COLUMN COLUMN ◆連載ー Vol.21 執筆者プロフィール 現代建築 ヤブニラミ 千葉大学建築学科卒業、 『住宅 特集』『新建築』編集長 を 経 て 中谷 正人(なかたに・まさと) 1948 神 奈 川 生 ま れ。1971 年 1994 年からフリー編集者。 1999 年 ~2014 年 千 葉 大 学 客 中谷 正人(建築ジャーナリスト) 員教授。木の建築フォラム理事、 日本建築学会建築文化事業委員 会幹事 現代建築 の 開拓者 たちとその 軌跡 3 ムーブメントの 建築と位置 づけられている。 今年 の1月 31 日 茂 る空 き 地状態。 そんな 環境 の 中 で 人々 が 集う場として 計画 谷口吉郎 緩 やかな 感性 をもって 閉館 にしたが 、多くの 建築家 が 再訪して 偲 んでいた された「広場」であったはずが 、 70 年安保 を 控 えて 反戦集会 蔵 元 に 生 ま れ た 坂 倉 より 3 歳 年 下 に な る 谷 口 吉 郎 は 金 沢 坂倉準三 モダニズムと繊細 さ のは 記憶 に 新しい 。 の 場となり、フォーク集会 が 始 まったりしたため 、当局 は「広 の 、しかも 九谷焼 の 窯元 の 出身 であった 。 戦後 の 建築 の 動向 につ い て 、 まず 丹下健三 から 始 めて 村 ル・コルビュジエをさらに 繊細 にしたといったらコルに 怒ら 場」ではなく「通路」だとして 道路交通法 を 適用して 集会 を 規 一連 の 慶応義塾関連 の 施設、木曽街道馬籠宿 に ある「藤 野藤吾、吉田五十八 へと 続 けた 。 これは 現代建築 の 流 れを れるだろうか 。 ラ・トゥーレットを 訪 れたとき 、方立 てなど 細 制 するようになった 。 そ のプロセスを 私 の 同世代 は 経験して 村記念堂」( 1947 )などがあり、 いずれもモダニズム 建築 で 語 ろうとすれば 当然 であったが 、 その 後 は 年代順としたため 、 身 の デ ザインにもかかわらず 、 エッジを 見 ると 粗骨材現し仕 いるは ず だ 。 磯崎 の 世代 が 焼 け 跡派 で 、 そ れに 続 く伊東豊 はあるもの の 、どこか 柔らかな 線 が 流 れていて 落 ち 着 いた 空 図 ら ず も 現 代 建 築 から 見 れ ば ちょっと 違 った 流 れとなった 。 上 げ 。 こりゃ「打放し」ではなく「 やりっ放し」ではないかと思 雄 や 安藤忠雄 たち の 世代 が 平和 な 時代 の 野武士 だと 槇文彦 間 を 醸 し 出 し て い る。( な お 、 小 諸 市 に も「 藤 村 記 念 館 」 村野 も 吉田 も 広 い 意味 での 装飾 を 大切 にしたからだ 。 しかし った 。 ところが 国立西洋美術館 など、海外建築家 の 設計 を 日 が 表現したが 、団塊 の 世代 は … やはり団塊 の 世代 でしかない ( 1957 )があり、これも 谷口 の 作品 であが 、甲府市 にある藤 この 後、生年順 に 追っていくと坂倉準三( 0901 )、谷口吉郎 本 で 施工 すると、 きちっと仕上 げられる。 これをみたコルが 、 のか 。 まあ 、新宿 はゴー ルデン 街 などとともにほろ苦 い 思 い 村記念館 は「 ふじむらきね ん か ん 」で あり、島崎藤村 とは 関 もっとラフでよかったのに 、とつぶやいたのは 都市伝説 か 。 出 が 詰 まった 場所 でもあるのだが 、西口広場 が 坂倉準三 の 設 係 ないようだ ) 順三( 1908 )、 そして 丹下健三( 1913 )となる。 そして 前川國男、吉村順三とともに 六本木 の「国際文化会 計 であったことは 後 になって 知ったことだ 。 解体 されてしまったが 、「 ホテルオークラ 東京本館」のメイ こうなると、 そ れ ぞ れ 一家 を 成して い た 諸先輩 に 対して 、 館」 ( 1955 )の 設計 に 携 わり、最上階 にプラネタリウムがあっ ついでながら大手町 にあった「富士銀行本店」 (現大手町 タ ンロビー( 1962 )は 天井 が 高 いにもかかわらず 低 い 椅子 がゆ ( 1904 )、前川國男、白井晟一( 1905 )と続 き 、 さらに 吉村 丹下 が ちゃき ちゃき の モダ ニ ストとして 打って 出 た の は か な た 渋谷 の「東急文化会館」( 1957 現存 せず )、鳥羽市庁舎、 ワー )の 足元回りに 計画 された 、 マンハッタンにあるポケット ったりと 配置 されて おり、和風 を 感じさせるデ ザインが 組 み り戦略的 だったように 見 えてくる。 そして 、 そ れを 援護した 横浜 の 山下公園 に 面したシルクセンター (ともに 1959 )など パークのような 広場 も 同様 に 立 ち 入り禁止となった 。日本 にも 込 まれ 、しっとりとした 空間となっていた 。 また 、現存 する東 の が 当時 の 評論家、浅田孝、川添登、濱口隆一 などで あっ をはじめ 庁舎 や 公共建築 の 分野 でも 活躍し、 1966 年 に「新 「都市」という概念 が 広 まるにつ れて 、高密 な 都心部 にも 広 京・渋谷 の「乗泉寺」 ( 1965 )、 「 帝国劇場」のロビー( 1966 )、 たことはすでに 記した 。 そ れが 功 を 奏したのか 、 あるいは 社 宿駅西口広場」、翌年 にこれと連続 する「小田急電鉄西口本 場 が 設 けられるようになったのだが 、どうやら時期 が 悪 かった 「東京国立博物館東洋館」( 1968 )、「東京国立近代美術館」 会自体 がそ のような 方向 に 進 んだのか 、様式としてはモダニ 屋ビル 」(現小田急百貨店本店)を 完成 させた 。 蛇足 ながら、 ようだ 。 都市 における 広場 の あり方 が 問 われる 前 にこのよう ( 1969 )などからも 同じような 印象 を 受 けるが 、 そう感じるの ズムが 一世 を 風靡していることは 間違 いない 。 もちろん 様式 大阪 から 現場監理 で 常駐しながら 自邸「塔 の 家」を 設計した な 事態 が 発生したことが 原因 で 、今 でも 広場という言葉 が 曖 は 歳 のせいだろうか 。 論争、 ポストモダ ニ ズムなど、多くの 揺り返しは あったも の のが 東孝光 であったが 、東 につ いては 改 めて 触 れることにな 昧 なままに 使 われているような 気 がしてならない 。 な お 、 改 め て 言 うま で も な い が 山 形 の「 土 門 拳 記 念 館 」 の 大勢 に 変化 は なく、新しい 建築様式 の 模索 は 今 で も 続 い ろう。 かつての 新宿駅西側 は 淀橋浄水場 で 広漠とした 場所 だ 都市計画的 な 意味 で 言 えば 、戦後 い ち はやく丹下健三 が ( 1983 )や 香川 の「丸亀市猪熊源一郎現代美術館」 ( 1991 )、 ている。 った 。「淀橋」という言葉 はいまでも「ヨドバシカメラ 」の 名称 広島 で「公園」という言葉 を 用 いたが 、「広場」という言葉 を 東京 の「東京国立博物館法隆寺宝物館」( 1999 )などを 設計 話 を 元 に 戻 そう 。 戦 後 の モ ダ ニ ズ ム の 大 き な 流 れ の 推 に 名残 を 留 めている。 副都心として 超高層 ビ ルが 林立し始 め 用 い た の は お そらく 坂 倉 が 初 め て だった の で は な い だ ろう した 谷口吉生 は 吉郎 の 子どもである。 進 役 の ひとりとして 坂 倉 準 三 を 挙 げ ることに 異 論 は な い で る前 のことであった 。 か 。 広場 は 都市 にアクティビティを 誘起 させる 場 として 構想 あ ろう 。 1951 年 に 竣 工 し た「 神 奈 川 県 立 近 代 美 術 館 」は 私 の 学生時代、「霞 が 関 ビ ル 」はまだ 工事中 だった 。 新宿 されていたはずだったが 、果 たして 現在、 そ れだけの 覚悟 を 坂倉準三と谷口吉郎 には 出会うことができなかった 。 心残 DOCOMOMO JAPAN に 選定 され 、日本 におけるモダン・ の 西口広場 は 完成していたが 、中央公園 などまだ 雑草 が 生 い 持って 広場 が 計画 されているのだろうか 。 りである。 神奈川県立近代美術館 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) 34 国際文化会館 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ホテルオークラ 東京本館メインロビー 東京国立近代美術館 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) 35
© Copyright 2024 ExpyDoc