年に卒業し中国電力に入 中国支部長 三 生 ︵昭 年卒 ︶ ること が、現在455 基が運転中で、 福島事故後も世界では原子力は着 基 が ア ジ ア ︶ で、 組織 WANOは パ リ、 ア ト ラ ン タ、 実に推進されています。以下、世 基 が 建 設 中︵ カ所の地 通性を有する影響緩和策︶による 多 重 防 護 の 強 化 が 挙 げ ら れ ま す。 これは、炉心損傷・格納容器損傷 を防止するために必要な電源・水 域センターと地域センター代表者 紹介します。 界の原子力の動向について概要を もので、サイト内の恒設設備・可 等を供給する複数手段を確保する で構成される世界理事会の事務局 点から か所の拠 であるロンドンオフィスから構成 米国 米国では、2014年 月現在、 年ぶりとなる新設許認可が 基に減少していま 年ですが、さらに す。米国原子炉の運転ライセンス ネ ル ギ ー 省︵DOE︶、 産 業 界 が 時間以内に対応設備を搬 搬設備に加え、米国内 東 京 セ ン タ ー に は、 イ ン ド、 パ で、20 12 年には新たに 基に 10 0 基 の 原 子 力 発 電 所 が 運 転 中 モスクワおよび東京の 61 キ ス タ ン、 中 国、 台 湾、 韓 国、 日 本の事業者が所属 れ、 対して建設運転一括許可が発給さ 活動内容 以下の つのプログラムが主な 件 実現しましたが、新規建設の許認 可申請は す。 また、すでに閉鎖が発表され 会員で構成さ れ た 国 際 チ ー ム が、 発 電 所 員 ①ピ ア レ ビ ュ ー 活動内容です。 島事故以降における世界の原子力 基あります。 た原子力発電所が 米国では、新規プラント建設を 進めるのみならず、原子炉の運転 は 期間延長についても検討していま 発電所で発生した重大事象や運 年延長す 転経験の情報を会員間で共有 年運転のライセンス更新につ い て、 米 国 原 子 力 規 制 委 員 会 換 協調しながら高経年化対策の研究 ま っ て い ま す。 ま た、NRC、 エ ︵NRC︶ と 初 期 段 階 の 協 議 が 始 成 し、 ピ ア レ ビ ュ ー で 特 定 さ び経済的検討や審査要件の検討等 プログラムを実施し、技術的およ 分野毎に専門チームを編 れた要改善事項等に対する解 と し て、FLEX︵ 多 様 性 か つ 融 米国における福島事故への対応 れるものと見られます。 20 19 年 頃 に 最 初 の 申 請 が 行 わ を 行 っ て お り、 2 0 1 8 年 か ら 決 方 法 の 提 案 や、 運 転 指 標、 これらの各プログラムを連携さ 使命 WANOの 使 命 は、 会 員 間 の 相 せ、継続的な発電所のパフォーマ 子 力 発 電 所 45 5 基 を 運 転 す る 全 を通じて、それぞれのパフォーマ 良好事例の情報を提供 ンスを評価し、共に向上させるこ 互支援、情報交換および切磋琢磨 世界的組織の東京センター議長 ンス向上に努めています。 織です。 とにより、世界の原子力発電所の ての事業者が加盟している民間組 ④技 術 支 援 お よ び 技 術 情 報 交 て専門技術を共有 ワ ー ク シ ョ ッ プ、 訓 練 を 通 じ ③専 門 技 術 の 共 有 る 他の原子力 4 セミナーや ②運 転 経 験 の 共 有 実施状況を検査し、評価 ラントの運転管理等の業務の の 面 接 や 資 料 調 査 を 行 い、 プ 下の通りです。 設立 19 8 6 年 月 に 就 任 い た し ま し た。 的な情報交換組織の必要性が高ま ル原子力発電所事故を受け、世界 月のチェルノブイ 設 立、 使 命、 組 織、 活 動 内 容 は 以 ま ず はWANOの 概 要 で す が、 と思います。 発電の状況を紹介させて頂きたい 概要について説明し、併せて、福 し た。 そ こ で、 ま ず はWANOの 松井 世界の原子力の動向 昭和 月に 社 し て 以 来、 原 子 力 発 電 事 業 に 携 わ っ て き ま し た が、 昨 年 の 京都市左京区吉田本町 075-753-5270 www.rakuyukai.org る中、イギリスのマーシャル卿の WANOとは World Association of 提唱により設立 し、 W AN O 東 京 セ ン タ ー 議 長 を 拝 命 洛 友 会 と い う こ と で、 世 界 の 情 報 に 接 す ︵世界原子力発 Nuclear Operators 電 事 業 者 協 会 ︶ の 略 で、 世 界 の 原 4 次に世界の原子力の状況です となっていました。 月に視察す 基が運転中です。ロシア政 ロシア ロシアでは、20 14 年 基 ロシアは高速中性子炉を産業利 基を除く︶計画です。 の原子炉を新設する︵建設中の 府 は20 3 0 年 ま で に さ ら に 在、 月現 搭載できるようコンパクトな設計 がヘリコプタ、さらには航空機に る機会を得ました。すべての機器 リゾナの拠点を昨年 るものです。そのうちの一つ、ア 入可能として事故リスク低減を図 24 月 日に 月現在、 基が運転中です。英国では原子 ヨーロッパ 英国では、2014年 臨界に達しました。 を装填し、20 14 年 設された次世代型原子炉の BN-800 増殖炉は、すべての必要な核燃料 ベロヤルスカヤ原子力発電所で建 用 で 運 用 し て い る 唯 一 の 国 で す。 10 〒606-8501 45 40 13 京都大学工学部電気系教室内 安全性・信頼性を最高水準に高め 21 4 1 20 1 27 34 80 60 29 8 4 2 1 4 10 6 4 ることが飛躍的に増えてまいりま 計 画 と し て は、EDFエ ナ ジ ー 社 ト建設を進めています。新規建設 力推進の方針を掲げ、新規プラン 16 45 6 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 (1) 第248 号 は、ヒンクリーポイント・サイト で のEPR2基 の 建 設 に 向 け て、 針を示しました。 カ所 月現在、 基が運転中です。韓国政 韓国では、2014年 我が国において、すべての原子力 発電所が停止し、再稼働に向けて 原子力関係者全員が必死の思いで 教室だより への取り組みは着実に進んでおり 20 1 2 年 冬 に は 原 子 力 安 全 当 局 忸怩とした思いがしています。我 取り組んでいる中、世界の原子力 本計画﹂︵2008 ∼2030 年︶ が国の原子力の再起にはまだ時間 次・国家エネルギー基 % に引 では、2030 年の総発電設備容 府の﹁第 量に占める原発の比率を が必要だと思いますが、世界も我 か ら サ イ ト 許 可 と 設 計 承 認、 ま た 認可を受け、着々と準備を進めて き上げることを目標に、今後、原 が国の原子力の状況を注視してい 回電気電子工学科 交流会の開催 います。一方、ホライズン社を設 子力発電所を各地に建設すること ます。 第 立 し た ド イ ツRWEとEONは、 が計画されています。また、政府 月には政府から計画 本国ドイツでの脱原子力政策の煽 は原発事業を輸出産業に発展させ 電気電子工学科交流会は、研究 ました。 時 月 日 分 よ り、 去 年 同様さざんか六角店にて開催され ︵金︶の午後 気電子工学科交流会が、 回目となりました電 り を 受 け て 計 画 を 断 念、 2 0 1 2 後、IAEAを は じ め 国 際 組 織 お 今年で第 年には日本の日立製作所にホライ る方針であり、2009 年にはア 回生と教員の方々との親睦を深 室配属を控えた電気電子工学科の WANOに お い て は 福 島 事 故 ゾン社を売却しました。 よび各地域の組織との連携を強化 クトを受注しています。 し、世界規模で原子力安全の向上 所の事故を受けて、20 11 年 に取組んでいます。 め る こ と を 目 的 と し た 会 で あ り、 毎年電気電子工学科に所属する学 月現 生 に よ っ て 運 営 さ れ て お り ま す。 インドでは、20 14 年 私といたしましても東京セン 今年は教員の方が 基︵故障で停止中を含め ター議長として、政治的にも、言 月に、 語的にも、文化・歴史的にも違い 名︵ 名︶と、去年と比較して参 までに段階的に閉鎖することを決 名、 り組むことができ、先生方からも 同、より一層宣伝に力を入れて取 回生 に努めています。 手厚いバックアップを頂きまし 基が運転されていま す。 イ ン ド は 核 拡 散 防 止 条 約 回生 名、学生が ︵NPT︶ に 加 盟 し な か っ た た め、 が 大 き く、 な か な か 纏 ま り に く い 加 人 数 が 多 く、 無 事 開 催 す る こ と 基も2022 年 アジアを調整していくため、積極 ができました。今年は実行委員一 もに、運転中の 外国から必要な原子燃料などの供 的 に 出 か け て い き フ ェ ー スto ﹁ 人 間 同 士、 会 っ て 話 せ ば 理 解 名、 給を受けることがきませんでした フェースでのコミュニケーション 回生 めました。 が、2008 年に﹁原子力供給国 れ、インドに対する核関連品目の し会える﹂と信念を持って。 り、学科長の引原隆士教授に乾杯 交流会では会を始めるにあた た。 2 0 2 2 年 ま で に 2、9 0 0 万 の音頭と、激励の言葉をいただき 成 長 戦 略 ﹂︵ 2 0 0 4 年 ︶ で は、 基530万 ました。あまり教員の方々と面と kwな ど に 拡 大 す る 計 画 で す。 イ 基67 0 万kwと ンドでは建設中 kw、 計 画 中 向かって喋る機会がない学生から わってきました。しかし、先生方 は 最 初、 緊 張 感 が ひ し ひ し と 伝 以上、世界の原子力の動向につ の授業ではお見せにならないユ 4 63 カ所 20 供給が認められ原子力発電を拡大 56 在、 30 3 35 す る 方 針 に 転 換 し ま し た。 ﹁電力 6 基︶を即座に閉鎖するとと 2 11 6 グループガイドライン﹂が修正さ 日本などの技術を導入しながら国 内メーカの技術力を高めていくと いう政府の方針の下、原子力開発 を進めてきました。20 14 年 月現在、 基が運転中です。 中 国 政 府 は20 20 年 ま で の 国 1 ると 3 ドイツでは福島第一原子力発電 ラブ首長国連邦から原発プロジェ 11 1 41 い て 紹 介 し て ま い り ま し た が 、 なっています。 7 内のエネルギー政策に関する﹁能 源 発 展 戦 略 行 動︵ 2 0 1 4 ∼ 2 0 2 0︶﹂ を ま と め、 2 0 2 0 年までに運転中の発電設備容量を 5、8 0 0 万kw、 2 0 2 0 年 時 点 で 建 設 中 の 設 備 容 量 を 3、0 0 0 万kwに す る と い う 方 1 9 20 1 2 6 17 6 20 13 年 23 1 アジア 中 国 は、 仏 国、 ロ シ ア、 米 国、 7 3 5 7 8 第248 号 (2) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 ニークな一面に触れて、緊張もほ ぐれていっているようでした。会 が 進 む に つ れ て 笑 い 声 が 絶 え ず、 研 究 室 の 話 だ け で な く、 私 生 活 や 将来の話など、先生方とお酒を片 手に親睦を深めて楽しいひと時を 過ごしていました。 交流会の最後に佐藤亨教授に締 長岡晃平、中島陵、中村友洋、 柴岡真実、鈴木健太、曽根輔、 引き続き、大講義室横のロビー にて、佐藤亨洛友会事務局長の挨 拶の後、教職員を交えての歓談が 田中一、中川穣、中川裕也、 西尾祐亮、野田晃浩、橋本康平、 西村立男、藤居直章、双見京介、 星賢人、前田真彰、松尾圭祐、 めの言葉をいただきました。学生 も先生方もなかなか話が止まな 行われた。 東谷祥平、平貴之、藤崎広豊、 畑中修平、濵田健、林恭平、 安原一貴、八十広輔、山本率矢、 松藤浩平、松本雄介、吉岡佑介、 卒業生送別会 沖元直樹、藤原将 名 吉野純樹、張哲銘、杜邦、 電子工学専攻 赤司陽介 宮崎達也、宮本光曜、保澤圭亮、 日︵月︶に大学 工学︶ 年 月 日付け︶ 岡本 亮 助教︵プラズマ物性 工学︶ ・電子工学専攻 ︵平成 月 日付︶ 水谷 圭一 助教︵ディジタル 通信︶ ・通信情報システム専攻 退職 年 ・通信情報システム専攻 ︵平成 年 月 月 日付︶ 山本 真之 助教︵リモートセ ンシング工学︶情報通信研究 機構 年 阪本 卓也 助教︵超高速信号 処理︶兵庫県立大学 ・通信情報システム専攻 ︵平成 日付︶ 佐野 史道 教授︵高温プラズ マ物性︶ 教授︵知的通信網︶ 高橋 達郎 ・エネルギー理工学研究所 転出 いて、電気総合館大講義室での卒 業証書伝達式が行われ、引原隆士 日付け︶ ・生存圏研究所 ︵平成 て卒業証書が手渡された。 月 川嶋 宏 彰 准 教 授︵ 画 像 メ ディア︶講師より 年 木村 真之 助教︵複合システ ム論︶ 安藤雄一郎 助教︵極微真空電 ・電子工学専攻 ・電気工学専攻 ︵平成 着任 ・知能情報学専攻 昇任 学科長より卒業生一人一人に対し 教員の異動 い、終始笑顔の絶えない素晴らし い会となりました。 これからもこういった交流会が 途絶えないよう、来年度以降にも 引き継いでいこうと思います。 最後となりましたが、交流会に 石戸亮祐、伊丹豪、伊藤義人、 日、電気電子工 内田貴之、梅田尚実、越智賢明、 月 ご 厚 志 を 頂 い た す べ て の 先 生 方、 学科の卒業生送別会︵洛友会との 年 学生の皆様に心良し感謝申し上げ 河原知洋、北野圭輔、小林拓真、 平成 ます。また、毎年開催にあたって 共催︶が開催された。みやこめっ 月 せにおける全学の卒業式に引き続 小林弘樹、木南裕陽、佐藤孝亮、 年卒︶記 回交流会実行委員会会長 菅野駿太︵平 年 名の方々が晴れて修士︵工 名 河原淳人、木村葵、久保佑樹、 上野雅仁、枝川卓也、大田敏嗣、 市田大貴、伊藤信吾、岩清水優、 荒木賢輔、池原伸明、石原浩毅、 電気工学専攻 学︶となられました。 た。 桂キャンパスで執り行われまし 引き続き電気系修士学位授与式が 院 学 位 授 与 式 が み や こ メ ッ セ で、 平成 電気系修士学位授与式 第 にも厚く御礼申し上げます。 ご援助を頂いております、洛友会 24 1 31 31 31 3 10 3 12 3 27 32 26 27 26 27 23 40 久保田結子、酒井智衣、佐藤大地、 子工学︶ 石井 良太 助教︵光材料物性 1 3 佐野拓也、島本拓和、頭師孝拓、 4 27 11 27 高田裕人、塚本伊秋、戸水真哉、 26 72 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 (3) 第248 号 平成 年度卒業生の進学 就職状況について︵報告︶ 平成 和田 修己 電子工学専攻長 電気工学専攻長 工メーカーや機械・自動車関係が 年 通 り 電 気 関 連 が 多 く、 さ ら に 重 ことができました。就職先は、例 は、ほぼ100%の就職率を得る ぬ学校推薦枠を頂戴し、最終的に 常に多くの企業から以前と変わら ますが、通信インフラ関係の企業 チャレンジする学生も見受けられ サービスプロバイダ等の業種に 離 の あ る、 ソ フ ト ウ ェ ア、 金 融、 ますと、専攻の専門性から少し距 ありがたく思いました。内訳をみ 通信情報システム専攻長 が就職しています。本年は、学校 例年通り電力関係には多数の学生 若干増加している状況です。また、 新聞やテレビ等で、通信および電 年も多くなっています。震災以降、 と総合電機メーカーへの就職が今 白石 誠司 小野寺秀俊 気電子が社会基盤に果たす役割の % の学生が学校推薦枠により が多少なりとも学生の志望に影響 大きさが何かと話題となり、これ ん が、 博 士 後 期 課 程 に つ い て は、 ります。また、自動車関連企業に 会員寄稿 年末の恒例行事 日比野 慎司 ︵昭 年卒・中部支部︶ 例年、宿泊場所も行くところは わせていない。︶ ほぼ同じである。祖父と父親の分 骨 を 納 め た お 寺、 学 生 時 代 の 下 宿 の 近 く に あ っ た 平 安 神 宮、 学 生 時 代大変お世話になったバイク ショップに行った後、幹事がいつ も予約してくれる常宿に行くこと にしている。といっても、その間 に、大概、一か所くらいはどこか 観ようと心がけている。子供が受 験生の時は、お決まりではあるが 北野天満宮といったようにさほど 凝っているわけではない。学生時 関連企業への就職は少ない人数に 業績回復に取り組んでいる半導体 以上経過した。所用のため数回行 のが、私の恒例行事となって 年 同窓会で京都に一泊二日で訪れる 卒業後、年末に十名程度のプチ ところに行っていても一カ所程度 卒業してしまった上に、毎年違う 思い続けほとんど観ることもなく 名が博士研究員に採 望学生の就職が無事に決定致しま 年で期間短縮 を引き受けてくれ、毎年開催して くれることに尽きる。 まず、工学研究科電気工学専攻・ を表に示しました。 攻︵以上修士︶の進学・就職状況 り、多くの学生が当初より希望す OGの 方 々 の 強 力 な ご 支 援 に よ 枠 を 頂 戴 し、 ま た 見 学 会 等OB・ ましても、同様に多くの学校推薦 専攻および電気電子工学科に関し ため、行きと帰りと宿泊場所は一 ら私の家族に対する所業の悪さの とになった。といっても、過去か 出したことから伴に京都に行くこ は、家族が京都に行きたいと言い ままに京都に行っていたが、今回 の旅行に行ってもらい、一人で気 大 概 は、 家 族 を 家 に 残 す か、 別 電 子 工 学 専 攻 の 進 路・ 就 職 に 関 し る企業に就職しております。特に、 進学し、 名が就職いたしました。 11 代、何時でも京都観光はできると 留まっています。就職先分野にも けなかったことがあるが、ほぼ毎 名 産業界の状況が反映された形には 年行っている。ここまで継続でき 年∼ ついては、修士から 年を したことに関して心から御礼申し 後期 携教育プログラムを生かして博士 年度の電気電子工学科 修了する学生も出るようになって 配慮に心より感謝申し上げる次第 名が博士後期課程に 学部卒で就職をする学生のため 緒であるが、それ以外はほとんど でございます。 産業界全般に亘って景気は若干上 に、推薦枠を修士と独立に設けて 別 行 動 で あ っ た。︵ 宿 で も 顔 を 合 ましては、 向いたものの経済的に厳しい状況 いただいている企業もあり、大変 情報学研究科通信情報システム ︵学部︶ならびに工学研究科電気 平成 しているのではないかと考えてお 専攻からの自由応募に 名 に 留 ま り ま し た。 たします。まず最初に、今年度の 本年度は若干修了者が少なく には記載しておりませ 就職に際しましても洛友会会員諸 に就職し、 が修了、そのうち 用されています。博士後期課程に なっておりますが、卒業生はいず 就 職 す る 学 生 が 増 え て く る 一 方、 兄諸姉より例年と変わらぬ多大な 年一貫の連 たのは、京都在住の同級生が幹事 3 上げます。 5 2 います。 以上、会員の皆様のご厚意とご れも希望する企業に就職を決める 8 事ができました。 名が民間企業 ご支援を賜りました結果、就職希 また、表 よる就職は 就職し、 約 推 薦 を 希 望 す る 学 生 が 特 に 多 く、 電気電子工学科長 引原 隆士 年度の電気系教室卒業生 2 1 8 3 1 25 の進学就職状況についてご報告い 85 工学専攻、同電子工学専攻および 3 が続く中、電気系教室に対して非 情報学研究科通信情報システム専 62 26 26 26 60 第248 号 (4) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 電気関連 27 通信・情報・放送 12 2 8 3 電力・ガス 29 9 4 1 未定、帰国後就職 113 134 合 計 93 三井物産、三井住友銀行 シフト、リクルートホールディングス、グーグル、カプコン、テクニカルトランスレーションハウス、 トラストテック、コナミ、楽天、はてな、鹿島建設 小計 研究生・帰国等 1 運輸・鉄道 3 化学・他製造業等 0 金融・商社等 3 1 その他 9 2 三菱重工業、川崎重工、トヨタ自動車、村田機械、小松製作所、新日鐵住金、住友電工、 JFEスチール、マツダ、ヤンマー、コニカミノルタ、日産自動車、ファナック、オリンパス、 豊田自動織機、本多技研、ヤマハ、日立産機、中部精機、不二越、三井造船 JR東海、阪急 機械・自動車・鉄鋼・ 造船 東京電力、関西電力、九州電力、電気安全環境研究所、エネゲート、大阪ガス 2 造幣局、愛知県職員 三菱電機、パナソニック、NEC、日立製作所、ローム、古野電気、GSユアサ、東芝、村田製作所、 沖電気、富士通、日本IBM、大日本スクリーン製造、サンディスク、キーエンス、日本IBM KDDI、NTT研究所、NTT西日本、NTT東日本、大井電気、FPTジャパン、 NTTコミュニケーションズ、デジタルラボ 官公庁等 1 東京大学工学研究科修士課程 1 徳島大学大学院先端技術科学教育部 1 京都府立陶工高等技術専門校 1 海外大学院 16 124 小計 11 京都大学工学研究科電気系専攻博士後期課程 進学 進 学・就 職 先 学部 修士 修了、卒業者数 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 (5) 第248 号 平成26年度卒業生進学就職状況 工学研究科(電気工学、電子工学)、情報学研究科(通信情報システム)、電気電子工学科 京都大学エネルギー科学研究科修士課程 5 京都大学情報学研究科通信情報システム専攻博士後期課程 68 京都大学工学研究科電気系専攻修士課程 26 京都大学情報学研究科通信情報システム専攻修士課程 6 京都大学情報学研究科知能情報学専攻修士課程 6 京都大学情報学研究科システム科学専攻修士課程 12 1 京都大学人間環境学研究科共生人間学専攻修士課程 1 京都大学経営管理大学院 なので、さほど観たところが増え 同じように感じた。 今回は、行きに家族と一緒であ が変な美的感覚に染まってしまっ したものに趣を感じるのは、自分 修 復・ 復 元 し た も の よ り、 風 化 る こ と か ら 気 分 を 変 え、 平 成 ているというより、単に自分が年 ていない。 二十四年九月から修理を始め、平 をとっただけと思いたい。 た。自分にとっては小学校の修学 の 建 物 ら し く モ ダ ン︵ 死 語?︶ な の桂キャンパスを見てきた。最近 内へ向かう途中、初めて京都大学 平等院の後、家族と別れ京都市 成二十六年十月に落成した平等院 旅行以来、ほぼ四十年ぶりである。 建物が広いキャンパス内に点在し の鳳凰堂に行ってみることにし 当時の記憶が定かではないが、今 ような雰囲気であり、人気も冬休 回見た平等院は、記憶のものとは、 みでなかったことから、雑然とし ているが、昨今の他の大学と同じ 鳳凰堂正面の池周囲の庭や歩道 かなり違うと感じられた。 などが、今のようにすっきりと綺 そ の 後 は、 毎 年 行 く と こ ろ を たところが全く感じられず、現在 回って、宿泊場所に行ったのであ 麗になっているという感じではな 建当時の金色に復元する工事等を る が、 自 分 に と っ て お な じ み と の 学 生 に は よ い 環 境 か と 思 う が、 おこなったとのことで、外観は鮮 なってしまった平安神宮である かったような気がした。また、鳳 やかかつ艶やかな感じであり、修 が、建物は昔を再現した社である 温かみがなく寂しく感じた。自分 理工事前より創建当時の様相に近 から、建物そのものには時間の経 としては、かなり変わってしまっ くなり、当時の人々が想像した極 過や変化を感じることはない。し 凰堂は、平安時代に使われていた 楽浄土のイメージに近づいたので かし、十年くらい前からここに来 とされる赤褐色の顔料﹁丹土﹂で はないかと思うが、長い時を経過 る外国人観光客が増えてきたよう たものの、雑然とした感じが残っ してきた建造物としての趣や重み な気がする。以前は韓国語がよく 柱などを塗り、瓦は光沢の少ない が無くなってしまい、風情がない 聞こえてきたが、最近は中国語の ている吉田キャンパスの方が好み の で、 当 時 の イ メ ー ジ と は 違 っ て である。 も、 時 間 経 過 を 感 じ さ せ る 方 が 自 方がよく聞こえる。京都に来る観 ものを使い、屋根に乗った﹁鳳凰﹂ 分自身の好みであると実感した。 光客が増えることはよいことだと や﹁ 宝 珠 ﹂、 扉 の 釘 隠 し 等 は、 創 昨年の秋、室生寺を訪ねた時も 思 う が、 神 社・ 仏 閣 等 に お い て、 も よ さ そ う な 雰 囲 気 で あ っ た が、 には阿弥陀堂︵鳳凰堂︶が落慶し、 のですが、実の所、この監査役と 査役という事もやらせてもらった しての経験が今日の自分を支えて しました。 年以 な に せ 累 積 損 失 が 45 0 億 円 も あったのでした。この事は くれている大きな自信になってい 堂内には、平安時代の最高の仏師 ます。所謂コーポレートガバナン 定朝によって制作された丈六の阿 上経った現在でも、その額は減り スとは何ぞやという事を勉強させ 徐々に宿泊者も増え、宿泊客の多 弥陀如来坐像が安置され、華やか はしましたが、相変わらず重くの い旅館となって久しい。 自分にとってこの年末の恒例行 さ を 極 め た と さ れ て い ま す。 約 しかかっているのも事実です。 自分には理解できない言葉の騒音 事は、同級生、知人に会う楽しい や仏像が今に伝えられ、世界遺産 10 0 0 年 前 に 建 立 さ れ た 建 造 物 が増え、落ち着いた雰囲気を味わ イベントに加え、風景、雰囲気等 えなくなってきたのは寂しく感じ の 変 化 を 認 識 す る も の で あ る が、 近年は、京都へ車で来るように る。 なり市内を走るのであるが、車か 学生時代を過ごしたこの街は自分 視える化とアンチエージング 望月 道正 ︵昭 年卒・東京支部︶ こんな重荷を背負った会社にきて た だ き ま し て 書 き た か っ た の は、 目の前で経営改善が進み、改善効 たが、毎日が楽しい理由、それは 前置きが長くなってしまいまし 年半ほど前に着任し取り組んだ事 果が目で見えているからです。 は、どうせ売上を伸ばしても利益 か、そうでもなかったのか、その 辺りを書きたかったのです。実は 業後も通信機器にまつわる海外で 私は大学で電子工学を学び、卒 た。当時はその月の売上がどの製 る化〟が第一だろうという事でし だろう、その為には経営の〝視え らば、先ずは成長よりも利益重視 に繋がっていない事業が多いのな 年代後半には折からの ります。サラリーマン生活を始め 売を手掛ける会社の社長をしてお 電子部品と電池の開発・製造・販 移るまで、納期問題対応の人身御 た。また20 11 年に今の会社に 地獄も経験することになりまし ブル崩壊により結局は天国の後の したが、2000 年に起こったバ 寝る間も無い位の繁栄を経験しま イ ン タ ー ネ ッ ト の 流 れ に も 乗 り、 話を一つひとつ聞きました。少し ので、社内の色んな部門と細かい た。イライラしていても仕方ない らないと全く見えてきませんでし 決算数字が、翌月の半ば過ぎにな どうなっているのかという単純な 品でどれだけ上がり、その損益が ました。 の営業の仕事をずっとやって参り す。 思いのほか毎日を楽しんでおりま 果たしてどれだけ苦しかったの てもらいました。 ら見る街中の風景もかなり変わっ の住む街のようにあまり変わって 年、昭 さて、今回この寄稿の機会をい てきた気がする。川端通りのよう かな変化を見つけるのが楽しみに ほしくないと思うが、この街の僅 年から 年から にも登録されております。 に道路が拡幅され景観がよくなっ 鳳凰堂は明治 定点観測を続けたいと思う。 もなっている。今後も、年単位の たところもあるが、十階程度の高 層マンションらしき建物が、主な 通り沿いに増えてしまい、車の運 転席から見ても、元々広くはない 道路が圧迫され狭いと感じるよう 年、平成 年に大掛かりな修理が行なわれま 年から した。 和 観政策﹂により、街中の建築物の そして、平等院には浄土宗の浄 自分の年末の常宿は、子供が小 学校の修学旅行で泊まった旅館で 既存のどちらにも属さない単立 改め、平等院と号しました。 年は末法初年に当たるとされ、末 会社の状況などを自分なりに克明 ま し た。 引 き 受 け た そ の 日 の 晩、 ると思い気楽に引き受けてしまい はやってみたいポジションではあ リーマンになったのだから何時か れた役職でした。まあ、折角サラ アップ・ダウンを短時間のうちに コースターに乗っているかの様な た。サラリーマン終盤でローラー 労務問題解決に奔走したりしまし をやったは良いが、その後困難な 諸国に展開した現地拠点の総代表 供で英国駐在をやったり、アジア 在では前日の全世界での売上が翌 に部分・部分が揃う様になり、現 一朝一夕にはいかないまでも徐々 う 事 に 取 り 組 ん で も ら い ま し た。 でに全世界ベースで集計するとい の売上を発生場所で捉えて翌朝ま ずつでしたが製品別の損益と毎日 寺院です。 法思想が貴族や僧侶らの心をとら 朝には集計されて見えるようにな もあるので、家族にとってもなじ う末法初年に、藤原頼通が寺院に 土 院 と 天 台 宗 系 の 最 勝 院 が あ り、 番 変 わ っ た の は、 宿 泊 者 の 数 で あ え、極楽往生を願う浄土信仰が社 経験しました。そしてその後営業 りました。また製品別損益も把握 36 している。 みのある宿である。増築されたと 年半ほど前から、とある ころはあるが、低層建物の旅館で、 る。二十年くらい前までは、大晦 に調べてみて、これは大変な事を 出身者としては珍しいであろう監 年 日 の 前 は 宿 泊 客 も 少 な く、 年 に 会の各層に広く流行していまし 引き受けてしまったものだと後悔 年を経たところで突然与えら 両寺で管理しています。永承 よっては閑散としており、中居さ た。 その翌年の天喜元年 ︵1053︶ て 建物・設備等は劣化を含め変化を んが暇そうに見え、ばか騒ぎして 7 3 3 ︵1052︶、時の関白藤原頼通が、 私は 50 感じず、外国語の騒音も今のとこ 3 に改め、平等院としました。この 26 父 道長より譲り受けた別業を仏寺 年︵105 2 年︶俗に言 高さ制限が厳しくなったようなの に な っ た。 た だ、 京 都 市 の﹁ 新 景 40 永承 24 35 で、これ以上は悪化しないと期待 32 ろあまり聞こええないので落ち着 7 く宿である。この二十数年間で一 90 25 第248 号 (6) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 様になりました。当たり前の事で でき、結構正確な数字がつかめる webカ メ ラ で 視 え る よ う に し ま どれだけ在庫が寝ているかを 視カメラを取り付け、どの場所に ます。そこは専門技術を持った人 門や現場の人は強烈な抵抗を示し 間を減らすという事は品質管理部 た。このアンチエージングという のかと思い知り勇気づけられまし に し て い た か ら 〟。 案 外 こ ん な も 虎 ﹂、﹁ 後 門 の 狼 ﹂ の すものとして、戯画的に﹁前門の その昔、電気事業の将来を脅か つ が あ る、 しょうが。 た。お恥ずかしい話ですが、ある る在庫の〝視える化〟も進めまし 経営の一番のバロメータと言われ 経理数字の〝視える化〟と共に、 す。 も っ ぱ ら 今 で は こ のwebカ りは歓迎してくれているようで ま せ ん が、 経 営 が 無 関 心 で い る よ ね。視られている方は嫌かも知れ という意識を持つと変わります した。やはり人間、視られている 上私も簡単に引くわけにはいきま 大きいと言っても、言い出した以 とも言えるかと思います。抵抗が う都合の良い逃げ場に逃げていた を少々サボって、エージングとい 言い方をすれば技術的な問題解決 る事も多いと思います。意地悪な の、言わば聖域にも等しい所であ です。 参考になり、お役にたてれば幸甚 様なお話が少しでもどなたかのご が、私の拙い経験に基づいたこの れた方もおられるかと思います つまらない自慢話の様に感じら 言葉、今では我が社の公用語です。 どの指摘があり事業体制の論議が で料金も国際的に割高感があるな 規制に守られ競争が無い、排他的 ﹁自由化﹂については、以前から、 内一杯と第二工場の やエンロンのような無責任な事業 されてきた。その後の石油の高騰 だといわれていた。 それぞれ﹁自由化﹂と﹁技術進歩﹂ 階建て工場の敷地 メラもほとんど不要になっていま 工場では嘗て フロア全 すが。 これからの電気事業に想う す。コンパクトになると人間の動 出費をしていたものだと思いま 運搬費用など何ともとんでもない 流出費用、分散した物品の管理や いた在庫資金、外部に払っていた 年半前当時寝て いるので新たに設備購入を計画し たりして滞留させ、不良を洗い出 程に渡す前にある期間温度を掛け す。これは製品・半製品を次の工 ジングという工程を置きたがりま 特に不良の洗い出しにおいてエー じ︶ってみました。製造現場では し ょ う が、 こ れ を 敢 え て 捩︵ も ての抵抗活動を意味する言葉で アンチエージングとは加齢に対し を 間 違 え て い ま す。 ご 承 知 の 様 に き、ちゃんと対策すれば解決する う追究をし、元の原因を辿ってい 工程の中の何処から来るのかとい かった場合、その原因物質は製造 ションが原因の障害という事が分 す。 す る と 例 え ば コ ン タ ミ ネ ー 問を繰り返し出して一緒に考えま 作業です。専門技術者にもその質 とつ分解して追究していくという 処から来たのか、それらを一つひ その不良は何故起こったのか、何 良 品 に 注 目 す る と い う 事 で し た。 いろいろな曲折を経ながらも進展 に亘って自由競争、国家統制など 電 気 事 業 は 今 日 ま で13 0 年 近 く 需要家への供給開始以来、我国の 明治の半ば東京電灯による一般 技術が一般に実用化されると今の 素供給を見据えた燃料電池などに 事な技術に見える。また将来の水 海外への普及など国策にも沿う大 ル ギ ー の 優 先 使 用、 消 費 地 発 電、 供給技術になるという。自然エネ せん。色々な人に教えてもらいな 者の崩壊などがあり、供給不足に 線もスッキリし、色々良い事が増 すという事をしている作業の事で 事が多いのです。複雑に絡み合っ を遂げてきた。 電気と一部の熱供給だけでは事業 陥った自由化先進国の状況をみて どうやったらこんな事が出来た す。私はこのある期間半製品を寝 ている物でも必ず答えは有るはず 電気事業は公益事業と私企業の として対応出来そうにない。 在庫削減で欠かせないのが〝ア 上は変わらなくても、今では 年卒・四国支部︶ のか?やはり〝視える化〟だと思っ かせるという点が気になりまし で す。 あ る 機 種 で 大 幅 な ア ン チ 両面を持つ。戦後の事業再編で地 ︵昭 井上 博文 ています。原料・材料の購入から た。物を寝かせるという事は資金 エージングに成功したことが有り 域独占となった結果、最近まで公 がら行き着いた一つの取り組み 製 品 の 組 み 立 て、 出 荷、 運 搬、 海 を寝かせる事に他ならず、その必 ました。その時技術の責任者にど は、エージングの結果出てきた不 外での加工、在庫、出荷まで全て 要性は認めるとしても最少時間に うして今まで手を付けてこなかっ 言葉、ハッキリ言いまして使い方 数量と金額をつかみ、その一つひ 留められるのであれば、それは効 ンチエージング〟活動です。この とつのプロセスに対して何故それ 率改善に他なりません。しかしな 益面の規制が強い私企業として専 建て工場の中だけで充分に足りた だけ必要なのかを考え、在るべき たのか尋ねたところ、彼曰く〝入 えてきます。 先年の東日本大震災で原子力の よる需要地点での高効率熱電併用 蓄電技術を駆使した次世代の電力 ネルギー利用に加えて情報技術や で論議されている。各種の再生エ マートグリッド﹂なる構想が各所 ﹁技術進歩﹂については、いま﹁ス に見えた。 優先の姿で踏み留まっていたよう の部分自由化に留まり、一応公益 我国の電気事業は高圧需要家まで 姿と実態とを捉え、毎月・毎月在 がら長年の経験ややったことが無 ら安定供給に努めてきた。 ている所です。 るべき姿に近づけるという繰り返 社以来、先輩から言われたとおり 6 いという恐れから、エージング期 ばかりか、空いた空間も出てきて 階 部、更に運送会社の外部倉庫も借 2 りて在庫を収納していました。売 1 しを行っています。また実際に監 29 6 3 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 (7) 第248 号 安全神話が﹁想定外﹂の一言で脆 いである。 入者が送配電網を使い易くする狙 れていくのだろうか。どうも壮大 あるような社会では困るのだが慣 輸入し各地の首長に配送したのは でした。昨今は、日本列島に鉄を ◇農具の鉄は刃先だけ 弥生中期 年︶の遺跡 くも崩れ去った。おそらく次の世 ︵BC 40 0 ∼ BC しい規制基準と立地自治体の同意 ベースロード電源と位置づけ、厳 能な限り低減させるものの重要な はエネルギー基本計画において可 が報道で多くされているが、政府 世論はこれに頼らないとする意見 原子力については震災の影響で る。 在り方が現在厳しく見直されてい 後のエネルギー政策や電気事業の 厳しいように思われる。そして今 代に替わるまで原子力発電の道は すればどれ位コストが変わるのか が負担するのか、発送電の分離を の責任は誰が負い、その費用は誰 きない。無駄な設備ができたらそ 効率的な設備形成や事業運営はで らばらに計画したのでは一貫した 電源、送配電を別々の事業体がば し建設してゆく必要がある。需要、 面を検討し長期的な観点から計画 土地利用、環境保護などあらゆる 経 済 社 会 の 見 通 し か ら 需 要 動 向、 もので、将来の電源地点の予測や 送配電は発電所と需要家を結ぶ あると思うがどうであろうか。 に貢献する立場の者として大事で してその責任を果たすことが公益 ションとして積極的に社会に発言 者、 特 に 技 術 者 に は プ ロ フ ェ ッ これからの電気事業に従事する した感慨を禁じ得ない。 を過ごしてきた者としては憮然と され専ら安定供給に専念して半生 事業に入り、やがて原子力が導入 火従から火主水従に移るころ電気 力不足がやっと治まり電源が水主 ようで気懸かりである。戦後の電 な社会実験を迎えようとしている わっていてもなんの不思議もあり くられていましたから、それが伝 の頃中国では鋳鉄製の農機具がつ 具がワンセットで伝わります。そ ねもみ︶と一緒に灌漑技術と農器 わ り ま す が、 そ の と き、 種 籾︵ た 時代に、水稲耕作が日本列島に伝 ◇弥生初期に鉄器はあった 史の試論の要約です。 稿は、その﹁鉄﹂にからめた古代 ま す。﹁ 出 雲 系 ﹂ は 暫 く 措 き、 本 を再構成することにトライしてい かわった?に焦点をあて、古代史 だれ?ヤマト王権はそれにどうか は、 中 国 の 戦 国 時 代︵BC4∼ ◇鉄は中国から 道具でした。 は間違いで、十分役にたつ立派な いましたから、粗悪品と考えるの 刃先部分だけが鉄の鋤が使われて す。とはいえ、太平洋戦争中でも、 が大量に国産される中世以降で の は、﹁ た た ら 製 鉄 ﹂ に よ っ て 鉄 板と刃先がオール鉄の鍬が現れる 鉄をはめ込むというものです。木 ︵ え ︶ を つ け、 板 の 歯 先 の 部 分 に ます。この鉄鍬は、木製の板に柄 から、鉄鍬︵すき︶が出土してい 生存が脅かされという脆弱性が高 疾病や自然災害によってたちまち ◇﹁記紀﹂は沈黙 当時の社会は、 ません。 でした。そして後漢から三国時代 れていました。ほとんどが鋳鉄製 の頃中国では鉄器が大量につくら BC2世 紀 ︶ に あ た り ま す が、 そ 世 紀 ︶、 鉄 鉱 石 を 備蓄につながるいいことがあれ で し た。 で す か ら、 食 料 の 増 産・ 安寧を祈願することが大きな役割 秩序を維持する一方、神に豊穣と などの共同作業を指揮し、地域の は誰がどのようにして鉄を列島に ◇鉄をもたらした華商と海人 にも伝わります。 鉄製品をつくるようになり、列島 り、これを鍛錬・加工して様々な 低温還元焼成して海綿鉄をつく うなっていくのだろうか、不安定 将来の社会や電気事業は一体ど かけ四年になります。きっかけは きたので、古代史に取り組んで足 ◇はじめに ﹁ 日 本 書 紀 ﹂︵ 以 下、﹁ 記 紀 ﹂︶ は、 ないはずなのに、なぜか﹁古事記﹂ ンシプルはいささかも変わってい ていました。 中頃以前から、倭人は周と交流し う ︶ を 貢 ず ﹂ と あ り、BC2世 紀 雉を献じ、倭人は暢草︵ちょうそ で ば、なんでも試みました。時代が ∼ く、部族のリーダーは、水田耕作 弥生 をクリアーしたユニットは運転再 など充分に検討され社会の納得を 石黒 公 ︵昭 年卒・東京支部︶ の こ ろ︵ 弥生前期∼中期 開を認める方向である。夏前には 得ておく必要がある。 政府は電気事業に続きガス事業 案した持続可能なエネルギーミッ クスとして将来の電源構成を策定 その他の事業が入り乱れてエネル についても自由化を進めようとし の次世代炉の開発や将来の新増設 ギー供給の戦国時代が始まりそう する見込みである。しかし古い炉 がどうなるかなどまだ見通せない である。電気事業も早く海外の例 ている。いずれ電気、ガス、石油、 問題は残るが現時点ではやむを得 に な ら い 事 業 基 盤 を ガ ス& エ レ ク の改良、更にはより安全な高効率 ない。 ト リ ッ ク に 広 げ、 地 域 の 多 様 な くだって、初期ヤマト国家が形成 の改革として来年春には家庭需要 な再生エネルギーや化石燃料の火 農業の生産性向上につながる鉄に サービスに応えうる総合産業に脱 の自由化を、さらに報道によると ﹁なぜ奈良・山城︵木津︶ ・山背︵太 皮しておく必要があるのではなか ﹁ 周 の 時 は 天 下 泰 平、 越 裳 は 白 運んだのでしょうか。 東京オリンピックまでには発送電 力 発 電 に 頼 っ て 大 量 のCO 2を バ 電 気 事 業 の 在 り 方 に つ い て は、 される時代になっても、このプリ 分 離 を 義 務 づ け よ う と し て い る。 この周は都市国家を統合した国 ついて沈黙しています。 政府は電気事業法を改正し全面自 鉄と韓半島情勢からみた 卑弥呼の時代 資源、環境、コストなどを総合勘 50 秦 ︶・ 丹 波 に 出 雲 系 が 多 い の か ﹂ ろうか。 4 ラ撒くのか、停電がしょっちゅう 由化を進めている。電力システム 2 送配電事業を別会社化し、新規参 現役を退いて暇がで 40 第248 号 (8) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 省撫順市付近︶に高句麗王国を建 女 王 と し、 抗 争 が 終 息 し ま す やがて後漢光武帝はこれを冊封 の遺物や鍛冶遺構が列島各地から 団が現れ、鉄製の鍬先、鉄斧など 同じころ倭国に、鉄器生産者集 ます。 帝 は、 衛 満 の 孫 の 右 渠︵ う き ょ︶ し、﹁高句麗王﹂を授けます︵ 年︶。 出土するようになります。鉄の供 末の約7 000 年間、中国の全領 の と き、 衛 氏 朝 鮮 を 滅 ぼ し︵BC 洪武帝は中国統一事業を立て直す 給 が、 北 部 九 州 の 独 占 状 態 か ら、 で、 商 人 を 保 護 し、 商 人 ら は、 南 年 ︶。 ︵184年ころ︶。 領域でした。その版図は、現在の 1 0 8 年 ︶、 そ の 故 地 を 楽 浪 郡 と 住民の首長︵渠帥、きょすい︶ら べく、辺境の郡や県を整理し、原 年 / BC 北 京・ 天 津・ 瀋 陽、 遼 東 半 島 を つ し、さらにその南西に真番郡︵現 て ま す︵BC ペルシャなどとも交易し、その関 つみ、清川江︵せいせんこう︶の 在の忠清道・全羅道の地域か︶を、 漢の武 税が周の主な財源でした。周の戦 河口北岸に達していました。現在 ◇直轄地から間接支配へ 国時代後期になると、韓半島︵以 の中・朝国境である鴨緑江︵おう 域のうち、東北部は燕︵えん︶の 下、﹁半島﹂︶の西海岸を船と陸路 南東に臨屯郡︵りんとん、江原道︶ は東南アジア諸国・インド、西は で縦断し、倭国の九州に至る商業 りょくこう︶を越えていたのです。 37 ルートが開拓されます。 75 退、高句麗の勢力拡大などによっ したが、中国王朝の半島からの撤 の鉄の供給は当初、安定していま 鍛冶加工して使っていました。こ を 輸 入 し、 そ れ を 消 費 地 に 運 び、 から鉄鋋︵てつてい=鉄の延べ板︶ 皆従いて之をとる﹂とあるように、 産出し、 ﹁韓、䈸︵わい︶、倭︵わ︶ 半島南部の弁韓、辰韓で鉄鉱石が ◇倭国は半島の鉄を買っていた を提供していました。 を定め、積荷と海人の治安と安全 各地の首長らが、それぞれ持ち場 あま︶が実際の物品の輸送を担い、 半島や列島各地の海人︵かいじん・ な り ま す︵BC 1 9 5 年 ︶。 こ れ 連合政権を樹立。衛満はその王と 斉からの亡命者︵漢人︶が加わり、 んばん︶族を服従させ、そこに燕・ を 越 え て 南 下、 朝 鮮 族・ 真 番︵ し 余家の同志をひきつれて、清川江 武 将・ 衛 満︵ え い ま ん ︶ は、 一 千 逃れます。そのとき盧綰の部下の ﹁ も は や、 こ れ ま で ﹂ と、 匈 奴 に に恵帝がたつと︵BC 195 年︶、 くれる日を待ちますが、劉邦が死 劉邦が冤罪であることを分かって うけん︶を燕王にします。盧綰は 言を信じ、盧綰に代えて劉建︵りゅ ﹁盧綰に謀反の志あり﹂とする讒 王 に し ま す。 し か し 劉 邦 は 晩 年、 年 ︶、 劉 邦 は 盧 綰︵ ろ わ ん ︶ を 燕 滅 ぼ し 漢 が 興 る と︵BC 2 0 2 ◇衛氏朝鮮の誕生 樹立し、南部では有力首長が部族 北部では高句麗が土着民の政権を 辺国にただちに影響します。半島 こうした漢王朝の方針転換は周 の自治を認める外交策です。 朝への服属を条件に、土着の政権 たりします。ちなみに、冊封は王 切り替え、支配そのものを放棄し 封︵ さ く ほ う ︶、 羈 縻︵ き び ︶ に 地域は縮小・統合し、あるいは冊 と、費用対効果の観点から、ある 死 に、 彼 の 積 極 外 交 が 転 換 さ れ る は 行 政 コ ス ト が 嵩 み ま す。 武 帝 が なります。遠隔の地を直轄するの 荊州のはるか900km東の端に 北京市︶は西のはずれ、韓半島は を直轄領とします。 う︶に帰属させ、半島のほぼ全域 を置き、これらを幽州︵ゆうしゅ を、東北に玄菟郡︵げんと、咸鏡道︶ 年続きますが、漢の恒︵こう︶帝、 この倭国は男王をたてて七、八十 している点に注目です。 が、中国王朝が﹁倭国王﹂と認識 帥升の詳細はわかっていません う ﹂ て い ま す︵ 1 0 7 年 ︶。 こ の を遣わし後漢の安帝に謁見を請 国王帥升︵すいしょう︶らが使い 長国は共同で国を設立します。 ﹁倭 世紀末ころ、列島の畿内以西の首 ◇連携国家﹁倭国﹂が現れる 正しいと思います。 外に宣言したものと理解するのが 州の国々にあることを、倭国の内 島からの鉄の輸入の利権は北部九 か ら 冊 封 を 受 け た の で は な く、 半 これは奴の国王が単独で中国王朝 朝貢し、洪武帝から﹁漢委奴国王﹂ こ く、 博 多 市 付 近 ︶ の 王 が 後 漢 に ◇倭国、冊封へ動く 倭の奴国︵な させる政策をとります︵ を県侯︵けんこう︶に任命し独立 半 島 中 部 に い た 土 着 民 の 韓︵ か 払って旧玄菟郡を支配し、ついで、 棄 し た 楽 浪 郡 を、 高 句 麗 を 追 い 呈 し ま す。 戦 火 と 飢 餓 を 逃 れ て、 に激減するという凄まじい惨状を 人口は、190 年ころには 157 年に5 000 万人余あった の 後 に 続 く 分 裂・ 抗 争 が 響 い て、 民が激増、農業生産が急落します。 起 こ り︵ 1 8 4 年 ︶、 棄 農 す る 農 中国では農民の反乱・黄巾の乱が 多様化したのです。 世紀末には、倭はここ の 印 綬 を 授 与 さ れ ま す︵ 年 ︶。 乱は 年で一応収束しますが、そ / 華北、山東半島、遼東半島から大 もともと華北の 量の難民︵漢人︶が韓半島へ流入 します。 ◇公孫氏の台頭 王族であった公孫度︵たく︶は後 漢 の 末︵ 1 8 9 年 ︶、 遼 東 太 守 に 任命されます。すでに後漢の政府 は機能せず、公孫度は赴任先での 自活を余儀なくされます。度︵た ん ︶、 穢︵ わ い ︶ を 討 っ て 帯 方 郡 く︶はすぐに勢力を蓄え、漢が放 の 間、国 が 乱 れ お 互 い が 攻 撃 し あ に編入し、さらに半島南端に迫り、 遅くとも 後 漢 末、 て、次第に不安定になります。倭 が衛氏︵えいし︶朝鮮です。漢の 国家樹立へ動き、倭国は中国に冊 霊︵れい︶帝︵167 ∼189年︶ い、 王 が 不 在 の 時 代 が 続 き ま す。 臨屯郡、玄菟郡 ◇ 中 国 は、 群 雄 割 拠 へ 国 は 伽 耶︵ か や ︶・ 加 羅︵ か ら ︶ 遼東太守には、半島を統治するだ 封を求める外交方針をとります。 年︶。 に任那︵みまな︶を置き、鉄の獲 け の 余 力 が な く、 衛 氏 朝 鮮 を 承 認 ◇高句麗の建国 には穢︵わい︶系民族が住んでい 劉邦が項羽を 得 を 第 一 に、 軍 事 的 に は 中 立 を し、衛満に半島の治安と国境警備 こ の こ ろ は 国 境 の 概 念 は な く、 保っていましたが、しだいに半島 にあたらせます︵BC 191年︶。 その結果、衛満は半島の交易ルー きます。 ◇半島の北部は燕の領域 ﹁是より後、倭・韓遂に帯方に属す﹂ そこで首長らが卑弥呼を共立して 10 て、 そ の 一 部 が、 高 句 驪 県︵ 遼 寧 ここで 1 1 30 トと華商を独占し、巨万の富を得 1 幽 州 の 都・ 荊 州︵ け い し ゅ う、 の部族間の抗争に巻き込まれてい 12 57 時計の針を戻します。殷から前漢 2 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 (9) 第248 号 ◇ 魏・ 呉・ 蜀 の 三 国 時 代 した。 のとき倭国では、卑弥呼が女王で ︵ 2 0 4 年 ︶ こ と に な り ま す。 こ して独立を宣言、年号も改めます。 ま す ま す 増 長 し、﹁ 燕 王 ﹂ を 自 称 か わ せ ま す が、 淵 は こ れ を 退 け、 倹︵かんきゅうけん︶を討伐に向 と、淵はこれを拒否。明帝は母丘 で︵ 2 4 7 年 頃 ︶、 台 与︵ と よ ︶ し一寸先は闇です。卑弥呼が死ん けたのではないでしょうか。しか にもっとも近い勢力である魏に賭 供給であるとし、高句麗、韓半島 して止揚︵しよう︶することが大 仮説が得られます。仮説は、議論 史を再構成すると、上述のような 正史を背景において、日本の古代 触れていません。しかし、中国の 国や卑弥呼についてほとんど何も ◇ あ と が き ﹁ 記 紀 ﹂ は、 邪 馬 台 改めて考えだしたキッカケは父が ここ何十年か忘却していた問題を に生き、如何に死ぬべきかという、 に気付いて愕然とした。人生如何 の中にほとんど出来ていないこと 対する覚悟あるいは考え方が自分 見たのであった。そのとき、死に さて中 国本土では、各地に群雄が割拠し に な る と、 魏 は 晋 に 代 わ り ま す 月︶、 ︵265年︶。 これに対し明帝は将軍司馬懿︵し 与えてくれたのである。 ばい︶を差し向け︵238年 切です。忌憚のないご意見を頂戴 別々の政治を行うようになってい この ましたが、その中で曹操︵そうそ ◇ヤマト王権は鉄の専管へ 総理大臣︶となります︵207年︶。 一 し、 漢 の 丞 相︵ じ ょ う し ょ う、 ◇卑弥呼の機敏な対応 卑弥呼は、 族は滅びます︵同年 月 糧攻めにし、淵は投降、公孫氏一 平︵じょうへい︶城を包囲し、兵 ないとし、中国王朝︵宋︶に半島 等な外交関係を築かなければなら をとって高句麗、新羅、百済と対 世良 武憲 年末年始に考えたこと いそうで、ちと入りづらい。たま ヨガ教室などは女性に占有されて 万の兵をもって淵の襄 曹操が赤壁の戦い︵208年︶で、 公孫氏が滅亡する直前の 司馬懿は 劉備︵りゅうび︶ ・孫権︵そんけん︶ ︵238年︶、大夫難升米︵なしめ︶ における軍事支配権を認めるよう う︶が頭角をあらわし、華北を統 に敗れると、華北の曹操、益州の と都市牛利︵とし・こり︶を帯方 要求し、ほぼ望み通り認められま 以前から禅には興味があったの 劉備、長江︵ちょうこう︶の孫権 郡に送り込み、天子に拝謁を求め す。 できれば幸甚です。 の三者が覇権を争うようになりま ます。帯方太守劉昕︵りゅうきん︶ 世紀の﹁倭の五王﹂の す。曹操が死に、その子・曹丕︵そ は、おそらく公孫氏が滅亡した あとは、 うひ︶が魏の皇帝につくと︵220 月以降に、難升米らを魏の都・洛 う︶から遼東太守の地位を奪うと、 孫淵︵えん︶は、叔父の公孫恭︵きょ す。それにしても、中国情勢が混 リーな外交手腕には驚かされま 到着させるという卑弥呼のタイム ていない段階で、使者を帯方郡に 世紀末に 部においては倭がイニシアティブ このころ、遅くとも は、砂鉄を原料とするたたら吹き 製錬が開発され、筑紫、吉備、出雲、 大和、毛野︵けぬ︶などの大国は、 年卒︶ そ れ で は と ヨ ガ を 考 え て み た が、 たま書店で手に取った本に、家の たになるものであるが、今回は大 年末年始は何となく気持ちが新 この中村天風という人は日露戦 て天風に興味を持つにいたった。 教わったやさしい瞑想法﹂を通し ︵昭 近くの氣功教室が紹介されていた ので、そこに通うことにした。氣 功 と 言 っ て も 様 々 あ る よ う だ が、 私の場合、積年の肩こり症が治る などの効果はすぐに現れたが、人 生問題の方は余り進展が無かっ た。そんなときこれまた書店で見 たが、やがてヤマト政権は徐々に きな出来事がひとつならず重な つけた沢井淳弘著﹁中村天風から 鉄を政権の統制品に組みこんでい 舶来と国産の鉄を供給していまし きます。詳細は割愛しますが、そ り、 私 に と っ て 大 き な 転 換 点 と 歳で帰天したのである。実に穏や もりでいたところ、年末に母が たいと、教えを求めて高名な宗教 もせめて以前の豪胆さを取り戻し れ、このまま座して死を待つより なってしまった。名医にも見放さ 喜一憂するなどすっかり気弱に 性の結核を患い、熱を計っては一 しばらくして当時死病とされた悪 胆無比であったのが、日本に戻り 争の軍事探偵の生き残りで生来豪 の一環でおきた軍事的干渉が、吉 なった。 つこ︶制度などとからめて、巧妙 かな、眠るがごとき大往生であっ 元々、年明け早々に退職するつ に鉄の利権を取りこんでいきま た。 年前に父が亡くなったと き、 初 め て 死 と い う も の を 間 近 に 実は す。そうしたヤマト政権のやり方 続く磐井の乱︵527年︶でした。 擁立︵5 07 年︶であり、それに に対する揺り戻しが、継体天皇の 後は氏姓制度や国造︵くにのみや 備 氏 の 乱 で す︵ 4 6 3 年 ︶。 そ の 91 だが、修行をするとなると大変だ。 年︶、つづいて劉備が蜀の皇帝に、 陽まで送りとどけ、難升米らは 魏の明帝はこれを追認します。そ とんとする中で、どういう情報か [email protected] 孫 権 が 呉 の 皇 帝 に つ き、 魏・ 呉・ 月、 明 帝 に 拝 謁 し、 朝 貢 し ま す。 魏 倭 王 ﹂ の 印 綬 と 銅 鏡10 0 枚 を の一方、淵︵えん︶は魏の宿敵で ら当面の外交相手を魏に絞ること 50 時代になります。彼らは、半島南 蜀の三国鼎立時代に入ります 明帝は非常に喜び、卑弥呼に﹁親 大級の注意をもってウォッチして ある呉と通じ、呉から燕王の称号 にしたのでしょうか。新しい歴史 魏と公孫氏の戦いがまだ決着し 含む莫大な下賜品を与えます。 を受けます。そして今度は呉の使 こうした中、公 いたはずです。 者を殺害し、魏はこれを多として 事実が待たれます。おそらく卑弥 ◇公孫氏の滅亡 淵 を 大 司 馬・ 楽 浪 公 に 任 じ ま す。 呼は、最大の外交課題は鉄の安定 3 8 だが、明帝が淵に出頭命令をだす 8 8 12 月︶。 を、卑弥呼やリーダーたちは、最 ︵229 年︶。こうした中国の動静 5 4 2 6 第248 号 (10) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 ドバイスもあったのだがホームで の勉強が役に立った。主治医のア 体操が始まる前に集会室の空調と 集 会 室 で 茶 話 会 を す る の で あ る。 がら体操をして、時間のある人は iPadで お 手 本 のDVDを 見 な えられて、気持ち新たにこれから ある。 にも出来るだけ参加するつもりで る。勿論、われらが洛友会の催し 真面目に話し合える場は貴重であ 縁。天風会のように人生について 示すのみならず、そこに至る方法、 看取ることにしたのである。眠り 電気ポットのスイッチを入れるこ 分 間、 しかも時間に制約のあるサラリー を 妨 げ る こ と 無 く、 あ く ま で も 静 と と、iPadを ベ ン チ の 上 に 時から約 を受けた本の著者に会うべく国禁 マンでも出来る方法が用意されて かに生命が順次その機能を停止し いて毎朝 を犯して米国に渡るも失望し、な いて、なおかつ惜しげも無く公開 ていく様は感動的でこそあれ、い の人生を充実したものとしていき 針確認を求められた際にはこれら らばとヨーロッパに渡りむなしく されていることである。とはいえ セットするのが世話係の私の役目 説の魅力は、単にかくあるべしと 道を求めた末、どうせ死ぬなら日 講演録や著書だけでは解りづらい わゆる死の恐怖はちっとも感じな 家を歴訪するも満たされず、感銘 本でと乗った船がカイロに寄港し 年ほど前から に従ってインドのヨガの聖地で修 体操や座学に励んでいるところで の午前中は先輩諸兄の指導のもと 近くの天風会に入会して、日曜日 の﹁自然な死﹂のお手本を母が身 分もかく死にたいと言わしめた程 かった。主治医をして理想的、自 下での体操は本当に気持ちの良い もうすぐ一年になるが、青空の である。 行すること 後の最後まで本当にありがたいも 父 と い い、 母 と い い、 親 と は 最 季折々の花など豊かな自然に触 鳥のさえずり、虫の声、青葉や四 とともにいつしか病も癒えた。中 他にも、いくつか慢性病を持っ も の だ。 心 身 の 爽 快 は も と よ り、 ていた母が快適に暮らせるように れ、 体 操 後 の 茶 話 会 に 心 な ご み、 を以て示してくれたのである。 した後、日本に帰国してからは実 のである。 ある。 業界に転じて大成功を収め、芸者 と、中村仁著﹁大往生したけりゃ 国で孫文を助けて辛亥革命に参加 遊びをし尽くすも心の満足を得 夕 方 会 社 帰 り に ホ ー ム に 寄 っ て、 老 人 ホ ー ム に 越 し て 来 て か ら は、 母が腰を痛めて我が家の近くの 確保、自分の居場所の確保、生き ある。先ず考えたのがお小遣いの たので、心の準備はしていたので した。これは少し前から決めてい めに、フルタイムの仕事から引退 も味わえる。最近は体操仲間でお も好評で、﹁お役に立っている感﹂ 力で開けられたなどと参加者から りが治ったとか、ビンのフタが自 実感しているところである。肩こ るなど、思っていた以上の効果を 気力充実して一日がスタートでき 天風は日本ではもっとも初期の 晩ご飯を一緒に食べることが多く 甲斐の確保であった。ありがたい 昼ご飯を食べに行くなど、ますま 月のはじ 医療とかかわるな﹂などの健康本 ヨガ直伝者であり、当時の入門者 なったが、母が寝る前に妻が﹁お ことに会社がこれらを総て与えて す面白くなって来た。 さて、年が替わって 年感ずるところがあっ ず、大正 には東郷平八郎、杉浦重剛、石川 美顔﹂などをし、最後に私が、氣 は自分で算段をせねばならない。 くれていた訳であるが、これから 守重信も著書を通じて深い感化を し、時代が下っては稲盛和夫や永 い。既にお美顔の途中で眠りに落 もっとも効果のほどは定かではな い ﹂ を 唱 え る の が 恒 例 で あ っ た。 た﹁安眠と甦りのためのおまじな うだ。 ことになったので、何とかなりそ 戚の家業をパートタイムで手伝う この内、お小遣いについては親 体操と月に一度の歩こう会を続け のだろう。地縁については毎朝の ご縁を大切にしていくことになる を何册か読んだりもした。 素童を始め政財界、宗教界の大物 功の小周天、白隠禅師の軟酥の法、 受けたという。大佛次郎も門下生 辻説法を始めたのである。 が名を連ね、尾崎行雄、後藤新平、 天風の暗示法などをもとに自作し で御存知﹁鞍馬天狗﹂は天風の軍 ちるのが常であったのだから。 たい。皆さまのご指導、ご鞭撻を 仰ぐ次第である。 記念アマチュア無線局で アピール 年卒︶ ついにはプリン一つか二つしか受 た だ、 食 が だ ん だ ん 細 く な り、 ティー活性化の一環として始めた の理事をしていたとき、コミュニ ジオ体操である。昨年マンション もう一つの取り組みは、朝のラ 手を入れねばなるまい。そして学 グ し て い る 趣 味 の 団 体 のHPに も ンアップを実施して、ホスティン あ る 自 宅 サ ー バ ー のOSバ ー ジ ョ うのもある。まずは長年の懸案で 生の頃に開局し、しばらく離れて の方が多いと思います。私も中学 ア無線に手を染めた経験をお持ち 洛友会会員であれば、アマチュ ︵昭 け付けなくなったとき、病院に連 もので、大晦日と正月三ヶ日を除 滝澤 修 このように天風は極めてスケー れて行くか、ホームで看取るか方 て書いたものだそうだ。 時代背景を幕末の京都に置きかえ ルの大きな人物であるが、その教 ていくつもりだ。また趣味縁とい 事探偵時代の活躍ぶりをモデルに これからは社縁に加えて様々な 松下幸之助などが講演会に参加 浅野総一郎、ロックフェラー 世、 1 そしてこうした様々なご縁に支 たときに、ヨガの聖者と運命的な こともあるので、 10 出会いを果たし、何も聞かずに師 7 年 余 り、悟 り を 開 く 3 3 60 2 て世のため人のために上野公園で 8 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 ( 1 1 ) 第248 号 た。これらは過去の話となり、携 線が当時の若者に広く普及しまし 使う移動通信手段として、アマ無 は、スキー場や車・バイクなどで 級にもいました。1980 年代に かつてはラジオ少年がどこの学 活動の活性化の一助としていただ ブと合同で活動・指導し、クラブ になった中・高・大学の無線クラ 実験を体験してもらい、また稀少 ベントに出展して、電波を使った れています。青少年向けの科学イ 啓蒙活動や次世代育成にも力を入 交 信 す る だ け で な く、 市 民 向 け の 私たちの記念局活動では、単に ンターに無線機を持ち込んで休日 重な研究施設です。そんな平磯セ ただ一つ現存している、最後の貴 省電気試験所が設けた拠点の中で 所等の共通のルーツでもある逓信 グ ル ー プR&D部 署、KDDI研 究 現在の産総研︵旧・電総研︶ 、NTT 測 を 始 め た 歴 史 的 な 拠 点 で あ り、 初期に日本で初めて電離層定常観 大に移られた前田憲一先生が昭和 なったため、上位資格取得のハー 技が省略されて筆記試験のみと 試験ではモールス符号送受信の実 です。また最近の無線従事者国家 身有効なため、カムバックは容易 無線従事者資格は更新が不要で終 バ ッ ク す る 事 例 が 増 え て い ま す。 が一段落した機会に、無線にカム 離れていた人たちが、仕事や家庭 最近は、私と同年代で無線から トでも情報発信しています︵﹁8N ら、 ぜ ひ 応 答 下 さ い。Webサ イ コールサインが聞こえていました は、 お 空 で8N 1 0 0 ICTの す。本稿をお読みの元ラジオ少年 一挙三得を狙って活動していま 次 世 代 育 成 に も 寄 与 す る と い う、 研究の歴史をアピールし、そして 趣味として楽しみつつ、無線通信 私はアマ無線を通じて、自らの いた時期がありましたが、そろそ 帯電話が普及した昨今はアマ無線 くことを目指しています。 に電波を出し、地元ラジオ局のイ す。 ドルが以前よりは下がっていま 100ICT﹂でご検索下さい︶。 ろ四十年になります。 を続けている人が激減し、愛好者 得ながら、百周年をささやかにア ンタビューを受けるなどの反響を 機︵リグ︶を当時買えなかった元 昨 年 は 一 局 目 の 記 念 局 と し て、 NICT十 周 年 お よ びNICTの ピールしています。また今年の春 ラ ジ オ 少 年 の 心 を く す ぐ る べ く、 の高齢化が進んでいます。中・高・ 前身である郵政省電波研究所によ る東京オリンピック宇宙中継成功 以 降 に は、 標 準 電 波JJYが 昭 和 高根の花だったあこがれの無線 大学の無線クラブは、今や絶滅危 そんな状況のアマ無線をもっと 五 十 周 年 な ど の 記 念 局8J10 あった千葉市花見川区の逓信省 線機が販売されて、飛ぶように売 て、百万円を超えるような高級無 北 章徳 1.はじめに ︵平 年卒︶ 本 田 技 術 研 究 所 が19 8 6 年 に 開始した小型航空機とエンジンの 年を経て、いよいよ 市制六十周年記念局が全国で多数 ︵YRP︶ に も 無 線 機 を 持 ち 込 ん 神奈川県の横須賀リサーチパーク 無線通信研究機関が集積している と僅か一年、電気試験所が無線電 三局目は、マルコーニに遅れるこ 来 年20 16 年 に 予 定 し て い る ディトランシーバで海外の局とも 機 を ゲ ー ト ウ ェ イ と し て、 ハ ン インターネットに接続された無線 2015年は、ベリーライトジェッ 実 を 結 ぼ う と し て い ま す。 今 年 研究は、約 が付く特別なコールサイ ルできます。そこで、私が勤務し が殺到し、記念行事を広くアピー JJY開 局 七 十 五 周 年、 そ し て 四 ターの百周年および標準電波 な か 市 に あ るNICT平 磯 セ ン 二局目の今年は、茨城県ひたち している元ラジオ少年たちを発掘 て、全国の無線関連機関に潜伏? てオールジャパンの記念局とし NICT関 係 者 に よ る 活 動 を 超 え 携・ 人 脈 を 足 が か り と し て、 これまでの二局で築いてきた連 イムに公開するサイトもあり、交 ト上でまとめて地図上にリアルタ ノード局が受信してインターネッ のみならず、各局の位置データを 信して相手局の端末に表示できる GPSに よ る 自 己 位 置 デ ー タ を 送 しています。 米国連邦航空局の型式認定を取得 は、一足早く、20 13 年 HondaJet搭 載 の 小 型 タ ー ボ フ ァ ンエンジンHF120︵図 参照︶ べ き 年 と な り そ う で す。 一 方、 交 信 で き るVoIP無 線 が 人 気 を ている独立行政法人情報通信研究 月 に 予 定 さ れ て い るNICTの 国 信の研究を始めて百二十年になる 機 構︵NICT︶ に ま つ わ る 無 線 立研究開発法人化を合わせて記念 信可能な相手探しに活用されてい で、YRPの ア ピ ー ル と、 地 元 の 通信研究の歴史を記念する三つの し、活動への合流を促したいと考 ます。 ンで目立つ存在のため、全国や海 期間限定局を、昨年から20 16 する8N 100ICTを運用して えています。 客への出荷が開始される、記念す 年まで、毎年一局ずつ開局・運用 います。平磯センターは、後に京 集めています。また音声と同時に しています。 ことを記念する局です。三局目は、 1 無線家との交流を行いました。 数字の 開局しました。記念局は、冒頭に タ ル 技 術 の 導 入 が 進 ん で い ま す。 日本発の航空機エンジン 開発 惧種と言われています。 社会にアピールしたいという思い ゆかりの地に移動して電波を出し ︵後に電電公社︶検見川無線送信 れていると聞きます。 カムバック組をターゲットとし 念局﹂の開局・運用です。記念局は、 たほか、東京電機大学や東北大学 所跡に無線機を持ち込んで、記念 十五年に開局した当時の送信所が 特別な行事の際にのみ期間限定で などのキャンパスに無線機を持ち 局を運用する計画を進めていま NICTを、 半年間運用しました。 免許を受けるアマ無線局で、例え 込み、それぞれの学生クラブと合 す。 で 私 が 最 近 凝 っ て い る の は、﹁ 記 ば昨年は昭和の市町村大合併から 同で記念局を運用しました。また そんなアマ無線の世界にもデジ 六 十 周 年 を 迎 え た 自 治 体 が 多 く、 7 ト HondaJet ︵図 参照︶が米国連 邦航空局の型式認定を取得し、顧 30 外のアマ無線家たちから交信希望 8 る本田技術研究所航空機エンジン 私は、埼玉県和光市を本拠とす 月に 12 2 第248 号 (12) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 最大の特徴は、主翼上面にエンジ 類され、お値段は$ 4・5Mです。 さ れ ま す。 HondaJetは 定 員 ∼ 名のベリーライトジェットに分 し、その社員や個人の移動に利用 ジェット機で、企業や個人が所有 近に感じていただければ幸いで らゆる想定使用環境や故障注入が いられるか、などなど、ありとあ エンジンケースから飛び出さずに 枚が根元からちぎれてしまっても るか、エンジン入口ファンの翼一 力低下をある程度で踏みとどまれ るか、氷塊や鳥の打ち込み後の推 2.ビジネスジェット㿌 しのような耐久試験をはじめ、水 HondaJet ビジネスジェットとは、 名か を吸い込んでなお推力を維持でき す。 ひとつひとつ実証されました。 温・高振動・運転サイクル繰り返 ンジン試験が実施されました。高 局の型式認定に向けて、様々なエ 最適な目標ファン回転数が選択さ ロットが意識しなくても、安全で ン ジ ン 運 転 を 継 続 し ま す。 パ イ て、何事もなかったかのようにエ に制御システム冗長系へ切り替え 異常を発見した場合には、自動的 身 を 故 障 診 断 し て お り、 万 が 一、 の も、 制 御 シ ス テ ム は、 常 時、 自 る信号だけが使われます。という 出します。そこには、信頼のおけ 勘案して、目標ファン回転数を算 を避けつつ、航空機の飛行環境を エンジンの失火・過回転・過温度 す る だ け で す。 制 御 シ ス テ ム は、 します。そのうち、燃料ポンプ下 ン回転数に比例した流量を吐き出 れています。燃料ポンプはエンジ シャフトを介して機械的に駆動さ プ は、 エ ン ジ ン 回 転 軸 か ら ギ ア・ 4.2 投入燃料増減方法 現代の主流方式では、燃料ポン らいにあっさり従っていました。 の人たちの指示には、可笑しいく い制御部品サプライヤーでも、そ なかなかいうことを聞かない難し はっきり感じられました。普段は てきただけの理由があるのだと ら ン配置している点で、客室空間拡 名程度を定員とする小型 5 5 20 まちがいなしです。いまのところ 空 港 で、 だ れ も が 振 り 返 る こ と、 す 独 創 的 か つ 合 理 的 な 設 計 で す。 と、連続燃焼します。単純化して たび点火されてエンジン始動する ターボファンエンジンは、ひと 4. ターボファンエンジン制御概要 ます。 ﹂、略してFADE Engine Control C︵ フ ェ イ デ ッ ク ︶ と 呼 ば れ て い す。FMV は、電磁石への電流信 は燃料ポンプ上流側に戻されま え ま す。︵ こ れ は、 間 欠 燃 焼 を 繰 けて投入燃料増減するだけ、と言 制御とは、目標ファン回転数に向 との共同開発でした。その社員の あるジェネラルエレクトリック社 大のジェットエンジンメーカーで ところで、HF 120 は世界最 ギーを最大限に活用し、ほんの少 す。 エ ン ジ ン 自 身 の 回 転 エ ネ ル で機械増幅するサーボバルブで 号︵数十m A 程度︶を元に燃料圧 れ る の で、 こ の よ う な 制 御 シ ス テ 流のFMV︵ Fuel Metering Valve 、 ムは英語で﹁ 燃 料 調 節 弁︶ を 通 過 し た 燃 料 だ け Full Authority Digital が、エンジンに投入され、余剰分 日本での販売は未定ですが、米国・ しまえば、ターボファンエンジン 3. ターボファンエンジン㿌HF120 り返す自動車エンジン制御と比べ しの電力消費で投入燃料増減でき ターボファンエンジンとは、ガ 年前に世界で初めて電 ウェア開発に携わっています。本 1 20 向 け の エ ン ジ ン 制 御 ハ ー ド R & D セ ン タ ー に 勤 務 し、 H F kg ︶、 最 大 直 径 格推 力 されています。HF 120 は、定 ということで、旅客機に広く採用 速、ターボジェットよりも高効率 般的にターボプロップよりも高 4.1 目 標 フ ァ ン 回 転 数 決 定 プ ロセス す。 御システム構成について説明しま プロセス、投入燃料増減方法、制 ここでは、目標ファン回転数決定 局観と細部へのこだわり両方を持 ギッシュで、頭の回転が速く、大 ム 勤 務 で し た が。︶ み な、 エ ネ ル いて、再雇用制度でのパートタイ い ま し た。︵ す で に リ タ イ ヤ し て ような、レジェンド的な人たちも 日 のF A D E C に 発 展 さ せ て き た 子式のエンジン制御を導入し、今 無駄があるのは否めません。今日 を 吐 き 出 し て い る わ け で す か ら、 燃料ポンプは常に必要以上の流量 めに、制御応答特性が複雑ですし、 電気・機械・燃料圧が介在するた です。 るようにうまく工夫されているの て、 ず い ぶ ん と シ ン プ ル で す。︶ 中には、 稿では、始めにビジネスジェット 1 8 2 kg 以 下 で、 タ ー ボ フ ァ ン 現代の主流方式では、パイロッ ・ 8㎝ 、 重 量 月の米国連邦航空 を 上 下 さ せ て、 欲 し い 推 力 を 指 示 トは、コックピットにあるレバー を積みあげ、第一線で活躍し続け ちあわせ、そのうえに豊富な経験 ワーエレクトロニクスに代表され のハイブリッド・電気自動車のパ しかしながら、課題もあります。 とターボファンエンジンに触れて エンジンのなかでは小型に分類さ 20 13 年 53 、 0 9 5 ポ ン ド︵ 9 5 0 から、ターボファンエンジン制御 れます。 スタービンエンジンの一種で、一 でいます。 欧州での販売は着々と準備が進ん 大や機体空力特性に恩恵をもたら 6 の概要を紹介します。この寄稿で、 30 図1:HondaJet 外観 図2:HF120 外観 日本発の航空機エンジン開発を身 12 2 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 ( 1 3 ) 第248 号 達は、目覚ましいものがあります。 モーターや電力制御デバイスの発 る よ う に、 数 十kWク ラ ス の 電 気 存在感があります。 ジンでは、あまりよくない意味で に、HF 120 のような小型エン 当然ながら、高い品質保証が求め ています。空を飛ぶ装置ですから、 サプライヤーから供給してもらっ られます。私個人的には、日本人 気質の細部へのこだわりが商品価 このような課題意識から、航空 機エンジンの分散制御システムが これを利用しない手はありませ ん。高機能・高効率化を目指して、 支部だより 年 月 日︵ 金 ︶ANA 中国支部総会報告 平成 クラウンプラザホテル広島におい 値に結びつきやすい、稀有なビジ ネス環境だと考えています。また、 研究されています。センサー・ア クチュエーター・点火装置にそれ ターボファンエンジン燃料ポンプ が電力直接駆動に置き換わり、燃 て第 年度洛友 後半で触れたように、特にエンジ お話しいただき、予定どおり全て の議事を終了しました。 年卒業の池内先輩のご発声 総 会 終 了 後、 記 念 撮 影 を 行 い、 昭和 月に開催した 周年記 料増減するように変わってゆくの 独立的な機能を持たせます。これ ン制御ハードウェアには、新技術 えし、中国地方各地から 総会には本部から荒木先生をお迎 会中国支部総会が開催されました。 ら会は進み、昭和 談笑の中で大いに懇親を深めなが ら す べ て の 指 示 が 出 て ゆ き ま す。 報を集め、そこで判断し、そこか 制御します。ECU にすべての情 、エンジン ︵ Engine Control Unit 制御装置︶がエンジン全体を集中 4.3 制御システム構成 現 在 の 主 流 方 式 で は、 E C U も は やE C U と い え る も の は な く で き る よ う に な り ま す。 そ し て、 軟にエンジン制御システムを構築 ら、統一プラットフォーム上で柔 要素単位で機能拡張が可能ですか アです。これが実現すると、構成 ム機能を満たす、というアイディ すことで、全体として制御システ しいと願っています。 おかげで拡大発展する日が来てほ 根付き、さらに日本企業の参入の ノウハウを蓄積しつつ産業として 機エンジン開発が、米国で実績と つも思っています。日本発の航空 競争力を発揮できるはず、と、い ジン制御ハードウェア供給で高い 提案を行い、出席者全員の了承を 支 部 会 則 の 改 正 案 に つ い て 説 明・ 決算、予算案、支部役員の改選案、 状況、支部活動状況を報告、会計 いて支部事務局から支部会員異動 長からご挨拶をいただき、引き続 総会は、開会にあたり松井支部 員のご参加をいただきました。 年卒業の田中 開発による多機能化・性能向上の E CU 組 み 込 み ソ フ ト ウ ェ ア に 制 なってしまって、電源バスとシリ の近況および大学の近況について 続いて荒木先生から洛友会本部 得て各案が承認されました。 御システム機能の全てを盛り込め アル通信バスのマスターとしての 平岡 ︶ 記 正憲︵平 年卒 らきとしました。 先輩のご発声で支部懇親会をおひ 38 10 年 月 日︵火︶に平成 中国支部 企業見学会の 開催について 平成 23 しました。 当日は 名の支部会員に参加し 年度中国支部企業見学会を開催 12 す。昨今の自動車内装部品につい 造を中心に事業展開されていま 年創業、現在は自動車内装部品製 株式会社ヒロタニ様は、昭和 の本社工場を訪問しました。 ていただき、株式会社ヒロタニ様 19 20 監視機能が残るだけと思われま す。構成要素をつなぐのは、電源 26 名の会 余地が多いです。日本企業はエン 念行事の報告等々、終始和やかな 況報告、 ました。支部会員の思い出話、近 により支部恒例の懇親会を開始し 28 らがシリアル通信バス上で情報共 回目となる平成 ぞれの電子回路を組み込み、自律・ 23 料ポンプ回転数制御により投入燃 60 5 有しつつ、それぞれの役割を果た 26 1 26 ばよいので、ソフトウェア設計管 しかしながら、ハードウェア設 から、省電線化による、軽量化も バスとシリアル通信バスだけです 平成26年度 洛友会中国支部 総会 平成26年5月23日 於 ANA クラウンプラザホテル広島 26 究データに基づく商品開発に加 ロ タ ニ 様 で は、 音 響 実 験 室 で の 研 け て 総 合 力 が 問 わ れ て い ま す。 ヒ り、これら相反する課題克服に向 観点から軽量化も求められてお が求められる一方で、省資源化の て は、 ク ル マ の 車 内 で﹁ 静 か さ ﹂ 26 61 ではないかと予想されます。 図3:制御システム構成概念図 理しやすくなります。 計の観点からは、課題もあります。 に、集中制御 F A D E C 機 能 向 上 を 目 指 し て、 期待できます。図 システム構成と分散制御システム エンジン上のセンサー・アクチュ エーター・点火装置など、構成要 構成の概念図を示します。 線が増えてゆきます。やがて、E CU はコネクターだらけ、エンジ 米国連邦航空局の型式認定の は全て、米国・英国の実績豊富な 1 20 エ ン ジ ン 制 御 ハ ー ド ウ ェ ア ンは電線ハーネスが這い回る状態 のエンジン上、黒地に縞模様 ハ ー ド ル を 下 げ る た め に、 H F 5.おわりに 素が増えるたびに、ECU への配 3 になり、限界に達しつつあります。 図 の電線ハーネスが見られます。特 2 第248 号 (14) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日 え、材料や工程の無駄をなくして には酒蔵巡りを通じて、会員間の 支部総会のお知らせ 年度の各支部総会は左記 の日程で開催されます。場所・時 平成 間など詳細は各支部幹事の方より 最後にはなりますが、今後とも 親睦を深めることができました。 より多くの会員の皆さまに参加し ご案内があります。ふるってご出 日︵金︶四国支部 連絡先 山地教文氏 大山 是氏 本部だより ﹁先輩と学生との交流会﹂ 開催報告 洛 友 会 と 電 気 系 教 室 の 共 催 で、 月 日︵土︶に吉田キャン ﹁先輩と学生との交流会﹂が平成 年 パ ス・ 総 合 研 究 号 館NSホ ー ル 事業内容を聴いて、心に叶う、目 めて、117 名の学生が参加しま 回生 回生 名、 回生 名、 名、 博 士 名、 修 士 した。︵内訳は、学部 学部 回生 名、他 回生 回生 回生 名、 博 士 名、 修 士 博士 学部 名でした。︶ 回生の学生が配属される研 に 入 学 し て く る 者 が 多 く、 せ め て 最近の電気系学生は目的を持たず 7 人や設備を集約する﹁スモール& ていただける企画を実行し、洛友 月 [email protected] で 開 催 さ れ ま し た。 本 交 流 会 は、 日︵日︶関西支部 企業に就職した先輩の話や企業の 月 連絡先 秋山康人氏 3 4 2 2 1 1 3 4 4 2 2 92 1 コンパクトなものづくり﹂を掲げ、 革新的な製品づくりへの取り組ま 会中国支部の活動を盛り上げてい 工場では、同一ラインでの多品 れておられます。 年卒︶記 席ください。 望月 和之︵平 きたいと思います。 14 3 3 種 生 産 を 基 本 と し つ つQRコ ー ド を用いた効率的な生産設備の導入 により、ヒューマンエラーを極力 防 止 し な が ら、 多 様 な 製 品 仕 様 に 対して在庫を極力少なくする取組 みや、内装部品の徹底的な再利用 によるコスト低減の取組みが見ら 5 れました。 連絡先 佐野大輝氏 1 ま た 人 材 育 成 の 点 に お い て は、 8 [email protected] 指す方向性を学生に見出してもら 月 日︵金︶中国支部 うことを目的としています。平成 連絡先 平岡正憲氏 年度に始まり、今回は第 回の [email protected] 交流会となりました。電気系教室 日︵金︶九州支部 月 22 の大学院修士課程 回生および学 連絡先 池田茂雄氏 部 回生の学生を主に対象として [email protected] いましたが、博士課程の学生も含 日︵土︶東北支部 [email protected] 日︵土︶北陸支部 月 月 連絡先 連絡先 笠川 隆氏 [email protected] 月 日︵日︶北海道支部 [email protected] 日︵土︶中部支部 連絡先 加藤 徹氏 [email protected] 日︵日︶東京支部 月 月 連絡先・・松村善洋氏 [email protected] 事務局 記 3 業 務 改 善 活 動﹁ か ら く り 改 善 ﹂、 22 30 大小さまざまなサークル活動、さ 24 30 らには全社員による個人目標﹁私 29 29 31 の宣言﹂の取り組みをご紹介いた だきました。特に﹁私の宣言﹂に ついては、社長が全社員の﹁私の 宣言﹂を承認する仕組みとなって おり、社員と社長のコミュニケー ションツールとなっている様子が 窺えました。 株式会社ヒロタニの皆さまに は、ご多忙中の見学日程にもかか 14 5 5 13 わ ら ず、 丁 寧 に ご 案 内 い た だ き、 会員一同、自動車内装部品製造に 3 5 5 6 28 関する知識を深めるとともに、よ り良いものづくりに対する取り組 みに感銘を受けました。 見 学 会 後 は、 酒 処・ 西 条 で 美 酒 鍋を堪能しながらの懇親会、さら 26 27 5 5 5 6 平成27年 4 月 15 日 洛 友 会 会 報 ( 1 5 ) 第248 号 究 室 を 決 め る 時 に、 そ の 動 機 付 け として参考にして頂きたいことも 回生の学生に対しては、 開催趣旨の一環としています。ま た、修士 社で、総合電機メー 就 職 活 動 の 面 も 兼 ね て お り ま す。 参加企業は カ、 電 力 関 係、 通 信 関 係、 電 子 機 時に の後、和やかな雰囲気で先輩と学 生との歓談が行われ、午後 閉会となりました。 年度本部総会は左記によ 本部総会開催のお知らせ 平成 に 本 学 で 記 念 式 典 が 行 わ れ ま す。 軍事分野を含めてもこの技術が当 に な っ て 多 く の 文 献 を 当 た ら れ、 を長らく気にかけておられ、後年 ワ ー ク は、МUレ ー ダ ー の 技 術 を るウィンドプロファイラ︱ネット は異なりますが、気象庁が展開す 言ではありません。周波数や規模 日 ご承知の通り、このマイルストー 時として世界の最先端のもので 基礎としたものです。 月 ン はIEEEが 電 気・ 電 子 技 術 や あったことを、様々な機会に明ら ・ ・ ・ ・ の世界にあって、これほど息の長 ・ ・ 今回あらためてその先進性に国 認定されることになり、 その関連分野における歴史的業績 かにしてこられました。 めまぐるしく進化する科学技術 に対して認定する賞で、日本から 件 は 八 木・ 宇 田 ア ン テ ナ に 始 ま り、 これまでに東海道新幹線など ・ ・ い 技 術 は 珍 し い か も し れ ま せ ん。 り開催されます。多数の方々のご ・ ・ 際的なお墨付きが与えられ、この 器 関 係、 半 導 体・ 電 子 部 品 関 係、 ・ ・ まさにマイルストーンという言葉 ・ ・ 問題がようやく正しい解決を見た の技術が認定を受けています。 ・ ・ にふさわしいと思います。 ・ ・ ものと思います。先生がご健在で ・ あればどれほどお喜びであったか ・ 今回の認定は京都大学と、レー 訃 報 昭 福井 篤夫 昭 髙橋 圭介 昭 坂田 邦寿 昭 岡本 裕允 昭 遠藤 茂 昭 青木 信雄 昭 大原 修 昭 伊藤 利朗 昭 林 一三 昭 安井 敏雄 平 丹羽 正一 謹んで哀悼の意を表します。 以上の方々がご逝去なさいました。 ・ ダー装置を製造した三菱電機が共 来場をお待ちいたしております。 記 平成 年6月 日時 日︵日︶ 機械関係、自動車関係など、幅広 い分野の企業が参加しました。参 加者のアンケートでは、学生も企 し、日本が設置した装置としては 3 11 1 10 10 12 と想像します。 インドネシアの赤道大気レーダー 5 同で受賞するもので、京都大学と 最高水準の大型大気レーダーとし このレーダーに用いられている や 南 極 昭 和 基 地 のPANSYレ ー 5 このマイルストーンの認定に この慶事にあたって一つだけ残 て国際的に共同利用され、数百篇 そ れ だ け で は な く、 こ の シ ス テ アクティブフェーズドアレイ方式 ダーにその技術が継承されている 1 し て は 初 め て の 受 賞 と な り ま す。 年以上に渡って 世の中で高く評価を受けてきたと は、その技術が МUレーダー計画の創始者である い う 実 績 が 必 要 と さ れ て い ま す。 式 典 に は 山 極 壽 一 総 長 に 並 ん で、 加藤進先生をはじめ、電気系教室 МUレ ー ダ ー は、 建 設 か ら す で に 念なことは、レーダー建設の中核 の学術誌論文を含む多くの研究成 月の会報にも紹介された通 については、その先進性が必ずし 3 東京支部総会終了後 学士会館 の関係者も多数が参加される予定 年以上を経た今日でも、世界で となられた深尾昌一郎先生のお顔 果を生み出し続けています。 です。 を そ の 場 に 見 ら れ な い こ と で す。 昨年 ムは大気レーダーの分野における も当初から広く認められていた訳 他、インドや中国等のレーダーに 月 日に逝 り、深尾先生は昨年 で は な く、 既 存 技 術 の 流 用 に 過 ぎ も大きな影響を与えています。最 世界の標準機としての地位を獲得 ないという誤解を受けたことも 近北極圏に建設されたドイツの 去されました。 あって、関連する論文がなかなか レーダーに至っては、ほとんどМ 13 22 11 11 4 25 19 18 27 25 場所 ℡03㿌3292㿌5936 参加申込先 東京支部幹事 [email protected] ※学 生 員 及 び 本 年3 月 に 卒 業 さ れた方は懇親会費無料です。 月に退職された高橋達郎 編 集 後 記 今年 先生に代わって事務局長を拝命 し、会報の編集を担当することに なりました。この項にはふさわし 専門学術誌で受理されない事例も 9 業の方も今回ぐらいの参加規模が 階に くない記事になりますが、電気系 教室に関係するニュースを一つご 紹介させて頂きます。 こ の た び、 京 都 大 学 МUレ ー 25 27 27 25 26 27 26 27 26 26 26 7 13 Uレ ー ダ ー の コ ピ ー と 言 っ て も 過 3 41 37 29 28 27 27 26 23 20 17 適切で、説明も意見交換も多くで きて良かったという感想を頂きま した。 プログラムについては、午前 時から始まり、洛友会幹事長の荒 木光彦先生から開催の挨拶があっ 分間 た後、学科長の引原隆士先生の司 会 の 元 で、 企 業 の 先 輩 か ら のショートプレゼンテーションが 行われました。さらに、午後には 企業ブースで個別説明と学生との 意見交換が行われました。通常の 企業セミナーと異なり、①企業側 は学生の評価を行わない、②先輩 として親身なアドバイスを学生に その後、会場を北部食堂 与えるといった点が特長です。 移して、電気工学専攻長の和田修 己先生の司会の元で、先輩と学生 10 を 交 え た 懇 親 会 が 行 わ れ ま し た。 始めに、洛友会幹事長の荒木光彦 25 1 5 3 生じました。深尾先生はこのこと 5 28 ダ ー がIEEEマ イ ル ス ト ー ン に 30 50 先生の挨拶が行われ、乾杯の発声 7 27 17 27 3 3 2 第248 号 (16) 洛 友 会 会 報 平成27年 4 月 15 日
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