EU(欧州連合)の社会政策と ドイツの社会的カトリシズム 慶應義塾大学 総合政策学部 教授 渡邊 頼純 2006年6月16日 欧州レベルの社会政策の手法 • 「積極的統合」(Positive Integration):「規則」や「指 令」を通じた、勤労者の社会的諸権利の統一的な保 障。「共同体方式」「社会対話」 • 「消極的統合」(Negative Integration):共同市場内 での自由競争に対する障害物の除去。社会サービ スの規制緩和、社会政策の調和。 • 財政措置を通じた政策誘導:欧州社会基金(ESF)、 年間約1兆円規模 • 「整合化の開かれた方法」:ソフトなガバナンス手法。 全般的な「ガイドライン」や「目標」の設定、具体化と 執行は加盟国や当事者の裁量に委ねる ⇔ 社会 政策の領域における、拘束的な立法措置の困難さ 2 ローマ条約(1957年) • 社会政策に対する責任を負うのは加盟国の 政府であると明記(118条) • 社会政策に関する権限をEECに付与するこ とに対して反対したのはドイツ政府 • フランス政府は、社会的規制を欧州レベルで ある程度まで調和化することを要求⇔男女の 労働に対する平等な賃金支給を国内で原則 化していた 3 ローマ条約(2) • 両性に対する平等な賃金支給(119条) • 有給休暇制度について、加盟国間で現に存 在している同等性を維持する(120条) • 欧州社会基金(ESF)の創設(123-8条) • 雇用、報酬、その他の労働条件について、国 籍による労働者への差別を撤廃(48条) • 移住した場合に、出身国と同等の社会保障 給付を可能にする(51条) 4 パリEC首脳会議(1972年) • 経済成長は自己目的ではなく、人々の生活 条件と労働条件の改善をもたらさなければな らない、と宣言 • 向こう2年間に、ローマ条約235条(閣僚理事 会が全会一致で、共同体の目的を達成する ための新たな措置を決定する)を援用して、 一連の社会的立法措置をとることを決定 5 単一欧州議定書(1987年発効) • L’espace social europeen(欧州社会領域)= ミッテラン政権とジャック・ドロールの提案にも かかわらず、社会政策についてはほとんど全 ての分野で「全会一致」 • 唯一の例外:労働環境における「労働者の健 康と安全」にかかる基準の調和(118条a)⇔ 特定多数決により指令を採択 ← デンマーク政 府の提案、1990年代に頻繁に活用された 6 単一欧州議定書(2) • 「欧州社会対話」(118条b):欧州レベルでの 労使間の対話を促進すべき旨規定 ⇒ マー ストリヒト条約の社会政策協定における、「欧 州社会対話」を通じた立法手続きへと発展 • ドロール委員長:「基本的社会権」 • ベルギー(1987年前期の議長国):ECに「社 会権の台座」を設けることを提案 ⇒ 「労働 者の基本的社会権に関する共同体憲章」(社 会憲章)の原型 7 労働者の基本的社会権に関する 共同体憲章(社会憲章) • 欧州労働組合連合会(ETUC):社会憲章が 法的拘束力を有するものとなるよう主張、独 自の草案を発表(1988年) • イギリス(サッチャー政権)の強い反対 • 1989年12月のストラスブール欧州理事会で 「政治宣言」として、11カ国の首脳により採択、 拘束力なし。加盟国の現状の追認に留まった 8 マーストリヒト条約(1993年発効) • サッチャー政権は社会政策協定の挿入に強く反対 • 社会条項は、条約本文には挿入されず、同条約の 「議定書」とこれに付属する「社会政策協定」という扱 いに ← イギリスは“opt-out” • EUの権限を拡大: 労働条件、労働者に対する企 業からの情報提供と協議、就労機会と職場での待 遇をめぐる男女の平等、労働市場から排除された 人々の統合 • 閣僚理事会での特定多数決を多くの領域に拡大 • 「欧州社会対話」:立法手続きの制度化 9 アムステルダム条約 • 1997年、イギリスの政権交代:opt-outの終了 • 社会政策協定、ほぼそのままアムステルダム条約 の本文へ • ETUC:経済通貨同盟(EMU)とのバランスを図るこ とを要求⇒完全雇用のための戦略 • 「高水準の雇用の継続と社会的排除の撲滅のため の人的資源の開発を目標とする」(136条) • 「労働市場から排除された人々を労働市場へ統合 する」(137条) 10 第1期欧州雇用戦略(1998-2002年) • EU条約の第2条にEUの目的として「高水準 の雇用の促進」を掲げる • 第VIII編に「雇用」関連の諸条項 • 1997年ルクセンブルク欧州理事会 • 閣僚理事会が毎年「ガイドライン」を決定、加 盟国はこれに従い「ナショナル・アクション・プ ラン」を閣僚理と欧州委員会に提出 11 「加盟国の雇用政策のための ガイドライン」4つの柱 • 雇用可能性employabilityを高める ← トニー・ブレアー英国首相のアイデア • 企業家精神を発展させ、雇用を創出する • 経営者と被雇用者の適応能力を高める • 男女の機会均等のための政策を強化する 12 リスボン・イニシアチブ(2000年3月) 「欧州社会モデル」の近代化 • リスボン欧州理事会:「雇用、経済政策、社会的結 束(social cohesion)」をテーマ • 「より多くのより良い仕事、より高い社会的結束を伴 う持続的な経済成長を達成しうる、最も競争力に富 み、かつ最もダイナミックな知識依存型経済」の実 現を謳う • 「人々に投資し、社会的排除と闘うことで、欧州社会 モデルを近代化する」(議長総括) • 高水準の社会保障+個人の経済活動の自由 13 社会的排除除去のための 4つの「共通目標」 (2000年9月、ニース) • 就業への参加、ならびに資源・権利・財・サー ビスへの万人のアクセスを促進 • 排除のリスクを阻止する • 最も傷つきやすい人を支援する • 全ての関係者を動員する ⇒ 「貧困と社会的排除に対抗するナショナ ル・アクション・プラン(2001-2003年)」 =National Action Plan on Social Inclusion 14 EU社会立法の成果 • 1974-2000年、閣僚理事会が採択した社会 政策分野での指令の数は、合計71件 • 実質的には51件の指令 • 指令の57%は1990年代に採択 • 雇用における男女の平等・一般的差別の禁 止(8件) • 職場における労働者の健康と安全(26件) • 健康と安全以外の労働条件(17件) 15 社会政策とは何か? • 日本:労働者問題に関 • ドイツ:Gesellschaftspolitik, Sozialpolitik わる社会問題を対象と する国家の政策。より ドイツ連邦労働社会省 狭くは、労働力を対象 =Sozialordunung(社 とする政策。社会保障 会秩序) • 英国:所得維持のため Sozialsystem, の社会保障、保健医療、 das Soziale. ドイツの アメニティ・公的な環境 工業化の進展とそれに (都市、公園、公害等) 伴って派生してきた所 謂「社会問題」soziale Frageへの対応・解決 16 ドイツ社会における社会政策の意味 Sociale Frageとは? • • • • • 労働者の組織化の問題 労働時間・賃金等の労働条件をめぐる問題 労働者の劣悪な住環境の問題 ⇒ 労働者問題(Arbeiterfrage) 争点:社会問題への対応について、国家が中 心になすべきか、あるいは、労働者の組織 (労働組合)が中心になすべきか? • 現在のドイツでは、労働者問題に限定せず、 その対象領域にも、担い手にも多様性あり 17 ドイツ統一(1990年)と Soziale Sicherheit(1994年) • 「人間の安全と人格的自由は、Soziale Sicherheit なしには考えられない。…包括的な社会的ネットは いまや16州の全ての人々に安寧(Sicherheit)をも たらしている。」(ブリュム労働社会相) • 「全ての人々の責任において、我々は統一された社 会国家ドイツ(Sozialstaat Deutschland)を構築し ようとしている」(ブリュム労働社会相) • 社会的ネット装置:立法府、諸政党、裁判所、労働 組合、事業者団体、その他多数の団体や組織が国 家と共に創り上げてきた 18 Soziale Zicherheit:17の制度 • 児童手当(16歳まで、最高27歳まで)・育児手当(育 児休業とその手当て支給) • 雇用促進(失業保険を含む就業促進の体系) • 就学促進(奨学金制度) • 労働法(労働者保護、労働協約法、連邦休暇法、若 年労働保護法など) • 母性保護(妊娠・出産・育児のための休業) • 共同決定(監査役会への労働者の同権的参加) • 事業所組織(5人以上の事業所に経営協議会設置) 19 Sozialbericht(社会報告)の示唆 • 社会政策の実践には、膨大な財政的負担が 不可避であること(経済的コスト負担、財政政 策との調整が必要) • 社会政策を推進する原理は、経済的な原理 によって常に制約を受けるのか?(社会政策 は経済政策に従属するのか?) • Sozialな領域の再検討、独自のSozialな論理 とは? 20 理念・連帯・自助・助け合い • ブリュム「これからの社会国家にふさわしいのは、自 助を強化し、手助けという新しい文化を強化すること。 人間の顔をした社会(Gesellschaft)は、国家に専ら 頼るのではなく、連帯に基づく社会的な保障の諸制 度を、隣人同士の手助け、小規模なネット、自助的 な諸団体を通して補った時に初めて実現する」 • 「社会政策の課題は、社会国家の様々な領域をしっ かりと組み合わせ、人々が一緒になって参加できる より良い条件を作り上げることにある」 • 連邦基本法第20条「BRDは、民主的で、社会的な 連邦国家である」。「人格の自由な展開」(第2条1) 21 ドイツ社会政策の原理 • 連帯性原理Solidaritatsprinzip:国家・社会・経済の 形成原理。個人と特定の社会的集団との間の、あ るいは、社会的集団間にある相互的な結びつき。倫 理的に基礎付けられた相互の責任、相互信頼に基 づく結びつき • 補完性原理Subsidiaritatsprinzip:様々な社会構成 体が持つ任務について、一方で、それが独自の力 や責任を持ってそれを遂行することが出来る場合に は、それより大きな組織が介入してその任務遂行を 妨げることをしない。自己決定や自己責任を促進 22 ドイツ社会政策とカトリシズム • 19世紀のドイツ:プロイセン(数あるLaenderの中でも最も強 力にして主流、しかし、民主主義的伝統に薄く、栄光に輝く軍 隊と優秀にして効率的な官僚制、整った法制度を有する)⇔ 官僚制度+経済的自由主義 ← プロテスタンティズム • 経済発展とは裏腹に、貧困と階級対立が広範に存在し、社 会的コンフリクトが絶えなかった • 文化闘争(Kulturkampf):プロイセンによる教育からの宗教 勢力の締め出し←カトリック教会反発。保守的なプロイセン のユンカーはカトリックを支持。ビスマルクは政治的連合の パートナーとしてカトリック勢力(Zentrum Partei)を必要とす るようになる。⇒カトリックの影響力拡大 • 反カトリック的法案はほぼ廃案に。教育は各Laenderの専管 事項に 23 19世紀ドイツの社会的カトリシズム • 「(19世紀の政治的・社会的環境における)カトリック 的人間の自己理解をめぐる苦闘のプロセスであり、 自由主義と国教会主義によって支配され、かつ社 会主義によって脅かされている世界において、カト リック的思想とその生命の存在権と受容を求める闘 争」(ヘフナー1954年)=ケルン紛争(1837年)、文 化闘争(1871年) • プロテスタント国家プロイセンに対する、人間の基本 的自由の確立を要求する役割をドイツ・カトリシズム に担わせることになる 24 ドイツ・カトリシズムと社会問題 • 産業プロレタリアートの救済とその社会的地位の改善を課題 とする • アダム・ミュラー、バーダー、ブス、ライヘンシュペルガーら社 会思想家達が社会批判を展開 • 労働者保護政策の確立と近代的労使関係に中に労働者問 題の解決を求めたのは、マインツの司教ケテラー • ブランツ(Munchen-Gratbachの企業家)、ヒッツェ(社会政策 家)の「労働者福祉連盟」(1880年)⇒労働者代表制の普及、 カトリック労働運動の形成 • 「カトリック国民協会」(1890年):中央党の社会政策立法活 動を背後から支援 ⇒ キリスト教労働組合運動の精神的 支柱に 25 Sozialstaatとしてのドイツ • ビスマルク:健康保険、傷害保険、年金保険などに 関する法律を布告(1883-1889年)⇒SozialStaat と してのドイツの始まり • 第二次世界大戦後、経済的成功により社会政策の ための良好な経済的基盤が形成される Wirtschaftswunder ⇒ Sozialstaatの発展 • 賃金交渉、工場委員会(Betriebsraete)の実施、共 同決定(Mitbestimmung)の導入:1976年からは全 ての大企業において実施 26 ケテラーに見るカトリック的社会思想 • Wilhelm Emmanuel Freiherr von Ketteler • 1811年12月25日ミュンスターに生まれる。ゲッティンゲン大 学、ハイデルベルグ大学、ミュンヘン大学で法学および国家 学を学び、1835年司法官試験に合格、ミュンスターでプロイ セン政府の行政職に就く。 • 1837年の「ケルン紛争」(Koelner Wirren)の影響を強く受け る:ケルンの大司教ドロステの逮捕・拘留 • 1841年神学を学び始め、1844年に司祭叙階、「農民司祭 (Bauernpastor)として農村部で活躍 • 1850年6月、マインツの司教に叙任 「労働者の司教」 (Arbeiterbischof)、「社会的司教」(sozial Bischof) • 1877年7月13日、ローマからの帰途、バイエルンで死去 27 ケテラーに見るカトリック的社会思想 (2) • 「このような時代にあっては敬虔な信仰だけ では十分ではない。行いによってその信仰が 真実であることを証ししなければならない」 • 「時のしるし」(die Zeichen der Zeit)を見極 める。そのためには • 「現代の社会的状況、特に有産者と無産者の 分裂、我々の貧しい同胞の状態、これを救済 する方法について考察しなければならない」 28 ケテラーに見るカトリック的社会思想 (3)トマス・アクィナスの正義論 • 一般的正義(法的正義)と特殊的正義(「配分 的正義」と「調整的正義」) • 配分的正義justitia distributiva:共同体の「共 通善」(bonum commune)を配慮しつつ、 個々人に彼の分(debitum)を与える。 「共同体全体の機能と状態とを秩序付けるこ と」に重点 per comparationem ad bonum commune 29 ケテラーに見るカトリック的社会思想 (4)トマス・アクィナスの正義論 • 調整的正義 justitia commutativa:客観的利 害の得失を各人に平等たらしめる正義。個々 人に対して「彼に固有のもの(本来彼に所属 する者id quod est proprium)」を与えること を意味する。「人間として平等である」との前 提に立脚して利害の調整をする。個人主義的 正義であり、「共通善」への配慮は不必要 30 ケテラーの生産組合運動 Produktivgenossenschaft • 「生産組合の本質は、労働者が企業経営それ自体 に参加するところに存する。労働者は、企業の労働 者であると同時に経営者Geschaftsunternehmerで あり、それゆえ、労働者賃金と本来の利潤 Geschaftsgewinn参加分という二重の所得を得る」 • 「生産組合が実現されるなら、...労働者には賃金 以外に新たなる所得の源泉が生まれる」 • 「宗教と道徳に対する関連から見た労働者運動とそ の志向」(1869年7月、Offenbach)=Magna Charta der christlichen Arbeiterbewegung、生産 組合から労働組合へ 31 結びにかえて • 現代ヨーロッパにおける社会政策は、日本語で言う 社会政策よりもはるかに広いスコープをカバーして いる。 • ドイツ語のSozialという概念は、英語のsocialよりも より価値思考的であり、歴史に裏付けられた独自の 意味と含蓄を持っている • EUの社会政策はカトリック社会論の影響を強く受け ており、ドイツの経験はEU全体で共有されてきてい る • 社会政策の枠組みや制度を学習する上で、その理 念を理解することはより本質的である。 32
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