館林市教育委員会 11/5(土)・6(日)特別公開 国登録有形文化財「旧館林二業見番組合事務所」 「旧館林二業見番組合事務所」は、昭和13(1938)年に建て られた群馬県内有数の近代和風建築で、戦前の華やかな時代 を今に伝える建物です。所在する「本町(ほんちょう)」は、かつて の館林藩城下町にあって武家地と町人地の接点に位置します。 近代以降は、市街地の中でも最も華やかな一帯で、様々な商 店や飲食店が立ち並んだ地域です。「旧二業見番組合事務所」 は、その建築の経緯等から考えて、館林の近代化の一面を現代 に伝える貴重な歴史的資源である点が評価され、平成28(201 6)年2月に、「国登録有形文化財」に登録されました。 「花街」の風情を伝える正面外観 1.建築年代 「旧館林二業見番組合事務所」の建築年代は、昭和13(1938)年です。建物内部から発見された棟札には、 「昭和13年5月13日上棟」と記載されています。「旧館林二業見番組合事務所」は、甲種料理店業と芸妓置 屋が組織した組合事務所をさし、置屋の取締り、芸妓の取次ぎ、玉代の精算などを行っていました。棟札による と、建物を造ったのは当時の二業組合長の石島専吉氏であり、彼は「旧館林二業見番組合事務所」と同じ肴町 にあった「一柳閣(いちりゅうかく)」のオーナーを務めていた人物です。建築工事(設計及び施工)を請負ったの は、株式会社小川組です。小川組は、現在の小川建設の前身で、当時は館林に出張所があったことがわかっ ており、関東でも特に群馬県東毛地区の館林、桐生、太田等で多くの建築を手がけた会社です。 2.所有 昭和13(1938)年に建てられたこの建物が、見番事務所として使用された期間はあまり長くありません。戦 時中の昭和19(1944)年に、建物は日清製粉株式会社の所有となり、戦後の一時期館林カトリック教会が借り ていたことがわかっています。その後、カトリック教会が別所に移転したため、昭和31(1956)年に所有者の正 田貞一郎氏から館林市に寄贈されました。昭和33(1958)年からは、商工会議所の事務所として使用され、 「産業会館」と呼ばれていました。昭和33(1958)年から現在まで館林市が管理し、建物は「本町二丁目東区 民会館」という名称で地元行政区に貸出され、集会やイベント活動として使用されています。昭和13(1938)年 の建築後、所有者が変わるに伴い、数度の改修を受けたものと想定されます。 3.形式・規模 ①敷地面積:380.16㎡ ②登録文化財としての建築面積:195㎡ *床面積:延床面積 390.42㎡ (1階床面積204.12㎡ ③構造形式:木造二階建瓦葺き(軒廻り一部鉄板葺き) ④屋根形式:入母屋造(西側) 寄棟造(東側) 千鳥破風(正面(=西面)2階部分) ⑤内部仕上:真壁漆喰仕上、板張り仕上 ⑥外部仕上:腰下見板張り、一部漆喰仕上 唐破風(玄関車寄せ) 2階床面積186.30㎡) 4.外観と構造 建物は、通り(西側)に面して間口ほぼいっぱいに建てられ、東西に長い構成となっています。西側正面は入 母屋屋根の二階建てとなっており、東側は寄棟屋根の二階建てです。正面には唐破風屋根の車寄せがあり、 二階の両脇には切妻屋根の千鳥破風が付いているなど、派手な意匠が見られます。建物外部は土壁に下見 板張りですが、外部に面した建具は、ガラス窓が多く使われています。左右対称の印象的な外観は、東京歌舞 伎座において建築家・岡田信一郎が試みた和風コンクリート造による桃山風の意匠に強い影響を受けていると 思われます。巧みな和洋折衷技法により優れた外観意匠を作り出しています。建物の構造は、布石敷に土台を 廻した在来の木軸組ですが、 小屋組はキングポストトラスと 称される洋小屋です。屋根は 瓦葺きであり、下地は杉皮に 土居葺きとなっています。 南面(南立面図) 正面(西立面図) 5.内部の特徴 建物のつくりは、木造の近代和風建築で、正面の唐破風や切 妻破風の意匠などは、日本の伝統建築の要素を組合わせて構 成されており、近代和風建築の特徴が現れています。玄関を入 った入口部分床面には、タイルが施され、正面は板張りの空間 (板の間)となっています。同室の南には、2間がガラス戸により 仕切られており、受付やサービス等の事務室として使用されま した。この板の間部分は、後の時代に大きく改変された形跡が あります。事務室奥は台所と応接室、さらに奥には押入れ付き の8畳間、床の間・違い棚・付け書院のある10畳間が配置され ています。二階部分は、玄関北側と東奥の和室部分に二階に 趣きのある2階の舞台 続く2つの階段が掛けられています。玄関北側の階段を上がると南側に36畳の大広間と、その東に20畳大の 板敷きの舞台があります。舞台は6.0m×5.1mの板敷きで、周囲も板壁になっており、「松」の絵が描かれて います。大広間の天井は、折上げ格天井で、瀟洒なシャンデリアが架けられています。この大広間と舞台の周囲 は、北側を除く3方に廊下が巡り、高欄付きの手摺が取付けられています。舞台東奥は、廊下を挟んで床の間 付きの10畳、床の間と違い棚のある8畳の和室が並んでいます。この2間とも、舞台関係者らの控え室として使 用されたことが推測されます。 6.館林の花街 料理屋や芸妓屋が軒を並べていた地区を「花街(はなまち)」と言い、館林では、明治後期の織物業界の発展 んに伴って、花街が興隆しました。明治38年(1905)に料理店と芸妓屋が一体となって三業組合を組織し、明 治42年(1909)に芸妓の斡旋を行う見番が竪町に設置されました。見番は芸妓組合と料理組合が合同し、二 業見番・三業見番とも呼ばれました。その後、 大正7年(1918)に谷越町青梅天神裏に移転 「国登録有形文化財」 「旧館林二業見番組合事務所」特別公開 し、昭和13年(1938)に肴町に移転しました。 見番が移転した頃の肴町は、芸妓置屋や三味 発行 線屋、髪結屋、かもじ屋など関連する店が並ん 館林市教育委員会 文化振興課 文化財係 〒374-0018 群馬県館林市城町3-1 でいました。最盛期には芸妓が150人いたと言 電話 われています。 公開日 平成28年11月5日・6日 0276-74-4111(館林市文化会館) FAX0276-74-4113 この印刷物の無断転載を禁じます
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