和食文化を再考する(熊倉功夫)

付 言 す れ ば、 わ が国 の第 二次 世 界 大 戦 後 の社 会 科
﹁
刻燿
製
鋼蟹
麗
学部 門 の遅 れ は相 当 のも のがあ るよう に思われ る。 そ
し てわ が国 の政治 、経 済 、あ る いはそ の根底 にあ る暫
学 な ど の社 会科 学 而 で の立 ち遅 れ は、 こ こに取 りL げ
た外 国 と の交渉 のみな らず 、広 く わ が国 の多く の分 野
で様 々な 弊害 をも た らし つ つあ る。 し かも そ の遅 れ は
自 然科 学 の場合 と 異な り、な かな か兄 え難 い。 容易 な
ら ざ る課題 であ る。﹂
︵
西日本 フィナンシヤルホールディング ス取締役会長 。東大 ・
︲︶
法 ・昭4
1
﹁1
一 現在 、 学L会 で はイ ベント等 、各 種 サ ー ビ ス 一
一
の案内 を会報 等 に先 駆 け てメー ルでも ご案内 し ´
、
卜
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”
︲
再 考 す
ユネ ス コの無 形 文化遺産
。
現在 、 和食 がブ ー ム にな って います 子不ス コの無
。
形文化 遺 産 に登 録 され た こと がき っかけ です 日本 政
、
和 食 ﹂ の登録を 目指 した背 景 には 東 日本 大震
府が ﹁
、
発 故 があ りま した。当 時 日本 の農 産物 の
災︱
︱
︲ の原 ■
一兆円 に届 こう とし て いた そ の矢
輸 出 は順 調 に伸 び、
、
た のこと ですも 原 発事 故 が起 き 日本 の食 枯 に対す る
l
、
lを 行 う国 も出 て
風評 被害 が世芥的 に拡 が り 輸 入禁 l
きま し た。 日本 政府 は農 産物 の輸 出 が激減 し た こと に
。
相当 の危 機感 を 抱 いたと 思 います
、 料 理人 の社
も う 一つは、国 内 の料 理 人 た ち か ら ﹁
会 的 地位 を向 上さ せた い﹂ と いう要 望 があ った こと で
′
922(2017-I)
μl:f・1会 議:ヽ ■
他方 、 われ われ は、 上 記 の三 つの日米 金 融交 渉 に象
徴 さ れ るよう に、外国 から の いわ ば ﹁
人 の粉 ﹂ を いか
に払う か に忙 殺 さ れ、 わ が国 の長期的 戦 略 の視点 か ら
の対応 が不十 分 だ ったと 言 わざ るを えむ い。 残念 な が
ら、 われ われ は、 わ が国 がそ の金 融力 がビー ク であ っ
た時 に、 そ の世界的 な実 力 の意 味す る所を 十 分認識 す
る ことな く、 これを 活 用し た 一貫 し た国家 的 戦 略を 建
て得な か った。
和 食 文
を
要 約
。 和
、
では和食 離 れ が進 み危機 に瀕 し て いる ﹁
現在、海外 では大 変な和食 ブ ー ムであ る が 肝 心 の日本 人 の間
いき た い。
食 とは何 か﹂を再考 し、和食 の素晴 らしさを次 世代 に正しく伝 え て
化
私自 身 、 これ ら の日米 間 の いわ ば局 地戦 にお いて、
国内 から求 めら れ るH的 を 実施 す ると いう 観点 から は
それな り の成果 を挙 げたよ う に思う が、 それ が果 し て
わ が国自 身 の長期的 観点 か ら好ま し いも のをも た らし
た のか、 疑間 な し としな いと ころも あ る。 戦 いに身 を
置く者 とし て、 全体を 俯 収 しう る長と的存 在 によ る ア
ド ヴ ァイ スはな いも のか ヒ思 った こと があ る■ も¨ 実
であ る
.
︱
︱
︰
︲か
ま ヒ めと し て、 わ が国 は近年 わ が国 の︱
︱添 は︱
を広 く議 論 し、 それを追 求す るん の国家 的 戦 略を衆 知
を集 め て確立 し これを 紺繊的 に迫 求 す る と いう努力 が
十 分 ではな か った のではな いかと考 え て いる。
そ の原 因は極 め て深 いも のがあ るよう に思う。 私 は
そ の思 いを 先 に紹介 した 二番 目 の小 著 の中 で次 のよ う
にま と め て いる。
日米金融交渉の覚 え書 き (久 保 I口 )-52
(熊 倉)
53-一 和食文化 を1年 考する
す 。 フラ ンスでは シ エフが国 から勲章 を授 与 さ れ、 非
常 に尊 敬さ れ て います が、 日本 の料 理人 は そ こま で評
価 さ れ て いま せん。 そ こ で京 都 の料 理人 たち が ﹁日本
料 理 ア カ デ ミ ー﹂ と いう 組 織 を つく り、京 都 府 知 事
に、和食 を ユネ ス コの無 形文化 遺産 にす るよう 、 国 に
働 き かけ て欲 し いと要望 し て いま した。
こう した流 れを 受 け、 二〇 一一年 七月初旬 、農 水 省
に ﹁日本 食 文化 の世界無 形遺産 登録 に向 けた検 討会﹂
が設置さ れま し た。座 長を 拝命 し た私 は、 こ の後 約 八
カ月間、
千不ス コに提出す る提案 書作 り に苦 心す る こ
と にな ります 。 項 目 ごと に 二百 五十 ∼七百五 十 ワード
と いう 字 数 に制約 のあ る中 で、 日本 料 理 にな じ み のな
い審 査員 たち に H本 の食 文 化を 説 明しな けれ ばな らな
I
いから です 。前 ユネ ス コ♯ 務 ︲
,
,長 の松 浦兄 一郎 氏 や ユ
ネ ス コ日本 政 府 代 表 部 の方 々に ご協 力 項 き、 翌 年 二
月、よう やく提 案■ を 送付 しま した。 こ の過 程 で、和
食 の登録を ユネ ス コに中 請す る こと は、 国 にと って超
法 規的な 措 置 だ った ことを 知 りま し た。
現在 、
モ不ス コの無 形文 化遺 産 に登録 され て いる 日
沐め 撫 形文化 は、歌舞 伎 、能 、 文楽 な ど の古 典 芸能 や
、に、 二 十 数 件
甑 島 のト シド ンな ど の民 俗 芸 能 を 中 じ
′
ぁ ります 。 これ ら は皆、 日本 の文 化財 保護 法 の重 要無
形文 化財 に指 定 さ れ た後 、何 年 か順番 待 ちを し て ユネ
和食文化を再考する (熊 倉 )-54
﹁
お 好 み 焼 き や た こ 焼 き は 和 食 か﹂ と 問 わ れ る と、
少 々困 ります。 モ不ス コに、個 別 の料 理を 提案 し たわ
食 文化 ﹂を 登録 し て
け ではな く、 日本 人 の伝統 的 な ﹁
いる から です 。
ユネ ス コに提出す る提案 書を 吉 く 際、 和食 の基本 精
神 とし て ﹁
自 然 の尊 重﹂を 挙 げま し た。 ど こ の国 も自
然を尊 重 し て います が、 日本 人 の自 然 観 は ア ニミズ ム
︵
霊的なも のがあまねく存在す ると いう信仰︶に支 え ら
れ て います 。 具 体例 を挙 げ ると、花 見 です。 満 開 の桜
の下 で宴 を 開く のは、 日本 人 だ け です。 し かも梅 や藤
の花 の下 では決 し て花 見 の宴 を しま せん。 桜 はそれ だ
け 日本 人 にと って特 別な 花 な のです 。
民俗学 では、 桜 の ﹁
さ﹂ は農 業 が始 ま る時 に山 から
早 苗﹂
下 り てく る 農 業 の神 様 の名 前 です 。 ﹁
二 月﹂ ﹁
さ﹂音
早 乙女 ﹂ な ど、 四 ∼五 月 にち 踏鋒 言壕 縫 も ﹁
﹁
が付き ま す。
一方 、 ﹁
く ら﹂ は岩 座 や 神 座 と 一緒 で、
さ の神 が いる所﹂
﹁いる所﹂ を意 味 します 。 つま り、 ﹁
が桜 です 。 日本 の神様 は目 に見 えな いので、 山 から下
り てき ても 分 か りま せん が、 昔 の人 は桜 の開花 に、 神
様 が下 り てき た と いう 知 ら せを 感 じた のです 。 満 開 の
桜 には神様 が いる のだ から、 神様 に今年 の豊作 を 約束
し ても ら わ な け れ ば いけま せ ん。 そ こ で、 ﹁
さ の神 ﹂
を も てな します 。 日本 人 のも てな し は ご馳 走す る こと
(熊 倉 )
55-― 和食文化 を再考 す る
ス コ ヘの無 形文化遺 産 に申 請 さ れ て います 。 子不ス コ
ヘの申請 は 一年 に 一件 と決 められ て いるた め です 。 と
ころ が ﹁
和食 ﹂ は こ の慣例 を破 り、重 要無 形文化財 に
指 定 さ れ る前 に、 いき な リ ユネ ス コに申 請 さ れ た の
で、 文化 庁 には相 当 の抵 抗 があ ったと 思 います 。
た だ私 は ここ で、文 化財 保 護 法 に不備 があ ると 思 い
ま し た。 文化 財 と は西洋 の概念 な ので、 西洋 に該当す
るも のがあ る ジ ャ ンルのみ、文 化財 保 護法 の対象 にな
ります 。例 え ば、 演劇 や人 形劇 は西洋 にもあ る ので、
日本 独 自 の能 、歌 舞 伎 、文 楽 は保 護 の対 象 にな り ま
す 。 し かし、茶 の場 、 生 け花 、香 道な ど 、 西洋 にな い
日本 独自 の文 化 は保 護 の対象 にな りま せん。 文化 庁 も
ょう やく 西洋 にな い=本 独 自 の文化 を、 文 化財 保護 法
の無 形文化 財 の中 の ﹁牛活 文化 ﹂ と いう枠 組 み で認定
し て いこう と いう方 向 に動 き出 しま し た。
和 食 の基本 的 な精 神
三〇 一三 年 卜 二 月、 ﹁
和 食 ﹂ は ユネ ス コの政 府 間委
員 会 でi
l式 に ユネ ス コの無 形文化遺 産 に認 めら れま し
l
た。 私 の元 に多く の取材 が殺到 しま し た。最 も 多く訊
かれ た のは、 ﹁
和 食 と は何 か﹂ です 。 これ はな かな か
難 し い問 いです 。 私 ども の考 え では、す き焼 き や豚 カ
ツやオ ム ライ スや カ レー ライ スは和食 です 。 し かし、
な ので、食 べ物 や酒を お供 えします 。 そ のう ち、 お 一
人 で の食 事 は寂 し いでし ょう から、
一緒 に頂 き ま し ょ
う 、 芸能 も披 露 しま し ょう、 とな り、 花 見 の宴 へと発
展し た のでし ょう 。
こ のよ う に、神 様を お迎 え し て 一緒 に食 べる神人 共
食 が、 日本 の年 中 行 事 にお け る食 の根 幹 だ と考 え ま
す 。 これ が和 食 の基本 にあ る 日本 人 の自 然 観 です 。 そ
頂き ま
こから 自 然 の恵 み に対す る感 謝 の念 が生 し、 ﹁
も った いな い﹂な ど に見ら れ る 日本
す ﹂ ﹁﹂馳 定様 ﹂ ﹁
的 感 性 が育 って い った と考 えます 。
和 食 文化 の特徴
和 食 の特 徴 の 一つは、季 節 感 を 大 事 にす る こと で
す。
日本 人 は昔 から 初物 に対 し て非常 に こだ わ ります 。
江 戸時代 、幕 府 は ﹁
茄 子 は何 月何 日ま で売 っては いけ
な い﹂ と いう よう な、 初物 禁 L
I令 を 食材 ごと に出 し て
いま し た。 こん な 法律 があ る のも 、 人 々が 一日も 早く
初 物を食 べ
初 物 を 食 べた いと 願 って いた 証 拠 です 。 ﹁
る と 七 十 五 日、 長 生 き でき る﹂ と いう 言 葉 があ る の
気 ﹂ が籠 って いると考 え た
も 、 日本 人 は初物 の中 に ﹁
気 ﹂ を と ても 大事
から だ と思 います 。 昔 の日本 人 は ﹁
にし まし た。 体内 に気 が満 ち ると 元気 にな り、気 が病
むと病気 にな る。気 が萎 れ た時 に初物 を食 べると、 再
び気 を 充実 でき ると考 え た のです 。
鮎 を例 に話しま す と、 二 月、 初物 の稚鮎 が出 始 め た
頃 、 これを食 べると、夏 が来 た、 と いう気 持 ち にな り
ます 。 これ が ﹁はし り﹂ です 。 七 、鮎 がち よう ど い
月
い大 き さ にな った頃、
一番 お いし い ﹁
句 ﹂ が到来 しま
す 。 焼き鮎 にす ると最 高 に美 味 です 。 日本 人 の場合 、
句 が過ぎ ても 終わ り ではな く 、九 月、 腹 に子を持 った
落ち鮎 を ﹁
名 残﹂ と称 し て楽 し みます 。 こ のよう に、
は し り﹂ ﹁
﹁
旬﹂ ﹁
名 残﹂ と、 四季 の移 ろ いに合 わ せ て
さ ら に繊 細 に食 材 を 味 わう食 文化 が和食 の特 徴 です 。
多彩 な魚 介 類を食 す のも 、和 食 の特 徴 です 。 日本 は
海 岸線 が非常 に長く 、寒流 と暖流 が ぶ つか って絶 好 の
漁 場 と な る 大 陸 棚 に囲 ま れ て いる た め、魚 屋 に は 常
時 、 二十数 種類 の魚 が並 ん で います 。 これ ほど魚 が豊
富 な 国 は 日本 と韓 国ぐ ら いです 。 海藻 も 豊富 です 。 た
だし、海藻 を食 べる のも 日本 と韓 国く ら いで、 そ の他
の国 では、海藻 類 を食 べると、
ヨード の取 り過ぎ にな
ると懸念 さ れ て います。 日本 人 は経験 的 に安 全 であ る
ことを知 って いる ので、今 後 、和 食 を海 外 に広 め る際
に伝え て いき た い点 です 。 健康 に良 いことも和 食 の特
徴 です 。 P FC ︵
タ ンパク質 ・脂肪 ・炭水化物︶ バラ ン
スが理想的 で、動 物 性油 脂 が少な いのです 。
和食文化を再考する (熊 倉)-56
ま した。本 当 は こう した食 べ方 や箸 や食 器 の使 い方 こ
そ、和食 の特 徴 とし て重要 です 。
例え ば、 和食 では食 器を 手 に持 って食 べます 。 飯茶
椀 が左 にあ る のは、左 手 で取 りやす く す る た め です。
箸 の使 い方 も、 今 の若者 の中 には ひど い持 ち方 をす る
人 が います が、 き ち んと教 えを か った我 々の世代 の資
任 です。 箸 は ア ジ ア の多 く の地 域 で使 わ れ て いま す
が、自 分 の箸 を 持 つのはお そらく 日本 だけ です 。 日本
人 は湯 呑、 飯茶椀 も 自 分 のも のを 持 ちます 。 昔 から 日
本 人 は唇 が接す る こと に潔 癖 でした。 逆 に いえ ば、 唇
を 共 にす る こと は他 人 では な く な る た め の儀 式 でし
た。 そ の典 型 が盃 の応 酬 で し た。 四 十 ∼二 十 年 前 ま
で、宴 会 では部 下たち は上 司 の盃 を いただ いて、 ま た
返す と いう ことを よく や りま し た。 そも そも は武家 の
宴会 におけ る巡盃 の儀 式 にはじま る こと で、 これ が今
も 残 る のが、結 婚 式 の三二 九度 です 。 新郎 新婦 が盃を
巡 らせ、初 め て唇を 共 にす る こと が夫 婦 にな るた め の
儀 式 です 。 こ の潔 癖 さ が失 わ れ て いく と、 日本 人 らし
さ が失 わ れ て いく気 がします 。 和食 文 化を 伝 え る こと
は 日本 人 らし さを 伝え る こと であ り、 日本 の農 業 や漁
業を守 る ことを 通 し て日本 の自 然 景観 を守 る こと に繋
がります 。
(熊 倉 )
57-― 和 食文化 を再考 する
ユネ ス コ ヘの提案 書 では、和食 の特 徴 と し て ﹁
家族
、 二■代 男
と 地域 の絆 であ る﹂ も書
し 。
と
き
ま
た
現
在
性 の三 〇 % が夕食 を 一人 で食 べて いま す 。 ﹁
同 じ釜 の
飯を食 う﹂ と いう 言葉 があ るよう に、
一緒 に食 卓 を囲
む こと は人 と人を 強く結 び付 けます 。 これ がな くな る
と、家 族 や 地域 の コミ ュニケー シ ョンが変化 します 。
個食 の増 加 は、 現代 日本 の大 き な問 題 です 。
も う 一つ、 これ は ユネ ス コの提案 書 に書 かな か った
こと です が、食 べ方 にも 和食 の特 徴 があ ります 。 背 か
ら 日本 人 は ご飯 と お業 を 一緒 に食 べてき ま し た。 淡泊
な 味 が好き な人 は ご飯を 多 め に、濃 い味 の好 きな 人 は
お菜 を 多 め に 日に運 び、自 分 で味 を作 りな がら食 べて
きま し た。 これ は 日本 人 独特 の食 べ方 で、 栄 養学 では
﹁=中 調味 ﹂ と 言 いま す 。驚 く こと に、今 の子 ど も 達
は これ が でき ま せん。 私 は小学 二年 生と 一緒 に給食 を
食 べた こと があ ります 。 そ の日 の献立 は麦飯 、 キ ャベ
ツと鶏 肉 の汁物 、 サ バ のソー ス煮 でした。大 半 の小学
、
生 がま ず 麦飯 を 平 らげ、
次
に
汁
物
を
し
飲
み
千
に
最
後
から いサ パ の煮 付 けを +乳 で流 し込 ん で いま し た。
一
皿ず つ食 べ尽くす ﹁
ば っか り食 べ﹂ をす る のです 。 こ
れ では折角 の和食 の献 立 が台無 し です 。 し かも 子ども
たち は、﹁ご飯 と 一緒 に食 べるな ん て気 持 悪 い﹂と 言 う
のです 。食 べ方 を きち んと伝 え る必要 があ ると痛感 じ
和 食 の定 義
現在、 和食 の定 義 を厳 密 に議 論 し て いま す が、 和食
米 飯 、汁 、来 、漬 物 を基本 の献立 とす る﹂ と言
とは ﹁
う こと は出 来 る でし ょう。
現在 の汁物 は具 が少し の味嗜 汁 が主流 です が、 昔 は
東北 のせん べ い汁 や沖縄 のヤギ汁 のような 具 沢 山 の汁
が主流 でし た。 汁物 こそ メイ ンデ ィ ッシ ュでし た。 安
土桃 山時代 に来 Hし たポ ルト ガ ル人 宣教 師、 ロド リ ゲ
スも 、 ﹁日本 人 は汁 がな いと、 ご飯 を 食 べら れ な い﹂
と 記 録 し て いま す。 具 に は最 高 の食 材 が使 わ れ ま し
た。 江 戸時代 な ら鶴 です 。 今 は 天然 記念 物 な ので食 べ
ら れま せん。 二番 目 は自 鳥 です が、 これも 天然 記念 物
な ので食 べられま せん。 三番 目 は雁 です 。魚 な ら鯛な
ど です。
出 汁を 取 る ことも 大 きな特 徴 です 。 鰹節 も 昆 布も 大
変な 手 間 と時 間を かけ て作 られます が、 出汁 を 収 る の
は 一瞬 です 。 出汁 には油 脂 や ゼラチ ンに相 当す るも の
がな く 、 肝 心い うま み のみを 取 り出 し、残 りは全部 捨
てま す。 出 汁 の文化 は室 町時代 からあ り、料 理 の本 に
一九 〇
記載 さ れ るよう にな る のは江 戸時代 か ら です。
七年 、池 旧菊 古博 士 が昆 布 のう ま み成 分を 分析 し、 グ
ルタ ミ ン酸 ソーダを 発 見 しま し た。 今 日、 世界中 でう
,
ま み調味 料 が使 われ るよう にな って います 。
射
編 嘉
褥
曜 黙群
跨
﹂ 一証
編
¨
て持ち 帰る のが約
束 です 。 私自 身 、
子ども の頃 、 父 が
﹁
今 日 は 宴 会 だ﹂
と言う と楽 し み で
し た。 折 詰 に詰 め
たキ ント ンな どを
持 って帰 ってく れ
た から です 。 逆 に
言う と、本 膳 料 理
は残 さな けれ ばな
りま せん。 全 体 の
う ち、 鯛 はそ の場
怒 られ ます
和 食 の発 展∼茶 の湯 の懐 石
茶 の湯 の懐 石 には三 つの特 徴 あ ります 。
一つ目 は、
そ の場 で全部 食 べ切る こと です。 二 つ目 は、出 来立 て
がそ の都度 運 ばれ てく る こと です 。 西洋 で これ が確 立
す る のは 一人 七〇年代 です から、食 文化 は 日本 の方 が
は る か に発 達 し て いた と言 えます 。 三 つ日 は、 趣向 と
いう メ ッセー ジが食 事 に こめら れた こと です。
茶 の湯 の懐 石 では、ま ず 、飯 と 汁 と お来 ︵
向付︶が
出 て、 次 に煮物 椀 が出 ます 。 煮物椀 の熱 さ がご馳 走 で
す 。 次 に焼 き物 が出 ます 。 茶 の湯 の懐 石 は和食 の最 高
峰 です が、家庭 料 理と 同 じく 一汁 三菜 です 。 こ の後 は
お菜 ではな く、 酒 と 一緒 に味 わう た め の肴 が饗 さ れま
す。 同 じ料 理 でも 、 ご飯 と 一緒 に食 べれば お業 で、 酒
と 一緒 に食 べれ ば肴 です 。 吸 い物 も出 ます が、 これも
酒 を 飲 む た め の料 理 です 。 最 近 の料 理尾 では、 ﹁吸 い
物 でご飯 を どう です か﹂ と言 われま す が、 これ は間違
では絶 対 に手を 付 けず 、持 って帰 って家 族 にお桝分 け
す るも のでし た。 日常 生活 の中 でご馳 走を食 べる機 会
がな か った から です 。 し かし、 持ち 帰 った料 理は美 味
。
し
く
あ
り
ま
ん
で
今 から 四百五 十年前 、 料 理 の
せ
そ
こ
革 命 が起 こりま し た。 ﹁
茶 の場 の懐 石﹂ と いう 新 し い
料 理 の登場 です 。
銘 々膳 の場合 、料 理を たくさ ん出す には、 お膳 の数
を増 やさ な けれ ば いけま せん。 図 3 ︿
巻頭カラー掲載︶
は、 二 の膳 付 の食 事 の様 子 が描 かれ て います 。 お膳 一
つだ と家 庭 料 理です が、 二 つ以 上並 ぶとも てな し料 理
で、 二汁五菜 がも てな し料 理 の基本 でし た。 以後 、膳
︵
﹄
為彼
輌
仲
ガ識L鋼漏‰場は.
高
でき て いま す 。 今 、 ご飯 に箸 を 立
が、当 時 は これ が作 法 でし た。
庶 民 の 食卓 (病 草紙 )
次 にお業 です が、 和食 の定 義 ではかな り緩 や か に考
え て います 。
ハンバー グ でも構 いま せん。箸 で食 べる
も のであ れ ば、 現代 の食 生活 に合 ったも のを 入れ た ら
良 いと思 って います 。
図
5
本膳 料理 (酒 礼 )
図4 ︵
巻 頭カ ラー掲載︶は、
一九 二 〇年 代 の金 沢 で
の結婚 式 の料 理 の復 元 です 。 結婚 式な ので、 最 初 に大
。
盃 が巡 り ま す ︿
図 5︶
歌
荒
曲
﹃
の
城
月
﹄ の歌 詞 ﹁
春
高楼 の花 の宴 巡 る盃 影差 し て﹂ の ﹁
巡 る盃 ﹂ が これ
で 。 こ の後 、 三 の膳 、 四 の膳 、 ■ の膳 が出 ます 。
す
こう し た本 膳 料 理 は食 べ切れな いこと が特 徴 で、食
べ残し て折 詰 にし
の数 はど んど ん増 え、 多 いほど格 式 が高 いこと にな り
ま し た。 これ が ﹁
本 膳 料 理﹂ と呼 ば れ る 日本 人 のも て
な し料 理 でし た。
お膳 です 。 うず 高 く盛 ら れ た ご飯 は ﹁
高盛 り飯﹂ と言
います。 こ の時 点 で既 に 一汁 三菜 と いう和食 の定 型 が
特
日本 人 のも てなし料 理∼本 膳料 理
図 1は、 九 百年前 に描 かれた ﹁
病草 紙﹂ の 一場 面 で
す 。 日本 人 は、大 正末 期 にち ゃぶ台 が登場す るま で千
忘 れ てな らな いのは漬 物 です 。 た だし、 多く の人 が
漬 物 と思 って いるも のは、 発酵 し て いな い単 な る調味
液漬 け です 。 沢庵 やす ぐ き のよ うな 発酵 さ せた本 物 の
漬物 は惨惜 た る状 況 です 。 皆 さ ん に提 案 です が、 小さ
な タ ッパー で良 いです か ら、家 で糠 床 を作 ると毎 日美
味 し い潰 物 が食 べられます 。 わ が家 も 冷蔵庫 で作 って
います 。糠 には様 々な滋 養 が含 ま れ る ので、 胡瓜 や茄
子 が大 変美 味 しく な ります 。
以上 の和 食 の定 義 から、 う ど ん、 そ ば、 郷 土 料 理 の
鍋な ど は、 出 汁 と 発 酵食 品 ︵
普油、味吟、 み り ん、 酢 ︶
を使 って いる ので、全 て和 食 に入 ります 。
和食文化を再考する (熊 倉)一 -58
(熊 倉)
59-― 和食文化を再考する
いです 。 最後 に八 寸と いう 取 り肴 が出 て、肴 は終わ り
です 。 そ の後 、湯 と香 の物 が出 て、 ご飯 を お湯漬 け に
し て食 べ終 え ると、東 ■ が出 ます 。
和食 の料 理技術 は、本 膳料 理と茶 の湯 の懐 石を 元 に
発 展 を 遂 げ、幕 末 ま で に完 成 し ま し た。 近 代 にな る
と、 場木 貞 一や北大 路魯 山人
っ
と
い
た
天
才
料
人 によ
理
って更 に 一新 しま し た。湯 本 は懐 石料 理 の店 ﹁
吉 兆﹂
和食文化の 四面体
7
倉)-60
います 。 和 食 の料 理 人 を 志 望 す る 若 者 も 激 減 し ま し
た。 ﹁
和 食 は修 行 が厳 し そう﹂ ﹁日本 料 理屋 は繁盛 しな
さ そう﹂ と いう のが 理由 です 。
︰後 、 =本
図 7 の和食 の四面体を ご覧 ドさ い。 終戦山
︱
人 の食 事 は決 し て理想 的 ではなく 、 むし ろ栄 養 不 足 で
した。 し かし 一九 六 〇年代 以降 、食 糧事情 が改善 し、
食 車 に並 ぶ メ ニ ュー が性 官 にな りま し た。 N H K の
﹁
き ょう の料 理﹂ が大 人 気 と な り、主 婦 た ち は今 ま で
作 った こと のな い料 理 に挑 戦 しま し た。
一九 七〇年代 にな ると ち ゃぶ台 にかわ って、 お菜 は
大 皿料 理 に盛 ら れ、 グイ エング テーブ ルに並 べら れ る
よ う にな りま し た。 十 が好き な だ け食 べても お菜 が残
るぐ ら い豊 か にな った のです。 ま た、大 正末 期ま では
銘 々膳 でした から、 近代 以降 、家 庭 の食 事 スタイ ルが
三 回変化 した こと にな ります 。食 生活も 同 じく ら い激
し く 変 化 し ま し た。 こ ん な 国 は 日本 以 外 にあ り ま せ
一九 八〇年 ご
ん。 こ の時代 は栄 養 面 でも 豊 か にな り、
ろ の日本 人 の食 生活 は 理想 的 であ った こと が医学 的 に
証 明さ れ て います 。
し かし そ の後 、 和食 は危 機 を 迎 えます 。国 産 品を食
べる こと が和食 の原 則 です が、食 料 自給 率 はカ ロリー
ベー スで四〇%を 割 りま し た。 出汁 を 取 る家 庭 も激減
し て います 。 伝統 的技 法 が廃 れ て いる のです 。 栄 養 面
図
吉 兆 の 料理
図6
(熊
和食 文化 をri考 す る
(熊 倉 )
61--11食 文化 をFj考 す る
、
た創 立 し た 天才 で 漆器 に塩 で流 水を 描 き、 ア ユがょ
。 これ が料 理 の
行す る様 を 料 理 で見 せま し た ︵
図 6︶
趣向 です 。 近年^ ヌー ベ ルキ ュイ ジー ヌと いわれ る祈
し いフラ ンス料 理 が流 行 し て います 。大 きな白 い皿を
キ ャンパ スに見立 て、ポ ロ ック の絵 の如 く 、料 理 に緑
や黄 や赤 のソー スを かけ る のです が、 これ は湯木 の影
響 であ ると 思 います 。
和 食 の危 機
現在 、 訪 日外 国 人 は
年 間 二千 万 人 を 超 えま
す。彼ら に ﹁
訪 日前 に
期 待 す る こと ﹂ を 尋 ね
る と、 L 六 % の 人 が
﹁
和 食﹂ と 答 え ま す。
実 際 、 海 外 で は大 変 な
日本 食 ブ ー ム で、 今 後
も ます ます 高 ま ると 予
想 さ れ ま す 。 海 外 の=
本 食 レ スト ラ ンも 増 加
の 一途 で す 。 と こ ろ
が 、 日本 国 内 で は 和 食
は 食 べら れ な く な って
でも 、 ︵ンバーガ ーや コンビ ニ弁 当 の普 及 か ら分 か る
通 り、 若者 の食 生活 は良く あ りま せん。和 食 のも てな
しも 危機 に瀕 し て います 。 若者 は西洋 料 理 の マナ ー は
熟知 し て います が、和食 の マナーを 知 りま せん。 客 が
無 知な ので、 料 理屋も床 の間 の掛 け軸 や生 け化 に凝 ら
なく な りま し た。 ただ料 理 の説 明 のみ、 う るさく 凝 る
よう にな りま し た。
二〇 一二年 、 二十代 の若者 一万人 に調査 し た結 果 、
二十代 の男性 のう ち 一八 ・四% が 一カ月 に 一度 も お米
のご飯 を食 べて いま せん。 正 月 に自 宅 でお節 料 理を作
る家 庭 も 全体 の三〇% にな り、減 少 の 一途 です。 初 詣
に行 った後 、 フ アミ レ スで食F を す る家 庭 も増 えま し
た。 今 や 日本 の家 庭 の最大 のイ ベ ント は ク リ ス マスで
す 。 そ のうち ハロウ ィー ンが加 わ る でし ょう 。
そう いう時代 の流 れ の中 、 私 ども は和食 を次 世代 に
正しく 継 承す るた め、 二〇 一五年 、和 食 文化 国 民会議
を 設 立 し ま し た。 活 動 の 一つと し て、 語 呂 企 わ せ で
﹁い い日本 食 卜 と な る十 一月 二十 四 月、 全 国 の小中 学
校 と保 育 所 の給 食 で天然 出 汁 の汁を ふ巧は いま し た。
味 が分 かる人 と 分 か らな い人 のた は、味 膏 の数 や敏 感
さ ではな く、記憶 の差 です 。子ども の頃 に様 々な味を 記
憶 し ておく こと がと ても 大事 です 。食 の経 験 の少 な い
rど も に、﹁
何 が食 べた い?﹂と 選 ば せ て いた ら、 ま す
個人の随想や研究書から
企 業 ・団体の記念 誌 まで、
ご要 望にお応 えいたします 。
徒
獨卿
〒1010051 東京都千代日区神田神保町1 10 1 1VYビ ル5階
電話 03-5244‐ 5723 FAX 03‐ 5244‐ 5725 E‐ mal:manchukOlicoip
中央公論事業出版 8謳 騒8船 員
朧
め
D 松 尾 芭 蕉 は 、 ﹁四 時 ︵
四季 ︶ を 友 とす ﹂ と 表 現 し て いる 。
2 韓 国 で は食 器 を 手 に持 って食 べる のは無 作 法 と さ れ る。
0 食 の分 野 にお け る 日本 の世 界 的 貢 献 に、 う ま み の発 見 と イ ン
スタ ント ラ ー メ ンの発 明 があ る。 これ ら は ノ ー ベ ル賞 級 の発
明と思わ れ る。
↓ 二〇 〇 六 年 、 海 外 の 日本 料 理 店 の総 数 は 、 約 二 万 四 千 店 だ っ
た が、 二 〇 一五 年 、 約 八 万 九 千 店 に増 加 し た。
9 現 在 、 全 国 の給 食 ︵一週 間 五 食 ︶ のう ち 、 三 ・三 食 が米 飯 で
あ る。 し か し 、 ピ ラ フも 米 飯 に含 む の で、 厳 密 に和 食 の献 立
の給 食 を 増 や し た い。
︵M I H O M u S E U M館 長 ・和 食 文 化 国 民 会 議 会 長 ・東 京 教
0︶
現 筑 波 ︶ 大 。文 博 。文 。昭 4
育 ︵
8年 7月 0 日午餐 会 にお ける講演 の要 旨 であ りま す ︶
︵
本 稿 は平 成 2
2
バンフレツト請 求 ・見積 り無 料 。
お気 軽にご相 談 ください。
出版相 談会﹀毎 日ご相談を お受け して います ▲
▼︿
﹃ユダ ヤ人と近代美術﹄第 二話 にむけ て
司:
りや ア メリカ抽象 表 現主 義 の多く の画家 、 画商 、 批 評
家 が ユダ ヤ系 であ る こと は、専 門家 のみな らず 一般 的
にもす でにあ る程度 認識 さ れ てき て いる。 ウ ィー ン分
寺:
離 派 も、 哲学 者 ルード ヴ ィヒ ・ウ ィト ゲ ンシ ュタイ ン
の父 カー ル ・ウ ィト ゲ ンシ ュタイ ンを はじ めとす る ユ
ダ ヤ系 パト ロンたち な し には成 立す らしな か った。 ガ
現ウクライナと南ポーラ ンド︶出 身 の大
リ ツィア地方 ︵
折 の天才 画家 マウリ ツィ ・ゴ ット リ ープ は、 ど の国 の
いま だ に充
美 術 史 にも 組 み こま れ て こな か ったた め、
。
分な 認知 、 評価す ら与 えら れ て いな い ︵
図 1︶
し かし 、 これ ら芸術 家 や パト ロン以上 に評価 さ れ て
M922(20171)
摯士會会報
固固□□ 鰈59T
︱︱ 画商 を超 え た画 商 ジ ー ク フリ ー ト ・ビ ング ーー
﹃ユダ ヤ人と近代美 術﹄ ベラ スケ スから ニ ュー マンま で
昨年 ︵
二〇 一工
C 一月、拙 著 ﹃ユダ ヤ人 と 近 代 美 術﹄
︵
光文社新苦︶を 上 梓 し 、 近 代 美 術 史 上 で重 要 な 役 割
を 果 た した ユダ ヤ系 の人 々のう ち、 主 に芸 術家 に つ い
て論 した。 ユダ ヤ人 に対す る意 識も 低 く認識 も 浅 い日
本 では、
ユグ ヤ系 の画家 、批 評家 、 美 術史家 、 画商 、
パト ロンの多く はそも そも ユダ ヤ系 と し て認識 さ れ て
す ら いな い。
し かし、 ス ペイ ン美 術 を代 表す る画家 ベラ スケ スが
コンベ ルソ、す な わち 改宗 ユダ ヤ人 の家 系 だ った と い
エコー ル ・ド ・パ
う こと は ほ ぼ定 説 にな って いるし、
府う
ます 食 の選択 の幅 が狭 くな ります 。今 後も 和食 の給食
を 増 やす 活動 等 を し て いき た いと 思 って い講討 ¨ 皆 さ
んも どう かお 子さ んや お孫 さ ん に、 サ ン マの腸な ど の
様 々なも のを食 べさ せ て下さ い。
和食文化を再考する (熊 倉)-62
『ユダヤ人と近代美術』第二.fに むけて (囲 府寺)
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