2016 2016年 11 月 13 日 聖書:第一サムエル 聖書:第一サムエル 15 章による福音書19章 による福音書19章16-26節 16-26節 タイトル:「 タイトル:「福音への招き:悔い改め」 福音への招き:悔い改め」 序 論 ●子ども賛美歌に「福音の汽車」と言うのがある。 子ども賛美歌に「福音の汽車」と言うのがある。「福音の汽車に乗ってる。天国行きにポッポ」。 「福音の汽車」と言うのがある。「福音の汽車に乗ってる。天国行きにポッポ」。 ●その歌詞に、「切符は要らない。主の救いがある。それでただ行く」と言う部分がある。 ●一昨日も、「小羊キッズ」プログラムのときにも言ったが、本当はただではない ●一昨日も、「小羊キッズ」プログラムのときにも言ったが、本当はただではない。 も言ったが、本当はただではない。イエス様が全額払 ってくださったのである。だから、私たちは払う必要はないのである。 ●私たちがするべきことは、悔い改めて、福音、即ちイエス様の十字架の救いを信じることだけである。 ●私たちがするべきことは、悔い改めて、福音、即ちイエス様の十字架の救いを信じることだけである。 ●だからイエス様は言われた。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。 ●だからイエス様は言われた。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。 ●これが福音である。悔い改めて、福音を信じることこそ、神の国に入る唯一の道である。 ●これが福音である。悔い改めて、福音を信じることこそ、神の国に入る唯一の道である。 ●ここで大切なことは、信じることと ●ここで大切なことは、信じることと共に、その準備としての 共に、その準備としての悔い改めの その準備としての悔い改めの重要性である。 悔い改めの重要性である。 ●「信仰」 信仰」が勝手な思い込みや、 が勝手な思い込みや、好き勝手な 込みや、好き勝手な宣言で 好き勝手な宣言でなく、まっすぐ 宣言でなく、まっすぐで純粋 なく、まっすぐで純粋な で純粋な神への信頼となるために、 悔い改めは重要である。悔い改めに裏付けられた、コインの裏表のような信仰が必要である。 悔い改めは重要である。悔い改めに裏付けられた、コインの裏表のような信仰が必要である。 ●「悔い改め」とは、単なる口先 ●「悔い改め」とは、単なる口先だけのお詫びではない。いわゆる は、単なる口先だけのお詫びではない。いわゆる「 だけのお詫びではない。いわゆる「懺悔」 懺悔」とも違う。原語であるギリ とも違う。原語であるギリ シャでは、「 シャでは、「メタノイア」 メタノイア」と言って、「 と言って、「方向変換」 方向変換」の意味があると言われている。 ●即ち、それは、行動や生活における具体的な ●即ち、それは、行動や生活における具体的な変換を意味している。 具体的な変換を意味している。 ●今、私たちはローマ書を通して、「 ●今、私たちはローマ書を通して、「信仰義認 ローマ書を通して、「信仰義認」について 信仰義認」について学んでいる。 」について学んでいる。聖書は言う。 学んでいる。聖書は言う。私たちが神の前に 聖書は言う。私たちが神の前に 義とされるのは、100%、私たちの行いに依るものではない。もし、そうなら、私たちの救いは、 義とされるのは、100%、私たちの行いに依るものではない。もし、そうなら、私たちの救いは、 限りなく不確定で、不安定なものになってしまう。 限りなく不確定で、不安定なものになってしまう。 ●救いは、100%、私の行いでなく、神の行い、即ち、御子イエス様が十字架にかかられ、甦られた ●救いは、100%、私の行いでなく、神の行い、即ち、御子イエス様が十字架にかかられ、甦られた 神の行いに信頼、依頼す 神の行いに信頼、依頼するものである。私たちは、それを信じ受け入れるだけで 信頼、依頼するものである。私たちは、それを信じ受け入れるだけで救われるので るものである。私たちは、それを信じ受け入れるだけで救われるのである。 救われるのである。 ●しかし、そのような ●しかし、そのような信仰をもつためには、罪に対する悔い改め ような信仰をもつためには、罪に対する悔い改めが先行しなければならない 信仰をもつためには、罪に対する悔い改めが先行しなければならない。勿論これ が先行しなければならない。勿論これ も、自分、即ち、人間個人の責任ではあっても、自分の力ではない。神様の恵みによるのである。 も、自分、即ち、人間個人の責任ではあっても、自分の力ではない。神様の恵みによるのである。 ●さて、今日はこの「 ●さて、今日はこの「悔い改め」 悔い改め」について、旧約聖書の第一サムエル記15章のサウロ王の記事を、一 つの実例として学びたい。 ●ここに記されていることは、 1.預言者サムエルが、神様に命じられて、サウルを初代の王として選んだことの再確認 1.預言者サムエルが、神様に命じられて、サウルを初代の王として選んだことの再確認について 2.そのサウルに神様が、このような命令を出され 2.そのサウルに神様が、このような命令を出された このような命令を出されたことについて ことについて (1)その命令とは、かつて、イスラエル人たちが、奴隷とされていたエジプトの国を脱出したと きのことに関連していた。 (2)そのとき、ここに登場する そのとき、ここに登場するケニ人と呼ばれてい 登場するケニ人と呼ばれている ケニ人と呼ばれている人々のように、イスラエルの人々が、 人々のように、イスラエルの人々が、信じ 従っていた神を畏れ、尊敬し、イスラエル人たちの逃 従っていた神を畏れ、尊敬し、イスラエル人たちの逃亡・脱出を助けた部 けた部族もあった。 (3)しかし、 しかし、一方、その神を畏れず、敬わず、馬鹿にし、イスラエルの部族を亡きものにしよう とした人々がいた。その中の一つの部族がアマレク人たちであった。 (4)神様は、今や、サウロ王にその神を畏れず、今も、神に 、今も、神に逆らい、悪を行うアマレク人たちを 亡ぼすように命じられた。 (5)そのとき、神さまは、そのアマ そのとき、神さまは、そのアマレク人たちに属するすべてのものを、即ち、何も残すことな すことな く、すべてを亡ぼすようにサウル王に命じられたのである。3節参考 (6)これは、旧約聖書では「聖絶」と呼ばれ、愛なる神が求める行為としては、理解と説明が難 しいところである。いつか、またこの問題をも取り上げるときが来る(礼拝でか、聖書の学び 会でか、個人的質疑応答のときか) のときか)。しかし、今は、愛と正義の神様の深いお考えと人類に対 するお扱の御手の の御手の中で、神さまが決められたこととして、信頼してそのまま受け入れたい。 (7)今は、むしろ、ここでの中心問題であるサウロ王の問題に集中したい。 (8)彼は、その神様の命令に従わなかったのである。それが、9節に記されている。「しかし、 サウル王と彼の民は、・・・・」とあるように、 とあるように、彼は不従順と言う罪を犯したのである。 (9)しかし、実は、今日の中心的課題は、彼が罪を犯したことから、更に一歩進んで、彼が、更 に悪いことに、その罪を悔い改めなかったことである。 1 (10)確かに、 (10)確かに、彼は、一見悔い改めたように 悔い改めたように見えたが、聖書は、預言者サムエルは、それを真の悔 い改めとは認めなかった。それゆえ、彼は、神の前から捨てられることとなったのである。 3.今日のテーマは、「 ーマは、「真の悔い改め」 の悔い改め」と「偽りの悔い改め りの悔い改め」 悔い改め」である。 本 論 Ⅰ. ここで大切なことは、サウル王が神様の前から捨てられたのは、彼が罪を犯したからではなく、彼がその罪に 対する真の悔い改めに至らなかったからであることを認識することである。。 A. ある人は、人が、神さまに捨てられるのは、その罪の大きさのためだと思う。 1.小さな罪なら 1.小さな罪なら赦してもらえるが、大きな罪は赦されないで、 されないで、捨てられると思いがちである。 2.しかし、それは全くの間違いである。サウロが 2.しかし、それは全くの間違いである。サウロが捨てられたのはその罪の大きさの故ではない。 3.このことは、ダビデの場合と比べると明瞭になる。 (1)ダビデが犯した罪は、姦淫と殺人である。形の上から言うと、人間社会において、それ において、それ らは最も大きな罪と言える。 (2)一方、サウルは、神さまから命じられたことを行わなかった不従 一方、サウルは、神さまから命じられたことを行わなかった不従順の罪である。サウル の罪である。サウル は、戦争で勝利した相手の王や、捕虜、分捕り品を、自分のものとして を、自分のものとして取って置くこと をしないで、みな をしないで、みな完全に処分する、即ち「聖絶」することを、 」することを、神様から命じられていた。 様から命じられていた。 (3)しかし、彼はそれを部分的には行ったものの それを部分的には行ったものの、 ものの、完全には実行しなかった 全には実行しなかったのである。 実行しなかったのである。9節。 のである。9節。 (4)人間的には、明らかに、サウル らかに、サウルの サウルの罪の方が、 罪の方が、軽い罪だと言 い罪だと言える。 (5)しかし、ダビデは、その罪を赦されたが、サウルは、赦されなかった。 されなかった。 4.即ち、罪が 即ち、罪が赦される、赦されない、と言う問題は、その罪の大きさの故ではないのである。 B. ある人は、また、サウルが、その罪が赦されず、捨てられたのは、彼が、その罪を、すぐに認めて、告白しな かったからであると思う。 1.即ち、 1.即ち、サウルは、 即ち、サウルは、預言者であるサムエル サウルは、預言者であるサムエルが、 預言者であるサムエルが、彼のとこ のところに来て、罪を指摘されるまで、自分 されるまで、自分 から罪を認め、告白しなかった。 2.それで、ある人は思う。「言われてからでは 2.それで、ある人は思う。「言われてからでは遅すぎる。だから、サウルは罪を赦してもらえ なかった」と。 3.しかし、これもまた、ダビデの場合と比べると、間違いであることが分かる。 (1)サウルの場合と同様に、ダビデも、預言者ナタンが、彼の所に来て、罪を指摘するまで、 自分から罪を認め、 自分から罪を認め、告白はしなかった。 はしなかった。 (2)即ち、二人とも、預言者が彼らの罪を指摘するまで、この罪の問題をなおざりにしてい たのである。しかし、 たのである。しかし、ダビデは、後に完全に赦されたのであった されたのであった。 あった。 (3)罪の赦しに、「遅すぎる!!」ことはない。 ことはない。 C.これらから言えることは、サウル王が、その罪が赦されることなく、神さまから捨てられたのは、 1.彼の罪の大きさでもなく、 の罪の大きさでもなく、また 2.罪を認め、告白するのが遅すぎたからでもない。 3.その真の理由が次のポイントである。即ち彼が「真の悔い改め」に至らなかったからである。 Ⅱ.それでは、「まことの悔い改め」とは何か? これが今日のメッセージの中心テーマである。 A. サウルも、「悔い改め」をしたように見えた。しかし、それは、預言者サムエルと神様の御目には「まことの悔 い改め」ではなかった。 1.24節:サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。 しました。・・・」と。 2.30節でも、「私は罪を犯しました」と言っている。 3.しかし、その しかし、その前後の節に記されているサムエルの言葉と態度から明らかなように、それは救 いと赦しをもたらす福音体験にサウルを導くことはなかった。 B.「真の悔い改め」とは何か? このことをサウルのした「偽り?の悔い改め」を見ながら考えたい。 1.第一に、「言い 1.第一に、「言い訳け」をしないことである。 (1)サウルはどうだったか (1)サウルはどうだったか? 15節を見たい。 ●他の人のせいにした: いにした:民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。 2 ●信仰を言い訳にした:神様に捧げるためであったと。 ●全部はしなかったが、ほとんど行った:そのほかの物は聖絶しました。 (2)「悔い改め」の一つの大切な要素は、「罪の告白」である。 ●「告白」とは、英語で ConCon-fession、原語のギリシャ語では HomoHomo-loge logeow geow である が、それは、「 が、それは、「同じことを言う」の意味である。 ●即ち、聖書の言う「罪の告白」とは、「神さまと同じことを言う」と言う意味である。 ●即ち、神様が、私たちに「あなたの罪はこれだよ」と言われていることと同じことを、 私たちが、「その通りです。私はその罪を犯しました」と言うことである。 2.第 2.第二に、自分の に、自分の面子・面目を捨てることである。 (1)サウルは、どうだったか (1)サウルは、どうだったか? 30節を見たい。 ●「どうか今は、私の ●「どうか今は、私の民の長老とイスラエルの前で私の面目を立ててください」 ●バレてしまったもの、否定はしないが、これは、サムエル、あなたと私だけの秘密に しておいて欲しい。私の王としての名誉と面目は損ねないようにしてください。 (2)「 (2)「真の悔い改め」は、言葉を超えた「心」の姿である。 ●それは、面目・面子を捨てた心の姿であり、 ●神と人との前に、砕けた心を持つことである。 ●それが ●それが、ダビデが大罪を犯したときに神様に捧げたときの姿であった。彼は預言者ナ タンにその罪を指摘、糾弾されたときに、神と人との前に されたときに、神と人との前に砕けてこのように祈った。 った。 「神へのいけにえは、砕かれた魂、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげ すまれません」( ん」(詩篇51篇17節)。 結 論 ●今日学んだように、初代の王サウルも、後継したダビデも罪を犯しました。人間的に言うなら、ダビ デの罪の方が、いわゆる大罪であった。 ●しかし、ダビデは、赦されただけでなく、救い主イエス様の されただけでなく、救い主イエス様のひな型となり、その末裔から、救い主が 生まれるという栄誉を拝した。 ●一方、サウルは、地上の運命としても、晩年は寂しい、悲しい生涯であった。 ●その分岐点は何であったか? 彼らの運命を分けたのは、犯した罪のゆえではない。「真の悔い改 め」をしたか、しなかったかである。 ●そのような悔い改めは、自らの思いを超え、人の思いを超え、私たちのうちに働いておられるご聖霊 さまの声に従って行われる悔い改めである。 ●私は、今日このメッセージを、第一に自分に当てはめて語った ージを、第一に自分に当てはめて語った。 った。私のために祈って頂きたい。 ●同時に、皆様お一人お一人も、 様お一人お一人も、ご聖霊のお働きの中、今日のメッセージを、自らの心と生活、人生に 当てはめて、味わい、祈っていただきたい。 ●心砕けた者の近くにおられる主にすべてを託し、皆様の上に神様の祝福を祈る 3
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