シリーズ よう! め 高 人権意識 かけ 橋 の 心 まき ちら づり く り よう! め 深 協働の まちづくり 問 協働のまちづくり課 (☎928-1051) 問 100万本の ばらのまち福山 人権は イ ポー トし タ ! サ イ! ち 合言葉 世界に誇れる ばらのまち福山 差別をなくす なりタ らに か な る ほ ど 22 21 歴史文化基本構想の策定に着手 ● 地域の魅力ある文化財 の継承に向けて● 災害時応援協定を締結 ● 大規模災害に備えて● 市 教 育 委 員 会 は「 福 山 市 歴 史 文 化基本構想」を2カ年で策定する 日 に 初 回 の 会 議 を 開 催。 策 た め、 専 門 家 な ど に 委 員 を 委 嘱 し、 1月 福山のこと、知っとる? ●福山知っとる検定 に挑戦● 福山ファンの増大や観光サポー ターなどの育成を目的として実施 し、 こ れ ま で 延 べ 3, 8 7 9 人 が 受験した「福山知っとる検定」。最 後の検定となる第 日 定までのスケジュールや構想の構 に福山商工会 議 所 と 東 京 の 誠 之 舎 性の高い文化財を結び付けて一体 的 な 方 針 を 示 し ま す。 ま た、 関 連 山PR大使を委嘱されたのは誰で 広 く 発 信 す る た め、 ば ら の ま ち 福 検 定 問 題 は「 1 0 0 万 本 の ば ら のまちを達成した福山市の魅力を で 行 わ れ、 県内外から292人の 回が2月 成などについて検討しました。 受験者が挑戦しました。 的 に 発 信 す る こ と で、 本 市 の 歴 史 し ょ う か?」 と い っ た 時 事 問 題 か 市制施行 周年事業として20 01年度から新たに始まった福山 く観光課(☎ されました。 文化の特色や魅力を分かりやすく ・1278) ら歴史問題まで幅広い内容が出題 く文化財課(☎ 1 月 日、 ア サ ヒ グ ル ー プ 食 品 ㈱と避難場所などへのフリーズド よ る 応 急 対 策 活 動・ 海 上 輸 送 の 協 ングス㈱と小型無人機ドローンに る地図の提供、ツネイシホールディ エリア統括部と災害対応で使用す ワ イ ド に 振 り 返 る こ と が で き ま す。 市 史 」 と 併 せ て、 福 山 市 の 歩 み を 1 9 7 8 年 に 刊 行 さ れ た 旧「 福 山 の 全 8 冊 が 完 成 し、 1 9 6 3 年 ~ 理 編 1 冊・ 資 料 編 6 冊・ 新 刊 1 冊 市 史 編 さ ん 事 業。 今 年 3 月 で、 地 力、広島県トラック協会福山支部・ 過去を知ることができる資料が 時代の経過や世代交代によって失 ま し た。 本 市 で は 引 き 続 き 災 害 に 市 長 は「 多 種 多 様 な 業 種 の 協 力 を得られて心強い」とあいさつし しました。 すことができました。 「福山市史」という形で後世に残 供 な ど 関 係 者 の 皆 さ ん の 協 力 で、 わ れ な い よ う、 そ の 収 集 に 特 に 力 神辺城へ入りますが、拠点を福山 へ移して神辺城は廃城となりまし た。この時、神辺城の建物のいく つかは福山城へ移築されたといわ れています。 こ の し ゃ ち ほ こ は、 神 辺 城 が あった黄葉山中腹から1974年 今に伝えています。 神辺歴史民俗資料館 しんいけい ・7264) を 入 れ て き ま し た。 調 査 や 資 料 提 強い ま ち づ く り に 取 り 組 み ま す 。 く 歴 史資料室(☎ けなどの協力に関する協定を締結 松 永 支 部 と 陸 上 輸 送・ 物 資 の 仕 分 ラ イ 食 品 の 提 供、 ㈱ ゼ ン リ ン 中 国 ・1042) 伝えていきます。 来 に わ た っ て 保 存・ 活 用 す る 基 本 本 構 想 で は、 地 域 に あ る 文 化 財 を 総 合 的 に 把 握 し、 官 民 一 体 で 将 ついに完成 福山市史 ● 新刊「福山市史 原始から 現代まで」 が発刊● 10 く危機管理防災課(☎ ・1228) 福島氏改易後の1619年、水 野勝成が備後 万石の領主として 支配となります。 なり、関ヶ原の合戦後は福島氏の 紛を機に神辺城は毛利氏の直轄と 【神辺歴史民俗資料館】 神辺城のしゃちほこ 神辺城は1335年ごろ、備後 国守護朝山影連により築城され、 1443年に山名丈休により再築 月に小中学生3人により発見さ 戦国時代、山手銀山城主・杉原 理興(大内氏方)は山名忠勝(尼 (この資料は、同館の第3展示室 至福山 神辺城跡 れました。当時の神辺城の威容を 子氏方)の守る神辺城を攻略し、 に常設展示しています) されたと伝えられています。 928 城主となり山名氏を名乗ります。 その後、尼子氏方に寝返った理興 は、毛利氏との6年間に及ぶ神辺 城合戦(1543~1549年) に敗れた後、毛利元就にわびを入 85 928 10 No.283 1 文化を育て 健康で平和な社会を築きましょう 1 人権を尊重し 差別のない人間関係をつくりましょう 市民憲章は、市制施行 周年を記念し、市民の心のよりどころと して、 年に制定されました 鞆支所 日本に来たからか「朝鮮国 遊 撃 石碑」の字と石碑 の図が表されてい ます。また同後期 の菅茶山の「福山 志料」には「朝鮮国 と明国のため、悪 意なく…和議に徒 あわれ 労し、終わりがよくなく誠に憫む ことである」と記されています。 惟敬の講和交渉は成功しません でしたが、 江戸時代の 善隣友好の 朝鮮通信使 への礎の一 つになった と思われま す。朝鮮通信使の迎賓館であった 対潮楼の海側正面に位置する石碑 は、戦乱の世の無念と平和の尊さ を今に語り継いでいるようです。 ~謎の伝・沈惟敬の石碑~ 朝鮮通信使の足跡③ 鞆の弁天島には、沈惟敬にまつ わると伝わる高さ260㎝もの立 派な石碑があります。 沈惟敬は謎めいた人物で、遊撃 将軍とも呼ばれた明(中国)の高 官です。豊臣秀吉が朝鮮および明 の侵略をめざした文禄の役で、日 本との和議のために明側の講和交 渉の副使として1596 (慶長元) 年に日本を訪れ、その帰路には鞆 の浦へも寄港しています。この時、 弁天島に遊び、その心情を石碑に 記したとも推測されます。最終的 には、この和議は成立せず、明の 皇帝などを抜きに画策したことで 怒りを買ったため、惟敬は明へ帰 国後に処刑されてしまいます。 この石碑は銘文も判読できず、 当時の記録も残されていないため 詳しいことは不明ですが、その後 の地誌などに惟敬の伝承が記され ています。江戸時代前期の鞆奉行 の「鞆記」では 遊 「撃(惟敬)も こと景勝とて、鞆にて日数をおく め り… 」と惟敬が鞆の景勝を愛でた ことを推測しています。同中期の 「備後鞆之図」には、惟敬が15 96年に朝鮮通信使とほぼ同時に 鞆の浦歴史 民俗資料館 れて帰城して再び杉原氏を名乗り ました。 理興没後は杉原盛重が城主とな ります。盛重亡き後、杉原氏の内 吉野山公園 1 心に太陽をもち 胸をはって元気に働きましょう 1 小さな親切を 勇気をもって行いましょう 1 きまりを守り よい習慣をつくりましょう 1 子どもたちのために 明るい家庭と美しい町をつくりましょう 12 ● 弁天島 ● 福禅寺対潮楼 石碑 ● ● 原 23 広報ふくやま 2017年3月号 広報ふくやま 2017年3月号 24 神辺高校 神辺高校 前バス停 号 国道 神 辺 駅 井 線 福山市民憲章 26 至 原 井 J R 福 塩 線 932 鞆の浦観光 情報センター ● 高さ約36cm×幅約17cm 928 至福山 No.21 3 19 10 市政ニュース
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