文化人類学講義Ⅶ 狩猟採集漁労民の環境世界 第11回海洋環境の変容 20130627 飯嶋秀治 [email protected] 1.世界システムと世界資本主義システムまとめ 成長の限界 世界資本主義システム 低賃金労働:海外労働者、経営の「合理」化、反福 支出の抑制 祉厚生化、非正規雇用etc 低価格素材:輸入国(供給余剰国)の切替、輸出国 各国中心部 労働 における 利潤の最大化 欲望の無限化 (規制緩和国)の切替、法改正、支配 etc 商品開発:モデル・チェンジ~バイオ・テクノロジー 収入の増加 etc 消費社会の神話と構造 市場開発:看板娘、百貨店窓、新聞広告、雑誌広告 経営 資本の最大化 、 TV CM、インターネット・スポンサーetc 問題回避:メディア持株構造、子会社化、契約限定 不信の抑制 投資 投資の最大化 化etc 問題調停:社名変更、裁判化、裁判の長期化、補 償額の最小化etc 信頼の増加 自社開発:高額配当、メディア・メッセージ(社会 貢献、生態系貢献)etc 関係開発: 取引先の大手化、天下り化、ロビーイ ングetc 2.狩猟採集漁撈社会と世界(資本主義)システム • 狩猟採集漁撈社会 ①人類史的 少ない欲求・ある種の物質的潤沢さ ②状況的差別 ③地域的に切迫した収穫逓減から来る移動 ④対人間的互酬 ⑤対生態的互酬 ↓ • 世界(資本主義)システム ①人類史的差異への欲求・意味への欲望 ②15c~近代的世界資本主義システムの成長⁼ 歴史的「人種」・「民族」・「性」差別の一般化 (構造的暴力) ③地球規模での成長の限界 ④交換の範囲が見え難くなった社会 ⑤投資構造化にあるメディア情報 Ⅰ.日本の環境変容 1.水俣病と個人史 • 水俣病簡易年表 • 杉本栄子 1908日本窒素肥料(株)設立 1938生まれ 1941後に水俣病と疑われる患者 1941茂道に移る(父、進は網元) 1956水俣病公式確認 1959有機水銀説から「漁民暴動」へ 1959母トシ入院、雄と結婚も流産 1968政府が公害病と認定 1969水俣病裁判始まる 1969茂道の3軒と共に提訴 1973患者側勝訴による補償協定 1973勝訴 1974認定 1978県債発行 1989「和解」への動き 1996「和解」調停 1978反農薬水俣袋地区生産者連合 1981夫認定 1994「本願の会」発足(17人で「本願の書」) 2.問題との直面 • 部落の変貌 • 死との直面 「前の日もいっしょにご飯を食べとった人たちが、 「たてつづけに三人流産しました」[杉本2000: 134] その[母のマンガン病]放送があったちゅうばっ かりに誰も来なくなった」[杉本2000:133] 「私の考えを読み取ってくれる父でしたので、父 「母が隣のおじさんに崖から突き落とされてい が亡くなってどうしても耐えきれずに泣く日が たんです」[杉本2000:135] いっぱいありました」[杉本2000:136] 「私たち部落からは四軒ほど訴訟に立ったんで すけれども、いろいろな切り崩しに耐えきれず に次々と部落を去って行きまして、最後まで 残ったのは私たち一軒だけでした」[杉本2000: 137-138] 「私たち漁師の命とする綱を切ってくれた」[杉 本2000:138] 「昨日まではいっしょになっていじめたおばさん やおじさんが、次々と劇症の水俣病になってい く」[杉本2000:139] 「裁判が終わっても、私たちの身体は今日死ぬ か、明日死ぬかちゅうことをいつも迎えていまし た」[杉本2000:141] 3.生かされる体験 •海 「九〇年、イワシ網漁船快栄丸推進」[栗原 2000:129] 「本当に、もう私は死ぬって覚悟をきめとったん ですが、そげんするうちに海にひっちゃえて (落っこちて)、『いやあ、これで死んでよかった じゃなあ』ち思って抵抗せんば、ポカーンて浮 かって来っとです」[杉本2000:141-142] 「海に行くからこそ、ちっぽけな陸であるちゅう か。人を憎んだり、いろいろなことで悩んでも、 海に行けばすぐ次の波で打ち消してくれる」[杉 本2000:142cf.立花1985(1983)] • 舟霊、エビス、のさり 「しびれた身体にもかかわらず、風の色、魚の 色、いち早く見えるんです。ぼやっとしておれば 舟霊さんが、『こっでもわからんとか』ちゅうぐら い、チャチャチャチャち騒いで教えてくれます」 [杉本2000:142] 「風が来れば、『今日は休んでよかっだな』とか、 具合が悪かれば、『今日はエベスさんが来んな ちいわったで、おーい、行かんが(行かない ぞ)』」[杉本2000:144] 「父もいい遺してくれたように、『水俣病も“のさ り”じゃねって思おい』と。自分たちが求めんで も大漁したことを“のさり”という」[杉本2000: 146] 4.本願の会 • 宗教 「この会が発足するときはいろいろな話を 聞いて、ある人は、これは宗教団体じゃぁ なか、無宗教やっでと言う人もいたし、そう いうことで変てこりんな話ばかし聞きよっ たが、でも、作ろうとするみんなの気持ち が、拠りどころとして何かを祈りたいという のが誰しもあったと思う。…/…我々は形と してできることをということで、最初はお地 蔵さんじゃなかったが、いろいろなころを 考えて、祈る場所を基本として、何かをし ようとした。ところが祈りなんかすれば宗 教の関係とみなされ、ああいうところ(埋立 地)では何もできない」[杉本(雄)他2009: 9] 5.もう一つの人生史 • 目次 序 神話の海へ(石牟礼道子) 第一部 賑やかな村 海の水は辛かぞ たましいくらべ どげんわけか… 孫悟空 常世の舟 舟出 身を晒す 意志の書 わびを入れる場所 第三部 第二部 今思うこと 梯子を外す 早よ帰ってこい 儀式 絶望から 火種はここに まだ生きとったばい ふるさとの村 もやい直し 神の降り立つところ 若潮 資料編 やって何が悪い あとがき「緒方正人の言葉」 ふたつのヒント 輪の中で 学校 受難 家出 突進 闘争と結婚しとやっで 祈り返しに向かって 亀裂 生きてこの世に 正体見たり 6.社会背景 • 参与観察者のコメント 「水俣病が発生する前の海、いやそのさらに昔々の海へむかって、小 さな船の舳先が頭を振っていた。舳先は髷を結わせた形に作って あった。正人さんや杉本〔雄・栄子〕夫妻のたどった長い受難の 日々を、わたしは想ってはみるが、ただの一日たりとも、体験はで きないのである。」[石牟礼1996:ⅳ] 「緒方正人との出会いの不思議さには、やはり、彼が大事にしている 『縁』という言葉が一番似合っている。ぼくを彼に引き合わせてくれ たのは福岡県のある被差別部落の人々だった。それはほんの二 年前のこと[1994年]。ぼくは水俣という世界中にその名を知られた 街に足を踏み入れる前に、女島という小さな半島にある沖という漁 村を訪ねることになった。そして同じように、水俣病問題を経由しな いで直接緒方正人という人間に会った」[辻1996:238] たましいくらべ「漁師でうちの親父のように辛抱して金ためて、山や田ん ぼを買っていたのは珍しい。…『海がしけて出られん時でん、雨降ってん 木は太くなってくるる』。そして我々子どもたちには、山を買うのも木を植 えるのも『わいどんがためぞ』と言いよった」 [15]「漁師の神様といったら、 それはもうエビスさんです。…ちょっと舟の上で焼酎飲む時もまず『エビス さん』と言ってからです。…/逆に、例えばボルトとかナットとかの工具な んかを、海に落とすことを漁師は非常に嫌うんです。エビスさんが一番 嫌うものだからです」[19] どげんわけか…「今になってみると、自分が問われるというのはああいう ことをいうんだろうなと思う。親父の具合が日に日に悪くなっていく様子 を目の当たりにして、何かしなきゃいけないということを、言葉抜きに捉 えている」[24] ふたつのヒント • 第一部 輪の中で 賑やかな村「昭和二八(一九五三)年の一一月八日の生まれです。 学校 場所はこの今の家から五○メートルの所にあるもとえ、つまり本家 ですね。…/俺の親父である緒方福松にとって、俺は十八人の子 どもの一番下、末っ子です。」[緒方1996:2] 海の水は辛かぞ 受難「被害者であると同時に受難でもあると思うんです…そう捉えると、一 歩進めそうな気がする」[48] 家出 突進 7.折り返し • 第ニ部 若潮「俺にとって決定的な転機となったのはその頃続々と外部からやっ てきていた支援者と接触した時でした」[71] やって何が悪い 闘争と結婚しとやっで 祈り返しに向かって「俺のおふくろはいつも、『イヲばとって、うちの畑で カライモを作って野菜作って、それを食って生きとればそれでよかった い』と言いよったもんです。俺が運動をしたからといって、親父が帰って くるわけではなし、と。…だから、東京の方なんか向かずに、ここでとれ るものを食って生きていけ。この土地の海や山としっかり向き合って生 きていけ。恐らくおふくろはそう言ってたんじゃないか、と」[92-93] 亀裂 生きてこの世に「俺はひとこと、こげん言うたとです。『川本さん、あの世 にゃ神も仏もおらんばい、生きてこの世におっとじゃなかろうか』。辛本 さんはキョトンとして、何のこっちゃわからん、という顔をしていた」[1034] 正体見たり「いつから狂ったというのはしかしはっきり言えんのです。 … 川本さんの名は川が本だと言い、土本さんの名は土がもとだと言い、 柳田耕一は田を耕せと言っている。… /あとはもう延々ともがき苦しむ しかなかった。飯だって、涙をぽろぽろ流しながら食う。こん中にどれだけ 生き物がおるか、それを俺はどれだけ食ってきたのか。…そのうち食え なくなってくるんです。…/ただ必死に考え、何かを探し求めている。… 金じゃないんだ。じゃぁ何なんだ、といつもブツブツ唱えている」[106-8] 孫悟空 「ある時ふと自分が試されているんだと気づいたんです。…ここに辿り着く まではずいぶん苦しんできたんだけど、ここでスーッとつながったんで す。今までの人生、何ひとつ無駄なことはなかった。…問いを解くため のヒントがものすごい勢いで俺の中へ入ってくる。…/この焼酎ビン だってヒントになり得る。このビンがここに至るまでには長いドラマがあ るわけでしょう。…すべてが自分につながっている自分にも驚く。…現世 においてはみんな死者とは切り離されていると思ってる。でお、本当は そうではなくて魂はつながっている」[112-114] 常世の舟 舟出「<チッソの衆よ>この水俣病事件は/人が人を人と思わんごつ なったそのときから/はじまったバイ。/そとそろ『人間の責任』ば認む じゃなかか」[135] 身を晒す 意志の書 わびを入れる場所 8.チッソは私 • 目次 はじめに 家でから“運動”へ チッソは私である 魚とともに生きる 日月丸東京へゆく 魂とは何ぞや 対談 祈りの語り この本の成り立ち あとがき 9.漁師は泥棒 • チッソは私である 制度化された責任 私の中の“加害者”「かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かっ て仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であった としたらと考えてみると、同じことをしなかったとはいいきれない…別の言 い方をしますと同じことをしたんじゃないかという恐ろしさを初めて感じま した」[43-4] チッソは私だった「そしてチッソとは何なんだ、私が闘っている相手は何 なんだということがわからなくなって、狂って狂って考えていった先に気 付いたのが、巨大な『システム社会』でした。…唐突ないい方のようです けれども、私は、チッソというものは、もう一人の自分ではなかったかと 思っています」[48-9] 水俣病患者運動の経過 和解への動き 制度が人間を閉じこめた 仕組の中に隠れる「個」 命の記憶をとり戻すために「三つ重要なことがあると思います」[60] 断ち切られたいのちのつながり 魂のゆくえ 生き抜くこと、死にきること • 魚とともに生きる 「漁師は泥棒」「漁にでて魚を捕ることを、わたしたちは『いをを捕りにい く』といいます。…よくよく考えてみますと、漁師というのは泥棒なんです ね。…自分でも生んでもいない、育ててもいないものをまるで自分の品 物であるかのように『取り』にいくわけです」[80-1]「自分の体がどこかそ の魚、イヲといいますけど、魚と麦飯とからいもとで八割がたできている、 あと野菜がちょっと入っているという感じですね」[82-3] 命賭けの仕事 変化してきた海 商品になってしまったイヲ 殺して食わねば生きられない「私が特に思うのは、生き物を自分で直 接殺すという場面から、私たちがあまりにも遠ざかってしまったという気 がします。…私どもは漁師ですので、一日に沢山の魚を殺して、人一倍 その魚を食って焼酎も人一倍飲んでおる訳ですが。そこにやはり罪の 意識というか、罪の自覚が人一倍あります。…時々仕事をしながらも思う んですが、取れなければ取れないで、その時には、『たまには取られる 魚の気持ちになってみろ』と」[94-5] 水俣病事件が壊したもの 泥水の先へ 自然と人間への信頼 10.命のふるさと • 魂とは何ぞや • 対談 祈りの語り 本願の会「『本願の会』とは何かい、本願とは何をいっとるのか、というふ 栗原 正人さん自身が狂ったと言われる、そのときの感じを少し語っていた だけますか。なかなか言葉にしにくいと思いますけど。 うに何度か私は聞かれたことがあります。私としては、共に命としてあら んことを願うというふうで、その願いは、実は私たちの方にかけられてい る」[136] 魂とはなにか「社会制度や補償といったものの中では救われない、そう したものの中には納まりきれない何かがあるということです。それがどう もやっぱり魂というもののように思えたんですね。そういう魂と呼ぶしか ないものがあって、それが救われない、救われきれないという感じがす るんです」[137] 遊びに出ていく魂 値づけされた人間 養殖される生命 仕組が真実を埋め立てた 罪を記憶しなおす「生き物を殺して食って生きているというこの真実さえ も埋め立ててきてしまった」[153] 「もとのいのちにつながろい」 命のふるさとを探して「私は狂った時に、自分の命の在り処はどこかと 思った時に、海山と思って、表札にそれを掛けているわけです〔山海東 泊〕」[160] 緒方 それまでは水俣病事件が自分の大きな中心軸だったし、その責任を 問うんだということが具体的に闘いの行動に現れていたわけですね。そ れが自分を支えていた、あるいは自分という存在の距離感をもたせてい た物差しだったと思うんです。「被害者」「患者」という位置と、そこから加 害者を問うという闘いの正当性、政治聖、ですね。その物差しが自分の なかで壊れてしまった。[172] 栗原 そうすると、狂ったと言われる状態からある種の着地点を見つけられ たわけですね。そのとき、導きの糸になったのは何でしたか。 緒方 それ以前とそれ以後と大きく違うのは、それ以前は自分で生きている と思っていたのが、それ以後は“生かされて生きている”という感覚をも つようになったんです。それ以前は、油断すれば敵にやられる、権力や 加害者にやられる、警察からやられる、だから戦って勝たねば、みたい なところがあったわけです。それ以後は、不知火の海山や女島の自然の 世界の中に生かされて生きているという感覚。[178-9] Ⅱ.フィールドとしての水俣 1.読書と体験を結びつける参与観察 • 先行研究で見たり読んだりしたこ と DVD『医師 原田正純』『水俣―患者 さんとその世界』 『証言 水俣病』『常世の舟を漕ぎ て』『チッソは私だった』『聞書き水俣 民衆史』など • 現場で体験したこと 台風 町並み(先行研究と現状の異同) 満ち潮と引き潮 婦人会の運動会優勝祝賀会や家の 集まり 森の蚊 夏の暑さや湿気 蟻や薩摩ゴキブリや蜘蛛 ↓ 知識を超えた体験から様々な感情が湧き起ること 自分たちの生活とは異なったリズムの生活があること 現場の湿度、暑さ(寒さ)、昆虫たちとどのようにつきあっているのか? こうした環境での暮らしを居心地よくするために何があると良いのだろうか? Ⅲ.文化人類学的には? 1.文化人類学の基本認識への問い • 文化人類学の対象=異文化 • 文化人類学の目的=彼らの見方、考え方、生き方 • 文化人類学の理解方法=フィールドワークでの参与観察(2年) • 文化人類学の表現方法=民族誌 →異文化の彼らの見方、考え方、生き方を描く・理解するだけで良いのだろ うか? ←①こちらの都合で出かけて行った際に、彼らが割いた時間、彼らが受け 入れてくれた場所、彼らが教えてくれた話、彼らが提供してくれた食べ物な ど(文化人類学的調査に一般的な負債感) ←②加えて、彼らが置かれた窮状、他者の苦しみに立ち会った際の感覚な ど(窮状にあるフィールドに特有の負債感) ←③さらに、その窮状を生む構造の一端に受益者としての自己がいること など(窮状への構造的暴力荷担者に特有の負債感) →異文化の彼らの見方、考え方、生き方を描く・理解するだけで、彼らの事 態、彼らと私たちの関係は変化するのだろうか? 参考文献 緒方正人語り/辻信一構成1996『常世の舟を漕ぎて…水俣病私史…』世織書房 緒方正人2001『チッソは私であった』葦書房 栗原彬編2000『証言 水俣病』岩波新書 杉本栄子2000「水俣の海に生きる」、栗原彬編『証言 水俣病』岩波新書:129-142 杉本雄ほか2009「命の願いを求めて―本願の会座談会」、『魂うつれ』36:5-26 サーリンズ、マーシャル1984(1972)『石器時代の経済学』山内昶訳 法政大学出版局 辻信一構成・緒方正人語り1996『常世の舟を漕ぎて…水俣病私史…』世織書房 鶴見和子1995(1983)「多発部落の構造変化と人間群像―自然破壊から内発的発展へ」、色川大吉編『新編 水俣の啓 示―不知火海総合調査報告』筑摩書房:155-240 永野いつ香2009「水俣市茂道における地域変容と住民の生活史」、『水俣学研究』創刊号:123-150 萩原修子2009「語り得なさに耐える」、『宗教研究』第83巻第2輯361号:289-312 原田正純1992『水俣の視図―弱者のための環境社会学』立風書房 宗像巌1995(1983)「水俣の内的世界の構造と変容―茂道漁村への水俣病来襲の記録を中心として」、色川大吉編『新編 水俣の啓示―不知火海総合調査報告』筑摩書房:91-154 メドウズ、ドネラH.ら1972(1972)『成長の限界ーローマ・クラブ「人類の危機」レポート』大来佐武郎監訳 ダイヤモンド社 メドウズ、ドネラ H.、デニス L.メドウズ&ヨルゲン・ランダース2005 (2004) 『成長の限界 人類の選択』枝廣淳子訳 ダイヤモンド社 その他『魂うつれ』(1998~2011)
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