「会津から近江、そして倭へ」5 大橋しのぶ

福島復興から日本の立て直し探訪
―横田俊益伝―
旅の案内人:神奈川県在住
5
大橋 しのぶ
まほろば宮下社長のルーツ案内記
その
1 会津から近江そして倭へ
福島復興から日本の立て直し探訪
5
その
前回までのあらすじ 二 〇 一 五 年 五 月、 ま ほ ろ ば の 宮 下
社 長 と、 母 方 の 先 祖 が 同 じ 福 島 県・
会津若松である事が分かりルーツ探
しのお手伝いをする事になりました。
七 月、 福 島 県 二 本 松 市 で 講 演 会 を
されるという奥様の日程に合わせて
会 津 を ご 案 内 す る 事 に な り、 初 日 は
倉田本家の跡地にあるイタリアンレ
ス ト ラ ン・ ル ー チ ェ、 二 日 目 の 午 前
中 は 甲 賀 町 口 城 門 跡、 御 祖 母 様 の 出
生地などをご案内しました☆☆☆
戊辰戦争百五十年の節目
ん詰まりまで
甲賀町通りを北のど
かいこまちどおり
散 策 し た の で、 次 は 蚕 町 通 り を 西 に
進み、馬場町通りに向かいました。
七 月 の 会 津 は、 盆 地 の せ い も あ り
蒸し蒸しとした暑さが襲っ
かげろう
てきて、道路にはゆらゆらと
まつだいらかたもり
陽炎が立っています。この道
びゃっこたい
を、 百 年 前 に は 松 平 容 保 公
が、白虎隊士が、そして攻め
て来た西軍達が走り抜けた
のだな、と幕末時代に思いを
ぼしん
馳せながら歩き、今度の東京
オリンピックの前に、戊辰戦
争の一五〇年目という大き
な節目が来るのだと思い出
発事故の事を考えました。
目の頃に起こった東日本大震災や原
し ま し た。 そ し て 戊 辰 戦 争 百 四 十 年
のことでした。
贈 さ れ、 馬 場 町 倉 田 家 の
土地建物が会津若松市に寄
俊 秀、 昌 治 の 三 氏 に よ り、
人々は東京に移住されたと
時代の節目というのはとかく色々
な 物 事 が 起 こ り や す い も の。 ど う か
今この場所は「特定非営
利活動法人ファミリー・サ
今回は何事も起こりませんようにと、
会津や福島の守り神である土津神社
ポート・あいづ」の事務局
う、「什の掟」の精神が叩き込まれま
る、「ならぬことはならぬもの」とい
差別はなく会津武士道の礎とも言え
し た「 什 じ
( ゅ う 」) と い う グ ル ー プ
に 組 み 込 ま れ ま し た。 そ こ で は 階 級
歳 ま で の 四 年 間、 町 内 の 区 域 を 分 割
会 津 藩 士 の 子 弟 た ち は、 藩 校 で あ
る日新館に入学する前の六歳から十
リビングの壁にはあいづ
っこ宣言が掲げられていました。
志 を 継 い だ、 四 男・ 秀 治、 五 男・ 元
旅 行 に 行 き ま す。 そ し て そ の 父 の 遺
三五年にはるか遠い近江にまで調査
に し よ う と い う 熱 意 を 持 っ て、 明 治
代 目、 倉 田
この馬場町検断の一二
か ふ
留 八 郎 は、 倉 田 家 の 家 譜 を 明 ら か
気質ををよく表しています。
も 多 い と 思 い ま す。 会 津 人 の 一 徹 な
の桜の中で主人公の八重さんもよく
はにつ
(会津藩の初代藩主・保科正之公が祀
として使われ、会津の子育
てサポート事業の一環を担
られている)の方向に向かって心の
中で手を合わせました。
した。
譜」を著す事になります。
っています。
さて馬場町通り(旧・馬場名子屋町)
に 着 く と、 今 度 は そ の 通 り を 北 か ら
あいづっこ宣言はそれを現代版に
直 し て、 青 少 年 の 健 全 育 成 を 目 的 と
馬場町検断の倉田家
南に向けて市街地の方に戻っていき
し て 作 ら れ ま し た。 小 学 校 で 暗 唱 す
このセリフを大河ドラマ八重
かいました。
会津図書館へと向
倉田邸を後にして
の で、 馬 場 町 の 旧
お願いしておいた
昨 日、 会 津 図 書 館 の 職 員 の 方 に、
その資料の閲覧を
治 が 九 年 の 月 日 を か け て「 倉 田 氏 家
言 っ て い た の で、 聞 き 覚 え の あ る 方
十 五 分 ほ ど ぶ ら ぶ ら 歩 く と、 倉 田
家 の 分 家 で あ る、 馬 場 町 検 断 の 倉 田
ました。
に分家した場所
こちらの倉田家は大町札の辻の倉
田 本 家 三 代 目 実 政 の 次 男・ 倉 田 儀 兵
邸跡に着きました。
で す。 義 茂 は 馬
る の で、 会 津 の 子 供 な ら 誰 で も
衛義茂が馬場町
場町の検断に任
言えるはずです。
明治初めまで十
代 に わ た り、 そ
の職を勤めまし
た。 そ し て 平 成
十年、倉田和夫、
~ならぬことは
ならぬものです~
命 さ れ、 子 孫 は
土津神社
2
まほろばだより No.4395 16-171 12/2
横田三友俊益と稽古堂
会 津 図 書 館 の 入 っ て い る、 会 津 若
松市生涯学習総合センターは会津市
民の交流の場として二〇一一年四月
に オ ー プ ン し ま し た。 外 観 は 情 報 を
集積するだけでなく発信していく「学
びの蔵」をイメージしていてニック
あいづけいこどう
ネームは「會津稽古堂」と言います。
実はこの「會津稽古堂」という名称は、
よ こ た さんゆう しゅんえき
倉田家出身の横田 三 友 俊 益 という学
者 が 開 設 し た、 江 戸 期 に お け る 日 本
初の民間教育の学舎である「稽古堂」
しゅんえき
からきています。
横田俊益は元和六年(一六二〇年)
正 月 十 六 日、 大 町 札 の 辻 の 西 南 角 の
家に倉田俊次の長男として生まれま
し た。 生 家 の 斜 め 向 か い が 本 家 の 倉
田家になります。
、 ま ほ ろ ば・ 宮 下 社 長
横田俊益は
かんせき
が 若 い 頃、 漢 籍 に 親 し み、 中 国 哲 学
を 学 ん で い た こ と も あ り、 倉 田 家 の
充を婿養子として迎え検断職を譲り、
姉 の 龍 に は 山 内 半 左 衛 門 の 息 子・ 実
二 人 の 娘 が い ま し た。 そ こ で 為 実 は
商 人 で す。 そ の 為 実 に は 男 子 が な く
にやって来て検断となり大出世した
為 実 は 近 江 国・ 日 野 甲 賀 町 よ り 会 津
た 通 り、 会 津 倉 田 家 の 祖 で あ る 倉 田
会津検断職の倉田為実が俊次の人と
になりました。程経てそれを知った、
柳津円蔵寺の奥院に身を寄せること
そ の 時、 俊 次 は 一 三 歳。 母 と 一 緒 に
福 島 の 間 を 漂 泊 す る 事 と な り ま す。
したが浪々の身となり、常陸・越後・
は、 会 津 大 沼 郡 滝 谷 の 城 主 で あ り ま
き 目 に あ い ま し た。 俊 次 の 父・ 俊 貫
と な り、 山 内 一 族 は 四 方 に 離 散 の 憂
の 正 善 院、 真 言 宗 の 連 城 坊 な ど を 呼
説 法 を 聞 か せ、 九 歳 の 頃 に は 修 験 道
益が三~四歳の頃から家に招き共に
寺 代 三 十 三 世 で あ る 住 職 逸 伝 を、 俊
当 時 会 津 の 名 僧 と 言 わ れ、 後 に 京
都 妙 心 寺 の 住 職 に も 栄 転 し た、 広 徳
広い教養を身に着けさせます。
財力をバックにして息子の俊益に幅
が 横 田 俊 益 で し た。 俊 次 は 倉 田 家 の
その三番目の子供として誕生したの
う
妹 の 徳 に は、 山 内 俊 貫 の 息 子・ 俊 次
な り 且 つ 家 系 の 歴 然 た る を 知 っ て、
んで般若心経、観音経を習わせ、
ためざね
を婿として本家の斜め向かいの土地
彼の父親である俊
次いで法華経八巻をも転読させ
とく
たつ
に分家させました。
貫 に 乞 う て、 自 分
ました。
はんにゃしんぎょう
ほけきょう
柳津円蔵寺と言
え ば、 倉 田 為 実 が
らは錦繍段詩集を学ばせました。
鉄 額 か ら は 論 語 を、 服 部 丹 斎 か
おくのいん
どちらの娘にも別々の山内家から
婿 を 取 っ て い る の で、 き っ と 山 内 家
の次女である徳の
若き日に兄と一緒
他 に も 十 一 歳 か ら は 連 歌、 点 茶
やないづ え ん ぞ う じ
とは何がご縁のある間柄だったので
婿として俊次を迎
面 で は 十 三、四 歳 の 頃
儒 教じ 方
ゅい
ししょ
か ら 儒 医 田 中 学 内 に 四 書 を、 葛
に一〇〇日の祈願
の 法、 謡 曲 を も 習 わ せ、 十 五 歳
じょうがんじ
をして満願の日に
からは加藤家の家老堀主水より
ど を 聞 い た の で し ょ う。 こ れ も ま た
職あたりから俊次親子の不遇の話な
い う 話 で す か ら、 き っ と お 寺 の ご 住
後も円蔵寺に報謝を怠らなかったと
した。
年( 一 六 二 九 年 ) 十 歳 の 時 の こ と で
定する先祖の話を聞いたのは寛永六
他 な ら ぬ 父 か ら、 人 生 の 方 向 性 を 決
このように俊益は当時考えられる
最 高 の 教 育 を 与 え ら れ る の で す が、
きんしゅうだん
神秘体験をしたと
剣 を、 家 の 奉 公 人 か ら は 薙 刀 を
倉田家にご縁のある柳津虚空蔵菩薩
俊次いわく、
なぎなた
いうあのお寺で
習わせました。
様のお導きなのでしょうか。 「 父 は も と は 山 内 の 一 族 で、 滝 谷・
檜 野 原 は 皆 わ が 先 祖 の 城 で あ っ た。
やないづこくぞう
婿に入った俊次は徳との間に女二
人、 男 二 人 を 設 け る 事 に な り ま す。
に 会 津 に 永 住 す る 事 を 決 め て、 そ の
す。 為 実 は そ れ 故
老 か ら は 三 体 詩 を、 成 願 寺 長 老
しゅげんどう
し ょ う。 特 に 俊 益 の 父 で あ る 俊 次 が
えることにしたの
岡 玄 興 か ら は 詩 経 を、 興 徳 寺 長
年( 一 五 八 九 年 )、 共 に 源 頼 朝
しょうぜんいん
倉田家に婿入りするに至るまでのエ
です。
れている人物で
公から会津に封ぜられていた芦
与えました。その結果、頼朝公
かんのんきょう
ピソードは興味深いです。 俊益の父親・俊次の願い
つねとし
俊
俊 次 の 十 九 代 前 の 遠 祖・ 山 内 経
は 元 々 は 鎌 倉・ 山 ノ 内 を 本 貫 の 地 と
みなもとのよりとも
する武士で、 源 頼 朝 により会津大沼
あ り ま す の で、
名家が伊達政宗によって滅ぼさ
郡横田に封ぜられました。それ
ちょっと紙面を
れます。そして翌年、天下統一
先祖の中でも特
さいてその人生
を果たした豊臣秀吉は伊達政宗
から約四百年を経た天正十七
をご紹介したい
を退け、蒲生氏郷に会津全領を
に親近感を抱か
と思います。
以来四〇〇年に及んだ山内家の
がもううじさと
これまでも何
回かご紹介し
所領はことごとく蒲生氏郷の物
5
その
福島復興から日本の立て直し探訪
3 会津から近江そして倭へ
(俊次)も壮年、倉田道拓(為実)の
る 事 に な っ た の で す。 俊 次 は 流 浪 の
こうして俊益は倉田姓から横田姓
に 改 め、 幼 名 の 三 平 か ら 俊 益 と 名 乗
し か る に 一 族 は 浪 々 の 身 と な り、 父
婿 と な り、 そ の 家 を 継 ぎ 倉 田 姓 と な
生活で文字を学ぶことすら出来なか
じます。
だりは俊次の父性愛をひしひしと感
生活をすることも厭わないというく
その為ならば紙の衣服を着て粗食の
身につけさせたいと願ったのですね。
っ た の で、 そ の 分、 息 子 に は 学 問 を
っ た。 汝 こ そ は 本 氏 を 継 ぐ べ き で あ
る。 姓 は 山 内 と い っ て も 横 田 と い っ
て も、 汝 の 好 み に ま か せ る。 文 字 の
美 し い 点 で は 横 田 氏 が 勝 れ て い る。
ま た「 俊 」 の 字 は 我 が 家 共 通 の 文 字
であり、「益」の字は形が正しく意味
も「 吉 祥 」 の 意 味 が あ っ て 目 出 た い
きっしょう
か ら、 只 今 か ら 汝 の 名 は 三 平 を 改 め
母 親 の 徳 か ら も「 必 ず 学 を 廃 す る
こ と な か れ 」 と 常 に 戒 め ら れ、 俊 次
て「俊益」と言うべきである。
と共に柳井津虚空蔵尊の奥の院に身
を 寄 せ て い た 俊 益 の 祖 母 も「 父 名 を
揚 げ て 山 内 氏 を 顕 わ す の は、 こ の 児
父 は 今、 市 中 に あ っ て 貨 殖 を 業 と
しているが、心中財は貴ばない。 (中
略)
した。
た そ の 人 生 に お い て、 時 あ る
と 呼 ば れ る 大 儒 学 者 と な り ま す。 ま
入 っ て い き、 や が て「 会 津 の 鴻 儒 」
こうじゅ
に 応 え る が ご と く、 広 く 学 問 の 道 に
そんな両親や祖母の期待と愛情を
一身に受けて育った俊益はその期待
である」と言って常に俊益を愛しま
我は幼児から昼間に浪々して衣食
につとめてきたから文字を知らない。
今 こ れ を 悔 い て も 及 ば な い。 汝 は 是
非、 書 を 読 む べ き で あ る。 読 書 し て
才があれば他人はこれを見捨てるこ
と は な い。 父 は 汝 の 為 に 書 を 買 う の
に 金 惜 し み は せ ぬ。 そ も そ も 身 に つ
けた財は時には無くなることもある
ご と に 祖 先 を 祭 り、 墓 石 を 建
て 一 族 の 戦 跡 を 訪 ね、 失 わ れ
が、 心 に つ け た 財 は 滅 す る こ と は な
い。 父 が 今、 書 物 の た め に 金 を 出 す
た先祖の地の事績や古跡が忘
んでした。
先に対する報恩も欠かしませ
横田系譜」を作成するなど祖
「 山 内 天 正 記 」 を 著 し、「 山 内
れ 去 ら れ て し ま う の を 惜 し み、
こ と は 無 駄 で は な く、 汝 の 為 に 宝 蔵
に 金 を 納 め る こ と だ。 学 を 学 べ ば 近
く の 人 は 道 を 知 り、 遠 く は 天 地 の 理
を 極 め 得 る の で、 人 生 の 至 楽 と い わ
ね ば な ら な い。 そ の 為 に は 父 は 紙 の
衣 を 着、 菜 食 を す る も 悔 や み は し な
い。」
俊益と加藤明成公
俊益は生まれつき容貌が美
しく、九歳になる頃には般若
心経、観音経などを暗唱して
い る の が 評 判 と な り、 時 の
ちごこしょう
会津藩主である加藤嘉明より
「稚児小姓」になるようにと
要請がありました。父・俊次
は「 年 が あ ま り に 若 い 」 と 言 っ て 辞
退 し ま す が、 翌 年、 加 藤 嘉 明 が 病 に
かかった時に藩命で小使役として召
し 出 さ れ「 身 体 も 精 神 も 並 み 並 み の
者ではない。」とさらに評判となりま
す。
加 藤 嘉 明 が 没 す る と、 子 の 明 成 は
た び た び 俊 益 を 召 し 出 し、 古 謡 を 歌
わ せ、 書 を 書 か せ、 三 略 を 読 ま せ、
または茶菓を供えさせて起居動作を
観 察 し、 稚 児 小 姓 に な る 事 を 要 請 し
ま し た。 し か し こ の 時 も 父・ 俊 次 は
祖母の喪中であるのを理由にそれを
辞 退 し ま し た。
ちょうあい
それでも明成は
俊 益 を 寵 愛 し、
けんしん
しきりに召し出
し権臣の坐に列
しさせ食事を賜
ることもたびた
びありました。
やがて俊益が
一九歳になる
と、 明 成 は 参 勤 交
代で江戸に登るこ
ずいこう
と に な り、「 汝 も
随 行 せ よ。 汝 が も
し儒を学ぼうと欲
するなら道春に托
とを知らないというほど喜びました。
徳をはじめとする親戚一同はなすこ
に 迎 え る と い う 栄 誉 に、 父・ 俊 次 や
時 の 茶 会 」 を 開 き、 時 の 藩 主 を 自 宅
に は、 明 成 は 会 津 の 俊 益 宅 に て「 不
俊益二十一歳の
正月(一六四〇年)
ん。
たのかもしれませ
超えて伝わってい
その影響が世代を
た 可 能 性 が あ り、
そこで琴学に触れ
前 身、 昌 平 黌 学 問 所 を 開 き、 俊 益 も
しょうへいこう
そ の 弟 子 の 林 羅 山 ら が、 湯 島 聖 堂 の
の
宮 下 社 長 か ら 度 々 出 る 中 国 古せ琴
いか
お 話。 朱 子 学 者 と な っ た 藤 原 惺 窩 や
のでした。
指導を受けるという機会に恵まれた
じ め と す る、 日 本 第 一 の 大 学 者 達 の
ん で 随 行 を 決 め、 江 戸 で 林 羅 山 を は
はやしらざん
よい。」といわしめました。俊益は喜
う。 た だ 汝 の 欲 す る と こ ろ に 進 ん で
ば、 玄 治 に 托 し よ
習おうとするなら
し よ う。 ま た 医 を
加藤明成公
4
まほろばだより No.4395 16-171 12/2
賞して黄金と衣を拝受したのでした。
月ぶりに明成が平癒するとその労を
解 し て 重 宝 さ れ ま し た。 そ し て 五 か
の者ではつかみ得ない明成の言葉を
は 衣 帯 を 解 か ず に 側 で 看 病 を し、 他
お こ り ま す。 わ ず か 九 ヶ 月 前 に 元 気
の身に晴天の霹靂というべき事態が
に 専 念 し ま し た。 し か し そ ん な 俊 益
た が、 彼 は す べ て 断 り ひ た す ら 学 問
こちの藩から士官の要請がありまし
俊 益 の 如 き は 稀 だ 」 と 言 わ れ、 あ ち
この頃には俊益の評判は江戸中に
広 が っ て お り「 当 世、 学 者 は 多 い が
と学究肌で理想主義傾向の強かった
い 難 い 人 物 だ っ た よ う で す。 も と も
が っ て 行 く の で、 あ ま り 名 君 と は 言
動という大事件に発展し改易へと繋
が幕府や高野山を巻き込んだ会津騒
の 堀 主 水 と ト ラ ブ ル を 起 こ し、 そ れ
も 無 視 し 続 け た 時 も あ り、 ま た 家 老
朝夕側を離さなかった俊益を三か月
と い う か、 ち ょ っ と し た 誤 解 か ら、
さんが、北海道札幌に在住していて、
会津藩の名家老として知られるこ
の 田 中 正 玄 の ご 子 孫 の 一 人、 磯 深 雪
でした。
に よ り、 よ う や く 士 官 を 了 承 し た の
これ以上は辞退できないと観念し
た 俊 益 は、 大 老 田 中 正 玄 直 々 の 説 得
「それで結構、それで結構。心配の
要はない」
がいただけますでしょうか。」
そ の 二 年 後、 明 成 が 病 を 得 る と 俊 益
このように俊益が明成に仕えること
で 別 れ た 弟 が 病 に 臥 し、 若 干 二 〇 歳
俊益にとって宮仕えは疲れることの
まほろばのお客様として長く宮下社
いたい
は七年に及びました。
にしてあっけなく亡くなってしまっ
方が多かったのではないでしょうか。
へきれき
まれ
寛永十六年(一六三九年)、会津騒
動 と よ ば れ る お 家 騒 動 が 起 こ り、 寛
た の で す。 さ す が に 気 落 ち し た 父 母
かいえき
改 易 処 分 と な り ま す。 そ れ と 同 時 に
はいじゅ
永 二 十 年( 一 六 四 三 年 ) 加 藤 明 成 は
不思議なご縁ですね。
ついには大老の田中正玄が乗り出し
翌・明暦二年(一六五六年)六月、
俊益の元に江戸から二百石を賜う目
やくごめん
「私は子供は多かったが、男の子は
二 人 だ け。 そ の 一 人 が 今 死 ん だ。 汝
て 説 得 に あ た る 事 に な り ま し た。 正
録 が 到 着 し ま し た。 こ の 時 俊 益 は
す。
三 七 歳、 始 め に 成 瀬 氏 よ り 士 官 の 要
請があってから何と一三年も経って
いました。
まさはる
俊益はお役御免となりました。
は学問をあきらめて我が悲しみを慰
玄はさとすように俊益に話しかけま
長とご交流があるというのも本当に
は俊益にこう言います。
と い う こ と で、 な か な か 首 を 縦 に
振 ら な い 俊 益 を 士 官 さ せ る た め に、
藤 明 成 の 後 に は、 い よ い
そして加
ほしな まさゆき
たかとお
よ 名 君・ 保 科 正 之 が 信 濃 の 高 遠 藩 か
めてくれ。」
もがみ
ら最上山形藩を経て会津にやってく
ることになるのです。
俊 益 は「 は い 」 の 一 言 で す ぐ に 江
戸を引き払い会津に戻ってきました。
「この国に居て、その身を勝手にす
ることはよくあるまい」
母にこう言います。
加藤家からお役御免となった俊益
は 自 己 の 身 の 振 り 方 を 考 え た 末、 父
日々を過ごすします。
たすら孝養に励みつつ読書と思索の
よ ろ し く 」 と 辞 退 し ま す。 そ し て ひ
は 士 官 の 意 は あ り ま せ ん、 成 瀬 氏 に
同 僚 で し た。 し か し 俊 益 は、「 私 に
話相手のないのを淋しく思って
「 心 配 は ご 無 用。 太 守 は 儒 学
がお好きであるが、側にあって
ません」
ばすなら、私はその器ではあり
才の私に歴史を講ぜよと仰せ遊
「前に太守(保科正之公)が儒学を
愛 好 さ れ 私 を お 召 し に な っ た が、 不
っています。
(何
の家にも立ち寄
甲賀水口の親類
際、 祖 父・ 為 実
ま す が、 そ の
間逗留したりし
しゅ会けい津 に 帰 る と、 す ぐ に 家 老 の 成 瀬
主 計 か ら 士 官 の 要 請 が あ り ま し た。
「 弟 の 俊 親 は、 年 す で に 十 七、八 歳
に な り、 姉 の 嫁 し た 木 村 久 哉 も い る
成 瀬 氏 は 諦 め き れ ず、 翌 々 年 も そ
の次の年も三度に渡って士官の要請
いられる。汝が太守の側にあっ
保科正之公の侍講となる
こ と だ か ら、 家 の こ と は こ れ ら の 人
を し ま す が、 俊 益 は こ と ご と く こ れ
てお慰め出来れば幸いである。」
そ の 一 三 年 の 間 に 俊 益 は 藩 医・ 服
部 寿 慶 の 娘、 久 里 と 結 婚 を し、 医 術
に 任 せ、 私 は 江 戸 に 出 て 学 問 で 身 を
を 断 り ま す。 よ ほ ど 宮 仕 え が 肌 に 合
俊益は答えました。
立てたいと思う。」
わないと感じていたのでしょうか。
成瀬氏は以前共に加藤明成に仕えた
父 母 も こ れ に 賛 同 し、 江 戸 に 家 を
買 っ て 学 問 に 励 む よ う に と 言 っ て、
「 私 は 体 が 弱 く、 長 い 間 君 側
に奉仕することは健康上できな
とうりゅう
こうがみなくち
の出身地である
と、 こ の 甲 賀 水
口にまほろばの
お客様が居らし
たとか)
5
その
福島復興から日本の立て直し探訪
5 会津から近江そして倭へ
を学ぶため義兄と一緒に京都に一年
黄金三十両を授けてくれました。
前藩主の加藤明成は俊益を破格の
待 遇 で 愛 し ま し た が、 偏 愛 が 過 ぎ る
いので、疲れたらいつでもお暇
俊 益 二 五 歳、 青 雲 の 志 を 持 っ て 江
戸に登り、家を探し始めます。
近江国甲賀水口付近
た。 奏 風 黄 鳥 篇 は
心を動かされまし
を楽しみました。
を結び、共に漢詩和歌を作詩する日々
だ と 思 う と、 と て も 胸 が 熱 く な り ま
に自らの学び舎を作り上げいったの
倉田為実が会津で大出世し
たことは故郷の甲賀でも広く
年)閏
そ し て 寛 文 四 年( 一 六 六わ 四
かまつけいりんじ
五 月、 俊 益 四 五 歳 の 時、 若 松 桂 林 寺
長 に は 俊 益 の 友 人 の 僧 侶、 岡 田
じょ校
もく
如 黙 を あ て ま し た。 稽 古 堂 は 校 長 如
妹は兄を訪ねてはるばる会津
や仙台までやって来たそうで
す。
なるのは先にも少し述べたとおりで
旅 行 に 行 き、 再 び 交 流 が 始 ま る 事 に
家の歴史を残すために甲賀まで調査
場町の倉田家に婿入りした留八郎が
よ う で す。 し か し 明 治 期 に な っ て 馬
末 期 に は、 ほ ぼ 絶 交 渉 と な っ て い く
しかし世代が変わり時代が進むに
つ け、 徐 々 に 交 流 は 途 絶 え 江 戸 時 代
出そうとしなかった保科正之公の隠
公 を 立 て、 自 ら の 功 績 を 決 し て 表 に
令 を 布 き ま す。 こ れ は 常 に 将 軍 綱 吉
それに倣うように全国に殉死の禁止
発 布 し、 さ ら に そ の 二 年 後 は 幕 府 も
その三年後(一六六一年)、正之公
は会津藩内において殉死の禁止令を
る逸話です。
名 君・ 保 科 正 之 公 の 情 深 さ を 伺 わ せ
では非常に嘆き悲しまれたそうです。
問を志すものは出家して僧侶になる
は ま だ 存 在 し て お ら ず、 本 格 的 な 学
江戸時代初期のこの頃は戦国時代
の 風 潮 が 残 り、 藩 校 と 呼 ば れ る 学 校
が建設されました。
銭 を 出 し、 力 を 合 わ せ て「 稽 古 堂 」
俊 益 が 講 堂 の 設 立 を 提 唱 す る と、
喜びに沸いた四民の子弟数百人が金
古堂」が最初のものです。
よらず庶民が作ったものとしては「稽
藩 の 力 が 加 わ っ た も の で、 藩 の 力 に
このような会津人の好学の風潮は、
徳川家康の文教政策はもちろんのこ
であったそうです。
溢れ下駄は堂外に乱れたほどの盛況
をはじめ、城内の諸役人、医者、僧侶、
寛文四年に俊益が庶民に請われ論
語 を 講 じ た 時 に は、 大 老 の 田 中 正 玄
理 費 を 与 え、 如 黙 に は 菜 園 と 給 料 を
学 問 を 奨 励 し て い た 正 之 は、 稽 古
堂 の 設 立 を 喜 び、 税 を 免 じ 校 舎 の 修
す。
秦の穆公が崩じた
の北端赤岡の地に江戸時代で初めて
黙の下に二、三人の助手がいて、講義
俊 益 は 会 津 に い る 時 は、 請 わ れ る
ま ま、 庶 民 を 相 手 に 自 宅 や 寺 で 論 語
れ た 善 政 の 一 つ( 徳 川 三 百 年 中 最 善
のが一般的でした。
好きで自らも学びそして人にも勧め
ん だ 詩 で、 正 之 公
や 中 庸 を 講 じ は じ め ま す が、 評 判 を
政の一つともされる)でありますが、
そ ん な 中、 藩 命 に よ ら ず 庶 民 の 力
だけで設立された稽古堂は我が国の
た こ と、 そ し て そ の 侍 講 を 務 め た 俊
はなばたけきょうじょう
聞きつけた聴衆が寺に入りきれない
さらにその正之公の陰には横田俊益
近世教育史上特筆されるべき事例で
益が稽古堂ができる二十年も前から
す。 俊 益 の あ た り ま で は 会
ぼくこう
際、 三 人 の 賢 者 が
の 民 間 教 育 の 機 関 で あ る「 稽 古 堂 」
は月に二回、ないし六回おこなわれ、
知 ら れ て い た よ う で、 為 実 の
殉死をした事を悼
を 設 立 す る こ と に な る の で す。 こ の
儒 教 を は じ め と し て、 詩 文、 和 歌、
いた
は殉死は不仁不知の野蛮人の風習で
種のものでは岡山藩の 花 畠 教 場 や
医書なども加わりました。
じゅんし
あ る こ と を 語 り、 詩 中 の「 穴 に 埋 め
藤 樹 書 院 な ど も あ り ま す が、 こ れ は
けいこどう
津倉田家と近江倉田家の間で交流が
られるとき泣き恐れる」という箇所
ほ ど 集 ま っ て き て 門 外 ま で 溢 れ、 周
の詩経講義の功績があったのですね。
あ り、 後 に 設 立 さ れ る、 全 国 で も 最
庶民に儒教を初めとする学問を講じ
げ
た
なのです。
益 が「 会 津 藩 教 学 の
藩命による学問所
としては二代藩主の
祖」と言われるゆえ
んです。
金 を 出 し 合 い、 共
垣 根 を 越 え て、 お
学ぶ事に飢えて
いた四民が身分の
と、 藩 祖、 保 科 正 之 公 が 非 常 に 学 問
あふ
農工商の者にいたるまで聴衆は堂に
下賜されました。
囲に迷惑がかかる事を 慮 り講義が中
高の学力水準を誇ったという会津藩
ていた功績も大きい
じこう
なら
止 に な っ た 日 も あ っ た そ う で す。 後
俊益は詩経の講義がひと段落する
と病の為に侍講を辞して会津へと帰
校・ 日 新 館 の 源 流
と さ れ て い ま す。 俊
、肥前か
俊益は会津で静養しつつ
じょもく
ら会津にやってきた僧侶如黙と親交
稽古堂の設立
し
の 私 塾・ 稽 古 堂 開 設 に 繋 が る よ う な
っていきます。
ともいえる学問所
篇 の 講 義 を 聞 か れ た 際、
詩経三百
かったんへん
正之公は葛覃篇と奏風黄鳥篇に最も
す。
名を相手に詩経の講義などを務めま
さ れ、 正 之 や そ の 息 子 達、 諸 臣 数 十
こ
エピソードです。
寛文二年(一六六二年)、俊益四三
才のことでした。
おもんぱか
さてついに正之の侍講となった俊
益はたびたび会津から江戸屋敷に召
とうじゅしょいん
盛 ん だ っ た こ と が 分 か り ま す。 保科正之公
6
まほろばだより No.4395 16-171 12/2
保 科 正 経 が 延 二 年( 一 六 七 四 年 ) 本
一 ノ 丁 甲 賀 町 東 北 角 に、 読 書 所 と 呼
ばれる武士を対象とする学問所を設
け ま し た。 元 禄 二 年( 一 六 八 九 年 )
この読書所は甲賀町口東北の角に移
設 さ れ、 庶 民 も 入 学 を 許 さ れ る 町 講
所という学問所へと発展します。
そ の 際、 稽 古 堂 は 街 は ず れ に あ っ
て庶民の通学に不便だという理由も
あ り、 こ の 町 講 所 に 吸 収 合 併 さ れ る
事 に な り ま し た。 俊 益 の 設 立 し た 稽
古 堂 は、 事 実 上 そ の 時 に 閉 鎖 と い う
形 に な り ま し た。 し か し こ の 学 び 舎
は設立以来二六
年という長きに
渡って会津人の
庶民教育に多大
なる貢献したの
です。
そして稽古堂
という名称は
三二二年の時を
経た二〇一一年
に、 会 津 人 の 教
育の場所である会津若松市生涯学習
総合センターのニックネームとして
「會津稽古堂」の呼び名で復活したの
でした。
四 民 が 等 し く 学 問 を 学 ぶ 喜 び が、
三〇〇年もの長きに渡って会津人の
心の中に生き続けていた証と言える
でしょう。
再び正之公の侍講となる
寛 文 二 年( 一 六 六 二 年 ) 四 三 歳 の
時 に、 健 康 を 害 し 侍 講 を 辞 し て い た
俊 益 で し た が、 江 戸 で 幕 政 に 携 わ っ
て い た 正 之 公 は 俊 益 の 去 っ た 後、 淋
し さ に 堪 え ず、 健 康 は ま だ 回 復 せ ぬ
かと家臣にたびたび尋ねられていま
かんぶん
した。
寛文六年(一六六六年)、正之公の
側用人から俊益宛に書状が届きまし
た。内容は、
「 太 守( 正 之 公 ) は 幕 府 か ら 隠 居
の許しが出たなら学問を娯しまれる
御 考。 そ の た め 侍 講 を 求 め ら れ、 汝
ともまつうじおき
なんじ
の こ と を 話 に 出 さ れ た。 近 く 家 老
友 松 氏 興 が 会 津 に 行 っ て、 汝 に 再 任
を進めるから命に従え」
というものでした。
九 月 下 旬、 江 戸 家 老 の 友 松 は 会 津
に 帰 り、 大 老 の 田 中 と 打 ち 合 わ せ 俊
益 に 再 任 を 進 め ま し た。 そ の 時 に 俊
益 は 自 身 の 希 望 を こ う 述 べ ま し た。
「 私 の 祖 先 は 大 沼 郡 金 山 谷、 滝 谷
の 城 主 で あ っ た が、 天 正 の 乱( 伊
達 政 宗 の 会 津 侵 攻 ) で、 鎌 倉 右 大 将
ことごと
以 来 の 封 土 は 理 非 を 問 わ ず、 大 と な
く小となく悉く蒲生氏郷の所領とな
り、 私 の 父 俊 次 は 一 三 歳 の 身 で 浪 々
の 身 と な り、 成 年 に な っ て 会 津 若 松
八 十 余 歳 の 老 母 が い る の で、 こ れ を
れ 以 上 の 嬉 し さ は な い。 た だ 私 に は
が 祖 先 の 業 を 継 ぐ 事 が 出 来 れ ば、 こ
の庇護によって微賤の子孫である私
運 を 慨 い て い た の で、 今、 幸 に 太 守
は 幼 少 か ら 文 を 学 び、 常 に 祖 先 の 悲
城 下 の 検 断 倉 田 氏 の 婿 と な っ た。 私
ま し た。 よ っ て た び た び 隠 居 願 い を
明 し ま す、 寛 文 二 年 に は 血 も 吐 か れ
寛文元年には眼病を患いその後に失
之 公 も 健 康 を 害 し 始 め て い ま し た。
俊益が静養を理由に侍講を辞した
寛 文 二 年 の 前 年 あ た り か ら、 実 は 正
と仰せられたほどでした。
指示するから抜書として別冊を作れ」
びせん
棄 て 去 る こ と は 出 来 な い。 も し 一 子
幕 府 に 提 出 し て い た の で す が、 将 軍
ご
に 老 母 を 養 わ せ、 私 は 別 に 太 守 の 禄
綱吉は正之が隠居する事を心細く思
ひ
を 受 く る こ と が 出 来 れ ば、 恩 義 を 全
い 許 さ れ ず に い た 状 況 で し た。 そ ん
す
う す る こ と が 出 来 る。 何 と ぞ 私 に 士
な 中、 俊 益 が 侍 講 と し て 戻 っ て き て
ろく
騎馬を養うに足る禄と家屋とを賜ら
く れ て、 学 問 好 き の 正 之 公 は ど ん な
年( 一 六 六 七 年 ) 三 月、 俊 益 四 八 歳
敷 を 賜 う こ と に な り ま し た。 寛 文 七
聞 き 入 れ ら れ、 三 百 石 と 一 ノ 丁 の 屋
着られたのでした。
可 が 下 り、 公 は 髪 を 短 く し て 道 服 を
ようやく幕府から正之公に隠居の許
やがて俊益が侍講に再任して二年
が過ぎた寛文九年(一六六九年)九月、
側を離れず講義を進めました。
江戸に上がると俊益は日々正之公の
に お 喜 び に な っ た 事 か と 思 い ま す。
ば、これ以上の幸はない」
大老田中正玄と友松家老は相談し
て 俊 益 に 系 図 を 提 出 さ せ、 こ れ を 正
の 時 の 事 で、 約 五 年 ぶ り に 正 之 公 の
之 公 に 奉 っ た と こ ろ、 直 ち に 希 望 は
侍講となったのでした。
隠居してから正之公の学問はます
ま す 盛 ん に な り、 俊 益 は た び た び 江
鑑網目の講義を行います。
戸 に 上 が り、 中 国 の 歴 史 書 で あ る 通
今 こ そ 祖 先 の 偉 業 を 語 り 伝 え、 横 田
俊益は前回も二百石を拝受してい
ま す が、 こ の 度 の 再 任 要 請 に よ り、
家を再興したいと願ったのでしょう。
は病床に臥しました。
寛 文 十 二 年 十 月 二 十 七 日、 正 之 公
は 風 邪 に か か り、 十 一 月 二 十 五 日 に
それは正之公が亡くなる直前まで
続くことになるのです。
俊益が常に祖先の事を考えていたこ
とが分かる逸話です。
そ の 年 の 八 月、 正 之 公 の お 召 し に
よって俊益は大老の田中正玄と共に
これより病状は一進一退を繰り返
し、 つ い に 十 二 月 十 八 日 の 未 明、 会
江 戸 に あ が り ま す。 俊 益 が 得 意 の
「通鑑網目」を進講すると正之公は非
津 の 誇 る 名 君、 保 科 正 之 公 は 江 戸 の
つがんこうもく
常に喜ばれ、「これから大切な箇所は
5
その
福島復興から日本の立て直し探訪
7 会津から近江そして倭へ
医学を学ぶ事になった旧・
受 け、 そ れ が き っ か け で
野口英世が左手の手術を
松下村塾の参考にもなった
す。 後 に 松 陰 が 設 立 す る
訪問し見聞を広めたそうで
関 心 を 示 し、 二 度 に 渡 っ て
の藩校・日新館に特に強い
偶然にも遊行寺は私が今住んでい
る神奈川県藤沢市のマンションから
教徒でした。
剃髪して泡興と号したほど熱心な仏
に布教に来ていた遊行上人に出会い
( 一 六 二 六 年 )、 四 九 歳 の 時 に、 会 津
みのだ
箕田邸にて六十二歳でその生涯を閉
会陽医院です。
のではないでしょうか。
を囲む緑の森の香りが朝の風に乗っ
がらん
一キロと離れていない場所にある時
ゆぎょうしょうにん
じたのでした。
二 階 は 資 料 館、 一 階 は
喫茶店になっていますの
宗 の 総 本 山 で す。 毎 朝 寝 室 の 窓 を 開
も会津を訪問した際はこの清水旅館
て、 心 地 よ く 部 屋 に 吹 き 込 ん で き ま
にいじまじょう
しょうかそんじゅく
正之公は薨去の十一日前の十二月
七 日 ま で、 俊 益 に 枕 元 で 通 鑑 網 目 を
で、 二 階 を 見 学 し た 後 は
また新選組の土方歳三
や、 同 志 社 大 学 設 立 者 の
け る と、 遊 行 寺 の 伽 藍 が 見 え、 そ れ
講じさせました。
一階の喫茶店で小休止を
新島襄やその妻の山本八重
に逗留しました。
ひじかた
既に自分の死期を悟っておられた
のでしょう。
することになりました。
野口英世青春館はイタリアンレス
ト ラ ン・ ル ー チ ェ さ ん 同 様、 明 治・
聞くこと
「吾は通鑑網目の講を全篇
ごかん
は 望 め な く な っ た。 今、 後 漢 篇 ま で
しょくかん
聞 い た が、 生 前 も し 蜀 漢 ま で 聞 き 得
ば満足だ。」
他にも会津若松市内は古い蔵を改
装した趣のある郷土料理や伝統工芸
で す の で、 倉 田 俊 次 さ ん が こ の 遊
行 寺 に 帰 依 し て い た と 知 っ た は、 ち
だ
清水屋旅館跡やレオ氏郷
(蒲生氏郷)南蛮館の前を
通 り 過 ぎ、 七 日 町 通
り沿いを西に向けて
一 路、 阿 弥 陀 寺 を 目
指して歩きました。
この清水屋旅館に
は多くの歴史的人物
が宿泊しました。
か え い
幕末の志士達に
多大な影響を与え
た吉田松陰は嘉永
会 津 若 松 市 内 で も、 も っ と も 有 名
で 大 き な お 寺 で あ る 阿 弥 陀 寺 は、 会
津倉田家の祖である倉田為実が施主
と な っ て 建 立 さ れ ま し た。 も と も と
倉田家は熱心な浄土宗の信者であり、
阿 弥 陀 寺 の 名 称 も 為 実 の 故 郷、 近 江
ていはつ
国日野町の阿弥陀寺から命名したと
言 わ れ て い ま す。 為 実 は 後 に 剃 髪 し
て道祐と号します。
す。
会津若松にお越しの際は是
の 店、 酒 蔵 な ど が 豊 富 に あ り ま す。
ょ っ と 驚 き ま し た。 だ い ぶ 倉 田 家 の
大正ロマン溢れる素敵な建物なので、
非立ち寄っていただきたい
歴 史 と グ ル メ の 町、 会 津 若 松 に、 ぜ
と言われました。
結局そこまで聞くこと
は叶わず、延熹九年の歴
場所の一つです。
人 々 の 生 涯 や 人 柄、 そ し て 色 々 な 繋
みまか
史を最後に公は身罷られ
ひ一度、遊びに来てください。
み
土宗の流
ち な み に 宮 下 社 長 が、やま浄
ざきべんねい
れ の 光 明 主 義 創 始 者、 山 崎 弁 栄 聖 者
に 傾 倒 さ れ た も の、 そ の 血 筋 が 流 れ
ているからかもしれません。
ま た 俊 益 の 父・ 俊 次 も 寛 永 三 年
なってきたくらいです(笑)。
とても他人のご先祖様とは思えなく
が り が 分 か っ て き た の で、 最 近 で は
ました。しかし、失明を
あ
五 年( 一 八 五 二 年 )
二二歳の時に東北各藩を歴訪する大
旅 行 し た 際 に 会 津 藩 も 訪 れ、 清 水 屋
旅 館 に 宿 泊 し ま し た。 松 陰 は 会 津 藩
阿弥陀寺と倉田家
野口英世青春館で美味し
い 珈 琲 を い た だ い た 後 は、
しても病気になってもな
お、死の寸前まで正之公
の学問に対する熱意がい
ささかも衰えなかったに
は驚嘆すべきことだと思
います。
会津若松の町並み
現代の会津案内に戻りま
す。 会 津 図 書 館 で「 倉 田 氏 家
えつらん
ぼ だ い じ
譜 」 を 閲 覧 し た 後 は、 倉 田 家
の菩提寺である阿弥陀寺へと
向 か い ま し た。 そ こ で 途 中 に あ る 野
口英世青春館に立ち寄ることにしま
した。ここは会津猪苗代出身の偉人・
野口英世青春館
阿弥陀寺
8
まほろばだより No.4395 16-171 12/2
ても見つける事ができませんでした。
と 何 週 か し て み た の で す が、 ど う し
しかし地図にあるべき場所に何故
か 墓 石 が 見 あ た り ま せ ん。 ぐ る ぐ る
探しました。
墓 所 に 回 り、 倉 田 為 実 夫 妻 の お 墓 を
阿 弥 陀 寺 に 到 着 す る と、 さ っ そ く
倉 田 家 の 資 料 を 片 手 に、 寺 の 裏 側 の
倉田家の墓所
は予想以上に立
す。
したそうなので
面数か所に移動
石等をお寺の正
ある倉田家の墓
建立の立役者で
際 に、 阿 弥 陀 寺
す。
ちらもとても美味しかったで
も 注 文 し、 歩 き 疲 れ た 体 に は ど
夏の会津での囲炉裏端はかな
り 暑 か っ た で す が、 ト コ ロ テ ン
けて食べるお店です。
火 に あ ぶ っ て、 自 家 製 味 噌 を 付
た。 こ こ は 囲 炉 裏 端 で 田 楽 を 直
う郷土料理のお店に入りまし
食 べ る こ と に し て、 満 田 屋 と い
が多かったので(笑)。
確 か に 昨 日 か ら、 ち ょ っ と さ び れ
た 町 は ず れ と か、 お 寺 と か お 墓 巡 り
下 社 長 は「 こ こ は 来 て 良 か っ た!」
想 以 上 に 素 晴 ら し か っ た ら し く、 宮
堅牢な石垣と美しい赤瓦のお城は予
奥 様 と 合 流 す る と、 ま ず 会 津 の 誇
る名城・鶴ヶ城へとご案内しました。
でんがく
もしやあまりに古い墓石なので処分
派な五輪塔が建
会津の代表的な観光スポットもご
案内できて良かったと思いました。
り
さ れ て し ま っ た の か な? と 不 安 に な
っていたので驚
りんかく
宮下社長と奥様は敷地内にある千
利 休 の 子・ 少 庵 が 建 て た と 言 わ れ る
茶室・麟閣も熱心に眺めていました。
(『一期一会』参照。まほろばだより2016
年6月)
千利休が秀
吉の怒りに触
鶴ヶ城と再び阿弥陀寺へ
ろ
り ま し た。 現 に こ の 阿 弥 陀 寺 は 私 の
き ま し た。 近 江 か ら は る か 会 津 ま で
い
先 祖・ 石 井 家 の 菩 提 寺 で も あ っ た の
や っ て 来 て、 つ い に は 阿 弥 陀 寺 ま で
と喜んでくださいました。
で す が、 石 井 家 が 斗 南 藩 に 移 っ た 事
建立してしまった倉田為実さんの偉
満 田 屋 を 後 に し て、 遅 れ て 会 津 に
や っ て 来 た 奥 様 と 合 流 す る 為、 会 津
となみ
や、 明 治 大 正 期 に 敷 地 内 に 線 路 が 通
業 が 偲 ば れ る よ う な 墓 所 で し た。 宮
若松駅へと向かいました。明日
した。
は二本松で奥様の講演会が開催
れて死を命じ
しの
る 事 に な っ た 際 に、 古 い 墓 石 は 墓 所
下社長もとても驚き感激されていま
か ら 撤 収 さ れ て し ま い ま し た。 で も
まさか阿弥陀寺の建立者である倉田
家の墓石を撤収する事はないでしょ
される事になっているのでし
名 で す。 千 三 百 人 も の 死 者 が 深 い 穴
生氏郷は利休
阿弥陀寺は戊辰戦争の際に多くの
戦死者が埋葬されたお寺としても有
阿弥陀寺の関係者らしい方が掃除を
に 入 れ ら れ ま し た が、 つ い に は 穴 に
の茶道が途絶
うと思いつつ、お寺の正面に回ると、
していたので倉田家の墓所がどこか
入 り き ら ず、 仕 方 な く 積 み あ が っ た
えるのを惜し
共に千家復興を秀吉に働きかけまし
匿 い、 そ の 後
かくま
少庵を会津に
しょうあん
ん で そ の 子、
ら れ た 際、 蒲
を 聞 い て み ま し た。 す る と そ の 方 は
遺体の上に土が盛られたそうで
た。
お寺の真正面
秋のお彼岸には慰霊祭が執り行わ
す。 そ こ は 東 軍 墓 地 と し て 毎 年 春
五輪塔の一群
れています。
三番隊隊長として
ま た 元 新 撰はじ組
め
有名な斎藤一の墓所もこちらにあ
た。
何と、数年
前にご住職が
そ う さ
5
その
福島復興から日本の立て直し探訪
9 会津から近江そして倭へ
にある立派な
に案内してく
ります。
その結果、少庵は京都に帰って千
家 を 再 興 し、 千 家 茶 道 は 一 子、 宗
徳川家康と
阿 弥 陀 寺 の 後 は、 馬 場 町 倉 田 家
の墓所がある興性寺や末廣酒造な
旦 に 引 き 継 が れ、 そ の 後、 宗 左・
た。
亡くなられ昨
ども巡りました。
宗 室・ 宗 守 の 三 人 の 孫 に よ っ て 表、
そうしゅ
年新しいご住
ここでやっと遅いお昼ごはんを
そうしつ
職が就任した
ださいまし
茶室・麟閣
す。 小 庵 が 会 津 に 匿 わ れ て い る 間、
きな役割を果たしたとも言えるので
いう意味では会津は茶道の伝承に大
日 の 茶 道 の 基 が 築 か れ ま し た。 そ う
寺の屋敷を売り一ノ丁にある父の屋
それを案じた娘達は父を案じて桂林
に 淋 し く な り 不 自 由 に な り ま し た。
葬 り ま し た。 そ の 為、 俊 益 は に わ か
六一歳の時には妻の服部氏が他界
したので鞍見山の奥にある大窪山に
の 際 一 度 枯 れ か か り ま し た が、 更 に
で し た。 こ の 井 戸 は そ の 後 の 干 ば つ
七 月 一 七 日、 俊 益 七 二 歳 の 時 の こ と
ったそうです。元禄四年(一六九一年)
が で ま し た。 村 人 は 大 層 不 思 議 に 思
柴門の東を三m掘らせたところ清水
う宮下社長のお言葉には心打たれま
婦で同じ感動を分かち合いたいとい
弥 陀 寺 へ と 戻 る 事 に な り ま し た。 夫
宮下社長のたってのご希望で再び阿
鶴 ヶ 城 の 後 は、 妻 に も ぜ ひ 阿 弥 陀
寺 の 倉 田 家 墓 所 を 見 せ た い、 と い う
労だったのですね。
をするのも上司の許可が必要で一苦
正 之 公 も そ う で し た が、 当 時 は 隠 居
は よ う や く 自 由 の 身 と な れ ま し た。
は 息 子 の 俊 晴 に 譲 る 事 が で き、 俊 益
け与えている宮下社長にも通じるよ
まるでエリクサー浄活水器を開発
し、 ま ほ ろ ば 店 舗 で は 水 を 無 償 で 分
そうです。
村中の男女も来て汲むようになった
っ て も な か な か 水 は 出 ま せ ん、 人 々
山 房 で 唯 一 の 不 自 由 は、 高 台 で 井
戸 が 無 い こ と で し た。 村 人 に 頼 み 掘
春花秋月と風雅を愉しみました。
流 に 遊 び、 山 房 一 二 景 の 詩 を 作 り、
る 時 は 杖 を つ い て 小 田 山 に 登 り、 渓
を 楽 し み、 あ る 時 は 吟 詠 し、 ま た あ
それから俊益は山房に往来して独り
いに「鞍見山山房」は完成しました。
段 歩 を 借 り、 山 房 の 工 事 を 始 め、 つ
に机にもたれたまま息を引き取りま
だ し く な り、 つ い に 六 日 の 午 後 十 時
盃 を あ げ ま し た が、 四 日 は 衰 弱 が 甚
を述べるとその足で山房を訪ねまし
晴は諏訪神社と健福寺に新年の祝賀
そして二年後の元禄一五年
(一七〇二年)正月の二日、長男の俊
再び立つことはできませんでした。
ま い が し て 倒 れ 床 に つ き、 そ れ か ら
元 禄 一 三 年( 一 七 〇 〇 年 ) 七 月
一 四 日、 八 一 歳 の 時、 俊 益 は 急 に 目
いがい
はなは
の 夕 方、 小 田 山 と 地 続 き の 大 窪 山 の
山房は葬儀を執り行うには手狭で
し た が、 俊 益 が 晩 年 の 二 〇 年 を 過 ご
ぎんえい
がここには水脈がないから無理だと
し た。 享 年 八 三 歳、 遺 骸 は 二 十 二 日
た。 俊 益 は 左 右 に 助 け ら れ て 新 年 の
いうと、俊益は黙禱して、
頂上に葬られました。
を 得 た、 と 聞 い て い る。 我 が 才 識 は
し 大 層 愛 し た 場 所 な の で、 魂 は こ こ
は老婆が塩の無いのを憐れんで塩水
及 び 難 い が、 平 常 勉 強 し て い る 誠 意
もくとう
「 昔、 漢 の 広 利 は 軍 卒 が 渇 し た の
で、 剣 で 山 を 刺 し て 寒 泉 を 得、 空 海
げんろく
うなエピソードですね。
した。
深 く 掘 る と ま た 良 水 が 湧 き、 そ の 後
さいもん
氏郷のために造ったと伝えられてい
敷に移ってきました。
は、異なることはあるまい」と言って、
る の が「 麟 閣 」 で あ り、 以 来、 鶴 ヶ
は枯れる事はなく水不足は無くなり、
裏、 武 者 小 路 の 三 千 家 が 興 さ れ、 今
城内で大切に伝えらえてきました。
の願いが
翌 年、 六 二 歳 の 時 に 隠と居
ざま
許 さ れ、 三 百 石 の 禄 と 外 様 番 代 の 職
いんせい
か に 隠 棲 の 気 持 ち が 強 く な り、 公 の
著したりして約八年間を過ごします。
「山内天正記」や「山内横田系譜」を
に 提 出 し た り、 先 祖 の 家 系 を 伝 え る
そして保科正之公に命じられてい
た「 通 鑑 網 目 の 抜 書 」 を 完 成 さ せ 藩
した。
を 作 っ て、 隠 居 の 希 望 だ け を 述 べ ま
しかしすぐに隠居という訳にはい
かず、俊益は心の中で「鞍見山幽斎記」
の時です。
棲 の 場 所 と 決 め ま し た。 俊 益 五 四 歳
教 え て も ら い、 そ の 鞍 見 山 の 地 を 隠
福寺の裏に適当な場所があることを
大 林 寺 の 僧 侶 か ら、 小 田 山 の 麓、 健
村 付 近 を 歩 き ま わ り ま し た。 そ し て
を探す為に大窪山の近くにある青木
葬 儀 が 終 わ る と、 妻 と 共 に 隠 棲 の 地
こ う し て 天 和 二 年( 一 六 八 二 年 )
俊益六三歳の時に小田山の麓に畑四
横田俊益の晩年と小田山
は阿弥陀寺でも興
横 田 俊 益 の 墓おお所
くぼやま
性寺でもなく大窪山という場所にあ
り ま す。 大 窪 山 は 鶴 ヶ 城 の 南 東 約 二
~三キロ程の場所にある会津藩士の
共 同 墓 地 で す。 保 科 正 之 公 は 神 道 の
教えにのっとり土葬を奨励されたの
で町中の寺社墓地では間に合わなく
な っ て し ま っ た の で す。 大 窪 山 は 草
木美しく万山黄土層で埋葬に適して
お り、 約 四 千 か ら 一 万 人 の 藩 士 や 商
人 が 眠 っ て い る と さ れ て お り、 会 津
の人物研究には無尽の宝庫とも言わ
れています。
さ て、 俊 益 は 杖 と も 柱 と も 思 っ て
い た 保 科 正 之 公 が 亡 く な る と、 に わ
まほろばだより No.4395 16-171 12/210
し た。 そ し て 兄 弟 た ち は 三 年 間、 父
で、 葬 儀 は こ の 山 房 で 執 り 行 わ れ ま
を去る事を好まないだろうという事
樺太にて死去
た が、 同 年、
絶賛を得まし
じめ諸藩から
まつ
しました。
の霊をこの山房で祀ることを決意し
たのでした。
享年六十一
歳。「 我 が 骨
俊益が住まいしたこの小田山の頂
上にはかつて俊益に侍講となるよう
に 説 得 し た 大 老・ 田 中 正 玄 の 四 世 子
は鶴ヶ城と日
千六百名の藩士ともに樺太警備にあ
年)、ロシアの攻撃に備えるため、約
家 老 で し た。 文 化 五 年( 一 八 〇 八
行 し、 藩 校・ 日 新 館 を 創 設 し た 名
田 中 玄 宰 は 財 政、 産 業、 軍 制、 教
育など藩政の全てにおいて改革を断
ます。
れたのでした。
山頂に設けら
せる小田山の
それらを見渡
により、墓は
よ」との遺言
新館の見える
はるなか
た り( 前 回 ご 紹 介 し た 会 津 藩 の 北 方
ところに埋め
警備任務です)、その活躍は幕府をは
この小田山は風光明媚で会津地方
を 見 渡 せ る 願 望 良 好 の 地 と し て、 か
よ う に 俊 益 や 田 中 玄 宰、 そ し て 多 く
の会津人達から愛され親しまれます
が、 そ れ が 為、 戊 辰 戦 争 が 起 こ っ た
際 は 西 軍 に 占 領 さ れ、 こ の 小 田 山 か
ら発射されたアームストロング砲弾
が、 鶴 ヶ 城 を 破 壊 す る 事 に な る の は
何とも皮肉としか言いようがありま
鞍見紅葉
おもむろ
山勢 徐 に来たりて
やわらか かたち
綿 の容 青紅界破れて 嶺頭の松
余人多く愛す 繁花の地
幽僻の楓林 独り自ら
こまやか
濃 かなり
俊益が作った山房十二景詩のうち、
ちょうど今の時期をうたった美しい
と 俊 益 さ ん も 田 中 玄 宰 さ ん も、 小 田
お 城 が ラ イ ト ア ッ プ さ れ ま す。 き っ
せん。
漢詩がありますのでご紹介いたしま
山の頂上から鶴ヶ城と会津の美しい
会 津 若 松 市 で は、 十 月 下 旬 か ら
十一月上旬頃に紅葉が見ごろを迎え、
す。
会津のほおずき市
現 代 の 会 津 案 内 に 戻 り ま す。 昨 晩
に 引 き 続 き、 こ の 日 も ル ー チ ェ で 夕
食 を い た だ く 事 に な り ま し た。 今 夜
は 会 津 の『 ふ る さ と 街 づ く り 』 で、
内閣総理大臣賞を受賞した山口ご夫
妻もご一緒することになりました。
宮下社長のまほろば創業三十二年周年記念
※山口夫妻が合流する事になった経緯は
『恩讐の彼方に』に詳しくご紹介されていま
す。ぜひお読みください。
大 町 札 の 辻 は、 ほ お ず き 市 が 開 催
さ れ 出 店 が 立 ち 並 び、 昨 夜 と は う っ
て変わってものすごい人込みになっ
ていました。
ちなみに次ページ写真の左側に見
え る 白 い 建 物 の 場 所 が、 横 田 俊 益 の
生家があった場所です。
5
その
福島復興から日本の立て直し探訪
11 会津から近江そして倭へ
小田山からの眺望。中央付近に鶴ヶ城が見えます
町並みを見守っていることでしょう。
ルーチェ前で山口ご夫妻と
孫 で あ る 家 老・ 田 中 玄 宰 も 眠 っ て い
田中玄宰の墓所
した。
ンボルである」と教えていただきま
で す。 正 之 公 は 宇 宙 の 真 理 を 究 め ら
れ ば 土 津 と は「 宇 宙 の 万 理 を 究 め ら
「土津」と命名されました。言い換え
れた会津藩主の意」となるそうなの
勉 強 好 き と は ま る で、 保 科 正 之 公
や横田俊益さんのようですね。
長 文 を お 読 み 下 さ い ま し て、 あ り
がとうございました。
稽古の道を
~鞍見山
たどり行き
天地の法は
何か尋ねん~
ま た 横 田 俊 益 の 父・ 俊 次 は 俊 益 に
こう言いました。「学べば近くの人は
れたのですね。
はどうしてここにこうして存在して
道 を 知 り、 遠 く は 天 地 の 理 を 極 め 得
私 は 物 心 つ い た 頃 か ら、 こ の 宇 宙
は ど う し て 存 在 し て い る の か、 自 分
い る の か、 そ し て 宇 宙 は、 人 は 最 終
次回は宮下社長の奥様の二本松講
演会と福島沿岸部の状況などをお送
きました。
津( は に つ )」 と い う 霊 号 を 奉 ら れ、
神道を学び、道の奥義を極められ「土
正之公は晩年に至るまで神道
保そん科
しん
よしかわこれたり
うらべ
を 尊 信 し、 吉 川 惟 足 を 師 と し て 卜 部
く な っ た 俊 益 さ ん の よ う に、 ほ お ず
之 公 の よ う に、 机 に 寄 り か か っ て 亡
直前まで歴史の講義を聞き続けた正
お 二 人 の 足 元 に も 及 び ま せ ん が、
私も失明しても病床にあっても死の
したことがありました。そ
私は以前、浅草寺のほお
ずき市である勉強会に参加
です。
き市が開催されているはず
十日の今日は、東京
七せ月
んそうじ
の浅草寺でも有名なほおず
「津」という字に無関
津の領主であるから
得 さ れ、 ま た 公 は 会
の奥義を正之公は体
信 実 の 主 体 」 で、 そ
め と 終 わ り で あ り、
本 で あ り、 万 物 の 始
ら願っております。
講義を聞かせていただきたいと心か
奥 義 を、 俊 益 さ ん か ら は 通 鑑 網 目 の
そ し て あ の 世 に 帰 っ た ら、 末 席 の
末 席 で よ い の で、 正 之 公 か ら は 道 の
大橋しのぶ
代目当主故・寺田啓佐さんと
として同行。神奈川県在住。
宮下周平と共にルーツ探しの旅の案内人
5作になる。2015年、まほろば社長
に。ペンネームで発表した小冊子作品は
した小説を書き、小冊子を発行すること
の出会いにより、蔵の微生物をテーマに
寺田本家
●著者プロフィール
大橋 しのぶ
平成二八年十月二十一日 りしたいと思います。
る の で、 人 生 の 至 楽 と い わ ね ば な ら
ない。」
的 に ど う な っ て い く の か と い う「 宇
宙の真理」のような事を常に考え続
ん は 天 地 の 理・ 宇 宙 の 真 理 を、 あ の
けてきました。
こ れ は き っ と 私 だ け で な く、 人 間
の 根 源 的 な 問 い で あ り、 誰 も が 潜 在
鞍見山房で体得したのでしょうか。
俊益の人生はまさに勉強と教学の
連 続 だ っ た よ う に 思 い ま す。 俊 益 さ
的にあるいは顕在的に抱えている疑
私はちょっと中座させていただき、
ほおずきを買う為に通りにでました。
死後は猪苗代湖のほとりに土津神社
き( 法 好 き・ 勉 強 好 き ) の 人 生 を 貫
問なのだと思います。
残り三個になっていましたが無事に
の祭神として祀られました。
今夜もルーチェの食事は美味しく、
楽しい夜はあっという間に更けてい
会津のほうずきを買うことができま
の 時 に、「 ほ お ず き は 法 好
係 で は な い、 と い う
きたいと思いました。
した。
土 津 の 意 味 は「 土( は に、 つ ち )
は宇宙構成要素の根
き、つまり勉強好きとも読
ことで吉川惟足より
~我が生の 願いはここに
みちのくの
土津の神の
ほおずきの道~
める。ほおずきは勉強のシ
23
まほろばだより No.4395 16-171 12/212