JR上野 駅 中 央 改 札 は、夏の 熱 気 と 人いきれでむせ返るようだった。 TOKYO IKAI 路線の先へ、 人は駅から行く 橋駅と共に) 。赤帽や駅売店、駅弁など もここが最初だ。今年は開業130年。 いま新たな節目を迎えている。 現 在の駅 舎 は 関 東 大 震 災 か ら 復 興 し た1932年 建 設 の 代 目 だ。 先 の 大 s r e h t o r B l u o S J 広がり、戦 争 孤 児が溢れ、混 沌 とした の帰還などでも利用。駅 前には闇 市が どの買い出し、疎開 児 童の復 帰や兵 隊 われた。戦 後になると、行 商や闇 米 な り、出 征や遺 骨の出迎 えとしてもつか 時下では東北への学 童疎開の起点とな 戦の戦 災では焼 け ず、いまに 残 る。戦 2 天 井 が 高 く、広々としたスペースで あるのだが、それでも足 早に通 り 過 ぎ たいく らい、気 ぜわしい喧 噪 がこだま している。 ポ ケモンのスタンプラ リ ー のゴールに親子連れが並ぶ。ディズニー 族が地べたに 座 り 込んでいる。鉄 道 写 人が待ち合わ 人が通り過ぎていくのだ。 上 野 ― 熊 谷 間 をつ な い だ 日 本 初 の 私 鉄 JRの他 駅 とは 成 り 立 ち が 異 なるの が上野駅の歴史だ。開業は1883年。 点でもある。岩 手県 出身の石川啄 木が の起 点駅として始 まり、鉄 道運 輸の原 明 治 期に〈ふるさ との訛 なつかし 停 車 場 の 人 ごみの 中 に そ を 聴 き に ゆ く〉と歌った通り、「北国への玄関口」 「こ こ ろ の 駅 」 と し て 特 有 の 想 いで 語 ら れ 1900年に設置されたのも上野駅(新 てきた。ちなみに日本 初の公 衆 電 話が 上野駅 第7回 ラ ン ド 帰 り で 多 く の 土 産 袋 を もっ た 家 真 を 撮 ろ う とお じ さん 」のタオル の ホ ーム を 万人以上 入ったレジャースポットで も あ る。 おびただ 18 ( 2012年統計) 。一日中 夥 しい数の 日の利用 者は、乗 客だけで 1 年 開 業 ) な ど の ショッ プ や 飲 食 店 の や駅 構 内のエキュート上野( 2010 有 し、 ア ト レ 上 野( 2002年 開 業 ) 面への新 幹 線が発 着 する 上野駅は現在、山手線、京浜東北線、 高崎 線、常磐 線などの在来線と東北方 で食べている子供がいる。 をかけた女子の団 体が通る。弁 当を床 せ。 「三代目 3 21 都市のそこかしこには、 「異界」ともいうべき場所がパカリと口を開けている。僕らはそこを歩き、 通り過ぎる時、 ふと気付く。その独特の空気を。そのような、 東京近郊の 「異界」 を訪ねるこの連載。 今回は、東京都台東区の上野駅を取り上げる。夏の終わりの上野駅。多くの利用者が行き交うこ のマンモス駅にしばし留まり、ほうぼうを歩いて時間を過ごした。異界にいる感覚があった。 山辺健史(ルポライター)×新納 翔(写真家) 写真/新納 翔 1982年横浜生まれ。写真家。日本の三大スラム 街といわれた山谷で、実際に働きながら撮影を続 けて 約 七 年。写 真 集 に『Another Side』 (Libro Arte) 等がある。国内外で展覧会多数。ホームペー ジ http://nerorism.rojo.jp Niiro Sho タマジン| 34 雰囲気だった。 「鉄道と街・上野駅」 (大 正出版)には「上野駅地下道は浮 浪 者 /荒井英一) に「仕 事あるよ」と肉体 労 働を勧めて 車で流し、所 在なげに座る若めの男 性 の溜まり場となり、真黒な垢だらけで、 野 を 知 る 人 か ら この よ う な 思 い 出 話 も いた。マッチ が 描 か れ たオレンジの 派 在。スキンヘッドの彼 は駅 周 辺 を 自 転 聞いた。 「駅の周りには戦後、手や足の 手 な シ ャ ツ の 老 年 の「 新 人 」 に、 「今 上野 駅の異 界 は、しのばず口にあっ た。ここではいま だに「 手 配 師 」が 健 ない傷 痍 軍 人 がいて、アコーディオン 日のところはあんたは見学だからよー、 眼 ば か り 光 ら せ ボ ロ を 纏った 浮 浪 児 た とか を 弾いていたよ。異 様 な 空 気 だっ これでしまいだ。帰ってしっかり寝て、 ちが構 内 を動 き廻った」との記 述。上 たな」 者が主に上野駅から集 まった。高 度 経 の南 千 住にある寄せ場・山 谷へも 労 働 しばさせていた。 せている。 新 人 は 手 ぶらで、眼 をし ば 明 日 は ここに 集 合 な 」 と 先 輩 風 を 吹 か 上 野 駅 に は 昔 か ら 労 働 力の中 継 地 点 という 側 面 もあった。常 磐 線で 駅 先 済 成 長 期 の1954年 に は 集 団 就 職 列 あ る。 ア ベ ノ ミ ク ス も な ん の そ の と、 点 在 す る 腰 高の 台 に 点々と 人 だ か り が 夕 刻。パンダ橋口近くにも独 特の風 景 が 広 がる。上野 公園への通 路の上に 車が運行、 「金の卵」といわれた東北か 上 野 駅 近 く にい た 秋 田 県 出 身 の 代 ホームレス男性はこういっていた。 「中 買った酒を立ち飲みしているのだった。 して、安 く 飲 み たい人 達 がコンビニで らの労働力を運んだ。 学 を 卒 業 後 す ぐ に こ こ に 降 り 立っ た ん ゲイのハッテン場 として噂の 番 線 ホ ー ム の 男 子 ト イ レ に は 何 度 も 行 って 蝉 しぐれの中、台 をテーブル代 わりに だ。その時の不 安 と、初 めて来 た東 京 みた。が、警 備 員 が 人が乗 り 込み、寝 台に腰 を下ろす。そ 様子で帰 省する家族連れなど。多 くの の み。 し か し、 そ の 脇 の ホ ー ム に は、 の頃、先頭車輛では列 車を撮 影する鉄 人 常 駐 し ている まって きて、アメ 横で 桃 や 海 苔 を 買っ 夜 行 寝 台 列 車 の た めに 来 た 様 々な 人 が 道ファンの姿。中には盲 目の少 年 が 嬉 音 をずっと録る青 年。胸の谷 間が ざっ ベルが 鳴 り、ドアが閉 まる。北 斗 星 は 実 に ゆ っ く り と 遠 ざ か っ て い っ た。 Yamabe Takeshi である上野駅は忘れられないよ。当時、 月の帰省時期は東京中の田舎者が集 駅は毎日す ごく 混んでてさ。お盆や正 て 故 郷へ帰 る ん だ 」 と ビ ー ル 片 手 にニ いた。 く り 開 い たワ ン ピースで 着 飾 る お ネエ 線 路 の 先 に あ る も の は い つ の 時 代 も、 親 は彼のために、盛んに写 真 を 撮って たたず カッ と 笑 う。 就 職 列 車 は1975年 の 番 線で運 行。現 在、その番 しそ うに 佇んでいて、その横で彼の母 廃 止 まで いた。 さんとその腰に手 を回す 男。敬語で話 1976年東京浅草生まれ。日本映画学校卒。東京、 江戸、映画・演劇・マンガなどのテーマが専門のル ポライター。著書に 『マンガ世界の歩き方』 (岩波ジュ ニア新書)など。介護の分野も積極的に執筆。 13 見 る父 親。発 車のアナウンスとベルの 2 。母と息子だ 時 分発の「北斗星」 け 乗 車 し、ホームでじっとその様 子 を 線はもうなく、欠番となっている。 〈どこかに故郷の香りをのせて 入る列 車 の なつか し さ 上 野 は 俺 ら の 心 の 駅 だ く じ け ち ゃ な ら ない 人 生 が あ の 日ここから始まった〉 03 人の心を惹きつける何かだ。 19 し合 う 中 学 生とおばさん。くたくたの 取材・文/山辺健史 4 50 「あゝ上野駅」 ( 作詞 /関口義 明 作 曲 35 |タマジン| '13 秋号 18
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