岩 根 沢 と 国 語 の 教 科 書 神村ふじを

〈薫風 颯 々
〉
岩根沢と国語の教科書
神村ふじを 退職してから一年四ヵ月が経とうとしている。町の教育委員を頼まれた以外は定職についていな
いので、月一回の定例会のほかはサンデー毎日の日々である。
家には親が残してくれた畑があり、家事をしたり農作業をしたりして毎日を過ごしている。時間
的余裕のある生活は精神的余裕を生み出し、このように余裕ある態度で学校に勤めることができた
ならば、子どもたちももっと立派に育ってくれただろうになどと、せかせかと過ごしてきてしまっ
た自 分 を 後 悔 し て い る 。
この前、教育委員の研修で月山の麓の西川町岩根沢に行ってきた。今は閉校になってしまったが、
この岩根沢小学校のことを詠んだ詩が平成二十三年度から五年生の国語の教科書
『銀河』(光村図書)
五年生に進級して初めて出会うこの詩。山形の一山村の小さな小学校を題材にした詩が教科書に
に載っている。詩の題名は「丘の上の学校で」
。
載ること自体大変名誉なことであり、全国の五年生がこの詩を朗読している姿を想像しただけで誇
らし い 気 持 ち に な る 。
作者の那須貞太郎は寒河江市白岩の人。出版社勤務を経て一九七七(昭五十二)年まで当地方の
小中 学 校 で 教 鞭 を 執 っ た 。
一九四四(昭十九)年、岩根沢国民学校の上席(教頭)だった貞太郎は、旧制寒河江中学校(現
寒河江高等学校)の後輩で、当時「四季派」の詩人の一人であった日塔聡に、同じく「四季派」の
著名な詩人であった丸山薫を代用教員として紹介してもらう。丸山は「日本中焼け出されても、残
る村がある」と日塔に言われて岩根沢に疎開して来たと言う。
貞太郎は県庁に出向き、丸山を岩根沢の代用教員にしてもらうようにお願いしているが、県の視
学が東大国文科中退の、しかも日本を代表するような詩人の大先生に、山奥の僻地の学校になど勤
めさせられないと寒河江の町での勤務を勧めたようだが、丸山が固辞したという話が残っている。
この貞太郎の詩にも抒情的な「四季派」の流れを感じ取ることができる。
。春を待っていたかのように動き出す月
丸山薫が岩根沢で教師をしていた時に作った「北の春」
山山麓の大地の躍動感を見事にうたい上げており、最後の「―― 先生 燕がきました」の一節が
特に印象的な代表作である。平成十三年版の六年生の教科書『新しい国語』
(東京書籍)にこの詩
は取り上げられている。また、古瀬徳雄作曲の混声合唱曲として歌われている。
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展景 No. 83
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丸山が岩根沢で過ごしたのは三年余と短かったが、こ
の雪深い山狭の村に貴重な文化の火を灯していった。
先生に燕が来たことを告げた女性は今も村内で元気に
暮らしていると学校近くの寺のオバサマ(ご住職の奥様)
から お 聞 き し た 。
もう岩根沢は初夏の装いから盛夏に向かっていたが、
ぶ
な
雪が解け始めると山毛欅の新芽は谷底から頂に向かって
走るように開いていく。それを岩根沢では「山毛欅走り」
と呼ぶ。鮮やかな萌黄色の山毛欅の新芽が今も目に焼き
付い て い る 。
*参考文献 : 安達徹著『雪に燃える花 ― 詩人日塔貞子の生涯 』
丘の上の学校で 那須貞太郎
北の春 丸山 薫
(桜桃花会刊)
新しい教室の窓をあけると
ゆるやかな 若葉の谷がひらき
朝早く 授業の始めに
一人の女の子が手を挙げた
―― 先生 燕がきました
やがて 山裾の林はうっすらと
緑いろに色付くだろう
その中に 早くも
辛夷の白い花もひらくだろう
緩みかけた雪の下から
一つ一つの枝がはね起きる
それらは固い芽の球をつけ
不敵な鞭のように
人の額を打つ
どうだろう
この沢鳴りの音は
山々の雪をあつめて
轟轟と谷にあふれて流れくだる
この凄まじい水音は
向こうに連なる山々の間から
一そう遠い嶺もみえる
目近い山肌は
ゆたかに芽吹いて ふくらみ
点々 真紅なつつじが燃えている
あい色に遠い向こうの頂から
青澄む斑雪が
すずしいかがやきを送ってきて
ああ いく重の波のように続く山々を
麓から頂へ
すすむ季節の たしかな足どりがみえる
時おり 風がとおりすぎる
教室いっぱいに
山吹の 金の香をまきながら
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Photo : Kamimura Fujio
岩根沢小学校