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大阪教育大学紀要 第24巻 第1部門 第3号(昭和50年)
151
ALosing GameからOn the Racecourseへ
まえ ば せい いち
前 波 清 一
(英語英文学教室)
(昭和50年7月31日 受付)
は じ め に
一人の作家がその作家歴を通して,一っの作品を何度か書き直しているとしたら,そこ
にその作家の創作の秘密を解く鍵を求めるのは当然だろう。グレゴリー夫人にも,同一の
テーマを巡って展開した改作の適例がある。劇作に手を染めた最初期の1902年に出版した
ALosing Gameを直ちに改訂して,1903年Twenty−Fiveとして上演し,脂が乗った1907年「そ
の亡霊を退散させ」(259)1)るためにThe・Jackdawによってパロディー化し,最晩年の1926年
にいわば処女作に戻って,Twenty−FtveをOn ・the Racec・urseに書き直している。最初のは50才,
最後のは74才の作であるが,決して単なる手直し作業ではなく,その推移には作家として
の厳しい自己批判と断ち切れない執着とが入り交じっている。そこでALosing Gameから
On the Racecou「seへの改作の跡を追って,グレゴリー夫人のドラマツルギーを考察するこ
とにしよう。
注1)Notes to The Jackdaw. The Collected Ptays∬The Comedies(The Coole Edition,1971), P.259.
以下()内の数字は,このテキストによる引用のページ数を示す。
1..A Losing Gameからrωeπf〃’F肋σへ
AL°sing GameがTwenty−Fiveに書き直される際には,あとの場合のような時期的な隔たり
がない。基本的構想を変えたり,新たなモチーフに駆られてではなく,始めたばかりの劇
作で意に満たない個所に手を加える程度である。AL・sing Gameは,処女作の韻文劇Co・lman
and Guai「eに次ぐグレゴリー夫人の二番目の作品であり,そこに素人的未熟さが目立つのは
やむを得ない。しかしTwenty−Fiveへの改変の過程で,後年の創作態度の片鱗を見せること
も事実である。
登場人物の数を最小限に抑えようとするのが,グレゴリー夫人のドラマの基本にある。
登場人物が二人だけの作品がいくっもあり,Graniaのような歴史劇を三人の当事者のみの
ドラマにしてイエイツを驚かし,かかしと人間一人の劇をも考えるという徹底ぶりである
が,その徴候が早くもここに見られる。フォード夫婦が村を去る前日のささやかな宴とい
う状況から,多くの村人が登場してなんら不自然ではないのだが,ALosing’Gameで言及
されるだけの夫の妹ブリジットを新たに登場させるものの,Twenty−Fiveでは近所の人々を
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十人前後1}からたった一人に激減させている。作者の意図は一つの状況を克明に描こうと
することにあるのではなく,あとで述べるように,ドラマの主題が必ずしも村人たちの登
場を必要としないことに思い至ったからであろう。
ALosing Ga’neに見られた三人の当事者たちを巡るさまざまな動機や行動一ケイトの
父の死亡に伴う一家の離散(280),そのあとでマイケルと結婚に至る事情(280−1),マイケ
ルに降りかかった不運による借金と追い立て(281),さらに,クリスティがケイトを求めて
以前の家に訪ねた様子(280),クリスティのアメリカでの仕事(282)など,状況の設定や人
物創造にあずかる詳しい事情が,Twenty−Fiveではことごとく簡略化され,あるいは消滅す
る。そして,それによってドラマの焦点が移行する。
グレゴリー夫人はいたずらに複雑な状況や表面的なリアリズムを目ざしはしない。モリ
エールに親近感を持つ古典派であるそのドラマは,むしろ子葉は捨てて根幹を押えようと
する。
しかし,そのことと矛盾しないで,ドラマとしてのリアリティーを増すために,状況と
人物の不自然を避けて,できるだけ合理化し明確にしようとする傾向も,グレゴリー夫人
には見られる。それは劇作の初歩的な未熟さを是正する脱皮の過程であり,ALosing Game
からTwenty−Fiveへの改変のモチーフはそこにある。
例えば,冒頭で荷造り中のマイケルの見つけるものが‘Alittle glass Picture in a frame’
(279)から,クリスティの署名のある本“The Harp of Tara”(3)になる。前者は,当人の
登場の時マイケルが正体を見破らないとは限らず,なによりも観客にとって見えない写真
は無意味である。それに対して後者は,直後に登場するクリスティを観客はすぐ確認す
るが,マイケルにはわからないで終わるという演劇上のリアリズムとなる。
また,せりふとト書きに動きと的確さが加わる。一例を挙げれば,前者でマイケルが帰
宅するなりクリスティがすぐ‘Can you tell me the road to Gort?’(283)と尋ねるが,後
者ではマイケルの‘Here’s Bridget with me and Mary Brennan’(6)という一言が挿入され
る。それは帰宅として自然であると共に,登場人物の紹介にもなっている。これに類した
未熟と不備の修正が少なくない。
しかし主たる変更は,ドラマの趣向であり骨組であるトランプの勝負を巡って見られる。
まずゲームへの入り方が異なる。AL・sing Gameでは,マイケルが食器戸棚からトランプ
を取りテーブルの上に置くと,クリスティが乗り気になり,それを受けてマイケルが
‘Well we’ll start with a game’.(284)と直ちにゲームを始める。ところがTveenty・Fiveではその
経過はもっと複雑になる,
Michael. Well stop the evening with us and welcome. We’11 be having a dance by and bye when the
yOungSterS COme.(He laツ∫a pack Of CardS On the tabl勾
Christie(ηぷing a〃d coming to tablの. That’s what will suit me better than dancing. I didn’t play a game
of cards this long while.
Michael. I won’t play to−night. I have no mind to lose anything I have.
Christie. May be you might win. It’s nothing to me if I lose.1’m a rich man.
Michae1. Let someone else play with you. I haven’t the money.
M・・y.H・r!・Mi・hael F・・d pl・y・g・・d g・me and it will p・t・・u・ag・i・y…侮・d・w〃励n・y・)
Here now I’11 give you the loan of this half crown.
Michael. I might lose iL
Mary. If you do itself, I can take it back in laying hens at the sale to−morrow.
Christie. There now. I have nothing but gold, but I’11 put down gold against your half crown.
Aム功gGameからOn the Racecourseへ
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Bridget You are a rich man indeed. May be you found the treasure after all.
Christie. I am rich indeed. Wouldn’t you call a man rich when gold and bank notes are no more to him
than tin tacks, withered leaves and wisps of straw. Here, come on.1’ll dea1.(Michae15∫’ぷright(∼∫
εα地)
Fiddler(comes ovθr’o’α●leごtakes塑αぷovereign, bitesの. Thaピs good gold anyway, wherever it came
仕om.
Kate(ωMichael). Don’t play with him. It’s a queer dling to be playlng like that f()r gold.
Mary. Play on man, Play on.
Christie.1’ve tumed up the ace. That’s five to me and I rob. Now L bet you∬ve to one I’ll beat you.
MichaeL Well,1’ll take you. (7)
マイケルの逡巡と,メアリーに促されての決心は,追い立てを食らう前夜という状況から
言って,格段に自然でドラマティックである。
またゲームで失うクリスティの金額は100ポンドから50ポンドに減るのみならず,クリ
スティが炉火で紙幣を燃やす(286)という極端な行為は姿を消す。この金はクリスティがア
メリカでの四年間の労働で稼いだもので,当時,トランプが金を得る手段に使用されるこ
とに対する反論と,この金額がアメリカ移住を刺激しかねないという恐れが強かったほど
だから,これは単なる数字いじりではない。2)
こうして人物と状況にかなりの合理化が見られるのだが,登場人物で最も重要な変更を
受けるのはケイトであり,単純なせりふの数の比較でもわかるように1}Twenty−Fiveは前よ
りずっとケイトの劇になる。ALosing Gameの中心を成したトランプの勝負の進行一当
事者二人や村人たちの説明で進捗するゲームは,むしろ後景に退き,なにも事情を知らな
いブリジットとメアリーがケイトにゲームの経過を知らせ,ケイトに干渉することによっ
て,夫と恋人の間で板ばさみになるケイトにドラマの焦点が合わされ,ケイトの‘the sore
heart’
i9)とアブサードな心境が前面に出てくる。
ケイトの劇への変化とは,一口で言えば,夫と恋人とへの‘two loyalties’4)の間で苦悶す
るケイトの心のドラマへの変化である。ケイトの心はっいにブリジットから‘it’s my opih−
ion that you have lost your wits’(9)とあきれられるほど錯乱する。二っの相反する忠誠
心に引き裂かれる心理や状況は, アイルランドの歴史を背景に, 国民性への理解が深
まるにっれて,以後グレゴリー夫人のドラマツルギーの根幹を成すようになるが,ここで
早くもその萌芽を見せている。もちろんそれはALosing Gameですでにドラマの骨格にな
っているのだが,Twenty−Fiveにおける肉付けは,ケイトの‘two loyalties’の強化にある。前
者ではちょっと言及されるに過ぎないsister−in−lawが,改作でブリジットとして登場し,登
場人物の少数化の中で,ある意味では例外的に増やしたのも,ケイトとかみ合わせること
でケイトの煩悶の表白に寄与させるためと考えられる。
ALosing GameからTwenty−Fiveへの変化は,しかし,作品の基本的性格にかかわるもの
ではなく,未熟な作品を舞台にのせることで,初歩的な不備をより自然に合理的に修正し,
‘literary’な点を‘dramatic’にしたということであろう。それは書き直し一般に関して次のよ
うに述べているところに要約される,
Ibelieve in rewriting and bringing out again plays that have had changes made in them to suit the dramatic
demand which a literary production does not always meeL Intention and desire come, you press your
idea, then comes the iron hand of technique forcing that expression into the mould of convention.s}
Twenty−FiveはALosing Gameのいわばstage versionである。
154
注1)‘three or four neighbours’(283)十‘Three or four elderly men and women’(283)十‘the young−
sters,(286)、
2)この金額は,その後ηhe Jacktlawで10ポンド,0η舵Rαcεco醐θで7ポンドと著しい減少
を示す。
3) Christie Kate Michael
A・Losing 《3alne 60 37 24
Twenty,−Five 39 38 20
4) Notes to ne Canavans,7he Co〃ected Plays II 7he Tragedies and Tragic−Comedies(The Coole
Editibn,1971), pL 298.
5) Our IrtSh Theat re(The Coole E dition,1972), p..156.
H.Tωentu. FiveからThe Jackdaωへ
Twenty−Five上演の反響と反省の上に立って,グレゴリー夫人はノートで次のように書.い
ている,
_it was especially liked in England“because it is so sentimental.1’Ihave myself a leaning towards
sentimentality, and to cover it have written a parody.on the old play, letting loose the lackdaw to
(253)
croak upon its grave.
It was rather sentimental and weak in・construction, and fdr a iong time it was an overflowing storenouse
of examples of‘‘the faults of my dramatic method.” I have at last laid its ghdst in‘‘The Jackdaw;”and
Ihave not been accuSed of sentimentality since the apPearance of this. (259)
そして自己の作品に対する厳しい批評ぶりは,1}7he Jackdawの喜劇的枠組の中にTwen ty−
Fiveをすっぽりと収めて‘parody’化しているところによく表われている,
Cooney. It would suit me best, she to get the money and not to know at the present. time where did it
come丘om. The next time she wlll write wanting help倉om me, I wnl task her頴th it and ask her to
91Ve tne an aCCOUnt.
Nestor. That now would take a great deal of.strategy._Wait now till I think_.I have it in my mind I
was reading in a penny nove1_no but on the“Gael”_ab皿t a boy of Kilbecanty that saved his old
sweetheart from being evicted.
Cりoney. I never heard my sister had any old sweetheart.
Nestor. It was playing Twenty−five he did it. Played with the husband he did,1e眈ing him with up to
fifty pounds.
Cooney. Mary Broderick was no cardplayer. And if she was itself she would know me. And it’s not
fifty pounds I am going to leave with her, or twenty pounds, or a penny more than is needfu1 to free
her from the summons today. (76−7)
Nestor(scratching his head). I suppose now you wouldn’t care to play a game of Twenty−five?
Mrs. Broderick. I am surprised at you, Mr. Nestor, asking me to go cardplaying on such a day and at
such an hour as this. (78)
従ってTwenty FiveからThe・lackda wへの改変には,なによりも‘sentimentality’の払拭に作
者の動機がある。事実その点では,ALosing Ga’neから獅θηひ方veへの.推移の中にはほとん
どなんの変化もなかった。
センチメンタリティの克服は,人物創造と人間関係に具体化されている。Twenty−Fiveで
は今は人妻となっているかつての恋人の窮状を,男が自己犠牲によって救い,女はそれに
155
ALosing GameからOn the Racecourseへ
苦悶するという,基本的にセンチメンタルにならざるを得ない骨組であるが,The Jackdaw
ではまず恋仲という関係が兄妹の間柄に変えられている。肉親の間にもセンチメンタルな
感情が存し,存しうることは言うまでもないが,心を通わせながら事情でいっしょになれ
なかった恋人同志のそれとは大差のあることは自明であろう。しかもそこには‘sensation−
al’2}な反響への顧慮からくる国民性の理解が裏打ちされている。エリザベス・コックス
ヘッドは次のように説く,
And to Lady Gregory it must have seemed utterly unlikely, thinking the matter over, that any Irish peasant
lik, Ch,i、d,(。,, if w, b,lieve th・t・1・eady with h・・th・pea・ant・匂・d・偽・all l・i・hm・n・then any l・i・hman
、t、11)w。dd have given up hi・飴・tun・f・・a舳tless 1・ve. F・・1・ve・f h・m…c・・nt・y・yes;わ・1・ve
・f・w・m・n7…R・m・n・・1・ve w・・n・…山・g Passi・n・・h・h・d・…d・f th・A・副slande「&N°
Ging
she had observed of the rest of her countrymen could conscientiously permit her to modify this view.
Twenty−Fiveのセンチメンタリティを克服しようとする時,グレゴリー夫人がまずこの人間
関係に変更を加えたのは必然的であり,それにはさらに,生き生きした喜劇への転化が随
伴する。
771e JackdawはCloon喜劇である。作者がすでにSpreading the Ne wsとHyacin th Hatveyで成
功を収め,その技法を自家薬籠中のものにし,観客の反応も十分に心得た‘myth−Making’4〕
の喜劇である。従ってセンチメンタルな悲喜劇から,国民性の理解と解釈にまで達する喜
劇への移行は,単なる改作の域を越えている。
‘Akitchen in a farmer’s cottage’(279)から‘a small general shop’(71)への変化一50ポン
ドの借金で追い立てを食らう農民から,10ポンドの債務を責められるよろず屋への変化は,
単なる舞台装置の変化にとどまらず,それに付随する登場人物とシチュエーションの変化
で,ほとんどドラマの性格を決定している。人物の対比関係としては,クリステイ→クー
ニー,ケイト→プロデリック夫人という図式になるのだが,その変貌ぶりは,一見したと
ころ,対比を無意味にするくらいである。
センチメンタルで気前がいいクリスティが,ひたすら恋人を想って貯えてきた大金を,
別の男の妻になっている女の窮状を見かねて,トランプでわざと負けてまで救う純「青ぶり
に対して,クーニーは妹の再三の訴えにもすぐには応じず,やっと金を立て替える気にな
っても,繰り返しを恐れて妹に素性を隠す欲深と猜疑心の持主である。そして自分のため
の術策であるとも知らずに,自らもjackdawの生け捕りに走る姿には,センチメントを吹
き飛ばす笑いがある。
Twenty−Fiveが夫と恋人の間で煩悶するケイトの心のドラマになっていて,そこからセン
チメンタリティが生ずるのだが,プロデリック夫人は‘all the Poor ignorant PeoPle of this
town’(80)の中でも頭が鈍く,ネスター苦心の‘a great deal of strategy’(76)に対する苦悶
はケイトの場合とすっかり違い,魯鈍な登場人物としての実在感と喜劇的肉付けに終始す
る。‘Two loyalties’に引き裂かれる‘the sore heart’の持主ではなく,センチメンタリティの
生ずる余地は全くない。それは単に恋人から妹への変化によるのではなく,クルーンの町
の広場に移されたことに基づく基本的な変化である。
そのクルーン劇を根底で支えているのがネスターである。Twenty−Fiveのトランプをパ
ロディー化したあと,‘grand adviser’(73)としてjackdawという迷案を編み出して喜劇の狂
言回しの役割を担うネスターは,ペダントリーをひけらかし,人々の‘myth−making’の「稲
むらに火をつけ」(87),喜劇精神の横溢する狂乱状態にまで導く。この喜劇を成立させる
156
のも,センチメンタリティを葬り去るのも,ネスターの人物創造によると言っても過言で
はない。
ドラマの中心がトランプの勝負の進行その.ものにあるのではないことが,ALosing Game
からTwenty−Fiveへの改作の意昧であったが,それでもなお,当初からイェイツなどが指摘
するように,5)トランプ・シーンが弱点であることは否定できず,劇作家としての未熟さが
う.かがえる。
タイトルの変化が示唆するとおり,ここではトランプがjackdawを巡る趣向に変わって
いる。それもクーニーの‘crooked mind’(88)とネスターのペダントリーが産み出す窮余
の一策であり,‘myth−making’に乗っかって熱狂状態にまで行くところに,非常に優れた着
想であり,ドラマ構成の手腕に格段の相違が生じていることがわかる,
C。。血ey(、㎝加9加). Eve・y・n…nni・g thi・w・y・nd th・t w・y・lt i・f・・bi・d・th・y・ar・1・・ki・g.s田e
,n・u餉.. Why・・w w・uld th・y g・th…gh・・ch h・・d・hip if th・・e w・・n・t・d・mand i…m・place?
NestOr(ρば加㎎ぬ初2 awのノ). Let me go now before that bird will quit the branch where 1いs.
CoOney(se励刀g hold()f him)..Is it striving to catch a bird fbr yourself you are now?
Nestor.・Let me pass if you please. I have nothing to say to you at alL
C。。n,y.・L、yi・g d・w・t・m・th・y w・・e w・・th・・thi・g!1.k・・w w・ll y・u h・d m・d・up・・m・pl・n!
The grand adviser is it!It is to yourself you gave good advice tha“ime!
Nestor. Let me out I tell you before that uproar you are making wm d〔ive it from its perch on the tree.
C。。ney.1、 it t…bm・・fmy・w・m・n・y y・u did and t・b・・keepi・g m…t・fth・m。・・y l eam・d
along with it!
(Th…励・Nest・・渤‘‘M・…M励・蹴”吻∫・励・.has pi・k・d・up・)
Sibby. Take care would there be murdet done in this place!
(Sh・・伽・N・・t・・, Mr・. B・・d・・i・k・・顕C・・ney・T・mmy N・11y w・i・gs his hands・)
Nestor. Tommy Nally, will you kindly go and call fbr the police.
C。。ney.1, it・i・t・aden・f・wild・bea・t・1・m・・m・th・t mu・t g・calli・g・ut f・・ th・p・lice?
Nestor. A very unmanneriy person indeed!
C。。ney. Eve・y・n・thi・ki・g t・t・k・advant・g・・f me and t・m・k・th・i・・w・t・ap・f・・ my・ui・・
Nestor. I don’t know what cause has he at』 ≠撃戟@to have taken any umbrage agalnst me.
C。。ney. Y。u th・t h・d y・u・ey・・n my・・t・・fr・m th・fi・st・lik・・a・9・at・i・・a・cabb・g・g・・den!
Nestor. Coming with a gift in the one harid and holding a dagger in the other!
Cooney. If you say that again I will break your collar bone!
Nestor.0, but you are the terrible wicked man!
C。。ney.1・ll、queeze・ati・fa・ti・n・ut・f y・u if l h・d t・h・ng・f…it!1・will・b・w・11・ati・fi・d if 1’ll kill
you!
(91−2)
妹の債務の救済策とは知らずに,クーニー自らjackdaw捕獲に狂奔し,最後には,Spread−
ing the NeWSのような「殺人」に至る経過には,わざとトランプに負けて恋人を救うセン
チメンタリティはみじんもない。作者が‘Ihave at last laid its ghost in“The Jackdaw”’
と自負するのは当然だろう。
注1)Cf‘lt is signifi(int that no early criticism seen complains of the sentimentality of the play;tコ
instead the players feared that it might encourage emigration She herself is the s ternest critic.’
Ann Saddlemyer, In 1)efenceげLα砂G陀goワ, P妨,wright(Dolmen Press,1966), p.35.
2)
Ol〃IriSh Th ea tre, p.156.
3)
El isabeth Coxhead, Lady Gregoリノ(Secker&Warb urg,1966), p.69.
4)
Notes to 7he Bogie」妬ヲη(260).
5)
Allan Wade(ed), The Lettens(>f m.β. YeatS(Rupert Hart−DaVi s,1954), p 400.
ALosing GameからOn the Racecourseへ
157
皿.The∬αekdαωからOn the Raeecourseへ
th the Racecourseに関するノートでグレゴリー夫人は,それがTwenty−Fiveの書き直しで
あり,The Jackdawでその亡霊を退散させたと述べたあとで,‘But a ghost will not always
be obedient, and I hoPe this aPPearance of a revenant may be fbrgiven・’(266)と付け加えているだ
けであり,これではOn the Ra・ce・courseにっいてはほとんど何も語っていないも同然である。
作家としての最晩年にいわば処女作に戻るのは’}ある意味では不思議ではないのかも知れ
ないが,やはり作品そのものに当って,Twenty−iFTveあるいは77ie Jackdawとの比較検討を
進めるしかないだろう。
On the Racecourseが,ドラマの趣向やプロットから見て, The Jackdawの進展というより,
Twenty−Fiveにきかのぼっての改作であることは,作者の注を待っまでもなく明らかである。
しかし乃働ひ万Vθと比較すると,両者にかなり質的な差異があることにすぐ気づく。
せりふなしでただ舞台に現れるだけの‘Afew people’(195)を除けば,夫婦と恋人との三
人のドラマであり,Twen ty −Fiveをさらに一歩進めているのだが,それは作者がすでに十二
分に手掛けて習熟した形式であり,ここで特に指摘する点でもない。変質しているのは人
物創造,性格描写である。
Twenty−Fiveでケイトの心ノ)葛藤がドラマを成立させ,そこにセンチメンタリティが生じ
た訳だが,ここでケイトに相当するジュリアは,人物表に‘with discontented exPression’
(195)と記されているごとく,ケイトとの違いは,賭けられる金額の50ポンドと7ポンド
の差よりももっと大きい。夫の賭博の‘tricking’(204)を容認し,自らは夫のために‘foo「を
‘entice’(197)する役を果たすジュリァは,ゲームで巻き上げた金の手触りを喜ぶ風であり,
最後には夫の甘言ににんまりする。それはTwenty−Fiveの踊りとキスのラストとはなんという
違いだろう!「ロマンスやセンチメント」2)は払拭されて,ケイトの‘the sore heart’のド
ラマは跡形もない。
若者たちにこれなら負かせるだろうと見くびらせるために,目覆いと白髪の房で片目の
老人に変装してペテンを行なうミシュリンは‘atr輌ckerand a rogue of the gallows’(204)で,
口と手ばかり器用なすれっからしであり,恋人のスティーブは,きっぷのいいクリスティの
生彩をすっかり欠き,登場も遅れて,従属的な役割に終始する。せりふの数の比較だけで
もわかるように,3〕On the Racecourseは夫ミシュリンのドラマに変質している。
三人は,ミシュリン主導のいわば変装ゲームを,劇中劇として演じる。片目の老人に文
字どおり変装するミシュリンは,それで通すのではなく,スティーブには正体を見せて,
‘aPPearance’(199)に過ぎないことを教えて,すぐ変装に戻る。そしてスティーブの正体に
すでに気づきながら,ジュリァに‘ahigh−up man out of England’(200)として紹介し,ス
ティーブは‘adisguised voice’(200)で身を隠そうとするが,ジュリアはすぐに見破る。しか
し,ジュリアもそのままで通し,三人が互いの実体を知りながら,知らないふりをし続け
る。
変装はグレゴリー夫人のドラマでしばしば用いられる手であるが,ここには他に見られ
ないソフィスティケーティッドな遊びがある。外観まで偽る手の込んだ仕組は,Twenty−
Fiveのセンチメンタルな動機から名を伏せる素朴な行為と比較する時,特に注意を引く。
Twenty・Fiveのドラマの趣向を成し,センチメンタリティの基盤になっているトランプゲ
ームも,ここでは若者を‘cheat’(204)する職業的手段に過ぎず,スティーブに恋人のために
わざと負ける様子はなく,‘Well, it is great sport I had today!1’ll be talking of it maybe in
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the far countries of the world!’(203)と言っても,絶望的な虚勢しかない。ゲームは陰に回
ってなんの差支えもない比重に下がり,失う金の50ポンドから7ポンドへの減少に象徴さ
れるように,すべてが綾小化されている。ましてや7he Jackdawのあの狂乱に見られる喜
劇精神の横溢はみじんもない。Twenty−Fiveも77ie・Jackdawも作者得意の趣向一トランプと
ジャックドーがドラマの中心と興味を支えているのだが,ここではそういう手法は消えて,
人間関係の骨組だけが辛うじて作者のモチーフになっている。
On the RacecourseでTwentγ一Fiveと異る特徴は,歌の要素である。 A Losing Gαmeのラスト
で,舞台を去ったクリスティの歌声が聞こえたが,ここではIrish songsがドラマの状況の
中で,ストレートにではなく,皮肉に利用される。グレゴリー夫人のドラマで歌の使用は
珍しくなく,特に後期の作品で愛用され,そういう点でOn the Racecourseはこの時期の特
徴を示す書き直しになっている。アン・サドルマイヤーの説くように,‘the songs further
the actionsand「eflect the inner confliCt and emotions of the characters’4〕と言えなくもない
が,その歌さえも,この作品全体の性質を帯びている,
‘rll rise a verse myself to entice them. The Lord send a fbol in my way, and I’11 be a whole
gentleman!’ (197)
‘Let you go sing again, Julia. Draw down on them some of the old troubles of Ireland, that might make
th・m t・・n t・the ca・d…th・di・e・’ (202)
このミシュリンのせりふに明らかなように,歌がゲームに誘うおとりとなり,愛国歌ま
で‘deception’(197)に奉仕させられる。自己犠牲的トリックで恋人を救うというTwenty−Five
のロマンティックな動機が,妹を助けるための自らのトリックにひっかかって,先頭に立
って狂奔する7711e・Jackdawの笑いを通過して, On the Racec・urseではそのトリックが逆転し
て,客から金を巻き上げる職業的ペテンの手段と化し,作者自ら評する「センチメンタル
な」要素は消え失せている。
Twenty−Five→The Jackdave→On the Racecourseの経過から,また‘sentimentality’と‘weak in
construction’の克服という点から, On the Racecounseはどう位置づけられるだろうか。
On the Racecourseの三人にほとんど全くセンチメンタリティの見られないことは,すで
に述べたゲームのトリックとその動機の逆転から明らかである。一見したところTwenty−
Fiveと同工異曲であり,基本的な人間関係は同様であるのに,人物創造には索莫とした隙
間風の通るような,あるいは,人間の裏まで見抜くような突き放したところがある。そう
いう意味で,Twenty−Fiveへの単なる先祖返りの改作ではない。
On the Racec・urseはグレゴリー夫人最晩年の77iree Last Plays直前の作品である。この三
作がモリエールの翻訳とセルバンテスの翻案とを含むことを考えると,一応創作力の衰え
と見なしてよいのかも知れない。5)Twenty−Fiveが書き直しうるかも知れないことは,ずっと
作者の中に潜んでいたらしいが,G)τwenty −Fiveをここで再び持ち出す作家としての意欲ない
し必然性はあまり感じられない。AL・sing Gameの未熟さは克服し,歌でWonder Plays
の経験を生かしているが,旧作の蒸し返しによるひ弱さは避けられず,The Jackda〃のみ
ごとな構想と喜劇精神の発揮と比較すると,センチメンタリティからの脱皮はなされてい
るものの,構造の弱さという前の作品への批判は,On the Racecourseにも当てはめざるを
得ない。そしてセンチメンタリティといっしょにセンチメントをも追いやってしまったう
らみがある。作者自ら注しているように「亡霊はいっも従順とは限らない」ようである。
注1)グレゴリー夫人の最初の作品は(blman and Guaireであり,最後の作品はDaveであるが,
自らTwenty−ITiveをしばしば‘my first play’と呼んでいる。
ALosing Gameか.らOn the Racecourseへ
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2) Notes to The Racecourse(266)
3)ミシュリン65,ジュリア38,スティーブ35.
4)Ann Saddlemyer, In Defence of Lady Gregory, Playwright, p 99.
5)ただし,作者自らは乃権Last Playsについて次のように書いている,
‘My decision that these plays_or two, with one translation−must be my last has been made
without advice save加m the almanac, and rather frcmi pride than mOdesty.,
6)‘But 7▼wη砂プwe may yet be rewritten and come to a’little life of its own.’Our Irish Theatre,
P.57.
む す び
グレゴリー夫人が同一の主題を巡ってAL・sing Game→Twehty’Five→The・Jackdaw→On
the Ra・ce・courseと書き直していく経過を検討してきた。創作期が最初期から最晩年にまで
わたるため,作家としての執着と変遷がうかがわれて興味深い。
ドラマツルギーとしては,AL・sing Game→Twenty−Fiveに見られる習熟, Twenty−Five→
Th e・Ja ckda wでの喜劇精神の発揮, The・Jackdaw→oη伽飽ceco硫θでの音楽化などがあるが,
この改作の経過は主として‘sentimentality’の克服の過程として考えると最も理解しやすい。
Twent)・−Fiveのケイトとクリスティの感傷性は,7711e Jackdawの喜劇性とOn the RaceCOttrse
のソフィスティケーションにほとんど埋没してしまう。この順序で,救う動機は次第に薄
れていき,隠された正体はさらけ出.され,ロマンティックな興味はなくなり,センチメン
トが払拭されていく。7711e JackdawはTwenty−Fiveを包みこんでパロディ化し, On the R ace−
c・urseはTwenty−Fiveの動機を逆転して,それぞれみごとにセンチメンタリティを克服して
いる。
主題への執着には,作者自らも認めるセンチメンタリティがあるわけだが,その克服の
過程に,グレゴリー夫人の厳しい批評家ぶりとドラマツルギーの特長が見られるのである。
From A Losing Game.to On the R¢ceζoμ∬θ
Seiichi Maeba
(Department of English Language and Literature)
Lady Gregory presents a series of plays rewritten on the sim‖ar sublect, that is,.4 Lo∫加g Game(1902),
Twenty−Five(1903), The/dckdaw(1907)and On the Raeecourse(1926). The process of rewriting is、most
understandable as that of overcoming‘sentimentality’which the playwright judges to be the weak point of the
f()rmer two. In the course from 14 Loぷ∫〃g Game to O〃the Racecourse, the hero’s motive changes, the charac−
ters’sentiment diminishes, and romantic. ?奄モ狽奄盾氏@vanishes. The Jackdaw is a comic parody of sentimental
TwenリノーFive,. and On the 1∼acecourse reverses the sentimental motive of/l Losing Game. Lady Gregory pro−
vides us a key to the mystery of her playwriting in the process of expulsion of‘sentimentality’.