第四回日露協約と英米協調路線の再考: 石井菊次郎を中

Kobe University Repository : Kernel
Title
第四回日露協約と英米協調路線の再考 : 石井菊次郎を中
心に(Rethinking the Partnership with America and
Britain : The Russo-Japanese Entente of 1916 and
Foreign Minister Ishii Kikujiro)
Author(s)
渡邉, 公太
Citation
神戸法學雜誌 / Kobe law journal ,60(1):233-277
Issue date
2010-06
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005086
Create Date: 2017-04-25
神戸法学雑誌
第六〇巻第一号
二〇一〇年六月
石井菊次郎を中心に
―
第四回日露協約と英米協調路線の再考
目次
︵三︶ゲオルギー大公一行の訪日
︵二︶ロンドン宣言加入問題
︵一︶第二次大隈内閣の改造と石井の外相就任
二.第四回日露協約の成立過程と石井菊次郎
︵二︶本野一郎を通じた日露接近
︵一︶日露戦後の対露政策の変容
一.日露同盟の前提
はじめに
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
︵四︶第四回日露協約の成立
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―
渡
邉
公
太
︵五︶日露同盟とその後
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統 で あ る 英 米 協 調 主 義 と は 相 反 す る 外 交 政 策 で あ っ た と い え る。 す な わ ち 、
﹁霞ヶ関正統外交﹂と形容される日本
この日英同盟への不信と対米脅威の増大という背景を有した第四回日露協約の成立は、それまでの日本外交の伝
益をめぐり、米国を最大の脅威と認識していたことに他ならない。
性をもたない日英同盟の空白を補完する役割を担っていたという点にあり、それは当該期間の日本が東アジアの権
日本の新たな外交路線として据えられたことはつとに知られている。同協約の意義は何よりも、米国に対して有効
︵一九一六年七月三日調印︶は、ロシア革命で帝政ロシアが崩壊するまでの短期間ではあったが、日英同盟と並ぶ
秘密協定で米国を日露の共通の想定敵国に設定し、有事の際の日露共同の軍事行動を確約した第四回日露協約
はじめに
おわりに
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神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
ていた加藤にとって、ロシアは脅威の対象でしかなく、日露同盟は非現実的な政策であった。ところが、日露同盟
これを排除しようとしていた。﹁霞ヶ関正統外交﹂を継承し、あくまで日本外交の基軸は日英同盟にあると確信し
ただ、開戦当初はこうした元老らが中心に主唱した日露同盟論に対し、開戦時の外相である加藤高明が徹底的に
現化した異端的外交路線であった。
主張されるようになっていたロシアと提携して米国と対峙するという構想は、このとき初めて実際の政策として具
外交の正統路線とは、英米との協調によって大陸政策を運営していくというものであって、第一次大戦期に盛んに
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問題のみならず、外交政策の進め方そのものから対立していた加藤と元老は、激しい政争を経た後、第二次大隈重
信内閣の改造による加藤の外相退任によって、元老の日露同盟論が台頭することとなった。加藤が外相の座から退
いた後、新外相に就任した石井菊次郎は、小村寿太郎の恩恵を受けた優秀なベテラン外交官とのイメージから、加
藤と同じく親英米主義の﹁霞ヶ関正統外交﹂路線の継承者として見なされているが、実際の対露政策は加藤のそれ
とは明らかに異なっていた。
ずしも明確に説明されているわけではない。例外的に、芦田均は明治後期から大正期の外務官僚の潮流を、
﹁英米
ところが、加藤と石井の対露政策の相違について、第四回日露協約の成立過程を対象とした先行研究では、必
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
の問題点を強調している。このニッシュの石井評は一般的な石井の人物像と合致するものであり、すなわち加藤前
あたらされたと思われる﹂と、その姿勢が日露同盟に消極的で、元老の干渉に抗えきれなかった石井の官僚的性質
その石井の対露観についての評価は、ニッシュ︵ Ian Nish
︶ に よ る そ れ が 端 的 に 表 現 し て い る。 ニ ッ シ ュ に よ れ
ば、
﹁石井はおそらく同盟︵第四回日露協約︶締結に熱心ではなかったし、問題性を知りながら意に反して交渉に
る評価も親英米派という一括的なものに終始しているのが現状である。
うに、外相の石井に焦点を当て、その対露間について考察を行った研究はほぼ皆無であり、それゆえに石井に対す
的に石井がいかなる対露観や対英観、対米観を有していたかについてまでは踏み込んだ議論をしていない。このよ
とは異なる対露観を根底に有していたことが両者の対露認識の違いを生んだと説明している。しかし、芦田は具体
4
派﹂、
﹁大陸派﹂、
﹁中国勤務派﹂の三つに分類し、石井は長年の駐仏公使の経験から大陸派に属され、英米派の加藤
3
対の意思を有していたという評価である。
外 相 と 同 じ く、
﹁ 霞 ヶ 関 正 統 外 交 ﹂ と 呼 ば れ る 外 務 省 の 伝 統 路 線 を 継 承 す る 石 井 は、 本 心 で は ロ シ ア と の 同 盟 に 反
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6
ただ、石井の日記や回顧録を通読すると、こうした石井に対する通説に疑問を呈さざるを得ない。たとえば、後
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年 に こ の 時 期 の 日 露 同 盟 問 題 を 振 り 返 っ た 際 の 石 井 は、
﹁余は同盟必ずしも反対にあらず、否寧ろ賛成なりしも当
時 我 政 府 は 対 独 宣 戦 を 決 せ ざ り し が 故 に 先 決 問 題 は 此 点 に 在 り し と 思 惟 し た ﹂ と 語 っ て お り、 上 述 し た ニ ッ シ ュ の
石井評は石井自身によって否定されていることがわかる。この回顧に従えば、石井が日露同盟に全く拒絶感を示し
と同調して日露同盟実現に乗り出していくこととなったと考えられる。
の進言を受けても、日英同盟堅持の立場からこれに反対した加藤前外相ほどの強硬な姿勢を見せず、むしろ元老ら
を推進していたと断じなければならない。したがって、外相就任以来、井上馨ら元老からの度重なる日露同盟締結
て は お ら ず、
︵ 時 期 の 問 題 は あ る が ︶ む し ろ ロ シ ア と の 提 携 に 積 極 的 な 意 義 を 見 出 し て、 外 相 と い う 立 場 か ら こ れ
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り、満州事変以降には外交の第一線に登場することとなる。ところが、戦前の外務省研究にとって重要なアクター
こうした﹁非英米派﹂の外務官僚は、のち戦間期に﹁アジア派﹂や﹁革新派﹂と呼ばれる対外硬派に通じてお
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
一括的評価が下されがちである。こうした外務省における一括的評価を修正し、
﹁非英米派﹂の果たした役割を正
する従来の見解としては、拡張主義の軍部と対立したという一面のみをもって﹁国際協調﹂や﹁親英米﹂といった
である﹁非英米派﹂のルーツと系譜はこれまでのところ、必ずしも明らかにされているわけではない。外務省に関
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後のパリ講和会議に見出してきた。近衛文麿がその論文、
﹁ 英 米 本 位 の 平 和 主 義 を 排 す ﹂ に お い て、
﹁我国亦宜しく
なお、
﹁非英米派﹂の代表格である﹁革新派﹂を例にとると、先行研究ではこれまで、そのルーツを第一次大戦
しく分析するためにも、そのルーツを探ることは有益であろう。
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力むる﹂と論じたように、この頃から既存の国際秩序への反発と改革が訴えられていたことは事実である。近衛に
妄 り に か の 英 米 本 位 の 平 和 主 義 に 耳 を 籍 す 事 な く、 真 実 の 意 味 に 於 け る 正 義 人 道 の 本 旨 を 体 し て そ の 主 張 の 貫 徹 に
₁₀
英米﹂的なるもののルーツを見出すことは相当の説得力を有しているといえる。
とどまらず、外務省においても﹁革新同志会﹂が成立するなど、いわゆる革新思想が登場した第一次大戦後に﹁非
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しかし、既存の国際秩序への反発が声高に叫ばれるようになるのは第一次大戦後ではあるが、日本の外交路線、
す な わ ち 日 英 同 盟 と 対 米 協 調 路 線 に 対 す る 批 判 と そ の 代 替 策 が 叫 ば れ る よ う に な る の は、 そ れ 以 前 か ら 存 在 し て い
た。本稿で対象とする第一次大戦前期の日本は、まさにその外交路線を変更しようとする試みがなされた時期であ
り、これが直接のちの革新思想と結びついたとまではいえないものの、
﹁非英米﹂的な外交が初めて採用された時
期として、その歴史的意義は決して軽視されてしかるべきではない。この﹁非英米﹂的外交政策とは、前述した第
四 回 日 露 協 約 を 指 す の で あ る が、 同 協 約 の 成 立 は 、 主 と し て 日 露 戦 争 以 後 に 伊 藤 博 文 ら に よ っ て 主 導 さ れ た 日 露 提
携論の延長上に位置し、さらに第一次大戦の勃発と同時に井上馨を中心に提唱される日露同盟論の実現であった。
おり、国論は二分されていた。前者の対露認識は、大陸を生命線とする日本の勢力とシベリアから南下するロシア
伊藤博文や井上馨ら元老の、日露間の協商締結によって戦争の回避を図ろうとする日露協商論が対抗勢力となって
争直前の時期、日露間の開戦はもはや不可避であると考えていた桂太郎首相や小村寿太郎外相ら政府首脳に対し、
となる。当時の日露提携論の多くは、政治家や軍人など、非外務官僚のアクターによって主導されていた。日露戦
明 治 維 新 よ り 太 平 洋 戦 争 勃 発 ま で の 日 本 外 交 史 を 通 覧 す る と、 日 露 提 携 論 の 走 り は 日 露 戦 争 以 前 に ま で 遡 る こ と
(一)日露戦後の対露政策の変容
一.日露同盟の前提
解明する上での手掛かりを提供したい。
露協約成立過程においていかなる役割を果たしたかについて考察することで、外務省﹁非英米派﹂の系譜と理念を
こうした前提を踏まえた上で、本稿では、これまで明らかにされてこなかった石井の外交戦略、および第四回日
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
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の侵略との衝突は必然的であり、宿命的なもの、というものであり、一方、後者の対露認識は、ロシアを懐柔して
日露協商を締結し、東アジア政策を緩和することが得策、という論理であった。対露非戦の点で後者と認識を同じ
主戦論に熱狂せる由なれば御注意せらるる様﹂と述べたとされる。このときは、大国ロシアへの軍事的脅威から対
有 の 領 土 を 防 衛 す れ ば 足 れ り ﹂ と の 意 見 を 発 し て お り、 さ ら に 同 月 三 月 の 御 前 会 議 で は 、
﹁近来若い者が︵対露︶
く し て い た 山 本 権 兵 衛 海 相 は、 日 露 関 係 が 緊 迫 し た 一 九 〇 三 年 六 月 に 、
﹁ 韓 国 の 如 き 之 を 失 う も 可 な り。 帝 国 は 固
₁₂
日 露 戦 争 終 結 後 は、 小 村 が 外 交 の 一 線 を 退 く と 同 時 に 、 日 露 協 商 論 者 の 代 表 格 で あ っ た 伊 藤 博 文 が 対 露 政 策 を 主
決定の第一線にいたからに他ならない。
露避戦の声が優勢であった。そうした状況下で日本が日露戦争へ踏み切ったのは、対露主戦を説く桂や小村が政策
₁₄
₁₃
ニ容喙セントスルハ、最モ注意スヘキコト
が重要課題とみなしていた朝鮮問題の処理の上で、対露関係を重視していたからであった。当時、朝鮮の宮廷を中
こうした国内の対米不信の声も後押しにして日露協商を実現しようとしていた伊藤博文であったが、それは伊藤
であると認識されるようになっていたのである。
日露戦争の結果、ロシアの極東部隊の脅威が消滅したために、大陸権益をめぐって対立する相手は新興国の米国
₁₇
北米合衆国ガ近年﹁モンロー﹂主義ヨリ帝国主義ニ転進シ、清国ノ領土保全並ニ機会均等ヲ表明シテ動モスレハ満州問題
威を根拠として海軍の予算拡大を盛んに訴えるようになるのはこの時期である。
関係への不信感が芽生えるようになっている。たとえば、斎藤実海相が日米関係の現状を次のように語り、対米脅
導することとなる。また、この頃から国内では、徐々に日露提携論が台頭していくのと並行して、対英関係や対米
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神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
心とするグループ内で策謀がめぐらされており、その背後にはロシアの動きがあるとする説が流布していた。そこ
で、朝鮮統治のためにはロシアとの協調が不可欠であるとの考えが、元老たちの間では有力となっていた。また、
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伊 藤 は ロ シ ア か ら の 復 讐 戦 を 防 ぐ た め の 唯 一 の 方 策 と し て、 満 州 を 清 国 の 所 属 と し 、 ロ シ ア を 含 め た 国 際 社 会 に よ
る共同管理下で満州鉄道を経営すべきという議論も展開している。
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他方、ロシア側も、イズヴォルスキー外相︵ Aleksandr D. Izvol skii
︶が本野一郎駐露大使に対日和平政策を示唆
するなど、伊藤の日露協商論を後押しする言動を行っている。さらに、ロシアのみではなく、欧州情勢からも日露
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
露 が 対 立 す る こ と は 好 ま し い も の で は な く、 む し ろ 日 英 仏 露 の 四 カ 国 で 協 調 路 線 を と る こ と が 望 ま し い と 考 え る よ
国は、ロシアとの提携でもってこれに対抗しようとしていた。英仏にとって、遥か遠く離れた東アジアの地域で日
接近は好ましいものとして国際社会から歓迎された。当時急速に台頭しつつあったドイツの動きを警戒する英仏両
₂₀
けようと考えており、英仏露三国協商の土台をなすものとして期待を寄せていた。
₂₂
英露協約︵一九〇七年八月三一日︶として結実していくこととなる。英仏両国は、日露協商もこの枠組みに位置づ
うになっていた。この構想は後に第二回日英同盟︵一九〇五年八月一二日︶、日仏協約︵一九〇七年六月一〇日︶
、
₂₁
力を失った。こうして、伊藤を中心とした日露提携を望む声が有力となり、一九〇七年七月三〇日に第一回日露協
で 対 露 問 題 に は 不 鮮 明 な 立 場 で あ っ た 山 県 有 朋 ま で も が 伊 藤 の 日 露 協 商 論 を 全 面 的 に 支 持 し た た め に、 反 対 派 は 勢
問題はすでに解決済みであるとの立場から、日露協商締結に反対する声も存在していた。ところが、元老のひとり
かわらぬ伊藤の念願であったといえよう。当然ながら、このとき日本国内では、ポーツマス講和条約に置いて朝鮮
の目的とは、満州の権益を事実上放棄し、かわりに朝鮮統治を確実にすることにあり、それは日露戦争以前からの
以上の複数の要因をもって、伊藤は日露協商締結の必要性を主張し、正当化した。伊藤が考える日露協商の最大
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約が締結されたのである。このように、国内的には伊藤の政治主導、国際的には英仏露の接近という諸要因によっ
₂₃
て第一回日露協約は締結されることとなった。
をして、ポーツマス講和条約を実質化せしめたとの評価をくだす傾向にあるが、むしろ、日本がロシアに不要な譲
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小村としては当然の言動であったといえる。
₂₇
商路線に対し、国際条約を遵守しないロシアとの協調の無意味さを説き続けたことは、
﹁霞ヶ関正統外交﹂路線の
交﹂路線を継続していた外務省は、ロシアとの協調には消極的であった。小村寿太郎が伊藤博文の主導する日露協
日露戦争後、政界および軍部において日露宥和論が台頭するなかで、英米協調主義を基調とする﹁霞ヶ関正統外
(二)本野一郎を通じた日露接近
導の宥和路線によって開始されることとなり、伊藤の亡き後も、この路線が確実に継承されていった。
が、その後の大陸政策の背景として根づいていくこととなった。こうして、日露戦争後の対露外交方針は、伊藤主
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日 露 戦 争 直 後 の 日 本 は 、 明 確 な 大 陸 政 策 の ビ ジ ョ ン を 持 ち 合 わ せ て い な か っ た た め、 伊 藤 に よ る こ の 対 露 宥 和 路 線
に帰するというものであった。明治維新以来、日本の国家安全保障の伝統であった対露外交政策の逆走であった。
の 対 露 防 衛 ラ イ ン を 形 成 し て い た 外 蒙 古 を ロ シ ア に 提 供 し、 小 村 寿 太 郎 外 相 が ポ ー ツ マ ス 会 議 で 獲 得 し た 戦 果 を 無
のロシア勢力を排除し、ロシアと朝鮮との距離を広げるべきであった。ところが、実際に伊藤が行った政策は、こ
まず、日本の権益確保のためには、蒙古・南満州・樺太の対露防衛最北ラインを保持し、でき得る限り、北満州
いたものの、結果は逆に働いた。
確固とすることが、戦後の政治指導者の最大の役割だったはずである。事実、伊藤も含め、上層部はそう考えては
歩をしたという無意味な協約であったといえる。日本が大量の血と財を注ぎ込んだ日露戦争で獲得した権益をより
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ただし、この協約は、必ずしも日本の国家安全保障にとって有利に機能したわけではない。一般的にはこの協約
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しかし、こうした外務省の中でも唯一例外的に対露協調を持論とし、四度にわたる日露協約交渉を行った本野一
郎駐露大使は、外務省における日露接近の担い手として大いに影響力を発揮した。長らく駐露大使を務めていた本
野は、一九一四年の欧州大戦勃発に際しても、いち早く本国の加藤高明外相に対して、連合国との提携を強化し
て 日 本 も ド イ ツ に 対 抗 す る よ う 申 し 出 て い る。 本 野 と し て は、 こ の 大 戦 を し て 日 露 接 近 の 好 機 と 捉 え て い た の で あ
る。
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一九一四年八月一〇日、ロシアのサゾノフ外相︵ Sergei Sazonov
︶ も ま た、 ロ シ ア の 日 英 同 盟 へ の 加 入 を 本 野 に
申し出ている。日露戦争以後のロシアには、東アジアにおけるプレゼンスの回復に加えて、日本に対する潜在的脅
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友 好 関 係 を 新 た に 樹 立 す る こ と で、 剣 を 交 え る こ と な く、 日 本 の 大 陸 進 出 を 抑 制 し よ う と 試 み る よ う に な っ て い た
は、日本による黄色人種からの脅威︵ yellow peril
︶に最も直接的に脅かされているのはロシアに他ならないとの恐
怖心に由来していた。したがって、日本からの脅威を未然に防止するために、ロシアは日英同盟に参加し、日本と
英国にその責任があるとの論理でもって日英同盟に非難を加えたのである。ウィルヘルムⅡ世のこの日英同盟非難
ウィルヘルムⅡ世︵ Wilhelm︶
IIは、日本がアジアで列強国の一員として急速に台頭した背景には、英国の支援が
あったためと考えていた。すなわち、日本がアジア人種のトップに君臨しようとしているのは、同盟を締結した
威が根差していたことがあり、サゾノフの申し出もこうした対日脅威と無縁ではなかった。また、ロシア皇帝の
₂₉
のである。先述したサゾノフの日英同盟加入要請は、こうしたロシアの対日協調路線の一環であった。
₃₀
時期尚早であり、またロシア側の同盟締結の真意が計りしれないとして、慎重な姿勢をとった。さらに、続く九月
しかし、本野からこのロシアの日英同盟加入要請を受け取った加藤外相は、日露間の同盟問題は今現在のところ
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₃₁
中旬にも、サゾノフは再度日英仏露四カ国同盟を提案したが、加藤およびグレー英国外相︵ Edward Grey
︶の反対
によって実現には至らなかった。こうした日英による同盟規模の拡大の反対を受け、サゾノフは九月五日、英仏露
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間 の 対 独 戦 単 独 不 講 和 宣 言 で あ る ロ ン ド ン 宣 言 に 日 本 も 加 入 さ せ、 四 カ 国 間 に 事 実 上 の 同 盟 関 係 を 形 成 し よ う と し
た。だが、この提案に対しても加藤とグレーが実現に乗り出すことをしなかった。
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るとの見解を本国に伝えている。続いて一〇月二六日には、本野が加藤外相に、
﹁露独開戦ニ関スル報告﹂を伝達
ヲ漏ラシ有力ナル新聞ニシテ日露同盟締結ノ必要ヲ論スルモノ少カラス
締結交渉に乗り出すよう促している。
る理由はもはや存在しえず、むしろ英国の意向にそぐわないとグレーの意向を曲解して伝えて、早急なる日露同盟
翌一九一五年一月二日には、サゾノフから本野に対し、グレーが日露同盟に反対しない以上、その実現を躊躇す
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ノ報露京ニ達スルニ至ルヤ露国ノ輿論ハ日本ハ同盟軍ノ一トナレリトシテ我態度ヲ歓迎シ露国民ハ挙テ赤心ヨリ欣喜ノ色
八月十六日我日本カ独逸ニ最後通牒ヲ交付シタルコトハ露国朝野ニ好感ヲ与ヘ同二十三日日本ハ独逸ニ宣戦布告シタリト
同盟の必要性にまで言及しているというものであった。
している。その内容は、ロシア世論が日本の対独参戦を大いに歓迎しており、ロシアの有力新聞に至っては、日露
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歓迎ハ一方ナラス両国ノ親善関係ハ一層其度ヲ加﹂えたとして、日本の対独参戦が日露関係に好影響を及ぼしてい
提出させた。ここで野村は、
﹁八月二十四日帝国カ愈宣戦ノ布告ヲナシタリトノ報伝ハルヤ⋮︵中略︶露国官民ノ
信ウラジオストック駐在総領事代理に命じて、
﹁日独開戦ノ浦潮地方ニ及ホセル影響﹂と題する報告書を加藤宛に
ロ シ ア が 日 英 両 国 に 同 盟 加 入 を 積 極 的 に 申 し 入 れ る 一 方 で、 ロ シ ア に 駐 在 し て い た 本 野 は 、 八 月 三 〇 日 、 野 村 基
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の兵器を消耗していたロシアへ武器援助を行うよう、次のように申し出ている。
ロシア側からの度重なる同盟締結の要請を受けて、本野は五月一五日、本国の加藤外相に対して、対独戦で多く
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露軍ノ状況甚タ宜敷カラス依テ太公ヨリ特ニ依頼アリ弾薬小銃供給方⋮参謀本部ヘ上申ノ次第有タルカ本件ニ関シ外務大
臣ヨリモ更ニ日本政府ノ御配慮ヲ請ヒ度旨懇談アリタリ此時機ニ際シ露国ニ対シ特ニ好意ヲ表シ置クコトハ将来ノ為メ極
メテ有益ト思料セラルルニ付帝国政府ニ於テ成ルヘク速カニ露国ノ希望ニ應スル様御配慮アランコトヲ請フ
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論を共有していた元老と連絡を取り、日露関係の進展を訴えるようになる。そして、後に詳述するように、本野の
日露両国政府ハ欧洲平和ノ維持極東全局ノ平和ヲ強固ニスルコト及此等ノ地域ニ於ケル両国ノ領土権及特殊利益防護ノ目
た上で自身が作成した日露同盟私案を送っている。
策ノミヲ主眼トセス純然タル同盟条約ト為シ之ヲ公表シテ両国ノ関係ヲ世界ニ声明スル方可然ト思考ス﹂と前置い
体 的 に 本 野 は、 一 九 一 六 年 二 月 二 一 日 に 石 井 外 相 に 対 し て、
﹁今回露国政府ニ提出スベキ同盟条約案ハ単ニ対独政
日露両国が民間のレベルでも同盟を望む声が高まるにつれ、本野も盛んに本国に同盟締結を促すようになる。具
なった。
₄₀
が日露同盟を歓迎する傾向に変化していることを紹介し、日本もこれを受け入れるべきとする論が目立つように
記事が紙上をにぎわすようになり、同盟の是非をめぐる議論が活発になっている。なかでも、ロシア側の新聞論調
₃₉
そ の 石 井 が 外 相 に 就 任 し て 後、 本 野 の 日 露 同 盟 論 を 後 押 し す る よ う に 、 日 本 の 各 新 聞 や 雑 誌 で 日 露 同 盟 に 関 す る
日露同盟論は、加藤とは逆に対露政策で柔軟な姿勢を見せる石井菊次郎外相の下で日の目を見ることとなる。
₃₈
対露援助を頑なに拒絶する加藤外相の下では、本野の思惑は実現に至ることはなかった。そこで、本野は日露同盟
本野は、対独戦に苦戦するロシアに同情心を抱き、ロシアからの援助要請に応じようと画策していた。しかし、
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
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Their territorial rights or special
的ヲ以テ竝隔意ナク且ツ誠実ナル長時日ノ間ノ実例ニヨリ立証セラレタル誠実友好ナル両国ノ関係ヲ確固不抜ノ基礎ニ置
カンコトヲ望ミ左ノ条項ヲ締約セリ
第一条
両締約国ニ於テ極東全局ノ平和カ侵迫セラレ又ハ上記ノ両国領土権又特殊利益︵
︶カ危殆ニ瀕スルト認ムル時ハ両締約国ハ何時タリトモ直チニ其旨ヲ全然隔意ナク知照シ且ツ此
interests above mentioned
等ノ禍ヲ未然ニ防カンガ為執ルヘキ措置ニ付協同攻究スヘシ
第二条
一国若クハ数国ヨリ攻撃ヲ受ケタルニヨリ又ハ一国若クハ数国ノ侵略的行動ノ結果締約国ノ一方カ上記ノ領土権
又ハ特殊利益ヲ防護センカ為交戦スルニ至リタル時ハ直ニ交戦国トシテ援助ヲ供与スヘク又合意ニヨルニ非レハ講和ヲ締
結スルコトナカルヘシ
第三条
前条ノ規定ニ従ヒ締約国ノ一方ガ他ノ一方ニ兵力的援助ヲ与フヘキ条件及該援助実行ノ方法ハ両締約国当該官憲
ニヨリ決定セラルヘク該当該官憲ハ相互ノ利益ニ関スル総テノ問題ニ関シ随時十分ニ且ツ自由ニ協議ヲ為ス
第四条
両締約国ハ何レモ他ノ一方ニ協議スルコトナクシテ本条約ノ目的ヲ阻害スヘキ性質ヲ有スル何等ノ協定ヲモ他国
ト締結スルコトナカルヘシ
第五条
両締約国ハ何レモ両締約国ノ一方ト同盟条約ヲ有スル第三国ニ対シ交戦スルノ義務ナキハ勿論ナリトス
第六条
︵日英条約第六条ト同シ︶︵期間ニ関スル項︶
シ﹂と語っているように、武器援助の見返りとして東支鉄道の一部を日本に譲渡するという提案をしている。それ
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︵ 中 略 ︶ 露 国 ハ 其 代 償 ト シ テ 日 本 ノ 勢 力 範 囲 内 ニ ア ル 東 支 鉄 道︵ 長 春 松 花 江 ︶ ヲ 相 当 代 償 ヲ 以 テ 日 本 ニ 譲 与 シ 得 ヘ
ノ フ 外 相 は 本 野 と の 会 談 で、
﹁露国ハ日本ト同盟シ独逸トノ戦争ニ於テ日本ヨリ十分ノ援助ヲ期待スルモノナリ⋮
当時、日本からの武器援助に大きく依存していたロシア政府も、日本との同盟に好意的であった。二七日、サゾ
₄₁
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ほどまでに、ロシアは日本に依存していた。
こうして、本野の日露同盟論は、欧州大戦の戦局の進展とともに現実的な説得力を帯びるようになっており、元
老ら国内の日露提携論と同調して政策決定に影響を及ぼすようになった。本野の日露同盟論とは、その状況の変化
によって形式上の変化は多少見られるものの、
﹁欧州大戦勃発↓ロシアの対独戦の泥沼化↓対露武器援助↓ロンド
ン宣言への加入↓日露同盟﹂という、一貫した論理で構成されていた。その過程で本野が果たした役割は、本国外
務省内では少数派にすぎなかった日露同盟論を、欧州大戦勃発に伴う国際情勢の激変を利用して国内にその必要性
を訴えつつ、それが国策として決定された段階に至ると、長年のロシア滞在で培ったロシア側との親密な関係を行
使して交渉にあたり、日露両国間の利害調整に務める、というものであった。そして、第四回日露協約が締結され
て直後の一九一六年七月一四日、四度にわたる日露協約締結の立役者としての功績が評価され、本野に従三位勲一
力を発揮したのである。
のであったが、それ以上に、この時期の国内の日露同盟歓迎ムードと調和して、現実の外交政策決定に大きな影響
等が授与された。本野は、外務省内では数少ない親露派のひとりであり、国内的にはその政治基盤は非常に弱いも
₄₃
も し 連 合 国 が 勝 利 を 収 め た 場 合、 そ の 後 に 起 こ る の は 英 露 間 の 競 争 で あ り 、 日 本 も こ れ に 巻 き 込 ま れ る と 予 想 さ れ
とが挙げられる。もちろん、この時点ではこの後、戦況がいかに変化するかは予測がつかない段階ではあったが、
実 を 前 提 と し て、 日 本 も こ の 連 合 国 と の 関 係 を よ り 緊 密 に す る た め、 日 露 同 盟 の 締 結 が 不 可 欠 で あ る と 判 断 し た こ
まず第一の理由として、欧州大戦の勃発に際して、英仏露の連合国が強固な関係を築き、独墺に対抗している事
た。
論であったと評価できる。そして、本野の日露同盟論とは、主として次の五つの理由から導き出されたものであっ
以 上 、 考 察 を 行 っ て き た 本 野 の 日 露 同 盟 論 は、
﹁霞ヶ関正統外交﹂を継承する外務省においては極めて珍しい議
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
245
た。その際、日本はいずれにも加担することなく、厳正中立の立場を維持して国益を追求するべきであるというの
が本野の論理であった。したがって、日英同盟のみに依存することなく、ロシアと進んで同盟関係を築くことで、
将来の日本の国際的地位を強固にすることが可能になると考えられたのである。
にもっとも危惧されるのは、戦後の独露の接近であった。これらを解決するためには、今のうちにロシアと同盟関
と接近すれば、必然的に英露を敵としなければならない。また、満蒙における日本の利権を確実なものにするため
第五の理由は、戦後の対独関係から予想される英露関係の悪化であった。すなわち、戦後において日本がドイツ
することで、日本の大陸政策を有利に推し進めることができると考えられた。
するためには、ロシアと協調してこれを行う必要がある。そのため、日英同盟のみでなく、日露同盟を新たに締結
た。さらには、満蒙問題に関して、ロシアは日本と同様の利害関係を有しており、満蒙で日本が既定の方針を実施
多くを英仏から得ており、また、今後一層増加するであろう資本提供を担保できるのは英仏をおいて他になかっ
第四の理由は、日本の中国権益の確保であった。日本は今日まで、中国における利権開発のために必要な資本の
方が、将来の日本の国策を設計しやすいと考えた。
により、ドイツの反感を買い、ドイツと敵対的な関係に至る可能性から、本野は連合国との関係を密にしておいた
みでは日本が国際的に孤立する恐れがあるとの危惧があった。また、今回の大戦で日本が対独開戦を実行したこと
第三の理由は、もし連合国が独墺に勝利を収め、さらには連合国間の関係がますます進展した場合、日英同盟の
えた。
の 同 盟 で も っ て、 日 英 露 の 三 国 で ド イ ツ に 対 抗 し な け れ ば 、 日 本 の 東 ア ジ ア に お け る 地 位 が 危 う く な る と 本 野 は 考
の衝突は免れなくなる。この場合、日本単独ではドイツに対抗できるか否かは極めて不明瞭であるため、ロシアと
第二の理由は、もし今次大戦で連合国が独墺に敗れた場合、極東におけるドイツ勢力も一層高まるため、日本と
246
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
係を築いておくしかないと本野は考えていた。以上の五つの理由をもって、本野は早急なる日露同盟締結の必要性
を痛感していたのである。
た。こうした本野の個人的体験は、本野を親仏家に育て上げ、第一次大戦で対独戦に苦しむフランスを援助するた
あった。また、本野は、日本よりも欧州の政治事情をよく解していた。その交友関係も、日本よりも海外に多かっ
ト・ペテルブルグでの夜会を楽しんだ。知人の間には、本野のフランス語能力は、日本語よりも上だとする噂さえ
この長い海外生活は、本野を文化的にも欧州人へと変えることとなった。本野は、新橋の芸者遊びよりもサンク
欧州滞在の体験に見出せる。すなわち、本野は若くしてフランスに留学し、多感な時期の多くを欧州で過ごした。
本野のこの日露同盟論の背景には、彼のいかなる対露観があったのか。その回答のひとつが、彼の長年にわたる
₄₄
二.第四回日露協約の成立過程と石井菊次郎
外相に就任したことによって、日露同盟交渉は一気に軌道に乗ることとなる。
外戦略と結びつくことで政策決定に少なからぬ影響を与えるようになった。そして、本野と同じく親仏家の石井が
盟 へ 懐 疑 的 と な っ た 本 野 の 国 際 認 識 は 、 外 務 省 内 で は 異 端 路 線 で あ っ た に も か か わ ら ず、 元 老 ら 他 の ア ク タ ー の 対
仏感情は、日仏関係そのものよりも、むしろ日露関係や日英関係、日米関係に影響を与えた。親仏感情から日英同
めにも、日本の対露接近を推進する必要性を感じさせる要因となった。次に論じる石井菊次郎にも共通するこの親
₄₅
研究では十分に明らかにされていない。
臣の石井菊次郎であった。ところが、冒頭ですでに述べたように、石井の日露同盟に対する認識については、先行
日 露 戦 争 後 の 日 露 接 近 に 貢 献 し た 本 野 一 郎 と と も に 、 第 四 回 日 露 協 約 締 結 交 渉 の 最 前 線 に い た 外 交 官 は、 外 務 大
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
247
る。石井の対米観には脅威と警戒の念が根差していたことがわかる。
の責任を負わされる形となった。
何よりも、元老と加藤との間の確執は、日英同盟と日露同盟をめぐる日本外交の基本路線をめぐって深刻化してい
後報告的に元老に連絡することとした。当然ながら、こうした加藤の秘密外交は元老の反発を買う原因となった。
の元老への回覧を取りやめた。また、外交政策を決定する上で元老会議の承認を経るという手続もやめ、すべて事
加藤はその外相就任以来、元老ら外交の素人が政策決定に介入することを批判し、慣例となっていた外交文書等
₄₉
みなされていたが、実際には元老の加藤外交に対する不満が高まった結果であり、加藤を支持していた若槻らもそ
がそれぞれ退任することとなった。表面上、加藤外相をはじめ、閣僚たちの辞任劇は大浦事件をめぐってのことと
₄₈
われることとなった。大浦事件に対する閣僚の連帯責任を主張していた加藤外相、若槻礼次郎蔵相、八代六郎海相
₄₇
一 九 一 五 年 八 月 一 〇 日 、 大 浦 兼 武 内 相 の 疑 獄 事 件 が 公 に 発 覚 し た 大 浦 事 件 の 責 任 を め ぐ り、 大 隈 内 閣 の 改 造 が 行
(一)第二次大隈内閣の改造と石井の外相就任
考察していく。
以下では、石井が外相に就任して第四回日露協約を締結するまでの過程を、石井の言動とその対外戦略を中心に
₄₆
に 、 今 や 日 露 間 に 何 ら の 障 害 も な く、 む し ろ 移 民 問 題 等 で 日 米 間 に 深 刻 な 問 題 が 顕 在 化 し て き て い る と 記 し て い
と修正すべきというのが本稿の結論となる。実際にも、石井は外相就任決定直後の一九一五年八月一六日の日記
のそれに類似している。すなわち、先行研究による﹁石井=霞ヶ関正統外交﹂という評価は、
﹁石井=非英米派﹂
と比較すれば、石井の日露同盟への態度は対極的である。結論を先取りすれば、石井の対露観は、加藤よりは本野
石 井 の 前 任 の 外 相 で あ る 加 藤 高 明 が 日 英 同 盟 の 効 力 の 弱 体 化 へ の 懸 念 か ら 日 露 同 盟に 全 面 的に 反 対 し て い た こ と
248
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
た。第一次大戦勃発以来、ロシアとの同盟をしきりに内閣に進言する井上馨ら元老に対し、日英同盟の効力を維持
するためにも同盟の拡大を拒絶する加藤との対立を解消する術はなかった。元老にとっては大浦事件を機会として
加藤を外相の座から退けることによって、日露同盟論に同調してその実現に邁進する新たな外相を据えようとした
のである。
には珍田が最適であるとして、加藤もこれに同意した。しかし、珍田はこの外相就任要請を、
﹁ 意 見 も あ れ ば、 抱
綸を実行できぬ﹂との理由でもって辞退した。珍田が辞退したことにより、次に日露接近に奔走し、山県をはじ
囲を超えるものではなかったことが窺い知れる。後年の歴史家からの石井に対する評価もまた、しばしばその外交
た評価の反面、際立った特徴のなさが指摘されていることからも、その人物像が優れた外務官僚のひとりという範
ととなった直後に一般言論誌である﹃中央公論﹄紙上で組まれた石井の特集においても、堅実で真摯、明晰といっ
新外相の石井の人物像に関しては、当時から一般には広く知られていたわけではない。石井が外相に就任するこ
井に申し込まれ、石井は急遽、本国に戻されることとなった。
₅₅
れに応じたため、石井新外相の就任が決定した。石井からの返答を受け、大隈首相による正式な外相就任以来が石
₅₄
実現には至らなかった。そこで、第三の候補として、加藤自身が石井菊次郎駐仏大使を推薦したところ、石井がこ
₅₃
のの、加藤が、
﹁本野ハ露国政府ニ少シコンミット仕過﹂るとの不満をもち、賛成しなかったため、本野外相案は
₅₂
め、元老からの熱心な推薦を受けた本野一郎駐露大使が候補に挙がった。大隈首相も一時は本野外相案に傾いたも
₅₁
要 す る に 客 観 的 な 一 つ の 力 が 必 要 で あ る が、 自 分 は 藩 閥 の 出 で も な く 政 党 に 関 係 も な い か ら 大 臣 に な っ て も 抱 負 経
負もある。しかし外務大臣は有力な国務大臣であることを要する。有力とは党派の背景とかあるいは閥の背景とか
₅₀
その後任の外相については、まず大隈首相が、珍田捨巳駐米大使に打診している。日英同盟路線を継続するため
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
249
ビジョンの欠如が指摘されてきた原因も、こういった石井の人物像に由来するものであろう。長岡新次郎による次
₅₆
250
の石井評は、こうした状況を端的に表現している。
だいたい石井は政府の決定したものを忠実に外交交渉に移しているようである。内心賛成していない日露同盟の交渉にし
ても、正面切って加藤のように元老などにたてつくこともなく、与えられた制約の下で、自分の考えをその中に生かす努
力をしている。ようするに彼の外交は着実で、手堅いが、積極面に乏しくビジョンがなかった
₅₇
に意見提出をした。大隈がこの石井の意見を受け入れたため、石井の外相としての最初の仕事がロンドン宣言加入
問題となった。
駐 仏 大 使 だ っ た 石 井 は 本 国 の 加 藤 外 相 に 、 日 本 も こ の 宣 言 に 加 入 し、 連 合 国 と の 関 係 を 緊 密 に し て お く べ き と 上 申
九月四日に英仏露の三国間で締結された対独戦単独不講和を確約した宣言であるが、この宣言が発効された当時、
もともと、ロンドン宣言への加入は石井の持論でもあった。ロンドン宣言は、欧州大戦勃発間もない一九一四年
₅₈
くば、予は仏国外相デルカッセ、英国外相エドワード、グレヰ子等と充分打合せたる上帰朝し度い﹂と、大隈首相
加藤からの外相就任要請に対し、石井は外相就任の条件として、ロンドン宣言への加入を提言し、
﹁若し異議な
(二)ロンドン宣言加入問題
して、このロンドン宣言への加入問題が、石井の外相就任決定後、最初の仕事となる。
性を本国に訴えており、英仏露三国が対独戦単独不講和を取り決めたロンドン宣言への加入を持論としていた。そ
を意味するわけではない。石井は駐仏大使時代に、欧州大戦に際して一刻も早く連合国との関係を緊密にする必要
こ の よ う に 、 比 較 的 地 味 な 性 質 の 持 ち 主 で あ っ た 石 井 で あ っ た が、 性 格 の 地 味 さ が 必 ず し も 外 交 ビ ジ ョ ン の 無 さ
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
していた。このとき、ロンドン宣言への加入の具体的な理由として、石井は次のように説明している。すなわち、
もし露仏両国が単独でドイツと講和を取り交わした場合、あるいは何らかの条件を秘密裏に締結した場合、現在の
日本はこれを拘束する条約等が露仏との間で取り交わされていない。したがって、露仏両国と日英同盟に類する同
盟関係を構築しておくことは、露仏の単独講和を抑制し、日本の国益を保護することに繋がるというものであっ
た。
₅₉
もと、直ちに連合国に加わり、ドイツに宣戦布告をした。石井の回顧によれば、このとき日本は、連合国と提携
時に且つ其の条件等に就いても腹蔵なき意見を交換商議し得る機会を与へらるる筈である
₆₂
を確保して居る然るに同じ条項がロンドン宣言に於て英仏、英露間にある以上、日本は英国のみならず、露仏両国とも同
日英両国は同時に 且つ其の条件等に 就いても腹蔵なき意見の交換を為したる上ならでは講和談判に 這入らないことの協定
論理の飛躍を感じさせる。加藤もまた、石井のこのロンドン宣言加入の上申に対して、次のように批判している。
しておかなくては、戦後の講和会議において、日本に不利な事態が起こりかねないとまで断じることは、いささか
の保護の点では、石井は加藤と認識を同じくしていた。しかし、日英同盟のみでなく、露仏とも正式な関係を樹立
に そ の 実 力 や 勢 力 圏 を 認 め ら れ る こ と は な か っ た で あ ろ う 、 と 石 井 は 述 べ る。 大 戦 で の 連 合 国 へ の 参 加 と 日 本 権 益
₆₁
際して、厳正中立を守り、戦局の外に自国を置けば、戦後の日本の地位は第三流国としてしかみなされず、世界的
平洋上の防備、中南太平洋、地中海に出動して戦争遂行を行っていった、という。実際に、もし日本がこの対戦に
し、人道正義に反する独墺に対して宣戦し、その結果、東アジアにおけるドイツの根拠地である青島を攻略し、太
₆₀
周知のごとく、日本は第一次大戦勃発と同時に、加藤前外相の強いリーダーシップによって、日英同盟の信義の
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
251
立などから、日米戦争の可能性を除外している日英同盟のみに日本外交は依存することができなくなっていた。こ
答を待つのみであった。一八日にフランスからの了承の返答を受け、日本のロンドン宣言加入が正式に決定した。
ととなった。とはいえ、石井が外相に就任した時点ですでにロシアからの了解は得ており、後はフランスからの回
一九一五年一〇月一三日、無事帰国し、予定通り外相に就任した石井は、早速ロンドン宣言の調印に乗り出すこ
向けて英仏露と連絡を密にし、その実現に向けて着実に交渉を進めていった。
報じると、大隈はこれに同意した。そして、石井を外相に迎えるまでの間、大隈兼任外相は、ロンドン宣言加入に
₆₄
でロシアの監視を怠ってはならないとの旨を主張した。さらに石井は、同様の内容を大隈首相兼外相に暗号電報で
した史実を引き合いに出し、ロシアの対独戦単独講和を阻止する目的で、日本がロンドン宣言に加入し、日英共同
外相就任要請を受けて帰国の途中、石井は英国のグレー外相に会い、ナポレオン戦争などロシアが単独講和をな
件として提示した理由にもなったのである。
言加入をめぐる加藤と石井との確執が、約一年後の外相就任の要請に際し、石井がロンドン宣言への加入を交換条
の認識は、石井のみならず、日露提携論者の元老らにも通じる対外認識であった。そして、このときのロンドン宣
₆₃
華 二 十 一 カ 条 要 求 な ど で 英 米 か ら の 対 日 批 判 も な さ れ て お り、 さ ら に は 戦 後 に 予 想 さ れ る 列 強 国 間 の 激 し い 国 際 対
ていたといえる。石井の考えでは、ロンドン宣言のみでは対独戦の戦果を日本に保証するのは不十分であるし、対
考えていた。この点で、加藤と石井は決定的な違いがあり、石井は加藤よりも元老らの日露提携論と立場を共有し
加 藤 は あ く ま で 日 英 同 盟 の 効 力 に 絶 対 の 信 頼 を 寄 せ て お り 、 そ れ が 戦 後 の 講 和 時 に も、 日 本 に 有 利 に 機 能 す る と
252
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
₆₆
れ、新ロンドン宣言が発効されることとなった。
そして、一九日、ついに日英仏露にイタリアを加えた五カ国間での対独戦単独不講和宣言の公文記名交換がなさ
₆₅
石 井 は こ の ロ ン ド ン 宣 言 加 入 に 関 し て、 後 に 、
﹁ 此 の 五 国 団 体 を 言 ひ 現 は す 文 句 が 出 来、 ヴ ェ ル サ イ ユ 講 和 会 議
₆₇
に於いて華々しく活動することとなつた﹂と語っている。しかし、実際には、ロシア︵ソ連︶は一九一八年三月三
日にドイツとの間にブレスト・リトフスク条約を締結し、事実上、ドイツと単独講和を交わしている。石井が自己
盟 に 加 入 す る の 要 な し と 云 ひ し が 現 内 閣 は 此 愚 を 敢 て し て 帝 国 将 来 の 外 交 に 禍 根 を 残 せ り ﹂ と、 痛 烈 に 批 判 し て い
で、日本のロンドン宣言加入について、
﹁ 現 内 閣 の 外 交 は 甚 だ 危 険 な り ⋮︵ 中 略 ︶ 日 英 同 盟 条 約 の 精 神 よ り 斯 る 同
弁護するほど、ロンドン宣言は有効に機能してはいなかった。立憲政友会の総裁である原敬は、二七日の政友大会
₆₉
₆₈
る。野党に甘んじていた政友会総裁の立場という事情を差し引いても、原の批判は実態に即していたといえる。
₇₀
との関係正常化︵同盟条約の締結︶を促すようになった。以上のように、日露同盟の要請は、ロンドン宣言加入に
伴う国際情勢の変化からも高まりを見せるのである。
(三)ゲオルギー大公一行の訪日
か ね て か ら の 持 論 で あ っ た ロ ン ド ン 宣 言 へ の 加 入 を 実 現 さ せ た 石 井 に と っ て、 次 の 目 標 は 、 ロ シ ア の 対 独 単 独 講
₇₂
い影響を生じさせるのではないかという考えを芽生えさせるようになる。これにより、英国は日本に対して、仏露
からの同盟実現への圧力は強まり、英国のなかでも、日本の対露武器援助が連合国の対独戦にとって非常に好まし
ち、 日 本 の ロ ン ド ン 宣 言 加 入 は 、 ロ シ ア の 四 カ 国 同 盟 論 は よ り 現 実 的 な 説 得 力 を も つ よ う に な り、 そ の た め ロ シ ア
ところが、日本のロンドン宣言加入によって、この後英国に日露同盟に対する期待を抱かせることとなる。すなわ
効力を弱体化させるのみで何等の意味も持ち合わせないというのがグレー外相と加藤前外相の共通認識であった。
₇₁
的だったはずである。連合国として、対独戦で共闘関係にあるとは言え、同盟の範囲を拡大させることは、同盟の
化させる契機となった。もともと、仏露両国の日英同盟への参入について、英国はその大戦中の実現に極めて否定
しかし、結果として、日本のロンドン宣言加入は、英国の四カ国同盟論に対する警戒の念を弱め、その態度を変
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
253
和阻止を絶対的なものにするため、日露関係をより緊密に結びつけておくことであった。
助を行った。さらに石井は、日露間に新たに同盟条約を締結し、後方からの支援を確実にすることで、ロシアの不
安を除去しようと企図した。石井は、後にこのときの対露援助を回顧し、それが極めて合理的なものであったとし
て自己弁護している。
₇₇
であった。
₇₉
﹁ 皇 室 外 交 ﹂ は、 ま さ に そ の 一 環 で あ り、 ゲ オ ル ギ ー の 訪 日 は 、 ロ シ ア 君 主 制 の 一 時 的 な 復 興 を 示 そ う と す る も の
府が左傾化する傾向にあったため、君主がその政治基盤を補強しなくてはならなかったのである。今回の日本への
治危機により、ロシアは英仏との関係よりも、日本との関係を重視するようになっていた。さらに、政党や帝政政
末から翌年初めにかけてのゲオルギー・ミハイロヴィッチ大公︵ Georgie Mikhailovich
︶の訪日である。
ゲオルギー訪日の背景には、ロシアの国内問題が大きく関係していた。一九一五年夏から起きたロシア国内の政
こうして、日露接近が急速に進展するなか、日露同盟実現にとって決定的な事件が起こる。それが、一九一五年
総会には、寺内正毅や後藤新平ら代表的な日露提携論者に加え、石井も参加している。
₇₈
済交流に大きく貢献したり、両国の重要人物の交流の場となるなど、日露接近を促していた。一一月二日の第九回
カ国同盟であるとして、高評価で迎えている。また、この頃から、日露協会の活動は一層盛んになり、日露間の経
₇₆
一〇月三一日、当時最大の発行部数を誇っていた﹃東京朝日新聞﹄もまた、日本のロンドン宣言加入を事実上の四
こうして、日本のロンドン宣言加入を契機として、日露接近はますます促進されていくこととなる。一九一五年
₇₅
₇₄
₇₃
昼夜兼行でロシアのために兵器を製造し、また、民間工場の一部を用いて、被服や軍服に至るまで、多量の物資援
不足に苦しむロシアに対して、可能な限りの援助を行うこととした。例えば、小石川と大阪の砲兵工廠において、
ロンドン宣言加入が実現したとはいえ、ロシアの単独講和を警戒し続ける石井は、対独戦の激化で兵器や物資の
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神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
訪 日 の 表 面 上 の 目 的 は 、 大 正 天 皇 の 即 位 式 終 了 の 祝 賀 と、 大 戦 勃 発 以 来 の 日 本 か ら の 兵 器 援 助 に 対 す る 感 謝 と い
うものであり、一行に対する日本国内の反応は、歓迎ムード一色に染まっていた。一九一五年一二月二九日、
﹃東
京朝日新聞﹄は、ゲオルギーの訪日を大々的に取り上げ、これによって日露関係が一層親善に向かうと歓迎の意を
表明している。言論誌の﹃中央公論﹄も、その社論において、
﹁ 欧 州 大 戦 最 中 に 属 し 皇 帝 親 し く 出 陣 中 と 云 ひ、 特
ゲオルギー訪日が日露親善に大きく資するであろうと高く評価している。
₈₁
益 々 親 和 し 、 殆 ん ど 同 盟 と 択 ぶ な き 関 係 を 生 ず る に 至 れ る 好 個 の 表 徴 と し て 大 に 祝 せ ん ず ん ば あ ら ず ﹂ と、 今 回 の
に其誠意の存する処を見るべく、我邦上下に深厚の満足を与へたるは申迄もなし、吾人は此一事を以て日露両国が
₈₀
まで至っているとし、その友好関係は日英同盟とは異なる次元で成り立っているという。これらロシアの主要人物
委員長、ココツォフ日露協会会長︵ V. N. Kokovtsov
︶ で あ り、 特 に コ コ ツ ォ フ は 日 露 同 盟 問 題 に 関 し て も 言 及 し て
いる。ココツォフは、ロシアは常に親日政策を執り続けてきたと強調し、今や日露関係は事実上同盟関係の段階に
合わせての日露親善のメッセージを日本国民宛に掲載している。その寄稿者は、サゾノフ外相、グチコフ中央兵站
一方、ロシア側からもこの好機に日露関係の深化を望む声があり、
﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄ 紙 上 に、 ゲ オ ル ギ ー 訪 日 に
な表現で訴えている。
₈₂
を 脱 し 赤 裸 々 に 相 接 触 す る に 至 り 、 彼 我 共 通 の 心 境 忽 焉 開 け 来 た れ る ﹂ と し て、 日 露 の 国 民 性 が 同 質 で あ る と 過 剰
族 性 に ま で 言 及 し て、
﹁ 思 ふ に 露 国 民 の 性 情 は 吾 人 の 武 士 道 と 何 れ の 点 に か 能 く 融 会 照 応 す る 所 あ り、 互 ひ に 仮 面
親善なる印象を我国民に与へ、両国親交の前途に更に一段の光明を加へしむ﹂と述べ、さらには、日露両国民の民
同 紙 上 で 連 載 を し て い た 編 集 長 の 浅 田 江 村 は、
﹁露国大公ゲールギー、ミハイロウィッチ殿下の御来朝は此際殊に
対露親善を長年説き続けてきた雑誌﹃太陽﹄にとってもまた、このゲオルギー訪日は歓迎すべきものであった。
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
255
からの日露関係親善を祝う声に対して、
﹃ 東 京 朝 日 新 聞 ﹄ は そ の 社 説 に お い て、
︵漁業権問題など︶日露間の懸案も
₈₃
一気に決着がつくとして、ロシア側の態度を好意的に評価している。こうした論調からもわかるように、
﹃東京朝
日新聞﹄や﹃太陽﹄などの主要メディアは、日露同盟を推進するための世論形成を行っていたといえる。
₈₄
武器の供給を日本から取りつけることにあった。
いて懐疑的な姿勢を見せている。
見せるなど、その態度は一定しない。
露現下ノ関係ニ一歩ヲ進ムルノ目的ヲ以テ談話ヲ試ムルコトニ主義上同意ス﹂として、日露新協約の締結に意欲を
ところが、同日宮中で開かれた山県有朋、大山巌、松方正義の三元老との会談において石井は、
﹁帝国政府ハ日
₈₇
東アジア勢力排除の一事をもってして、
﹁ 新 協 約 ヲ 締 結 ス ル ノ 十 分 ナ ル 理 由 ト モ ナ ラ サ ル ﹂ と 語 り、 そ の 意 義 に つ
二〇日、再びコザコフと会談を行った石井は、日露新協約問題について、ロシア側が主張するように、ドイツの
ている。
₈₆
ス ヘ ク 其 他 ノ 問 題 ニ 付 テ モ 熟 考 ノ 上 御 出 発 前 ニ 重 ネ テ 会 談 ス ル コ ト ト セ ン ﹂ と い う も の で あ り、 明 確 な 回 答 は 避 け
れがなされている。これに対する石井の返答は、
﹁如何トモ判断シ難キ問題ハ之ヲ同僚陸軍大臣及其他ニ協議ヲ要
ハ日英露仏ノ接近ヲ見ルハ均ク願ハシキコトナルモ差当リノ希望トシテハ日露ノ協商ニアリト思考ス﹂との申し入
一 月 一 四 日 に 行 わ れ た コ ザ コ フ と 石 井 外 相 と の 会 談 で は、 コ ザ コ フ よ り、
﹁﹃サゾノフ﹄氏ノ意見ニテハ日英露又
₈₅
反撃に備えて、日露間に新たな協約を締結し、中国国内におけるドイツの行動を抑制すると同時に、不足している
着をつけることにあった。ゲオルギー訪日の直後、ロシア外務省極東局長のコザコフ︵ Grigorii A. Kozakov
︶が来
日したことからも、ロシア側の意図は明白であった。コザコフの訪日の使命は、四月に予想されていたドイツの総
このように、日露両国で大いに歓迎されたゲオルギーの訪日であったが、訪日の真の目的は、日露同盟問題に決
256
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
石 井 は 内 外 に 対 し て 矛 盾 し た 対 応 を 示 し て い る か に も 思 え る も の の、 石 井 の 本 心 は、 お そ ら く 新 協 約 に 相 当 程 度
₈₈
理解を示していたと考えられる。コザコフとの一連の会談を終えた後、石井は日露間の新協約締結に向けて国内の
コンセンサス形成に奔走していることからも、このことは予想できる。
乙、日露両国ノ一方ハ他方ニ敵対スル目的傾向ヲ有スル条約若クハ協定ニ加入シ又ハ之ヲ締結セサルヘキコトヲ相互
甲、日露両国ハ其領土権及特殊利益ヲ擁護センカ為必要ニ応シ相互ニ平和手段ニヨル友好的援助ヲ与フルコト
第六、第五項ノ同盟関係ハ凡ソ左ノ標準ニ拠ルヘキコト
ニ駆ラルル邦国トノ接近ヲ予防スルハ現下ノ急務タルヘキコト
第 五、 日 露 両 国 親 善 関 係 茲 ニ 至 ラ ハ 更 ニ 一 歩 ヲ 進 メ テ 寧 ロ 両 国 間 ニ 同 盟 関 係 ヲ 設 定 シ 戦 後 露 国 ヲ シ テ 独 逸 其 他 侵 略 的 政 策
コト
第四、第三ノ場合ニ於テ長春哈爾賓間ノ鉄道ハ相当ノ価格ヲ以テ譲受ケ兵器モ亦相当ノ価格ヲ以テ之ヲ売渡スコトトスル
国政府ノ要望ニ応スルヲ辞セサルヘキコト
応酬ノ態度ヲ表明スルニ於テハ帝国政府ハ宜シク国際関係ノ現状ニ鑑ミ国防ノ要義ニ反セサル限リ兵器ニ関スル露
第 三、 況 ン ヤ 露 国 政 府 ニ 於 テ 帝 国 カ 開 戦 以 来 表 示 シ タ ル 厚 意 ヲ 認 識 シ 東 清 鉄 道 支 線 ヲ 我 ニ 割 譲 シ テ 以 テ 帝 国 ニ 向 ヒ 有 形 的
キコト
シ多量ノ軍需品ヲ供給シタルハ之亦第一項ノ趣旨ニ一致スルモノニシテ今後ト雖事情ノ許ス限リ此方針ヲ持続スヘ
第二、日露講和条約成立後満蒙ニ関スル三回ノ協約ヲ重ネタルハ方ニ此方針ニ出テ欧州大戦勃発以降帝国政府カ露国ニ対
第一、日露両国ノ親善ヲ強固ニシ接近ヲ促進スルハ東洋ノ平和ヲ維持スル所以タルコト
に日本にとっての国策となった。この閣議決定では、対露政策の方針が次のように定められた。
日露間の軍事同盟締結は、山県、大山、松方の三元老との協議を経た上で、二月一四日の閣議で決定され、正式
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
257
ニ約束スルコト
丙、日露両国ハ支那カ第三国ノ政治的掌握ニ帰スルコトヲ以テ両国各自ノ主要利益ニ対スル侵迫ト互認シ斯ル情態ノ
発現ヲ予防スル方法ニツキ随時協議ヲナシ右協議ニ基キ一方カ執リタル措置ノ結果トシテ第三国ト戦争ヲ為スノ已
ムヲ得サルニ至リタル場合ニ於テハ他方ハ其同盟国ニ援助ヲ与フヘキコトヲ相互ニ約束スルコト
₈₉
・
・
・
・
・
露新協約は両国の同盟にまで踏み込んだものになると想定していたことがわかる。続いて、石井は、この閣議決定
なった。二月一五日の閣議において、ゲオルギー一行の訪日が、
﹁露国皇帝御名代ノ我帝国御訪問ハ日露両国ノ関
ゲオルギー一行の訪日と、その直後から始まった日露間の交渉により、日露同盟問題は急速に進展することと
(四)第四回日露協約の成立
が、石井という﹁非英米派﹂の外務官僚であったということが理解できる。
る。このことから、当時の外務省内で﹁霞ヶ関正統外交﹂路線から逸脱した日露同盟を主導したアクターのひとり
見出していたことは、石井が﹁霞ヶ関正統外交﹂とは一線を画した外交政策を推し進めていたことを意味してい
異なり、石井は元老や陸軍との連絡も密に交わしている。そして何よりも、石井自身が日露同盟に積極的な意義を
外交の多元化を嫌い、元老への外交文書の公開や政策決定への介入を徹底的に排除しようとした加藤前外相とは
の内容を大山、松方の両元老および寺内正毅朝鮮総督にも伝えている。
₉₁
₉₀
防 ス ル ノ 基 礎 ニ 秘 密 同 盟 協 約 ト 外 ニ 両 国 ノ 特 殊 親 善 関 係 ヲ 表 明 ス ヘ キ 公 表 協 約 ヲ 締 結 ス ル ﹂ と 伝 え ら れ て お り、 日
・
題ニ関シテハ支那カ独逸ノ掌握ニ帰スルカ如キ事態ハ両国ノ利益及安寧上許スヘカラサル所ナルヲ以テ右危険ヲ予
石井は同日、この閣議決定の内容について、本野駐露大使に電報で伝えている。そこでは、
﹁日露将来ノ政策問
258
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
係 ヲ 一 層 親 義 ナ リ シ ム ル ノ 効 果 ア リ タ リ ﹂ と 評 さ れ て い る よ う に、 そ れ は 日 露 同 盟 実 現 に 向 け た 前 段 階 と し て の 役
割を十分に果たしていた。さらに同閣議では、前日の閣議で決定されていた対露政策方針に従い、第一次大戦の戦
於テモ前述ノ如ク非常ノ決断ヲ以テ我軍隊ニ絶対必要ナル武器ノ譲渡ヲモ敢テシ以テ両国ノ親交ヲ一層強固ナラシメント
戦後ニ於ケル列国関係ヲ接近セシムルノ件ニ付テハ戦争開始以来露国当局ヨリ頻次内談アリタルトコロナルカ帝国政府ニ
後処理の段階を待つことなく、日露同盟の早急なる実現を果たすとの旨が決定された。
₉₂
スルニ際シテハ進ンテ露国ト新ナル協議ヲ為スコトヲ辞セサルヘク而シテ之カ為ニハ必シモ戦後ノ時機ヲ待ツニ及ハスト
考量スル
₉₃
第一条
両締盟国ハ支那国カ締盟国ノ一方又ハ双方ニ対シテ侵略ノ趨向ヲ有スル第三国ノ政事的掌握ニ帰スルカ如キ事態
秘密協約案
第二条
両締約国ハ孰レモ他ノ一方ニ対シ侵略的目的ヲ有スル何等ノ協定又ハ聯合ノ当事国トナラサルコトヲ約ス
ニ於ケル一切ノ平和手段ヲ尽シテ相互ニ友好的ノ援助及協力ヲ為スヘキコトヲ声明ス
第一条
両締約国ハ極東ノ地域ニ於ケル両締約国ノ領土権及特殊利益ヲ保全セムカ為何時ニテモ必要ノ場合ニハ其ノ権内
公開協約案
効果アリタリ﹂と所感を述べた上で、ロシア政府と交渉すべき日露協約案について以下のように電訓した。
閣 議 終 了 後、 石 井 は 本 野 駐 露 大 使 に 、
﹁露国皇帝御名代ノ我帝室御訪問ハ日露両国ノ関係ヲ一層親善ナラシムルノ
こうして、ゲオルギー訪日を機に、日本政府は日露同盟実現に向けて国を挙げて取り組むこととなる。一五日の
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
259
ヲ以テ締盟国各自ノ緊切ナル利益ニ対スル侵迫ト認ム
第二条
両締盟国ハ支那国ニ於テ前条ニ記述セル事態ノ発生スルコトヲ防止センカ為必要ニ応シテ随時隔意ナキ意見ノ交
換ヲ行ヒ双方ノ執ルヘキ措置ヲ共同ニ考量スヘシ
第三条
締盟国ノ一方カ第二条ノ規定ニ依リ双方合意ノ上ニテ執リタル措置ノ結果第一条ニ記述セル第三国ト交戦スルニ
至リタル時ハ他ノ一方ハ請求ニ基キ其同盟国ニ援助ヲ与フヘク此ノ場合ニ於テハ講和ハ双方合意ノ上ニ非ザレバ之レヲ
為サズ
第四条
両締盟国ノ一方カ第三条ノ規定ニヨリ他ノ一方ニ兵力的援助ヲ与フヘキ条件及其ノ援助実行ノ方法ハ両締盟国当
該官憲間ニ於テ協定スベシ
第五条
本協約ハ調印ノ当日ヨリ直ニ実施シ
年間効力ヲ有ス
第六条
両締盟国ハ本協約ヲ厳ニ秘密ニ附スヘシ
政府ハ到底松花江以北ノ鉄道譲渡ヲ承諾セサルベシト確信スルニ付帝国政府ニ於テハ右ヲ前提トシテ本問題ニ対シ
ニ至ルコトナキヤヲ虞ル故ニ露国政府ハ到底松花江以北ノ鉄道譲渡ヲ肯ンスルコト能ハスト断言セリ案スルニ露国
は、
﹁今露国勢力範囲内ニ在ル鉄道ヲ日本ニ譲渡スルカ如キハ日露協約ノ本旨ニ悖リ或ハ両国親善ノ基礎ヲ動カス
相 当 代 償 ヲ 以 テ 日 本 ニ 譲 渡 ﹂ す る と 語 っ て い た も の の、 三 月 一 三 日 に 行 わ れ た 本 野 大 使 と の 会 談 で サ ゾ ノ フ 外 相
ての最大の懸案として問題視されていた。当初、ロシア側は鉄道譲渡問題に関して、
﹁ 東 支 鉄 道︵ 長 春 松 花 江 ︶ ヲ
賛 成 す る が 、 日 本 が 対 露 武 器 援 助 に 対 す る 条 件 と し て 提 案 し た 東 支 鉄 道 の 松 花 江 以 北 の 譲 渡 問 題 が、 ロ シ ア に と っ
ア外務省は日本側からの新協約締結の提議に対する回答を行った。この回答では、ロシアは日本との同盟締結には
₉₆
これを受けた本野は、一八日、サゾノフ外相と面会して、上記の協約案を提示した。二五日および二六日、ロシ
₉₅
₉₄
260
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
更ニ御考量ヲ加ヘ御詮議相成様致シタシ﹂と述べて、鉄道の譲渡を拒否するという態度に出た。
やくロシア皇帝からの了解を取りつけたとして、サゾノフ外相からの返答を得ることができた。
との妥協案を提示した。松花江以南の東支鉄道譲渡という日本側の大幅な譲歩に対して、六月一二日になってよう
委任スルコトヲ承諾シ⋮[中略]且ツ︵三︶日本船舶ノ松花江ヲ航行スルノ権利ヲ露国政府ニ於テ認諾スルコト﹂
停車場以南︶ノ鉄道ヲ日本ニ譲渡スルコト及︵二︶松花江哈爾賓間ノ鉄道ノ管理経営全権ヲ相当条件ノ下ニ日本ニ
松花江以北の鉄道譲渡をロシアから拒否された本国の石井は、その代案として、
﹁︵一︶松花江以南︵即チ陶頼昭
₉₇
₉₉
₉₈
答したが、こうしたやり取りは、英仏などの連合国も日本の対独戦への一層のコミットメントを期待していたこと
に 参 加 し て い た 松 井 慶 四 郎 駐 仏 大 使 は 、 す で に 大 砲 か ら 小 銃 に 至 る ま で、 か な り の 援 助 を ロ シ ア に な し て い る と 返
送るだけの余裕がないため、日本ができる限り対露援助を行ってほしいとの要請がなされた。日本全権として会議
鎖を一層強化する旨の決議が採択された。くわえて、ロシアに対し、欧州の連合国各国からは北洋を回って兵器を
め、連合国はこの現状を克服しなければならない。そのための手段のひとつとして、連合国共同による対独経済封
本の兵器援助に一層期待する声が挙がっていた。現状として、ドイツの兵器製造能力に英仏が追いついていないた
日露間の交渉が進められる一方、三月二七日および二八日にフランスで開催された連合国会議では、各国から日
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
を伺わせる。
100
の調整も終了した後の六月二六日、英仏にその内容を開示し、支持を取りつけた。英仏からの理解を得た直後、石
日露交渉に話を戻すと、ロシアが東支鉄道の譲渡問題について日本の妥協案を認めたため、協約文に関する両国
261
よう訓令している。ロシア側からは二九日、本野を経て石井にその返答が伝えられた。その内容は、ロシアのサゾ
井は本野に新日露協約の調印を七月一日とし、日露両政府による公式発表を同日に行うようロシア側と調整を行う
101
ノフ外相が、調印に関する電訓が行き違う可能性を考慮して、調印は七月三日、公表協文の発表を六日に行うとい
102
うものであり、本野との調整でこのロシア案が最終的に採用されることとなった。
103
決定された。
ノ平和ハ之ニ依リテ確保セラルルナラムト信ス﹂との所感が発せられ、全会一致でもって第四回日露協約の締結が
ら、
﹁今回ノコトハ実ニ外交史上稀ナル事例トス深ク成功ヲ謝ス此レ本員ノミナラス他ノ諸君モ皆同感ナラム東洋
べることで、日露新協約で得られる利益を強調することで出席者の賛同を得ている。会議の最後は、金子堅太郎か
償 と し て 松 花 江 以 南 の 東 支 鉄 道 の 利 権 を 確 実 に 得 ら れ る︵ こ の 時 点 で は 、 ま だ 確 証 さ れ て い た わ け で は な い ︶ と 述
助︶ナキモノトス﹂と述べて新協約発効に伴う日本の負担についての条件を強調したり、また、対露武器援助の代
英同盟の効力についてはこれを認めながらも、
﹁ 英 国 ヨ リ 相 当 ノ 援 助 ヲ 与 フ ル ノ 保 障 ナ キ ト キ ハ 右 ノ 義 務︵ 対 露 援
の関係を進展させる必要性から、今回の日露新協約成立に至ったと説明をしている。さらに、石井は、あくまで日
近スルニ至レリ﹂と、対露武器援助の成果を評価しつつ、独露間の講和締結を阻止するためにも、日露がより一層
こ の 会 議 で 石 井 は、
﹁今回ノ欧州戦争ノ為メ日本ヨリ露国ニ武器ヲ供給スル等赤誠ヲ示シタル結果日露両国ハ遍接
協定の公表時期の調停と並行して、日本側は二九日に枢密院会議を開催し、日露協約に関する採択が行われた。
262
104
国の中国本土における利益を﹁緊切なる利益︵ vital interest
︶﹂と表現していることからしても、米国という近い将
来 中 国 へ 資 本 進 出 を 行 う こ と が 予 想 さ れ る 新 た な 脅 威 に 対 し て、 日 露 が 互 い に 協 力 し て こ れ を 牽 制 す る 必 要 性 が 明
ではその適用範囲は満蒙に限定されていたが、今回の協約では中国本土にまで及ぶこととなった。さらに、日露両
この新協約を第三回までの日露協約と比較すると、明らかにその範囲が拡大していることがわかる。従来の協約
となった。
の調印が交わされた。続く六日に、日露の軍事同盟を確約した秘密協定を除く公開協文が、世界に公開されること
七 月 三 日、 ロ シ ア の ペ ト ロ グ ラ ー ド に て、 本 野 と サ ゾ ノ フ と の 間 で、 日 露 間 の 軍 事 同 盟 を 含 ん だ 第 四 回 日 露 協 約
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
記されている。また、秘密協文の第二条では、
﹁両締盟国ノ一方ト前条ニ記述セル第三国トノ間ニ宣戦アリタル場
同意アルニ非サレハ講和セサルコトヲ約ス﹂と規定されているように、有事における日露の共同行動︵単独行動の
合ニハ締盟国ノ他ノ一方ハ請求ニ基キ其同盟国ニ援助ヲ与フヘク此ノ場合ニ於テ両締盟国ハ何レモ予メ他ノ一方ノ
105
本外交にとって少なからぬ影響を及ぼすこととなった。
命政府によって転覆されるまでの短期間ではあるが、日本にとっての新たな外交路線となり、東アジアをめぐる日
禁止︶が約されており、両国の関係が一層深化していることはいうまでもない。同協約はこの後、帝政ロシアが革
106
したものの、満足のいく回答はなかった。他方で、ロシアからの武器援助に関する要求は増す一方であった。ロシ
一九一六年九月二日、石井は本野に対して、鉄道譲渡問題に関する早急なるロシア側の回答を得るよう訓令を出
その後もロシアの不履行によって未解決のまま残されていた。
たとおりであるが、日露協約交渉過程で日本側が妥協の末、獲得することになっていた松花江以南の鉄道利権は、
日露同盟成立後も依然として日露間の争点となっていた問題は、東支鉄道の対日譲渡問題であった。すでに述べ
いたわけであるが、皮肉にもこの後、日露同盟が石井の思惑通りに機能することはなかった。
導によって成立に至った。そのプロセスにおいて主要な役割を果たした石井は日露同盟に少なからぬ期待を寄せて
以上の考察からわかるように、第四回日露協約は石井や本野といった外務省内の﹁非英米派﹂に属する官僚の主
(五)日露同盟とその後
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
263
た。石井が日露両国にとって、東アジアにおける利権の調整に大いに貢献すると考えていた日露協約は、実際には
ア は、 鉄 道 利 権 の 譲 渡 を 日 本 の 目 前 に ち ら つ か せ る こ と で、 自 国 の 要 求 で あ る 武 器 援 助 を 通 そ う と す る ば か り し
107
日本にとっては対露譲歩の連続であり、何らの利益をもたらすこともなかった。皮肉にも、石井自身が懸念してい
108
たロシアの国際条約不履行の伝統が、ここでも露呈されただけであった。
感嘆ヲ禁セザルヲ得ズ候
という内容の報告がなされた。第四回日露協約締結の立役者のひとりであり、対露政策では第二次大隈内閣の日露
は鉄道買収の外に左︵軍器および軍需品の対露供給︶までのものなく、其買収も一向に進歩せざるのものの如し﹂
のその後の進展状況について、
﹁同盟の際大層有利なる秘密条約ある様に大隈内閣が云ひ触らしたるは嘘にて、実
一九一七年七月五日の臨時外交調査委員会では、寺内内閣で外務大臣の任に就いていた本野一郎から、日露同盟
への脅威から、一部ではこうした対露警戒を訴える声が存在していたのである。
日露協約の成立後も、ロシアの対日政策は極めて独善的であると判断され、また革命による共産主義思想の流入
109
ト、我ガ帝国ノ刻々猫眼的ニ変更スルガ如キノ比ニアラズ。其機アラバ断ジ、機無キモ手ヲ緩メズ、少シモ油断ナキ所ニ
モ露国ノ態度タルヤ、事ノ大小ニ論ナク、途中仮令一二ノ失敗ニ逢フトモ一退二進、二退三進的ニ真正面ヨリ進前スルコ
著々トシテ東方ノ経営ハ、満蒙ト伊犁・新彊トノ二方面ヨリ進歩ヲ怠ラズ。是レ豈ニ冷視看過スベキモノナランヤ。然カ
露国ハ賭国ノ戦時中ニ加フルニ、大革命アリテ、其本国ノ大騒動ナルニモ関セズ、又タ同盟的日露協約在ルニモ拘ラズ、
わかる。
派 を 中 心 に 構 成 さ れ て い た 国 民 外 交 同 盟 会 の 報 告 で は、 ロ シ ア の 東 進 の 現 状 に 並 々 な ら ぬ 脅 威 を 抱 い て い る こ と が
等では、対露脅威が再燃しつつあったときである。国民党と政友会の右派分子であり、軍部とも関係をもつ対外硬
態が日本国内でも明らかになっていった。政権はすでに次の寺内正毅内閣へと移行していた。特に民間の政治団体
こ う し た 第 四 回 日 露 協 約 の 成 果 に つ い て、 ロ シ ア で 革 命 が 勃 発 し て 帝 政 ロ シ ア が 倒 れ た こ と で 、 よ う や く そ の 実
264
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
110
同盟路線を継承していたはずの寺内内閣の外務大臣が、事実上、日露同盟の成果が挙がっていないことを認めたの
である。元老や石井、本野といった日露提携論者が期待したような、日露同盟による日本の大陸権益の確保および
拡大という構想は、外交協定を履行しないロシアによって反故となってしまった。日本のみが協約で取り決めた対
露武器援助という義務を履行するのみに終始し、利益を得ることができない、ただ日本がロシアに援助を行うため
の協約であったといえる。石井ら﹁非英米派﹂が探究した新たな日本の外交路線は、こうして何らの成果を挙げる
ことなく自然消滅したのであった。
おわりに
では最後に、本稿で考察した議論を総括することで結論としたい。
た研究状況に修正を迫るものであり、本稿の最大の意義もまた、これを目指した点にある。
ものである。こうした﹁非英米派﹂の系譜は、これまでの外務省解釈が﹁国際協調﹂や﹁親英米﹂で一括的であっ
協 調 か ら の 脱 却 を 図 っ て い た こ と と 並 行 す る と い う 事 実 は、
﹁非英米派﹂の政策決定への影響力の程度を示唆する
うことができる。満州事変以降、
﹁非英米派﹂が外務省の傍流から主流へと台頭していく過程が、日本外交の英米
し た こ と は、
﹁ 非 英 米 派 ﹂ 路 線 に よ る 日 露 同 盟 論 が 英 米 協 調 へ の ア ン チ・ テ ー ゼ と し て 登 場 し た も の で あ っ た と い
日露同盟論が志向されたことを本稿では明らかにしてきた。そして、その日露同盟論に石井が同調してこれを推進
迫ったことはもちろんのこと、それにとどまらず、第一次大戦期に日本外交の伝統である英米協調の代替策として
かりを与えることにある。従来、
﹁国際協調派﹂
﹁親英米派﹂といった評価を下されてきた石井の人物像への再考を
はじめにも述べた通り、本稿の最大の目的は、外務省﹁非英米派﹂の系譜とその理念を明らかにする上での手掛
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
265
る。まず、もともとは元老や後藤新平ら非外務官僚のアイディアであった日露同盟論であるが、これに対抗した加
次 に、 従 来 の 研 究 で は 問 題 意 識 の 中 心 に 置 か れ る こ と の な か っ た 石 井 が 日 露 同 盟 成 立 に 果 た し た 役 割 を 振 り 返
ちうる立場に就いたことで、日露同盟論が現実の政策に理念的観点から後押ししていったといえる。
本外交に大きな影響を及ぼすようになっていた。こうした﹁非英米派﹂に属する外務官僚が政策決定に影響力をも
井や本野ら﹁非英米派﹂の主張と結びつくことによって、外務省における傍流であるにもかかわらず、同時期の日
かと思われた大正新時代の政治に逆行するものであった。最後は外交理念の要因であり、これは日露提携論が、石
ていた。これはすなわち、桂園時代という比較的安定した内閣を経て、政党を中心とした政党政治体制が定着する
論 の 有 力 な 担 い 手 で あ る 元 老 の 内 閣 へ の 干 渉 に よ り、 大 隈 内 閣 は 半 強 制 的 に 日 露 接 近 を 進 め な け れ ば な ら な く な っ
国からの要請により、日露関係の進展が望まれるようになっていた。第二は国内政治力学の要因である。日露同盟
があった。第一は国際環境からの要因である。対独戦に苦しむ連合国、とりわけ日本のロンドン宣言加入以後は英
本 稿 で 対 象 と し た 第 一 次 大 戦 期 に 、 日 露 同 盟 と い う 新 た な 外 交 路 線 が 要 請 さ れ た の に は、 大 き く 次 の 三 つ の 背 景
266
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
ン宣言加入のみでは対独戦の成果を十分には保証できず、戦後処理の段階で他の連合国から日本の権益を認めさせ
援助を充実させ、ロシア戦線を立て直し、ロシアの対独戦単独講和を阻止するということである。第二に、ロンド
そ の 日 露 同 盟 に 期 待 し た 役 割 と は 、 主 と し て 次 の 三 点 に 集 約 す る こ と が で き る。 第 一 に 、 日 露 同 盟 締 結 で 対 露 武 器
こうして、元老や軍部らとの調整をとりながら日露同盟問題に取り組んでいった石井であったが、具体的に彼が
ていった。
藤 と は 逆 に 、 内 閣 と 元 老、 軍 部 と の 連 絡 役 と な り、 日 露 同 盟 実 現 に 向 け た 国 内 の コ ン セ ン サ ス 形 成 に 大 き く 関 与 し
し た 情 勢 の な か、 外 務 大 臣 に 就 任 し た 石 井 は 、 元 老 の 日 露 同 盟 論 に 同 調 す る 形 と な り 、 外 交 の 一 元 化 を 目 指 し た 加
藤高明前外相が元老との政争に敗北を喫したため、国内はすでに日露同盟を志向する声が有力となっていた。こう
111
ることができないとの懸念から、英国以外の連合国との同盟締結で自国権益の保護に努めた点である。第三に、日
米 戦 争 の 可 能 性 を 除 外 し て い る 現 行 の 日 英 同 盟 の みに 日 本 外 交 は 依 存 で き な い と い う 日 英 同 盟 と 米 国に 対 す る 不 信
から、日露の提携によって米国を牽制するという点である。
︵ ︶ 信夫清三郎﹃近代日本外交史﹄︵中央公論社、一九四二年︶二三二頁、小林幸男﹁欧州大戦と日本の対露政策﹂日本
注釈
点から重要な意義を有していると結論づけることができるであろう。
史上初めて米国を想定敵国に据え、また英米協調路線に修正が試みられてことは、
﹁非英米派﹂路線の誕生という
着までには至らなかった要因であったといえよう。しかし、このときは定着には至らなかったとはいえ、日本外交
外務官僚がこの時期の外務省では極めて傍流に過ぎなかったことも、外務省内の﹁非英米派﹂による外交路線が定
推進する原敬内閣の登場により、一時的にその道を閉ざされてしまう。また、石井や本野のような﹁非英米派﹂の
すでに述べたところであるが、この﹁非英米派﹂による日露提携路線は、直後のロシア革命と、対米協調外交を
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
267
︵ ︶ 外 務 省 の 伝 統 と し て の 英 米 協 調 主 義 は、 陸 奥 宗 光 や 小 村 寿 太 郎 に 始 ま る 歴 代 の 外 務 大 臣 が こ れ を 自 己 の 政 策 と し て
国際政治学会編﹃国際政治﹄︵二三号、一九六三年︶三七頁。
1
四六〇
四
―六四頁。
の伝統的潮流は、しばしば﹁霞ヶ関正統外交﹂と呼ばれる。石射猪太郎﹃外交官の一生﹄︵読売新聞社、一九五〇年︶
踏襲していった結果、自然と外務省全体の空気となっていったことに由来するとされている。また、こうした外務省
2
こうした正統派の潮流とは逆に、英米との協調路線を見直し、新たな外交基軸を模索しようとする路線を、本稿では﹁非
英米派﹂と呼ぶこととする。
︶ バ
一九一四
University of Microfilms International, 1985
; ールィシェフ・エドワルド﹃日露同盟の時代
Peter A. Berton, The Secret Russo Japanese Alliance of 1916,
日露
――
田中直吉﹁日露協商論﹂植
, Chap. VI;
Ernest Batson Price, The Russo―Japanese Treaties of 1907
︶
Johns Hopkins Press, 1933
︵ ︶ 第 四 回 日 露 協 約 の 成 立 過 程 を 扱 っ た 代 表 的 な 研 究 と し て、
︵ Baltimore
1916 Concerning Manchuria and Mongolia
Ann Arobor
一
―二〇頁。
︵ ︶ イアン・ニッシュ/宮本盛太郎監訳﹃日本の外交政策
一八六九∼一九四二年
書房、一九九四年︶一一九
策に関する一考察︵Ⅰ ︶∼︵Ⅲ ︶
日本外交
一九〇〇∼一九一九﹄︵勁草書房、
――
て提携国としての重要度の違いは認識していたはずである。第四回日露協約の成立過程では、元老ら日露同盟論者は日
日本は必ずしもこうした列強を同等に見ていたわけではなく、各アクターによって認識の差異はあるものの、日本にとっ
一九一七年の石井・ランシング協定によって英米仏露との﹁多国間同盟・協商網﹂が完成したとされている。しかし、
なお、千葉の研究では、第四回日露協約は、日英同盟や日仏協約と並んで、日本の旧外交の一翼を担うものであり、
二〇〇八年︶三〇七 三
―一四頁。
︵四七六∼四七八号、二〇〇六年四月∼六月︶、千葉功﹃旧外交の形成
ロンドン宣言加入問題及び第四回日露協約締結交渉を中心に﹂
﹃政治経済史学﹄
――
︵ ︶ 比較的近年の研究である大井涼や千葉功の研究でも、こうした石井評は踏襲されている。大井涼﹁石井外交の対露政
霞が関から三宅坂へ﹄︵ミネルヴァ
――
﹁例外的な友好﹂の真相﹄︵花書院、二〇〇七年︶、などがある。
――
︵ ︶ 芦田均﹃革命前後のロシア﹄︵自由アジア社、一九五八年︶一五七頁。
∼一九一七年
︵
戦後からロシア革命まで﹄︵原書房、一九六八年︶第四章、
田捷雄他編﹃神川先生還暦記念
近代日本外交史の研究﹄︵有斐閣、一九五六年︶、吉村道男﹃日本とロシア
3
4
5
6
268
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
英同盟よりも日露同盟を優先させるべきと考えていたし、フランスにおいてはほとんど日本の利害と無関係であった。
す な わ ち 、 少 な く と も 第 二 次 大 隈 内 閣 期 に 関 し て は、 日 本 外 交 は そ の 外 交 基 軸 を 日 英 同 盟 か ら 日 露 同 盟 へ と 移 行 さ せ よ
うとしていたのであり、それは列強国間との﹁多国間同盟・協商網﹂と言い得るものではなかった。
︵ ︶ 鹿島平和研究所編﹃石井菊次郎遺稿
外交随想﹄
︵鹿島研究所出版会、一九六七年︶三〇六頁。読みやすさを考慮して、
人と機構﹂細
――
政府首脳と外交機関﹄︵東京大学出版会、
――
白鳥敏夫の皇道外交論﹂日本国際政治学会編﹃国際政治﹄︵七一号、一九八二年︶、同﹁外務省﹃革新派﹄と
――
大陸侵攻と戦時体制﹄︵第一法規、一九八三年︶、同﹁外務省革新
――
近代日本研究の検討
――
世界新秩序の幻影﹄
︵中公新書、二〇一〇年︶、
――
塩崎弘明﹁外務省革新派の現状打破認識と政策﹂近代日本研究会編﹃年報・近代日本研究一〇
国際秩序の﹃革新﹄
――
新派の情勢認識と政策﹂
﹃日本歴史﹄︵四九三号、一九八九年六月︶
。
二
―一頁、前掲﹃外務省革新派﹄第一章。
︵ ︶ 酒井哲哉﹁﹃英米協調﹄と﹃日中提携﹄﹂近代日本研究会編﹃年報・近代日本研究一一
一九八九年︶六二 六
―三頁。
︵ ︶ 伊藤隆﹃近衛新体制﹄︵中公新書、一九八三年︶一六
協調政策の限界﹄
︵山川出版社、
――
化をめぐって﹂有馬学・三谷博編﹃近代日本の政治構造﹄︵吉川弘文館、一九九三年︶、田浦雅徳﹁昭和十年代外務省革
と課題﹄︵山川出版社、一九八八年︶、同﹁
﹃パックス・アングロ・サクソニカ﹄と外務省革新派
派と新秩序﹂三輪・戸部編﹃日本の岐路と松岡外交﹄、同﹃外務省革新派
軍部﹂三宅正樹編集代表﹃昭和史の軍部と政治二
の探究
鳥敏夫と﹃皇道外交﹄﹂
﹃防衛大学校紀要
人文・社会科学編﹄︵四〇号、一九八〇年︶、同﹁外交における﹃思想的理拠﹄
一九七一年︶、戸部良一﹁白鳥敏夫と満州事変﹂
﹃防衛大学校紀要
人文・社会科学編﹄︵三九号、一九七九年︶、同﹁白
谷千博・斎藤真・今井清一・蝋山道雄編﹃日米関係史
開戦に至る十年一
︵ ︶ 特に過激であった﹁革新派﹂官僚に関する研究に限って、以下の文献を挙げる。臼井勝美﹁外務省
旧字体は新字体に改めた。以下同じ。
7
8
9
10
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
269
︵ ︶ 同右、九五頁。括弧内は引用者。
二
―一九頁。
︵ London
Ian Nish, The Origins of the Russo⊖Japanese War
︵ ︶ 日露開戦外交に関する主な研究としては、角田順﹃満州問題と国防方針
書房、一九六七年︶
、
︶伊
Longman, 1985
; 藤之雄﹃立憲国家と日
内政と外交
一八九八∼一九〇五﹄︵木鐸社、二〇〇〇年︶、などを参照。なお、近年の研究では、日露主戦
――
︵ ︶ 一九〇六年一月、第一次桂内閣の総辞職に伴い、外相を辞任。駐英特命全権大使に就任し、一九〇八年八月二七日に
論と日露協商論との間に本質的差異はなかったとする見解も提示されている︵千葉、前掲書、第Ⅱ部︶
。
露戦争
明治後期における国防環境の変動﹄︵原
――
︵ ︶ 近衛文麿﹁英米本位の平和主義を排す﹂
﹃日本及日本人﹄︵七四六号、一九一八年一二月一五日︶二六頁。
︵ ︶ 谷寿夫﹃機密日露戦史﹄︵原書房、一九六六年︶八四頁。
︵ ︶ 黒木勇吉﹃小村寿太郎﹄︵図書研究社、一九四二年︶二一八
11
12
13
14
15
︵ ︶﹁明治四十三年海軍軍備充実ノ議﹂︵
﹁斎藤実関係文書﹂国立国会図書館憲政資料室所蔵︶
。
第二次桂内閣の外相に就任するまで、外交の第一線から一時退くこととなった。
16
︵ ︶
18
19
︵ ︶
21
on the Origins of the War, 1898⊖1914, Vol.︵
IV London
一
―一六頁。
陸海軍国防思想の展開と特徴﹄︵総和社、
――
︶
Thomas Nelson & Sons, 1963
︶ , pp. 64⊖65.
His Majesty s Office, 1929
︵ London
George Monger, The End of Isolation: British Foreign Policy, 1900⊖1907
︵ ︶ 松本、前掲書、一一四
20
, p. 281.
Sir MacDonald to the Marquess of Lansdowne, November 13, 1904, G. P. Gooch, and Harold Temperley eds., British Documents
︵ ︶ 松本忠雄﹃近世日本外交史研究﹄︵博報堂、一九四二年︶一一九頁。
二〇〇〇年︶一一八頁。
リックに過ぎなかったことは確かである。黒野耐﹃帝国国防方針の研究
もっとも、こうした海軍の米国を想定敵国に据えて軍拡を主張したのは、陸軍との予算獲得競争を勝ち抜くためのレト
17
270
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
︵ ︶ 古屋哲夫﹃日露戦争﹄︵中公新書、一九九七年︶二三五
一
―二二頁。
て、その意義は高まっていった。
二
―三六頁。
︵ ︶ たとえば、北岡伸一﹃日本陸軍と大陸政策﹄︵東京大学出版会、一九七八年︶二一
︵ New York
Leo Pasvolsky, Russia in the Far East
二
―二頁。
︶
Macmillan Company, 1922
, p. 46.
︵ ︶ 第一回日露協約の秘密協定文は、締結当初は有用なものではなかったものの、ロシアが再度国力を増大させるにつれ
︵ ︶ 松本、前掲書、一二一
22
23
24
25
︵ ︶
一
―七頁。
︶
F. A. Stokes, 1928
︵ ︶ 外務省編﹃日露交渉史﹄︵下巻、原書房、一九六九年︶二六四頁。
, pp. 46⊖47.
九月二六日加藤外務大臣・在本邦仏国大使会談﹃外文﹄大正三年第三冊、六一七 六
―一八頁。
︵ ︶ 一九一四年九月一七日在英国井上大使ヨリ加藤外務大臣宛﹃外文﹄大正三年第三冊、六一五
31
32
︵ ︶ 一九一四年八月三一日在浦潮野村総領事代理ヨリ加藤外務大臣宛﹃外文﹄大正三年第三冊、二二九
33
34
, pp.
二
―三五頁。
二三〇頁。括弧
―
六一六頁、一九一四年
―
︵ ︶ 一九一四年九月一五日加藤外務大臣ヨリ在露国本野大使宛﹃外文﹄大正三年第三冊、六一二頁。
︵ New York
Sergei Sazonov, Fateful Years, 1909⊖1916
︵ ︶ 一九一四年八月一〇日在露国本野大使ヨリ加藤外務大臣宛﹃外文﹄大正三年第三冊、六〇五
以下﹃外文﹄と略記︶一六
28
29
30
六
―〇七頁。
︵ ︶ 一九一四年七月二七日在露国本野大使ヨリ加藤外務大臣宛、
外務省編﹃日本外交文書﹄
︵大正三年第三冊、一九六六年、
︵ ︶ 伊藤六十次郎﹃機密文書でつづるロシアの太平洋侵略史﹄︵日本生活問題研究所、一九八〇年︶二三一
153⊖154.
︵ Columbus
Paul Hibbert Clyde, International Rivalries in Manchuria, 1689⊖1922
ではないと述べており、その実効力の限界を指摘している。
︵ ︶
26
27
︶
Ohio State University Press, 1928
もっとも、北岡はこの協約を、日露関係改善には成功したが、満州権益をめぐる対清交渉能力の向上に結びついたわけ
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
271
内は引用者。
︵ ︶ 一九一四年一〇月二六日在露国本野大使ヨリ加藤外務大臣宛﹃外文﹄大正三年第三冊、八六
︵ ︶ 前掲﹃日露交渉史﹄下巻、二六八頁。
35
八
―七頁。
︵ ︶ 岡市之助宛加藤高明書翰︵
﹁岡市之助関係文書﹂国立国会図書館憲政資料室所蔵、以下﹁岡文書﹂と略記︶
。
36
二五
︵ ︶
二
―六頁。
, Chap. V.
Berton, The
︵ London
Frederic Coleman, The Far East Unveiled: An Inner History of Events in Japan and China in the Year 1916
︶
and Company, 1918
また、このようなメディアの日露同盟への傾斜の背景には、井上馨の圧力があった可能性が指摘されている。
Secret Russo⊖Japanese Alliance of 1916, p. 96.
一二五
41
︵ ︶ 一九一六年二月二六日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二八頁。括弧内は引用者。
一
―二六頁。
︵ ︶ 一 九 一 六 年 二 月 二 一 日 本 野 大 使 発 石 井 外 務 大 臣 宛 電 報 日 露 同 盟 公 表 協 約 本 野 大 使 私 案﹃ 外 文 ﹄ 大 正 五 年 第 一 冊、
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一五年六月二四日付︶
。
40
Cassell
︵ ︶ 松方正義宛本野一郎書翰、大久保達正監修﹃松方正義関係文書﹄︵第八巻、大東文化大学東洋研究所、一九八七年︶
37
38
39
272
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一六年七月一五日付︶
。
42
一
―〇五頁。
︵ New York
James William Morley, The Japanese Thrust into Siberia, 1918
一〇四
︵ ︶
︵ ︶ 久保田貫一郎編﹁石井子爵日記﹂
﹃国際問題﹄︵六七巻、一九六五年一〇月︶六〇 六
―一頁。
︶
Columbia University Press, 1957
, p. 54.
︵ ︶ 松本忠雄﹁欧戦初期の日本外交秘史︵露仏交々日本を誘つた時代︶﹂
﹃外交時報﹄︵五六巻四号、一九三〇年一一月︶
43
44
45
46
︵ ︶ 大浦事件の概要に関しては、小原直﹃小原直回顧録﹄︵中公文庫、一九八六年︶八三
一
―〇四頁。
九
―二頁、などを参考。
議 会・ 文 明 を 中 心 と
――
︵ ︶ 一九一五年八月一一日井上馨宛望月小太郎書翰、
山本四郎編﹃第二次大隈内閣関係史料﹄
︵京都女子大学、一九七九年、
︵ ︶ 同右、一〇三
して﹄︵早稲田大学出版部、一九八九年︶一二三頁。
︵ ︶ 勝田政治﹁第二次大隈内閣と憲政会の成立﹂早稲田大学大学史編集所﹃大隈重信とその時代
47
48
49
︵ ︶ 一九一五年八月三日井上馨宛望月小太郎書翰﹃大隈史料﹄二八四
︵ ︶ 一九一五年八月七日井上馨宛望月小太郎書翰﹃大隈史料﹄二九〇頁。
二
―八六頁。
︵ ︶ 外務省百年史編纂委員会編﹃外務省の百年﹄︵上巻、原書房、一九六九年︶六一七頁。
以下﹃大隈史料﹄と略記︶二九九 三
―〇〇頁。
50
51
52
︵ ︶ 中村尚美﹁第二次大隈内閣
一九八一年︶二二八頁。
七
―〇頁。
︵ ︶ 石井菊次郎﹃外交余録﹄︵岩波書店、一九三〇年︶一一八
︵ ︶ 同右、一一七頁。
波多野勝﹃近代東アジアの政治変動と日本の外交﹄︵慶應通信、一九九五年︶一八五
︵ ︶ 石井菊次郎﹁大戦争外交の一節﹂
﹃外交時報﹄︵一九二八年一月新春倍大号︶二四
二
―六頁。
二
―〇五頁、などを参照。
︵ ︶ 加藤の参戦外交に関しては、長岡新次郎﹁欧州大戦参加問題﹂日本国際政治学会編﹃国際政治﹄︵六号、一九五八年︶、
一
―一九頁。
︵ ︶ 長岡新次郎﹁石井菊次郎と中国問題﹂
﹃中央公論﹄︵一九六五年一月号︶三六〇頁。
︵ ︶﹁石井外相論﹂
﹃中央公論﹄︵一九一六年二月号︶五六
中国侵略の起点をつくった内閣﹂林茂・辻清明編﹃日本内閣史録﹄
︵第二巻、第一法規、
――
︵ ︶ 前掲﹃外務省の百年﹄上巻、六一七 六
―一八頁。
53
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55
56
57
58
59
60
61
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
273
︵ ︶ 前掲﹃外交余録﹄一一八頁。
︵ ︶ 田中、前掲論文、三五〇 三
―五一頁。
62
︵ ︶ 大隈侯八十五年史編纂会編﹃大隈侯八十五年史﹄︵同編纂会、一九二六年︶三三二 三
―三三頁。
63
︵ ︶ 一九一五年一〇月一三日在英国井上大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正四年第三冊、七六頁。
64
︵ ︶ 一九一五年一〇月一八日在英国井上大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正四年第三冊、七六頁。
65
︵ ︶ 前掲﹃外交余録﹄一一九頁。
︵ ︶ ブレスト・リトフスク講和条約は、革命後のロシアがレーニン︵
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一五年一一月二八日付︶
。括弧内は引用者。
講和﹂神川彦松編﹃立教授還暦祝賀
外交史論文集﹄︵有斐閣、一九三四年︶二九一頁。
締結された。これにより、ロシアは第一次大戦から離脱することとなる。芦田均﹁ロシア革命とブレスト・リトフスク
休戦交渉が開始された。一二日に休戦条約に調印がなされ、これを基にして翌一九一八年三月三日に正式に講和条約が
と平和の提議を試みた。二九日に中央帝国側はこのレーニンの提案に応じ、一二月三日よりブレスト・リトフスクにて
を取り決めた条約である。一九一七年一一月二〇日および二八日の二回にわたって、レーニンはすべての交戦国に休戦
︶の主導により、交戦国との間で休戦
Vladimir Lenin
︵ ︶ 一九一五年一〇月一九日在英国井上大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正四年第三冊、七七頁。
66
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68
69
︵ ︶
︵ ︶ 石井菊次郎述﹃外交回想断片﹄︵金星堂、一九三九年︶二八頁。
Berton, The Secret Russo-Japanese Alliance of 1916, p. 254.
︵ ︶ 伊藤正徳編﹃加藤高明﹄︵下巻、加藤伯伝記編纂委員会、一九二九年︶一一一 一
―一二頁。
70
71
72
︵ ︶ 一九一五年秋から冬にかけての欧州戦局は、ドイツに有利に動いていた。ロシアに対してドイツは、ペルシャ、アフ
73
ガニスタン、トルキスタンから中国にわたって包囲していたため、ロシアは進退両難に陥っていた。
74
274
神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
︵ ︶ 前掲﹃外交回想断片﹄二六
三
―〇頁。
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一五年一〇月三一日付︶
。
からではとても判断できない。
︵ ︶ 日露協会は、一九〇二年に元外務大臣の榎本武揚を会頭として設立された、ロシアと友好の意義を理解し、そのため
三四頁︶
。 石 井 の 対 露 観 は、 そ の 著 作 の み
―
二八五頁︶、外相期の日露同盟問題に関しては、
―
そ の 誘 因 を 直 接 関 係 な い ロ シ ア の 国 内 問 題 に 摩 り 替 え て い る︵ 同 右、 三 〇
の条約や協定の締結に批判的であるにもかかわらず︵同右、二六六
六〇頁︶
。こうした経験からしても、石井は、
﹁歴史は繰り返す﹂とのビスマルクの格言を自身の教訓として、ロシアと
から韓国にまで勢力を伸張していたロシアへの不信から、ロシアとの間での国際協定は無意味であった︵同右、五八︲
つまり、小村・ロバノフ条約︵一八九六年六月九日︶や西・ローゼン協定︵一八九八年四月二五日︶を無視して、満州
博文や井上馨など、日英同盟に反対して日露協定を主張した勢力に対する批判として、石井は次のように語っている。
しかし、石井はその対露観に関して、同著のなかで重大な矛盾を露呈している。第一回日英同盟締結問題に際し、伊藤
75
76
ロシア側新資料に基づく新見解﹄︵藤原書店、二〇〇九年︶六八頁。
――
︵ ︶ バールィシェフ、前掲書、一五七
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一五年一二月二九日付︶
。
一
―六〇頁。
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一五年一〇月二〇日付︶
。
露関係史
頭を務めたが、実際の運営は、副会頭の後藤新平が担っていた。ワシーリー・モロジャコフ/木村汎訳﹃後藤新平と日
旨に賛同した人々が参加し、設立時には伊藤博文もメンバーに加わった。一九一〇年以降は、朝鮮総督の寺内正毅が会
に働く用意のあった各界の著名人が集結して設立された機関であった。政治家、貴族、外交官、学者のなかからその趣
77
78
79
︵ ︶﹁日露益々親和﹂
﹃中央公論﹄︵一九一六年二月号︶一六頁。
80
81
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
275
︵ ︶ 浅田江村﹁時事小観﹂
﹃太陽﹄︵一九一六年二月号︶一七
︵ ︶﹃東京朝日新聞﹄︵一九一六年一月三日付︶
。
82
︵ ︶ 同右、一九一六年一月七日付。
83
︵ ︶ 前掲﹃外務省の百年﹄上巻、六二一頁。
84
一
―九頁。
︵ ︶ 一九一六年一月一四日コザコフ、石井外務大臣会談﹃外文﹄大正五年第一冊、一一三頁。
85
︵ ︶ 一九一六年一月二〇日石井外務大臣、コザコフ会談﹃外文﹄大正五年第一冊、一一四頁。
86
︵ ︶ 同右、一一七頁。
87
︵ ︶ 岡市之助宛石井菊次郎書翰︵
﹁岡文書﹂︶
。
88
︵ ︶ 一九一六年二月一四日石井外務大臣ヨリ在露国本野大使宛
﹃外文﹄大正五年第一冊、一一九−一二〇頁。ルビは引用者。
89
毅日記
一
―九〇〇∼一九一八﹄︵京都女子大学、一九八〇年︶六九〇頁。
︵ ︶ 岡市之助宛石井菊次郎書翰︵
﹁岡文書﹂︶
。
︵ ︶ 同右。
︵ ︶ 一九一六年二月一五日石井外務大臣ヨリ在露国本野大使宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二一
一
―三〇頁。
︵ ︶ 一九一六年二月二六日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二七
二月二七日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二九
︵ ︶ 一九一六年三月二〇日石井外務大臣ヨリ在露国本野大使宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一三三
一三四頁。大括弧内は
―
︵ ︶ 一九一六年三月一四日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一三三頁。
一二八頁、一九一六年
―
︵ ︶ 一九一六年二月一九日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二四頁。
一
―二三頁。
︵ ︶ 一九一六年二月一四日石井外務大臣ヨリ大山公、松方侯宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一二〇頁、山本四郎編﹃寺内正
90
91
92
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94
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神 戸 法 学 雑 誌 60巻 1 号
第四回日露協約と英米協調路線の再考 ― 石井菊次郎を中心に ―
277
引用者。
一五六頁、一九一六年
―
︵ ︶ 一九一六年六月一二日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一五二頁。
八
―九頁。
一
―五七頁。
︵ ︶ 一九一六年六月二七日石井外務大臣ヨリ在露国本野大使宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一五七頁。
六月二六日在英国井上大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一五六
︵ ︶ 一九一六年六月二六日在仏国松井大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一五五
︵ ︶ 松井明編﹃松井慶四郎自叙伝﹄︵刊行社、一九八三年︶八八
99
100
101
︵ ︶ 大正五年六月二十九日日露協約ノ件筆記︵国立公文書館所蔵、
︵ ︶ 一九一六年九月二日石井外務大臣ヨリ在露国本野大使宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一七一頁。
︵ ︶ 一九一六年一二月七日在本邦露国大使ヨリ本野外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一七六
︵ ︶ 原奎一郎編﹃原敬日記﹄︵第七巻、乾元社、一九四六年︶一九六
一
―九七頁。括弧内は引用者。
︵ ︶ 後藤の対露政策について扱った研究は枚挙に暇がないが、代表的なものとして、北岡伸一﹃後藤新平
最新の研究として、モロジャコフ、前掲書、を参照。
ジョン﹄︵中公新書、一九八八年︶、鶴見祐輔/一海知義校訂﹃正伝
後藤新平﹄︵四巻、藤原書店、二〇〇四年︶、また
外交とヴィ
――
︵ ︶﹁国民外交同盟報告﹂山本四郎編﹃寺内正毅内閣関係史料﹄︵上巻、京都女子大学、一九八五年︶六一四頁。
一
―八〇頁。
第一次世界大戦参加及び協力問題﹄︵第一〇巻、鹿島研究所出版会、一九七一年︶三六九頁。
――
︵ ︶ 外務省編﹃日本外交年表竝主要文書﹄︵上巻、日本国際連合協会、一九五五年︶四二〇頁。
︵ ︶ 鹿島守之助﹃日本外交史
︶
。引用文中の括弧内は筆者。
A03033607200
︵ ︶ 一九一六年六月二九日在露国本野大使ヨリ石井外務大臣宛﹃外文﹄大正五年第一冊、一六〇頁。
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