オブジェクト指向哲学の 76 テーゼ グレアム・ハーマン 著 Graham Harman 飯盛 元章 訳 Seventy-Six Theses on Object-Oriented Philosophy オブジェクト指向哲学の 76 テーゼ G・ハーマン著 飯 盛 元 章 訳 Graham Harman Seventy-Six Theses on Object-Oriented Philosophy 2013 目次 オブジェクトについて ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 四つの緊張関係について ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 三つの放射について ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 三つの接合について ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 四つの緊張関係の撹乱について ︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 芸術作品について ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 原註 ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 訳註 ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 訳者あとがき ︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙︙ 7 11 18 20 21 24 52 28 28 凡例 • 原 文 中 の " は " ﹁ ﹂ に︑ ( は ) ︵ ︶ に よ っ て 示 し た︒ ま た イ タ リ ッ ク の 箇 0 0 所は傍点によって示した︒ • ︹ ︺内は訳者による補足である︒接続詞などの補足にかんしては︑とくに断ら ない場合もある︒︿ ﹀は︑訳語としてのまとまりが見えるように付したもので ある ︒ • 原註の箇所は*によって示し︑巻末に訳出した︒ • 訳註の箇所は によって示し︑巻末におさめた︒ • 訳語の一部に︑原語のルビをふった︒ • テーゼのまとまりごとに︑見出しを付した︒各見出しは訳者によるものであり︑ 原文 に は な い ︒ () オブジェクト指向哲学の七六テーゼ ﹂芸術祭が︑恒例の開催地であるドイツのカッセルに (1) (2) ⁂₂ 終的に寄稿したのは︑﹁第三のテーブル﹂と題された小論である︒この小論は︑A・S・ ⁂₁ 画し︑その寄稿者のひとりとしてわたしを招待してくれた︒このカタログにわたしが最 は︑一〇〇人の寄稿者たち︵何人かは故人︶による小論で編まれた長大なカタログを計 て開かれた︒芸術祭のディレクターを務めるキャロライン・クリストフ=バカルギエフ 二〇一二年夏︑﹁ドクメンタ (13) じめたのである︒︹未完となったが︺最初の計画によって書き残されたものは︑ライプ で心変わりし︑これを取りやめて︑あらたに先のエディントンにかんする小品を書きは ゼ﹂と題された小品を寄稿する計画でいた︒ところが七六個目のテーゼに到達したあと わたしはこの発想に思い至るまえ︑ 最初は ﹁オブジェクト指向哲学にかんする一〇〇テー ブル︵芸術にかかわるもの︶を提示することを目的としたものであった︒だがそもそも エディントンによる有名なふたつのテーブル︵科学と実践︶の比喩を批判し︑ 第三のテー (3) の十一月後半に書かれたものである︒ に︑個々の論点を厳密に最大三〇語の長さに制限した︒この未完の小品は︑二〇一一年 七六個の原理の概略的な要約である︒わたしは︑表現の徹底した簡潔さを維持するため ニッツの﹃モナドロジー﹄のような文体で綴られた︑オブジェクト指向思想にかんする (4) 6 オブジェクトについて 最初の種類のもの︹世界にうちに存在するオブジェクト︺を﹁実在的オブジェク でなければならない︒ どちらのタイプのオブジェクトも扱えるほどじゅうぶんに適用範囲の広いもの するものも︑たんに精神のうちに存在するものもオブジェクトである︒哲学は︑ オ ブ ジ ェ クトとは︑なんであれ統一性をもつ存在者である︒世界のうちに存在 (5) ト﹂︵ real object ︶あるいは﹁事物﹂と呼ぼう︒実在的オブジェクトは︑たとえす べての観察者が眠ったり死んでしまったりしても存在する︑世界のうちの自律的 第 二 の 種 類 の も の︹ 精 神のう ちに存在す るオブ ジェ クト ︺を﹁ 感覚的オ ブ ジェ な存在者である︒ (6) クト﹂︵ sensual object ︶あるいは﹁イメージ﹂と呼ぼう︒感覚的オブジェクトは︑ ある知覚者がそれに向きあっているかぎりにおいてのみ存在する︒この知覚者 オブジェクトについて 7 1. 2. 3. わたしたちが出会うのは︑実在そのものではない︒わたしたちによる事物の知覚 は︑人間である必要はない︒ (7) このこと︹事物の実在性を汲み尽くすことはないということ︺は︑人間や動物の 尽くすことのできない余剰を抱えている︒ や実践的な操作が︑事物の実在性を汲み尽くすことはない︒個々の事物は︑汲み 4. ホーリスティック リ カ チ ュ ア 全体論的な道具連関に起因するとみなした点にあった︒ カ あらゆる関係は︑事物を︑戯画化されたものに還元してしまう︒知覚と実践は︑ (12) (11) の現前にも還元されえないということを理解していた︒彼の過ちは︑このことを (10) ハイデガーは︑オブジェクトがこのように認識的であれ実践的であれどんな形式 (9) からの被害者︹木綿や窓ガラス︺を単純化してしまう︒ (8) 汲み尽くすことに失敗する︒木綿を燃やす炎も︑窓ガラスを粉砕する石も︑みず 心の特性に起因するのではない︒生命のないオブジェクトであっても︑たがいを 5. 6. 7. 8 事物をわたしにとっての存在へと還元する︒また︹事物相互の︺因果関係は︑そ れぞれをたがいにとっての存在へと還元する︒ こうした理由から︑ハイデガーの道具連関には現前からのいかなる逃げ道も存在 しない︒だが彼は︑この逃げ道を見て取っていたはずである︒なぜなら︑彼の語 る道具は壊れうるのであって︑このことは︑道具のうちになにか驚きを引き起こ しうるものが存在するということを意味しているからだ︒ (13) さらに︑ライプニッツにも言及すべきである︒というのも︑窓をもたないモナド トテレスもライプニッツも︑集団や機械といった複合的なオブジェクトの実在性 と︑汲み尽くしえないオブジェクトは類似しているからである︒しかし︑アリス (15) はつねに普遍から成るが︑事物はそうではないからである︒ れば︑第一実体すなわち個体的事物を定義することはできない︒なぜなら︑定義 アリストテレスもまた︑こうしたものを見て取っていた︒彼の教えるところによ (14) については懐疑的であった︒ (16) オブジェクトについて 9 8. 9. 10. (17) わたしたちは︑この結論を退けなければならない︒しかしそれは︑神が西洋知識 神が唯一の因果的動因であると語った︒ 学者たちは︑フランスのマルブランシュや彼と同時代の人たちとおなじように︑ (19) 機 会 原 因論を説く哲学者たちは︑これとおなじ問いをもった︒イスラームの神 (18) 綿を燃やすのだろうか︒ 戯 画に出会っているにすぎないのだとすれば︑炎はいったいどのようにして木 カリカチュア オブジェクトがたがいから退隠する︵ withdraw ︶という事実から︑それらはいっ た い ど の よ う に し て 相 互 作 用 す る の か と い う 問 い が 生 じ る︒ も し 炎 が 木 綿 の 11. 12. (21) 彼らは嘲笑されるべきだが︑だれも彼らをあざ笑うことはない︒ に︑あらゆる因果関係をゆだねたのであって︑ひとしく独占の罪を犯している︒ (22) ヒュームとカントは︑習慣による結合︵ヒューム︶や悟性のカテゴリー︵カント︶ (20) も︑因果関係の独占権をあたえるべきではないからである︒ 人の主潮において嘲笑の的となるからではない︒いかなる特殊な存在者に対して 13. 14. 10 わ た し た ち が 実 在 的 オ ブジ ェクト︵ある いは事物︶ と 呼ぶ も の は︑い かな る 接 触によっても汲み尽くすことのできないオブジェクトである︒もし実在的なオ ブジェクトしか存在しなければ︑いかなる関係も生じることはない︒ ︹それゆえ︺ 四つの緊張関係について ユ ッ ト けの空虚な枠組みではない︒なぜなら︑もしそうであれば︑すべての事物は同一 実在的オブジェクトはまとまりをなすものだが︑それはたんにまとまっているだ ニ 神であっても︑手助けすることはできない︒ (23) 0 0 こ う し た 実 在 的 事 物 と 性 質 の 闘 争 は︑ 本 質︵ essence ︶ と 呼 ば れ る︹ 第 一 の 緊 張 関係︺︒この語の評判が悪いのは︑ ﹁本質は認識可能である﹂という傲慢な主張の (25) 性質を有する︒この性質は事物に属すが︑他方で事物とは異なっている︒ になってしまうからである︵ライプニッツ︶ ︒ ︹それゆえ︺事物はさらに︹固有の︺ (24) ためである︒しかし本質は︑けっして直接的に認識することはできない︒ 四つの緊張関係について 11 15. 16. 17. 事物はそれぞれ本質を有する︒椅子は︿まさにそのようにあるもの﹀︵ what it︶ is で あ り︑ み ず か ら を 顕 現 さ せ る あ ら ゆ る 出 来 事 や 表 面 上 の 効 果 よ り も 深 遠 で あ もし実在的オブジェクトと実在的性質以外なにも存在しなかったならば︑どんな 化が不可能になってしまう︒ る︒これとはべつのしかたで︹事物は表面上の効果と同一であると︺語ると︑変 18. ︹﹁志向的﹂という語の︺かわりに﹁感覚的オブジェクト﹂と﹁感覚的性質﹂とい られている︒またこの語は︑退屈で不毛である︒ (27) の︹﹁志向的﹂という︺語は︑しばしば取り違えられて︑反対のしかたでもちい 経験の世界は︑現象学によって﹁志向的﹂領域として記述されてきた︒しかしこ (26) へと退隠し︑接触を欠いたままであっただろう︒ 経験も因果関係も生じることはなかっただろう︒あらゆるものが私的な隔離部屋 19. 20. や距離から眺めることができるが︑それらは同一の対 象でありつづける︒ オブジェクト う語をもちいよう︒わたしたちは郵便ポストやシマウマ︑円柱をさまざまな角度 21. 12 アクセス 実在的オブジェクトと実在的性質はあらゆる接近から退隠するが︑感覚的オブ オブジェクト ︶向きあっ sincerely ジェクトと感覚的性質は退隠しない︒経験はそれらで満ちている︒わたしたちは てい る ︒ ダイアモンド︑ラジオ︑塔︑クラシック・ギターに真摯に︵ (28) オブジェクト ポーランドの哲学者カジミエシュ・トワルドウスキは︑経験外部の﹁対 象﹂と (29) 現象学の欠点は︑その観念論にある︒しかしこの運動のすばらしいところは︑経 経験のうちへと引きずり込み︑両者の抗争を意識に内在させた︒ 経験内部の﹁内容﹂とを区別した︒しかしフッサールは︑対 象と内容の双方を (30) 0 験が感覚的性質だけでなく︑それとの緊張関係︵ tension ︶にある感覚的オブジェ クトから成り立っているということを発見した点にある︒ 0 (31) この緊張関係は︑わたしたちの時間︵ time ︶の経験によって示されている︹第二 の緊張関係︺︒陽の光は浜辺を横切り︑少年と少女は歳を重ねる︒波は浜辺を形 成したり︑侵食したりする︒ 四つの緊張関係について 13 22. 23. 24. 25. わたしたちが時間を経験するのは︑感覚的オブジェクトが瞬間から瞬間をとおし しかし感覚的オブジェクトは︑移ろい揺らめく感覚的性質とは異なった︑べつの 的性質が揺らめくのである︒ 質の束ではなく︑それらに先立って存在している︒その表面を︑さまざまな感覚 て比較的安定した状態を保っているからである︒感覚的オブジェクトは感覚的性 26. 変の性質をもっている︒ 0 感覚的オブジェクトが有する実在的性質を︑直接的にとらえることはけっしてで る︒ こ う し て︑ わ た し た ち は 形 相︵ ︶ と い う 語 を︑ 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト と eidos その実在的性質の緊張関係に対してもちいることができる︹第三の緊張関係︺ ︒ 0 この不変の性質を発見する過程は︑フッサールが﹁形相的還元﹂と呼ぶものであ (32) 種類の性質も有する︒感覚的な郵便ポストやシマウマ︑円柱は︑経験に対して不 27. 28. ないのと同様である︒わたしたちはそれらを間接的︑暗示的に︹のみ︺知ること きない︒それは︑実在的オブジェクトの実在的性質︵ ﹁本質﹂ ︶がけっして顕現し 29. 14 がで き る ︒ 現象学はこの点を見落としている︒というのも現象学は︑あらゆる実在の︑意識 への直接的現前に傾倒しすぎているからである︒ ︹だが︺ハイデガーは︑実在と の直接的接触というこのドグマから現象学を解放した︒ わたしたちはまだ︑実在的オブジェクトと感覚的性質のあいだにある︑第四の最 後の緊張関係について語っていない︒しかしこれについてはハイデガーが明晰に 論じているので︑他のものよりも容易に説明することができる︒ アクセス 手許にあるハンマーや︑雨をしのいでくれている屋根つきのプラットフォーム は︑いかなる理論的・実践的接近によってもとどかないほどに深遠である︒それ らは実在的であって︑感覚的ではない︒ わたしたちが知っていると思ってい ハンマーが壊れたり︑砕けたり︑うまく使えなくなったりするとき︑感覚的なハ ︱ ンマーから実在的なハンマーへ向けて 四つの緊張関係について 15 30. 31. 32. 33. ︱ たものよりも深遠な︑いまだ知られざる実在的なハンマーへ向けて 性質がふたたび割り当てられる︒ ︑感覚的 わたしたちは感覚的なハンマーとは接触したが︑実在的なハンマーとは隔たっ 0 0 星々は︑わたしたちの眼前に直接的に広がっているのではなく︑何光年も離れて 空間は︑関係的かつ非関係的である︒ 0 0 という点をめぐって論争した︵一七一五︲一七一六年︶︒だが両者は誤っていた︒ れ 物 で あ る の か︑ あ る いは︑存 在者どうし の関係よ っ て生 じる ものであ る のか クラークとライプニッツは︑空間にかんして︑それは存在者にとっての空虚な入 (34) 空間︵ space ︶と呼ぶことができる︹第四の緊張関係︺︒ (33) たままである︒実在的ハンマーとその感覚的性質とのあいだのこの緊張関係を︑ 34. 35. 地として︑わたしたちの近くにある︒ いる︒しかしそれらは︑わたしたちが知っているなにかとして︑また可能な目的 36. 16 アクセシビリティ 空間とは︑隔たった事物の接近可能性と︑けっして近づくことも汲み尽くすこと もできない︑事物のより深遠な実在的核とのあいだの緊張関係である︒ のちの議論においてしっかりと思いだすことができるように︑ここであらため て︑四つの緊張関係すべてについて要約することにしよう︒これらは︑オブジェ クト指向哲学の重要概念をなしている︒ たいてい驚きや混乱がもたら 時間は︑感覚的オブジェクトと揺らめく感覚的性質とのあいだの亀裂︵ fissure ︶ であ る ︒ ︱ 信号を送ってくる︑謎につつまれた実在的オブ 空間は︑感覚的性質と︑その奥底のどこかから ︱ されるような場合において ジェクトとのあいだの抗争︵ duel ︶である︒ 本質は︑隠された実在的オブジェクトと︑それを︿まさにそのようにあるもの﹀ にする隠された実在的性質とのあいだの闘争︵ strife ︶である︒この緊張関係は︑ 四つの緊張関係について 17 37. 38. 39. 40. 41. ︱ ︿まさにそのようにあるもの﹀にする実在的性質とのあいだ 表面的性質のあらゆる流動的 経験のうちにいかなる足場ももたず︑どこかほかの場所で生じる︒ ︱ こ れ ら は︑ 二 種 類 の オ ブ ジ ェ ク ト と 二 種 類 の 性 質 か ら 成 る 四 つ の 緊 張 関 係 で あ 三つの放射について にし よ う ︒ 姉妹を︑時間︑空間︑本質︑形相から成るあらたな 四 重 王朝へ迎え入れること クアドラプル 時間・空間の対は︑つねに比類ない女王とみなされてきたが︑わたしたちはその の裂け目︵ gulf ︶である︒ 揺ら ぎ を こ え て 形相は︑経験の感覚的オブジェクトと︑それを 42. 43. れた性質について問うことができるだろう︒ る︒わたしたちはさらに︑オブジェクトと遭遇するオブジェクト︑性質と対にさ 44. 18 性質はつねにオブジェクトに結びついていて︑そこから︑まるで生きた心臓から ︶と名づけよう︒ radiation 0 0 放たれるようにして放射される︒それゆえ︑ 諸性質が一体となるしかたを﹁放射﹂ ︵ 0 感覚的性質が感覚的オブジェクトから放射される場合︑発出︵ emanation ︶とい う 語 を も ち い よ う︹ 第 一 の 放 射 ︺ ︒ オ レ ン ジ は︑ 味︑ き め︑ 香 り の 束 で は な い︒ これらの性質は︑オレンジから発出されている︒ 0 オレンジに属すおおくの実在的性質に対して︑縮約︵ contraction ︶という語をも ちいよう︹第二の放射︺︒なぜなら︑あるオブジェクトが有する多数の実在的性 0 0 質は︑はじめにまとめて圧縮されたからである︒それらは分節化されていない︒ 0 実在的性質と感覚的性質の双方がおなじ感覚的オブジェクトに属すさい︑二重性 ︵ duplicity ︶という語をもちいることにしよう︹第三の放射︺︒ ︹感覚的︺オブジェ クトは︑揺らめく性質のカーニバルの背後に︑ほんとうの特徴を隠しもっている︒ 三つの放射について 19 45. 46. 47. 48. 三つの接合について オブジェクトと性質の場合︑ ﹁緊張関係﹂という語がもちいられ︑性質どうしの ︵ ︶という語をもちいよう︒ junction 0 ある種の間接的あるいは代替的な連結を必要とする︒ (35) 0 ︹観察者としての︺実在的オブジェクトには︑同時におおくの感覚的オブジェク クロウタドリにかかわっているときのような関係である︒ 実 在 的 オ ブ ジ ェ ク ト と 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト の 関 係 は︑ 没 頭︵ involvement ︶の関 係である︹第二の接合︺︒それは︑実在的な観察者が︑感覚的な寺院やオレンジ︑ 0 実在的オブジェクトどうしの関係は︑退隠︵ withdrawal ︶すなわち相互隔離の関 係 で あ る︹ 第 一 の 接 合 ︺︒実在 的オブジェ クトど うし はいか な る 接触も も たず︑ 0 場合 ︑ ﹁放射﹂という語がもちいられた︒オブジェクトどうしの場合には︑ ﹁接合﹂ 49. 50. 51. 52. 20 0 0 0 0 0 0 ト が 現 前 し て い る︒ わ たしは たったひと つのオ レン ジで はな く︑オレン ジ の木 ︶︹第三の接合︺ ︒ contiguous 立ちに囲まれて生きている︒これら多数の感覚的オブジェクトは隣接している ︵ 要約すれば︑緊張関係には︑時間︑空間︑本質︑形相の四つがある︒また放射には︑ 発出︑縮約︑二重性の三つがある︒そして接合には︑退隠︑没頭︑隣接の三つが ある ︒ 四つの緊張関係の撹乱について これらは︑オブジェクトと性質のあいだの一〇種の基礎的紐帯︵ bond ︶である︒ 世界の物語は︑これらの形成と破壊をとおして展開する︒宇宙にはいくつもの断 層線が走っていて︑それらが崩壊することで振動が生じる︒ 一 〇 種 の 紐 帯 の そ れ ぞ れに は︑その紐帯 があらわれ る 特有 な し かたと︑そ れ に よってもたらされる特有の効果が存在する︒ 四つの緊張関係の撹乱について 21 53. 54. 55. ︱ において生じる撹乱だけに︑ 実在的 ないし感 覚 的 オブジ ェクトが︑ 実 在的 ︱ 木であれロウソクであれ犬であれ︑あらゆる感覚的オブジェクトは︑実在的性質 焦点をしぼることにしよう︒ (36) ないし感覚的性質と対にされる四つの緊張関係 さ し あ た り︑ 四 つ の 緊 張 関 係 56. が必要となる︒ ︱ 0 0 0 0 0 ある種の分裂︵ 0 fis- 0 に よ っ て︑ 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト が 異 な っ た 効 果 を 生 み だ す し か た を シ ミ ュ レ ー ションという語をもちいよう︹第一の分裂︺ ︒なぜなら︑ わたしたちはそれ︹差異︺ 0 0 0 感覚的オブジェクトと感覚的性質の差異がはっきりと際だつ場合︑シミュレー ︶ sion 撹乱させるためには︑すでに存在する紐帯を断ち切ること ︱ そ れ ゆ え︑ 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト と 実 在 的 な い し 感 覚 的 性 質 と の あ い だ の 紐 帯 を な実在的性質も有している︒ ブジェクトは︑外的な細目︹感覚的性質︺に覆われているが︑同時に︑より深遠 と感覚的性質の双方を同時にもたなければ︑存在することはできない︒感覚的オ 57. 58. 59. 22 ⁂₃ ションするからである︒ 0 0 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト と 実 在 的 性 質 の あ い だ に 隔 た り が あ る 場 合︑ 理 論︵ theory ︶ という語をもちいよう︹第二の分裂︺ ︒なぜならすべての思考は︑感覚的オブジェ クトの実在的属性へと近づくことを︹たえず︺目指しているからだ︒ アクセス あらゆる実在的オブジェクトは︑どんな接近や関係からも退隠するので︑一定の 内的整合性をもっていなければならない︒つまり︑実在的オブジェクトは︑みず からと緊張関係にある︹実在的︺性質から︑明確に分離されてはならないのであ る︒ こうしてわたしたちは︑ある︹実在的︺オブジェクトと性質のあいだにもともと 0 ︶と呼ぶことがで fusion 存在する紐帯を破壊するのではなく︑むしろ︑以前は存在しなかった緊張関係を 0 あらたに生みださなければならない︒この過程を融合︵ きる ︒ 四つの緊張関係の撹乱について 23 60. 61. 62. 0 0 このことが︑退隠する実在的オブジェクトと感覚的性質のあいだで生じる場合︑ があ る か ら で あ る ︒ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 あらゆる芸術は︑魅惑を生みだす方法である︒だが︑ ︹魅惑を生みだす方法には︺ 芸術作品について 理論︑魅惑︑因果作用と名づけられた︒ 0 0 要約すれば︑世界における四つの緊張関係の撹乱はそれぞれ︑シミュレーション︑ 0 ︵ causation ︶という語をもちいよう︹第二の融合︺ ︒なぜならこれは︑世界に対す る諸帰結が展開する場所だからである︒ 実在的オブジェクトが︑はじめて結びつく実在的性質と融合する場合︑因果作用 0 魅惑︵ ︶という語をもちいよう︹第一の融合︺︒なぜなら︑︹実在的︺オブジェ allure ク ト が わ た し た ち に 信 号 を 送 る し か た に か ん し て︑ 暗 示 的 な︵ allusive ︶なにか 63. 64. 65. べつの方法もある︒わたしたちは︑芸術作品がいったいなにによって他の種類の 66. 24 魅惑から区別されるのかについて説明すべきである︒ ︑それがなんであるのか完全には把握していないからで ︱ あらゆる形式の魅惑は︑驚きや陶酔︵ ︶をとおしてわたしたちを引き fascination つける︒というのもわたしたちは︑みずからが扱うものにかんして その性質 ︱ をと ら え て は い る が ある ︒ ハイデガーの有名な壊れたハンマーの例で言えば︑目につくようになるのは︑ハ ンマーそのものではない︒むしろ︹ ﹁壊れた﹂という︺ハンマーの性質が︑未知 のXとしてのハンマーに割り当てられるのである︒ 活気をあたえる原理のようなもの ︱ によっ て陶 酔を 引 き 起こす︒ それ ゆ あらゆる形式の美は︑目に見えるどんな個別的特徴をも超えた︑より深遠なもの ︱ え︑美しいものを生みだすための規則を設けることはできない︒ わたしたちが勇気のうちに見いだすのは︑自己とその原理への忠誠であって︑反 芸術作品について 25 67. 68. 69. 70. 対に外的な帰結は非難される︒勇気ある人物は︑安全や出世︑人気を非本質的と みなすが︑反対に臆病者はこれらを重視する︒ 月並みで実用的なものしか期待していなかった書物や人物︑都市のなかに︑思い こうしたことは︑芸術作品においても生じる︒とはいえわたしたちは︑芸術作品 失望においては︑これと反対のことが生じる︒ がけず活気に満ちた原理を発見するとき︑わたしたちは心地よい驚きを覚える︒ 71. 欠如が理由ではない︒ ⁂₄ ハイデガーは講演﹃芸術作品の根源﹄のなかで︑闘争について語っている︒この (39) (38) デュシャンの﹁自転車の車輪﹂が芸術作品でないとすれば︑それはおそらく美の (37) さ ら に︑ 一 般 に 美 し い と い わ れ る も の を 欠 い た 純 粋 な 芸 術 作 品 も あ る だ ろ う︒ 根︑甘美な声は美しいが︑芸術作品ではない︒ と︑美として知られる形式の魅惑とを同一視することはできない︒夕日や鳥の羽 72. 73. 74. 26 闘争は︑世界における特殊事例でなければならない︒さもなければ︑あらゆるも のが芸術作品となってしまうだろう︒ ハイデガーが語る闘争は︑大地と世界のあいだで生じる︒彼の語る﹁大地﹂はた しかに︑なにか隠れたものではあるのだが︑わたしたちの﹁実在的オブジェクト﹂ とは異なる︒なぜなら︑ハイデガーの語る大地は︑単一の全体的なかたまりだか らで あ る ︒ わたしたちがあきらかにしなければならないのは︑闘争が通常の状態とどのよう に異なるのかであり︑また芸術作品における闘争が︑壊れたハンマーや勇気など の闘争とどのように異なるのかである︒ 芸術作品について 27 75. 76. Martin Heidegger, The Origin of the Work of Art. In Off the Beaten Track, trans. J. れた﹁突き合わせ﹂︵ confrontation ︶のかわりにもちいる︒ A.S. Eddington, The Nature of the Physical World. (New York: MacMillan, 1929.) 今後は﹁シミュレーション﹂という語を︑拙著﹃四方オブジェクト﹄で導入さ (Ostfildern, Germany: Hatje Cantz Verlag, 2012.) Pages 540-542. Graham Harman, The Third Table, in The Book of Books, ed. C. Christov Bakargiev. 原註 *1 *2 *3 *4 Young & K. Haynes. (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 2002.) pages 1-56. ︹マルティン・ハイデガー﹃芸術作品の根源﹄関口浩訳︑平凡社︑二〇〇八年︒ ︺ 訳註 ドクメンタは︑ドイツのカッセルにて︑一九五五年以来ほぼ五年おきに開催され ている国際的な芸術祭である︒ナチス・ドイツ体制下で退廃芸術として弾圧され (1) 28 た前衛芸術の名誉回復を目的にはじまった︒現在︑ベネチア・ビエンナーレと並 ぶ︑ヨーロッパ有数の芸術祭となっている︒ ︵一九五七 ︶ ︒ Carolyn Christov-Bakargiev - アメリカ合衆国の作家︑キュレーター︒ 二〇一二年に︑﹁ドクメンタ ﹂芸術祭のディレクターをつとめた︒ロンドンに ︵一八八二︲一九四四︶ ︒イギリスの天文学者︑物理 Sir Arthur Stanley Eddington 学者︒一九〇六年にグリニッジ天文台助手︑一三年ケンブリッジ大学教授︑翌年 ︵二〇一三年は八一位︑一四年は六八位︑一五年は七五位︶ ︒ ハ ー マ ン も︑ こ の ラ ン キ ン グ に 二 〇 一 三 年 か ら 三 年 連 続 で ラ ン ク イ ン し て い る で 影 響 力 の あ る 人 物 ト ッ プ 一 〇 〇 ﹂ で︑ 二 〇 一 二 年 に 一 位 に ラ ン ク イ ン し た︒ 拠 点 を 置 く 現 代 ア ー ト の 雑 誌﹃ ア ー ト レ ビ ュ ー﹄ が 発 表 し て い る﹁ ア ー ト 業 界 (13) 同大学天文台台長に就任︒日食の観測によりアインシュタインの一般相対性理論 を裏づけた︒﹃物理的世界の本性﹄は︑一九二六年から二七年にエディンバラ大 学で行われたギフォード講演がもとになっている︒ ︵ 一 六 四 六 ︲ 一 七 一 六 ︶︒ ド イ ツ の 哲 学 者︑ 数 学 者︒ さ Gottfried Wilhelm Leibniz まざまな分野で業績を残し︑政治家︑外交官としても活躍した︒晩年の小品﹃モ ナドロジー﹄は︑彼の思想を簡潔に要約したものとなっていて︑世界を︑不可分 訳 29 (2) (3) (4) で不滅の実体である無数のモナドから成るものとして説明している︒ objectの訳語は︑ふたつの理由から︑そのままカタカナ表記で﹁オブジェクト﹂ と し た︒ 第 一 に︑﹁ オ ブ ジ ェ ク ト 指 向 ﹂ ︵ object-oriented ︶という表現とのつなが sensual objectと呼ばれ︑ ﹁自律的な存在者﹂と訳出した箇所は︑ 原文では autonomous forcesとなっている︒ ここでは︑実在的オブジェクトに対してたしかに力のようなものがイメージされ 後者 は ︒この両方のニュアンスを活かすために︑カタカ real objectと呼ばれる︶ ナ表記の﹁オブジェクト﹂を訳語としてもちいることにした︒ いうニュアンスの両方を込めているからである︵前者は の 訳 語 も﹁ オ ブ ジ ェ ク ト ﹂ と し た︒ 第 二 に︑ ハ ー マ ン は objectと い う 用 語 に︑ わ た し に と っ て の﹁ 対 象 ﹂ と い う ニ ュ ア ン ス と︑ そ れ 自 体 で 存 在 す る﹁ 物 ﹂ と りを明確にするためである︒ object-orientedには︑プログラミング用語としてす でに﹁オブジェクト指向﹂という定訳がある︒したがってそれに合わせて︑ object (5) ハーマンによれば︑人間以外の実在的オブジェクトも︑知覚をとおして感覚的オ を避けるために︑﹁力﹂ではなく﹁存在者﹂とした︒ ているが︑基本的には実在的オブジェクトは事物であり実体である︒無用な混乱 (6) ブ ジ ェ ク ト に 向 き あ っ てい る︒ハーマン のこの立場 は︑汎心論 ないし 生気 論 を (7) 30 想わせるが︑彼自身はそれと微妙な距離をとりつづけている︒﹃ゲリラ形而上学﹄ で は︑ 汎 心 論 は 人 間 の 精神や 意識を重視 したう えで︑ それ をあ らゆるも の に帰 属させているのだとして退けられる︒ハーマンが採用するのは︑あらゆる存在者 が︑意識よりも一般的なはたらきである﹁魅惑﹂︵ allure ︶をとおしてかかわりあ う﹁汎魅惑論的﹂︵ panallurist ︶立場である︒汎心論に対するこうした否定的な態 度は︑その後は若干緩和される方向に修正されている︒﹃四方オブジェクト﹄で は︑汎心論に対してある程度の理解が示されたうえで︑﹁汎﹂の側面に異議が唱 えられる︒ハーマンは︑つぎのように述べている︒﹁重要なのは︑オブジェクト は汎心論が主張するように︑存在するかぎりで知覚しているのではないというこ とである︒オブジェクトは︑関係するかぎりで知覚するのだ﹂ ︵ Graham Harman, ︶︒ハーマンによれば︑存 The Quadruple Object, Winchester: Zero Books, 2011, p.122 在するあらゆるオブジェクトが知覚する︵汎心論︶のではなく︑他のものと関係 す る オ ブ ジ ェ ク ト だ け が 知 覚 す る の で あ る︒ こ こ か ら︑ 存 在 は す る が︑ 他 の も のとの関係を欠いた︵つまり︑知覚していない︶﹁眠れるオブジェクト﹂ ︵ dormant ︶というものも認められることになる︒こうして︑ひじょうにおおくのオ object ブジェクトが知覚しているが︑すべてのものではない︵﹁汎﹂ではない︶という 訳 31 意味で︑﹁多心論﹂︵ polypsychism ︶の立場が表明されるのである︒ ハーマンによれば︑事物と関係することによって得られるのは︑その事物のほん のものを︑つねに余剰として抱えている ︵テーゼ ︶ ︒ハーマンはさらにここから︑ の一側面にすぎない︒他方で事物そのものは︑そのようにして得られるもの以上 (8) 的 な 形 而 上 学 の 構 築 を 試み る思想的な 運動であ っ た︒ ハー マ ン 自身の場 合︑ 実 の相関主義︵あるいはアクセスの哲学︶をなんらかのしかたで乗り越え︑実在論 れは︑メイヤスー︵ Quentin Meillassoux 一九六七︲︶が﹁相関主義﹂ ︵ corrélationisme ︶ と名づけた概念に相当する︒ハーマンが牽引役となった﹁思弁的実在論﹂は︑こ とする哲学を︑ハーマンは﹁アクセスの哲学﹂ ︵ philosophy of access ︶と呼ぶ︒こ 権視し︑事物そのものではなく︑人間がそれへと接近するしかたを中心的な課題 アクセス 汲み尽くすことのできない余剰に属している︒ところで︑人間と世界の関係を特 質に単純化しているのである︒炎からすれば︑木綿がもつ手触りや白さなどは︑ に由来する︶でいえば︑燃焼という出来事において︑炎は木綿を可燃性という性 げられている﹁炎と木綿﹂の例︵これはハーマンがよくもちいる例で︑ガザーリー る︒接近不可能性は︑人間と事物のあいだに固有の事態ではないのだ︒本文で挙 他の事物へのこうした接近不可能性を︑事物相互のあいだにも見いだそうとす 4. 32 在論的形而上学の構築は︑カント以来つづく相関主義的な拘束を出発点の段階 から退けて︑事物そのものの哲学へと一挙にいたることによってなされる︒ハー マンによれば︑人間だけでなくあらゆるオブジェクトが︑余剰を抱えた自律的な 存在者である︒そうしたオブジェクトが︑表面をとおして間接的に関係しあう世 界を描くのが︑彼のオブジェクト指向哲学である︒そこでは︑思考する人間は︑ 特権的な存在者ではまったくない︒ ︵一八八九︲一九七六︶ ︒ドイツの哲学者︒一九一九年から二三 Martin Heidegger 年まで︑フライブルク大学にてフッサールの助手として教鞭をとり︵初期フライ ブルク期︶︑一九二三年から二八年のあいだマールブルク大学の教授をつとめた︒ その後︑一九二八年にフッサールの後任として︑フライブルク大学の教授に就任︒ フッサール現象学から影響を受け︑古代ギリシア哲学の解釈をつうじて独自の存 在論を展開した︒著作には﹃存在と時間﹄がある︒ ハ イ デ ガ ー は﹃ 存 在 と 時 間 ﹄ の な か で︑ ハ ン マ ー を 例 に 挙 げ て︑ 道 具 の 分 析 を ︶と呼ばれ︑ 道具として実践的に使用されている場合︑﹁手許存在性﹂ Vorhandenheit ︶と呼ばれる︒ハイデガーによれば︑眼前存在性としてのハンマー Zuhandenheit 展開している︒ハンマーが認識の対象となっている場合︑それは﹁眼前存在性﹂ ︵ ︵ 訳 33 (9) (10) は意識に現前するが︑手許存在性としてのハンマーは意識に現前することなく︑ そこから逃れ去っているのである︒ハーマンは︑処女作﹃道具存在﹄において︑ ハイデガーによるこの道具分析を独自に解釈し︑みずからのオブジェクト指向哲 0 0 0 0 0 学を構築した︒ハーマンの解釈によれば︑道具分析において問題となっているの は︑﹁事物と︑わたしたちがそれに対してもちうるなんらかの相互作用とのあい だの絶対的な隔たり﹂︵ Graham Harman, Tool-Being: Heidegger and the Metaphysics ︶である︒それゆえ︑道具分析が描く事 of Objects, Chicago: Open Court, 2002, p.2 物︵つまり道具存在︶は︑理論に対してだけでなく実践に対しても現前すること はない︵一般的なハイデガー解釈においては︑道具分析は︑理論的抽象が実践的 活動にもとづいているということを意味するのだとされる︶︒ ﹁手許存在性が指し 示 し て い る の は︑ 人 間 のまな ざしから逃 れ去り︑実 践 的活 動に も理論的 意 識に もけっして現前しない暗く隠れた実在へと退隠するオブジェクトである﹂ ︵ Ibid., ︶︒ハーマンはさらにここから︑このように解釈された道具存在の構造が︑い p.2 わゆる﹁道具﹂だけでなく︑あらゆる存在者にあてはまるのだと解釈する︒そし て︑﹁道具存在は伝統的実体の奇妙な改訂版となる﹂︵ Ibid., p.2 ︶と主張し︑実体 を軸にしたあらたな形而上学の構築へと向かうのである︒ハーマンによるこうし 34 た一連のハイデガー解釈は︑たしかに妥当性を欠くように思われる︒しかしハー マンは︑みずからの目的について︑ ﹁ハイデガー以上にハイデガーを理解するこ と で は な く︑ ハ イ デ ガ ー 以 上 に 道 具 存 在 を 理 解 す る こ と で あ る ﹂ ︵ Ibid., p.6 ︶と 述べており︑あくまでもハーマンの主眼は︑道具分析を独自のしかたで解釈し︑ そこからハイデガーが思いもしなかったあらたな形而上学の構築へと向かうこ とにあるのだと言える︒ ハイデガーは︑道具は孤立しているのではなく︑他の道具との連関のうちにある のだと考えた︒たとえば︑ハンマーは釘を打つためであり︑釘は板を固定するた めであり︑板は机をつくるためであり︙というように︑それぞれの道具は︑﹁~ アクセス のために﹂というしかたで他の道具を指示している︒ ハーマンによれば︑事物と関係することによって接近できるのは︑こちら側に対 して現れたかぎりでの事物でしかない︒それは事物のいわば戯画であり︑事物そ のものは関係の彼方へと逃れ去ってしまうのである︒これとは反対に︑余剰とし ての事物そのものを認めず︑ それを関係の束へと還元する立場を︑ ハーマンは﹁関 係主義﹂︵ relationism ︶と呼んで批判する︒ハーマンによれば︑関係や文脈を重視 する全体論的な発想は︑二〇世紀の思想を支配するパラダイムとなっている︒こ 訳 35 (11) (12) れに対して彼自身のオブジェクト指向哲学の立場は︑むしろ伝統的な実体を復活 させるものである︒ハーマンは関係主義について︑ つぎのように述べている︒ ﹁こ の︹相関主義の︺立場の別形態として︑ ﹃関係主義﹄と呼びうるような︑人間中 心的ではない立場を挙げることができるだろう︒それは︑アルフレッド・ノース・ ホワイトヘッドとブルーノ・ラトゥールの著作のうちに︑もっともはっきりと見 て取れるものだ︒関係主義の哲学は︑あらゆる関係に人間がふくまれなければな らないということは認めない︒だが他方で︑事物は他の事物との関係の総体であ り︑ そ れ 以 上 の も の で は な い と 主 張 す る ﹂ ︵ Graham Harman, Zero-Person and the Psyche, in David Skrbina ed., Mind That Abides: Panpsychism in the New Millennium, らえた︒だがテーゼ で確認されたように︑関係とは︑事物を他のものに対する ︶ Amsterdam: John Benjamins Publishing Company, 2009, p.260 ハイデガーは道具連関の発想によって︑道具存在を関係性のネットワークからと (13) いて︑ハーマンはここに︑道具存在が関係性のネットワークから逸脱する余剰的 こ と に な る の で あ る︒ しかし︑ ハイデガー は道具が 壊 れる とい うことを 述 べて て︑ハイデガーの道具連関のうちには︑現前からのいかなる逃げ道も存在しない 存在に︑つまり︑他のものに対する現前に還元することにほかならない︒したがっ 7. 36 な も の を 見 い だ し て い る︒ ハ ー マ ン は︑ 道 具 が 壊 れ る こ と に か ん し て︑ つ ぎ の ように述べている︒﹁道具が壊れるのは︑それがなにかほんのすこし余分なもの だ か ら で あ る︒ そ れ は︑ 体 系 に よ っ て は け っ し て 利 用 し 尽 く さ れ ず︑ 使 用 者 に とりつくように︑どこまでも回帰してくる実在の過剰である﹂︵ Graham Harman, Time, Space, Essence, and Eidos: A New Theory of Causation, in Cosmos and History: ︶ ︒ The Journal of Natural and Social Philosophy, vol. 6, no. 1, 2010, p.4 それも最も本来的な意味で︑そして第一に実体と言われ︑ま ︵前三八四︲三二二︶ ︒古代ギリシアの哲学者︒広範な分野で多大な影 Aristotelēs 響を残し︑﹁晩学の祖﹂とも称される︒第一実体にかんして︑つぎのように述べ ︱ ている︒﹁実体 た最も多く実体であると言われるものは︑何か或る基体について言われることも なければ︑何か或る基体のうちにあることもないもののことである︑例えば或る 特定の人間︑あるいは或る特定の馬︒そして第二実体と言われるのは︑第一に実 体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種の類とである︑ 例えば或る特定の人間は種としての人間のうちに属し︑そして動物がその種の類 で あ る︒ だ か ら そ れ ら のもの︑ 例えば人間 や動物は 実 体と して は第二と 言 われ るのである﹂︵﹃アリストテレス全集1﹄ ﹁カテゴリー論﹂山本光雄訳︑岩波書店︑ 訳 37 (14) 一九七一年︑七頁︶︒ ハーマンは︑アリストテレスとライプニッツに対して︑つぎのように評価してい ハーマンは︑オブジェクトと伝統的実体との相違点について︑つぎのように述べ と呼 応 す る ︒ 可能なものとして立てたのであり︑この点においてそれはオブジェクト指向哲学 立場である︒これらの還元主義的な哲学とは異なり︑実体の哲学は個体を還元不 在を設定し︑個体をそれへと還元する立場である︒また﹁上方解体﹂ ︵ overmining ︶ とは︑個体的存在者の上方の表層的なもの︵性質や関係など︶に個体を還元する たのである﹂︵ Graham Harman, The Road to Objects, in continent 1.3, 2011, pp.172︶︒﹁下方解体﹂︵ undermining ︶とは︑個体的存在者の下方に︑より根源的な実 173 む下方解体論者と上方解体論者の両陣営に包囲されながらも︑果敢に立ち向かっ き る︒ 彼 ら は︑ 世 界 の 根 源 的 要 素 の 地 位 か ら 個 体 的 存 在 者 を 追 放 し よ う と 目 論 う発想のもとで︑初期のオブジェクト指向学派を形成したのだとみなすことがで る︒﹁アリストテレス︑スコラ哲学︑ライプニッツは︑第一実体と実体形相とい (15) 特徴がある︒たとえばライプニッツの哲学を考えてみよう︒ ︹第一に︺ライプニッ ている︒﹁伝統的実体には︑あきらかにわたしたちには容認しがたいいくつかの (16) 38 ツは実体と集合体とを区別するのだが︑だからといって彼に同意して︑マッシュ ルームは実体で軍隊はそうでないと考える必要はないだろう︒︹第二に︺ライプ 0 0 0 0 ニッツはすべての実体は永遠的であると考えるが︑アリストテレスの英断にした Ibid., がえば︑星々や昆虫︑人間のような滅びうるものも実体として認めることができ る︵アリストテレスは︑古代ギリシアでそのように考えた最初の哲学者だ︶﹂ ︵ ︶︒ p.172 ハーマンはこの﹁退隠﹂ ︵ withdraw ︶という概念によって︑ オブジェクトに対して︑ 関係に還元されない強固な実在性をあたえている︒オブジェクトは︑他のものと の関係から︑つまり他のものへと現前することから隠れ︑汲み尽くすことのでき な い 余 剰 と と も に︑ み ずから の自律的な 実在性 のう ちへ と引 きこも る︒ こ れが ﹁退隠﹂によって意味されている事態である︒ ﹁世界は︑ あらゆる関係から退隠し︑ みずからの私的な空虚に住まうオブジェクトで満ちているのだ﹂ ︵ Graham Har- man, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open ︶︒ところでハーマンは︑この Court, 2005, p.86 withdrawという語を︑ハイデガー がも ち い る sich entziehenの訳語としてもちいている︵ Graham Harman, Bells and ︶ ︒ハイデガー Whistles: More Speculative Realism, Winchester: Zero Books, 2013, p.44 訳 39 (17) のこの語は﹁脱去﹂などとも訳されるが︑ 本稿では﹁退隠﹂という訳語を採用した︒ この﹁退隠﹂という語は︑デリダ︵ Jacques Derrida 一九三〇︲二〇〇四︶の論文﹁隠 喩の退隠﹂︵ジャック・デリダ﹃プシュケー﹄藤本一勇訳︑岩波書店︑二〇一四 Sich-Entziehenと い う ド イ ツ 語 に 対 し て︑ フ ラ ン ス 語 で 年所収︶から借用したものである︒デリダは︑ ハイデガーがもちいる Entziehung retrraitと い う 訳 語 や をあ て て い る ︒ ﹃プシュケー﹄ の訳者である藤本は︑デリダがもちいるこの retrrait の訳語として﹁退隠﹂という語を採用している︒デリダとハーマンのハイデガー 解釈には直接の関係性はないが︑ ﹁退隠﹂という日本語がもつ﹁退き隠れる﹂と いう語感は︑ハーマンが withdrawに込めた含意をじゅうぶんに汲んでいる︒ ﹁ 機 会 原 因 論 ﹂︵ occasionnalisme ︶ と は︑ コ ル ド モ ア︵ Géraud de Cordemoy (19) ある実体のうちに生じるはたらきをきっかけにして︑じっさいには神が他の実体 論をとる哲学者たちは︑実体どうしが直接的に作用をおよぼしあうのではなく︑ 実体どうしの直接的な相互作用を説明することが困難となった︒そこで機会原因 デカルトは︑相互に独立した二種類の実体による二元論を打ちたてた︒そのため︑ ル ブ ラ ン シ ュ︵ 訳 註 一六二〇︲一六八四︶︑ゲーリンクス︵ Arnold Geulincx 一六二四︲一六六九︶ ︑マ を参照︶といったデカルト派の哲学者たちが唱えた学説︒ (18) 40 ︱ のうち に作用をあたえているのだと考えた︒アシュアリー学派のイスラーム神学者たち ︱ とくにガザーリー︵ Abū Ḥāmid al-Ghazālī 一〇五八︲一一一一︶ にも︑同様の発想を見いだすことができる︒ ︵一六三八︲一七一五︶ ︒フランスの哲学者︒アウグスティ Nicolas de Malebranche ヌス神学とデカルト哲学の融合を試みた︒マルブランシュによれば︑人間は外的 事物を認識するさい︑個別的な知覚を機会とし︑その観念をつうじて神の普遍的 理性によって照明されるのである︒それゆえ︑ ﹁われわれは万物を神のうちに見 る﹂と述べられる︒著書に﹃真理の探求﹄がある︒ ︵一七一一︲一七七六︶ ︒イギリスの哲学者︒ ﹃人間本性論﹄におい David Hume て︑人間の自然本性をニュートンの方法によって解明することを試みた︒ヒュー ムによれば︑人間精神の対象としての知覚は︑生き生きとしたものである﹁印象﹂ ︵ ︶と︑その再現である﹁観念﹂ ︵ ︶とに分類される︒また因果関係は︑ impression idea ある対象のあとにつねにおなじ対象が継起するという経験から︵ ﹁恒常的連接﹂ ︶︑ 精神の習慣によってこの二対象が結びつけられることに由来するのだとされる︒ ︵一七二四︲一八〇四︶ ︒ドイツの哲学者︒ケーニヒスベルク大学 Immanuel Kant の論理学︑形而上学教授をつとめた︒ ﹃純粋理性批判﹄ ︑﹃実践理性批判﹄︑﹃判断 訳 41 (19) (20) (21) 力批判﹄の三批判書を書き︑人間理性の権能と限界を確定する批判哲学の立場を とった︒カントによれば︑ 人間の認識能力には感性と悟性の二種類がある︒時間・ 空間の形式をとおして感性によってとらえられた対象を︑悟性が一二種類のカテ ゴリーによって判断することによって認識が成立する︒因果性は︑悟性のカテゴ リーのひとつをなしている︒ ヒュームもカントも︑人間精神に対して︑因果関係の独占権をあたえている︒ 0 らかに代替的でしかありえない︒つまり︑それはまだ詳述されていないなんらか 0 0 0 のである︒オブジェクト間の因果関係は直接的ではありえないので︑それはあき たちが抱える問題とは︑非関係的オブジェクトがなんとかして関係するというも 用するのかという問いがただちに生じることになる︒より簡潔にいえば︑わたし あ る い は 因 果 的 関 係 を 超 え 出 て い る な ら ば・・・︑ そ れ ら が い か に し て 相 互 作 として導入された概念である︒もしオブジェクトが他のオブジェクトとの知覚的 因果である︒これは︑ながいあいだ評判を落としてきた機会原因の考えの修正版 0 問題を解決しようと試みている︒彼はそれを︑ ﹁代替因果﹂ ︵ vicarious causation ︶ の理論と呼ぶ︒﹁オブジェクト指向哲学にとってもっとも中心的な論点は︑代替 ハーマンは︑いわば神なしの機会原因によって︑オブジェクトの相互作用という (23) (22) 42 の媒介によって生じるしかありえないのである﹂︵ Graham Harman, Guerilla Meta- ︶ Ibid., p.215 ︶ ︒ physics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open Court, 2005, p.91 退隠し直接的に触れあうことのないオブジェクトどうしは︑代替因果によって間 接的に触れあうのであり︑ いわばたがいに﹁触れることなく触れる﹂ ︵ のである︒このとき感覚的なものが媒介として機能し︑﹁魅惑﹂ ︵ allure ︶が重要 なはたらきをすることになる︒ハーマンは︑ ﹁代替因果はつねに魅惑の一形式で ある﹂︵ Ibid., p.230 ︶と述べている︒魅惑については︑テーゼ を参照︒ ラ イ プ ニ ッ ツ の﹁ 不 可 識 別 者 同 一 の 原 理 ﹂ ︵ principe d identité des indiscernables ︶ を指している︒ライプニッツによれば︑この世界にはまったくおなじ性質をもっ 63. たものは存在せず︑あらゆるものはなんらかの性質によって異なっている︒ ﹃形 而上学序説﹄第九節において︑つぎのように述べられる︒ ﹁ふたつの実体がどこ からどこまで類似しながら﹃数的にのみ﹄異なることなどはありえない﹂ ︵G・W・ ライプニッツ﹃形而上学序説﹄橋本由美子ほか訳︑平凡社︑二〇一三年︑二五頁︶︒ また ︑ ﹁クラーク宛第四書簡﹂ではつぎのように述べられる︒ ﹁識別できない二つ の個物はありません︑私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて︑ヘレンハウゼン の庭の中︑選挙侯夫人の御前で私と話していたことがありますが︑その時彼は全 訳 43 (24) く同じ二つの葉を見付けられると思っていました︒選挙侯夫人はそんなことはで きないとおっしゃいました︒そこで彼は長い間駆けずり回って探したのですが 無 駄 で し た︒ 顕 微 鏡 で 見 ら れ れ ば 二 つ の 水 滴 と か 乳 滴 も 識 別 さ れ う る で し ょ う ﹂ ︵﹃ライプニッツ著作集九﹄西谷裕作ほか訳︑工作舎︑一九八九年︑三〇一頁︶ ︒ 二重性 没頭 発出 感覚的性質 時間 感覚的オブジェクト 隣接 実在的性質 本質 実在的オブジェクト 退隠 形相 空間 縮約 緊張関係 放射 接合 Graham Har- Winchester: Zero Books, 2011, ︶ ︒ p.78 man, The Quadruple Object, と に 作 成 し た︵ に収録されているものをも 緊張関係︑放射︑接合にかんして︑ つぎの図を参照︒この図は︑﹃四方オブジェクト﹄ (25) 44 ﹁志向性﹂︵ Intentionalität ︶とは︑もともと中世スコラ哲学の概念であるが︑ブレ ンターノ︵ Franz Brentano 一八三八︲一九一七︶がそれを主著﹃経験的立場から の心理学﹄のなかで︑物的現象から区別された心的現象の特徴として導入した︒ フッサールはこの概念を引き継ぎ︑志向性の解明を現象学の主要な問題とした︒ フッサールは志向性について︑つぎのように述べている︒ ﹁意識体験を私たちが コ ギ ト コ ギ タ ー ト ゥ ム 志向的とも呼ぶ時︑この志向性という言葉は︑何かについての意識であること︑ すなわち思うこととしてその思われたものを自らのうちに伴っていること︑ほか ならぬまさにこのことを意味している﹂ ︵エドムント・フッサール﹃デカルト的 省察﹄浜渦辰二訳︑岩波書店︑二〇〇一年︑六九頁︶︒ オブジェクト ハーマンは︑﹁志向性﹂という表現を採用しない理由について︑つぎのように述 オブジェクト べている︒﹁わたしはこのオブジェクトを︑ふたつの理由から︑志向的 対 象 で は な く﹃ 感 覚 的 オ ブ ジ ェ ク ト ﹄ と 呼 ぶ こ と に し た い︒ 第 一 に︑ ﹃志向的 対 象 ﹄ という表現は無味乾燥で専門的であり︑議論のさい必要に応じて何度ももちいら れると不快だからだ︒さらに︑もっと重要なこととして︑ ﹃志向的﹄という語が あいまいに使われるからである︒おおくの哲学者たちはこの語を︑心的領野の外 部に置かれたオブジェクトに言及するためにもちいる︒彼らが﹃志向的﹄という 訳 45 (26) (27) 語によって意味しているのは︑わたしたちの思考が外部の離れたオブジェクトを オブジェクト ﹃指示する﹄ということだ︒ところがこれは︑ブレンターノやフッサールが志向 Graham Harman, The Road to 性 に つ い て 語 っ た さ い に 意 味 し て い た こ と で は な い︒ ﹃志向的 対 象 ﹄という表 現は︑このようにしばしば混乱をまねくのである﹂︵ ︶ ︒ Objects, in continent 1.3, 2011, p.173 ︵一八六六︲一九三八︶ ︒ポーランドの哲学者︒ウィーン大 Kazimierz Twardowski 率直に向かっているという︑より一般的なあり方を表現しているのである︒ ︶もちいる︒つまり︑ハーマンにおいて真摯さは︑実在的 Open Court, 2005, p.135 オブジェクトとしての観察者︵人間に限定されない︶が︑感覚的オブジェクトに Harman, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: る︒これに対してハーマンは︑この語を﹁謎めいた道徳的含意なしに﹂︵ Graham ナスにおいて真摯さは︑他人に率直に向きあうという倫理的な事態を表現してい レヴィナス﹃存在の彼方へ﹄合田正人訳︑ 講談社︑ 一九九九年︑ 一四四頁︶ ︒レヴィ ﹁近さならびに真摯さをつうじて︑ この私は自己を他人にさらす﹂ ︵エマニュエル・ ﹁ 真 摯 さ ﹂︵ sincérité ︶ は︑ も と も と レ ヴ ィ ナ ス︵ Emmanuel Lévinas 一九〇六︲ 一九九五︶の用語である︒レヴィナスは真摯さについて︑つぎのように述べる︒ (28) (29) 46 学にてブレンターノに師事し︑その後︑ルヴフ大学哲学教授となった︒ポーラン ドの哲学業界において影響力をもち︑ポーランド学派を形成した︒﹃表象の内容 と対象﹄︵一八九四︶において︑ブレンターノの﹁志向性﹂概念にもとづいて心 的現象の分析をおこない︑ ︿心的作用/内容/対象﹀という区別を導入した︒ ︵一八五九︲一九三八︶ ︒オーストリア出身の哲学者︒現象学を Edmund Husserl 確 立︒ ウ ィ ー ン 大 学 に て ブ レ ン タ ー ノ に 師 事 し︑ ハ レ 大 学︑ ゲ ッ テ ィ ン ゲ ン 大 学︑フライブルク大学で教鞭をとった︒ゲッティンゲン時代の大著﹃イデーン﹄ において︑意識にあらわれる事象そのものを記述する方法として︑ ﹁現象学的還 元﹂︵ phänomenologische Reduktion ︶を提示した︒フッサールによれば︑わたした ちは日常的に︑意識の外側に事物や世界が存在するということを素朴に信じてい る︵﹁自然的態度﹂︶︒こうした態度による定立のはたらきを遮断し︑事物や世界 の存在を﹁括弧に入れる﹂手続きが︑ 現象学的還元と呼ばれる︒この手続きの結果︑ ﹁超越論的意識﹂の領域が残ることになる︒ 感 覚 的 性 質 は︑ 感 覚 与 件 に ひ と し い︒ ハ ー マ ン に よ れ ば︑ 経 験 の 領 域 に は む き 出しの感覚与件は存在せず︑かならずそこには感覚的オブジェクトが存在する︒ ハ ー マ ン は つ ぎ の よ う に 述 べ る︒ ﹁ ど ん な に 細 か く 見 て も︑ そ こ に は﹃ む き 出 訳 47 (30) (31) 0 0 0 0 0 0 しの感覚与件﹄は存在しない︒オブジェクトだけが存在する﹂ ︵ Graham Harman, Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open ︶︒ Court, 2005, p.157 ﹁間隙﹂の意味もある︒実在的オブジェクトとし spaceには﹁空間﹂のほかに︑ てのわたしと実在的オブジェクトとしてのハンマーのあいだには﹁間隙﹂があり︑ ではなくなってしまうようなもの 最終的にもはや変更不可能なもの ︱ それを変更してしまうともはやそのもの ︱ を︑形相として取り出す︒ ﹁形相的還元﹂︵ Eidetische Reduktion ︶とは︑現象するものの︿なんであるか﹀を なしている﹁形相﹂を獲得する方法である︒個別的な特徴を想像のなかで変更し︑ (32) ︵一六七五︲一七二九︶ ︒イギリスの思想家︑牧師︒ニュートンの弟子︒ Samuel Clarke ﹁ボイル講義﹂で名声をなした︒一七一五年から翌一六年まで︑ニュートンの助 ある ︒ しろ両者のあいだに埋めることのできない間隙が横たわっているという事態で 両者は隔たっている︒ spaceの緊張関係によって意味されているのは︑オブジェ クトどうしが入れ物としての空間のうちで共存しているという事態ではなく︑む (33) 言を受けつつ彼の代弁者として︑ライプニッツと書簡によって論争を交わした︒ (34) 48 Graham ライプニッツはこの論争においてニュートンの絶対空間を批判し︑空間は事物の ﹁共存的秩序﹂であり︑それ自体で存在するのではないと主張した︒ ﹃四方オブジェクト﹄では︑ この関係は﹁真摯さ﹂︵ sincerity ︶と呼ばれている︵ ︶ ︒ Harman, The Quadruple Object, Winchester: Zero Books, 2011, p.128 緊張関係の撹乱について︑つぎの図を参照︒この図は︑﹃四方オブジェクト﹄に 因果作用 実在的性質 理論 シミュレーション 感覚的性質 分裂 融合 収録されているものをもとに作成した︵ Ibid., p.107 ︶︒ 訳 49 (35) (36) 実在的オブジェクト 魅惑 感覚的オブジェクト ︵一八八七︲一九六八︶ ︒フランス出身の芸術家︒第一次大戦後︑ Marcel Duchamp アメリカに活動の拠点を移し︑ニューヨーク・ダダの中心人物となる︒﹁自転車 性用 の 小 便 器 に ﹁ ﹂と署名した作品であった︒ R. Mutt ハーマンはべつの箇所で︑デュシャンについてつぎのように述べている︒ ﹁二〇 ンダン展に出品して展示が拒否された﹁泉﹂ ︵一九一七年︶が有名︒これは︑男 ディ・メイド﹂の手法をもちいるようになる︒とくに︑ニューヨーク・アンデパ の車輪﹂︵一九一三年︶発表頃から︑量産された実用品を選択して展示する﹁レ (37) Harman, Towards a Non-Relational Los Angeles: Or How to Free Kwinter from White- 学は非関係的な理論と実践としてのみ繁栄することができると考える﹂︵ Graham に関係的な理論が深く尊重されたのである︒ ・・・わたしは︑建築もふくめ︑美 点 に 位 置 づ け た︒ い ず れ に せ よ︑ ︹ 二 〇 世 紀 に お い て は ︺︿ 観 察 者 の 世 紀 ﹀ 以 上 書 で あ っ た と 主 張 し た︒ ま た︑ さ ま ざ ま な 建 築 理 論 が︑ 文 脈 と 関 係 を 規 律 の 頂 ピアの戯曲にかんして︑それはエリザベス朝時代の裁判官の判決と同様の記録文 作品として取り扱う︑美術館という文脈を利用した︒新歴史主義は︑シェイクス た︒デュシャンは︑ボトルラックや自転車の車輪といったありふれたものを芸術 世 紀 に は︑ 美 学 を 完 全 に 関 係 的 な 用 語 に よ っ て と ら え る い く つ も の 学 説 が あ っ (38) 50 ︶ ︒おそらくハー head, http://www.offramp-la.com/towards-non-relational-los-angeles/ マンは︑デュシャンの﹁自転車の車輪﹂が芸術作品に値しないのは︑美が欠如し ているからではなく︑それが関係性によって成り立っているからであると考えて いるように思われる︒ ハイデガーは﹁闘争﹂︵ ︶について︑つぎのように述べている︒ ﹁世界と大 Streit 地の相互対立は闘争である﹂ ︵マルティン・ハイデガー﹃芸術作品の根源﹄関口 浩訳︑平凡社︑二〇〇八年︑七四頁︶ ︒ ﹁作品が一つの世界を開けて立て︑大地を こちらへと立てるからには︑作品とはこの闘争を惹起するものである︒しかし︑ このことが生起するのは︑作品が闘争を退屈な一致のうちに沈静化し︑同時に調 停することによってではなく︑闘争が闘争であり続けることによる︒なんらかの 世界を開けて立て︑そして大地をこちらへと立てつつ︑作品はこの闘争を遂行す る︒作品の作品存在は︑世界と大地との間の闘争を闘わせることにある﹂︵同書︑ 七五頁︶︒ここでハイデガーは︑芸術作品を成り立たせているものとして︑世界 と大地の闘争について論じている︒ 訳 51 (39) Graham Harman, Seventy-Six Theses on Object-Oriented Philosophy, in Bells and 訳者あとがき 本稿は︑ の全訳である︒ Whistles: More Speculative Realism, Winchester: Zero Books, 2013, pp.60-70 著者グレアム・ハーマンは︑オブジェクト指向哲学という独自の形而上学を展開し︑ 思弁的実在論と呼ばれる哲学的運動を牽引してきた︑アメリカ合衆国出身の哲学者であ る︒ハーマンは︑一九六八年にアイオワ州アイオワシティで生まれ︑一九九〇年にセン ト・ジョンズ・カレッジで学士号を取得した︒その後︑アルフォンソ・リンギスの指導 のもと︑一九九一年にペンシルベニア州立大学で修士号を取得︒一九九八年にデポール 大学にて博士号を取得した︒エジプトのカイロ・アメリカン大学教授を経て︑現在︑南 カルフォルニア建築大学の特別教授に就任している︒ ハーマンは多作な哲学者であり︑単著だけですでに一〇冊以上を出版している︒また︑ 論文やインタビューは︑ネット上で読めるものだけで九〇本以上にもおよぶ︒それらの うち︑とくに重要なものは︑﹁ハーマン主要著作一覧﹂として﹁訳者あとがき﹂の最後 にまとめた ︒ 52 ハーマン独自の形而上学的体系であるオブジェクト指向哲学は︑個体的事物の実在論 である︒ハーマンによれば︑宇宙はさまざまな個体︑つまりオブジェクトで満ちている︒ アクセス それらは︑なににも還元されない強固な自律的実在性を保持している︒それゆえ︑オブ を参照︶︒こうしたオブジェクトで満ちた宇宙は断片化していて︑いたる ジェクトそのものは外部のいかなる接近からも逃れ去り︑みずからの核へと退隠してし ま う︵ 訳 註 ところに断層線が走っているのだ︒だが他方で︑けっして直接的に触れあうことのない オブジェクトどうしは︑それでもその表面をとおして︑ 代替的に関係しあう︒それによっ て宇宙に振動が生じ︑あらたな変化がもたらされるのである︒ オブジェクト指向哲学は︑いわば︿有限性テーゼ﹀と︿脱人間中心主義テーゼ﹀の二 大テーゼを主軸にして成り立っているのだといえる︒オブジェクトは退隠するので︑わ たしはけっしてそれへと近づくことができない︒これが︿有限性テーゼ﹀である︒この アクセス 有限性は︑思考する人間だけの特徴ではない︒それは︑あらゆるオブジェクトに共通す る特徴である︒つまり︑あらゆるオブジェクトが︑他のオブジェクトへの直接的な接近 に失敗するのだ︒これが︿脱人間中心主義テーゼ﹀である︒以上の︿有限性テーゼ﹀と︿脱 人間中心主義テーゼ﹀にかんして︑ハーマン自身はそれぞれ︑ハイデガー的側面とホワ イトヘッド的側面として︑つぎのように語っている︒ 訳者あとがき 53 (17) わたし自身のオブジェクト指向の立場は︑ハイデガー的であると同時にホワイト ヘッド的であると呼ばれうる︑建設的で体系的な哲学への最初の試みである︒あら ゆる現前からのオブジェクトの退隠は︑わたしのモデルのハイデガー的側面であり︑ 他方で︿人間︲世界﹀という独占的関係の徹底的な解体はホワイトヘッド的側面で ある︒ハイデガーによって駆り立てられた︵デリダのような︶哲学者は一般に︑現 前の欠如についてはおおくのことを語るが︑感覚をもった観察者がいないところで 生じる無生物的関係についてはなにも語らない︒また︑ホワイトヘッドによって駆 り立てられた︵ラトゥールのような︶哲学者は︑関係についておおくのことを語る Graham Harman, Response to Shaviro, in Levi Bryant, Nick Srnicek and Graham Har- が︑あらゆる現前から覆い隠された実在に対しては一般にアレルギー反応を示す︒ ︵ man eds., The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism, Melbourne: re.press, ︶ 2011, p.293 カント以来の正統派哲学は︑事物相互の関係の背後に︑それについて思考する人間を 措定し︑人間の思考を特権化してきた︒これに対してハーマンは︑あらゆるオブジェク トを平等に扱う︒オブジェクト指向哲学においては︑人間も︑シマウマも︑ハンマーも︑ 54 みなひとしく自律的なオブジェクトとなる︒事物は︑人間が思考していようがしていま いがかかわりなく存在し︑感覚的なものを媒介にして︑それらだけでたがいに作用しあ うのだ︒こうして人間は︑もはや哲学における特権的な地位を失うのである︒ さて︑本稿﹁オブジェクト指向哲学の七六テーゼ﹂は︑冒頭でハーマン自身が述べて いるとおり︑当初︑﹁ドクメンタ ﹂芸術祭のカタログに寄稿される予定のものであった︒ から ま で は﹁ 四 つ の 緊 張 関 係 に つ い て ﹂ ︑テーゼ から までは﹁三つの放射に までは﹁三つの接合について﹂ ︑テーゼ から までは﹁四つ から までは﹁芸術作品について﹂論じられて 65. いる︵見出しは訳者が付したものであり︑ 原文にはもともと付いていない︶ ︒カテゴリー の緊張関係の撹乱について﹂︑テーゼ ついて﹂︑テーゼ から 48. 54. ゼ ている︒全体的な構成としては︑テーゼ から までが﹁オブジェクトについて﹂ ︑テー グ用に準備されたものなので︑本稿の終盤部では芸術にかんする貴重な考察が展開され ン﹂に︑﹁真摯さ﹂が﹁没頭﹂に置き換えられている︶ ︒また︑もともと芸術祭のカタロ ゴリーについての簡潔な要約となっている︵ただし︑﹁突き合わせ﹂が﹁シミュレーショ 結果的に未完となったが︑本稿は︑ ﹃四方オブジェクト﹄にて展開された一〇個のカテ (13) にかんする議論は込み入っているので︑訳註 と に付した図をぜひ参考にしていただ きたい︒ 訳者あとがき 55 44. 15. 76. 53. 43. 1. 66. 49. 16. (25) (36) 今回︑本訳稿をウェブ上にて公開する件にかんして著者に連絡したところ︑とても迅 速に対応していただき︑快諾を得ることができた︒また訳出にあたり︑竹中真也氏︵中 央大学文学部兼任講師︑専門 イギリス経験論︑とくにバークリ︶︑清水友輔氏︵中央 = 大学大学院哲学専攻博士後期課程︑専門 ホ ︑高野浩之氏︵同上︑専門 = ワイトヘッド︶ レ = ヴィナス︶に日本語や内容にかんして︑たいへん貴重な助言をいただいた︒しかし︑ 最終的な訳出の判断は︑訳者によるものである︒ 今 後 さ ら に 訳 文 を 磨 き︑ 詳 細 な 解 説 を 付 し て バ ー ジ ョ ン ア ッ プ す る こ と を 予 定 し て い る︒読者諸賢のご批判をお願いするしだいである︒なお︑ハーマンのオブジェクト指向 グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学におけ 哲学︑とくに﹁魅惑﹂の概念にかんして︑近く刊行される予定のつぎの拙論を参照して いただけた ら 幸 い で あ る ︒ ︱ 飯盛元章﹁断絶の形而上学 る﹃断絶﹄と﹃魅惑﹄の概念について﹂ ︑ ﹃中央大学大学院研究年報﹄第四六号︑文 学研究科篇︑二〇一六年所収︵二〇一七年二月頃刊行予定︶ ︒ 56 ハーマン主要著作一覧 Tool-Being: Heidegger and the Metaphysics of Objects, Chicago: Open Court Publishing, ︹ハイデガーの道具分析を独自に解釈することによって︑オブジェクト指向 2002 哲学の構築へと向かう︑ハーマンの処女作︺ . Guerilla Metaphysics: Phenomenology and the Carpentry of Things, Chicago: Open Court, ︹フッサール︑ハイデガー︑メルロ ポ 2005 = ンティ︑レヴィナス︑リンギスなど の解釈をつうじて︑代替因果と魅惑の理論へと発展していく︺ . ︹ ﹁代替因果について﹂岡本 On Vicarious Causation, in Collapse II, 2007, pp. 171-205 源太訳︑﹃現代思想﹄二〇一四年一月号所収︒ハーマンが自身の考えを説明する さいに︑よく参照する重要な論文︺ . Prince of Networks: Bruno Latour and Metaphysics, Melbourne: re.press, 2009. Towards Speculative Realism: Essays and Lectures, Winchester: Zero Books, 2010. ︹メイヤスーの勧めでフランスに The Quadruple Object, Winchester: Zero Books, 2011 て出版したものの英語版︒ハーマン自身の哲学体系が︑コンパクトかつ明快に示 訳者あとがき 57 され て い る ︺ . Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making, Edinburgh: Edinburgh University Press, ︹二〇一五年に増補版が︑ ﹁思弁的実在論﹂シリーズのひとつとしてエディ 2011 ンバラ大学出版局から出版されている︺ . ︹﹃四方オブジェクト﹄で提示さ The Road to Objects, continent 1.3, 2011, pp.171-79 れた四つの緊張関係にかんして簡潔に説明︺ . Bells and Whistles: More Speculative Realism, Winchester: Zero Books, 2013. 二〇一 六 年 秋 飯盛元章 58 オブジェクト指向哲学の 76 テーゼ G・ハーマン著 2016 年 11 月 11 日 バージョン 1.0 2016 年 11 月 16 日 バージョン 1.1 訳 者 飯盛元章 中央大学大学院哲学専攻博士後期課程 連絡先 [email protected] © Motoaki Iimori 2016
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