文革音楽の研究動向 純 子 中 はじめに 最近になって,文革期を象徴する祥板戯などの研究書が書店に並ぶよう になった。張雅心『祥板戯劇照』(人民美術出版社 2 0 0 9年)はカラーの 写真集で,祥板戯の芸術的レベルの高さが感じられる。「文革音楽」(文革 当時に歌われ演奏された音楽)についても,少なからず研究が発表される ようになってきた。中国では文化大革命 ( 1 9 6 6∼1 9 7 6 )が終息して 3 0 年以 上の歳月がすぎ,冷却期間を経たいまだからこそ,有る程度客観的に当時 のことが研究されるようになったのではないだろうか。文革後,経済開放 政策が加速し,日進月歩の勢いで経済成長を続けてきた中国では,最近貧 富の差がとみに著しい。そんな状況のもとに,文革期だけではなくそれ以 前の革命時期に盛んに歌われたものも含めて,当時の音楽が「紅歌」と呼 ばれ一種の懐メロのように取り上げられている。それらを口ずさむ人々の 心には,革命当時の格差なき平等社会に対するノスタルジーがあるのやも しれない(余建・呉志非『紅歌紀事』中共党史出版社 2 0 1 1 年,侯書生・ 張姫麗編著『紅歌的力量』紅旗出版社 2 0 1 1 年などの専著も出版されてい る)。本稿では,文革時代を考える重要なファクターの一つであるその音 楽について,これまでどのように研究がなされてきたか,中国音楽史に関 する著書や専門論文など管見の及ぶ範囲において紹介し,その傾向を分析 してみたい。 (29) (1)文革と音楽 文革中には,自由な音楽創作はもとより,音楽研究もなされなかった。 6年 3月まで停刊)『音楽研究』 7 9 6年 4月→ 1 6 9 1 それは『人民音楽』 ( 0年 2月まで停刊)といった権威ある音楽研究誌の停刊 8 9 0年 6月→ 1 6 9 1 ( だけでなく,あらゆる音楽研究誌がほとんど発行されなかったことからも 看取される(李文如編『二十世紀中国音楽期刊篇目陸編』文化芸術出版 社 5年参照)。また筆者が北京大学留学中に教えを受けた中国音楽研 0 0 2 )も,文革中には研究活動ができず,た 2 0 0 5∼2 1 9 究の大家陰法魯教授( 1 とえ研究を続けていたとしてもその発表の場を完全に奪われていたことは, 最近出版された『陰法魯学術論文集』(中華書局 8)のなかに文革時 0 0 2 期に作られた論文がまったくないことからも十分推測される o また,中国 の舞踏を歴史的に研究されてきた王克芽氏も文革中は中国舞踏史を研究す る権利を剥奪されていたと述懐されている(『舞論−王克芽古代楽舞論集』 ) 。 9 0 0 甘粛教育出版社 2 どの分野の研究においても文革はその悲惨な爪痕を残しているが,毛沢 東夫人江青が一番力を入れたのは,やはり音楽文芸に関わる分野だったの 1月9日「在北京文芸座談会上的講話」にみる江 年1 7 6 9 ではなかろうか( 1 青の言葉として「我是全心全力地眼同志一挟在摘戎刷革命,音示革命」と 。 ) ) 頁 7 年5 7 9 9 述べたとある(李換之主編『当代中国音楽』当代中国出版社 1 年 2月〈林彪同志委托江青同志召弄的部臥文玄工作 6 6 9 文芸界への圧力は 1 座淡会紀要〉で,文芸界は建国以来毛沢東の思想に反対する反党・反社会 主義の「黒線」に牛耳られてきたとして,「黒線」と呼ばれる文芸界の重 鎮を批判することにより本格化する。その代表例としては作曲家の賀緑汀 が 7年あまりにわたり監禁され(梁茂春『中国当代音楽 京広播学院出版社 9』北 8 9 1 9 4 9 1 6頁)たことがあげられる。音楽学校を例に 年 1 3 9 9 1 とれば中国音楽学院ではその半数の教師が文革の槍玉にあげられ, 3人は 死にいたったと言われている。沈陽音楽学院でも 3分の 2以上の教員が (30) 「敵人・特務・叛徒」などの汚名をきせられた。また上海音楽学院では 1 3 8 人が闘争の対象とされ, 9 8 人が「牛棚Jとよばれる牢に監禁され, 5人は 監獄へ入れられた。なかでも民族音楽系の主任教授沈知白や, ピアノ系主 任教授苅継森などは自殺に追いやられた。そうした例はここにあげたもの にとどまることなく,全国的に多くの研究者が迫害を受けていたと考えて いいだろう(戴嘉坊「劫乱中的喧器一1 9 6 6 年一 1 9 6 9 年阿紅E兵這劫中的音 尿」『中国音楽学』 2 0 0 5 年・ 1期所収)。 そのような情勢のもとで歌うのが許されたものは,毛沢東や党を賞賛す る「革命造反歌」や,「紅衛兵戦歌」や,「毛主席永遠和我f ]ー起」などで あり,そして毛沢東の語録の一節を歌にした「語録歌」であった。「語録 歌」を作った代表者李劫夫は,当時闘争の対象となっていた沈陽音楽学院 の学院長であった。彼は 1 0 0曲以上の「語録歌」を作ったと言われている (霊長和「語録歌風行始末」(インターネット資料原載南方週末)。彼 以外にも集団で制作された「語録歌」も登場した。李劫夫の作品のなかで は「争取腔利」「革命不是清客吃仮」「永退学巧老三篇」(老三篇とは『方 人民服努』・『愚公移山』・『記念白求思』をいう)などが有名である o 毛沢東賛美の歌がある一方で,闘争の槍玉にあがった人々は紅衛兵に投 致されて三角帽子に罪状を書かれて見せしめにされ,おまけに「牛鬼蛇神 壕歌Jという,罪を犯した自分を自ら打ち砕くといった歌を歌わされた (戴嘉紡 9 8頁)。また,人々は朝な夕なに毛沢東を崇拝(早清示,晩紅 披)し,「忠字舞」と呼ばれた踊りを集団で行った。文革は四旧(旧思想・ 旧慣習・旧文化・旧風俗)を打破するといいながら,実は,政治と音楽の つながりを重視した民国成立以前の儒教的な音楽観を再生したのではとま で思われるのである o 毛沢東という皇帝のもとに人民の音楽が統制され, それまでの「伝統的」なものや,中国に悪影響を及ぼす「外来」の音楽を 否定した姿勢には,前の王朝のものを打破し,夷秋の音楽を敵視するよう な歪曲された儒教的音楽観が看取される。毛沢東を讃える代表的音楽「東 (31) 年に打ち上げられた中国最初の人工衛星で流されたというこ 0 7 9 方紅」が 1 とも,現代版の皇帝音楽のあり方のーっと捉えることもできょう。 また,文革音楽の重要な柱として,江青が指導した 8つの革命模範劇 (革命祥板戎)が挙げられる。「 8億の人民に 8つの祥板戎」といわれたほ ど,そればかりが取り上げられ繰り返し上演され続けた。 8つの内訳は, 現代京劇の「智取威虎山」「紅灯記」「沙家浜」「奇襲白虎団」「海港」と, 現代バレエ劇「白毛女」「紅色娘子軍」と革命交響楽の「沙家浜」である o これについては,現在少しず、つ研究がなされるようになり,その一部分の 研究動向については後で述べることにする。ただ,文革期の京劇について の当時の研究として,寛久美子氏の「京劇の現代化試論−「紅灯記」を手 がかりに−」(『吉川博士退休記念 中国文学論集』筑摩書房 年所収) 8 6 9 1 5年に実際に観劇されて, 6 9 が,革命模範劇として先述した「紅灯記」を, 1 その完成度の高さ,わかりやすさという点で評価しておられる o 農民労働 者を対象にした娯楽はわかりやすいということが重視されるのである。文 革以前の段階で,すでに模範劇の芸術としての下地ができあがっていたと いうことである。 文革音楽には,どのようなものがあったのか,実際に当時の中国に生き た人々の証言に興味深いものがあるが,実際に曲を知る手がかりとして 年に毎年一度刊行された『故地新歌』 1∼ 5集によるところが 6 7 9 2∼1 7 9 1 年 5月出版の『十月新歌』がその続編である)。 7 7 9 大きい( 1 年代の文革音楽研究 0 9 9 )1 (2 文革音楽は前章で見たように,政治色が強く,歌詞も党と毛沢東讃美で あり,千篇一律の感がぬぐえない。それは,文革後の音楽研究の分野にお いて厳しい評価を受けることになる。加えて,文革時に酷い弾圧を受けて きた研究者にとって,文革音楽は忌まわしい記憶と重なり,まったく評価 年代において,管見の 0 8 9 の対象外のものとして扱われた。文革収束後の 1 及ぶところ研究書や論文が見当たらないのは,文革の音楽研究分野に与え (32) た傷の深さとともに,それを一律に文化レベルが劣った音楽と見下す風潮 があったからかもしれない。それは 1 9 9 0 年代の研究にも影響している o 現 代音楽史研究の第一人者ともいえる圧縮和は,『中国現代音楽史綱』(華文 出版社 1 9 9 1年)において,建国以来現在に到る音楽史を記録するなかで, 全六章のうちの四つの章,つまり第二章「伝統音楽の継承と発展J ,第三 章「声楽創作の発展」,第四章「器楽創作の発展」,第六章「音楽評論と音 楽理論研究」で,文革時代の音楽にはほとんど言及していない。言及が有 る部分,たとえば「中外音楽交流」(第一章・第四節)においては「この 1 0 年のあいだ,我が国の対外音楽交流はずっと最低の水準で、あり,教学に あたる専家・学者の交流や,留学生の交流も完全に停止していた。国際的 な音楽コンクールへも人を送ることもなかった」(4 2頁)と,その時期の 音楽のあり方を酷評している。また第五章「歌劇舞劇音楽と映画ドラマ音 楽」においては,建国から現在までを 4つの時期にわけで,文革期をその 第三期にあてている。そこでは「中国の歌劇芸術事業も著しく虐げられ, かつて人々のあいだで広範な影響力をもち,愛された歌劇作品も,「毒草」 とみなされ批判をあびた。「四人組」とその配下のものたちは,五回以来 の新歌劇の偉大なる成果を根本から否定したのである」( 2 1 6 頁)と江青た ちに逆に厳しい批判をあびせている o そして各章に付された注には,文革 期に働き盛りの年齢を迎えていた音楽家や音楽研究者の経歴が記載されて いる。そこに当時を生きた音楽史研究者として在備和が,文革で研究や音 楽活動を妨げられた人々に対する思いを,せめてそれらを記録することに よって表しているとも感じられる。 次にとりあげる梁茂春『中国当代音楽』(北京広播学院出版社 1 9 9 3 年 ) では,全九章のうち六章で文革音楽が記述されている。たとえば 第一章 「中国当代歌曲創作概論」では,「文化大革命時期の歌曲」という節を設け て , そ れ を し 語 録 歌 へ の 熱 狂 期 (1 9 6 6∼1 9 6 9) ・ 2,沈黙期( 1 9 6 9∼ 1 9 7 1) ・ 3,「戦地新歌」の段階( 1 9 7 1∼1 9 7 6)と,三つの時期に分けて論 (33) じているというように,すこしずつ具体的な分析がなされるようになった のである o しかしながら,文革音楽に対する批判的な姿勢は先にみた注統 和のものと同様であった。「合唱芸術はひどく破壊され,ねじ曲げられた」 9頁),「古今内外の優秀な交響音楽作品はすべて乱暴に徹底して一掃さ 5 ( 頁),「文化大革命の音楽芸術に対する破壊のなかで,歌劇領域 6 7 1 れた」 ( ほどひどいものはない。……江青ら四人組が歌劇芸術を冷酷に破壊した罪 行は,国内外の歌劇史上に最も暗黒で最も惨憎たる歴史のー頁となった」 2頁)など,文革が音楽界にもらたした残酷な傷跡を記録する姿 1 1∼2 1 2 ( 勢が踏襲されている o 李;換之主編『当代中国音楽』(当代中国出版社 年)になると,研 7 9 9 1 6・ 6 9 9∼1 4 9 究はさらに詳細になり,第一編「新中国音楽の発展過程」で, 1 9の三つの時期に区分して,文革期の音楽にかなり 8 9 6∼1 7 9 6・1 7 9 6∼1 6 9 1 の頁を割いている o そこでは革命模範劇について,それは四人組の統制の もとで,人々に繰り返し聴かせたものだが,「すべての模範劇が「四人組 文芸」「陰謀文芸」の列に属するものではなく,なかには一定の芸術創造 1頁)と,肯定的にみる部分があると述べて 性を有するものがあった」(6 1年以降周思来が新しい歌曲 7 9 いる。また,文革中の音楽創作について, 1 や歌舞音楽の発展を奨励し,少し状況が好転するなかで,民族民間の調べ を周到に取り入れた歌曲が現れたと記し,その具体的な曲名もあげられて 5頁)。また,当時の有名なピアノ協奏曲「黄河」についても,原 いる(6 作『黄河大合唱』の成功に基づき, ピアノの演奏技巧を十分に発揮したこ とで,芸術的な感動を与える作品となり,文革後も国内外の団体の演奏曲 頁)。さらに,映画音楽のなかにも 0 2 目として選ばれているとしている(2 年以降の作品には佳作もあるとし 3 7 9 文革の傷跡は深いにせよ,文革後半 1 年代の文革 0 8頁)。 9 8 て,「青松崎」や「海霞」などがあげられている(2 音楽研究は,このように全面的否定から, しだいにより客観的に分析され るようになっていく。戴嘉紡『祥板戯的風風雨雨一江青・祥板戯及内幕』 (34) (知識出版社 1 9 9 5年)が, この時期に出版され,そのなかには交響曲 「沙家浜」のことにも触れていることを付け加えておきたい。これにつづ、 く2 1世紀,ここ 1 0 年の研究は,さらに細部に渡りすぐれた論文が出される ようになっていく。 (3) 2 1世紀の文草音楽研究 2 1世紀に入ってから中国における文革音楽研究はさらに分析的になった。 もちろん文革が音楽界にもたらした傷跡は事実として受け止めながら,す でに歴史のー頁と化したような記述,客観的な評価が目指された。それら をここでは紹介してみたい。 まず,文革音楽を「文革推進のために作成・改編された音楽」という枠 から,「文革が発生したために生まれた音楽」に拡大して,当時農村に下 放され悲惨な目にあった知識青年たちのなかで歌われたものにも,やっと 光があてられることになった。戴嘉坊「主主托邦里的哀歌一文革期間知青歌 曲的研究」(『中国音楽学』 2 0 0 2 年・ 3期所収)は,文革当時では当然公に され得なかった,知識青年の苦悩を歌ったものについての初めての研究で ある o 歌詞の内容は,父母や兄弟姉妹との離別,故郷や両親を想う気持ち などを表現しており,なかには獄中で作られた作品もある o それらは専門 家の手を経ることなく,下放された青年たちの聞に歌い継がれ,歌いやす く改編された。ゆえに個人の作品というよりは集団による制作である o 戴 嘉坊氏はそれを「新民歌」と呼んだ。戴嘉坊のこの研究は,それ以前の文 革音楽史に更なるー頁を加えた。最近出版された居其宏『共和国音楽史』 (中央音楽学院出版社 2 0 1 0 年)では,戴嘉坊のこの研究を取り上げて, 「第一章文革中的歌曲創作」の「第一節文革早期的歌曲創作」 の第三 として「地下新民歌 知青歌曲」として 2ページ半にわたって記述してい る(文革音楽全体が3 7ページという分量)。 次にとりあげる吉田富夫「『紅灯記』移植と文化大革命」(アジア遊学6 5 『文化大革命の再検討』 2 0 0 4 年所収)は,文革の柱であった革命模範劇 (35) のなかの『紅灯記』を取り上げている。『紅灯記』は, もともと映画『自 有後来人』が改編されて漉劇となり,それが現代物京劇に改編されたもの で,それがまた革命模範劇に仕立てられたのである o 吉田氏はその脚本を それぞれ比較して,どこが改編されたのか詳細に論じている o そこで文革 年に上演されたものは,実は文革以前の優れたテキストと 7 6 9 が始まった 1 細部にいたるまでほとんど同じであり,文革期に入っても,文革前のテキ ストがそのまま受け入れられていたことを示し,それは『紅灯記』に限っ たことではなく,革命模範劇に仕立てられた一連の現代物京劇についても 年 5月の演出本では,江青の手が入りおお 0 7 9 同様だったとする。それが 1 いに改編され,感情的にも薄っぺらで単純化されてしまう。吉田氏の結論 年代前半の反修正主義の流れのなかで多くの 0 6 9 としては,革命模範劇は 1 人の関与の下に形成されていったもので,その成果をかすめとったに過ぎ ない江青の役割は,大きな歴史的流れからみて過大に評価すべきではない 年の上演本ではまったくそれ以前と同じであったという発見 7 6 9 とする。 1 は,テキストを詳細に検討したうえで出された見解であり,今後こうした 丁寧な作業が文革音楽解明のために必要と思われる(日本において文革音 楽はあまり研究がなされていないようである O 管見の及ぶ範囲では,いま 年に入ってからの専論を見つけられない)。 0 0 0 のところ文革音楽に関する 2 劇の脚本の詳細な検討と同じく,交響曲の音楽構成を分析した研究もあ る。さきにあげた戴嘉坊の「論交響音楽沙家浜的音楽創作」(『中国音楽史 1 年第 1 4 0 0 所収初出は『人民音楽』 2 7 0 0 研究巻』上海音楽学院出版社 2 期)では,革命模範劇のひとつに数えられる交響曲「沙家浜」の音楽構成 について,全体を細分化して,それぞれどの部分が京劇の「西皮調」や 「二黄調」であるか, リズムでは「快板」や「散板」や「流水」といった 伝統音楽のものがどこに現れているかなど,分析している。「沙家浜」が 文革以後交響楽で伴奏する多くの京劇大連唱などの番組創作のために音楽 頁)。交響楽と京劇の融合のひとつの 8 7 的な実践経験を提供したとする(4 (36) ありかたを提示したものとして評価しているのである。 さらに,独特なのが何萄「黒色幽黙文化大革命的民族音楽」(『中国大 900-1966民族音楽実地考察 陸1 編年与小案』(上海音楽学院出版社 0 9 9 7年所収)の研究論文である o 民族音楽学の研究という視点で, 1 0 0 2 年代の研究では常識となっている「文革時期は中国民族音楽研究の空白」 年になって楊蔭湖が『中国古代音 0 を,本当はどうか検証している。彼は 8 楽史稿』を出し,黄河鵬がなした中国古代史や伝統音楽学理論の研究など は,かれらが文革中労働の余暇に継続して研究してきたことと結び、つくは ずだとしている。また,音楽研究雑誌が停刊してことについても,当時出 版が可能だった『紅小兵歌曲』『解放軍歌曲』『群衆歌曲』などの雑誌のな かにも,わずかながら「創作談j などの文のなかに民族音楽学とのかかわ りを見いだせるとする。さらに文革中江青に重用され京劇改革をして国家 文化部部長をつとめた子会泳についても,彼の働きに評価できる面もある 世 1 としている。何萄のこうした研究は,文革の傷跡が残る時期を経て, 2 紀に入りようやく可能となったものではなかろうか。こうした別の視点に たつ研究が出現したことは,中国の文革研究のさらなる進展を意味する o 文革音楽に関与した個人についての専論は,「語録歌」の制作に活躍し た李劫夫について,霊長和「語録歌 風行始末」(インターネット資料 原載南方週末)がある。さらに霊長和は伝記として『紅色音楽家−劫夫』 (人民出版社 年代の研究で 0 9 9 3年)の労作も出版している。ほかに 1 0 0 2 触れるべきであったが,戴嘉紡『走向段滅一文革文化部長子会泳沈浮録』 年)は未見の資料であるが,『中国近現代音楽史巻』 4 9 9 (光明日報出版社 1 頁に挙げられている o 文革音楽にたずさわっ 7 6 年の 5 8 0 0 人民音楽出版社 2 た人を,それぞれ個々に分析していくことが,これからの文革音楽研究の 一つの課題であろう。しかし文革期に個人的資料は焼かれたり,紛失した り,またわざと自分の見解とは別のことを記したり,ということも十分に 考えられ,分析作業は困難をともなうことも事実である。 (37) ここに取りあげたものは,もちろん現在の文革音楽研究の一部にすぎな 1世紀になってからの,より分析的な研究動向を知ることはで い。しかし 2 きるだろう。最後に,文革音楽の全体像を把握するものとして,小論でも 年|司紅E兵這劫中 9 6 9 年一 1 6 6 9 多く参照してきた戴嘉妨「劫乱中的喧器− 1 5年・ 1期所収)をあげる。それは文革前期の 0 0 的音示」(『中国音楽学』 2 4年間の音楽についての専論であるが,文革が中国音楽界に与えた残酷な 破壊的側面も資料によって客観的に論じられており,「革命造反歌Jから 7曲にもおよぶ文革前期の歌曲を,楽譜を使って記録しているところに, 2 その特徴がある。なかでも当時は誰もが知っていた「造反有理歌」「牛鬼 蛇神壕歌」など,現在では記録がなかなか探せないものを楽譜で収録して いるところにも資料的価値がある。また文革音楽を音楽史のなかに取り込 んで記述したものには,梁茂春・明言編著『中国近現代音楽史』(人民音 0』 0 0 2 9 4 9 年),居其宏『新中国芸術史新中国音楽史 1 8 0 0 楽出版社 2 (湖南美術出版社 楽学院出版社 8』(中央音 0 0 2 9 4 9 年入居其宏『共和国音楽史 1 2 0 0 2 0年),金油『当代北京音楽史話』(当代中国出版社 1 0 2 1年)がある o 金油の著作は,同じく当代中国出版社から出された李燥 1 0 2 7年)を参照しでかかれた嫌いがあるが,北 9 9 之主編『当代中国音楽』( 1 京の音楽界の様子が読みやすく整理されており,文革音楽も系統立てて紹 0)では,文革音楽が三章に 1 0 介されている O 居其宏の著作のうち後者(2 わたって記述され,第一章「文革中の歌曲創作J第二章「“祥板戎”及 6頁の 3 “四人帯”的理論建構」第三章「文革中の器楽創作」として全体3 0年代の研究と比較すると,文 9 9 頁が割かれている。これらを, 1 7 うちの 3 革音楽を新中国成立以降の音楽史のなかのー頁として,より公平に取り上 年・ 1期には, 2 1 0 げようとする研究姿勢が窺える o また,『中国音楽学』 2 李坪・豪州煙の「他者眼中的“文革”音楽文化」が収録されている o 欧米 の研究者による文革音楽研究を視野に入れたことは,さらなる研究の深化 であろう。 (38)
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