兄の 眠 る 国 山口 周行 東 部 ニューギ ニ ア 慰霊巡 拝 よ く - 多事放談

兄の眠る国
山口周行
東部ニューギニア慰霊巡拝
よくぞ戦って下さいました
まえがき
パプアニューギニア︵以下、PNG︶での長兄並びに幾多ご英霊への鎮魂慰霊の巡拝は、私に課せられた積年の
責務であり、宿望であると心に刻んでまいりました。
現在なら空路成田から九時間余−それにしても遠いですが−で、ポートモレスビーの空港に着きます。しかし、
私にとっては距離や所要時間の問題以上に、私を苛み続けてきたのは、祖国の平穏・無事と称栄を願って散華され
た尊いご英霊の深い思いの献身や行動に対し、昨今の余りに希薄な感謝の念の欠如、否、むしろ冒涜する数々の現
状を座視できないことでありました。
次代を担う子どもたちへの、あらゆる指導者の心の有り様から発する一挙手一投足は、かつての若者の純粋で崇
高な同胞愛、郷土愛や祖国愛、博愛の精神とは程遠い精神の貧困と荒廃をもたらしている日本の現状を御霊にどの
ように報告したらよいのかが、自分自身への心の重圧として、重くのしかかっているのが、今日までの私の心境で
あります。
もう十一年前になりますが、こんな思いを拙い私の賀詩に認めました。
この香しき秋津洲
かつてわれらの同胞は
国難鎮護の盾として
その肉叢︵ししむら︶を土塁とし
その魂を火と燃やし
殉じていった忠誠に
今報いるは幾人ぞ
静謐の世に感謝する
想いも新たな
年初め
次代を担う若者に
奮起を促す人いずこ
︵平成九年 元旦︶
そして、今日現在の香しい、わが愛する日本の現状は、如何でありましょうか。
一、 SY君からの質問
二年程前、三ヶ根通信のインターネットにSY君からアクセスがありました。
﹁私は高校二年生です。今、歴史の勉強で太平洋戦争を学んでいます。極東軍事裁判でA級戦犯という言葉をみ
て、これが今騒いでいる小泉首相の内容だと興味津々でいろいろ調べました。そして、中国はA級戦犯を祀る靖国
神社に日本の首相が参拝するのはおかしいという意味もわかりました。しかし、当時の裁判を行った責任者も、あ
の裁判はおかしいという事実が判ったのに何故、我々現代人はそれを大声で話さないのでしょうか。
南京大虐殺の内容も、調べれば調べるほど嘘ばかり︵中国発表の写真は、極寒の地で日本兵は夏服だったり︶と
わかってきているのに。
私たち若者には、納得いきません。生きている人間だけがいいかっこうすればよいのですか。先祖を売ってまで
も何が望みなのでしょうか。私たちは将来に自信が持てません。中国と戦争をした事実は事実でしょうが、日本だ
けは正しいルールに則って戦ったのに。ソビエトとの戦いは誰も何も言わないじゃないですか。勝ったからでしょ
うか?まして、韓国には助けるだけ助けて、なんで謝るのでしょうか。大人は皆、嘘つきで自分勝手です。このホ
ームページを教えてくれた祖母はもういません。もっともっとテレビや週刊誌を使っても真実を教えてください。
私たちは皆、真実を知れば必ず自信が持てると思います。よろしくお願いします。﹂
二、 私の回答
この質問に対しての回答を二・三人の人を経由して、御鉢が私のところに回ってきました。向学心や探究心旺盛
で純粋なSY君の質問であるだけに悩みましたが、自分なりに答えさせていただきました。
﹁戦勝国が敗戦国を一方的に裁いた裁判は、不勉強かも分りませんが、私は知りません。原爆投下は史上最大の
大量虐殺で、その最たるものです。祖国のために尽くして亡くなられたら、みんなご英霊です。神や仏として、丁
重に真心をこめてお参りするのが日本人なのです。
私の長兄は、戦後の日本で﹃ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア﹄と言われた地獄の戦
場、パプアニューギニアで戦死?餓死?病死?、生きたまま蛆がたかって亡くなっただろうと思われます。本当の
ことは全く分りません。心優しい、物静かな、頭のよい兄でした。そんな兄が南の果ての島を侵略に行く筈は絶対
にありません。親や兄弟姉妹、友だちなどのいる祖国を思い、異郷の地で散って、今も眠っているのにお参りに行
ってあげることもできません。貴君のように、物事を深く調べ、祖国の真実の歴史はどうなっているのか、かつて
の日本人はどういう人であったのか、これから日本の歴史を創っていく、現在の若者はどうあらなくてはならない
のかを真剣に考え、行動に移していかねばなりません。祖国を愛する心の欠落したどこの国が祖国なのか分らない
人たち?では困るのです。そんな人は日本人ではありません。
ここで、私は勉強家の貴君に宿題のプレゼントをあげましょう。それは、大東亜戦争での日本の敗戦の結果、欧
米の略奪と奴隷に苦しんでいたアジアの国々が、何か国独立することができたか調べてごらんなさい。日本のした
事が分かることでしょう。
﹂
三、 SY君からの礼状
﹁山口様、励ましのメール有難うございます。山口様のお兄様の立派な戦いが、今日の平和と幸せを日本に導い
てくれていると心の底から思います。ここしばらくの間、とにかく歴史を私なりに調べたり聞いたりしてみました。
ほとんどの大人たちは何も知りませんでした。
東京裁判のA・B・Cの意味を正式に答えられたのは三十人中二人でした。また、原爆を落としたのは日本人が
あまりにも言うことを聞かなかったからなどと、私たち高校生を馬鹿にした発言をする大人たちもいました。講和
条約を何も知らない偽平和な大人たちばかり。
しかし、私の学校の卒業式では、君が代は皆大声で歌います。式の間もうるさいのは大人です。一同起立という
場面も、大人たちはバラバラで立たない人もいます。子どもは家の教育で決まるというのも嘘のようです。
野球が世界一になり、日の丸という言葉が沢山出てきた今が、チャンスです。
私は正しい歴史認識を深め、いつか三ヶ根へ凱旋します。これからも色々と教えて下さい。宜しくお願いします。
﹂
四、 PNGは幻の国?
SY君に返事をしてはあげたものの、戦後六十三年経過してはいても、兄の死については?マークばかりの知識
や認識しか持ち合わせていません。書物で得た自分の想像する記憶のみで、PNGの実情は全く知ることができま
せん。
当時の私は十二歳、管制下の日本ですから知る由もないのです。正にPNGは、私にとっても幻の国であり、黄
泉の国?でありました。今まで親も兄弟も只の一人もできずにきた、PNGの大地で私一人だけでも合掌してあげ
ることができたらとの思いも、夢のまた夢で過ごしてきました。
政府の遺骨収容や墓参団が各地に慰霊巡拝されていることは知っていましたが、参加資格は親子関係のみである
と思い込んでいました。ところが、ゆうとぴあ三ヶ根支配人伊藤弘氏が親身になって、愛知県庁に問合せてくださ
り、兄弟の間柄でも、参加資格があることを知らせてくださいました。大変ありがたく、心から感謝する次第であ
ります。
正直自分自身の気持の中には、一般の旅行会社が募集している物見遊山の単なる観光目的の人とは、絶対に行き
たくない、行くべきではないと深く心に期していたからです。あくまでも、心から鎮魂慰霊感謝の誠を捧げたいと
される同志の方とご一緒がしたいと思っていたのです。
早速、市県を通じて応募し、厚生労働省社会援護局から参加できる通知を受領しました。
五、 出発を前にして
巡拝実現の日が迫ってくるにつれて、私には気になっていたことがありました。それは、わが家の菩提寺にある
戦没者七士の長兄の墓碑、向って右側面に彫り刻まれている和歌でした。石碑建立の際、父が書き記したことは知
っていましたが、さほど気にも留めずにいた愚かな私でした。PNGへの出発を前にして、虫が知らせたのか?ど
うしても、知ってから出発すべきであると思うようになりました。早速、芯の太い鉛筆と紙を持って、寺へ拓本を
とりに行きました。草書体の仮名文字で、彫りが浅く年代も経ているのでうまく取れません。家に持ち帰って仮名
の辞書を片手にやっと判読できました。
南無阿弥陀仏
君がため 国のためにと ひたむきに
逝きし子なりき
当時の日本国民の天皇陛下を中心とする祖国を思う気持、両親が愛する大切な長男を戦地に送り出す心情、それ
に応える兄の戦いぶり?、私は愕然として言葉を失いました。現在の平均的日本人の国を思う心情との相違に、何
ともやり切れなくなりました。国があって人があり、人があって国がある。国と人は不可分である。ましてや、国
家の危急存亡の秋においては、一億一心火の玉と なって国難に当たったことを改めて思いだしました。純粋な日
本人は今何処と叫びたくなりました。
六、 PNGへ出発
長兄の眠る、何も分らない国への墓参、戦記文で得た知識のみで、想像すらできない未知の国への出発は、平成
十九年十一月三日︵土︶
、成田エクセルホテル東急に午後四時三十分集合、同五時結団式。帰国は十一月十日︵土︶、
午後七時五十五分︵実際は成田でもう一泊︶計九日間、東部ニューギニア慰霊巡拝の旅でした。
巡拝団は、遺族三十三名︵一斑十六名、二班十七名、私は二班所属︶、厚生労働省職員四名、添乗員二名、その
他現地ガイド二名の構成で、結団式を終え、ニューギニア航空︵PX︶五五便ポートモレスビー行きで、午後九時
〇五分、成田を後にしました。
機中にあっても、PNGはどんな所か、戦後しきりに言われていた﹁ジャワ 現(インドネシア は)極楽、ビルマ︵現
ミャンマー︶は地獄、死んでも帰れぬニューギニア 現(パプアニューギニア ﹂)であるだけに、地獄中の地獄の戦場
の地として、大東亜戦争でもとび抜けて悲惨な戦場であったことを想像しながらの飛行です。途中、グアムで乗務
員の交替、給油等で一時間程機内待機し、翌四日ポートモレスビー空港へ。感慨が交錯し殆ど眠れずに午前六時十
分︵時差日本より一時間早い︶到着しました。戦史に言われているポートモレスビー空港の夜の灯火が見える所。
イオリバイワからポートモレスビーまで四十キロメートル下り坂の一本道の地点まで攻め入りながら、涙をのんで
撤退せざるを得ず、以後その撤退が地獄中の地獄となった有名な空港であることを思い浮かべながら、何ともやり
切れない気持で、朝未だきの恨めしい空港に立っている自分は、正に夢の中の現実でありました。
しかし、暫しの感慨に浸るのも許されずに、エアウエイズホテルで荷物の点検後朝食をとり、乗換え十二時五十
五分、ニューギニア航空プロペラ双発機八五六便、三十五分間の飛行で十三時三十分、ポポンデッタに着陸しまし
た。機外に出た第一声は﹁暑い!﹂でした。
いよいよ、これから鎮魂慰霊の巡拝がPNGの大地で始まるに先だって、この地のことと、この地であった戦闘
のあらましをここで紹介します。
七、 東部ニューギニアの地図と概況
1、ニューギニアは南太平洋上にある島で、日本本土の約二倍、七九万四千百平方キロの面積を有し、東経一四
一度を境に西部はインドネシア領で西イリアンと呼ばれています。東部はビスマーク山脈を境に、南側は英領で通
常﹁パプア﹂と呼ばれ、北側はドイツが領有していましたが、第一次大戦後はオーストラリアの信託領となり、東
部ニューギニアと称していました。
東部ニューギニアは、海岸線の一部の地域を除いて島の中部は標高三千から 五千メートルの山脈が連なり、中
央山脈から北にセピック川、南にフライ川が無数の支流を作りながら流れ、その流域は広大な低湿地帯になってい
ます。太平洋火山帯に属す火山国でもあります。
2.昭和五十年九月十六日、東経一四一度以東のニューギニアはビスマルク諸島やブーゲンビル島等を含みパプ
アニューギニア国として独立誕生しました。
パプアニューギニア国の面積は約四六万二千八百四十平方キロ︵日本の約一.二五倍︶で、人口は二〇〇〇六年
で約六百十八万七千人です。
3、気象は熱帯に属し、一部を除いて熱帯降雨林に覆われています。五月から一〇月が乾季で冬にあたり、十一
月から四月が雨季で夏にあたります。気温は海岸地域で平均気温三十度前後、高地では二十度前後でやや涼しい。
4、公用語は英語です。しかし、多くの部族があり、その部族毎に部族語があるので、共通語としてピジンイン
グリッシュが使われます。
5、陸上交通機関はあまり発達しておらず、戦時中旧日本軍が作った自動車道路等もすでに荒廃しつつあり、ま
た、草木の発育が旺盛なこと、雨水の浸食による地表の変化が甚だしいので、陸上における交通は困難を極めます。
交通手段は主として船舶と軽飛行機によります。
6、作物としては、ヤム芋・タロ芋・瓜類を栽培し、稀には米・砂糖きびを植えることもあります。また、商品
作物農業として、コーヒー・ココア・コプラ・ゴム・茶・パームオイル・除虫菊・スパイス・ハッカ等が栽培され
ており、ほとんどが輸出されています。
八、 戦闘の概要など
︹開戦︺
昭和十二年七月七日の支那事変の勃発、そして、昭和十六年十二月八日の米英に対する宣戦布告以来、ハワイ諸
島及び東南アジアにおいて戦闘が開始されましたが、中部・西部太平洋について防御を強固にするためには、オー
ストラリアとアメリカとを遮断することが必要であり、オーストラリアの北東部に位置するソロモン諸島やニュー
ギニアの占領が必要でありました。
昭和十七年一月、日本軍はニューギニアのニューブリテン島ラバウルなどを占領しました。連合国側の抵抗は殆
ど見られませんでした。
︹ブナ・ギルワ地区の戦闘︺
昭和十七年三月、東部ニューギニアのラエ及びサラモアを占領し、次いでブナ付近に進出しました。東部ニュー
ギニア﹁南岸﹂のポートモレスビーは、連合国が占領していましたが、太平洋におけるアメリカとオーストラリア
の連絡線を遮断することは、戦局に大きな影響を与えると考えられていました。
海路によるポートモレスビー攻略については、五月上旬の珊瑚海の海戦を経て、六月上旬ミッドウエー海戦での
敗戦により海軍力が落ちたため断念されました。ミッドウエー海戦は、順調とされた日本海軍が初めて敗れた戦い
でありました。これを契機として、戦局は連合国側の優位に展開されていきました。
昭和十七年八月上旬、日本軍は陸路からポートモレスビーを攻略するため、ブナを出発し、標高二千メートル超
えるオーエンスタンレー山系を進みました。
九 月 中 旬 に は ポ ー ト モ レ ス ビ ー ま で 約 四 十 キ ロ の イ オ リ バ イ ワ に 達 し ま し た が 補 給 が 続 かな い な ど の 理 由 の た
め、ポートモレスビー攻略作戦を変更し、ブナに撤退しました。この撤退行動中において、アメリカ軍の砲爆撃、
食料の欠乏、連日のスコール等のため、多くの戦没者が出てしまいました
一方、ソロモン諸島ガダルカナル島は、日本軍が昭和十七年五月に占領し、飛行場の建設を開始しましたが、ア
メリカ軍の反撃は昭和十七年八月七日、ガダルカナル島上陸によって開始され、翌十八年一月まで続きました。
この戦いは日米決戦の天王山ともいうべきものでありました。これを契機に大反撃に転じたアメリカは、その後、
圧倒的優勢な空軍力及び海軍機動部隊をもって、他の連合国とともにソロモン諸島から北上し、さらに西方へと﹁飛
石﹂的に猛烈な反撃を加えました。
ブナ地区では、日本軍が各地において激戦を展開しましたが、海空軍に支援された優勢な連合軍の攻撃を受けて
損害が続出し、遂に昭和十八年一月二十日には同地を放棄して、撤退を開始しました。
︹ラエ、サラモア付近の戦闘︺
ラエ、サラモア地区は、良港と航空基地を有し、ブナ方面撤退後の東部ニューギニア防衛の第一線でありました。
昭和十八年五月頃、オーストラリア軍は、陸路サラモア地区に転進し、六月三十日にはアメリカ軍もサラモア南東
のナッソウ湾に上陸しサラモアに迫りました。
その後二か月半にわたりサラモア南側の高地において、日本軍とアメリカ・ オーストラリア軍の激しい攻防戦
が展開されましたが、日本軍は、九月十五日までにサラモア区の部隊を順次ラエから脱出させました。
︹フインシュハーフェン地区の戦闘︺
連合軍は、ラエ占領後、殆ど間髪をいれずに、昭和十八年九月二十二日フインシュハーフェン北側に上陸を開始
しました。十月から十二月中旬までフイシュハーフェン地区の戦闘が繰り返されました。
︹マダン地区の戦闘︺
マダン地区は、昭和十八年三月から十九年三月まで第十八軍司令部が置かれ、東部ニューギニア作戦の指揮中枢
的位置にありました。オーストラリア軍は、空輸によりラエからマダンに前進し、アメリカ軍は、昭和十九年一月
二日 サイドルに上陸してきました。昭和十九年三月、日本軍主力の西方転身に伴ってマダンは放棄されました。
︹アイタペ及びウエワク方面の戦闘︺
ウエワクは、後方兵站の最大の拠点としてラバウルと並ぶ最重要基地となっていましたが、昭和十九年三月上旬、
東部ニューギニアの北方にあるアドミラルテイ諸島が攻め落とされ、ラバウルとの作戦的関係を分断されたため、
第十八軍の主力はウエワクから、さらに西方に転用されることになりました。
日本軍は、東部ニューギニアの要衝に兵力を増強し、態勢の挽回を図るが、 連合軍は周到な準備と海陸支援の
下に、要地を飛石的に奪取する作戦をとりました。このため、日本軍はブナ地区からの撤退に始まり、ラエ・フイ
ンシュハーフエン・マダン・アイタペ・ホーランジヤの各地において死闘を繰り返したのであります。
アメリカ軍は、昭和十九年四月二十二日、ウエワクの北西のホーランジア及びアイタベに上陸、占領しました。
昭和十九年七月十日、遂に連合軍に攻略されたため、残存兵力を集結してアイタペ東方二十四キロのドリニューモ
ール河の西岸において連合軍陣地を攻撃しましたが連合軍の逆襲により損害が続出し、同年八月四日作戦を中止し、
ウエワク・ブーツを中核とする態勢に移りました。
昭和十九年十二月頃、アメリカ軍と交替したオーストラリア軍は、アイタペ方面から攻撃を開始したため、ウエ
ワク・ボイキンなどの各地で激戦が展開され、日本軍は南方のアレキサンダー山系に潜り込み、﹁山南邀撃作戦﹂
と呼ばれる、敵を迎え撃つ作戦に入りました。
このような激戦は、一日の間断なく翌二十年八月の終戦まで続きましたが、同年九月十三日第十八軍の安達二十
三司令官︵中将︶は、ウエワクにて降伏文 書に署名しました。
︹戦没者数︺
東部ニューギニアにおける日本軍の戦没者は、陸軍約十万八千人、海軍約六千五百人で、近海などの船舶沈没に
よる戦没者を加え約十二万七千人となりました。これらの戦没者は戦闘により戦死した人のほか未踏のジャングル
や三千から四千メートルの峻嶮な山岳を進攻及び撤退の作戦行動、加えて、補給途絶による極度の弾薬・食料の欠
乏とマラリア・赤痢などの風土病により死没した人でありました。︵厚生労働省社会援護局発行﹁東部ニューギニ
ア慰霊巡拝の しおり﹂に準拠︶
九、 ブナ地区での慰霊
巡拝の第一歩は、十一月四日、奇しくも戦闘概要で最初に登場するブナ地区で始まりました。
先ずポートモレスビーからポポンデッタへ飛びました。三十五分ほどでポポンデッタ空港です。こじんまりとし
た国内線の空港のようです。そこに一台のバス?とてもバスと言えるものではない。いすずの可成り年代物のトラ
ックである。荷台に二枚の分厚い木の板が縦に置いてある荷物車だ。その板の上に向き合って座った荷物が私たち
なのです。班員十七名、職員等四名とガードマン四名の計二五名が乗り込んだ。
運転席横には、日章旗が取り付けられています。異国で見る国旗は感慨も一入です。頭の上には幌が付いていて、
有蓋トラックであることが嬉しい。硬いトラックのスプリングの上に置かれた板の座席に腰かけて、長時間ジャン
グルの悪路を時速七十キロ、もうもうと土埃をあげて突っ走る。
載っている荷物?は一体どうなるか、想像してみて下さい。勿論メモなど到底取れません.瞬時でも手も離せば
大変な事になります。ペンと手帳を手放さなかった私は頭と左足に怪我をしてしまいました。まさに命がけの乗車
です。 でも兵隊さんの事を思えば::。
車と車がすれ違う時には全員が双方共に、みんな手を振り、大きな声で挨拶する。私たちに対しては、特に子ど
もたちは﹃ワァーイ、ワァーイ、ホワイトマン﹄と一斉に大声で甲高く叫ぶ。現地の人にすれば私たち日本人の肌
が白いからであろうか。通行人もみんな親しげに挨拶してくださる。
なれてきた私たちも一斉に大声で手を振り﹃こんにちは!﹄と応える。実に和やかな光景だ。敵意など微塵も感
じられないのが嬉しい。道路わきの奥地に通じる細い人道を、三・四人の子どもたちが、ホワイト・マンと叫びな
がら、手を振り振り一目散に車めがけて走ってくる。只われわれに挨拶したいがためにだそうだ。日本では全く見
ることのできない光景である。
ふと考えてしまう。この地で本当に死闘があったのだろうか、この地の人たちに大変な苦難を与えてしまったの
か?六十余年間の時間が消し去ってくれたのか?とさえ思われるのでありました。
沿道の見たこともない深く濃く暗いジャングル、動植物は正に自然そのものの熱帯動植物園です。鰐のいそうな
沼地、いろんな種類の椰子も三、四種類は識別できるようになれました。ピンクと白の目も覚めるような來竹桃?
の花、五感を刺激するものはすべて自然、人工物が全くないのがたまらなく良い。一時間程全速で走った。目的地
と覚しきジャングル脇の背丈程ある草地に着く。
不思議なことに一部分の草がきれいに刈り取られています。近くにいる職員に尋ねれば、奥地のため私たち一行
が、この地を訪れるという連絡はされてない とのことです。どのようにして、ここの人たちは知ったのであろう
か、まだまだ人々は集って来ています。先に来た人たちが草を刈って、待っていてくださったようです。これは、
今も私の謎であります。集っている沢山の人たち老いも若きも、女、子供、すべての人の表情や仕草にも、歓迎し
てくださってい るように、私には思えてなりません。特に印象的なのは子どもたちの澄んだ美しい輝く瞳です。
すべての瞳は、満天の星のように満ち溢れています。わが日本では全く見られなくなってしまったというのに。
刈り取られている草地に、職員が中心となって持参した祭壇を設け、お供えの果物や花、飾り物を置き、日章旗
や旭日旗を掲げて、この地で亡くなられたとされる遺族を先頭に、みんなでお参りをしました。諸々の感慨が交錯
し胸にこみ上げてきます。亡くなられた方々は、どんな思いでこの様子を空から眺めておられることでしょう。汗
とも涙とも思われるものが頬を伝って落ちる。
お年寄りや親、子、孫待っていてくださったすべての現地の人たちは、みん な真剣な表情で、物音一つ立てず、
勿論私語など全くない静寂の中で、私たち のお参りの様子を見守っています。お参りしているときは、このよう
にするのが礼儀で当然のことであると言わんばかりにであります。誰に教わったのであろうか?昨今の平気で私語
をしている日本人とは大部違うなあと思わざるを得ません。私は初日から、現地の人に多くのことを教わりました。
出してくださった椰子の果汁を、ストローで吸う味は格別でした。真心がこもっている分、旨さが倍加されてい
るからに違いありません。お参りができてほんとうによかった!が私の最初の実感です。
ところでこの地、ブナは日本軍の先遣部隊が昭和十七年七月パサブアに敵前上陸し、ギルワ、ブナを占領してオ
ーエンスタンレー山脈を越え、ポートモレスビー攻略に向かったのですが、イオリバイワ占領を境に、地獄の撤退
が始まりました。戦記によれば、鉈で蔓を切り払いやっと人一人が通れる隙間を作って進む。地図もなく、頼るも
のは磁石のみ。何日も何日も歩く。巨木の根や倒木、そしてぬかるみばかりの変化のない難行軍の毎日でした。そ
の間、美しい極楽鳥︵世界の四十三種中三十八種がPNG原産︶の白い羽や青ルリの美しい鳴声のみが唯一の慰め
でした。夜昼間断のない砲爆撃に曝される中、草芭蕉の茎や根を切り喉を潤し、食べられるものを口に入れること
のできた兵士のみが生き残れたのでした。そして、昭和十八年一月ブナ部隊は玉砕されたのであります。
私たち台湾友愛桜の会は世界一の親日国である台湾の人々と永遠の友愛を分かち合うべく、鳥山頭水庫︵八田ダ
ム︶に平成十七年から陽光桜︵愛媛県高岡正明、照海様父子の改良種︶の植樹を行っていますが、この地へ来て改
めて、PNG、台湾、日本との深いご縁を再認識することができました。岡倉天心先生が提唱された﹁アジアは一
つ﹂は、正に欧米の植民地支配からの解放による自由を求めた、八紘一宇の大理想の精神に沿ったものの一環であ
り、その胎動であることを感ぜずにはいられません。中でも特筆すべきは、台湾山地出身の 高砂義勇隊員の方々
の一視同仁の教えによる崇高な捨身と献身のすさまじい精神です。弾薬、食糧の担送中、五十キロの米を担いだま
ま、山中の湿地で米の下敷きとなって餓死していた白骨の隊員がいたことが報告されています。日本 兵に食べさ
せたい一心で命令を忠実に守った高砂義勇隊員でした。兄も悲惨な 死は遂げましたが義勇隊の方々や原住民の差
入れなどにどれ程励まされ、助け られ勇気づけられたことでしょう。それを思うと、心に大いなる安らぎを覚え
るのであります。
またここで、紙面をお借りし、九日間の巡拝中誠心誠意で、両国の懸け橋と して教養豊かな学識を駆使しての
案内と的確な通訳をして下さった、PNGに在住の見形明美女史を紹介させていただきます。私が皆目知らない、
分からないPNGのことを何とかおぼろげながら知ることができましたのは、彼女に負うところ多大であります。
ありがたかったです。現在?歳、戦後生れの彼女は ここへ来るまで、この地で戦争が行われたこと、多くの日本
兵が命を落とされたことなど全く知らなかったとのことです。極めて身近な、知っていなければ ならない出来事
と言うのに、戦後の教育が如何に欠如しているかが窺われ、極めて残念であります。
十 サナナンダの異様体験
ポポンデッタのオロゲストハウスは極めて素朴なホテルです。ロッカーには 二人部屋というのに、銹びた鉄線
むき出しのハンガーらしきものが一本、床の敷き物は破れ、シャワーは水がチョロチョロとしか出ません。湯など
滅相もありません。正真正銘のPNGのホテル?です。朝四時半、チュチ、チュチー、 チュチー⋮と大きな美し
い野鳥の囀りが私たちを起こしてくれる寝覚めです。
声の主を探そうとカーテンの隙間から外を見れば、窓のすぐ前の電線で鳴いています。鵯くらい真黒な鳥です。
こんなホテルは滅多にないでしょう。最高級ホテルは私の命名です。
十一月五日、生花八束と祭壇用品一式を持参し、午前八時半出発、体が変になった頃、海の素敵な海岸で停車す
る。十時半、行先は海を隔てて遠くに見える岬付近のようだ。尋ねれば﹁サナナンダ﹂だと言う。陸路は道なく、
船でしか行けないとのことです。全員がやっと乗れる小さなモーターボートで、青く深く透き通った海を、車同様
白波を立てて全速で進む。海面と船との間はいくらもない。海底は?メートル、とても怖い船旅です。幸い波静か
な海であることが有難い。
三十分程進んだ頃、陸地の方から咆哮とも雄叫びとも思われる大きな音声が、間欠的に耳に届いてきました。P
NGには猛獣はいないと聞いているので、人の声に違いありません。気がつくと三、四人の屈強な男が長い槍を手
に持って、海岸で待っています。その前に船が進んで行くのです。やがて、船が着き上陸が始まりました。細かく
白い実に美しい砂地を踏んで少し歩いたとき、先程の男たちがこわいくらい真剣な面持ちで、突然地面に線を引き
口々に 何か言っている。通訳によれば﹁この線から奥に動くな﹂とのこと。彩色の施された顔、鋭い眼光、真剣
な雰囲気に思わずみんなたじろいでしまった。様子が全く分からないので、何が起こるのか不安になってきます。
武器を持っているだけ、よからぬことも想像していると、先程船の中で聞いていた音声が奥の 方からだんだん大
きくなって近づいてきます。
隊列を組み、穂先が四、五十センチはあろうかと思われる鋭く尖った槍を手に手に振りかざした十二、三人の成
人男子の一団が、私たちの静止している四、五メートル前まで来ると一斉に止まり、振りかざしている槍を砂地に、
力をこめて突き立てる。
そして次の瞬間、槍を一斉に引き抜きもと来た方へ、口々に呪文?を唱え踊りながら帰って行く。それが三、四
回繰り返されて一団が来なくなると、﹁もう動いても良い﹂と許可が出た。私たちが一段の来た奥の方へ進むと、
木か竹で作られた、長い草が〝のれん〟の様に垂れ下った鳥居?の下をくぐって中に入る。待っていた若い女性が
ジャングルで咲く濃いピンクの美しいたくさんの 花で作られたレイを一行の首にかけて下さった。レイの一つ一
つは大変な労作です。全員の首に掛けられたのですから、この時点で先程からの出来事は大歓迎して下さっていた
のだということが、やっと分かってきました。
邪悪な者はこの自分たちの聖地には、絶対に入れないのだ。許された者は歓迎して、お迎えするのだという強い
意志を表した儀式であり、真心込めて迎えてくださった誠実な人たちに、これも兄たちの立派な戦いがもたらして
いるものではないだろうかと思えて、思わず目頭があつくなりました。
気がつけば、頭には美しい鳥の羽︵極楽鳥?︶で作られた帽子をかぶり、首からは貝殻等の長い首飾りを幾重に
も垂らし、腰には当地の民族色豊かな織り物?を巻いています。先頭集団のひとたちは成人男子?で構成されてい
るようです。それに続く人たちは、男女子どもです。ところが手元の写真に写っているのは後ろ姿ばかりです。
何故か読者諸氏は分かりますか?正面から写すことのできない厳かな雰囲気で、とても顔、姿、形を前面から見
詰めることなど失礼で、恐ろしく、到底できません。槍を持ったり、長い鼓のような太鼓?を叩いたり、大声で歌
い踊りながら先導してくれています。どの人もみな正装?です。道の左側に大きな机のような台が作らされていて、
敷布が敷かれた台の上の大きな皿には水瓜、マンゴ、バナナ等が乗っています。その脇にはヤシの実に孔をあけ、
ストローが 立っています。私は汗をかき、喉が渇いていたので、ヤシをいただきました。
果汁は喉にしみわたり、忘れぬことの出来ない味わいです。
しばらく休憩をとった後、さらに奥の方へ歩いて行くとヤシの葉で葺いた小屋が見えてきました。何の小屋だろ
う?と思いながら、一歩中へ足を踏み入れギョッとして、思わず立ちすくんでしまいました。遺骨、遺品の安置所
だったのです。海岸の白い砂浜の砂とは全く異なる黒っぽい細かい、美しい砂で敷き詰められ、掃き清められてい
ます。間口五メートル?、奥行七メートル?隅に 高床で、地面から七十センチくらいの所に竹を割いた幅一メー
トルくらいの安置棚がコの字形に作られています。入って左側の棚には銃床の朽ちてない銹びた小銃数丁、殆んど
が弾丸の貫通した穴のあいているぼろぼろの水筒四十個くらい、薬箱?もあります。向って正面の棚には、〝どく
ろ〟三体や大腿骨などの遺骨をはじめ、一升壜や食器、スプーンなど多数そして、これも弾丸の貫通したと思われ
る飯盒十個程いずれもボロボロなものが整理して置かれ、右側の 棚には何が置かれていたのか思い出せません。
下の棚には得体の知れない、見ても分からないいろいろなものが並べられています。もう私は正視に耐えられなく
なっていました。悲しいです。やり切れません。胸が詰まります。
正面棚の後ろに、日章旗と旭日旗を掲げ、中央の木で作られた机に仏事用の布を敷き、その上に菓子、果物、飾
り物、生花を供えました。机の中央には戦没者之霊と記された木牌が置かれています。机の前の砂地には﹁日本軍
之霊﹂
﹁南海支隊之霊﹂等十三枚の卒塔婆が立っています。
︵既に昭和三十、四十四、四十五年の三回、遺骨収容さ
れた方が残されたものと思われます。︶私たちは、般若心経を供えこの地で亡くなられたとされる二人の遺族の後
に続き、全員がお参りしました。線香の煙が立ち込める室内は暫し重苦しい悲しみと沈黙の時間が経過しました。
私はただひたすらみ霊安らかなれと祈りました。帰途の海岸までの道のりは、来たときの何倍にも遠く感じられ
ました。槍を持たない五人の男の人がひっそりと見送って下さいました。
十一 悲痛極まれるクムシ河
次に向かったのはクムシ河、死の渡河地点です。
トラックが走り出すと土埃と同時に騒音も上げて疾駆するため,説明があっ ても聞こえません。メモも全く取
れません。アンポコ川ダブル・クロスとして現地の人はみな知っているそうですが、上流は豪州軍、下流は日本軍
が交差して戦った地点のようです。
ココダ・トレイルでは日豪対決として後世に残る所で、オーストラリア政府建立の記念碑がある公園のようにな
っていました。休憩時間の僅かなのが残念でしたが、英文銘板の冒頭に﹁日本軍兵士は勇敢に戦った;﹂と相手を
称えた文言を目にし、なんとも言えない感動に襲われました。英語に弱い私にもすぐ読み取れました。如何に兄た
ち日本軍が戦ったのか、ひしひしと胸に伝わってきました。別の銘板には﹁ストロングジャパニーズ アーミー﹂
ともありました。正に君のため国のためにと、ひたむきに、逝きし日本軍であり、連合軍であった事を知りました。
ゆっくりメモする時間のないのが誠に残念でした。
すぐ車上の人になってジャングルを疾走します。途中、トイレ休憩となりました。勿論便所などありません。道
路脇の深い繁みに綱を張って男女の使用場所を分け、用を足すのです。用を足すといっても簡単ではありません。
ジャン グルに足を踏み入れるからにはハマダラ蚊に刺されたら百年目です。虫除けスプレーを露出している肌に
吹きかけ、万全の備えをしていざ出陣と相成るのであります。マラリアに苦しめられた沢山の兵士の姿が頭をよぎ
ります。
用の途中で、ふと足下を見ると、長さ一五・六センチ足の親指大の太さがあろうかと思われるケバケバしい赤黒
青で厚化粧した芋虫?ミミズ?蛇?得体の知れぬ動物が、私の足元へ這ってきます。早々に済ませてガードマンに
尋ね、 通訳してもらって百足︵ムカデ︶と分かりました。こと程左様に分からないことばかりです。再度車上の
人となり、前方にオーエン・スタンレー山脈を見ながら、どこをどう走っているのか、西も東もさっぱり分からな
いままに午後三時二十分クムシ河の道路に到着しました。河岸まで十五メートルくらい降りた行く手は川幅百二十
メートルくらいの水量豊かなクムシ河の奔流が渦を巻き、濁流となって、流れる勢いは岩を噛むと表現出来ましょ
う。
クムシ河を眼下にして、御田重宝著﹃東部ニューギニア戦︱クムシ河、死の渡河﹄とあけぼの会門脇朝秀編﹃台
湾高砂義勇隊﹄に暫し思いを馳せました。
若い兵士らは、命ぜられたままひたむきに任務の完遂だけを考えて、行動しました。これが青年の義務だと信じ
て疑わなかったのです。だからこそ生命を賭けて戦ったのです。マラリアによる四十度以上の高熱で対岸へついた
とき力尽き亡くなりました。また、有る兵士は目の前で両手が水面に見えていましたが、やがて見えなくなりまし
た。湿気、マラリア、下痢、飢えに苛まれた体が水中で無意識に手を動かし、体力を消耗し尽くして溺死ではなく、
絶命したのです。もう少し腹が減っていなければ助かったでしょうに。
ここでも、忘れられないことは、高砂義勇隊の感謝にたえない働きをしてくださったことでした。
弾薬、食糧の運搬、傷病者の後送など,実に勤勉に働きました。良く訓練され、号令一下、働き教育されていま
した。日本人より真面目で、一所懸命働いてくれました。力も強く、身体も大きく、米の分量も忠実に守って、そ
れ以上に決して手をつけませんでした。特に頭が下がったのは傷病者の後送に当たって示してくれた高砂義勇隊の
どの態度一つ見ても、どう報いてあげたらよいか。今思い出しても胸がつまります。と目頭をうるませて述懐され
ていることが書かれています。
また、ある高砂族の青年兵士は山地民族の本領を発揮して筏︵いかだ︶のつくり方や操作を指導してくれました。
直径二寸︵六センチ︶のなるべく白い木︵軽い︶を六尺︵一、八メートル︶に四・五本切って、蔓で筏を組む。人
間が乗るのではなく、衣類兵器だけを乗せ、河の真ん中へ押し出し、人は筏につかまって流されていくのみ。濁流、
急流では命がけで体力がないため、手を放したらそれっきりとなってしまうと教えてくれたと。
文化生活に慣れた日本兵は、軍靴が破れて使用不能となれば裸足でジャングルを歩くことは到底出来ません。水
虫に苦しめられている足に、毛布を巻いて歩くしかない。ところが彼らは裸足のほうが歩きやすいのです。食べ物
にしても自生する動植物の何が食べられるか、また有毒か。昼間も暗いジャングル、夜ともなれば真暗闇、恐怖が
満ち溢れる世界です。得体の知れぬ動植物だけではなく、ピアノ線を張り巡らし、線に触れようものなら盲滅法に
重火器で乱射してくるのです。ところが野山を住み家とする高砂族の人達は、本能的とも 動物的ともいえる超人
的な五感と身体能力で危険をいち早く察知し、予知して極めて誠実に伝え、指導してくださっていたのです。
﹃渡
河の際、重機関銃が激流に流され、幾ら探しても見つからないこの河で、良くぞ渡河することが出来たことよ、と
今も思っています﹄と。
私の眼下のクムシ河は往事茫々、なにごともなかった如く、今も水は逆巻きながらとうとうと流れています。流
され、もがき、苦しむ兵士の姿も、私の視界には全くありません。悲痛の叫びも聞こえません。でも、河は私に何
かを訴えているように思えてなりません。河の水と河岸の草が生い茂る、祭壇を設ける余地もないほどの空き地に、
やっと祭壇を設置し、お参りするために下りていく人とお参りを済ませて登ってくる人が各一列ですれ違うような
状態で、二人の遺族を先頭にやっとお参りできました。
気がつくといつの間にか現地の子ども、老人、壮年男女が真剣な表情で私たちがお参りしている一挙手一投足を
見つめています。どんな事を感じているのでしょう。時間なく言葉が通じないのが残念です。子どもたちにお供え
の供物を配ってあげて、分かれました。今も心に深く染みる、クムシ河畔の参拝です。
十二 尊敬される山下将軍
十一月六日、長兄が亡くなったとされるウエワクの地へ赴く日です。ウエワクはどんな所か、早くも胸が高鳴り
ます。
朝オロゲスト・ハウス玄関脇の檻の中にある木の上で、バナナを食べている小型カンガルーのワラビーと同じく
らいの大きさで良く似た動物のいることに気づきました。今までに全く見たことのない動物です.尋ねれば﹃木登
りカンガルー﹄とのこと。名前も、姿も、見たことも聞いたこともない動物を飼育しているのには驚きました。こ
こは矢張りPNGです。
さて、この日一日はポポンデッタから飛行機を乗り継ぎ、ウエワクへ行く日程です。午前九時、バスでホテル出
発、いろいろな人を見かける。七百部族の多民族を反映して、顔立ち、表情,肌の色,言語等多岐にわたるとか,
出身地も大体見分けがつくそうです。植物の椰子一つ取っても、ココヤシ、パームヤシ、オイルヤシ、サゴヤシ等々
多種多様でその用途も食用、嗜好用、建築用材、油材用など幅広いのにはびっくりです。
途中昨日少し立ち寄ったココダ・トレイルで休息、豪州記念碑だけでも詳しく記録したかったのですが、それも
叶わず午前十時五分出発。悔いが残ります。
バス同志が擦れ違う時にはここでも必ず大きな声で手を振り、満面笑みを浮かべて挨拶を交わします。昔からこ
の地で生活しているような錯覚すら起きます。この親近感はどこから生まれてくるのでしょう。これが伝統的に昔
から受け継がれて、今日になっているとすれば、故郷をとおく離れた異郷の地にある兵士たちにとってはどのくら
い心を癒されたことか知れません。そう思うと嬉しくなり、長兄に代わって﹃PNGの人達よ有難う﹄とお礼が言
いたくなりま す。
途中、ポポンデッタのスーパーマーケットへ立ち寄りました。日本を出発する時、長兄の大好物だったと聞いて
いる落花生︵あの当時は殻のついているものしかなく、それを自分で炒って殻を剥ぎ、豆だけを缶につめ、母親と
、トマト︵生物は航空便持ち込み禁止で持参できず︶チューブ入りトマト
一緒に 長兄との最後の面会に持参した︶
ケチャップ一本と袋入りピーナッツ二袋は日本から供物用に持参していたのでこのマーケットでトマト十個を購
入する。小粒な ものしかない。持ち歩いていたが、参拝予定が二日後とのことでガイドさんに食べていただく。
午後一時三十分,エアーニューギニアの双発プロペラ機でギルワ飛行場からポートモレスビーへ向かいました。
ここでも二回の厳しい検閲を終えて搭乗しました。テロへの警戒でしょう。でも二回も三回もの検閲はうんざりで
す。三十五分間で到着.三時二十分いよいよウエワクへの飛行です。下界は深い深いジャングルが続く山並みです。
機中でのりあわせたPNG軍隊の兵士たちは我々が日本人と知ると﹃私たちは山下将軍を尊敬しています。﹄と口々
に言いました。日本人は知らない、忘れているというのに?驚きです。言葉が自由に話せないのが残念です。そし
て午後五時十分、ついにウエワクにつきました。
空港を出て、何処が何処なのか、西も東も何も分からないまま、バスにゆられて午後六時二十分、海岸波打ち際
に建つウインドジャマー・ビーチホテルに降りました。
十三 ウエワクで謝罪・感謝す
十一月七日午前五時五十分、夢に見てきたウエワクの朝です。お休み中の同宿治部さんの横をそっと抜け出し、
外にでる。部屋の前におかれた椅子に腰掛け、部屋からの風物を脳裏に焼き付けようとあたりを見渡す。ほんの五
十歩も歩けば美しい砂浜、その先は海。ビスマーク海?の波が打ち寄せています。砂浜とホテルの間の通路脇には、
大きなココナツやしが四・五メートル間隔で植えられている。
ついつい波の音や風景に浸って、物思いにふけっていると、すぐ近くの花壇の手入れをしていた初老?の大柄な
男の人が、持っていたスコップを置き、思いつめたように私に真っ直ぐ近づいてきました。怖いような雰囲気です。
何事かととっさに居住いをただすと、身振り手振りで話しかけてこられました。
﹁貴方は何処の国の人ですか。﹂
﹁私
は日本人です﹂と言ったら、 緊張が解けたような表情になり、﹁わたしはマーブリック・フェリックです。 私の
父は日本兵をかばい、オーストラリア兵に頭を打ち抜かれて亡くなりました。﹂と話してくださった。私も﹁私の
長兄は、このウエワクで亡くなりました﹂と言って、互いに手を取り合って暫し涙にくれました。
とても印象深いウエワク、ウインドジャマービーチホテル初日の朝です。玄関前にいた十二・三人のこの地の人
達も、みんな日本軍の事を良く知っていて、好意的であるのがとても嬉しいです。兄の亡くなったとされる地であ
るだけに:。
午前八時半、ガードマン兼ガイド四人の護衛付きで出発です。先ず最初に訪れるのは、長兄戦没の地?ボイキン?
洋展台?英霊碑です。明確な名称の説明はなく、さっぱり分かりませんが、胸が高まります。どんな地なのか心に
祈り、夢にまで見続けてきたのですから、今からそこへ向かって行くのです。
トラックがやっと通れる道路沿いには、アフリカン・チューリップが咲きみだれています。あの山もこの谷もみ
んな戦闘の跡でしょう。長兄の面影が浮かんでは消えていきます。車はものすごい振動で、字は全然かけません。
書いても字になりません。ミネラルウォーターのボトルが床に落ち、走り回ります。
私の尻も腰掛けに叩きつけられ、尻を浮かしていても痛いです。
道行く人も、マルマルの木までもがみんな挨拶してくれます。挨拶を交わす道脇は想像を絶するジャングルばか
りです。兵隊さんたちのご苦労が偲ばれます。
周囲に気を取られ、時計を見る余裕もなく、時刻を見忘れていて、英霊碑につきました。碑はクホイ族の高い台
地の屋敷内に建立されていました。美しく刈り揃えられた大きな葉っぱの芝生が敷き詰められ、その中に縦三メー
トル横十メートルくらいに仕切られた真中に、横書きの﹁英霊碑﹂と彫り刻まれた高さ一メートル横二メートル、
厚さ一メートルくらいの大きな岩が置かれています。その周りに花崗岩の名板が岩を囲んでいます。名板には戦死
者の氏名がぎっしり彫り刻まれています。残念ながら長兄の名はありませんでした。がっかりして碑の背面に回っ
て目を移すと、はるかウエワク湾まで見渡すことのできる、素晴らしい眺望です。眼下に拡がる緑豊かなウエワク
の平地?には部落がまばらに点在し、如何にも長閑な風景です。その向こうの海はビスマーク海でしょうか?その
海に点在するのはアドミラルティー諸島の島々に違いありません。ムシュ島はその一つでしょう。
このムシュ島は、降伏文書に調印後、生存兵士全員が集められた島です。その間にあっても栄養失調で亡くなる
方が引きも切らず、公刊戦史によれば内地に帰還できた方は一万七十二名でした。陸軍中将安達二十三︵あだちは
たぞう︶第十八軍司令官はあらゆる部下の今後の生活のために尽力され、自らも終身刑を受けながら、証言台にし
ばしば立たれました。ラバウルの地で全ての裁判が終わった昭和二十二年九月十日、それまで隠し持っていた錆び
たナイフで自ら割腹自決されたのであります。
厳格で細心、信と愛を貫かれて殉じられました。困難に当たっては率先して苦難に立ち向かわれ、部下からの篤
い信頼のもとに、苦悩の日々を過ごしてこられたのです。
上官に宛てられた遺書には﹁:小官の不敏能くその使命を完うし得ず:作戦三歳の間に十万に及ぶ青春有為なる
陛下の赤子を喪ひ、而して其の大部は栄養失調に基因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何とお詫
びの言葉も無之候。::疲労の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥かに超越せる克艱敢闘を要求
致候。之に対し黙黙之を遂行し力つきて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国のためとは申しながら其断
腸の思いは唯神のみぞ知ると存じ候::。
﹂
正 に 上 官 の 命 令 を ひ た む き に 遵 守 し て 逝 っ た長 兄 の 姿 と 墓 碑 に 刻 ん だ 父 の 想 い が 目 の 当 たり に 髣 髴 と し て く る
のであります。悲惨な死を遂げた長兄も、こんな立派な将軍のもとで戦うことが出来たのは仕合せだったと思いま
す。祖国の安寧秩序を願って良くぞ戦ってくださいました。
安達中将は、補給もない中で三年余の飢餓と戦闘の苦しい戦いを一糸乱れぬ統制のもとに戦い抜かれました。私
は現地で、こんな話も聞きました。部落民は転戦する日本軍の将兵を慕い、女子供まで協力してフールン山を越え、
ヌンボク地区まで移住して終戦を迎えた。当時を知る老人は﹁アダチッグ コマンダーのもとで俺たちは安達将軍
や軍司令官と一緒にヌンボク部落までついて行ったんだ﹂と。安達中将や兵士らのお人柄の一端を偲ぶことが出来
ましょう。将軍は昭和十九年八月以降持久体勢を指令され、ウエワクで孤立無援の中にあって、自ら考案されたサ
ゴヤシの幹からの澱粉採取、病人運搬、永住農園開拓などの方式により、悲惨で過酷極まりない戦闘を終戦まで持
久されました。第十八軍の戦歴は日本陸軍史、否、世界の戦史の中にあって、際立った光彩を放っているのであり
ます。安達中将は﹁愛の将軍﹂と称えられています。
この地での遺族は二班十七名中最多の私を含め七名。それぞれ思い思いに持参した遺影や所縁の品々を英霊碑の
前の台座にお供えしました。私は長兄が好物だった落花生二袋とトマト・ケチャップ一袋を供えました。生のトマ
トは前 述のように、残念ながらお供えできませんでした。
碑の上には、誰が供えたのか半分ほど錆びて穴の開いた鉄兜。錆びた測定 儀?機関砲の薬きょうらしき?太さ
三センチ高さ六センチくらいのもの、他二点がすでに置かれていました。石碑に日章旗を掲げ、各自一言ずつ思い
を述べました。私は﹁大きい兄さん、なくなられた諸先輩申し訳ありませんでした。周行が親兄弟姉を代表して、
やっとお参りにまいりました。お許しください。戦後の日本人は昏迷の度を深めています。諸先輩の尊き働きにも
拘らず何とも申し上げる言葉がございません。お許しください。﹂とだけしか言えませんでした。悔恨と謝罪が涙
となって滴り落ちました。悲しいおまいりです。本当は胸を張って、世界に冠たる精神復興を成し遂げた?日本の
現状を報告したかったのですが::。お参りは出来たものの、胸は少しも晴れないのが残念でなりません。
心残りを胸に秘め、次の慰霊地へ向かいました。
十四 カウプ決死の教育
英霊碑のある高台を出発すれば、昼間も暗いジャングルばかりです。何処が 何処なのか同じ所を走っていると
しか思えません。尋ねれば東のほうに向かっているとのことです。一時間ほど走って午前十一時四十五分、車は止
まりました。道脇の生い茂る草地に下車してみんなで草を踏み慣らし、平らにし始める と沢山の待っていてくだ
さった現地の人たちが一緒になって草踏みをして下さいました。そこに生えている二本の木に紐を結び、日章旗を
掲げて祭壇を設けパイナップル、マンゴ、バナナを供えこの地での対象遺族一人の後に続いて全員がお参りしまし
た。
回りを取り囲んでいた人たちは申し合わせたように参拝中は沈黙を守って、私たちの挙動を遠巻きに観察してい
ましたが、お参りがすむとホッとしたように近寄ってきました。と、その時落着いた物腰の、風格のある昔酋長?
とおぼしき老人が他の人達より二・三歩前に進み出ました。私はそのすぐ前にいました。
静止すると同時に、黙って右手を水平に上げ、人差し指を指し示しました。 指先は道に停車しているトラック
を指しています。何だろうと思っていると、厳かに沈痛な表情で話し始めました。すかさず通訳の見形さんが日本
語で﹁あの停まっているトラックの道の下にも、日本の兵隊さんが眠っておられます﹂ と話されました。それか
ら、
﹁私はカエムシアンといいます。日本人の皆さんにお会いできたので、子どもの頃、マツモト先生に教えても
日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る
らった歌を歌います﹂と言って過ぎ去った時間を惜しむように、美しい日本語で正確に
夕焼け小焼けで
おててつないで みなかえろう からすと一緒に 帰りましょう
が流れました。
凄いジャングルの中で、突然予想もしなかった心に深く染みる歌声です。私たち一行も現地の老若男女や子供た
ちも、すべての草も木も、みんなこの歌に耳を傾けました。マツモト先生といっても、兵士のみで教師は一人も来
てはいません。先生は、この地の子供たちにどんな思いを託して、歌を教えられたのでありましょう。そして、そ
の兵士たちも殆どなくなられたのです。おそらく日本の位置する方に向かって、愛する祖国を偲んで教えられたこ
とでしょう。
三つ子の魂は、兵士らの歌声とともに成長してきていたのです。
同じお前も 枯れすすき
二つ目は哀愁こもる船頭小唄でした。
おれは河原の 枯れすすき
どうせ二人はこの世では 花の咲かない 枯れすすき
三つめの歌は当時流行していたと思われる酋長の娘でした。ひょうきんで、刹那的であるのが妙に心に響きます。
私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
三つの歌を、いずれも二小節まで、正確に歌ってくださいました。私もそうですがとても歌えません。覚えてい
ません。知りません。言語もまったく違うこのPNGの奥地で、です。教えた人も習った人も真情がこもっている
からに相違ありません。少くとも私にはそう思えました。
現在の日本人で、何人正確に歌うことのできる人がいるでしょうか。なんとも異様な感情におそわれました。恐
らく、兵士たちは明日の命も知れない死闘の中のほんの暫しの時間を歌に託し、子供らに伝えた思いは如何ばかり
かが察せられます。つい、ここでも長兄の面影が重なります。
歌い終えられたカエムシアンさんは、再び右手人指し指を前回とは違う、大きな谷を隔てた深いジャングルの方
を指しています。何を話されるのだろうと、見形さんの通訳に聞き耳を立てました。
﹁私たちは学校がどういうものか、見たことも無ければ聞いたこともありませんでした。そこで何をするのか。勉
強とはどんなことなのか?まったく分かりませんでした﹂ゆっくり間をとりながら話を続けられた。
﹁そんなとき、
日本の兵隊さんたちは死に物狂いの戦闘をしながら学校を作ってくださって勉強を教えてくださいました。
当時、あそこの学校で教わった八歳のマイケル・ソマレ少年が現在この国の首相です。しかも三期連続です﹂と
話されました。
私は常日頃から、教育は命がけで自分の真実の思いを相手に誠心誠意で伝え、その人格形成に役立ててもらえる
ようにしていくことであると考えてきたので、このカウプのジャングルの死闘下で、真の教育が行われていたとは
驚天動地でありました。柴田幸雄中尉の率いる船舶工兵第九連隊の将兵によって、真の教育が実践されていたこと
をカエムシアンさんによって教えられたのでした。
大東亜戦争は、﹁大東亜共栄圏の確立﹂が戦争目的であり、悲願でありました。この大目的を達成するための啓
蒙を、死にもの狂いで実践したのは、将来の独立に備えた教育活動の一環だったのです。
住民への感謝から、子供たちに数計算や初歩の日本語、英語を教えつつ、植民地での過酷な白人支配からの解放
と独立を篤く説いたのであります。この熱意や真心に応えた子供らがマイケル・ソマレ少年をはじめとするPNG
の人たちだったのであります。長兄らの働きは脈々と生き、成長し続けていることを 実感することができました。
翻って、現在のわが祖国日本の教育の実情は如何でありましょうか?折角緒先輩が命を懸けて立派な教育のお手
本を示しておいてくださっていたのに。戦後、六十余年もの永い間、何を次の人たちに伝えてきたのでしょう。な
んと勿体ないことではありませんか。教育への思いがなければ伝わりません。伝えなければ教育をしたことにはな
りません。国家百年の大計の礎である教育でのことであるだけに看過できません。私は残念でなりません。
伝えてこなかった結果が、かつては誇り高かりしわが国で、毎日のように起きている道徳心の低下から派生する
社会現象であるといわざるを得ないのであります。中でも未来を担う少年を育む義務教育下での﹁いじめ﹂による
自殺などはもっての外のことで、話になりません。今までに、何人の前途有為な犠牲者を出してきたのか、命懸け
で教育にあたらなければ絶対になくなりません。 無念です。
その後マイケル・ソマレ氏らはPNGの独立運動に身を投じ、アジアでは遅い昭和五十年に独立を成し遂げ、ソ
マレ氏が初の首相に就任されたのでした。 ソマレ首相はキャプテン・シバタの教えによって独立できたと思って
いたので、大使館を通じて、当時宇都宮へ奇跡的に生還されていた柴田幸雄氏を探し当て、昭和六十年、念願の再
会を果たされたのでした。このことは日本ではほとんど知られていませんが、PNGの人々には広く知られている
ことであります。
極めて厳しい状況下での、なんと美しい日本とPNGの逸話ではありませんか。
﹁教育﹂の規範である陰徳陽報
をPNGの奥地のジャングルの中で、私はカエムシアンさんによって知ることができたのでありました。
立派な行為を大いに知ることによって自信を持って祖国に奉仕する精神こそが、日本の品格を高めていくのであ
ります。そのような国には道徳心の荒廃はあり得ません。かつては世界屈指の道徳心篤き国であったわが国が過去
のことになってしまっている日本であってはなりません。特にわが国の教育においておやであります。
何としても道徳立国の日本を取り戻さねば、ご先祖様や緒先輩に対し、申し訳ないと思うのは私一人ではないと
思うのですが。
いろいろなことを考えさせてもらえたカウプでの巡拝でありました。
次に向かったのは、アリアパンでの慰霊でした。
途中道路はさらに急坂でひどいぬかるみの悪路のためスリップして、坂を越えることができません。ついに十三
時三十五分、車はエンスト。全員で車を押して行きお参りができそうな草地で草を踏み、祭壇を設け国旗を掲げて
急遽お参りしました。われわれ以外人っ子一人いません。ぼろぼろ落ちる汗を流した暑く悲しいお参りでした。
結局、これ以上奥地へは行けず、行ったとしても時間的に帰ることができなくなるとのことで、巡拝はできず、
この日のお参りは終わりとなりました。
十五 飢えと病気で敢闘
十一月八日は平成十九年度東部PNG慰霊巡拝の最終の日です。明日は合同追悼式が催されることになっていま
す。
午前五時四十五分起床、支度を始めると六時頃突然停電しました。真っ暗で 不慣れな部屋のため様子がさっぱ
りわかりません。昨夜寝るとき、蚊取線香を つけたマッチを机の上に置いたのを思い出し、手探りでやっと明か
りがとれて救われました。停電は頻繁にあるようです。
午前八時半出発に先立って、今夕午後六時半から花形駐PNG大使が慰霊巡拝団全員の帰国前夜までの労をねぎ
らい、このホテル食堂でご馳走してくださることが班長︵厚労省随行︶から知らされました。出発した車は海岸を
行きます。打ち寄せる波は、六十余年前も今も、少しも変わらない営みでしょう。遥かな時空を越えた不可思議な
ご縁としか思えないここPNGウエワクの海岸沿道は、至る所濃紺の緑滴る天然動植物園がえんえんと続きます。
ラム河、セピック河の大河が近くにあるからでしょう。湿地帯が多く、車外に展開する泥水やぬかるみの小川や沼
には、ワニや噛まれたら五分で絶命するといわれる猛毒極彩色の蛇もいそうです。マングローブの気根は長く垂れ
下がり、林となって道脇を埋めています。
午前九時過ぎ、日本海軍が最後まで立てこもったと言われるムシュ島が見えるウォーム岬に着きました。美しい
静かな白い砂浜です。人っ子一人いません。みんなで急造の祭壇に手を合わせました。次に向かったのはウエワク
半島で日本軍建設の中飛行場︵他に東、西二つの飛行場があった︶跡でした。連日猛攻撃に曝されていたことを知
らされました。午前十時半、洋展台慰霊塔に到着しました。一九四七年慰霊巡拝された方の揮毫?﹁つわものがう
えしかぼちゃの いきてさく﹂と書かれた木碑が一基淋しく私たちを出迎えてくださいました。胸に迫りくる悲痛
やる方ない思いの中での、お参りとなりました。十一時半、お参りがすむとすぐ帰途に向かいました。ここも、も
のすごくひどい道路としか表現できない悪路です。突如すぐ目の前に水深三、四〇 センチ位の河が横切ります。
なんら臆することなく、車は川の中を突っ走ります。エンジンが水に漬かってとまりはしないか、もしここで帰
れなくなったらどうなってしまうのか;?不安が頭をよぎります。
午後二時頃、小休止していると、六・七人の子どもたちがこっちに向かって歩いてきます。通訳の見形さんに尋
ねてもらえば、学校に行くとのことです。
学制はどうなっているのか、知りたくなります。どの子もみんな笑顔で、口々に大きな喚声で応えてくれました。
出発すると、道路はますます狭く厳しくなってきます。私の目蓋には、この深いジャングルを全く補給なく、飢
えた身で、はたまたマラリアによる高熱に冒されながら、更には風土病を敵に回し、勇猛果敢に敢闘する日本兵士、
そしてわが兄の惨めで悲しい姿が、遣る瀬無く浮かんでは消えていきます。このような奥地の山道でも、すれ違う
人たちは大声を出し、体全体で笑顔の歓迎をしてくれ、沈みがちな私の心に灯火を点してくれました。車中でこの
間の感想をメモしたつもりでしたが、改めて手帳を見直してみますと、いろいろ記入されてはいても何が書いてあ
るかさっぱり分かりません。自分で書いた自分の手帳なのに情けないことです。やっぱりここは黄泉の国だからな
のでしょうか。
二時三十五分、英霊碑と思しき碑が見受けられましたが、余裕時間なく、心の中で手を合わせ、発車しました。
この時間では予定していたブーツとアイタベまでは到底いけず、行けば帰れなくなってしまうとのことで、それら
の地での慰霊巡拝を諦め、三時、急遽ブーツ飛行場跡の長い茅︵ちがや︶が生い茂る中に、焼け爛れた日本飛行機
エンジン?横の平地で草を踏み、祭壇を設け、全員でお参りしました。走行中、三時四十分頃同じブーツ内の開け
たところで大和合同慰霊碑と揮毫された石碑を発見し、全員下車一礼して先を急ぎました。
何とか予定の時刻までにホテルに着くことができ、午後六時三十分一・二班全員で花形大使と清澤二等書記官の
お二人をお迎えすることができました。各自の席で居住まいを正し、全員が拍手でお二人に謝意を表して、お迎え
しました。
開宴に当り、花形大使が挨拶されました。冒頭、
﹁この国で亡くなられた方々は、飢えと病気に代表されます。
⋮﹂と声を詰まらせ目をしばたかれました。そしてポケットから白いハンカチを取り出されて涙を拭かれました。
暫し沈黙が続きました。後の言葉は大使に背を向けた席に座っている私には殆ど聞き取れませんでした。私は自分
なりに想像して﹁祖国のため、勇猛果敢に戦って散華されました﹂と、勝手に補足しながら、大使のお声に耳を傾
けました。
優しく温かで人間性豊かな大使のお人柄に触れ、長兄も私も大使と一緒に涙を共有することができました。そし
て、言い知れぬ感謝の念が私を包み込んでくれました。さらには巡拝ができた喜びがこみ上げてきました。胸がい
っぱいで何を飲んだのか、なにを食べたのかまったく思い出せません。私はその国にある遺骨や遺品は文化財保護
の観点から、国際間の移動は禁止されていると聞いていましたが、大使が私の席の隣にこられたので意を決してお
願いしました。
﹁大使、ご無理なお願いでしょうが、一刻も早く小さなお骨の一片たりとも日本へ返してあげてく
ださい﹂と。大使は私たちの気持ちを察し﹁はい、分かりました﹂と短く答えてくださいました。なんという思い
遣りのこもったご返事であることでしょう。どんなものにも優るご馳走をいっぱい頂くことのできた有難い夕餉で
ありました。
十六 涙雨降りしきる合同追悼式
十一月九日、東部PNG慰霊巡拝最後の日になりました。この日はウエワ ク・ウインドジャマーホテルから歩
いて二十分ほどの距離にある東セピック州 ウエワク市の﹁ニューギニア戦没者の碑﹂前で合同追悼式が挙行され
ます。
午前九時三十分、ホテルに全員集合し、十時三十分から式が始まります。式場は敷地凡そ約六千㎡︵縦百m、横
六 十 m ︶ の 中 に 昭 和 五 十 六 年 九月 P N G 国 政 府 の 協 力 に よ り ニ ュ ー ギ ニ ア 地域 と 周 辺 海 域 で 戦 没 さ れ た す べ て の
方々の霊を慰めるために、日本国政府が建設した施設であります。
慰霊碑は敷地の北側︵海側︶に配置され、現地の材料を取り入れた民家の素朴な造詣をモチーフとして、簡素で
重々しい雰囲気のあずま屋に安置されていました。あずま屋は四本柱で壁がなく寄せ棟造りです。あずま屋の前面
は蓮の ような水生植物の生える池で囲まれています。あずま屋と休憩所、野外ステージ等のある広場︵二十七m
四方︶へ行く通路は池の中央を通って行くことができるようになっていました。
この休憩所や屋外ステージ等は、東部ニューギニア戦友会ならびに社団法人PNG友好協会からの寄付で作られ
たとのことです。
碑文には、次の言葉が彫り刻まれていました。
ニューギニア戦没者の碑
先 の 大 戦 に お い て ニ ュ ー ギ ニ ア お よ び そ の 周 辺 海 域 で 戦 没 し た 人 々 を し の び 平 和 へ の 思 いを 込 め て こ の 碑 を 建
立する
竣工昭和五十六年九月十六日日本国政府
協力パプア・ニューギニア政府
開式のころになると雨が降り始めました。雨は次第に強くなってきます。私たちが当地へ来て七日間、全く雨に
遭 う こ と が な か っ た だ け に 追 悼 式 で のこ の 雨 はこ の 地 に 眠 る す べ て の 方 々 と 私 ど も 全 員 の 万 感 胸 に 迫 っ て の 感 涙
に違いありません。
私たち台湾友愛桜の会全員が四年前台湾先端にあるバシー海峡を望む潮音寺で戦没者慰霊の折、全員君が代を合
掌︵合唱︶し始めると突然はい然と強い雨が降ってきました。その時、私は慟哭の雨降る潮音寺と表現しましたが
またしても、ここPNG慰霊巡拝最後の日の今、はい然と雨が降ってきたのです。私には偶然の降雨とはとても思
えません。
追悼碑の前のあずま屋を覆うビニールシートに雨が溜まり垂れ下がったシート上の雨は溢れ、起立して黙祷する
私たちを慟哭の雨がぬらしました。
式典は厚生労働省の青木氏の司会によって進められました。
①開式の辞 司会者
②全員が起立して黙祷。心に深くしみる沈黙でした。
③追悼の辞 政府派遣、厚生労働省柿原団長、来賓として花形大使、遺族代表、諸隈氏によって述べられました。
どの方も異口同音に、言語を絶する戦闘、日本の安泰と永遠の繁栄、飢えと病魔との闘い、万感胸に迫る思い等々
の言葉が続きました。降りしきる雨と同じように、参加者全員の目からも涙が溢れました。同時に﹁良くぞ戦って
くださいました。心から厚く厚く御礼申し上げます﹂が私の口をついて出ました。
④日章旗前の献花台には既に九都道府県知事からの花輪が飾られています。献花は団長、来賓、遺族の順で行わ
れ、
⑤司会者によって閉式の辞となりました。
この合同追悼式で主な東部ニューギニア慰霊巡拝はすべて終わりました。お参りすることができ、大きな感謝と
達成感は与えていただきましたが、戦後から今日まで放置してきた私の心にある罪悪感は今なお払拭できていませ
ん。この度の慰霊巡礼を振り返って、私は平成二十年の年頭賀詞を次のように記しました。
終生一度の長兄、鎮魂慰霊の巡拝は熱帯雨林東部パプアニューギニア︵PNG︶
兄さん、散華された十二万七千有余の御柱申し訳ありませんでした。お許しください
周行がやっときました。ごめんなさい
飢えと病気、打つ弾なく惨苦凝縮地獄の戦場望郷の思いは日に何度祖国を見つめたことか
そこの道にも日本の兵隊さんが眠っています
一行の前で話す昔酋長?のカエムシアン老人
彼は日本の歌を教えた兵士を偲んで歌った
夕焼け小焼け 船頭小唄 酋長の娘 を正確に
昼間も暗いジャングルのずっと奥地の山の中
学校も勉強も、全く知らない現地の人たちに
死闘の傍ら、学校を作り子供に教えた兵士たち
彼らはPNGの明日の国づくりを熱く説いた
そこで学んだ八歳のマイケル・ソマレ少年
独立運動に投じ現在三期目の現PNG首相
帰国前夜。私は駐PNG花形大使に願い出た
一刻も早くお骨を日本へ帰してあげて:と
平成二十年 元旦
御霊の大恩を忘れた日本人に平和はない
参考文献
◎ 秘録大東亜戦争マレー・太平洋島嶼篇
昭和28年9月発行
富士書苑 田村吉雄編集
◎台湾高砂義勇隊
平成六年一月発行
あけぼの会 編者 門脇朝秀
◎ ニューギニア地獄の戦場
著者 御田重宝
平成四年八月発行
徳間書店
◎ 太平洋戦跡紀行ニューギニア
著者 西村 誠
平成十八年九月発行
︵株︶光人社
http:www.goroku,gr,jp/junpai/doc2.html 2007/11/02
フリー百科事典﹁ウィキペディア﹂安達二十三
08/09
http:imperialarmy.hp.intoseen.co.jp/general/yasukuni/adachi.html20
厚生労働省社会援護局
平成十九年十一月
◎ 東部ニューギニア慰霊巡拝のしおり
◎
◎
山 口 周 行
電話 〇五六二︵四六︶〇一〇七
愛知県大府市桃山町三丁目二七九
〒 474︲0026
著者
解説東部ニューギニア
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