償いの婚約 - タテ書き小説ネット

償いの婚約
たたた、たん。
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
償いの婚約
︻Nコード︼
N5576DL
︻作者名︼
たたた、たん。
︻あらすじ︼
如月美春は、幼い頃の事故により責任を負うという形で尊氏と婚
約をしている。しかし、尊氏が愛しているのは、美しく聡明な美春
の姉だった。事故の高熱によって自分が悪役令嬢であり未来には破
滅が待っていると知りつつも美春は婚約破棄することが出来ずにい
たが、今、やっと美春は決心したのだ。☆霜月朔夜様にストーリー
制作を手伝っていただきました。感謝感激雨嵐。何が何でもハピエ
ン完結をしてみせる︵∩´∀`︶∩★作者に文才はございません。
1
﹁あ、だっぶーん﹂と呟きながら投稿しちゃう大馬鹿者です。魔法
の言葉﹁覚醒せよ!眠りし広い心﹂と唱えてから読むことをオスス
メします。☆☆ジャンルが移りました
2
一話
はづき
﹃可哀想な葉月様。未だに罪を着せられ婚約を強要させられている。
葉月様には想い人がいらっしゃるのに﹄
今日も誰かが言ったこの言葉が耳に残る。それでも、愛しい人
たかうじ
が隣にいるから聞こえなかったように無邪気に笑った。それを、仮
面を張り付けたように笑って受け入れる尊氏様と同情的に見ている
周りの人々。
うるさい。
馬鹿
違うでしょ、うるさいぐらいに眼と態
うらさいんだよ、お前ら全員。
何も口に出していない?
度が語ってる。
私が間違っていると。
みはる
鈍感で醜い美春は愚かにもそんなことに気付いていない?
じゃないの。こんなあからさまに気付かないわけなじゃん。
3
きさらぎみはる
はづきたかうじ
私、如月美春と葉月尊氏様は婚約者同士だ。政略結婚でも恋愛結
婚でもない。これは、私の両親が尊氏様に与えた罪の罰。愛の欠片
もない償いの婚約。
尊氏様は私の姉に恋をしている。私の姉は四つ上だから尊氏様に
とっては二つ歳上のお姉さん的存在だったはずだが、姉は美しく聡
明な人であった。美しいことだけが取り柄の母と、優秀ではないが
ズル賢さだけが取り柄の父との間に出来た考えられないほどの最高
傑作。それが姉で、私は所謂あの夫婦の子供だと納得出来るような
レベルの子で。
姉と尊氏様は家柄と年が近いこともあり、小さい頃から遊び相手
として共にいた。姉は幼いながらに頑張って背伸びしている少年を
いとおしく想い、尊氏様は何をしても完璧で、妖精のように美しい
姉に淡い恋心を抱いていた。ここで、二人の世界は繊細なパズルの
ように出来上がっていて、それが全てだった。
それををぐちゃぐちゃに荒らし回ったのが私という存在で。二人
の寸分狂いのない美しい世界に、私という一つのピースが加わった
のだ。
私を入れるため、一回崩したパズルは再び戻そうとしても、ピー
スが一つ多いから絶対に完成されることはない。私は本当に、あの
二人の世界を崩したデストロイヤーでお邪魔虫で空気の読めない少
女だった。
4
それでも、私はあの頃から尊氏様を愛していた。理由なんてない。
生まれてきてすぐに目にしたあの人は、他の誰よりも輝いていた。
幼子の私でもすぐにこの人が特別な人だと気付けるほどに。
人見知りでも引っ込み思案でもなかった私の行動は決まっている。
一目惚れをしたその日から私は尊氏様の後を追っかけ回したのだ。
私にとって、無邪気な我が儘で愛しい人と共にいたくて行った行動
は、尊氏様にとっては迷惑でしかない。
私のせいで姉と尊氏様の二人きりの時間は消滅し、私の我が儘を、
叶えるだけの時間に変わったから。
その頃、私は幸せだった。例え、迷惑そうに、嫌そうな顔をされ
ても子供ならではの鈍感さで気付かなかったし、単純に愛しい人と
共にいれるのが単純に嬉しかった。
だが、そんな日々も、ある事件で終わりを告げることとなる。
その日は、太陽かがジリジリと照りつける夏の日のことだった。
私は何時ものように、尊氏様の都合を考えず、後を追っかけまわし
ていて。何回怒られても反省せずに、自分の勝手だと思っていたの
だ。そんな、私に尊氏様の堪忍袋の緒が切れた。
少し、痛い目にあわせてやろうと思ったのだろう。
5
尊氏様は結果的に、屋敷の裏山で私置き去りにしたのだ。別に、
ついてこい、なんて言われてないし、反対に絶対についてくるなと
言われていたので、殆ど私が悪い。
私は、木々の生い茂る光の届かない暗闇に十時間近く取り残され
た。尊氏様もまさかここまで大事になると思ってはいなかったよう
で必死に私を探したそうなのだが、生憎私は道に迷い、獣道をうや
むやに歩き回っていたから正規のルートにはいるはずもなく。
気が付けば、大騒ぎで。屋敷では捜索隊が組まれていたらしい。
私は只ひたすらに泣いた。最初は怖くて怖くて堪らなくて、途中
からどうしてこんなことになったのかを考えて、最後に尊氏様に鬱
陶しく思われていたことに気が付いて。
それでも、愚かな私は自分が悪いとは全く思わず、嫌いになれな
い尊氏様を恨みがましく思う。
歩き回った足が痛みを覚え、その場所に留まってどれほどの時間
がたったのだろうか。日が沈む頃、遠くから尊氏様の声が聞こえた。
その声は、必死で、泣きそうで、途方に暮れた声で、私はそれに
必死に答えた。炎天下で、渇いて干からびた喉を必死に震わせて叫
んだSOSは幸いなことに。いや、今となっては不幸なことに尊氏
様に聞こえてしまった。
6
途端に近づいてくる足音と、それが震わす草木の音は私に安心と
喜びをもたらした。
これで帰れる!!
誰でもない尊氏様が迎えに来てくれた!!
そして、尊氏様の姿が見えたときそれは爆発して。
﹁尊氏様!!﹂
﹁美春!?ま、待て!!﹂
何故、尊氏様が静止を促したなんて気にもせず、一目散に愛しい
人のところへ走ろうとした。
﹁あっ﹂
﹁美春!﹂
私はその時、気がついていなかった。尊氏様と私の間に大きな谷
があることに。その谷が急斜面で危ないことを私は知らなかった。
7
間の抜けた声と共に斜面を転がり降りた私は激痛で意識を失う。
覚えているのは尊氏様の私を呼ぶ声と傾いた私の視界のみだった。
目が覚めたのは、それから二日後のこと。怪我からくる熱と精神
的ショックから来たものだと思われる。
不自然に狭い視界のなかで初めて行った行動は、自分の顔を触る
ことで。半ば、確信しながら触ったそれはやはり、硬い何かに覆わ
れていた。呆然としていた時間もほんの少しで、飛び込んできた侍
女によって私が目覚めたことが屋敷中に広められる。
その時、私は静かに達観していた。
私は、当時の自分の状況とこれからの未来を知っていた。何故な
ら、高熱のなか見た夢は私の前世を映したもので、普通なら信じら
れないそれも何故か、心のなかにかっちりとはまり、当然のごとく
受け入れられたからだ。前世の私は、姉が主役の少女マンガにドは
まりしていて、それがこの世界と殆ど全て同じなのだ。
8
そのなかで、私は姉の恋路⋮⋮姉と尊氏様の恋を邪魔する悪役令
嬢。彼女は尊氏様と婚約をする事件で顔に大きな傷を負いいつも仮
面をつけている我が儘で傲慢な女だ。尊氏様が嫌がる素振りを見せ
ると自分の顔をたてに愛を強要し、好き勝手に振る舞う。
物語の中で、聡明過ぎる私の姉はどんどん意地悪な両親に嫌われ冷
遇されることとなる。それでも姉は懸命に誠実に生き、遂に如月家
の隠蔽された犯罪の数々を見つけだし、自分の立場が危うくなるの
も構わずそれを明るみに出そうと尊氏様に相談するのだ。その時、
尊氏様はその件が終わったら結婚しようと約束を交わす。
だが、尊氏様以外は馬鹿で周りを見ない愚かな私は、尊氏様の様
子が変わっていることにはすぐに気づき、その計画を知ってしまう
のだ。
私は、その計画を恐れた。我が儘に育ち特別だった自分が市街の
一般市民に落ちることが屈辱で許せず、何よりそうなれば愛しい尊
氏様との婚約もなくなるだろう。その計画の成功は妹にとっての破
滅、バッドエンドと同義だったのだ。
私はそれから、計画の妨害を開始した。両親に伝えるのも手だっ
たが、私は惨めな思いをさせられてきた大きな原因の一つである姉
に自分の手で復讐するため、一人で動くこととなり。一見、私の出
る足もないと思われたが汚いお金の繋がりは強く、姉と尊氏様を随
分と苦しめることとなるのだ。
そして、物語の終わりは決まっている。姉と尊氏様の勝利でハッ
ピーエンド。妹は同盟関係の相手に捕まり奴隷のような扱いを受け
るというバッドエンド。
9
なんてこった、これから私を待ち受けるのはバッドエンドじゃない
か。
これからの運命を悟った私はショックに打ちひしがれ、それなら
最初から尊氏様と婚約をしなければいいのだと思い付いた。
それでも、無理だった。父に尊氏様に責任を取らせるという言葉を
聞かされて、私の口は確かに﹁それは、結構です﹂と動かそうとし
た。それでも、声が出なかった。自ら愛する人と結婚するチャンス
を棒に降る行為など出来るはずもない。差し詰め、将来は腹のでた
ハゲ親父に奴隷にされる私は、この時で既に恋の奴隷だったのだ。
理性が本能を操作出来ない。まさに、暴走状態。
言えなかった言葉を最初こそは後悔したが、尊氏様の窶れた、思
い詰めた顔を見たらそんな事どっかに吹き飛んだ。この愛しい人が
手に入るならどうだっていい。そう思ってしまったのだ。
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まあ、それも時が経つにつれ変わっていくのだが。
その事件の後、私はずっと仮面を着けて過ごすことになる。これ
の効果は絶大だった。周りは、自業自得だと嘲笑ったが、尊氏様は
私の仮面を見るたびに、拒絶をやめて苦しそうな顔で我が儘を叶え
てくれる。
いつしか私の本当の顔は忘れ去られ、仮面の下には見るのも悍ま
しいほどに醜い顔があるのだ、と恐れられるようになる。
端的に言おう。それは、違う。
私の生まれてから持つ唯一の自慢は美しさだった。それだけは姉
をも勝る絶対的美。小さい頃は天使のようだと。何より薄い菖蒲色
の瞳は神秘的で、銀色の艶やかな髪はまるで生糸の如く美しいと頬
を染めて褒められた。
それが、どうだ。
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この顔を覆う仮面をしてから、人はこの菖蒲色の瞳を気味が悪い
と嫌がり、銀色の髪はまるで老婆のようだと馬鹿にした。
そんな私だからこそ、両親にとって私の価値はその美しさのみだ
った。頭も良くはなく、不器用な私の唯一の利点が容姿が素晴らし
いこと。両親はそれを政略結婚の道具に使おうとしていたのだ。そ
れが、あの事件で傷つけられ、私の唯一の価値がなくなったに等し
くなった。
それは、私の両親にとって最悪の事態であったが、一つだけラッ
キーなことがあった。それは、傷つけた相手が家柄で言えば等しい、
だが実力で言えば圧倒的に上位な相手の一人息子だということで。
これ、幸いと両親は尊氏様に﹁美春の唯一の価値を貴方が奪った、
これではこの子は誰とも結婚できないだろう﹂と責任を取らせたの
だ。
よもや、価値のなくなった次女が、良い金蔓を引っ掻けたと大層
嬉しがったことだろう。
控え目に言って下衆、大袈裟に言ったらクズだ。
そんな両親は、短絡的な人間だからだろう。根本的に勘違いをして
いる。
実際の顔の傷は大したことがなく、酷く大きかったのは左足の傷
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だけだ。右目の下にできた一筋の傷は浅く塗り薬を塗れば跡形もな
く消える。
それを両親は早合点していたのだ。確かに血はたくさん出てきい
たし、第一発見者の尊氏様も治らない傷だとお思いにはなるだろう。
今、現在顔の傷はすっかり治り私の顔は世間一般的には美しい顔
をしている。それでも、誤解を解かずに仮面を付け続けている理由
なんて分かりきったことだ。恋の奴隷になってからは、元々頭のよ
くない私はどんどん愚かになっていて。
私は尊氏様と共にいるためだけにこの不名誉な仮面を受け入れたの
だ。
それでも、人は成長していくもの。
私は、愛する人が愛する人と共に幸せになることが、私の幸せに
繋がることを学んだ。
初めは、共にいられることだけで満足で。次第に尊氏様が私に本
当の笑顔を見せないことが不満になって。それなのに姉にだけは惜
しみ無く見せるのが憎らしくて。
そして、愛する尊氏様の幸せを奪っている事実が苦しくなった。
あんなに喜ばしかった愛のない婚約は、鎖となって私の良心に絡み
付く。
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決心したのは、なんのこともない平凡な一日だった。強いて言う
なら、屋敷の庭で姉と尊氏様が笑いあいながら戯れていたのを昼間
見てしまった事くらい。
その日私は、尊氏様を解放することを決めた。愛の奴隷のさらに
奴隷、なんと滑稽で憐れではないか。
それは、尊氏様のためであって私の為でもあった。
幸いなことにも、この頃には聡明な姉が如月家の汚職に気づき内
密に捜査を開始していた。私はただそれを利用すれば良かったのだ。
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一話︵後書き︶
ストーリーの協力を頂いております。
16
二話
姉と尊氏様の如月家汚職告発事件は、あの漫画のストーリー通り私
が19歳になった日の2か月後に実行される。
チート
私はその作戦を内密にサポートすることが出来た。何せ、私には漫
画知識があるのだ。あの漫画の中の愚かな妹と違い、利口に事に及
べる。
といっても、そんな大掛かりなことはやってはいない。都合よく機
密文書を見つかりそうな位置に置いたり、計画の矛盾点をさりげな
く潰したり、アリバイ作りに協力したり。
そして、喜ばしいことに、そのいずれの手助けも尊氏様に気付かれ
る事はなかった。私の普段の行いからいつもの我が儘が自分達に都
合よくまわったとでも思っているのだろう。
不本意でないと言えば嘘になるが、別にいいのだ。私は絶対に尊氏
様の前で健気な良い子になってはいけない。私は常に、嫌な女じゃ
なきゃいけないのだから。あの人は私がこの計画の手助けをしてる
と知れば、婚約破棄することを躊躇するかもしれない。全てをなく
す覚悟で尊氏様のために動くが絶対に愛されることのない私への同
情のせいで。今更そんなの困る。
ここまで来たら、何がなんでも幸せになってもらわなくては。私の
我が儘に付き合わせた9年分、私は尊氏様に恩返しをしなくてはな
らない。
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その計画の実行日まで、私は普段通りに振る舞った。いつも通り、
顔をコンプレックスにして根暗そうに。そのくせ、尊氏様の前では
人見知りで不遜な態度などなかったように甘えて。尊氏様の仕事の
都合なんて何にも考えないふりをしてデートに誘い、プレゼントを
ねだった。
誕生日には、ネックレスを。私からのリクエストだった。
シルバーの薔薇を象ったブランド品で、それは私がいつもねだった
プレゼントより大分地味なものだ。尊氏様も不審そうに再度これで
いいのか、と聞いてきたが﹁最近見た恋愛小説で主人公が貰ってい
たのが羨ましくて﹂と甘えた声を出せば素直に聞いてくれた。
これが贈られた2か月後には、私は市街へ降りているのだ。今まで
の贈り物は豪華すぎて目立ってしまうし押収されてしまうだろう。
されど、これならメッキに見えなくもないし、街中で付けていても
不自然はない。
そのネックレスは、私が望んだ尊氏様との最後の繋がりだった。
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そして、迎えた誕生日。贈られたネックレスに過剰に喜んだ私はそ
の手にハンカチを渡した。
白いポインセチアの刺繍が入ったハンカチ。
白い布に白い糸を使うわけにはいかず、クリーム色になってしまっ
ているがそれが私の答えだった。2か月後に尊氏様から問われる質
問への答え。
まさか、誕生日に本人からプレゼントを貰うとは思っていない尊氏
様は、受けとるのを渋ったが折角頑張って縫ったのに、と拗ねると
嫌そうに受け取ってくれた。
ごめんなさい。嫌いな女からプレゼントなんて貰いたくないですよ
ね。でも、これで最後ですから。
歯をくいしばり、溢れでそうな感慨をやり過ごす。それは、きっと
私の想いを垣間見れるものだったが伝わることはない。私の顔には
罪の象徴が未だふんぞり返っている。
案の定、尊氏様は行動も声のトーンも変わらずいつもと同じようで、
でもいつもより辛そうな顔で話す私の様子に気づくとはなかった。
気付かないのは当たり前だ。
私が私の為に着けた仮面がそうさせているのだから。
自業自得とは、まさにこの事を言うのだろう。
19
それでも、終始冷たい態度をとる尊氏様を少し憎らしく感じた。な
んで、気付いてくれないの。私は貴方のために、貴方のために、貴
方のために。
⋮⋮いや、これはエゴだ。
分かっていたことなのに、それがすぐ目前に来ると決心が揺らぎ自
分の幸福を願ってしまう。
ああ、私はなんて浅ましいのだろう。
﹁これから君の環境は大きく変わることになるだろう﹂
計画実行の前日、尊氏様は私の前に現れ、急に言った。それは、そ
の計画を預かり知らない者にとっては意味不明なこと。私はしっか
り、不思議そうに不審そうに尊氏様を見て首を傾けた。この時ばか
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りは仮面があって良かったと思う。私は、賢い女でも名女優でもな
い。
隠されたそれは、これから愛しい人と離れ行く辛さと覚悟、不安と
安堵でグシャグシャになっているから。
結局尊氏様は、詳しいことはなにも言わずその一言だけ残して去っ
ていった。漫画では、これから最後の大一番を迎えるはずだ。そし
て、それは当然姉と共に行われる。
尊氏様自身は、また明日来ると言っていたがきっと婚約破棄と私の
今後の境遇について話されるのだろう。されど、私はその場にはも
ういない。
明日の朝方、この屋敷を発つつもりだ。昼頃にはここは、大勢の捜
査官に埋め尽くされ私は強制的に牢屋に入れられてしまうかもしれ
ない。
ここばかりはストーリーと違うから展開が分からないのだ。
さっきの尊氏様の訪問だって本来はないバグで。私は漫画とは違い
我が儘に過ごしただけで、計画を邪魔するための犯罪は起こしては
いない。わざわざ尊氏様が警告してくださったということは、あの
漫画の妹程は嫌われてないのだと思う。
そうすれば、牢屋に入れられるのはやっぱりないのだろうが私の決
心は硬い。
21
ここを出て第二の人生を歩むのだ。
午前4時、いまだ暗闇のなか私は屋敷を旅立った。なにも持たず出
ていくのは格好いいが、実際問題そうはいかない。私も一応被害者
だしちょっと位良いよね、と今までこつこつ貯めたヘソクリと少し
の荷物、尊氏様から貰ったネックレスだけを持ちそっと屋敷の裏扉
から外へ出る。
少し歩き、微かに日が上った頃振り返り自分が生きてきた所を見た。
そこから見ても立派な白い洋風の屋敷の中は腐りきっている。見た
目だけは綺麗なのに私の目には禍々しい幽霊屋敷に見える。
そこで、自分は19年間生きてきたのだ。
清々した。それでも少し寂しくもあった。
22
美春が家を抜け出した六時間後如月家は長女の告発によって罪に問
われることとなる。犯罪の主格であった父は牢に入り、母は修道院
へ強制連行。家はとりつぶされ、自分を顧みず正義を通した姉は世
間で大きく評価され男爵家の養女となった。
社交界や街中、いや国中で姉の勇姿は称賛され、姉は一躍時の人と
なる。美しく聡明、故に冷遇されていた女性が、困難に耐え抜き勝
った。
これほど旨い肴はないだろう。
しかもその女性は、愛しあった男性を我が儘な妹に盗られ、苦しん
だが今やっと愛しい男性と結ばれた。
恋に憧れる女性たちにとってこれほど理想的なものはないだろう。
そして、妹は。
愚かで醜い妹は、今のところ罪を犯した証拠はない。だが、なにか
しら罪を抱えているため逃亡している、と噂された。
23
断罪の日から忽然と姿を眩ませた少女は、机にひとつ﹃さようなら﹄
のメッセージを置いていったらしい。
さようなら、なんてメッセージ書いてないんだけどなぁ。
姿を眩ませた私は世間では専ら悪役令嬢として扱われている。いな
くなった理由も捕まるのを恐れたから、だとか。まったく勝手なこ
と甚だしい。
庶民の集まる下町食堂は今日も人が賑わっていて、またあの噂を面
白おかしく話していた。あの事件から二年。それなりに時は経った
し、人の噂は75日とも言うが真実のまざるそれは、本当にあった
ドラマチックな話しといて今も尚、色褪せることはない。
親切な店主に住み込みで雇ってもらい、必死に働いてきた。傷ひと
つない綺麗な手は、数ヵ月もしたら一般庶民なりに荒れたが、質素
な生活も案外悪くないはなかった。
24
熱い眼差しで見られるのも慣れたし、口説きをかわすのも慣れた。
中には、しつこいのもいて、そういうのは友人の衛兵をしている人
に助けてもらっている。
あの日、私はメッセージは残していないが、私の象徴たる仮面を残
していった。
サヨナラ
に私の想いは宿っている。
手紙でも書こうか迷ったが、いいのだ。あのポインセチアのハンカ
チに。あの
だけど、いつか。いつか、姉と結婚し子供が出来て仕事を引退して、
余生を気ままに過ごしていたその時に。あのポインセチアの花言葉
を貴方が知ってくれたなら。確信でなくていいから、そうだったの
かもしれないという朧気な予想でもいいから気付いてくれたなら。
私に思い残すことはない。
﹁ハルちゃん!!今日も女神が嫉妬しそうな美しさだねぇ。僕と付
き合ってくれない?﹂
﹁相変わらず文脈が変ですね、木宮さん。お断りいたします﹂
﹁ありゃ。今日も断られちゃったか﹂
25
こんな庶民派の食堂に似つかないような、イケメン紳士木宮さん。
ここで働いてからほぼ毎日ように告白され、今や折れない華と言わ
れる私をそれでも尚、口説き続ける変わった人。
突然現れた訳あり風な美少女︵自分で言うのもなんだが︶は、町の
男を随分色めき立たせたが忘れられない人がいると噂がたてば諦め
る人が激増した。なにやら、動作からそれなりの名家の生まれだと
は予想つけられていて、そんな女が忘れなれない男に勝てるわけが
ない、らしい。
それでも、やはり口説かれる時もあるが笑顔でスルーすれば﹁やっ
ぱりね﹂と周りが笑いだす位には軽いものになっている。
﹁ああ、その困った顔も可愛いね。やっぱり諦められないな。お嫁
さんに欲しい﹂
﹁諦め悪いですね、木宮さんの家は爵位持ちでしょ?私のような身
分の分からない女と結婚できるわけないじゃないですか﹂
﹁身分なんて関係ないよ、君を愛しているんだ﹂
﹁それは、見た目だけでしょ?﹂
﹁それだけじゃないよ﹂
急に真面目だったトーンに驚き、言葉を紡ぎ出せないでいるとぎゅ
っと手を握られる。意外にも真剣な眼差しに、何も出来ないでいる
と木宮さんは困ったような顔をして手を離してくれた。
26
﹁ごめん、ビックリさせちゃったかな?﹂
﹁え、いや⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ハルちゃんに忘れられない人がいるのも知ってるよ。でもさ、あ
の如月家のご令嬢もやっとあの恋人と結婚するくらいに時間が過ぎ
たんだ。そろそろ前に⋮⋮ハルちゃん?﹂
結婚?
﹁あの二人って結婚するんですか?﹂
﹁ああ、そうらしいね。市街ではまだ出回ってないが社交界ではそ
の噂で持ちきりだよ﹂
﹁そう⋮⋮ですか﹂
そんなこと知らなかった。そう、か。あの二人は結婚するのか。
今まで尊氏様のことを忘れようと何回もしてきた。それでも、尊氏
様への想いは私の生きてきた証でもあって。それをなくしたら今ま
での自分がなかったかのように、これまでの努力が無駄だと言われ
ている気がして。
27
なにより、単純に忘れられなかった。他の人に目を向けようとして
もふとした仕草に尊氏様を思い出す。全てを比べてしまうのだ。
でも、そろそろ終わりにしなければならない。あの私の目の前で弄
らしく、ロミオとジュリエットのように引き離されていたふたりは、
悲劇ではなく喜劇として結ばれる。
﹁そうですね⋮⋮私も前に進まないと﹂
﹁!!そうかい、それなら﹂
﹁でも、まだあまり自信がありません⋮⋮﹂
﹁それでも良いんだよ。最初はうじうじしてたって良いんだ。楽し
くお喋りしてデートして、照れながらキスをしたり、たまには酷い
喧嘩をしたり。そんな風に過ごしたらいつのまにか忘れているさ。
人生長いんだ。時が解決してくれる﹂
﹁木宮さん⋮⋮﹂
﹁ということで、早速デートの約束でもしようか﹂
﹁私、まだ木宮さんと、とは言ってないです﹂
28
﹁⋮⋮まだ、ね﹂
嬉しそうに笑った木宮さんは、華麗にデートの約束を取り付け食堂
を後にした。まだ、木宮さんを好きになれるか分からないけど、好
きになるのはあんな人が良いと思う。
案の定、この話を聞き耳していたお客さんからはすっごくいじられ、
飽き飽きしたが、これでも会話の最中は邪魔しないよう気を付けた
らしい。下町の人は距離感が近くて戸惑ってしまう私であった。
﹁ハル、今日デートの日でしょ!!ちゃんとおめかししなきゃ!﹂
﹁なんで女将さんまで知ってるんですか⋮⋮﹂
﹁何言ってるの、この町でハルが今日デートすることを知らないや
つはいないよ!!万が一でも、邪魔しないよう年寄り連中で手を組
んであるからしっかりと楽しんできな!!﹂
﹁え、ええ。ありがとうございます﹂
ありがたいのだけど、そっとして欲しい。あんなに期待した目で見
られると答えなきゃいけないと思ってしまう。女将さん的にも木宮
さんは、顔良し頭良し家柄良しで最高峰の男の一人らしい。女友達
にも興奮されながらオススメされた。
29
これ以上考えたら怖いことになりそうで、考えを止め、髪を手櫛で
整えながら鏡を覗く。そこには、菖蒲色の瞳と前とは違い手は行き
届いていないが、それでも目を見張る銀髪の美しい少女が映ってい
た。
ずっと仮面を被っていたから、時々鏡に映る自分に驚くことがある。
逆さまに映る自分を見れば、菖蒲色の奥に深い瑠璃紺色が鮮やかで、
昔尊氏様に嫌われていない頃、深い海のように綺麗だと褒められた
ことを思い出した。
あの仮面を被ってからは、瞳は影で暗くなりこの混じった瑠璃紺色
を見ることは不可能になったはず。もう、尊氏様も私の本当の瞳を
忘れていたに違いない。
﹁いけない、これからは楽しまないと﹂
傷む胸を見なかったことにして、私は約束の場所へと向かった。
30
31
三話
﹁おまたせしました﹂
﹁いいえ、今日も抜群に可愛いね﹂
約束の五分前に着いたはずなのに、木宮さんは冷めたコーヒを持っ
て待ち合わせ場所に座って待っていた。仮面をはずしてから聞きな
れたお世辞を流し、じっと木宮さんを見上げると彼は苦笑しながら
言い訳じみたことを言った。
﹁しょうがないだろう?楽しみで仕方なかったんだ﹂
しっかりとした大人なのにまるで、子供みたいなことを言うからつ
い笑ってしまう。そして、私とのデートをそんなに大事にしてもら
えていることが嬉しくて。
﹁私は久し振りにおめかししました﹂
﹁うん。僕も今日は気合いをいれてる﹂
32
﹁えっ﹂
﹁えっ、分かんない?﹂
﹁あ、いえ。そうですね。言われれば確かに﹂
﹁⋮⋮言われれば確かに、程度か⋮⋮﹂
少しショボンとしてしまった木宮さんは、普段の王子風イケメンの
カッコよさがなりに潜め、可愛さが目立つ。
結局、膨れた木宮さんと私の笑いを堪えている顔があい、お互いに
笑いあってしまった。なんだか、ふわふわした気分だ。
﹁今日はどこか行きたいところある?﹂
﹁特に思い付かないんですけど、何か言った方がいいですか?﹂
﹁無理にだったら構わないよ。こっちも一応プランはたてているし﹂
﹁では、それに従います﹂
﹁従うんじゃないよ。僕が一方的に楽しむんじゃない。二人で楽し
むんだ、わかった?﹂
﹁、そうですね。私も楽しみます。目一杯﹂
﹁よろしい。良いお返事だね﹂
﹁⋮⋮ここ﹂
﹁このお店知ってた?紅茶とマフィンが有名なんだけど﹂
33
﹁え、ええ。知ってます﹂
木宮さんに連れて来てもらった場所は、よく尊氏様と訪れた老舗の
喫茶店だった。価格設定は、お金持ち向けで庶民は絶対に入れない
このお店には家を出て以来、一度も来たことがない。
道のりで何となくここかも、とは思っていたが実際に来るとやはり
感慨深いものがある。
上品な店員さんに案内された席は、あの頃座っていたこの店一番の
特等席ではないがそれなりに良い席で。多分、店員さんが配慮して
くれたのだと思う。これまで見たことのない、新しく雇っただろう
女の店員さんは私に時の流れを感じさせた。
﹁そんなに緊張しなくていいよ﹂
困惑した私の姿に木宮さんは、苦笑しているがその声には愛しい気
持ちがのっている。木宮さんは、私のこの反応を良い方向のものだ
と勘違いしている。感覚的に分かったそれをわざわざ否定する必要
もなかったので、﹁頑張ります﹂と口にしてメニュー表を手に取っ
た。
それにしても、木宮さんは失敗している。新しい恋、なんて言っと
34
きながらこんなところに連れてくるなんて。
朧気だったあの日々も、いつも飲んだアールグレイの文字を見たら
鮮やかに思い出されて、愛しい尊氏様を、楽しくて苦しかったあの
日々を想ってしまう。
あの人はいつも、無表情でつまらなそうだった。それでも私はあの
人を愛していたのだ。
﹁何を頼む?﹂
﹁⋮⋮アールグレイと季節のデザートにします﹂
もう、ここに来ることもないだろうからいつものオーダー。たいし
てメニューを見ずに決めてしまったが、二度と食べれないのかもし
れないのなら、絶対にあの人と飲んだアールグレイがよかった。
﹁そう、じゃあ僕はアッサムティーにしようかな。あとはスコーン。
ここのは美味しいから食べてもらいたくて﹂
﹁ありがとうございます﹂
35
実は食べたことあるんです。このお店のスコーンは、外国産の希少
なバターを使っているから自然な甘味で。私が今まで食べたスコー
ンの中で一番美味しいんです。甘いのが苦手な尊氏様も毎回頼んで
たんですよ。
⋮⋮仮にもデートの相手の前で、他の男のことを考えるのは失礼だ
ろうか。
でも、こればかりは仕方がない。
仕方ないのだ。
やっぱり。やっぱり私は尊氏様しか愛せないのだろうか?
前向きに動きかけた心は萎み、モヤモヤした影が覆い隠す。
アールグレイはさておき、季節のデザートで出てきたグレープフル
ーツのゼリーは私の心の味がした。
36
﹁楽しんで貰えたかな?﹂
﹁はい、ありがとうございました。それで、その﹂
﹁⋮⋮結論を出すのはまだ早いよ﹂
﹁えっ﹂
﹁時々寂しそうな顔してた。僕は、まだ姿も知らない僕のライバル
に勝てないんだね﹂
﹁ライバル?﹂
﹁そう。君の心を奪い合う僕のライバル﹂
ああ、そうか。
確かに普通はそう思うかもしれない。こんなに長い間忘れられない
のならそう思って当然だ。
尊氏様は貴方のライバルなんかじゃありません。だってあの人は。
﹁⋮⋮あの人は私のことを嫌ってました。私が一方的に好きで、付
きまとっていたんです。あんなに嫌がられてたのに。信じられない
かもしれませんが長い間側にいて、あの人が一度も笑っている所を
見たことがないんです。あの人は、私なんか好きじゃない。だから、
木宮さんにライバルなんて存在いません﹂
﹁君を嫌い?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
﹁そうか、僕はてっきり付き合っていたのかと。すまないね﹂
37
それでも付き合っては、いました。一応婚約者で将来を誓いあった
関係でした。
でも、そんな馬鹿なこと優しい木宮さんになんか口がさけても言え
ない。
私は、木宮さんの言葉を聞きながら、もう恋は諦めようと。無駄な、
出来っこない努力は止めて、木宮さんに誠心誠意謝ろうと決めてい
たのだ。それなのに。
﹁じゃあ、このレースは僕の独壇場だね。こんなに魅力的な君を嫌
いな彼は愚かだ。僕は君が諦めたとしてもその悲しい笑顔を嬉しい
笑顔に変えてみせるから﹂
﹁え?﹂
﹁つまり、ハルちゃんを諦めないってこと﹂
﹁⋮⋮私、付きまとってたと言いましたよね﹂
﹁言ったね。でも恋する男には関係のないことだよ﹂
﹁木宮さんって変わってるって言われませんか?﹂
﹁えー、言われたことはないけどなぁ﹂
断ろうと思っていたのに、また次のお約束を取り付けられてしまっ
た。答えられる根拠はないのに、どうして木宮さんはこんなに頑張
れるの?
38
待ち合わせ時に真上にあった太陽は今はもう沈みかけていて、まだ
暗くはないのに木宮さんは送ってくれると言う。
遠慮したが危ないからの一言で返せなくなった。ストーカー被害に
あった記憶はまだ新しい。
﹁そういえば、今日はあのネックレス着けてないんだね﹂
それは、不意に出た軽口のようなものだった。
﹁!、そう、ですね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮忘れられない人からのプレゼント?﹂
﹁なんで!?﹂
﹁なんで分かったか?ハルちゃんは無意識のようだけどあの薔薇の
ネックレスを癖で撫でてるんだよ﹂
﹁え、本当ですか?﹂
﹁うん。それで、何となくそうなのかなって。いつもそれ見て悔し
かったからさ、今日は着けてないんだなってホッとして。それでも、
ハルちゃんの手は自然に首もとを触っててさ、あ、まだ負けてるん
だな僕、と思ったわけだ﹂
﹁⋮⋮すいません﹂
﹁謝らないで。僕が悔しかっただけだから﹂
39
自分では気付かなかった癖だからどうしようもなかったけれど、申
し訳なくて顔が見れなかった。食堂前までと言われたが、からかわ
れるのが嫌なので、と本音を言えば笑いながら納得してくれる。
﹁じゃあ、またね﹂
﹁はい、また今度﹂
案の定、女将さんや常連客に散々からかわれて大変だった。ほぼ全
てが木宮さんとの仲に肯定的で、木宮さんは誰から見ても良い人な
んだと実感する。
﹁ハル、あんたあんないい男逃がすんじゃないわよ!﹂
﹁確かに木宮さんはいい人ですね﹂
﹁コラ、はぐらかすな!!﹂
なんだか外堀がどんどん埋められていくようだ。私は、こんな状況
にでもならないと新しい恋になんて進めないから都合がいいのかも、
40
と前向きにとらえてみたがやっぱり、期待の大きさに不安が増した。
おめかし用のワンピースを脱ぎ、いつもの仕事服に着替える。今日
もお客さんはたくさん入っている。
頑張らなくちゃ。
そんな風に呑気に過ごしていた私は知らなかった。
尊氏様が私を探していることを。
41
三話︵後書き︶
何故かたくさんの人に見ていただけて嬉しいです。これも、霜月様
のおかげ。改めてありがとうございます︵*^^*︶
42
四話
あれから何回か、デートを重ねていて。今度こそは、ちゃんとやめ
ます、と言わなければいけないのに、木宮さんはやんわりとその拒
絶を退けるように言葉を紡ぐ。
それで、私は段々といっそのこと、木宮さんと付き合った方が良い
のかと思い始めるようになった。なんだか、優柔不断で情けなくな
るが、選択肢が沢山あるということは新鮮で、楽しく、迷う時間が
あるだけ自分が幸福者であることを思い出させる。
これは、私の人生で、両親の決めたルートでなく、あのマンガのシ
ナリオでもなく、自分の決めた道だ。これから起こるであろう幸せ
も不幸も喜びも哀しみも、⋮後悔も、全て自分の責任。慎重になる
のも大切だけど、たまには思いきったっていいじゃないか。
それに、周りも迷惑⋮⋮驚く位に応援してくるし、空気を読まない
といけない、と、どうしても思ってしまう。あれ、なんか流されて
いる?と不安にならないこともないが、皆はそうするのが正解だと
説いてくるのだ。
それに対して、しっかりとした否定も肯定も出来ないのは、自分に
自信がないからなのだろう。
43
それでも、初デートから早3ヶ月。忙しくて休む暇もない充実した
日々を送っている。
市街に降りて分かったことだが、私には家に籠っておしとやかに、
貴族女性の一般的な嗜みをするよりも、外で苦しくて目が回るほど
仕事をしている方が向いているようだ。勿論、たまには休みたくも
なるが、一回知ってしまった充実感に勝てる程のことでもない。
だったら初めから、あの家に生まれずに庶民の家のモブB位の人に
生まれれば良かったのでは。⋮⋮だが、それでは、尊氏様と出会う
事が出来ない。それだけは、許せない。
酷く辛い日々も、別れがあると知っていても尊氏様のいない人生に
は価値がない。
私は初めて、如月美春として生まれてきて良かったと思い。初めて
下衆な両親に私を産んで貰えたことを感謝した。
忌々しく感じた如月美春は、それでも如月美春だったからこそ愛し
い尊氏様の側にいることが出来た。
失ってから気付くものがある、というが正にこのことなのだろう。
そして今、やっと私は変わった。
如月三春を失ってただのハルに。
悪役令嬢からただのモブに。
44
後から見たら大切だった立ち位置を消し去って、私は今ここでハル
として立っているのだ。
﹁うわぁ、この髪飾りハルちゃんに似合うよ!!﹂
﹁ええ、そうかな。それは、オレンジ髪のガッキーの方が似合うと
思うけど﹂
﹁えー、この髪の色に似合う髪飾りってあんまりないんだよねぇ。
だいたいの人は、自分の髪色と同系色のアクセサリーを選ぶけどさ。
私のオレンジ色だとつけられるのって赤か黒か黄色くらいじゃない
!?﹂
﹁あ、あと緑も似合うよ﹂
﹁そしたら完全にミカンの出来上がりじゃん!!﹂
﹁うん。可愛いよね!みかん﹂
﹁この馬鹿者!!珍しい劣性銀髪だからなんでも似合いやがって!
!私も銀髪に生まれて来れば良かった!!﹂
﹁うーん。でもガッキーの両親って赤髪と黄髪でしょう。その時点
45
で劣性銀髪が出てくる可能性はゼロだもん﹂
﹁うわあああん。正論止めてよ!分かってるもん、それくらい。だ
からこそ銀髪は珍しいんでしょ!!﹂
この日は、久し振りに友人と街に出ていた。夜からは、また食堂で
働くのだが今日は五時まで自由時間。遊ぶ相手は市街に来てから一
番最初に仲良くなった女将さんの姪っ子ガッキー。本名は言いたく
ないらしく、アダ名だけ知っている。
このシルバーに見えなくもないピンは、尊氏様に似合いそうだ。私
のそこそこ珍しい銀髪も、尊氏様の黒目黒髪よりはメジャーで。だ
から尊氏様のような見た目の人は滅多に見ることが出来ず、服装も
好んで黒を着ることが多かったことから尊氏様は、黒の貴公子と呼
ばれるようになっている。
黒の貴公子って改めて考えると凄い名前だが、それに名前負けしな
い実力を持っていたのだから尊氏は、本当に凄いのだと思う。
ガッキーは、ノリが良くて一緒にいるとついつい時間を忘れてしま
う。なんだかんだ言って、ガッキーが葉っぱの形のピンを買ってい
るとき、とっくに帰らなきゃいけない時間になっていたことに気付
いて、慌てて別れた。
まったく、楽しい時間はどうしてこんなにも、あっという間に過ぎ
てしまうのだろう。
現在時刻は、4時45分。
46
そして、ここから食堂までは、早くても20分はかかる。このまま
では間に合わない。
人生において、一回も遅刻をしたことのない私はとても焦ってしま
っていて。つい、安易に動いてしまった。
なるべく早く帰らなきゃ、と普段は使わない路地裏の抜け道を使う
ことにしたのだ。その抜け道は時々、柄の悪い人達がたむろしてい
ると噂になっていて。絶対に通るなと言われていたが、その柄の悪
い人とやらを見かけたことはなかった。
大丈夫だろう。いつもいないんだし。
そんな、今日に限って現れるなんてあり得ないだろう。
その時、私は市街に降りてから物事が上手く行き過ぎて、警戒を怠
っていたのだ。
どこにだって危険は潜んでいるのに。ハルに生まれ変われたと、有
頂天になっていたからかもしれない。
47
一度も見たことのないそれは、ちょうど今日初めてそこを通る私の
前に現れた。
目の前を塞ぐ三人の凶悪。
﹁よぉ、これはべっぴんな嬢ちゃんじゃねぇの﹂
﹁これは上玉!!﹂
﹁嬢ちゃんよぉ、ここは俺たちの道なんだ。ここを通すわけには行
かねぇ。そらに、少しでも入ってきた嬢ちゃんは悪い奴だよなぁ?﹂
つくづく自分の悪運に飽きれた。
自分より遥かに大きくがたいのいい男は恐怖でしかなく、こちらを
下品な目でじろじろ見てきた。市街に降りて何度も身の危険を感じ
たことはあるが、今回はそれと比ではない気がする。
目の前の男達は、私のことを獲物としか思っていなかった。何、こ
のあからさまな凶悪は、仮面を被った醜悪よりは分かりやすい。貴
族の位を持っていた頃ならいくらでも仕様があった。だが、今の私
には対処する権力と金はない。
頭の中で警報が鳴り響き、私はすぐに道を引き返そうと後ずさる。
﹁⋮すいません。もう、ここ通らないので﹂
﹁はあ!?それで許すとでも思ってるのか。大丈夫。ちょっと付き
合ってくれればいいだけだからさ﹂
48
﹁私、急いでいるので﹂
﹁そんなの無視すればいいじゃん﹂
怯えていると知られれば、より、この男達を付け入れさせる。必死
に自分を落ち着かせて体の震えを喉に伝えないことだけには成功し
たのだが。踵を返して、やっといつの間にか男達に囲まれているこ
とに気付いた。
﹁おいおい、どこ行くんだ嬢ちゃん。まだ話は終わってないぜ﹂
﹁退いてください。話すことなんてありません﹂
穢らわしい。
無造作に伸びてきた手を思い切りはね除ける。
見下した態度を出したつもりはなかったが、無意識に出ていたのだ
ろう。はねられた手をそのままに男には、先よりよっぽど酷い狂気
の色がさした。
﹁こんの、あま。調子のってんじゃねぇぞ。美人だからってお高く
とまりやがって﹂
﹁⋮そんな気は無かったのですが﹂
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﹁おい、こいつもう、許せねぇ。ヤッちまおうぜ!!﹂
﹁ああ、そうだなぁ!ぶち犯してやる﹂
抑えきれず震えた声で言い返したが。その一言を皮切りに男達は、
ジリジリと私を捕まえようとしてくる。
﹁やめてください。私には仕事があるんです。遅れると誰かが私を
探しに来ますよ﹂
﹁ああ?その容姿からお前どうせ娼婦だろ?誰がそんなちっぽけな
女のために人を送ってくる?﹂
﹁ははは、そうだなぁ。是非とも玄人の指南を受けてぇ﹂
誰が娼婦だ。確かにスカウトされたこともあるが、そこまで堕ちた
つもりはない。
駄目だ。こいつらは、言葉が通じない。
一人でこの場を逃げ切ることを諦め、肺いっぱいに空気を送り込む。
50
﹁たっ﹂
﹁あーあ、言わせねぇよ?だいたい助けに来る奴なんかいるわけね
ぇだろ?﹂
出るはずだったSOSは、男の荒れたごつい手に塞がれて。そのま
ま体を拘束される。
実際に、体に触られることで、留めていた筈の恐怖は洪水のように
溢れでした。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。誰か、助けて。
なんで、私ばかりなの。
市街に降りてきて、楽しい事ばかりではなかったけど、辛いことも
多かったけど。それでも、あの頃より幸せだったのだ。今だって、
忙しくはあっても凄く幸せだったのに。どうして不幸は急に私を襲
うの?
どうして?
路地裏の薄暗い暗闇の中、来た道を振り返り僅かな光を見た。その
光は遠く、私の短い手ではどうしようもなく届かない。
51
私は只ひたすらに叫ぼうと体をばたつかせた。最初は怖くて怖くて
堪らなくて、途中からどうしてこんなことになったのかを考えて、
駄目だと言われてたのにここを通った自分の自業自得に気が付いて。
それでも、愚かな私は自分だけが悪いとは全く思わず、助けてくれ
ない誰かを恨みがましく思う。
似たような事が今までにも一回あった。
あの事件だ。尊氏様を私に縛り付けたあの事件。
もう、駄目かも。
そろそろ体力が限界に近づき、目が霞んできて。着ていた服を無理
矢理に破られる。
このまま、私はコイツらに犯されるのだろうか。
この人の皮を被った化け物達に。今度は私が、不幸をおう側なのか。
あの時の報いはもう、受けたと思ったのに。
52
初めては、好きな人と。例え、木宮さんと付き合ったとしても本当
に愛せるようになってからしか、そういった行為は行う気がなかっ
た。
こんな絶体絶命の時。
瞼の奥に写るのは、あの人だった。私の愛した唯一の人。
尊氏様。
﹁ーーーー!!﹂
その声は、必死で、慌てて、何故か歓喜が少し混じってて。私はそ
れに、目を見開くだけで答える事が出来ない。襲われて、口を塞が
れたから、あるはずだったSOSは、存在しない。それでも。
耳に覚えのあるその声は、あの人のもの。
慌てて、声のした光の方向へ目を向ければ男が一人立っていた。
それは、逆光でその男の顔を暗く見えずらくさせたが、そんなもの
53
で私には関係ない。
ずっと、見てきた愛しい人。ずっと届かなかった愛しい貴方。
私があの人を間違えるはずがない。
尊氏様!!!
54
55
五話︵前書き︶
パソコンが手元にないので、取り敢えず下書きのまま投稿します。
56
五話
あっという間だった。
私を組み付していた男達は、尊氏様によってすぐに成敗されて。尊
氏様が護身術を習っているとは知っていたが、この強靭な男達を圧
倒出来るほど強いとは知らなかった。私を襲っていた男達は舌を巻
いて路地裏のそのまた奥に逃げていく。
ああ、尊氏様のことは何でも知っていると豪語していたけど、私に
も知らないことがあったのか、なんて的外れなことを思ったが今は
そんな場合ではない。
覗かせた肌を隠す余裕もなく、目の前の尊氏様を眺める。尊氏様は
男達を倒した後、此方を見ることもなく俯いていて。
何も話さず、ただ此方を向いて私を直視しようか躊躇っている尊氏
様の後ろ姿はあの時より小さく見えた。
尊氏様が助けてくれた。
尊氏様が目の前にいる。
57
緊張が溶け、現実を呑み込むがそれでも、私の熟れた頭は尊氏様へ
の想いで埋まった。襲われた直後だと言うのに、そんな事すっかり
忘れて。愛しい人が目の前にいて。愛しい人が助けてくれて。愛し
い人を久し振りに見ることが出来て。愛しい人とまた関わる事がで
きて。
尊氏様。
尊氏様。
尊氏様。
愛しい尊氏様。
離れてからこんなに時間がたったのに、貴方はまだ私の心臓を掴ん
でいるのね。
心は遠く離れているのに、私は貴方のことを驚くほど愛している。
けれど
何故貴方がここに?
58
何故私を助けるの?
何故私の目の前にいるの?
想いが溢れると声が出ない。予想では、もっと先の未来に尊氏様を
見たときにはもうそれは過去になっていて、あの頃よりは平気にな
っていると、だから他人のふりをして。頑張れば話しかけられるか
と思っていた。
混乱のなか、私はあることを見逃していた。私の中の常識と尊氏様
の常識は異なる。そして、私の前提と尊氏様の前提は示し会わせて
いない限り同じかどうかは分からない。
つまり、私は尊氏様だと分かっても尊氏様は私が如月三春だと知ら
ないことに気付いたのだ。
今の私は、仮面を被っていないし尊氏様は、私の素顔を知らない。
銀髪は、そこまで珍しくないし、暗闇のなか、瞳の色まで分かるは
ずもない。
59
もしかして、いや⋮⋮そんなはず。
分からない。
どういうことなの?
どれ程時間がたったのだろうか。頭の中で永遠だった時間は、尊氏
様が振り返ることで動き出した。
暴かれた肌を隠したのは、女性としての本能。そして、そのまま顔
を俯かせたのは私としての本能で。
﹁⋮⋮⋮⋮大丈夫か?﹂
それは、この場に相応しくない凡庸な問だ。いや、見ず知らずの女
性を助けたならばベストな問いかけ。
60
私だと気づいて貰えるなんて、自惚れていたのか。
途端に恥ずかしくなって。
顔をあげれば。見たこともない尊氏様の泣きそうな顔があった。
今まで辛そうな、堪えるような、屈辱的な表情は見てきた。それな
のに、この顔はそのどれにも当てはまらない。
小さくなった背中と子供のように泣くのを堪えたその表情は、私に
尊氏様が弱くなったような印象を植え付けた。
あの頃は、もっと強い人だったのに。誰よりも優秀で、誰よりも格
好良くて。心許した人には情があつく、私が婚約者なこと以外欠点
なんてないように思われた完璧な人。
今では、家督をついで立派に当主を果たしているはずだ。
もしかして、姉との結婚がこの人から強さを奪ったのか。姉との愛
で、悪に立ち向かう鋼の刃は溶かされたのだろうか。
61
﹁お前は、美春なのか?﹂
感慨深くなっていたからか、その核心的な言葉にあまり動揺するこ
とはなかった。なんだかんだいって、このうだうだで覚悟を固めて
いたから。
はい。そうです。
これが誠意ある答えなのだろう。嘘偽りなく、真実を告げるそれが。
﹁誰のことですか?そんな方存じ上げません﹂
62
でも、生憎様私は嘘の上で生きてきた。
気づいてくれて嬉しかったが、この答えが私と貴方にとって最も適
当な返事だ。もう、貴方と私では生きていく世界が違う。
ただ、ほぼ核心している尊氏様にとって、それは馬鹿にしているの
と同義なのかもしれない。
﹁何故、嘘をつく。お前は、美春だ。その銀髪とその声を私が見間
違えるはずかない。顔の傷は見当たらないがとっくに治っていたの
だろう﹂
﹁嘘ではありません。私はハル。ただのハルでございます﹂
﹁違う!!お前は、美春。私の元婚約者、如月美春だ!﹂
﹁⋮⋮美春ではありません。名字もございません。ハルです﹂
﹁何故そんなにも頑ななんだ。私がどれだけお前を探したと⋮⋮﹂
尊氏様が私を探していた?
﹁何故探して⋮⋮﹂
63
﹁お前が急にいなくなるからだろう!!﹂
滅多に感情を表に出すことの無い尊氏様が、声を荒げ血走っている。
私は、尊氏様に追われるほど悪い事をしただろうか。もう、二年も
経っているのに。時効では片付けられないほど、しっかりと自分の
手で成敗しなければ気がすまないほど、恨まれていたのか。
﹁それとも、新しい男が出来たから邪魔されたくないと?だから、
嘘をついてここに留まろうとしているのか!!﹂
﹁⋮⋮新しい男?﹂
﹁しらばっくれるな。私は﹃hope﹄の店長からお前らしき女が
来店した、と聞いたから捜索範囲をここに絞って。今日だってお前
を探しに来たんだ。こんなにすぐ見つかるなら、人なんか雇わずに
さっさと自分で来れば良かった﹂
﹃hope﹄、あの紅茶とスコーンの有名な喫茶店の名前だ。通っ
64
ていたから店長とも顔馴染みであったが、まさかあの一回目のデー
トの時店長さんは勘づいていたのか。
それで、私を探しているという尊氏様にわざわざ連絡をよこした、
と。
まさか、あの頃の知り合いには会う術もないし、住むところも違う
為、私がここにいるとバレるわけがないと思っていたが、店員さん
のことまでは考えていなかった。
だいたい、おおよそ上流階級の銀髪の娘が如月家汚職事件と同時期
に、現れたのにそれをあの如月美春と結びつける人はいなかった。
如月美春は、見るに耐えないおぞましい顔をしていて、人を見下し
た態度をした性格の悪い女という先入観があるからだろうが、その
事で私は気を緩めてしまったのだ。
きっと、何処か何時か分からずとも私が如月美春なのではないか、
と疑われると思っていたから。
本当の私は、世間で言う如月美春とそこまでかけ離れているのか。
如月美春という怪物は、いつの間にそんなに育っていたのだろうか。
﹁今まで、私に引っ付いてきたのに。私が告発を手伝ったから憎く
なったのか!?それで、逃げたしたのか!?﹂
きっと、貴方は、まだあの,サヨナラ,の意味を知らないんですね。
65
私が尊氏様を憎むわけないじゃないか。貴方を想って、貴方が心を
痛ませず姉と結ばれればいいと。全て貴方のせいになんかしない。
それでも、貴方の。貴方が。
無意識に首元に手を運ぶ。それは、以前木宮さんに指摘された癖で
あったが。
掴もうとしたそれは、首元から消えてすがり付こうとした手は宙に
消えた。⋮⋮ネックレスがなくなっている。
服を破かれたときにどっかに行ってしまったんだろうか。震えた手
を握りしめたが、その事実は静かな動揺に、焦りをもたらした。
﹁⋮⋮﹂
何も言えずにいると、尊氏様は一歩此方に足を踏み出した。その行
為で私達の間にあったひとつの境界が崩れてしまい。
尊氏様は、迷わず決意したように近づいて来て、表情は怒りに満ち
ているから、それに反比例するように私は後ずさった。
66
愛しい尊氏様には、今までならどんなに悪い機嫌の時も怖いもの知
らずですり寄った。今でも想う気持ちは変わらない。
だけど、今は。今は、あの頃の勇気も投げやりの行動も、傷付く覚
悟も仮面と共に置いてきたのだ。
﹁⋮⋮もし、もし私が美春だったとして貴方に私の気持ちが分かり
ますか。貴方に私の苦しみが、悲しみが。貴方に解る筈がない。私
は貴方に会いたくなかった﹂
思えば尊氏様に、言い返したのは初めてかもしれない。愛と憎しみ
は表裏一体。愛しているからと言って不満がないなんてあり得ない。
愛するが故憎しみだって深くなる。
合わせられなかった視線を定めて、黒い相貌のその中に冷たい何か
が流れるだろうと予測していたが結果的にそれは、大きく異なった。
67
怯えている。
あの尊氏様がちっぽけな、悪役令嬢にさえなりきれなかった私を怖
がっている。
時が止まったように動かなくなった尊氏様を見て、私だって動けな
くなる。本当にこの人は変わった。
﹁⋮⋮美春、私は﹂
聞いたこともない苦しく寂しそうな声で、独白でも始めそうな彼は
本当に尊氏様なのだろうか。
そんな反応されたら、私だって困るのに。
68
﹁ハル!!大丈夫か!?﹂
大声を出しながら、走ってくる彼は衛兵している友人だ。多分誰か
が通報して、助けに来てくれたのだろう。
そして、私は彼に二重の意味で救われることとなる。
69
﹁たけ君、!うん、なんとか﹂
﹁ってお前。服が、早くこれ着ろ!!﹂
友人、たけ君の登場で私達の間にあった緊張感が薄れたのだ。襲わ
れること事態、非日常だったのに尊氏様にまで会うなんて。
浮いていた足を地面につけ、やっと少しの日常を取り戻した私は、
取り敢えずこの場から逃げることにした。
たけ君にかけてもらった上着をきっちりと来て、震えた足に鞭を打
つ。壁に手をあてながら、立ち上がった私はたけ君が尊氏様を不審
そうに見ていることに漸く気が付く。
﹁⋮⋮この人は?﹂
﹁えっと、助けてくれた人⋮﹂
私達の間に流れる雰囲気がおかしいことを理解しながらも、尊氏様
の容姿と身なりからそんな野蛮なことを起こす人ではない、ことは
一目瞭然で。たけ君は、私の短い説明であっさり納得してくれた。
70
﹁そうか、すいません。ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮あ、いや﹂
﹁たけ君、行こう﹂
﹁ああ、でもいいのか。この人なんか⋮﹂
尊氏様の何か言いたげな雰囲気を察して、たけ君は尊氏様に気を使
うけど今は余計なお世話。特技のエアーリードは封印して私の意見
に従って欲しい。
﹁助けてくださってありがとうございました。どこの誰かは存じ上
げませんが感謝します。さ、早く﹂
﹁お、おう。えっと、ありがとうございました。早くこいつを落ち
着かせた場所に連れていってやりたいので失礼します﹂
珍しく無愛想な私の態度に驚きつつも、たけ君は私に従いここを立
ち去ろうと歩きだす。
71
暗い路地裏から、表の通りへ出ようとしたその時に。後ろから、懇
願の声が聞こえた。
﹁⋮⋮ま、待て!﹂
﹁⋮ハル、いいのか?﹂
﹁うん。いいの、もう二度と会うことはないから﹂
それでも、私は振り返ることも歩みを止めることもなかった。
72
五話︵後書き︶
ふははは!!!苦しめ、苦しめ尊氏よ!!!ふははははは!!︵※︶
気にしないで下さい。
お読み頂きありがとうございました︵*^^*︶
73
六話︵前書き︶
短いです。
74
六話
﹁ハル、本当にいいのか?﹂
﹁うん、心配させたくないからこれでいいの。ありがとうね。私の
我が儘に付き合ってもらって﹂
﹁それは、いいけど⋮⋮﹂
私はそのまま、自室に帰ることにした。裏口からそっと入り、住居
スペースの二階にかけ上がる。たけ君は、最後まで心配してくれた
が、襲われたことより尊氏様と会ったことの方が衝撃的で。兎に角
一人で考えたかった。
尊氏様が私のことを探していた。
今更ながらに驚き、力が抜けて尻餅をつく。
﹁尊氏様だった﹂
75
尊氏様を久し振りに見た。
﹁少し疲れてそうだった﹂
尊氏様をまだ馬鹿みたいに愛していた。
﹁私はこの苦しさから逃れられない﹂
尊氏様と会えて、嬉しいのか、苦しいのか、安堵したのか、不安に
なったのか。この感情の答えは何かは分からない。だけど、さっき
まで忘れていた涙が勝手に頬を流れてしょうがない。
胸が苦しくて、やり場の無いナニカを叫びたくなるが、そんなこと
をしたらお店にまで聞こえてしまう。結局、持っていたハンカチで
啜り泣く声を抑えるように口を覆った。とっくに五時は、過ぎてい
るが、この状態でお店になんか立てる筈もなく。
たまたま、一人で上に来た女将さんに、今日はお休みしたいと告げ
る。人情深い女将さんは、真剣な顔で頷き﹁分かった。あんたに何
があったかは知らないが、あまりに辛いんならあたしに話しな。一
人で抱えると余計に悪く考えちまう。話したくないことは、話さな
くて良い。それに、私は口だって堅いんだ。⋮⋮こらこら、泣かな
くていいから。これ以上泣くと目が腫れちまう。そしたら、明日働
76
けないだろ﹂と言ってくれた。
小賢しい私は、女将さんがきっと、そう言ってくれるだろうと予想
していて。だが、実際に言われると破壊力が凄まじいことは予想外。
不器用な優しさは、とても温かくて再び涙腺が崩壊してしまった。
尊氏様を前に、咄嗟に逃げて来てしまったがそれに、後悔はなかっ
た。これで良かったのだ。
それに、尊氏様は結婚するのだ。姉のモノになるあの人を見たくは
ない。
尊氏様は、私を探していると言っていたが、あんなにきつく言った
のだし。尊氏様の性格上、自尊心が深く傷付いただろう。きっと、
今頃憤慨して私のことなど二度と見たくないと。そう、思っている
はずだ。
ずっと尊氏様の隣にいた私が言うのだ。この二年で尊氏様は随分と
変わってしまったが、人としての根本的部分は変わる筈がない。
安易かもしれないが、それでいい。
﹁もう、泣くな。目が腫れちゃう﹂
77
女将さんが言ったことを反芻して、自分に言い聞かせた。
忘れろ。忘れろ。
あれは、事故。必然的な偶然だ。
尊氏様が私を探していた為に、起きた出来事。
パンパンと、頬を叩き。己を叱咤する。
﹁如月美春とはさようならをしたんだ。頑張れ私。前に進め私﹂
私は次の日の仕事に向けて、瞼を冷した。
78
﹁もう大丈夫なのかい?﹂
﹁はい、大丈夫です。いつまでも泣いちゃいられませんよ﹂
﹁相談したいことは?﹂
﹁⋮それは、もう少し待って下さい﹂
﹁そうかい、ハルがそれで良いのならあたしは別に構わないさ﹂
﹁ふふふ、ありがとうございます。女将さん。あ、あと大将にも謝
っとかないと﹂
﹁ああ、いいて。あの人は﹂
私を雇ってくれた張本人である大将は、寡黙で、だがとても優しい
人。大将は謝られると、困って固まってしまうからありがとうござ
います、とお礼を言った方がいいのだろう。
79
﹁そうですね。じゃあ、我が儘を聞いてくださってありがとうござ
います、と伝えてきます﹂
﹁ああ、それがいい﹂
大将の返事は、おう。のみだった。こちらを見ずに、たった一言そ
れだけ。それが、ありがたかった。
﹁あの人、あんなだけとハルのこと心配してんのよ。滅多に話さな
いくせに昨日なんてハルは大丈夫なのかってしつこくてさぁ。めん
どくさい男だよ、ほんと﹂
﹁そうなんですか﹂
本当に、ありがたい。
そんなこんなで、仕事をし始めたが昨日のことは、広がっていない
らしく誰にも聞かれることはなかった。噂好きの彼らにしては珍し
いが、私には都合が良い。
今日は早めに仕事を切りあげる予定であり、たけ君が多分ここに訪
れるだろうことはわかっている。たけ君は水曜休みで、休みはたま
にここでお昼を食べに来る。それに、たけ君は優しい。そんな心配
性で優しい彼に、また、私の我が儘に手伝ってもらうのだ。見返り
は、ガッキーとの仲を取り持つこと。
80
たけ君は、ガッキーのことが好き。とても分かりやすいのにガッキ
ーはなかなか気づかない。⋮⋮何故だ。
﹁ハルちゃん、今日木宮君は来てるかね?﹂
﹁いえ、今日も来てないです﹂
木宮さんが顔を見せなくなって一週間。これまでも、仕事が忙しい
と、やってこなくなることが多々あったので、特に何も思わない、
というか。少しほっとするというか。でも、このお客さんは、木宮
さんと政の話をするのが好きならしく毎日来ていないのかと聞いて
くる。
お客さんは、もう五十を過ぎた禿げ頭のおじさんだが、こうも毎日
寂しそうに聞かれると、恋する乙女か、と言いたくなる。が、恋す
る乙女という単語で自分の心が抉られてしまう。
私が抱えるこれは、﹁恋﹂なんてものじゃなくてもっとドロドロヌ
メヌメした愛⋮⋮らしきものだが。それでも、やはり。
尊氏様と再開した余韻は、意外に少なかった。瞬間の衝撃は、凄ま
じく昨日の夜は寝れるだろうかと心配だったが案外寝れて。これは、
何でだろうか。
全く吹っ切れてはいないのに、期待していなからだろうか。現実と
して受け止めてはいるが、今も苦しいが、動揺はあまり無い。
﹂
自分でも自分自身がよく分からなかった。
﹂
﹁よっ、大丈夫だったか?
﹁たけ君!
81
そして、やっぱりたけ君は来てくれた。午後に来るかもしれないと
お店
時間を開けていたがこれなら、切り上げる必要はなくなったかもし
れない。
﹂
﹁まあ、大丈夫なんだけど⋮⋮この後、ちょっと時間ある?
が閉まる三時から五時の間﹂
﹁え、別にいいけど。どした?
さっぱり、悩みもせずに受け入れてくれたたけ君は、すぐに察して
心配そうな顔をしたが、私はにっこりとした笑顔で返した。
怖くなくても一
﹁昨日、あそこで物をなくしちゃって。取りに行きたいんだけどま
一人じゃ怖くてさ、じゃねぇよ!!
だ一人じゃ怖くてさ﹂
﹁はあ!?
人で行くな阿保。ハルさ、俺が今日来なかったらどうする気だった
﹂
んだよ⋮⋮まさか、しょうがないから一人でなんて、言わねぇよな
?
﹁う、うん。流石にそれは﹂
﹁そうか。なら、いいんだけど﹂
そういえば、たけ君が来ない可能性なんて考えていなかった。危な
いな。短絡的になっていた。
私が今日探しに行くのは、あの薔薇のネックレス。尊氏様と繋が
82
だていた唯一の証だし、昨日と今日で何回手が宙をまったことか。
本当は、探しに行きたくてしょうがなかったのだけど、一人では怖
いし、あそこは滅多に人が通らない、それに、暗いから気づかれな
いだろうと自分をどうにか納得させ我慢していた。
﹁じゃあ、三時半に迎えに来るから﹂
﹂
おま、な、なんでそれを﹂
﹁うん。ありがとうね、たけ君。このお礼は主にガッキー関係で返
すから!
﹁ほわっつ!?
私は、その時間まで仕事に集中出来ずにいて、久し振りにお皿を割
るというミスをした。不甲斐ない。
83
84
六話︵後書き︶
余談ですが、この間初めて姉に小説を書いていると告白しまして。
読んで貰ったのですが﹁よく、わかんない小説だね﹂と言われまし
た。⋮⋮あっ、美春の姉でなく作者の姉にです。
罵詈雑言が飛んで来ると思っていたので、私は今有頂天状態です。
貶されなかった!嬉しい!!
そして、本題です。この駄作、薔薇のネックレスが見つかるか見つ
からないかでルートが変わります。いえ、ゴールは変わりませんが、
それまでの道筋が、変わってしまうのです。どっちにしようか作者
は、猛烈に悩んでいます︵−︳−;︶
お読み頂きありがとうございました︵*^^*︶
85
七話︵前書き︶
今回も短いです。だぶーん。
86
七話
﹁ありがとう。じゃ、ちょっと待ってて﹂
たけ君に、昨日の路地裏にまで着いてきてもらい、ネックレスを探
していたがなかなか見つからない。薄暗いことはわかっていたので、
ランプを持ち出して地面を照らしながら探していてたのだが見つか
らない。
見つからない。
見当たらない。
どこにもない。
初めは、立て膝で探していたそれも、時間が経つうち、不安が募る
うち、地面に這いつくばっていて。服の汚れなど目に入らない、も
し、見つからなかったらどうしよう、と怖くて。胃から込み上げる
吐き気で気持ち悪くなって。それでも、必死に探しているのに見つ
からない。それなのに、見つからない。
﹁ハル、ほんとにここに落としたのか?﹂
すぐに終わるから手伝んなくていいと、立って待っていたたけ君も
途中から参戦してくれる。
﹁うん。確かにここだと思う﹂
たけ君は、決して諦めろ、なんて言わずに付き合ってくれた。もう、
探してから30分は経っている。
87
⋮⋮ないのかもしれない。
この路地裏に入る直前触った覚えがあるから、確かにここに落とし
たはずなのだ。ここにないのなら誰かに拾われた、のか。半ば、茫
然と俯く私に、たけ君は声をかけられずにいる。
﹁⋮⋮でも、これが神の御導きなのかも、ね﹂
陳腐で、おあつらえ向きの台詞をはいて。諦めない、諦めたくない
自分を蓋に閉じ込める。これは、世界を征す神の定めた事なのだと。
神のせいでネックレスが何処かへ言ってしまったのだと。
神の御導き、なんて使いふるされた言葉。諦めの悪い人間が、神様
なんて仰々しい偶像を自分勝手に使って自分の責任ではないと我が
神
儘を叫んでいるだけだ。その行き場のない苦しみや哀しみ、後悔を、
自分では到底敵わない誰かへのせいにして、怒りに変えて。
誰かのせいにしないと、感情のやり場がない。だから、都合の良い
神にそれを吐き捨てるのだ。
88
今まで、どんなことがあろうともこの台詞を言ったことはなかった。
自分の行動の責任は、自分で取らなくては。用意された破滅の道を
ただ転がり落ちるのではなく、自ら走りきってやると、そう決意し
て私は今、ここにいるのに。
そして、もう走りきってゴールに着いていると思っていたのに、こ
こはまだ途中だった。通ってきた道は、暗く霧がかっていて一歩先
も見えはしない。いつ、終わるのかも分からない。
それでも、もう終わっているだろうと。
そう、思っていたのに。
まだ、私は道を転がっていたのか。
そうやって、ささやかな、小さな私の宝物でさえ奪っていくのか。
奪った神を憎み、そして自分の不運を恨む。
﹁ハル⋮⋮﹂
﹁うん、⋮⋮大丈夫。私は大丈夫﹂
だいじょうぶ。
そう、自分に言い聞かせて。ついでにたけ君への返事を返す。
たかが、ネックレス。たかが、私の持つ唯一の宝。
我慢して我慢して、やっと怒りを嚥下する。失ったものは、仕方な
い。今まで沢山失ったじゃないか。
89
それが、自分の意思によるものかそうでないものかの違い。
どうやっても無理なことは、受け入れなくてはならない。世界の理
不尽さは、受け入れなくては。
﹁いちお役所の落とし物科にも連絡いれとこう﹂
﹁うん⋮⋮そ、だね﹂
落とし物科なんて、あってないようなものだ。ここでは、拾った者
がその物の所有者に入れ替わる。それに、例外はなく最早常識だ。
たけ君もそれを分かって、気休めで言ってくれているのだろう。
あれは、大切な大切な物だった。
90
酷い顔してるわよ、あんた﹂
ーーーー﹁このネックレスは、あの子の⋮⋮﹂
﹁ただいま戻りました﹂
﹁おかえり⋮⋮ってハル!
﹁あはは、やっぱりそうですか。えっと、運動して顔色でも戻そう
かな﹂
﹁⋮⋮ふぅ、まったく。じゃ、筋肉つけな。その細腕じゃ頼りにな
らないからね﹂
﹁はは、前よりは力持ちになったんですけどね﹂
女将さんと比べれば、誰だって細腕になるんじゃ、とは言わなかっ
た。女将さんは怒ると本当に怖いし。
お店が開くまで、私に出来ることはないし運動する前に自室に戻ろ
うとしたら、大将にまかないのおにぎりを渡された。今日はいらな
い、と言っておいたのに有無を言わさず渡されて、有無も言わず仕
事に戻っていく不器用さは、流石大将と言ったところ。
91
やっとまともに笑えそうになって、それでも次の瞬間には苦しくな
る。
﹁癖はどうにもならない、か⋮⋮﹂
諦めるのならこれも、治さないと。やる度に傷ついていたらどうに
もならない。
いつの間にか下を向いていた自分を無理矢理上を向かせる。
苦しくて立ち止まっても無理なものは無理。帰ってこないものは帰
ってこないのだから。
﹁あ、木宮さん﹂
﹁⋮⋮ひさしぶりだね、ハルちゃん﹂
五時になってすぐ、訪れたのは木宮さんだった。仕事が忙しかった
後、彼はいつも少し窶れていたが今回も相変わらずなようだ。ただ、
今回はいつもよりげっそりしてるし、笑顔も虚ろげ。私にあった︻
何か︼のように、木宮さんにも︻何か︼があったのだろうか⋮⋮
﹁疲れているように見えますが、大丈夫ですか?﹂
92
﹁ああ、うん。ちょっと、ね﹂
﹁無理はしないでくださいね﹂
﹁⋮⋮﹂
話してみても、木宮さんは少し変だ。よそよそしいし、何か戸惑っ
ているように見える。
もしかして、私は何かしてしまったのだろうか。
﹁あの、私何かしましたか?その、木宮さんの⋮⋮﹂
﹁いや﹂
寂しくなって、落ち込むと木宮さんは慌てて。
﹁ハルちゃんは悪くないよ。僕が悪い。真実は自分が今まで一番見
て来たのに、僕は情けないな⋮⋮﹂
急に私の無罪を強く主張し、何故か落ち込み始めるから今度は私が
慌ててフォローした。なんだ、どうした、木宮さん!?疲れすぎて
おかしくなっちゃっているのかもしれない。
﹁えっと、取り敢えずお疲れさまでした。ご注文は?﹂
﹁ああ、うん⋮⋮、あのさ僕は、﹂
﹁はい?﹂
﹁いや、なんでもない⋮⋮﹂
結局、木宮さんはお決まりの定食を頼んだが、言いかけた言葉を続
けることはなかった。
93
94
七話︵後書き︶
ありきたりなパターン回避ってどうすればいいんですかね⋮⋮。
今回も見るに耐えない駄文ぶりでしたが、お読み頂きありがとうご
ざいました!
9/3 ルビの振り方学びました。ご助力ありがとうございますm
︵︳︳︶m
95
八話︵前書き︶
木宮視点。前半の回想前の所に訂正点があります。
詳しくは、活動報告の方をご覧下さい。
96
八話
手元にあるのは、銀色の薔薇。小ぶりなそれは、良く見るとメッキ
ではないシルバーの気品を感じさせる。
ついこの間、拾ったこの薔薇にはチェーンがついているが、手のひ
らで転がしても微かな重みしか感じない。静かなそれに反して、僕
の心は鉛のように重苦しく嵐の海に沈んでいった。
このネックレスは、間違いなく彼女のものだ。
疑いの余地もなく、これは彼女の宝物で、彼女の思う彼の存在その
ものを表している。僕は、このネックレスに少なからず、いや大き
な嫉妬と不満を覚えていた。無意識でも、彼女が求めているのはい
つも顔も知らない誰かであり、僕ではない。それが、悲しく、苦し
かった。未だに抜けない癖も彼への執着をまざまざと見せていてい
るようで、それを見るたびに僕は、まだ彼に勝てないのかと⋮⋮
今は、彼より僕の方が会っているはずなのに。
だが、今はまだ彼女の思う誰かが、誰であるかを僕は知っていない。
だけど、やっと彼女の正体を知ることが出来た。随分とおかしなこ
97
とだ。僕は好きな人の本名さえ知らなくて、それ以前に知ろうとも
思わなかったのだ。
だって、僕にとって彼女が何者かは問題なかったから。彼女が彼女
であれば、それで、⋮⋮それだけでいいのに。
それだけで良かったのに。
その真実のピースの欠片は、全く関係ないと思われた事柄から突如
発生した。
﹁えっ、あの葉月殿が?﹂
僕の家は子爵ではあるが、勤勉な姿勢で国家に仕え、多少の実績を
あげていたためにそれなりの地位持ち、情報収集能力においては侯
爵家以上と自負する情報家でもある。
ある日、﹃hope﹄からテイクアウトした紅茶とスコーンを摘ま
みながら、書類を片付けていた僕に入ってきたのは驚きの内容だっ
た。
98
それは、あの葉月尊氏と如月家の長女が破局した、という信じられ
ないもの。葉月家とは、侯爵家であり立場としては公爵家の下に当
たるが、彼らの実力と王からの信頼は公爵家のものと等しく、正し
く権力者の家のひとつであることは明白な事実であり。その上、現
当主である葉月尊氏は歴代当主の中でも一二番を争う賢主と言われ、
政に居座る負の怪物を見つけ出し、次々の駆除する姿は正に理想の
騎士である。たぐいまれなる才能と実力と、蛇足と言われる程に整
った彼を悪く思う者は、モテない男か何かしら罪を犯したものだろ
うと、そんな噂さへまことしやかに囁かれる。
そんな完璧と言わしめん程に神に愛された男は、冷遇された美しく
聡明な女性に恋をした。深く愛し合う彼らは、彼女の実家の妨害や
醜い妹の我が儘に耐え、破り抜き、漸く結ばれたのだ。と、こんな
ドラマチックなノンフィクションに人々は理想を見たはず。そして、
もうそれから二年も月日は経ち葉月尊氏が一掃した汚職の山は、着
々と増え続けている。
彼らは、当たり前のようにそのまま結婚するのかと思っていた。あ
れだけの大きな事件を起こし、九年ぶりに結ばれたのだ。まさか、
別れるとは思わないだろう。
折角結ばれたロミオとジュリエットを破局させる作者はこの世にい
るだろうか。絶対にいない。
だが、彼らはそれをやってみせた。
その事実は、勿論僕を驚かせたが。更に意外なことは、今になって
葉月尊氏が元恋人の妹、如月美春を探しだしたことだ。それまでは、
元からいなかったが如く探してもいなかった彼女を、急に大がかり
な人を使って探し始めるというのは、おかしな話である。この事は、
彼女との破局以上に首を傾けさせた事であり謎でもあった。妹の美
99
春は公に罪をおかしてはいなかったと判断され、世間での評判はと
もかく、失踪を咎める者はいない。
何故、急に彼女を探しだしたのか?
恋人と別れるのは、痴情のもつれからだと深く疑うことはしないが、
妹の探索だけは理由が分からず何らかの事件性を匂わしている。
それから、僕は情報通の名に恥じない様その件について調べること
を始めたのだ。
葉月尊氏。彼は、調べても調べても、人間ひとつはあろう汚点とい
うものは殆ど存在しなかった。彼の辿る道は、清く正しくを体現し
ていて。弱味というものは、存在しない。彼とは、協力関係でも対
立関係でもないが、いまこの家が彼と対峙しなくて良かったと心か
ら思った。
ただ、ひとつ。気になる点があるとしたらそれは、あの如月家の次
女如月美春のことについてのみだ。華族、庶民と一般的に広がって
いる彼女の噂は、大半が彼女に不利なものであり、あの仮面の下に
は、彼女自身のもたらした我が儘による傷がまざまざと刻まれてい
るのだろうという。実際に僕だって、当たり前のように聞いた噂を
そのまま受け取り、それを信じこんでいた。
彼女が悪いのだろう、と。
僕は失念していた。噂はただの噂で、事実はいくらでも改竄出来る
ということを。目の前に広がる餌に無闇に飛び付くのは阿呆のする
ことで、僕らはまずそれを観察して、見極めなければならないのだ。
100
結果的に、彼女の顔の傷は彼女自身の我が儘も含まれていたが、葉
月尊氏にも過失はあった。彼は、当然の贖罪をしているに過ぎない。
彼の性格から、彼自身が彼女をわざと不利にするはずもない。かと
いって、わざわざ訂正して回るほどの聖人君主でもないからきっと、
他の誰かが意図してその噂を広げたのだろう。
そして、キーパーソンは、如月美春。彼女は葉月尊氏にとって元恋
人の妹であり、元婚約者である微妙な立場の女性だ。彼女は、件の
顔の傷のため顔をすっぽりと覆った仮面を常に身につけ、随分と傲
慢に振る舞っていたらしい。
情報によると、事件以前は少し我が儘だが素直で活発な少女。いや、
美少女だったらしいが、性格が酷くねじ曲がってしまった。婚約者
の前では、甘く甘えて見せたが裏ではやりたい放題の問題児。社交
界からも、両親からも、まして葉月尊氏にさえも見放され嫌われて
いた少女は、告発の日と同時に忽然と姿を消した。
当時、彼女は犯罪に手を染めてはいないと判断され、指名手配を受
けることなく今は何処かで静かに暮らしているのか。それとも、行
きなり崩れた豪華な暮らしに耐えきれず何処かでのだれ死んでいる
か。二年前は、どうでもいいと思っていたのだ。だから、わざわざ
探そうなんて思いもしなかったのだ。
今回の婚約破棄の裏には彼女がいると思って間違いはないだろう。
彼女は一体何をしたのか?
一体どんなことをしてあの黒の貴公子を焦らせているのか。
101
検討もつかないが、それはきっとこれからの木宮家の政治活動にお
いて重要なカードになり得るのではないか。完璧であるはずの葉月
尊氏の弱味を握られるのではないか。
僕だって、お優しい人間ではない。家のために、時には汚い手も危
ない手も使って見せる。
二年前の事柄だって僕の情報網を使えばきっと掴める。何の理由も
なしに市街へ出向いているわけではない。華族たちが一見馬鹿にし
ている市街は、情報の宝庫だ。そして、そこにいる人々は位の高い
人間に排他的でなかなか口を割ろうとしない。だから。何かしらの
情報を得るには、市街に出向きそこにいる人々とふれあい懇意にな
ること。重要な情報を掴むことが出来るのだ。
まあ、最初はそんな理由で市街へ赴いていたが今は違う事情もある。
生まれて初めて恋をしたのだ。
恋した彼女は、明るく活発な、どことなく儚さを感じさせる美少女
だ。華族は一般的に美しい女性が多いがあれほど綺麗な女性はそう、
いない。隅々までとはいえないが、天使の輪が輝くような銀色の髪
と微かに瑠璃紺色の混ざった菖蒲色の瞳は、神秘的でそれこそ地上
に降りた天使のように見えるし、何より笑顔が可愛らしい。真っ白
な肌にぼんやり赤い頬。作り笑いでなく目を細めてくしゃりと笑う
彼女は純朴で誰よりも美しく。
これが、女性本来の自然な美なのではないか、と社交界の禍々しい
女性たちを見た後には多大なるカルチャーショックを僕に起こさせ
た。
彼女は美しい。僕が出会った誰よりも美しい。
だが、ここまで惚れている理由は容姿だけのせいではない。彼女は
102
二年前忽然と姿を表した。訳ありのようで、慣れない様子で仕事を
している様子は見ているだけでひやひやしたし、フレンドリーで親
しみやすい市街の人とぎこちなく遠慮ぎみで話す様子は、危うさを
感じた。
不思議なことに、彼女の容姿であればもといた場所でも大いに口説
かれたろうに、初期の彼女は一回一回顔を赤く染め、慌てるものだ
からうぶで可愛らしいと男女問わず好かれるようになった。何故、
彼女は褒められるのになれていないのか、理由は分からないがその
頃にはだったら僕がたっぷり褒めて慣れさせてあげようと自然に思
っていた。
彼女は、努力家で笑顔を絶やさず、いつも人を気遣っている。⋮⋮
そして、一途だ。
だからこそ、ここまで惚れている。美人は3日で飽きるというがそ
れは嘘だ。実際は三ヶ月。三ヶ月で見慣れてしまう。それでも見飽
きはしないのだが。
そして、僕が彼女に積極的にアプローチをかけ始めたのは彼女がそ
こで勤め始めてから七ヶ月目から。僕は、外見だけでなく、中身も
彼女を好きになってしまったのだ。
身分差だってある。薄々彼女には忘れられない人がいるのも気付い
ている。彼女の外見がもし酷く醜かったとしても彼女にゾッこんだ
ったなんて嘘くさいことも言わない。外見だって大切なのだ。
それでも、事実として僕は彼女に恋をしている。彼女と結ばれたい
と思う理由なんて、頑張る理由なんてそれだけで充分じゃないか。
103
﹁話が脱線していた﹂
恋は人を愚かにするらしい。
ふとした拍子に思い付くのはいつも彼女、ハルちゃんで。色ボケた
頭を必死に振り分け直そうとしてやっと気が付く。
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
どうして今まで思い付かなかったのか、呆然とするほどに目の前の、
明白に目を閉ざしていた。
﹁まさか、ハルちゃんが如月美春?﹂
導き出たのは、二年前忽然と姿を現せた、食堂で働く美少女ハルち
ゃんが、それと同じ時に失踪した仮面の少女如月美春であるという
こと。
104
よくよく考えればすぐに繋がることなのに、如月美春が見るに耐え
ない醜い容姿である、という固定概念が僕を疑わせなかったのだ。
この結論は、ほぼ断定的にとらえてもいい。
銀髪に、瑠璃紺色の混じった菖蒲色の瞳。これは仮面の厚さによっ
て如月美春の正しい瞳の色は知ることが出来なかったが彼女の瞳か
紫色なことは知られている。これらは、見ようによって180度そ
の姿は変わるのではないか。一方は、神々しい天使のようで、
もう一方は異教徒の老婆。市街のハルちゃんと如月家の美春は同じ
材料から出来ている。
ハルちゃんは如月美春と大きく異なり、容貌は醜いのではなく美人
で気立てのいい明るい女の子だ。それでも、性格だって偽ることが
出来たし、如月美春はそもそも仮面の下を誰も見たことがないのだ
から本当に醜いか、なんて分かるはずもないだろう。如月美春は、
本当は美人だった?
あのハルちゃんの性格は、僕が一番知っている。いつも心優しく、
明るいあれが偽りのわけがない。彼女の本性はハルちゃんだ。僕は、
彼女をずっと見てきたのだ。それくらい、分かる。
では、何故ハルちゃんは如月美春の時にわざと我が儘に傲慢に振る
舞っていた?
105
何故だ。理由が思い付かない。彼女がそんなことをするメリットは
?彼女が本当に心優しい性格ならどうして、そんなことをする必要
があったのか?
分からないことだらけだが。だからこそ、確かめなければならない。
最早、これは家の繁栄のためでなく、一人の男としてハルちゃんの
事が知りたいんだ。
そう、そう思っているのに、僕は彼女に会いに行くことが出来ない。
仕事の忙しさに構えて、真実を知るのが怖くなっていたから。もし、
﹂
万が一なんて事があったら僕はどうすればいいのか、なんて悩んで
ハルちゃんが!!!
屋敷に閉じ籠った。
﹁大変です!
ちょうど僕が彼女に会おうと決心した日の事だ。店に向かう道中、
顔見知りの警備員に呼び止められた僕は急いでその現場に向かった。
どうしてよりにもよってあんな道を通るんだ、ハルちゃん。
106
﹁っはぁ﹂
僕が彼女を助けてあげないと。僕だけが彼女を助けられる、僕が彼
女を助けたいのだと走った先には、地面にのびたごろつき達と服を
破かれ踞った彼女。そして、その間に立つ一人の男だ。
その時僕の体中を駆け巡ったのは、安堵と嫉妬。もう少し早ければ
僕が彼女を助けていたのに。先を越されてしまったと。
⋮⋮自分の腹黒さは自覚していたが、ここまで性格が悪いのも初め
て知った。
彼らのいる路地裏は屋根に囲まれ光を通さない。僕のいる明るい道
からそこを見るのは困難に等しかったが、それでもシルエットは見
えて。顔はさっぱり見えない。
そして、当然僕はその中に入ろうとした。が、始まった彼と彼女の
会話は僕を停止させるには充分すぎる内容だったのだ。
107
八話︵後書き︶
もう、ここまで更新が遅れることはない⋮⋮と思います。ええ、多
分。
お読みいただきありがとうございました。
108
九話
それは、遠慮ぎみな﹁⋮⋮⋮⋮大丈夫か?﹂という一言から始まっ
た。その聞き覚えのある声は、細く自信がないように感じる。
誰の声だろうか、⋮⋮なんて。
この時点で、その男が誰であるか悟った僕は、いや、そんなはずが
ないと自分に言い聞かせた。そんなはずはない。だって彼は、こん
な所にいる人間じゃない。
それに、あの完璧な男がこのような頼りない声を出すはずかない、
と。実際は、彼が葉月尊氏でないことを祈っていたのだと思う。
もし、男が葉月尊氏だとしても。
これまでの情報を繋げると彼らの間にはそれなりの因縁があるはず。
そして、それは悪い方向にあると考える方が妥当であり、彼と彼女
がここで出会っても僕の恋路に影響はない。
⋮⋮そうでなければ。もし、葉月尊氏が彼女に好感を持っていたら
僕はこの男に勝つことが出来るのか。
それにしても、ただこの一言で全てを判断するには早すぎる。
109
﹁お前は、美春なのか?﹂
驚くべきことに、男は二言目にいきなり核心をついてきた。動揺し
ているのは、僕だけなのか。確かに、ハルちゃんが如月美春である
ことについてある程度の確信は持っていたが、改めて言葉にして聞
くと一瞬時を止めるほどの衝撃がある。
ハルちゃんを如月美春なのか、と聞く男の言葉は質問ではなく確認
だった。この男は、彼女の正体を知っているのだ。
言い逃れが出来ない。そんな状況でハルちゃんはどんな答えを出す
のか、否自らの口で自分の正体をやっと口にするのか。僕は、不安
のなかに少しの期待を見つけたのだが。
﹁誰のことですか?そんな方存じ上げません﹂
ハルちゃんは、それを全面否定した。確信している彼にとっては、
しらばっくれているのと同じ事。あの明るく嘘のつけない彼女が済
まし顔で悪びれなく嘘をつくのは、意外だった。これがハルちゃん
の本質なのか。偽っていたのは、市街のハルで本性は如月美春?
僕の見ていた彼女は偽りのモノだったのか。
僕が疑心暗鬼で動けない頃、彼は怒りで身動きがとれていなかった
らしく。一拍開けてから、響いた振動は純粋な怒りのみだ。
110
﹁何故、嘘をつく。お前は、美春だ。その銀髪とその声を私が見間
違えるはずかない。顔の傷は見当たらないがとっくに治っていたの
だろう﹂
﹁嘘ではありません。私はハル。ただのハルでございます﹂
﹁違う!!お前は、美春。私の元婚約者、如月美春だ!﹂
﹁⋮⋮美春ではありません。名字もございません。ハルです﹂
﹁何故そんなにも頑ななんだ。私がどれだけお前を探したと⋮⋮﹂
勢いのあった男の声は、重なるハルちゃんの否定で徐々に力を失っ
ていく。最後に残ったのは、哀しみと悔しさか。
彼女は未だに自分を如月美春だと、そう、自白はしていなかったが。
今の会話で決定的に分かったことがある。彼は、僕の予想通り葉月
尊氏であることだ。
彼女の元婚約者は、葉月尊氏ただ一人。当たってほしくなかった僕
の悟りは残念なことに的を得ていた。
それにしても、葉月尊氏のイメージは完璧に崩れかけている。彼は、
たった一人の憐れな少女に無様にも懇願しているのだ。自分が如月
美春であると名乗ってくれと。
否定しないで、と。
﹁何故探して⋮⋮﹂
﹁お前が急にいなくなるからだろう!!﹂
111
彼女を探していたと知る僕にとっても今更な、その言葉はやはり葉
月尊氏の燗に障ったらしく、これまでで一番大きく声を荒げた。
何故、如月美春を探しているのか。その答えを唯一持っている葉月
尊氏は、結局のところ彼女の質問の本質をとらえてはいない。僕ら
が疑問なのは、何故今ごろになって急に彼女を探し始めたのか、で
あって、彼はその正しい答えを言おうともしない。
もしかしたら、噂と違い葉月尊氏は如月美春のことを嫌いではなか
ったのかもしれない。だから、いなくなったことに困惑したのかも。
⋮⋮いや、それならばもっと早く彼女を探している筈だ。二年も経
ってから、探し始める理由はない。では、反対に今になって探す必
要が出来た?
最近、彼のなかであった大きな出来事は、恋人との破局。これなら
如月美春にも関係性がある。
恋人と別れなければいけない原因が、如月美春にあるから彼女に用
が出来た。そして、それを解決すればまた円満に恋人と復縁する事
が出来る。そんな筋書きなのか。
と、
僕はあくまで自分に都合良く考えていた。
112
プロローグ
今まで僕を困惑させてきた会話は、全てが前置きであり、これから
が本番なのだと、やっと僕は知る。
﹁それとも、新しい男が出来たから邪魔されたくないと?だから、
嘘をついてここに留まろうとしているのか!!﹂
﹁⋮⋮新しい男?﹂
﹁しらばっくれるな。私は﹃hope﹄の店長からお前らしき女が
来店した、と聞いたから捜索範囲をここに絞って。今日だってお前
を探しに来たんだ。こんなにすぐ見つかるなら、人なんか雇わずに
さっさと自分で来れば良かった﹂
そうか、葉月尊氏は。
ハルちゃんは、葉月尊氏の本当の想いを理解していない。それでも、
僕はこれらの言葉で彼の本意をすぐに察した。そして、ただただ呆
れ驚く。高級ブランドのログがマークされ、丁重に包装された箱の
中に野道に咲いた花が一輪入っているような、そんな驚愕。
だけど、その小さな花は僕の宝物だから。
113
それは。
彼の語るそれは、彼女への熱烈な愛の告白であって。
僕らは同じレースを走るライバルなのだ。
彼が語る言葉はいかにようにも受け取りかたは存在するが、所謂同
志の勘というやつか、僕はこれが離れ行く彼女への不安と嫉妬、共
にいたいと望む執着だと、当たり前のように受け止めた。
あの有名な葉月尊氏に嫉妬されたことに喜べばいいのか、思わぬ強
敵に嘆けばいいのか、僕には判断しかねたが彼女には忘れられない
人がいる。
元婚約者で、それでも自身の手によってそれを破棄した彼は兼ねて
から恋い焦がれていた筈のハルちゃんの姉と結ばれて。はたまた、
それでもやっぱり破局して婚約者の元へ帰ってくる。なかなかに複
雑な話ではあるが、僕は彼は男としていかようなものかと、情けな
いというか、意気地無しというか、優柔不断というか、言いようも
なく苦く感じる。
要は、軽く失望したわけで。
僕は、葉月尊氏に比べれば社会的立場も容姿も人望も劣ってはいる
が、恋した人を大切にする誠実さだけは勝てているような気がした。
これは、人と人との関係のうち一番大切なものであり、彼女の忘れ
られない人が訪れない限り僕の方が優位なのではないか、と思う。
114
﹁今まで、私に引っ付いてきたのに。私が告発を手伝ったから憎く
なったのか!?それで、逃げたしたのか!?﹂
それは、貴方が言えた口か?
少なくともその件について、彼女が責められるべきことはないので
はないか。ハルちゃんだって気付いていた筈だし。彼と姉が愛し合
い、彼女がお邪魔虫であることは衆知の事実で、社交界の空気も彼
女の存在を咎めていた。
葉月尊氏だってそれを、分かっていたはずなのに彼女には逃げ出し
た理由を聞くのか。もし、ハルちゃんが貴方を憎いと答えてもそれ
は、仕方のない道理だ。彼女は婚約者から邪険にされ、家も奪われ、
挙げ句に自身の姉と婚約者が結ばれる。その上、世間には彼女の悪
評で溢れている。
逃げたしたって仕方ないじゃないか。
ハルちゃんに、同情した。これでは、ハルちゃんが自分が如月美春
でないと、否定してもしょうがない。
彼女には、その権利がある。
常に中立の立場で、との心掛けが崩れ去り、心の天秤が大きく傾い
ていた頃。長い沈黙を終え、聞こえてきたのは小さな怒りのような
ものだった。
115
﹁⋮⋮もし、もし私が美春だったとして貴方に私の気持ちが分かり
ますか。貴方に私の苦しみが、悲しみが。貴方に解る筈がない。私
は貴方に会いたくなかった﹂
これは、彼女の声か。
彼女はこんなにも冷たい声を出せるのか。抱えてきた憎しみと彼を
突き放す声は静かに、地から吹き出すように染み出てくる。
やはり、ハルちゃんは葉月尊氏は好んでいないのだろう。
﹁⋮⋮美春、私は﹂
落ち込んだ、哀しげな声はポツリと、彼らの間を過ぎたがそれに答
えるものはいない。
116
そんな、あからさまな痛ましさで彼女にすがるなんて。狡いじゃな
いか。
僕の苛立ちが最高潮に達したとき、人の気配を感じ、さっと姿を翻
す。駆けつけてきたのは、武君だ。
﹁ハル!!大丈夫か!?﹂
僕の入れなかった空間に、迷わずさっさと乗り込んでいく進んでい
く姿に憧れる。寧ろ、彼らに対して深く考えていないから出来るこ
とだろう。
そして、武君というイレギュラーが入ったことで劇的に話が進み。
﹁⋮⋮ま、待て!﹂
﹁⋮ハル、いいのか?﹂
﹁うん。いいの、もう二度と会うことはないから﹂
117
彼の懇願を無視して、ハルちゃんは去っていく。無言で俯いている
彼は何を思っているのか。
勿論、同志としてその気持ちが分かる。
それでも、同情なんかしない。
彼は、暫く立ち尽くしてそれからその奥の暗闇に消えた。
﹁⋮⋮﹂
当事者達の消えた舞台にやっと踏み込んだ僕のこの気持ちは、なん
と言えばいいのか分からない。胸のなかには、恋情による悲しさ、
苦しさ、空しさに歓び、優越感が渦巻いている。
ここにいてもしょうがない、と。
僕もまたここを去ろうとしたときに、地面がひとつ輝いた。角度に
よって見えたり消えたりするその光が気になって拾い上げたら、そ
れは小さな薔薇だ。
118
﹁このネックレスは、あの子の⋮⋮﹂
119
十話︵前書き︶
滅茶苦茶急いで書きました。
120
十話
たける
﹁それで、武ったらさぁ﹂
﹁うんうん、それで﹂
これで、何回目だろうか。ガッキーのノロケ話を聞くのは。あの後、
さりげなくガッキーとたけ君のデートを取り付けたのだが、たけ君
はどうやら上手いことしたらしい。
﹁でさ、そのオレンジ色の髪が好きだって。私の明るい性格とこの
髪色がマッチしてて、いいねって。馬鹿だよね、あいつ﹂
﹁でも、私もガッキーの髪色可愛くて良いと思うよ﹂
﹁えー、そんなぁ。ハルったらおだてても何も出ないからね﹂
﹁うん。本心。本心だから﹂
﹁まだあるんだよ!﹂
まだ、あるの⋮⋮
たけ君は、もう告白まで済ましていて返事待ちだそうだが、これは
もうどう見てもOKでしょう。なんてたって、今まで絶対に言わな
かった自分の本名を言うくらいだ。
あんなに、自分の名前を言うのを拒んでいたくせに、いきなり抱き
つかれて、ガッキーの本名を交えたノロケを言い出されたときには
どっちに突っ込めばいいのか、分からなかった。
ひめか
ガッキーの名前は、姫香というらしい。
121
私は、世に流行っているキラキラネームをつけられていたんだろう
なと思っていたから、案外普通で拍子抜けして。ガッキー曰く、小
さい頃はやんちゃでガキ大将をしていたそうなのだが、当時好きだ
った男の子に、﹁姫香のくせに全然姫じゃねぇじゃん。ぶっはー!
!!姫とか似合わねぇ。お前、姫は姫でも西ローランドゴリラ族の
姫なんじゃねぇの!?ほら、言ってみろよ!!うほうほー﹂とから
かわれたらしく、コンプレックスになってしまったんだとか。
﹁なんだ、その子は。ムカつくな﹂
﹁でも、まあいいの﹂
﹁ガッキー⋮⋮、やさし﹂
﹁半殺しにしてやったから、ふふふ﹂
﹁ほぁー﹂
え、でもまだやんちゃだよね?なんて冗談混じりで言おうとしてい
たが止めた。半殺しにはなりたくない。
やっぱりガッキーは女将さんと血が繋がっているらしい。
﹁ーーーそれでねぇ、今度の週末またデートしようって約束してて﹂
﹁うんうん﹂
﹁今年こそは、星誕祭で独り身じゃないし。毎年、カップルを撲滅
してやろうと筋トレに勤しんでいたけど。あー、七月が楽しみだな
ぁ﹂
﹁ぼ、撲滅?筋トレ?う、うん。まあ、嬉しいなら何よりだよね﹂
﹁あれ、何?筋トレの方法気になる?えっへん!!自流なんだけど
ね、パンチする時って腕の筋肉じゃなくて全身の筋肉が大切なのよ。
122
特に、下半身。ちょっと腰を回すことで全身のパワーが拳に乗るっ
て言うか。ああ!!でも、やっぱり腕の筋肉は大切でさ。皆、一見
力こぶの、目に見える上腕二頭筋ばかり鍛えがちだけど、忘れちゃ
いけないのが上腕三頭筋でさぁーーー﹂
﹁うん、う⋮⋮ん﹂
﹁因みに一番好きな筋肉の部位は、背筋だね。まあ、メジャー所だ
けど、背筋はねぇ。背筋は重要だよ﹂
﹁⋮⋮うん。背筋の素晴らしさには激しく同意するけど﹂
﹁ていうか、武ってどれくらい強いのかなぁ。ケンカしたら私と武
どっちが勝つと思う?﹂
それは、どう答えたら正解なのかな?
たけ君と答えたら、なんだかんだガッキーの持つプライドが傷付き
そうだし、ガッキーと答えたらたけ君の立場が⋮⋮
そして、何をどうやったら恋人︵予定の人︶と物理的にケンカする
発想に至るのかが不思議。ガッキー、不思議ちゃんだね。
﹁う、うぅん。それは、どうかなあ!?私にはちょっと計りかねな
い、というか﹂
﹁えぇ、じゃあさ﹂
﹁それより、ガッキー!!星誕祭ってカップルで行くものなの?私、
一回も行ったことがないから分からないんだけど﹂
﹁えっ、今更!?﹂
やっと筋肉の話から離れられた。今回はガッキーの名前と共に、筋
肉フェチであることが知れた。大収穫だ。たけ君に今すぐ筋トレに
勤しめ、と忠告しなくちゃ。特に背筋。
123
﹁あのね、星誕祭ってのは夜の空に見える天の川のってそこは知っ
てるよね﹂
﹁流石にそこはね。織姫と彦星が年に一度会える日なんだよね。で
も、彦星も怠けていたから自業自得だけど織姫は可哀想。せっかく
恋人が出来たのに、ってああ!﹂
﹁そうそう、その伝説にちなんで後夜祭では恋人とダンスをするの。
それが女子のステータスでもあるんだから﹂
﹁恋人と⋮⋮﹂
﹁そう、恋人と!!そして、恋人のいない女子は、端っこで白いハ
ンカチを噛み千切るのよ﹂
﹁噛み締めるんじゃなくて、破いちゃうの!?﹂
﹁私はそうしてた!﹂
﹁そ、それはスゴいね!?﹂
流石だな、ガッキーと思いながら、ふと尊氏様と踊ったことを思い
出した。尊氏様は、踊っている最中に嫌な顔はしなかったけど婚約
者の義務を果たしたらさっさといなくなる。
私は、毎回消え行く背中を寂しく見送っていた。だから、ダンスと
聞くと胸がきゅっと痛くなる。
豪華な屋敷に、輝くシャンデリア。おほほ、と笑って何百万のドレ
スで着飾った女性たちは私とは違う目に見えない仮面をつけて踊っ
ていた。あれは、きらびやかな夢の世界ではない。決して、ガッキ
ーが憧れているような楽しい世界ではないのだ。
もし、光の大河が降り注ぐ豪華でもなく気品もない、どんちゃん騒
ぎの原っぱで。安くて生地の薄いワンピースを着ていたら、私は幸
せに踊れていただろうか。踊りたい相手は、尊氏様しかいないけど、
124
尊氏様に安いシャツもどんちゃん騒ぎも似合わない。彼は、産まれ
た時から人を従えてきた人間で、彼に今の私のような生活なんて耐
えられないはずだ。
それでも、夜空の下で尊氏様が優しい笑顔で一緒に踊ってくれてい
る。そんなあり得ない想像が頭のなかを支配して。想像だけでも、
幸せな気持ちになれた。
﹁⋮⋮それにしても、ガッキーってあだ名、名前の姫香と掠りもし
ていないけど何でなの?﹂
﹁え゛、なんか言った?﹂
﹁なんでもないです﹂
ガッキーの抱える秘密は、まだまだ多そうだ。
頑張れたけ君!南無三!
125
﹁はい、昼の営業時間は終わり。食材足りないかもしれないからハ
ル、買ってきてくれる﹂
﹁分かりました。ちゃちゃっと行ってきます﹂
あれ、なんかこのくだりあの日と少し似てるな、と思いながらも考
えると胸が痛むのでなかったことにした。最近になって、漸くネッ
クレスを掴む癖も抜けてきて、なかなか治らないだろうと思ってい
たのに。人間の一番の才能は忘れられることだ、と聞いたことがあ
るが案外すぐになくなったこの癖と共に、尊氏様との記憶も薄く、
最後には忘れ去ってしまうのだろうか。
確かに、辛かったことも多かったけどこの思い出が消え去ってしま
うのは悲しい。
気が付けば、渡された硬貨をぎゅっと握り締めていた。硬貨は、人
と人との間を行き来して、最後には錆びで鉄臭くなっている。この
錆は歴史なのだ。
⋮⋮強く握りしめるとその匂いが手に染み込むから、嫌だったのに。
もしかしたら、人間もこの硬貨と同じようなものなのかもしれない。
そんな高尚ぶった考えが浮かんできて、尊氏様にそのセリフを言っ
てみたら皮肉を返されるのか、それとも同意されるのか、想像した
ら頬が勝手に弛んでいた。
どうやら、まだまだ記憶と想いは、薄れていないらしい。
この街に来た当時とは、考え方が違っていてそれがなんだか嬉しか
126
った。
あれから、また木宮さんもお店に現れるようになったし、やっと明
るい日常に戻った。
近道するには、この路地裏を通ると早いけどもう同じ轍は踏まない。
そこを素通りして、表通りに向かったのだが。
﹁なんてこった﹂
まだ、私は日常には戻れていないらしい。
表通りの太い道路の路上に堂々と鎮座する黒光りの馬車を見て、私
はすぐに悟った。
127
十話︵後書き︶
元ガキ大将は母で、西ローランドゴリラは私です。ゴリラなめたら
アカン。
ほぁー
128
十一話︵前書き︶
八話、回想前部分に訂正があります。是非、見直してくださいm︵.
︳.︶m
129
十一話
その人は、いつもの微笑を携え馬車の前に立っていた。ご年配にも
関わらず、背筋はピンとたっていて気品すら感じさせる彼は執事の
見本だ。
﹁お久しぶりでございます。美春様。以前は仮面でご尊顔を拝見出
来ませんでしたが、これは、これは。たいそうお綺麗なお顔をして
いらっしゃる﹂
相も変わらず、スローペースで話すご老体は尊氏様の専属の執事、
孝太郎さんだ。尊氏様を産まれた頃から知っている彼は、尊氏様の
ことを知り尽くしていて、表に出ることはないが影で完璧なサポー
トをして見せる影の執事。
私は、孝太郎さんが苦手だ。彼は、なかなかの曲者であるから。
﹁⋮⋮何を言っているのかさっぱり分かりません﹂
﹁ほっほっほ。左様でございますか。それならば、それで宜しい。
少し付き合ってもらいますよ﹂
﹁嫌です﹂
有無を言わせない強引さ。酷く身勝手であるのに、いつも相手は彼
の口車に屈し、手のひらで転がされるのだ。
﹁ふむ、それは困りますな。理由を伺っても?﹂
130
﹁⋮⋮今、ちょうど買い出しの最中なんです﹂
うち
﹁ええ、パセリと人参、それに巾着那須でしたね。ご安心下さい。
家の者に買い届けるよう言い聞かせてあります﹂
﹁!、何で、知って﹂
﹁他に理由はございますかな?﹂
﹁⋮⋮これから仕事もあるんです﹂
﹁それも、家の者に美春様の代役をするよう言っておきました。配
属されたものは、華族向けの高級ホテルで働いていたホールスタッ
フであります。貴女の抜けた穴は、完璧に塞がるでしょう。いや、
それ以上のことをしてしまうかも。⋮⋮ふむ、これは、失礼なこと
をいたしました。お詫び申し上げたいので、是非こちらの馬車にお
乗りください﹂
なんて勝手なことを。
わたくし
﹁絶対に嫌です。孝太郎さんの言いなりになんてなりませんから﹂
﹁はて?何故、私の名前をご存知でいらっしゃるのでしょうか?先
ほどまで貴女は一応、如月美春ではない設定でいらしたと思ってい
たのですが。ええ、そこを深く掘り下げられるとお困りになってし
まいますね。申し訳ありません。少し意地が悪過ぎてしまったよう
です﹂
﹁っ貴方は、一体何がしたいんですか﹂
﹁私は、ただ主に幸せになって貰いたいのですよ。そろそろ、人の
目が気になって来た頃でありませんか?さあ、早くお乗りになって
下さい﹂
﹁だから!﹂
﹁ええ、ええ。私貴女様に乗って頂けないと、困って誰かに相談し
てしまうかもしれません。つい、ポロっと。美春様が駄々をこねて
困っているのですと﹂
﹁⋮⋮それは脅しですか﹂
131
﹁いえいえ、そんな野蛮なことは致しません。ただハルと名乗られ
るお方の本名は如月美春と言うのですよ、と親切心で教えてさしあ
げるだけですよ﹂
﹁だから、それが脅しだと、﹂
﹁因みに、今現在は貴女の御名前を先方にお伝えしておりません。
勿論、分からないようにカモフラージュもしてあります。ですが、
困りましたね。あと五分経っても私から連絡がなければ、先の方々
にご相談しなさいと言ってあるんです。⋮⋮おお、失礼。あと四分
でございました﹂
﹁⋮⋮どうしても行かないと行けないんですね﹂
﹁それは、貴女様が決めることでございましょう。私は来て頂きた
いのですが、貴女が断るのなら別にかまいませんよ﹂
﹁それで断ったら、私が如月美春だと言うのでしょう?﹂
﹁そうなりますね﹂
﹁私に選択肢なんてないじゃないですか﹂
﹁貴女がそう感じたならそうなのかもしれませんですな﹂
﹁⋮⋮どこに行けばいいんですか﹂
﹁それは、着いてからのお楽しみであります﹂
結局、この人の言いなりになってしまった。一見、優しそうなお爺
さんなのに、中身は目的のためなら手段を選ばない怪物だ。
ニコニコと完璧な仕草で、恭しく馬車のドアを開けた孝太郎さんを
一瞥して私は慣れた足運びで馬車に乗った。この馬車は、二年前ま
で当たり前のように乗っていたものだ。外見に負けず、内装も豪華
絢爛で椅子に座ると体が沈む。久し振りのその感覚に一瞬、戸惑い
かけたがすぐに慣れた。
132
二人乗りのこの馬車は、向かいにもうひとつ椅子がついていて、そ
こにはいつも尊氏様が座っていた。一言も話さずに、私の他愛ない
話に時々頷く彼は、いつもつまらなそうだったけど、私は二人きり
だったことが嬉しくて。今、思うと馬車の中が一番楽しかったのか
もしれない。
出ますよ、の声と共に馬車が動き出す。私は、どこに向かい何をさ
せられるんだろう。
あの時は、貞操の危機とか、まさか尊氏様に出会ってしまうとか、
その上私のことを探していたなんて回天同地なことを言うから動揺
してしまったけど、落ち着いてきた今なら冷静に考えることが出来
る。尊氏様が私のことを探していた理由は、姉との結婚に関連する
事ではないか、と。
よくよく考えてみればすぐに思い付くのに、尊氏様の様子がおかし
かったから、姉と結婚する予定であったことを忘れていた。姉が、
私に用があって、それを尊氏様が手伝っているのかもしれない。尊
氏様には確実に嫌われていたけど、姉は私のことを嫌ってはいなか
った。
愛しい人をとられて、両親からも冷たく扱われ、苦しいはずなのに
私には努めて優しく接してくれた。かくいう、私も変な仮面をつけ
て、婚約者からは嫌われ、社交界での立場もなく、両親からは用済
み扱いだったから、姉のあの憐れみの目も納得出来るのだが。私が
どんなに傲慢に振る舞っても、姉は決して私のことを見捨てること
はなかった。
きっと、あの告発事件の時もなんだかんだ言って私を助ける策があ
ったんじゃないかと思う。漫画の中では、本当に仲の悪い姉妹だっ
133
たけど、現実ではギクシャクしていただけで仲が悪かったわけでは
ないから。もしかしたらここが、本当のバグなのかもしれない。
現実世界では、姉の同情が存在したから、尊氏様がそれに便乗して
わざわざ﹁これから君の環境は大きく変わることになるだろう﹂と
警告してきたんじゃないかと。
それで姉は、結婚と言う謂わば門出に当たって、私のことが気がか
りだったのではないか。だから、尊氏様を経由して私に会おうとし
ているのだ。だから、私は今ここにいる。
それが、私の導きだした答えだった。
﹁なんだ、結局尊氏様が私を求めてきてくれた訳じゃないのか﹂
勿論、自惚れた意味ではない。でも、何かしらの事情があって尊氏
様が、姉ではなく尊氏様が私に会いに来てくれたのか、と期待して
しまった。
この分では、ただの思い過ごしだったみたいだ。
今更、自分は如月美春じゃないと言い張ることは、最早無駄な足掻
きにすぎないし、あの孝太郎さん相手では言い逃れも出来ない。
しかし、姉とはどんな顔で会えばいいのだろう。恨んでいるわけで
はない。姉は何も悪いことはしていないし。けれど、確執があるの
は確かだし、私としては姉に婚約者をとられた女だ。姉も多分気ま
134
ずいだろうが、私だって気まずい。
私は、姉におめでとうと言えるだろうか。素直に心から言うことは
出来ない。それは、分かっているが、心がなくても口先だけでも尊
氏様との結婚を祝福する言葉を吐き出せるのか。それが問題だ。尊
氏様が姉が寄り添いながら晴れ着を来て、誓いをたてるその想像で
すら胸が痛むのに。それを肯定する言葉を私は言えるのか。
せめて、あの頃みたいに仮面があれば。
考えても、言える気のしない私は、それを先延ばしすることにした。
今、考えても言えないものは言えない。だが、姉を前にすれば気も
変わるかも。
取り敢えず、どうしようもないことはどうしようもない。特に、不
安になることもなくそう思えた私は、あの家を出て、沢山の事を学
んだんだと改めて感じた。
次に考えること。それは、無事姉と話し合いを終え帰った後に、皆
にどう説明するかだ。多分、あの大通りでこの馬車に乗るところを
見られているから、噂は広まっているかも。というより、私の代役
の人が行っているのなら、今やその話で持ちきりになっているはず
だ。そして、女将さんは、激怒しているはず。
135
帰ったら、根掘り葉掘り聞かれそうで、うんざりするがあの孝太郎
さんだ。上手いことやって私を楽させてくれるだろう。⋮⋮そうで
なかったら困る。あの聡明な頭を存分に使って噂好きの彼らを落ち
着かせる一手を打ってくれ、と期待するしかない。
長い間、馬車に揺られ時刻はもう五時を過ぎていた。孝太郎さんに
まだつかないのか、と何回尋ねても﹁あともう少しです﹂としか返
ってこない。
モヤモヤと考えていたから、カーテンを閉めたままで。誘拐?され
たなら、まず始めに状況確認だろうに。自分では落ち着いていたつ
もりだったけど、やっぱりまだ緊張しているらしい。
慌てて窓から外を見ると、市街を出て、華族街では少し辺境らへん
の所にいた。そこは、華族の位でいっても下の方が住む、二等地だ
からやはり尊氏様の所でなく姉の男爵家の方に向かっているのだと
分かる。ちょっぴり、ほっとした。
馬車が止まったのは、もっと奥にある三等地番街。名のある商家位
の大きさの家がポツンポツンと離れたところに建てられていて。目
の前にある屋敷は、私が以前住んでい屋敷の三分の一にも満たない
が、庭も整えられ趣味が良く、可愛らしく感じられた。
富を見せ付けるような感じ悪い豪華さはなく、且つシンプル過ぎず
にアンティークが飾ってある限り、家の持ち主の印象は良さそうに
感じられた。噂によれば、姉を引き取り養子にしてくれた男爵家は、
私のいた市街でも有名な人の良い華族だ。
136
この可愛らしい屋敷を見る限り、その噂は嘘ではなさそう。こんな
所に住めたなら、さぞ気持ちいいだろうと思う。
それは、無駄に広かったあの家で嫌な思い出しかなかったからか、
今の下宿している場所が六畳しかなく狭いからか。まあ、前者のせ
いであることは明らかである。
兎に角、この屋敷は私の好みぴったりで素晴らしかった。
ただ、案内された屋敷の中には使用人しかいないらしく、住居人の
気配がない。まだ、外に出ているらしい。まるで華族の屋敷に初め
て入った庶民のようにキョロキョロと辺りを見渡している私のため
に、孝太郎さんがわざとゆっくり歩いてくれていたのに気付いたの
は、ゲストルームに入ってすぐのことだった。
ひとまずここでお待ち下さい、と孝太郎さんは部屋を出ていく。
漸く、完全な一人切りになれてふ、と息をつけた。
そしてなんとなく、部屋を見回してみると。
﹁この部屋⋮⋮﹂
137
十一話︵後書き︶
加速していく美春と尊氏と木宮さんの勘違い。
真実を知っているのは⋮⋮
138
十二話︵前書き︶
櫻子さんがジョブチェンジしました
139
十二話
﹁この部屋は﹂
通されたゲストルームは、あの頃使っていた私の部屋と瓜二つにな
っていた。欲しくもなかった高価なランジェリーに、私と似たよう
な悪女が持っていたからと言う理由で集めた小物一類。当時、ハマ
っていた恋愛小説も全て、いや、それ以上に充実していて。タンス
も開けてみれば、当時の私の好みとされていた洋服がずらりと並び、
まさかと思って化粧台の引き出しを開けたら、私が以前使っていた
化粧品ばかりだ。
これは、瓜二つというよりそのまんま私の部屋だ。
ゲストルームが私の部屋になっている。
部屋の捜索を粗方終え、頭がはてなでいっぱい状態の私を孝太郎さ
んが呼びに来た。
﹁ひとまず、夕食を頂きましょう。話はその後で、という事で﹂
孝太郎さんは明らかに怪訝そうな私を敢えて無視して、有無を言わ
さず夕食の席に座らせられた。通された部屋は多分この屋敷のメイ
ンルームであろう場所。
六人掛けのダイニングテーブルにポツンと一人、席につく。座らさ
れた場所は、所謂お誕生日席というやつで。テーブルには、私の分
のしか用意されていない。寸分狂いなく綺麗に並べられた銀食器は、
磨きあげられ手が凝っている。
140
﹁あの、家の方はいないんですか?﹂
フィンガーボールで手を濯ぎ、前菜を運んできた孝太郎さんに尋ね
た。普通なら、執事が給事までしないのだが男爵家だと使用人が少
ないから、そこまで孝太郎さんがやっているのかな。
最初に出てきたのは、新鮮なサラダとスモークサーモンとチーズ、
フォアグラのパテに、プチトマトの添えられたオードブル。
﹁ええ、いませんね。今晩は、お一人でお食べになって頂きます。
もし、お暇でしたら余興として私がヴァイオリンをお弾き申し上げ
ましょうか?﹂
﹁いえ、結構です﹂
﹁それは、良かった。実は、私ヴァイオリンに触ったこともござい
ませんので弾け、と言われたらどうしようかと思いました﹂
じじい
この食わせもの爺。
孝太郎さんと話していても、埒があかずむやみにイライラするだけ
だったのでそれからは黙って黙々と運ばれてくる料理を食べた。
グリーンピースのスープに、メインの鴨のソテー。デザートはレモ
ンのシャーベットで、最後に出てきた紅茶は﹁hope﹂から取り
寄せたものだった。
どれもこれも、全て美味しい。二年ぶりに食べる豪華な食事は、私
のほっぺたを落とさせた。実際には落とせるはずもないのだが衝撃
で言うとそんな感じ。
勿論、市街の食堂の料理だって美味しいのだが、まず素材が違うし、
価格も天と地の差だ。感動してしまっても、仕方ないはず。
141
ちょっと、女将さんと大将に負い目を感じながら膝に掛けてあった
ナプキンの裏で口を拭う。お腹はちょうど八分目で、華族の夕食に
しては少ないそれは、孝太郎さんが私の食べる量を計算しているら
しいし、紅茶にたっぷりのミルクを入れたミルクティーは私の心を
落ち着かせた。
満足しました、との意を込めてナプキンを雑に畳む。
さて、食欲も満たされたしここからが勝負だ。
私の為にあるような部屋に、家人のいない屋敷。ここは、どう考え
てもおかしい。
あのゲストルームは、多分私の為に用意された部屋で相当なお金が
かかっているはず。男爵家には、相当な打撃であるはずだし何故そ
もそも私の為にそこまでするのか。
姉がもし、私に罪悪感を覚えていて、過ごしやすいようにしたため
の配慮だとしても、頭のいい姉がこんな馬鹿なことをするはずもな
い。私は日帰りのつもりであったが、どうやら今日は話せるわけで
はなさそうだし、たった一晩のためにここまですることもないだろ
う。
それにしたって、自ら呼んでおいて本人が不在というのもおかしい。
例えば、男爵家夫妻が旅行にでも、実家にでも顔を出していると考
えてここに呼び出すのだったら都合がよいので、使用人が少ないの
も分かるのだが。
やはり、あの姉が呼び出しておいて、そこにいないのはあり得ない
142
のでは?
﹁⋮⋮孝太郎さん。ここは、姉を養子に迎えた男爵家の屋敷なんで
すよね?﹂
﹁はて、そんなこと言った覚えはありませんな﹂
﹁⋮⋮違うんですか﹂
﹁ご想像にお任せします、と言いたいところですが敢えて言いまし
ょう。違いますよ。私は尊氏様に仕える執事であります﹂
悪気なくニコニコと答えるこの人は、きっと私が今まで勘違いして
いたことを悟っている。それなのに、放置していたのだ。
頭が痛くなってきた。
﹁ここは、何処ですか?誰が私とどうしたいんですか?私はいつま
でここにいればいいんですか?簡潔に答えて下さい﹂
﹁それはこれから迎える未来がきっと貴女に教えてくれるでしょう﹂
﹁答えになってないじゃないですか!﹂
﹁そうですか。それにしても、私は貴女様のことをなんとお呼びす
ればよろしいでしょう?﹂
﹁話を反らさないで下さい。私が、孝太郎さんに聞いているんです﹂
﹁ですが、私も貴女に聞いていますよ。貴女様はお答えにならない
のに、私は答えないといけないのですか。それは少し不公平かと﹂
﹁っ、貴方が私をここに連れてきたんですよ!説明する義務がある
はずです!!﹂
﹁いえ、貴女様は自らここにやって来たのです。私は、言ったはず
ですよ。貴女様が決めることでございましょう。私は来て頂きたい
のですが、貴女が断るのなら別にかまいませんよと﹂
﹁何をっ脅したくせに﹂
143
﹁脅した事実などございませんが﹂
﹁私が如月美春だとばらすとあなたが言ったんでしょう!﹂
﹁ええ、その通りです﹂
﹁だったら﹂
﹁ですが、貴女様が如月美春でないのなら正々堂々と違うと皆の前
で言えば宜しいのではないですか?それにもし、貴女様が如月美春
であるならばそれを隠しているのも、相手方に不誠実ではありませ
んか﹂
ぐうの音もでない。それは、正にこの事。上手く言い返すことだっ
て出来るはずだが生憎私の頭はそんなに良くなかった。
いっそのこと、認めてしまえば早いのではと思ってみたりしたが、
それは得策ではないと思われる。今の私の扱いは、公然の秘密と言
うやつで、私が自ら告白すればそれは正しく認知され、きっとそれ
相応の扱いを受けることになる。
如月美春であると告白してしまった方が状況はより悪くなるのだろ
う。如月美春であるならば、貴女には華族であった責任がある、と
かなんとか言ってきてそれこそ、一生身柄を拘束されるとか。
私を拘束してメリットは全くないが、私がここにいる理由がわから
ない以上何があるかは、分からない。
本当に厄介なのだ。この爺は。
﹁それで、私は貴女をなんとお呼びしましょう?﹂
144
ここは、一旦折れるしかない。
さっきも言い負かされていなかった?と耳の裏で声が聞こえたけど
無視だ。無視。
せめて、プライドは保ちたい。
﹁ハル、でお願いします﹂
﹁かしこまりました。ハル様﹂
にっこりとした私の笑みに、孝太郎さんもにこりと笑って返してき
た。
﹁どうしようか⋮⋮﹂
しょうがなくこの屋敷に一晩泊まることになった。服はクローゼッ
トの中に入っているのを使っていいと言っていたし、久しぶり広い
風呂に入ることも出来た。
その上、風呂上がりには侍女が用意されていていたが、流石にそれ
は断って、やけくそで、もういっそのこと楽しんじゃえ、市街ては
考えられないほど贅沢に化粧水以外に乳液を使ったり、髪には椿の
花のオイルを塗った。
少し楽しくなってくると、何をやっているんだと自分に失望した気
分になって。ここで挫けたら孝太郎さんに負けた気がしてたから意
145
地でも楽しんでやろうと思った。
﹁わっしょーい﹂
ふかふかのベッドにダイブして、体を沈める。なかなか眠れないと
思っていたのに、これからどうしようかと考える前に瞼が鉛のよう
に重くなってくる。
駄目だ。⋮⋮考えなきゃいけないことがたくさんあるのに。
高級ベッドの威力は凄まじい。
﹁おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか﹂
﹁おはようございます。とても気持ち良く寝れましたよ﹂
ノックと共に入ってきたのは、私の暇を潰してくれる通称、お話相
手だ。孝太郎さんが急に﹁もし、誰かと話したくなった時に。なか
146
なか面白い人ですよ、櫻子は﹂と紹介しながら、この女性が出てき
たときは驚いた。正直、こんなに本が沢山あるからいらないな、と
思ったのだが人の良さそうな彼女を目の前に﹁いりません﹂なんて
言えなかった。櫻子さんの年齢は、四十代位で透けて見える人の良
さはあのじじ、孝太郎さんと違って気分を落ち着かせてくれる。
櫻子さんはお話相手にとどまらず、私の身の回りの世話までしよう
と動き回ってくれた。
起きてすぐに頂いたカモミールティーも凄く美味しい。
﹁美味しいです﹂
﹁ありがとうございます。実は、家の庭師が作っているカモミール
から作っているのです。そのお言葉を頂けたならきっと彼も喜ぶと
思います﹂
﹁そうですか。良い腕ですね﹂
やんわり微笑をしているこの人なら、何か教えてくれる気がした。
一杯、飲み終わりきっと目を合わせる。
﹁貴女たちの目的は何ですか﹂
﹁⋮⋮ハル様は焦っておいでなんですね﹂
﹁焦っているとかじゃなくて。私これから何をするのか、いつ帰れ
るか分からないんですよ﹂
﹁ごめんなさい。ハル様のそのお気持ちは一人の人間として理解で
きます。ですが、私何も言うなと言われています。お力になりたい
のですが⋮⋮本当に申し訳ありません﹂
とても申し訳なさそうに、苦しそうに言うものだから、何だか申し
147
訳ないような気がしてきた。そりゃ、櫻子さんだってあの孝太郎さ
んの言い付けを破ることは出来ないだろうし。私は、櫻子さんに無
理強いして話させるなんて出来ない。
櫻子さんから聞き出すのは諦めよう。
せめて、櫻子さんが孝太郎さんみたいに性格が悪ければ食いつけた
のに。こんな優しそうな人と共にいたらほだされてしまいそうで、
寧ろ怖い。まさかここまでが孝太郎さんの思惑なのだろうか。
﹁いや、いくら孝太郎さんでも⋮⋮それはない、よね﹂
結局、夕方まで孝太郎さんは屋敷に現れず、顔を見せたのは夕食の
時だった。
148
十二話︵後書き︶
もっと上手く書けるようになりたい︵^q^︶
ふぁいてぃん。
149
十三話
﹁もう、我慢出来ない!!﹂
﹁ハ、ハル様﹂
﹁あ、ごめんなさい。櫻子さんに言ったわけではありませんよ。⋮
⋮泣かないで!!泣かないで!﹂
﹁いえ、私が少し驚き過ぎてしまって。⋮⋮お気持ちを煩わせて申
し訳ありません﹂
瞳に涙を溜めて、深々と謝ってくるものだから罪悪感が半端じゃな
い。これ以降の展開はもう読めている。
﹁違いますよ!別に櫻子さんに言っているわけじゃありません。た
だ、いつまでここにいればいいんだと憤りを感じて﹂
﹁⋮⋮申し訳ありません。私が事情をお話しできないから﹂
﹁そ、それは、孝太郎さんに止められていれば言えませんし、しょ
うがないですよ﹂
﹁うう、せめてハル様のお気持ちを紛らわせるためにもと庭のお花
を使ったアレンジメントを、と思ったのですが。⋮⋮そうですよね。
つまらなくて、耐えられなくなっても仕方ないですよね﹂
﹁楽しいですよ!ドライフラワーで花束を作るなんて初めてやりま
した!﹂
﹁そんなお気を使わなくでも⋮⋮﹂
﹁本当に。すっごく楽しいですよ!!﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁ええ、本当です!!﹂
150
﹁ハル様はお優しい方ですね。ありがとうございます﹂
なんで私は一応私のお話相手である人をこんなにも必死に慰めてい
るのか。絶対におかしい。私が不満を訴える度いつもこの展開に陥
る。
意識的な悪より、無意識の善の方が質が悪い。
正直、無意識に面倒くさい櫻子さんの方が私の精神をガリガリ削っ
ているのだけれど。でも、ほっとしている櫻子さんにそんなことは
言えないし。
﹁それでは、ハル様。次にこのお花はどうですか?﹂
﹁え、ええ、そうですねぇ﹂
言えない。
私の良心が許せない。
じじい
﹁と言うことで、さっさと説明しやがって下さい。このクソ爺﹂
﹁ハル様、言葉遣いが荒くなっていますよ﹂
﹁あそこで二年過ごせば誰だって口が悪くなります。それに、私は
良い人ぶっていただけで、口は元から悪いんですよ﹂
﹁ほほう、そうでありましたか﹂
昨晩の夕食時でも、結局はぐらかされたから今度こそ聞き出してや
る。私の決意は固く、出された食事に手も出さずひたすら孝太郎さ
151
んを睨んだ。
それが何時間か続き、ちょびっと、ちょびっとだけ食欲に負けてし
まい前菜は食べてしまったが、コーンスープが四回温め直された時
点でやっと孝太郎さんは口を開いた。
﹁無言の抵抗は困りますね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ふむ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮私もハル様には、本当に申し訳なく思っております。ここま
で待たせるとは思ってもいませんでしたよ。実は、昨日には事が済
んでいる予定でしたが、思っていたより主が弱っていたらしく、で
すね﹂
﹁尊氏様が、ですか?﹂
﹁ええ、主は貴女に怪我をさせてしまった事件、言い換えれば、大
きな失敗をしたことはありますが、今まで挫折をしたことがありま
せんでした。最近になって初めて尊氏様は挫折を経験たのですよ。
そして、どうやってその清算をすればいいのか分からず、それ以前
にその挫折にどう立ち向かえばいいのかも迷っておられるのです﹂
﹁挫折って、﹂
﹁ええ、挫折です。ハル様を巻き込んでしまいましたが、私は主が
一番大切なのです。主がより良く過ごせるためなら、ハル様でさえ
も犠牲にしてしまうでしょう﹂
知ってる。孝太郎さんは漫画の世界でも、現実世界でも尊氏様のた
めに動いている。
彼が、妻をめとらず家庭を作らないのは、全てのベクトルを尊氏様
に向けるためだ。彼は尊氏様の為に生きている、そう言っても過言
ではない。この言葉を実際に使うほどのほの暗い狂気をこの人は持
152
っている。いったい何が彼をそうさせたのか、そんな過去はどうで
もいい。
欲しい事実はひとつだけ。
﹁⋮⋮そんなこと、知ってますよ。尊氏様って冷たいようで、実は
優しい人なんです。少し不器用で、自尊心も高過ぎる位だけど、そ
んなあの人には少し非道な孝太郎さんみたいな人がついていてあげ
ないと。私は孝太郎さんのことが苦手ですけど、孝太郎さんはそれ
でいいんです。尊氏様を守る強い存在であって欲しい、そう思いま
す﹂
﹁⋮⋮ハル様。⋮⋮是非、尊氏様の元に嫁いできてくれませんか﹂
﹁はっ!?どうしてこんな時に冗談言うんですか!!私は真剣に話
しているのに!!﹂
シリアスな時に、この人はまたわけの分からない冗談を言う。一瞬
どきり、としてしまったがこの人に騙されてはいけない。
そもそも、もうすぐ新婚になる尊氏様にだってその冗談は失礼過ぎ
ると思う。ぴりり、と痺れる真剣な空気が収まって。ちょっと気も
萎えた。
これが狙いなのか?この厄介な爺は。
イライラして、待望のスープを飲み干す為に集中していた私は気付
かなかった。
153
あの孝太郎さんが、眉を下げて珍しく戸惑っていたのを。
﹁冗談ではないんですけどねぇ﹂
先の会話が効いたのか、夕食後お風呂に入る前に孝太郎さんから話
がある、と切り出された。
孝太郎さんが主のため、と連呼しているし、どうやら私に会いに来
るのは尊氏様なのだろう、と予測しているがそれを確かめることが
次の会話で出来るだろうか。
尊氏様の挫折⋮⋮
あの完璧な人がしてしまった挫折とは何だろう。挫折して弱ってい
ると言う言葉を聞いて、やっとこの前出会った時の尊氏様の豹変振
りに納得出来たのだが。そもそも、尊氏様が挫折をするという発想
さえなかった。
最近、尊氏様の身の回りで起こった事。その上、私に関係あること
154
なら絶対に姉との結婚関係しかあり得ない。いや、そんなに尊氏様
の現状を知っているわけではないのだが、私関連となるとこれしか
あり得ないだろう。
﹁もしかしてアドバイスを求められたりして﹂
いやいや、そんな馬鹿な。いくら尊氏様が弱っていたとしても、姉
と上手く結婚生活を送るためのアドバイスをくれ、なんて言うはず
ない⋮⋮かな。
姉におめでとう、と告げることは想像するだけでも苦痛なのに、尊
氏様に対するアドバイスは次々と浮かぶ。姉は、ああ見えて甘いも
のが大好物だから機嫌が悪くなったら取り敢えず甘いものをあげれ
ばいいとか。実は、姉は王都のマスコットキャラクター、オート君
のファンだとか、くだらないことまで。
尊氏様のことが好きじゃなくなったわけじゃない。今でも忘れられ
ないほど愛している。
だけど、区切りがついたからだろうか。あの変わり様を見て、尊氏
様にとっての姉の大きさには勝てないと諦めがついたからか。尊氏
様と再開した余韻が意外に少なかったのはこの事が原因なのかも。
自分の手には入らないと本当に理解できたから、愛しい気持ちと諦
めと応援したい気持ちが共存出来るのかもしれない。
そうなら、姉の事も素直に祝福すればいいじゃないか、となるがそ
こは複雑な乙女心だ。別に姉が嫌いなわけではないが、どうしても
嫉妬が勝つ、というか。
取り敢えず、尊氏様に対する応援みたく姉の事は応援出来ない。
155
如月家汚職告発事件から二年。
あの時に区切りをつけた感情は、今漸く本当の決着を迎えた。終焉
ではない。愛する気持ちは変わらないから。
それでも、今は本当に心の底から尊氏様の恋を応援できる。一方的
にいなくなる、なんて身勝手かやり方じゃなくて。次は、ちゃんと
近くで素直に。
今日までの失踪劇は、尊氏様のためと銘打って自分が逃げていただ
けなんだ。
今度こそ、尊氏様のために行動をしてみせる。
156
十三話︵後書き︶
本編後に尊氏視点を書きます。
乙女の複雑なハート>>>>>>ポッキリと折れた自尊心の高いハ
ート
157
十四話︵前書き︶
櫻子さんがジョブチェンジしてます。
作者の心の動揺が文にでています。間違えがあったら教えてくださ
いm︵.︳.︶m
158
十四話
﹁これからハル様に会っていただく人物は私の主、葉月尊氏様でご
ざいます。明日には絶対にお越しいただけるようにするのでここに
いる期間はせいぜいあと三日というところでしょう﹂
﹁随分とあっさり言うんですね⋮⋮てっきりもうちょっと焦らされ
るのかと思いました﹂
﹁いえ、流石に。これ以上はハル様が本当に怒ってしまいますから﹂
﹁⋮⋮今までも怒っていましたが﹂
﹁でも、用件をなかったことにして帰ろうと思うほどの怒りでもな
かったでしょう?﹂
いや、本当にイライラするんですけど。
というか、その話し合いは三日もかかるのか。
﹁あの櫻子をつけたのだし、癇癪をおこしても出ていくことはない
だろうと思っていました﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁いえ、櫻子はあれで素ですよ。大いに利用させてもらっています
が﹂
この爺。やっぱり、私の予想は外れてなかったじゃないか。
あんな人なかなかいないもの。
﹁私の姪っ子なのです。櫻子は﹂
159
﹁えっ!孝太郎さんみたいな怪物とファンシーな櫻子って血が繋が
ってるんですか。意外⋮⋮いや、意外なのか。納得も出来そうな気
が﹂
﹁酷い言い様ですな﹂
﹁弁明しますか?﹂
﹁いえ、大丈夫です。私はてっきり、明日どんな話をするのかにつ
いても聞かれると思っていたのですが何も聞かれないのですね﹂
﹁まあ、知りたいは知りたいですけど明日になれば分かるのでしょ
う?﹂
﹁はい。きっと﹂
﹁おはようございます。ハル様。やっと今日尊氏様と会えるのです
ね!!私、口が滑りそうでウズウズしていました﹂
﹁お、おはようございます。そ、そうですか。よく我慢出来ました
ね﹂
160
二十以上も年下の人に、子供扱いされることについて何も思わない
んだろうか。
思わず、いい子いい子と頭を撫でたくなるが騙させるな。この人は、
孝太郎さんの姪っ子だ。例え、癒し系雰囲気でお花を飛ばしていよ
うとも。くっ、駄目だ。癒されちゃ駄目だ。
﹁⋮⋮無理だ。だって櫻子さん可愛い﹂
五十代でこの可愛さを誇る櫻子さんに、天然記念物の称号を与えた
い。
﹁では、話の内容もお聞きになりましたか?ふふふ、尊氏様も好き
な女性の為にポンコツになるものですよね﹂
﹁!?﹂
﹁だって、呼んでおきながらいざ会っ。もしかして、まだ内容まで
は﹂
﹁知りません﹂
﹁ああ、申し訳ありません!!ハル様。私の口が、口が調子にのっ
てしまい﹂
﹁はい。分かりましたからちょっと考える時間を下さい﹂
﹁ハ、ハル様?﹂
今、櫻子さんは好きな人と口にしていなかったか?尊氏様の好きな
人⋮⋮ってやはり姉の事だし。やっぱり、姉との結婚関係の話だっ
たか。
そうか。うん。そう、か。
昨日、色々なアドバイスを思い浮かべていて良かったなー。うん。
161
﹁⋮⋮ハル様。死んだ魚の目をしています﹂
﹁そっとしといてください。複雑な乙女心がですね﹂
尊氏様は仕事を終えてからここに向かうとの事で、夕食時に用件を
話すことになった。食べながら話す、というのも少しはしたないが、
なるべく話しやすいようにとの孝太郎さんの配慮だ。
食べながらなら不自然な沈黙があっても耐えられそうだし、私には
とてもありがたい。
だって、やっぱり尊氏様に会うとなると緊張するもの。
どんな顔して会えばいいんだ、メイクに気合いをいれなくちゃとか、
もう考えることが沢山ありすぎて困る。ここに来て、三日目で漸く
誰と会うのか判明したわけだけど、知らなかった時の方がまだ気が
楽だった気がする。
イライラは半端なくしていたけど。今は、ドキドキが酷すぎて心筋
梗塞になりそうだ。
時計の針が普段の三倍程早く刻み、何度も時間よ止まれと唱えてみ
たが流れる時間は止まらなかった。当たり前だ。私がどうかしてい
る。
162
﹁⋮⋮久しぶりだな﹂
二回目の再会は、思っていたより呆気なかった。ロマンチックでも、
劇的にでもなく憧れの俳優にチケットを貰って会いに行くような。
二回目の再会とは、おかしな感じがするが地に足が着かなかった状
態が尊氏様の顔を見たとたん、ストンと落ちたみたいな。
取り敢えず、過剰反応でもしていたのかもしれない。尊氏様は姉の
伴侶となる人だ。
﹁⋮⋮ええ、お久しぶりです﹂
つい、この前会いましたね、なんて言わない。それは尊氏様も分か
っていて。私が如月美春でなかったらお久しぶりとは返さないはず、
なんて重要なこと誰も言及しなかった。
意外と平気なものだったから、緊張せずに話せるかなと口を動かし
たが声がでない。喉が自分のものでないみたいに、重くて動かせな
い。
焦って、やっと自分が息を吸い込んでいないことに気付いた。吐き
出す空気がなければ声はでない。大きく息を吸って、やっと体の強
ばりがとれる。
﹁食事をしながら話そう﹂
一回目の再会と違って理性の光る瞳に、理知的な表情。あの時は、
暗くて良く見えなかったが今日はしっかりと見ることが出来た。で
もやっぱり、二年前より少し痩せて弱っている。
163
それに尊氏様も堂々たる態度はしているが、節々に緊張を感じる。
尊氏様も緊張しているのか、そう思えば少し楽になれた。
それにしても、これから姉の事を話すのだろうか。黙々と前菜を食
べて無言の尊氏様に気まずく思って、咄嗟に口を開いた。
﹁尊氏様﹂
﹁美春﹂
そしたら、ちょうど尊氏様も目線をあげて話しかけてくるものだか
ら。
﹁あ、どうぞ﹂
迷わず先を譲ったら尊氏様は、姿勢を改めて私を真っ直ぐ見た。
﹁この間は、悪かった﹂
﹁えっ!﹂
﹁反省している。美春、いや今はハルだったか。私は、あれからず
っと謝りたくて。⋮⋮その、どうだった。あの部屋は﹂
﹁ゲストルームのことですか?私が以前使っていた部屋そっくりで
した。あの、まさか尊氏様が用意してくださったんですか﹂
﹁ああ。⋮⋮私はお前を、ハルを喜ばせるにはどうすればいいか分
からなかった。お前は二年前と随分変わったし、前みたいなやり方
しか思い付かなかったんだ。それで、今日はこれを⋮⋮﹂
尊氏様の言葉と共に孝太郎さんが隣に来て、綺麗に包装された箱を
渡してきた。
164
﹁そんな、私受け取れません﹂
﹁⋮⋮迷惑だったか﹂
﹁いえ、そういうことじゃなくて﹂
確かに私は、プレゼントを贈られたら機嫌を良くしていた。嬉しい
のは本当だけど、実は物より尊氏様から貰える言葉の方がずっとず
っと嬉しかった。
私は、ここでも間違っていたらしい。
私は自分のことを伝える努力を怠っていたのだ。女性に物をあげて
おだてる、というのは少し乱雑だが、二年前私はずっとそれを望ん
で何より嬉しがった。私を喜ばす方法を知らないのは、尊氏様だけ
の怠惰ではなく、私の怠惰でもあるのだ。
﹁私は物を貰うより貴方からの言葉が欲しいです。今まで、酷い態
度をとってしまい、そして勝手に逃げだしてごめんなさい﹂
私は、尊氏様みたいに真っ直ぐ目を見て謝れなかった。
﹁⋮⋮私も美春のことを考えていなかった。美春は、私がそんな冷
たい人間だったから、そうせざるを得なかったんだろう。本当に謝
るべきは私だったんだ。すまなかった﹂
優しく気遣うようなその声音に胸が、キュンと痛んだ。違うのだ。
私が悪いのに、そんな。
﹁美春は、⋮⋮ハルは愚かな私を赦してくれるだろうか﹂
165
そんな落ち込んだ、悩ましい声で言わないで。答えなんて決まって
いるのに声が出なくなる。
謝らなくていいです、とは言わない。実際、本当に謝ってもらわな
くてもいいのだが今、それを言ってしまえば拒絶になる。尊氏様の
謝りたいという想いを受け取らない、というポーズに見える可能性
だってある。
すべきことは、ただそれを受け入れることなのだ。
﹁赦します。私は尊氏様の全てを赦します﹂
せめて、これは目を見て言わなければいけない。合わせられなかっ
た視線を漸く合わせられたのに、私はすぐ目線を落とした。
﹁ありがとう。ハル﹂
顔が熱い。尊氏様の優しい笑顔で、最後の日もこの前も見ることの
出来なかった愛しい笑顔で顔を火傷したんだ。きっと。
尊氏様の笑顔は、きっと熱線で兵器なんだ。だから、しょうがない。
しょうがないのだ。
その笑顔で、嬉しくて切なくて愛しくて、のぼせてしまうようにな
るのはそのせい。きっと、そのせい。
全身が心臓みたいにドクドク言っているのは、そのせいなのだ。
﹁ハル?﹂
﹁いえ、⋮⋮えっとその久しぶりに尊氏様の笑顔が見れて嬉しい、
です﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
166
恥ずかしくて、つい誤魔化そうとしたが、そう言えばさっき伝える
勇気の必要性を感じたばっかだ。勇気、勇気と心の中で唱えながら
言ってみたら尊氏様がびっくりするくらい照れた。
はあ!?何だ、コレは。
なんとなく漂う甘い雰囲気はなんだ!?
ちょっと尊氏様もキャラ変わりすぎじゃありません!?やめてくだ
さい。惚れてしまいます。あ、いやもう惚れてるんだけど。
取り敢えず、やめろ。この雰囲気やめてくれ。いたたまれない。尊
氏様は姉と結婚するのだ。
なんだ。結婚間近になると男は可愛くなるものなのか!?
取り敢えず止めて。尊氏様は、優しく笑うのやめて。
おい、コラ!!ブラックモンスター何朗らかに笑っていやがる。今
こそ出番でしょ。勘違いかもしれないけど、自分の主人が嫁︵予定︶
以外の女と仲良くしてるよ!!
早く止めてよ。
167
十四話︵後書き︶
作者のメンタル強度が足の小指の丸爪から、カバーガラスにレベル
アップしました。意味不かな?
孝太郎さんに違和感を感じる方もいると思いますが、私はそんな孝
太郎さんが好きなのでそのままにしておきます。あと、この話の後
半は書き直すかもしれません。
168
十五話
結局、尊氏様も私もあの空気に耐えきれず、話し合いは明日に持ち
越すことになった。私に謝るのも用件のひとつだったらしく尊氏様
最後の方には表情
はやっとひとつ仕事を片付けられた、と少しほっとしている。
そして、私もほっとした。
﹁今日はありがとう。明日も宜しく﹂
いえいえ、こちらこそ。宜しくお願いします。
筋が仕事を思い出して笑顔を作れたが、それまで私がどんな顔をし
ていたのかは考えたくない。
﹁ああ、ハル様。女将さんからの伝言を預かっております﹂
﹁女将さんから?﹂
﹁ハルの代わりにきたイケメンが凄く役に立つからゆっくりとそこ
で羽を伸ばしてきな、だそうです﹂
﹁女将さん⋮⋮﹂
ほっとしたような、悲しいような。いや、でも結果オーライならい
いじゃないかと納得させたい。女将さんのことだから羽を伸ばして
きな、と言うことはまだ、私に呆れずに帰る場所を残してくれてい
るということだ。
﹁ハル、手荒に連れてきてしまって悪かった。私が手間取っていた
から、どうやら孝太郎はお前を脅してここに連れてきたらしいし、
169
それも全て私が不甲斐なかったせいだ。本当に悪かった﹂
﹁いえ、今となっては無理矢理でも来ていた方が良かったのでもう
いいです﹂
﹁そうか、ありがとう﹂
謝られるより、ありがとうと言われた方が嬉しい。ちゃんと尊氏様
と話せて、何故か気持ちが前向きになれた気がした。
別にいいじゃない。今まで沢山失敗はしてきたけど、今の私は充実
しているし尊氏様は兼ねてから好きだった姉と結婚できる。私のハ
ッピーエンドとしてこれほど良いものはない、とは言えないがこの
在り方もいい気がして。
私の努力は無駄じゃなかった。私の尊氏様への献身はしっかりと姉
と結ばれることで実を結んだ。まだ素直におめでとうとは言えない
けど、素直に良かったとは思える。まだ、姉を祝福出来ないけど尊
氏様にアドバイスする勇気がある。
小さな一歩なようだけど、私には重く大きな一歩だ。このために、
私はあの日家を出ていったんじゃないかとさえ思う。
結婚の言葉はまだ私を傷付けるけど、大丈夫。だって、これで尊氏
様は幸せなのだ。私は幸せになるためのお手伝いが出来た。今だっ
てまた、ぎこちなくてはあっても尊氏様と笑いながら話すことも出
来た。
今になって尊氏様と姉が結婚したおかげ、私としてはバッドエンド
170
のおかげで、家を出てからの二年と婚約者として罪悪感で苦しんだ
過去とそして現在が報われたと気がつく。
心のつっかえが取れて、初めて気が楽になった。これで心から笑え
る。
やっと破滅の道は終わったのだ。予感でも予測でもない。新たに続
く道の光を今、私は確かに見た。新しい道はどんな道だろう。
きちんと整理された安心出来る道?それとも所々落とし穴のある道
?もしかして、お花畑の続く華やかな道からもしれないし、先の分
からない獣道かもしれない。
楽しみでも不安でもある。
だけど、きっと私はどんな道も歩き抜ける。辛くて苦しい道を私は
通り抜けてみせたんだ。あの辛さも苦しさを乗り越えた経験は、今
となれば大きな自信に変貌を遂げた。
こうして私と尊氏様の二度目の再会は至って平和に、でも私の心は
劇的に変化して幕を閉じた。
﹁ハル様、ハル様、どうでしたか?大丈夫ですか?尊氏様は仏頂面
171
で嫌味を吐いてきませんでしたか!?﹂
﹁良かったです。大丈夫でした。櫻子さんの尊氏様へのイメージ酷
すぎませんか﹂
﹁いえ、やっぱり歳上として尊氏様のことも心配なんですよ。あの
年になって尊氏様ったら拗らせてるから﹂
﹁拗らせてる?﹂
﹁⋮⋮何処までお話になられました?﹂
﹁うーん。全体的に謝りあったという感じですね。ふふふ、まさか
尊氏様と仲直り出来るとは。あ、仲直りと言うには、一方的過ぎま
すかね。でも、良かった。本当に良かった。これで、姉との結婚も
祝えそうな気がします﹂
﹁え﹂
﹁え?﹂
今の今まで安心した顔をしていた櫻子さんが、急に怪訝な顔をする。
見たことのない顔だ。
﹁どうしましたか?﹂
﹁いえ、本当に拗れていらっしゃるのだな、と﹂
何が何だか分からない。明日明後日も話す予定だし、もしかしたら
そのことかもしれない。普段なら気にしていた違和感もうかれた私
は受け流した。
まあ、今はこの歓喜に身を任せればいい。明日のことは明日考えれ
ばいいのだ。
172
朝7時、いつも通り同じ時間に眼が覚めた私にはまずやることがあ
る。窓を開けることだ。季節は六月。そろそろ涼しさと暑さが平衡
する時期だ。昼間は暑くなるが、朝は少し寒くて目を醒ますには都
合がいい。
市街で使うあの部屋では、小さい窓がひとつだがこのゲストルーム
には三つある。順に回って、少しずつ窓を開けると外の冷たい風と
微かな花の香りが気持ちいい。
こんなにも気持ちいいのは、昨日のせいでもあるのだろうか。昨日
見た尊氏様の笑顔を思い出しながら私はニマニマ笑う。意図して笑
っているわけではなく、顔が勝手に動いてる。ちょっと浮かれすぎ
かな、とは思ったが今幸せを噛み締めなくていつ噛み締めるのだ。
笑顔は健康に良いと聞くし、暫くその頬の誤作動を見なかったこと
にした。
﹁あ、そうだ。昨日考えたアドバイスを書き留めておかなくちゃ﹂
173
いくら笑顔であったとしても、目の下の隈は消えはしない。昨日の
夜は、興奮と不安で眠れなかったのだ。言わずもがな、尊氏様と和
解出来た喜びとこれからするアドバイス役をしっかり果たせるかの
不安だ。
普段なら夜更かしは、美容の大敵と絶対にしないが昨日位はいいじ
ゃないか。だいたい夜更かしと言うよりは眠れなかっただけだし。
ベッドの上で、私は何回思いだし笑いをして脚をばたつかせたのか、
数えるだけ無駄だ。
鏡の前で鼻唄を歌いながら、目の下にファンデーションを塗り重ね
る。幸いに、見えないくらいには隠せたし、寧ろ乳液のおかげか、
化粧ののりはいつもより良いくらいだ。
滅多につけないアイシャドーは、髪色に合わせて白。口紅は夜まで
にはとれちゃうから、今はつけずに尊氏様に会う直前につけること
にする。
よし、完成と。
化粧なんて贅沢だから毎日はしないけど、この部屋は尊氏様が私に
用意してくれた物だそうだ。遠慮せずに使った方が、尊氏様も私も
幸せな気分になれる。
﹁それに櫻子さんにも色々聞いて﹂
友達があまりいたことがないから、恋ばなをした経験がない。ガッ
キーのは、ただのノロケだしそれをカウントしなければほぼゼロだ。
好きな人の恋ばなを聞いて、アドバイスをするって恋する乙女には
酷すぎないか、と落ち込んだりもしたが尊氏様が私を頼ってくれた
と思えば頑張る気にもなる。
174
それにしても、今日は櫻子さんが遅い。来るのが遅い。昨日も一昨
日も八時半にはお茶を携えてやってくるのだが今はその時間を三十
分過ぎている。
櫻子さんのことだから朝寝坊かな。
あのフワフワとした櫻子さんがきゃーきゃー慌てている姿を想像す
るとほのぼのと癒されるというか。櫻子さんはそんなのが似合う。
﹁⋮⋮﹂
ところで、フワフワ繋がりとして思うのだが一羽の白いフワフワの
鳩が窓枠に止まっていて。もう三十分位そこで立ち尽くしている。
いや、まさか。
流石にあの櫻子さんでも、これはない。
ないはずだ。
それでも、なかなか現れない櫻子さんに、何故かそこに居続ける鳩。
心なしかあの何を考えているか分からない小さな眼で見られている
気がする。独り言も話すくらいにご機嫌で最初は、あら
可愛い位の扱いだったのに。
時間が経つにつれ存在感が⋮⋮
こんなメルヘンチックな連絡法、いくら櫻子さんでも。と心の中で
そうでなかった時の言い訳を探しつつ、直視出来なかった鳩をじっ
くりと見てみる。
当たりだ。
175
鳩の脚に紙が結んである。それでもまだ信じきれずに逃げられない
ようゆっくりと鳩からその紙を取る。すると、鳩はすぐに飛んでい
ってしまった。
﹁夫が熱をだしまして今日は遅れます、か﹂
小さい紙に入りきるよう短く、それでいて綺麗な字は櫻子さんらし
いが最後の一文はノロケだ。私がハル様のことばかり考えていたか
ら寂しかったんですって。もう、お馬鹿さんですよね。って、夫と
ラブラブなんだ。櫻子さん家は。それに、遅れますということは、
来ないわけでもないし焦ることもないだろう。
櫻子さんが来るまで大人しくしていよう。この部屋に来たとき孝太
郎さんになるべくこの部屋から出ないで下さいと言われていたし、
アドバイスをメモし終わった後は読んだことのない本を読む時間に
当てた。
暫くして、その本の三分の二は読み終わった頃、外から馬車の音が
聞こえた。その馬車は、趣味が悪くピンクや金で色付けられていた
がここに止まるのなら櫻子さんに違いないと、部屋を飛び出し迎え
にいく。普通よりやや早め、早く相談したい気持ちが収まらずに、
せわしなく玄関に向かうと前からこちらに向かう足音が聞こえた。
嬉しくなって、つい。姿を見えなくてもそれが櫻子さんであるか確
認もぜすに話しかけてしまって。
﹁櫻子さん!!﹂
﹁は?﹂
176
﹁え﹂
そこにいたのは、櫻子さんではなかった。
177
十六話︵前書き︶
短いです
178
十六話
﹁ちょっと何なの!はしたないわね貴女!!﹂
﹁す、すいません﹂
いきなりケチをとばしてくるこの女性には見覚えがある。尊氏様の
婚約者時代はよく嫌みを言われていた。今も言われているのだけど。
全身ピンクの洋服で決める恰幅のよい彼女は、尊氏様の叔母に当た
る人だ。彼女の元の爵位は子爵であるが葉月家に嫁いで本家ではな
いが元当主、尊氏様の父が病弱なこともあり、夫が活躍していたた
めそれなりの権力を持つ。彼女が元から権力欲が強いのか、それと
も次男に嫁がされてから権力欲が強くなったのか。彼女は元から、
我が強く意固地で子爵から侯爵に嫁げても出世であるから、それで
満足できていない時点で彼女は権力欲が強いのだろう。
まさかこんな人と櫻子さんを間違えるとは。よく考えればあの趣味
の悪い馬車の時点で気付くべきだった。
私はこの人が凄く苦手で、あの頃は会いたくない人一位だった。漫
画の世界でもこの人は姉と尊氏様の交際をよく思わず、妨害を何回
179
も仕掛けている。それが成功したことはなかったはずだが、私みた
いなバグがいるのなら、﹁その成功したことはない﹂ということも
バグになる可能性がある。つまり、成功しているということ。漫画
の中で私の次に自業自得な目に遇わされた筈の彼女だが丸々肥えて
傲慢な姿は、自業自得の後には見えない。
まさか、この人のせいで姉と尊氏様の仲が拗れたのか。だから、私
は尊氏様からアドバイスを求められているのか。
﹁あら?貴女かしら。尊氏の新しい恋人というのは。ふん、はした
ないわね。廊下を走るなんて淑女として失格だわ。嫌だわ。貴女の
ような猿みたいな女。尊氏の前の恋人は希代のジュリエット?いえ、
ジャンヌダルクだったかしら。まあ兎に角、あの子の爵位は今や男
爵で、うちに全く釣り合わないけど、まあ爵位が低い分あの子には
話題性と名誉があったから許せたわ。ギリギリね﹂
﹁あの﹂
﹁ちょっと黙って聞くことが出来ないの!?最近の若者は。⋮⋮で
も、その子とも今は別れて独り身でしょ?だから、葉月家にふさわ
しい爵位のある女性を用意していたのに次の相手は貴女?笑わせる
わね。私が用意していた子はね、公爵家の三女よ。公爵家の﹂
尊氏様と姉が別れた?
違う。尊氏様と姉はもう少しで結婚するのだ。
﹁何呆けているのよ。貴女、ちょっと顔が良いみたいだけど髪は老
婆みたいで瞳の色は化け物みたいで気持ち悪いわ。⋮⋮あら、そん
な人を確か前にいたような気がしたけど⋮⋮まあ、いいわ。貴女み
180
たいな卑しい身分の女が我が侯爵家に嫁ごうだなんて考えないこと
だわ。あり得ないもの。尊氏だって貴女みたいな容姿だけの女、飽
きたらすぐに捨てるに決まっているわ。だから、さっさと消えなさ
い。屋敷にまで住み着いているなんて、本当ドブネズミみたい﹂
色々酷いことを言われているようか気がするが、私の神経は全てあ
の言葉に向けられている。
﹁尊氏様が別れた?﹂
﹁あら、だから貴女がわいてきたんでしょ?早く尊氏の元から出て
いくことね。ああ、それと尊氏には私が来たことは言わないでちょ
うだい。あの子は干渉を嫌うのよ、実の叔母である私でさえね﹂
やはりこの人は尊氏様が姉と別れたなんて世迷い言をはいている。
そうだ、この人は昔から思い込みが激しい人だった。この人の勘違
いに決まっている。
姉と尊氏様が別れたなんて、そんなはずないもの。
やっと受け入れた自分の献身の実がこんなに簡単に腐り落ちるはず
はない。私は、尊氏様が幸せになれるよう。姉と尊氏様が結ばれる
ように身を引いたのだ。それが無駄になっている?私の身を切るよ
うな努力は?
目の前でまだ尊氏様の叔母は騒いでいたが、内容なんて耳に入って
こない。姉と尊氏様が別れるはずなんてない。
現れたはずの新しい道が急にボロボロと崩れていく。気が付けば足
場は少なくなっていて身体がゆらゆら揺れた。崩れた道の後には暗
181
黒が広がっていて。
私が歩いてきた破滅の道は。
為すべきと歩いた破滅の道は、私が勝手に作り出した道だったのだ
ろうか。
﹁何よ。ものも話せないのね、貴女。もう、いいわ。兎に角、出て
いきなさいよ﹂
いつの間にか、尊氏様の叔母様はいなくなっていた。
別にそんなことはどうでもいい。
グルグルと考えていくうちに、やはりあの人の勘違いだと思い至る。
そうだ。そうだよ。
思えばあの人は、思い込みの激しいタイプの人だ。姉と尊氏様の仲
が拗れて少し距離を取っていたから、別れたなんて勘違いしている
んじゃないか。
私が今の尊氏様の恋人と勘違いしているのは、満更でもないが、や
はり叔母様は誤解しているのだ。だって私と尊氏様は付き合っても
いないのに叔母様は私を新しい恋人と言った。そこがもう違うのだ
から、尊氏様と姉が別れたのも誤解しているのだ。
そうだ。なんで私は一瞬でも信じてしまったんだ。
﹁そうだ。勘違いに決まっている﹂
182
﹁ハル様!!遅れてすいません﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
﹁ハル様?どうされましたの?顔色が酷いですよ﹂
﹁そうですか﹂
﹁ハル様?﹂
暫くしてから櫻子さんは現れた。私はさっきまで読みかけていた本
を開いて、それなのに読むこともせず宙を見ている。本なんか読め
る状況じゃない。
未だ、疑惑ではあるが私にとっては大事件だ。もし、本当なら。も
し本当に尊氏様が姉と別れていたら。
さっきあの人の勘違いだと決めつけたはずなのに、それは頭のなか
を回って途切れることがない。
もし、本当に姉と尊氏様が別れていたら私はどんな反応をすればい
183
い。昨日までは、ただショックだった。尊氏様が誰かの、⋮⋮姉の
モノになる哀しみと。ああ、私って本当にお邪魔虫だったんだなと
いう自虐。
取り敢えず、正の感情はなかっただろう。
だけど、今は。
今は、違うのだ。昨日尊氏様と話しをして私は変わったのだ。
失望と怒り。
何故だろう。分からない。でも、私のなかはそれでいっぱいだった。
尊氏様が他の誰かのモノにならない安心とか、またチャンスが来る
かもとか、そういう希望じゃない。尊氏様を愛していることは変わ
らない。だから、幸せになって欲しかった。
私と幸せになって欲しかったけど、尊氏様がそれを望んでいないか
ら姉と幸せになればいいと、そう思って行動してきたんだ。別に頼
まれたわけじゃない。私がそうしたいからそうしただけ。それなの
に。
尊氏様は、私のそんな思いだって知らない筈だし。だから姉と幸せ
になるよ、なんて約束もしたことはない。
だけど、私には裏切りに感じられるのだ。
酷く身勝手で、自分本意の愚かなモノであることは自覚している。
だけど、自覚しているからって胸から沸き上がるこの感情をおさえ
ることなんて出来なかった。
184
カンニングしてしまおうか、ちらりと櫻子さんを見る。櫻子さんは、
私を困った表情で見つめていた。
﹁ハル様?﹂
やめておこう。
もし、万が一それが事実だとしたら私はどうなるか分からない。勿
論、その事実を信じてはいないが、その可能性があるということだ
けで私の心はこんなに揺れている。
そうですよ、と頷かれたら私はきっと爆発してしまう。なんの関係
もない、寧ろ善良で優しい櫻子さんに声を荒げてしまうかもしれな
い。それは、駄目だ。
私の下らない、馬鹿みたいな質問はちゃんと尊氏様に否定してもら
おう。
そうだ。その方がいい。
﹁ハル様⋮⋮﹂
机に置きっぱなしのメモ紙は、風に揺られ飛んでいく。私は、それ
を拾うことはなかった。
185
186
十六話︵後書き︶
不安なときは、同じ考えが永遠ループで続きます。それを表現した
かったのですが、しつこすぎたらごめんなさいm︵.︳.︶m
187
十七話︵前書き︶
お久しぶりです。本編を書き終えてからちょこちょこ直していくこ
とにしました。
188
十七話
尊氏様は、予定より少し早い時間にやって来て、私はすぐにダイニ
ングに呼ばれた。
昨日と同じくらい、いや、昨日より心臓はバクバクと動いて落ち着
いてくれない。指先は氷のように冷たくなっている。
大丈夫。きっとそれは嘘だと否定してくれる。
さあ、行くんだ。
﹁すまない﹂
﹁えっ﹂
開口一番に言われた言葉は、まさかの謝罪。
一瞬私の中の疑惑に対しての肯定で、その為に謝られたのかと動揺
したが、その後に続く尊氏様の言葉で勘違いだったのが分かった。
﹁今日、あの人がやって来ただろう?﹂
﹁あの、叔母様のことですよね?﹂
﹁そうだ。あの人は意地が悪いからハルに何かしてないか、心配で
な。私は周囲にこの屋敷のことを秘密にしていたんだが、とうとう
あの人に嗅ぎつかれてしまったらしい。一応、もしあの人が来たと
189
しても絶対に屋敷にいれるな、ときつく言っておいたんだがあの人
が脅したらしく⋮⋮﹂
﹁相変わらずですね﹂
﹁ああ、本当にあの人は﹂
強欲な尊氏様の叔母は、その傲慢な態度と比例してそれなりにやり
手の女性だ。だからこそ、尊氏様の恋路を邪魔するほどの存在と権
力を持ち大きな障害となり得る。
私は話の核心が尊氏様と私の間でずれていることに気付き、少し安
心した。もし、私がその事実を知ったと尊氏様が分かっていれば、
いの一番にその話題が来るはずだから。
それにしても、尊氏様がこんなに渋い顔をしているということは本
当に予想外だったのだろう。後ろで控えている孝太郎さんにいたっ
ては笑顔がドス黒い。笑顔だけど内心ブチギレてるんだ、あの様子
は。
﹁とにかく、あの人の言うことは無視してもらってかまわないから
気にしないでくれ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
じゃあ、尊氏様が姉と別れたという話も口から出任せだったのだろ
うか。私は緊張と不安で握りしめていた拳をやっと緩められた。
﹁すまない。もう少し危機感を持っておくべきだった﹂
﹁えっと、あのそんなに謝らなくてもいいですよ﹂
﹁だが、ハルの顔色が悪い。あの人に相当いじめられたんじゃない
か?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
190
いじめられた、と言えば相当罵られたし、そうかもしれないが、シ
ョックを受けたのはそこではない。それもあの人の嘘なようで今は
心底ほっとしているのだ。
顔色と言えば、今日は昼からずっとその事をぐるぐる考えていたか
ら、体調もよくない。それで、今さっき尊氏様に会う前も身なりを
整えることなんて忘れていた。鏡を見る余裕さえもなかったから⋮⋮
今更になって、自分がみっともない格好をしていないか気にしだし
た私はそこではた、と気が付く。
口紅塗るの忘れていた。
﹁あの大丈夫です。ちょっと口紅つけるの忘れてて、それで顔色が
悪く見えるだけだと思います﹂
﹁そうか。じゃあ、ハルは大丈夫なんだな?﹂
﹁はい。でも、少しあり得ないことを言われて驚いてしまいました。
ええ、今思えばそんなことあるわけないのに﹂
尊氏様のほっと安堵した顔を見て、やっぱりあの人の出任せなんだ
ろうと確信する。
なんだ、私の早とちりじゃないか。そもそもあの人は私が尊氏様の
婚約者だった時もあることないこと、噂を流していた人だ。あの時
チ
から信用ならない人だとは思ってたのになんでこんなにもあっさり
信じてしまったんだろう。
前だったら絶対に信じてなかったのに。
ート
まあ、それもしょうがないことなのかもしれない。あの頃は、漫画
知識のおかげで真実を知れたがこのイレギュラーな状態では、何も
191
分からないのだから。
﹁まさか尊氏様とお姉様が別れているはずがないもの﹂
あっけらかんにぽそっと放った言葉は宙に消えて。
即座に来るだろう尊氏様の﹁そんなことあり得るはずがないだろう﹂
と言う不機嫌そうな否定を予想していた私は、なかなか返ってこな
い否定を不審に思って視線を上げた。
﹁⋮⋮ハル、それは﹂
﹁何驚いた顔しているんですか。そんなわけないですよね?また叔
母様の悪い冗談ですよね﹂
目を見開いてから気まずそうな顔をする尊氏様を見て、頭の中に警
報がなった。まさか、違う。そんなはずはない。
形式的に尊氏様に聞いた言葉は、実はただの私の嘆願。お願いだか
ら否定して。
尊氏様はちゃんと否定してくれるから、落ち着いて。
﹁⋮⋮私はハルに伝えなきゃならないことがある。私と﹂
駄目だ。
さっきやっと鳴りを潜めた鼓動は急に現れ、私の意識を奪っていく。
今こそ、本当に私の顔は真っ青なんじゃないか。
192
﹁待って下さい!分かりました。叔母様のせいで仲が拗れてるんで
すよね。だから、破局の危機を迎えている、そうでしょう!?﹂
尊氏様の雰囲気で察してしまった私は、必死に理由を探した。お願
いだから、私の今までの人生を無駄にしないで。
昨日の夜、やっと見つけた私の破滅の道の意味を台無しにしないで。
﹁だから、私をここに呼んだんですよね?お姉様ともう一度よりを
戻す為に私にアドバイスを求めて。私、たくさん考えたんですよ。
尊氏様とお姉様が二人で幸せになれるために。そうだ。アドバイス
をメモした紙を部屋に置いてきてしまいました。取りに行かないと﹂
納得できる理由を並べても良くならない尊氏様の表情に怖くなった。
あり得ない現実を突き付けられいる気がして。一向に話そうとしな
い尊氏様から私の価値を無くしてしまう絶望の匂いがして。
気のせいだ、と落ち着かせるために席を離れようとした。勿論、本
当にメモ用紙を取りに行ったのもある。だって、尊氏様はきっと私
のアドバイスを求めている。姉と上手くいくために。
頭の中はごちゃごちゃだった。
尊氏様と姉が別れた事実を受け止めない強情な私と、受け止められ
ない脆弱な私と、受け止めてしまい絶望する私。どの自分もそこに
存在していた。
﹁⋮⋮ハル。行かなくていい。聞いてくれ﹂
﹁私は嫌です。そんなの認めません﹂
﹁私は彼女と別れた﹂
193
﹁⋮⋮あの叔母様のせいですか。叔母様に仲を引き裂かれたのでし
ょう?﹂
﹁確かに、あの人は色々妨害を加えてきたが違う﹂
﹁何が?何が違うんですか。叔母様のせいなんじゃないですか﹂
﹁私達はあの人がいようといなくても別れていたよ﹂
﹁嘘﹂
﹁嘘ではない。私が原因だ。彼女は納得してくれたよ﹂
﹁そんなはずありません﹂
﹁だが、事実だ。私と彼女は一年前に別れた。最近のことじゃない。
もう一年も前のことで、よりを戻したいと思ったこともない﹂
﹁⋮⋮やめて下さい﹂
﹁私は、彼女を愛せなくなっていた﹂
﹁やめて﹂
﹁そして、彼女もその私の様子に気付いていた。情けない話、彼女
に申し訳なくてなかなか言えずにいた別れ話を切り出してくれたの
は彼女だった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁彼女は聡明な女性だから﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
194
﹁ハル?﹂
﹁どうして、⋮⋮どうして私の価値を否定するんですか﹂
﹁ハル、価値って﹂
﹁どうして私の努力を無駄にするんですか﹂
﹁ハル、君の言っていることの意味が﹂
﹁どうして貴方は私を裏切るのですか!!﹂
わたし
心の底で冷静な自分が、﹃貴女は・・・・﹄と呟く。だけど、私は
いつも通りその言葉を無視した。
今、自分がどんな顔をしているか分からない。表情筋が重くてピク
リとも動いてくれないから。
﹁私は、私はあなたが憎い﹂
﹁な、なんで﹂
﹁もしこんな事態が起こっていたとしたら、きっと私は失望と怒り
に苛まれるかと思っていました。でも、違いました。私は貴方が憎
いんです。尊氏様。お姉様と別れてしまった貴方が憎いわ﹂
﹁どうして⋮⋮?私が彼女と別れたら私は君に憎まれる?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何故だ、ハル。この件で彼女に恨まれても仕方ないが、君に憎ま
れる理由が分からない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ハル、私は君が分からない。今までしてきた私の態度のせいで君
が私を嫌っているのは理解出来るが、何故その男と姉をくっつけよ
うとするんだ?何故別れることが駄目なんだ?﹂
195
﹁⋮⋮﹂
﹁答えてくれ。まさか、私が君の姉をたぶらかした、と。自分の姉
のためにそんなに怒って、私を憎むのか﹂
﹁違うわ﹂
私は尊氏様の問に答えることはできない。私が姉と別れた尊氏様を
憎む理由なんて、説明出来るはずもない。
だって、﹃・・・・・・・・・・・﹄
尊氏様が納得出来ないことなんて分かりきっている。だけど、そう
いう問題じゃないのだ。私は、そうやって今まで生きてきた。
沸騰した頭が徐々に冷えて、ああ、さっきと立場が逆転していると
漠然と思う。さっきまで疑問の言葉を繰り返していたのは私。今は
尊氏様。
可哀想な尊氏様。
本当は、憎まれる理由なんてないはずなのに。
﹁私はお姉様と別れた貴方が憎いんですよ。お姉様のためでもあり
ません﹂
﹁君が何を言いたいのかが分からない﹂
﹁ええ、きっとこれからも一生分かりませんよ﹂
﹁ハル﹂
﹁帰ります﹂
﹁⋮⋮ハル﹂
﹁お願いですから帰らせてください。もう、耐えられない﹂
声が震えた。もう、限界だった。
196
落ちかけていた崖っぷちをやっとのこと登ってきて、安心した所を
突き落とされるような。そんな気分だった。
ただ、落とされた先は真っ暗な暗闇でなく水の中。水が肺の中に入
ってくるから苦しくてしょうがない。でも、なんとか息をしようと
もがくのだ。
﹁私は帰ります﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
逃げてきてしまった。帰り道、ポツポツと雨が降るなか、一人歩く。
結局、帰ることになった私は、馬車で送られるのを遠慮したがほぼ
無理矢理馬車に乗せられ大通りまで送ってもらった。
197
どうしてこうなったのだろう。昨日まであんなに幸せだったのに今
はこんなにも苦しい。頬が濡れる。これは雨なのだろうか、それと
も涙なのだろうか。
もう、何も分からなかった。
﹁ああ、そう言えば櫻子さんにさようならと言うのを忘れてた。⋮
⋮櫻子さん悲しむかな。ごめんね。⋮⋮ごめんね﹂
198
十七話︵後書き︶
純愛って狂気の一種だと思います
199
十八話︵前書き︶
深夜テンションで投稿。やべえな、と思ったら消して書き直します
m︵.︳.︶m
200
十八話
﹁はあ!?﹂
﹁ええ、ですから私がハル様の代わりに派遣されました、太郎です﹂
﹁いやいや、何言ってるんだ君は。ハルちゃんは何処に行った?﹂
﹁お答え出来ません﹂
僕は相変わらずハルちゃんに、ネックレスを返すことなく日々を送
っていた。大きな罪悪感に襲われるが、最近のハルちゃんを見ると
様子は落ち着いてきたし、このままでも大丈夫なのではないかと安
心してしまう。我ながら酷い人間だ。
これで、ハルちゃんが僕の知らない誰かを想う姿を見ることがなく
なり、僕にもチャンスが回ってくるんじゃないかと期待して。
﹁どういうことなんだ、これは⋮⋮﹂
そして、その日もハルちゃんの顔を見るため食堂に向かうとそこに
いたのは知らない男だった。なんの特徴もない、けれど立派な給従
201
の服を着た、空気のような存在感の男がハルちゃんの代わりにさっ
さと働いている。しかも、それに誰も何も言わない。
風邪でも引いたのだろか、とよく話をする男にハルちゃんのことを
尋ねると﹁太郎に聞け﹂と、それだけ返ってくる。
仕方なく男にハルちゃんのことを聞くと、言われたのは意味不明な
言葉で。だが、僕はすぐに悟った。これは彼の仕業だと。
﹁あのさ、皆騒いでいないようだけど、これは誘拐じゃないのか?
まさか、あのハルちゃんが女将さんに何も言わず出ていく訳がない﹂
﹁いいえ、ハル様の了解は頂いております﹂
﹁だが、非常識だ﹂
﹁そもそもハル様がここにいたこと事態が非常識ではありませんか
?木宮様はもうハル様の御正体を気付いておられるでしょう﹂
﹁⋮⋮何を言っているのか分からないな﹂
﹁確か、ネックレスもお持ちになっているとか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ハル様にこの事はお話ししていませんし、するつもりもありませ
んのでご安心下さい﹂
﹁⋮⋮、凄いな、葉月家は。そんな個人の些細な事情まで調べられ
るのか﹂
名乗っていない筈なのに僕の名前を言い当て、明確に葉月家と指摘
しても、男は変わらず微笑をうかべるのみ。その上、何故かあちら
側は、ネックレスの件まで知っている。
僕のその弱みと彼の悪びれていない様子は僕にとって分が悪かった。
だいたい家の力関係的に僕が何を言っても相手されないだろう。名
202
前を把握されている辺り、僕はマークされているようだし。
﹁それにしても、どうやってこの街の人を納得させたんだい?﹂
今、僕が出来ることは冷静に男から情報を抜き出すだけだ。
﹁この街の方々は、理解のある人です。ハル様の粗方の御事情と数
杯のアルコールで皆さん納得していただきました。勿論、それでも
眉を潜めていた方もいらっしゃいましたが、この事がハル様の将来
にどれ程重要なのかを丁寧にお伝えした所、納得して貰えました﹂
確かに、この市街地に住む人々は、教育水準が低く単純であるため
無償の好意を渡されるとコロリと態度を変えることが殆ど。そして、
アルコールを奢って何かをさせるということは簡単な手段であり僕
だって、情報収集の時はいつも使っている。
今まで単純な市民に喜び、対価の前払いをしているからと悪びれて
いなかったが今回ばかりは苛ついてならない。自分の事を棚にあげ
ているのが分かっているから、男に対して何も言えずそんな状況も
不愉快で。
﹁⋮⋮女将さんがそれで納得したとは思えないな﹂
﹁そうですね。確かに女将さんは終始不快感を示していましたが、
ハル様の為だと最後は割りきっておられましたよ﹂
﹁ハルちゃんのため?違うだろ。これは、君達の主の為だ﹂
203
決してハルちゃんは、葉月尊氏に用があるわけではないはず。かつ
て婚約者であったとしても、ハルちゃんの想い人は他にいて、ただ
一方的に葉月尊氏がハルちゃんを好いているだけだ。
ハルちゃんは、こんなこと望んでいない。
﹁それもありますね﹂
君達の一方的な都合だとストレートに言っているのに、男は全く動
揺することなくしれっとしている。反対に僕はイライラがつのって
いき、つい余計な事を言ってしまった。
﹁悪気がないようだが、ハルちゃんには好きな人がいるんだ。もう、
ずっと忘れなれない好きな人が﹂
﹁ええ、知っておりますよ﹂
﹁、それなら何故こんなことを!?あのネックレスの送り主に会う
ならともかく、葉月尊氏殿に会ってもハルちゃんにとって良いこと
は何一つないだろう﹂
﹁⋮⋮あの、木宮様は勘違いして﹂
初めて男の顔が怪訝そうに崩れたとき、女将さんが凄い形相で怒鳴
りあげた。
﹁太郎!!いつまでサボるつもりだい!?さっさと働きな﹂
﹁申し訳ありません。⋮⋮あの、ネックレスの﹂
﹁いや、いい。早く行きな﹂
つい、ネックレスのことを話題に上げてしまったが、この事は僕に
とって鬼門だ。負い目があり、揚げ足を取られたくない僕は何か言
204
いたそうな男の口を止めさせ、席に座った。
常連客から話を聞くに、ハルちゃんは一昨日の昼にいなくなり、そ
れと同時に太郎がやって来たらしい。
﹁まあ、木宮君。そう、焦らずにね﹂
﹁何を言っているんですか。ハルちゃんのピンチなんですよ!皆さ
ん、あんなにハルちゃんを可愛がっていたのに冷たくはありません
か﹂
﹁うーん。冷たいというか、これはハルちゃんの為に必要な事なん
じゃないか?最初は、太郎をぼこぼこにしても問い詰めてやろうっ
て雰囲気だったけど、太郎の言い分を聞いてくうちに、なぁ﹂
﹁ハルちゃんが具体的に何をしているか分からなくて、騙されてい
たとしても。それでも、いいんですか?﹂
﹁そりゃぁ、良くないさ﹂
常連客の男は、しかめっ面をしている。やや、不愉快そうにしてい
るが僕にはそんな事どうでもよかった。
軽く挨拶を済まして、食堂を出る。
やはりここのお気楽な人は、話が通じない。僕だけが彼女の事情を
知っていて、僕だけが彼女が迷惑している事を知っている。
205
ハルちゃんは、あの時あの路地裏で、葉月尊氏を憎んでいるような
発言をしていた。それは当然の事だ。如月美春だった当時、ハルち
ゃんは周りから相当蔑まれていたようで、葉月尊氏はそれを放置し
ていたのだから。
ということは、ハルちゃんは好きでない、寧ろ嫌いな相手に無理矢
理迫られている事になる。
連れていく時も強引なら、口説く時だって強引なはず。
ハルちゃんの気持ちをこうも考えないなんて。
﹁最低な男だな、葉月尊氏﹂
僕がなんとかして、助けないと。
僕がハルちゃんを助けないと。
なんの見返りもなしに、ただハルちゃんの為に。
ハルちゃんを助けたい僕の為に。
それから、僕はハルちゃんを助けるべく、すぐに情報を集めた。葉
206
もえ
はつきと
月尊氏の事を調べる為に、苦手だった葉月尊氏の叔母である葉月知
枝とも情報を共有した。葉月知枝は元の恋人と別れた事実は知って
いても新たに想い人が出来ていていることまでは知らなかったらし
く、いたくおかんむりで。いくら親族でも、恋人のことにまで口を
出されるなんて、と少し同情もしたが僕にとって葉月尊氏がどうな
ろうと関係なかった。
情報が入ったのは、僕が動き出した次の日。すぐの事だった。それ
は、ハルちゃんがいなくなってから四日目で。あの葉月知枝方から
情報が入ったのだ。
そこで、ハルちゃんが華族街の三等地番街にいることが分かり、葉
月知枝は既にそこに行ったことを知る。その情報を貰えたのはあり
がたいが、もしハルちゃんに会っていて酷く罵るような事をしてい
ないか心配になった。あの様子では勘違いをしていそうで。
詳しい住所を聞き出し救い出す算段をつけてから、馬車に乗り込み
その屋敷に向かう。時刻は既に六時をまわり、辺りは段々と暗く、
そして小雨が降りだしてきた。
僕がハルちゃんを救い出せたら、ハルちゃんは僕を頼もしいと思っ
てくれるだろうか。僕を見て安堵の表情を浮かべてくれるだろうか。
頭のなかは既に、救いだした後の事でいっぱいで。僕の意欲を増幅
させる。
早く、早く僕がハルちゃんを救いだしてあげないと。
たまたま、情報が入った場所が貴族街の反対方向だったため馬車は
207
まだ市街の大通りを走っている。普段は、安全の為にスピードを出
さないよう言っていたがこの時ばかりは、馬に鞭を振るわせ急がせ
た。
﹁もっと急いでくれないか﹂
馬車の前方についている小窓を開けて、従者にそう指示した僕はそ
のままなんとなく、横にある窓からじっくり外を眺めた。何故、そ
うしたのか分からない。もしかしたら焦る気持ちを抑えるために景
色を見ようとしたのか。ただ、本当になんとなく、外を眺めようと
した時、輝く銀糸が目の端を通りすぎた。
︱︱︱︱珍しい銀の髪を持った女性が傘もささず歩いていた。
まさか。
そんな都合のいい事が起こるはずがない。
たまたま外を眺めたその時、丁度。ハルちゃんがそこにいるなんて、
そんな。奇跡か運命でもなければあり得ない。
僕は構わず従者に言った。
﹁馬車を止めてくれ﹂
ロマン
冷静な理性がそんな事あり得ないと告げている。だけど、僕の本能
が彼女だと。あれは、彼女に違いない。今、僕が外を眺めたのは、
神の御導きなのだと叫んでいた。きっと、世界が、神が、僕とハル
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ちゃんが出会うことを望んでいる。
胸は期待で高鳴り、馬車が止まり次第、従者に何も言わず外に飛び
出した。手には傘を持って。だけど、邪魔だからさすこともせず、
脚が彼女の方向めがけて走った。
さっきまで小雨だった雨はいつの間にか、本降りになっていて。雨
の滴で視界がぶれていたけど、近づく後ろ姿ではっきりと分かった。
ハルちゃん。
その時、僕は運命を感じた。肌にまとわりつく雨粒がまるで蒸発す
るかのように体は熱く、上がった口角は下がらない。
だって嬉しいんだ。彼女の運命が僕みたいで。
神の御導きによって僕とハルちゃんが今、出会うそれが偶然ではな
く必然であることが。
僕はハルちゃんの陥っている状況なんて、忘れてこの素晴らしき運
命に感謝し、感動した。
やっぱり僕なんだ。
ハルちゃんを幸せにするのは、幸せに出来るのは僕なんだ。
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﹁ハルちゃん!!﹂
僕は興奮冷めやらぬその顔と表情で、彼女を呼んだ。
ハルちゃんは、ゆっくりとこちらに振り向く。
﹁⋮⋮木宮さん⋮⋮⋮⋮﹂
ハルちゃんの悲痛な顔を見て、苦しそうな声を聞いて。
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僕は恥ずかしくなった。
運命だ、と喜んでいた自分がいかに独りよがりで、みっともなかっ
たか、まざまざと思い知った。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5576dl/
償いの婚約
2016年10月27日00時46分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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