KOJ000701

時代の導水
議ぎ
-円
一四 形遺
青柳
佳奈
はじめに
2000 年に奈良県官 / 前 遺跡で河川の 申 州 に設
が検出された。この
が掘られており、 そこから水を 取り込んで木樋へ 流していたよ
う
う
であ る。 このよ
な導水施設の 発見は、 奈良県下では 3 例目であ る。 筆者はこの遺跡調査に 参加する 幸
最近これらの 導水施設を表したと 思われる、 木樋や井戸の 形をした土製品、 家形 埴
て 出土する 囲形 埴輪との
本稿では導水施設
と
連 が注目されている。
固形埴輪の比較検討を 行い、 新たな資料を 加えながら変遷、 機能にっ い
て 考える。
導水施設の研究は 1Q 年 と短い。 一方図形埴輪は 最初の発見以来 70 年近く経過し、 研究の
史は比較的長い。 ここでは紙幅の 関係から研究史の 概略を述べ、 本論への
県 服部遺跡で初めて 導水施設が検出された。 この導水施設を 石野博信が最初に
取り上げ、 祭場 説 (石野 1991) を提唱したことから 研究が始まり、 亀田博は 引 水象徴税 (亀
田 1995) 、 坂靖 。 青柳
は生産祈念祭祀 説 (坂 。 柳 1995) と導水施設は 祭祀に関係す
ると考えた。 しかし、
向遺跡、 南郷大東遺跡で 木樋中の
土から大量の 寄生虫卵が
997) を挙げ、 ここで論が 2 つに分かれる。 このよ
検出きれた事により 松井 章は 風説 (松井
上
う
な申で大きな 発見があ った。 それが大阪府 狼塚 古墳での
1998)n
理彩埴輪の研究は、 1933 年に後藤守一の 椎帳 。 壁代読 (
品 とそれを囲む 理彩埴輪
の出土であ る (上田
後に家畜小屋 税 もとっている (1)。 これらに続き 西谷
平の稲城 説 (北野
933a) から始まる。 後藤は
(西谷。鎌木 195 の、 北野
1975) など理彩埴輪の 性格についての 論が展開される。 しかしめ 85 年
から小笠原好彦。橋本博文の「豪族
」の周囲をめぐる 防柵 。 塀説 (小笠原
何を囲っていたかに 0 いて重点が
導水施設との 関係が証明された
1985 、 橋本
1990) 、 櫻井 久 之の聖域区画 説 (櫻井
辰巳 和 弘の「ハレの 空間」を囲む 柵 。 塀説 (辰巳
と
Ⅰ
工
985) 、
1990)
かれる。 さらに大阪府 心 今寺山古墳の 発見で囲 形 埴輪と
(藤井ほか
200 ) 。
丁
このように埴輪、 遺構の 2 つの共通性を 見出した事により、 今まで 謎 とされてきた
かになりっつあ る。 しかし、 経ケ峰 1 号 墳 での大きな発見が 当時季史上であ まり注目されなか
一
t一
った 事は研究の進展を 遅らせたが、 狼塚 古墳や心今寺山古墳の 発見などから 大きく進展してい
った 。 白石太一郎は、 導水施設の埴輪化は 列島各地の首長が 共通の水の祭祀を 行 @9司祭であ っ
たことを示し、 それが、 奈良県酒船石遺跡の 亀形
を 中心とする湧水祭祀遺構につながると
した ( 白石 200lL 。 この説は弥生時代から 史 時代を通して 大きく捉えている。 また政治、
宗教を介して 理解しょうとする 説であ るのでここで 紹介しておく。
に @0 いて
第T節
と
木樋を伴う 水 施設を検出した 遺跡は、 全国で 11 例であ る。 各遺跡について 見ていきたい。
ここでは、 木樋は検出していないが、 木樋と同様の 形態を持つ石敷き 遺構も類例として 加える。
導水施設の中心的役割を 果たすものに 木で作った樋があ る。 導水施設に使用されている 木樋
は、 必ず槽を持つという 特徴があ る。 そのため、 黒崎氏が述べている「木樽 樋 (黒崎
999)
工
」
という名称のほうが 適切であ ろう。
ここで木樋の 名所について 説明する。 木樋は 、 槽をもつ部分 (槽部 ) と樋の部分 (樋部 ) と
に 分ける事が出来る。 導水施設は、右を貼りつけた 貯水池、水を堰き止めるための 板材 (堰板 ) 、
木樋から成り、 神地。西 / 辻 遺跡では木樋周辺に
、 南郷大東遺跡は
、 垣根がめぐらさ
れていた。
次に、 木樋の型式分類についてであ るが、 これは、 清氏の分類方法
(清 200 ) を参考にし
丁
部の一方に 樋部 が付くものを A 類 とし、樋 部の中央に 槽 部を持っものを B 類 とし、樋の
みのものを C 類 とする。 また、 一木造りば f 類 、 そうでないものぼ 2 類 とする。 1 類には丸太
から作られたものと 板からのものがあ り、 それぞれ
第2 節
尊
a
類 、 b 類に分ける。
見
千代。龍実
石川県小松 帝能美町に所在する。 導水施設は北東から 南西へ流れる 自然河
道中から検出された。 施設 (C2 類) は流れに直交するように 設置されており、 矢板を組み合
わせて杭で固定することにより 樋の性格を持つ。 遺跡は自然河道の 両岸に広がり、 その両岸に
は井戸が置かれている。 この井戸は井戸枠を 持たず V 字の切込みがされており、 溢れた水を導
水 施設に流していたよ
う
であ る。
は、 河の流れを利用する 他の例とは違い、 井戸からの湧き 水を使ったものであ る。
で 出土した井戸 状 固形埴輪の井戸 形 土製品にも U 字状の切込みがあ ることからこ
のような井戸からの 溢れた水を導水する 様を埴輪で表現した 可能性があ る。
また、 遺跡は首長居館跡であ り、 居館内勘 l@ 杭別 により 4 つに 区画され、 その中に導水施
文化財センター
設 が存在することから、 施設と首長との 関わりが考えられる (2) (石川県
2000 、 林 2001-2002){
田
石川県金沢市敬田 西 に所在する。 導水施設は旧河道と 合流する河道から 検出され
一 2- 一
た。
河道は旧河道に 比べ浅く、 合流部では平坦 地 が広がり、 そこに木樋が 設置されている。 木
樋 (型式 A2 類 ) は、 槽部と樋部 が別に作られており、 槽 部の下流部には 2 本の切込みが 彫ら
れている。 また、 樋部は 3 枚の板を組み 合わせたもので 杭により固定されている。
遺物としては、 l日河道から 鍬 、 ナス ビ形木製品などの 農具、 船形木製品、 火錐臼 、 槽 形木製
品、 建築部材、 琴柱形木枕、 孤立板など大量の
木製品が出土している
(伊藤
1991)0
三ツ寺 1 遺跡群馬郡群馬町に 所在する古墳時代の 首長層の居館跡であ る。 この大型建物の
南西 隅 には覆屋 をもっ井戸があ り、 5 世紀後半の東国において 類例がない。 南半部の区画には
中央柵列 に平行して溝が 1 条走り、 西端部と中央部に 2 ケ所石敷き遺構が 伴う。
井戸は出土遺物などから、 湧水に関わる 首長の祭祀儀礼に 関係するものと 考えられている。
また石敷き遺構は 流水に関係する 祭祀の場としている。 この遺跡の最大の 特徴は導水施設を 館
内に持ち込んだという 点にあ る (井上ほか 1988 、 女屋ほか 1988) 。
服部
滋 賀県守山市服部町地先に 所在する。 ここには、 敷石水路が築かれ、 木樋もそこ
に 設置されていた。 時期は 4 世紀に位置付けられる。 木樋 (型式 Alb 類 ) は検出状況から 簡易
な 上屋を構築していた 可能性があ る (大橋ほか
1979)0
跡 京都府竹野郡網野町字去 庄に 所在する。 ここから 4 世紀の流 路跡 が検出され
た。 導水施設 1 は北東から南西方向に 流れる小規模な 流路の北岸に 接した状態で 検出された。
木樋 (型式 Bl 類 ) は一木造りで 樋の中心部に 水を溜めるための 槽を持つ。 槽は出水口の 内側
に滑らかな絞込みがなされており、 槽も滑らかな 楕円形に仕上げられている。 木樋の上流端部
には横板と杭を 用いて、 簡単な堰き止めを 行っている。 その横板の上辺には U 字形の扶りがあ
り 、
下流側に少し 傾けて樋に水が 落ちるようにしてあ る。 そして、 本体の北側のみに 密接して
足場用の板が 設置されている。
木樋周辺には 上屋構造はなく、 木樋の下からⅤ字形の 切り込みをもつ 堰板が出土しており、
下層から、 導水施設 2 を確認した。 導水施設 2 は槽のみが見つかっている。 そのため型式は 不
明であ るが、 槽の短 辺 両側に把手が 付いている事から B2 類の可能,注があ る。 (黒坪 1998、
石崎ほか 2000)0
瓦谷
京都府相楽郡木津町面板 瓦谷 に所在する。 木樋は自然河道中から 2 点発見された
が 、 いずれも 原 位置をとどめていない。
木樋 1 (型式 Bta 類 ) は中軸から側壁が 上方で外に開く 状態で溝が彫られている。 また槽部
の 底面が浅い楕円形をしており 底が溝より深い。 裏 面には長軸に 直交して等間隔に 3 本の彫り
込みが施されている。
木樋 2 (型式 Bla 類 ) は長軸溝の側壁がほぼ 垂直に立ち上がっている。 槽 部は底面が隈丸 方
台形の彫り込みがされている (伊賀 1991)0
大阪府東大阪市西 石切に所在する。 水利施設は上流から 木樋、 板 組みの
暗渠。 貯水池 列 、 水槽 と樋伏木製品、 導水溝の順で 設置されていた。
木樋 (型式 Alb 類 ) は厚板に 槽部と樋 部を掘り込んだもので、 水利施設の上流端の 狭い谷底
に設置されていた。 これに接して 丸太材が横倒しや 杭状 に立った状態で 検出されたことから 覆
屋を伴ったと 考えられる。 下流 端 にあ る導水施設 (型式 舵 a 類 ) は、 一木造りの水槽が 下流離
の 貯水池から延びる 樋管 と連結し、 谷線に対し直交して 設置されている。 そこに 樋 伏木製品が
一 3一
鍵形を成すようにして 置かれていた。 この施設の両側で 約 7 間分の柱穴、 柱根が検出されてい
ることから 覆 犀の存在がうかがえる。 樋 伏木製品のさらに 下流側で 樋管 (型式 C 類 ) が 1 点出
土し、石材が散乱した 窪地が認められたことからさらに 水利施設が続いていたと 考えられる
西 1993 、 中西ほか 1996)0
(申
奈良市大柳生町に 所在する遺跡
であ る。 上流 東 寄りの河道内には、
浦路に沿った 中州状の高まりがあ
り
、 その上には導水施設が 存在し、
これらよりさらに 上流の東岸で 集
右 が t 箇所みつかった。
導水施設は取水溝 2 条、 堰板 1
点 、 木樋 1 点からなる。 取水溝は 、
中洲 に 溝を掘り支流、 本流の両方
から水を引き 込んでいる。 堰板は 、
木樋の上端部に 設置されており、
上端部中央に 切り込みを持たず、
板状を呈している。 木樋 (型式
ヨla 類 ) は、 一木造りで
央に槽部 をもっ。 設置方向は中
秋高まりと浦路に 沿っており、 木
樋 に平行して両側に 掘りくぼめて、
木樋を設置後、 土で周りを埋めて
いろ。 木樋周辺では 上屋跡は検出
されなかった。
遺物は、 導水施設より 上流でも 多
図 i 宮 / 前 遺跡出土木樋 (S=l/20)
数見つかっていることから、 上流
での施設の存在が 考えられる (3) (湯本
2000)0
向 に所在する遺跡であ る。 導水施設は巻の 内案 ッラ 地区で検出さ
の性格としては、 建物、 溝 2 条、 導水施設で構成され、 西流する溝から 本
た導水施設が 検出されている。 この木樋は杭により 固定されていた。
木樋 (型式 A2 類 ) は平面が方形の 槽を転用し、 東西において 集水椀としている。 槽の西に
接して樋が接続し 、 槽から間隔を 開けて、 板で蓋をし、 暗渠としている。 開渠部の両側には 河
原石を足場状に 敷いている。
また南北から
木樋 (型式 C 類 ) を接続させて 水を導入し、 西の樋
が流出する水を 受ける構造を 持つ側根部があ る。
木樋中の堆積土から 多量の寄生虫卵が 検出されている。 この事も木樋の 用途を考えるうえで
重要な要素であ る (桜井市教育委員会 1987 、 萩原 1988)0
礒 野北
奈良県大和高田市磯野に 所在する 4 世紀前半の遺跡であ る。西微 高地の大滝 で
は 小型大底 壷が 下半分抜かれた 状態で検出され、 ここで祭祀が 行われていたと 考えられる。 ま
た、 東微 高地の大滝 で木樋の断片 (型式 Ala 類 ) が出土した。 原位置を留めていないため、 復
元不可能であ る。 上流で設置されていたものが 流れてきた可能性があ る (大和高田市教育委員
会 1995 、 前沢 1998)0
南郷大東
奈良県御所市井戸、 南郷に所在する 5 世紀中葉の遺跡であ る。 河川のほぼ 中
央部から導水施設が 検出された。 導水施設は、 水溜め施設 (ダム 施設
状
) 、 木樋、
ら成る。 水溜め施設は 逆 L 字に石を貼って 水を溜め、 東西は長さ約 14m 、 幅 1.5m 、 高さ約Ⅰ
m 、 南北は長さ約 7m 、 幅約 2m 、 高さ 0.6∼ 0.8m の規模を持つ。
木樋は 3 点出土している。 木樋 1 (型式 C 類 ) は横の断面が 浅い弧状であ る。 木樋 2 (型式
Alb 類 ) は 槽部と樋 部からなり、 上流 端 には 3 本の小滝 が彫り込まれる。 また、木樋 2 上には
覆屋 が設置されており、 2X2 間の柱間約 2m 等間で 壁柱は落とし込み 式であ る。 覆 犀の周囲
にはさらに垣根が 廻らされており、 隈 丸方形を基調として、 北側に張り出している。 木樋 3 (型
式 C 類 ) は横断面が浅い 弧状であ る。 (奈良県立橿原考古学研究所
1995、 坂 ほか 1995)。
第3節
まとめ
これまで導水施設について 見てきたが、 特徴として設置場所は、 河 l@ あ るいはその近くか
ら水を取り込む 形のものの 2 つに分けられる。 分布については、 ほぼ畿内にしか 類例が見られ
ない。 また導水施設には 必ず槽 付きの木樋が 設置されている 事、 南郷大東遺跡や 神 並 西 / 辻
遺跡は槽付きの 木樋上に覆屋を 構築している 事から、 その部分の重要さを 示唆している。 南郷
大東遺跡の場合はさらに 垣根をめぐらせて 2 車遮蔽を行っている。 もし、 導水施設がトイレ 遺
・
構 であ るならば、 このような 2 車遮蔽は必要であ ろうか。
木樋の変遷については、 表 1 にまとめた。 表を見ると、 導水施設の設置場所では 溝 より水を
引くものから 河道中に設置するものへと 変遷がたどれる。 木樋を伴う導水施設は 3 世紀後半に
出現し、 5 世紀後半になると 消えていく。 しかし、 三ツ寺 1 遺跡で石敷きの 導水施設が検出さ
れていることから、材が木から 石 へと変化し 6 世紀以降も違う 形で存在している 可能性があ る。
自然河道内に設置
表1
木樋変遷 表
一
5一
第3章
第
Ⅰ範
国形埴輪について
囲形 埴輪と
国形埴輪とは、 何らかの特別な 施設を囲 続 する埴輪の事を 指す。 そのため家形埴輪を 囲った
状態で出土することがあ る。 性格としては、 1 個体で囲いを 表すものと、 複数で囲いを 表すも
のとで大きく 2 つに 分ける事が出来る。 複数で囲いを 表すものは、 柵形 埴輪、 柱状埴輪、 鋸歯
状突起 付 楕円筒埴輪と 報告されているが、 混乱を避けるためこれらを 本稿では櫛形埴輪に 名称
を 統一する。
まず固形埴輪の 名所について 青柳 (青柳
1999)
.
小泉 (小泉
1999) 両氏の論文を 参考に
したひ。 平面形が片面突出のものを 形態が鉤のような 形であ る事から鉤形といい、 反対に四角
いものを方形という。 また鉤形で突出した 部分を 、 張り出し部とする。 各壁面は、 出入口部か
ら見て表側・ 裏 側。右側。 左側と分ける。 また、 上端部に鋸のような 突起が付く事があ る。 こ
れを山形突起。 剣先状突起。 鋸歯状突起などと 呼ぶが、 本稿では山形突起とする。 さらに、 突
帯は埴輪の裾に 廻っているものは 裾廻 突帯 、 上部に廻っているものは 壁面上部 突帯 とする。 櫛
形埴輪についても、 国形埴輪と同様に 上端部を山形突起とする。 詳細は図に示した ( 図 2)0
出入口部
山
升,
英 -ゃ
山
口
ジ
起
一一一一一 一一
縁
-"""
マド
上口
月岡
マリ
上口
に
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「
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Ⅰ
」
ョ玉喜田苦口
「
「
左
右
Ⅱ,
、
Ⅱ
ノ目
佃リ
@
」
.
し
r 呈乏 Ⅰ U
貝
図2
」
囲形 埴輪・櫛形埴輪名所
一
6一
型式分類については、 青柳氏の分類方法 (青柳
1999) を参考に、 図形埴輪では 平面形が 鉤
形 のものを 1 類 、 方形のものを 2 類 とし、鉤の手が右側につくものを
la 、 左側を l b とする。
また山形突起が 有るものを A 類 、 無いものを B 類 とし、全周するものを 1 類 、 出入口周辺のみ
のものを TT類 と分類した。 これらの固形埴輪の 規模は、 大阪府血合寺山古墳を 例にすると 1 辺
が 約 40cm 、 高さ約 15cm であ る。
と
約ら
径れ
長こ
櫛形埴輪は、 平面形で分けると 方形と円形があ る。 規模は、 東京都野毛大塚古墳を 例にする
8 ㏄ m 、 短径約 25cm 、 高さ約 40cm であ る。
を基に作ったのが 固形埴輪。 櫛形埴輪型式分類表
(表 2) であ る。
表
型式
輪
埴
囲
出土
節
2
第
国形埴輪。 櫛形埴輪が出土している 遺跡は、 38 例であ る。 以下遺跡ごとに 概略を記す。
lf 号墳 群馬県高崎市に 所在する、5 世紀後半から 末の帆立貝 式前方後円
墳であ る。国形埴輪 (型式 A 類 ) は東南部周濠から
一
7一
2
点山形突起部の 破片が見つかっており、
1999L 。
赤堀 茶 白山古墳群馬県佐波郡赤堀 村 今井に所在する 5 世紀中葉の帆立貝 式 前方後円墳であ
墳丘上に樹立されていたと 思われる
(長井
1997 、 埴輪研究会
る。 固形埴輪 (型式 la Ⅱ 類 ) は 1 個体出土している。 出土位置や規模については 記述がないた
め 不明であ る (堀Ⅱ l 1930 、 後藤
1933a 、 1933bL 。
野毛大塚古墳東京都世田谷区野毛に 所在する 5 世紀中葉の帆立貝 式 前方後円墳であ る。 柵
形 埴輪 (型式 円形) は 9 個体、 破片では 27 点が造り出しの 前縁 周濠 内で出土している。 東
括れ部、 後日郎では山形突起部の 破片が出土している。
また 本 墳からは五樽 が 出土している。 五樽 は 、 石製酒槽 形品 と報告されており、 2 つ槽が彫
1999) 。
経ケ峰 1 号墳 愛知県岡崎市丸山町 経ケ 峰に所在する 5 世紀前半の帆立貝 式 前方後円墳であ
る 固形埴輪 (型式 aI 類 ) は、 1 個体が墳丘上の 北西括れ部にて、 原 位置を留めた 状態で出
上 した。 この固形埴輪は、 鰹木をのせた 家形埴輪を内側に 据えている。 加えて、 山形突起部の
破片も 2 点出土している。 出入口部は墳丘覚に 向けている。 規模は、 正面幅 53.5cm 、 側面の
られている。 出土地点は不明であ る (櫻井ほか
ェ
長辺 37cm 、 短辺 22cm 、 高さ 27cm であ る (斉藤
1980 、 斎藤ほか
1981) 。
倉谷 古墳 三重県安濃町大字太田芋台 俗 に所在する 5 世紀末∼ 6 世紀初頭の前方後円墳であ
る" 固形埴輪 (型式不明 ) は前方部中央の 土坑から基底部のみ 出土した。 1 条の裾廻 突帯が廻
り
、 底部には方形の 切込みがされている (田中ほか
2001 、 三重県埋蔵 文 ィヒ財センター
1996.
1997)o
石山古墳 三重県上野市井良に 所在する 5 世紀初頭の前方後円墳であ る。 後月 郡 頂上の二重
方形埴輪 列 に囲まれて、 固形埴輪が家形埴輪と 共に小片で出土した。 また東方外因北側一郭か
らも、 国形埴輪が少なくとも 4 点 (型式 iaf 類 、 lbD 類 、 残り 2 点は不明 ) 出土しており、
最大の出土量であ る (京都大学文学部考古学研究室
1993L 。
宝塚 1 号 墳
三重県松阪市宝塚 町 に所在する 5 世紀初頭の前方後円墳であ る。 固 形埴輪は 、
造り出し西方で 2 点、 東方で 1 点出土している。 固形埴輪 1 (型式 2m 類 ) は造り出し西方平
屋 とする) が置かれていた。 国形
坦部から出土し 、 中に井戸 状 土製品を伴う 家形埴輪 (以下種
埴輪 2 (型式 2 Ⅱ 類 ) ほ 1 の東側から出土し、 内部施設は 1
と
同様であ る。 固形埴輪 3 (型式
lh Ⅱ 類 ) は造り出し東方平坦部から 出土し 、 中に導水施設を 表したと考えられる 土製品を伴
覆屋 が置かれていた。 出入口部は 、 東に向けている。 また細形埴輪 (型式
う
円形 ) が 囲形 埴輪
の 近くで 5 点見つかっており、 配置状況から 門柱として使用されていたと 思われる (高橋
2001 、 松阪市教育委員会
200l)n
内田山 A2 号 墳 京都府相楽郡木津町内田山に 所在する 5 世紀前半の方墳であ る。 国形埴輪
(型式 1 類 ) は 1 点、 周 濠 内から破片が 見つかっており、 残存部から山形突起と 二本 突 帯の表
現が見られる " 国形埴輪を含む 埴輪は原位置を 保つものではなく、 多くは小破片で 出土してい
る (大槻
栗塚古墳
198 お、 1982b 、 木津里偏さん 委員会
1984) 。
大阪府羽曳野市営団に 所在する 5 世紀中葉の方墳であ る。固形埴輪は l 点 L 宇部
分が周 濠 内で出土した。 破片は山形突起の 痕跡を残している。 検出状況より 投棄された可能性
があ る (吉澤ほか
1989 、 吉澤
1994L 。
一
8一
箭の 山
大阪府羽曳野市軽車 に所在する 5 世紀後半の前方後円墳であ る。 拝形 埴輪 (型
式 1 類 ) は北側 外提 上で 1 点破片が出土した。 出土した破片は 山形突起があ る 壁部 であ る" 突
1994L。
大阪府藤井寺市道明寺に 所在する 5 世紀中葉頃 の帆立貝 式 前方後円墳であ る。 本
墳からは櫛形埴輪 (型式 方形 ) が出土している。 この埴輪は狼 塚 古墳と類似する。 出土,点数
帯は見られなかった
(笠井ほか
は不明であ るが周濠 内で見つかっている。 本 墳は造り出しと 前方部両辺 が 近接しており、 この
間 には小磯 が 敷かれていた。 しかしか機 上面には家形埴輪、 囲形 埴輪や土製品などを 置いてい
1991)0
大阪府藤井寺市道明寺に 所在する額縁古墳の 西側に所在する。 ここから 鞍塚
た痕跡は認められなかった
西方遺跡
(末永
古墳に樹立していたと 思われる形象埴輪が 出土した。 櫛形埴輪 (型式
方形 ) の破片が 3 点見
つかっている。 破片はそれぞれ L 宇部 が 2 点、 山形突起部が 1 点であ る。 内 2 点は 1 個体であ
る可能性が高い。 細形埴輪は西方に 面して山形突起を 上にして下方を 地中に突き立てた 状態で
大阪府藤井寺市道明寺に 所在する一辺 約 lom の小形方墳であ る。 築造年代
は不明であ る。 3 つの埴輪 棺墓 の 内 、 1 つから細形埴輪
の破片が 13 点出土じた。 この墓は出土状況から、
(型式
方形 ) の山形突起部、 基底部
一 側辺ごとに打ち
欠いた櫛形埴輪を 数個体
利用し、 周囲を囲んでいたものと 思われる。 これらの埴輪は、 5 世紀中葉のものであ り、 接合
関係などから 額縁古墳で用いられていたものと 思われる (小浜
1996) 。
交
大阪府交野市に 所在する 5 世紀の古墳 群 であ る。 囲形 埴輪 (型式不明 ) は
出土しているが、 詳細 は不明であ る (水野 1992) 。
一ケ塚
大阪府平野区川辺 1 丁日に所在する 5 世紀前半の帆立貝 式前方後円墳であ る。
出土仕置は不明であ るが、国形埴輪 (型式 1b Ⅱ 類 ) が 4 点出土している。 表側が 1 点 、 裾廻り
部が 3 点の破片であ り、1 個体の囲 形 埴輪が樹立されていたものと 思われる㈲ (櫻井
横山
1990 、
1990) 。
全域
大阪府高槻市郡家新町に 所在する 6 世紀前半の前方後円墳であ る。 固形埴輪と
報告されている 柵形 埴輪 (型式 円形) は、 内堤 卜から 10 個体ほぼ宗形で 南北Ⅰ列に並び 埴
輪群を東西に 分断した状態で 検出され、 原位置を留めている。 本
墳の埴輪は全て 本墳から北西
へ約 1.2km 離れた新地遺跡で 作られたものと 考えられる。 本墳 が継体天皇陵であ る可能性があ
り 、
大王の柵
形 埴輪として注目すべ き ものであ る (高槻市教育委員会 200lL 。
(図鈴
大阪府八尾市大竹に 所在する 5 世紀前半の前方後円墳であ る。 固形
埴輪は 3 点出土している。 固形埴輪 1 (型式 laH 類 ) は、家形埴輪と 固 形埴輪の一体化した「 水
の祭場を表わした 埴輪」で、 造り出しと復円部の 谷間で出土した。 造り出し周辺では 別個体の
囲形埴輪 2 (型式 1 類 ) が i 点、 山形突起が付く 壁部 が出土している。 後日郎 墳 慎平坦面では
固形埴輪 3 (型式 A 類 ) が 1 点出土している。 出土破片は山形突起部分で 突 帯が 1 条付す (原
田 ほか
1976 、 八尾市教育委員会
2000
。
2001 、 藤井ほか
20 ㎝、 吉田
2001) 。
太平 寺 5 号旗 大阪府柏原市女童に 所在する 5 世紀末から 6 世紀の円墳であ る。固形埴輪 (型
式 A 類 ) は、墳丘埴輪列の 北より 1 点出土した。 破片は山形突起部で 1 条の突 帯 が付いている
(山本ほか
1980)n
一
9一
"
冊
。
3図
心 台 寺山古墳出土固形埴輪
(S==I/10)
野中宮山古墳 大阪府藤井寺市野中に 所在する 5 世紀前半の前方後円墳であ る。固形埴輪 (型
式不明 ) は出土しているが、 詳細は不明であ る (池田ほか 1986)0
野中
大阪府藤井寺市野中に 所在する。 5 世紀中葉の方墳であ る。固形埴輪 (型式 1 類 )
は墳頂で 2 点出土した。 国形埴輪 l は L 宇部で、 現形埴輪 2 は外壁部に 2 条の突 帯が 廻り、 内
側にも 1 条 突帯が 廻る。 埴輪は 1 個体樹立されていたと 考えられる (北野 1976)0
狼
大阪府藤井寺 市 に所在する 5 世紀中葉の円墳であ る。櫛形埴輪 (型式 方形 ) は 、
造り出し部北側斜面から 下がった平坦面で 見つかった。 形状は、 8 個体の緒形を 呈し、 1 週 ¥ ぷ
m 前後を区画している。 中央部には玉石が 敷かれ、 その上に柄杓 状 土製品と報告されている 木
樋 形 土製品は槽 形 ) が、 櫛形埴輪内の 中央部西よりに 置かれている (上田 1998)0
行者 塚 古墳兵庫県加古川市山手に 所在する 5 世紀初頭の前方後円墳であ る。 固形埴輪は西
畷 ) と東造り出し北辺裕郎 2 (2M 類 ) から 各 1 個体出土している。
造り出し西側 谷部 1 (laII
1 は、 出土状況から 小ぶりの敷石を 二重に敷いた 後に据えられた。 2 の内部には、 家形埴輪を
据えており、 舟形土製品と 報告されている 木樋 形 土製品 (1槽形 ) も出土した。 これは 1 に 対
し、 埴輪を据えた 後に敷石を敷く。 以上のことから、 2 点の囲 形 埴輪には形態差があ り、 これ
は両造り出しの 性格差を反映していると 思われる (大阪府立 近つ 飛鳥博物館
教育委員会 1997
1997、 加古川市
西大寺宝 ケ丘
詳細は不明であ るが、 櫛形埴輪が出土している。 型式は円形であ るが、
部 のみであ る 為 、 櫛形埴輪であ るかは疑わしい (岡崎ほか 1984) 。
残存しているの
市庭古墳 奈良市佐 紀 東町手塚本に 所在する 5 世紀前半の前方後円墳であ る。 固形埴輪 (型
式不明 ) の破片が 1 点出土している。 出土位置は不明であ るが、 壁部で 2 条 突 帯を付す (奈良
国立文化財研究所編
197f6。 1981 、 金子 1981)0
櫛巾
奈良県天理市柳本町に 所在する
5
一 t0
世紀初頭の双方
一
申 円墳であ
る。 柵形 埴輪 (型式
円形 ) は。 2 個体後方都北裾の 祭祀場跡から 出土している。 また石製 槽が 中門部から見つかっ
ている (5) (森本 1923 。 1925 、 千賀 1981 、 今尾 1984 、 上田 196L 、 坂 1994 、 天理市
教育委員会 2001)o
乙女山
奈良県北葛城郡河合町大宇佐 味回 に所在する 5 世紀初頭の帆立貝 式 前方後円墳
であ る。 固形埴輪 (型式不明 ) は壁部が 4 点、 墳丘と造り出しとを 画する円筒埴輪列の 外側で
家形埴輪と共に 見つかっている ( 田村 936 、 森 1969 、 奈良県立橿原考古学研究所
1974 、
木下 1988)。 また、 楕円筒埴輪が 底部のみ 2 点出土しているが、 検出状況から 宝塚 1 号墳 の
ように Pi木主を表わしたものではないかと 考える。
ナ ガ ン山古墳 奈良県北葛城郡広陵町佳味 回 に所在する 5 世紀前半の前方後円墳であ る。
びれ部の裾から 残存良ェ 4.lcm 、 最大幅 5.8cm 、 最大高 2.7Cmmの木樋 形 土製品が 1 点出土してい
工
ぐ
る 。 この土製品は 家形埴輪と質感がよく 似ており、 家形埴輪の一部だと 考えられていた。 付近
から 囲形埴輪の破片 (型式不明 ) も出土しており、 家形埴輪と共に 置かれていたとしている。
また、 設置状況は不明であ るが、狼塚 古墳や行者 塚 古墳と共通するのではないかと 考えられる
(河合町教育委員会 1989 、 木下 t989 、 吉村ほか 1989 、 泉森 1976 、 吉村 1999)0
奈良県北葛城郡広陵町安部曲に 所在する 6 世紀後半の前方後円墳であ る。 囲
) は 、 壁部が i 点出土しており、 前方部にあ る排水溝の 百 組の 蓋石 として使
用 されていた。 円筒埴輪を墳丘に 使用した形跡がない 事から、 この固形埴輪は 他の古墳のもの
であ ると考えられる (奈良県立橿原考古学研究所
t974 、 前園 1974)0
不明春古墳 奈良県橿原市中曽日新 賀町 手下 明寺に所在する 6 世紀の方墳であ る。 固形埴輪
(型式不明 ) は出土しているが、 詳細は不明であ る (塩井 1956L 。
大谷合地 2 号 墳 奈良県大和高田市大字大谷に 所在する 5 世紀初頭の前方後円墳であ る。 後
門部南東裾から 家形埴輪 片 が出土した。 また、 1 号墳から東へ 20m にあ る 2 号墳の濠からは 形
象埴輪が出土した。 これは、 1 号墳の埴輪が崩落したものであ り、 その中から固形埴輪 (型式
不明 ) も出土した。 詳細は不明であ る (宮原 1990)0
奈良県五条市西河内に 所在する 5 世紀前半の方墳であ る。 国形埴輪 (型式 比
1 類 ) は墳丘頂上で 破片が 1 点出土している。 この破片は L 宇部で出入口の 切り込みがあ る。
出土位置は不明であ るが、 木樋 形 土製品も出土している ( 島田ほか 1962)0
和歌山市大 / 本字釜山に所在する 5 世紀中葉の双方後円墳であ る。 固形埴
輪 (型式 lbI 類 ) は造り出し東西周構内から 1 個体出土した。 おそらく造り 出しに樹立して ぃ
たのだと考えられる (前田ほか 199 の。
金蔵 山 古墳 岡山市澤田に 所在する 5 世紀前半の前方後円墳であ る。 固形埴輪 (型式 1 類 )
は 2 つ あ る石室の内、 南石室の西側寄りに 2 点出土した。 この 2 点は、 同一個体の破片で、 そ
れぞれ 壁部と L 宇部であ る。規模は高さ約 2lcm であ る (西谷 1959)0
月の輪
岡山県久米郡柵原町飯岡に 所在する、 5 世紀初頭から 中葉の円墳であ る。 固形
埴輪 (型式不明 ) は墳 頂や斜面で破片が 9 点 表煤 された。 これらは全て 同一個体であ る。墳頂
埴輪 列 02 区に相当する 付近から木樋 形 土製品 (1樽 形 ) も見つかっている (近藤 1960)0
拝塚 古墳福岡市早良区 重 苗字に所在する 5 世紀初頭の前方後円墳であ る。 固形埴輪 (型式
1 類 ) は後門部局溝から 1 点出土した (福岡市教育委員会ほか
1988 、 井沢・ 菅波 1990) 。
一 11
一
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御塔山 古墳出土木樋 形 土製品 (5=1/3
4
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巻末
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輪
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冊
申
出
墳
塚古
百足
-O
福岡県朝倉郡姉輪町大字久光仙道に 所在する 6 世紀中葉の円墳であ る" 柵形埴輪
(型式
円形 ) は、 石室入り
ロ
の反対側 周濠 内から 5 点一括で検出されているが、 墳丘上を囲
緯 していたかについては 不明であ る。 形状は、 円筒・楕円筒があ り、 楕円筒のもの fま 胎土が他
と
違 う ため仏種の可能性があ る (6) (埋蔵 文化財研究会実行委員会
御塔山 古墳 (図り
1985) 。
大分県杵築市東部 狩宿 地区に所在する 5 世紀初頭の円墳であ る。 報告
書では 囲形 埴輪の樹立が 1 段目であ るとされているが、 ね だれ込み中から 出土で推測の 域を出
ない。 また北側の墳丘が 削平を受けており、 その遺却土中から 国形埴輪 (型式 r 類 ) 破片 3 点、
と木樋形 土製品 (2樽 形 ) が見つかった。 墳丘上に置かれていたものが 流れ落ちたものと 考え
られる。 国形埴輪の中に 木樋 形 土製品が置かれていたかは 不明であ る (7) ( 背水
ヲ
ほか
1992 、 第 3 回九州前方後円墳研究会実行委員会
1990 、 清水
2000) 。
百足 塚 古墳 (図 5)
宮崎県児湯郡新富町大字新田芋 東俣に 所在する 6 世紀の前方後円墳で
あ る。 櫛形埴輪 (型式
円形) は東側 周 構内から 15 個体以上見つかっており、 出土状況から
外堤 上に樹立されていたものと 考えられる。 2 条 突帯 だけでなく 3 条 突 帯の埴輪も 1 点整理中
に 見つかっている (8@ (有馬
宮崎県埋蔵 文化センター
第2 節
1995
。
1999
. 2000
.
2001 、 新田原古墳 群 保存会ほか
1999 、
1999) 。
出土状況の分析
平面形としては、 方形のものがやや 多く、山形突起については、 有するものが 圧倒的に多い。
またそれぞれ、 畿内にⅢ類が 集中しているのみで、 広い分布状況であ ることが分かった。 時期
についても 5 世紀から 6 世紀に位置づけられ、 5 世紀に集中して 置かれている。 表 2 をみると
柵形 埴輪に比べ 固形埴輪の出土遺跡 数 が多い。 国形埴輪と櫛形埴輪は 5 世紀に出現し、 固形埴
輪は 6 世紀頃 に入ると途絶える。 しかし柵形 埴輪は 6 世紀まで古墳に 樹立される。 また固形埴
輪と 冊形 埴輪は一直線状の 変遷を辿るものではなく、 それぞれ平行している 事が表からも 分か
る 。 特に櫛形埴輪の 場合は、 樹立状況から 考えると出入口部の 性格を持つものが 出現する。 そ
の後に方形櫛形埴輪で 小規模な空間を 囲 統 するようになり、 円形櫛形埴輪による 大規模な空間
の囲緯 へと性格の変化を 見る事ができる。
第3節
土製品、 石製品について
固形埴輪と共に、 数例ではあ るが導水施設、 あ るいは井戸 傾水 施設 ) を表したと考えられ
る土製品、 石製品が出土している。 これらの土製品、 石製品は不明土製品、 柄杓 状 土製品など
と報告されている。 井戸 状 土製品を伴う 固形埴輪の出土は 三重県の宝塚 1 号 填め 2 点のみであ
る。 しかし、 導水施設をあ らわした土製品、 石製品は、 8 例確認はれている。 時期としては、
置かれている。 さらにこの木樋 形 土製品
表 2 を見ると 5 世紀初頭から 中葉と短い期間に 古掛 @r.
は 1 遺跡で複数個存在しないという 特徴があ る。 遺物の見直しにより、 更なる類例の 増加が予
想は れる。
木樋 形 土製品" は大きく 2 つに 分ける事が出来る。 1 つは、槽を 1 つ持っものであ るは 槽形 ) 。
" 一
一 l3D"
1 樽形 のものとして、 狼塚 古墳、 ナ ガ ン山
、 五条 猫塚 古墳、 宝塚二号 墳 、 行者像古墳が 挙
げられる。 も う ひとっは、 槽を 2 つ持つものであ る (2 樽 形) 。 2 樽 形 が出土した古墳としては
野毛大塚古墳、 月の輪古墳、 御膳 山
材質としては、石製が野毛大塚古墳から 出土しているのみで 他は全て土製であ る。現在では、
木樋を表したものと 考えられ、 木樋 形 土製品、 石製品とされている。 しかし、 三ツ寺 1 遺跡の
石敷き遺構のように 石を貼る事により 槽部と樋部 を表わしている 例があ ることから 槽 櫛形土製
口
rL 石製品と呼ぶほうが 適切ではないかと 考える。
第
ャ
まとめ
固形埴輪の型式分類などについて 見てきたが、 樹立状況から 見ると 囲 緯の性格として 大きく
2 つに分けることができる。
1 つは、 1 つの施設を囲むものであ り、 も j l つは複数の施設、
埴輪を囲むというものであ る。 前者のほうは、 型式として 1 類、 2
a
類に相当し、 後者は、 柵
形 埴輪であ る。 これは、 1 個体の囲 形 埴輪で複数の 埴輪を囲むのは 困
な為、 分散させる事で
大きな囲いを 表したものと 考えられる。 櫛巾古墳の樹立状況が 不明な為それを 除いて時期関係
からみると、 出入口部のみ 山形突起を採用するⅡ類から 山形突起が全周する 1 類へ変化し、 そ
の Ⅰ類は囲む規模が 狼塚 古墳のように 小規模なものから 今城塚古墳、 百足壊古墳、 野毛大塚古
墳のような造り 出し、 堤での大規模な 囲緩 へと変遷がたどれる。
そして、 これらは全て、 山形突起をもつ 理彩埴輪の分散型であ るが、 単体の山形突起を 持た
ない 囲形 埴輪が出土している 事から、 その分散型の 存在が予想される。
これまで、 導水施設、 囲形 埴輪について 述べててきたが、 それぞれ今まで 研究者が唱えてき
た論をふまえて 以下で検討したい。
導水施設であ るが遺構の性格について 様 ざまな論が展開されてきた。 それらの論は、 実用の
ものか祭祀のいずれかで 展開されている。 しかし、 遺構を見ていくと、 西 / 辻 遺跡では大掛か
りな施設を構築している。 また、 祭祀具も大量に 出土している。 これらの事から、 この遺構は
実際に使われ、 かつ祭祀の場としての 性格も併せ持っていたのではないか。
実用面での用途は
まだ明らかではない。 しかし、 2 つの遺跡で木樋中の 堆積土から大量の 寄生虫卵が検出されて
いることも視野に 入れなければならない。
また、 大柳生宮 / 前遺跡の導水施設付近から 大量のミニチュア 土器が見つかっている。 清氏
は 、 これは祭祀を 行った後、 浄水をミニチュア 土器に入れて 各自持ち帰ったのではないかと 推
測している。 大柳生宮 / 前 遺跡 0} 下流部の住居 旺 には 6 棟検出された 住居地中 2 棟の壁側から
ミニチュア土器が 1 、 2 点ずつ見つかっている
(9) 。 住居乱も導水施設が 機能していた 時期と重
なる事から 清 氏の考察を裏 づける発見であ る。 もし、住居旺 から出土しているミニチュア 土器
が導水施設から 持ち帰ったものであ れば、 そこで生活していた 人びとが施設と 深く関わってい
た事になる。
一 14
一
囲形 埴輪ついては、 二個体で囲 続する形のものと 複数で囲 緯するものの両方が 出土する古墳
形埴輪は 2 ないし 3 個体、 単体の近
があ る。 樹立状況をみていくと 複数で構成される 形態の柵
くで少し間隔を 空けて 1 列に置かれている。 その埴輪に直交して 壷形 埴輪や円筒埴輪が 樹立し
ている。 この埴輪は出入口部の 門柱を表わしていると 考えて間違いないであ ろう。 柵形 埴輪の
集合が固形埴輪と 考えるなら ぱ、 これは、 出入口部のみに 山形突起を持っ 型式であ ると考えら
れる。 また、 この場合、 童形埴輪、 円筒埴輪が 囲形 埴輪の山形突起を 持たない部分と 考えるな
もは 円筒埴輪、 童形埴輪についても 今後視野に入れていかなければならないだろう。
次に、 導水施設 と 固形埴輪を合わせて 考えると、 両者の分布について、 導水施設は石敷き 遺
構を除き、 ほぼ畿内に集中している。 それに対して、 理彩埴輪は、 畿内に集申して 見つかって
いるが、 東西に広く分布していること 科注目される。
時期としては、導水施設の出現 と 蹄形埴輪とでは 導水施設の方が 先行している。 この事から、
導水施設が当初から 首長に管理されていたが、 やがて形象埴輪の 中に組み込まれていったこと
が推測できる。 こうした畿内の 広がりは、 導水施設の分布だけでなく、 古墳の出土遺物が
の要素を帯びたものであ ることからもうかがえる。 また、 導水施設が畿内以外であ まり見られ
ないことからも、 清氏の埴輪が 本来の意味が 伝わらずに広がって 行ったという 仮説が妥当なも
のであ ることをうかがわせる。
共伴 遺物についてであ るが、 囲形埴輪。 櫛形埴輪が見つかっている 遺跡のほとんどで 家形埴
輪が出土している。 囲い形埴輪の 内部にほ全て 家形埴輪が置かれていたのであ ろうか。 注目す
べきことであ る。
最後に、 固形埴輪の内部に 置かれている 家形埴輪及び 木樋 形 土製品。 石製品の状況から 導水
施設と合わせて 分類を試みたい。 一つは兵庫県行者像古漬から 出土した理彩埴輪のように 囲い
内部に家形埴輪が 置かれ、 更にその中に フ制通形土製品が置かれている 場合があ る。 これは、 遺
構 で考えると奈良県南郷大東遺跡の 導水施設の構造に 類似する。 これを南郷型としたい。
次に、 東京都野毛大塚
出土の柵 形埴輪などにみられる 造り出し内の 大規模な団練 が、 三
、ソ寺 1 遺跡の居館を 囲む 柵 例 @こ 類似している。 また野毛大塚古墳では 木樋 形 石製品が出土し 、
三、
ソ寺 1 遺跡にも
き遺構が検出されている 事からも裏 付けられる。 これを 三ツ 手理
とする。 さらに、 三重県宝塚 1 号填 めように、 固形埴輪の外に 細形埴輪で出入口を 設けた 壷形
埴輪や円筒埴輪による 大規模な 囲統 が見られる。 これに対応する 遺跡は現在未だ 発見されてい
ない。 三ツ寺 1 遺跡の柵列の 中に南郷大東遺跡のような 構造があ ることから、 これを 三ツ寺と
南郷の複合型としよう。 このように、 囲形 埴輪の樹立状況に 対応する導水施設が 3 例あ る。
なお、 造り出し各部の 地
f 多を利用して
かれた埴輪は 類例が少ないが 出入口が
ている。 導水施設では、 出入り ロ の分かる何として 南郷大東遺跡が 挙げられるが、 下流側に出
入口部を向ける。 これは、 古墳への樹立上級 葬者に向ける何らかの 意味があ るものと考えるが、
モ
詳細な検討は 今後の課題とする。
註
臼 ) 初出文献未見 北野耕一 1975 稲城若ョ
に述べられている。
文化財センター 林大智 氏の御教示による。
一 15 一
(3) 奈良県立橿原考古学研究所林部 均氏、 湯本整氏 の御教示による。
大柳生 12 次発掘調査 概報 が発行きれていないが、 両氏の御厚意により 載せさせて頂くことができた。
(4) 報告書ではⅢ類であ るが、埴輪片 2 と接合の可能注があ るため、 11類 とした。
(5) 奈良県立橿原考古学研究所分属文昭氏の 御教示による。
石槽はついては未だ 確認がとれず、 滑石製の盤を 槽と報告していた 可能性があ る。
(6) 福岡県三輪町教育委員会平嶋文博氏の 街教示による。
(7) 大分県杵築市教育委員会平川信哉氏の 御教示による。
(8) 宮崎県新富町教育委員会有馬義人氏の 街教示による。
(9) 奈良県立橿原考古学研究所湯本望 氏 の御教示による。
図面。写真に関しては 各機関の御厚意により 掲載させて頂くことができた。 文末であ るが深く感謝の 意を表
します。
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「笠原勝彦君とナガ ン山古墳」田笠原勝彦君追悼文集 駆け抜けた人生コ 笠原勝彦君追悼 文
集編集員 会
追記 尚、 本稿執筆後大柳生宮 / 前遺跡の概 報 が発刊 t れた。詳しくは、林部均 ほか 2001 「大柳生
12 次 (大柳生宮 / 前遺跡,大柳生 コビロ遺跡 ) 発掘調査概報
原考古学研究所を 参照していただきたい。
一
20-
」
了
奈良県
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』