一人一人の個性

優秀賞
一人一人の個性
むつ市立田名部中学校 3年
山本
航己
東日本大震災から四日後、僕の妹は産まれました。震災で大変な中、母に負担がかかっ
ていたのか、予定日から一ヶ月も早く産まれました。二三三四グラムで産まれた妹は、抱
っこするととても小さく軽かったことを覚えています。
名前は幸、しあわせという字でサチと呼びます。両親はしあわせという字はひっくり返
しても幸せは幸せ、どんなことがあっても幸せでいることができるようにと名前を付けた
そうです。
妹は黒石病院で産まれたため、家に帰って来たのは一ヶ月後でした。少し風邪気味で帰
ってきました。一週間に一度は風邪の状態が良くならないと病院に通院していましたが、
良くならず、肺炎ということで再度入院しました。一週間ほどで退院するはずだったので
すが、悪化し、また再入院となり、妹は入退院を繰り返していました。
妹が産まれて三ヶ月たった頃、学校から帰って来ると、祖父と祖母は家で待っていて、
「サ
チがドクターヘリで弘前の大学病院へ行ったから、お父さんとお母さんいないから。」と教
えてくれました。僕はドクターヘリ?
妹に何があった?
と疑問と心配の気持ちでした。
サチを病院に入院させ、弘前から帰って来た両親は妹のことを教えてくれました。その時
はよくわからないまま聞いていましたが、改めて両親に聞くと、妹の病気は肺動脈血管輪、
気管軟化症、気管狭窄と三つの病気がありました。点滴や医療器具に囲まれた妹の姿を写
真で見ると、この先、自分の妹はどうなってしまうのかとても心配でした。
入院して間もなく、肺動脈血管輪の手術と気管を拡張する手術をしました。僕は無事成
功することだけを祈っていました。八時間の大手術でした。
数日後、ICUで治療を受けている妹に会うことが出来ました。妹は薬で眠らされてい
るため、声をかけても反応は薄く寝ているだけでした。母は妹に起きている現実をしっか
り見ておいた方がいいと手術の傷口を見せてくれました。僕は小さな体の胸にまっすぐ縫
合された傷口を見て、産まれて間もなく何も知らないはずなのに僕より大切な何かを先に
知るんだろうなと思いました。
妹が七ヶ月になる頃、次の手術を行う日が来ました。妹は弘前大学病院へ入院した日か
ら、口からチューブを挿管して呼吸を維持していました。それは、気管軟化症という気管
が柔らかくつぶれてしまうこと、気管狭窄という気管が狭くなっていることで呼吸が突然
できなくなるという症状が現れるため、チューブを挿管し寝たままの状態で過ごしていま
した。もちろん抱っこをすることもできません。そのため、両親は気管切開術をすること
を決めました。喉に穴を開け、カニューレという器具を挿入します。手術は無事成功しま
したが、声は出ません。声が出ない妹、僕はどのように支えていけばいいかわからないま
ま、妹は医師や看護師が驚くほどの回復を見せ、一年間の入院生活を終えました。
退院後は多少の風邪などはありましたが、妹が二歳になった時、カニューレを抜いても
大丈夫だと医師の判断があり、抜管することができました。しかし、その一ヶ月後、呼吸
困難を起こし窒息寸前の症状が起き、救急搬送し、再度ドクターヘリで弘前大学病院へ入
院しました。退院の時には声が出せるカニューレを挿入して退院しました。
今、妹は声が出せるスピーチカニューレを挿入した生活を元気に送っています。人とは
違う容姿のため、振り返ってみる人もいます。でも、僕たち家族は、普通では経験できな
いことをたくさん経験させてくれた自慢の妹を誇りに思っているからこそたくさんの人に
知ってもらいたいと思っています。
目に見える障害、目に見えない障害、いろんな形がありますが、それは障害ではなく、
その人の個性であることを妹に教えられた気がします。身近な妹に教えられ、気付かせて
もらったからこそ、そのことを大切にして、生きていきます。