臨床医学連結知識データベースを用いた 問診と診断想起システムの考察

医療情報学会・人工知能学会AIM合同研究会資料 SIG-AIMED-002-08
臨床医学連結知識データベースを用いた
問診と診断想起システムの考察
Consideration of medical interview and a system for evoking diagnoses
with the use of The LiLak :Linked Clinical Knowledge Database
大江和彦 1
Kazuhiko Ohe1
1
1
東京大学大学院医学系研究科
Graduate School of Medicine, The University of Tokyo
Abstract: The Linked Clinical Knowledge Database(The LiLak)is the original medical knowledge
database that consists of clinical entities including diseases, symotoms and signs, anatomical structures,
and the relational links among them. The Lilak is introduced and a processes of medical interview and a
system for evoking diagnoses are introspectively considered from the viewpoint of developing a medical
diagnostic support system with the use of The LiLak.
はじめに
LiLak の概要
臨床医学領域の知識処理システムを実用化し診療
の場で日常的に利用できるようにすることは、医療
安全、研究支援、診療時の意思決定支援、医療評価
分析などその目的によらず現在の医療の質の向上を
もたらす上で必要不可欠なアプローチであると考え
られる。それは診療の場で行われるさまざまな意思
決定とそれにもとづく医療行為は、本質的に臨床医
学領域およびそれをとりまく広範な関連領域の知識
を戦略的に使用して行われる知的情報処理プロセス
であるが、その一方で日々その知識量が増大し内容
的に常に変化している状況において使われるべき医
学知識が必ずしも活用されない状況が発生しうるか
らである。
筆者は、さまざまな利用目的を想定し、臨床医学
において基本的かつ静的な知識として多用性がある
と考えられる知識ベースとして、疾患、症状所見、
人体構造の3つの観点から臨床医学知識における
entitity 間の意味的な関係付けをデータベース化した
臨床医学連結知識データベース(LiLak:The Linked
Clinical Knowledge Database)を構築した。本発表で
はこの臨床医学連結知識データベース(以下、LiLak
という)の概要を紹介し、その活用方法のひとつと
して問診、およびその問診情報と LiLak とを活用し
た診断想起システムの可能性と課題について考察す
る。
LiLak では疾患、症状所見、人体構造のそれぞれに
おける entitity について、その entitity の意味的な上
下関係を Tree 構造化している。この Tree 構造化で
は1entity が tree の異なる枝の配下に何度でも出現
することを認めている。分類の観点として何を採用
するか、どの順序で採用するかは tree 構造を作る上
で重要であるが、全体で一貫したルールに基づかず、
部位、形態、病因などさまざまな観点が個々の entity
ごとに、またその深さのレベルごとに筆者の恣意的
な体系が採用されている。これは臨床上便利で違和
感のない tree を構成するためである。
また LiLak では疾患に見られる症状所見を疾患
entity から症状所見 entity への 1 対 N リンク、症状
所見の見られる主要な部位を症状所見 entity から人
体部位 entity への 1 対1リンクで記述している。こ
れにより、ある疾患にどのような症状が見られるか
を前者リンクで、またその症状が体のどこに主とし
て出現するかを後者リンクで辿ることができる(図
1)。
本データベースが収載する各 entity の数は疾患
27838 疾患、3286 症状所見、1868 部位で、疾患-症状
リンクの総数は 64396 の規模となっている。
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図 1. 左上:疾患ツリーで壊死性食道炎を選択。下部:
同疾患に見られる症状一覧。同一覧より 1 行目の胸痛を選
択。中上:選択した胸痛の症状所見ツリー上の位置を表示。
右上:胸痛の部位として胸部の部位ツリー上の位置を表示。
疾患は厚労省標準の標準病名マスターの全病名を
収載している。また症状所見 entity には属性として
自他覚区分(1:自覚のみ、2:他覚のみ、3:両方)、
観測手段区分(1:問診 2:視診 3:触診 4:
機器による検査)を設定している。
なお、筆者らの研究グループでは臨床医学オント
ロジーCONAND を長年開発しているが、これは人体
構造の接続性と部分ー全体関係を記述するとともに、
人体内の異常状態の連鎖で疾患そのものを定義づけ
ようとするもので、疾患と人体構造の概念化データ
ベースといえる。従って、理想的には臨床医学オン
トロジーCONAND から LiLak を生成できるように
なるはずであるが、CONAND のカバーする疾患は約
6000 であり、疾患網羅性の点では不足している。
問診
比:疾患 D がある場合に症状 S がある確率を疾患 D
がない場合に症状 S がある確率で割った値)、同第 2
項は疾患の事前オッズ比であり、症状や陽性所見を
得た後の疾患事後オッズ比はその症状や所見の陽性
尤度比×疾患事前オッズ比となることを表しており、
複数の症状所見がお互いに独立であれば陽性尤度比
を順に掛け合わせて計算可能である。
LR+は、感度/(1−特異度)であり、分子である
感度は当該疾患において当該症状所見が見られる確
率であるから疾患診断がついた患者調査により理論
上は求めることができる。分母を構成する特異度は
当該疾患でない場合に当該症状所見が見られない確
率(あるいは見られる確率)を求めることになるが、
当該疾患でないケースにはほぼ健康である対象者と、
別の疾患を有する対象者が含まれ、これら対象者に
当該所見の有無を調査して特異度を得ることは実は
困難である。類似症状を呈して受診した患者のうち
当該疾患でなかった患者を対象にした調査結果で代
用される場合、特異度は小さめに得られ LR+は小さ
めに推算される。参考までに表1に文献 4 に掲載さ
れている急性虫垂炎の主要症状における LR+と LR(陰性尤度比)の文献的調査結果を示す。ちなみに各
所見はほどんの虫垂とその周辺の腹膜や腸間膜の炎
症によるものと考えられ、反跳痛、筋性防御、腹筋
硬直はそれらの炎症の程度と範囲の大きさにより次
第に出現するものと考えれている。一方、嘔気、嘔
吐、食欲不振などはそれらの炎症に伴って腸管運動
が停滞(麻痺)傾向となることが原因と考えられて
いる。そのため、これらの所見間は決して独立であ
るはずはなく、ある所見の存在は別の所見の存在確
率に大きな影響を与えることは明らかで、複数所見
が存在したからといってこれらの尤度比の乗算によ
って事後確率を計算するのは合理的でない。
問診過程の分析は昔から多数行われているが[1-3]、
一貫しているのは、主たる症状情報を取得した後に
複数の疾患仮説を生成し、それらの疾患を支持また
は否定する情報収集をらるべく少ない追加質問によ
り情報収集を繰り返していくことで候補となる疾患
を絞り込んでいく過程と考えられていることである。
またその過程で、複数の鑑別診断とよばれる疾患候
補リストを生成し、対比しながら可能性の高い疾患
を絞りこむことも行われる。
ある症状または陽性所見 S が存在するときに疾患
D である確率と疾患 D でない確率の比(事後オッズ
比)はベイズ定理にもとづき
_
_
_
P(D|S)/P(D|S)=P(S|D)/P(S|D)・P(D)/P(D)
表1. 急性虫垂炎における各所見の陽性尤度比
と陰性尤度比[4]
となる。この式は、右辺第 1 項は LR+(陽性尤度
08-2
問診が疾患の絞り込みよる症状情報の取得により
疾患オッズ比を上げていくプロセスと考えると、事
前疾患オッズがある程度高いものにまず絞り込むこ
とが合理的である。ところが診療では、道行く人を
ランダムに捉えて診察しているわけではないから任
意の集団における疾患の罹患頻度を疾患の事前確率
とするわけには行かない。患者が医療機関を選択し
診療を受ける段階で、すでに事前セレクションが行
われているので、医療機関の専門性、救急か一般診
療かなど医療環境要因により事前確率は大きく異な
る。また、患者の性別や年齢が判明している時点で、
その集団における事前確率が必要になる。さらに例
えば右下腹部痛を訴える女性患者において、急性虫
垂炎、大腸憩室炎、骨盤炎、回盲部周囲炎、右卵管
炎、などから鑑別診断を行う場合には、疾患がない
場合とのオッズ比ではなく、最も疑う疾患とそれ以
外の鑑別すべき疾患との間のオッズ比を検討する必
要があるが、それぞれの事前確率(正確には医療機
関要因と患者属性と取得済の診療情報を知った上で
の事後確率)を求めることは現実には不可能に近い。
そのため、問診では結局3から 5 個程度の症状所
見の LR+により疾患を絞りこんだ後に、むしろ除外
診断を行うことのほうが多いと考えられる。
LiLak では、この点を考慮して疾患−症状所見の関
連付け属性として頻度属性と特徴区分属性を設定で
きるようにしている。頻度属性はその疾患における
症状所見陽性の頻度であり感度に相当する。特徴区
分は LH+に相当するが、特徴区分0の場合には LHが0に近い場合、すなわちその症状があればこの疾
患が考えにくく除外できる可能性が高いことを示す。
てしまった場合の正しい診断の遅延は医療では日常
的に起こっており、そのためか患者は最初に総合病
院、大学病院などのさまざまな診療科を受診する傾
向がある。
また、極めて稀な外因による中毒や日本で通常観
察されない感染症の患者が事前情報なしに診療を受
ける場合、事前確率はほぼゼロの疾患であるため着
想することはほぼ絶望的で初期診断は遅れる。
つまり計算機による診断着想支援システムを開発
することを考える場合には、医師が診断するのと同
じようなベイズ定理にもとづく確率論的な診断プロ
セスではむしろ意味がなく、疾患が稀であっても疾
患に存在する症状が見られるか、事前確率に関係な
く陽性尤度比の高い複数の症状の組み合わせを有す
る疾患は何か、陰性尤度比の低い症状が見られるこ
とで除外できる疾患は何か、を基準に着想すべきな
のではないかと考えている。
今後この観点から、ありふれた疾患の症状所見だ
けでなく稀な疾患の症状所見についても LiLak デー
タベースの内容をさらに充実化する必要があり、臨
床医学オントロジーによって異常所見が説明できる
かを推論に利用する診断着想支援システムを開発し
ていきたい。
謝辞
本研究の一部は国立研究開発法人日本医療研究開発
機構(AMED)の平成 27 年度「臨床研究等 ICT 基盤
構築研究事業」の助成を受けたものです.
参考文献:
診断想起
[1] Glasziou P, Vermeir D.:Information analysis for medical
計算機による診断着想支援システムを開発するこ
とを考えるとき、医師が通常思いつかない疾患を着
想支援することが重要であり、通常思いつくような
疾患を着想できても診療上はあまり役に立たない。
たとえば右下腹部痛を訴える患者の情報から、右
下腹部の疾患を着想することは多くの医師にとって
平易である。しかし、左上腕痛を訴える患者に心筋
梗塞を疑うことは、循環器医なら十分容易であるが、
整形外科医にとっては必ずしも容易ではない。しか
し、心筋梗塞における左上腕痛の頻度や陽性尤度比
は高くなく、患者の左上腕痛の訴えを知った整形外
科医は、受診する患者における心筋梗塞の疾患事前
確率はかなり低いと考えるため、心筋梗塞の事後確
率を高いと判断してそれを含めた鑑別診断を行うこ
とは困難である。実際、比較的ありふれた疾患であ
るにもかかわらず患者が適切でない診療科を受診し
08-3
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a
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Approach
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sharing
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ThisPatientHaveAppendicitis?,JAMA
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