金史良 『光の中に』

金史良 『光の中に』
5月26日(木) 4限
13202103
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13202156
井元 育
亀崎麻美
小塩美穂
吉田早耶香
登場人物
貞順
(朝鮮人)
李
南先生
山田春雄
半兵衛
(日本人)
南先生・・・帝大に通う朝鮮からの留学生。
夜は東京S大学協会市民教育部
で朝鮮人労働者に英語を教えて
いる。子供好き。
山田春雄・・南先生の生徒の一人。父が日本
人(実は日本人と朝鮮人の混血)
で、母が朝鮮人。
朝鮮人の血を受け入れられない
李・・・南先生の生徒で朝鮮人。自動車の運転助
手。春雄の母親に同胞として親近感をも
ち、春雄と春雄の父親を憎んでいる。
あらすじ
東京S大学協会市民教育部で英語を教える主人
公・南(なん)は生徒に「みなみ先生」と呼ばれてい
ます。彼としては朝鮮人ということを隠すつもりもな
いし、抵抗も感じていたのですが、「やはりこういう無
邪気な子供たちと遊ぶには、却ってそのほうがいい
かも知れないと考えた。それゆえに私は偽善者をは
る訳でもなく又卑屈である所以でもないと自分に何
度も言い聞かせて来た。いうまでもなくこの子供部
に朝鮮の子供でもいたら、私は強いてでも自分を南
(なん)と呼ぶようにしたであろうと自ら弁明する。
・
ところがその中に山田春雄という「不思議」な子供が
いた。南が朝鮮人だと分かったとき「そうれ、先生は
朝鮮人だぞう!」とはやし立て蔑視をむき出しにした。
春雄は複雑な事情をもつ日本人の父と朝鮮人の母
との間に生まれた。
春雄は朝鮮人であった母を受け入れることができ
なかったが、それは博徒である父があからさまな差
別主義者であったからだった。そのため父は母に日
常的に暴力を振る。春雄は母を愛したいのに母に
着くことが出来なかった。
春雄の家庭事情に深くかかわるにつれ、南に問わ
れたのは己の民族性であった。南は次第に己に言
い訳が出来なくなっていった。
朝鮮人の本土(内地)への流入
①日韓併合(1910)→朝鮮が大日本帝国に編入され、
朝鮮人に日本国籍が付与される。
②土地整理事業→地主と小作人の地位分化→貧困
化した小作人が就労の機会を求めて日本本土に渡
航。
③日本(本土)の工業化(第一次世界大戦以後)→安
価な労働力の必要→朝鮮人労働者を雇用。
⇒1920年から年々多くの朝鮮人が日本に渡航→19
36年には約60万人、次第に定住化、政府は本土
の治安維持や失業問題の観点から渡航制限をおこ
なう。
国家総動員法
侵略戦争遂行のために人的・物資資源を一
元的に統制・運用する近衛内閣のもとで企画
院が立案し、強大な権限を政府に与えるため
に1938年に施行された。
同法にもとづいて国民徴用令などが制定され、
国民を戦争に駆り立てるための根こそぎ動員
を可能にした。しかし、1940年になると、労
働力の不足が顕著となり、青少年をもってこ
れを補わなければならない状態になった。
1939年には、日中戦争や太平洋戦争の労
働不足を補うために、日本は国家の総力を戦
争に注ぎ込む国家総動員体制を敷くことにな
り植民地として最大の人的資源を有していた
朝鮮からのいわゆる、強制連行が始まった。
日本国内の軍需産業にも朝鮮労働者が約6
0万人動員された。『光の中に』が書かれた時
期の朝鮮からの労働者は「募集」方式により
日本に送り込まれた人達だと思われる。
朝鮮人の日本における生活状況
職業:地方公共事業、電力、鉄道などにおけ
る土木日雇い→工場労働者の増加、14才以
下の労働者も増加
賃金:平均して日本人労働者のおよそ半分
住居:バラック等の粗末な建物を借りて集住
→朝鮮人集落が形成、日本人との生活空間
とわけられる。差別をうみだしていく
・
「彼らの大多数は・・・場末の彼ら独特の不衛
生なる群居生活を営み、そこにあらゆる社会
悪をうみつけて、面白からぬ幾多の問題を起
こす」
1930年 大阪市の調査
「これらの家屋は普通の家屋とは異なるもの
のその大部分は屋根に雨漏り、壁は落ち、戸
締り不十分にして漸くにして雨露をしのぐに足
るといふに過ぎぬ状態。バラックや掘立て小
屋に等しく屋根四方を古トタン板を使って囲ん
でいる・・・人の住む所とは思わぬ如きものに
して実に悲惨なる状況・・・」
1935年横浜市調査
まとめ
P8の「自分は朝鮮人ではないと喚き立てる山田春雄の場合と本質的な所何の相
違もないではないか」
「私はこの地で朝鮮人であることを意識する時は、いつも武装していなければなら
なかった。」という場面が印象に残った。南は、子供たちとの隔たりをもちたくない
ために自分の名前を日本式に呼ばれることに納得していたが、実は朝鮮人への
差別や蔑視を免れるための口実だったのではないかと感じた。
P15の「先生、僕は先生の名前を知っているよう」「南(ナン)先生でしょう?」とい
う場面で、それまで「朝鮮人ではない」「朝鮮人は嫌だ」といっていた春雄が南(み
なみ)を南(ナン)と呼ぶことで春雄が朝鮮人に対してもっていた蔑みや卑下の感
情がだんだんはがれていく様子がわかる。
春雄の朝鮮人への差別感情が生まれた背景には、朝鮮人でありながら朝鮮へ
の差別意識を持った両親の間に生まれ、そのために、自分のアイデンティティの
置き場所がわからなかったためだと考えられる。
タイトルの「光の中に」は傷めつけられ歪められてきた春雄がP14で「僕は舞踏
家になるんだよ」と夢を語るところから南が春雄の将来に光を見出すと同時に、
朝鮮人が朝鮮人としての民族の誇りを取り戻してほしいという金史良自身の願い
が込められているように感じた。
土城廊
≪あらすじ≫
朝鮮の平壌を舞台に最下層に生きる土幕民を描いている。
土城廊は平壌城址大同江に面した有名な貧民地帯である。ここに住む多くは乞食として生活している。1894年
の農民蜂起の「鎮圧」を口実に日本軍が清軍と戦った際にはここが戦場となった。
元三は元は或る遠い山奥の土豪の奴僕であった。50余年たって主家が没落したために自由の身になり山を
下りた。街におりた元三はその異様な風采のために周囲の支械軍(担荷人)達に取り囲まれなぶられるようになっ
た。それを支械男の先達によって助けられ土城廊に連れてきてもらい土幕まで世話してもらった。土幕は崖に横穴
を掘ってむしろなどで入り口をふさいだだけの洞窟住居だ。しかし、土城廊土幕民の撤去問題が再燃していた。そ
れは、朝鮮の貫通線が土城廊の前方を走っているために国際的体面上、加えて、都市美観上もほうっているわけ
にはいかなかったからだ。
支械の稼ぎが悪いせいで先達は婦にいつも小言を言われていた。先達に助けられた元三その恩返しに毎月米
を先達に渡していたのだが、それは元三が婦に気があってのこととわかり、その上自分の甲斐性のなさでそうしな
いと食べていけないという現実に気が滅入っていた。婦ともけんかがたえなかった。
土幕は暴雨のたびに低い沼地が大河のようになった。
先達は元は百姓であったが、小作権移動(小作人の小作権が確立されていないために地主によって自由に小作
権が取り上げられた)の通知により自作田を失い土城廊にやってきたのだった。
倉庫の仕事は組合加入者だけの手でなされるのもので、支械軍のような浮浪労働者には許されない仕事であっ
た。先達は同じ村の出身で元は下男であったが、今は組合に加入している柄吉の世話で倉庫の仕事をするように
なる。ある日、倉庫の仕事が他の労働者達に発見されてしまう。倉庫の仕事は滅多にないいい稼ぎ口であるため
に、それにあぶれたら憎悪と嫉妬の念に駆り立てられ殺気立つのも無理はなかった。始めからこの仕事に参加す
る資格のない先達は組合員に見破られ腕を捉えられたとき咄嗟に男を拳で突き飛ばした。柄吉がすぐに制止した
ので格闘は難なく収まり、先達にも負傷はなかった。先達は熱い思いがこみ上げ涙が流れた。稼がなければなら
ないという思いだけが彼を動かしていた。「担がせてくれ」彼は叫んだ。ただならぬ気迫に皆黙って先達に背負わ
せた。しかし、それはあまりにも彼には重すぎた。先達の体にのしかかり彼の命を奪った。
残された婦は先達の変わり果てた姿に泣き崩れた。その姿を見て元三は自分が婦を助けていかなければならな
いと思った。
東側の沼地のほうから濁流が流れ込んできた。元三は早く婦の所に行き連れ出さねばと体を起こそうともがいた
がどうしても起き上がれない。腰を浮かし足を先にして下のほうに乗り出した。手が泥で滑ってするする落ち濁流
にのみこまれた。浮かんだり沈んだりしながされていたが、それ以上は何も見えなくなった。
≪感想≫
・朝鮮の最下層の人々の生活を詳細にかつリアルに描いた作品である。
彼らは貧しい生活を強いられその生活から抜け出したいと思っているが
どうすることもできない状態におかれている。住居を追われ、生活を追
われながらも支配者や権力者に対して抵抗を示すこと自体が不可能な
状況で、明日一日を生きることで精一杯のギリギリの中に生きている。
生活に少しの余裕も見当たらない。
・土城廊の近くには屠殺場があり家畜のうねり声がいつも物悲しく響いてい
る・・この描写が土城廊の荒んだ寂しさを表している。
・貧しい中にありながらも中伏節には近所同士で集まってお酒を飲んだり、
わずかな稼ぎを貯め貸部屋を探したりする様子から彼らが少なくとも将
来に対しての希望や夢を抱いていたことがわかる。
・灰色の鳥打。鼻まで深く被された古中折れ。底の抜けた麦藁帽子。濡れ
たぼやぼやの髪。そして、皆裸足だった。という言葉から、「光の中に」
と比べ朝鮮人の直面する現実を描いているところは共通しているが、全
く異なる生活環境でありその中で最後は元三の死で終わり、最後の最
後まで悲劇的だった。
草深し
あらすじ
医大生の朴仁植は朝鮮人でありながら日本政府にしたがう郡守である叔父の
演説で通訳として働く鼻かみ先生と再会する。
鼻かみ先生は仁植の中学時代の先生で、学校の中では唯一の朝鮮人教師で
あった。鼻かみ先生は他の日本人教師から馬鹿にされていたが、生活のために
差別にも耐え、朝から晩まで働いた。しかし、日本人の教師に対する反発から生
徒は学校をボイコットして、日本人教師を排斥する事件をおこす。その中に鼻か
み先生も含まれてしまい免職された。
色衣奨励政策(注1)を進める日本政府にしたがい、山民達の泥で薄汚れた衣
服に○や×、△などの印を墨でつける叔父と鼻かみ先生。それを見た仁植は、
印のついた山民が囚人のように歩いていく姿を見て二人に強い反感を覚える。
仁植は医大生として山民衛生を調査し、或いは簡易治療を施したりするボラン
ティアをしたいと思う、熱い気持ちを持つ青年であった。しかし、その一方で、仁植
は自分の目的がそれだけではないことも知っていた。仁植は悲惨な郷国の姿を
見て、ひ弱な心を叱咤され鞭打たれることを欲していた。貧困の中に喘ぐ火田民
の中に入りさえすれば自分は気持ちだけでも軽くなると思い、これが感傷のエゴ
イズムだろうかと仁植は目をうるませて考える。
しかし、仁植がいざ山に入ると、人々からは拒絶され、自分の想像をはるかに超
えた火田民の生活を見て、本当にこの人達のためになることは何なのかと考える
ようになる。
色衣奨励
朝鮮総督府が民族性否定のため植民地政策
の一つとして白い衣服を着用した朝鮮人に色
衣着用を強制した。
白い衣服は汚れが目立ち、洗濯等に手間暇
がかかり、不経済であるとし、汚れの目立た
ない黒や紺の衣服を強制した。
感想
この話では、裕福な人と貧しい人との間の考えの差が感じら
れた。主人公、仁植は裕福な家系で、山民や火田民の実際
の貧しい生活ぶりをよく知らず、ただ悲惨だと同情していた。
本当の生活は「悲惨」という一言では言い表わすことができ
なく、生死にかかわるものであった。
仁植は親日派の叔父や鼻かみ先生を許せなかった。だが、
叔父や鼻かみ先生も好きで日本にしたがっているのではなく、
生活のため、生きていくために朝鮮人としての誇りを捨てて、
一生懸命にやっていたのだと思う。結局は仁植はだれの気
持ちも理解することが出来ず、他人事のようにしか考えるこ
とが出来なかったのではないかと思う。
「草探し」という題名は主人公、仁植と日本植民地下の朝
鮮人がこれから模索し、深い草の中をかきわけても出られな
い様子を間接的に表現したのではないかと考える。
金史良の作品の特徴
土城廊においては「ウォンサミ(元三)」「ドクイル(徳一)」「イムセンウォン
(任生員)」「ビョンギル(柄吉)」などの人名、「ソンダリ(先達)」「アズモ
二ー(姐さん)」のような俗語的な呼びかけ、「チゲ(支械)」「ウム(土幕)」
「チョゴリ(上衣)」「ボソン(足袋)」のような名詞など、さまざまな朝鮮語が
漢字に振られたルビとして示されているのが見られる。このように多用さ
れた朝鮮語によるルビの表記が朝鮮に暮らす貧しい朝鮮人の生活をリア
ルに表現している。草深しにおいても同様の表記は見られるが、「レンミョ
ン(冷麺)」「モンソグ(莚)」「サバリ(器)」「チゲ(支械)」の五つのみで、人
名には朝鮮語のルビはついていない。
「光の中に」の舞台は日本であり、主人公は朝鮮人であるが日本人の中
で生活している。「草深し」の舞台は朝鮮で、比較的裕福で教育のある階
層の朝鮮人を主人公に、日本と朝鮮、日本語と朝鮮語との関わりを扱っ
た作品であるのに対し、「土城廊」は日本の問題を表面化せずに朝鮮の
下層民の生活を直接描こうとした作品であるといえる。
一言に日本の植民地支配下におかれている人々であってもその生活形
態はさまざまであったということが金史良の作品を通じて知ることができ
た。
作家 金史良(1914~1950)
1914年3月3日、日本統地下の朝
鮮平壌の裕福な家庭に生まれた。本
名は金時昌。1931年(昭和6年)平
壌高等普通学校5年生に在学中、光
州学生運動の洗礼を受け反日学生
闘争に呼応する同盟休校事件に関
与し退学となる。1933年に日本に
渡り、旧制佐賀高等学校に入学した
ころから執筆を始める。東京帝国大
学文学部に進み、日本語での創作も
始め「土城廊」「荷」などを書いた。3
8年村山知事主催の新協劇団が、先
輩日本語作家の張赫宙の脚色で
「春香伝」を朝鮮巡演することを知り
これに協力。39年に「文藝首都」に
「光の中に」を発表。40年にこれが
芥川賞最終候補に選ばれ注目され
る。
これを機に「天馬」「箕子林」「無
窮一家」など次々に発表。また朝
鮮文学の翻訳紹介にも力を注い
だ。国策的日本文学誌の「国民
文学」に「太白山脈」を連載する
など、朝鮮文学の日本語化に関
与したが、反日帝的民族的立場
は棄てなかった。41年(昭和16
年)日米開戦とともに拘束、翌年
釈放後朝鮮に帰る。45年(昭和
20年)日本軍に微用された朝鮮
出身兵の慰問団の一員として中
国に赴いた際、自由を求めて延
安に脱出。50年朝鮮戦争が勃
発すると、人民軍に従軍。米軍
の侵攻にともない撤退中持病の
心臓病が原因で36歳の生涯
を閉じた。
作品紹介
荷(1936)
土城廊(1940)
天馬(1940)
草深し(1940)
無窮一家(1940)
箕子林(1940)
天使(1941)
親方コブセ(1942)
海が見える(1950)
民族学級
公立学校における民族教育は、政府のとった1948
年の「朝鮮人学校閉鎖」の代替措置として始まった。
このとき、朝鮮人代表と日本政府との間でかわされ
た「覚書」によって、政府は公立学校の放課後時間
を使った民族教育を一定認め、地方自治体が任用
する民族講師(在日朝鮮人教員)が在日児童・
生徒に民族の言葉や歴史を教える「民族学級」
が各地にできた。
民族学級は以降、1950年代にかけて、各地の
韓国・朝鮮人密集地域を中心に設置・運営され
た。その正確な数字はつかめていないが、例え
ば最大の密集地である大阪府では30数校の
小・中学校に設置され、30数名の民族講師が
いた。
しかし、1960年代から減少し始め、70年代に
はほとんどの民族学級が廃止ないしは大幅縮
小された。衰退の理由は、民族講師への激しい
差別と行政の無施策、日本人教員の無理解に
あった。
参考文献
「光の中に」 講談社文芸文庫 金史良
「在日コリアン百年史」 三五館 金賛汀
「在日という生き方」 講談社 朴 一
「昭和史」
岩波新書 遠山茂樹
「在日朝鮮人 私の青春」 三一書店 朴慶植
「在日朝鮮人・強制連行・民族問題」 三一書店 朴慶植
http://koreanliterature.kaist.ac.kr/kimsaryang/
http://k.daum.net/qna/kin/home/qdetail_view.html?boardid=M&qid=0AcA6
http://k.daum.net/qna/kin/home/qdetail_view.html?boardid=M&qid=0AKt6
http://www16.tok2.com/home/michiko/kim.htm
http://heiseijiro.hp.infoseek.co.jp/kin.pdf - 95k http://www.denizenship.net/zainichi_ngo/zainichi_ngo_09.html
おわり