美的判断の客観性と評価的知覚

美学会雑誌『美学』67 巻 2 号(249 号)掲載
美的判断の客観性と評価的知覚
源河 亨(日本学術振興会・東京大学)
1
はじめに
本稿は、近年の分析美学における美的判断に関する議論を概説し、それを踏まえ、
美的判断の客観性を擁護する方針を提示する。
普段の生活のなかで人はさまざまな美的判断を下している。たとえば、
「この絵は優
美だ」、「この風景はダイナミックだ」、「彼の服はダサい」など。こうした美的判断に
関するわれわれの実践のある側面は、美的判断は正誤を問えると主張する「客観主義」
を支持しているように思われる。言い換えると、美的判断は何らかの基準に基づいて
正しいあるいは誤っていると判定できるものだと考えられるのである1。だからこそわ
れわれは、有能な批評家が書いた「あの作品は素晴らしい」というレビューを正しい
ものと信じて展覧会に行ったりする一方で、素人の評価はあてにしなかったりするの
だろう。もし美的判断が正誤を問えない主観的な感想でしかないなら、有能な批評家
の解説や批評を熱心に読む理由も薄れてしまうだろうし、また、批評家同士がどちら
の美的判断が正しいのかを争うことは無意味になるかもしれない 2。
このように動機づけられはするが、客観主義を擁護するのは簡単ではない。という
のも、われわれの実践に含まれる別の側面は、「主観主義(ないし極端な相対主義)」
を支持するようにみえるからである。たとえば、同一の芸術作品について「これは優
美だ」、「いや、けばけばしい」といった論争が生じうる。そして、さまざまな議論を
重ねても、どちらの判断が正しいのか判定できない場面も少なくない。すると、どち
らが正しいのかについて事の真相などないと思われるかもしれない。美的判断は主観
的な感想の表明であり正誤を問えず、その不一致は「趣味の問題」だと思われるのだ。
1
ここでの「客観主義」は、すぐ後に述べる「主観主義」を否定する点で「間主観主義」や「反
主観主義」と呼ぶ方が一般的だと思われるが、本稿では Sibley (1968)にならい、美的判断
(美的用語の適用)に正誤を問えると主張する立場を「客観主義」と呼ぶ。
2 批評家同士の争いにはどちらがより面白いことを言っているかという側面もあるが、正誤に
関する側面がまったくないわけではないだろう。
1
客観主義をうまく擁護できるかということは、近年の分析美学で注目される論点の
一つになっている3。本稿は、客観主義を擁護するいくつかの議論とそれへの批判を整
理し、それらをすべて踏まえ、客観主義を擁護する方針を提示する。本稿の構成を述
べておこう。2節では論争を整理するために必要な用語を導入する。それらを用いて、
3節では、客観主義を擁護するいくつかの方針と、主観主義からの批判を概説する。
4節では、3節で挙げたさまざまな方針の長所を合わせ、かつ、主観主義からの批判
に答える方針を提示する。それは、情動(emotion)と結びついたゲシュタルト知覚、
「評価的知覚」が美的判断の正誤の基準となる、というものである。
2
議論のための準備
本節では、美的性質/経験/判断をいくらか特徴づける。実際のところ、十分な特
徴づけにはさまざまな見解を手掛かりとした議論が必要となるが、さまざまな見解を
みるためにもある程度の指針が必要だろう。ここではそうした出発点となる用法を導
入する。
2.1
美的性質・美的経験・美的判断
まず「美的性質」と「非美的性質」を区別しよう。美的性質の例としては、優美さ、
ダイナミックさ、けばけばしさ、バランスのよさ、乱雑さ、繊細さ、力強さ、といっ
たものが挙げられる。他方で、非美的性質の例としては、色、形、大きさ、音色、音
量、などが挙げられる。両者の違いとしては次の二点がよく言われる。
一つは、美的性質は非美的性質に依存する、ということである。たとえば、ある絵
画が優美であるのは、それが特定の色や形をもっているからであり、その絵画の優美
さを失わせるためには色や形を変化させなければならないと考えられるだろう。こう
した関係は「付随性(supervenience)」を使って説明されることが多い 4。美的付随性
をごく簡単に述べると、対象の非美的性質が変わることなしにその対象の美的性質が
変化することはない、という関係である(Levinson 1984)。この関係が成り立つなら、
3
美的判断に正誤を認める方針はカントの普遍的妥当性まで遡れるだろうが、本稿は最近の分
析美学の議論に焦点を合わせる。
4 3節で挙げる論者はみな美的性質について付随性の枠組みで議論しているので、本稿もそれ
にしたがう。
2
対象が特定の非美的性質をもつことが決まれば、それによって、その対象がどういっ
た美的性質をもつかも決まると考えられるだろう。この関係は、後述の「美的性質の
実在論」
(および「美的判断の客観主義」)を擁護するうえで鍵となる(Levinson 2001)。
対象がどういった美的性質をもつかは対象の側で決定されていると考えられるのだ。
美的/非美的性質のもう一つの違いは、非美的性質の経験には通常の知覚能力があ
れば十分だが、美的性質の経験にはさらなる条件を満たす必要があるということだ。
たとえば、対象への適切な注意、偏見からの解放、美的なものを多く観賞したり有能
な批評家から教えられたりするといった学習による「感受性(sensibility)」の洗練、
等々(Sibley 1959, 1965)。こうした条件は3節で取り上げるさまざまな見解に関わる
ので、より詳しくはそこで説明しよう。
ここで、美的性質を対象とする経験を「美的経験」と呼び、非美的性質を対象とす
る経験を「非美的経験」と呼ぶことにしよう 5。そして、美的経験に基づいて下される
判断を「美的判断」と呼ぼう。たとえば、対象を知覚した際にダイナミックさを経験
し、その経験に基づいて下される「この対象はダイナミックだ」という判断がそれで
ある。別の言い方をすれば、美的判断は美的経験に基づいて「ダイナミックだ」など
の美的用語を適用させることである。このように美的経験と美的判断を区別すると、
次に説明する(本稿にとってより重要な)さらなる区別が理解しやすくなる。
2.2
美的判断の客観主義と美的性質の実在論
次に「美的判断の客観主義」と「美的性質の実在論」を区別しよう。この区別は、
本稿の議論が扱う範囲を明確にするうえで非常に重要である。本稿が焦点を合わせる
「美的判断の客観主義」は、冒頭で述べた通り、美的〈判断〉は間主観的に正誤が問
えると主張する立場である。他方で「美的性質の実在論」は、美的〈性質〉は経験と
は独立に存在しうると主張する立場である。
美的性質の実在論をとる場合には美的判断の客観主義もとることになるだろう。と
いうのも、美的性質が経験とは独立に存在するなら、そうした美的性質を正しく捉え
た経験とその経験に基づく判断は正しく、捉えそこなった経験に基づく判断は誤って
いると考えられるからである。だが、美的性質の反実在論をとりつつ美的判断の客観
5
美的経験と非美的経験は対象となる性質が美的かどうかという点だけで区別できるのか、経
験の側にも両者を区別する要素があるのではないか、ということも議論されている。(とくに
ノエル・キャロルとロバート・ステッカーが論争を行っており、その論争は Durà-Vilà[2016]
にまとめられている。)本稿も最終的に経験の要素を強調するが、ここでは暫定的にこのよう
に導入しておく。
3
主義をとる余地もある。
(実際に、次節で概説するゴールドマンは、客観主義と反実在
論の両方を主張している。)
反実在論と客観主義の両立可能性を理解するためには、色の反実在論について考え
てみるのがいいだろう。それによると、たとえばポストを見たときに意識に現れる赤
さは、ポストそのものがもつ性質ではなく、意識がもつ性質である。色は、物体がも
つ特定の物理的性質と人間の感覚器官が相互作用したときに意識に生じるものであり、
物体そのものは色をもっていないのだ6。この立場では、色をもつ意識主体が存在しな
くなれば色も存在しなくなるということになる。また、色を知覚することとは、意識
そのものの性質が対象の性質であるかのように経験されること、言い換えると、意識
がもつ色が対象に投影されることである。この「投影」という点からすると、色知覚
はすべて誤っていることになる。というのも、赤さはポストがもつ性質であるかのよ
うに意識に現れているが、実際のところポストは赤さをもっていないからだ。だがこ
の立場でも、色知覚に基づいて下される「ポストは赤い」という色判断は間主観的な
正しさが問えると言う余地がある。というのも、この立場でも、ポストが赤く見える
(赤さが投影される)場合は適切であり、青く見える(青さが投影される)場合は不
適切だという区別を与えることができるからだ。こうした区別は、大多数の人との行
為やコミュニケーションがうまくいくかどうかによって与えられるかもしれない。た
とえば、
「赤いものをとってきてくれ」と言われたときにリンゴやトマトをもってくる
人は多くの人とうまくコミュニケーションがとれ、バナナやミカンをとってくる人は
うまくいかないだろう。こうした例に基づき、行為やコミュニケーションがうまくい
く人が行う投影は適切なものであり、失敗する人の投影は不適切だと言うことができ
る(うまくいかない人の色覚には異常が起きているはずである)。ここからさらに、適
切な投影に基づいて下された「ポストは赤い」という色判断は正しく、不適切な投影
に基づく「ポストは青い」という色判断は誤っていると言う(あるいは、そう取り決
める)ことができる。そのため、反実在論を受け入れ、投影という意味で色知覚はす
べて誤っていると認めたとしても、色知覚に基づく色判断は間主観的に正誤が問える
と主張できるのだ。
このように、経験と判断を分けておくと、経験される性質の反実在論と経験に基づ
いた判断の客観主義の両立可能性がわかりやすくなる。そして、同じことが美的経験
/判断にも言える。色の反実在論と同じように美的性質の反実在論を考えてみよう。
6
色の反実在論は、ガリレオ、ボイル、ニュートンまで遡れる、科学者の伝統的な見解と言っ
ていいだろう。
4
たとえば特定の自然風景を前にすると、その風景そのものがダイナミックさをもって
いるように経験されるとする。だが、ダイナミックさという美的性質は経験がもつ性
質であり、それが自然風景に投影されているにすぎない。このときの美的経験は、そ
の風景が実際にはもたない性質を帰属させているという点で誤っている。だがそれで
も、この経験に基づいて下された「この風景はダイナミックだ」という判断は正しい
と言える余地がある。その判断が大多数の人(あるいは少数の有能な批評家)と一致
するなら、そうした意味でその判断は正しく、一致しない場合は誤っていると言える
のだ 7 8。
客観主義は実在論より弱い立場である。というのも、前述の通り、実在論を支持す
る人は客観主義も支持するだろうが 9、客観主義をとっても反実在論をとる余地がある
からだ。そして本稿では、実在論ではなく客観主義を問題にしたい。なぜなら、弱い
立場である客観主義にも論争が起こっているからである。実在論を擁護するとしても、
まず客観主義が確保される必要があるだろう。
次節では客観主義を擁護するさまざまな論者の主張を紹介する。そのなかで実在論
や反実在論にいくらか言及するが、本稿は美的性質の実在性については中立的である。
本稿が最終的に提示する客観主義を擁護する方針は、実在論とも反実在論とも両立す
る。
3
美的判断の客観主義
客観主義の問題は、冒頭で述べた美的判断の不一致をどう扱うかである。主観主義
は、美的判断の不一致が多いことから、美的判断は正誤が問えるものではないと主張
する。美的判断は、自分にとってそう思われるという主観的印象の表明にすぎないと
いうのだ。この立場に対抗するためには、現実に美的判断に不一致が多いことを説明
7
美的判断の正しさを判断の収束や一致で説明する考えは、Sibley (1968)でも挙げられて
いる。また、正しさを判定する根拠として有能な批評家を持ち出す方針は3節で取り上げる。
8 2.1節で挙げた美的付随性は実在論を擁護するために用いられるのが一般的だが、反実在
論の場合、対象の非美的性質に付随するのは対象に投影される経験の美的性質だと主張するこ
とになるだろう。美的性質を実際にもつものが対象ではなく経験だとしても、それを決定して
いるのが対象の非美的性質であるなら、客観主義を維持できる。
9 論理的には、実在論と主観主義の組み合せも可能である。その場合、われわれが下す美的判
断はすべて主観的な感想だが、われわれの判断とは独立に、われわれのあずかり知らぬ美的性
質が実在するということになるだろう。だが、こうした立場をとる理由は(少なくとも私には)
不明瞭なので、この可能性は無視する。
5
しつつ、美的判断には何らかの正誤の基準があると主張しなければならない。本節で
は、客観主義を擁護するゼマック、ゴールドマン、レヴィンソンの見解をそれぞれ手
短に紹介し、最後に、主観主義を擁護するベンダーの反論を取り上げる。
3.1
ゼマック
実在論と客観主義を擁護するゼマックは、主観主義に対して次のような批判を行っ
ている(Zemach 1991)。それは、仮に主観主義の言うように美的判断がすべて主観的
な感想であるなら、われわれは美的用語の使用法を他者から学ぶことができなくなっ
てしまうだろう、というものである。主観主義にしたがうと美的性質はセンスデータ
のような他者とは共有できない対象になってしまい、それに基づいた美的用語の適用
は個人個人ばらばらになってしまうはずだ。だが、われわれはある程度、美的用語の
使用法を共有している。こうした事実がある以上、主観主義は誤っており、美的用語
の使用法を決定する美的性質があるはずだ、と主張しているのである。
さらに彼は、現実に美的判断に不一致が多いことを説明するために、
「標準的観察条
件(standard observation condition)」という考えを導入する。ごく簡単にいうと、
適切な美的判断を下すためには適切な観察条件を満たさなければならない、というこ
とである。この点は非美的性質についても言えるだろう。たとえば対象の形を適切に
判断するためには、十分な照明がある、視覚に異常がない、対象にきちんと注意を向
けている、といった条件を満たさなければならない。こうした条件が満たされない場
合、形知覚や形判断は誤ったものになるだろう。美的判断の場合は、形などの非美的
性質に関する条件を満たしたうえで、
( 2.1節で挙げたような)偏見をもっていない、
適切な知識がある、といったさらなる条件を満たすことが必要になる。そして、こう
した条件を使って美的判断の不一致が説明される。すなわち、美的判断の不一致は、
一致しない判断を下した主体のうちの少なくとも片方が必要な条件を満たしておらず、
誤った判断を下しているために生じる、ということになるのだ。美的判断のための条
件は色判断のための条件よりも満たすのが難しく、そのため現実には不一致が多い。
だが、条件の満たしやすさに違いがあっても、条件を満たしたときに経験される性質
が実在する点は形も美的性質も同じである。このようにして、客観主義を擁護しつつ
美的判断の不一致が多いことが説明されるのである。
3.2
ゴールドマン
ゼマックの方針はゴールドマンから批判されている(Goldman 1993)。その批判の
6
ポイントは「評価」である。たとえば、優美さの経験には賞賛があり、グロテスクさ
の経験には非難があるように、美的性質の経験は評価に関わっている。だが、ゼマッ
クの標準的観察条件は形などの非美的性質との類推にしかなっておらず、美的判断に
特有の評価的要素を掬えていない。とくに、評価を下すために必要な感受性の洗練が
十分扱われていないのである 10。おそらく、ゼマックの標準的観察条件には「十全な
知覚能力」と並んで「感受性の洗練」も含まれているだろうが、ゴールドマンからす
ると、ゼマックは非美的性質の経験と美的性質の経験を同列に扱っており、後者の独
自性が扱われていないのである。美的性質や美的経験は何より評価に関わるものだと
いう点が説明されていないのだ。評価を強調するゴールドマンは、美的性質は特定の
感受性をもった鑑賞者に評価を引き起こす関係的性質であると主張している。
さらにゴールドマンは、評価をもたらす感受性は複数ありうると主張する。そうす
ると、異なる感受性をもつ鑑賞者で美的判断の不一致が生じうることになる。たとえ
ば、あるロックの曲を聴いたときに、ロック好きの感受性をもつ人はそれを「ダイナ
ミックだ」と判断するが、クラシック好きの鑑賞者は「やかましい」と判断するかも
しれない。さらに、こうした不一致は、非美的性質と美的性質を経験するための条件
をすべて満たした(もちろん、感受性も十分に洗練されている)
「理想的鑑賞者(ideal
critics)」のあいだでも起こるかもしれない。理想的鑑賞者は適切な条件をすべて満た
している者と想定されているため、その不一致は「解消不可能(irresolvable)」だと
いうことになる。つまり、どちらか一方だけが正しいと言うことができないのだ。そ
うすると、対象が実際にもつ性質はどちらの判断によって帰属させられているものな
のかも判定できないだろう。すると、異なる判断によって帰属させられているどちら
の美的性質も、対象の性質ではないように思われてくる。むしろ美的性質は、鑑賞者
の感受性に依存して経験の側に生じる性質であり、実在していないと考えられるので
ある。
だがゴールドマンは、解消不可能な不一致を認めても、ある種の客観主義を維持で
きると述べている。それは、美的判断は感受性グループに相対的な正しさを問えると
いうものである。たとえば、ロック好きのなかで理想的とみなされる感受性があり、
そのグループに属する人の美的判断はロック好きの理想的鑑賞者の美的判断と一致す
るかどうかで正誤が決まる、といったものだ。クラシック好きグループに属する人の
美的判断は、ロック好きとは別の、クラシック好きの理想的鑑賞者の判断と比べて正
10
ゴールドマンは「趣味(taste)」という用語を用いているが、他の論者に合わせて「感受性
(sensitivity)」に統一する。
7
誤が判定されるのである。
注意すべきだが、実のところ、解消不可能な不一致が本当にありうるのかについて
も議論が必要である。理想的鑑賞者は、
「理想的」という名前が示す通り、現実に存在
する主体というよりも、客観主義を維持するために導入された概念的な道具である。
そうすると、理想的鑑賞者が理想的なものとして導入されるかぎり、解消不可能な不
一致の可能性は排除されるべきかもしれない 11。とはいえ、ゴールドマンの方針は客
観主義を守るために重要なポイントを指摘しているとは言える。それは、客観主義を
否定するためには実在論を否定するだけでなく、実在論を放棄した(相対化された)
客観主義も否定する必要がある、ということである 12。
3.3
レヴィンソン
レヴィンソンはゼマックと同じく実在論をとりつつも、美的経験における評価を踏
まえた議論を行っている(Levinson 1994, 2001)。
レヴィンソンもゼマックと同じく美的用語の使用法を強調する。たとえば、ある人
がある曲を「荘厳だ」と判断し、別の人は「陰気だ」と判断したとする。こうした不
一致があったとしても、
「陰気だ」と判断した人は、もう一人がその曲に対して「快活
だ」ではなく「荘厳だ」という用語を適用することは理解できるだろう。レヴィンソ
ンによれば、たとえ美的用語の適用が厳密に一致していなくとも、適用を一定の範囲
に制限するような対象の〈美的な知覚的印象〉が存在する。美的判断は主体が好き勝
手に下せるものではなく、ある程度は対象の知覚的現れによって決まるというのであ
る。
さらにレヴィンソンは、ゴールドマンが強調した評価を踏まえつつ美的判断の不一
致を説明するために、美的経験を記述的側面と評価的側面に分けるという方針をとっ
ている。記述的側面は対象がもつ美的性質が反映された知覚的印象であり、美的性質
が正しく捉えられていれば正しく、捉え損ねれば誤っているということになる。そし
11
実際のところ、次に紹介するレヴィンソンはそう考えている。レヴィンソンは二〇〇一年の
論文で、仮に解消不可能な不一致があるとしても実在論を放棄することにはならないという譲
歩的な議論を行った後、実のところ解消不可能な不一致はないと考えていることを示唆してい
る。さらに後の論文(Levinson 2005)では、美的性質には感受性に相対的なものとそうでな
いものがあると述べている。
12 ベンダー(Bender 1996)によると、ゴールドマンは美的付随性の基礎に非美的性質だけで
なく感受性も含めるという方針をとっているようである。だがベンダーによると、この方針で
は、対象に何の変化がなくとも主体の感受性が変化すれば美的性質が変化することになってし
まうので、実在論的な美的付随性にはならない。
8
て評価的側面は、記述的側面に対する個人的な評価である(こちらは正誤を問えない
かもしれない)。この区別を用いると、二人の美的経験の記述的側面は同じでも、評価
的側面が異なれば全体としての美的経験が異なると言え、そのため、経験全体に基づ
いて下された美的判断に不一致が生じると説明できるようになる。同時に、美的経験
の記述的側面と、記述的側面に基づいた美的判断の一側面については、正誤が問える
と主張することができるのだ。
記述的側面を構成する美的な知覚的印象が存在することを示すために、レヴィンソ
ンは次のような議論を与えている。そもそも判断の不一致は同じものについての判断
のあいだで生じるものでなければならない。異なる対象に向けられた二つの判断が食
い違っているのは当然であり、それは判断の不一致ではないだろう。すると、美的判
断の不一致が起こるためには、一致しない判断が向けられる共通の基盤が必要とされ
ることになる。そして、そうした共通の基盤が美的性質を捉える知覚的印象だという
のである 13。
3.4
ベンダーの批判
レヴィンソンに対しては、ベンダーから批判が向けられている(Bender 1996)。そ
の批判を簡潔に述べると「レヴィンソンが言う知覚的印象は本当に美的なものか」と
いうものだ。確かにレヴィンソンが言う通り、判断の不一致が生じるためには共通の
基盤が必要とされる。だが、その基盤が美的なものとは限らない。色や形といった非
美的性質でも基盤になりうるからだ。非美的性質は、知覚能力が十分であるかぎり正
誤を問える仕方で記述的に経験され、共通の基盤となるだろう。だが、美的経験は非
美的経験に対する主観的感想であり、それ自体は正誤を問えないものかもしれない。
こうした点からベンダーは、レヴィンソンは美的な知覚的印象が存在することを示せ
ておらず、客観主義を擁護できていないと述べている。
これに対しレヴィンソンは、当該の知覚的印象が美的なものかどうか疑う余地があ
ることから、その印象は美的ではないと結論するのは、不当な検証主義だと応答して
いる(Levinson 2001)。だが、こうした応答は、「問題の印象は美的である」、「いや
そうではない」という直観のぶつけ合いに行き着くだろう。実際にベンダーはレヴィ
13
またレヴィンソンは、ある人はある作品を、けばけばしい「から」けなす一
方で、別の人は、けばけばしい「から」賞賛する場合があると述べ、ここから、
賞賛や非難といった評価は〈けばけばしさ〉のような美的性質とは独立だと述
べている。
9
ンソンの応答にまったく納得していない(Bender 2001)。
こうした状況を回避してより積極的に客観主義を擁護するためには、レヴィンソン
のように「美的な知覚的印象が存在する」と主張するだけではなく、それがどのよう
に成り立つかを詳しく特徴づける必要がある。以下ではそうした方針を考察する。
4
評価的知覚
4.1
ここまでの議論から示唆される方針
その方針を見極めるために、まず、3節の議論を踏まえ、2節で導入した美的性質
/経験/判断をより特徴づけることにしよう。
ゼマックは美的用語の使用法から客観主義を動機づけていたが、さらにレヴィンソ
ンは、使用法の基盤として美的性質の知覚的印象を挙げていた。判断ないし用語の適
用の基盤として知覚を挙げることは理にかなっている。というのも、知覚は対象のあ
り方と比べて正誤を問えるものであるため、知覚に基づいた判断も正誤が問えると言
えるからだ。
(たとえば、ポストを見て赤さを知覚するのは正しく、青さを知覚するの
は誤っていると言え、さらに、前者に基づく「これは赤い」という判断は正しく、後
者に基づく「これは青い」という判断は誤っていると言える。)美的な事例でも同様に、
美的性質を正しく知覚すれば正しい美的判断が下せ、知覚し損なうと判断も誤る、と
考えることができるだろう。さらに、知覚を重視することには、絵画のダイナミック
さや曲の優美さは見たり聞いたりするものであるという直観に合致するという利点が
ある。
だが、これだけでは評価的側面が扱われていない。ゴールドマンからゼマックへの
批判にあったように、美的性質や美的経験はまずもって、われわれが抱く評価に関わ
るものである(ひょっとすると、評価に貢献する以外には何の役割もないかもしれな
い)。この点を捉えるには、美的経験と評価の関係、そして、評価の土台となる感受性
を強調する必要があるだろう。さらに注意すべきなのは、ベンダーによるレヴィンソ
ン批判からわかるように、評価を美的経験に取り込むとしても、評価を知覚と明確に
分けてはならないということである。そのように分けてしまうと、判断が基づく知覚
的印象が美的なものなのかどうか不明瞭になってしまうのである 14。
記述的側面と評価的側面が明確に分けられるという考え自体も批判されている(De Clercq
2008)。
14
10
以上の点を踏まえて、2節で暫定的に導入した〈美的なもの〉に関する用法をもう
少し洗練させることができる。美的判断が美的経験に基づいて下されるという点は変
わりないが、美的経験は単に美的性質を対象とした経験ではなく、評価的要素を含む
と考えなければならない。なおかつ、評価的要素と知覚的要素を緊密に結びつけなけ
ればならないだろう。そして美的性質は、知覚を介して評価を生じさせる効力をもつ
ものだということになるだろう。
この考察に基づき本稿は、客観主義を擁護するために次の方針を提示する。それは、
美的判断の正誤は評価と知覚が結びついた「評価的知覚」の正誤に基づく、というも
のある。評価的知覚は対象を評価的に捉えるものであり、正しい評価的知覚に基づく
美的判断は正しく、誤った評価的知覚に基づいた美的判断は誤っている。そして、ど
の評価的知覚が正しいかは、ゼマックの考えから示唆されるように、標準的観察条件
をすべて満たした理想的鑑賞者が行う評価的知覚と照らし合わせて判定される、とい
うことになる。
だが、この方針に対してすぐに次の疑問が浮かぶだろう。それは、知覚と評価が結
びついているとはどういうことか、というものである。むしろ、一見したところ両者
は独立であるようにみえる。たとえば、色や形を対象とする知覚の典型例は、赤さや
四角さといった性質を意識に呈示させるものであるが、それらの性質に対する評価は
含まれていないように思われる。典型例がそうであるなら、どの知覚も評価的要素を
もたないと考えられるかもしれない。
4.2
ゲシュタルト知覚と情動
前述の問題に対処するために、本稿は、美的経験において結びついている知覚と評
価は、ゲシュタルト知覚と情動であると主張する。以下では、ゲシュタルト知覚、評
価としての情動、両者の結びつき、をそれぞれ順に説明しよう。
ゲシュタルト知覚は、全体としてのまとまりの知覚である。たとえば有名なアヒル
/ウサギの多義図形では、その図を構成する線や点、面積に変化がなくとも、そうし
た部分がどのような全体としてまとまるかに応じて、アヒルに見えるかウサギに見え
るかが異なってくる。こうした意味で、ゲシュタルト的まとまりは、対象がもつ形と
同一ではない。多義図形の知覚の場合、図形そのものの形は変化してないが、そのま
とまり方が変化しているのである。ゲシュタルト知覚は、部分の加算的集合(その図
がもつ点や線、形の集まり)には還元されない、全体論的な特徴の知覚(アヒルまた
はウサギ的なまとまりの見え)である。
11
2.1節で美的付随性を説明したが、ゲシュタルトも部分と全体の付随関係だと考
えられる。ゲシュタルトとしての全体は、それぞれの部分の加算的集合には還元され
ないが、部分が変化すれば全体も変わってしまうようなものなのである。こうした点
から、美的経験を構成する知覚的側面は、ゲシュタルト知覚だという仮説が立てられ
る。ここで、美的性質とゲシュタルトが付随性で説明できるとしても、両者は同じ種
類の付随性なのかという点が問題となるだろう。とはいえ、美的経験とゲシュタルト
知覚を関連づける見解は実際のところよくある(Kivy 1968; Scruton 1974 chap.3;
Sibley 1965, 1968; Wallton 1970)。美的性質も、色や形といった非美的性質を部分と
してもつような全体論的特徴だと考えられるのである。
次にポイントとなるのは、ゲシュタルト知覚は知覚以外の認知状態の影響を受ける
ということである。たとえば、アヒルをまったく知らない人にアヒル/ウサギ図がア
ヒルに見えることはないと予想されるだろう。実際に心理学の実験では、被験者の認
知状態がゲシュタルト知覚に影響を与えることが示されている(Goolkasian 1987)。
そして、認知状態にも評価的なものとそうでないものがあるだろうが、評価的状態も
ゲシュタルト知覚に影響すると言われている(Balcetis and Dunning 2006; Chen and
Scholl 2014)。たとえば、多義図形の複数の見え方のうちの一つの見え方を好むよう
な条件づけを行うと、その見え方をする傾向が高まると言われている。
ここで本稿は、評価的状態のなかでも情動に注目したい。まず、情動が評価的だと
いうことを確認しよう。情動に関する哲学・心理学理論はさまざまあるが、主要な理
論のほとんどで、情動は評価的状態とみなされている(概説としては Prinz 2004:
chap2)。たとえば、ヘビや毒グモを見たときに生じる恐怖は〈身の危険〉という事態
に向けられたネガティブな反応であり、試験に合格したとわかったときの喜びは〈目
的との一致〉に向けられたポジティブな反応である。情動はそれが向けられている事
態(志向的対象)が主体にとってどういった価値をもつかを捉える評価だと考えられ、
その評価がネガティブであれば当該の事態を回避するように、ポジティブであればそ
れを持続・増大させるような行動を促すものである。
美的経験を構成する評価として情動を挙げることには、われわれの直観に合致する
という利点がある。たとえば、ある曲が優美であると感じるときには何かしらポジテ
ィブな情動をもっており、なるべくその情動を持続させようと曲を聞き続けたくなる。
その曲が良くないと思うときにはネガティブな情動をもち、その情動を持続させない
ように曲を聞くのをやめるだろう。
さらに、情動を用いることで「感受性の洗練」の一部を具体化することができる。
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たとえば、ある文化の人は特定の食べ物を好むが別の文化の人は嫌悪を示すように、
何がポジティブないしネガティブな情動を引き起こすかは、その人が所属する文化や
社会に依存して学習されるものである。同様に、特定の対象に特定の美的経験をもつ
ようになる感受性の洗練の一部には、特定の対象に特定の情動反応を示す能力を獲得
することが含まれると考えられるのだ。
最後に、美的経験においてゲシュタルト知覚と情動が結びついているとはどういう
ことかを説明しよう。そうした知覚は次のような過程を経て成立するだろう。まず対
象から感覚器官へ刺激が与えられ、それによって色や形といった対象の非美的性質の
知覚が成立する。するとその知覚は、主体がもつ背景的な認知状態(知識、感受性な
ど)に依拠した情動を生み出す。次に、情動の影響によって複数の非美的性質がゲシ
ュタルト的にまとめられて知覚される。まとまりの知覚は再び背景的状態と照らし合
わされ、情動を変化させる。そして、その情動がさらにまとまりの知覚を変化させる。
こうしたフィードバックループを繰り返していくうちに、情動とまとまりの知覚は安
定した状態になる。本稿は、その状態が美的経験だと主張する。この考えにしたがう
と、美的経験は対象から感覚器官に刺激が与えられるだけで成り立つものではなく、
情動と知覚のあいだに複数回のフィードバックループがあることで生じるものだとい
うことになる 15。こうしたフィードバックループがあることで、両者は、相互がなけ
れば成り立たないようなあり方をしていることになる。非美的性質を知覚しても情動
が生じなければゲシュタルト知覚が生じることはないし、ゲシュタルト知覚が生じて
いなければそれによって情動が変化することもない、という関係が成り立っているの
である。これが、本稿が提示する「知覚と評価が緊密に結びついている」という主張
の内実である。
この見解は3節の議論のポイントをすべて踏まえている。まず、ゼマックが挙げた
標準的観察条件を導入し、さらにその条件の一部として、情動的な感受性の洗練を挙
げている。そして、ゴールドマンが強調した評価的側面とレヴィンソンが強調してい
た知覚的側面を取り入れつつ、フィードバックループを主張することでその二つの側
面を結びつけている。これにより、知覚的印象を強調するだけでは不十分だというベ
ンダーの批判を回避できるだろう。
注意すべきだが、以上の提案は客観主義を擁護するための方針であり、美的性質の
15
注意すべきだが、複数回のフィードバックループがあるということ自体は、美的経験をもつ
ために長い時間を必要とすることを含意しない。複数回のループは一瞬で生じうるかもしれな
い。
13
実在性には中立的である。実在論をとる場合、評価的知覚は、経験とは独立に存在し
ている美的性質を「捉える」働きとみなされ、反実在論をとる場合には、非美的性質
しかもたない対象に美的性質を「投影する」働きとみなされるだろう。3.2節で説
明したとおり、実在論と反実在論は解消不可能な不一致からの相対性を認めるかどう
かに依存する。だが、相対性を認めても、ゴールドマン的な客観主義を維持できるだ
ろう。
5
課題
以上のように本稿は、ゲシュタルト知覚と情動のフィードバックループによって成
立する評価的知覚が美的判断の正誤の基準となると主張する。とはいえ、この見解に
はまだ課題がいくつもある。
まず、ゲシュタルト知覚と情動に本当にフィードバックループがあるかどうかは経
験的な問題でもある。この点を裏づけるには、心理学や認知科学といった経験科学を
参照する必要があるだろう。
さらに、評価的知覚ですべての美的経験が扱えるかどうかも問題になる。本稿の見
解は、ゲシュタルト的まとまりが明確な視覚や聴覚の事例に適しているが、それがあ
るのかどうか判然としていない味覚・嗅覚・触覚にあてはまるかどうかは明らかでは
ない。さらに、対象の知覚が介在しない事例、たとえば読書やコンセプチュアルアー
トの鑑賞による美的経験も扱いにくい。ひょっとすると、4.1節で評価と知覚を使
って特徴づけた「美的経験」は実際の美的経験の一部でしかなく、本稿の見解にあて
はまらない美的経験も存在するかもしれない。とはいえ、本稿の見解では上記の事例
は扱えないと考える原理的な理由はない 16。仮に扱えないとしても、評価的知覚で視
覚や聴覚に「限定的な」客観主義は維持できるだろう。
16
近年の知覚の哲学では、視覚や聴覚などそれぞれの感覚モダリティを独立に扱うのではなく、
すべてが統合されたマルチモーダルな知覚を扱うべきだと主張されている(O’Challaghan
2012)。そして、マルチモーダルな観点から美的経験や芸術鑑賞を考察したり、美的な嗅覚経
験の可能性を主張したりする論文も出てきている(たとえば Nanay 2012 や Baker 2016)。そ
れらを参考にすれば、本稿の評価的知覚も他のモダリティに拡張できるかもしれない。また、
ゲシュタルトを広く解釈し、「複数の要素的部分から創発する全体論的特徴」とみなすなら、
想像や思考にもゲシュタルトがあると言え、それによって非知覚的な事例が扱えるかもしれな
い。
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本研究は JSPS 特別研究員奨励費(16J00533)の助成を受けたものです。
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