Page 1 明治大学博物館研究報告第二一号二五ー三三頁二 一六年三月

明 治 大 学 博 物 館 研 究 報 告 第 二 一 号 二 五 lコ一三頁二O 一六年三月
︿資料報告﹀
米沢藩領における漆液の採集プロセスについて
料として建築や大名道具などに幅広く用いられ、相当景の産出が見込まれること
んどが中国をはじめとする外聞からの輸入によっている。江戸期においては、塗
現在、日本国内における漆の生産量は低迷し、工業原料として使用されるほと
には七四万一一二本の漆が植え立てられたということで、その頃には重要産品と
たことになる。安永元年(一七七二)から天明二年(一七人二)までの約一 0年間
やはり不足は代銀納となっているので、産出された漆液はほぼ藩庫に納まってい
一
O O本につき内矩五寸深さ二寸二分の容器に一査(約二六O匁)が取り立てられ、
る漆採取の実態については不明なところが多いが、当館蔵史料の中にそのプロセ
文化六年の分限幌を典拠とする藩の職制では、国産所は奉行(中老)の宣轄と
米沢藩では先述の経済改革期において、国産所を再興(寛政四年)している。
なっており、頭取の配下として山林方、農馬方、蚕桑方、漆方が設置されている。
のエピソードが知られているが、養蚕・織物を中心に育苧、漆・蝋など国産品の
米沢藩は総石高に比して拍える藩士の数が多く、経済的な困窮に対する諸改革
れるようになり、その競合の結果、漆の産品は漆の実から漆液へシフトしていっ
のことは、江戸後期には西日本で峨の原料として櫨の実の栽培が広範におこなわ
なっているので漆方の設置自体は国産所再興からは時代が下ると考えられる。こ
(
5
)
なお、寛政五年に漆林を取り締まる漆目明しが設置された際にその管轄は林方と
生産が盛んに奨励されていた。特に寛政期(一七人九1 一
人O こ に は 桑 ・ 楕 の 植
たことを反映しているのかもしれない。文化年中(一人O四1 一人)には漆液の上
階で漆百本につき三五O匁会年貢として徴収、漆液の上納も漆一 O O本につき五
米沢藩では江戸初期より主に蝋を生産するために漆の実が栽培され、初期の段
ことがわかる。
二O匁取り立てとなっており、その間にも漆が経済財としての価値を高めていた
) から五年間は
納は一 O O本につき一 O匁であったのが、嘉永三年(一八五O
いたと推定される。元禄二年(一六八九)の漆木改によると二六万三一一二三本五
市)である。岡村は、江戸中期に伊佐沢村から分村、文政末1天保頃の村高は
本稿が取り上げる史料が伝来したのは出羽田置賜郡上伊佐沢村(現山形県長井
(
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)
分が植栽され、その段階では一 O O本につき﹁上村﹂で木の実一石、﹁下村﹂で
一三人一石、寛政六年には漆木一万一一一五二人本を栽培していた。最上川の中流域
(
6
)
合とされ、不足分は代銀納とあるので、その産出物はほとんどが藩庫に納まって
(
l
)
栽奨励など中老夜戸善政を中心とする経済再生改革がおこなわれている。
米沢藩内における漆生産
スを垣間見る史料があり、興味深い史料なのでその一端を紹介したい。
(
2
)
は、各地の年貢勘定関係史料に記事が散見されることもあって充分推定されるが、
しての認識が確立され増産が志向されていたようだ。
﹁上村﹂﹁下村﹂は産出量について村毎に等級を割り振ったものである。漆液は
木分は買い上げとなっており、専売制のため脇売が規制されていた。ここで言、っ
徹
その生産や流通の実態はあまり明らかになっていない。ところで、江戸期におけ
はじめに
山
一石五升を上納することになっており、作柄によって減らすこともあった。余剰
2
5
外
徹
外山
が主要な生業ながら青苧・紅花・真綿を産出しており、年貢は紅戸初期から金納
右岸に位置し、最上川円以奥の舟場である宮村・小出村の物資集散地に近く、農業
成段被仰聞候ニ付其段申聞候、依之鎌付ニ相成り木主案内可致由申ニ付、御見
役様江も奉伺候処御払之御法も立ぬ事ェ而ハ不相成義-一付、初発より買引ハ不相
れぬ事なり、御上ニ而御払被下否鎌付茂致さぬ内買引ハ不相成段申ニ付、御出
(
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)
分無之内鎌付成間敷と申候得者、拙者とも商売ニ而年々御当領江茂参り御法も能
であった。
(
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)
以下、史料の翻刻全文を掲げてみたい。
存知居候、御極印木ハ直ニ鎌付いたし、追而中御見分として御出勤有之物と申
ニ付、初心之拙者とも任其意ニ村役壱人宛致手訳致案内候処、男木之花縮有れ
共一同願出候ニ付封之侭御取上ニ相成申候、尤開札之上落札ニ不相成所、梨郷村
致段被
仰付候処、此帳面ハ格別委敷相札候ニ付御取上被成下段、大勢之買人
仰達候所、数多の買人ともより利兵衛と巾者之帳面差出侯得者木毎一一代附河
買人大勢参り候ェ付御両人様約定之ケ条書を以夫々ニ被仰含代附帳可差出旨被
拾壱本御叶御極印被成下候、右御払之義ハ御出役様御出動之上入札ェ相成候所、
一、当村男木漆過木千五百本去年中掻枯奉願上候処、総木御見分御改之上九百七
間敷段申達而同役江伺候処、手入不調法ニ付過代木為植立申候、尤中御見分之
下枝の花扱取候由申ニ付、縦男木花ニても私ニ扱取候ハ不屑之至、決市手入致
木ニ候得者、御上一一おゐて差支無之義花さいなけれハ漆搭も故障不言掻取筈と存、
も花の多く咲候水有之ニ付被除侠而ハ、代金返に迷惑至極御極印木ハ被成下候
もき取候哉と相議候処、昨日鎌付之次第を見るニ花縮有れハ除き候、拙者漆ニ
り付早々可届出由申附候ェ付、肝煎江罷出男木花を取散候不調法申訳-一付、何連
敷御法ニ候処斯手入致候木ハ鎌付不相成迫除木一一致候ニ付、案内之村役長六を阿
(縦冊)
ハ女木と唱で相除、又其木ニより何れ無之木も女木と記して鎌付不致故如何之
訳と相尋候処、御当領之御法ハ紛敷実一疑有りても生り木ニ而不被掻御法也ト
一向花も無之木ハ如何と尋候所、是も末葉之中一一少敷見得候得共素人ハ見
附られぬ物也、連数多鎌付相除侯得共、御極印通木数相渡迄之案内ニ而鎌付ニ不
抱木数不残致案内相渡申候内、長六ト申者之漆若荷畑の辺りにて男木花多く有
兵次代金三百両ニ而買請申度白申出ニ付、則兵次江御払被成下右代附帳村方江御
節御役人様江も申上下枝ハ扱取候得共末枝ニハ花も有之候得共、全ク男木之花
之候処、下枝之花取散し置候得者、買人申様是ハ手入いたし侠、漆ハ手入成問
渡シ相成申候所、越後黒田之金三郎・寅吉・徳兵衛等右兵次人。買請候迫、代金
故御見済ニ相成巾候、全鉢女木・男木之極メハ御役人様之御見済ニ而売買人之
評判不致ハ不相成段申聞候処、始ニ口県呉候得者除木も不出故是非、、恵ミ呉候
相場下直-一相成候ニ付代金引呉候様申ニ付、代金之義者一村之漆ニ候得者、村方江
一、当六月中買人とも参り漆描時節ニ相成候ニ付、接子とも八人召連参り候所、漆
木之義ハ去年中御見分之上、木毎厳重御改被按御極印被成下侠得共、尚又中御
木・玉虫喰数本御座候ニ付木代差引呉候様申出ニ付、玉虫喰ハ無之筈女木・男
極印通木数相渡候処、六月十六日買人とも参り、昨日迄ニ鎌付一辺相済候処火
付置と申事-一候へハ、是も難背初心之村役共一向無論イ買人ニ随ひ案内仕候御
(御川掛蝉)
之内弐百九拾両八月中相立候ニ付、村役中ニ而請取右御渡之帳面を以割合、村
心任セ勝手次第一一ハ不成物と存庸候得共、買人共御上。漆道御法我等迄被
様連々願出ニ付村方江沙汰致候処、直段之高下ハ其時に応し侯物成れハ当秋掻
見分として御改披成下事ニ付、万一生り木有之其節御除一一相成候ハ冶代金相返
印
・
,naa
方江配当相渡申候
仕舞迄ニハ相場之狂ひも難計、又千本近き漆秋迄掻取事成れハ水漆之出方も知
2
6
申
米沢務官i
における漆液の採集プロセスについて
仰問、尤出勤迄ハ
可相返様無御座候、翌日十七日漆御役場江罷出右之次第申上乍恐御下り御見分
可申候、夫迄ハ待呉候様申候得共、是非/¥代金相返セと申ニ付未分明除木代
ハあらす態与故障差繕代金を取返ス工ミと被存候、御見分前掻取候而も御極印
後掻取申候、尤除木帳面持参相断侠日夕十日掻後れ日数相延し侠ハ、不被揖に
申聞候得共不掻故御出役様江申上候処、御直談被下掻取候様被
不都合之致方、其上御役人様方数辺御見分之上無相違御見済被捗候男木を女木
-F
被成下度段奉願候所、蚕種取最中ニ而御出勤難被成下段被
木ハ御各も無之処木ノ衰ひを痛わり半分より鎌付延引致程之実意ニ候ハ¥辺
仰聞候 付 其
御極印通可為措置、其内不明之義有之ハ一清役三役ニ而尚迷見分花縮か木実か聴
掻の高直ニ相成時節ハ頻リ-一描取、八月中旬。俄に掻方相止多分女木也と申ハ
仰聞初心ニて無気付罷
とたふハ、御上ニ奉対大胆成申掛奉驚入候、就中木代之見詰村方江引合相談も
仰付候、担又描御判不申請ハ如何と被
仰聞其義ハ一向不
与見凪為掻候様被
存寄罷在侠段申上候処、掻判不申請内ハ被掻間敷段被
仰聞是
無之、
在、今更奉恐入侠何卒只今御判被成下度段奉願候処、面附可差出由被
又一向面附も持参不仕、掻子之名前ハ知何と被仰聞是以一切存不申段申上候処、
得ば無疎意大切ニ存、万事町嘩に仕候得ハ、何処迄も我意を立剰代金之下りも
議永四年十月
金皆式為相立候様被
仰付於被下置ハ難有仕合奉存候、以上
一己之存意ニ任セ大金を掠り我侭ニ押領致候得共、御預所之人々ニ御座候
早急罷戻面附持参可仕旨奉承知、直ニ罷戻漆買江相尋候処、掻御判ハいつも中
不相立、却而無故差繕を以返金致セとの申条何共心外之至、何卒御威光を以代
仰付候義-一付欠代村役両人宿江参り、是非而附可書出由申聞
御見分之節申請ル事、先前より御例-一而是迄中御見分前申請ル事無之由申候得
共、御役場。被
候処、掻子八人ニ侠へ共追而弐人参ル筈ニ付拾人之御判願呉候様申ニ付、則拾人
古
口
沢源右衛門
山市
沢太郎右衛門
全く代金を嵩メ掠取買人共之工ミと被存候、女木と名付除候とも御見分之節至
ない。本来、米沢藩の国産所漆方宛に嘆願書として提出されたものが、手控えと
それでは、 つづいて史料の内容について、記載順に詳細をまとめてみたい。
史料から読み取れる漆採取のプロセス
して縦冊の形態に書写されたものと考えられる。
差図之通一屑役三役ニ市買人ェ引合除木立会可致見分ニ付各可罷出由申談候処、
如何様之物を木実と申事哉承度是非一同立会侯様連々申談候処、然らハ立会可
藩役所による掻き枯らし予定木の見分
我々ハ不及立会ニと甚辞退ニ及候へ共、前顕之通素人ハ見付ぬもの杯と申ニ付、
申、乍去仲間評判いたし挙有之内一付宿紅一帰り後刻参ル由申ニ付暫く相待候へ共不
上伊佐沢村の男木漆一五O O本について去年(嘉永三年)中に﹁掻枯願い﹂が
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上伊左沢村長百姓
土
ロ
万
之名前為書出直ニ村役罷登り御判頂戴仕候、右之訳ニて肝煎御役場江伺登之跡ニ
て御役頭様始御役人様方下通り。御戻り之節被御聞上、無判ニ而掻居候不調法
仰付候、依之十九日ニ掻方差止メ候様申達候へ
ニて御法之通山御取上之御意御座侯へ共何卒御免披成下度段、連々奉願候所難
有御用捨被成下候へ共鎌留被
日ニハ掻子休ミニ相成候所同H御判頂戴罷戻候
谷
参故、跡。参ル物と存龍出懇ニ見分いたし候所、女木も無御座候ニ付描取候様
七 衛
衛
兵
丘
ハ大金を差出シ御極印木を掻に、何そ止事を得ル哉迫不問入廿日迄掻居候処、
御出役様。道具御取上 z相成廿
ニ付、早速相違道具相返候ニ付、廿二日より掻居申候へ共一日ハ休ミ申候、是
飯
表紙は付けられているが何も記載されていない。柱書及び宛所を欠き、押印も
鈴
り男木を御除ニハ相成間敷候へ者、掻後れ漆取劣候ハ無詮不益之買を痛り、御
ハ中御見分之節御判申請ル例なり辿申募り、村方之初心を侮り一ニ役を欺ル事、
代
権
儀
す
キ 渋 横
煎
同 同
欠
同
B
干
井
木
同
同
同
同
l
司
徹
外山
出され、﹁見分(以下、検分とする)﹂の上、九七一本が認可され、極印が下付された。
ー米沢藩では女木は蝋の材料とする実を採取するため、男木の女木に対する過
(日)
木分についてのみ漆掻きが許されていた。
所漆方の出役へも伺いを立てたところ、御払いの御法も立たぬことなので認めら
れない、初めから値引きは認められない、と通達があった。
-除き木による嫌がらせ
兵衛と言、つ者が帳面を差出し、木ごとに代附を仰せ付けられた。この帳面は格別
が大勢参り、約定書をもって代附帳を差出させたところ、数多の買人の中から利
漆木の払い下げは、藩の出役が出勤の上、競争入札にかけたところ、漆の買人
村役一人ずつ手分けして案内した。すると、男木の花縮れがあれば女木と唱えて
分﹂として(出役の)出勤があるだろうと申すので、初心の我々はその意に任せ
領へも来て藩法もよく知っているので、極印木は直ちに鎌付し、追って﹁中御見
よる)検分のない内は鎌付するべきでないと一言うと、我々は商売にて年々米沢藩
それにより、鎌付をするので木主に案内するよう申し出てきたが、︿漆方出役に
くわしく記されていたため御取上となった。大勢の賀人どもが一同に願い出たた
除外し、また、その木により何れとも言えない木も女木と記して鎌付をしない。
-描き枯らしをする漆木の代金入札
め封のまま御取上になり、開札したところ落札にはならず、梨郷村兵次が代金
どういうことかと尋ねると、藩法は(女木と)紛わしい実一つ疑いが有っても生
けられないものであると数多鎌付から除いたが、極印通り木数を渡す案内のため
木とするの)かと尋ねると、これも末葉の中に少し見えるが、直ちには人が見付
り木として掻いてはいけない規定であると言、九一向に花も無い木はどうして(女
三O O両にて賀請したいと申し出たため、兵次へ払い下げとなった。
ーここで言う﹁代附﹂という意味は今ひとつ詳らかではないが、ひとまず入札
金額を木ごとに記したものと推定される。
-兵次から越後金三郎らへの権利譲渡
鎌付にかかわらず本数残らず案内して渡す内に・・・、
長六の漆木手入れ
右の代附帳は村方へ渡され、越後国黒田の金一一一郎・寅官・徳兵衛らが兵次から
さらに買請けたとして代金の内二九O両を八月中に用立てたため、村役人中にて
長六と言う者の漆が若荷畑の辺りにあり、男木の花が多く付いたものの下校の
花を取り散しており、買人が申すにはこれは手入れをしている。漆は手入れして
はいけない藩法なので手入れした木は鎌付できないと除き水とした。案内の村役
非認めてくれと続けて願い出た。そのため、村方へ照会したところ、値段の高下
けないと返答したところ、最初に引いてくれれば寸除き木﹂も出さないので、眠疋
割引いてくれと言ってきた。代金は一村の漆なので村方で話し合いをしないとい
たので掻子ども八人を百し連れ参ったところ、漆相場が下値になったため代金を
六月中、買人ども(この場合、越後黒田の金三郎ら)が参り、漆掻きの時節になっ
下枝の花を取ったと申した。たとえ男木の花でも私に扱い取るのは不屈の歪り、
しとしたもので、花さえなければ漆掻きも故障を言わず描き取るはずだと思い、
らないので迷惑全極であると一一面、っ。極印木となった木であれば、御上が差支えな
で、自分の漆にも花が多く咲いている木があるから除かれては代金を返さねばな
たのかと尋ねられた。昨日鎌付の次第を見るに、花縮れが有れば除き木となるの
ところへ行き、男木の花を取り散らした不調法を申し訳したところ、なぜもぎ取っ
一
O両の差額の意味は
請取り、代附帳面をもって割合わせ、村方へ配当を渡した。
ー本来、村へは三O O両が入らねばならないはずだが、
わからない。
はその時に応じるものであれば、当秋掻き終わるまでに相場の狂いも予想し難く、
決して手入れをしてはならないことを申し達し同役へ伺ったところ、手入れは不
は長六を叱り付け、早々届け出るよう・申し付けた。肝煎︿村役人・名主に相当)の
また、千本近い漆を秋までに掻き取るのであれば漆液の出方もわからない。領主
調法なので過代木を植えさせた。もっとも中検分の節には役人へも申し上げ、下
-漆掻き前の値引き交渉
による払い下げであり、鎌付もしない内に値引きは認められないとなった。国産
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米沢滞i!i
i
における漆液の採集プロゼスについて
げ枝は扱い取っても末枝に花があっても、全く男木の花なので見済になった。
ー﹁除き木﹂とは漆掻きの対象から外すという意味で、これらの記載から、実
際に掻いた本数によって入札額が調整される決まりであったことが分かる。
したがって、割引をしない村方に対し買人らは収入を少なくさせるよういや
がらせをしたわけである。
われ、これもまた一向に面附も持参せず、掻子の名前はどうなっているかと聞かれ、
無判を理由とする役人による漆掻き差し止め
一切存ぜず、早急に戻って面附を持参するよう承り、直ちに戻って漆貿人へ尋ねた。
-面附帳仕立て
(買人は)損判はいつも中検分の時に申し詰けることが先前よりの慣例であり、
これまで中検分前に申し請けた事はないと言う。役場より仰せ付けられたことな
言い聞かせ、掻子は八人だが追って二人参るはずで一 O人の判をしてくれと替、っ
ので欠代(村役人・組頭に相当)が村役方へ届け、何としても面附を書き出すよう
そもそも女木・男木の見極めは藩役人の見済によるもので、売買人の心任せ勝
ので、 一
O人の名前を書き出し直ちに村役が出頭し掻判を頂戴することになった。
-買人への反論
手次第ではない。買人どもから領主により漆道御法を仰せ付け置かれていること
右の訳で肝煎役場へ伺いに出頭した後、役頭様はじめ役人方がド通りから一民つ
赦いただいたが、鎌留めを仰せ付けられた。これにより一九日に掻き方を差止め
げの御意があったが何卒免除くださるよう、連々お願いしたところありがたく容
た際にお聞きいただき、無判で掻いていた不調法により御法の通り山を御取り上
であると言われれば、これには背けず、初心の村役どもは一向に論無く買人にし
たがい案内し、極印通りの木数を渡した。
除き木の判断は中検分まで待つよう説得
六日、買人どもが参り、昨日までに鎌付を一辺済ませたところ、女木・
るよう申し遣すると、大金を差出し極印木を掻くのに、何で止めなければいけな
六月
玉虫喰が数本あるので木代を差引いてくれと申し出た。玉虫喰は無いはず、女木・
いのかと(買人らは)聞き入れず、二 O日まで掻いていたところ、出役に道具を
取り上げられ一一一日には掻子休みとなった。
男木の別は去年中に検分の上、木ごとに厳重に改められて極印を下付されている
が、なおまた中検分として改め下さるので、万一生り木があればその節お除きに
-掻判取得による漆描き再開
-買人への交渉不調
出役から描き取りの下命
女木と名付け除いても、検分の際男木が除かれていてはいけないので・:
村方の初心を侮り二ニ役を欺いた事、全く代金を掠め取る買人どもの企みである。
たが一日は休んだ。これは中検分の際、描判を申し請ける例であると申し募り、
同日掻判を頂戴して戻ったので、早速伝達し道具を返し、一一一一日から掻いてい
なれば代金を返す、それまでは待つようにと言っても、是非代金を返せと言、つが、
未分明な除き木代を返すわけにはゆかない。
ー﹁生り木﹂とは読み方も定かではないが、ともかく掻き枯らしの対象から外
面開帳の未提出について下問
して植栽のままとする意味と取れる。
-漆役場ヘ出頭 掻判の未申請
翌一七日、漆役場へ出頭し、右の次第を申し上げ検分を願い上げたところ、蚕
ていないのはどういうことかと問われ、それは一向に知らないことを申し上げる
か木実かはっきりと見届け掻かせるよう仰せ付けられた。また、描判を申し請け
その内不明な点があれば肩役三役(村方三役のこと)によってなお検分し、花縮み
のか承りたく一同立会うよう続けて申し談じたところ、それならば立会をしよう、
見付けぬものなどと言うので、どのようなものを(女木の証拠となる)木実と言う
たところ、我々(買人)は立会いに及ばずと辞退した。前に明らかな通り素人は
三役にて買人に引合せ、除き木を立会い検分いたすよう各々出て行って巾し談じ
掻後れて漆を取り劣るのでは詮なく、不採の買いとなるので、差図の通り肩役
と、掻判を申し請けない内は掻き取ってはいけないと言われた。初心のため気付
しかしながら仲間で相談するととがあるので宿へ帰り後刻参ると言うので、しば
種取りの最中なので出勤し難いという返答で、出勤までは極印通り掻かせ置き、
かず、何とか掻判を下さるよう願ったところ、掻子の商附を差し出すようにと言
2
9
ころ、女木もないので掻き取るようにと言っても掻かないので出役へ申し上げた
らく待ったが来ないので、後から来るものと思い、出て行って懇ろに検分したと
えるような計画的な植林がなされていたわけではないようだ。
村方による﹁初心﹂が述べられるくらいなので、この当時は毎年漆掻きがおこな
漆掻きにあたっては、作業の当事者である掻子を届け出る﹁面附帳﹂を提出し、
漆方による作業許可の﹁措判﹂を頂戴して作業に取りかかる。途中、出役から﹁中
ところ、御直談くださり、掻き取るよう仰せ聞かされたので、その後掻き取るよ
うになった。
見八刀﹂を受ける。本史料の記載からは、作業に取りかかる前にわざわざ役所に出
向くのが面倒なので、面附帳の提出と掻判の頂戴が中検分のついでになされるの
-結語
除き木帳面を持参して断った日から一 O日掻後れ日数が延びたのは、掻けな
にわかに掻き方を止め、多分女木であると言うのは不都合ないたし方であり、そ
る程の実意であれば、辺掻きの高直になる時節は頻りに接き取り、八月中旬から
取ったのも極印木はお答めもないところ、木の衰えを痛わり半分より鎌付延引す
はなく、漆を掻く権利を売却するというシステムが今回のようなトラブルを引き起
は事後精算する前提となっていたことがわかる。つまり、採れた漆を売却するので
定後、漆掻きの対象から外す﹁除き木﹂の存在により、当初予定に不足が出た場合
問題は売却代金の支払い方である。本史料の記述によると、入札による金額の決
が慣行になっている旨が記されている。
の上、役人方数辺検分の上、間違いなく見済とした男木を女木と一世間うのは、御上
こしたと言える。
かったのではなく、故障を差し繕って代金を取り返す金みである。検分前に掻き
に対する大胆な・申掛けで驚き入る。特に木代の見詰を村方へ引合せ相談もなく、
金はすべて支払うよう仰せ付け下し置かれるならば、ありがたき幸せに存じます。
いをもって返金しろとの言いがかりは何とも心外の至りである。何卒、御威光をもって代
今日では生産効率の面から採用されているが、中国や東南アジアでは伐採をせず
法には、漆を掻けるだけ掻いてその後は伐採してしまういわゆる﹁殺し描き﹂が
さて、手順の冒頭にある﹁掻枯﹂という文言に関してである。漆を採取する方
3
0
一存で大金を掠め取り我侭に押領しても、現所の人々であれば疎かにせず大切に思い、万
ー﹁預所﹂と言うのは米沢藩が越後国岩船郡に一万三五二七一七の預領をもって
に少量ずつ採集する﹁養生掻き﹂がおこなわれている。米沢藩領においても、当
(二)﹁養生掻き﹂か﹁殺し掻き﹂か
いたことを雷っているもの左推定される。すなわち、同じ領主を頂く領民と
初は義生掻きがおこなわれていた。藩では掻き方の規定を定めているが、そこで
事丁寧にすれば、どこまでも我意を立て剰え代金の下りも立たず、かえって故なく差し繕
いう士思味になる。
は、﹁品切侠而ハ枯木ニ相成﹂として﹁掻かんな目深くかき取申間敷﹂と、明確
に採集過多による枯死の防止を意図している。ところが、寛政五年(一七九三)人
ており、すなわち藩の規定に沿わない、ひょっとすると殺し掻きを立昧するかも
月の漆目明しの設置にあたっての達しには﹁近来漆掻方悪敷相成候間﹂と記され
まず、漆採取の手順であるが、前年の段階で村方から米沢藩国産所漆方に対し
しれない記載がある。そして、宇和二年(一八 O二)には過木のみ﹁掻枯﹂が許可
(日)
﹁掻枯願い﹂が提出される。漆方からの出役が検分の上、掻くべき木に対し認可
されるに至るが、文化六年(一八 O九)六月には再び規制が入り四、五尺以上で太
(凶)
の極印がなされる。漆掻きは、その権利が専門の業者に売られるしくみで、業者
Oヶ所に一年ごとの植林をする必要がある。
き一握り以上の木に限るとされ、殺し描きによる乱伐も問題となったようだ。
る。したがって、毎年掻くためには
(日)
の選定は入札によっている。現在、漆描きの対象となるのは樹齢一 O年の木であ
(一)漆掻きの手順
考
察
徽
外山
米沢藩領における漆液の採集プロセスについて
(一一一)専門業者による漆採集
も時期が混い。理由は定かではないが、掻き枯らしをしない方針から漆の採取量
してくる漆掻き職人が、出稼ぎ故に最も効率の良い掻き方をはじめたこととして
なる六月一六日以前には明らかに一度掻いているので、現在の盛り辺にあたる最
これに対し、本史料によると買人らが来たのが六月中とあり、日付が具体的と
を増やす意向ではなかったのかもしれない。
伝わっているが、実際、他所から買人に連れられて描子が入っていることが史料
も採集量の多い時期にあたっている。実際に﹁掻後れて漆を取り劣る﹂という記
殺し描きは、岩手県二戸市浄法寺地区においては、明治の頃、福井県から出張
からわかる。史料にあるのと同様のケ1 スは、寛政五年八月の段階で﹁漆木何程
﹁辺掻きの高直になる時節は頻りに掻き取り、八月中旬からにわかに掻き方を止
述は、時期が遅くなると漆液の出が悪くなるということを言っている。さらに、
でに前から出稼ぎがおこなわれていたようだが、寛政五年段階においては、処罰
め﹂とあるが、新暦の九月中下旬からとなると確かにもう漆の出が悪くなり、掻
と買切為掻候者有之虫相関﹂﹁左様之ものも候ハ、追而御吟味﹂とあるので、す
の対象となったものかは直ちには不明であるが、何れにしても藩が厳重に取り締
くのを止める時期である。また、漆は掻いた時期によって品質が異なり、七月中
売却という手段を採っていたのだろうが、今回のケ1スでは兵次という者がいった
漆液を採集することが出来ず、おそらく販路も持たなかったため、買人らへ権利の
村は漆の売却によって収益を上げていたが、漆掻きは特殊な職能であり自力では
れないが、少なくとも漆掻きのプロである買人らが漆掻きに適した時期を選んで
識されていたのか、単に探集量が増えて身入りが多いことなのか直ちには断じら
うのは、字義通り盛り辺の漆が品質のよさから高い値段で売れることが当時も認
句から八月中旬の盛り辺が最も品質がよい。その意味で、﹁辺掻きの高直﹂とい
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まる行為であったことがわかる。
ん買受けたにもかかわらず、その権利が越後黒田の金三郎・寅吉・徳兵衛らに転売
いたことは間違いないだろう。
現在、日本で消費される漆液における国産漆の比率はわずか二パーセントとき
おわりに
されていたということになる。兵次がどのくらいマージンを取ったかは知れないが、
本来、落札の三O O商を持参するのは兵次のはずである。この転売もまた、値引き
交渉の間接的な要因となったのであろう。また、漆相場の下落が値引き究渉の理由
に替われているが、これもまた代金が決まってから実際に採集されるまでのタイム
越後黒田からの買人の来訪は藩領における他村にも事例が見られるが、史料中
用という点では建築や工芸が残存することなどから、その歴史が明らかにされて
ては広範な範囲で漆木が植栽され、漆液が採取されていたはずである。漆液の利
わめて低い。漆採取の技術の継承が危ぶまれる情勢にあるが、江戸期以前におい
にも金三郎らはそれ以前からよ伊佐沢村以外の米沢藩領内で同様に漆掻きの権利
いるものの、明治期以降さまざまな変化を経て現在に至るその以前の江戸期にお
ラグを考えると、予測の難しい問題である。一種の先物取引の様相を見せる。
を買い取って作業をしていたことを述べている。
ける漆液生産の実態についてはほとんど不明である。
乞提示する趣旨であれば、他の事例をいくつ
ある。当時における漆撮きのあh43
今回の検証はあくまで一つの村のある年における一つの出来事を追っただけで
漆掻きの時期はどうか。文化二年八月の時点で、藩からは漆掻きの時期を彼岸
かあたる必要もあろうが、元来、同様の記録が残りにくい事情を考えれば、とに
︿四)漆掻きの時期
の入りから六O日を三O日と銀縮する旨が連せられている。理由は、索、い時期に
かくその内容を発表することに意義があると考えられる。
(
げ
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掻くと﹁漆木之痛ニ相成﹂ということである。現在、初辺が六月半ばから、盛り
辺が七月半ばから掻かれていることを考えると、秋分の日辺りから後とはいかに
3
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注
米沢市史編さん委員会編可米沢市史﹄第一一一巻近世編Z (米沢市長高橋幸翁、
一九九三) 一
三O頁 以下、本書は﹃米沢市史﹄三と略す。
﹃米沢市史﹄三・二三六頁
﹃米沢市史﹄三・二三頁
﹃米沢市史﹄三・一二ハ真
以下、本書は﹃米沢市史﹄資2と略す。本書が翻刻している﹁郷
米沢市史編さん委員会編﹃米沢市史﹄資料篇2 近世史料 1 (米沢市長長俊英、
一九八三)一五人頁
村手引﹂は米沢藩曲反政布告集で、郡奉行所の書写と推定されている。
﹃米沢市史﹄三・二五O頁
一九九O)。
﹁元医賜村反別(上杉領村目録)﹂(﹃山形県史 L資料篇四・一五人頁)
﹃日本歴史地名大系六山形県の地名﹄(平凡社、
明治大学所蔵出羽田置賜郡上伊佐沢村文書(目録一一一号状S│一二)
﹃米沢市史﹄三・二三七頁
以下、現在おこなわれている漆掻きの技術については、日本うるし掻き技術保存会﹃漆
かき職人の一年│大森俊一一一の技術│﹄(日本うるし掻き技術保存会、二O O五)を参照。
﹃米沢市史﹄資2・一五九頁
﹃米沢市史﹄資2・一五人頁
﹃米沢市史﹄資2・二二七頁
﹃米沢市史﹄資2・一五九頁
﹃米沢市史﹄一ニ・二五O頁
﹃米沢市史﹄資2・二三 O頁
一
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O 六年一月二九日受瑚叫ん)
明治大学博物館商品・刑事部門学芸員 白色
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