Page 1 追悼の辞 安藤良雄教授は、昭和六 年五月六日、急に容態が

 追 悼 の 辞
安藤良雄教授は、昭和六〇年五月六日、急に容態が悪化し、永眠されてしまった。いま頃では決して長いとは
いえない六七年の生涯であった。
安藤教授は、東京大学経済学部に奉職され、日本経済史担当教授として研讃を積まれる一方、後進の指導にあ
たってこられた。その間、東京大学図書館長、経済学部長の要職に就かれるかたわら、日本財政史︵大蔵省︶をは
じめ、わが国の経済政策史、企業史などの編集にあたってこられた。この分野で、安藤教授が残された業績には
多大なものがある。その一方で、文部省にあっては大学設置審議会会長を歴任され、日本学術会議にあっては、
その転換期に極めて困難な調整の任にあたられた。それだけにとどまらず、わが国の文教行政のあらゆる分野に
わたって指導的役割を果してこられた。これら多方面にわたる超人的ともいえる御活躍には、ひたすら驚嘆と感
服の念を禁ずることができない。このようなハ面六臂の御活躍は、安藤教授のお人柄の発露であると共に、強い
使命感に根ざした人生行路ではなかったかと思う。生命の完全燃焼であったと評することもできよう。
東京大学を定年退職された直後、われわれの成城大学経済学部の教授としてお迎えすることができた。御着任
にあたっては、心よくお引受けを戴いただけでなく、ほとんど違和感もなく接することができたのもひとえに、
安藤教授のお人柄によるものであった。その所為もあって、御着任後わずか二年にして、経済学研究科長への御
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就任をお願いする一方、やがて成城大学学長への御就任をもお願いすることとなった。その間、短い期間ではあ
ったが、成城学園学園長代理に就任されるなど、多忙な要職に就かれた。それもひとえに、安藤教授に対する全
学的信頼と、多方面にわたる経験、ゆき届いた気配り、学生に対する教育的使命感など、非の打ちどころのない
熱意に多くの人の心を打つものがあったからに外ならない。
こうして学長在職のまま、急に、しかも文部省の大学審査の旅程で倒れられ、ニヵ月間を旅路で病臥されたこ
とには誰もが驚いた。われわれの眼の前の安藤教授は、頑健な体躯のイメージしかなかったからである。学長職
に再任されて、わずか二日目の十月二日のことでもあり、驚きと悲痛な気持が全学に漲った。仄聞したところで
は、少なくとも新年度からは学長としての任務にかえり、元気な姿で復帰されるお気持であったという。われわ
れもそれを心から期待していた。しかし、昭和六〇年度に入っても、容態が好転することなく、遂に訣別の日を
迎えることとなってしまった〇
安藤教授は、成城大学に御着任以来、一貫してわが成城大学を愛し続けられたように、私の目には映った。親
しく会話を交す機会が多かったとはいえない私にとっても、それが手にとるように感じられたことが何度かあっ
た。私が偶々教務部長としての事務連絡に伺ったときに、旧制成城高等学校時代から現在にいたる間の成城を想
い起しながら、話をされるときの面持ちは、あたかも自分の若かりし日を想起されるかのような風情であったこ
とが、いまでも強い印象として残っている。そんなときに、安藤教授が成城教育に対して憧憬にも似た感懐を抱
いておられる姿をかい間みることができたように思う。
いまにして思えば、このような安藤教授の成城観とでもいえるような感懐が、その後の病を悪化させるほどの
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多忙へとかきたててしまったのではないかと惧れるのである。わずか七年間という短い在職期間ではあったが、
東大時代とは一味違った環境の中で、安藤教授の心の中に何かを残したようにも思うのである。いまとなっては
多忙な要職を強いたことに、痛痕の念が残るのみである。誠に残念であったという以外には言葉がない。衷心よ
り哀悼の意を表し、筆を擱くこととする。
昭和六一年二月
経済学部長 岡 田 清
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