621 東 京 国 立 近 代 美 術 館 ニ ュース e n d l e s s 山田正亮 の絵 画 2 0 1 6 年 1 2月– 2 0 1 7 年 1月号 ﹁ endless 山 田 正 亮 の 絵 画 ﹂展 会期 二〇一六年十二月六日 │二〇一七年二月十二日 会場 美術館 企画展ギャラリー[一階] 山田正亮の絵画は継承展開されたのか 早見 堯 ぶ。 ﹁繰り 返し﹂と﹁均等分割﹂によって感覚的な恣意性が消し去られた写真は、だから こそ、人の感覚的な気まぐれを封印する死に捧げられていると思えた。 ﹁繰り 返し﹂や﹁均等分割﹂は、クレメント・グリンバーグがミニマル・アートについて述 べたときに指摘した﹁新しさの終わりとしての新しさ﹂だ。いつの時代でも、だれもが知っ ていたけれども、だれも使おうとしなかった方法。なぜなら、アーティストの個人的な感 覚を発揮する余地がないから。世間で流通しているものに該当させると、 ﹁繰り返し﹂や ﹁均等分割﹂は貨幣に似ている。貨幣はそれ自体ではなにも意味しないゼロの記号だ。ほ かのなにかと交換されたときに初めて意味が生まれる。逆に考えることもできる。貨幣 は、実は、いろんな意味を潜在させていて、交換されるたびに封印が破られて意味が顕 在する。 ﹁どこでもドア﹂や江戸の長屋の千変万化の四畳半を想いださないだろうか。 性﹂は、実は、束ねられた 多 数 多 様なヴェールなのかも。微 妙な 刺 激が加えられると 分 だから、杉本の写真はキャプションの付加のような微細な刺激で、連想をかき立てる イメージに変貌する。潜在していたものが露になる。一つにまとまっていたはずの﹁一様 化し増殖する ﹁山田正亮の 前に山田正亮の先駆者は見えない。山田正亮の 後にも 後継者としての山 田正亮はみあたらない﹂ 。四年前、雑誌﹃ ART TRACE ﹄の﹁山田正亮﹂ 特集に寄稿したとき 細胞みたいではないか。実際、モダニズム美術の終局のミニマル・ のわたしの文章の断片だ。本当にそうなのかどうか、ときどき思い出しては考えていた。 アートで 使われた﹁繰り 返し﹂や﹁均 等分割﹂は、アーティストの 感覚的な 気まぐれとい になる。 ︿海景﹀は海と空との均等二分割。 ﹁繰り返し﹂と﹁均等分割﹂は山田の絵画の主要 は階段状に整列した千 手観 音が撮 影されている。当然、千 手観 音の繰り 返しということ 画を特徴づけていたペイント・ストロークは極度に抑制されている。 ﹁均等分割﹂は画面 残しただけの一九六六年の︽ こうした個人的な感覚を封印する仕組みの﹁繰り返し﹂や﹁均等分割﹂を使って、山田 が登頂した﹁一様性﹂の頂上の嶺を形成する絵画の一つが、画面の周囲をわずかに塗り う﹁意味﹂を排除して作品を客体化する方法だった。 な二つの構成法だ。山田の場合、 ﹁繰り返し﹂はストライプ、 ﹁均等分割﹂はクロスやグリッ のフレームとわずかにずれた矩形として残されているだけで最小限だ。 そんなとき、東京都写真美術館で﹁杉本博司 ロスト・ヒューマン﹂展を見て思いをあらた にした。展示されていた杉本の作品のなかで、山田と関係があるのは次の二種類だ。京都、 ドになる。両方、基本的に﹁均等分割﹂ということで片づけることもできる。 ﹁均等﹂だから、 ︾だ。山田のストライプの﹁繰り返し﹂による絵 Work C.273 山田自身が言ったとおり、絵画の全体が一つになっている﹁一様性﹂ということになる。 が極められた最高峰は、描かれた絵画の表面と描かれるべき絵画の支持体 ﹁一様性﹂ とが一つに合体してしまう地点だ。絵画の空間がなくなる。現実の物体と同じになって ル・アートの方法だ。杉本の作品はそれで終わってはいない。 ︿仏の海﹀の展示場に置か 本のこうした﹁繰り 返し﹂と﹁均等分割﹂も﹁一様性﹂といえる。山田というよりもミニマ 山田自身はこうした絵画の最高峰を極めた後、再びもう一つの最高峰を目指すかの ように、いったん最高峰から下っていったのが一九六〇年代末以降の絵画だ。開口部を した文脈の終点に位置している。 しまう。アクリル箱に 白い粒子を 入れた一九六七年の︿ White Object ﹀ シリーズはこう れた︽五輪塔︾に封じこめられた︿海景﹀のタイトルは﹁バルト海、リューゲン島﹂。暗い展 もった矩形が凝集する山田のキャリアの始まりの絵画、山田が命名した﹁アラベスクの ︾や Work C.273 示場で千手観音の写真と五輪塔、 ﹁バルト海、リューゲン島﹂が重なると連想に拍車がか 六 〇 年 代 半ば 過ぎの 作 品に 比べると、それ 以 後はデタント 状 態だ。 ︽ 絵 画﹂方 向に、いわば、下り 坂サイコーといった 趣で 逆走した。匿 名 的で 黙示 的な一九 の 海﹀や︿海 景﹀の 写 真だけを 見ると、突き 放され 対 象 化された 写 真なので、イ ︿仏 メージは 意味を 剥ぎとられて、そこにそのようにあるだけといった趣が感じられる。杉 三十三間堂の千手観音を撮影した︿仏の海﹀と、すでによく知られている︿海景﹀ 。 ︿仏の海﹀ S T A P かる。 ・ ・フリードリヒのリューゲン島を舞台に壮絶な孤独を醸す︽海辺の僧侶︾や、 D 平 安 時 代 末から 鎌 倉 幕 府誕生の 激 変 期に死 後の 極 楽 浄土を 希 求した 人々が思い浮か C Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 2 ︿ White Object ﹀が、山田の︿ Work ﹀という 絵画制作の円環の 半分、一八〇度の地点だ としたら、以後、そこから、一九九〇年代半ばの三六〇度の地点にむかって、山田は自 り返されている。画面の周囲に下層にあるパープル系の色彩が見える。緩やかなペイン ト・ストロークと異なる色彩の縁どりという点で山田の︽ Work C.273 ︾を思わせる。け れども、平体の絵画のフィールドに残されたパープル系のノイズのような痕跡に注目す 環の外部はない。山田は自分で自分の絵画を継承展開させた。だから、ほかのアーティス わたしは、山田のこうした自己再生産、あるいは、自動的なリサイクル制作の仕組みを ﹁絵画を生む絵画﹂と名づけた。自動的なリサイクルなので円環状に閉じるほかはない。円 アトモスフェリックな 空間に変貌していく。力動的でしかもたゆたう 柔和さをたたえた れていたかに思われたフィールドは、おおらかな広がりと豊かな色彩をもった揺れ動く ば、離反してもいる。そう 見えると、近似した色彩と繰り返されるストロークで形成さ 分の絵画を分化、増殖させていったのである。 トが円環のなかに入って山田を継承展開する余地はない。こう考えてきた。けれども、杉 光だ。ゴールドやピンクに輝きながら、見る者の記憶をかきたて、情動を震わせる光の ると見え方は複雑になる。痕跡はフィールドを彩る緩やかなストロークに即してもいれ 本の﹁ロスト・ヒューマン﹂ 展を見てから別の見方もあることに、いまさらのように気づいた。 彩の深さに置き換えたと言ってみたい。 ある空間にまとめられていたヤン・ファン・エイクの絵画を、まとめないまま重層する色 ら、数色をストライプ状で幾層にも塗り重ねた櫻井英嘉。薄く重ねられて深い奥行きの い空間にまとめあげた一九八〇年代半ばからの辰野登恵子。そして、一九八〇年前半か さらに﹁一様性﹂をフィルターにかけて並べ替えたかのように立体感のあるモチーフを浅 る。もっとも 早い 例の一つは、一九 七四 年にグリッドから 始めてストライプに 展 開し、 のようなタッチは、このように﹁一様性﹂を転位させ、わずかにずらすことで山田を継承 石津ちひろの詩﹁あしたのあたしはあたらしいあたしあたしらしいあたし⋮⋮﹂を想い おこしたい。似たことばが少しずつ差異をもって繰り返されているので、 ﹁一様性﹂が逆 し示している。 二〇世紀に発明された、山田も含めたアブストラクションの絵画のあらたな可能性をさ 雑さを顕在化させているのだ。オーヴァー・レイでハイブリッドな︽告げる鳥︾の空間は、 げる鳥︾の豊かな表現性は、匿名的で黙示的な山田の︽ Work C.273 ︾の表現性と ︽告 隔たっている。 ﹁繰り返し﹂と﹁均等分割﹂による﹁一様性﹂が潜在させていた多層性や複 海。それとも、実りの秋に広がる稲田に漂う大気かもしれない。 ﹁一様性﹂は中心のあるまとまりをもった空間が絵画では成り立たなくなったときに見 いだされた。まとめる必要がないまとめ方だ。限定されたフレーム内で成立する一点透 展開というよりも力強く転回させているのである。山田正亮のあらたなレッスンをここ ︵ 美術評論家︶ 3 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] すでに一九七〇年代に﹁一様性﹂は、山田とは違う場で分化、増殖させられていた。山 田とは 違うかたちで﹁一様 性﹂を 継 承 展開させて 大きな 成果をあげたアーティストがい 視図法は、空間をつくり 出す 方法である以前に、空間を統合するまとめ方なのである。 に見い出したい。 図 1 平体文枝《告げる鳥》2015 年 Gallery Camellia 蔵 にイメージの広がりと情動の豊かさをもたらす。平体の絵画のストロークや色彩、痕跡 モダニズム絵画が用いたまとめる必要のないまとめ方は、ワン・イメージ・ペインティン グやシェイプト・キャンヴァス、アンバランスのバランスによる調和を問題にしない シンメトリー、全 面をおおう︵ オール・オーヴァ︶などを 想いおこせばわかりやすい。 ︾ [図 ] と比べてみるのは興味 Work C.273 図 2 山田正亮《Work C.273》1966 年 埼玉県立近代美術館蔵 辰野登恵子や櫻井英嘉は﹁一様性﹂という閉じた円環の軌道上でスピードアップし て遠心力を振り切り、円環を破って放物線を描きながら飛び立っていった。 ] を半世紀前に描かれた山田の︽ ﹁一 様 性﹂をしなやかにずらし、文 字 通りの 多 層 的 現 在、旺 盛な 制 作 活 動で、 な 絵 画を 描いて 成 果をあげているのは 平 体 文 枝だ。正 方 形の 画 面の︽告げる 鳥︾ [図 2 ︽告げる 鳥︾は、いくぶんペインタリーなストロークを 画 面 全体で 左右に 展開さ せてイエロー系のいくつもの色彩でおおったり、画面の縁で止めたりすることが繰 深い。 1 ﹁ e n d l e s s山 田 正 亮 の 絵 画 ﹂展 境澤邦泰 会期 二〇一六年十二月六日 │二〇一七年二月十二日 会場 美術館 企画展ギャラリー[一階] ﹁絵 画﹂ と ﹁描くこと﹂ 描くことの自立性が始まる だ。おそらくプレイヤーは行為の瞬間、すでに次の行為をイメージしている。あるいは将 棋や囲碁の棋士達のように数十手先を読みつつ、その流れを認識しているかもしれない。 つまり画家にとって﹁描くこと﹂とは、行為の連鎖的な繋がりのことであり、この継起的 な行為の連鎖によって具体的に絵画面を更新し続ける作品の生産過程のことを指す。 ではこの生産過程としての﹁描くこと﹂が、自立/自律的であるとはどういうことなの か。モダニズムにおける絵画の自立/自律が、描くべき主題、内容への従属からの解放 であったことを鑑みれば、 ﹁描くこと﹂の自立とは、その目的としての絵画への従属から の 解 放、 ﹁絵画﹂から自立し、 ﹁描くこと﹂が自らの為のみにあることを意味する。つまり ﹁描くこと﹂は絵画を生産するための制作プログラムではなく、絵画の制作プログラム自 体を自ら再生産するための自立/自律的なプログラムなのであり、 ﹁描くこと﹂にとって 現実の絵画は、プログラムの再生産によって生じる結果、あるいはプログラムの再生産 を維持するための仲介物でしかないということになるだろう。 ﹀のシリーズが 決 定 的な 転 機を 迎える一九 六 〇 年。山 田 正 亮のアイコンとも ︿ Work 言 え る ス ト ラ イ プ の 絵 画 群、 ︿ Work ﹀ Cの シリ ーズ の 始 ま り に 先 立 っ て、一 九 五 九 年 に 一 枚 の 興 味 深 い 作 品 が 残 さ れている[図 ]。横 長 の フォーマット に 縦 の ス はずだ。しかし実際に画家が制作の現場で、描くための所作の一つ一つを自覚したりす つの筆触をキャンバスに置く、塗る、線を引く、という動作、所作を指して発する言葉の ﹁描く﹂という言葉に対する認識は、絵を描く人と描かない人では少し異なるのかもし れない。一般に﹁描く﹂という単語からイメージするのは描く行為のことだろう。例えば一 の自立であったのか。そもそも画家にとって﹁描くこと﹂とはなんなのか。 たものであるとして 良いのかという 疑 問は 残る。どうして﹁絵 画﹂ではなく﹁描くこと﹂ 考えれば、果たしてこの﹁描くことの 自立﹂という 言葉を、絵画の 自立/ 自律に 呼応し たのか、どちらかに 定めることはさほど 重要なことでもない。しかしこのメモに限って のかもしれない。それがアメリカの芸術の 受容であったのか、同時多発的な現れであっ ズム、フォーマリズムの潮流に山田正亮とその作品を当てはめるのは自然な流れだった ムの 絵画﹂の 執筆は一九四七年。美術の 自己言及性と 絵画の 自立/自律を 語るモダニ グリンバーグが﹁より新しいラオコーンに向けて﹂を執筆したのは一九四〇年、 ﹁モダニズ 生前に発表したテキストにも、自立/自律という言葉は数多く見つけることが出来る。 然 起こった 事 実それ 自 体ではなく、その 事 実が 試みてもことの 本 質を 見誤る。検 討すべきは 偶 ない。ここに意義を見出して作品構図の分析を しくない。もちろん偶発事態には意味も目的も したのではないかと 思う。制 作の 現 場では 偶 然 で 起 こった イレギュラーな 事 故 と 生産過程 いってよい何らかの偶発事態がこの回転を実現 ストライプの絵画を大量に生産する[註 ] 。 ]を 九 〇 度 回 転 さ せ た 構 図 だ。 ︿ Work ﹀の シリーズはこの 回 転の 直 後から、水 平に 伸びる 示 さ れ る こ と の 多 い 東 京 国 立 近 代 美 術 館 所 蔵 の 二 点 の ストライプ の 絵 画[図 ・ に 後 の ストライ プ の 絵 画 に 酷 似 し て い る 作 品 も な い だ ろ う。ちょ う ど 一 対 で 展 トライ プ が 描 か れ た 絵 画 は 一 九 五 九 年 に は 多 数 存 在 し て い る が、こ の 作 品 ほ ど の晩年に自ら編集を試みた制作ノート。一九五三年のメモにこの言葉が残 山田正亮 されている。制作ノートには自立、あるいは自律という言葉が散見される。山田自身が ることはない。そんなところでいちいち立ち止まっていては絵など描けないからだ。サッ そのまま 描く 過 程のなかに 保 存されてしまって 1 カー選 手がボールを 蹴るときに、ボールを 蹴ることをいちいち 意識していないのと同じ 起こった出来事が作品に影響を及ぼすことは珍 2 図 1 山田正亮《Work B.228》1959 年 個人蔵 撮影:木奥惠三 1 3 Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 4 と思う。 ﹁描くことの自立﹂と発言する時、生産過程はすでに作り手の外にあり、あるい おそらく山田正亮は、自律的に再生産される絵画と生産過程というこの二つの関係 に加え、制作者としての画家の存在を、もう一つの項として想定していたのではないか 換えながら反復的、自律的に生産過程を再生産する。 の 生産過程は、このようにして 大小の 偶発的な 出来 事をそのまま 保存し、自身を 書き 付け 加えられた制作工程として生産過程の中に一つの痕跡を残す。 ﹁描くこと﹂として される回転は偶発的な事故ではない。偶発的な回転は起ってしまった直後から、新たに いる 状況だ。山田正亮はこの 事 態をそのまま 以降の 絵画で 反 復する。もちろん 繰り 返 持し、質の 高い作品を 作り 続けたという 事実が、揺るぎない現実として 今 絵画を 描い うな中、山田正亮が﹁絵画﹂と﹁描くこと﹂との複雑な関係を維持することによって︿ Still ﹀を 経由し︿ Work ﹀のシリーズが終わるまでおよそ五十年にわたってこの 反復を 維 Life ける 作家は 数 多い。反復可能性の 喪失は画家の 命に関わる問題なのだ。そしてそのよ られずにマニエラに陥りつつも、その状況から目を背けて評価に値しない作品を作り続 そしてなにより画家である筆者にとっての最大の問題は、この状況があらゆる画家の 状況に置き換えられる可能性を持っているものであるということだ。制作の反復に耐え 疑う主体を当てはめる場所がない。 型のモダニズムが中 としたグリンバーグ には、カントを 規 範 の 絵 画の 制 作 現 場 いやられた山田正亮 作り 手が 周 縁に 追 ことにも 気 がつく。 異なった側面がある 立 / 自 律 とは 少 し いった着眼には、作家ならではのリアリティを感じる。いずれの論考も、作家の個と作品の 点は一貫している。 ﹁生産 過 程でのイレギュラーな 事 故﹂を﹁生産 過 程の 中に組み 込む﹂と に同じ画家の立場から、安易な自己模倣を回避しつつ描き続けるにどうすべきか、との視 され、またアートトレースでは山田正亮に関する連続レクチャーも企画していただいた。常 レースの代表を務める画家であるが、今回の展覧会の準備期間中、当館での研究会に参加 画のスタイルについての言及は大変示唆に富んでいる。境澤邦泰氏はNPO法人アートト るようだ。 ﹁交換されるたびに封印が破られて意味が顕在する﹂ 貨幣の様な存在としての絵 リズムの立場だけに限定されないより広範な視点から、今日的な山田像を模索しておられ く﹁繰り返し﹂この画家について論じてこられた美術評論家だが、近年では従来のフォーマ 後記 二〇一六年 十二月六日から開 催される﹁ endless 山田正亮の 絵画﹂展に関 連して、 山田正亮に関係の深いお二方からご寄稿いただいた。早見堯氏は一九七八年以来、まさし 山田正亮制作ノート、一九五一年の記述。 田正亮 life and work 年、二〇 │二一頁。 │ 山田正亮の︿ Work ﹀ Cの始まりと作品構図の九〇度回転については以下を参照。中林和雄﹁山 制作ノートを中心に﹂﹃東京国立近代美術館研究紀要﹄ 一七号、二〇一三 ︵ 画家︶ ている画家たちに提示されている。 註 は﹁絵画との契約である﹂ [註 ] と発言する時、画家と絵画はすでに対等な契約を交わ す相手である。いずれの関係においても作者との間に主従の関係は存在しない。三者は それぞれが自律的に自分自身の再生産を繰り返し、そして同じ目的を持たない三つの 反復が維持されることによって、結果として現実に絵画を生み出すための大きなメカニ ズムが維持される。作品を統御する制作者の存在は始めから前提とされておらず、いわ ば 絵画を 生み 出すためのシステムのなかの 閉じた一項としてしか 存 在しない画 家の 試 行錯誤は、生産過程としての﹁描くこと﹂にとっては偶発自体以外のなにものでもない。 心 に 措 定 した 自 己 ︵ 副館長 中林和雄︶ 表現性という問題について多くのあらたな気づきを与えてくれる。 5 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] 1 批 判 を 担 うはずの に、モダニズムの 自 ﹁自 立﹂と い う 言 葉 これを 前 提として 考えれば、 ︿ Work ﹀のシリーズの 画 像の 変 遷に 作 者の 意 図を 求める あらゆる分析は無意味なものになるだろう。そして始まりの疑問に戻れば、山田正亮の 図 3 山田正亮《Work C.77》 1960 年 東京国立近代美術館蔵 図 2 山田正亮《Work C.73》 1960 年 東京国立近代美術館蔵 2 2 ﹁ 所 蔵 作 品 展 近 代 工 芸 と 茶 の 湯 Ⅱ ﹂展 会期 二〇一六年十二月十七日 │ 二〇一七年二月十九日 会場 工芸館 茶 室に潜 む日本 文 化 こ ま 認識的なものであり、いわば、呪術的世界が色濃く反映された、習俗のタブーが仮構さ れた世界でもあった。 だが﹁茶室﹂における壁の出現、小間の出現は、壁という実態を通して意識的世界を 生み 出したのである。私はこの 壁の 出現を 機に、日本人の 空間観が新たな 展開を 示し はじめたと考えている。 ﹁変 化こそ 永 遠である﹂と │ に壁が誕生したのは一五八二 │八四︵ 天正十 │十二︶ 年頃とされている。利休の﹁待 茶室 あん 庵﹂がその最初である。茶の湯の想いを深めていった結果が壁の出現であろう。だが壁 考 えられ、固 定 化 された 方 法の記 憶 の出現は、日本の建築空間にとって、とてつもない事件であった、というと驚くであろう。 自 在 性 がなく、それは 死 内田 繁 そもそも 侘び 茶 以 来の﹁茶 室﹂は 一 般に﹁数 寄 屋﹂とも﹁草 庵﹂ともよばれる、質 素 す や な 建 築をいった。数 寄 屋は 空の 家と 書いて﹁空き 屋﹂ともいう。日 本の 室 内の 特 性は ﹁空なる場﹂である。その空なる室内にさまざまな道具を置いて、自由な変化をつくり だす。 ﹁空なる場﹂は何の特性もない無の空間なので、そこを必要に応じてさまざまに 変 化させ、 ﹁時﹂と﹁場﹂をつくりだす。だからこそ﹁一 座 建 立﹂であり、 ﹁一 期 一 会﹂な 日本の建築は、元来、壁のない建築である。屋根と柱と床しかない。建物と部屋との 間に建具を 入れ、その 建具を 取り 払うとすべてが開放される。部屋と 部屋との間仕切 に 等しいととらえる 思 考 のである。日 本 の 思 想 は りも同様で、襖、障子など、きわめて簡単なもので仕切られている。こうした風土の建 であった。この 空 間 の 自 たい 築は、モンスーン型気候ゆえに風通しの良い空間が求められ、部屋を仕切ることを息苦 由 な 変 化 こ そ﹁茶 室﹂の のデザインした三つの 私 茶室︽受庵 想庵 行庵︾ [図 本 質 であると、私 は 考 え 融 通のきかないものには しく感じるという感覚が影響している。 め なわ ている。 し だが一方で、四本の柱を注連縄で結ぶことによって、カミの領域〝ヒモロギ〟が生まれ るというように、空間を認識的にとらえる思想態度が、固定化された壁をきらうともい えるのである。さらに、日本人の死生観にともなう﹁いま﹂という概念は、固定化された ものよりも仮設性を重視し、瞬時につくられ、瞬時に消えるような空間に、神聖さを感 じる。こうした風土の建築概念、形態を裏切るように生まれたのが、壁に閉ざされた空 、 ]は 壁に 閉 ざされた 格子など連続した空間でありながらも空間分割を果たした空間観、沓脱石を境として こうした壁の空間の出現は、それ以前の空間表現とはことごとく異なるものであった。 たとえば、垣・門・閾などの装置によって〝聖とケガレ〟を分離した空間概念、襖・障子・ 理的な 空間だといえよう。 である 今 日 の 建 築 は、物 る。壁に囲まれることが主 空 間 を 意 図 したものであ 坐の空間とそうでないものを分離した床の存在など⋮⋮。こうした空間表現は、すべて 間﹁茶室﹂であった。それは壁の存在だけで、非日常空間を表していた。 2 茶 室 ではなく、認 識 的 な 1 図 1 内田繁《受庵 想庵 行庵》1993 年 内田デザイン研究所蔵 撮影:Nacása & Partners Inc. Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 6 どのように 感じられるか 確かめ そうしたなかで、認 識 的 世 界が 一般に、家とは自然から人間のための空間を切り 取り、囲ったものである。では、日 本人にとって、家とは一体何を切り取り、囲ったものなのだろうか。このことが﹁沓脱ぎ では、家とは何か。 たものである。 微妙な差異が生まれるのはなぜ イナーの創り 出すものとの間に 出 すものと 私 たち 日 本 人 デザ ヨーロッパのデザイナーが 生み なされた 今 日 社 会においても、 題ではなく、これほど 情 報 化が いるかなどと競い合うような問 である。それは、どちらが優れて 大きな隔たりを感じていたから の 空 間 と 日 本の 空 間 との 間に 未 知の 世界との 結界を 設けたものが家である。 ﹁沓 脱ぎ﹂とは、聖なる 世界へ越境する そう 考えると、日 本の 家は、未 知の 自 然から 聖なる 空 間を 囲ったものである。聖と 俗、コスモスとカオス、彼岸と此岸、この世とあの世など、空間を二つの世界に分離し、 本の家は、まさに見えない世界の悪霊、怨霊、死などのケガレから守るものなのである。 原始社会の﹁囲む﹂というイメージについて、ミルチャ・エリアーデは﹁閉ざされた外側に 展開される未知の見えない世界から身を守る﹂というコスモロジーに由来するという。日 たものであった。 今日の住居観をよく表しているが、古来日本の家は、もう少し異なった発想から始まっ て、 ﹁家がなかったらば人間は散在した存在になるだろう﹂ともいった。こうした見方は、 ルは、 ﹁家は肉体と魂である﹂﹁家は家を中心とした家族の絆をつくるためのもの﹂ 、そし とは、防 御を 目 的につくられたものだと 考えられている。雨、風、寒さなど 普 通、家 をしのぎ、ときには外部の侵入者を防ぐようなものをいう。一方、ガストン・バジュラー の文化﹂を考えるうえで重要であり、日本の家とは何かを示唆している。 か、という 疑 問から 発したもの ための儀礼を表したものなのである。 は、現代という点においては、共通した問題を抱えているといえるだろう。本来、 世界 デザインはそうした課題の解決手段の一端を担うものであるが、もし、そこに表現の違 う姿勢である。そして、微細なもののなかに秘められた美を発見する姿勢でもある。そ に坐って 自然を 観 察し、連想し、類 推するという 態度は、微 妙な 出来 事にも 注 意を 払 身体感覚が日本人に坐る文化を生み出した。また、日本人は古来から、家を﹁聖なる空 私が茶室をつくり 続けるのは、そうした﹁坐る文化﹂﹁沓脱ぎの文化﹂が集約されたも のが、そこに表れているからにほかならない。そしてそこには、近代が無視しつづけた地 ︵ インテリア・デザイナー︶ 域、民族の固有文化について改めて見据えるという視点が立ち現れるのだ。 文化に深い影響を与えてきた。 7 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] また、私が茶 室について 考え ようと思った理由は、西洋社会 であった。 いが生まれるとしたならば、それは、日本には日本人の、イタリアにはイタリア人のもつ うした感覚は、そのまま日本の空間デザインに反映されてきた。 ﹁非構築的な空間﹂﹁坐 日本の固有風土ともいえる﹁坐る文化﹂﹁沓脱ぎの文化﹂が生み出した身体感覚は、き わめて微細なものに目を向ける感覚であった。森林に覆われた風土の民が、じっと大地 空間感覚の微妙な違いによるものではないだろうかとおもう。その空間感覚とは、とり ともつかない中間領域の創 して眺める姿勢から生まれた水平感覚﹂﹁仮設性﹂﹁ とも B 造﹂などの建築的態度は、坐俗固有の微細な感覚によるものである。 A 間﹂と考えてきた。聖なる床に上がるためには、履物を脱ぐ。こうした行為もまた、日本 日本の文化を考えるうえで、際立った特性を見るのは﹁坐る文化﹂と﹁沓脱ぎの文化﹂ だといえる。床に静かに坐ることで、 ﹁精神を安定させ、深い思考を生み出す﹂といった もなおさず、生活文化の違いによって生まれるものだと考えている。 図 2 内田繁《行庵》 の内部空間 1993 年 内田デザイン研究所蔵 撮影:淺川敏 ﹁ 所 蔵 作 品 展 近 代 工 芸 と 茶 の 湯 Ⅱ ﹂展 会期 二〇一六年十二月十七日 │ 二〇一七年二月十九日 会場 工芸館 を形に抽出した盛阿弥の棗、どこででも採取可能な素材である竹を取り上げ、使い勝手 に基づいた形をとことん吟味した中節の茶杓や、花を活かしつつ間合いを見極めた竹花 入など、いずれも利休によって茶の湯の造形は完成され極まったといって過言ではない。 それら 利休道具の中でも、私が二十六年前のその 時最も 心惹かれたのが、表千家不 審菴に伝わる利休所持﹁台子皆具﹂ [図 ] である。土や漆がベースにあるイメージの茶道 出す荘重な雰囲気と、それぞれの器の間合いが生み出す完璧ともいえるバランスに、大 茶の湯のうつわ 、いま むかし 具には一見似つかわしくないように映る 金工の器。塗師盛阿弥が丹念に塗った 真塗黒 漆の四本柱の台子の棚に、天下一の称号を得た釜師与次郎による切り合わせの鉄の釜 と唐銅の鬼面風炉。さらに同じく与次郎の手に掛かると思われる、たっぷりした量感で 艶やかで金味麗しい唐銅の水指、杓立、蓋置、建水の皆具が威風堂々と並ぶ。それまで どちらかいうと仏像や仏教美術によりシンパシーを感じていた自分にとって、むしろこ ブームといわれて 久しい昨今、工芸や 茶の 湯を 取り 巻く 状況はそれなりに活況を 器 呈している。魅力的かつ個性的な器を作る陶芸、工芸作家の若手が次々に現れ個展や いに共鳴した。以後私自身が茶道具や器、それらの取り合わせを見る時、この鑑賞体験 の 厳しさすら 憶える凛としかつ大らかな 造形美に強く 魅せられた。何より 全体の 醸し ギャラリーも陸続としている。また茶の湯や古典の器の展覧会はあちこちで開かれ、こ が原点になっていることは間違いないといっていい。 すことも引くことも出来ない完成された造形美は、 ﹁利休形﹂としてその後長く茶の湯の 数ある 茶 道具の 中で、利 休ゆかりの 茶 道具に共 通していえることは 素 材を 活かした フォルムの美しさと、寸 法への徹底した厳しさから 醸される緊 張感である。これ以上足 の造形の原点ともいえる千利休ゆかりの、 ﹁利休道具﹂であったことも大きく幸いした。 品への関心へと駆り立てていく大きな契機となった。さらにその時にみた茶道具が、わび茶 ﹁美術・工芸品﹂として客観的に見たことが、その後私を茶の湯やそれにまつわる美術工芸 た﹁四百年忌 千利休展﹂においてであった。それまでは家業のいわば仕事道具であった茶 の湯道具が、アカデミックな国立博物館の陳列ケースの向こうに恭しく据えられ、改めて び茶の大成者千利休︵一五二二 │九一︶ 歿後四〇〇年に因んで京都国立博物館で開催され 私 自 身は 茶の 湯を 生業とする 家に生れ、幼い頃から 茶の 器には 自 然と 親しんでいた。 が、それらを自覚して意識してみるようになった最初は平成二年、一九九〇年春のこと。わ 一連の流れのピークを今まさに迎えようとしている感がある。 ロッパ、オランダにも及ぶ。それらはいず 器、さらに一七 世 紀にはその 範 囲はヨー あった 高 麗 茶 碗、東 南アジアの 水 壺や 祭 は中国における喫茶の用具である天目や 立てられたものがほとんどである。それ 眼によって 拾い上げられ、茶 道 具に 取り 作されていないものが初 期の 茶人たちの て﹂、つまり 我 が 国の 茶の 湯のために 制 利 休の 頃、或いはそれより 以 前は﹁見 立 み 出されたものがほとんどだが、かつて その後、折に触れて茶会や展覧会には積極的に出かけ、多くの器や作品を見る機会 をもった。茶の 湯の 道 具にはそれこそ 多 種 多 様な 素 材や 時 代、さらに 国のものが 存 在 樂 家一子 相 伝の 芸 術﹂が 開 催される 等、ここ 数 年の かたちの規範として、絶対的な地位を確立している、まさしく﹁古典﹂であるといえよう。 れも茶人たちの厳しい美を見極める眼が 美 術 館では﹁茶 碗の 中の 宇 宙 土の温もりや柔らかさを残しながら、手捏ねにより左右対称な形を意識して丁寧に削り 選び 出したものたちだが、同 時にそれは 茶入に始まり、朝鮮半島の祭器や雑器で する。今多くの茶会に招かれて拝見する茶道具は制作された当初から茶道具として生 上げられた長次郎の赤と黒の樂茶碗。漆の塗目を残しつつ全体の形の美しさと機能のみ │ とに来春は東京国立博物館で﹁特別展 茶の湯﹂、年末より京都、来春東京の国立近代 千 宗屋 1 図 1 「利休唐銅皆具」17 世紀後半 不審菴蔵 Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 8 作り 出した。 ﹁想いを形にする﹂という、近代的な 芸術作品としての工芸品のあり 方を、 茶碗に、大胆に作り手の想いを形にするという個性の発露をみせ、魅力的な茶碗を数々 れを汲む樂家の当主の協力を得て、それまで茶の用のためのみに窮まった姿を呈した楽 品の蒔絵に意匠性の高い大胆なデザインを施し、さらに茶碗造りにおいては長次郎の流 刀剣の目利きで鍛えた審美眼を大いに発揮した工芸制作に積極的に係った。硯や調度 される江戸初期を代表する芸術家・本阿弥光悦は、手遊びとはいいながらも本業である 芸において施し、大いに新風を巻き起こしひとつの流行を作った。さらにその茶の弟子と 将茶人古田織部は、利休の引き算の美意識とは真逆の過飾的かつ大胆なデフォルメを陶 という名前は大きな説得力を茶の世界でもってしまった。そんな利休のあとを襲った武 あるが、少なくともそういう形が生み出されたら自然とその名に帰してしまうほど、利休 現在利休形といわれているすべてが利休その人によって創案されたものか検討の余地が あり、究極の引き算的に洗練された形が作り出されて、まるで取りつく島がない。もちろん いっぽう、利休によって茶道具の形の定点が設定されて以降、陸続として茶の湯のた めの道具が我が国において作り出されてきた。が、利休がなした営為はあまりに完全で とても自由で大らか、寛容な美を誇る。 ていくことになると思っている。 る器を 選んでいくという 新たな 見立てだ。その 結果こそ、未来に残す﹁今の 茶﹂を 作っ 作家が自身の発露として作った器の中から、使い手が自由に自身の茶の湯に寄り添え むしろ改めて﹁見立て﹂にこそこれからの茶の活路があると私は考える。が、それは過 去に 行なわれた 海 外や 古いものを 拾い上げることではなく、今同じ 時代を 生きる工芸 れば良い。その決まりきった機能に応える器の姿かたちなど既に出尽くした感がある。 包んでお茶を頂くものだし、茶入は茶の粉を入れ茶碗の傍らに佇み、茶杓はお茶が掬え いう 行為自体に、四〇〇年前と今ではそれほど顕著な違いや変化はない。茶碗は両手で 問いかけるような茶の湯の具足を生み出すことは必然といえる。しかし、茶を点て飲むと づいて継続している文化である以上、古器を玩ぶのみならず今この時代を現し、百年後に いるかというと、私自身の想いでは甚だ心もとないところである。が、茶の湯が今なお息 主客が一碗を通じて心を通わせ、それぞれの想いを託するに足る茶碗がどれほど生まれて ション豊富な時代も過去になかったのではないかと思われる。が、そんな中で日常を離れ、 的な立体物ととらえ、まるで点てること飲むことまでをも拒否するような挑戦的な茶碗も だが光悦以降、半泥子あたりまでの近世の陶芸の歴史の中で、こと 茶の湯の茶碗に おいて作家自身の芸術的な発露や個性をそのうちに認められる魅力ある作品が生み出 として光悦は存在している。 魅力溢れる作品を数多く輩出した。そして、いまなお器好きの多くの人にとっての指標 く観てきている千宗屋氏にそれぞれ文章をお願いした。内田氏からは、単なる茶の湯の 茶室を制作した内田繁氏と、古典に限らず、近・現代のつくり手による茶の湯の器を広 広がりをもたらすことができる。 ﹃現 代の眼﹄では、出品にも 協 力していただいた仮設の ることができる。 ﹁見立て﹂は、そもそも使い手からの自由な発想が原点であり、展示に 後記 の湯をテーマにした展覧会で、是非、試みたかった演出が、 ﹁茶室﹂と﹁見立て﹂ 茶 である。 ﹁茶室﹂は、美術館の展示空間には存在しない異空間を、いとも簡単に出現させ 作られる等百花繚乱である。むしろ現代ほど、焼き物や工芸に係る人口が多く、バリエー 無意識的であれ陶芸によって初めて一人称のかたちにしたのは、恐らくこの光悦がはじま の湯の器とはいつの時代にも、優れた作り手はもちろん、使い手があってこそ初め 茶 て成り立つものなのだ。 ︵ 武者小路千家十五代次期家元︶ りと考えられる。 されることはほとんど無かった。それは漆芸や金工等茶の湯道具のその他のジャンルに ためだけの空間ではなく、建築としての成り立ちとともに、まさに文化としての存在意義 であるから、近 代 以降、いみじくも 作 陶の 素 人でありながら 近 代 陶 芸の 流れに 大き なはずみをつけた川喜田半泥子を始め、荒川豊蔵、加藤唐九郎、北大路魯山人といった おいてもほぼ同様である。が、用に適った様式美を遵守した、あるはそれに僅かな装飾 を語っていただいた。もう一本は、失礼ながら漠然と寄稿をお願いしてしまったのである 陶芸家たちは一様に光悦に対して特別の想いと敬意を抱き自己の芸術の発露としての を 施した茶道具は陸続として生まれており、その時代の社会において茶の湯が求めら が、武者小路千家の次期家元として数多くの茶の湯の空間に接してこられた千氏より、 未来を見た思いがした。 ︵ 工芸課長 唐澤昌宏︶ ﹁ ﹃見 立て に という 力 強い 言 葉をいただき、茶の 湯の ﹄ こそこれからの 茶の 活 路がある﹂ れていた役割がかたちとなった結果と受け止められる。 そして多様化する現代、茶の湯の造形も近代美術の洗礼を受けてまた大きく変化して いる。伝統的なニーズに則った茶陶も日々多く生み出されているし、茶碗をひとつの彫刻 9 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] ﹁ 瑛 九 19 3 5 を さ が す ﹂展 │ 19 37 闇 の 中 で ﹃レ ア ル ﹄ の歴史主義的な記述や首尾一貫した作家像が要請される学問領域にとって、きわめて扱 いづらいものであることも指摘した。以上の考えは基本的に今でも変わってはいない。 あれから五年経った現在においても、瑛九研究は未だそのような﹁捉えにくさ﹂をうま く解決できてはおらず、その意味ではいわば﹁片思い﹂のまま足踏み状態とも言える。そ うした状況を打破するためには、作風展開を問題化するだけでなく、瑛九にとっての〝作 品〟概念、あるいは瑛九研究が対象とすべき〝作品〟の範囲それ自体を見直してみること が必要なのかもしれない。瑛九は写真や版画などの量産できる表現メディアを好んだこ ともあり、その短い生涯に比して多産な作家だった。しかも、生産物のどこからどこまで が〝作品〟なのか今ひとつよくわからないところがあるため、おそらくその生涯の﹁制作の 総体﹂や﹁全作品﹂ 、あるいはそれに近いものですら、把握できている研究者は皆無なので はないかと思われる。 紙上にさまざまな 物体を 置いて感光させ、物体の痕跡を画像として残すカメラを 使わない写真︶ 一例として、フォト・デッサンの型紙や原画の存在について考えてみたい。フォト・デッ サンというのは、瑛九が自らの制作した一九三六︵ 昭和十一︶年以後のフォトグラム︵ 印画 ﹁瑛九 1935 │ 展に際し、改めて瑛九研究のあり方 1937 闇の中で「レアル」をさがす﹂ や今後の展望を考えてみるというのが、筆者に与えられた論題である。 のような 型 紙を 使うのだが、その 型 紙の 材 料として、しばしば 自 身が過 去に 制 作した べているが、たしかに瑛九は日本近代の作家としては異例なまでに、歿後の展覧会歴が 作られた型紙が、国内のいくつかの美術館に収蔵されている。ではこの型紙になったフォ フォト・デッサンを用いている。そして、そのように過去のフォト・デッサンを切り抜いて と、必ずしもそうとは 言い難い面もある。筆 者は五年 前に開 催された 総 合 的な 回顧 展 ﹁生誕一〇〇年記念 瑛九展﹂︵ 宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館、二〇一 図 2 図 1 の原画となった板ガラスに描かれたドローイング 一年︶ のカタログに、 ﹁瑛九研究は、永遠の片思いに似ている﹂という若干気恥ずかしくな るような書き出しのコラム[註 ]を寄稿し、 ﹁調査を進めると、この作家の多様性、複雑 さばかりが露わになり、全体像や制作実態はかえって不鮮明になる﹂と、瑛九の﹁捉えに くさ﹂を評したことがある。瑛九の作風展開は、油彩画、写真、コラージュ、ガラス絵、版 画といった多彩な表現メディアごとに異なった様相を見せたり、また、あるメディアの作 品で到達した表現が別のメディアの作品にスライドしていったりと[ 註 ] 、とかく錯綜し の制作を起点として連想的に次の制作を行う態度に見出した。そして、瑛九の作風展開 は﹁単線的﹂ではなく、さまざまな起点から派生して互いに結ばれていく﹁網目状﹂と捉え 図 1 瑛九《作品 (61) 》1954 年 埼玉県立近代美術館蔵 豊富な作家である。しかし、だからと言って研究が飛躍的に進んでいるのかと問われる に与えた固有の名称のことである。瑛九はこのフォト・デッサンを制作する際に切り 絵 瑛九研究は、主として美術館と展覧会に牽引されてきたと言っても過言ではない。綿 貫不二夫氏は﹁瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか﹂ [註 ] と述 谷口 英 理 瑛 九 研 究における" 作 品 " の範 囲と 美 術 館のカテゴリ 会期 二〇一六年十一月二十二日 │ 二〇一七年二月十二日 会場 美術館 ギャラリー [二階] 4 1 がちである。先のコラムではその錯綜の原因を、瑛九のメディア横断的性格や、その都度 3 るべきではないかと提案した。また、そうした﹁網目状﹂の展開が、美術史というある種 宮崎県立美術館蔵 2 Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 10 ラス乾板のような感覚で︵ 場合によっては引き伸ばし機を使って︶印画紙に焼き付け、多数 ラスやセロファンといった透過性素材に油彩やペンで描いたドローイングを、あたかもガ ト・デッサンの欠片は、果たして〝作品〟なのだろうか? 管見の限りでは、多くの場合 は資料とみなされ、 〝作品〟扱いはされていないように見える。また、戦後の瑛九は、板ガ アーカイブズのような枠組みとして想定すること。そして、その総体ができるだけ可視化 不可能である。瑛九がその生涯において産出した〝作品〟〝非作品〟を含む総体を、広義の れているものをも射程に入れていかない限り、瑛九の﹁制作の総体﹂を把握することなど ではないか。美術館が〝非作品〟に分類したもの、とりわけ型紙や原画として資料扱いさ 0 0 カテゴリの境界で不可視になってしまったものを発見し、すくいあげようとする視点なの のフォト・デッサンを制作している。問題は、その際に原画となった板ガラスやセロファ され、部分同士の対照が可能になること。瑛九研究にとって有効かつ必要な課題は、その 0 ンの扱いである。たとえば、宮崎県立美術館には、埼玉県立近代 美術館所蔵のフォト・ ような環境の構築を目指し続けることだと考える。結果として、瑛九研究の対象範囲は、 現状よりもはるかに拡張されるはずだ。むろんそのためには、瑛九研究にたずさわる者や 0 デッサン︽作 品︵ ︶ ︾ [図 ] の板ガラス製原画[図 ]が所蔵されている。筆者にはこの板 ガラス製原画が、瑛九がしばしば制作したガラス絵作品とほとんど変わらないもののよ を進めることなどから始められるべきだろう。その第一歩として、本展の意義は大きい。 瑛九ゆかりの美術館が協力しあう、壮大なプロジェクトが必要になる。たとえば山田光春 して描かれたものだった可能性も否定できない。 またもう一点、瑛九研究にとって未だ不足しているのは、瑛九の制作と同時代作家た ちの制作との関係性の検討、すなわち前衛美術ネットワークの中で瑛九を捉え返す視点 うに見えるため、これはこれで独立した〝作品〟とみなしてもよいのではないかと感じる。 以上の状況を踏まえると、瑛九にとって〝作品〟と〝非作品〟との境界はあまり重要では なかったか、限りなく可変的な区分だったのではないかとも想像される。フォト・デッサン である。そうした視点は、瑛九作品だけでなく、瑛九の周囲にいた作家たち、とりわけ長 旧蔵の作品や資料は、今回の展覧会でお披露目された東京国立近代美術館の所蔵分のほ を切り抜いて作った型紙のように、過去の〝作品〟は未来の〝作品〟のための文字通り材料 谷川三郎、山田光春などの作品の研究にも、寄与するところが大きいはずだ[註 ] 。そ 他方で、横須賀美術館が所蔵するセロファンにインクで描かれたデッサン︽デッサン セロ となっただろう。また、ガラス絵を描いてみたら、それを印画紙に焼き付けてみたいとい か、愛知県美術館や宮崎県立美術館にも分蔵されているので、それらの全体把握や対照 2 ハン︾︵ 制作年不詳︶は、 〝作品〟登録されてはいるものの、元来はフォト・デッサンの原画と 1 は、こうしたパフォーマティヴな制作過程によって結果的に生成したものとも捉えられる。 う 衝動が急に沸き起こったことがあったのかもしれない。先述の﹁網目状﹂の作風展開と 九が山田や長谷川の他、吉原治良、瀧口修造、北尾淳一郎といったさまざまな人々と交 の意味で、本展のカタログに掲載された瑛九による山田光春宛書簡の翻刻は、当時の瑛 0 とはいえ美術館運営が、自館の担う使命や歴史的経緯などによって定められた何らか のカテゴリに即して行われる必要があることも、美術館に奉職する身としてはよく理解 綿貫不二夫﹁﹃瑛九作品集 ﹄ 編集を終えて﹂﹃日経アート﹄ 一九九七年十二月、五九頁。 ︵ 国立新美術館 学芸課美術資料室長︶ 流していた様子が垣間見える、非常に興味深く重要な資料だと言えるだろう。 0 通常呼ばれることが多い︶との境界が、所蔵館ごとの規定や担当学芸員の判断によって異 なることがままあり、また、どちらのカテゴリに分類されるかによってその扱いが全く変 わる点にある。 〝非作品〟は展覧会に出品される機会が少なく、また、 ﹁〇〇︵ 作家名︶ 関係 資料﹂のように一括記載されてしまうことも多いため、 〝作品〟と比べてアクセス性が格段 に落ちてしまう。その存在に気付くことすら難しくなり、副次的存在として、研究対象 から 外されてしまいかねないのだ。特に瑛九のように〝作品〟と〝非作品〟の境界が曖昧 註 にとって最大の問題は、日本の 美術館において〝作品〟と〝非作品〟︵ 資料と、 瑛 九研 究 4 たとえば銅版画のハッチングのような表現がフォト・デッサンやガラス絵に、フォト・デッサンの 拙稿﹁異種メディアのはざまで﹂﹃生誕一〇〇年記念 瑛九展﹄ カタログ、二〇一一年、一六五頁。 な作家の生産物を、各美術館の制度や担当者の判断に即して分断してしまうことには、 1 号、二〇一一年五月、六頁︶で論じた。 コラージュ │ 瑛九、長谷川、山田の 制 作の 類縁 性の一端については、拙 稿﹁研 究員レポート 長谷川三郎の 一九三七年前後の日本における板ガラスをめぐって﹂︵ ﹃国立新美術館ニュース﹄ 一八 型紙の効果が油彩絵画に援用されるなどの状況を指す。 3 4 とりわけ危険性がはらまれている。 2 できる。したがって、今後の瑛九研究にとって必要なのはむしろ、上述のような美術館の 11 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] 61 新 し い コ レ ク ショ ン 大竹伸朗 ︽網膜︵ワイヤー・ホライズン、タンジェ︶ ︾ 大竹伸朗(1955-) 《網膜(ワイヤー・ホライズン、タンジェ)》 1990-93 年 油彩、写真、オイルスティック、 ウレタンペイント、樹脂、 布、紙、ホチキス、 ハトメ等・木製パネル 274 × 187 × 20cm 平成 27 年度購入 © Shinro Ohtake ような、様々なイメージが貼り付けられて ていて、そこにはゴミ箱から拾われてきた した画面の上には五本の 帯が垂直に走っ に 属すると 言えるでしょう。青を 基 調と とができます。本作は、一瞥する限り後者 ジャンク、二つの 系 譜に 分けるこ 竹伸朗の作品の多くは、ポップと いことを理解するための手段﹂﹃美術手帖﹄二〇 る﹂︵ 大 竹 伸 朗﹁作 品 制 作は 世の 中のわからな あまりにも 大きな 重 要 性を 与えられてい しかしそのうち、当時の 絵画では﹁網膜が 影 響 を 受 けた 絵 画 を 制 作 していました。 す。実は彼も、当初はセザンヌや未来派に 方 を 変 えてしまったあのアーティストで いて 展 覧 会に 出 品することで 美 術の 在り ホライズン﹂という言葉が見えるのでしょう。 存 在 感ゆえ、タイトルの一部に﹁ワイヤー・ という 物 質は絵画としては異 質です。その 断ち 切るほどではありません。でも、針 金 すが、イメージはなく、垂 直 方 向の 喧 噪を 面の 上 半 分では 針 金が 水 平に 走っていま トの起源とがごちゃまぜになっています。画 できます。つまり、ジャンクとポップとアー メージ︵ というかそれそのもの︶も 見ることが ム 紙 幣 など、ポップ・アートによくあるイ か。女 優のブロマイドやモロッコのディルハ 源のひとつとも 言われているからでしょう 青 が、洞 窟の 絵 と 同 じように﹁絵 画﹂の 起 れています。本作で垂直に連なっている帯 れるモロッコの都市のこと。大竹は同地を タイトルに 見えるもう一つの 言 葉、 ﹁タ ンジェ﹂とは、タンジールの 名 前でも 知ら 的快楽は、緊密な関係にありました。 MTVなど、ポピュラーカルチャーと 網 膜 と 言えるでしょう。レコードジャケットや と 近づくべく︶作 品 を 制 作していったのだ 楽を変容させるべく︵ あるいは快楽の本質へ しろ﹁ゴミ﹂とかけあわせることでその 快 る 者 として、網 膜 的 快 楽 を 否 定せず、む す。ですが、ポピュラーカルチャーを 愛す はデュシャンに 大きな 影 響を 受けていま 大 竹は、ゴミ=ジャンクというレディメ イド︵ すでにそこにあるもの︶を 使うことで 大 いるのですから。 網膜的な絵画を批判するようになります。 タイトルには﹁網 膜﹂というちょっと 謎 めいた言葉も見えます。大竹は、この言葉 は、マーケットの喧噪の中で様々なものが 〇 六 年 十 二月 号、八 九 頁︶として、そうした 目 につくのは 動 物 の 写 真 です。猿、ト カゲ、人 間 の 頭 蓋 骨 等 々。幾 何 学 的 な 紋 を 冠したシリーズを一九 八 九 年 頃から 制 ぶらさげられている 店 先の 光 景を 反 映し 様 の 刺 青 の 写 真 がいくつもあるのは、刺 作していました。 ているのかもしれません。 ︵ 美術課主任研究員 保坂健二朗︶ 著 作の 執 筆のために一九九三年 七月に 訪 網 膜と 絵 画で 思い 出されるのはマルセ ル・デュシャン。倒した 便 器にサインを 書 Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 12 新 し い コ レ ク ショ ン の 背 丈を 越える、高さ二メートル て触角的にその形を確かめてみたくなるよ ていると、表面がどこにあるのか手で触っ うな感覚を呼びおこします。 ほどの大きさのこの作品の正面に 立って眺めてみると、ずっしりとした重厚 人 な存在感があります。ところが、その反対 しかも、もしかすると漆という有機的な 天 然 素 材ならではの 効 果なのかもしれま し合っているわけではなく、皮膜の内側と 側に回り 込んで 作 品の 内側を 眺めてみる 漆というと、器 物の 表 面を 覆う 塗 料の ような 役 割をしているものという 印 象が 外側の間のどこかに境界があり、それぞれ せんが、深い 水 面をのぞき 込むような 底 あるかもしれませんが、麻布などを素地と が別々の表情を見せていることがわかりま と、人が中にすっぽりと立ったまま入るこ して、そこに 漆を 塗り 重ねることで 自 立 す。艶 やかに 磨 き 上 げられた 黒い 外 側 と 知れぬ 奥 行きが 感じられ、皮 膜の 向こう する 立 体 物を 作ることができます。それ は 対 照 的に、内 側には 赤い 漆による 刷 毛 とができるほどの 大きな 空 洞となってお を 乾 漆と 呼んでおり、古くから 仏 像など の荒々しい痕跡が残されており、この作品 側が 見えているのではないかという 錯 覚 がこの技法によって作られてきました。こ が 漆を 塗ること、そして、それを 乾かして り、巨 大 な 立 体 と 思っていた 作 品 が、意 の作品の場合は、発泡スチロールで作った 研 磨 すること、という 手 作 業の 繰 り 返し に陥ります。 原 形に 麻 布を 貼り 込んで 胎を 作り、そこ によって 作られたものであることを、そし 外にも 厚さわずか 数ミリの 薄い 樹 脂でで に 漆を 塗っては 研ぎ、また 塗っては 研ぐ て、漆 を 皮 膜の 状 態で 立たせるために 果 きていることがわかります。 という 工 程を 何 度も 繰り 返すことによっ てしない時間が費やされたことを示してい ところが、反対側に回って内側を眺めて みると、外 側と 内 側の 表 皮が 相 互に 浸 透 てその 層を 厚くし、漆を 皮 膜の 状 態で 自 ます。 ︵ 工芸課主任研究員 木田拓也︶ 立させています。 作品の外側はつるつるに磨き上げられ、 黒々と艶やかに光沢を放ちながら、鏡のよ うにさまざまなものを 写し 出しています。 手 触りで 表 面の 感 触を 確かめながら 漆を 塗り、研磨するという作業を重ねることに よって生まれた曲面はしなやかに湾曲して おり、そのかたちを捉えようと目でたどっ 13 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] 田中 信 行 ︽ Inner Side-Outer Side 2011 ︾ 田中信行(1959- ) 《Inner Side-Outer Side 2011》 2011 年 漆、乾漆 高さ 209.3、幅 82.0、奥行 42.0cm 平成 27 年度購入 顧展が開催された。近年、アンリや同時代 ] 。一九二五年に 近 代アカデミーに入 スの 市 民 権を 得た 後に、パリに 移 住した スイスで 地 元の 男 性と 偽 装 結 婚してスイ 影していた彼の妻ルチア・モホリとは親友 トレート 写 真、建 築や 工 房の 制 作 物を 撮 んのこと、バウハウスで教師や学生のポー 小林美香 に活躍した女性写真家の展覧会が相次い [註 鏡とコンポジション ﹃フローランス・アンリ・ポートフォリオ﹄収録の初期作品について 当館収蔵の﹃フローランス・アンリ・ポー トフォリオ﹄︵ ギャラリー・ヴィルデ 刊 行、一 で開催され、彼女たちの功績を、その活動 作品研究 九 七 四 年︶は、フローランス・アンリ︵ 一 八 九三 機運が高まっている[註 ] 。本稿ではポー の社会的な背景も含め包括的に検証する ンファンといったキュビスム、ピュリスムの 学し、フェルナン・レジェやアメデエ・オザ ト 写 真の 撮 影︶においてより 直 接 的な 影 響 になるとともに、実 践 面︵ とくにポートレー 成され、アンリが 写 真 家として 活 動した 制 作された 初 期 作 品 点を 取り 上げ、鏡 トフォリオ収録作品のうち、二〇年代末に 成的な要素や色彩を取り入れた絵画に取 画 家から 指 導 を 受けながら、抽 象 的、構 を 受けている[註 ] 。パリに 戻ったアンリ │一 九 八 二︶ 監 修 の 元、オリジナルの ネガから 制 作されたプリント 十 二 点で 構 3 期間︵ 一九二七 │一九四〇︶の 中でも一九二 2 になった[註 ] 。その 後サンフランシスコ 行は、彼 女の 作 品に 対する 再 評 価の 契 機 られていたため、このポートフォリオの 刊 遠ざかり、戦 後その 存 在が 長らく 忘れ 去 以 降、アンリは 写 真による 作 品 制 作から いうべきものである。第 二 次 世 界 大 戦 期 を 集め、高い 評 価を 得た 彼 女の 代 表 作と る 展 覧 会や 関 連 書 籍、雑 誌を 通して 注 目 イエ・フォトグラフィーの 動 向 を 紹 介 す は﹁映 画 と 写 真﹂展︵ 一 九 二 九 年︶など、ノ り、とくに 二 〇 年 代 末に 制 作された 作 品 とその 反 射 像を 画 面 構 成に 取り 入れてお た 作 品が 選ばれている。一連の 作 品は 鏡 八 年から一九三三 年までの 間に 制 作され デミーで 絵 画の 勉 強 を 始め、さまざまな 心を持ち、一九一四年にベルリン芸術アカ 演 奏 家として 活 動する 傍らで 絵 画にも 関 歳の 時に 父 親が 他 界した 後は、ピアノの 歳 前 後からパリで 音 楽を 学び 始め、十 五 を 転 々としながら 幼 少 期を 過ごした。十 ン、ミュンヘンなどヨーロッパの 主 要 都 市 のためにヨーロッパに 渡り、パリ、ウィー 母親が他界した 後には父親の 仕 事の 都合 三年にニューヨークで生まれ、二歳の時に 人の 父とポーランド 系の 母の 間に一八 九 リは、石 油 会 社 を 経 営 していたフランス 生い立ちを大まかに辿っておきたい。アン た 経 緯を 把 握するために、彼 女の 数 奇な フローランス・アンリ が 三 十 歳 代 半 ば を 過ぎてから 写 真に 取り 組むようになっ について考察する。 を 用いた 写 真 表 現の 成り 立ちとその 特 徴 ホリ =ナジから 影 響を 受けたのはもちろ としての 写 真、映 画の 可 能 性を 説いたモ 真・映 画﹄︵ 一九 二 五 年︶を 著 し、光の 造 型 過 程に 聴 講 生として 在 籍した。 ﹃絵 画・写 ジとジョセフ・アルバースが指 導する 基礎 アンリは、一九 二 七 年に 三か 月 間 デッ サウのバウハウスでラースロ・モホリ =ナ ている[註 ] 。 志す 女 性たちが 急 増した 時 期にも 重なっ 門 教 育を 受ける 機 会が 広がり、写 真 家を うになった一九二〇年代後半は、写真の専 ] 。また、アンリが 写 真に 関 心を 持つよ 女性﹂ 、 ﹁モダンガール﹂の 先駆であった[ 註 イマール 共 和 国 時 代 に 流 行 した﹁新 しい 制 作 活 動 に 邁 進 していったアンリは、ワ 統 的な 女 性、家 族の 価 値 観に 縛られずに 際 的な 環 境で 育ち、高 等 教 育を 受け、伝 級に 生まれ、幼 少 期に 出 生 国を 離れて 国 り 組むようになった。裕福なブルジョワ階 アンリは 人 物を 画 面 構 成の一要 素として レート・コンポジション﹀と 題することで、 て画面の中に取り 入れて撮影し、 ︿ポート ような 空間 的な 要 素も 含めて 反 射 像とし 人 物に 直 接カメラを 向けるだけではな く、アトリエの 中 にあるものや 壁 や 扉 の トレート﹀や︿ポートレート・コンポジショ を繰り返し鏡越しに撮影し、 ︿二重のポー はアトリエの 中で 彼 女 自 身や、友 人たち いたのだ、鏡に 映っている 自 分の 姿を 撮 シャールのものだった。そこで 突 然思いつ れは 当 時一緒に 住んでいたマルガレーテ・ に 置かれたカメラが 映 り 込 んでいた。そ いる。 ﹁アトリエの 鏡を 見ると、家 具の 上 について 次 のようなエピソードを 語って 専念していった。後年アンリは、この 時期 その 後 絵 画 制 作を一時 的にやめて 写 真に は、一 九 二 七 年 末 から 写 真 を 撮 り 始 め、 近 代 美 術 館 で﹁ Florence Henri: Artist ﹂ ︵一 Photographer of the Avant Garde ろうと﹂ [註 ] 。このことを契機に、アンリ 、ジュ・ド・ポーム国 立美 術 館で 九九〇年︶ 前 衛 芸 術 家と 交 流する。一九 二四 年には 5 ン﹀と題した作品を制作する。 7 4 4 6 ﹁ Florence Henri: Mirror of the Avant﹂︵ 二〇一五年︶といった回 garde, 1927-40 1 Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 14 ることで、同じテーマに 対し り 入れるためである。そうす 写 真の 中に 複 数の 視 点を 取 度 から 見 られるようにして、 のは、同じ被写体を 異なる角 べ て い る。 ﹁私 が 鏡 を 用 いる 郭 線、鉄 格 子 が 画 面 を 分 割 している[註 空間の関係が操作され、鏡の継ぎ目や輪 いる。このように 反 射によって 被 写 体と の 表面にはアトリエの 窓枠が写り 込んで うな 状 態で 鏡 面に 写りこみ、さらに 球 体 た 格 子の 間に 挟まれ、またに 遮られるよ 状に交差した鉄格子の縦の枠と増幅され ] 。 てさまざまな見方が与えられ る。それぞれの 見 方が 相 互に 補 完・作 用することで 主 題を より深く解き明かすことができる﹂ [註 ] 。 Genoa, Italy(図 1 ─ 4 すべて) が、彼 女の 左 側に 設 置されたカメラで 撮 台の 上に 置いて 鏡を 見つめている 反 射 像 ものを置くことで、反射像と、反射像の反 合わせるように 設 置し、水 平の 鏡 面 上に の 作 品は、二枚の 鏡を 壁 面と 直 角に 組み ﹁構 成︵コンポジション︶ ﹂と 題 された 一連 ず、具 象 的な 写 真によっても 実 践されて る実験は、抽象的なフォトグラムのみなら 一九二八年十二月刊行︶で﹁光の効果に関わ ンダの 前 衛 芸 術 雑 誌﹃ i10 ﹄︵ 一七/一八号、 が 鏡の 奥へと 数 珠つなぎに 連なるように がい 状に 向き 合わせた 間に 挟み、瓶の 形 入れて、球 体の 香 水 瓶を 二 枚の 鏡の 蝶つ Ⅲ﹂ [図 ] で試みられた鏡像の効果を取り 影されている。鏡 面 近くに 置かれた 二つ ︵ アンリの作品は︶絵画に関する 離を 強めて 表し、濃い色の 服装、短い髪、 目から球体︵ ビリヤードの球︶の上に架け渡 ﹁構 成 Ⅲ﹂ [図 ]では、鉄 格 子 が 鏡の 継 ぎ 覚メディアで取り組むものである﹂と高く 課 題 全 体に 対して、写 真という 新しい 視 鏡の 枠に 切り 取られ、鏡 像の 反 復により 映し 込ませて 撮 影されている。瓶の 形は、 され、球 体 とその 像 は、反 射 により 顔の 造 作を 強 調する 特 徴 的な 化 粧[ 註 ] る。鏡それ 自 体の 形、写しだされた 台の は 画 家のミッシェル・スーフォールやトレ 広く知れ渡るようになるとともに、アンリ 画と写真﹂展などを通してアンリの作品が 成 Ⅲ﹂ [図 ている。 ﹁セルフ・ポートレート﹂ [図 ] 、 ﹁構 と 直 線による 抽象的な 構図が作り 出され 面、鏡の 輪 郭 線 が 相 互に 関わり 合い、円 ] 、 ﹁ジャンヌ・ランヴァン﹂ [図 ] において共通して用いられてきた球体 らのアトリエで 講 座を 開 設して 写 真 家の 写真やポートレート写真を撮影したり、自 品 制 作だけではなく、依 頼を 受けて 広 告 契 機とする 経 済 状 況の 悪 化のために、作 めている。また、同 年 末 には 世 界 恐 慌 を 成主義的な 抽 象 表現への 関心をさらに 深 構 成 要 素として 扱うようになる。林 檎と の、複雑なフォルムを具えたものも画面の ける 中で、果 物や 植 物のような 自 然のも ポートレート 写 真や 広 告 写 真を 数 々 手が の 中 に 取 り 入 れられていたが、アンリは 面と 同 様に 光を 反 射するものとして 画 面 モチーフは、いずれも工業製品であり、鏡 と正方形︵ ス・ガルシアらと 共に 芸 術 家グループ﹁円 11 ︶﹂を創設し、構 Cercle et Carré 1 線、壁の 巾木のような 空間の要素が画面 図 2 『フローランス・アンリ・ポートフォリオ』 より 構成Ⅲ 1928 年 が、鏡に 映る 彼 女の 輪 郭を 際 立たせてい 輪 郭が 重なりあい、瓶の 置かれた 面と 壁 ジャンヌ・ランヴァン 1929 年 評 価した[註 ] 。翌 一 九 二 九 年には、 ﹁映 │ いる。 ラースロ・モホリ=ナジは、アンリの一 連の﹁構 成﹂作 品にいち 早く 注 目し、オラ 図 3 『フローランス・アンリ・ポートフォリオ』 より この 時期に 手がけた 広告写真の 代 表 作 ﹁ジャンヌ・ランヴァン﹂ [図 ] では、 ﹁構 成 3 射像を作り出して撮影されたものである。 扱 う 姿 勢 を 明 確 に 表 わ し て い る。 ﹁セル Florence Henri ©M a r t i n i e R o n c h e t t i , 字 2 2 を 分 割し、球 体とその 反 射 像、三 角 形を X 2 フ・ポートレート﹂ [図 ] では、組んだ腕を 図 1 『フローランス・アンリ・ポ ートフォリオ』 のクロームメッキ球が、彼女と鏡の間の距 9 10 育成にも取り組んだりするようになった。 3 なす上半身の輪郭が幾何学的な要素とし て 相互に関わりあい、緊密な 構図を 作り 出している。 アンリは、鏡で 被 写 体の 像を 増 幅させ 画面を構成する実験的な手法をさらに推 し 進め、静 物をクローズアップで 捉えた 作品において、構成主義的な 絵画を 連想 させる 表 現 効 果を 生み 出している。彼 女 は鏡と視点の関係について次のように述 15 │ Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] より セルフ・ポートレート 1928 年 8 1 合わせて 撮 影した﹁果 物﹂ [図 ]において 皿の 上の 洋 梨、レモンを 複 数の 鏡と 組み 図 4 『フローランス・アンリ・ポートフォリオ』 より 果物 1929 年 鑑 みると、 ﹁果 物﹂[ 図 ]はアンリ の 写 真 ラージュ 作 品の 制 作にも 着 手することを 一九三〇年代以降、写真 を組み合わせたコ 中でより有機的に組み合わせられている。 チャーや影、明暗のコントラストが画面の と 奥 行 きの 効 果、果 物それぞれのテクス は、鏡と 果 物の 配 置 関 係、鏡による 反 射 4 アンリのバウハウス在籍中の 経験とその 後 の活動への影響については以下を参照。 Cristina Zelich, “Florence Henri’s Photography within the 註 Context of the Avant-Gardes ” in Florence Henri: 写真の制作活動をやめて、パリを離れて田 舎町で余生を過ごしていた一九七〇年代のアン に詳しい。 Ann Wilde, “Memories of Florence Henri” in Photography at Bauhaus , (The MIT Press, Mirror of the Avant-garde, 1927-40 , (Aperture, 1990) pp.55-57, Giovanni Battista Martini, “Encounters with Florence Henri” in Florence Henri: 2015), pp.186-188. 近年主要な美術館で開催された展覧会とし て 以 下 がある。 Germaine Krull (1897-1985): A ︵ジュ・ド・ポーム 国 立 美 術 Photographer’s Journey 館、二〇一五年︶ 、 From Bauhaus to Buenos Aires: ︵ニューヨーク近代 Grete Stern and Horacio Coppola 美 術 館、二〇一五 年︶ 、 Who’s Afraid of Women ︵オルセー 美 術 館、二 〇 Photographers? 1839-1945 一五 │一六年︶ アンリにとって結婚は市民権獲得のための 手 段であり、相 手とは 同 居せず、生涯 子どもを 持 つこともなかった。女 性 画 家マルガレーテ・ シャールが恋人の一人であったことは知られてい 明言を避けていた。 るが、アンリは自身のセクシュアリティについて 撮影したポートレート写真は、彼女たちの交友を あとづけるものである。バウハウスの活動を後世 に 伝える 上で 重要な 記 録を 残したルチア・モホ リの功績については以下を参照。 Rolf Sachsse, “Notes on Lucia Moholy” , in Photography at Bauhaus, pp.25-27. Ann Wilde, “Memories of Florence Henri”, p.56. ポートレートの撮影にあたって、モデルの服装 や髪形、化粧を画面の構成要素として重視するの は、ルチア・モホリからの影響であり、アンリが後 に手がけた顔面にクローズアップするポートレート Mirror of the Avant-garde, 1927-40, p.195. 写真にも通底する。 Giovanni Battista Martini and Alberto Ronchetti, “Biography” in Florence Henri: Diana C. du Pont, “Florence Henri: Artist Artist Photographer of the Avant Garde ” (San Photographer of the Avant Garde” in “Florence Henri: p.21. Francisco Museum of Modern Art, 1990), 級 的、社 会 的 な 背 景 について は 以 下 を 参 照。 いる。バウハウスの 学 生が 撮 影した 写 真の 中に してバウハウスに在籍した経験が強く 影響して 鏡や球体による反射への関心は、聴講生と 表 現が、彼 女が 写 真に 取り 組む 以 前から Abigail Solomon Godeau, New Women and New 反 射の 視 覚 効 果を 生みだす 装 置として 頻 繁に within the Context of the Avant-Gardes” , p.12. Cristina Zelich, “Florence Henri’s Photography Autumn, 1994), pp.224. wall ” in History of Photography , (vol.18, no.3 Photographic Series of 1928: Mirror, mirror on the 登場する。 Carol Armstrong, “Florence Henri: A は、金 属 工 房 の 制 作 物 や 金 属 の 球 体、鏡 が、 modernity-en/ テクノロジーと﹁新 new-vision-photography-in-the-crucible-of- http://lemagazine.jeudepaume.org/2015/10/ Vision Photography in the Crucible of Modernity . とさらに 結びつきを 深める 過 程にあるも のである。このように、アンリの 初期 作品 の 中には、同 時 代の 写 真や 絵 画から 受け た 影 響を、混 淆させて 生み 出した 表 現 方 │ 一九二〇年代を駆け抜けた女たち﹄ 田丸理砂、香 しい 女﹂の 相 互 浸 透﹂﹃ベルリンのモダンガール 香川檀﹁アートする 5 川檀[編] 、三修社、二〇〇四年、一五八頁。 11 法のエッセンスが凝縮されているのを見て 取ることができると言えよう。 ︵ 美術課客員研究員︶ abigail-solomon-godeau-new-women-and- 絵 画を 通して 培ってきた 着 想や 造 型 感 覚 アンリと同時代の女性写真家に共通する階 ルチ Mirror of the Avant-garde, 1927-40, pp.8-13. ア・モホリがバウハウスでフローランス・アンリを リの 様 子 や ポートフォリオ 制 作 の 経 緯 は 以 下 6 7 8 1 2 3 4 9 10 4 次号予告 2017年 2 ─ 3月号 2月1日刊行予定 622 In focus 尾竹竹坡 On v iew 所蔵作品展 動物集合 Review 革新の工芸 ─“伝統と前衛” 、 そして現代 ─ 瑛九 1935 ─ 1937 闇の中で「レアル」をさがす 2016 年 12 月 1日発行( 隔月 1 日発行) 現代の眼 621 号 編集:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館/美術出版社 制作:美術出版社 発行:独立行政法人国立美術館 東京国立近代美術館 2 5 61 〒 10 2-8 3 2 2 東京都千代田区北の丸公園 3-1 電話 0 3 ( 3 214) 表紙:山田正亮「制作 ノート」 撮影:木奥惠三 MOMAT 支援サークル Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [ Dec. 2016-Jan. 2017 ] │ 16
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