相模湾からの海風進入過程 - 日本大学文理学部

日本大学文理学部自然科学研究所研究紀要
No.49(2014)pp.45−55
相模湾からの海風進入過程
工藤 嘉晃*・加藤 央之**
The Process of the Penetration of Sea-breeze from the Sagami Bay
Yoshiaki KUDO * and Hisashi KATO **
(Accepted November 16, 2013)
In this study, we clarified the feature of the meteorological field under the sea-breeze intrusion from Sagami bay by
statistical analysis using JMA data and a series of observation in summer. In the statistical analysis, we specify the arriving time of sea-breeze front for each site. In Tsujido, seashore site, it is approximately 09:00. And then, the front arrives
Saitama, inland site, by around 14:00. From our observation, we investigate a variation of the arriving time of the seabreeze front in each site thorough the case study. We classified the three stages for the land and sea breeze, i.e., “landbreeze”, “calm and transition period”, “sea-breeze”. By this classification, we clarified the characteristic of the meteorological field for the transit from “land-breeze” to “sea-breeze”. We investigate the intrusion of sea-breeze front in relation
to areal air temperature distribution in west side of the Kanto region.
Keywords : Sagami bay, sea-breeze, sea-breeze front, calm, stationary measurement
Ⅰ.はじめに
関する体系的な記述がなされた.しかし,海風の進入時
海陸風循環は全国各地でみられるが,地域固有の地形
の微細な気象場の変化を捉える際,従来の研究の解析
によってその様子が大きく異なる.そのため数多くの先
データでは時空間スケールの分解能が必ずしも十分では
行研究が存在し,それぞれの地域について海風に伴う特
ないと考えられる.特に,「海風前線」の通過は瞬間的
有の気象場が明らかにされている.さらに,近年では,
であり,木幡(2009)や薬師寺(2011)では,定点観測
ヒートアイランド(大和ほか 2011)や大気汚染(栗田ほ
による 1 分値データを用いて解析を行っている.また海
か 1987)
,都市型集中豪雨などと関連して論じられるこ
陸風循環の日変化の中で,堀口ほか(2004)は陸風と海
とも多い.また,海陸風循環のメカニズムについては,
風の交代時に訪れる「凪」についての概念的な記述をし
例えば Simpson(1994)に詳しくまとめられている.
ているが,この現象に着目した研究はあまり見られな
関東平野における海風について吉門(1976)は,鹿島
い.
そこで本研究では,過去 19 年間における気象データ
灘からの海風,東京湾からの海風,相模湾からの海風,
九十九里浜からの海風に大別することができるとしてい
の統計から,相模平野において海風発生日の気象場の特
る.栗田ほか(1987)では,これら関東平野全域を含め
性を明らかにする.一方で,相模平野において 2 ヶ月に
た熱循環系である広域海風と,中部山地を中心とした山
わたって複数地点で定点観測を行い,より詳細な海風の
岳地域に発生する熱的低気圧の影響が複合的に作用し,
特徴を捉える.これらにより,相模湾系の海陸風循環の
関東地方における風の大規模循環が存在すると指摘され
特徴を従来よりも時空間的に細かく解明するとともに,
ている.また,相模湾からの海風については,藤部・浅
陸風と海風が入れ替わる「凪」および「海風前線」の挙動
井(1984)が夏季に数日間の観測を行っており,海風に
に関する気象場の特徴について明らかにする.
*
日本大学文理学部地理学教室 :
〒 156−8550 東京都世田谷区桜上水 3−25−40
*
Department of Geography, College of Humanities and Sciences, Nihon
University: 3−25−40 Sakurajosui, Setagaya−ku, Tokyo, 156−8550 Japan
─ 45 ─
( 1 )
工藤 嘉晃・加藤 央之
Ⅱ -2.バックグラウンドデータ
Ⅱ.観測の概要および使用データ
本研究では,観測期間におけるバックグラウンド気象
Ⅱ -1.観測地域 , 期間及び方法
特性を把握するために上述の観測結果のほかに,気象庁
本研究では神奈川県を対象地域とした.図 1 に観測地
気象官署および AMeDAS データのほか,地上天気図,
点の位置を示す.海風が内陸へと進入する様子をとらえ
高層天気図,気象衛星画像,ウィンドプロファイラ,海
るために,県中央部をほぼ南北に走る相模川に沿う形で
水温データを使用した.さらに過去の統計から海風の特
観測側線を定め,観測地点 3 地点を設置した.a 地点は
性を明らかにするために,気象官署および AMeDAS・
平塚市立港小学校(東経 139°36′
,北緯 35°32′
)
,b 地点
海水温については 1992 年 1 月∼ 2010 年 12 月のデータを
は座間市立座間小学校(東経 139°39′
,北緯 35°48′
)
,c
使用した.解析に用いた気象官署および AMeDAS の使
地点は相模原市立小山小学校(東経 139°35,北緯 35°
用地点(黒丸)を図 3 に示す.
59′
)である.相模湾の海岸線は東西に伸びているため,
観測側線はこれとほぼ垂直に設けており,a 地点から c
Ⅲ.結果と考察
地点間の距離はおよそ 30km である.
Ⅲ -1.過去の統計からみた海風の特徴
観測は 2012 年の,海風の発生が期待される時期に 2 期
ここでは,観測データの中で最も海風の特性が現れて
に分けて実施した.1 期は 2012 年 5 月 19 日∼ 6 月 3 日,2
いた 7・8 月の解析結果を中心に解析を進めた.なお,
期は 7 月 24 日∼ 8 月 23 日である.
観測対象期間とした 5 月の結果については,観測事例数
本研究では,Onset 社 HOBO ウェザーステーション
(図 2)により,気温,風向・風速のデータを測定した.
が不十分であったため,参考として利用するにとどめ今
回は記載しなかった.
この測器は自動的に連続データを収集できる気象観測装
置であり,観測間隔は 1 分間隔とした.
まず関東平野で見られる海風の一般的な傾向をつかむ
ために,過去 19 年間の気象官署および AMeDAS のデー
観測にあたっては,海風進入に伴う気温,風向・風速
タから,統計的な海風の解析を行った.
の細かな変化に着目するため,観測機器の設置場所は,
周囲の環境に注意を払って選定した.ウェザーステー
ションは港小学校(a 地点)
・座間小学校(b 地点)・小山
小学校(c 地点)の屋上に設置し,台風などの強風を考
慮して足場を補強し,さらに胴体部を屋上の鉄柵にロー
プで固定した(図 2)
.なお,周囲に障害物となるような
高い建物がないことを確認した.ウェザーステーション
の風向・風速の精度は公証 0.2m/s である.
図 1 観測地点
(○:ウェザーステーション,●:AMeDAS・気象官署)
( 2 )
図 2 座間小学校屋上に設置したウェザーステーション
─ 46 ─
相模湾からの海風進入過程
時の時別風向の頻度分布を見たときに,顕著な日変化を
示す方向成分のうち,海風の軸となる卓越風向である.
基準風向は内陸の地点ほど幅が大きくなっているが,こ
れは八王子やさいたまなど海風の影響が小さい内陸の地
点では,日中の風向のばらつきが大きいことと,日に
よっては相模湾系と併せて東京湾系の海風の影響を受け
ていることが原因として考えられる.抽出条件として指
定した時間帯が地点によって異なるのは,南系の風が段
階的に内陸へ進入していく現象に対応するためである.
上記の条件で 1992 ∼ 2010 年の 8 月の海風日総数は 68
日であり,平均して 1 ヶ月のうち 3 ∼ 4 日海風が発生す
るということになる.
図 3 バックグラウンドデータ地点(40 地点)
Ⅲ -1-2.相模湾の海水温
(○:気象官署,●:AMeDAS)
気象庁発表の月平均海水温平年値によれば,1981 年か
ら 2010 年までの 30 年平均値で,8 月の相模湾付近の海水
温はおよそ 27℃である.海水温は年によって変動する
Ⅲ -1-1.海風日の定義と頻度
本研究で定義した相模平野における海陸風の抽出の条
が,相模湾での変動幅はおよそ± 1℃である.また,海
件を表 1 に示す.すべての地点でこれらの条件を満たす
水温の日較差は非常に小さいので,1 日を通して値はほ
日を海風日として判断し,以降はこの条件により抽出さ
ぼ一定であると仮定できる.よって,以下の解析で参照
れた事例日を海風日と呼ぶ.これらの地点は,相模湾か
する海水温は 27℃として扱う.
らの海風の進入過程で通過する地点と考えられることか
ら選定した.海老名から内陸部 4 地点では日中に連続的
Ⅲ -1-3.海風日における風の特性
(1)関東平野の風の特性
な南系の風の存在を条件とし,これにより海風日を抽出
している.また,本研究では,陸風と海風の交代時の気
今回定めた海風の事例日に,関東平野の風系場がどう
象場を解析することも目的の一つである.よって日中の
対応するかを調べた.関東平野の海陸風循環は鹿島灘か
海風に加えて,夜間に陸風が発生している事例を抽出す
らの海風と,東京湾からの海風,相模湾からの海風,
ることができる条件が必要であるため,最も沿岸部の辻
九十九里浜からの海風に大別できる.
(吉門 1976).栗
堂で早朝に南系の風が入らないという条件を付加した.
田ら(1987)では,これらの海風は時間とともに内陸へ
これにより 1 日を通して南風である事例を除外できるた
と進行し,関東の北西部へと収束していくが,この過程
め,特に総観場の影響の強い事例を取り除くことができ
で中部山脈に中心を持つ熱的な低気圧の影響も受け発達
る.また,ここで用いた基準風向については,海風発生
するとされている.今回抽出した海風日について風系場
の日変化の解析を行なったところ同様の傾向を示す結果
が得られた.表 2 に辻堂,海老名,府中,さいたまにお
表 1 海風抽出の条件
アメダス
地点
ける海風日の風向の時間別頻度を示した.これらの結果
基準風向
(16 方位)
抽出条件
辻堂
SE ∼ SW
04 ∼ 06 時に基準風向以外の
風向を連続して観測
海老名
SE ∼ SW
11 ∼ 18 時に基準風向を
連続して観測
受け,東から南東系の風向が卓越する事例があることが
府中
E ∼ SSW
13 ∼ 18 時に基準風向を
連続して観測
刻には群馬県でも特定の卓越風向が見られることが確認
八王子
E ∼ SSW
14 ∼ 18 時に基準風向を
連続して観測
域で海風が発生する可能性の高い気象場であったと推測
さいたま
E ∼W
14 ∼ 18 時に基準風向を
連続して観測
によれば日中の特定の卓越風向の開始時刻は,内陸へ行
くに従い遅れる傾向にある.また,茨城県の AMeDAS
データでは日中は鹿島灘から入り込む海風による影響を
わかった(図略).同時に内陸地点のデータからは,夕
された.これらより今回抽出した海風日は,関東平野全
される.
─ 47 ─
( 3 )
工藤 嘉晃・加藤 央之
(2)相模湾からの海風時の気象特性
表 2 によれば,海風条件の設定に用いたどの地点も夜
間は南系以外の風,または無風の頻度が高く,日中は南
系の風が卓越している.つまり,夜間は陸風,日中は海
風が卓越するという日変化が明らかである.日中の卓越
風向への推移は沿岸部から内陸へと時間的に遅れがみら
れ,抽出された海風日において海風が内陸へと進入して
いく特徴が捉えられている.また,府中・さいたまでは,
午前中に東京湾系の海風(東系の風)流入がみられ,時
間の経過とともに相模湾系の海風の進行によって風系場
が支配されていく特徴があることがわかった.
海風日における気温分布の変化について図 4 に示し
た.これは関東平野各地点において,海風日全体(68 日)
で平均した気温を時刻別に分布図として表したものであ
る.海水温(27℃)を基準として,赤青色の偏差も示し
ている.午前 6 時には,陸上は海水温より低い領域が広
がり,内陸に比べ沿岸部の方が気温は高くなっている.
午前 9 時には,陸上は海水温より高い領域が見られる.
正午には,沿岸部と内陸の気温勾配が反転し,東京と埼
玉の境付近に高温域が見られる.午後 15 時には,内陸
の高温域がさらに強化され,ピークを迎える.またこの
時,関東平野東部でも沿岸部から内陸にかけて気温が上
昇している.これは鹿島灘系の海風も同時に発生してい
る可能性を示している.その後,内陸と海岸の温度勾配
は残るものの強度は衰退し,時間とともに高温域は消滅
する.
この日変化の中で,辻堂は 1 日を通して他の地点に比
べ,比較的気温の変化が小さい.このことから,辻堂は
海風の冷却効果を強く受けていると推測される.同様に
内陸でも海風が通過した地点の気温の上昇は抑えられる
ので,気温の上昇が緩む傾向がみられる.しかし,海岸
から離れた地点では海風の進入した後も気温が上昇して
いることから,海風自体が吹走する過程で受ける加熱の
効果によって,海風による冷却効果を弱めている可能性
があると推測される.
図 5 は辻堂・海老名・府中・八王子・さいたまについ
て,図 4 と同じ気温データを時間変化のグラフにしたも
のである.赤い実線で示した海水温に対し,夜間ではそ
れ以下,日中はそれ以上となるように気温が変化してい
る.この図において,日中の気温上昇が頭打ちとなって
いる時刻が沿岸部ほど早いことがわかる.これは海風の
進入によるもの,すなわち海風日に特有の気温変化であ
ると推測される.この点に着目し,この海風日の気温
データから,過去全期間(19 年間)の 8 月の時刻別平均
気温を引いた偏差を図 6 に示す.各地点ともに夜間の偏
( 4 )
─ 48 ─
表 2 海風事例日(68 日)の時刻別風向頻度分布.
(a) 辻堂,(b) 海老名,(c) 府中,(d) さいたま
表中の 0 は無風を示す
相模湾からの海風進入過程
図 4 海風日における時刻別の平均気温分布図(06~15 時)
図 5 海風日の対象地点における時刻別平均気温
図 6 海風日と全期間の時刻別平均気温偏差
赤線:海水温(27℃)
─ 49 ─
( 5 )
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差は 0 に近いが,日の出後に増加している.その後は沿
岸部に近い地点から上昇が停滞する(偏差の増加が抑え
られる).上昇が止まる時刻はそれぞれ辻堂で 9 時,海
老名で 11 時,府中・八王子で 13 時,さいたまで 14 時で
ある.この時刻は前述の日中の卓越風向への推移が生じ
る時刻とほぼ一致する.つまり,この時刻に海風が通過
しやすく,海風由来の冷気流による冷却効果が見られや
すい時刻であるということが言える.言い換えれば,海
風進入の最前部である「海風前線」が,最も通過しやす
い時刻であると考えられる.またこの図より,海風は相
対的に温度の高い日に生じやすいが,海風の進入によっ
て最高気温の上昇は抑えられるということがわかる.
Ⅲ -2.観測を通じた海風の解析
図 7 2012 年 7 月 27 日午前 09 時の地上天気図
Ⅲ -2-1.観測期間の海水温
Ⅲ -1-2 では統計的に見た相模湾の海水温について言及
した.同様に,今夏観測における海風事例日について海
水温を調査したところ,ほぼ平年値に近い値であった.
風になる.その後,風向に変化が現れ,風速,気温も増
これより観測期間においても海水温はほぼ 27℃で一定
加する.さらにそのあと,風向が南系で一定となると気
であると考えられる.
温の上昇が止まる.風速はその後も増加し,15 時頃に
ピークを迎え衰退する.
以上の観測結果より,7 月 27 日の気象場の特徴をまと
Ⅲ -2-2. 観測結果
本年の夏の観測によって得られたデータのうち,最も
めると以下のようになる.夜間の冷え込み,弱風または
海風日としての挙動をよくあらわしていた 4 例(7 月 27
北よりの風があった事から,対象領域では放射冷却が発
日,8 月 10 日 ,8 月 11 日,8 月 24 日)の事例解析を行った.
生し,陸風が吹走したと考えられる.この陸風は,日の
なお,この 4 例ではⅢ -1-1 で示した海風日の定義を,辻
出後に気温が上昇するとまず沿岸部で衰退し,その後は
堂のみ満たしていなかったが,後述のとおり,どの事例
海風による南風が進入したと考えられる.陸風が衰退す
日も夜間の陸風が確認されたことより,解析に十分利用
る時,3 地点とも風速が減少しており,これは後述する
できると判断して抽出した.ここでは代表として 7 月 27
「凪」であったと考えられる.内陸部(たとえば b 地点)
日の事例を示す.7月27日の午前9時の地上天気図(図7)
では,海風が到達するまでの間,下層の大気境界層の発
からわかるように,関東平野は西方の本州南方に張り出
達によって風速は増加すると推測できる.海風進入後は
した北太平洋高気圧に広く覆われている状況である.ま
その冷却効果により,気温が低下したと考えられ,気温
た高層天気図から,関東上空が弱風域に覆われ,舘野に
のピークをすぎた数時間後,海風は衰退し風速は弱化し
おける風データは西南西の風 3m/s であった.なお,同
たと考えられる.
なお,a 地点の夜間において,無風に近い時に風向が
日のアメダスデータによれば,日中の関東平野に降水は
なく,快晴であった.図 8 に同日の気象観測結果を示す.
大きくばらついているが,これは風が弱かったため,風
向が定まらなかったと考えられる.一方,b 地点におい
【沿岸部:a 地点】
04 時半頃(日の出前)までは気温の低下が見られ,風
て 8 時すぎから,風速が増加しているにもかかわらず,
速は非常に小さい.日の出後は一旦気温が上昇するが,
風向のばらつきが確認できる.この時,測器の設置状況
すぐに横ばいになる.この頃から風向は南よりとなり,
に問題があったとは考えにくいので,何らかの風向を乱
風速は増加する.この傾向は昼過ぎまで続き,13 時頃風
す原因があったと推測される.これについては,後の
「凪・遷移帯」で詳しく検討する.また,気温変化の中で,
速のピークを迎えてその後減衰する.
日中に細かな振動のような変化が見られるが,これは日
【内陸部:b・c 地点】
夜間は気温の低下が見られ,風は弱い北系である.日
射による地表と空気の加熱に呼応して,その時の風速変
の出後は気温が上昇するが,8 時頃に両地点ともほぼ無
動が関係していると考えられ,風速が大きいほど気温は
( 6 )
─ 50 ─
相模湾からの海風進入過程
低下する傾向が見られる.
他の事例日について同様に解析を行ったが,これらも
7 月 27 日同様,夜間に陸風が観測され,ほぼ晴天弱風で
あった.とくに 8 月 10 日の例では,7 月 27 日よりも夜間
の冷え込みが強く,海風の進入が遅かった.一方で 8 月
11 日は,沿岸部のみ 1 日中南風だった.この日の夜間,
内陸では陸風が見られた事から,夜間は海からの一般風
(南風)の影響範囲が沿岸部に限定されていたと推測で
き,この風は陸風の上を流れていた可能性が考えられ
た.日中の大気の挙動はおよそ7月27日と同じであった.
しかし,8 月 10・11 日は海風の風速が比較的強かったが,
これは日中の上空の風(850hPa)が比較的大きかった
(5m/s)ことと関連していると考えられた.逆に 7 月 27
日と 8 月 23 日は地上風が弱く,上空の風も弱かった.ま
た,この 2 例では明瞭な「凪」が確認でき,「凪」は内陸
部ではほぼ同時に発生している可能性が示された.
Ⅲ -2-3.海風日における気象場のまとめ
気温,風向・風速の 3 つの要素から,「海風日の日変
化は 3 つの時間帯に分けられる」ことがわかった.これ
は,4 つの事例日全てに共通する分類である.図 8 に示
した Ⅰ ∼ Ⅲ はそれぞれ,
「陸風帯」
,
「凪・遷移帯」,「海
風帯」のステージと対応しており,これらに認められる
特徴を以下に記述する.
(1)陸風帯
「陸風帯」はすべての気象観測地点において確認でき,
この時間帯の風速は非常に小さく,大きさはおよそ 0 ∼
1m/s である.風向はおよそ陸から海へと向かう北から
の風となっている.夜間の気温は,27℃を下回ることか
ら,内陸と海との気圧差により,陸風が励起されている
と考えられる.この弱風域は時間とともに北から南へと
移動しており,陸風が海岸部へ範囲を拡げている様子も
わかる.この時放射冷却が起きて接地逆転層が成長して
いると推測される.陸風は,日の出後数時間で消滅する.
日の出後の昇温によって,陸風を励起する気圧傾度が消
滅したためであると考えられる.気温上昇が陸風の消滅
に先行していることから,陸風は慣性的に残っていたと
推測される.また,陸風の消滅は沿岸部から始まる.内
図 8 7 月 27 日の気象観測データ
a:港小学校,b:座間小学校,c:小山小学校
赤線:気温,青丸:風向,緑線:風速 Ⅰ:陸風帯,Ⅱ:凪・遷移帯,Ⅲ:海風帯 陸部の方が陸風が持続しやすいことは,沿岸部では夜間
の最低気温が内陸に比べて相対的に高く,地上気温が海
水温よりも高くなる時刻が早いことによるものと考えら
る.内陸部で十分な陸風が確認される事例(7 月 27 日・
8 月 10 日)では,気温上昇が始まってから陸風の消滅に
要する時間は約 1 時間であり,風速は徐々に減少し,ほ
─ 51 ─
( 7 )
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ぼ無風へ近づくことがわかる.また,内陸部での消滅の
る.しかし,山風の及ぼす影響力は海風のそれに比して
時刻は 1 日の中で気温上昇が最も著しく,全域で 27℃を
弱く,日々の地上気温の局所的な分布の仕方にも左右さ
超える時間帯であり,陸風は広範囲で同時的に消滅する
れると考えられる.また,一般風の影響が下層に見られ
と考えられる.実際に陸風の消滅は b・c 地点でほぼ同
るような事例であれば,この時間帯の風向は一般風の風
時に起きていることが確認できた.
向と大きく関係すると考えられ,7 月 27 日の b 地点の風
なお,陸風の発生やその強さは地上気温の絶対値や上
向が西向きである事の要因の一つとして考えられる.
空の風速と関係があると考えられる.夜間の気温の低下
「凪・遷移帯」における風向のばらつきは時間とともに
が大きいほど地表面温度と海水温との差は大きくなり,
一方向に収束する傾向があり,収束する方向は,海風の
陸風の発達を促進するように作用する.また,気温が低
卓越風向(南系)とほぼ一致していることがわかった.
260
いほど接地逆転層が発達するので,上空の風の影響も小
地点 1( 南向き斜面 )
さくなると期待される.しかし,この時上空の風が強け
(3)海風帯
れば,下層に及ぼす影響も大きくなるので,両者の関係
「海風帯」は,沿岸部では「陸風帯」の後,内陸部では
は同時に考慮するべきである.一例として,沿岸部では
240
「凪・遷移帯」の後に現れ,海から陸へ向かう南系の風
陸風が確認できない事例があった(8 月 11 日)が,これ
が卓越する.また,この交代が起きるとき,気温・風向・
250
230
は上空の南系の一般風が強かったことと関係していると
標高 (m)
風速ともに不連続となる.この瞬間がその地点における
「海風前線」の通過に相当するものと考えられる.今回
考えられる.
220
の観測データから,この海風前線の特徴は沿岸部と内陸
部とで大きく異なることがわかった.
(2)凪・遷移帯
210
まず沿岸部について,先に述べたように a 地点では
「凪・遷移帯」は,
「陸風帯」の消滅後に内陸で見られ,
海風が進入するまで持続する.よって,海風到達の遅い
「凪・遷移帯」が見られなかった.このことより沿岸部
内陸ほどこの時間帯は長く持続する.なお,この「凪・
においては,陸風消滅と海風進入はほぼ同時に起きてい
遷移帯」は沿岸部の
a 地点ではすべての事例で見られな
190
リレンカレン
ると考えられる.この入れ替わりの時刻は,地上気温の
リップル状カレン
い.よって以下で記す特徴は b・c 地点におけるもので
昇温と関係していると考えられることは先に述べた通り
ある.
であり,陸上と海上の気圧差が逆転し,海上が相対的に
200
180
0
50
100
150
200
「陸風帯」と「凪・遷移帯」の境界の時刻には,風速が
< 凡例 >
○
●
◇
ルンドカレン
+ リップル状カレン
◆
ルンドカレン
250
300
350
400
450
高圧となるとき,海風の進入が始まる.なお,海風進入
各カレンの高さ (cm)
無風または無風に近くなる「凪」が見られることがわ
の前に,陸風の広がりが十分に期待される日において
かった.それまで吹いていた北系の風から,別の風系場
は,沿岸部まで達した陸風は海岸線を越え,海上にまで
へと変化する.この別の風系場が「遷移帯」である.こ
達していると考えられる.さらに,海風進入時の境界(海
260
の時間帯は,陸風や海風などの風系の関与を受けない時
間帯であるため,局所的な気象場の影響によっても挙動
風前線)が沿岸部でも捉えられる事から,その境界はは
地点 2(北西向き斜面)
じめに海上にあった可能性があると推察される.この特
250
が大きく左右されると考えられる.風速は増加する傾向
徴については,さらに小スケールであるが
Kato et al.
< 凡例 >
にあり,風向のばらつきが大きいことが特徴である.な
リップル状カレン
(1981)が洞爺湖の湖陸風の観測で同様に指摘している.
ルンドカレン + リップル状カレン
240
○
リレンカレン
●
◇
◆
ルンドカレン
海風の進入後は,気温の低下,ないしは気温上昇率の
お,遷移帯は地上気温が大きく上昇する時間帯であり,
地上付近では対流混合層が発達する.よって,風向や風
低下が見られる.これは海風前線通過の際の大きな特徴
速はこれの作用も大きく受けていると考えられる.また
である.しかし,通過の前(「凪・遷移帯」)にも気温上
この時,風向の乱れが観測できることから,一様ではな
220
昇率の低下は起きている.これは日射による気温の上昇
い乱れた風が吹いていることがわかる.この原因として
の一方で,風速の増加に伴い大気が攪拌されて混合が起
210
は,対流混合層の発達に伴い,上空の一般風の運動量を
こるため,気温が上がりにくくなると考えられる.海風
下方に輸送したことのほか,局地的な熱対流によって発
の進入後は,徐々に風速が大きくなっている.風速の
200
生した乱流などを捉えていた可能性も考えられる.しか
ピークの値や出現時刻はともにばらつきが大きく,様々
し,詳しく見ると,風向がばらつきながらも一定の方向
な要素が複合的に関係すると考えられる.内陸部では海
標高 (m)
230
190
を持ちやすい傾向にあることがわかった.これは,その
風進入の数時間後に風速のピークが現れる傾向が見られ
地点に特有の局所的な気圧傾度がある可能性を示唆して
た.気温が最も高くなるとされる 14 時すぎにピークを
いる.例えば,内陸部の地上付近の空気は山風のような
0
50
100
150
200
持つ日もあった事から,単純な内陸部と海との気温差以
250
300
350
400
450
180
外にも影響を及ぼす要因が存在すると考えられる.特に
プロセスの作用を受けているのではないかと推測され各カレンの高さ
(cm)
( 8 )
─ 52 ─
相模湾からの海風進入過程
沿岸部では,8 月 10 日・8 月 11 日の事例から日中の風速
は,一般風の影響を受けていることが考えられ,さらに,
海風の最盛期は中部地方の熱的低気圧の発達期とも重な
るため,これらの複合作用を受けている可能性が考えら
れる.また,最高気温について,埼玉よりも北部におけ
るアメダスで,15 時に観測された事例(7 月 27 日 ,8 月 23
日)が見られた.このとき他の地点(沿岸部付近)では
14 時よりも前に最高気温が観測されている.なお,大
和(2011)から海風の進入時には,関東平野の内陸部で
は最高気温の観測される時刻が遅れやすいことがわかっ
図 9 7 月 27 日の観測領域における風系場の日変化
ており,今回の観測結果と類似している事から,海風進
入と最高気温の観測される時刻には何らかの関係がある
ことが示唆された.また,海風が卓越した日の風向は,
日の入後も南風で,0 時を過ぎても持続しやすく,陸風
の発達が抑制されやすい傾向があることがわかった.こ
のことから,海風は衰退しながらも残っていると考えら
れ,これは,広域的な海風が発達した時に見られる風循
環(栗田ほか 1988)と一致している.
Ⅲ -2-4.海風前線
Ⅲ -2-3 では海風について触れたが,本節では海風前線
についてより詳細に解析を行なった.図 9 は 2012 年 7 月
27 日における観測地点の風系場の日変化をまとめたも
のである.この図は,Ⅲ -2-3 で示した観測データおよび,
図 10 海風前線進入の様子(2012 年 7 月 27 日)
海老名のアメダスデータを元に作成した.図中の Ⅰ ∼ Ⅲ
図中の数字は前線の通過時刻
の記号は前述のものと同様である.この図においても,
夜間は陸風に覆われているが,日中は沿岸部から海風が
進行している様子がよく捉えられる.特に,沿岸部の海
風進入と内陸部の凪の時間的な関係がはっきりと表れ
た.また,この図中の実線は海風前線に相当し,その傾
きが「海風前線」の進入速度に対応する.観測地点数は
十分とは言えないが,時刻,あるいは海岸からの相対位
置によって,速度は変化していることがわかった.速度
が変化する原因としては,地表面の被覆状態の違い(木
幡 2008)やその日の地上気温の分布の仕方などが可能性
としてあげられる.
さらに,図 10 に同日の関東平野全体の海風進入の様
図 11 観測中の海風事例日における海風前線の挙動
(黒線 - 観測事例、灰色線 -AMeDAS データの統計に基づく)
子をまとめた.この事例日では,関東全域で気温変化や
風速変化から海風の進入が確認され,その前線部が内陸
へと進行していく様子が明瞭に現れ,夕刻には広域海風
へ発達したと推測される.なお,相模湾系の海風進入に
の海風前線をまとめて示したものである.また,図中の
よる気温低下は,埼玉県あたりまでで,それ以北では認
黒い実線は,Ⅲ -1-3 で示した統計に基づいて求められた,
められなかった.
海風が最も通過しやすい時刻を線で結んだもので,一般
また,「海風前線」について他の事例日についても同
様に検証した.図 11 はⅢ -2-3 で使用した,4 つの事例日
的な海風進入の時刻とみなせるものである.図 10 から,
黒い実線は,赤い実線を中心にばらついていることがわ
─ 53 ─
( 9 )
工藤 嘉晃・加藤 央之
かり,海風前線の進入の仕方の日々の異なりが表れてい
数十分から数時間の間に見られる風系場であることが示
る.このばらつきについて関東平野西部の気温分布との
され,統計解析に現れなかった短時間スケールかつ微小
関連を調べたところ,観測事例日では最低気温が低いほ
な風向・風速の振動など,細かな気象場の変化を捉える
ど海風進入開始時刻が遅く,最低気温が高いほど早いこ
ことができた.「陸風帯」および「海風帯」の結果は従来
とがわかった.
の研究とほぼ一致したが,観測により詳細な時空間変化
進入速度は一定の傾向は示せなかったが,総観場や
が示された.また,観測事例日に捉えられた「海風前線」
日々の地上気温分布の影響を受けていると考えられる.
の進入過程をまとめ,その進入時刻および進入速度と,
気温分布の日変化との関係を調べた.ここで,沿岸部で
Ⅳ.まとめと今後の課題
の進入時刻は関東平野西部の最低気温の水平分布パター
相模湾からの海風進入の特性を明らかにするために,
ンと関連すると推測された.また,進入速度については
過去の AMeDAS データを基にした統計解析と,2012 年
明確な関連が見いだせなかったが,上空の一般風や中部
7・8 月に行った観測データを基にした海風の事例解析を
山地の熱的低気圧等の影響を含む,様々な複合的要素が
行なった.
関係していると考えられた.さらに事例日における海風
相模平野を中心とした関東平野の気象場について統計
の冷却効果の北限は埼玉県であると推測された.
解析を行い,19 年間のデータ(8 月)の中で,相模平野で
今回の観測により,海風の様々な特徴が明らかにされ
海風進入が見られる事例日を 68 事例抽出した.これら
たが,海風の発生事例は年々で変動が見られることよ
事例日における気象場の変化の中で,気温,風向・風速
り,さらに継続的な観測を行うことで事例数を増やすと
には,各地点特有の日変化がみられ,特に陸風と海風の
ともに,年々の特性の比較を行っていくことが課題であ
境界・遷移時の気象場では,その地点の海からの距離に
る.また,季節別の海風の特徴の比較を行うことも重要
よって海風進入前後の風向変化や,風速の増加傾向が異
である.今回の観測は平面的な気象場の解析のみを行
なっていた.海風進入時にはその冷却効果が確認され
なっているので,これと合わせて,パイロットバルーン
た.また,気温の時間変化から「海風前線」が最も通過
等による鉛直方向の観測を行い,海風発生日における 3
しやすい時刻を地域別に見出した.さらに,本研究にお
次元的な気象場の日変化について検証していくことも今
ける海風事例日では,関東平野でも同様に海風が発達し
後の課題である.
やすく,広域海風が発生している可能性が示された.
一方,相模川沿いの南北方向の側線上で気象場の定点
観測を行い,海風前線の進入時の気象特性を明らかにし
た.今回の観測から海風発生日の気象場の日変化は沿岸
部と内陸部で大きく異なっていることがわかった.ま
た,気象場の日変化を「陸風帯」
,
「凪・遷移帯」
,
「海風帯」
の 3 つのステージに分類した.
「凪」は陸風の消滅ととも
に発生し,
「遷移帯」はその後「海風」が進入するまでに
( 10 )
謝辞
本研究を進めるにあたり,日本大学文理学部非常勤講師の
永野良紀氏,ならびに山梨県職員の小林政仁氏をはじめ,多
くの方から助言をいただきました.心から感謝致します.港
小学校,座間小学校,小山小学校の各学校関係の方々には
2012 年約 2 ヶ月にわたって,観測場所の提供して頂きました.
深く御礼申し上げます.
本論文は著者の一人である工藤嘉晃の平成 24 年度日本大
学文理学部地球システム科学科の卒業論文に加筆修正を行っ
たものである.
─ 54 ─
相模湾からの海風進入過程
参考文献
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