第7通⑦ 恵信尼消息(66) 恵信尼終焉の地 恵信尼が越後のどこに住んでいたのかについては、学者の間で様々な説があり ます。『消息』第7通が重要な意味を持つのは、文末にこの手紙の発信地が記入さ れているからです。『恵信尼消息』8通(下人譲状2通を除く)のうち、恵信尼の居住 地を明らかにできる唯一のものが、この第7通なのです。 この『消息』は裏に「わかさ殿」とあり、「わかさ殿」に取り次ぎを依頼したことがわか りますが、先に見た通り、下部に「とひたのまきより」と記されています。「とひたのま き」は恵信尼の越後での最晩年の居住地ですが、それは果たしてどこなのでしょうか。 色々な説がありますが、大体次の3つの説か有力とされています。 一、新潟県中頸城郡櫛田村(現在の清里村)大字赤池の鳶田 二、同郡板倉村(現在の板倉町)坂井と長塚との問の飛田 三、同郡板倉村(現在の板倉町)字上沢田のとびた 「とひたのまき」の「まき」とは「牧」、つまり古代の牧場の跡で、このような牧場跡は全 国にあるそうです。大谷嬉子氏は「とひたのまき」とは板倉町大字米増のこととしてい ます。所説の詳細は略しますが、今記した3つの地域には壕を巡らした形跡があり、 その一角が「びく(に)やしき」と呼ばれ、「何か由緒ある人が住んだ気配を感じる」と 大谷氏は指摘します。「びくに」とは比丘尼で、尼のことです。 板倉町の資料には、この「米増」あたりの地下を掘ると、葦の根がたくさん出てきて、 ここが昔、葦原で、その葦に混じって馬の尻尾や鬣(たてがみ)が出てくるとあります。こ こはその昔、牧場であり、「とひたのまき」はこういう場所ではなかったかと大谷氏は 記しています(前掲『親鸞聖人の妻意信尼公の生涯』)。 恵信尼の子どもたちは、それぞれ恵信尼の住居近くに住んでいたようです。第一 子で、長女の小黒女房は新潟県東頸城郡安塚町小黒というところに住んでいたと推 第7通⑦ 測されます。小黒女房は京都、あるいは越後の生まれで、恵信尼と親鸞が関東に向 かった時、7歳くらいだったようです。その時、親鸞聖人42歳、恵信尼は33歳です。 これも推測ですが、関東での親鸞夫妻の20年の生活を色々と助けたことと考えられ ます。しかし、小黒女房については詳しいことはほとんどわかりません。いずれにして も、越後に移り、小黒に住む男性と一緒に生活するようになって、小黒女房と呼ばれ たと思われます。東頸城郡安塚町の小黒は、「こぐろ」と発音するそうです。その辺り は山間部で、中央を小黒川が流れています。この小黒川は「おぐろがわ」と発音する そうです。場所は「こぐろ」で河川は「おぐろ」ということになります。 小黒女房について知ることはほとんどできませんが、唯一『恵信尼消息』、82歳の 時の手紙に、小黒女房の子どもたちのことが記されていることは、注目されます。 親も候はぬ小黒女房の女子、男子、これに候ふ(第1通) とあります。この年、生きていれば小黒女房は58歳くらいだろうと思いますが、もうこ の世の人ではなかったようです。その子どもたちを恵信尼が引き取って育てていまし た。 この他、恵信尼の第2子で、長男の信蓮房。承元5年(1211年)の生まれで、明 信と言いました。『恵信尼消息』には、信蓮房の名と共に「栗沢」という名で出てきま す。栗沢とは言うまでもなく信蓮房の住所で、現在の新潟県中頚城郡板倉町栗沢と されています。後で触れますが、この信連房は、87歳の恵信尼に、「不断念仏」を始 めたことを咎(とが)められています(『消息』第8通)。 この他、益方入道、高野禅尼のそれぞれが、いずれも現在の板倉町、あるいはそ の隣町などに在住しており、恵信尼もその近くにいることが『消息』から知られます。 したがって、この板倉町辺りが、恵信尼最後の地とみても不自然ではないと考えられ ます。そこは、国府にも近く、三善家所領の土地とも関係があると思います。 「栗沢」「益方(升方)」「高野」といった地名は、現在も同じ板倉町内にあり、「小 黒」は隣の郡にあることを考えると、それは肯けるのではないでしょうか。「栗沢」「益 第7通⑦ 方」という子どもたちはよく知られていますが、「高野禅尼」はあまり知られていません。 『大谷一流系図』に恵信尼の娘と記されています。彼女は板倉町高野に住み、恵信 尼のごく身近な存在であったようです。恵信尼が『消息』に記す「とひたのまきより」と いう場所は異説はあるものの、この辺りと推定しても大きな誤りはないと考えます。 (山 龍明)
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