現代建築ヤブニラミ中谷正人

COLUMN
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◆連載ー Vol.18
執筆者プロフィール
現代建築 ヤブニラミ
千葉大学建築学科卒業、
『住宅
特集』『新建築』編集長 を 経 て
中谷 正人(なかたに・まさと)
1948 神 奈 川 生 ま れ。1971 年
1994 年からフリー編集者。
1999 年∼ 2014 年千葉大学客
中谷 正人(建築ジャーナリスト)
員教授。木の建築フォラム理事、
日本建築学会建築文化事業委員
会幹事
新しい 時代 の 始 まり
とによって 、 アメリカからの 影響 も 強く受 けるようになった 。
かり、弘田三枝子、 ザ ・ ピーナッツ 、平尾昌晃、山下啓次郎、
建築 か 大手 のオフィスビ ルやデパートがほとんどだったから、
戦後 の 日本 の 家電商品 はアメリカのコピーだと非難 された
ジェリー 藤尾 など枚挙 に 暇 がない 。
公共建築 にそ の 後 の 建築 の 規範 を 求 めようとしたのも 決して
1960 年前後概観
ことが あった 。 この 指摘 に 対して 忸怩 たる 思 いを 持った 日本
ジェームス ・ ディーンやエルヴィス ・ プレスリーにあこがれて
見当違 いではなかったかもしれない 。 街中 の 建物 のほとんど
1945 年 の 終戦以降、日本 が 瓦礫 の 中 から 立 ち 直 るのにそ
人 も 多 かったが 、実 は 当然 の 結果 で あることはほとんど 知ら
リーゼントが 流行り、銀座 にはみ ゆき 族 が 溢 れ 、湘南 には 石
は 見過ごしてしまう路傍 の 石 のような 存在 だった 。 あるいは 、
れほどの 時間 はかからず 、 1955 年 には「 もはや 戦後 では な
れていないようだ 。 これを 教 えてくれたのは 日本 の 生活史研
原慎太郎命名 の 太陽族 が 跋扈した 。 当時高校生 だった 私 た
まだデ ザインというも の が 認識 されて い なかった の かもしれ
い 」と『経済白書』は 宣言。 経済発展 はさらに 加速した 。 そし
究家 の 小泉和子 であった 。
ちはアイヴィーかコンチ( ネンタル )かで 競 い 合った 。 あえて
ない 。
て 所得倍増政策、持 ち 家政策 へと進 み 、 1964 年 の 東京 オリ
東京・大田区 にある「昭和 のくらし博物館」で 、館長 でもあ
説明 するならばアイヴィーは VAN であり、コンチは JUN だ 。
だからこそ 、志 の ある建築家 たちは 最大 の 努力 をした 。 お
ンピック、 1970 年 の 大阪万国博覧会 を ふ た つ の ピ ークとし
る 小泉 から 直接聴 い た の は 、 アメリカ 軍 が 駐留 するに 当 たっ
テレビではアメリカの 西部劇 とホー ムドラマ 。 きれい な マ
そらく荒野 に 立 ち 向 かう開拓者 のような 気持 ちだったに 違 い
て 、日本 の 社会全体 が 大 きく変動した 。
て 、将校 にはアメリカ 本土と同じ暮らしができるように 要求 さ
マと 物分りの い い パパが 明 るい キッチンでテ ーブ ルを 囲 む 、
ない 。 まだ 見 ぬ 理想 の 建築 を 目指して 突 き 進 んでいった 。
東京 オリンピックに 合 わせて 東海道新幹線 が 開通し、首都
れ 、 そ のためにテレビ 、冷蔵庫、洗濯機、扇風機、トースタ
和 やかな 朝食風景。 その 背後 には 電気冷蔵庫( そのころの 日
まず 、丹下健三 の「東京計画 1960 」が 都市計画 の 可能性
高速道路 も 整備 された 。トンネルに 入 るたびに 大急 ぎで 窓 を
ーなど、 おそらく GE ( ゼネラルエレクトリック社)などアメリ
本 は 氷 を 入 れる 冷蔵庫 だった )やジュー サ ー 、トー スター が
を 社会 に 突 き 付 けたと同時 に 、「都市計画」概念 を 根付 かせ 、
閉 めて い た 蒸気機関車 は 姿 を 消しはじめ 、 かつて「鉄腕 アト
カのメーカー のノウハウが 無償 で 日本 の 電機メーカーに 渡 さ
並ぶ。
1962 年 には 東京大学 に「都市工学科」を 創設し、翌 63 年 に
ム 」で 描 かれて い て 、遠 い 未来 だと 思って い たビ ルを 縫うよ
れたというのだ 。
西部劇 のヒーローはなんと言ってもローン・レンジャーだ 。
は 教授として 就任した 。「代々木体育館(正式名称:国立代々
うに 空中 を 走 る 高速道路 が 現実 のものとなった 。 おそらく鉄
持 ち 前 のまじめさで 、 オリジナ ルよりも 優 れた 製品 を 作り
白馬シルバーに跨り、トントを 助手にした 黒 マスクの 英雄。英
木屋内総合競技場)」や「東京 カテドラル 聖 マリア 聖堂」によ
腕 アトムが 空 を 飛 ぶのもそう遠 い 未来 ではあるまい 。
上 げてしまったため 、先 ほどの 非難 はやっか み 半分 の バッシ
雄 はまだまだ い た 。 ロー ハイドのフェー バーさん 、 ララミー
って 、 シェルや 折板構造 を 用 いた 大空間表現 の 可能性 を 証明
だから、新しい 技術 は 明 るい 未来 を 開 いてくれるものだと
ングだった 、というのが 本当 のようだ 。
牧場 のジェス・ハーパー 。 もっと書 きたいが 編集者 からカット
したが 、 これは 同時 に 都市 の スカイラインを 大 きく変 えるこ
信じて 疑 わなかった 。 それに 拍車 をかけて 、豊 かな 未来 を 描
また 、学校 や 会社 などで 一般的 に 使 われていた(今 ではだ
されそうだからここいらへ んで 止 め 。 下駄 を 履 いて 小学校 に
とにもなった 。 建物単体 として の デ ザインから 都市 デ ザイン
き 出したのが 大阪万博 であった 。 当時、第一線 で 活躍してい
いぶ 様変 わりしているが )机 やキャビネット、本棚 などの 事務
通 い 、貧しい 食事しか 取 れなかった 昭和 23 年生 まれの 小僧 に
へと、丹下自身 の 方向性 を 大 きくシフトしたが 、建築界 にも
た 建築家 が 総出 で 参加したのだから、 デザイン 、構造 システ
機器 がスチ ー ル 製 で 色 がグレイで あることも 、 アメリカ 軍 の
とって 、 ラジオから 流 れるアメリカンポップスやテレビに 映 る
都市計画 の 重要性 を 波及 させたのであった 。
ムなど、 それぞれに 新しいアイデアが 満載 されていた 。
標準仕様 からきているという指摘 もされた 。 納得 できる 話 で
モダンな 暮らし、街中 のアイビーファッションは 輝 いていた 。
この「東京計画 1960 」をスタッフとして 協力したのが 磯崎
この 時代 は 世界中 が 動 いたが 、日本 の 変貌 はとくに 激しか
あった 。
った 。明治 の 開国以来、建築に限らす 法律 やファッション、生
家 電 製 品 や 事 務 機 器 だ け で は な い 。 ファッションも 然 り、
建築 から都市 へ
けていることは 間違 い な い 。 ただし、 そ の 後 はまったく異 な
活様式にいたるまで 、新しい 暮らしの 文化 は 主にヨーロッパか
音楽 も 然りで ある。 50 年代後半 から 始 まるアメリカンポップ
こんな 時代 を 背景として 、 モダニズム 建築 が 一気 に 街 を 覆
る 方向性 をとることになるのだが 、 この ふたりの そ の 後 の 活
ら 届 いていたのだが 、敗戦国日本 にアメリカ 軍 が 駐留 するこ
スと、 そ のカバー バージョンが 流行った 。 中尾 ミエ 、伊東 ゆ
うようになった 。 といっても 目に 付くような 大 きな 建物 は 公共
躍 については 改 めて 記 す 予定 である。 (続く)
昭和の暮らしと家電
提供:有限会社グローブプラニング
代々木体育館 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
新 であり黒川紀章 であった 。 だからいずれも 丹下 の 薫陶 を 受
東京カテドラル聖マリア聖堂 外観
東京カテドラル聖マリア聖堂 内観
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
(産業フェア in 善光寺平「昭和のなつかし家電と暮らし」展示コーナー)より
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