 もののふの勝ち鬨あぐる声やせん 麻美 雑
十二 風に芒の穂は解けとぶ 泰彦 秋
十三 かうかうと大原照らす望の月
弥生 秋
十四 角そばだてて鹿の戯る 知枝 秋
ご 縁 あ っ て 太 宰 府 で 職 に 就 き、
様々なきっかけで連歌のことを知
り 興 味 を 持 っ た 方 が 当 会 で 学 び、
そ し て い つ か 外 へ と 飛 び 出 し て、
天 神 様 と 連 歌・ 天 満 宮 と 連 歌・ 太
宰府と連歌のことを広める存在と
なるような人材が育つ場にしたい。
そんな会でありたいと願っています。
当然、私個人もそのような存在
となる為に努力を続けております。
また連歌は、神職として学ぶべきものの一
つでもあります。国学者・荷田春満は本居
宣長に、万葉集をよく読み、自らも和歌を
詠みなさいと教えたといいます。その真意
は、古の言葉(やまとことば)をよく知り、
扱えるまでに精通することが、日本古来の
ものの捉え方、考え方を追求する点におい
て重要であるということです。ここ天満宮
一 抱かれし強き腕を忘れまじ 二 揺るる木洩れ日薄紅をさす 三 吐く息の白さも楽し妹待ちて 四 我が衣手に初雪の降り 五 時もなく炭はかをりを漂はし 六 諸の願ひに祝詞高らか 七 国々の御財贄と献る 八 薩摩おごじょの作る灰汁巻 九 雷にせかされ急ぐ峠越え 四
霞のかなた去にし姫御子
瞳 春
五 舞ふ蝶に君が面影しのびつつ 麻美 春
六
思ひしたため添ふる山吹 彰弘 春 七
心地よき花の吹雪に誘はれて
知枝 春
八
なつかしき顔笑みのあふるる
泰彦 雑
九 空青くふところ深し皐月富士 康利 夏
睦 雑
十 庵を出づれば煙立つ見ゆ 十一 誰が突くと知るや知らぬや鐘の音 紗繪 雑
十二 弥陀の影落つ水面に十六夜
喜美子秋
十三 定めなき行く末憂ふ秋さびし 瞳 秋
十四 霧の奥処に浮かぶ母御前 彰弘 秋
い
重ねていく中で、天神様が連歌の守り神で
あること、かつて太宰府で盛んに連歌が行
われていたことなど、天満宮と連歌との間
に並々ならぬ関係があることに対して徐々
に理解が深まってゆき、より会を盛んにし
たいとの機運が高まっています。その成果
と し て、 去 る 平 成 二 十 五 年 十 一 月 十 一 日、
御神忌一千百十一年大祭の日に、西高辻信
良宮司に発句をいただいて完成させた世吉
連歌を奉納することができました。
〝飛梅連歌会〟の名の由来は、連歌の守
り神である天神様を慕って集まった私たち
の 活 動 を 天 神 様 に 愛 で て い た だ け る よ う、
また、この活動が永遠のものとなるよう願
いをこめて、天神様のお傍で年毎にその香
り増す飛梅にあやかり名づけました。天満
宮から太宰府へ、より広く参加を募ってい
きたいと思っています。
泰彦 雑
宜博 雑
康利 春
信
良 冬
彰弘 冬
喜美子雑
紗繪 雑
弥生 秋
知枝 秋
睦 秋
麻美 雑
太宰府天満宮千百十一年祭
奉納之連歌
賦御何連歌
みたま
く が ね
一 千代八千代凍つることなき稜威かな
二 霊も振ゆる妙の御神楽 三 暁に清き風吹き鳥鳴きて 四 出船入船賑はひにけり 五 水の辺の草を紅葉と彩らむ 六 菊にしたたる雫輝き 七 暮れそめし月もしづかに澄み渡る 八 山の端過ぐる雲のひと群 しろがね
ひま
一 銀と黄金にまさる玉鬘 二 糸のほつれをいかにとやせむ 三 春の野の旅は袖干す暇もなく No.169 とびうめ 冬号
17
江
さかのぼ
な
と り
天神信仰の教学
ざ
いとな
み
わ
ち が
よ
た た
お
誠 の道 とは
か げ
や ど
しゅうそく
か な
こ う
せ い せ い
か
い く
戸 時 代 は 文 政 年 間、 上 方 で 流
正直の頭に神宿る
行した小唄に、
という言葉もあって、神と「まこと」
と「正直」は切離すことのできないも
心づくしの神さんが、うそをまこと
⑪
のとなります。これは、「まこと」を人々
に替えさんす、ほんにうそかへおお
にわかりやすく教えたものだったので
うれし
す。
と い う も の が あ り ま す。 こ れ は、
太宰府天満宮より発生した「うそ替神
このように「まこと」とは人の心に
そ の 範 囲 を 定 め れ ば、「 正 直 」 と い う
事」のことを歌っています。うそ替え
言葉に置換えて説明することができま
神事とは、一月七日の夜の酉の刻(午
祢宜 味酒 安則
す。けれども、天神さまの御心の内に
後 六 時 前 後 ) に 斎 行 さ れ る 祭 り で す。
ある「まこと」は、もっと宏大で、
「祖
楼門前の広庭に忌竹を立て注連縄を張
先の手振り」や「しきたり」、さらには、
り巡らし、梅紋の高張を立てた斎場の
「神々の御教え」までもこの「まこと」
明 か り を 消 し て、「 木 ウ ソ 」 を 手 に し
という三文字に収束されるのです。
た参拝者が、「替えましょ、替えましょ」
える
そ れ は と て も 狭 く な っ て し ま い ま す。
生 化育 そ の
と、この「ウソ」を取り替えます。さ
たとえ大海であろうと、その湛
神道には、この世界の生
水 の 底 ま で も、 そ の 清 ら か な 心 に は、
天神さまの御心のうちにある「まこと」
ものが神々の大御業であり、神意に徹
まざまな嘘を天神様の「誠の心」と替
月の光さえも射し込むだろう。
はもっと広義の意味をもっていると考
すれば未来は開けるという信仰原理が
えていただこうというものです。一年
えるのです。
あります。この神意に適う法則のこと
間についた嘘、知らず知らずについた
この「清き心」は「清浄な心」の意
で、天神さまの御心であり、「誠の心」
それは、天地の「まこと」や天地の
を「まこと」というのです。
嘘もあり、どうしてもつかなきゃいけ
「誠の道」とも一体のものと考えます。
真理を含んだものといえましょう。す
なかった嘘もあります。それらの嘘を
さらに、この「まこと」を伝える神
天神信仰の道を行く者は、天神さま
なわち、神々の御心による神聖な御功
の 御 心、 言 葉 そ し て 神 命 を「 み こ と 」
天神さまに、すべて無しにしていただ
業、営みのそのものを差します。です
くという実にありがたい神事なのです。 が「誠心の神」で、その「誠の道」を
と喚び、これを告げ知らせることを「の
実践しなくてはいけないことは誰でも
から、人についても、心の働きだけを
り」といいます。そこで神意による命
天神さまを「誠心の神」「正直の神」
知っているとうりです。それでは、「ま
い う の で は な く、 人 の 活 動 や 技 能 と
として崇拝する信仰は、鎌倉時代にま
令を「みことのり」申し上げるのです。
こと」とはいったい何なのでしょうか。 いった分野にまで広がるのです。神々
え遡ることができます。貴族政権から
この「のり」を漢字で表記すると、命
日に見えぬ神の心に通ふこそ
の御教えやその神々の営みのなかから、 令、法則、基準、道徳、儀式、教えと
武家政権へ移行したとはいえ、まだま
人の心のまことなりけり
生き方を学んだ祖先の「しきたり」や
だ両者の二重政権時代で、庶民はその
いう字になります。同じように「まこ
「生きる知恵」を守ることもその延長
救いを天神さまの「誠心」に求めたの
と」の意味を明確にするために、「こと」
この歌は心の誠を詠んでいます。昔
から「まこと」を実行して、神々の御
にあり、これは「まこと」のうちにあ
です。
という言葉を漢字にあてると、言、事、
蔭に浴したという人が沢山いることは
るといえるのです。
功のほかに、別、特、殊などの文字で
この鎌倉時代の初め、藤原定家らが
承知のとうりです。心の誠というのは、
後鳥羽上皇の院宣をうけて撰進した
表せます。そこには、「別々、一々違う」
そこで、人の心の「まこと」という
心の正しい使い方や、心の正しい働か
と狭くなりますが、これが一番よくわ
『新古今和歌集』に所収された道真公
の意味があるのです。
せ方をいっているので、人の行動の根
か り ま す。 そ れ で、「 正 直 」 と い う 概
の神歌があります。
それで、一般的な法則や、規則とは
本 を 差 し て い る と い え ま す。 し か し、
念が「まこと」の代表として使われる
違い、人によって為すべきことが異な
人 間 の 心 の 誠 に そ れ を 限 定 す る と、
のです。
る、物によって在り方の違う、という
海ならずたたえる水の底までも
清き心は月ぞてらさむ
18
とびうめ 冬号 No.169
こ と
わ
よ
ま
と
わ た
この差異を認めて、為すべきように為
し、あるべきようにあらしめる、つま
り「各々がそれぞれの志を遂げる」こ
れが「まこと」の神学的本義でありま
す。「 言 寄 さ す 」 つ ま り、 人 そ れ ぞ れ
に責任を与え、任かせられたのが「ま
こと」なのです。だから、同じ使命で
も、時によって、所によって、人によっ
て、神々がお認めになる真の行為こそ
「 ま こ と 」 と い え ま す。 い つ も 使 命 を
意識し、神々の御声を謹聴して、そこ
から湧き出る行いでなければならない
のです。形ばかりや人の真似では誠の
道ではありません。
で す か ら、「 ま こ と 」 行 わ れ る と こ
ろに神はいまし、そして、神のいます
ところに「まこと」は存在するのです。
る一切
さらに、神道では、天地を亘
萬物のすべてに神々の「みたま」が宿っ
ていることを信じ、ここに神々の「め
ぐ み、 さ き は へ 」 給 う 力 を 仰 ぎ、「 お
かげ」を蒙り「いつくしみ」を受ける
と信じています。「ありがたい」といっ
て神に感謝を捧げ、「めでたい」といっ
ては喜びを表します。天地の恵み、先
祖の御恩、社会の助け合いなど、宏大
な「 め ぐ み 」 を い た だ き、「 お か げ 」
を蒙り、生かされ育てられているので
す。人間はともすれば、自分の力で何
もかもできるように思い上がり易いの
は、無知といいますか、恩を忘れてい
るといいますか、誠にはずれたことで
あります。
たとえていうと、確かに、米は人間
がつくります。けれども、人は田を耕
か な
こ う ま い
も み
つ き
つ い
ほ か
の ろ
ま さ
かしこ
お
と り
か げ
まなこ
う ば
じょうかん
し、種をまき、肥料を入れ、草をぬき、 は何かというと「止」です。正という
苅入れ、籾にしたというだけの事です。 字 は、「 一 に 止 ま る 」 と い う こ と な の
土 の 力、 種 の 力、 肥 料 の 力、 水 の 力、
で す。 一 と は 原 点、 人 が 自 分 の 原 点、
陽光の力、そのような自然の力がそれ
すなわち、誠の道の中心に立ち戻る月、
ぞれに見えない働きをして、みごとな
それが正月です。仏教では「修正」と
収穫となったわけで、人はその切っ掛
いいます。ウソ替えも太宰府天満宮で
け を つ く っ た に 過 ぎ ま せ ん。 し か も、
は、毎年、正月七日の酉の刻に斎行さ
それらは先祖から教えてもらい伝えら
れています。
れたものなのです。
わが国は将に自然災害列島です。火
事や火山の噴火に焼かれ、台風に吹き
近代科学の発達も、同じ理屈に他な
りません。人間の力、人類の発展と誇っ
飛ばされ、津波や高潮に流され、地震
て見ても、結局、天地と祖先と社会の
に倒されます。実は、道真公の時代も
恩恵がなかったらできなかったことな
現 在 と 同 じ か そ れ 以 上 で し た。 貞 観
のです。この大きな「めぐみ、いつく
十一年(八六九)五月二十六日に陸奥
しみ、さきわへ」の力を忘れ、ありが
国の三陸沖で発生した巨大地震は大津
たいとも感じないのは誠の道を踏み外
波を伴い、千人もの人が流されて亡く
したことといえます。
なったのです。その五年前には富士山
や阿蘇山も噴火していました。その後、
道真公の学問に対する姿勢を、
西日本大地震による大津波もあり、今
和魂漢才
の大阪界隈は五メートルの波涛が押し
と、表現します。この「和魂」こそ
が「祖先の教え」であり「神の教えに
寄せました。京の都も地震に震え、『日
適う心」なのであります。序でに言え
本書紀』より書き継いた『六国史』も
『三代実録』をもって筆を折りました。
ば、「 漢 才 」 と は「 わ が 国 も 含 む、 世
界の高邁な知識」を指していて、これ
いつの世でも天災そして人災は相つ
いできます。そのような時、天を怨み、
も誠の道に通じるものなのです。
人を咀いたい気持になる人もいるで
ひ と の 一 年 間 の 社 会 生 活 を 見 れ ば、
しょう。それは現代人が近代科学の発
いやな事、苦しい事、悲しい事がいく
達に有頂天になり、神や自然に対して
らでも起こってきます。洋々たる大海
の、「恐れ」「畏む」心を忘れているこ
にも、平らかになろうとする水の力が
働いていますし、動いている波さえも、 とこそ問題です。小さな不安に神々の
この安定の原理を知っているかのよう
無 情 を 怨 む の は、「 御 蔭 」 そ し て「 め
ぐみ」の力が如何に働くかを解しない
です。人も旧年のウソやあやまち、失
ものであります。
敗を反省し、ゆがめられた自分を元の
誠の道に軌道修正をする月、それが正
小さな苦難や、葛藤には心を奪われ
月なのです。正月の「正」の字の部首
やすいものです。大きな広い眼で、悠々
お の
め っ た
か い
け い け ん
あらわ
た る 人 生 と、 無 限 の 天 地 を 眺 め る と、
自ずから違った形勢が開けてくるもの
です。
『 方 丈 記 』 で 有 名 な 鴨 長 明 が、 著 し
た『四季物語』に所収された道真公の
神詠があります。
心だにまことの道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん
信仰と感応が分かり易く教えられた
のもですが、世々の祠官や神道学者の
中からは、疑義すらもたれました。誠
の心を持っていれば、神さまへの祈り
はいらないと解されたからです。そこ
でこの歌の「まことの道」叶うという
句に注目する必要があります。ここに
いう「道」とは、実行、実践が重要で
すよ、を差しています。完璧な誠の道
に適う行動が必要条件なのであります。
さらに、この神歌を逆説説法解釈して
みます。
「 誠 の 道 を 完 璧 に 実 践 で き る 人 は、
そう滅多にはいない。だから、誠心が
完全じゃない人、実践が容易にできな
い人は、神に祈りなさい。敬虔な祈り
ならば、神は御加護して下さるでしょ
う。」
「祈り」とは「信心」であり「信仰」
です。この祈りを極めたところに「ま
ことの道」があるのです。
故に、「まこと」あるところに神あり、
神あるところに「まこと」ありなので
あります。
※次回は、江戸文化人の天神信仰
No.169 とびうめ 冬号
19
よしむね
にわか
い く
よしたか
つ い
ろうにん
か み
や
そ う た ん
こ の え の ぶ た だ
せ っ か ん
3
3
たか
や
しき
ま
味酒 安則
祢宜
お
夢想之連歌とは、夢の中で発句を感
応して始める連歌で、この場合、如水
が夢の中で天神さまより発句を賜った
ことになります。「福岡」の命名者は、
如水か長政かでの論議がありましたが、
この太宰府天満宮所蔵の史料で如水と
いうことになります。しかし、厳密に
言えば、夢で如水に発句を授けた天神
さまということになります。
また、この発句が、筑前国での「福
岡」の初見とわかり、いよいよこの連
歌の重要性は増してきます。
同年十二月十八日、如水は妻の光(幸
円)と過ごしたであろう至福の時に別
れ を 告 げ、竣工した福岡城三の丸「御
鷹屋敷」へ移住します。そして、その
い さ さ か な る 宅 は 大 鳥 居( 西 高 辻 家 )
信岩へ与えられました。
あ つ
やまい
ま さ
は ん
慶長八年二月十二日、徳川家康が征
夷大将軍に任命されると、翌九年正月
一日に京都二条城で参賀を催すること
となり、如水も上絡します。
慶長九年三月二十日、上洛の道中の
疲れもあり病に倒れ、黒田家の伏見屋
敷にて死去されました。御歳五十九年。
辞世の歌です。
おもいおく 言の葉なくて
ついに行く
道はまよわじ 成るにまかせて
如水は、正しく太宰府天満宮中興の
祖で、戦国時代に荒廃した太宰府天満
宮の中門や回廊、楼門、三橋を修復造
営し、社領を三千石に加増するなど復
興に尽力しました。また、藩祖のこの
ような篤い信仰は歴代藩主の範とも
なったのです。
時代 戦国時代 — 江戸時代初期
職業 軍師
神社 光雲神社(福岡市中央区西公園)
如水社(太宰府天満宮末社)
生誕 天文 15 年 11 月 29 日
(1546 年 12 月 22 日)
官位 従五位下 勘解由次官
主君 小寺政職→織田信長→豊臣秀吉
氏族 小寺氏、黒田氏(自称宇田源氏)
父母 父:黒田職隆
母:明 石宗和の娘(小寺政職の
養女)
兄弟 孝 高、浦上清宗室、利高、香山
妙春、虎、利則、直之、心誉春勢
妻女 正室:櫛橋伊定の娘・光(幸)
側室:なし
子女 長政、熊之助
養子:一成(加藤重徳の次男)
死没 慶長9年3月 20 日
(1604 年4月 19 日)
改名 万吉(幼名)
、
小寺孝徳、
黒田孝高、
如水軒(号)
別名 官兵衛(通称)
、
小官、
黒官(略称)
戒名 龍光院殿如水円清大居士
霊名 ドン・シメオン
墓所 福岡市博多区千代の崇福寺
京都市北区の大徳寺塔頭龍光院
20
とびうめ 冬号 No.169
黒田官兵衛(如水)と太宰府天満宮
よ
いました。されど、一国一城の大大名
になりたいという長政の夢は、筑前国
五十二万石の国主として加増移封で成
就したといえます。
同年十二月十一月、如水は気が晴れ
ないまま筑前に入国し、博多の豪商で
茶人の神屋宗湛の宅へ入居します。
同年十二月十三日付で、摂関家で朋
友でもある近衛信尹から、筑前への国
替 を 祝 う 書 状 が 届 き ま し た。「 筑 前 国
は宰府に菅聖廟があり、その領国に住
するあなたは幸せ者ですよ」という文
面がありました。中世末期の戦国時代、
天神さまは、如水をはじめ当代の武将
の多くが愛した、茶道と連歌の守護神
と し て 信 仰 さ れ て い ま し た。 そ こ で、
如水は新城の建設中は、太宰府天満宮
の楼門横に「いささかなる宅」(仮庵)
と井戸を造り、社家の人々を呼び、歌
を詠み連歌をして、茶を楽しんでいた
といいます。
慶長七年一月十六日、天満宮のいさ
さかなる宅で如水夫妻、長政一家、天
満宮社家等の一座十七名で「夢想之連
歌」を行いました。その発句が、
3
松梅や末なかかれとみとりたつ
山よりつつく さとは ふく岡
二句目を円清こと如水、三句目を夫人
の幸円、そして、四句目を長政、五句目
が長政夫人の御上こと栄姫と続きます。
Date File — データファイル
じょすい
いえ
て
が ら
慶 長 五 年( 一 六 ○ ○ ) 九 月 十 五 日、
天下分け目の関ヶ原の合戦が起きまし
た。その前夜、
黒田官兵衛孝高(如水)は、
豊前中津城にいて人生最後の賭けに出
たのです。東へ向かう九州の西軍の諸隊
を素通りさせ、その間に今まで集めた中
津 城 の 金 蔵 を す べ て 開 い て、 領 内 の 百
姓、さらには九州、中国、四国の浪人を
集め、九千人ほどの俄仕立ての軍を作り
上 げ ま し た。 九 月 十 三 日、 お 家 再 興 を
願って、西軍毛利氏の支援を受けて挙兵
した大友義統を、如水は石垣原の戦いで
破りました。この後、西軍に属した臼杵
城、小倉城、久留米城等の諸城を落とし、
十月十六日、柳川の支城の梅津城を落と
して柳川城を開城させました。そして、
九州で最後の西軍勢力である島津討伐
に向かった如水軍は、鍋島直茂、加藤清
正を加えて四万になっていたのです。し
かし、十一月十二日、肥後の水俣まで進
駐した時、徳川家康よりの停戦命令を受
け、十五日、中津へ帰城し軍を解散した
のでした。
実は、如水はこの戦さ(関ヶ原合戦)
は、六ヶ月程かかると考えていました。
それが息子長政が豊臣恩顧の大名の多
くを東軍家康方に引き込むという手柄
を立て、六時間で終了したのです。こ
こに至て、九州を平定するという父の
夢は、息子の活躍によって潰えてしま
黒田官兵衛
一冊
黒田長政
慶長 18 年(1613)
冊子装 竪 31.0 横 22.7 重要文化財
宰府御社領配分之帳
れ ん
が
や
入って、太宰府天満宮の傍に隠棲していま
した。隠棲の場所を天満宮の傍らにしたの
は、如水が天神様を崇敬していたためです。
ここに住んだのは、慶長八年に福岡城が完
成するまでの短い間でしたが、その間に太
鼓橋や楼門を造営するお金を寄進したり、
天満宮の社人と度々連歌会をひらいたりし
ました。また廃れていた連歌屋の再興にも
尽力しました。如水の天神様への信仰の深
さは、以上のような天満宮への行為によく
現れています。
如水の気持ちをしっかりとうけた長政
も、 天 満 宮 を 篤 く
敬 い、 父 子 二 人 の
信 仰 の お か げ で、
太宰府天満宮は社
寺の中でも破格の
二千石の社領を与
えられるようになっ
ちつ
たのです。
「配分之帳」と同
じ帙に入っている
慶 長 九 年( 一 六 〇
四)八月二十八日
付黒田長政寄進状
に は「 天 神 の 社 領
として三笠郡宰府
の内で二千石と山
林 を 寄 進 す る。 す
べての社役をこれ
でまかなうように」
と記されています。
べっ とう
みや
じ
さ ん ご う
じ
にん
「配分之帳」は、その詳細を記したものな
のです。
太宰府天満宮には大鳥居をはじめとする
五別当・宮司・三綱などの上官をはじめ、
正堂・権堂・護燈・時打ら下官とよばれる
人びとまで五〇余の社家がありました。そ
れらすべてに二千石のうちから米が配分さ
れました。五別当の筆頭である大鳥居家は
三二〇石であるのに対し、下官の神人は二
石、惣鍛冶は一石と、地位によりその配分
は大きく差がありました。また、灯明料や
お供えの米代、元旦祭・鬼すべなどの神事・
祭祀の費用にも割り振られています。
こ の「 配 分 之 帳 」
の継ぎ目には、如水
のローマ字印が押さ
れており、さらに意
味深いものになって
います。
「配分之帳」は藩
主の代が変わるたび
に、あらたに作成されて交付されま
した。
しかし、太宰府天満宮への厚遇は、
江戸時代を通じて変わることはあり
ませんでした。
現 在 天 満 宮 に は 二 代 藩 主 御 忠 之・
五代藩主宣政の分をのぞく八冊の「配
分之帳」が寄進状とともに残ってい
ます。 (宮崎由季)
「配分之帳」は宝物殿にて展示中です。
黒田長政寄進状
長政「配分之帳」継目の如水印
太宰府天満宮の文化財
ぶんげんちょう
関ヶ原の戦いでの武勲により筑前国を与
えられた黒田長政は、
慶長五年(一六〇〇)
、
前の領主小早川秀秋が住んでいた名島城に
入りました。長政は、翌年より福岡城の建
築に取りかかるとともに、領内の検地を行
いました。それをもとに、家臣の知行地や
社寺の所領を決めたのです。
(海鳥社 一九九九
『福岡藩分限帳集成』
刊)という史料集のなかに『慶長分限帳』
という家臣の名前とその人の石高を書き上
げた記録があります。その史料の冒頭には、
領内の主だった社寺の所領が書かれていま
す。合計で三千七百拾五石ある社寺領のう
ち、二千石が太宰府天満宮の分です。因み
にその次に多いのは箱崎宮の五百石です。
長政がいかに天満宮を大切に扱っていたか
かがわかります。
そ の 背 景 に、 父
如水の天神信仰
があったことは
よく知られてい
ることです。
如水は今話題
の「黒田官兵衛」
で す。 彼 は 四 四
歳で隠居し剃髪
して如水と名乗
り ま し た。 長 政
とともに筑前に
No.169 とびうめ 冬号
21
宰府御社領配分之帳
58
編集・発行 株式会社アポロガス
発売 株式会社メディアパル
22
とびうめ 冬号 No.169
詩集「こころの幻燈会」
もう1点は
貝細工「昇龍」
これは、福岡県宗像市大島在住の沖西牛男様か
ら怪我を乗り越えて奉納された、アワビの貝殻を
丹念に剥いで作られた作品で、天神さまへの捧げ
ものということで梅の木に龍が宿る形で仕上げら
れています。昭和五十三年八月には、父保幸様に
も同じく昇龍を当宮奉納いただいています。牛男
様は伊勢神宮にも、「雲龍」を奉納されたそうです。
沖西さんの作品は
あの『ワンピース』
巻にもメリー号
が掲載されている
そうです。
幸内 桃香 桜の聖母中 いいや、絶対に来る
福島は何よりも
強いから
いつかマイナスがなくなって
プラスだけになる日が来るのかな
福島県はとても強い
とても明るい
とても元気
とても楽しい
これはプラスの福島の顔
福島県はとても危ない
とてもこわい
とても悲しい
とてもさびしい
これはマイナスの福島の顔
強さ
ひとつは、福島県から受験でお参り頂いた方か
ら奉献された詩集です。
東日本大震災から昨年十二月四日で震災発生
一〇〇〇日を迎えました。三年一〇〇〇日と言い
ますが、長い長い千日であった事と思います。
そんな中で、編みあげられた一冊です。
福島の子ども
たちを中心に四
一二作品を集め
た作品集です。
福島への温か
い思いが込めら
れています。
協力の花
こ ばやし り ん
小 林 凜 第三小6年 福島市
ひまわりが咲き 福島が黄色に色づく
ひまわりが咲くごとに 人は
笑顔になっていく
ひまわりが咲くごとに 人は
希望をもつ
ひまわりが咲くごとに 人は
勇気をもらう
ひまわりが咲くごとに 人は
人と協力しあう
ひまわりは 笑顔の花
希望の花
勇気の花
そして 協力の花
ひまわりみたいに 人は
笑顔になっていく
13
66
思いを込めた奉納の品
明けましておめでとうございます。
天神さまにお参りを頂く方は、年間六百五十万
とも七百万ともいわれます。
色々な思いを秘めてお参り頂いているのだと
日々感じながらご奉仕させて頂いています。
中には、海外在住で御活躍の方が、帰省を兼ね
て七五三でお参り頂くご家族や韓国・台湾・中国
といった国からも政治とは離れたところで、学問
の神様天神さまとして熱心に頭を垂れお参りをな
さり、お守りをお受けになる光景を拝見しますと
天神様の偉大さを改めて感じさせていただいてい
ます。
はるか昔、鎌倉時代の元寇の折、元軍の先鋒を
務めた高麗の国の大将は天神さまに毛冠を奉献し
たそうです。彼は漢詩人としての天神さまを慕っ
て自らの冠を奉献したのだそうです。
昨年、一年を通じても天神さまの御前には多く
の方からの奉献の品々が寄せられました。
特に平成二十五年は菅原道真公天神さまが薨去
されてから御神忌一一一一年という節目もあって
様々な思いを込めて捧げられました。
「お神酒上
がらぬ神はなし」と言われますが、お礼参りに、
あるいは願掛けで、月次祭には二十五日会をはじ
め多くの方が献酒なさいますし、天満宮神域の東
神苑・北神苑・参道のお店からは梅ケ枝餅やお菓
子が献上されています。
その中で、印象深いものがいくつかございます。
12
〃
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西
藤
山
井
野
清
脇
可奈子
なつき
中
権 禰 宜 吉 武 誠 礼
〃 澤 田 政 彰 〃 戸 髙 宗 德
主
典 是 則 慶 秀
〃 渡 邉 泰 彦
〃 三 橋 彰 弘
出
仕 高 山 博 子
〃 畑 中 憲 一
巫
女 梅 野 友 理
福 田 紗耶香
西 野 悠 里
中 川 瑞 穂
別 府 真由美
臼 間 友 香
梅 津 由 貴
新 西 杏依子
岩 㟢 あゆみ
原
知花子
今 村 友梨香
西 山
瞳
清 原 沙由佳
島 田 紗由美
德 永
黛
稗 田 友 見
磯 畑 希充子
古 川 智 美
佐 藤 由香利
野 津 智 子
梨 恵
めぐみ
太宰府天満宮
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〃
〃
〃
〃
宮
司 西高辻 信 良
権 宮 司 小鳥居 信 行
〃 西高辻 信 宏
禰
宜 森
五 郎
〃 味 酒 安 則
〃 後 藤 敏
〃 八 坂 宣 匡
権 禰 宜 平 木 一 吉
松 永 博 康
佐 奈 正 彦
毛 利 清 彦
栗 原 昌 久
御 田 良 知
井 上 良 彦
西 原
強
松 尾 太 輔
田 中 教 介
野 村 木乃実
新 西 靖 斉
藤 田 英 雄
小鳥居 良 信
柴 田 浩 二
有 吉 重 幸
松大路 信 潔
森
大 郎
馬 場 宣 行
真 木 智 也
小鳥居 寬 貢
穴 井 大 亮
出 光 公 朝
越 智
洋
石 川 史 嗣
行
博
田
古
子
子
蓉
妙
水
口
清
坂
豊
巫
女 竹 本 恵 子
〃 森 千 尋
〃 長 澤 彩
〃 桑 本 ひかり
〃 黒 岩 佳 奈
〃 山 口 友梨子
常任顧問 馬 場 宣 彦
〃 松大路 秀 一
研 究 員 アンダーソン依里
〃 鳥 居 令 奈
参
事 松 岡 慶 司
録
事 畠 中 浩 憲
武 末 健 志
〃 〃 〃
〃
〃
〃
〃
〃
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〃
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〃
録
事 佐々木 幸 江
井 上 紀 子
堀
由美子
笠
恵美子
長 谷 示香子
望 月 寛 子
久 里 美 樹
平 嶋 昭 子
渡 辺 美和子
小鳥居 千 穂
岡
美和子
永 一 恵
〃
〃
〃
〃
〃
古
松
賀
永
録
事 志 田 邦 子
〃 石 川 信 子
〃 日永田 和 子
〃 伊 藤 ユ ミ
〃 原 郁 子
〃 河 津 由香子
〃 新 西 祐 子
〃 吉 村 祐 紀
神苑管理員 青 栁 雄 一
長 谷 広 道
井 上 栄 二
平 山 雄 一
平 嶋
功
義 悟
〃
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〃
〃
〃
〃
神苑管理員 松 田 耕 二
〃 井 上 恵 一
〃 日永田 憲 広
〃 中 島 紀 寿
〃 木 本 順
〃 大 嵜 達 弥
〃 井 上 美津江
管 理 員 田 中 正 宏 吉 田 伸 一
田 村 成 寛
佐 藤 紀 道
長 谷
恵
豊 福 時 和
裕二郎
〃
〃
〃
〃
〃
〃
本
松
管 理 員 田 村 洋 子
河 津 貴美子
野 瀬 成 美
山 川 喜美子
平 田 英 子
松 㟢 睦 子
季和子
祖
霊
殿
化
究
研
所
社
司 森
五 郎
事務局長 松 永 博 康
事 務 局 藤 田 英 雄
〃 柴 田 浩 二
管 理 員 松 㟢 睦 子
文
所
長 西高辻 信 宏
主
管 味 酒 安 則
主
任 アンダーソン依里
研 究 員 鳥 居 令 奈
録
事 清 水 蓉 子
志 田 邦 子
〃 太宰府天満宮幼稚園
園
長 西高辻 信 良
教
頭 西高辻 圭 子
顧
問 森
五 郎
〃 白 井 奉 美
参
事 新 西 靖 斉
主
事 西高辻 信 宏
副 主 事 馬 場 宣 行
〃 武 末 健 志
主
任 松 尾 秀 美
副 主 任 松 枝 寿 子
教
諭 水 口 久 実
中 垣 さとみ
〃 教
諭 出 光 智 美
〃 高 橋 優 紀
〃 木 村 みなみ
〃 長 野 はるか
〃 権 丈 紗 輝
〃 久保田 歩 実
管 理 員 永 田 京 子
古 田 博 行
運 転 手
公益財団法人
太 宰 府 顕 彰 会
伊
門
ユ
社
藤
神
会
長 西高辻 信 良
副 会 長 牧 山 恭 久
常
務 馬 場 宣 彦
理
事 折 田 康 徳
理
事 安 川 哲 史
理
事 中 村 信 喬
監
事 外 園 令 明
事務局長 毛 利 清 彦
事 務 局 越 智
洋
石 川 信 子
ミ
〃 〃 竈
宮
司 西高辻 信 良
禰
宜 松大路 秀 一
権 禰 宜 貞 方 岩 戸
〃 森 大 郎
巫
女 八 坂 梨 香
〃 加 納 知 枝
〃 前 田 斐 子
〃 山 口 綾 香
録
事 川 下 五十鈴
〃 田 村 かおり
〃 貞 方 香代子
管 理 員 中 野 祐 士
No.169 とびうめ 冬号
23
横綱日馬富士関 ①
念願の九州場所優勝
太宰府天満宮紫藤館に宿舎を構え、九州場所へ向け
て日 頃よ り 稽 古 を 積み 重ねてき た 伊 勢ヶ濱 部 屋 力 士
達が、とても 素 晴 らしい活 躍 を 見せてくれまし た。千
秋 楽 、横 綱 日
馬 富 士 関は 横
綱 白 鵬 関 との
十 四 勝一敗 同
士の横 綱 決 戦
を 寄 り 切 りで
見 事 破 り 、六
度 目の優 勝 を
飾りました。
横綱日馬富士関の優勝を祝し、参道では祝賀パレー
ドを行い、多くの皆様と一緒に優勝を祝い、
この喜びを
分かち合いました。その後、余香殿にて「伊勢ヶ濱部屋
千 秋 楽 打 上 げ 式 」を 開 催し 、力 士 とファンとの交 流 を
深める事が出来ました。安美錦関・宝富士関・照ノ富士
関・誉 富 士
関 を 始め 他
の力士達も、
素 晴 ら しい
活 躍 を 見
せ 、充 実 し
た場所を終
える 事 が 出
来ました。
② 御神忌一一一一年大祭
平成二十五年十
一月 十一日 、御 祭 神
の菅原道真公がお
亡 く な りにな り一一
一一年 を 迎 えまし た。
この日、御神忌一一一
一年 大 祭 を 斎 行 し 、
祭 典では 十一時 十一
分よ り 西 高 辻 宮 司
が祝詞を奏上致し
まし た。良 き 年 を 迎
え、延寿王院前や天
神 広 場で は 菊 花 壇
を飾りました。
③ 秋の収穫祭
六月八日に豊作を祈願しながら田植えた稲を刈り、秋の恵みに感
謝する祭典「抜穂祭」を十月十二日に斎行致しました。神職、巫女を始
め、菅笠にもんぺ姿の氏子の皆様や子ども達も一緒に、元気に育った稲
穂を刈り取りました。収穫したお米は祭典等でお供え致します。
一月
主な行事予定
一 日 歳旦祭
四 日 斧始祭
七 日 追儺祭
(鬼すべ・うそ替神事)
十三日 成人祭
二十五日 初天神祭
二月
三 日 節分厄よけ大祭
二十四日 飛梅講社大祭
二十五日 梅花祭並びに
飛梅講社大祭
三月
二 日 曲水の宴
十二日 天開稲荷社初午祭
二十五日 春季大祭
☆『飛梅』定期購読のお知らせ
○定期購読料 一
年分 千五百円
年四回発行(消費税・送料込み)
○ お 申 し 込み・お 問 合せ 先 は 左 記
までご連絡下さい。
飛 梅 第一六九号
発行日 平成二十六年一月一日
発行所 太宰府天満宮社務所
福岡県太宰府市宰府四‐七‐一
電話(〇九二)九二二‐八二二五
発行人 西 高 辻 信
良
編集員 八坂 宣匡・松尾 太輔
真木 智也・出光 公朝
石川 史嗣
印刷所 株式会社 四ヶ所
24
とびうめ 冬号 No.169