恵信尼消息(4)

第2通①
恵信尼消息(4)
【第2通(本文)】
「ゑちごの御文にて候ふ」
この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申して
も要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、
御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人に
よく書かせてもちまゐらせたまふべし。
またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。幼く、御身の八つにておは
しまし候ひし年の四月十四日より、かぜ大事におはしまし候ひしときのことどもを
書きしるして候ふなり。
今年は八十二になり候ふなり。一昨年の十一月より去年の五月までは、いまや
いまやと時日を待ち候ひしかども、今日までは死なで、今年の飢渇にや飢死もせ
んずらんとこそおぼえ候へ。かやうの便りに、なにもまゐらせぬことこそ心もと
なくおぼえ候へども、ちからなく候ふなり。
益方殿にも、この文をおなじ心に御伝へ候へ。もの書くことものうく候ひて、別
に申し候はず。
「弘長三年癸亥」
二月十日
【現代語訳】
この文(建仁元年の聖徳太子の示現の文)を書き記して、あなた(覚信尼)に差
し上げますのも、殿(親鸞)がご存命中には申す必要もございませんでしたので
申し上げませんでしたが、お亡くなりになられました今は、殿がこのようなお方
であられたということを、あなたのお心の中だけ記憶しておいてくださいますよ
第2通①
うにと思って、記して差し上げます。文字の上手な人に美しい字で書いてもらって
お持ちになってください。
また、あの殿のお姿を描いた御影一幅、欲しく思っています。
あなたがまだ幼い8歳でいらっしゃった年(寛喜3年、1232)の4月14日より、殿
のお風邪が大変悪くなられました時の出来事などをも書き記しました。
今年、私は82歳になりました。一昨年の11月から昨年の5月までの間は、今にも
死ぬのではあるまいかという日々を過ごしましたが、今日まで死なずにいます。
今年の飢饉には飢え死にするのではあるまいかと思っております。
このような便りを出します折りにも、何も差し上げるものがございませんのは
気になりますが、どうすることもできません。
益方殿にも、この手紙の内容をそのままお伝えください。ものを書くことも気
がすすみませんので、益方殿には別に頼りも出さずに、何も申してはおりません。
「弘長三年癸亥」
二月十日
【解説】
このお手紙のタイトルに「ゑちごの御文にて候ふ」と記した文字は、覚如上人がお
手紙を整理された時に書き加えられたものと推定されます。
このお手紙をここでは第2通(『恵信尼消息2』)としました。しかし、その内容からし
ますと、第一通(『恵信尼消息1』)に続くもので、第1通、第2通というふうにしないで、
第1通の後半部分と理解するのがよいのではないかとも思われます。
それは、このお手紙の最初に、「この文を書きしるしてまゐらせ候ふも」とあり、「こ
の文」というのは、第1通のはじめに、親鸞聖人が六角堂において「聖徳太子の文」
の示現にあずかられたことを記しておられる、その「太子示現の文」であると思いま
す。
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さらに第1通の添書には、この「聖徳太子の文」を、あなた(覚信尼)にご覧いただ
こうと思い、書き記して差し上げますとあります。このことは、恵信尼さまが「聖徳太子
の文」を手紙の中には記さないで、別の紙に書いて覚信尼さまに送られたと推察さ
れます。
そこで恵信尼さまは第2通の初めに、この「聖徳太子の文」について親鸞聖人が
御存命中は、あなた(覚信尼)に申しませんでしたが、聖人がお亡くなりになられた
ので「聖徳太子の文」のことをお話しいたし、その「聖徳太子の文」の内容を記してお
送りします、文字の上手な人に清書してもらいなさい、と言っておられます。
恵信尼さまが清書してもらいなさいと言われたのは、この「聖徳太子の文」は、親
鸞聖人が法然聖人のもとに赴かれ、お念仏によって救われるきっかけになった大切
な内容の文なので、自分の拙い文字でなく、美しい文字で記し保管しなさいという配
慮をされたのだと思います。
この恵信尼さまが書き送られた「聖徳太子の文」は残っておりませんので、その内
容はわかりません。しかし、私は「聖徳太子廟窟偈」であると推測しています。
※
次に、お手紙に「またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり」と記しておられ
ます。親鸞聖人のお姿を描いたあの御影が欲しいと記しておられますので、恵信尼
さまが京都におられた時、覚信尼さまとともにご覧になった、あの親鸞聖人の御影が
一幅欲しいとのご希望です。
恵信尼さまが所望された御影は、私の推測では西本願寺に現存する「鏡御影」の
ような簡素なデッサン(素描)で、聖人のお手元には数幅を所蔵しておられ、その中
の一幅が欲しいとのご要望かもしれません。
「鏡御影」を描いたのは専阿弥陀仏という人で、彼は法然聖人の肖像を描いた当
時有名な画家であった藤原信実(のぶざね)の子といわれます。「鏡御影」は聖人が右
向きに立たれた姿を描いた、彩色を施さない線描画のデッサンですが、同じく聖人
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の肖像画である「安城御影」にくらべて、聖人の生き生きとした活動的なお姿が力強
く描かれています。
※
次いで覚信尼さまが8歳の年、寛喜3年(1231)4月14日から親鸞聖人が風邪に
罹られ病が重くなられた時の出来事を書き記しますと恵信尼さまは述べておられま
す。
しかし、ここにはその出来事の内容は記されず、このお手紙と同じ日付の2月10
日(弘長3年)に書かれた第3通目(『恵信尼消息3』)に詳しく述べておられます。そ
れは風邪のため発熟した聖人が『大無量寿経』を読んでおられたという内容です。
※
その次に恵倍尼さまは、今年は82歳になられたことを記され、一昨年(弘長元年・
1261)の11月から昨年(弘長2年)の5月まで病気になられて、今にも死ぬのではあ
るまいかと思っていましたが、なんとか今日まで生き延びてきました。しかし、今年
(弘長3年)、飢饉が発生すれば飢死にするかもしれないと言っておられます。
恵信尼さまの飢饉への恐れは的中して、弘長3年8月に大風(おおかぜ)が日本列
島を縦貫し、越後が大被害を受けたことは、「文永元年のお手紙の断簡」と第6通
(『恵信尼消息6』)にも記されています。
※
このお手紙の終わりに、恵信尼さまは、このようなお便りを差し上げるのにあたっ
て、何もお送りする品物がないのは大変心苦しいことですが、どうすることもできない
ので、お許しくださいと述べておられます。
そして最後に、私は手紙を書くのも大儀になりましたので、越後から京都にのぼっ
ておられる益方殿には、便りを出しておりませんので、この手紙の内容をお伝えくだ
さいますようにと記しておられます。
なお、2月10日の日付の前に記された「弘長3年癸亥(みずのとのい)」の年号は覚如
第2通①
上人が書き加えられたものと思われます。(千葉乗隆)