神谷 貴子 - 名古屋大学 文学研究科 文学部

西ヨーロッパ中世末期の都市社会
Ⅴ 「人文学フィールドワーカー養成プログラム」調査報告
西ヨーロッパ中世末期の都市社会
──フリブール国立文書館所蔵文書を手がかりにして
神 谷 貴 子
西洋史学専門 博士前期課程2年
都市法に関する一部の史料は,
近年 Rechtsquellenstiftung
1.はじめに
des Schweizerischen Juristenvereins(スイス法学者協会法
15 世紀前半,スイスの都市フリブールはハプスブ
令 史 料 財 団 ) に よ っ て,Sammlung Schweizerischer
ルク家の支配のもと,都市貴族による支配体制を温存
Rechtsquellen online(SSRQ,スイス法史料集)としてイ
し,経済的には皮革業と毛織物業の発展によって,か
ンターネット上に公開されている。しかしながら,1416
つてない好景気の時代を迎えていた。その中でフリブ
年以降の市民名簿Ⅱや公証人記録簿の一部は未刊行で
ールでは,西欧中世二大異端の一つに数えられるヴァ
フリブールの国立文書館に所蔵されている。また,この
ルド派に対して1399年と1430年の二度にわたって異
文書館にはフリブールの歴史に関する文献が豊富に収
端審問裁判が行われた。同時代の他地域における激し
められており,
とりわけ Freiburger Geschichtsblätter には,
いヴァルド派弾圧とは対照的に,フリブールの裁判は
現代に至るまでのフリブール史に関する様々な研究が
ヴァルド派に対して非常に寛大であったように見え
掲載されている。これらの文献は日本では入手が困難
る。1399年は容疑者全員無罪,1430 年は,有罪判決
なため,未刊行史料の調査に加えて,研究文献の調査
は出たものの死刑に処されたのはフリブール出身者で
も本プロジェクトの課題とした。さらに,異端ヴァル
はない男性一人という非常に「緩い」裁判結果であっ
ド派ならびに中世異端に関する文献調査も,エムデン
た。フリブールのヴァルド派は中世の終わりまで存在
(ドイツ)のヨハネス・ア・ラスコ教会図書館におい
し続け,フス派の影響を受けた宗教改革の先駆者とみ
て行った。これらの史料や文献から都市の統治構造を
なされてきたが,裁判記録の詳細な検討は,彼らがフ
確認し,都市住民の情報をデータ化し,分析すること
ス派の影響を受けていない中世ドイツ最後のヴァルド
で,フリブールの都市の状況をより鮮明に浮かび上が
派であったことを示している 。
らせ,異端は都市の中でどのような立場にあったの
異端の社会的状況に着目すると,裁判の被告は都市
か,異端と対峙する都市当局の意図はどのようなもの
の広範な社会層から成り,市政に携わる者や大規模な
であったのかを考察する手がかりとしたい。
1)
商取引を行なう者も含まれており,彼らの大半が市民
権を有する市民であった。中世史家カトリーン・ウッ
ツ・トレンプはヴァルド派裁判の容疑者たちのバイオ
2.調査概要
グラフィーを著したが,研究対象は容疑者に限定さ
報告者は平成23 年8月 15 日から25 日の 10 日間の日
れ,都市全体の社会的状況が明らかにされていないた
程で,フリブール国立文書館ならびにヨハネス・ア・
め,都市における異端の立場や,異端追及の背後にあ
ラスコ図書館において,未刊行史料と研究文献の調査
る都市当局の政治的な意図を捉えることができな
を行った。史料の特定には,フリブール国立文書館所
い2)。そこで,本プロジェクトでは,異端と都市の関
蔵文書に関する小冊子が役に立つ3)。この内容はフリ
係を明らかにする作業の一環として,スイスの都市フ
ブール国立文書館のホームページでも見ることがで
リブールの国立文書館に所蔵されている異端審問記録
き,事前に史料の分類群と番号を確認し,史料を特定
と同時代から伝わる都市文書群を分析し,都市の状況
することができる。フリブールのヴァルド派裁判研究
をより明確にすることを目的とする。
の第一人者で,フリブール国立文書館の学術研究員カ
フリブールの都市の状況が窺える刊行史料として,契
トリーン・ウッツ・トレンプ氏にも史料や文献に関す
約や商取引を記録した公証人記録簿,職業や不動産所
る助言を頂き,本調査では未刊行の市民名簿Ⅱに焦点
有など市民の個人情報を記録した市民名簿Ⅰ(1341‒
を絞って調査を行なうことにした。加えて,フリブー
1416)
,都市領主から付与された都市特許状等がある。
ルのヴァルド派裁判記録と都市の重要文書も閲覧を許
181
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名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 6
された。
ーターマン・クドリフィンによって書かれた1415年
フリブール国立文書館では,閲覧したい史料や文献
6月 21 日付のドイツ語版が伝来している。今回の調
を受付で請求すると,文書館員がそれらの史料等を閲
査では,このフェナー文書の両言語版を収めた,ウッ
覧室に届けてくれる。史料は文書館員の許可があれ
ツ・トレンプ氏の論文をご本人から頂戴した4)。
ば,写真撮影も可能である。中世の史料は,たいてい
この文書では,都市役人の選出方法について,従来
の場合マイクロフィルム化されており,その閲覧・複
の規定より詳細で複雑な選出過程が定められている。
写は事前の申し込みが必要である。市民名簿Ⅱについ
選出される都市役人は,シュルトハイスと呼ばれる都
てはマイクロフィルムの閲覧と複写を行ったが,文字
市領主代官,市長,各フェナー,収入役,24 人市参
が細かく不鮮明で,汚れのひどい部分もあり,読み取
事会,60 人市参事会である。すでに1249 年に当時の
ることが困難になる恐れがあったため,調査対象部分
都市領主であったキーブルク家によって授与されてい
の写真撮影も行った。
た都市特許状において,シュルトハイス,主任司祭,
研究文献については,フリブール国立文書館におい
収入役は市民の中から市民によって選出され,都市領
てもヨハネス・ア・ラスコ図書館においても学術研究
主の承認を得なければならないことが規定されてい
員の助言を得ながら,文献を調査し,必要個所を複写
る5)。教師,教会管理人,門番,廷吏については,都
した。とくに,フリブールにおいては,ヴァルド派研
市領主の承認は必要なく,市民によって任命と解任が
究に関する最新の研究動向やフリブールの都市史につ
可能であり,フリブールでは都市領主による都市の自
いて,また報告者の研究状況や課題についてウッツ・
治権がある程度認められていた。これらの役職は,毎
トレンプ氏と議論できたことは非常に有益であった。
年6月 24 日の洗礼者ヨハネの祝祭日に新たに任命さ
れることになっていたが,実際はほとんどの市参事会
3.調査結果
員が繰り返し選出され,市政の要職は一部の都市貴族
によって独占されていた。このような都市貴族支配体
ここでは,本調査で得られた2点の史料から,中世
制の温存は,例えばチューリヒのように,ツンフト闘
末期の都市社会の様相を探ることにする。
争によってツンフトマイスターが政治的影響力を持つ
ようになるスイス諸都市のツンフト支配体制と対照を
3‒1.フェナー文書(1404年6月24日制定,
1407年改訂,1798年まで有効)
なしている。
フェナー文書の都市役人選出方法は,6月24 日の
1404年6月 24日に制定されたフェナー文書は,都
直前の日曜日に召集された選挙合議団が 24 人,60人
市役人の選出方法に関する従来の規定をより詳しく定
市参事会,収入役を事前に多数決で選出するというも
めたものである。フェナーとは旗頭を意味し,元来は
のであった。この合議団は各地区のフェナー4名,60
軍事指揮官の役割を担っていたが,フリブールの4つ
人市参事会員,このために各地区から召集された男性
の地区の地区長の役割も果たしていた。フェナー文書
20 名ずつ,合計 144 名からなっている。ここでの決定
は,4つの地区の各フェナーに一部ずつ与えられたも
は6月24 日の市民総会まで秘密にすることが義務づ
ので,それらの文書はすべて当時の都市書記官ペータ
けられ,それゆえこの日曜日は「秘密の日曜日 der
ー・クドリフィンによってフランス語で書かれたが,
Geheime Sonntag」と呼ばれた。シュルトハイス,市
4文書の文面は異なっており,それぞれ地区の方言が
長,各地区のフェナー,その他一部の都市役人は,6
用いられている。フリブールは,フランス語とドイツ
月24 日に聖母教会に集められた前年度の都市役人,
語の言語境界地域にあり,中世末期の時代は,都市内
市民,非市民合計 940 人の直接選挙で選出される。フ
部ではフランス語の使用が優勢であったものの,1481
ェナーに関しては,24 人市参事会員や貴族から選ぶ
年にスイス盟約者団に加盟して以降は,ドイツ語が公
ことは禁じられており,一般市民 gemeinen Leute から
的な場での使用言語となった。都市文書は,ラテン語
選ぶことが定められている。
からフランス語へ,盟約者団加盟後はドイツ語へと変
この1404 年のフェナー文書は,多数決選挙や直接
遷したが,都市の重要な文書に関しては,中世の時代
選挙といった「民主的な」方法が取られているとはい
からフランス語版とドイツ語版の両方が存在してい
え,事前の選挙合議と6月24 日の市民総会には「し
た。1404年のフェナー文書も都市書記官ペーター・
かるべき男性」だけが出席を許されていた。それは,
クドリフィンの兄弟で,同じく都市書記官を務めたペ
おそらくその年に起こった都市での騒乱の影響を受け
182
西ヨーロッパ中世末期の都市社会
ているものと考えられる。召集者を限定した排他的な
名簿を整理したものであり,1416 年時点の市政構造
市民総会は都市の煽動的要素を排除しようとしたもの
を示した前文と当時市民であった588 名を市民名簿Ⅰ
であり,またフェナー文書はその騒乱を受けて,差し
から転記した部分に続いて1416 年以降の新市民が記
迫って作成されたものと考えられる。
録されている9)。市民名簿Ⅱは名簿Ⅰの書式を継承し,
1407年のフェナー文書の改訂は,1404年以上に騒
加入者氏名,場合によってはその者の呼び名,出身
乱の影響を受けたものであった。それは1407年のジ
地,職業,地位,姻戚関係といった個人的情報に加
ャケ・エイモンの騒乱である。彼は,1406年にフリブ
え,市民権の担保となる不動産を記録しており,不動
ールの4つ目の地区として正式に認められたノイシュ
産の位置する通りの名前や隣接不動産の所有者も明記
タットの初代フェナーを務め,その後市長に選ばれた。
されている。この担保不動産は,一般的には家屋だ
彼自身は商人だが,彼の父親は皮なめし工であったた
が,庭や納屋,仕事場も担保として申請することが可
め,都市の最大党派であった皮革業者を選出母体とし
能であり,不動産の一部分を担保とすることもでき
ていた。エイモンは,1403年に締結されたベルンとの
た。また,とりわけ都市外に居住していながら市民権
永久同盟の更新に際して,フリブールの一部の都市有
を取得する市外市民に多いが,都市内部に不動産を所
力者がその同盟に反対していることを暴露したため
有していない場合,親戚,同業者など他の人の不動産
に,1406年に市長を解任され,5年間の都市追放令を
を担保とすることもあった。市民加入の日付は記録の
受けた。彼はその追放命令に違反し,1407年の時点で
最後の部分に付記されるか,あるいは表題部分や先行
都市内部に姿を現し,再度厳しい処罰を受けた。さら
する加入記録から読み取ることができる。例外的に,
にエイモンの支援者によって騒乱が起こり,1407年4
一つの記録に複数人の加入が記載されている場合や,
月,本来なら6月24日に行われる市民総会が,鐘の
加入者の氏名のみが記載されているものもある。個別
音によって急遽召集され,フェナー文書が改訂された。
の加入記録に加えて,担保不動産の変更,市民権消
その序文には,悪魔に取りつかれた無知な人々によっ
失,他都市への転出,父親の市民名簿Ⅰの記録情報
て騒乱が起こり,都市平和の危機が生じたことが記録
(フォリオ数,市民権取得年)等が欄外に補足されて
されている。フェナー文書の改訂版は,特に都市の市
いる。市民名簿に記録された時期と,実際に市民とみ
民総会の妨害を禁止した。エイモンの一件は,秘密事
なされる時期は必ずしも一致しない。この名簿に記録
項であった選挙合議団の決定事項をエイモンに漏らし
されていなくても,他の公証人記録簿には市民と記録
た人物が複数いたこと,ベルンとの同盟に反対してい
されている事例もある。
た一部の人間のみが処罰されたことなどから,フリブ
市民になるには,都市内に担保となる不動産が必要
ールの都市内部で勢力争いが生じていたことを仄めか
とされ,市民加入金と上納品(葡萄酒?)をシュルトハ
している。また,ベルンに関する騒動自体,都市の最
イスと24人市参事会に納めなければならなかった。父
大党派を選出母体にもつエイモンの政治的,経済的キ
親の市民権を受け継ぐ場合には,
加入金が免除された。
ャリアの上昇を妨げようとした口実であった可能性を
市民の権利は,裁判時の保護や関税免除,共用地の
ウッツ・トレンプ氏は指摘している 。フェナー文書
使用許可などからなるのに対して,市民の義務は,戦
は15世紀初頭の騒乱期に都市当局が企図した政敵排
争時あるいは通常時の兵役,納税,見張りであった。
除のシナリオであったかもしれない。
聖職者の市民は兵役を免除され,女性の市民は,とり
6)
わけ死去した夫の市民権を継承するのだが,そのよう
7)
3‒2.市民名簿Ⅱ(1416‒1769)
な女性は徴兵可能な代理の男性を立てること,市外市
次に,未刊行史料であるフリブールの市民名簿Ⅱの
民は見張り,賦役を行う代わりに市外市民税を毎年支
調査結果を報告したい。1341年から1416年にかけて
払うことが規定されていた。また市外市民は,居住地
の市民加入を記録する名簿Ⅰは刊行されており,その
域で都市当局に反対する政治活動が生じた場合,シュ
名簿を詳しく検討したウルス・ポルトマンの研究もあ
ルトハイスとフェナーに通達する義務も負っていた。
るが,市民名簿Ⅱに関する研究は非常に乏しい状況に
ベルンが領域支配政策の一環として,周辺地域の農民
ある8)。市民名簿Ⅰは紙に,市民名簿Ⅱは羊皮紙に記
を市外市民として大量に受け入れたのに対し,フリブ
録されている。市民名簿Ⅱは,1416年当時都市書記
ールは,市民名簿Ⅰの期間では市民加入約2100 人の
官であった先述のペーターマン・クドリフィンが,そ
うち,市外市民はわずか 144 人にとどまっており,そ
れまで記録年や登録地区等が無秩序に記録されていた
れ以降も減少傾向にあった。市外市民は周辺地域の土
183
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地貴族や聖職者,裕福な農民,粉屋などから成り,ド
縮小し,スイスの他の諸都市と同様に,市民の受け入
イツ語圏地域に居住するものが大半であり,都市当局
れは閉鎖的になり減少傾向になると考えられる。
の信頼を得た者に限られていた。
市民名簿Ⅱは1769 年までの市民加入を記録してお
ポルトマンは,納税者,家屋所有,人口に基づいて
り,初めはラテン語で書かれていたが,その後フラン
1341年から 1416年にかけて,成人男性の半数弱が市
ス語とドイツ語表記が混在するようになり,1480 年
民であったとしている。都市内に家屋を所有している
頃からは一部の例外を除きドイツ語で記録されること
か否かは,市民と非市民との間に差はあまりなかった
になる。この未刊行史料のうち,本調査では二人の都
が,所有する資産には大きな差があった。市民が市政
市書記官ペーターマン・クドリフィン(1416‒1427)
に参加する権利があることは先にも述べた通りだが,
とベラール・ショシー(1427‒1447)の時代に限定し,
ポルトマンによれば,1404年6月24日の集会に 940 人
さらに都市内加入市民に対象を絞って検討した(フォ
が参加し,そのうち少なくとも 200人が非市民であっ
リオ30‒63)。この時代の名簿は全てラテン語表記に
た。このように,非市民も集会に参加することがあっ
なっている。本稿では,とりわけ市民加入数の増減に
たが,市参事会員や都市役人に選出されるのは市民に
着目し,市民名簿Ⅰと比較することでヴァルド派裁判
限られていた。つまり,市民層は経済的,政治的な指
の時代における市民構成の変遷を考察する。市民名簿
導者層を構成していたと考えられる。
Ⅱの調査対象部分の市民加入者は 668 人であった。
市民名簿Ⅰの時代には,フリブールは皮革業と毛織
1416 年から 1447 年の間で100 人以上の加入が記録され
物産業の発展によって好景気を迎えており,それに呼
た年は,1416 年と1422 年である(図1)。市民加入数
応するように 14世紀末から15世紀初頭にかけて,と
の推移は市民名簿Ⅰの時代から合わせると(図2)の
りわけ皮なめし工や織工などのフリブールの主要産業
通りである。市民加入数は,1390 年代にピークに達
に従事する者たちの市民加入が増大した。毛織物生産
し,それ以降は減少していることが分かる。しかしな
量は 1434年頃にピークに達したと推定されており,
がら,好景気の時代であった 1420 年代には,なお 300
それ以降は,フリブールの経済にとって重要なジュネ
人近い市民加入が確認される。1430 年代には117 人に
ーヴの大市が衰退するとともに,フリブールの経済も
まで加入者数が減少し,1440 年代には再び増加する
(人)
180
160
140
120
100
80
60
40
20
図1 市民名簿Ⅱの市民加入数(1416‒1447)
(市外市民を除く)
(人)
500
450
400
350
300
7
44
(年代)
14
40
-1
30
14
20
14
10
14
00
14
0
13
9
0
13
8
0
13
7
0
13
6
0
13
5
13
4
0
250
200
150
100
50
0
図2 市民名簿Ⅰ・Ⅱの年代別市民加入数(1341‒1447)
(市外市民を除く)
184
(年)
1447
1446
1445
1444
1443
1442
1441
1440
1439
1438
1437
1436
1435
1434
1433
1432
1431
1430
1429
1428
1427
1426
1425
1424
1423
1422
1421
1420
1419
1418
1417
1416
0
西ヨーロッパ中世末期の都市社会
ものの,年間 100人以上の大量加入はもはや実現しな
市民権の継承が増加し,新規の市民の受け入れは減少
かった。この減少傾向に最も影響を与えたのは,景気
していく(表1)。経済的,政治的指導者層を形成す
の後退と,都市当局の新市民受け入れに対する閉鎖的
る市民層は,1430 年のヴァルド派裁判の時代には,
な態度である。このことは,市民名簿の市民権継承か
より排他的な社会層へと変化する転換期を迎えていた
らも明らかになる。時代が下るにつれて,父親からの
と言えよう。
表1 市民権継承加入数とその割合(市外市民を除く)
1393‒1415
加入年
1430‒1447
1416‒1447
新規加入 継承加入
合計
加入年
新規加入 継承加入
合計
加入年
新規加入 継承加入
合計
1393
1
1
2
1416
129
39
168
1430
1
5
6
1394
221
3
224
1417
0
1
1
1431
2
0
2
1395
0
1
1
1418
2
3
5
1432
0
4
4
1396
12
5
17
1419
3
1
4
1433
6
11
17
1397
7
5
12
1420
0
0
0
1434
4
9
13
1398
4
1
5
1421
2
5
7
1435
4
5
9
1399
177
4
181
1422
129
26
155
1436
3
4
7
1400
8
20
28
1423
2
5
7
1437
0
3
3
1401
3
4
7
1424
2
4
6
1438
42
8
50
1402
3
0
3
1425
2
6
8
1439
2
4
6
1403
1
2
3
1426
2
4
6
1440
3
6
9
1404
132
8
140
1427
0
0
0
1441
2
6
8
1405
1
1
2
1428
63
26
89
1442
9
5
14
1406
3
0
3
1429
9
1
10
1443
5
5
10
1407
1
0
1
1430
1
5
6
1444
46
7
53
1408
4
6
10
1431
2
0
2
1445
5
8
13
1409
101
12
113
1432
0
4
4
1446
7
5
12
1410
0
3
3
1433
6
11
17
1447
7
13
20
1411
0
6
6
1434
4
9
13
合計
148
108
256
1412
3
5
8
1435
4
5
9
58%
42%
100%
1413
2
11
13
1436
3
4
7
1414
0
4
4
1437
0
3
3
集団加入
88
15
103
85%
15%
100%
60
93
153
39%
61%
100%
1415
1
2
3
1438
42
8
50
(50人以上)
合計
685
104
789
1439
2
4
6
少数加入
87%
13%
100%
1440
3
6
9
1441
2
6
8
9
5
14
集団加入
631
27
658
1442
(50人以上)
96%
4%
100%
1443
5
5
10
54
77
131
1444
46
7
53
41%
59%
100%
1445
5
8
13
Portmann, Urs, Bürgerschaft im
1446
7
5
12
mittelalterlichen Freiburg, 1986, S72,
Tabelle 11 を一部修正。
*
市民継承は 1393 年以降の名簿に記録さ
1447
7
13
20
合計
478
190
668
72%
28%
100%
少数加入
れるようになった。
*
1416年の加入数は市民名簿Ⅰ・Ⅱの記録
分の合計。
集団加入
394
67
461
(50人以上)
85%
15%
100%
少数加入
83
123
206
40%
60%
100%
1393年から 1415年には9割近くあった
新規加入が,1416 年以降の市民名簿Ⅱの
時 代 に は 7割 に 減 少 し て い る。 と く に
1430 年以降は半数近くが父親からの継承
加入であった。
Portmann, Bürgerschaft, S72, Tabelle 11 と
Staatsarchiv Freiburg, Bürgerbuch 2,
fol. 30‒64をもとに作成。
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Μεταπτυχιακά
名古屋大学大学院文学研究科 教育研究推進室年報 Vol. 6
図3 市民名簿Ⅱフォリオ 36 右(Staatsarchiv Freiburg Bürgerbuch 2 fol. 36v)
上から5番目の記録は担保不動産変更記録を含む。
上から6番目の記録は,一記録に二人の加入者が記録されており,7番目の記録は女性の市
民加入者の記録である。
4.おわりに
新市民受け入れの転換期に当たることを浮き彫りにし
た。市民加入は1390 年代をピークに減少傾向に転じ,
二つの都市文書を手がかりに,中世末期のフリブー
新規の市民の受け入れは閉鎖的になっていった。
ルの社会的状況を検討した。フェナー文書は都市役人
今後は,こうした都市の状況を踏まえて,1430 年
の選出方法をより詳細に規定しており,その背後には
のヴァルド派裁判を改めて検討し,中世末期の都市と
都市に対する煽動的要素を排除しようとする動きがあ
異端の関係をより明らかにすることを課題としたい。
った。1416年以降の市民名簿Ⅱの調査は,市民名簿
また,市民名簿Ⅱに記されている職業等の情報は,中
Ⅰの市民加入数の変化をさらに時代を拡げて考察する
世末期における都市経済の考察にとっても有益であ
ことを可能にし,1430年のヴァルド派裁判の時代が
り,いずれ活用したい。
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西ヨーロッパ中世末期の都市社会
謝辞
多忙な中,カトリーン・ウッツ・トレンプ氏には,本調査全
般にわたって協力して頂き,大変お世話になりました。記して
感謝申し上げます。
注
1)拙稿「中世末期のヴァルド派─1430 年のフライブルク・ヴ
ァルド派裁判─」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』
第11 号,2010年,109‒136頁。 裁 判 記 録 は,Utz Tremp,
Kathrin, Quellen zur Geschichte der Waldenser von Freiburg im
Üchtland (1399–1439), MGH Quellen zur Geistesgeschichte des
Mittelalters, Bd. 18, Hannover, 2000 を参照。
2)Utz Tremp, Kathrin, Waldenser, Wiedergänger, Hexen und
Rebellen. Biographien zu den Waldenserprozessen von Freiburg im
Üchtland (1399 und 1430), Freiburg, Schweiz, 1999.
3)Morard, Nicolas und Foerster, Hubert, Führer durch die Bestände,
Staatsarchiv Freiburg, 1986.
4)Utz Tremp, Kathrin, 600 Jahre Vennerbrief. 24. Juni 1404‒24.
Juni 2004, in: Freiburger Geschichtsblätter 82, 2005, S. 39‒82.
5)Werro, Romain, Berchtold, Jean et Gremand, Jean, Recueil
diplomatique du canton de Fribourg (RD), 8 Bde., Fribourg, 1839‒
1877, Foerster, Hubert und Dessonaz Jean-Daniel (Hrsg.), Die
Freiburger Handfeste von 1249: Edition und Beiträge zum
gleichnamigen Kolloquium 1999, Freiburg, 2003.
6)注4を参照。
7)Staatsarchiv Freiburg (Schweiz), Bürgerbuch 2.
8)市民名簿Ⅰの刊行史料は,De Vevey, Bernard et Bonfils, Yves,
Le premier livre des bourgeois de Fribourg (1341–1416),
Fribourg, 1941を参照。
市民名簿Ⅰに関する研究は Portmann, Urs,
Bürgerschaft im mittelalterlichen Freiburg: sozialtopographische
Auswertungen zum Ersten Bürgerbuch 1341–1416, Freiburg,
Schweiz, 1986に詳しい。15世紀中葉のフリブールの人口につい
ては Buomberger, Ferdinand, Bevölkerungs- und Vermögensstatistik
in der Stadt und Landschaft Freiburg (im Uechtland) um die Mitte
des 15. Jahrhunderts, Freiburger Geschichtsblätter 6/7, 1900, S.
1‒258を 参 照。1450年 まで の 都 市 の 通りの 名 前 を 研 究した
Bürgisser, Max, Die Strassennamen Freiburgs im Mittelalter,
Seminararbeit (Akzessarbeit) in Germanischer Philologie (masch.),
Univ. Freiburg, 1975も市民名簿Ⅱを史料に用いており参考にな
る。
9)市民名簿Ⅱに転記された市民 588名の内訳は市内加入市民
559 名(フォリオ 1‒29),市外市民 29 名(フォリオ 184‒)で
ある。市内加入新市民の記録はフォリオ 30 以降である。
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