蘭学事始と黒船来港 幕末、開国時期における通訳者たち 幕末から明治期の外国文化流入と通詞 『蘭学事始』に見るオランダ通詞像 ペリーの来航とその前夜 阿蘭陀通詞たちの英語学習 森山栄之助、堀達之助 サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ、羅森 幕末の日米交渉と通訳 『蘭学事始』に見るオランダ通詞 通弁から外国語のエキスパートへ 外国語の専門家から外科医へ 杉田玄白の通詞観 『蘭学事始』 『蘭学事始』:江戸後期に書かれた,蘭学に関しての 回想録。2 巻。杉田玄白著,大槻玄沢補訂。1815 年 成立。69 年(明治 2)刊。和蘭(オランダ)事始。蘭東 (らんとう)事始。 『解体新書』:日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書。 1774 年刊。当時「ターヘル-アナトミア」と通称された, ドイツ人クルムス著の解剖図譜の蘭訳本を,前野良 沢・杉田玄白・中川淳庵ら 7 名が翻訳・編纂。本文 4 巻図 1 巻より成る。 以上は三省堂『新辞林』より引用 以下、縦書きの文章は全て岩波文庫版『蘭学事始』 (杉田玄白著・緒方富雄訳 )より引用 杉田玄白、『解体新書』、『蘭学事始』 http://www.gutenberg21.co.jp/rangaku.htm http://www.printing-museum.org/jp/collection/looking/03_vol1.html http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3302010.html http://www.ll.chiba-u.ac.jp/toyoigaku/ rangaku.html 初期の通弁 足で る を 連 ら み る え さ る べ あ ろ 徳 し覚 と か 中 れ 書 横 も れ こ て っ 、 川 てえ い た も て き 文 、 て と き て い 御 ろ いて う か 、 い す 字 そ い に び 、 治 西 い たい 程 な た た る を の た な し 世 ろ 洋 のて 度 で だ の こ わ 国 オ り く の の の 通 で で で書オでと ラ、禁 事初 が あ弁 あ き ラ 、 は 使 ン 渡 じ こ め 国 と 件 通 来 るの り と ン 禁 っ ダ ら の で は が て 詞 。用 、 め ダ じ 読 で が れ こ す い の さ許 を口 語 オランダ通詞の発憤 …… …… 与もでラはとこかれてと許人 ああもつお習るるんでるま れ( 崎八 よ えそ書ン、がとらこ、どしは っち弁け許い。とだ、ので たしの代 たのきダまでで百そすけ願こ てらじ、 し、どい多たに通 がおオ将 あ そ精写人ずきあ年、ぐらいう ものよちをあううくだ、詞 、こラ軍 オに ち のの暗あのこ ン 、 う力しか『 コるる余ラ許れたい そ国くら受らに うダ吉 ち う か 記 い で 。 ら い 家 ざ 宗 御 でにた ンよこりン可、 のなのけ れ ら し 合 の し し と は 通公 あ感と借スうう、ダ 人る事て でい 用 の え う て に 国 ご の わ にで は 、をて い 詞( るじいりトにし横人な 、 つ 幕 ど も 自 情 人 い文っ のよ 。てう受ウなて文がっく府せ きだあがどの ど う る 、こけォっ横字 たも て とまろ う本分 う 字さ たん西し そとてーた を渡 っへ、 さ はかをたも ことい ち) 善む と う や 申 め ど と と 文 と の ので、ルの 学来 っ。読ちあ い が、三ね れ ら 。 よ し き い う 字あそドで字 す も そんだま弁ばう御 相も郎こ 現 ん る う 出 う りうでけり でも用 談う う をだる な か 引るれ』 状 と、 よ を。をい西習最よこ理たこ も のわなもでにじ通のを し一・ 吉) と う て の と な かれよも不 弁を取 て人雄の すオ三う善い初うで由 ま こ いな っ い横十つし知り 御 ぐラと字三覚だにあでこ 幸 ば 、 と ま と こ て よ 、ら扱 名左時 西ンお引郎えとなるあろ 文 分 万 め で い 、を と 、 氏ダりをなるいっ。る聞お がは御事う字でてりなっ こは衛に に人まオどこうてことき 三 、用ににをあいこいて れ忘門、 長 い 阿蘭陀通詞からオランダ流外科医へ ん通 は し「 吉 で詞 、 ) 開で い 流田 業、 ず 」 な流 しオ れ ど」 「 も たラ と楢 林 のン 、 い も でダ と う( な の あ オ外ら る流 ラ 科ば 。儀 ン のや を 家 学ダ ラは の どの 吉 な が り で 島 そ ン、 入 こ医 兵 ん で ゅ き に の ダオ 港 し術 衛 ば き う た 阿 こ のラ が てを と ん た ) こ 蘭 ろ 医ン 禁 い受 い 通 。 」 とろ陀( 1 ダ た そ 術 じ けう詞 い)商7 も通 ら が伝 人 ( の う 、 「 館世 家 詞 、 つ 西 伝 れなえでう 外 が紀 えと て んて 、 じ の 科 流 い 半 たな か ば、 な ) 祖 の ( くば に 。り ら ん人 ん の 先 一 し つ 、 、後 にば西は家 も出 オ 船ほん 、 大通詞 吉雄幸左衛門 Jan Crans が (外 ンろ 明 江 科・ カう 和 戸 医 ラ。 四 へ と ンカ 年 来 し スピ か た て (タ 五 こ バ ン年 と ブ との が ル しこ てろ あ は っ ヤで た あ 。) ) 、 George Rudolf Bauer が行 国 い うこ を ざ 吉 か あ いっ ・ と 。の 耕 え 雄 っ り こ たて 中 い 幸バ 牛 も 幸 た 、 の 国う左ブとん左そバカ っ、 てそ あ の 衛ル い ) う ブ ラ 多の た で 門を っ ( 衛 で ル ン 門あは か門 り 名 は先 た の ス ち ( っに の が 外生 ) よ る 外 は たは 人 高 に は に し 。 科 博 。い が く 科し も 幸 お 大 が 学 が っ作 る 通うの た 、 長 こ う ぱ も 西 と 、う詞ま人 の崎 まいら号 の で へ 大通詞、西善三郎の忠告 drink 「 「 れうあは酒は 飲キ こ 」 にり、なむあ む(れに 最どずち 注 は ま は 」 こ ?ぐ、せ初をから と 」ままんに「しの な)とねず。 手飲いこ まむこと のと問を茶「 酒 とば で教うしわを ね」 と すえと、ん飲 でいでを 。て、そでむ たうす習 くうれも ずこ。っ た れなに持」 とねととて まず口ちい るを 理 すいを上う よたえ解 。てつげこ りずばす こ「けてと し 湯る れデて、を かね水こ がリ、こ問 たるやと に ン かりがし少まを らまあ酒しせ問さ 、するを飲んうて ど。し多む。に、 うこ、くのこは上 にれ少飲とん、戸 もはなんでな手( し心くで区のまじ かも飲も別はねょ う たちん、が、でご がので酒わたた) あうものかくずと りえ好好りさね下 まのききまんよ戸 せこなです飲う( んと人な。むもげ 。でがいしのあこ すあ人かとり) と て希 わうそ 、望 た人の そを しが年 れ は来は は申 、て、 おし オい大 の やべ ラた通 めた ン。詞 なと ダ良と さこ 語沢し いろ をのて と、 学引は い善 びき西 う三 た合善 。郎 いわ三 はとせ郎 聞いでと いう、い 大通詞、西善三郎の忠告 …… aantrekken がかたのでいわにこあとのむえす「 「 も道ろがとで「 さ む 引 ア たしな御すてかオんちへも」に。 と中、らきす ーて の こ く や、か。 、 で ともく ら用。学りラ なら引こ意引 酒う」「 向 こら自 ンそ 忠お御 ずで野ぼにン にのきう味き をのこか初っ と テ 通分 レの 告や理 御年呂うくダ 面こ寄いにた 好もとうめ五の こ弁は 「 せ い 人 と む 倒 と い で く て しめ解 勉々・ ッす 青 十 の と な 」 ま た 通 思上をすとわ才ば( ケき たにが 強こ木思のに なば る つ詞ン す う戸 。いか 。なで でののわで接 もをい こ う 手 の に の と 「 す 。 っきす宿両れ しのつ こでのもま向うりな意べの」 (の たながへ る。てでき思 家 む で、えか意まっ味ん れ 先 ま す お う ほい、 のしい、す も。すむ い味してを)に 」 生 うよなこ は てわす心 ま。こへ に生 と た 引 、 、 引 がうかしな、てさたんがまたすうきく「。こ知はま い ら慣れ う ん よでなにど不やえしであた、なの 」テ「 寄とレアどずれ こ 、 、 も の いすかなも可、 る わ 、 習 故 江 ー に お と で。、り、能戸たようか故郷ちのせいッ ケンの て )は 郷 そ や る う 、 しあは 拝いおさと ななすうのらをを、を ン 」 ひ の 」 の」と礼たりな い、 ょなか 「 に 手 こ で の は うたばとたとどくつ す手思好まではとはのとないう かめ にはね、 もう 。 、は こ の 。 カランスと源内 をき 入 ル も 行 おの れ と 求 っ 源 どこ て い め て 内 オは ろと 江 ぅ て 来ラ、 かも 戸 ふ ンそ て し考 に し たえ 帰 ぎ 、 ダ の の 。て り な ま の 、、器た本ち 多そ械エや長 くのをレ器崎 の働手キなへ 人 にテど 句通 へ た 弁 オ 通弁 や 内 じ ラ じし つ き通たン たた ) 詞 の ダ わの と 部 で 語 けで い 屋 は を であ っ 付 な 直 はっ た ( く 接 なて よ な 、 に うい付話 い、 一 。言 な つ き し 人う添て 一がじっ ( 平 こたカ賀 とびラ な投ン源 ど宿ス内 を先とは 尋を親オ ね訪しラ たれくン ダ な )、 人 博り船 物、 た長 のびの 平賀源内とエレキテル http://www.infocreate.co.jp/hometown/hakozaki/hitoe.html オランダ書翻訳の望み のか う 国 も 詞 て い な た れ を 本 あに ば で 会 か こり に の の に も も ん 人 ま う 語 も るつ す あ う ね とし と た だ で で の と の で る に し 。い る っ た て てほたび、 でて 、 め 。 も き だ か な に に 翻 も は が わ あた そ の 一 頼 ぬ ろ こ い そ ち 訳 オ ど に 感 れ 冊 、、た っめ 大 ん こ う の の れ が し ラ 、 心オだよし たい の き で で と か 道 は を い た ン すラんくは 。き で な も 読 だ 。 を 口 や な ら ダ るンだ話平 をき益でみか江ひおろい、の こダんし賀 つなにきわら戸らしう。ず本 とのと合源 くいなあけ、なくいとといを ば実見っ内 ののるがさ長ど方こ思こぶ直 はを っせ崎で法といろん接 か地聞たな り研すこど 毎、だたたのははだ立が利 に ろ が らい通とな。っこ益日 で究れとに 度 っ 、 長崎通詞たちの反応 een deel) ひ医 り て 二 (一 「 うでで ひ と学 さ 、 の 節 や な 、 は い りや ま こ わ 」 め こ 書 、 か 知人 で と か と し と 物 か に も もをれも る体 あ が れ 」 す 人の っ ん 」 と訳 を な 読 ら そ す「かんはう が構 た で と いべ さ で 通 で 和 よ な造 い 訳 うき む っ いの う た し 語「 め た 翻 訳 あ はこ で と をエ 時 訳 を ろ 代をすう ずと あ い て 「ー し 」 、 でな る う そ 一ン と で す る 。 そ 、 だ る あど 。 よ れ の・ い デ るは も う で わー い た と け の といのこ 。、 ち な 通 かル 、 えうころ だろ じれ 「 一 れ ん あ 、」 部 は よ と ま 、 う通 江 長 来 三 こ こ詞 戸 崎 る 年 の との で に オ も 業 で人 大 も ラ 過 が あた い 伝 ン ぎ 江 るち に わ ダ た 戸 。は ひ っ 人 こ で 反らてのろ唱 一、え 感け、 蘭 をた学行毎始 年め の 持こ とと っにい便拝ら て うり礼れ い対もににて たし よ江か とてのっ戸ら い、がてに二 、 外国語教師としての通詞 こス な を 初 し や 九 善 賀 う か 安 とプ ど わ の た っ 郎 三 源 じ ら 永 もラ と た こ ち て と 郎 内 ゅ 荒 七 あー い し ろ が い い の の う 井 、 た っ で カ っ の 蘭人いもとろ庄八 た」 し 宅 あ 学 、 と こ う 十 年 通 で ょ 。( っ 会にへ を ろ)郎の の こ 話「招た起あ詞養にと ( いあろ っ の か き サ 来 ) をー、らこた仕子たうら、 し で 男 長 淳 事 習メ 、た。 い 。 わ 、 っン庵か最たを政西がし崎 れ た 平ょ にろ に 本 玄 帰い 寄 木 沢 っろ 宿 栄 は た熱 し 之 や 。心 て 進 が に教とて 修えい長 行をう崎 し受通に てけ詞行 江、のき 戸い家、 大槻玄沢『蘭学階梯』1788年 乾坤2冊25章からなるもので、 乾巻では蘭学のいわれや興隆の次第を略説し、 坤巻で、 文字・数量・配韻・比音・修学・訓詁・転釈・訳辞・訳章・釈義・類語・成 語・助語・点例・書籍・学訓にわけてそれぞれ略述している。本書は入門者用 に 編集され、 不完全ではあるがオランダ語法を体系化し広く普及しているもので、 オランダ語に対する世人の関心を大いに高めた。 http://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/ran.htm 志築忠次郎 に訳 な も な も く 通 忠 発す か し ら っ で 詞 次 奮る ま れ ば と き と 郎 しこ が な 、 も た い と たと 、 い か こ 人 う い 結を 先 。 え の で 名 う 人あが人 果始 生 あ っ て かめ も る こ が ろ で は とた な い う 引 う き 、 もの し は は 退 と て わ しいかが 思で に 、 江 な わ、 あ 戸 ら な う ら 国 いこ、に ち れこ で な の で い る人 ら わ か 職 と ち オ 。も の れ っ に で ば ラ 本 た あ ン こをわ いるんダ れ れかた。よ 研り ひ だ 野 の あ 郎 本 究、 と か 氏 職 っ ( 木 し 多 し りらにをたつ栄 たく 学 と も や 。 き之 生 の と んいどめまち進 い本 で っ っ て ゅ と うに オ て て 他 れ う い こ目 ラ 他 ひ 人 つ う じ き 人 き とを ン に病ろ人 と こ で通 ダ ゆ うの の も あし の ず気)弟 るて 本 交 り り が と 子 に際、、ちいに 。、 文読を病本でう 志 学み断( 、 や姓 通 のふっまの早詞築 書けてい中くが忠 を 、) そ 次 馬場佐十郎 すつらえわを を翻つしに れの( こおオ人次文 真 るか、をた教 好訳い出滞 た御由のそラ た郎化 さ在が用 千わンち・の でんお受しえ むのて ) 馬初 ダ 之 し あでのけのら も御、 で っ れ 、 も と も お 、 ろ本 て子れ の用っ、、 そ江改助た語 、場め 当れ戸名はとのそ千の う格のい弟る がをぱつ る孫こみつらい時かにし、い文の之こ 。的そ のこ子となとオに御ら召、いう法門助ろ 江家数 先まこ にな、 なしと め し は の そ ラ戸 訳んでもと と要はど吉 年 人 年 、 寄 の な にに江 臨佐で領いと雄 もずあそっ読こン ダ せ の 住 の 完いる教た法 語 召戸ら時十あをっい六 郎る てう 成をか 。 学 み 。 馬場佐十郎撰 『蘭語訳撰 』 1810年 豊前中津藩主奥平昌高 (1781-1855) の命により編集された日本語―オラ ンダ語の辞書で、 中津藩にて刊行されており、 一名 『中津辞書』 ともいわれ る。 この辞書は日本語辞書、 節用集に模していろは順に配列、 各項目をそ れぞれ天文、 地理等19門に分類し、 約7,000語を収録している。 オランダ語 の読み方の表記はない。 馬場佐十郎 (1787-1822) は名を貞由といい、 語学の才に恵まれ、 蘭語学書やロシア語学書 を著述しており、 本書のまえがきを蘭文で書い ている。 尚、 中津藩の家臣神谷弘孝が大いに 協力している。 http://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/rango.htm 杉田玄白の通詞観、外国語観 「通弁」に対する軽視 読み書きを学ばず、耳で聞き覚えたオランダ語を使ってどうにか 通訳を行っている通詞についてはかなり見下した態度をとってい る。また、そうした下級通詞の能力にも信用を置いていない。 通訳だけを行って書物の翻訳をしない通詞にはほとんど関心を 寄せていない。 書き言葉重視 通詞がオランダの文字言語を学ぼうとしたことについて「当然そう あるべきだ」という論調。 外国語学習の目的 外国語を学ぶ=翻訳によって外国の学術(特に自然科学)を日 本に導入する 外国人との対話によるコミュニケーションは念頭にない。 ペリー艦隊の来港 オランダ通詞と開国 フェートン号事件 1808年 長崎にオランダ国旗をかかげたイギリスの軍 艦が突如侵入し、母国船と思いこんで駆けつけたオラン ダ商館人を人質に、飲料水や食料を要求した。 幕府は英語の必要を感じ、長崎のオランダ通詞に英語 学習を命じた。 軍人としてイギリスに駐在したことのあるオランダ人、ブ ロムホフが教師となり、英語学習が始まった。 1810年 通詞たちは最初の英会話手引き書『諳厄利 亜興学小筌(あんぐりあこうがくしょうせん) 』を完成。 1814年 通詞たちは最初の英和辞典『諳厄利亜語林 大成 』を完成。 ラナルド・マクドナルドの上陸 1848年 北海道の利尻島に米国捕鯨員のラナルド・マ クドナルドが上陸。日本にはじめて上陸したアメリカ人 (英語母語話者としては、1600年の三浦按針・ウィリア ム・アダムスが最初) マクドナルドは長崎に護送される。 森山栄之助ら14名の長崎通詞が獄中にあったマクドナ ルドから英語の教授を受けることになる。 通詞らは『諳厄利亜語林大成』を手に、ブロムホフのオ ランダ訛りの英語の発音矯正を受けた。 長崎に来て半年後、マクドナルドは米軍艦に引き渡され 強制送還となった。 浦賀に来港した黒船 1837年 アメリカ商船モリソン号 1846年 アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル 率いる帆船艦隊 コロンバス号・ヴィンセンズ号 漂流民の引き渡しに来たが、攻撃を受けて退散 米国政府派遣により通商を開くこと目的に来港する が果たせず。 1853年 ペリー艦隊来港 蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号 帆船のサラトガ号・プリマス号 ペリーと黒船 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663/m_rkouza/html/z_kurofune2.html#peri http://www.city.kashiwazaki.niigata.jp/hidamari/kurofunekan/kurofune.htm ペリー艦隊乗組員および言語 海軍軍人(専門外交官ではない)&中国語・蘭語理解者(日本語少々?) ペルリ提督(中国海域艦隊司令長官→「東印度支那日本海水師提督」 →「特命欽差大臣専到日本國兼管本國師船現泊日本海提督」) ウイリアムス(漢語・日本語通訳。宣教師・中国学者) ポルトマン(蘭語通訳。オランダ人) 羅森(漢語通訳助手。中国人) アダムス中佐(艦隊参謀長)ら[交渉の実務] (漂流民・仙太郎サムパッチが同船、交渉には参加せず) (日本側の交渉団メンバー) 日本側の乗船者:香川栄左右衛門(与力)、堀達之助(主席通訳官)、 立石得十郎(二等通訳官)、森山栄之助は奉行所詰 http://momi.jwu.ac.jp/nichibun/shimizu/gengo1.htm 日本側主席通訳官 堀達之助 1823年~1894年 オランダ通詞中山家の出身 父三郎はフェートン号事件で活躍した阿蘭陀大通詞、 母は唐通事の陳家から嫁ぐ。 1853年 ペリー来港時に主席通訳官を務める。 ペリー艦隊に対して最初に発した言葉“I talk Dutch” が有名。 晩年は『英和対訳袖珍辞書』を編纂 一郎、孝之、広太郎、寛之助の4人の男子がおり、五代 友厚の私的通訳を務めた孝之以外の3人がいずれも通 詞に。 浦賀奉行所通詞 森山栄之助 森山栄之助 1820年6月1日生まれ、父は阿蘭陀大通詞。 1848年 数ヶ月間、マクドナルドに英語の発音矯正を受け、マ クドナルド送還時には通詞としてプレブル号との折衝にあたる。 1853年、ペリー来港の際には浦賀奉行所詰めの通詞として働 く。 1854年、米艦隊来港の折りに英語通詞の命を受けた。 いずれの折衝においても英語の能力は通訳ができるほどでは なく、オランダ語に英語を差し挟み、あとは手振り身振りでコ ミュニケーションするといった程度であったらしい。 米国側主席通訳官 サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ 1812年、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男 として生まれる。 1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマ カオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在。印刷技術、中国 語、ポルトガル語、日本語を学ぶ。アメリカへ一時帰国し、『中 国総論』という書物を出版。 1837(天保8)年、米国船モリソン号には20代の若き日のウィリ アムズも同乗していた。 1953年、ペリーとともに主席通訳官として来日。アメリカ大統 領の国書を受け取るまで日米両国の実務者間では何度も協 議が繰り返され、その際の通訳に当たった 。 帰国後『ペルリ日本遠征随行記』を著す。 ペリー会見の図 『ペルリ提督日本遠征記 』より http://www.wsnet.ne.jp/~hakodate/shishi/vol1/t01/t010210.html 中国人乗組員 羅森 香港から遠征隊に参加した中国人 ペリー艦隊随行記で『日本日記』、フランシス・L・ホークス編の公式報 告書「ペルリ提督日本遠征記」第二巻に次のような前書きがされて付 録として採録された。 ペルリ提督の第二回日本訪問(ある中国人が記した日記) 「二度目の日本訪問に向けて中国から出航する際、通訳のウィリア ムズ氏の助手として働いていた。非常に教養があり優秀な中国人 〔羅森〕がほかの者と一緒に艦隊に加わった。観察眼の鋭い彼は、中 国に帰国する際に、日本訪問時に記した日誌は、教養ある中国人の 知性をよく表しており、また、周囲のアメリカ人の考えに影響されない 東洋人(言葉の壁のためあまり意志の疎通がうまくいかなかった)と しての見解が記されているため、合衆国の読者にとっても興味深いも のと考え、この巻の付録に付け加えた。」 http://www5.ocn.ne.jp/~seigadou/nihon.html 幕末日本の外国語 中国語:歴史の古い漢学の伝統によって、口語 中国語は話せなかったが、漢文の筆談でかなり のことが通じた。 オランダ語:日本で唯一のきちんと学ばれてい た西洋の言語。 英語:阿蘭陀通詞たちが漂流民などに習うこと があったとはいえ、スムーズに話が通じることは まずなかった。 幕末の日米交渉と通訳 ペリーは通訳としてアメリカ人ウイリアムス、オランダ人 ポートマン、中国人羅森を伴っていた。 年二回目の来港時に通詞の名村五八郎が会見に間に 合わなかったため、羅森が英語を漢文に直して江戸幕 府役人に意志の伝達をした。 幕府側とペリー側とのやりとりは次のように行われた。 日本語←→オランダ語←→英語 日本語←→漢文←→英語 1856年 下田総領事となったハリスは赴任時にオラン ダ語通訳件書記としてヒュースケンを同行している。 中浜(ジョン)万次郎 1827年 土佐に生まれる 1841年 14歳 漂流してアメリカ船に救助され渡米 1852年 危険を冒して帰国。土佐藩主山内容堂 に召し 抱えられ藩校の教授となり、アメリカ文化などを講義、 坂本龍馬らに影響を与える。 ペリー来港時には幕府に呼び出されるが、米国在住で あったことから正式の交渉通訳はできず、舞台裏で条約 の締結に尽力した。 1860年、勝海舟率いる咸臨丸に福沢諭吉らとともに乗 船し、訪米期間中は通詞や英語教授などで活躍。 英会話テキスト『英米対話捷径』 を著す。 後に開成学校(東大の前身)の英語教授となる。 通弁方 中浜万次郎 中浜万次郎像 http://www.linkclub.or.jp/~shinji-h/Kanrinmaru/Jyoin/Nakahama.html http://www.yomiuri.co.jp/inpaku/81/essayw/040.htm 中浜万次郎 『英米対話捷径』(1859) よ ふ シ ヤ ァ ー thirteen ヅ ー あ な た さ ま T ユ ー D pretty 一 レ テは 「 は 「 リ キ チ 「 とチ 「 」 ヨ ウ ア ヱ ー お系 サ は ヱ ア イ ア「 ぼ・ チキーゼビ 」 チ テ し系 は ン ー シ イ ー ヱ シ い 「 」 」 メ ワ 両 、、 シケ ) 。方 ス 「 「 イ チ ー ー テ ジー リ ( 」 長」 は ー ーユヱ で ル 母 、 「」 リ ーヱイ 音 」 はー ー が の「」 フム ヱヱ チ 音ブ。 ヘ ー ンフ 、 写ロ「 短 テ ノヂ 母 に」 ーー 、 つ 音い タピヱ が て 」 ブーイ [ti] 見 How do you do Sir? Where did you see him? ヒ ム ごい ざか るが ハか ヲ ご き ヅ げ ー ん ア ル フ ァ ベ ッ ト misty レ い づ かく れ フ をに ハ て ヤ な デ さ ッ れ チ た か ユ ニ ー あ シ な ー た I am happy to see you in good health. おわ また んく グア の し ーイ お よ リア け ろ ムる こ ヘ をぶ ル ハニ レ スペ よ こ きと ツう を レ ま シき ー み こる と三 ユに ー一 イ ン 会 話 ( 漢 文 訓 読 と 同 じ 返 り 点 つ き ) 開国後の日本 横浜に外国人居留地を開き、多くのアメリカ人や アメリカ人に雇用された中国人が横浜に住むよ うになる。 日本人も横浜に店を持ったり、海外との貿易に 従事することが多くなり、国際交流が急激に進 んだ。 一方、米国の進んだ科学技術を目の当たりにし た政府は、それまでの漢学・儒学・蘭学よりも英 学の振興に意を注ぐようになる。 明治期の英学者 福沢諭吉 新渡戸稲造 夏目漱石 英国公使付通訳官アーネスト・サトウ 1843 ロンドン市内クラプトン(Clapton)にサトウ家の三 男として生まれる 1859 ロンドン大学に進学。ローレンス・オリファントの著 書*を読み日本行きを決意する 1861 18歳の最年少で日本語通訳生に任命される 1862 横浜に到着。横浜のイギリス公使館で勤務する 1865 日本語通訳官に昇進する 1872 内縁の妻・武田兼と家族を持ち、二男に恵まれる (長男栄太郎、次男久吉) 1876 通訳畑の最高職、日本語書記官に昇格する アーネスト・サトウに関する本 図説アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官 http://www.yurindo.co.jp/shop/ybooks2/170satow_album.html
© Copyright 2024 ExpyDoc