詳細はこちら - お墓のさんわ

分を通して、人生を経験し たちが自分の可能性に飛び
私たちは「縁起が良い」
ています。どんな経験にも、込み、挑戦し、経験しない 「縁起が悪い」という言葉
そこには必ず何かしらの意 のなら、たとえ自分がつね を日常よく使っている。
味があります。目的もある に偉大であったとしても、 「吉凶のきざし」というよ
はずです。「偉大な自分」
その偉大さを発揮すること うな意味で使われているが、
が、何かを知るために、何 はないでしょう。
縁起は本来は仏教の根本的
かを習得するために、この
今、自分はどんな人生を な教えのひとつとされる大
人生を経験しているのです。 選んでいるでしょうか。自 切な用語である。チューリッ
分の「偉大ないのち」の望 プの花が咲くという結果
みを本当に理解して生きて (果)には球根という原因
いるだろうか。自分の偉大 (因)が必要であるが、球
さを引き受けるという、そ 根だけでは花は咲かず、土
の決断が出来ているだろう 壌や光、水分、肥料などの
か。
さまざまな条件(縁)が必
本当の自分は「どこまで 要である。このように、す
も偉大な自分」なのです。 べてのものには、必ずそれ
だから、力がある。勇気が を生んだ因と縁があり、そ
ある。優しさがある。何も れを因縁生起(縁起)とい
かも、すべて持っている。 うのである。物事の成り立
さあ、あとはそれを使う ちには、因と縁と果が複雑
だけで す。「偉大な る自分」 に関係しあい影響しあって、
としての今を、精一杯に生 もちつもたれつの状態をつ
きていきましょう。
くっているという教えであ
完
る。自分ひとりで生きてい
るのではなく、他の多くの
ものの力や恵みを受けて、
私たちは生かされているの
仏教語散歩
である。
「縁起」
(改修後)
私の叔母(家系的には遠
い親戚に当る)が東京に出
て、随分前から帰ってこな
くなり、そのうち亡くなり
ました。それで、私の方で
掃除、花など上げて、見て
いました。
が、私ども夫婦も年がいき
まして草取りなどお墓の手
入れが大変になりました。
その上、この前の地震でお
墓が傾き、どうしたものか?
と考えていましたが、子供
に迷惑をかけるわけにもい
かず今回基礎からすべて改
修しました。出来上がって
店
す。私たちは自分の本当の
偉大さというものを忘れて
偉大なる自分
東京都 ・廣濟寺住職
しまっています。自分の偉
渡邊宗禅
大さとは、いったい何だっ
たのでしょうか。
私たちは、自分自身の真
偉大さとは、
「永遠で、
実の姿にほとんど気がつい 不滅なるいのち」です。そ
ていません。たとえば、たっ れは、お釈迦様が教えてく
店
ど壊れてしまいました。
それで、親戚の知り合いが
お墓のさんわさんだったの
で、うちも一緒に頼むこと
にしました。
突然の事なので、新規に建
てる土地の選択、時期的な
こと等
家族で話し合いながら進め
ていきました。
新規のお墓も年内には出来
上がりました。この際、
あちこちに
点在していた古い個人のお
墓も、新規のお墓の横に並
べてもらいました。これな
大分市松岡毛井
村谷 昭三 様
(前のお墓)
らもう安心です。
幸い家の方は何事もなく、
静かな日常を取り戻せた感
じです。
大変お世話になりました。
三和さん
ありがとう
ございました。
見に行き、こんなに綺麗に
なるとは思いもせずビック
リしています。これならば
あとに残したとしても子供
たちも安心だと思います。
向こうの親戚の先祖も喜ん
でいると思います。
これで私たちも一安心です。
町
私たちは誰しも、できれ
ば困難な人生ではなく、平
穏な毎日を望んでいること
でしょう。出来るだけ何事
もないようにと、そう思っ
てはいないでしょうか。で
も、そう思うのは、実は私
たちが自分の偉大さから遠
く離れてしまっているから
です。
何事もない人生を、「偉大
ないのち」が望むでしょう
か。
「偉大な自分」は、何
をしにこの世界にやって来
たのでしょうか。退屈しに
やって来たのでしょうか。
そんなはずはない。
私たちは「偉大ないのち」
としての自分が、自分自身
の偉大さを発揮したいから
こそ、今、ここに生きてい
るのです。それなのに、私
出
私 も 「さ ん わ 」 で
建てました
日
由布市 庄内町 高岡
佐藤 篤正
様
我が家のお墓は、家から
2~3分のところに地区墓
地があります。佐藤一族の
お墓が6~7基あります。
昨年の4月熊本地震の際、
震度6弱の強い揺れでお墓
はほぼ原形がわからないほ
森
た今、自分が呼吸をしてい ださった「いのちの真実」
るのは、自分が頑張ってそ です。生まれて、老いてゆ
うしているからなのでしょ き、やがて病となり、死に
うか。心臓が動いているの 至る。そう思い込んでいた
は、自分が動かそうと思っ 私たちの「いのち」が、生
たからでしょうか。そんな きる、死ぬなどと分けるこ
ことはないはずです。ただ、となどできない、完全で何
心臓は、黙々と自分の役割 の制限もない「偉大なるい
を果たしてくれています。 のち」だということ。大宇
何故なのでしょうか。
宙と同じ「いのち」を自分
自分の考えや思いを超えた が生きているということ。
ところの自分が、そうさせ
だから、自分が偉大でな
ているのです。自分には、 かった瞬間は、片時もあり
自分が普段思っている自分 ません。自分がどんなに大
を遥かに超えた自分があり きな失態を犯した時も。自
ます。自分が思っているよ 分がどんなに意地悪な行な
り、それは遥かに崇高で偉 いをしてしまった時も。自
大な自分です。けれども私 分がどんなに深い悲しみの
たちは、自分のことをあま どん底に落ち込んだ時も。
りにもちっぽけで、取るに 自分はつねに偉大であり続
足らないどうでもいい存在 けていました。
だと思っていたりするので 「偉大ないのち」がこの自
平成29年1月15日
さんわ便り
第157号
平成29年1月15日
さんわ便り
第157号