積 雪寒 冷 農業 地 域の 観光 化 現 象 一 長 野 県 白 馬 村 の 場 合を 中 心 に ー 浅 川 伶 子 域と密接な関係を もって発展しつつある積雪寒冷農業 地域 の民 宿を 中心とした観光 導入 の実態調査の結果を まとめた 1。 序 ものである。民 宿とは,積雪寒冷農業地域において ,農家 観光 ブームという言葉 は,既に耳新しくない 。工業 化の 比較的 困難な地域において ,観光は地域発展の為の1 つ の が,スキー客や登山客に宿を提供するものをいう 。 第1図は,日本交通公社の資料゛スキースケート情報− 魅力ある産業として注目されるようになった。都市化 ,工 業化が進みつつある如 く,ここに観光ブ ームにのって ,多 195ー"による本州120のスキー場の分布図で,各スキー くの地域の「 観光化」がおし進められているのも見逃せ な 場の宿泊施設の民 宿の有無で旅館型と民宿型 スキー場 に分 い 事実である。そして多 くの資本が観光産業 に投下 され, 類した。これによ れば民宿型 スキー場は中部地方 ,及び関 新しい 観光地を 生み,又 観光地は拡大されつつあ る。し か 西のスキー場 に集中している。これ等の内,野外調査を し しかような「観光化現象」は,該当地域とど のような結 び たのは,菅平と大糸線沿線の白馬だけであるが,白馬 山麓 つきがあり ,地域の発展とどのような関連 があ るかは,疑 には ,非常に大規模な民宿を 認め,現地調査には白馬を選 問 であ る。 び,一方全国的視野で民宿現象を 概観する為,本州29の民 宿型スキー場地域(長野県北安曇郡白馬村内スキー場 は除 この論文 は,こ のような疑問 に始 まり,比較的観光が地 第1図 本州スキー場分布図 凡 例 旅館型 スキー場 民 宿型 スキー場 鉄 道 線 資料 日 本交通公社 ″スキー・スケート情報 ー 1 9 5 9 - ″ 32 く)の配票調査を行なった。この配票調査の回答を得た地 落の内,3部落を抽出し,(抽出法は,第3項,民宿と農 業,参照)この3部落の民宿の50%を目標に関取調査を行 域,未回収地域の一覧 表が第1 表であ る。 第1 表a 調 査 票 回 収 地 域 1 浦 佐 ス キ ー 場 2 塩 沢 〃 〃 塩沢町 3 中 之 島 〃 〃 〃 〃 姥 島 4 石 〃 〃 〃 〃 関 山 5 湯 沢 〃 〃 〃 湯沢町 6 中 里 〃 〃 〃 7 岩 原 〃 8 飯 山 〃 9 太 田 〃 〃 土 樽 〃 〃 〃 〃 長 野県 飯 山市 太 田 赤 倉 〃 新 潟県 中 頸城 郡 妙 高 々原 町 赤 倉 11 池 ノ 平 〃 〃 〃 〃 池 ノ 平 12 南 小 谷 〃 14 マ キ ノ 〃 〃 〃 〃 京 都 府 宮 津市 兵 庫県 城 崎 郡 日高 町 代 〃 18 氷 ノ 山 〃 練 の1 つ と し て 日 本 に 取 入 れ ら れ た スキ ーが , 全国 的 に ス ポ ー ツと し て 普 及 し , 学 生 等 が , ス キ ー適 地 附 近 の民 家 に 宿をとる頃に逆のぽる。 第2 表 は , 各 地 の 民 宿 開 始 年 次を まと め た も ので あ る 。 第2 年 次 ー スキ 場 数 昭和 初 年3572111 滋 賀県 高 島 郡 マ キ ノ町 16 神 鍋 〃 小 最 初 に民 宿 の 歴 史を 概 観 す る。 民 宿 と い う こ と が行 われ るよ う に な った の は , 昭 和 初年 で あ っ て , 明 治 末 に軍 隊 教 長 野県 北 安 曇郡 小 谷 村 15 宮 津大 江山 〃 17 2. 民宿の発展過程 〃 〃 10 13 白 馬 大 池 〃 信によ る聞取調査を行なった。 新 潟県 甫 魚 沼 郡 大 和 村 浦 佐 〃 打 ない,他部落に関しては部落代表者に直接面接,電話, 通 23 2728 〃 美 方 郡美 方 町 232 鳥 取県 八 頭 郡 若 桜 町春 米 30 第1 表b 1 菅 平 ス キ ー場 〃 下 高 井 郡 野 沢 温 泉 村 3 黒岩 山 〃 〃 外 様 村 4 大 町 〃 〃 北 安 曇 郡 大 町 市 5 簗 場 〃 〃 〃 〃 6 乗 鞍 〃 〃 南 安 曇 郡安 曇 村 7 藪 原 〃 〃 西 筑 摩 郡 木 祖 村 8 伊 吹 〃 滋賀県坂田郡伊吹村 9 越 畑 〃 京 都市 右 京 区 越 畑 10 大 湯 〃 秋 田県 鹿 角 郡 十 和 田 町 群 馬県 利 根郡 水 上 町 412 ス キ ー 場 名 神 鍋 ,白 馬 南小谷 マキノ 中之島 時 期 別 ス キ ー 導 入 期 石 打 ,湯 沢 岩 原 , 中里 ,赤 倉 白 馬 大池 ,池 ノ平 戦後スキ ー 回復 期 塩 沢 ,飯 山 ,宮 池 大 江 山 , 氷ノ山 小代 浦 佐 ,太 田 ス キ ー大 衆化期 (全国配票調査集計) 長野県小県郡長村 2 野 沢 〃 11 大 穴 〃 3334 調査 票 未 回 収 地 域 表 民 宿 開 始 年 次 これによれば民宿の開始は,時期的に3つに分けることが 出来る。即ち①昭和初年,スキーが全国的に普及したと同 時におこったもの,②戦後,社会状勢の安定と共にスキー も回復した頃のもの,又③この数年来のスキーブ ームの波 にのっておこった地域であ る。これらは,い ずれも急激な スキー客増加により,民家が宿泊施設提供者となったと考 え ることが出来るが,次の第3 表に各民 宿型スキ ー場の開 始動 機をみると,これが明ら かになる。 そしてこれを裏づけるものとして,スキー人 口の推移の曲 線があり,(第2 図 参照)回復期と大衆化期を区別したの 第2 図 ス キ ー 人 口 推 移 末回収11ケ所の内,菅平は一応野外調査しているし,野 沢 ,大 町を除いては,民宿の収容人員が500 人 にみたない ものであ ったり,数 の不明な もので,回答の対象 とならな かったと考え られ,故にこ れで もって,民宿の全国 的概観 を して もさしつかえ ないと 信ず る。 観光地 として白馬を みる時,観光施設分布,観光客分 析 等述べねばならぬことも多い が, ここ では,そ れ等を 省略 し,あくまで 観光 と農業 の併存す る地域の分析を たてまえ に,民 宿に焦点をし ぼった。 尚,白馬 山麓 の現地調査 は,統 計資料の便宜及び,大 規 模民宿型スキー場が村内に含 まれるので ,行政区劃として 長野鉄道管理局資料 の白馬村 に限定した。そして 村内11の民宿を行っている部 33 第 3 表 民 宿 開 始 動 機 (回答原文のまま) 開始 年 次 地 域 昭 和 初年 神 鍋 開 始 動 機 開発 功 労 者 が 大 正 末 期∼ 昭 和 の 初期 ,神 鍋 山 を 開 発 す る に あ た って , 宿泊 施 設が 少 な く ,一 般 民 家 に 簡 易 旅 館を 申請 させ 開 設 さ せ た。 以 後 神 鍋 山 の 開 発 と共 に ス キ ー ヤ ー も年 々増 加 の ―途 を たど り ,ス キ ー ヤ ー の要 望 と と もに 民 家 も 簡 易 旅 館を 開 設す る に至 っ た。 又 現 今 の 様 に 日帰 り 客 も 少 な く 当時170 ∼180 戸 の 簡 易 旅 館 が あ っ た が 昭 和31年 の団 体を 期 に 激 増 し 現 在 で は244戸 に 至 る 。 昭 和 初年 細野 白 馬 落倉 3年 南 小 谷 山 案 内 人 が 客を 自 分 の家 に泊 め たこ と に 始 ま り ,ひ ろ ま っ た。 特 に 地元 の 若 者 に よ る ス キ ー ク ラブ の 結 成 ,ス キ ー 場 開 発 の 為 の 努力 は大 きい 。 従来 丈 余 の雪 に困 っ てい た が ス キ ーの 発 達 に より 広 大 な ス キ ー 場を 利 用 す るこ と を 考 え ,又 来 訪者 もあ り ,ス キ ー場 の 優秀 性 を 認 め ら れ た る に よ る 。 5年 マ キ ノ 附 │ 近 に 旅 館が 少 な く ,而 も 旅 館 の収 容 人 員 が 僅 少 で ス キ ー 客 の 増 加 す る につ れて 宿 泊 の 便 宜 を 計 っ た のが 動 機 。 7年 中 之 島 | ス キ ー が盛 ん に な って 施 設 が出 来 た。 23 年 湯 沢 旅 │ 館 の収 容 力 を こ え て ス キ ー ヤ ーが 来 町 し 旅 館 ス キ ー 協 会 等 の 紹 介で 宿泊 し 始 め たの が 機 縁 で 例年 宿 泊 を 季 節 的 に業 と す る 様に な っ た 。 23 年 石 打 ス │ キ ーが 盛 ん に な っ た ので 施 設 が出来 た 。 27 年 岩 原 中 里 赤 倉 28 年 池 ノ 平 ス キ ー客 の 増 加 によ り 収 容し き れな い た め 。 28 年 白馬 犬 池 従 来 丈 余 の 降 雪を もて あ まし て お っ た の で あ る が ,ス キ ー の発 達と 広 大 な ス キ ー場 が 出 来 , し か も 冬 期 何 等収 入 の道 がな い ため 。 30 年 塩 ス キ ー が 盛 ん にな って ス キ ー施 設 が 出来 た か ら。 30 年 飯 山 全 国 高 校 ス キ ー大 会 が 昭 和31 年 に 当 ス キ ー場 で 行 わ れ旅 館 収 容 人 員 少 な く 民 家 に 分 宿 。 30 年 氷 ノ 山 宿 泊 施 設 が 少 ない ため 。 30 年 宮津大江山 33 年 小 代 ス キ ー 客 の 増加 34 年 大 田 当地 出身 の 在 京 人 に よ り , ス キ ー場 と し て は ,降 雪 が多 く , 冬 期 が長 い ので 好 適 地 で あ る 事 沢 ①ス キ ー 場 の 開設 ⑧ ス キ ー客 誘 致 ③ 農 家 の 現 金 収 入( 最 初 は現 金 収 入 も動 機 で あ っ た が 現 在 は ほ と ん ど 収 益 なし ) が 宣 伝 さ れ ,住 民 も今 ま で 遊 ん で い た ので ス キ ー客 の 民 宿 を 考 え 家 族 的 サ ー ビ ス に よ り 来 客 か ら好 評 を 得 て い る 。 一 面 又 冬 期 副業 ( 経 済的` )と な る 。 34 年 浦 佐 ス キ ー客 が 実 際 に 来 場 す る 現 実を 確 認し て 始 めて 宿 泊 営 業 意 欲 が 出 た 。 全国配票調査集計(1960.5.) ( 昭和 初 期)(2) 戦 後 ス キ ー 回 復 期 発 生( 戦 後 昭 和29 年 迄)(3) は ,30 年を 境 とし て , こ の 曲線 が, 急 勾 配 に な って い る か 部 落 ぐ る み の 民 宿 化( 昭 和30 年以 降) と い う分 類 が 出来 ら で あ る。 る。 白 馬 村 は我 国 で 民 宿を 始 め た最 も古 い 地 域 で , 冬 山 登 山 こ れ は, 部 落 単 位 に 考 え た 場 合 であ る が ,実 際 の民 宿 戸 ③ 数増 加 の 線 を 第6 図(a)に み る と , 急 激 な 増加 は32年 にあ ら 客 が , 地元 の 山案 内人 の 家 に 泊 ま る こと か ら 始 ま って い る 。 こ の 昭和 初 期 か ら の 地元 山案 内 人 を 中 心 と す る民 宿 は , 終 戦 まで は , 八 方 尾 根を 後 に 持 つ 細 野 部 落 と ,広 大 な わ れて い る 。 こ れ は30 年 に民 宿 化 に ふ み き っ た部 落 が ,実 栂 池を バ ッ クに し た新 田 部落 のみ で あ っ た 。 際 に 戸 数 の 上 で 増 加 す る の は32年 で ,(b)図 部 落 別 戸 数 推 移 と こ ろ が戦 後 , 全 国各 地 と同 様 , こ こ へ の ス キ ー客 も急 増 が こ れを 示 して い る。 こ う し た 発 展 の 様 相 は ,民 宿 景 観に 投 影 さ れ る。 白 馬 民 し , (第3 図 参 照 ) 白馬 村 の民 宿 も 細 野 ,新 田を 中 核と し て , 他部 落 へ と 広 が って い く。 ( 第4 ,5 図 参 照` ) そし て 宿 の 中 核 で あ る 細 野 部 落 で は , 特 に そ れ が顕 著 で , 前 記3 注 目す べき は , 第4 表 に み る如 く,30 年以 降 の民 宿 開 始 部 時 代 区 分を 細 野民 宿 の景 観を 中 心 に考 え れ ば , 落 は ,部 落 の 寄 合 で 積 極的 観 光 導 入を 決定 して い る こと で 1. い ろ り ば た時 代 戦 前 あ る。 即 ち , 先 に 仝国 的 にみ て 民 宿 開 始を3 期 に分 類 し た 2. 改 造 時 代 21 ∼30 年 が , こ こ白 馬 村 内 に おけ る部 落 別 の そ れ も ,全 く同 様の こ 3. 新 築 時 代 30 ∼32 年 以 降 と がい え , こ の3 時 期を 民 宿 の 側 か ら み る と (:L ) 自然 的 発 生 34 第3図 白馬へのスキー客推移 と な る 。即 ち ,戦 前 , い ろ り ば たで 客 と 談 笑 し , ただ あ る が ま ま の民 家 に 客 を 泊 め た時 代 から , 戦 後 , 客 数 が増 加 す る に つ れ , 風呂 場 。ト イ レ 。台 所 等 , か や ぶ き の下 で の 改 造 が す す み , かや ぶ き と , グ リ ー ンや 水 色 の ペ ン キの 奇 妙 な コ ン ト ラ スト と い う 景 観 が しば ら く続 く が , こ れ も32年 四ツ谷 前 後 か ら新 築 時 代 に 入 っ て や ぶ られ る 。 つ まり30 年 頃 ま で に 改 造 も一 段 落 す る が , 一方 で客 数 の 急 激 な 増加 は , か や ぶ き の下 で の改 造 だけ で は , 間 に合 わ な く なり , かや ぶ き 森上 を とり は ら って , 三 階 建 を新 築す る , とい う こ とに な る 。 こ れ は33年 か ら 東 急 資 本 の白 馬 へ の 投下 が 開始 さ れ , ケー ブ ルや ホテ ルが ふ もと に 建 設 さ れ るに 及 び ,拍 車 を か け ら 神城 れ た 。即 ち 都市 資 本 に よ る 近 代施 設 の 刺 激で あ る。 し か し この 様に 新 築 時 代 に 入 って い るの は 細 野 だけ で , 他 部 落 は 改 造 時 代 を 続 け てい る。 これ等民宿活動の中心は,何といっても,冬期スキーシーズン である。しかしここでふれておきたいのは,新し 動 きと し て , 佐 野 部 落を 中心 と す る 夏 期 , 林間 学 校 によ る 民 宿 活 動 で あ る 。勿 論夏 , 白 馬 へ の 登 山 客 は, こ れ も又 急 激 に 増 加 し ( 第7 図 参 照`jて お り , 夏 山 登山 客 の 民 宿利 用 も少 な く ない が , こ れと は 別 に 都 市 の 高 校 ,大 学 の 運動 部 や 音 楽 部 の 合 宿 に民 宿 が 利 用 さ れ , 中 に は ,桑 園を テニ ス コ ート や バ レ ー コ ート に 転 用 し てい る 農家 もあ る 。 そ の 他 資 料提 供 長 野 鉄 道管 理 局, 四 ッ 谷・森 上・神 城 各 駅 第 4 表 白 馬 村 部 落 別 民 宿 開 始 動 機 開始年次 部 落 名 昭和初年 細 〃 〃 21 年 受 験 生や 冬 期 の スキ ー客 が , 夏 , 再 び民 宿 を 訪 れ る こ と も 野 新 田 切 久 保 開 始 動 機山 案 内人 を 媒 介 と す る民 宿 化で 経 済的 意 図 な し 。 〃 〃 〃 昭 和18 年 頃 開 発 さ れ た 西 山 ス キ ー場 に近 接 し て お り ( 徒 歩5 分 ) ,こ の 西 山 ス キ ー場 が多 く の ス キ ー ヤ ーに そ の 名を 知 ら れ る 様 にな っ た頃(S.21.) ス キ ー客 受 入 れ の 簡易 宿 舎 と して 開 始 さ れ て い る 。 だ が 細 野 ,新 田 な ど は ,こ れ 以 前 よ り 民 宿 営業 者 が あ り ,こ れ らの 業 者 に 感 化 さ れ た の も 事 実 であ る。 23 年 塩 島 21∼24 年 飯 田 施 設 が よ く な い か ら 泊 め な か っ た が ,新 田 ,細 野 の 宣 伝で 客 が来 るよ う に な っ た ので 泊 め始 め た。 広 大 な る スキ ー場 と して の可 能 地 ,開 発 す れ ば15万 坪 は可 能 。 12月 上 旬 ∼4 月 上 旬 迄 ス キ ー 可 ,雪 質 は 粉 雪 で良 好。 更 に遠 見 尾 根 スキ ー場 ,鹿 島 槍 ,五 龍 岳 へ の 根 拠 地で あ る。 経 済上 と スキ ー愛 好 者 へ の 務 とし て 。 28 年 沢 度 都 市 へ 子 供 達 が 進学 又 は工 場 ,会 社 へ 勤 め に 出 ,友 人 が正 月 休 み に 来 る 様 に なり ,冬 の ス ポ 30 年 四 ツ 家 細 野 か ら の 溢 流 客 , 交 通的 有 利 性, 他部 落 の 刺 激 によ る が,観 光 は と り 入 れ な け れば な ら ない 。 30 年 飯 森 部 落 内有 志 が 集 ま り 権 威者 を 呼 び ス キ ー場 開 発 に のり 出し31 年 部 落 を あ げ て 観光 誘 致を は か 30 年 佐 野 32年 ク ラブを 結 成 し ,部 落 寄合 の 結 果 ,佐 野 区 とし て 区を あ げ て 共 同 的 に 観光 を 導 入 し た。 31 年 峯 方 各 ス キ ー 場 整 備 の刺 激を 受 けて ,当 初2 ,3 人 の有 志で 始 め たも の で あ る 。 行 く行 く は部 落 体 制 へ も って 行 き たい 。 33年 深 空 観 光 導 入を 寄 合で 決定 し た。 他 部 落 の 刺 激を 受 けて 我 々 も何 と か し よ う で はな い か と部 落 決 ーツ と し て 益 々発 達し て き た。 った。 定を行なった。 部落別代表者聞取集計(1960.8.) 35 (1) 昭 和16 年 第4図 白馬村民宿分布図 凡 例 民宿1 戸 部 落 民宿部落名 あ る。しかしこの様な林間学校の夏 期民宿利用は,冬期に 3。 民 宿 と 農 業 比 較しまだ小規模であ るが,今後発展す ることは,充分考 え られる。 この項では,主として現地聞取 調査の結果を 中心に述 べ かように観光地としての白馬は,夏・冬型であるが,こ る。聞取調 査対象民宿は次の如く抽出した。最初 に村内11 の季節的波にこそ,民宿の本質が現 れている。農業地域で の民 宿部落 の内主として前述景観による民 宿の3 分類 にし あ って,季節的に観光化する。この点を更に深く堀りさげ たがい,すでに新築時代に入っ てい る細野,改造時代 の代 表的な ものとして,新田,いろり ばた時代とい え る も の る為 ,次項を民 宿と農業との関係として考察する。 は,現 在存在しないので,30年以降発生の新しい民宿部落 36 (2)昭和34年 第5図 自薦村民宿分布図 凡 例 民宿1 戸 部 落 民宿部落名 の内 , 夏 場 に 力 を 入 れ て い る 佐 野 の三 部 落 を 選 定 し た 。 そ して こ の三 部 落 の 民 宿戸 数 の50 %を 役場 の名 簿 に 従 い , 部 全部が,第一 次産業人口が70%以上を 占める地域で,しか も専業 率が高 く,又水田単作的傾向が強い。 ここで又先 にふ れておきたいのは,前述交通公 社の「ス 落 内で も地 域 的 に 偏 重 す る こ と な く 抽 出し た。 キースケート情報-1959- 」により,温泉の有無でスキー 1) 民 宿 労 働 すでに民宿型スキー場を,積雪寒冷農業地域として規定 場の分布図を 作製 すると 旅館型,民宿型分類による分布図 と全く同一のものが出来 る,ということであ る。即 ち,旅 してしまっているが,ここで全国配票調査地区の町(村) 館型 スキー場には温泉があり ,温泉のない所が民宿型とし 勢 要 覧 か ら ひろ っ た 概要 を 述 べ る ま で も な く , 湯 沢を 除 く てあら われる。温泉による通年営業可能地には,旅館が成 37 図 白 馬 村 民 宿 戸 数 推 移 第5 表 産業別人口及び専兼業別 農家戸数 (1) 産業 別人 口 割 合 村 全体 の戸 数 第1次 第2 % (2) 専 兼 業 別 農 家戸 数 割合 次 第3 次 専 業 % 第1 種 兼 業 % 第2 種 兼 業 % 14 塩 沢 町 71 % 11.6 % 17.4 67 19 湯 沢 町 44.9 15.8 39.3 18.6 35.8 飯 山 市 71.5 8.05 20.6 66 小 谷 村 74 61.0 34 33.4 白 馬 村 77 8 15 56 34 10 マ キ ノ 町 78.1 1.9 20.0 41.5 45.5 13 日 高 町 72.0 18.9 9.1 若 桜 町 64.5 14.0 21.5 45.6 I 第6 8.3 資料:配票調査地区各町(村)勢要覧 第6 表 農 用,地 別 面 積 割 合 部落 別戸 数 塩 沢 町 湯 沢 町 飯 山 市 小 谷 村 白 馬 町 マ キ ノ 町 日 高 町 若 桜 町 第7 図 夏 山 登 山 者 数 田 ―毛作 二 毛 作 % 79 52.5 畑 % 12.7 60.0 39.2 33.5 57 26.7 74 53.2 15 20.56 25.6 樹園地 % 8.3 8.3 6.5 16.3 11 0.64 78.8 57 15 8.05 資料:配票調査地区各町(村)勢要覧 長してい くが,温泉 のない所では,民 宿型を とらざるを得 ない という ことを物語る。 かような地域における農閑期の余 剰労働利用とし て,旧 来のワラ加工 ,日雇 ,出稼が行 われているが,これ等にか わるものとして ,観光にかなりの期待がかけられてい る。 白馬地方 の農業 カレンダ ーによれば,11月末までに籾摺 松 ぶ( 上高 地・乗 鞍) りを終え ると,4 月上旬の苗代耕起まで ,屋外農作業は全 く行われない。この期間,ち ょうどスキーシーズンで ,元 来 出稼 もあまり盛んでなく,無為徒食的傾向にあ ったので 四ッ谷( 白馬) 民宿活動が可能なわけである。 又夏期,7 ∼8 月 も養蚕を行 わなければ,比較的暇な時 で ,7 月中旬の中耕追肥除草止め草,8 月に入 って落水稗 抜 きと野菜の収獲等が主要な仕事である。養蚕も化学繊維 の発達で一般に減少しているし,後述の如 く,民宿が盛ん にな れば養蚕は減少してゆく。 即ち,民宿活動は,専ら農閑 期を利用して行 わ れ て お り ,農業と民宿の労働力 の転換は,スムースに行われてい る。 さて,その民宿労働力は,具体的には,家 族労働中心で あ る。実際に農業 センサ ス(1960) にもとずき,世帯数を 資料長野鉄道管理局調 調 べてみると ,5 人以上の家 族の農家で民 宿の占 める割合 38 が大きい。 にっ れ , 営 農上 に 種 々 の影 響 を 及 ぼ す 。 雇用労働も小規模であるが可成り入 っており,(第7 表 (1) 稲 作 第7 表 雇 用 労 働 人 員 雇用 調 査戸数計 な し 1人 細 野 新 田 佐 野 2 3 4 5 6 2 6 37 3 8 11 16 戸 15 9 6 3 3 4 3 水田単作地として最初に稲作であるが,結論的には民 宿が盛んになるにつれ,"米づくり"に力を入れる。即 雇 用 10 労 働 計 人 1 96 11 1 ち,スキー客用の米はまず保有米でまかなう。従って, 少 しで も収獲をあげ,保有米を多 くすることを 計る。 これを数字で実証するため,細野部落の民宿50%につ 10 いて,昭和30年から34年の米の収獲量ののび,(資料: 白馬村 聞取調査集計(1960.8.) 参照) サービス業という性質上,女子若年 層が大 きな 位置 を しめる(第8 表参照)。又雇用関係も親戚,近 郷がほと 米穀予約数量,-農協調-)と民宿所得の30年から34年 ののび(資料:役場税務課調)との相関係数を算出する と, 0.717の数値が出た。しかし一方で部落 別 の米 穀予 約数量の曲線を グラフにしてみると,上昇曲線は全 部類 んどであ る。 似性を示 す。 従 って, これは数字的実証にはならない 第8 表 年 令 別 雇 用 労 働 が,個々の民宿において,先 に述 べた保有米のこと ,又 部落名 戸 調査 数 細 野 新 田 37 16 戸 15 佐 野 女 子 男 子 高 校 才 ∼30 ∼40 才 高 校 才 生 前20 後 25才 31才 以 41 上 生 代 20 人 人 人 人 人 人 人 33 44 10 5 2 2 5 2 1 1 2 4 3 2 3 次の養蚕 の項でもふれる如 く,少しでも労働力を軽減す るため稲 作1 本に集中すること,又観光はい まだ投資段 計 人 階 なので ,最も現金収入を 得やすい米を ,民 宿業と関連 96 11 12 づ けて ,考えていることは確かである。 (2) 養 蚕 白馬 村 聞取 調 査 集 計 (1960.8. ) 白 馬 村 の 養 蚕 業 は ,最 盛 期 には , 水 田を 桑 園 に し た ほ 第9 表 雇 用 関 係 ど 昔 か ら 盛 ん で ,農 家 の副 業 と し て大 き な 位 置を 占 め て い た 。 と こ ろ が, 民 宿 が 進 む に つ れ , 養 蚕は 行 わ れ な く 部 落名 調 査戸 数 親 戚 関 係 知 人 の 紹 介 細 野 34 佐 野 新 田 9 戸 7 住 込 通 い 11 5 23 3 32 2 5 2 5 9 2 第11表 養 蚕 農 家 戸 数 変 化 部落名養蚕期別 白馬村聞取調査集 計(1960.8.) こ れ 等 は , 白 馬 ば かり で な く, 他 地 域 に お い て も ほ と ん 細 夏 野 秋 晩秋蚕 新 夏 田 秋 晩 秋蚕 昭 和29 年 30年 31年 32年 33年 34年 22 48 戸 43 14 44 3 40 4 32 戸 37 戸 28 戸 21 2 28 42 戸 41 52 戸 42 2 26 34 27 39 30 26 31 34 22 36 7 24 30 26 27 29 17 ど 同 様 の こ と がい え る。 即 ち, 第10 表 は ,全 国 配 票 調査 に お け る ,民 宿 労 働 に 関す る も のを ま と め た ので あ る が ,年 令 別で は, 男 平 均35 才 ,女 平 均40 才 と い う 回答 を 得 た地 域 が1 ヶ 所 あ る の みで , 後 は ほ と んど20 才 代 が 中心 で あ る 。 又 性 別 で は, 女 子 が 主 体 で , 出身 地 に 関 し て は , 第10表 民 宿雇用労働 年 令 別 il)民宿の営農上 への影響 労 働力 の面 か ら み た時 , 農 業 と民 宿 業 は , 明 確 な 転 換 が行 われ て い た 。 と ころで民宿が盛んになる ( 北城農協調) 20∼25 才20 ∼3025 な る 。 そ れは 第1 に , 労 働力 の面 か ら, 元 来 無 為 徒食 的 ∼40 若 い 人 男 平 均35} 女 〃40 性 別 回 答 を 得 た もの 全 部 近 郷 で あ った 。 回答スキー 場 数 な冬 期を 送 って い た のが , 観 光 とい う サ ービ ス業 で , 寝 る 暇 もな い 程 , 忙 し い 何 日 かを 過す 。 そ の 余 波が 夏 ま で 13111 持 越 さ れ, 夏 期 の 労 働力 は , 出来 る だけ 軽 減す るこ とを 考 え る 。 一 方 , 冬 期 観 光に よ る現 金 収 入 があ るの で , 養 回答 ス キ ー 場 数 蚕 を し な くて も 現 金 収 入 の 端 境 期で あ る 夏 もこ せ る 。 男 女 共 男: 女こ3:7 男: 女二1:5 女 が 主 出 身 地 地元近郷 第2 に は家 屋上 の 理 由 から 。 即 ち , こ の地 域 の 基 本的 家 屋 は 「 五 。八 の 家」 と い って 第8 図 の如 くで あ る が ,養 蚕 が 行 わ れ る の は畳 を と る と 下 が 全 部板 の間 とな る22畳 1312 の 居 間 で あ る 。 とこ ろ が , こ こ を い くつ もに 仕切 り 小 部 スキ ー 回答 場 数 屋 に し た り ,食 堂 にし たり し て ,民 宿 施 設 に 転用 し て し 7 ま っ てい る。 又 実 際に , 出 来 た と して も部 屋 がよ ご れ , 全国配票調 査集 計 (1960.5.) 夏 も 何時 客が 来 るか わ か ら ない 等で 蚕 は 飼え ない 。 桑 園 の 転用 は , 聞 取 の 結 果 ,や はり 水 田 化 か最 も多い 39 錆8 図 五, 八 の 家 第13表 所 有 山 林 木 材 利 用 率 寝 室 細 野 ウ マ ヤ ザ シ キ 居 間 5間 イロ リ ザ シ 土 間 キ 2.5間 2.5 間 2.5間 0.5間 8間 が,佐野部落では,前述の如 くバレーコ ートにした所 が あ る。 % 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 改造ナシ 不 明 調査戸数計 新 田 佐 野 1 3 3 2 2 1 2 6 1 1 1 5 4 12 戸 37 1 2 7 1 4 17 戸 戸 9 1 1 16 白馬村聞取調査集計(1960.8.) (3) 家 畜 飼 育 家畜飼育は,蚕同 様,結論的には,民 宿が進むにつ れ m )農家経済と観光収入 て減少する。それは,多雪地域の家屋構造の常として, 民宿により ,各農家が ,経済的にどれだけ潤う か,それ 畜舎は屋内に設けられる。民宿を するにあ たって,保健 が最大 の関心事である。第14表は ,総収入 に対す る,民宿 第12表 農 機 具 使 用 状 況 新 田 動 力 耕耘 機 発 動 機 部落民 宿 民 宿の 割 合 台 % 3 3 100 6 6 100 電 動 機 7 動力脱穀機 1 籾 摺 機 9 3 噴 霧 機 1 微 粉 機 0 カ ツ タ ー サ イ ロ 0 0 7 100 17 2 89.5 66.6 1 0 100 − 0 − − 0 収入 の割合を三部落に関して出したものであ る。ここで40 佐 野 細野 民宿の 部落 民 宿 割 合 部落 % 台 台 6 3 50 22 13 22 7 10 54 45.4 26 11 2 43.3 4 1 0 0 1 0 0 6 1 50 − − 第14表 民 宿収入 割合 割 合 13 10 26 10 % 未 満 10 以 上 20 % 未 満 1 1 − 1 1 16.7 2 20 〃 30 〃 30 〃 40 〃 40 〃 50 〃 調 査 戸 数 計 一 戸 平 均 割 合 資料 ,世界農業 センサス(1960) (民宿収入/全収入×100)別戸数 部 落 別 細 野 新 田 佐 野 6 6 11 22 24 2 8 10 10 5 0 4 0 1 0 40 39 30 戸 % 14.9193% 27.288 戸 戸 7.046% (白馬村税務課調) 所の許可を得るわけであるが,屋内畜舎 は,衛生上望ま ∼50%とあるのは,税務課の話では,実際に民宿収入が50 しくない 。又 実際に民宿が盛んな所程,農 機具機械導入 %をオーバーしているとみなしてよいということであっ も進み,牛馬 は減少している( 第12表参照)。そしてこ た。又聞取調査時にも50%を越える線にもっていっている の畜舎も改造して ,乾燥室,食堂,台所等 に転用されて と答える家も少なくなかった。しかし新田,佐野では,ま い る。 だ20%未満のものが多い。これを全国配票調査集計にみて 又ここでは特に詳しく述べないが,「五・八の家」に も, 50%をこえるものから,ごくわずかなものまで,大体 おいて,民宿用の改造が,非常にスムースに行われてお 同様のことがいえ る。(第15表) り,又この改造にあた って,民 宿各戸の所有山林がよく 現実 には,個々の民宿ばかりでなく ,部落単位スキーク 利用されてい ることをつけ加えておき たい。(第13表参 ラブによるリフトの設 置等 ,観光への投資の方 が大 きく , 農業 収入を 観光 へまわす方で ,その為把も ,稲作に対する 照) 改造資金は,10万円程度のものは農協の貸付で,50万 熱意が大 であ るとい われる。 円以上の大口 は, 農協外 , 信用金庫等が利用されてい 次に個々の民宿で ,観光収入のウェ イトを どの辺にもっ ていこうとしているか ,聞取調査の結果を 第16表によって る。 みると ,農業に ウェ イトをおいていきたいという希望 の方 が多 く,民宿化という面では新参で,水田面 積の比 較的少 40 な い 佐 野 の方 が, より 観光 に期 待 を 持 ってい る。 つ ま り, こ 第15表 観 光 収 入 こ で ,あ くま で 農 業 か ら分 離 し た 観 光 で は な く ,農 業 に し 村の財源の内 に 占 め る 割合 各 農 家 の年 間 収 入 の 内 に 占 め る 割合 第16表 収 入 源 希 望 調 査 % 神 鍋 直 接 的 に なし 氷 ノ 山 小 代 3 % マ キ ノ 白 馬 大 池 目立 たな い 0 52 1 20 5 10∼15 30 南 小 谷 浦 佐 5 10 30 10∼20 塩 20 20 40 40 20 5 50∼55 20∼50 沢 中 之 島 石 打 湯 中 沢 里 岩 飯 原 山 太 赤 田 倉 池 ノ 平 宮 津 細 野 観 光 で50 % 以上 得 たい 農業観光半々 農 業 に ウェ イ トを おい て い く そ の 他 ( 勤 め人 ) 及 び不 明 調 査 戸 数 計 30 30 回 答 な し 佐 野 戸 13 1 7 3 0 2 20 15 2 1 37 2 18 5 16 白馬村聞取調査集計(1960.8.) つかり根を下 した観光ということが考えられていることを 4 4 2∼3 0.01 新 田 知るのである。現在のところ ,ごく一部の例外的民宿を 除 0.1 き ,民 宿を 専門旅館への成長の一過程とはみなしえない。 にもかかわらず,一つの時代の流れを 感覚的にとらえて はなさない如 く,地元の人々の観光への熱意は大きく,今 2 更後にひけない ものがある。この様な観光への期待は,全 国的に同 様のことがいえ ,第17表が ,それを物 語 っ て い 全国 配票 調査集 計 (1960.5.) 第17 浦 佐 中之島中之 島 石打 中 里 岩 原 る。 表 地 方 自 治 体 の 観 光 産 業 へ の 力 の 入 れ 方 (回答原文のまま) 当 地 自 治 体 が 主 体と な る 事 が 不 可 能 ( 再 建 整 備 団 体 ) であ る た め ,住 民 に よ る 法人 組 織の ため ,ス キ ー 場 を 一 括 経営 し ―切 の 指 導 育 成 に 当 っ てい る 。 町 と し て も観 光 事 業 の 促 進 に は力 を 入 れ てい る。 特 に冬 期 観 光 に は ,地 域 住民 が 積 極的 で あ る 。 町 当 局 ,住 民 一 体 と な っ て ,観 光 開 発 の 為 努力 して い る。 地 元 に は 開 発 資 本 乏 し き た め ,大 資 本 導入 を 計 画 し ,現 在 西 武 系 国 土 計 画 会 社 の 手 に より 施 設 進行 中で あ る。 町 当 局 ,地 元 共 に 観 光 開 発 の た め 種 々 研 究 中 であ る が , ス キ ー場 の 他 に 現 在 ゴ ル フ場 と し て 発 展い たす べ く 計画 中で あ る 。 飯 山 市 が 積 極 的 に 力 を 入 れ 市 営 ス キ ー 場 とし て ゲレ ンデ 及 び 施 設 の管理 を 行 っ てい る。 宣 伝 も 市 が主 体と な 太 田 本 年 度 に 入 り ,飯 山 市 内 の 観 光 協 会 の 連 合 体を 組 織し たの で 市 当 局 も 発 展 に 協力 し て い るか ら今 後 の 宣 って 運 営 す る 様 組 織 が 出 来 た 。 伝 活 動 等 に 期 待 出 来 る 。 現 在 は 住 民 の 積 極的 な 努力 で 活 動 し て い る 。 村 は村 内 観 光 開 発 の 総 合 的 見 地 に 立 って 動い て い る。 本 村 は 冬 期 ス キ ー 場 の み な らず2,500m 白馬大池白馬大池 南小谷 及 び湖 沼 等 を 有 し ,こ れ ら の 春 ,夏 , 秋 等 の 観光 客 誘 致 も考 え て い る 。 級 の高 山 マ キ ノ 一 部 の 利 己 利 益 主 義 に よ り 相 協力 す る段 階 に到 って い な い 。 小 観 光 費 の80 % は スキ ー関 係 に 使 用 。 ス キ ー に 関係 す る 者 ( 受 入 部 落 ) だ け が今 の 処積 極 的 で 他 の地 元 民 代 も徐 々に 注 意 し だ し た 。 氷 ノ 山 町 予 算 に 相 当 の 観 光 費 を 計 上 し ,観 光 協 会を 設立 し 氷 の 山 観 光 を 含 め た観 光 開発 に力 を 注 ぎ 現 在住 民 の 協力方,努力をしている。 神 鍋 町 村 合 併 前 は , 自 治 体 の 行 政 区 域 の 中央 部 に ス キ ー場 並 び に 宿 舎 が 集 中 して い た為 自 治 体 と して も 開 発 に 協力 し て き た が 合 併 に より6 ケ 町 村 が一 町 に な った ため 大 半 の 住 民 に 直 接 関 係 がな い 為 , 町議 会 の理 解 か 得 ら れず 従 って 町 当 局 も 消 極 的 に なり 今 日で は 殆 ん ど タ ッチ せ ず 専 ら 関係 者 の力 に よ る外 な い 状 態 で あ る 。 こ れ は 国県 の 制 度 に 観光 産業 に対 す る 補 助 制 度 が 全 くな い こ と が主 た る原 因 で あり ,次 い で 町 税 収 の う ち スキ ー所 得 に よ る 税 収 の 伸 び が数 字 的 に 目 立 た な い 為 に 財 政 投資 が 困難 な 面 もあ る。 全国調査票集計(1960.8.) 41 らしめ た数字と認めることが出来るのであ る。 ところで ,この東急資本の導入を地元 の細野 の人 々は , 4. 都市資本の導入 どう受けと っているか,又直接には関係ない が,他部落 の 人 々はどう受けとっているかを みたのが,第20,第21表で 観 光 企業 への 投 資 が 盛 んな 折 ,特 に め ざ ま しい の は ,電 鉄 会 社 が , その 附 帯 事業 とし て ,観 光 関 連 産業 に 進 出し て あ る。 これによ れば ,数の上 では,歓迎もし くは導入した いとする人 々が多い。 い る こ と で ,東 急 電 鉄 , 西武 鉄 道 ,近 畿 日 本 鉄 道 ,名 古 屋 鉄 道 な ど 数え る こ と が 出来 る。 第20表 資 本 導 入 に 対 す る 態 度 白 馬 へ の東 急 資 本 の 投下 は ,33年 に 東 急 資 本を 中 心 にし た白 馬 観 光 開発K.K. 東 急 資 本 に 対 して が 設 立 ,同 年 の細 野 ∼ 黒 菱2000m に 細野調査戸数 及 ぶ ケー ブ ル設 置 に 始 ま る。 第18 表 は ,35年8 月 現 在 まで の同 社 の 事 業 一 覧 であ る。 歓 迎 何 と も云 え な い 東 急 ホ テ ルは ,8 年 後 の 冬 期 オ リ ンピ ッ クに そ なえ て建 て 不 安 其 の 他 ら れ たと い わ れる が ,こ れ によ り 外 人 客 も増 加 し ,一 級 ス キ ー 場施 設 の 面 目を 加え た。 計 第18 表 白馬 観光 開 発K .K. 事業 施 設 名 場 所 開 設 年 事 業 量 34 導 入 し た い 10 9 3 15 37 入れ た く な い 不 明 計 2 5 9 16 3 10 5 18 白馬 村聞 取調 査 集 計(1960.8.) 又第22表に東急に対する癩野の人々の意見をみると,① 投資金額 資本の欠如,②観光客の階層性,③宣伝効果,④東急の今 円 空中ケーブル 八 方 尾 根 昭33 年12 月 2,000m 130,000,000 白馬東急ホテル細 野 34 12 250人 収 容 160,000,000 八 方 山 荘 兎 平 33 50人 〃 リ フ ト 八 方 尾 根 ケ ーブ ル イン 細 野 外部資本に対して 調 新 田調 佐野 査戸数 査戸 数 後 の 出方 ,が 問 題 にな って い る 。 地元 の資 本 の欠 如 を 東 急 に あ お ぎ ,土 地を 提 供 す る , そ して 観光 地 と し て の 躍 進 を 期 待 す る と い う 線 は ,現 在 まで 500m のと こ ろ ,守 ら れて い る 。 即 ち 宣 伝 効 果 も 明 確 に 認 め ら 33 れ ,東 急 と 民 宿 が 対 象 と す る 客 に 明 ら か に 階 層 性 が 存 在す る。 地 元 と 外 部 資 本 の 平 和 共 存 は ,今 の と こ ろ 成立 し て い と こ ろ で ,こ の 都市 資 本 の 投下 は ,地 元 ,観 光 地 と し て ると 判 定 出 来 よ う 。 そ し て 今 後 こ れ 等 資 本 の 出方 に対 処 の白 馬 に ど の 様な 影 響 を 及 ぼ して い る か。 最 初 に 東急 資 本 に よ る 観 光施 設 への 地 元 労 働力 需 要 であ す る に あ た っ て 外 部 資 本 の 投下 は ,あ く まで 地 元 の 発 展 と る が ,第19 表 の如 く ,い ま だ小 規模 な もの で あ る ( こ こ で 結び つ い て い な け れ ば な ら ない と いう ,地 元 民 の 自 覚 こ 県 外 居 住者 と は主 と し て , 横 浜 ホ テ ル の従 業 員 ) 。 即 ち , そ ,今 ,最 も要 求 さ れる も の で は な か ろう か 。 地 元 労 働力 の 吸引 と い う面 が考 え ら れ る程 で もな い 。 結 語 第19表 東 急資本施設従業員数 1。 民宿を発生させた要因には,スキー客数の急激な増加 人 数 ケ方 ハ ーブ 山荘 ル 45 村 内 居 住者 村 外 居住者 34 県 外 居住者 10 があり ,時期的に,昭和初年( スキー導入期)昭和25年 前後(戦後スキー回復期) 昭和30年以降( スキ ー大衆化 備 考 1 期)の3 時期があ る。 13 東急 ホテル 40 52 男4女9 13 7 男1 女6 男4女9 26 男9女1 7 男12女 14 (夏)現在 12 S35.8.1. S35.2.29 (冬)現在 男17女 2. 長野県 白馬村 々内における部落別民宿化は ,時期的に 又その動機からも,ち ょうどこの全国の動向の縮図とみ なすこと が出来 る。 東2急 ホ テ ル調 3. 民 宿活動 は,積雪寒冷農業地域で,温泉もなく,水田単 19 作的 傾向の強い地域において ,その農閑期を 利用,家 族 次に ,東 急 の資 本投 下 の 影 響 の 端的 な あ ら わ れと し て , 又は地元の女子若年層労働を主 体として行 われている。4. 白馬 へ の 客 数 増加 を み る こ と が 出来 る。 ス ケ ール の 大 きい 宣 伝 に よ る 白馬 へ の観 光 客 増 加 は ,す で に 第3 図 に示 し た 白馬村の場合 ,農閑期利用という意味で民宿業と農業 如 くで ,四 ッ 谷駅 降 車 ス キ ー客 は33年 か ら34 年 に か け 急 激 の競合はない。むしろ ,民 宿業 の影響 は,営農意 欲を高 に 増 加 し 森上 の減 少 と 対 照を な し て い る 。 即 ち , 新 田 部 落 めるという形であ らわれてい る。又家屋の構造とも関連 等 を 根 拠 地 とし た森 上 → 栂 池 ス キ ー場 ま で の 客を ,細 野を して ,養蚕や,家畜 飼育等 に影響を及ぼしている。 根 拠 地 と し た四 ッ谷 → 八 方 尾 根 の方 へ 吸 収 す る 程 まで に東 5. 例外的な2 ,3 の場合を除いて ,白馬村では一般に民 急 の 八 方 尾 根 宣伝 は ,い き と どい て い た と 考え う る 。こ の33 宿は専業 旅館への一 過程としてとらえるべきで はな く, 年 か ら34年 に か け て ,四 ッ谷 駅 へ の2.5 倍 に の ぼ る ス キ あくまで農業 に深 く根を下ろし た,農業を土合にした副 ー客 数 の増 加 は ,東 急 ケ ーブ ルの 設 立 ,東 急 の 宣 伝 が し か 業的存在であ る。 経済的に副業の位 置を脱し ,観光収入 42 第21 表 民 宿 部 落 別 外 部 資 本 に 対 す る 態 度 部 落 切 久 保 開 発 ス キ ー場 へ の外 部 資 本 の 導 入 に つ い て は , 種 々 の問 題 があ る が 一 つ の 基 本 線 の もと , 両 者 が審 議 し あ っ てよ り よ い 結論 に 達 し た 場 合 は 大い に 歓 迎 す る。 こ の意 味 に お い て 開 発 審 議会 な ど を 設 けて もよ い 。 新 田 外 部 資 本 が ない と発 展 し な い と 思 う 。 塩 島 バ ス 会 社 位 の資 本 と な ら 提 携 し たい 。余 り 大 資 本 は歓 迎 し な い 。 峯 い ま だ 部 落 体 制 にな って い な い が 積 極 的 に 外資 を 入 れ たい 。 方 飯 田 施 設 に もよ る が導 入 に は 好 感 。 積 極 的 に 援 助 に尽 力 を つ くす 。 前 々 か ら 外部 資 本 の導 入 を 期 待 し て 居 っ たと こ ろ で あ るが , 手 掛 り が な く 未 開 発 の 為 ,部 落 をあ げ て 御 待 ち 申上 げ る。 地 元 に は 資 金 が な い た め 。 沢 度 ス キ ー場 が 初 心者 向 きな の で 山 小 屋 , ロ ープ ウ ェ ー の設 備 は全 部 地 元 で な し た 。 雪質 が良 好 な の で 昨今 開 発 の話 がな い わけ で もな い 。 佐 野 外 来 資 本を 歓迎 す る。 し か し 細 心 の 注 意を し たい 。 部落別代表者聞取集計 第 22 表 ・ (1960.8.) 東 急 に 対 す る 細 野 の 人 々 の 意 見 開発 に はど う し て も 大 き な 資 本 が 必 要 であ る 。し かし 地 元 に は 資 本 が ない 。 東 急 が 入 ら な くて も 外 資 導 入 は 時 間 の 問 題 で あ っ た 。し かし 利 用さ れて し ま わな い 警 戒 が 必 要で あ る。 迎 歓 す る 人 々 の 意 見 ・ ・ 東 急 が 入 った か ら と い っ て 客 数 が そ ち らへ と ら れ たと い う 事 は ない 。 資 本 家 の後 を つ い て い く 。 施 設 は よ く して い かな け れば だ め だ か ら 。 故 に 個人 的 に は 無 条 件で 東 急 を 受 け入 れて い る 。 ・ 文 化 的 な もの が 入 っ た 方 が 都 会 的 な 勉 強 が 出来 る。 特 に接 客 態 度 な ど に 於て 。 だか ら 客足 が東 急 に と ら れ るな ど と い う こ と は も う と う 考え てい な い 。 民 宿 に は 民 宿 の よ さ がな くて は だ め だ か ら。 ・ 東 急 資 本 によ る宣 伝 に よ り , こ の 地 の 躍 進を は かり たい 。 特 に 春・ 秋 の 行 楽 シ ー ズン の 宣 伝 ,夏 の ゴ ル フ コ ー ス, そ の 他 娯 楽 施 設 に 東 急資 本 を 期待 す る 。 東 急 が 入 る事 によ って , 細 野 を 賑 や か に し た だ けで あ る。 以 前 は 細 野 へい けば 泊 ま る 所 があ ると い う ので 来 た客 を こ と わる の に 困 っ た ほ ど で 宿な し がよ くい た も の だ 。 し かし 今 で は 東 急 の 宣 伝が い き と ど き す ぎ て 客 は 松本 あ たり で 方 向 が え す る と いう 。 確 に東 急 が 入 っ て か ら2 ,3 月 に も 客 が来 る よ 不 を 安 抱 く 人 々 の 意 見 う に な っ た が… … … 。 こ れか ら の 出方 が 問 題 。 ・ 東 急 は 強 盗的 行 為を なし て い る 。 今 は ス キ ー 場 の土 地 を 細 野 が も っ てい る が ,年 々施 設 に 金が い る か ら土 地を 手 放 す事 にな って し まう 。 細 野 の 協力 が な くて もよ くな っ た ら ス キ ー場 は東 急 に の っと ら れ る。 ・・ 第二 の 細 野 が 山 の上 一 東 急 ホテ ル の ま わ り に 出来 る ので は な い か 。 細 野 は おい て きぼ り に さ れて し まう だろ う 。 この論文は昭和35年 度卒論をまとめたものである。 が農業収入より上ま わっても農業を 根底としてい ること 変化の激しい民 宿現象 は刻 々と変りつつあるが,昭和35 年とい う一時点でと らえておくのも意味があ ると信 には変りない。 6. にもかかわらず ,各 地域の観光 への熱意 は非常に大き ず る。 ご指導をい ただい た地理学教室の先生方 ,全国配票 く ,各 々現段階の経済的位置の上下 にかかわらず ,観光 を地域 の産業として育てんとする意欲は盛 んである。 調査にご協力い ただいた方々 ,そして ,白馬 村の実に 7 . 白馬村 の都市資本(東急)導入の結果を 云々するには 好意的な多 くの方々に深 く感謝いたします。 い まだ時 期尚早であ るが ,現段階では ,地元と外部資本 と の間は平 和的共 存といえる。 43 ( 註 ) ① 旅 館 ,民 宿 の 数 の割 合 に か か わ ら ず少 数で も民 宿 の あ る 所 は 民 宿 型 とし た。 ②第2図の資料は,昭和25年までの分は,長野鉄道管理局調査のもので26年∼33年までは名古屋鉄道管理局調査の も ので あ る 。 又 長 野 鉄 道管 理局 調 査 の 資 料 の 内 , 昭 和10年 まで と11 年 か ら と で は 調 査対 象 ス キ ー場 数 に 変 化 があ る 。し た が っ て , 各 々25年 と26年 の間 に 急 勾 配 ,9 年 と10年 の 間 に下 降 の 線 が 出 た が 共 に そ の前 後 と 変 ら ぬ , ゆ る や か な上 昇 と 考 え ら れ る。 ③ 民宿戸数を知る資料として観光課の民宿名簿,税務課の台帖, 保健所の旅館営業許可台帖がある。しかし民宿名 簿 は 昭 和33年 に 出来 た便 宜 的 な も の で あ るし ,税 務 課 及 び 保 健 所 の 台 帖 にあ る民 宿を ひ ろ え ば 各 々 課 税 対象 民 宿 , 保 健 所 許 可 取 得民 宿で あ る が , 実 際 に は こ れ 等 の他 に も民 宿 活 動 を し てい る農 家 が多 数 あ り , 民 宿 の 性 質上 こ れ 等 を も 加 え る べ きで あ る と 判 断 し , と同 時 に動 態 的 に つ か む 為 戦前 に さ かの ぼ って , 各 部 落 代 表 者 に , そ の 概 数 を 聞 取 り 集 計し た。 ④ 全国 配 票調 査 票 と 共 に 各 町 ( 村 )勢 要覧 の 恵 送を も 依 頼 し た。 第5 ,6 表 はこ の 資 料 に 基 づ く 。年 次 は 必 ずし も 同 一 で ない が全 部30 年 以 降 で 概 要 はつ か める 。 44
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