商業の発達 1.初期豪商の没落(17世紀前半) 1)初期豪商=信長・秀吉の全国統一、家康の幕藩体制の 確立過程で、兵粮米や武器の運搬、年貢米の売却などを 扱った商人のが、初期豪商で、領主との強い結びつきによ り海運と商業とで堺、京都、博多、長崎、敦賀などを根拠 地として、船や蔵をもち、朱印船貿易や軍需物資等の輸送、 更に貨幣鋳造・鉱山経営・河川掘削などの多角経営で巨 大な富を蓄えていった。 2)初期豪商の例=角倉了以(京都)、今井宗薫(堺) 、 17.茶屋四郎次郎(京都)、末吉孫左衛門(摂津) など 3)没落の要因 ①鎖国による海外貿易の制限(朱印船貿易の禁止) ②平和な時代の到来による軍需物資輸送機会の減少 ③陸上・水上交通の整備で、物資輸送の占有の崩壊 →商品流通が円滑化→ 希少性が希薄化→ 価格下落 角倉了以(すみのくらりょうい、天文23(1554)年 - 慶長19年7月 12日(1614年8月17日)は、戦国期の京都の豪商。 朱印船貿易の開 始とともに、安南 国などとの貿易 を行った。また幕 命により、大堰 川、富士川、高 瀬川、天竜川等 の開削を行った。 地元京都では商 人と言うより琵琶 湖疏水の設計者 である田辺朔郎 と共に「水運の 父」として有名 米売却で豊臣政権と小浜の豪商組屋の取分 米2400石(金1両米24石の値段で売却請負、津軽で受取) 南部 米1746石を 155両で売却 小浜 米400石を 58両で売却 船 賃 米200石 代金 213両 欠 損 米 54 石 豊臣政権取分100両 組屋取分113両+米200石 豊臣政権は遠隔地での米の売却をするために、ばく大な 利益を豪商組屋に保証した。 図説福井県史より 2.新しいタイプの豪商の出現(17世紀後半~) 1)問屋商人:取次を営業とする商人のひとつ。 ①幕府直轄地の三都(江戸<消費都市>・京都<文化・工芸都市>・ 大坂<経済都市>)や各地城下町の都市からの商品の受託や 仕入れを独占、商品流通網の発達に伴って台頭 ②問屋商人の例: 寛文延宝期(1661~1681年)頃になると商品経済が浸透し、 酒造業の鴻池、銅山経営の住友や呉服商の三井などの 新興商人すなわち問屋商人が頭をもたげてくる。 大坂商人について「その時にあふて、旦那様と呼ばれ」る 者も、「是皆、大和・河内・津の国・和泉近在の物つくりせし 人の子供」(西鶴「日本永代蔵」) 例:近江商人日野の正野家の資産成長 1684年銀172匁8分→同年末32両→1707年1944両→10年後 8896両:33年間で資産約280倍 ③商取引の特徴:荷受問屋(生産者や生産地の問屋が送 る荷を引受け、倉庫代や売却手数料を取った)から脱皮 a.伊勢商人は、「現銀(金)で掛値なし」の小売商法 自己の責任で商品を仕入れ、売る=長期間の掛け 売りを止め、現銀決済とし、正価を示して売る 例:伊勢商人越後屋三井、大坂醤油屋平野屋(現銀安値 の商売で繁盛) 近松門左衛門が現実の事件を劇化 したものが「曽根崎心中」。 b.大坂商人で、大坂の市場的地位を背景に、蔵物を 担保に、又、グループによる貸付で「大名貸し」 c.江戸では近江・伊勢の商人が実権を握っていた。 →近江商人・伊勢商人はともに「近江泥棒伊勢乞 食」と蔑まれた。 近世、富田林の支配 者の一人として君臨 した綿屋(杉山)長左 衛門家の店舗兼本 邸。 駿河町の三井越後屋の店 光景。熙代照覧の画面の ほぼ中央に描かれた、江 戸中心部の繁華を代表す 巨大店舗。 <市場の例> ・問屋-仲買-小売体制の成立 江戸:日本橋の魚市=築地の前身は江戸時代に始まる “日本橋魚市場(通称・魚河岸)”である。 近世初期には神田青物市場、その他本所・京橋・品川な どにもできた。 大坂:17世紀初めにその周辺部に青物栽培が盛んとなり、 川船などの流通機関の整備・発達により迫車がかけられ、 1653年(承応2)市中の摂津・河内の村々と川船の便がある 天満に常設の青物市場が公許されて、激増する市民の需 要に応えた。堂島米市場(堂島の米市)、雑喉場の魚市な ど。 その他:京都の八百屋町、名古屋の枇杷島市場が名高い。 これらの市場は幕府の統制のもと、株組織で運営された。 江戸幕府の商業政策 織豊政権以来の楽市楽座路線を継承 株仲間=同業の商人・ 流通機構を支配 職人らが共同の利権を する幕府への脅威? 守るための私的な集団 1648(慶安元)年~ 1670(寛文10)年 6回もの禁令を発令して規制の対象 政策転換 享保の改革→商業の統制→運上・冥加金(上納金) 公認 同業の問屋の組織化→ 販売権の独占などの特権 田沼意次時代には、幕府の現金収入増と商人統制が企図。自主的に 結成された株仲間を「願株」、幕府が結成を命じた株仲間を「御免株」と 呼んで区別。株仲間の公認は、願株の公認を指す。 3.豪商の活動と限界 1)商業・金融業による資本蓄積 ①蓄積資本の投資先:封建的規制が強く限定的 ・大名貸:幕府、大名更に武士への貸付け ・新田開発、漁場独占に投資 ・工業生産に投資:問屋制家内工業(問屋の買い占め)、 工場制手工業(マニファクチュア)に投資 2)豪商の限界:明治期の近代化で脱落する豪商出現 ①幕藩体制に経済的に寄生 ②封建的規制が強く、蓄積資本の投資先が限定。(産業 に投資しにくい) →趣味・豪邸建築に消費 ①18.蔵物:幕府・諸藩の年貢米や特産物など =江戸時代に幕府・大名・旗本が売却のため蔵屋敷へ回 送した諸品の総称。貢租や専売制などで領民から収奪し た物資。納屋物(なやもの)に対する語。中心は米で,ほか に砂糖,紙,畳表など諸国の特産物も含み,領主の貨幣 収入の最大部分を占めた。 ②納屋物:蔵物に対し民間の手で集められた商品 =江戸時代,百姓・町人など民間商人の手を経ておもに 大坂などに回送された諸 品。領主が扱う蔵物に対す る。米・油・塩・木材・肥 料・醤油などが生産地の荷 主から荷受問屋,仲買,小 売などを経て消費市場に出た。 2)両替商 ① 金、銀、銭の交換や秤量が業務内容 ・本両替 金銀交換ほか、預金、貸付、為替、手形も 手がける両替商(現在の銀行業務の多くを網羅) 主に大坂で発達 ←蔵元、掛屋と兼務 ・銭両替:少額貨幣の両替が本務の両替商、江戸で発 達 ② 両替商の例:三井両替店(三都),天王寺屋・平野屋・ 鴻池(大坂)、三谷・鹿島屋(江戸) ③ 十人両替の創設(1662) ・大坂で本両替仲間より選ばれた全両替仲間を支配、 幕府の御用両替 ・天王寺屋・平野屋・鴻池屋など、苗字帯刀、町役御 免 3)蔵元・掛屋 江戸よりも、「天下の台所」である大坂で発達 ①蔵元:蔵屋敷で蔵物(幕府・諸藩の年貢米、特産物)の出 納、売却を担当した商人 ②19.掛屋:蔵物の売却代金の保管、藩への送付にあたる 商人、蔵元の兼務も多い ③鴻池屋・加島屋など大きな両替商が蔵元・掛屋を兼ねる 場合が多く、大名貸を盛んに実施 4)20.札差(蔵宿):とくに江戸 ①蔵米取の旗本・御家人の代理として蔵米の受取、売却 を行う ②浅草蔵前に蔵宿(店)を構える ←幕府の米蔵は浅草 に設置 ③蔵米を担保に旗本、御家人に対して金融を行う 5)その他:新田経営、鉱山開発、質屋など 3.豪商(≠初期豪商)の例:多くの業種を兼ねている 1)三井両替店(三都) ①伊勢松坂の出身、三井高利が江戸に越後屋呉服店を 開店、「現金掛値なし」で好評を博す ②元禄期に江戸・大坂・京都で呉服屋・両替屋を創業、 幕府の為替御用を務め業務拡大 2)鴻池(大坂): 初代鴻池新右衛門(摂津伊丹で酒造業) ①1625年初代、自醸酒を海上輸送、江戸―大坂間の諸藩 貨物・一般貨物の輸送、西国諸藩の年貢米廻送。②各種 商品取引を行い、年貢米輸送・売買で諸藩への貸付などの 金融業(両替業)で鴻池両替店は著しく発展③1670年,幕府 から十人両替(公用に従事、様々な特権が与えられた)に指 定。 酒造業や海運業から撤退,両替商専業の体制を固め、 西国諸藩の蔵屋敷の蔵元や掛屋に、 大名財政に深く関与, 大名貸専業の両替商となる。 3)住友(大坂):住友家第3代吉左衛門 (1647~1706江戸前期の商人)の名は、 以後住友家当主の世襲名となる。16歳 で家督を継ぎ、銅鉱業・銅貿易の急成長 の中で最大の業者として活躍。吉岡銅山 の開発で銅山師としての声望を確立 4)その他 ①天王寺屋・平野屋(大坂)、三谷・鹿島屋(江戸) ②紀伊国屋文左衛門:熊野出身の豪商、材木・蜜柑で財 をなす、遊郭の豪遊は有名 ③淀屋辰五郎:元禄期の大坂豪商、蔵元、豪奢で5代目で 家財没収 ④奈良屋茂左衛門 ・江戸深川の豪商、材木商、初代は日光東照宮修理で財 をなす、4代目は吉原の豪遊で有名 3.株仲間の結成 1)江戸初期(17世紀前半):織豊政権からの楽座政策を 継承→幕府は同業者団体の結成を原則禁止 金座・銀座= 幕府による製造・販売を独占する制度 2)仲間の結成(17世紀後半):元禄時代(綱吉の治世) ①「仲間」:問屋商人による同業者団体、「仲間掟」 を制定→営業権の独占が目的 ・幕府は黙認、商品流通統制に利用←「内分の仲間」 ②「仲間」の例 ・21.十組問屋(江戸):江戸で荷物の買入を組織化する ために結成(1694) ・二十四組問屋(大坂):十組問屋結成に応じて大坂で 結成、十組問屋と提携して流通を独占 江戸十組問屋・二十四組問屋の結成 廻船の定期的な運航が始まった頃には,輸送業務に係 わる一切が,廻船問屋と船頭の自由な裁量に任されてい た。そのため,難船に見せかけて積み荷を横領するなどの 不正行為がしばしば起きた。そこで,荷主の立場を強化す るため,元禄7年(1694年),江戸の問屋商人が結集して, 江戸十組問屋を結成した。これに呼応して,大坂でも,二 十四組問屋が出来た。この十組問屋と二十四組問屋の関 係は,注文主と買次人の間柄で,その商品を運搬するの が廻船問屋という新たな構図が成立したのである。これに より,菱垣廻船は,廻船問屋の自由な裁量による独立営 業の性格を失い,十組問屋・二十四組問屋の手船,あるい は定雇船同然の位置付けとなった。 3)株仲間の公認(18世紀前半):享保時代(吉宗の治世) ①「株仲間」:同じ商品を扱う仲間が集まり、株とい う営業独占権を持つことが幕府に認められた団体。 「仲間」(問屋商人による同業者団体)=株を持って 仲間に入らなければ、営業が出来ない仕組み ②幕府の公認理由 ・商業・手工業者の幕府の統制下に置く。 ・物価統制:物価調節は吉宗の重要施策 ・運上金・冥加金(営業税)の賦課 4)株仲間の奨励(18世紀後半):田沼時代(田沼意次) ①目的:冥加・運上の増徴(商業資本を利用して幕府の収 入増をはかるのが田沼の政策) 5)株仲間の解散(1841):天保の改革(水野忠邦) ①目的:商業の株仲間を通しての間接統制から、幕府 の直接統制への転換 ・物価騰貴の原因は十組問屋などの株仲間の上方市場 からの商品流通の独占にあると判断 ・幕府は株仲間の解散すれば自由取引となり、物価の 引き下げに効果があると期待 ②結果:失敗 ・実際の物価騰貴の原因は、生産地から上方市場への 商品流通量の減少にある (在郷商人の活動と地方での消費の拡大のため) ・かえって江戸への商品流入を減少させ、物価高騰を 招く逆効果となる 6)株仲間の再興(1851):嘉永年間(幕末)→効果は薄い 7)株仲間の解散1872(明治5):近代国家には不相応 徳川幕府の貨幣制度 万延大判金(のし目打)元書 極美品 鋳造期間 万延元年~文久2年(1860 ~1862) 14代将軍・徳川家茂の時代 寸法:約138.0mm×82.0mm 品位 金344/銀639/雑17 量目 112.40g 鑑定保証書付 3.200.000円 金貨、銀貨、銭(銅)貨といった、単位も性格も異なる貨幣 を併存させた徳川幕府の貨幣制度。徳川幕府は全国通 用の貨幣制度を制定し、貨幣発行権の独占と貨幣様式の 統一を図った。金貨は小判1枚の1両を基準に額面金額と 枚数で価値を表す計数貨幣、銀貨は匁(=3.75g)という重さ の単位により価値を示す秤量貨幣、銭貨は1個が1文の 計数貨幣というようにそれぞれ別個の価値体系をもってい た。そして、各貨幣相互間の交換(両替)には時々の相場 が用いられた。 慶長小判金(極美品) 鋳造期間:慶長6年~元禄8年 (1601~1695) 初代将軍・徳川家康・秀忠の時代 寸法 縦:約71mm 品位:金857/銀143 量目:17.73g 鑑定保証 書付 2.000.000円 徳川幕府の貨幣制度 1)三貨制度:金、銀、銭貨 ・金貨:計数貨幣(四進法) 金1両=4分、1分=4朱、金1両=4分=16朱 ・銀貨:秤量貨幣(重さを量って切って使用)、 銀1貫=1000匁 のちに計数貨幣も鋳造される →南鐐二朱銀(1772、田沼 意次) ・銭貨:計数貨幣(基本的に1枚1文、ただし4文銭もあり) 銭1貫=1000文 ・三貨の交換比率:貨幣相場は絶えず変動 例:金1両=銀50匁=銭4貫文(1609の場合) 2) 金遣いと銀遣い→関東と関西で相違→流通の障害 ・金遣い:関東=金を基準として物価を定める ・銀遣い:関西=銀を基準として物価を定める 諸藩の政策 1)貨幣鋳造権はなし→藩札発行は可能(領内のみ通用) ※商人らも江戸初期から私札を発行 2)藩札 ①藩の発行による紙幣、領内のみで通用(17世紀後半 以降増加) ②兌換制(貨幣と交換可能)であるべき →財政難による濫発→経済混乱(インフレーション) ③藩札の濫発状況 ・244藩・14代官所・9旗本領で約1700種発行(1871(明治 4)調査) → 明治後価値喪失 度量衡の統一 1)秤座 ①江戸の秤座:守随氏が管轄、東国の秤を分掌 ②京都の秤座:神氏が管轄、西国の秤を分掌 2)枡座:京枡に統一 ① 江戸の枡座:樽屋が管轄、東国の枡を分掌 ② 京都の升座:福井氏が管轄、西国の枡を分掌 2)尺の統一:曲尺、鯨尺など ④都市の発達を江戸城下町,姫路城下町で考察 朝日百科 日本の歴史より 姫路古地図 中曲輪には 侍屋敷、外 曲輪には下 級武士や町 人の居住区 などが置か れた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/Old_map_of_Himeji_castle.jpgより
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