国際市場への挑戦

1960年代前半、日本は国内で使われる工作機械の
およそ3分の1を輸入していた。
当時、日本の製品は品質についてあまり良いイメー
ジがなかったため海外への輸出は少なく、価格も大
変安かった。
この状況を打開すべく、工作機械輸出振興協会は、
1960年から「輸出検査制度」を設けて日本製品の品
質向上に努めた。
山崎鉄工所は、1960年前後の好況期に生産を伸ば
し、1961年に大口工場を建設したが、工作機械の
需要はその年の後半から急速に落ち込んでいっ
た。
思い切った設備投資の後だけに、山崎鉄工所に
とってその不況はひときわ厳しかった。
そこで社員たちは、トラックの荷台にデモンストレー
ション用の工作機械を積み込み、工作機の需要を
求めて全国の市場でセールス活動を行った。
その頃、当時、好況であったアメリカの機械専門商
社が日本の工作機械に目を付け、1962年、山崎鉄
工所に200台生産できないかと声をかけた。
当時の山崎鉄工所社長、現会長の山崎照幸は、ワ
ラにもすがる気持ちで、商談のために初めて単身ア
メリカへ渡ったが、商社側の価格条件は厳しかっ
た。
国内市場価格と比較しても2~3割は安く、アメリカ
製品と比較すれば、ほぼ半値の1台3,000ドル。そ
の価格は、ほぼ同じ仕様のアメリカ一流メーカー
の中古機械の値段だった。しかし、不況に苦しむ
日本では、ほかに打つ手もなく、結局、相手の言
い値で30台を契約した。
アメリカ市場向けの製品にするために変更項目
は30数ケ所あり、試行錯誤の連続だった。当時、国
内メーカーでは、ほとんど行われていなかった、
旋盤のベッド面への焼き入れや研削加工が要求さ
れた。
この加工作業を行うため、火炎焼き入れ方式を採
用したが、歪みが発生した。その歪みを切削加工で
取り除こうとすると、肝心の焼きが入った厚さ2.5mm
ほどの表面がなくなってしまった。ピンホールが浮き
出たり、細かいひびが入ったりと、最初のうちはベッ
ド1、2本を加工するのに2、3日もかかった。
こんなことをやっていては月間20台以上の旋盤は
生産できないと、現場の担当者はサジを投げ出した
ほどであった。
ミリ仕様からインチ仕様へ変更するだけでも大変な
作業であったが、設計変更はそれだけではなかっ
た。国内用の製品を基準にすると8割程度の部品加
工に手直しを必要とした。
1962年、アメリカ市場向けのLE形旋盤30台が完成
した。
製品チェックのために、販売先のアメリカ商社から
担当営業部長が大口工場にやってきた。
すると、要求通りの製品に仕上がっていない
と「ノー」の連発、その場でキャンセルを言い渡され
た。理由は、工作機の精度というより、ハンドル位
置の高さや、右勝手を左勝手に変更するなど、ア
メリカ市場に求められる規格や仕様寸法の問題で
あった。
そのショックに、山崎照幸、義彦、恒彦の3兄弟を
はじめ、経理担当重役の顔は青ざめた。
現場の技術者も同様で、青木修は、世界一流の工
作機械を修理、再生してきた経験から培ったプライ
ドや自信を一気に吹き飛ばされた。不合格になった
旋盤は、仕様がインチ化されていることもあり、国内
市場で販売することもできなかった。
社長の山崎照幸は、ここで立ち止まってはいけない
と奮い立ち、一刻も早く再設計するよう社内に指示
した。設計、製造、資材を担当する技術陣が集めら
れ、再挑戦がはじまった。絶対に成功させてやると
いう意地だけが支えだった。
それから半年、1963年4月には注文通りの旋盤が
完成し、夢にまで見た日本初の対米輸出が実現し
た。
山崎照幸は当時を振り返って言った。「工場に働く
みんなが苦しみ、採算的にもマイナスだったが、こ
の経験が技術レベルの向上と国際化に大きく役
立った」。
そして青木も言った。「早い時期に対米輸出に取り
組んだことで、井の中の蛙から抜け出し、技術者と
して世界に目を大きく開くことができ、とても有意義
だった」。
1963年5月に、アメリカの専門商社向けの最初の
ロット30台を船積みした後すぐに、本格的な輸出戦
略機種となる6尺タイプのマザック1000G旋盤と8尺
タイプのマザック1500G旋盤を完成した。
海外市場への本格的な進出を狙って、これらの機
種には「MAZAK」ブランドをつけた。
初めての対米輸出で苦労しながらも、採算の悪い
輸出市場に、コストを下げることで果敢に挑戦して
いった。
1971年のドルショックや、1973年のオイルショックで
海外市場での採算がとれなくなった時も、ヤマザキ
マザックは海外市場から撤退しようとはしなかった。
ヤマザキマザックでは、貿易摩擦問題が明らかにな
る以前の1974年にはすでに、アメリカのケンタッ
キー州に現地生産のための基盤をつくっていた。こ
の現地生産の開始は、アフターサービスの拡大、信
頼感の向上に大きく貢献した。
小さなヒューズひとつでも、アメリカで入手しやすい
一般品を使っている、そうアメリカのユーザーに認
識されることで、信頼感が育っていったのである。海
外市場に挑戦して初めてわかったことも数多く、苦
労しながらも対応していったことが、ヤマザキマザッ
クの技術力につながっている。