2016 2016年 12月4日 聖書:ヨハネ福音書 聖書:ヨハネ福音書 1 章 1-12 節 タイトル:「 タイトル:「来られた救い主の誕生」 来られた救い主の誕生」 序 論 ●キリスト教のカレンダーによるなら、先週の日曜日は、既に、第一アドベント・サンデーであり、今 キリスト教のカレンダーによるなら、先週の日曜日は、既に、第一アドベント・サンデーであり、今 年もクリスマス・シーズンが始まった。 ●「クリスマス」は、沢山の子どもたちにとっても、彼らが ●「クリスマス」は、沢山の子どもたちにとっても、彼らが最も好きな季節であり、行事であろう。 彼らが最も好きな季節であり、行事であろう。 ●クリスマスは、今や、世界中に知れ渡り、祝われている行事、習慣である。言うまでもなく、日本も その例外ではない。 その例外ではない。 ●以前にも申し上げたように、もうだいぶ前のことであるが、あるアメリカ人のクリスチ 以前にも申し上げたように、もうだいぶ前のことであるが、あるアメリカ人のクリスチャンが、クリ カ人のクリスチャンが、クリ スマスの季節に、日本全体が、「クリスマス、クリスマス」と盛り上がっている様子を見て、 スマスの季節に、日本全体が、「クリスマス、クリスマス」と盛り上がっている様子を見て、「 が、「クリスマス、クリスマス」と盛り上がっている様子を見て、「知ら ない人がこれを見たら、日本はキリスト教国だと思うであろう」と言ったほどである。 ない人がこれを見たら、日本はキリスト教国だと思うであろう」と言ったほどである。 ●しかし、そんな日本で、「クリスマスって何の日?」と、もし子供たちに聞いたら、「サンタクロー スが来る日」「プレゼントを一杯もらえる日」「サンタクロースが生まれた日」などが返って来る。 ●私たちクリスチャンは、この季節、自らがイエス様の誕生の意味を、今まで以上に深く味わい、神様 に近づくと共に、イエス様のことをまだ知らない方々に、クリスマスの本当の意味を知らせる に近づくと共に、イエス様のことをまだ知らない方々に、クリスマスの本当の意味を知らせるべきで ない方々に、クリスマスの本当の意味を知らせるべきで ある。 ある。 ●今日はその第一回目としてヨハネの福音書 1 章 1-12 節から「来られた救い主」について学びたい。 1.今日のテキストを見て頂きたい。 (1)9節:「すべての人を照らす 来ようとしていた」 (1)9節:「すべての人を照らす、真 9節:「すべての人を照らす、真の光 、真の光( の光(イエス様のこと) イエス様のこと)が世に来ようとしていた が世に来ようとしていた」 (2)11 節:「この方( 節:「この方(イエス様のこと) イエス様のこと)は、ご自分の国に来られた は、ご自分の国に来られたのに」 来られたのに」とある。 のに」とある。 (3)イエス様は、 (3)イエス様は、来られた イエス様は、来られたお方である。 来られたお方である。 2.ルカによる福音書 19 章 10 節も見たい。そこでイエス様はご自分のことについてこのように言 も見たい。そこでイエス様はご自分のことについてこのように言 われた。「人の子( われた。「人の子(ご自分のこと ご自分のこと)は、失われた は、失われた人 失われた人を探し出して救うために を探し出して救うために来たのです 来たのです」と。 のです」と。 (1)ここでイエス様が「来た」と (1)ここでイエス様が「来た」と言われたの ここでイエス様が「来た」と言われたのは、「私はガリラヤ地区から旅をして、今、ここエリ 言われたのは、「私はガリラヤ地区から旅をして、今、ここエリ コの町に来たのは、・・・ コの町に来たのは、・・・」と言う 来たのは、・・・」と言う普通の意味の「来た」 」と言う普通の意味の「来た」ではなかった。 普通の意味の「来た」ではなかった。即ち、 ではなかった。即ち、 (2)イエス様がここで (2)イエス様がここで「来た」と言って イエス様がここで「来た」と言って意味されたことは、 「来た」と言って意味されたことは、単に一つ場所から違う場所への移動で 意味されたことは、単に一つ場所から違う場所への移動で はなく、イエス様の「誕生」を意味していた。即ち、「私が生まれて来たのは」の意味である。 3.普通は、誕生を意味するとき、「私が生まれて来たのは、きっと誰かを助けるためだった 3.普通は、誕生を意味するとき、「私が生まれて来たのは、きっと誰かを助けるためだったのか 普通は、誕生を意味するとき、「私が生まれて来たのは、きっと誰かを助けるためだったのか」 のか」 などと などとは言っても、「私 っても、「私が来たのは、 「私が来たのは、・・・」と言わない。 が来たのは、・・・」と言わない。 4.それでは、なぜイエス様は、ご自分の誕生を「私が来た」と言われたのか? それは、イエス様 は、御子として永遠の昔から 御子として永遠の昔から存在しておられたお方だったからである。 として永遠の昔から存在しておられたお方だったからである。 (1)イエス様 (1)イエス様は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時 イエス様は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時に初めて は、マリヤのお腹から生まれ、「イエス」と名付けられた時に初めて「存在」 に初めて「存在」を開始 「存在」を開始 されたお方ではない。 されたお方ではない。 (2)イエス様は、 (2)イエス様は、御子 イエス様は、御子、第二位の神として、 御子、第二位の神として、永遠の昔から 、第二位の神として、永遠の昔から存在して 永遠の昔から存在しておられた 存在しておられたのである おられたのである。 のである。天で父なる 神の御そばにおられた御子が、私たちを救うために、人となるべく地上に来られたのである。 5.要するに、御子は人間としては「生まれた」のであるが、救い主としては「来られた」のである。 5.要するに、御子は人間としては「生まれた」のであるが、救い主としては「来られた」のである。 6、即ち、御子は、「来られた」救い主である。御子は、3 6、即ち、御子は、「来られた」救い主である。御子は、3 つの意味で「来られた」救い主である。 (1)第一に、イエス様は「ことば (1)第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。 第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。 (2)第二に、イエス様は「光」として来られた救い主である。 (2)第二に、イエス様は「光」として来られた救い主である。 (3)第三に、イエス様は「 (3)第三に、イエス様は「人」として来られた救い主である。 第三に、イエス様は「人」として来られた救い主である。 本 論 Ⅰ. 第一に、イエス様は「ことば」として来られた救い主である。それは、どういうお方を意味していたのか? A. それを知るためにヨハネがイエス様について「ことば」と言う表現を用いた背景にある二つの世界を見たい。 1.「 1.「二つの世界」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった 二つの世界」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった。 」とは、「ギリシャ文化」の世界と「ユダヤ」文化の世界であった。 (1)当時は、今で言えば (1)当時は、今で言えば英語 当時は、今で言えば英語に当たるが、コイネーと呼ばれるギリシャ語が世界共通語とし 英語に当たるが、コイネーと呼ばれるギリシャ語が世界共通語とし て用いられていた。 1 (2)そのような中、神様の深い摂理によって (2)そのような中、神様の深い摂理によって新約聖書はギリシャ語で書かれた。 そのような中、神様の深い摂理によって新約聖書はギリシャ語で書かれた。多くの人々 新約聖書はギリシャ語で書かれた。多くの人々 が言うようにそのことがキリスト教が当時の世界に が言うようにそのことがキリスト教が当時の世界に急速 キリスト教が当時の世界に急速に広がった大きな要因であった。 急速に広がった大きな要因であった。 (3)言葉と思想・文化は (3)言葉と思想・文化は「 言葉と思想・文化は「一体」 一体」であり、或いは、少なくとも大きなつながりを であり、或いは、少なくとも大きなつながりを持っている が、当時の世界に が、当時の世界に広く 当時の世界に広く浸透していた文化思想は していた文化思想はギリシャ文化であった。 想はギリシャ文化であった。 (4)ヨハネは、そのことを意識し、聖書を知るイスラエルの人々と、それを超えた世界、即 ち、ギリシャ文化思想の中に住む人々と 人々との両方に分かるように、イエス様を救い主とし てここで紹介しようとしたのである。 (5)そのために彼は、ここで、イエス様を紹介するのに、「ことば」、ギリシャ語で するのに、「ことば」、ギリシャ語では、 、ギリシャ語では、 「ロゴス」と言う ス」と言う表現を用いた。 ●日本語訳(新改訳聖書) 聖書)では、1 では、1 節に 3 回、1 回、14 節で 1 回、直接的に「ことば」と訳し ているが、 ●1-18 節全体が「ことば」「ロゴス」なる救い主イエスの紹介である。 2.第一に 2.第一に、 第一に、この「ことば( この「ことば(ロゴス)」と言う語は、 と言う語は、ギリシャ文化に深く は、ギリシャ文化に深く浸っていた人々には、 っていた人々には、直 ちに、この世界を支配する理性と原理の中心である「 である「神的存在」 存在」を想起させた。 (1) (1)彼らにとって見える 彼らにとって見える物質の世界は、移り行くもの、 の世界は、移り行くもの、変わるもの、一時的、仮のものであ った。「 った。「そのものをそのものたらしめている」本 そのものをそのものたらしめている」本質は見えない世界にあると信じていた。 (2)その見えない本 (2)その見えない本質の世界にこそ、物が存在している真の が存在している真の理 真の理由と根拠があり、見える世界 があり、見える世界 のすべての事象の背後には原理と理性があると があると信じていた。 ていた。 (3)彼らは、 (3)彼らは、それらの 彼らは、それらの原理と理性の創造者であり、その であり、その究極を支配している神的存在を認識 し、「ロゴス」と呼んでいた。 (4)ヨハネは、イエス様を紹介するにあたり、このギリシャの文化、哲学思想の「ロゴス」 を人々に想 人々に想起させながら、あえて、1 させながら、あえて、1 節の終わりで、ハッキリと、そのロ キリと、そのロゴス、「こと ス、「こと ばは、 ばは、神であった」、そして、それがイエス様だ 神であった」、そして、それがイエス様だと 、そして、それがイエス様だと断言するのである 言するのである。 のである。 (5)即ち、イエス様を、ロ 即ち、イエス様を、ロゴスとして紹介し、神だと宣言したのである。 ●私たちは、ロゴス、即ち、神であるイエス様の中に、世界の存在理由、私たちの存在 理由を見出すのである。 ●私たちは、イエス様の中にこそ、創造者であり、この世界の であり、この世界の支配者であるロゴスを見、 そこに、存在と生きる意味、即ち実存の意義を見出すのである。 B. 更に、ヨハネの「ことば」と言う表現の背後には、ユダヤ文化、旧約聖書の背景がある。 1.旧約聖書において、「ことば」とは単なる伝達の媒体としての「口のことば」ではない。 のことば」ではない。 2.「ことば」は、 2.「ことば」は、むしろ、それを発せられた人、発せられたお方そのものであった。 (1)それ (1)それゆえ、神のことばは、神ご自身、神ご自身の力、神ご自身のご人格であった。 (2)この世界を (2)この世界を創造されたのは神様ご自身である。創世記 1 章 1 節が言うように、「初めに、 神が天と地を 神が天と地を創造した」のである。 (3)しかし、神さまは (3)しかし、神さまは、 しかし、神さまは、それを具体的には、ご自 には、ご自身のお「ことば」 のお「ことば」をもって 「ことば」をもって創造された。 された。 ●日本語の新改訳聖書によると、神様の天地創造の業を記す創世記 1 章で、実に 11 回、 「神は仰せられた( せられた(英語では“God said”)」と繰り返されている。 ●即ち、神さまは、その創造の業をご自身のお言葉によって のお言葉によって成し遂げられたのである。 ●その典型的例は、「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」である。 ●それゆえ、詩篇 33 篇 6 節は、「主のことばによって、天は造られた」と言う。 ●そして、このヨハネ ●そして、このヨハネ 1 章 3 節は、「すべてのものは、この方( 節は、「すべてのものは、この方(即ち、ロゴス、ことば) ス、ことば) によって造られた」と言う。 (4)即ち、このユダヤ文化、旧約聖書の 約聖書の背景からも、「ことば」はすべての始まり、すべて の基礎である創造者なる神を意味していた。 ●これは、ユダヤ人なら誰もが認めていることである。 ●しかし、ここで、ヨハネは、その「ことば」なるお方 ●しかし、ここで、ヨハネは、その「ことば」なるお方が、 なるお方が、ナザレのイエス様であると 言ったのである。 2 Ⅱ.第二に、イエス様は、「光として来られた」救い主である。4-9節 A. 光の重要性: 1.第一に、そもそも光は、神様の「 1.第一に、そもそも光は、神様の「創造」の基礎である。 (1) (1) 創世記 1 章 3 節を見るとき、神様の創造の御業は、混沌とした暗闇に「光あれ」と仰 ったところから始まった。 (2)罪は、神さまが、人間の世界に造られた光を破壊し、奪い、私たちを暗闇の中に閉じ込 めたのである。 2.第二に、それ 2.第二に、それゆえ、光は、「救い」の原点であり、目的である。この失われた光を取り戻し、 私たちをまた光りの世界に入れることが救いであり、救い主の役割である。 (1)だから、イエス様は言われた。「私は、世の光です。私に (1)だから、イエス様は言われた。「私は、世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩 むことがなく、いのちの光を持つのです」( つのです」(ヨハネ 8 章 12 節)と。 (2)そして、今日のヨハネの福音書のテキストでも、「光は (2)そして、今日のヨハネの福音書のテキストでも、「光は闇の中に輝いている。闇はこれ に打ち勝たなかった」(1 たなかった」(1 章 5 節)と、 (3)どちらの聖 (3)どちらの聖句も、真の光であるイエス様の到来によって、暗闇が打ち破られて、光が私 たちの中に回復したことが宣言されている。 B.光の意味すること:イエス様はどんな光なのか? どんな暗闇から私たちを救い出してくださるのか? 1.実存的光: (1)私たちを (1)私たちを実存的暗闇から救いだしてくださる。 (2)私たちは、一体何 (2)私たちは、一体何者なのか? 一体どこから来て、どこへ行くのか? 一体何のために 生きるべく生まれたのか? 生きるべく生まれたのか? 多くの人々がこれらの質問の答えのない暗闇に生きている。 (3)科学は、私たちのする沢山の WHAT, HOW の問題に答えてくれるが、WHY の問題に は答えてくれない。 (4)即ち、科学的答えはできても、実存的な質問には答えられない。 (5)それは、造り主だけが、光を当てることができる質問である。 2.道徳的光: (1)私たちのもう一つの (1)私たちのもう一つの暗闇は、何が善であり、何が悪であるかが分からない道徳的暗闇で ある。 (2)罪により光を失った私たちの今の時代の恐ろしさの一つは、どんどん光から遠ざかり、 今や、自らが暗闇の中にいることさえ、分からなくなってしまいつつあることである。 (3)何が (3)何が善で、何か悪で、何があるべき姿で、何があるべきでないかが、全く混乱している。 基準がない。真実を、真理を照らすものがない。 (4)昔、子ども時代によく外で遊んでいるときに経験したことであるが、大きな石をゴロッ とひっくり返してどけると、石の下に隠れていた小さな虫たちが、急にあてられた光の 前に、慌てて右往左往して逃げ回る姿である。 (5)私たち人間は、イエス様の光に照らされるときに、慌てるような生活をしている。でも 光がないので、あたかもこのままで 光がないので、あたかもこのままで良いように思い偽りの安心感の中に生活している。 (6)イエス様は、そこにメスを入れるように、その暗闇に光として来られたのである。 3.人生の光: 3.人生の光: (1)これは、1の「 (1)これは、1の「実存的光」とも関連するが、それを、もっと個人的に見る光である。 (2)私は、一体何 (2)私は、一体何者なのか? 私はどんな強み、弱みをもっているのか? 私は私の性格を どのように見たら良いのか? この生い立ちが私にどんな影響を与えたのか? 私は、 何をして生きて行ったら良いのか? などなど。 (3)私たちの人生は、分からないことだらけである。 (3)私たちの人生は、分からないことだらけである。次の瞬間、何が起こるかも分からない。 正に「一寸先は闇である」 (4)そんな前の見えない、否、今だって自分が見えない人生を歩んでいる私たちに、イエス 様は、光を当てて、自分を見せ、また人生の道を一歩一歩導いてくださるのである。 (5)二つの聖句を思い出して戴きたい: 3 ●詩篇 23 篇 1 節~:主は私の牧者であって、・・・・ ●詩篇 119 篇 105 節:あなたのみことばは、私の足の灯、私の道の光です。 4.ここでこの「光」のポイントを締めくくるにあたり短く二つのことを指摘したい。 したい。 (1)第一は、この「イエスさまという光」は「いのちの光」であ (1)第一は、この「イエスさまという光」は「いのちの光」であることである。 第一は、この「イエスさまという光」は「いのちの光」であることである。 ●4 節を見たい。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 ●この世の光、それは、「律法」に代表される光である。そのような光は、あれが正し い、これが正しい、これが間違っている、等の指摘はできても、 ●そこに「いのち」がないので、「 ●そこに「いのち」がないので、「冷たい光」となってしまい、何か善悪を指摘はでき ても、反って、失望を与えるだけで、解決にならない。救いにならない。 にならない。救いにならない。 ●それが正にローマ人への手紙3章 20 節「なぜなら、律法を行うことによっては、誰 一人神の前に義と認められないからです。律法によってはかえって罪の意識が生じる からです」と言うお言葉で表現されていることである。 ●しかし、イエス様の光は「いのちの光」である。「いのち」がある光だから: ●しかし、イエス様の光は「いのちの光」である。「いのち」がある光だから: ・暖かさを伝える、 える、 ・人を励まし慰めることができる、 ・人を変えることができる、 ・包み、希望を与えることができる ●何よりも。イエス様 何よりも。イエス様ご自 イエス様ご自身が、いのちの光、生きている光である。即ち、 が、いのちの光、生きている光である。即ち、イエス様 。即ち、イエス様は イエス様は、 口だけで教えた単なる知 だけで教えた単なる知的光ではない。ご自 光ではない。ご自身が光として実際に生きられた命を持っ た光であることを意味していた。 た光であることを意味していた。 ・ここが、バプテスマのヨハネとの大きな違いである。6-8 節を見たい。 節を見たい。 ・バプテスマのヨハネが光について言ったことは皆正しかった。しかし、彼は光その ものではなかった。即ち救い主ではなかった。光について証しした人であった。 ・ここに、この光が、私にも、私の人生にも ここに、この光が、私にも、私の人生にも実現する救いの希望がある。 (2)もう一つのことは、 (2)もう一つのことは、必勝宣言である。即ち、この光の前に、闇の世界は決して勝利する ことができない。5 節「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」 ●人生、罪を犯して一時的に、敗北もある。失敗もある。 ●しかし、それらは最終結論ではない。イエス様についていくなら必ず、最終的勝利が 待っている。 ●ヨハネ 8 章 12 節のすぐ前の出来事をその文脈から見たい( から見たい(勿論、この記事については 写本上からの問題点はあるが) はあるが)。それは姦淫の現場を捕まえられた女性の記事である。 結 論 ●さて、最 さて、最後に第三ポイントとして、短く、14節に く、14節に記されている、イエス様は「人として来られた」 救い主について学ぶつもりでいたが、 救い主について学ぶつもりでいたが、 ●時間の関係で、このことは、来週、 で、このことは、来週、11 このことは、来週、11 節を中心に、「 に、「拒まれた救い主」 まれた救い主」のテーマの一部として学ぶ ことにしたい。 ●今日は、第二アドベントサンデーであるが、当教会のメッセージとしては、第一回目のアドベント・ としては、第一回目のアドベント・ メッセージとして、「来られた救い主」と題して学んだ。 ●イエス様は、「生まれたお方」というより、「来られたお方である」。簡単に言うなら、「人間が神 になった」救い主ではなく、「神が人間となって地上に来られた」救い主である。 ●そして、そのお方は、私たちのために、「ことば」なる救い主として、また「ひかり」なる救い主と して来られたことを学んだ。 ●それぞれの意味を考えながら、もう一度、お互いに、私も、皆様も、救い主なるお方の名前を呼び、 様も、救い主なるお方の名前を呼び、 その懐に飛び込む者となりたい となりたい。 りたい。 4
© Copyright 2024 ExpyDoc