群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人

群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人 ∼
ぬこげんさん
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︻小説タイトル︼
群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人 ∼
︻Nコード︼
N1197CE
︻作者名︼
ぬこげんさん
︻あらすじ︼
※1 転生物ではありません。
※2 飛行機が出てきます。巻末付録にすこし飛行機のことを書い
ておきました。
剣と魔法の世界から数百年、石油と石炭が発見され、産業革命後が
巻き起こる。人々の生活は豊かになり、客船で世界の裏側と行き来
できるほどには文明が進んだ世界。
1
極東の国﹁扶桑﹂出身の青年﹁結城文洋﹂は実家への反発心で﹁テ
ルミア王国﹂へ留学し、悪友に誘われるまま王国空軍に入隊する。
そんな中﹁テルミア王国﹂は﹁中つ海﹂に浮かぶ島で発見された炭
鉱を巡り、海を挟んだ三都同盟と戦争に突入、文洋は空軍少尉とし
て戦いに巻き込まれてゆく。
複葉機に飛行船とドラゴンが飛び交い、魔法少女にワーウルフ、エ
ルフの美女にダークエルフのお姉さま。ミノタウロスにケンタウロ
ス、ロリババアにリッチに飛行戦艦の全部盛り。
少し懐かしい映画のような、飛行機小説を目指して書いてみました。
剣と魔法の世界に1900年初頭の科学力
うん、そうだね、闇鍋だね。
⋮⋮感想、レビューを投げると、画面の向こうでオッサンが小躍り
します。
あと、オッサンが読むと、読んだオッサンも小躍りします⋮⋮多分
⋮⋮。
2
プロローグ︵前書き︶
3
プロローグ
アリシア王国、王都北壁
初夏のそよ風が少女の頬をなでていく。ゆるくウェーブのかかっ
た亜麻色の髪に白い肌、切れ長の目に紫水晶の瞳、年の頃なら十三、
四といったところだろうか。
石造りの塔の上で抜けるような夏空を背にした少女は、さながら
一枚の絵のようだった。
§
﹁んっ⋮⋮﹂
のびをしてレオナは空を見上げた。屋敷の塔の屋上から見る風景
は彼女の一番のお気に入りだ。
﹁お祖父様が生きてらっしゃれば良かったのに﹂
空と海が融け合う風景の中、二機の飛行機が飛んでいるのをみて
レオナは思った。
﹁こんな素敵なお天気の日には、お母様に内緒で﹃スレイプニール﹄
に乗せてくれてたっけ⋮⋮﹂
﹃スレイプニール﹄道楽者の祖父が、孫娘の瞳の色に塗った飛行
艇に父母の目を盗んでは、膝の上に乗せて飛んでくれた事を思い出
す。
4
紫の翼が風を切って空に駆け上がる。オモチャのように小さくな
る町並み、操縦してみたいとダダをこねる彼女に、スロットルレバ
ーを持たせてくれたこともあった。
﹁戻って来られたら、もう一度乗ってみたいな﹂
どこまでも飛んでいければいいのに⋮⋮抜けるような初夏の青空
を見上げ、レオナは小さくため息をついた。
﹁姉様?﹂
ブラウスの袖を引っ張られ、レオナは我に返る。
﹁ルネ、どうしたの?﹂
小さな弟が、祖父譲りのとび色の瞳で心配そうに彼女を見上げて
いた。
﹁姉様、行っちゃうの?﹂
﹁そうね、でも大丈夫、すぐに帰ってくるから﹂
﹁ほんとに?﹂
ルネの栗色の髪をなでて、レオナは微笑んだ。
﹁ええ、寒くなるまでには帰ってくるわ、そしたら﹃スレイプニル﹄
に乗せてあげる﹂
﹁姉様、飛行機操縦できるの?﹂
﹁ええ、おじい様に教わったもの﹂
嘘をついた事にチクリと心が痛む。
5
﹁だからね、ルネ、私が居ない間、ルネがこの屋敷を守るのよ?﹂
﹁うん、わかった! 平気だよ、クラウスがいるもん﹂
銀髪を綺麗に撫でつけた祖父の代からの老執事クラウスは、両親
が亡くなった後も、忠義を尽くしてくれている。彼が居なければ、
子供だけになってしまった家はどうにもならなかったに違いない。
﹁そうね、クラウスの言うことを聞いて、良い子にしてるのよ?﹂
﹁うん! 姉様、あれ! ほら飛行船!﹂
ルネがはしゃいで指差す方向にレオナは視線を移した。船首に描
かれた真紅のトライデント、銀色に輝く魔法防御符を貼りこまれた
軍用飛行船が屋敷の上空を通り過ぎる。
﹁うわあ、おっきいなあ、すごいなあ﹂
屋敷の上を低空でフライパスして、銀色の巨鯨が王城へと向かっ
てゆく。
﹁そうね﹂
はしゃぐ弟をよそに、レオナは眉をひそめた。とうに衰退し観光
ぐらいしかとりえのないこの国が、なぜ今さら他国の戦争に手を貸
そうとするのだろう。執政官の入れ知恵にしても、国王陛下も少し
は考えればいいのに。
﹁姉様?﹂
﹁なんでもないわ。お茶にしましょう、クラウスを探して頂戴﹂
6
レオナがルネの手を牽いて屋敷に戻る。
ほんとに、どこまでも飛んで行ければいいのに⋮⋮。そう思いな
がら。
海の香りのする初夏のそよ風が、少女の髪を揺らして吹き抜けた。
§
テルミア王国南部 第一航空隊飛行場
﹁坊主、グリスガン取ってくれ﹂
フリント整備中尉が伸ばした手に、文洋がグリスガンを渡す。
﹁ユウキ少尉、また来てるんすか? 非番なのに、ほんと飛行機好
きっすね﹂
外したプラグをずらりと並べ、ギャップ調整をしていたバーニー
伍長が文洋に話しかける。
﹁そうだなあ、飛行機はさあ、凄くいいよ﹂
﹁何がです?﹂
﹁空が飛べる﹂
﹁そりゃ飛行機ですから⋮⋮だからって整備までしなくても良いで
しょうに﹂ ﹁まあ、自分が乗るものだからな、出来る事は自分でやりたいんだ
よ﹂
﹁それ、他の貴族様達に聞かせてやりたいっすよ﹂
7
タメ口の整備兵を叱ることもせず、文洋はオイルドレンを回して
汚れたオイルを手際よく抜いてゆく。
﹁バーニー! 手前はちったあ坊主見習って、口より先に手ぇ動か
せ﹂
﹁へーい﹂
﹁ったく、お気楽な貴族様じゃねーんだぞ、一機でも故障で落とし
てみろ、ケツに一インチのボルトねじ込んでやっからな!﹂
怒鳴りつけてから、フリント整備中尉がバツの悪そうな顔で文洋
に眼をやった。
﹁すまねえ、坊主も貴族出身だったな﹂
﹁いいっすよ、貴族といっても極東の田舎貴族の三男坊ですから、
実際お気楽なもんです﹂
﹁それでも伯爵様なんだろ? てえしたもんじゃねえか﹂
曖昧に頷いて文洋は整備作業に戻った。ドレンを閉めてオイルを
入れる。褐色の鉱物油から甘い香りが立ち上った。
﹁なあ、おやっさん﹂
﹁なんでえ﹂
エルロン
補助翼のヒンジにグリスをさしていた中尉が油まみれの顔をひょ
いとのぞかせる。
﹁俺、空を飛ぶの好きなんだよ﹂
﹁知ってるよ﹂
﹁何もかも置いて行けるような気がしてさ﹂
﹁まあな、だがそいつは地面に足がついてなきゃ感じられ無え幸せ
8
だ﹂
﹁そんなもんかな﹂
﹁ああ、そんなもんだ。だから必ず帰ってこい﹂
権威主義な父と国の海軍に入った真面目な兄。どちらともウマが
合わず、留学に出た文洋は大学で知り合った子爵に誘われるまま飛
行学校に入学した。遠い異国の戦場で、命がけで空を飛ぶ今の生活
を、文洋は幸せだと感じていた。
エルロン
﹁補助翼動かしてみな﹂
エルロン
中尉の声にコックピットに潜り込み、文洋は操縦桿を左右に動か
す。連動して、パタリ、パタリと補助翼が小気味よく動いた。
﹁どうでえ?﹂
﹁いい感じだ﹂
﹁書類は出しとてやる、テストでちょいと飛んできな﹂
﹁ありがとう、おやっさん! バーニー、格納庫から出すの手伝っ
てくれ﹂
土の匂いのする滑走路、初夏のそよ風が、コックピットに座った
青年の前髪を揺らして吹き抜ける。
力強いエンジンの轟音が響き、そよ風を切り裂いて、群青色の機
体に白く狛犬を染めぬいた複葉機が空へ昇ってゆく。
結城文洋は異国の空を飛んでいた。風をかき分け、群青色の機体
が抜けるような青空へ昇ってゆく。
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9
猟犬と魔術師
﹁旦那、明日も頼むよ!﹂
﹁ああ、また明日な﹂
新聞を売りに来た少年にコインを渡し、文洋はパイロット待機所
に引き返した。クラブハウス風の瀟洒な建物が第一航空隊のパイロ
ット待機所兼、司令部だ。
﹁フミ、俺にも一杯入れてくれよ﹂
新聞を片手に広間に戻り、コーヒーを入れようとする文洋に、カ
ードに興じるブライアンが、振り向きもせず声を掛ける。
いつもの事だが、後ろに目でもついてるんじゃないか⋮⋮感心し
ながら、文洋は新聞を小脇に挟むと、カップを二つ手にしてブライ
アンに持って行ってやった。
﹁はいよ、子爵殿﹂
﹁子爵の俺が伯爵様の子息にコーヒー入れてもらえるなんざ、戦争
バンザイだな。なんか面白い記事でてるか?﹂
差し出されたカップを受け取り、一口飲んでブライアンがカード
を切る。後ろから覗いた感じだと手札はイマイチだ。
﹁テルミア海軍がレシチア沖で同盟軍と交戦、大戦果を得るも決定
打には至らず⋮⋮だそうだ﹂
﹁何回目だ、その決定打に云々﹂
﹁俺が覚えてるだけで、今年に入って三回目ってところだな﹂
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文洋の答えに鼻を鳴らし、ブライアンはがっさり手札を入れ替え
る。
﹁海軍がどんくさいおかげで、俺達は大忙しって訳だ﹂
﹁とはいえ、飛行船で王都爆撃とは同盟も思い切った手を打ってく
る﹂
﹁まったくだ。ほい、フォーカード、今夜はお前のおごりな?﹂
肩をすくめる相手に背を向け、ブライアンが立ち上がった。扶桑
人としては大柄な文洋と背丈は変わらないが、束ねた長い金髪にハ
ンサムな風貌は役者顔負けだ。
朝食用に積んであるサンドイッチを手に取り、文洋の肩越しにブ
ライアンが新聞を覗きこむ。フワリとコロンの香りが漂った。
﹁お、明日封切りの劇はいいな、こりゃいい﹂
広告欄をトントンと指で叩いて、ブライアンがニヤリと笑う。
﹁面白いのか?﹂
﹁ああ、貴族と花売り娘の恋愛劇でな、これなら居酒屋のドロシー
もいちころだ﹂
﹁言ってろ、ほら﹂
⋮⋮まったく、何度トラブっても懲りないな、この子爵様は。思
いながら、ブライアンに新聞を押し付け、文洋もハムサンドに手を
伸ばす。
テルミア王国第一航空隊基地、パイロット待機所。クラブハウス
風のレンガ造りの建物は、パイロットのほとんどが騎士と貴族階級
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ということもあり、さしずめ紳士の社交場といったところだ。
§
コツコツコツ、
二階の通信指揮所から軍靴の音が響いた。パイロットたちが一斉
に扉へと目を向ける。緊張した面持ちの少年兵が小走りに階段を降
りると、敬礼してから電信文を読み上げた。
﹁ライダル岬の監視所より電信、フェルデア海峡上空に敵飛行船団、
高度一万五千フィート、王都上空まで一時間﹂
幼さの残る少年兵の声に、待機所が一瞬、静まりかえる。
﹁行くぞ、諸君、仕事の時間だ﹂
静寂を破って、ロバルト中佐がよく響くバリトンで命令を下す。
隊長の号令でパイロット達も一斉に立ち上がった。
食べかけのサンドイッチを口に押し込んで、文洋も飛行帽とゴー
グル片手に駐機場へ走る。
飛行帽をかぶり、ゴーグルをつける。飛行服のポケットから紺色
のマフラーを出して首に巻く。
﹁まわーせー﹂
整備長の号令が駐機場に響く。純白の尾翼に真紅のワイバーン、
主翼に描かれた金色の七芒星、それら国籍マーク以外は、フクロウ
の紋章が入ったロバルト中佐の機体を筆頭にパイロット達の好みで
鮮やかにペイントされている。
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主翼いっぱいに天使が描かれたもの、トラ柄のもの、サメの口が
描かれたもの、複葉機達のエンジンに火が入り、駐機場がオイルの
匂いと排気音に包まれる。
﹁よう、フミ、落とされるなよ﹂
待機所のドアを出たところで背中を叩かれ、文洋はよろめいた。
飛行帽の後ろから束ねた金髪をシッポのように生やしたブライアン
がニヤリと笑う。
﹁ブライアン﹃卿﹄も二日酔いなんですから背中に気を付けて﹂
﹁それをいうなら手前なんざ閣下じゃねえか、ケツ蹴っ飛ばすぞ﹂
文洋は小走りにブライアンを追い抜き、自分の機体に駆け寄る。
磨き上げられた木製の桁に群青色の帆布の翼。胴体に白で狛犬が描
かれた愛機が不規則な鼓動を立ててアイドリングしている。
﹁おやっさん、調子は?﹂
フリント整備中尉に声をかけ、コックピットに滑り込む。
﹁ちょいと吹かしてみな﹂
エンジンの轟音に負けないダミ声に文洋はスロットルを開いた。
ブォォォォオオ、パパパ⋮パン
爆ぜるようなバックファイアの音、スロットルを戻して燃調レバ
ーを操作する。
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ブォォォォォォォォォオオオオオオ
気持ち空燃比を薄めたところで、テルミア空軍正式戦闘機﹃スコ
ル﹄に搭載された、九十八馬力の七気筒星形ロータリーエンジンが
高く吠えた。
﹁いいぞ坊主、てえしたもんだ﹂
飛び散るオイルのしぶきで、整備服と顔が汚れるのも気にせず、
ニカッと歯を見せてフリント整備中尉が親指を立てる。
駆け寄った整備兵が主脚の車輪からストッパーを外すと、芝生の
駐機場を機体がゴトゴトと走り出した。
滑走路で真紅の機体に白十字のついたブライアンの機体が横に並
ぶ。手を振るブライアンに、﹃お先にどうぞ﹄と身振りで示して、
文洋は胸ポケットに入っている守り袋を無意識に握りしめた。
操縦桿を動かし、ペダルを左右に蹴る。エルロン、エレベーター、
ラダー、目視で動作確認。座席の下には四十五発入りのドラムマガ
ジンが二つ。
﹁さあ、行こうか﹂
ぽん、と操縦桿を叩いて誰に言うともなくつぶやき、スロットル
を全開。
ゴトゴトゴト
土を押し固めだけの滑走路を群青の機体が突っ走る。三〇ノット、
四〇ノット⋮⋮尾翼が上がり、視界が開けた。速度計が六〇ノット
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にさし掛かったあたりで文洋はそっと操縦桿を引き上げる。
ふわり⋮⋮と重力を振り切り、自分が風になったような感触。グ
ンとエンジンのトルクで機体が傾斜するのを当て舵をして抑えこむ。
⋮⋮空は良い⋮⋮自由だ⋮⋮。 笑みを浮かべたまま、文洋は青い空を目指して駆け上った。
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§
全員が上がるまで上空を旋回して編隊を組みながら高度を上げる。
チョコレートブラウンのロバルト隊長機を先頭に、猛禽たちが一路
南へ向かって進路を取る。
巡航高度まで上がって、文洋はどこまでも広がる麦畑を見下ろし
た。綺麗に整地された緑の絨毯が故郷の水田を思い出させる。
見上げるような大聖堂の尖塔ですら六千フィートの上空からだと
マッチ箱のようだ。
深呼吸してオイルの匂いのする冷たい空気を吸い込む。
操縦桿を握りしめて文洋は笑いながら息を吐いた。
三〇分ほど南へ飛んだところで、編隊が二つに別れた。ロバルト
少佐率いるドラグーン隊の新鋭機﹃レイフ﹄が、一三五馬力のエン
ジンに物を言わせ上昇を開始する。
文洋たちのハウンドドッグ隊は、ブライアンを先頭にゆるやかに
高度を上げつつ前に出た。役割分担は単純だ、文洋達はその名の通
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り敵にまとわりつき、足に噛み付いてやればいい。
﹁来た⋮⋮﹂
前方に三つ小さな点が現れた。陽光を反射して、キラリと硬式飛
行船の外装が光る。見る見る大きくなるそれは、さながら空をゆく
白鯨だ。
先頭をゆくブライアンが翼を左右に振って増速、正面から突っ込
んでゆく。文洋も船団の側面へ回りこむべくスロットルを開ける。
ジャコン! 機銃に初弾を送り込む。コックピット右側に取り付
けられた一丁の機銃が﹃スコル﹄の武器だ。
船首に描かれた三都同盟のエンブレム﹃紅のトライデント﹄を横
目に、文洋は船団を通りすぎて反転上昇、三角編隊右翼の飛行船に
狙いを定めた。
ウォオオオオオオオオン
翼桁に張られたワイヤーが風を切って遠吠えのような音を立てる。
緩降下しながら後方のエンジンめがけ、機銃弾を浴びせる。
ツタタタ、ツタタタタ、
短く指切り射撃、弾丸がまっすぐに右端のエンジンに吸い込まれ
た。命中かと思いきや、緑の燐光が走ると空中に魔法陣が浮かび文
洋の弾丸をはじき返す。
﹁嘘だろ﹂
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ひとりごちる。飛行船のキャビンからは視界外のはずだ、見えな
い場所には魔法を展開できない魔術師が防げる位置じゃない。
あっけに取られていた文洋は、チリチリと首の後ろに電気が走っ
たような気がして、機体をロールさせ急降下した。
ドン!
一瞬遅れて背後で火球が炸裂する。文洋は冷や汗をかいた。間一
髪だ。召還魔法の射程はせいぜい弓と変わらない程度だが、こいつ
は思ったより飛ばしてくる。
一旦間合いをはかろうと文洋は急降下で距離を取った。派手な火
球が目を引いたのか、ハウンドドッグ隊が右翼の飛行船に集中砲火
を叩き込む。
空中に現れた魔法陣が、緑の燐光を上げ、完璧なタイミングで攻
撃を跳ね返す。
﹁大したもんだ﹂
敵の腕に文洋は舌を巻いた。ならば⋮⋮と急降下、速度をのせて
飛行船の真下に潜り込み、キャビンめがけて垂直上昇。
たかだか九十八馬力の﹃スコル﹄のエンジンでは、そう長く機体
を引き上げられない。エンジンが悲鳴を上げ、重力に引かれて速度
が失われる。失速直前、残っていた弾丸をありったけキャビンの底
に叩き込んだ。
カカカカン、カン、カン、カン、カン、
火花をあげてキャビンに着弾、ミスリル板で装甲されたキャビン
に火花があがった。七・六ミリ弾では歯が立たない。だが、中はさ
17
ぞかしにぎやかに違いない。
﹁よし﹂
ニヤリ、と笑って文洋は機首を下げようとする愛機のペダルを蹴
る。テールスライドからハンマーヘッドターン。降下して離脱する。
<i211300|13110>
速度が戻った所で水平飛行、文洋は大きな円を描いて船団の後ろ
に回りこんだ。リリースレバーを引き、クッキー缶ほどのドラムマ
ガジンを取り外す。マガジンを座席の下から出して交換、再攻撃の
態勢に入る。
クルリ、クルリと舞いながら、猟犬達が輪を縮めようとしたその
時。
ズズズン、ズン、ズン
蒼い爆発炎が船団を包み込んだ。
三角形の船団の真ん中を六機のドラグーン隊が駆け抜けてゆく。
急降下からの魔法攻撃。
飛行船の外壁を覆う魔法防護符が砕け散り、銀色の雪になって降
り注ぐ。
﹁凄い﹂
文洋が感嘆の声を上げた。魔術師の名家からの選りすぐりで組織
されただけの事はある。
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雷の矢に防御を破られて、左翼の飛行船が煙を吹いてゆっくりと
降下を開始。残り二隻も回頭して麦畑に爆弾を投下、上昇して戦線
から離脱する。
逃走する二隻を猟犬達が追おうとしたその時、空中に赤い信号弾
が打ち上げられた。
﹁戦闘中止⋮⋮か、相変わらず隊長は慎重だな﹂
それにしても、どんな魔術師が乗っているのだろう。見事な防御
魔法に興味がわいた文洋は、一〇〇ヤード程の距離を開けると右翼
の一隻を追尾した、ポケットから双眼鏡を取り出して覗きこむ。
窓にかかった装甲板で中の様子はうかがい知れない。この距離か
ら撃ってもミスリルの装甲板を機銃で貫けるとも思えない。
諦めて反転しようとした時、後部の装甲板がスルスルと下がった。
柔らかそうな亜麻色の髪の少女が、こちらをじっと見つめている。
﹁女の子? 魔術師の杖って⋮⋮マジかよ⋮⋮﹂
勝ち気そうな紫の瞳を綺麗だなと眺めている文洋に、少女が杖を
こちらに向けるのが見えた。
首の後ろにチリリと電気が走る。
双眼鏡を放り出してスプリット機動で回避に移る。
回避しながらも、目線は飛行船に向けたままの文洋のすぐ後ろに、
水色の魔法陣が現れた。
パンという軽い音がして、そこから砂利粒ほどの氷が爆発的に飛
び散る。
バラ、バラ、バラと機体を氷の粒が叩く。
19
﹁キャビンにお見舞いした仕返しってわけか﹂
自分より年下の少女か⋮⋮と複雑な気分で文洋は愛機を基地に向
けた。この異国の戦場に、あんな少女が何人いるのだろうと。
<i196004|13110>
§
﹁威力を下げれば射程は伸びる、氷だから良かったものの炎だった
ら君は今ここにはいないぞ、フミヒロ・ユウキ少尉﹂
一部始終を目撃したロバルト中佐に帰投後、紳士らしく淡々と、
そしてテルミア人らしく理路整然と、こってり絞られたのが、その
日一番、文洋にとっては大変な出来事となった。
20
猟犬と魔術師︵後書き︶
※レオナのイラストは、
http://ncode.syosetu.com/n5329
ci/の﹁まほそ﹂さんから頂きました。
21
猟犬とエルフ︵前書き︶
<i176616|13110>
※http://ncode.syosetu.com/n532
9ci/の﹁まほそ﹂さんから頂きました。
22
猟犬とエルフ
﹁フミ、フミ、おきる、はやく!﹂
﹁ローラ⋮⋮?開いてるよ﹂
片言の母国語で起こされ、文洋は寝返りを打ちながら片目を開け
た。少佐にこってり絞られた後、ブライアンに引っ張られて行った
酒場で、安酒をしこたま飲まされて、ほうほうの体でアパートメン
トに戻ったのは覚えている。
﹁まあ、お酒臭い⋮⋮。もうお昼ですよ、ほんとにだらしないんで
すから⋮⋮﹂
大陸語で言いながら、エルフの女性がドアを開けて現れた。流れ
るような銀髪に尖った耳、翡翠色の瞳。
ベッドに投げっぱなしの上着を拾うと、ローラは上着のしわを伸
ばしてハンガーに掛け、部屋の窓を開け放った。爽やかな初夏の風
が吹き込んでくる。
﹁ほら、せっかくのお休みなんだから、寝ていたらもったいないで
しょう?﹂
﹁わかった、降参。起きるよ、起きる﹂
毛穴からウィスキーの匂いがしそうな気がして、シャワーを浴び
ようとクローゼットを開く。無精がたたってシャツが洗濯屋に出し
たままなのに気づき文洋は舌打ちした。
﹁フミ、シャツならお父様のお古を出してあげますから、はやくシ
23
ャワーを浴びていらっしゃい﹂
甲斐甲斐しく世話を焼く大家に苦笑いしながら乳母のハルみたい
だな⋮⋮と文洋は思った。見た目で言えばローラのほうが若いが、
彼女はエルフだ年齢は聞くまい。ハルか⋮⋮いい思い出のない実家
で、優しくしてくれた乳母のことを、ふと思い出して苦笑いする。
﹁あれ、ハンナさんは?﹂
﹁ハンナなら娘さんが出産するというので、ひと月ほど暇を出しま
した﹂
ローラが家政婦に休暇を出していたおかげで、文洋がいつもより
贅沢な⋮⋮オムレツにサラダ、小麦のパンにジャガイモのポタージ
ュと、いたれりつくせりのブランチのご相伴に預かっていると、ロ
ーラがニコニコしながら口を開いた。
﹁フミ、それを食べたらお芝居を見に行きましょう﹂
﹁俺みたいなのを連れてると、ご近所に色々いわれますよ?﹂
口に入れたパンを飲み込んで、文洋はローラをまっすぐに見つめ
る。軍の中と違い、テルミアの町中では極東人は珍獣もかくやとば
かりの扱いだ。
ましてや中心街から外れているとはいえ、ここはエルフ居住区だ。
元来のテルミア人ですら一段下にみる傾向のあるエルフ達からすれ
ば文洋の扱いなどホブゴブリンに毛が生えた程度に違いない。
﹁フミはテルミア軍人でパイロット。故郷に帰れば伯爵閣下の子息
なのでしょう?胸を張っていればいいのです﹂
極東人の島国出身の、少尉で閣下の子息⋮⋮か、なんだかなあと
24
思いながら、彼女の素敵な笑顔に押し負けて、文洋は今日一日、ロ
ーラと過ごすことにした。
§
﹁お休みなのにフミはまた、そんな格好で﹂
胸元と裾に豪華なレースのあしらわれたドレスに身を包んだロー
ラが、エルフづくりのシャツの上に無骨な軍服の上着を羽織った文
洋をみて、仕方ない人だという顔する。
気楽で良いからと、いつも軍服を着ている文洋に、ツカツカとヒ
ールの音をさせながら近づいて、ローラが文洋の胸元に手を伸ばし
た。
﹁あ、いや、うんごめん﹂
ネッカチーフを整える彼女の、バラ油の香りがする髪にドキりと
して、文洋は借りてきたネコのようにされるがままだ。
﹁はい、できましたよ。フミはちゃんとしてればブライアンにだっ
て負けないんですから﹂
ポンポン、とレースの手袋で胸を叩かれ、自分の頬が熱くなるの
を感じる。
伊達男を絵に書いたようなブライアンが聞いたら吹き出すに違い
ない。
﹁イエス・マム、気をつけます﹂
ごまかすように斜め上を向いて文洋が返事をする。ちょっと拗ね
25
た表情でローラが俯いた。
﹁次にそんな口を聞いたら、晩御飯ぬきですからね﹃閣下﹄?﹂
﹁ごめん、ローラ、悪かったよ、ごめん﹂
ああ、なんだか失敗した⋮⋮、文洋は冷や汗をかく。エルフ元老
会議長の三男坊の娘、そういう意味では文洋と同じく名家の末席の
彼女だ、色々と思う所もあるのだろう。
﹁最初に会った時にいいましたよね?私達はお友達です﹂
﹁ええ、ローラ⋮⋮とても大事なお友達です﹂
返した一言に目に見えて表情を明るくして、レースの手袋に包ま
れた右手をさし出すとローラはニコリと微笑んだ。
﹁ではフミ、紳士なんですからちゃんとエスコートしてくださいね
?﹂
§
テルミアで流行りの、花売り娘が貴族と結婚するまでの喜劇は文
洋にとっては少々退屈だったが、ローラは実に満足したようで終始、
上機嫌だった。
ガス灯に火がともる頃、広場には大道芸人とアンティークの小物
を売る露天商があちこちに店を開いていた。夜の街を、特に居住区
の外は一人で出歩くことのないローラはそれが珍しいらしく、イチ
イチ店を覗いてははしゃいでいる。
そんな彼女に振り回されながら、文洋はふとアンティークの露天
の前で足を止めた。
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﹁どうしたんですか、フミ?﹂
古い飾り気のない指輪と、地味な赤色の石。だが、じっと見てい
ると宝石の中で白い渦が動いているように見える。不思議な光景が
妙に気になって、文洋はその古びた指輪を取り上げて光に透かして
みた。
﹁アリシアの赤水晶です、古代都市アリサリア魔法王国の遺跡から
発掘される魔力の結晶﹂
その言葉で、飛行船の魔術師が、赤水晶のあしらわれた金属製の
杖を手にしていたのを思い出す。赤水晶が魔力の結晶だというなら、
あの大きな赤水晶と神がかった防御魔法には、なにか仕掛けがある
に違いないと文洋は思う。
﹁むかし、赤水晶の力でアリシアは魔法使いを作っていたと聞きま
す。五千人の魔法戦士を抱えていたと言われていますが⋮⋮さすが
に大げさな話だと思いますよ?﹂
明日、調べてみるか⋮⋮。なんとはなしに気になって、文洋は飾
り気のない指輪と、隣に置かれたグリフォンのブローチを一緒に買
い求める。
﹁ローラ、これを﹂
﹁まあ、私に?﹂
少女のように眼を輝かせ、ローラがブローチを受け取った。魔導
工学でそれなりの量を作り出せる今となっては、銀と同じ程の価値
しかないミスリル製の、だが手彫りで丁寧に作られた古びたブロー
27
チ。精緻な縁模様の真ん中では、翼を広げたグリフォンが赤水晶を
つかんでいた。
﹁ありがとう。フミはロマンチストなんですね﹂
大喜びする彼女に微笑んで、
彼女が何をこれほど喜んでいるのかは文洋には判らなかったが、
ここでそれを言うほどヤボでもない。
文洋は音もなく揺らめくガス灯の火を見上げた。
こんなに幸せだと、どこかで罰でもあたるんじゃないかなあ⋮⋮
と思いながら。
§
翌朝、テルミア王立図書館に足を運んだ文洋は、怪訝な顔をする
司書に﹃アリシアの赤水晶﹄と﹃アリシア魔法王国﹄に関する本を
集めてもらった。
おとぎ話がやたらと出てくる中、魔法史の文献を文洋は読み漁る。
﹃中つ海の群狼﹄と呼ばれたアリシア魔法戦士団については曖昧な
物が多かったが、どの書物にも共通した記述が散見された。
﹃アリシアの地下から採掘される赤水晶を媒介に、魔法戦士団は
無詠唱で魔法を発動した、炎と風に特化したそれは海上貿易でアリ
シア王国に莫大な富をもたらした﹄と。
航海術が未発達だった五〇〇年程前に隆盛を誇ったアリシア王国
だが、航海術の発達と火器の発展とともに衰退期を迎え、今ではア
リシア王国の宮殿の大広間にあるソーラ・セカレと呼ばれる直径八
フィートほどの巨大な赤水晶が当時の隆盛の面影を残すのみだ。
28
﹁風と炎、無詠唱⋮⋮﹂
昨日の戦闘で出会った亜麻色の髪の少女を思い出す。とんでも無
い反応速度で展開される防御魔法と、射程外だと踏んだ文洋が危う
く吹き飛ばされそうになった火球。偶然とは思えないつながりを文
洋は感じた。
明日、隊長に話をしてみるか⋮⋮。ペンを置いて伸びをする。今
日はこれくらいで良いだろう。
折角なので、おとぎ話を一冊借りて、文洋はアパートメントに戻
った。昨日からなんだかご機嫌のローラと早めの夕食を取ると、部
屋に戻ってベッドに潜り込み、借りてきた本を開く。
書かれているのはシルヴェリア王国の建国譚だ。テルミア歴二一
八年に建国されたシルヴェリア王国は北大陸最大の領土を誇り、テ
ルミア教団発祥の地であるテルミア王国を除けば現存する最古の王
国の一つだ。
時折、隣国の建国譚が芝居になっているのを見て不思議に思って
いたので、文洋はこれも良い機会だと読み進める。初代の女王とな
るハーフエルフの娘とアリシアの魔法使いの恋愛物語。
⋮⋮かくして、ラルフの娘、ローラ・シルヴェリアは愛する魔法
使いの腕の中、紅玉輝くグリフォンのペンダントを握りしめ⋮⋮。
クライマックスまで読み進めて文洋は赤面した、姫君と同じ名前
のローラにプレゼントしたのはまさしく赤水晶で飾られたグリフォ
ン。
﹃ありがとう。フミはロマンチストなんですね﹄
29
昨夜のローラのセリフが頭の中でグルグル回る。文洋はこのやり
場のない恥ずかしさをごまかすのに大声を上げたくなった。
無知とは罪という賢人の言葉があるが、さすがにこれは恥ずかし
い。むう⋮⋮と呻いてサイドテーブルに本を置き、ボトルからウィ
スキーを一口飲む。
明日、ローラに話をしてプレゼントの事はブライアンには内緒に
してもらおうと思った。あの子爵にしれたら一生ネタにされかねな
い。
ランプを消してお日様の匂いのするシーツに横になる。開け放し
た窓から、虫の音と涼しい風が入ってくる。
⋮⋮じつにいい休暇だったな⋮⋮そう思いながら文洋は目を閉じ
た。
30
猟犬と白狐
﹃ロバルト・E・バーリング﹄
真鍮のネームプレートの付けられた隊長室のドアの前で、文洋は
ノックしようかどうか迷っていた。入隊から二ヶ月、ロバルト中佐
と親しく話したことはなかったし、なにより三日ほど前にこってり
と絞られたばかりだ。
﹁何か用かね、ユウキ少尉﹂
背後でドアが開いて、後ろから声を掛けられて文洋は飛び上がっ
た。チェック・シックス、隊長室の向かいにある通信室からの不意
打ちだ。
﹁はい、いえ、まあ﹂
慌てて敬礼。口ごもる文洋の肩をポンと叩いて、入れと首を傾け
ると、中佐が自室のドアを開け、振り返りもせずに入ってゆく。
﹁失礼します﹂
完全に機を逸して、文洋はあとに続いて隊長室に入った。
﹁飲むかね﹂
ロバルト中佐がサイドボードからウィスキーのボトルを取り上げ
て、グラスに注ぐと文洋に手渡した。
31
﹁ありがとうございます﹂
受け取ったグラスからは、ブライアンたちと飲む安酒と違う芳醇
な香りが立ち昇る。
﹁まあ、かけたまえ﹂
勧められて、文洋はマホガニーの椅子に腰掛けた。
﹁タバコは?﹂
純銀に金象嵌の細工の効いたシガレットケースを、中佐が文洋に
ケースをさし出した。
﹁いえ、ありがとうございます﹂
断って文洋は本題を切り出す。
﹁三日前の件で、ひとつ気になることを思い出しましたのでお話に
まいりました﹂
パチン、と指を鳴らすと指先に灯った鬼火で中佐がシガリロに火
をつける。
﹁君が氷をぶつけられた少女の件かね?﹂
肩をすくめ、文洋はポケットから昨日買った指輪を取り出し中佐
の前に置いた。
32
﹁アリシアの赤水晶か、久しぶりに見みるな﹂
ひょいとつまみ上げ中佐が指輪を光にかざす。ミスリルの指輪に
飾られた赤い石の中で、白い渦がグルグルと不定形にうごめいてい
る。
﹁あの日、少女が持っていた杖はミスリルと拳ほどの赤水晶ででき
ていました﹂
ピタリと中佐が手を止める。
﹁それは誰かに話したかね?﹂
右の眉を上げて静かに、だが明らかに厳しい声に文洋は少し怯ん
だ。
﹁いえ、まだ誰にも﹂
甘い香りのする紫煙を吐いて、中佐がトレードマークの口髭をを
ひねる。
﹁私がいいと言うまで黙っていたまえ、他になにか?﹂
言うか、言うまいか躊躇して、文洋は一呼吸おいて真剣な眼さし
で中佐に問いかけた。
﹁この指輪、私にも使えないでしょうか?﹂
ふむ、と視線を外して中佐が思案する。
33
﹁素養にもよるとしか言えんな⋮⋮、その昔、アリシアの魔法戦士
は赤水晶にイメージを送ることでそれを具現化したというが⋮⋮二
〇〇年以上前に衰退した技だ、知るものはもう殆どいないだろう﹂
もっともな話だと文洋は思った。苦労して赤水晶の力を開放する
より、五ポンド砲で三倍遠い距離から吹き飛ばす方が手軽には違い
ない。飛行機に五ポンド砲が積めれば⋮⋮だが。
﹁私の友人に詳しいのが居るから、紹介状を書いておこう。次の休
暇にでもたずね
るといい﹂
指輪をさし出して中佐が優しげにニコリと笑う。
﹁ありがとうございます﹂
こんな顔もできる人なんだなと思いながら、文洋が礼を言って立
ち上がったその時。
ウゥゥゥウウウ ウゥゥウウウウウ
基地にサイレンが鳴り響いた。
空襲警報?
訓練以外では聞いたことのないサイレンに基地全体に緊張が走る。
海岸線から一〇〇マイルはある。
基地の対空監視所に見つかるまで、まったくのノーマークなどあ
りえない話だ。
きびす
慌てて立ち上がって中佐に敬礼、文洋は踵を返そうとする。
34
﹁少尉、待ちたまえ﹂
そんな文洋に、中佐はシガリロをクリスタルの灰皿に押し付け、
答礼しながら声を掛けてきた。
﹁はっ?﹂
呼び止められて敬礼の姿勢のまま、文洋が固まる。
﹁士官が動揺すると、兵が混乱する。ついてきたまえ﹂
通信室の扉を開け、中佐が王都の司令部に、対空警戒の打電を命
令する。待機所への階段を中佐は落ち着いて、だが大股で歩きなが
ら、待機所で右往左往するパイロット達に、よく通るバリトンで命
令を飛ばした。
﹁ハウンドドッグ隊は高度を上げつつ飛行船団を追尾、ドラグーン
隊は王都方面へ抜けて高度を稼げ﹂
右往左往していたパイロットたちが、中佐の命令にかかとを合わ
せて敬礼。待機所から駆けだすと、整備兵達がエンジンをかけ始め
た愛機に向かって、全力疾走を開始した。
ズム、ズム、ズム
防空隊の高射砲が一斉に天に向かって火を吹く。空に鉄と炎の嵐
が吹き荒れる。
﹁落ち着けよフミ、どうせいつものドンガメ共だ﹂
35
機体に向かって走る文洋の背中をバシンと叩いて、ブライアンが
追い抜いてった。整備兵の肩を踏み台に一挙動でコックピットに滑
り込み、またたく間に滑走路を走りだす。
﹁坊主、弾倉だ予備がねえから気をつけろ!﹂
フリント整備中尉が投げてよこした弾倉を片手でキャッチして、
文洋も自分の機体に滑り込んだ。群青色の機体に白い狛犬。
風防右側の機銃に弾倉を取り付け、チャージングハンドルを引い
て初弾を送り込む。
フルスロットルで駐機場から滑り出し、一気に空へと舞い上がる。
綺麗な三角形を描いて、銀色の飛行船が基地の上空を抜けてゆく。
﹁くそっ、レイフなら⋮⋮﹂
馬力に物をいわせ、すでにケシ粒ほどに小さく見えるドラグーン
隊を追いながら、文洋は王都へと迫る飛行船団を追いかけた。
基地から王都まで約三〇マイル、一万五千フィートまで上がるの
に三〇分はかかるスコルでは、王都上空でやっと空戦が出来る高さ
にたどり着けるかどうかというところだ。
ジリジリと上昇しつつも、位置関係が変わらないので、常に自分
の真上を飛び続けるように見える飛行船団を睨みつけ、文洋はスロ
ットルレバーを強く握りしめた。
﹁ん?﹂
36
先頭をゆくブライアンの真紅の機体が、スルスルと下がって文洋
の横に並ぶ。
何かを言いながら大きな身振りで後ろを指さし、翼を振っていた。
後ろ?
後ろは残りのハウンドドッグ隊がいるはずだ⋮⋮。
思いながら振り向いて、文洋は息を呑んだ。
﹁⋮⋮﹂
戦闘機
と戦っていた。
真っ先に離陸した文洋とブライアンに遅れること四〇〇ヤード、
自分たちの後ろでハウンドドッグ隊が
敵の前線基地からでも、ゆうに一五〇〇マイルはある。燃費のい
いスコルでもその三分の一も飛べればいいところだろう。だからこ
そ、今までは護衛機なしの飛行船団を、余裕をもって追い返してき
たのだ。
どこからわいて出た⋮⋮?
額にジワリと嫌な汗をかく。
ブライアンが真紅の機体を翻し、隊の救援にむかった。
文洋は中佐の命令を思い出し、逡巡する。
誰も行かなければ、ドラグーン隊は単独で飛行船団に立ち向かう
ことになる。
﹁くそっ!﹂
毒づきながら、遥か上空を飛ぶ飛行船団を睨みつけたその時、船
団から小さな黒い点が離れるのが見えた。
黒い点が大きくなり、翼が生え、飛行機の形になる。
撃たれる! 37
文洋がラダーペダルを蹴飛ばして機体を横滑りさせた。
カカカカカンッ!
エンジンとコックピットを狙った弾丸の雨が、間一髪のところで
逸れて左の翼に一列の穴を開ける。翼桁がはじけ飛び、破片が文洋
の頬をかすめた。
操縦桿を左に倒しこんでバレルロール。上空から降ってきた敵機
と、一瞬の交差。
派手な黄色の機体に描かれた、白い狐が目に焼きつく。 オーバーシュートした敵機に反射的に一連射。
降ってきた敵機は速度を殺さず、そのまま急上昇。
大きく弧を描くと後上方に回りこんだ。
﹁くっつ⋮⋮﹂
追わずに文洋は急降下。高度を速度に代えて、眼下の森めがけて
逃げる。
穴の開いた布張りの主翼が口笛のような音を立てた。
敵か味方か、前方に煙を吐いて落ちてゆく機体が目に入った。 ⋮⋮あの乱戦の中に逃げ込めば。
文洋の思いををあざ笑うかのように、黄色の機体が距離を詰めて
くる。
時折、主脚が木の梢を叩いて、バシリ、バシリと音がする。
空冷エンジンのスコルと違い、妙に尖った鼻先。
極限まで研ぎ澄まされた感覚が、時間の流れを遅らせる。
ジリジリと死の淵へと追い詰められてゆく。 38
なぜ撃たない?
疑問に思った文洋の首の後ろに、チリリと電気が走った。
ドン!
反射的に右のペダルを蹴飛ばし、操縦桿を右に倒した瞬間。
機体の裏で爆発音がして、機体が爆風に煽られた。
爆風に煽られて横倒しになる。
右の翼が木に引っかかって森に突っ込む。
木の裂ける音、飛んでくる枝。
ガツンと額に衝撃がきて、目の前が暗くなる。
文洋が覚えているのはそこまでだった。
39
魔術師と白狐
﹁バカみたい、こんな事が出来るならさっさと作っておけばいいの
に﹂
レオナ・エラ・セプテントリオンが呟いた。肩まである亜麻色の
髪に切れ長の目、濃い紫の瞳。少女といってさし支えない年齢の彼
女だったが、どこか張りつめた雰囲気を身にまとっている。
三都同盟の基地から海峡を超えてテルミア王都まで一六〇〇マイ
ル弱、主力戦闘機の航続距離は片道一〇〇マイル前後。
物理限界を超えて、飛行船団に護衛戦闘機をつけるという軍部の
要求に、同盟の技術者が出した答えは強引だが単純なものだった。
八番艦﹃ルウス・オクト﹄、九番艦﹃ルウス・ノウェム﹄の二隻
をトラスで結合した双胴式の飛行船に、一〇機の戦闘機を文字通り
﹃吊り下げる﹄というものだ。
出撃時にはエンジンを掛け、自由落下して出撃、回収時は上翼に
取り付けられた可動式の回収環を展開してフックに引っ掛けて回収
する。
疑問の声も多かった﹃ヒュードラ﹄と命名された空中母艦だが、
テルミアの監視施設と通信施設を戦闘機部隊で奇襲した結果、今回
は期待以上の戦果をあげていた。
﹁科学は魔法のように一足飛びにはいかないのですよ、騎士殿﹂
つかつかと歩み寄った飛行服の士官が、彼女の隣で投影板を覗き
40
こむ。
召喚魔術師の呼び出したピクシーの視界を映し出す﹃水晶宮﹄と
呼ばれる、全方位を見渡せる特別席で、無精髭の空軍士官がレオナ
にニコリと微笑んだ。
飛行船は﹃船﹄だと言う理由で海軍士官ばかりのブリッジでは、
空軍の飛行服に身を包んだ偉丈夫は、否が応でも悪目立ちしていた。
﹁水晶宮にようこそ、クロード少佐。あと騎士殿はやめていただけ
るとありがたいのですけれど﹂
笑顔を向けるクロードにレオナは眉をひそめる。好きでこんな場
所にいる訳じゃない、そう言い返してやりたかった。
﹁失礼、麗しの防空士官殿﹂
﹁クロード少佐⋮⋮﹂
文句の一つでもと口を開きかけたその時、彼の部下の一機が火を
吹いて墜ちてゆくのが映る。
﹁ドッグファイトは厳禁と言っておいたんだが⋮⋮﹂
不意に厳しい口調に戻ったクロードに、レオナは口をつぐんで投
影板に視線を戻した。この大男が部下の一人ひとりに気にかけてい
たことはよく知っている。
﹁あの蒼いの、こないだの﹂
船団の真下を、紅い機体と蒼い機体、二機のテルミア機がジリジ
リと高度を上げて追ってくる。
41
﹁そろそろ﹃ヒュードラ﹄へ戻さんと部下たちの燃料が切れますな。
あの二機は私が追い払いましょう﹂
ゴーグルをおろし手袋をはめると、踵を鳴らしてクロード・エル・
ツバイアスがレオナに敬礼した。
﹁ご武運をレオナ殿﹂
﹁少佐もお気をつけて﹂
数分後、ゴン、という衝撃とともにクロード少佐の機体が空中艦
隊二番艦﹃ルウス・ドゥオ﹄から切り離された。
少佐に上から被られた蒼い機体がヒラリとかわすと、二機が蝶の
ようにヒラヒラと舞いながら投影板の中で小さくなってゆく。
﹁艦載機切り離しよし、前部バラスト切り離し、トリムゼロ﹂
﹁了解、前部バラスト切り離し、トリムゼロ﹂
﹁僚艦に信号、五ノット増速﹂
﹁復唱、増速五ノット﹂
軽くなった巨体を唸らせて、船団は一路、王都を目指した。
<i129712|13110>
§
程なくして、テルミアの王都がレオナ達の視界に入ってきた。
円形の城壁、紺色の屋根を連ねた民家、中心部に小さな森がある
のはエルフ居住区だろうか、そして街の中央には女神テルミアを祀
る王宮兼、大聖堂の尖塔。
42
﹁今回は完勝ですな、ゆるりと観戦下さって結構ですよレオナ殿﹂
壮年の艦長がのんびりとした声でレオナに声を掛ける。
﹁そうだと良いのですが⋮⋮﹂
あの街にも人が居て、子どもたちが遊んでいるのだろうか?
﹁進路そのまま、目標敵王宮﹂
﹁進路そのまま、ヨーソロー﹂
粛々と、精密機械のように街と人々の生活を破壊しようとする軍
人たちに、そして不本意とはいえ、それに加担している自分にレオ
ナは恐怖した。
おとぎ話に出てくる女神様、その神殿を自分はいま壊そうとして
いるのだ⋮⋮汗で額前髪がへばりつく。呼吸が早くなる。
﹁レオナ殿?大丈夫ですかな?﹂
﹁ええ、大丈夫、少し緊張しているだけです﹂
深呼吸して、レオナはいささか大きすぎる革張りのシートに身を
預けた。
﹁敵機直上、機数、三!﹂
見張員の声にレオナは我に返った、反射的に投影板を見上げる。
三機の戦闘機が船団めがけて急降下してくる。
炎と風を操る自分の魔法では彼らの﹃雷の槍﹄は無効化はできな
いが、空中に火の玉を具現化することで、飛行の邪魔をするぐらい
は出来るだろうと、杖を握りしめる。
43
﹁押し通るぞ!最大戦速﹂艦長が号令
﹁了解、最大戦速﹂
だが、そのたった三機の攻撃は熾烈を極めた。
レオナの反撃をことごとくかわし、徹底的に舵を狙って雷撃魔法
を浴びせてくる。
フェイント混じりの空戦機動に翻弄されて、火の玉は明後日の方
向に具現化して爆発した。
だが、こちらも彼らの魔法攻撃を防ぐため、今回は国内にあるだ
けの防護符を投入しているのだ、いつものように簡単に破られはし
ない。
魔法が効かないとなると、信じられないことに彼らは自らの機体
をぶつけてまで街へ近づかせまいとした。北壁の騎士だと言われ育
チョコレートブラウンの機
ったレオナだが、その勇気を見ると自分の不甲斐なさを恥じるばか
りだ。
三機同時に肉薄されて防ぎきれず、
体が後部に突っ込んだ三番艦﹃ルウス・トレース﹄は後部ガス嚢を
破損、爆弾を投棄して反転せざるを得なかった。
﹁敵ながら大したものだ。実に天晴ですが、今回は我らの勝ちです
な﹂
投影板に映る三つの白いパラシュートを見ながら、艦長がレオナ
に話しかける。
一隻が欠けたものの、二隻は無傷に近い状態で王都テルミア上空
に侵入を果たした。
散発的に打ち上げられる高射砲弾が、時折船を揺らすが、レオナ
44
の防御魔法の前に脅威になるほどの密度ではない。
﹁爆弾槽開け、投下準備﹂
ゴウン、ゴウンと機械音がして、キャビン後方の爆弾槽の蓋が開
く。
戦闘機搭載の試験艦として改造を受けた﹃ルウス・ドゥオ﹄の爆
弾搭載量はは他の船の三分一程だが、それでも街をワンブロック吹
き飛ばすには十二分だ。
﹁準備よし、照準手へコントロール渡せ﹂
全ての準備を終え、城壁を超えてエルフ居住区の上空を通過した
その時、猛烈な突風が船団を襲った。
﹁きゃあっ﹂
思わず悲鳴を上げて、レオナが座席の肘掛けにしがみつく。ミシ
ミシと音を立て飛行船がかき回された。
水晶宮の投影板が一斉に消え、ブリッジが暗闇に包まれる。あち
こちで物が割れる音と悲鳴があがり、士官達も何が起こったか判ら
ず怒号が飛び交う。
﹁前部装甲板下げ、損害報告﹂艦長が一喝。
ブリッジ前方の装甲板が下がりガラス越しに外の風景が直接目に
入る。
そして、皆が言葉を失った。
そこに居たのは、もう数百年来誰も見たことが無いドラゴンの威
45
容だったからだ⋮⋮。
﹁定命の者よ、汝らが殺しあうのは人の運命ゆえ大目にみよう﹂
沈黙の中、ブリッジ全体を振動させ、古代語で大音声が響き渡る。
﹁だが女神の寝所を冒涜するのであれば、我は古の盟約において鉄
槌を下そうぞ﹂
レオナを含め、古代語が理解できる魔術師たちは、その大音声に
ポカンと口を開く。
いや、正確にいうと、言葉が判るかどうかはあまり関係なく、皆
が自分の目を信じられずに居た。
﹁我が名はフルメン、女神の寝所を守りし雷の龍。小さき者よ、恐
怖とともに我が名を心に刻むがよい﹂
尖塔の上でドラゴンが翼を広げて咆哮した。
空中に稲妻が走り、圧倒的な破壊力で先頭をゆく一番艦に襲いか
かる。
それは、絶望的で理不尽な殺戮の合図だった。
§
﹁総員退艦!﹂
﹁退艦!﹂
燃え盛るブリッジで自失呆然としていたレオナは、航海長に抱き
46
あげられ、後部デッキに連れだされた。
バランスが取れず大きく左に傾いた﹃ルウス・ドゥオ﹄から次々
とパラシュートを付けた乗組員が飛び降りてゆくのが見える。
﹁さあ、レオナさんもこれを﹂
﹁航海長、お怪我を﹂
額から血を流してパラシュートを手渡す航海長に、そう言ってハ
ンカチをさし出してから、レオナはなんてバカな事をしているのだ
ろうと思った。
﹁ありがとう。さあ、早く﹂
ハンカチを受け取り、ニコリと笑って再びパラシュートをさし出
す航海長にレオナは首を振る。
﹁それは航海長が、私は魔法でなんとかします﹂
パラシュートを両手でぐい、と航海長に押し付けて、レオナも笑
った。
そう⋮⋮、私はレオナ・エラ・セプテントリオン。アリシア北壁
の騎士。
そして、ここにはアリシアの騎士など居ない事になっているのだ。
﹁どうかご無事で、航海長﹂
クルリと背を向けてレオナはデッキから地表を見おろした。一番
艦﹃ルウス・ウヌス﹄は町の広場で燃える残骸と化している。
47
大きく息を吸い込んで、レオナは虚空に身を踊らせた。 ゴウゴウと耳元で風がなる。
見る見る地面が近づく。
風を操り速度を緩める。
ボウッと握りこぶしほどの赤水晶が光を放つ。
もう少し。
地面に背を向ける。
風が自分をフワリと抱き上げるイメージを思い描いた。
綿のように、羽毛のようにヒラヒラと舞うイメージを作る。
耳を打つ風の音が弱まる。
そう、フワリと⋮⋮。
ドスン!
﹁くはっ!﹂
空中一〇〇フィートほどでレオナは何かに背中を叩きつけて、息
が詰まった。
﹁な⋮⋮に⋮⋮﹂
息が吸えない。
背中が⋮⋮痛い⋮⋮。
遠のく意識の中でレオナは城に残してきた弟の名をつぶやいた。
﹁ルネ⋮⋮﹂
48
猟犬と子栗鼠
﹁⋮⋮くっ﹂
文洋は鈍痛に顔をしかめた。横倒しになったコックピットの壁に
身を預け、一息ついて深呼吸する。風防の向こうから興味深そうに
のぞき込んでいたリスが、てててっと身をひるがえし逃げてゆく。
﹁何時だ⋮⋮﹂
左腕にはめた時計を見る。十四時半、離陸してから約二時間ほど
だ、どうやら小一時間ばかり気を失っていたらしい。
体を動かしてみる。左肩がひどく痛むのと、計器盤にぶつけた額
から出血している以外は大きな怪我はないようだ。
ベルトを外そうとして金具を引くが、体重が妙な角度にかかって
いるせいかびくともしない。
﹁いつっ⋮⋮﹂
ブーツからナイフを抜いて、文洋はベルトを切り離しにかかった。
何度か試みて左肩にかかっていたベルトを切り離す。痛む肩をかば
いながら、コックピットから身を乗り出して下を覗きこんだ。
機体は地上から二〇フィートほどの高さで、大きなヴァレンウッ
ドの枝に引っかかっているようだ。
﹁降りられるのかコレ﹂
49
さらに身を乗り出したところで、下から見上げていた子供たちと
目が合う。
﹁わっ!﹂
声をあげて蜘蛛の子を散らすように子供達が逃げてゆく。近所の
子供たちだろうかと思いながら、コックピットの縁に手を掛けて身
体を引き抜こうと力を入れる。
﹁だいじょうぶ?﹂ いきなり真後ろから声をかけられ、文洋は腰のホルスターに手を
延ばしながら振り返る。左肩が引っ張られて激痛に顔をしかめる。
﹁うわ、おっかない顔﹂
振り返った文洋の前で、言葉とは裏腹に、ショートカットの髪に
何枚か木の葉をくっつけた少女が八重歯を見せてニカリと笑った。
﹁ひどいなー、みんなあたしのこと置いて逃げちゃうんだもん﹂
器用に枝をつたって木を降りる少女に導かれ、やっとのことで地
面に降り立つ。油まみれのゴーグルを外して飛行帽を脱ごうとした
時、バリッと音がすると鈍い痛みが走り、生ぬるい液体が額をつた
って頬を濡らした。
﹁わぁ! 血がでてる! それ、ちょっとそれ貸して、あと座って﹂
スカーフを指さして少女が声をあげる。文洋は素直に座ると紺染
めのスカーフ襟元から引っ張り出して、少女に手渡した。
50
﹁ちょっと! これ絹じゃない。もったいないでしょっ! もう!
ちょっとあっち向いてて﹂
背を向けると、ごそごそと衣擦れの後、布を裂く高い音がする。
﹁いいよこっちむいて﹂
裂いた布を少女が文洋の額に器用に巻きつけてゆく。
﹁ありがとう﹂
﹁あたしのシュミーズのスソだけど、ちゃんと洗濯はしてあるから、
きれいだからねっ﹂
スカーフをさし出して、そっぽを向いて照れ隠しをする少女の頭
に、ポン、と文洋は手を置いた。黒目がちな瞳が見上げる。どんぐ
りのような赤茶の髪と相まって、リスのようだなと文洋は思った。
﹁それは君にあげるよ﹂
少女がさし出したスカーフを押しやって、文洋はニコリと笑って
みせる。
﹁いいの?﹂
﹁ああ、助けてくれたお礼だ﹂
白だと汚れが目立つと、自分で紺色に染めた物にローラが刺繍を
入れてくれたスカーフだが、こんな時だ、許してくれるだろう。
﹁うわあ、ありがとう﹂
51
三フィート幅で、自分の背丈より長いスカーフを広げ、ためつす
がめつ眺めると、綺麗に折りたたんでポーチに仕舞いこみ、少女は
ご機嫌な様子で歩き出す。
﹁とりあえず村までいけば、神官様が怪我をなおしてくださるわ、
ついてきて﹂
﹁待った待った。僕はフミヒロ、フミヒロ・ユウキ、君は?﹂
小走りに小道を走る少女がクルリと振り返って子供っぽい笑顔でニ
カリと笑った。
﹁フミヒロ?変な名前。あたしはアニス・ベイカー﹂
﹁よろしくアニス﹂
森を抜けて十五分ほど歩いただろうか、アニスに連れられて文洋
は小さな村にたどり着いた。ざっと二十件ほどの家と小さな教会が
見える。
﹁あ、おじいちゃんだ! おじーちゃーん!﹂
村の入り口に男性の姿を見つけて、アニスが声を上げて走りだし
た。飛びついたアニスを抱き上げ、老人が文洋の方をいぶかしげに
見つめる。
﹁森の外でみんなでラーシュカの実を取ってたら、ハネとシッポに
領主様と同じ模様のついた飛行機が落ちてきたんだよ! お洋服も
一緒だし、怪我してるし⋮⋮﹂
もどかしいとばかりに、アニスがまくしたてる。
52
﹁そうかそうか、そりゃよくやった﹂
抱き上げていたアニスをおろして、老人が文洋に歩み寄った。
﹁テルミア空軍の方とお見受けしますが?﹂
﹁第一航空隊所属、フミヒロ・ユウキ少尉です﹂
敬礼しようとして、相手が民間人だと気が付き文洋が右手をさし
出す。
﹁ようこそ、少尉、ウォルズ村へ。わたしはグレン・ベイカー、領
主様のご同輩とあらば、歓迎しないわけにはいきませんな﹂
文洋がさし出した手を老人が握り返し笑顔を浮かべる。だが柔和
な笑顔と裏腹に彼の背で鈍く光る、古びたライフル銃を文洋は複雑
な思いで見つめていた。
﹁ねえねえ、なんでやられちゃったの?﹂﹁飛行機ってなんで空飛
べるの?﹂﹁領主様とお友達なの?お兄ちゃんも貴族なの﹂
村の教会で治療を待つ間、文洋は子供たちに質問攻めにあってい
た。質素な教会の石段に腰掛けて、身振り手振りを交え、子供たち
に空戦の話をしてやる。
﹁じゃあお兄ちゃん魔法使いにやられちゃったの?そんなのズルイ
や﹂
羽の下で火球が爆発したところまで話すと、子供たちが一斉に声
をあげる。
53
ズルイ⋮⋮か、
そうとも言えなくはないかと苦笑いをする。
﹁おまたせしました﹂
そうこうするうちに、白地に銀糸の刺繍が入ったローブを着た女
性神官が、貼り付けたような笑顔を浮かべて現れた。
異教徒の外国人兵士⋮⋮まあ扱いとしてはこんなもんだろうと、
文洋も愛想笑いを浮かべて会釈する。
教会内に招き入れられ、聖水で傷口を洗いながら女性神官が額の
傷に手をかざして祈りの言葉をつぶやいた。温かい光があふれ、額
の傷が固まり薄皮がはり始める。
あらかたふさがった傷口に絆創膏を貼り付けると、神官は文洋の
肩に軽く触れ、﹁鎖骨にヒビが入っていますが、これはちょっとう
ちでは﹂と首を横に振った。
礼を言い、ポケットに入っていた小銭を寄附した文洋に、今度は
比較的にこやかな笑みを浮かべた神官が去ると、文洋は再び子供た
ちに囲まれながら教会を後にした。
﹁﹁﹁ねえねえ、兄ちゃんったら﹂﹂﹂
﹁だめっ、フミヒロは怪我してるんだから、いい加減にしなさいっ
!﹂
見かねたアニスが文洋の手をひいて、ツカツカと早足で歩く。﹁
えー﹂﹁アニスずるーい﹂と言いながらも、少女の剣幕に押され、
それ以上まとわりつくのをやめた子供たちを置きざりに、アニスは
54
村外れの小さな屋敷へ文洋を引っ張っていった。
﹁ここが領主様のお屋敷﹂
﹁領主の屋敷?﹂
航空隊に居るなら彼も留守だろう、なぜ連れてきたのかと文洋は
首をひねる。
﹁そう。お屋敷なら電話っていうのがあるから、きっとフミヒロの
助けになると思って﹂
﹁電話があるのか﹂
﹁村ではお医者様を呼ぶときに、お願いして貸してもらうの﹂
﹁いい人なんだな、領主は﹂
微笑みかけたフミヒロにアニスが八重歯を見せて笑う。
﹁そうよ、それに、とってもカッコイイんだから﹂
﹁その人もパイロットなのかい?﹂
﹁ええ、時々飛行機で村の上を飛んでお菓子を落としてくれるの﹂
﹁そうか﹂
奇特な領主も居たものだ。どこかの父に聞かせてやりたいと文洋
は思った。
アニスが無施錠の門を通り抜けて、ドアを叩く。
﹁あら、アニスどうしたんだい?﹂
白髪交じりのメイドがドアから顔を出し、血で汚れた文洋の制服
を見てぎょっとする。
55
﹁ああ、びっくりした、旦那様がお怪我されたのかと思ったよ﹂
﹁ヘレン、この人、領主様の友達なの、森に飛行機が落ちたから電
話を貸してあげて﹂
電話に出た交換手に、基地へつなぐように頼むと通信兵が電話口
にでた。文洋は自分の無事と愛機の状況を連絡して迎えの車と機体
回収の工兵を要請する。しかし、未帰還機の多さに基地も大混乱し
ている様子だった。
﹁どうだった?﹂ ﹁迎えに来てくれるけど、いつになるかは、わからないそうだ﹂
﹁じゃあ、フミヒロは今日はうちにくるといいよ﹂
§
屋敷の帰りも大勢の子供たちにまとわりつかれ、さすがに疲れ切
った文洋はアニスの家に招かれてようやく一息ついた。
汚れた上着を近所のご婦人に洗濯してもらうと持って行ったり、
お茶を入れてくれたりと、ぎこちないが一生懸命に歓待してくれる
アニスを見て、文洋は少し懐かしい気持ちになる。
その夜、黒パンとソーセージ、塩漬け肉と玉ねぎのスープをベー
カー家でごちそうになっていた文洋は、外が騒々しくなったのに気
がついた。基地から迎えが来たのだろうと察しはついたが、折角の
食事の席を立つのも失礼なので、そのまま食事を続ける。
﹁あ、領主様だ﹂
﹁これは領主様﹂
ドアが開くと同時に、アニスとグレンが立ち上がる。モグ、と黒
56
パンを口に入れたまま文洋も立ち上がる。文洋を見てニヤリと笑う
領主の正体を確認して、ちょっと待てと手で合図すると、口の中の
パンを飲み込んだ。
﹁これはこれは、ブライアン卿﹂
芝居がかった一礼をする文洋に、ブライアンが我慢も限界と吹き
出す。
﹁心配して来てみりゃ、ナニ伯爵様がうちの領民から晩飯を恵んで
もらってんだよ﹂
﹁伯爵! フミヒロ偉い人なの?﹂
アニスが目を丸くする。
﹁しょうがないだろ、お菓子が空から降ってこなかったんだから、
なあ、アニス﹂
﹁⋮⋮っつ、グレン、俺もメシ貰ってもいい?﹂
額に手を当てて、一本とられたという顔をしてから、ブライアン
が口を開いた。
﹁私共はかまいませんが、良いのですか? このような所で﹂
﹁いいんだよ、オヤジに怒られてメシ抜きにされる度に、屋敷ぬけ
だしてグレンの家でメシくってたっけ﹂
﹁わーい、領主様と晩ごはんだー﹂
﹁あ、あと外にいる運転手にも食わせてやってくれよ﹂
ポケットからコインを何枚か出すとグレンに押し付けて、ブライ
アンが一緒に食卓を囲む。運転手に駆りだされたらしいバーニー伍
57
長が招かれ、近所の人々も少しずつ料理をもって押しかけて、結局
その日はちょっとした宴会になった。
﹁じゃあフミ、明日迎えに来るわ﹂
早めに村人たちを解散させたものの、文洋に極東の話を聞きたい
とダダをこねるアニスに根負けして、ブライアンがバーニーを連れ
て屋敷に引き上げてゆく。
﹁ねえねえ、極東ってどんな所?﹂
﹁そうだなあ、エルフもドワーフも居ないな﹂
﹁人間しか居ないの?﹂
﹁いや、喋るキツネやハーピーみたいな大きなカラスがいるぞ﹂
枕をぶら下げて文洋の寝台に潜り込んできたアニスに、極東の話
をしてやりながら、ふと、文洋は乳母の娘のユキに同じように、色
んな話を読んでやったことがあったなと思い出した。
ユキも昼間のアニスのようにママゴトよろしく世話をしてくれて
いたっけ。 昼間はしゃいぎすぎて疲れたのか、寝息を立て始めた少女にブラ
ンケットをかけてやると、文洋はランプを消して目を閉じた。
﹁領主さまーまたねー﹂
﹁今度はお菓子もってきてやるからなー﹂
翌朝、子供たちの声を背にして文洋たちは村を後にした。ブライ
アンがバーニー伍長の運転するクルマから身を乗り出して、見送る
村人たちに手を降る。
58
﹁人気者なんだな、ブライアン﹂
﹁名ばかりの貴族の我が家に最後に残った領地だからな、みんな俺
の家族みたいなもんだ﹂
後部座席に立ち上がり、子供たちが見えなくなるまで手を降って、
ブライアンが文洋の隣に腰をおろした。
﹁家族か﹂
﹁ああ、家族だ。ほら、一服やれよフミ﹂
銀無垢のシガレットケースをさし出され、文洋は一本取り上げる。
﹁ありがとな﹂
﹁まあ、お互い生きててなによりだ﹂
ブライアンがブーツのカカトでマッチを擦ると自分のタバコに火
をつける。ブライアンがさし出したタバコから貰い火をして、文洋
も深く吸い込んだ。
﹁﹁まったく、酷い目にあったもんだ﹂﹂
煙を吐きながら、二人で同じグチをこぼして、文洋とブライアン
は笑い声を上げた。ゴトゴトと揺れながら、田舎道を車が走る。
家族か⋮⋮。
麦畑をわたる風の音を聞きながら文洋は痛む肩を抑えて目を閉じ
た。
59
60
魔術師とエルフ
﹁んっ⋮⋮﹂
優しく髪をなでられる感覚にレオナは小さく声をあげた。ローズ
マリーの香りのする柔らかな枕に顔をうずめて、ふわふわと浅い眠
りに包まれたまま、頭をなでられる心地よい感触に身を預ける。
﹁かあさま⋮⋮ルネがね⋮⋮﹂
つぶやいて薄く目を開けた。焦点がぼんやりとしたまま視線が空
中をさまよう。
﹁良かった、気がついて﹂
優しい声にレオナの意識が現実に引き戻された。違う、ここは自
分の屋敷じゃない⋮⋮けだるい感覚のまま、重いまぶたを開ける。
淡い緑の塗料で野ばらの装飾が描かれた、漆喰塗りのドーム天井
が目に入る。
﹁ここは⋮⋮どこ?﹂
そう言いながら、声の主を探して視線を移す。ベッドの傍らに一
人のエルフの女性が座っていた。ハーフアップにまとめた銀色の髪
に翡翠色の瞳、透き通るような白い肌。
なんだか子供の頃に買ってもらったお人形みたい⋮⋮。そう思い
ながら、レオナはもう一度質問を繰り返そうと口を開きかける。
61
﹁ここは私のお家です、だから心配しなくても大丈夫﹂
彼女の視線を受けて、エルフが小首を傾げてそういうと微笑む。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁シルフ達にお願いして屋根を守ってもらっていたら、爆弾じゃな
く女の子が降ってくるんですもの﹂
﹁わたしは⋮⋮﹂
﹁飛行船から落ちてきたのでしょ?﹂
知っててどうして⋮⋮人懐こい笑顔で笑うエルフに、言葉を継ご
うと身体をおこす。
﹁つっ!﹂
力を入れた途端、背中に痛みが走って思わず悲鳴をあげた。
﹁ほら、ちゃんと横になっていないとダメ﹂
そっと肩を抑えられて、レオナはおとなしくベッドに身体を横た
える。
﹁起きていいというまでは、いい子にしてないとダメですからね?﹂
ちょこん、と人さし指でレオナの鼻の頭をつついて、エルフの翡
翠の目がレオナの顔を覗きこむ。なんだか気恥ずかしくなって、ブ
ランケットを口元まで引き上げるとレオナは小さく頷いた。
﹁私は、レオナ⋮⋮あなたは?﹂
62
両手でブランケットのフチを握りしめ、上目遣いにエルフを見つ
める。
﹁私はローラ、よろしくねレオナ﹂
ローラと名乗ったエルフがさし出した手を握り返して、レオナは
安堵のため息をついた。
﹁戦争はバカな男の子たちに任せておけばいいの。さあ、夕食まで
もう少しおやすみなさい﹂
レオナの頬にかかった髪を整えてローラが立ち上がる。
﹁おやすみなさい﹂
部屋を出て行くローラにレオナは小さく返事をして目を閉じた。
§
カラーン・ゴーン
レオナが鐘の音で目を開けると、ドーム型の天井は夕日で綺麗な
オレンジ色に染め上げられていた。開いた窓から澄んだ鐘の音が響
いてくる。
﹁いたっ⋮⋮﹂
痛みに顔をしかめながら、レオナは身体を転がすようにしてベッ
トからおりた。飛行船で着ていたウールの軍服とタートルネックの
セーターの代わりに、レースの利いた生成りの夜着を着せられてい
63
るのに気がつく。
ブーツはベッドのそばに揃えておいてあり、杖もサイドテーブル
に立てかけられている。
﹁ほんとに、助けてくれただけなんだ﹂
魔法の使えるエルフなら、杖の宝玉が何かくらいは、見れば判る
はずだ。ましてやこんな大きな赤水晶なんて普通の人間の持ち物で
はありえない。
拳ほどの大きな赤水晶の中で、白い渦が不定形にうごめくのを見
ながら、レオナはため息をついた。
カラーン・ゴーン
窓の外からまた鐘の音が響く。鹿や鳥をモチーフにした寄木細工
の床を裸足で歩いて、レオナは開いていた窓から外を眺めた。夕暮
れの涼しい風といっしょに、荘厳な、だが澄み切った鐘の音が入っ
てくる。
﹁銀の塔⋮⋮わたし、あれを壊そうとしてたんだ﹂
六百年ほど前に建てられたテルミア王国の象徴。その姿から﹃裁
きの剣﹄とも言われる尖塔は、光の女神テルミアの寝所とされ、北
の大陸の人口の七割が信者にもつテルミア教の総本山である。
宗教が形骸化しつつある今、神官たちですら奇跡を起こせるもの
はまれと言われるこの時代に、レオナたちは触れてはいけないもの
に触れ、神の裁きを受けたのだ。
64
﹁っく⋮⋮﹂
投影板の破片が
ペタリと冷たい床に座り込んで、レオナは両手で顔を覆った。
﹁なんで⋮⋮こんな﹂ 燃えあがるブリッジがフラッシュバックする。
胸に刺さり崩折れる召喚術士、﹁レディが通るぞ﹂という航海長の
声に、さっと脇に避けると、敬礼する血まみれの水兵。
自分に力がもっとあれば⋮⋮彼らを守ってあげられたのだろうか
⋮⋮。
蒼く鈍色に光るドラゴンが天にむかって咆哮すると同時に、まる
で生きているような雷に巻きつかれ、爆散する﹃ルウス・ウヌス﹄
の姿を思い出す。
﹁無理よ⋮⋮﹂
こんなところまで来て、わたしはなにをしているんだろう⋮⋮。
紫の瞳からあふれた涙が、頬を伝う。床に落ちた自分の涙を見て、
レオナのなかで何かが崩れ落ち、子供のように声をあげて泣きじゃ
くった。
﹁⋮⋮大丈夫、どこか痛むの?﹂
どれくらいそうしていたのだろう、陽が落ちて闇に包まれた部屋
でしゃくりあげるレオナの肩に、フワリとショールがかけられた。
フルフルと首を振って、レオナが手の甲で涙をぬぐう。ローラに
65
肩を抱かれて立ち上がると、ベッドに腰を掛けた。
﹁怖かったのね﹂
そう言いながら隣に座ったローラに抱きしめられる。フワリと香
るバラ油の香りと、冷えた身体に染みこむ心地よい暖かさに、レオ
ナはそのままローラの胸に身体を預けた。
﹁ごめんなさい﹂
息が落ち着くのを待って、小さな声でやっとのことで言葉を紡ぐ。
﹁いいの、悲しい時はうんと泣いていいのよ﹂
髪をなでるローラの細い指を感じながらレオナは目を閉じた。
﹁ごめんなさい﹂
小さく息をついて謝るレオナのまつ毛をローラの人さし指が拭う。
﹁温かいスープを作ったの、それを飲んだら背中にお薬を塗ってあ
げるから。あとね、今日は一緒に寝ましょう⋮⋮怖い夢も二人でい
れば怖くないから⋮⋮ね?﹂
いつも自分がルネにするように、頬をなでてローラが自分の目を
覗きこむ。優しい深い緑の瞳に見つめられて、レオナはコクリと頷
いた。
今日は疲れた⋮⋮少しだけでいい、少しだけでいいからこの人に
66
甘えてしまおう。そう思って目を閉じる。開けっ放しの窓から、月
の光と肌寒い風がスルリと入り込んで、レオナの亜麻色の髪を揺ら
した。
§
それから二日ほどは、何事もなく過ぎて行った。ローラが薬草を
煎じて作る薬のおかげか、ぶつけた背中も殆ど痛みを感じなくなっ
ている。
だが、身体が動かせるようになると、どうすれば帰国する事が出
母国では西壁
来るかという事がレオナの脳裏に浮かんでは消えた。
現状、レオナの置かれた立場は微妙なところだ。
の騎士クエステ家と共に、秘密裏に三都連合に協力している事にな
っている。
だが、東西南北、四名の騎士のうち執政官に表立って反抗してい
る西壁の騎士と、実質的に力の失った北壁の騎士、つまりレオナの
家を、あわよくば取り潰してやろうという目論見あっての事だ。
﹁いいですかお嬢様、もはやセプテントリオンの家よりも、お嬢様
と坊っちゃまの命を第一にお考えください﹂
出発の日、執事のクラウスに言われたことを思い出す。自分と同
じ事をルネにさせてはいけない。だが、国に戻る手段がない
﹁わたしも何か手伝わせてください﹂
そんな思いを少しでも忘れようと、レオナはローラに家事の手伝
いを申しでた。難しいことは出来ないが、掃除や料理の手伝い位な
ら自分にも出来る。
67
そんな思いを察してか、ローラもできることから順番に彼女に任
せてくれるようになった。
﹁レオナ、今日はお菓子を作りましょう﹂
一緒に暮らし始めてから三日、ローラがそう言って戸棚からお菓
子の材料を取り出し始めた。
﹁あの⋮⋮ローラ、わたし、今日はわたしに任せてもらってもいい
?﹂
﹁ええ、何か居るものがあるなら言ってね﹂
﹁えーと、お砂糖とアーモンドの粉と、あと卵と⋮⋮﹂
必要な材料を言うレオナの前に、どこから出てくるのか次々に材
料が並んでゆく。
﹁あと、あんずの種のリキュールが少し﹂
﹁ええと、これかしら⋮⋮って空っぽね⋮⋮﹂
ちいさな瓶を棚からだすと、ローラが振ってみせた。
﹁きっとブライアンとフミの仕業ね、あの人たちお酒と見るとなん
でも飲んじゃうんだから﹂
﹁お友達?﹂
﹁ええ、大事なお友達﹂
ショールを止めたブローチをなでながら、彼女がニコリと笑った。
赤水晶にグリフォンのブローチ、名前まで、おとぎ話のお姫様と同
じなんて少しずるい⋮⋮、なんだかよくわからない嫉妬にかられて、
レオナはローラを見つめた。いいな、綺麗だな⋮⋮。
68
﹁どうしたの?﹂
﹁お、お酒は無くてもだいじょうぶだから⋮⋮﹂
﹁いいのよ、すぐ角に雑貨屋さんがあるの、買ってくるわね﹂
羽飾りの付いた帽子をかぶって、バッグを手に取るとローラが手
を振って階段をおりてゆく。レオナも手を振ると、アーモンドの粉
をふるいにかけようと袋を手に取った。
どっちに行くのかな⋮⋮と気になって、二階のキッチンからロー
ラを見送ろうとしたレオナはぎょっとして身をすくめた。
門の前で軍服を着た男とローラが、話をしているのが見える。窓
から見えないように小さくなって、レオナは窓の影からそっと様子
をうかがった。
いつもは優しい彼女が大きな身振りで何か怒っているようだ。
片手をあげて、押しとどめるような仕草をすると、兵士がアパー
トメントの扉をあけて中に入ってくる。
レオナはキッチンのテーブルに立てかけた杖に駆け寄った。
近づく軍靴の重い音にレオナは杖を抱いて目を閉じる。
階下から兵士を呼び止めるローラの声が聞こえる。
ここで揉め事を起こせばローラに迷惑がかかる。でもここで捕ま
ったら⋮⋮。
兵士の後からローラが階段を駆け上ってくる音がする。
レオナはぎゅっとこぶしを握った。
ガチャリとドアが開く、目の前にテルミアの軍服を着た男が現れ
た。
できれば殺したくない、レオナは杖を握りしめる
杖の先に大きな風のハンマーをイメージして杖を振り上げる。
69
殺さないように、ゆっくりと力強く。
﹁レオナ! だめ!﹂
廊下の向こうからローラの悲鳴が部屋に響いた。
70
猟犬と黒兎︽ダークエルフ︾
﹁坊主、機体の回収は三日後、修理はそれからだ﹂
ブライアンと共に基地に戻った文洋は、翌朝、真っ先に機体の回
収をフリント中尉に申し出るも、そう言われてため息をついた。
戦死者二名、重軽傷者八名、稼働機の三分の一を失った第一航空
隊は、使える機体と部品で戦力の回復をはかるのに手一杯で、戦力
化出来るかどうか判らない機体の回収は後回しだ。
﹁おやっさん。この黒塗り、どこの?﹂
つや消しの黒で塗られた偵察機が四機置かれているのを見て、文
洋はフリントに声をかけた。
﹁そいつぁダークエルフ自治区からの増援だ、パイロットが足りな
いってんで頼んだらしい﹂
北大陸最強の精鋭が聞いて呆れる有様だなと思いながら、文洋は
二人乗りの機体を見上げる。
﹁まあ、生きてて良かったと思え、生きてりゃまた飛べる。﹂
そうだな、まあそうだろう⋮⋮。文洋は格納庫を後にした。
§
﹁なんだと!﹂
71
ブライアンを探して待機所を訪れた文洋が、ドアを開けるなり怒
号が響いた。声の方向に目をやるとダークエルフの一団と補充要員
として着任した新米の候補生の一人が睨み合っている。
ダークエルフ
﹁新米の坊やより、あたしらのほうが余程マシだって言ってんのさ﹂
﹁偵察機乗りが偉そうに、しかも黒兎の癖に﹂
﹁もう一回言ってみな、その童貞の粗チン切り取って喉に詰めてや
ろうか﹂
中々の美人から出た、からかいの言葉に、待機所のパイロットた
ちから、どっと笑いが湧き起こる。真っ赤になった候補生が今にも
殴りかからんばかりに拳を握りしめる。
おいおい、穏やかじゃないな⋮⋮、
紳士の社交場が下町の安居酒屋と化しているのに苦笑いしながら、
文洋は候補生に近づくと肩をたたいた。
﹁その辺でやめとかないか﹂
﹁黙れ、俺を誰だと思ってるんだ、この劣等⋮⋮﹂
肩を叩いた文洋を見て、真っ赤な顔をした候補生が暴言を吐く。
肩に置かれた手を掴んだ候補生を、文洋は笑顔のまま片手取四方
投げで床に転がした。
おおっ! と、待機所に声が上がる。
﹁着任早々に営倉入りが嫌なら、口には気をつけろパトリック候補
生﹂
72
名札をチラリと見て、手首を極める手にグイと力を入れる。真顔
に戻って言う文洋に、痛みと驚きで我に返った候補生が階級章を見
て赤い顔を青くした。
﹁し、失礼しました⋮⋮少尉﹂
手を放すと、慌てて立ち上がり敬礼する候補生に答礼して、文洋
はダークエルフの一団を振り返る。突然の闖入者に完全に気をそが
れた様子だ。
﹁ナイトホーク偵察隊、派遣部隊小隊長、ラディア・ラエル・フェ
リアード准尉です﹂
黒い肌に銀色にも見える薄い紫の髪、ラベンダー色の口紅をひい
た唇を引き結び、准尉が敬礼する。
﹁フミヒロ・ユウキ少尉だ、これで手打ちで問題ないな?﹂
答礼して文洋は問いかける。
﹁問題ありません﹂
言ってから、ニヤリと笑うラディアに背を向ける。
﹁ユウキ少尉、先ほどの技、今度、教えていただけますか?﹂
背後からのラディアの問いかけに、右手をあげて返事をすると、
文洋は出口へと向かった。
73
﹁おい、フミ、上手くやったな、今度紹介しろよ﹂
一部始終を見ていたブライアンが、親指を立てて満面の笑みを浮
かべている。このダメ子爵だけは一度ローラに叱ってもらおうと文
洋は肩をすくめた。
﹁ブライアン﹂
﹁どうした﹂
﹁医官殿曰く、二週間の飛行停止で傷病休暇だそうだ、俺の愛機、
おやっさんに頼んどいてくれよ﹂
﹁まかせとけ、子供が遊んで怪我しても危ないしな﹂
回復魔法を付呪した湿布と引き換えに二週間の飛行停止とか、つ
いてないな⋮⋮。上手く行かない時はえてしてこんなものか。
見様見真似の四方投げで部下を投げようとしては、逃げられてい
るラディアを見ながら、文洋は待機所を後にした。
§
基地と王都を一日一往復する補給列車で、十三時に中央広場に到
着した文洋は、劇場前に転がる飛行船の残骸を見上げた。
﹁鯨の丸焼きだな⋮⋮まるで﹂
新聞記事で読んではいたものの、実際に見るとその大きさは想像
以上だ。記事の通りの轟沈ぶりなら、戦死者も沢山出たことだろう。
﹃ハウンドドッグ隊﹄が全力でかかって、撤退させる事すらでき
なかった巨体を、一撃で轟沈させたドラゴンに戦慄を覚えながら、
文洋は残骸の一角に沢山の花束が置かれているのに気がついて空を
仰いだ。
74
空軍の軍服を見た人々にドラグーン隊の活躍を賞賛されながら、
文洋は中央広場からエルフ居住区行きのバスに乗る。
石畳の道から見る町並みは、戦争などどこ吹く風とばかりに活気
にあふれ、時折子供たちが青いドラゴンの人形を手にはしゃいでい
るのが目に入る。
城壁に蔦が絡んだエルフ居住区の入り口でバスを降りる。窓から
手を振る子供たちに、お芝居じみた敬礼を返して、文洋はアパート
メントへ向かった。
傷病休暇と言えばローラは心配するだろう、どう言い訳したもの
だろうかと思いながら。
﹁フミ!﹂
エルフ居住区の外れ、アパートメントの門の前で、文洋は出かけ
るところだったらしいローラとばったりでくわした。
﹁た、ただいま﹂
﹁どうしたんですか? 急に戻ってきたりして﹂
ジトリと目を細めるローラに、文洋はとっさに嘘を付いた。
﹁ちょっと司令部に⋮⋮﹂
﹁嘘おっしゃい﹂
一発でバレた⋮⋮、文洋は背中に冷たい汗をかく。
﹁こんなに湿布の匂いをさせて、それにその額の傷! どうしてそ
んなすぐにばれる嘘を私に付くんですか! そうやって、いつもフ
75
ミは優しい嘘をついて⋮⋮﹂
ローラの剣幕に右手を前に出して、押し留めるようにしながら、
今にも泣き出しそうなローラに文洋はしどろもどろに謝る。
﹁ゴメン、ちゃんと説明するから﹂
﹁当たり前ですっ、とりあえず私が戻るまでキッチンで待ってて下
さいっ!﹂
参ったな⋮⋮と文洋は頭を掻きながら扉を開けて階段をのぼる。
廊下を曲がった所で、名前を呼びながらローラが階下から駆けてく
る音がする。
﹁フミ、待って﹂
なんだろう? と思いつつも、まあキッチンまで行ってから落ち
着いて話をしようと扉を開けたその時、首の後ろにチリリと電気が
走った。
﹁レオナ! だめ﹂
後ろからローラの悲鳴が飛んでくる。
三ヤードほど先に、可愛らしい亜麻色の髪の少女がエプロン姿で
銀色の杖を振り上げている。
杖の先に赤水晶。
考えるより早く身体が動いた。
つい、っと膝の力を抜いて前に足を運ぶ。 一瞬で間合いを詰められ少女が驚愕の表情をみせた。
振り下ろそうとする杖の先を右手で押し込む。
76
左手でエプロンの襟元をつかんだまま脇を抜ける。 拔けざまに少女の膝裏に左足をかけて重心を落とし、文洋はスト
ンと少女を床に転がした。
﹁いっつ﹂
怪我をさせないように襟元をひいた途端、左肩に走った激痛に顔
をしかめながら、文洋は目を丸くしたまま固まった少女を覗きこん
だ。綺麗な紫の瞳。
﹁君⋮⋮、もしかして⋮⋮﹂
パン!
言いかけたところで、杖を離した少女の平手打ちが、綺麗に文洋
の頬に入る。
﹁放しなさい、無礼者っ﹂
大して痛くは無かったが、涙目の少女に必死の形相で睨まれ、文
洋は左手をそっと手を放す。
﹁だめ、フミっ﹂
放した所で、キッチンに飛び込んできたローラに勢い良く後ろか
ら飛びつかれ、文洋はバランスを崩して少女の上におおいかぶさっ
た。
﹁放して、放しなさいったら、この変態﹂
﹁変態っておい。ローラ、とりあえずどいて﹂
77
﹁だめ、フミ、レオナをいじめちゃだめっ﹂
﹁いや、とりあえず、痛い、痛い、そこ痛いから﹂
§
﹁それで、フミはどうして急に帰ってきたんですか?﹂
湯気の立つティーカップを前に、文洋はローラに情報部もかくや
という尋問を受けていた。レオナはといえば、何やらキッチンで料
理に励んでいる。
﹁えーとそれはデスネ﹂
﹁フミ?﹂
仕方なしに、文洋は撃墜された経緯をポツポツとローラに話し始
めた。
﹁それで、怪我をして、二週間の休暇を頂いたということですね?﹂
﹁ハイ⋮⋮﹂
ふうっと息をついて、ローラが目を伏せた。尖った耳が心持ちシ
ョンボリとしている。
﹁良かった、生きて帰ってきてくれて﹂
顔をあげて、いつものように優しくローラが微笑んだ。
﹁えーと、それで、彼女のことなんだけど⋮⋮﹂
メレンゲを泡立てていたレオナがギクリとして心配そうにこちら
78
を見つめる。
﹁飛行船から落ちてきたから、私が保護しています﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
泡立て器を置いて、そーっと杖に手を伸ばすレオナに文洋は苦笑
いして手を振った。
﹁大丈夫だよ、居住区の城壁からこっちは警察も軍も手を出せない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
キツネに摘まれたような表情でレオナが文洋を見つめる。
﹁あの壁からこっちは。セレディア・エリフ共和国、軍にはなんの
権限もないし、そもそもテルミア王国ですらない﹂
ローラがカモミールティーを一口飲んで立ち上がると、レオナに
歩み寄ってギュッと抱きしめた。
﹁だから言ったでしょう?ここは私のお家なんですから、安心して
暮らしていいんです﹂
﹁ついでに言うと、君にこの間氷をぶつけられたど、空の上の事は
恨みっこなしだ﹂
背後から抱きしめるローラと、そう言ってお茶を飲む文洋をレオ
ナが表現しがたい表情で交互に見つめる。
﹁⋮⋮くっ﹂ 緊張が解けたのか、レオナが泡立て器を片手にポロポロと泣き始
79
めた。
﹁フミ!﹂
﹁え、お、俺のせい?﹂
﹁怖かったのよね?﹂
コクリとレオナが頷く。
﹁いや、うん、まあそれは、俺のせいではあるけれも﹂
﹁ほら、ご覧なさい﹂
やりとりに、ローラに抱きしめられたレオナが、泣きながら笑う。
﹁まあ、どっちにしても小さな子を軍に突き出したりしないよ﹂
その一言でレオナに睨まれた気がして、文洋はお茶をすすると、
少女から目をそらした。
80
エルフと魔術師
朝六時半、隣で眠るレオナを起こさないようにそっとベッドを抜
けだすと、ローラは朝食の準備を始めた。
自分一人ならサラダとトーストで済ましてしまうところだが、育
ち盛りのレオナと、いつもローラの料理を楽しみにしているフミが
いれば、それだけでは物足りないだろう。
なんだか妙な使命感に燃えている自分が可笑しくて、エプロンを
付けながら苦笑いする。
﹁ローラ、私も手伝う﹂
サラダの野菜をちぎり始めたところで、亜麻色の髪を後ろで縛っ
たレオナがキッチンに入ってきた。
﹁あら、起こしちゃった? まだ寝てていいのに﹂
﹁いいの、何か役にたちたいから﹂
この子を焦らせているのはなんだろう?思いつめた表情のレオナ
に少し違和感を覚えながら、ローラは掛けてあったレオナのエプロ
ンを手に取った。
﹁じゃあ、お手伝いしてもらおうかしら、ほら、あっちを向いて﹂
﹁じ⋮⋮自分で付けられます﹂
赤くなる少女の後ろに回って、ローラはエプロンの腰紐を綺麗に
リボン結びにする。
81
﹁戸棚に入っている豆の缶を開けてくれる?﹂
卵を割ってボールに落としながら、ローラは引き出しから缶切り
を出してレオナに手渡した。椅子に乗って戸棚からベイクドビーン
ズの缶を取り出すレオナに、妹ができたような気がしてなんだか少
し嬉しくなった。
バターをフライパンに落とすと甘い香りがキッチンに広がる。ロ
ーラが﹃風の歌﹄を口ずさむと、開けた窓をシルフが覗きこみ、そ
よ風を吹かせはじめた。
﹁ローラ、これ意外と難しいのだけれど⋮⋮﹂
実をいうと、缶詰を開けるのはローラも苦手だった。どうして人
間は、あんなブリキの入れ物に食べ物をしまってしまうのだろう、
豆を水で戻さなくていいのは助かるけれど⋮⋮。
﹁じゃあフミにやってもらいましょう﹂
﹁起こしてきたほうがいい?﹂
テーブルに缶詰を置いて、レオナが少し不安そうにローラを見上
げる。昨日の今日だ、仕方ないかな⋮⋮思いながら、ローラは首を
横に振った。
﹁いいわ、フミったら、いくら夜風は身体によくないっていっても、
暑いからって窓を開けっ放しで寝ちゃうの﹂
﹁それで?﹂
不思議そうな顔をするレオナにウィンクして、ローラは先程より
声量をあげて﹃つむじ風の歌﹄を歌う。
窓から覗きこんでいたシルフが古代語の歌詞にのって、空中で踊
82
りながら、階上に向かって姿を消した。
間髪を入れずドタドタと階上で音がする。階段を駆け下りてくる
フミの足音。
﹁ローラ! 部屋の中で竜巻起こすのは勘弁してくれ、頼むから﹂
﹁知りません、窓を開けたまま寝るからそういうことになるんです﹂
ローラはレオナと顔を見合わせて笑う。
テーブルの上の開けかけの豆缶と缶切りに気づいて、文洋が合点
がいったとした顔をすると、キコキコと器用に缶詰を開けはじめた。
﹁図書館に本を返してくる﹂
﹁ケガしてるんですから、今日はちゃんと帰ってくるんですよ?﹂
ベーコンとベイクドビーンズのオムレツ、中庭の菜園でとれたハ
ーブ入りのサラダとバゲットで朝食を済ませて文洋が自転車にのっ
て出てゆくのを見送ってローラは空を見上げた。雲ひとつ無い澄ん
だ空に一羽の隼が円を描いて舞っている。
今日も暑くなりそうだなと思いながら、涼しいうちに中庭の世話
をしようとローラはアパートメントに引き返した。
皿洗いをレオナにまかせて、ローラは中庭の手入れを始める。伸
びすぎたローズマリーを詰んで籠に入れる。ガーベラとラベンダー
を切って束にすると、ガーデニングテーブルの花瓶に活けた。
午後からはレオナが焼いてくれたアマレットを食べながら、一緒
にお茶にしようと思う。すっかり懐いてしまったシルフが花畑を揺
らして、くるくると踊りながらついてまわる。風の歌を口ずさみな
がら、ローラはとても幸せな気分に浸っていた。
83
ふと気がつくと、中庭の入り口にレオナが立っていた。亜麻色の
髪に、紫の瞳、白のフリルのついたブラウスにレースの利いた黒の
ジャンパースカート、何着かとっておいた子供の頃のドレスだが、
似合ってよかった思いながら、硬い表情が気になって、ローラは手
を止める。
﹁ローラ、相談が⋮⋮あるのだけれど⋮⋮﹂
思いつめた顔でレオナが口を開いた。
﹁どうしたの?﹂
樫の木陰に置かれたベンチに座るように促して、ローラもレオナ
の隣に腰掛ける。
﹁なんとかして国に戻りたいの、力を貸して﹂
俯いて膝の上でぎゅっと拳を握るレオナを見て、ローラはただな
らぬ何かを感じた。
﹁レオナ、三都同盟の国境を超えるのは今はとても困難よ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁アイナス、ツバイアス、トライアス、同盟のどこに行くにも第三
国経由だし、レオナは旅券ももっていないでしょう?﹂
﹁⋮⋮違うの⋮⋮﹂
俯いたまま、レオナが小さくつぶやいた。
﹁違うの?﹂
84
こくりとレオナがうなずく
﹁私が帰りたいのは、アリシア。いいえ、帰りたいんじゃないわ、
ルネを⋮⋮弟をアリシアから連れ出したい⋮⋮﹂
絞りだすようにレオナが言う。
﹁⋮⋮エレナはアリシアの貴族かなにか?﹂
拳ほどの赤水晶を見た時から、不思議に思っていたことをローラ
は尋ねた。顔を上げて、レオナがまっすぐに見つめてくる。
しばしの沈黙の後、レオナが覚悟を決めたように口を開いた。
﹁私はレオナ・エラ・セプテントリオン、アリシアの四騎士の一人
です﹂
魔法王国の四騎士、おとぎ話の時代からアリシアを守り続けてき
た名家だ、名前だけなら世俗に疎いローラでも知っている。
それでも、いくら名家にしたって、こんな少女まで戦争にかりだ
すのはどうかしてる。そう思いながらローラもレオナの目を見つめ
た。
レオナの紫の瞳がまるで心を見透かすように、力強く、まっすぐ
に見つめ返してくる。
嘘では無いようだ⋮⋮ローラは空を仰ぐと、木漏れ日を仰いだ。
﹁詳しく話をきかせてくれる?﹂
⋮⋮レオナの話に矛盾はなさそうだった。子供たちだけになって
85
しまったセプテントリオン家を取り潰して、領地と権益を手に入れ
ようというのはいかにも欲深い人間が考えそうなことだ。
極秘裏にという名目で、身分証も旅券も、正規の軍籍すら無い状
態では、捕虜になることすら難しい。スパイの汚名を着せられたら、
よくて死刑だ。
そして人間の数倍の寿命を持ち、人と似ているが人ではないエル
フだからこそ、身寄りのないこうした少女がどうなるか、ローラは
嫌というほど知っていた。
ここ数十年で表向き奴隷制度は無くなったが、それに近い行為は
まだ行われていることも知っている。胸が悪くなるような話に唇を
噛んで、ローラはもう一度空を仰いだ。
﹁レオナ、いい? それ相応の覚悟が必要よ?﹂
﹁助けてくれるの?﹂
すがるような目に、ローラは首を横に振る。
﹁いいえ、私は手伝うだけ。使えるものは何でも使って手伝ってあ
げる。でも、誰かを助けたいならレオナも覚悟を決めてかかりなさ
い、死ぬかもしれないし、それより辛い目にあうかもしれない﹂
切れ長の目を伏せて、レオナがうつむいた。
ザワリと梢を鳴らして風が吹き抜ける。
﹁それでも、私に残された最後の家族だから﹂
﹁領地も、財産も捨てる覚悟が必要よ?﹂
﹁領地も財産も要らないわ。執事のクラウスに言われたの、まずは
生きることを考えろって﹂
86
いい使用人を持ったようだとローラは思った。彼女らがいなくな
れば使用人はたちまち失職するのだから。
﹁わかりました、じゃあまず旅券をなんとかしなくちゃね﹂
﹁ありがとう、ローラ、ほんとうに⋮⋮ありがとう﹂
門扉の開く音がして、階下で自転車を停めるガチャンガチャンと
いう金属音がにぎやかに響く。ローラはレオナに目配せして、お茶
の準備を始めた。
﹁フミ、お願いがあるのだけれど﹂
お茶の時間に合わせて帰ってきた文洋にローラは冷たいレモネー
ドを渡して笑顔で話しかける。
﹁ん? どうしたのローラ﹂
外から戻ったので暑かったのだろう、レモネードを美味しそうに
飲む文洋にをローラは上目遣いで見つめて言葉を継ぐ。
﹁私と結婚しましょう﹂
ブフォッツ、と派手な音を立てて、文洋がむせた。
﹁な⋮⋮なんて?﹂
咳き込みながら、涙目で聞き直す文洋に、ローラはもう一度笑顔
で繰り返す。
﹁だから、私と結婚しましょう。んー、しなさい﹂
87
﹁いやいや、ローラさん?﹂
目を白黒させる文洋に、ローラは事の次第を打ち明けた。レオナ
がアリシア王国の騎士であること、セプテントリオン家を執政官が
潰そうとしていること、レオナを養女にすれば、共和国の旅券を得
ることが出来る事。
﹁つまり、レオナを養女にするのに、共和国の法律では独身だと無
理だから俺に旦那になれと?﹂
﹁だめ?﹂
小首をかしげてローラが問いかける。こめかみを抑えて、文洋が
目を閉じた。
﹁俺が一人でアリシアいって、レオナの弟を誘拐してきちゃダメで
すかね?﹂
﹁執事のクラウスを相手に回してルネを誘拐するなら、一個分隊で
も足りないと思います﹂
その問いにレオナが答える。
﹁君に手紙を書いて貰っても?﹂
﹁執政官がセプトリオン家を潰すために、どんな汚い手でも使って
くるのはクラウスが一番知っていますから﹂
﹁フミ⋮⋮私のこと嫌いなのですか?﹂
やりとりに、ローラが小さな声で割り込んだ。
﹁ちょっと、いや、待ってローラ、そういう話ではなくて﹂
88
慌てる文洋にレオナと目を合わせて、ローラはクスリと笑った。
ため息をついて文洋が目を開く。
﹁明日から俺は所帯持ちで、その上、妹みたいな年齢の娘のパパっ
てことで﹂
多少すてばち気味に言いながらも、断らないところがフミらしい。
レオナの手を握ってローラは思う。
﹁そうと決まれば、明日お役所にいきましょう﹂
﹁とりあえず、その救出計画、ブライアンのバカにも手伝わせます
けどいいですね?﹂
⋮⋮ブライアンが知ったらどんな顔をするだろう。
思いながらローラは内心、ワクワクしている自分に驚いていた。
89
子爵と黒エルフ
﹁以上、第一航空隊は前回の戦闘を鑑みて、二〇〇マイル南東の要
塞都市レブロクの基地へ移動する﹂
長々と続いたブリーフィングにアクビを噛み殺しながら、ブライ
アンは斜め前に座る薄紫色の髪をした、ダークエルフの肩をつつく。
﹁⋮⋮?﹂
怪訝な顔をして振り返えったラディア准尉に、耳打ちする。
﹁このあと、昼飯とか一緒にどう?﹂
ニコリと笑って小さく手招きをして、耳を貸せというラディアに、
ワクワクしながら身を乗り出したブライアンの耳元で、ラディアが
セクシーな声でクスッと小さく笑ってからささやいた。
﹁⋮⋮おととい出直しあそばせ、このクソ少尉殿﹂
ラディアが転属になってきてから、手をかえ品をかえ口説いてい
るものの、冷たくあしらわれているブライアンは、ブリーフィング
ルームを出ると、今日もダメだったなあと、背伸びをする。
﹁ブライアン・エル・ウォルズ少尉!﹂
ご丁寧に前置詞まで付けて自分の名前を呼びながら駆け寄ってく
る少年兵に右手をあげて応える。
90
﹁フミヒロ・ユウキ少尉からお電話が入っております少尉、二番に
つないであります﹂
﹁ごくろうさん、あと、ブライアン少尉でいいぞ少年﹂
﹁はっ! ウォル⋮⋮いえ、ブライアン少尉﹂
きびす
あたふたしながら、踵を返して戻ろうとする少年兵が、後から出
てきたラディア准尉にぶつかって尻餅をついた。
﹁し⋮⋮失礼しました、准尉どのっ!﹂
﹁大丈夫かい?慌ててるとケガするよ﹂
手を伸ばして立ち上がらせ、少年兵の襟元を直してやるラディア
と、されるがままに顔を真っ赤にして直立不動の姿勢を取る少年を
見て、ありゃ坊主は今夜ベッドの中でイチモツが直立不動だなとバ
カな事を考えながら、ブライアンは電話機へと向かった。
﹁どうした、フミ? 休暇三日目で電話とか、寂しくなったか?﹂
手回し式の電話機に向かって軽口を叩く
﹁ああ、ブライアン⋮⋮相談があってな、何日か休めないか?﹂
文洋の声に、何かあったと直感してブライアンは声のトーンを下
げる。
﹁新聞に出てる通り、ドラゴンの一件で、天罰が下るのをビビっち
まったのか、テルミアの星誕祭が終わるまで休戦になったからな、
適当に仮病もまぜりゃ一週間くらいは何とかなると思うぞ?﹂
﹁相変わらずいい加減な子爵様だな、まあいい、わかった、よく聞
91
いてくれ﹂
﹁さっさと言えよフミ﹂
せっつくブライアンに電話の向こうで文洋が深呼吸して切り出し
た。
﹁嫁ができた﹂
﹁はぁ? なんの冗談だそりゃ﹂
﹁いや、真剣な話だ、嫁と子供ができたんだ﹂
真面目な文洋にしてはおかしな冗談を言うものだと思ったが、手
の込んだ冗談をいう奴でも無いと思い直す。
﹁とりあえず、面白そうな話だから、今から医務室行ってくるわ﹂
﹁すまん、恩に着る﹂
﹁まあ、いいってことよ、あとお前の機体な、昨日バーニー達が引
き上げに行ったぞ。﹂
﹁そうか!﹂
途端、声を明るくする文洋に、ほんとコイツは飛行機バカだなと
苦笑いした。
﹁また連絡するからな﹂
§
受話器を置いて、ブライアンは待機所に降りると、片隅に集まっ
てコーヒーを飲んでいるダークエルフの集団に歩み寄った。
﹁ラディア准尉、二つ頼みがあるが聞いてくれるか?﹂
92
﹁昼食のお誘いならお断りします﹂
にこやかにきっぱりと断るラディアに周囲から失笑が漏れる。小
さく肩をすくめ、片方の眉をひょいと上げてブライアンは言葉を継
いだ。
﹁明日から休暇に入るので、俺の﹃スコル﹄をレブロク基地まで頼
みたかったんだがな﹂
ザワリと、顔を見合わせるダークエルフ達に、ブライアンは笑顔
で言葉を続ける。
﹁俺の相棒のと合わせて二機なんだが、ダメかな?﹂
コトン、とコーヒーカップを置いて、ラディアが立ち上がる。す
っと背筋を伸ばして敬礼、褐色の肌に皮のジャケットがよく映える。
﹁よろしいでしょうか?﹂
﹁聞こう、准尉﹂
ブライアンも真顔に戻って、答礼する。
﹁何故我々を指名されるのでしょうか?飛ばすだけなら候補生でも
十分かと思われますが﹂
琥珀色のラディアの瞳がブライアンをまっすぐに見つめる
﹁准尉、俺もフミ⋮⋮っとユウキ少尉も、自分の愛機をとても気に
入ってるし大事にしている﹂
﹁はっ﹂
﹁それが理由では不満かい?﹂
93
その返答に、ラディア准尉のラベンダー色のルージュから白い歯
がこぼれる。
﹁一機は私が、もう一機も腕利きに操縦させて、必ずレブロク基地
までお届けします﹂ 差し出されたラディアの手を握って、ブライアンはニコリと笑っ
た。
﹁もう一つは何でしょうか?﹂
﹁ああ、それだがな⋮⋮﹂
先ほどラディアがしたように、チョイチョイと小さく手招きをす
ると、耳元でブライアンは小さく囁いた。
﹁⋮⋮﹂
目を丸くしてラディアが吹き出すと、ブライアンの腕をバンバン
と叩く。
﹁了解しました、少尉、確かに二点、承りました﹂
おどけて敬礼するラディアに、自分から手を差し出して再度、握
手するとブライアンは医務室に向かった。
§
﹁まあ、ブライアン、久しぶり!﹂
94
領地の小さなワイナリーで作ったワインと、中央駅の広場で買っ
てきたチーズケーキを手土産に、アパートメントを訪れたブライア
ンを、いつものように笑顔のローラが迎える。
﹁やあ、ローラ、今日も綺麗だね﹂
﹁ありがとう、ブライアン﹂
ローラとデート出来るなら今の恋人は全部なくしてもいいな、い
やまて、居酒屋のドロシーは捨てがたい。そんなことを思いながら、
ブライアンはいつもどおり軽口をたたいた。
﹁こんどデートしようぜ?﹂
そう言って、ブライアンはローラにウィンクする。
﹁んー、ダメよ﹂
﹁なんでさ、いいじゃん﹂
﹁だって、私、フミの奥さんになったんだもの、旦那様に怒られち
ゃう﹂
﹁へ?﹂
ポカンと口を開けて、ブライアンは頬を染めてうつむくローラを
見つめた。
こころなし垂れた耳が可愛い。いや、そこじゃない。
﹁お客様?﹂
声に視線を移すと、大階段の上からフリルの利いたブラウスに、
レースの利いた黒のジャンパースカートを着た美少女がトテトテと
降りてくる。
95
﹁ブライアン・エル・ウォルズ子爵様、フミの⋮⋮いいえ、お父様
のご学友で、お友達﹂
ん? お父様? 聞き間違いだろうと軽く流して、ブライアンは
ローラの後ろに隠れるようにして立つ少女を見つめた。亜麻色の髪
に紫の瞳。少し気は強そうだが、なかなかの美少女だ
﹁こんにちは、ウォルズ子爵様、レオナと申します、以後お見知り
おきを﹂
ローラに肩を抱かれて前に出された少女が、スカートの裾を摘ん
で、チョコンと可愛らしく膝を曲げ挨拶した。
﹁あ、ああ、こちらこそよろしく、えーとレオナ﹂
何がなんだか判らないまま、レオナの右手を取ると軽くキスをす
る。
﹁それでね、ブライアン、この子、私の娘なの﹂
﹁へ?﹂
もう訳が判らなかった。フミとローラが結婚して、娘が居るとか
⋮⋮なんだそりゃ。
見上げる少女に、優しく微笑むローラ。年の離れた姉妹になら見
えなくもない。
ローラがエルフなのを考えると実は子供の可能性も⋮⋮いや、ど
うみてもレオナは人間にしか見えないしな⋮⋮。
﹁フミは?﹂
96
﹁自分の部屋にいますよ﹂
とりあえず、アイツに全部説明させよう、そう思ってブライアン
はアパートメントの階段を駆け上った。
﹁フミ! とりあえず、どういうことだ、どういうことだ?﹂
ノックもせずにドアを開けると、ブライアンは文洋に詰め寄って
襟元を掴むと冗談半分に揺さぶった。
﹁ちょっ、まて、ブライアン落ち着け﹂
﹁落ち着いていられるか、いつからだ、いつローラに手を出した、
抜け駆けしやがって、このロクデナシ﹂
﹁だから、落ち着けブライアン、っつか痛い﹂
シャツの隙間から、肩にまかれた包帯が見えてブライアンは慌て
て手を放した。
﹁おっと、すまん﹂
﹁とりあえず、俺もどうしてこうなったか混乱してるが、説明でき
るところから話すから、聞いてくれ﹂
§
﹁で、とりあえずだ﹂
ダイニングで美味しそうにケーキを食べながら、会話を弾ませる
ローラとレオナ横目に、ブライアンは文洋のグラスにワインを注い
だ。
97
﹁ローラがかくまったレオナを養女にするために、お前とローラが
結婚して、お嬢ちゃんにセレディアの国籍を取ってやったと?﹂
﹁戦災孤児の扱いにしちまえば、戸籍はどうでもごまかせるからな、
ましてや後見人が元老院議員の娘だ﹂
ワインを煽り、文洋がテーブルに置かれた鳩のパテに手を伸ばす。
﹁しかしよくセレディアの国籍がとれたな﹂
﹁エルフはあくまで家系単位の戸籍簿らしい、役所の戸籍上はレオ
ナはローラの家に入った形になってる。俺の国では結婚すると、夫
婦のどっちかを籍に入れないとまずいが、まあそこは黙ってりゃい
い、地球の裏側だからな﹂
ならば、まあ旅券自体はソコソコの信頼性が担保されてるという
ことかとブライアンは思った。極東の新興国の扶桑の旅券と、北大
陸最古の国セレディアの旅券では信頼性に格段の差が有る。
﹁一歩間違うと重罪だ、断ってくれてもいいんだぞ、ブライアン?﹂
グイとワインを飲み干して、文洋が言う。
⋮⋮セプテントリオン家と執政の顛末、弟の救出作戦の概要、全
部話しといて、断ってもいいは無いだろ。こんな楽しそうな話。
思いながらブライアンは、固唾を飲んで見守るローラとレオナに
ニヤリと笑った。
ナイトオブザスカイ
﹁飛行機野郎が、お姫様と子供たちを護らないで、何を護るってん
だよ、任せとけ﹂
98
レオナを抱き寄せて喜ぶローラと、彼女の腕の中でなんだか少し
拗ねた表情のレオナにグラスを掲げて、ブライアンはワインを飲み
干した。
﹁で、ブライアン、何日休めるんだ?﹂
文洋がグラスにワインを注いで問いかける。
﹁医務室のエレイン先生いんだろ﹂
﹁ああ、あの金髪美人な﹂
﹁お願いして、ちょいと十日ほど病気になってきた﹂
﹁お願いしてなあ⋮⋮﹂
キョトンとするレオナと、半目で呆れるローラをよそに、ブライ
アンはグイとグラスを飲み干す。
まあ、何はともあれ、楽しそうなことになってきたなと思いなが
ら。
99
猟犬と紅薔薇
﹁ローラ、イルカよ﹂
﹁あら、本当に! フミ、ブライアン、イルカよ、イルカ!﹂
レオナとローラが舷側と並走して飛び跳ねるイルカにはしゃいだ
声をあげる。
軽く手をあげて返事を返すと、文洋は手にしたスパークリングワ
インを煽った。
﹁よく借りられたな﹂
文洋は二本マストの大型ヨットを、事も無げに借りてきたブライ
アンを驚き半分、呆れ半分で見つめた。
季節風にの乗って南東に走るトップスル・スクーナ﹃ウィンド・
オブ・デルティック﹄は乗組員二〇名、全長で一〇〇フィート近い
大型のヨットだ。
﹁まあ、あれだ。親戚の伯爵が一昨年亡くなってな、未亡人になっ
た伯爵夫人のご好意で借りてきた﹂
ご好意⋮⋮か、物は言いようとはよく言ったものだ。
ローラとレオナの隣で、にこやかに手を振る三十半ばの夫人に、
ブライアンが大仰な身振りで礼をした。 レオナを見るなり気に入ったのか、伯爵夫人は自分の娘のように
可愛がってくれている。なんだか、騙したような気がしてチクリと
心が傷んだが、他に手がない以上仕方あるまい。
100
﹁まあ、借りたというより、社交界で知らぬ者の無しのソールベル
伯爵婦人のバカンスに便乗だな﹂
グラスを煽ってブライアンが言葉を継いだ。
﹁この時期のバカンス地としてアリシアは悪くないし、使用人も入
れれば三〇人以上の大世帯だ、一人や二人増えた所で目立たんよ﹂
﹁ただ、逆にどうやって別行動するか口実は考えとかないとな﹂
﹁お前とレオナが恋の逃避行とかどうだ?﹂
バカをいうなと肩をすくめてから、それくらいの大胆さがないと
何ともならない話だろうなと、空を見上げる。
テルミア王国最南端の港町から出港して三日、夏の観光地として
有名なアリシア島にむかって、オークとマホガニー、ローズウッド
と真鍮、磨き上げられた豪華ヨットは、白い帆を広げて翼が生えた
ように走り続けていた。
§
カモのローストをメインに船上でよくぞここまで⋮⋮というよう
な豪華な夕食の後、文洋はブライアンと自室で上陸計画を練ってい
た。
ローズ・ソールベル伯爵夫人ほどの要人ともなれば、入国審査自
体はさほど大した事はない。ほぼフリーパスに近いと言っていいだ
ろう。
問題は有名人の部類に入るレオナをいかに密入国させて、弟を連
れて脱出してくるかの一点に絞られる。
﹁フミよ、レオナの言うところによると、屋敷への抜け道はあるん
101
だよな?﹂
﹁ああ、古い城だからな、いざという時の抜け道のたぐいはあると
聞いてる﹂
﹁なら、一番の問題は帰りだな﹂
タバコに火を付けて、ブライアンが腕を組む。レオナの館はもと
よりアリシア王都の北壁と一体となった城塞である。彼女の魔法が
あれば城壁から飛び降りてでも海にはおりられるだろう。
﹁日が暮れるまで屋敷に潜んで、ボートで回収してもらうのがベス
トだがな﹂
ウイスキーを一口舐めて、文洋も波に揺れる小さなシャンデリア
を見上げた。
﹁伯爵夫人をどうだまくらかすか⋮⋮だよなあ﹂
コンコン
聞こえていたかのようなタイミングでのノックに、文洋とブライ
アンはビクリと飛び上がった。目配せして、ブライアンが扉を開け
る。
そこには眼鏡を掛け、そばかすのあるメイドが、うつむきがちに
立っていた。
﹁夫人がお待ちです、上までおいでください﹂
か細い声で言うと、小さく礼をする。
安堵のため息をついて、ブライアンが文洋を振り返った。
102
﹁夫人がお待ちだそうだ⋮⋮﹂
§
薄いブルネットの髪を一本おさげにしたメイドの背中に、ふと既
視感を覚えながら文洋は船の中央部にある夫人の船室へと案内され
る。
﹁ようこそ、坊やたち﹂
昼間はアップにしていたブルネットの髪をおろした、伯爵夫人に
勧められ、文洋とブライアンはソファーに腰掛けた。
﹁ブランデーを、持ってきて頂戴﹂
﹁はい、奥様﹂
小さな声で返事をして、隣の間にメイドが下がる。
﹁さて、坊やたち、どんなイタズラを考えているのか、そろそろ聞
かせてもらおうかしら﹂
紫の夜着にナイトガウン、なかなかに扇情的な格好の夫人が肘置
きに片肘をついて、カウチにゴロリともたれかかった。
﹁何のことですか?伯爵夫人﹂
﹁おだまりなさい、ブライアン。ほんとにいつも、どうしようもな
い子﹂
鎧袖一触、ブライアンが撃墜される。
103
﹁ブライアン⋮⋮﹂
﹁フミ、可哀想なモノを見る目で俺を見るのはやめろ﹂
おどけたやりとりに、ワインレッドのルージュを引いた唇がニコ
リと微笑む。
﹁それで、フミヒロ・ユウキだったかしら? 貴方はどうなの?﹂
頬杖をついて、ウェーブの掛かった黒髪の間から、鳶色の瞳が文
洋を見つめる。
一か八か⋮⋮。
まっすぐに彼女を見つめ返して、文洋は口を開いた。
﹁伯爵夫人﹂
﹁ローズでいいわ、フミヒロ﹂
悪戯っぽく伯爵夫人が笑う。
﹁では、ローズ⋮⋮娘のために力を貸して頂きたい﹂
まっすぐに座り直し、膝の上に手を乗せて文洋は頭を下げた。
しばしの静寂に、船腹を叩く波の音だけが響く⋮⋮。
ンフッ、と小さく笑うように伯爵夫人が小さく息を吐く。
﹁いいわ、貴族としては賢い方法とは言いがたいけれど⋮⋮愚直で
誠実な男はわたくし大好きよ。そこのオバカな子犬みたいな子爵も
含めてね﹂
ポカンとする二人の様子に、声を上げて笑いながら、伯爵夫人が
テーブルから呼び鈴を取り上げて鳴らした。チリン、と澄んだ音が
104
響く。
﹁はい、奥様﹂
小さな声で返事をして、先ほどのメイドが入ってくる。
﹁唐変木だけど、まあ及第点にしといてあげる。でも、どうせなら
パパにするんじゃなくて、こういう、真面目なバカのお嫁さんにな
った方がいいわね、レオナ﹂
入ってきたメイドに、伯爵夫人が声をかけて笑った。
﹁お⋮⋮およめさん⋮⋮?﹂
﹁﹁レオナ?﹂﹂
慌てた拍子に、おとなしい小さな声が、普段通りの声にもどった
メイドがレオナだったことに気がついて、文洋とブライアンは二人
揃って声を上げた。髪と眉を染め、そばかすを描いただけで、すっ
かり騙されていたというわけだ。
﹁だめですよ、フミは私の旦那様なんですから﹂
隣の間からメイドのエプロンドレスを着たローラが、ブランデー
とグラスをお盆に載せて入ってくる。
﹁﹁ローラ?﹂﹂
してやられたという顔の二人をカラカラと笑い飛ばして、伯爵夫
人が文洋とブライアンにブランデーグラスを差し出した。
105
﹁まったく、男の子ってのは可愛いわね﹂
﹁いつまでも、子供なだけです﹂
﹁およめさん⋮⋮﹂
§
﹁こんなカワイイ子が時々、海を見て悲しそうにしてたら、何かあ
ると気がつくでしょう?﹂
テルミアの標準時間で二三〇〇時、狭い船室から、ダイニングの
あるキャビンへと場所を移し、船長をを含めて作戦会議が行われて
いた。
﹁でも、この子ったら意地っ張りだから、どうしても理由を教えて
くれないし﹂
﹁あ、あの⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁そこで思い出したのよ、昔、この子によく似たお友達がアリシア
にいたなって。それで、レオナが一人で海を見てる時に、後ろから
エラ・セプテントリオン、って呼びかけたらこの子、返事をして振
り返るんですもの﹂
真っ赤になって小さくなるレオナを横からそっと抱きしめて、ロ
ーラが頭を撫でる。
﹁そうして、やっと事情をきいたら、あまりに酷い話じゃない?ほ
んと、大人ってなんでこうなんでしょうね﹂
社交界に知らぬ者なし、ってのは伊達じゃないらしいと文洋は感
心する。
106
テルミアの舞踏会なら、なんどかブライアンに付き合って顔を出
したが、ああ人が多くては誰が誰かなど、まったく覚えていないと
いうのが本音のところだ。ローズほどの才媛なら、また違ったもの
も見えるのだろう。
﹁それで、私達、賭けをしたの﹂
﹁賭けですか?﹂
文洋の問いかけにウィンクを返して、ローズが言葉を継いだ。
﹁坊や達が私を納得させられたら、力を貸してあげる、納得させら
れなかったら、レオナはうちの子になりなさいって﹂
なんともはや、と文洋は天を仰いだ。
﹁貴方の政治力なら、レオナと弟を助けられる⋮⋮と?﹂
﹁そうね、あなた達が誘拐してくるよりは、確実に﹂
文洋は、それならば、いっそのことローズにまかせてしまった方
が良いのではないか? と思ったが、ふと違うと感じた。それが可
能ならローズは最初から、政治力でなんとかするはずだ。
﹁伯爵夫人﹂
﹁ローズでいいと言わなかったかしら、フミ﹂
﹁失礼、ローズ、ではなぜ我々に力を貸してくださるんです?﹂
﹁そうね、政治力で何とかなるのは、交渉出来る相手だった時だけ
だもの﹂
ピクリと、レオナが肩を震わせる。
107
﹁レオナが死んでないと困る、アリシアの中でそういう状況になっ
ていたら、私ではレオナとルネ君、両方は助けられないわね、きっ
と﹂
文洋は納得がいった。彼女の政治力が及ばない場合に、死地に放
り込むコマがいる、そういう事だ。
﹁ブライアンとローラも、あなた達の世界に近いがゆえに、同じ状
況だと?﹂
﹁あら、思ったより理解が早いわね、少なくともアリシアという中
立国を敵に回すのは、テルミアの本意で無いことは確かね﹂
全員の視線が自分に集まるのを感じて、文洋は本音を口に出した。
﹁では、ローズ、俺と賭けをしましょう﹂
﹁いいわね、言ってごらんなさい﹂
文洋は目を閉じて息を吸い込んだ。
﹁俺とレオナで明日、ルネを連れ出しに彼女の屋敷に忍び込みます。
戻ってこれたら二人を守って下さい﹂
﹁これなかったら?﹂
﹁レオナだけでも救って下さい、代わりに⋮⋮俺の親友の、ブライ
アンを差し上げますよ﹂
目をむくブライアンをよそに、ローズはカラカラと笑った。損得
ぬきで、最初から助けるつもりだというのを見透かした文洋の提案
に、大笑いする。
﹁そうね、もし連れてくることができたなら、レオナとルネ君を守
108
ってあげる事くらいは出来るわ、約束してあげる﹂
不安そうに自分を見つめるローラとレオナに文洋はニコリと笑っ
た。
﹁ブライアンはローズを手伝って社交界とやらで派手にやってくれ、
少しでも大勢の目が他所を向いてくれていたほうが助かる﹂
﹁私は⋮⋮一緒に﹂
口を開いたローラに文洋は笑った。
﹁俺の生まれた国では、奥さんは家で帰りを待っていてくれるんだ、
ローラ。それに、君が誰かに目をつけられると、俺やレオナがあの
家に帰れなくなっちまう﹂
日が変わるまで掛かって、役割分担を明確にする。ローズとブラ
イアンは三日間の日程をアリシアで過ごした後に、定期便の飛行船
で帰国、﹃ウィンド・オブ・デルティック﹄は明後日の午後にアリ
シアの北の沖合で待機、〇一〇〇時に再接近してボートをおろして
文洋達を回収、ローラと共に帰国
うつらうつらし始めたレオナの肩を抱いて、ローラが部屋に戻っ
てゆく。各々が思いを抱いて、部屋へと戻ってゆく。
そんな中、部屋キャビンを出ようとした文洋の方を、ぽんと叩い
て船長がポツリとつぶやいた。
﹁無事のお帰りを﹂
微笑んで文洋が言葉を返した。
109
﹁妻を頼みます﹂
満天の星空の下、白い帆を上げて船が南へと走る。
110
猟犬と老執事
﹁お茶の時間にはガリウス公爵邸に着きたいのだけれど、とりあえ
ず急いで通していただけるかしら?﹂
つば広の帽子を被った伯爵夫人が、港へ迎えに来た黒塗りの大型
車を指さしてニコリと笑った。
公爵家の紋章がドアに書かれた迎えの黒塗りを見て、入国管理の
役人がまとめて差し出された旅券を確認もせずに判をついてゆく。
﹁では、船長、後はよろしく﹂
正装のブライアンとメイド二人を連れて、桟橋を馬車へと向かう
夫人が文洋の横をぬけながら、小さくつぶやいた。
﹁ちゃんと連れて帰ってくるんですよ?﹂
おつきのメイドが精一杯お洒落をしました、といった体のレオナ
がチラリと視線を文洋にやると、何も言わずそそくさと船をおりて
ゆく。
﹁さてと、俺も降りるか﹂
﹁フミ?﹂
船倉から文洋の荷物を下げきたローラが、心配そうに文洋を見つ
める。
﹁大丈夫だよ、ローラ。ちゃんと帰ってくるから。俺が居ないと缶
111
詰開ける奴がいなくなるだろ?﹂
﹁フミのばかっ﹂
ドン!と荷物を押し付けてローラが俯いた。
﹁帰ってこなかったら泣いちゃいますからね? ホントですからね
?﹂
﹁ああ、ちゃんと帰ってくるよ﹂
そんなやりとりに、今日は厄日だ⋮⋮という顔の役人に旅券を差
し出して、文洋は荷物を担いで船を降りた。
§
﹁似合わないわね、フミ﹂
夕暮れ時、水夫から借りた服を着た文洋は、北壁の城館を見おろ
す丘の上に居た。遅れてやってきたレオナがトコトコと丘を登って
くる。
﹁そういうレオナも、ローラのお古の方が似合うと思うぞ﹂
町娘の衣装でプイとむくれるレオナに苦笑いして、文洋は荷物を
開けると柄と鞘を短剣の拵えに直した脇差しを取り出してベルトに
ぶら下げる。
﹁銃にすればいいのに﹂
﹁銃では人を活かすことができない﹂
﹁剣ならできるの? 訳がわからないわ﹂
112
レオナの問いに肩をすくめると、カバンの荷物から旅券を取り出
してポケットにねじ込み、ボロとガラクタの入ったカバンを繁みの
中に放り出した。屋敷を大きく迂回すると、西面の城壁に回り込む。
﹁それで、この一〇ヤードはある壁をどうやって超えるんだ?﹂
﹁こうするの﹂
城壁の石を端から順番に数えていたレオナが、杖から外した赤水
晶をポシェットから取り出して小さく呪文を唱える。ボウっと赤水
晶が輝き壁の一部が石のこすれる重い音を立てて沈み込んだ。
﹁これがないと入れないけど、便利でしょ?﹂
﹁ああ、そうだな﹂
赤水晶を愛しそうになでてから、ポシェットにしまいこむレオナ
に文洋は笑って答えた。
かろうじて文洋がくぐれる程度に下がった石壁を、泥まみれにな
りながらくぐり抜け、文洋は中庭から屋敷を見上げた。屋敷⋮⋮と
いうよりはむしろ要塞に近い威容だ。
﹁レオナ﹂
﹁なあに?フミ﹂
﹁この屋敷は、建ててから何年くらいなんだ?﹂
﹁そうね、千年くらい?﹂
事も無げに返すレオナに、たいしたもんだなと、見上げて文洋は
ポンと花崗岩の壁をたたいた。刹那、三階の窓から黒い人影が舞い
降りる。
113
﹁!﹂
反射的に身体を後ろに転がして、腰の後ろから脇差しを抜く。
文洋の首を狙って、銀色の線が伸びる。
脇差しで受けた文洋の横で、ギャン!と耳をつんざく金属音がし
て火花が上がった。
重い剣戟を二つ、三つといなしながら、文洋はトトンとステップ
を踏んで後ろに下がる。
四つめを払いざま、脇差を捨てて前に出ると、強引に背負い投げ
た。
﹁?﹂
手応えの無さに目を丸くする間もなく、長剣を捨てた男が人外の
動きで綺麗に着地。その勢いで逆に文洋を投げにかかる。
斜め前に飛ぶことで相手を崩して腕を取り、腕ひしぎで関節を極
めようと飛びつくが、決して軽くない文洋を相手は楽々と﹃片手で﹄
放り投げた。
前回り受け身で転がって低い姿勢のまま向き直った文洋と男の間
に、レオナが駆け込んでくる。
﹁クラウス! いけません!﹂
﹁レオナ!﹂
呼び止める文洋をよそに、手を広げて押しとどめるように立ちは
だかる少女を見て、男が動きを止めた。幽霊でも見るような血の気
の引いた顔でまじまじとレオナを見つめる。
﹁レオナお嬢様? お嬢様っ!﹂
114
次の瞬間、両手を広げて執事服の老人がレオナに駆け寄る。小さ
な子供にするように高々と抱き上げて、グルグルと振り回す。
﹁お化けじゃないわ、クラウス⋮⋮ってくすぐったい、放しなさい﹂
﹁よかった、生きておられた、よかった﹂
レオナを抱き上げ、髭面で頬ずりする好々爺然とした執事服の老
人のどこに、あんな力があったのかと思いながら、文洋は土を払っ
て立ち上がった。
§
﹁どうぞ﹂
レオナと変わらない年齢のメイドがお茶を置いて部屋を出てゆく。
﹁今の子は?﹂
﹁三日ほど前に屋敷の前で行き倒れておりましたので雇い入れまし
た﹂
﹁そう⋮⋮、それにしても先ほどの振る舞いはクラウスらしくない
わ﹂
﹁ご無礼をお詫びします。このところ物騒な事件が続いておりまし
て﹂
老執事が深々と頭を下げた。
﹁フミ、許してあげて﹂
レオナが祈るように手を組むと文洋を見上げる。文洋は苦笑いし
て小さくうなずく。
115
﹁裏口から入った俺たちが悪いさ、しかし、強いな、レオナのとこ
ろの執事は﹂
﹁生まれたころからの戦場育ちだったもので、お恥ずかしい﹂
そんな物騒な執事があるものか、文洋が笑う。
おぐし
﹁それでお嬢様、その御髪は?﹂
﹁私も子供じゃないわ、執政官が私たちを狙っている事くらいはわ
かっています﹂
﹁それで、そのようなお姿に﹂
髪を染め、町娘の恰好をしたレオナに感心しきりとクラウスがう
んうんと頷く。
﹁クラウス﹂
﹁何でございましょう?﹂
窓辺に立ったレオナが庭を見つめてため息をついた。
﹁館を⋮⋮捨てます。荷物は最小限に。夜中に迎えがきます、ルネ
を連れてきて。﹂
﹁⋮⋮お嬢さま⋮⋮﹂
老執事がうなだれて唇を引き結んだ。
﹁坊ちゃまは、お嬢様がお亡くなりになられたと聞いて、大変落ち
込まれまして﹂
﹁ルネはどこ?﹂
何かを察して、厳しい口調でレオナが問い詰める。
116
﹁王宮からのお召しがかかり、既に館にはいらっしゃいません﹂
ああ⋮⋮、声にならない声をたて、レオナがくずおれた。倒れる
レオナを抱きとめて、文洋は老執事を見つめる。
マーセナリー
﹁お嬢様に雇われた傭兵ですかな?﹂
イエロー
ダークエルフ
その言葉に、こちらに来てから散々接してきたのと同種の悪意を
感じて、猿だの黒兎だの、そんなにお前たちは上等なのか?と文洋
が執事に問い返す。
﹁いいや、いろいろあって今のところは彼女の養父さ。扶桑人では
不満かい?﹂
思いがけない返答に目を丸くして、文洋の険のある視線を見つめ
返し、クラウスが胸に手を当てて深々と頭を下げた。
むすめ
﹁失礼を申したこと、お詫びいたします﹂
﹁義娘の意志でここまで来た、だから俺にはこの子を守る義務があ
る﹂
クラウスの銀色の視線を受け止めて、文洋も老執事の目をまっす
ぐに見て答えた。
﹁ならば、貴方様にはこの国の恥をお話する必要がありましょう﹂
気を失ったレオナを横抱きにして、ソファーに寝かせ文洋はクラ
ウスに向き直る。
117
﹁なら、フェアに行こう。私は結城文洋テルミア空軍少尉、それを
踏まえて話を﹂
そういって文洋が右手を差し出した。
﹁クラウス・アルジェンタム・ルプス、先々代よりこの家で執事を
しております﹂
手袋をはずして手を取ると、力強く老執事が握り返した。
§
﹁それで、執政官はこんな子供たちを目の敵にしていると?﹂
﹁その上でこの国を戦争に巻き込もうとしております﹂
おおよそ、レオナから聞いた通りだったが、クラウスが手に入れ
た情報と一つだけが大きく違っていた。
それはアリシアが秘密裏に、だが積極的に三都同盟に肩入れしつ
つあるという、一執政官の私欲の域をはるかに超えた事実だった。
﹁昔日の栄光よ再び⋮⋮か﹂
﹁そのために、いくら四騎士の末裔と言え、お嬢様や坊ちゃままで
道具にしようとは﹂
ソファーで気を失っているレオナの長いまつげに光る涙を見て、
執事が憤怒の表情を浮かべる。
﹁それで、レオナの弟は?﹂
後にローズに伝えれば、助けになる事もあるだろうと思い、文洋
118
はクラウスに尋ねた。
﹁姉君の船がブルードラゴンに墜とされ、亡くなられた事を伝えら
れ、当初落ち込んでおられましたが⋮⋮﹂
﹁執政官に復讐でも勧められたか?﹂
﹁その通りでございます﹂
幼さゆえに純粋な気持ち、男ゆえの単純な感情、悪意ある大人に
とっては、実に操りやすいコマだったろう。
﹁ちなみに、ルネ君の年はいくつだったかな?﹂
﹁明日のお誕生日で⋮⋮八歳よ﹂
いつの間に目を覚ましたのか、レオナが起き上がるとそう言って
うつむいた。
﹁魔法が使えるのか?﹂
﹁赤水晶を使う才能なら、わたしより上だと思う﹂
文洋はうつむいたままのレオナの前で片膝をつき、親指で涙をぬ
ぐう。
﹁相手が王様じゃ一度ローズに相談してからだ、夜になったら船に
戻ろう﹂
濡れた紫の瞳で文洋を見つめて、レオナがコクリとうなずく。
﹁⋮⋮お嬢様、フミヒロ様、そう悠長なことを言ってはおられなさ
そうです﹂
119
窓から外を見ていたクラウスが憎々しげに、絞り出すように言う。
﹁ジイの不覚でございますお嬢様。あの小娘、次に見かけたら喉笛
を食いちぎってくれる﹂
獣のように唸る執事の横に立ち、文洋も綺麗に刈り込まれた庭園
へと延びるアプローチと城門に目をやった。紺色の制服を着た男た
ちが先ほどのメイドが開けたくぐり戸から、続々と入ってくる。
﹁あれは?﹂
﹁執政官の私兵ですな﹂
ピストルと小銃で武装した二〇名ほどが一度整列すると、整然と
屋敷に向かって行進を始めた。
120
猟犬と銀狼
﹁申し訳ございませんお嬢様﹂
クラウスが整然と隊列を組み、アプローチを進んでくる兵士達を
睨みつける。
﹁ルネを奪っておいて、さらになお⋮⋮セプテントリオンの城に狼
藉とは、良い度胸です﹂
レオナが殺気立って立ち上がり、テーブルに置いたポシェットか
ら赤水晶を取りだすと窓際に歩み寄った。
飛行機を吹き飛ばすほどの火球だ、隊列の真ん中で炸裂すれば人
間などひとたまりもあるまい。
﹁いけません、お嬢様﹂
手を横に出して制すると、クラウスがレオナの目の高さにかがん
で声をかける。
ならずもの
﹁私兵といえどアリシアの民でございます。お嬢様が手を下しては
なりません。誅するならば執政官めを﹂
﹁しかし、クラウス﹂
﹁兵どもは爺に任せて、お嬢様とフミさまは地下の船着き場からお
逃げください﹂
﹁⋮⋮クラウス﹂
﹁ご心配めさるな。坊ちゃまをお救いするまでは、このクラウス死
んでも死に切れませぬ﹂
121
壁に掛けられた大剣を手にとると、びゅうと一振りしてクラウス
が振り返る。
﹁クラウス、テルミアのエルフ居住区で俺のことを聞け、それで判
る﹂
文洋も脇差しの鯉口を切る。
﹁必ず駆けつけましょう、お嬢様を頼みます﹂
うなずいて文洋がレオナに手を伸ばした。階下で大きな音がして、
兵士達がなだれ込んでくるのがわかった。
﹁見つけたぞ!﹂
廊下の角から飛び出した途端、兵士たちの一斉射が襲いかかった。
慌てて引っ込んで見たものの、地下に下りるには中央の大階段を
経由するしか無い。
﹁問答無用かよ﹂
グイとレオナを抱きしめて、飛び散る壁の破片からかばうと、文
洋が唸る。
﹁魔法で弾丸を止めます。行けますね、クラウス?﹂
文洋に抱きしめられたまま、怒りを込めた冷たい声でレオナが言
う。
122
﹁今日は中々に良い月です。おまかせあれ﹂ ニカリと歯を見せて笑うと、クラウスが天に吠えた。
ウォークライ
耳をつんざく咆哮に銃声すらかき消される。
衝撃波に近い咆哮を至近で浴びて。思わず目を閉じた文洋は、レ
オナが腕からスルリと抜けてゆくのを感じて目を開く。
廊下の角を飛び出すレオナの背が見えた。
﹁レオナッ!﹂
叫びながら後を追う。
﹁行きなさい、クラウス﹂
凛とした声で命じる彼女の前に、銀色の毛皮をまとった大きな背
中があった。
疾風の如く駆け抜ける﹃クラウスだったモノ﹄に、銃弾の嵐が襲
いかかり、緑の燐光を上げる魔法陣に叩き落とされる。
﹁オミゴト、ワガキミ﹂
ワーウルフ
吠えるように言うと、風の盾をまとった銀色の狼男がゴウと音を
たて加速し、大階段の手すりを飛び越えた。
すさまじい跳躍力で天井のシャンデリアを片手でつかまえる。
ぶら下がるようにしてシャンデリアを引きちぎり、悲鳴と怒号を
あげる兵士達の真ん中にたたき落とす。
兵達の中心に着地した銀狼が、逃げ惑う兵士の一人を持ち上げ、
銃弾の盾にしながら文字通り敵をなぎ倒してゆく。
123
﹁悪魔めっ!﹂
その攻撃をすり抜けて、一人の兵士が大階段に走り寄る。
兵士がレオナに銃を向けようとするのを見て、文洋は階段を飛び
おりた。
十フィートの高さから兵士めがけて飛び蹴りを食らわせる。
骨のひしゃげる音をさせ、兵士がくずおれた。
﹁フミ! 無茶をしないで﹂
﹁娘のためだ、無茶もする﹂
﹁そうじゃなくて⋮⋮、もうっ! いいからこっちに!﹂
正面から侵入した一ダースほどの兵士を片付けたが、門の方から
さらに増援がくるのを見て、クラウスが重い樫の扉を閉めると、鍵
を落とした。しばしの静寂が戻る。
﹁ユカレヨ、ワガキミ﹂
返り血を浴びた狼男が片膝をついて、レオナの髪を撫でる。
﹁クラウス、セプテントリオンの名で命じます、死なないで﹂
ひざまずいた銀狼の長い顔を両手で挟むようにして見つめると、
レオナがクラウスに命令する。
﹁オマカセアレ﹂
最初にレオナに、そして立ち上がると文洋にうなずいて、階下へ
と通じる方向を指差す。
レオナの手をとって走りだした文洋の背後で、扉を破る爆発音と、
124
狼男の咆哮が響いた。
﹁こっち、早く!﹂
裏手から入った兵士達に追われつつ、背後を守って走る文洋の前
を、鹿のようにしなやかにレオナが駆ける。
なんとか最下層まで駆け下り、文洋達は重い扉を開いて転がるよ
うに中に入った。船着場なのか、レオナの手にした赤水晶が水面に
映り、水音と潮の香りが漂う。鉄枠と鋲で止められた分厚い扉を閉
め、かんぬきをかける。
﹁このへんにスイッチが⋮⋮﹂
レオナが赤水晶の光を頼りに、スイッチを探している。
パチン、と音がして船着場に電灯がともった。
﹁あった、スレイプニル!﹂
レオナが天井を見上げて歓声をあげた。船着場の上に吊られたス
マートな飛行艇に文洋も息を呑む。時折鳴り響く銃声が近づいてく
る。
﹁クラウスは?﹂
文洋の問いに、レオナが首を横に振った。
﹁私が城にいる限り彼は決して引きません⋮⋮だから⋮⋮﹂
﹁わかった、なら、早いところ逃げ出そう﹂
フックで吊られた飛行艇を見上げた。アメジストのような紫、尾
125
翼には剣と杖が交差し、サーペントが巻き付いた紋章が白銀で入っ
ている。
﹁飛べるのか、プロペラがないぞ?﹂
﹁大丈夫、水面に降ろして﹂
ウィンチのスイッチを入れると、吊るされていた飛行艇がゆっく
りと水面に降りてくる。同時に、船着場と海を仕切っていた大扉が
上がり始めた。
吊り下げ具を外して、もやい綱でたぐりよせ、文洋はコックピッ
トに乗り移る。エンジンスターターを探すがそれらしきものが見当
たらない。
﹁レオナ、エンジンは?﹂
﹁お願い!手を貸して﹂
横を向いた文洋に桟橋の上からレオナが手を伸ばす。
﹁後席に!﹂
﹁だめ、この子、フミだけじゃ飛ばせない﹂
真剣な眼差しに文洋は手を伸ばすと、レオナ引っ張りあげた。
﹁こんなに狭かったかしら?﹂
言いながら、小さな身体をねじりこむように文洋の膝の上にレオ
ナが乗り込んでくる。少女のしなやかな感触と体温に文洋はドキリ
とした。
﹁フミ、これを開けて!﹂
126
エルロン、ラダー、エレベータ、目視で確認をする文洋の膝の上
で、レオナが計器盤下の小さな扉を開こうと悪戦苦闘している。
﹁見せてみろ﹂
﹁ちょっと! くすぐったい﹂
﹁我慢してろ﹂
後ろから頬を寄せるように覗きこむ。少女を抱きかかえるように
して手を伸ばし、金具を引きあげた。パタリ、とバネじかけでコン
ソールボックスが跳ね上がる。
﹁これを、この中に!﹂
ごそごそと膝の上で身をよじらせ、レオナがポシェットから赤水
晶を取り出した。レオナの柔らかな髪に頬をくすぐられる。ガラス
張りのふたをスライドさせ、シリンダーに赤水晶をはめ込むと蓋を
閉めた。
ダン!ダン!
背後で扉が叩かれる音がする。
﹁レオナ、エンジンは?﹂
﹁この子は魔法で動くの! 加減がわからないからフミも手伝って﹂
そう言ってレオナがスロットルレバーに左手をのせた。ブン、と
低い音がして計器盤に赤い光が灯る。
文洋がレオナの左手を包むようにして手を添えると、ゆっくりと
スロットルレバーを押し込んだ。頭上でモーターでも回るような高
い音がし始める。
127
ドン!
爆炎を上げて背後のドアが吹き飛ぶと同時に、甲高い音を立てて
﹃スレイプニル﹄が水面を滑り出した。
﹁動いた!﹂
﹁ああ、どんな仕組みかしらないが、大したもんだ﹂
背後を振り向くと、数人の男たちが船着場になだれ込んでくる。
﹁行こう﹂
スロットルを一杯に押し上げる。音がさらに高くなり、背後で一
人の男が風にあおられてひっくり返った。
タン! チュイン!
風切音がして、機体をかすめた銃弾が火花をあげる。
﹁頭を下げてろ﹂
小さく悲鳴を上げて目を閉じるレオナにそう言って、文洋はスロ
ットルを絞ってペダルを蹴った。
右に旋回して風に舳先を立てる。
ピタリと銃声がやんだ。
船着場に目をやると、クラウスが兵士の頭を左手で掴んで持ち上
げていた。
操縦桿を放して小さく敬礼。
128
掴んだ兵士を海に放り込み、大剣を立てて騎士の答礼をする銀狼
を残し、文洋はスロットルを開いた。
機体が高い音を立てて加速する。
﹁クラウス!﹂
身を乗り出して、レオナが叫んだ。
﹁ウォオオオオオオオオオン﹂
応えるように遠吠えが、長く、長く、天を貫く。
呼応するように、機体が中に浮き、波を叩く音がフッと消える。
ゾクリとする浮遊感に文洋が笑みを浮かべた。
﹁レオナ、目をあけて﹂
高度五〇〇フィートでスロットルを戻して水平飛行すると、文洋
は屋敷の上空を大きく旋回しながらレオナに声をかける。
﹁よく見ておくんだ﹂
月明かりに照らされた屋敷をレオナが黙って見つめている。
﹁ねえ、フミ﹂
﹁ん?﹂
﹁また、ここに戻ってこられるかな?﹂
文洋は一緒にスロットルを握っている小さな手が震えているのに
気がついた。
129
﹁ああ⋮⋮、きっとな﹂
﹁⋮⋮ローラの言ったとおりね、フミは嘘つきだって﹂
屋敷から目を離すとすと、レオナがスロットルから左手を外して
身体をひねった。レオナが手を放した途端、ひゅうううん⋮⋮と情
けない音を立て推進器が止まる。
﹁レオナ?﹂
機首を下げて緩降下させて滑空、北に進路を取ってから、文洋は
レオナに視線をやった。
﹁でも⋮⋮ありがとう、フミ﹂
首にしがみつくようにして身体を引き上げると、レオナが文洋に
頬をよせる。
柔らかで温かい少女の腕の中、翼が風を切る音だけが文洋の耳に
響く。
﹁ローラには内緒なんだから﹂
唖然とする文洋にそう言って、レオナがプイと前を向くと、スロ
ットルレバーに手をかけて一気に押し込んだ。
反射的に機首を上げた文洋と、耳まで赤くしたレオナを乗せて、
﹃スレイプニル﹄が星空めがけて駆け上ってゆく。
﹁さあ、帰ろう﹂
月明かりの中、紫にきらめく機体が夜空をはしる。暮れゆく海に
漁火がチラリ、チラリと輝き、天と地に星空が広がり始めた。
130
紅薔薇と商人貴族
﹁あいつら、上手くやりましたかね?﹂
ガリウス公爵邸の客間に通されたブライアンが声を潜めてつぶや
く。ここ数十年で中継ぎ貿易国の地位を失ったアリシアだったが、
かつての財力を背景にした名うての実業家である公爵の館は、惜し
げもなくマホガニーとローズウッドが奢られた調度品に彩られてい
る。そんな客間の一角に腰掛けて、ローズはニコリと微笑んだ。
ぼうや
﹁どうかしらね?でも⋮⋮子爵は彼を信じているのでしょう?﹂
﹁そうですね、一応親友のつもりなんで﹂
ほんと、男の子っていうのは⋮⋮思いながらローズはブライアン
の横顔を見つめる。
﹁そんなに見つめるほどいい男っすかね? オレ?﹂
﹁そうね、うちの旦那よりはハンサムだとは思うわよ?﹂
一昨年に亡くなった夫のソールベル伯爵を思い出して、ローズは
くすりと笑う。
﹁実直で強情で、ハンサムでは無かったけれど、一生懸命ないい男
だったわ﹂
なるほど、フミを見た時に誰かに似ていると思ったら⋮⋮。実直
で強情で、それでいて妙に馬鹿正直なお人好し⋮⋮亡くなった夫の
ウィリアムだ。
131
﹁なんだかんだ言って、叔母様は叔父貴の事、大好きですよね﹂
見透かしたようにそう言ってブライアンが笑う。
﹁つぎに叔母様なんて言ってご覧なさい、首に縄つけてサーペント
釣りのエサにしてしまうから﹂
﹁ブルブル﹂
ぎょうこう
仔馬のように声を上げて、おどけてみせるブライアンに、ローズ
も小さく声を上げて笑う。
ガリウス
﹁まあとりあえず、親戚筋がアリシアに居たのは僥倖といったとこ
ろかしらね﹂
§
待つこと十分。
﹁姪子殿、一昨年の夏の舞踏会以来かな? また一段と綺麗になら
れたようだ﹂
金モールに彩られた、スタンドカラーの上着を着た公爵が、ロー
ズを抱きしめて両頬にキスする。
﹁お久しぶりです、叔父様。相変わらず香水作りが趣味ですの?﹂
﹁おお、気づいてくれたかね! 今は極東からの素材に凝っておっ
てな﹂
﹁それで白檀の香りが⋮⋮ああ、そうそう、こちらブライアン子爵﹂
132
公爵の腰に手を回して、にこやかに答えながら振り返り、ローズ
はブライアンを紹介した。
﹁亡くなったウィリアムの甥っ子ですの﹂
﹁これはまたハンサムな青年だな﹂
片方の眉を上げて曰くありげな表情の公爵に、いつも通りの﹃表
情の読めない﹄爽やかな笑顔で握手するブライアンに、ローズは本
当に貴族向きな子だと感心する。
﹁テルミアにいると戦争のお話ばかりでしょ? 憂鬱になったら海
が見たくなりましたの﹂
﹁小さい頃から変わらず、お転婆さんなことだ、海の上も物騒だと
いうのに﹂
﹁あら、アリシアへの航路は、両軍共に手を出さないという取り決
めではなくて?﹂
勧められてソファーに腰掛け、ローズはにこりと笑った。
﹁おかげでアリシアは百年ぶりの好景気でありがたいことだがね﹂
肩をすくめて老公爵が苦笑いする。
§
テルミア、アリシア、三都通商同盟、シルヴァリア、古くは千年
以上続く国もあり、貴族に関して言えば何処かで繋がって皆親戚⋮
⋮と言っても過言ではない。
戦争が始まって最初の冬、そんな貴族たちがそれぞれの国家に働
きかけ、ある条約が結ばれた。
133
テルミア王国の中央部を流れるルデア川河口からアリシア王都、
三都同盟西端の港町アイナスとアリシア南端の港町街メリディア、
これを直線に結ぶ幅五〇マイルの航路を行く民間の船舶への攻撃を
禁止するというものである。
これにより、アリシアはテルミア王国から主に小麦を、三都同盟
からは主に羊毛を買い入れ、中立国であることを背景に交易するこ
とで、かつての輝きを一時なりとも取り戻していた。
﹁それで、ローズ、いや、ソールベル伯爵夫人﹂
ひとしきりの世間話の後、好々爺とした叔父の眼光が鋭くなるの
を見て、ローズもスイッチを切り替える。
ここからは叔父と姪ではなく、ガリウス公爵家とソールベル公爵
家、大貴族同士の交渉の場という事だ。
﹁嫌ですわ叔父様。怖いお顔﹂
ローズはかるく先制するつもりで、そう言って満面の笑みを浮か
べる。
﹁ふむん﹂
公爵が鼻白んだ表情を浮かべた。
﹁今日、ご訪問したのは、難しいお話をしたいわけではなくてよ?﹂
﹁とは言え、﹃紅薔薇の公爵夫人﹄の事だ、なにかあるのだろ?﹂
﹁そうね、叔父様、まずはテルミアで聞いたうわさ話から始めまし
ょうか⋮⋮ブライアン、ちょっと席を外してくださる?﹂
134
仰々しく一礼して、執事に案内されたブライアンが部屋を出て行
く。
重い音がして扉がしまるのを確認して、ひと息置いてからローズ
は口を開いた。
フルメン
﹁アリシアの北壁の騎士と西壁の騎士が、青竜に落とされたという
噂、叔父様はご存知?﹂
小首をかしげローズは公爵の顔をじっと見つめて尋ねる。驚いた
表情を浮かべ、黙ったまま天井を見上げると、公爵がため息をつい
た。
﹁悪事千里を走る⋮⋮とはよく言ったものだ、うわさの出どころは
どこかね?﹂ ﹁墜落した飛行船から回収された遺体に少女が一人、もう一隻の遺
品に﹃剣と狼﹄の紋章の入った赤水晶の杖があった、という軍の情
報筋﹂
くみ
声を潜めたローズの言葉を、公爵が値踏みするように目を細める。
﹁それで?﹂
﹁アリシアが三都同盟に与するのでしたら、ソールベル家としては
引き上げたい投資がございますでしょ?﹂
口ひげを引っ張り、やれやれと言った顔で公爵がテーブルに置か
れたグラスにブランデーを注いだ。
﹁誰に似たのか、テルミアの石頭連中とちがって、わが姪子殿は商
売人だな﹂
135
﹁留学時代に、これからの貴族のありようだと言って、商いのイロ
ハを私に薫陶してくださった、叔父様に似たのではないかしら?﹂
差し出されたグラスを受け取って、ローズは冷たい笑みを浮かべ
る。
﹁まあ、あれだ、どちらかに勝たれてしまってはな﹂
﹁戦争が終わらないほうが、アリシアは儲かりますものね﹂
﹁南テルミア海運の大株主の姪子殿もな﹂
グラスを上げ、乾杯するとローズはブランデーを一口煽る。目を
ドラゴン
閉じて鼻に抜ける甘い香りを楽しんだ。
﹁それで、叔父様?﹂
﹁おとぎ話から出てきた悪夢のおかげで、面倒な事になっているの
フルメン
は確かでな﹂
﹁伝説の青竜相手では、飛行機や飛行船では役者不足ですわね﹂
﹁まあ、それについては人の知恵もそうそう、バカにしたものでも
ないぞ﹂
神をも畏れぬ無茶をして、空から叩き落とされた挙句に、何が人
の知恵かとローズは思う。
﹁大砲が空でも飛べば、アレと戦えるかも知れないですわね﹂
﹁まったくだ﹂
嫌味半分に言ったローズの言葉に笑みを返した公爵に嫌な感じを
覚え、ローズは話題を変えることにした。
﹁ああ、それで叔父様﹂
136
﹁まだ他に?﹂
﹁何年か前に亡くなったセプテントリオン家の奥方、わたくしがこ
ちらに居る時にが良くして頂いてたでしょ?噂が本当ならまだ小さ
い男の子が居るはずだけれど、何か助けてあげられないかしら?﹂
﹁ルネ・セプテントリオンなら、執政官のルデウスがえらくご執心
でな﹂
そこで区切ってグイとグラスを飲み干すと、不機嫌そうに公爵が
言葉を継いだ。
﹁赤水晶を扱うのに天賦の才があるとかで、養子にしたいとまで言
っているという話だ﹂
﹁あら、ルデウスなら、こちらの大学で同級生でしたけれど、そん
な優しい男だったかしら?﹂
姉を葬り去ろうとしておいて、よくもまあいけしゃあしゃあと⋮
⋮。
だが、執政官が引き取ったとなると、よほど上手く立ち回らなけ
れば、面会もままならないだろう。
ピエロ
ルデウス・ベリーニは秀才かつ嫌味なほどにスキのない男で、サ
ーカスの道化師のように、にこやかな仮面の裏に何かを押し殺して
いるような男だったのを覚えている。
﹁我らも他人のことは言えぬが、あれは権力の亡者だな﹂
﹁邪魔者を死地に送るロクでなしの上に?﹂
﹁ああ、ロクでなしの上にだ﹂
言ってから、しまったという顔をする公爵に、ローズはニコリと
笑う。
137
﹁聞かなかったことにして差し上げますわ﹂
﹁お前には敵わんよ、まったく﹂
ため息をついて、公爵が好々爺然とした表情に戻る。
﹁叔父様﹂
﹁なにかな、姪子殿﹂
﹁海運株は売りどきではなくて?﹂
小さく、だが確かに頷いた公爵に、ローズは微笑みかけて立ち上
がった。
﹁使い魔を一匹、お借りできます? 叔父様に役に立ちそうなお話
があれば手紙を持たせます﹂
﹁執事に用意させよう﹂
﹁では、今宵の舞踏会で﹂
執事から使い魔の封印されたクリスタルを受け取って、ローズは
屋敷を後にした。
§
﹁イテテ、それで、首尾はどうでした?﹂
公爵家のメイドを口説いていたところを発見され、耳を引っ張ら
れたブライアンが、悪びれもせずそう言って笑う。
ぼうや
﹁まあ、女の子のお尻を追いかけ回していた、子爵よりは少し有意
義な時間を過ごしたかしら﹂
138
﹁酷いなあ、ちゃんと情報収集してましたよ?﹂
﹁そう、何か面白い話は聞けて?﹂
おざなりにそう言ったローズにブライアンが得意げに、だが声を
潜めて耳元で囁いた。
﹁ルーシー、あ、さっきのメイドですがね⋮⋮、彼氏が造船所に勤
めてるらしいんですが、鋼鉄で出来た飛行船をアリシアでは作って
るんだそうです。どうやって飛ばすんでしょうねそんな重いもの﹂
⋮⋮人の知恵⋮⋮か。まったくロクでもないことだ。
ピエロ
舞踏会の会場目指して走る馬車に揺られながら、ローズはため息
をついた。
笑わない道化師からルネを取り返すのは少々骨の折れる仕事にな
りそうだ。
139
黒兎︽ダークエルフ︾と機械技師︽メカニック︾
﹁姐さん、嬉しそうっすね﹂
﹁なんだい、あんたは嬉しかないのかい? フェデロ﹂
第一航空隊の要塞都市レブログへの移動が開始された初日、ラデ
ィアは紅と蒼、二機の戦闘機を前にして踊る気持ちを抑えられずに
いた。
⋮⋮夢にまで見た一人乗りの戦闘機だ二人乗りの偵察機とはわけ
が違う。
﹁そりゃまあ、借り物とは言え一人乗りに乗れるんだ、嬉しいです
が⋮⋮﹂
戦争が始まって以来、夜目が効くということで偵察兵と戦場に送
り込まれたダークエルフ自治区の兵士達だったが、ミノタウロスや
ケンタウロス同様、かつて人間に敵対してきた少数民族ということ
で、決して扱いがいいというわけではない。
﹁ウンディーネやサラマンダが使えても、機関銃にゃ敵わないから
ねえ⋮⋮とはいえ情けない話だよ﹂
﹁親父の時代と違って、短剣一本で切り込むと死んじまいますから﹂
﹁ラスディア炭鉱の偵察で不時着した時に、短剣一本で一個分隊相
手に大立ち回りしといて良くいうよ﹂
遠い目をして戦闘機を眺めるフェデロを見てラディアが笑う。
140
﹁いや、あれは姐さんがサラマンダを三匹も召喚して敵の真ん中に
ぶちこんだからっすよ?﹂
﹁おかげで勲章がもらえたじゃないか﹂
フフンと鼻を鳴らし、もっと褒めろとラディアは胸を張った。何
といっても、ダークエルフに勲章を出した時の司令官のマヌケ面が
傑作だった。
飛行帽からはみ出た薄紫の銀髪がプロペラの風にたなびく。
オイルの匂いに目を細め、ラディアは機体を撫でるように指を走
らせた。
﹁お前らか、こいつをレブログまで持ってくのは?﹂
不意に掛けられた年老いた声に、ラディアは振り返りざま敬礼す
る。
﹁ラディア・ラエル・フェリアード准尉であります、彼はフェデロ・
レアル・セリアラス軍曹﹂
メカニック
﹁フリントだ。そんな固くならんでいい、お偉方の貴族様と違って
こちとら整備中尉だ﹂
並んで敬礼する二人に、中尉の階級章を付けた髭面の男が人懐こ
い笑みを浮かべて微笑んだ。
フェリー
﹁ブライアン少尉から頼まれました、こちらの二機はレブログ基地
まで我々が空輸します﹂
ラディアがフライトジャケットから命令書を差し出す。
141
﹁で? まだあんだろ?﹂
命令書を見ようともせずフリント整備中尉が、レンチでラディア
が下げたバスケットを指してニヤリと笑った。
﹁はっ、ブライアン少尉から、これをウォルズ村に届けるように頼
まれました﹂
藤蔓のバスケット一杯に詰められたのはチョコレートにビスケッ
ト、可愛らしい包み紙に包まれたキャンディと手紙が一通、
﹁あいつ、女たらしのロクデナシの癖に、そんなところだけ妙に優
しいというか、何と言うか﹂
﹁その意見には同意します﹂
ラディアがラベンダー色の唇をほころばせる。
﹁村の場所はわかるか?﹂
﹁航空地図にブライアン少尉が印を﹂
ラディアが太もものポケットに入った地図を、ぽんと叩く。
﹁テストフライト名目で書類は出してやる。バーニー!﹂
フリントが野太い声を張り上げる。あまりの声の大きさにラディ
アの隣でフェデロがビクッと小さく飛び上がった。
﹁なんすかーおやっさん!﹂
油まみれで蒼い機体を整備していた伍長が、整備中尉に負けない
142
大きな声で返事をする。
エクスプレス
﹁ウォルズ村への特急便だ、落下傘もってきてやんな﹂
﹁ああ、星誕祭ですからね﹂
腰にぶらさげたボロ布で手を拭くと、バーニー伍長が格納庫に小
走りで走ってゆく。
﹁それで、どっちがどっちに乗るんだ?﹂
§
結局、ラディアが紅い機体に乗ることにして、二人は基地を後に
レイブン
した。晴れ渡る夏空に紅と蒼の機体が北北西に針路を取る。
右に左に操縦桿を軽く揺らすと、推進式で二人乗りの偵察機とは
比べ物にならない素早さで機体が反応する。
フェデロの蒼い機体がラディアの機体を中心にして綺麗にフォー
ポイントロール。再び右後ろにつくと、親指を上げた。
調子にのりやがって⋮⋮帰り道に追いかけまわしてやろう⋮⋮。
膝の上のバスケットのせいで自由に動けないラディアは、親指を
下に向けて﹃くたばりな﹄と合図を送る。
並んだ機体の胴体に染め抜かれた、ライオンにしては鼻の大きな、
犬にしては頭の大きな、妙に愛嬌のある動物。
ユウキ少尉といったか、今度その動物は何なのか聞いてみよう。
バスケットの蓋を開け、キャンディを一つ失敬してラディアは口に
放り込んだ。ミントの香りと甘い味が口の中に広がる。
オイルとガソリンの匂い、心地よい振動と風切り音に包まれ、ラ
143
ディアはつかの間、鳥になった気分に身を委ねた。
四十分ほど飛んだところで、地図に描かれた目印の小さな教会が
見えてきた。
高度を落としてフライパス。
星誕祭のお祝いに集まった村人の上を、なんどか旋回して覗きこ
む。
紅い機体を見つけた子供たちが、大きく手を振ってはしゃいでい
るのが見える。
なるほど、あの女たらしの子爵は存外に領民には愛されているら
しい。
くるり、くるりと旋回半径を小さくしながら、ラディアはグンと
降下させてから宙返り。背面飛行に入った所で蓋を閉じたバスケッ
トを空中に放り出した。
操縦桿を倒して機体を水平に戻す。誰が縫ったのか可愛らしい赤
と白の落下傘が広場の中央めがけてゆっくりと舞い降りる。
落下傘を追って子供たちが我先に走りだす。
︱︱もう一つはな、星誕祭に俺の村の子供にお菓子を届けてくれ
ないか?
待機所でのブライアン子爵の言葉を思い出し、ラディアは微笑む。
いや、気がつけば声を上げて笑っていた。まったく、他の連中が
見たら、姐さんが壊れたと大笑いするに違いない。
何の得にもならないのに、ダークエルフのために、候補生を投げ
飛ばす扶桑人に、愛機の移送とお菓子の配達を頼む優男、片棒を担
ぐ整備中尉に伍長。どいつもこいつも石頭の貴族や軍人にしとくの
はもったいない。
144
翼を左右にバンクさせ、フェデロを隣に呼び寄せると、ラディア
は旋回しながら高度を上げた。折角のお祭りだ。子供たちはお菓子
を持って子爵が来たと思っていることだろう。
これは少し格好をつけておかないとな⋮⋮そうだろ、子爵殿
九〇〇フィートほどまで上げた所でフェデロに左右の手のひらを
交差させて下を指さす。
ラディアとフェデロは広場目がけてバーチカルシザースを繰り返
しながら急降下。
毛糸を編む編み針のように、紅と蒼の機体が交互に空を編む。
お互いの後ろを取ろうと、クルリクルリとひねりこむ。
自分に翼が生えたような高揚感。
一五〇フィートほどで引き起こし、二機揃って宙返り。
人々が飛び上がって喝采する広場の上を、二度、三度、緩く旋回。
村の上空で名残惜しげに翼を振って二機は南南東へと機首を向け
た。
﹁ああ、楽しかった﹂
誘導路を走り、駐機場でエンジンを止める。ゴーグルを額にあげ
ると、ラディアは目尻に溜まった涙を拭った。
ひらりと飛び降りて、駆け寄ってくる整備員に機体を引き渡すと、
同じく高揚した顔のフェデロの背中をバンバンと叩いて、ラディア
は格納庫に向かった。
﹁やりすぎましたかね?﹂
﹁祭りだからね、あんくらいで丁度いいんだよ﹂
145
フライトジャケットの前を開ける。汗ばんだ肌に風が心地いい。
﹁で、どうだった?﹂
帰還を報告しにフリントの元を訪れたラディアにフリントの第一
声。
﹁子供達は喜んでいました﹂
ラディアが返答する。
﹁そうか、軍曹、そっちは?﹂
﹁左ロールが少し遅れます、あと四千回転くらいで妙な息継ぎと振
動が﹂
﹁一度エンジン降ろしてるからな、おめえは合格だ、軍曹﹂
﹁あっ⋮⋮﹂
ラディアが勘違いに気が付き、うなだれる。
テストを忘れてすっかり楽しんでしまっていた自分が恥ずかしか
った。
頬が紅潮し、耳がショボンとするのが自分でもわかる。
﹁軍曹は解散、准尉はユウキ少尉の機体整備すんの手伝え﹂
﹁いや、あの自分も﹂
言いかける軍曹を手を上げて止めると、ラディアはフリント整備
中尉に敬礼した。
﹁了解しました﹂
146
顎鬚を引っ張って、ふむと頷くと整備中尉がまっすぐにラディア
の顔を見る。
﹁空は楽しいか?﹂
視線をまっすぐに受け止めて、ラディアは小さく頷いた。族長だ
った父に怒られているような妙な気分だ。
﹁そこの蒼いのに載ってるバカはな、飛行機が好きだそうだ﹂
﹁はっ﹂
﹁理由はな、空を飛べるから⋮⋮あと、全部を置いていけるから⋮
⋮だそうだ﹂
﹁なんとなくわかります。﹂
敬礼を降ろし、直立のままラディアは琥珀色の瞳でフリントの髭
面を見つめる。
﹁そのバカにも言ってやったがな、空を飛んで楽しいのは地面に足
がついてるからだ﹂
﹁そいうものでしょうか?﹂
﹁ああ、そういうもんだ。だからな、お前たちが故障で空から落っ
こちて、撃たれもしないのに女神様の元にいかねえように、オレ達
が整備してやる﹂
﹁はい﹂
ラディアは整備中尉が何を言いたいのか理解して、素直に頷く。
﹁見かけによらず素直なやつだな⋮⋮そこのツナギに着替えて来い﹂
手に持ったねじ回しで壁に掛かったツナギを指差す。名札にはユ
147
ウキ・フミヒロの文字。
﹁お借りして良いのでしょうか?﹂
﹁洗濯して返してやればいい、それに奴はそんなこた気にしねえ﹂
﹁了解しました﹂
﹁でな﹂
頷いたラディアに、フリントが好々爺とした笑顔を浮かべて言葉
を継いだ。
﹁調整が終わったら、もっかいそいつに乗せてやるから、ちゃんと
テストしてこい﹂
﹁えっ﹂
﹁なんでえ?もう戦闘機は乗りたくないか?軍曹呼び返すか?﹂
フリントの言葉に、ラディアはブンブンと首を横に振る。
﹁乗ります!乗らせて下さい!﹂
﹁ほんと素直な奴だな⋮⋮バーニー、ユウキの機体、エンジンカウ
ル外せ、軸線合わせと点火時期、あとキャブの調整し直すぞ!!﹂
整備中尉の大声を背に、ラディアは壁に掛かったツナギを抱えて
更衣室に向かった。
また空を飛べる、女神様ありがとう、星誕祭万歳。
ラベンダーのルージュを引いた口元が綻ぶのをもう抑えもせず、
ラディアは小走りに走る。
空は自由だ⋮⋮誰のものでもない⋮⋮、そう思いながら。
148
神馬︽スレイプニル︾と夜光虫︽ノクティルカ︾
﹃ウィンド・オブ・デルティック﹄が北壁の沖合に来る予定の〇
一〇〇時まで、とりあえず身を隠すべく、文洋とレオナはアリシア
本島から北西へ飛んだ。いずれにせよ、屋敷の沖ではなく、その手
前で合流しないと面倒なことになりかねない。
もちろん、星を頼りに北を目指せば、テルミアかシルヴェリアに
着くだろうが、航空地図も無しに夜間飛行をするほど文洋は無謀で
はなかった。三十分ほど飛んで、文洋は小島の影に飛行艇を降ろし
た。
月は明るく、幸い風も潮目も穏やかだ。着水した途端、スロット
ルから手を離し、ぽてん、とレオナが文洋の胸にもたれかかった。
﹁疲れちゃった⋮⋮﹂
紫の瞳が文洋を見上げる。ブルネットに染めた髪と相まって人形
のようだ。
﹁こいつを飛ばしたせい?﹂
﹁スレイプニルを飛ばすだけなら、別に大丈夫⋮⋮﹂
首を横にふって、子猫のように頬を文洋の胸にすりよせる。
﹁そうか⋮⋮長い夜になる。少し眠るといい。﹂
軽いとは言え同じ姿勢で乗られていると足がしびれる。腰に手を
149
回して軽く持ち上げると姿勢を変える。視線で抗議するレオナにジ
ャケットを掛けてやると文洋は空を見上げた。
ちゃぷり、ちゃぷり
さざなみが機体を揺らす。身体を丸め、文洋の胸にもたれかかっ
てレオナが目を閉じた。よほど疲れていたのだろう、まもなく小さ
な寝息を立て始める。
機体に当たる波の音だけがあたりを支配する。ひどく孤独なふた
りきりの世界。
﹁クロード⋮⋮ルネを⋮⋮﹂
ピクリ、と震えてレオナが小さくつぶやく。
チラリと腕時計を見る。船足を考えると二時間ほど、ここで休め
るということか。ジャケットの胸ポケットからタバコを出す。咥え
かけて自分の胸にもたれて眠る少女に目をやり、文洋はタバコを戻
した。
時折、島と星を見比べて位置を失わないように気をつけながら、
文洋は子猫のように眠る少女の髪を撫でてやる。
確か、自分がこの国に来たのは十八の時だった。﹃屋敷を捨てま
す﹄凛として言い放ったレオナの、十五にして、全てを捨て去って
弟を守ろうとした強さが眩しかった。
﹁フミ⋮⋮﹂
どれくらいそうしていただろう、主翼のフロートに波が当たるた
び、夜光虫の光で青白く輝くのをぼんやりと見ていた文洋はレオナ
の声に我に返る。
150
﹁ん? どうした?﹂
﹁大丈夫? 重くない?﹂
﹁ああ、大丈夫だ、そろそろ行かないとな﹂
正面を向き直ったレオナにジャケットを着せて、スロットルレバ
ーに載せたレオナの左手に、文洋は自分の左手を重ねた。
レオナがスロットルに手を置いた途端、計器盤の向こうで赤水晶
が赤く光る。推進器が緑の光の粉を吐いて回り出す。
﹁さあ、行こう﹂
ゆっくりとスロットルを押し上げ、機首を風上に向ける。弧を描
く航跡に夜光虫が青白い花を咲かせた。
タン、タン、タン、波を三度叩いて、少女の瞳と同じ色をした紫
の翼が、舞い上がる。きらめく緑の推進炎を引いて、﹃スレイプニ
ル﹄は彗星のように空を駆け上った。
念の為に少し大回りしながらアリシアの北端に出た文洋は、港と
レオナの館の沖の間を大きくS字を描きながら﹃ウィンド・オブ・
デルティック﹄を探した。月夜とは言え船が灯火を落としていたら、
探すのは面倒な事になる。
﹁フミ⋮⋮見つかるかしら?﹂
﹁最悪、レオナの館の沖合に行くしかないが﹂
﹁きっと見張られているわ﹂
﹁ああ、だから手前で見つけたいところだな﹂
操縦桿を倒し、機体を傾けると文洋は下を見ながら緩旋回する。
151
﹁いた、船だ﹂
﹁え? どこ?﹂
夜光虫で光る青白い航跡を遠くに見つけて、文洋は機首を向けた。
高度を落として月と反対側に回りこむ。二本マストにトップスルの
船影。
﹁レオナ、なにか光るものを作れないか、電球くらいに光ればなん
でもいい﹂
﹁魔法を二つ同時に使うの難しいのよ?﹂
﹁できない?﹂
﹁で、できるわよ、でも失敗したらこの子、止まっちゃうのよ?﹂
﹁止まっても急には落ちないよ、ちゃんと俺が降ろすから大丈夫﹂
﹁もう! しらないんだから!﹂
すねた顔をして、レオナが目を閉じる。胸の前で右手の人差し指
を立てると、文洋にはわからない言葉で呪文を唱え始めた。
﹁ルクセ・アド・ドゥクステラム、ルクセ・アド・ドゥクステラム﹂
立てた人差し指が光り始めたかと思うと、たちまち眩しいほどに
輝きだす。
﹁上出来。右手を上に伸ばして、スロットルはこのまま﹂
スロットルの上で重ねていた手を離すとレオナに任せ、文洋は操
縦桿を左手に持ち替えた。
伸ばしたレオナの人差し指を、自由になった右手で包み込む。
﹁え? なに? なに?﹂
152
事情を飲み込めないまま、キョトンとするレオナに大丈夫だと微
笑んで、文洋はレオナの光る指先を握ったり放したりする。
船の上空を旋回すること三度、握ったり放したりされる指先を不
思議な顔で見ていたレオナが、船を見て小さく声を上げた。 ﹁船が止まるわ、帆を降ろしてる!﹂
﹁ありがとうレオナ、もう指を戻していいよ﹂
﹁なにをしたの? フミ﹂
﹁光で船と話をした﹂
﹁そんなことができるの?﹂
﹁ああ、正直苦手なんだが通じてよかった﹂
じっと自分の人差し指を見つめるレオナの頭を、ポンポンと叩い
て、文洋は右手で操縦桿を握り直すと、左手をスロットルの上で重
ねる。
船足を落とした﹃ウィンドオブ・デルティック﹄の後ろから近づ
いて着水、船からカッターが近づくのを待った。
﹁フミ! レオナ!﹂
カッターの上で、ローラが手を振っている。五ヤードほどまで近
づいて、機体を傷つけずにこれ以上はどう近づいたものか⋮⋮と艇
長がためらうのを尻目に、ローラがひょいと立ち上がって海に向か
って飛び降りた。
﹁ローラ!﹂
着衣での水泳の難しさをよく知っている文洋が叫んで身を乗り出
す、近くの水夫もローラを捕まえようと手を伸ばした。
153
水面につま先を着けた途端、燐光の波紋がローラの足元に広がる。
そのまま、ローラが水の上を踊るように駆けてきた。
﹁⋮⋮!?﹂
全員が唖然とする中、ローラが水面に立ってコックピットを覗き
こむ。
﹁おかえりなさい、レオナ﹂
レオナを抱きしめてローラが頬ずりした。
﹁くすぐったいわローラ﹂
﹁えーと、ローラさん?﹂
﹁なあにフミ?﹂
﹁今のは⋮⋮?﹂
﹁んー? ちょっとウンディーネ達にお願いしただけですよ?﹂
小首をかしげ、水面でローラがくるりと回る。あまりのデタラメ
さに文洋は言葉を継ぐのを諦めて天を仰いだ。
﹁?﹂
﹁とりあえず、俺達も水の上歩ける?﹂
﹁二人までなら﹂
﹁じゃあレオナを抱っこしてなら?﹂
﹁魔法を二つ同時に使うのは難しいんですよ?﹂
微笑んで答えるローラに⋮⋮嘘だ⋮⋮ゼッタイ嘘だ⋮⋮と思いな
がら、文洋は少し考えるふりをしてから、口を開いた。
154
﹁じゃあ、渡るときはローラを抱っこするから魔法に専念して。レ
オナ、ちょっと立ってくれ﹂
文洋が狭いコックピットから何とか身体を引き抜き、コックピッ
トのフチに腰掛ける。
スレイプニル
﹁とりあえずカッターと飛行艇をロープで繋ぐから⋮⋮ローラ?﹂
﹁大丈夫ですよ我が君﹂
ちゃぽり、ちゃぽり、
艇体を波が叩くたび、夜光虫が光る。おっかなびっくり文洋が水
面に足を下ろすと、柔らかいんだか硬いんだか、なんとも表現しづ
らい感触とともに、足元に波紋が広がった。
﹁おおっ﹂と、カッターの水夫からどよめきがおこる。
﹁ローラ、凄いなこれ﹂
﹁そうですか?﹂
﹁ああ、なんというかこれは⋮⋮﹂
言いながら文洋はカッターまで﹃歩いて﹄ゆく。水夫から引き綱
を受け取って、機首のリングに結びつけた。足元に波紋が広がるた
び、夜光虫で水面が青く輝く。
結び終わって目を上げると、波に揺れる﹃スレイプニル﹄の主翼
の前縁に腰掛けてローラが手を振っていた。
何とも言えない不自然な風景が、自然に広がっていることに、文
洋は素直に驚嘆しながら思う。とりあえずローラとレオナ、この二
人とは絶対に喧嘩しないでおこう⋮⋮。
ロープを結び終わったのを艇長に手を上げて知らせ、文洋は﹃ス
155
レイプニル﹄に歩みよった。コックピットからレオナを抱え上げて
水面に降ろす。
ウォータウォーキング
﹁聞いたことはあるけれど、水上歩行って⋮⋮初めて見た。凄いの
ねローラ⋮⋮﹂
言いながらレオナがつま先で水面を蹴る。夜光虫が光り、青白い
波紋が広がる。
﹁さあ、我が君?﹂
﹃スレイプニル﹄の翼に腰掛けたローラが、満面の笑みを浮かべ
て抱っこをせがむ小さな子供のように両手を差し出した。
﹁どうぞ、甘えん坊のお姫様﹂
軽く腰をかがめ、ローラが首に腕を回すのを待ってから、文洋は
ローラを横抱きに抱え上げる。レオナのしなやかな感触とまた違う、
女性らしい柔らかな肉感に文洋は耳が熱くなった。
﹁フミのえっち﹂
﹁いや⋮ちょ⋮⋮﹂
耳元でボソリと言いながら、首に回した手に力を込め、身体を押
し付けるローラに文洋は顔が赤くなる。
﹁フミ?﹂
不思議そうな顔をしてレオナが文洋とローラを交互に見つめた。
156
﹁大丈夫、行こう﹂
水夫達の羨ましそうな視線と、レオナの不思議そうな視線、腕の
中の柔らかな感触とローラの笑顔。十字砲火にさらされて文洋はた
め息をつく。
一歩一歩を踏み出すごとに、燐光が波紋のように広がる。それが
嬉しいのかレオナがクルリ、クルリと踊るように水面で回った。ロ
ーラが文洋の耳元に顔を寄せて、クスリと小さく笑う。
﹁フミ? どうしてレオナをお膝の上に乗せてたのかは、あとでゆ
っくり聞かせてくださいね?﹂
いや、ローラさん?決して不純な理由じゃないですよ?
満月の下、燐光を立てて水面を歩きながら、文洋は天を仰いでた
め息をついた。
ノクティルカ
夜光虫の燐光がオーロラのように波間に広がってゆく。 <i138563|13110>
157
神馬︽スレイプニル︾と九頭蛇︽ヒュードラ︾
揺れる海面を歩いて、文洋とレオナはカッターに乗り込んだ。子
供のように頬をふくらませ、腕の中から降りたがらないローラの額
にキスしてそっと降ろすと、文洋はレオナのジト目を浴びながらカ
ッターに乗り込んだ。
﹁妬けますな﹂
ボースン
掌帆長が苦笑いしながら小さく敬礼してよこす。
﹁困った娘と妻なんですよ﹂
苦笑いしながら、文洋は肩をすくめてみせた。
﹁よーし、野郎共! この優男とお嬢さん方に海の男のカッコイイ
ところを見せてやれ﹂
﹁おう!﹂
舷側に立てられていたオールが一斉におろされる。
﹁踊ってくれよカワイイ坊や、パパのカワイイ子羊ちゃん﹂
﹁踊ってくれよカワイイ坊や、パパのカワイイ子羊ちゃん﹂
力強い歌声と共に、文洋の倍はあろうか腕をはちきれんばかりに、
水夫たちがカッターを漕ぎだした。カッターより大きな﹃スレイプ
ニル﹄を引いて、二〇〇ヤードほどの距離を﹃ウィンド・オブ・デ
ルティック﹄目指し漕ぎ続ける。
158
﹁フミ! みんな凄い!﹂
胸板の厚い男たちの朗らかな歌声に、レオナが感嘆の声を漏らす。
家族を思って歌う歌だ。ローラが透き通るような声で船乗りたちの
歌に合わせてハモらせる。
﹁さあ、野郎共、お嬢さん方がお気に入りだ、気合いれてかかれ﹂
﹁おうさ!﹂
オールが水面を叩くたびに輝く夜光虫の光を引いて、文洋達はヨ
ットへと近づいていった。
§
﹁さて、奥方様はフミヒロ様が戻られたら﹃テルミアの涙﹄まで引
き返せといわれておりますが⋮⋮﹂
船長が曳航している﹃スレイプニル﹄をみて、困惑した表情を浮
かべた。
追い風だが、トップスルだけで走る船はせいぜい三ノットといっ
たところだ。
この速度なら曳航もできるが、かといって、このまま牽いて戻れ
るものでもない。
﹁フミ⋮⋮?﹂
心配そうにレオナが文洋を見上げる。
﹁レオナ、選択肢は二つ、少し休んで朝まで飛び続けるか、ここで
159
スレイプニルを捨てるか﹂
文洋はレオナの肩に手を置いて見つめた。
﹁⋮⋮私⋮⋮がんばるから⋮⋮お願い⋮⋮フミ、お願いします﹂
目に涙をためて、レオナが文洋を見上げる。全てを捨てて、最後
に残ったレオナの世界。自分の瞳と同じ色の、天駆ける神馬。
﹁ローラ?﹂
﹁私に聞かなくても答えは決まっているのでしょう?﹂
いつも通り優しく微笑んで、ローラが後ろからレオナをぎゅっと
抱きしめる。
﹁一人で飛ばせるなら、俺一人で持ってくんだがな⋮⋮﹂
﹁この子は墜ちないわ⋮⋮お祖父様は南の大陸にだって⋮⋮行って
たもの﹂
すがるような目でレオナが言う。今にも泣き出しそうな瞳。
﹁船長、ライダル岬までの距離は?﹂
﹁岬の先端まで五〇〇マイルですな﹂
ざっと3時間半というところか⋮⋮ここまで乗ってきた感覚で文
洋は﹃スレイプニル﹄の巡航速度で見当を付ける。幸い天気の良い
月夜だ。
﹁後は機体次第と行った所か⋮⋮﹂
160
ふぅ、と文洋はため息をつく。目を閉じて乗ってきた感覚を思い
出す。どこまでもスムースな機体の反応。行ける、そんな気がした。
﹁船長、針路を北にお願いします、レオナ、温かい格好を﹂
﹁フミ! ありがとう、大好き﹂
飛びついてレオナが文洋を抱きしめる。それを微笑んでみていた
ローラが、文洋と目を合わせ、拗ねた表情でそっぽを向いた。
﹁ローラもだ⋮⋮﹂
﹁あら、連れて行ってくださるんですか? 我が君?﹂
﹁膝の上には乗せられないけどな﹂
﹁乗り移るときは抱っこしてくださいね?﹂
両手を上げて降参すると、文洋は自室に戻って飛行服に身を包ん
だ。ローラに着せるのに、ブライアンの荷物から革のジャケットと
飛行帽、ゴーグルを拝借する。
レオナにはニット帽を被ってもらおう。
二人が着替える間に、副長とブリーフィング。目印の小島を中心
に方位と距離を地図に書き込んだ。
§
﹁ではお気をつけて、少尉、お嬢さん方﹂
水面まで縄梯子をおろし、掌帆長の鳴らす号笛と帽子を振る水夫
達に見送られて、文洋は再び海面を歩いてスレイプニルへと乗り込
んだ。
横抱きにされたローラと、隣を歩くレオナが、水夫達に手を振っ
て別れを惜しむ。
161
﹁フミ﹂
後席にローラを座らせて、ベルトを締めてやる文洋にローラが小
さく声を掛ける。
﹁?﹂
﹁レオナを大事にしてくれてありがとう﹂
﹁俺の娘なんだろ?﹂
﹁ええ、それに私の娘です﹂
ローラに笑顔を返し、コックピットに滑りこむとベルトを締める。
膝の上のレオナは、ロープの切れ端で腰を自分にに結わえつけた。
﹁さあ、行こう﹂
水夫たちが帆を上げ、白波を上げる﹃ウィンド・オブ・デルティ
ック﹄の横を加速して追い抜く。手を振る水夫達に翼を振って答え
ると、﹃スレイプニル﹄は一路、テルミア目指して空を駆けた。
﹁あれが北を指す星、ここが目指すライダル岬﹂
小さな板の上にクリップで止めた地図に、文洋は赤鉛筆で印を付
ける。
レオナが退屈しないよう、航法のやり方を簡単にして教えてゆく。
﹁針路は三三○、速度は一時間に一二〇マイル、横風で流されてな
ければそろそろラディウス群島が見えてくる﹂
﹁フミは何でもできるのね﹂
162
島影と星と時計を見ながら、針路を調整する文洋をレオナがそう
言って見上げる。
﹁魔法は使えないけどな﹂
左手でポンと頭を叩いて、文洋は月明かりに光る水面を見つめた。
﹁あった、アレ!﹂
七つの島から成る群島の影を目ざとく見つけて、レオナが指さす。
﹁よし、あと一時間もあれば岬が見えるぞ﹂
順調すぎるほど順調に文洋達は北北西目指して飛び続ける。岬が
見えれば東に回って、どこか港町で一休みだ。ローラはどうしてい
るかと振り返ると上を向いて何かを見つめていた。
﹁ローラ?﹂
風で消えないように大声で文洋が問いかける。
﹁フミ、あれ﹂
ローラが指差す先、上空に飛行船二隻をつないだような影が浮か
んでいる。
﹁ヒュードラ⋮⋮﹂
影を見上げてレオナが右手を口に当て、息を呑む。
163
﹁ヒュードラ?﹂
﹁同盟の航空母艦! わたしが落とされた日には後詰を⋮⋮﹂
⋮⋮俺が落とされた日の戦闘機はあんなところから来てたのかよ。
文洋が影を睨みつける。
﹁星誕祭はもう一日あって、休戦中だろ﹂
﹁⋮⋮私達を探して?﹂
ああ、と文洋は空を見上げた。半島南端の基地レブログから片道
一五〇マイル、武装した戦闘機なら片道でギリギリといった所だ。
どこに浮かんでたのかしらないが、その気になれば一週間でも浮
ねんごろ
いていられる飛行船だ。最短距離を飛ぶ文洋達を捕まえるなら、こ
こは絶好のポイントだった。
アリシアと三都同盟がどこまで懇意にしているかは知らないが、
そこまでしてレオナを消したいのだろうか?
﹁わからん、とりあえず逃げるぞ﹂
あいにく、雲ひとつ無い。夜陰に紛れるにも﹃スレイプニル﹄の
魔法推進器は彗星のように緑の尾を引いている。どうぞ見つけてく
ださいと言わんばかりだ。
﹁フミ、来ます、二機﹂ 背後からローラの声。
排気炎が上空から二つ、降ってくる。
﹁この夜間に直援機までだしてんのかよ、二人ともつかまってろ﹂
スロットルを押し上げ、文洋はスレイプニルを加速する。
164
速度計がたちまち跳ね上がり一三〇マイルを指す。 ﹁一撃ずつ避けれたら逃げ切れる﹂
上を睨みつけてタイミングをはかる。
来い、さあ来い。
軽く右ペダルを踏んで機体を滑らせた。
動きが地味な分、こういう時は気取られにくい。
ザアッと夕立のような音を立て、曳光弾の雨が機体左を行き過ぎ
る。
一気にスティックを倒しこんでバレルロール。
﹁﹁キャアッ﹂﹂
振り回されて二人の悲鳴が響いた。
二機目の放った機銃弾がコックピット上方の虚空を穿って消える。
ウォン!
風切り音を上げて黄色い機体が通り過ぎた。
あて舵をして水平飛行に戻すと、文洋はレオナの左手ごとスロッ
トルを一杯に上げる。
﹁レオナ、しっかりしろ、逃げ切れる﹂
レオナが気を失えば、おそらく推進器が止まるだろう。
﹁わ⋮⋮わたしを誰だと思ってる⋮⋮の?﹂
﹁その意気だ﹂
165
肩で息をしながら、強がってみせるレオナに文洋が声を上げて笑
う。
推進器から緑の尾を盛大に引きながら、スレイプニルが加速した。
﹁フミ、あれ﹂
追撃を振りきった所で、今度は前方に曳光弾の光が見える。
追われている機影はテルミアの偵察機のようだ。
﹁あれは⋮⋮墜とされるな﹂
文洋の言葉にレオナが身を硬くする。
﹁助けてあげられないの?﹂
﹁武器がない﹂
﹁武器なら⋮⋮﹂
グイとスロットルを握りしめて、レオナが前方を見据えた。
﹁ここに﹂
計器盤の中で赤水晶が力強く輝くと、機体の前に火の玉が現れる。
おいおい⋮⋮。文洋が目を丸くする。
﹁行って!﹂
撃ちだされた火の玉が偵察機の後方で破裂する。追っていた戦闘
機がすんでのところで回避すると、スプリット機動でこちらに向き
直る。
166
﹁言わんこっちゃない﹂
背を向けた敵に偵察機が機銃を浴びせるが、いかんせん速度が違
う。 ﹁レオナ、風の盾を、そのまま突っ切る、ローラ、伏せてろ﹂
レオナに指示をだし、文洋がペダルを蹴って軸線をずらす。
魔法の盾でヘッドオンからの一撃だけ凌げば、スレイプニルなら
逃げ切れる。
振り返り、ローラが頭をかがめて小さくなるのを見届ける。
推進器が高く吠え、一五〇マイルまで機速を引き上げる。
軸線をずらしたまま、敵を右に見て並行に行き違う⋮⋮刹那!
強引に機首を巡らせ、黄色い機体が発砲。
﹁ダメ!﹂
レオナが悲痛な叫びを上げる。とっさに右ロール。
機首側で数発、緑色の燐光走って機銃弾を弾く。
火花が散り、スレイプニルの側面に銃弾が当たる。
﹁くそっつ!﹂
黄色い機体に白狐のペイント。アイツか!
強引に斜めに飛んだ黄色い機体が失速、フラットスピンで墜ちて
ゆく。
立て直した所で、追いつけはしないだろう。
スロットルを閉じて文洋は操縦系をチェックする。
速度計が割れた以外は問題なさそうだ。
いつの間にか横に並んだ偵察機が翼を振って礼をよこす。
167
﹁レオナ、ケガは?﹂
﹁大丈夫⋮⋮﹂
﹁ローラ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ローラ!﹂
文洋がベルトを外して後ろを振り返った。ブライアンから拝借し
たゴーグルにヒビが入り、ローラの額から血が流れている。
﹁くそっ!﹂
﹁フミ、ローラは?﹂
﹁前を見て、今は前だけを見てろ﹂
﹁⋮⋮﹂
鬼気迫る文洋の形相に、レオナが怯えたように頷く。
血の気がひくのを感じながら、文洋はスロットルを全開にする。
早く、もっと早く。
時速一七〇ノットで空を駆ける神馬すらもどかしい。
全てを振り払って﹃スレイプニル﹄は北北西、レブログ基地を目
指して夜空を駆け続けた⋮⋮。
168
猟犬と軽騎兵︽ケンタウロス︾
﹁フミ、あれ!﹂
背後のローラを気遣いながらも、言われたとおりに前を見すえて
いたレオナが、水平線に浮かび上がる陸地を指さした。
﹁右手に小島がみえないか!?﹂
計器盤の灯で、かろうじて読める地図に目を落としたまま、文洋
が問いかける。
﹁見える、小さいのが三つ!﹂
﹁わかった﹂
おおよその位置を地図で掴むと、文洋は方位を合わせた。飛行場
は城塞都市の北側だ。緑の光の尾を引いて、時速一七〇マイルで飛
ぶ﹃スレイプニル﹄だが、ローラの容態がわからない現状では、そ
れすらもどかしい。
﹁街の灯! 正面少し右﹂
﹁いい目だ﹂
文洋の焦りを感じ取るように、レオナも目を皿のようにして目的
地を探し続ける。テルミア最南端の街レブログは、海運の要として
発展し、海賊や他国との争いを経て、今や街そのものが六マイル四
方の壁で守られた巨大な城塞であった。
華麗で優雅な首都とは違い、舳先を並べる海軍の艦艇、ベトンの
169
城壁に据えられた巨大な要塞砲、その後ろに広がる青い瓦の都市は、
全てが冷たい雰囲気に包まれている。
そんな見知らぬ街で、深夜に医者を探して時間を食うより、胴体
着陸してでも、街の北側にある空軍基地に降ろして軍医に見せたほ
うがいい。文洋はそう判断して飛び続けた。
﹁あれ?﹂
﹁ああ、あれだ﹂
北端の城壁を超えて街を背にする。首都南方の第一航空隊の基地、
それより一回り大きな滑走路が見えてくる。
自分の存在を知らせるべく、見張り台の上を低空飛行。
慌てた見張り員がサイレンを鳴らし、歩哨たちが走り回るのが見
える。文洋はスロットルを閉じると、基地上空を緩旋回しながら速
度をおとした。
﹁レオナ、水辺を探してくれ﹂
旋回しながら、文洋があたりを見回す。堀でも池でもいい、水面
に降りられるなら、地面よりはマシだ。
﹁フミ! この子は壊していいから早くおろして!﹂
そんな気持ちを見透かしたように、グイと振り向いてそう言うと、
レオナが文洋をまっすぐに見つめる。
﹁レオナ、魔法でゆっくりおろせないか?﹂
﹁ルネなら魔法で下ろせたかもしれない、でも私にはこんなに大き
くて重たいものは無理﹂
﹁わかった、ありがとう﹂
170
﹁フミ! いいから早く!﹂
レオナの悲痛な声に覚悟を決めて、文洋は一旦基地から離れると
着陸態勢に入る。
速度計が壊れているので、機体の挙動だけを頼りに速度をギリギ
リまで殺す。
二度ほど着水した感じだと、素直な機体だ、難しくはない。
﹁レオナ! スロットルは放していい、しっかりつかまってろ﹂
ぎゅっと抱きつくレオナを、左手一本で抱きかかえ、文洋は操縦
桿を操った。
滑空する、地面が近づく。一瞬、浮き上がり空気の上を滑るよう
な感覚。
軽く操縦桿を引いて速度を落とす。
ドスン! ザザザザザ!
機体の底を土が削る音がする、左右の翼に付けられたフロートが
小石を巻き上げ機体を叩く。
ザザザザ! ガキン!
止まりかけた所で右のフロートが外れて飛んでゆく、支えを失っ
た翼の先端が地面を擦る。傾いたまま円を描くように半回転、滑走
路脇の草むらに突っ込んで止まる。
﹁レオナ?﹂
﹁わたしは⋮⋮平気⋮⋮﹂
171
抱きしめていた腕を放し、レオナが立ち上がろうとしたところで、
文洋はロープで二人がつながっていた事に気づいた。
ブーツからナイフを引き抜き、ロープを切り離す。
﹁ローラ!、ローラ!!﹂
ローラの名を呼びながら、レオナがコックピットから飛び降りた。
文洋も立ち上がり、ローラの元に駆けよる。
首筋に指をあて脈をみる。幸い、脈はしっかりしているようだ。
ベルトを外してコックピットから引っ張り出す。ブライアンの荷
物から拝借してきたゴーグルは縁が歪みヒビが入っていた。
抱き上げると手にヌルリとした感触、ローラの右の腿に機体の破
片が刺さっているのが目に入る。
﹁触るな﹂
破片に手を伸ばしたレオナを叱りつけ、文洋はそっとローラを地
面におろした。ローラの飛行服からベルトを引き抜くと、腿の付け
根をきつく縛る。
フライトジャケットを脱ぎ、飛行服をはだけるとシャツの袖を引
きちぎって、破片が抜けないように巻きつける。
必死に手当をしている背後から駆け寄る蹄の音がする。警備兵か
?思いながらも文洋は止血の手を止めない。
﹁両手を上げろ、何者だ!?﹂
すいか
誰何するたくましい声と、遊底の引かれる金属音。
172
﹁テルミア空軍、第一航空隊所属、フミヒロ・ユウキ少尉。傷病休
暇中だ﹂
足の手当を終えた文洋は、ローラの額の止血をレオナに任せ、両
手を上げて振り返る。
そこには、堂々とした体躯を紺の軍服に押し込んだ騎兵曹長が立
っていた。紺色の軍服に赤い襟と袖、着剣した騎兵銃。だが曹長は
馬に乗っているわけではなかった。下半身が馬そのものなのだ⋮⋮。
﹁そちらのご婦人は?﹂
横たわるローラと、涙にくれるレオナを、ケンタウロスの騎兵曹
長が銃の筒先で示す。
﹁妻と娘だ、詳細は後で話す。妻が同盟の戦闘機に撃たれた、一刻
を争う。軍医か衛生兵を頼む﹂
﹁お医者様を、早く⋮⋮﹂
レオナのすがるような目に、曹長が銃を担ぎ直す。
﹁鞍のない馬に乗れるか?﹂
﹁ああ、大丈夫だ﹂
﹁では、奥さんは私が、娘さんとあなたは後ろに﹂
﹁私を信用していいのか?﹂
あっさり警戒を解いた曹長に、文洋は逆に驚く。
﹁信用したわけではない、だが必要なときに女と子供を守れないな
ら兵士など必要ない﹂
﹁感謝する﹂
173
文洋がローラを抱き上げて曹長に手渡す。膝を折ってくれた曹長
の背に文洋とレオナがまたがると、だく足で滑走路を走りだした。
§
騎兵曹長の背に運ばれて司令部棟についた文洋達は、突然の闖入
者に興味津々といった体の野次馬に囲まれた。十重二十重の人だか
りの中、目ざとく文洋を見つけたラディアが声をかけてくる。
﹁ユウキ少尉!﹂
﹁フェアリード准尉、医務室は? 衛生兵でもいい﹂
レオナをおろして、曹長の腕からローラを受け取る。集まった男
たちがざわつく中、ラディアの判断は実に素早かった。
﹁フェデロ! エレイン先生叩き起こしてきな、そこのボンクラは、
ぼけっと突っ立ってないで担架持ってくる!﹂
オレ? と自分を指さしたバーニー伍長の尻をブーツで蹴飛ばし
て走らせると、ラディアがランタンを持ってローラのそばに座り込
んだ。
気を失ったローラのまぶたを開いて、光を当てながら瞳を片方ず
つ覗き込み、手首で脈を図る。隣で泣き続けるレオナを見つめると、
ラディアはレオナの髪をくしゃくしゃとかき混ぜてにっこり笑った。
なりわい
﹁大丈夫、あたいらダークエルフは昔から殺しが生業だが、この程
度のケガじゃ人は死なないもんさ﹂
﹁ほんと?﹂
﹁ああ、嘘だったらこの尖った耳を片方あげるから、髪飾りでも作
174
るといい﹂
ラディアの笑えない冗談に、レオナが泣き笑いの表情を浮かべた。
﹁伝令!﹂
﹁ハッ!﹂ 文洋が声を上げると寝起きなのだろう、着崩れたシャツにグレー
の半ズボンの少年兵があたふたと駆けよってきた。
﹁基地司令に伝令、レブログ沖南南東、一五〇マイル付近で同盟の
空中母艦、警戒されたし﹂
﹁復唱します、レブログ沖南南東、一五〇マイルに同盟の空中母艦、
警戒されたし﹂
文洋の言葉に、集まっていた野次馬たちが我に帰り、蜘蛛の子を
散らすように持ち場に駆けてゆく。再度サイレンが響き、サーチラ
イトに灯がともる。
高射砲陣地のカモフラージュネットが取り払われ、鋼鉄の牙が天
空に向けられる。当直らしい四機の﹃スコル﹄が、十分とかからず
払暁の空に舞い上がっていった。
﹁フミ?﹂
﹁ローラについてやっててくれ﹂
レオナにそう言って文洋は立ち上がる。ふつふつと腹の底から湧
き上がるのは、怒りというには余りにドス黒い感情だった。偶然に
しろ、必然にしろ、二度相まみえ、二度敗北した。
奴らの目的がレオナにしろ、テルミアにしろこのツケは必ず払わ
175
せてやる。
﹁准尉、俺の機体を知らないか?﹂
ダークエルフの偵察機隊に、指示を飛ばすラディアに文洋が声を
掛ける。薄い紫の入った銀髪を揺らしてラディアが振り返り、琥珀
色の瞳でじっと文洋を見つめた。
﹁では私を連れて行って下さい、目が効きます﹂
﹁機体は?﹂
﹁ブライアン少尉のものがあります﹂
﹁許可を取る時間がない﹂
﹁非常時です、司令部も目をつぶってくれます﹂
﹁だが⋮⋮﹂
そこまで言って文洋は言葉を切った。エルフの元老院議長の三女
の嫁に身元不詳の養女、アリシアの四大騎士の紋章が入った盗難飛
行艇。ここまでくれば営倉入りが追加されてもたかが知れている。
やれやれ⋮⋮とため息をついて文洋はラディアにうなづいて見せ
た。
﹁わかった、行こう、俺が責任を取る﹂
払暁の薄明かりの中、カラフルな複葉機達が次々に舞い上がる。
ラディアの後を追ってハンガーに駆け込んだ文洋は、棚に積まれた
ドラムマガジンを三つ、小脇に抱えて機体に走る。
﹁准尉、予備弾薬!﹂
先を走るラディアが苦笑いして、棚に取って返すとクッキー缶ほ
176
どのドラムマガジンを三つ抱えて赤い機体へと走った。
﹁よう坊主、ケガはどうした!﹂
﹁ああ、問題ない﹂
フリント整備中尉の大きな声に答えて、文洋は愛機に走った。は
たと思い当たり、文洋は取って返すとフリントに駆け寄った。
﹁おやっさん、頼みがある﹂
﹁なんでえ﹂
﹁滑走路脇の機体な、計器盤の裏に大きな水晶が入ってるんだ﹂
﹁なんだ、あれお前が乗ってきたのか、水上機を地べたに降ろしや
がって﹂
﹁外して、俺の娘に返してやってくれ、彼女の最後の宝物なんだ、
頼む⋮⋮﹂
面倒臭そうな顔をした後、大きくうなずき、フリントが手にした
レンチで機体を指した。
﹁お前の機体な、あれ、エンジンがダメだったんで﹃レイフ﹄の予
備をとっつけてある﹂
﹁ちゃんと飛べるのか?﹂
﹁ダークエルフのお嬢ちゃんに乗れて、おめえが乗れねえってこた
ねえだろ﹂
ラディア准尉は俺が居ない間に随分楽しんだらしい⋮⋮。
ブライアンの紅い機体を点検するラディアが、こっちを見て小さ
く敬礼する。
﹁わかった、後は頼むおやっさん﹂
177
文洋が整備兵と一緒になって、ハンガーから機体を押し出す。隣
で整備兵達に押される紅い機体には、既にラディアがチャッカリと
乗り込んでいた。
⋮⋮女の子の特権かと、文洋は苦笑いする。
整備兵の肩を踏み台にして、文洋が乗り込む。下から投げ渡され
たドラムマガジンをキャッチして、一つを機銃に取り付ける。残り
を座席横のネットに押し込んで文洋は操縦系を軽くチェックした。
﹁まわーせー﹂
聞き慣れたエンジンとは違った重い音と共にプロペラが回り出す。
滑走路を蒼い機体が加速する。
視界の端に傾いて止まるスレイプニールが入った。モヤリと黒い
ものが心に浮かぶ。
⋮⋮今度こそ⋮⋮。
そんな心を受け止めるかのように、群青の機体が力強く雄叫びを
上げ、夜明けの空へ駆け上った。
178
猟犬と復讐の女神
ラディアを伴って離陸した文洋は、城塞都市上空で旋回しながら
高度を稼いだ。上をとられては首都攻防戦の二の舞いだ、奴らの戦
い方はよくわかっている。
﹁どうするんです少尉?﹂
左後ろのすぐ耳のそばで、ラディアの声が聞こえて文洋がビクリ
と飛び上がる。振り返った文洋のとなりで、シルフが舞っていた。
﹁俺の声も聞こえるのか?﹂
翼を重ねんばかりに近づいたラディアが頷くのが見える。
ウィンドウィスプ
﹁風の囁きです、戦闘中は難しいですが﹂
ローラといい、レオナといい、まったく驚かされる。
﹁いいか、フェアリード准尉、敵機は小回りが効かないがこちらよ
り速い﹂
﹁それで?﹂
﹁上空から一撃離脱で襲ってくる﹂
﹁だから相手より上を取ると?﹂
﹁そうだ、今日こそは奴らに一矢報いてやる﹂
ゴーグルを上げて文洋はラディアを見た。
179
﹁復讐ですか?﹂
ラディアもゴーグルを上げ、文洋を見つめ返す。その視線を受け
止めて文洋は返答した。
﹁半分はな﹂
﹁残りはなんです?﹂
﹁男の意地だ﹂
文洋の答えに、ラディアが微笑んだ。
﹁お手伝いします、ユウキ少尉﹂
白み始めた空の下、南へと針路を取りながら、二機はなお高度を
上げ続ける。南に向かってから十五分、ラディアの緊張した声が響
いた。
﹁一時方向、低空、空戦! 敵六、味方⋮⋮八!﹂
﹁高度を上げ続けろ、針路そのまま﹂
視力には相当自信のある文洋だが、薄暮ではせいぜい昼間の七割
といったところだ。よくまあ敵味方まで識別できるものだ。思いな
がら、そう指示して文洋は高度を上げ続けた。
数はこちらが多くても、高度を取って待ち構えていた向こうが有
利だ。普段の文洋なら真っ先に助けにゆくだろう。
だが、あの白い狐はあそこには居ない。そんな確信が文洋にはあ
った。奴は味方が不利になるまで出てこない、なら自分の敵はあそ
こには居ない。
﹁少尉!?﹂
180
﹁針路そのまま!﹂
ラディアの声に指示を繰り返し、文洋は南の空を睨みつける。
﹁十一時方向、下方、敵機二!、さらに後方、飛行船!﹂
⋮⋮居た。
デカブツ
﹁准尉は飛行母艦をおどかしてやれ、戦闘機は任せろ﹂
﹁でも、相手は二機です!﹂
﹁行け!﹂
﹁っつ、了解!﹂
不承不承という返事をして、ラディアが飛行船に向かう。ザワリ
ヘッドオン
と冷たい風を残してシルフが掻き消えた。
ラディアが増速、先行するのを見て、反航戦に持ち込もうとして
いた二機のうち一機が、慌ててラディアの機体を追って上昇反転す
る。
残りの一機は、そのまま機首をこちらに向けて上昇してきた。
﹁⋮⋮﹂
ループ
文洋は妙に醒めた頭で、反転した機体の宙返りの頂点を予測。ラ
ダーを蹴って機体を少しずつ左に滑らせ、スロットルを全開にした。
文洋に機首を向けた敵機が発砲、曳光弾の雨が右翼のすぐ脇を通
り過ぎる。すれ違いざま、文洋は敵の胴体に描かれた白狐のマーク
を目にして笑う。
奴だ、見つけた。
181
ループ
そう思いながらも、目前の宙返りで速度の落ちた敵機に、殺意を
込めた一連射を浴びせかける。
背面飛行の敵機のコックピット周辺に火花が散った。
なおも、母艦を守ろうと水平飛行に戻そうとする敵に合わせ、文
洋は機体をひねり背面飛行。至近距離から長い一連射を叩き込んだ。
カキン、と弾切れの機銃が音を立てて止まる。
バッと血の花を咲かせて、敵機が傾き⋮⋮空から落ちていく。
後ろを振り向いて、残りの一機がまだ遠いのを確かめてから、文
洋は空のマガジンを外して放り投げた。座席の横から新しいマガジ
ンを取り出して取り付ける。
﹁さあ⋮⋮! 来い!﹂
自分が笑っているのを不思議に思いながら、文洋は操縦桿を左に
倒すと水平旋回。
ナイトオブザスカイ
白狐めがけてひと息に距離を縮めた。
飛行騎士の名の通り、馬上試合よろしく蒼と黄色、二機の機体が
発砲炎を閃かせて交差する。
天かける駿馬が相対速度二五〇ノットですれ違い、お互いの翼に
機銃弾が突き刺さる。
帆布の主翼に穴があき、ビュウと音を立てた。
黄色い機体が速度を保ったままロールして降下、スプリット機動
で機首をかえす。
文洋は左斜め上にゆるくループを描いて上昇した。
﹁こらえろ﹂
換装したエンジンが唸り声を上げ、馬力まかせに軽い機体を薄暮
182
の空へ押し上げる。
背後で黄色い機体が発砲するのを無視して、なおも上昇、背後か
らの発砲がピタリとやんだ。
チリチリと首の後ろに電気が走る。文洋は目を見開いた。
スロットルを閉じる。
ぐいと操縦桿を右後ろに引きつけ、右のペダルを蹴り飛ばす。
グルリと天地が回る。
タイミングをずらされた火球が、ボン!と音をたて背後で破裂す
る。
﹁これでっ!﹂
スロットルを全開、ブレる機首を全神経を集中して押さえつける。
再度ヘッドオン、長い長い一連射。
尖った機首に銃弾が吸い込まれ、火花が上がる。黄色い機体が白
煙を吹いた。
二機が垂直にすれ違う。
コックピットを睨みつけた文洋の目に、茶色の髪に無精髭の男が
自分を睨みつけているのが入った。
降下して距離を取る。空になったマガジンを放り投げ最後の予備
を取り付ける。
水平旋回で反転、飛行母艦を目指して逃走する黄色い機体を追い
かけた。
﹁速く、もっとだ﹂
全開にしたスロットルを叩くようにして、文洋は歯噛みする。
183
その時、視界の奥にある飛行母艦から煙が上がるのが見えた。
ラディアか、なにをやったんだ?
スコル
ジリジリと間合いをつめながら白狐を追う文洋の視界に、こちら
に逃げてくる紅い機体が目に入った。敵に背後をとられている。
文洋の機体の下をくぐるようにして、紅い機体がバレルロールで
行き過ぎる。ひと息おいて敵機が発砲しながら通りすぎてゆく。
クソッ⋮⋮。
白煙を引いて前を行く黄色い機体を睨みつけ、文洋は上昇、反転。
ラディアを追う敵機に向かった。
救援を期待してか、急減速したラディアが、クルリ、クルリと横
の旋回戦に持ち込む。
旋回戦に持ち込まれた敵は後ろをとられまいと、馬力とロール速
度を活かして大きく上昇、大回りしてラディアの後ろを狙う。
旋回戦が得意な機体でも、相手の技術が一枚上手ならジリジリと
追い詰められる。
文洋が距離を詰める。ラディアに向けて一撃を放った敵が再度ゆ
るく上昇する。教本通りのハイスピード・ヨー・ヨー。
その上昇してくる鼻先に文洋はありったけの銃弾を叩き込んだ。
火花が散りエンジンが黒煙を上げる。
飛び散ったオイルが黄色い機体に黒い筋を付けてゆく。
しばらく水平飛行していた敵機だが、不意にカクンと機首を落と
すと、夜明けの海めがけて降下していった。
後ろを振り返ると、派手に煙を噴き上げる飛行船から赤色の発光
弾が大量にばら撒かれるのが見えた。
敵も引き潮というわけだ。
184
来た時と同じように翼を並べ、文洋達は基地へと機首を向ける。
途中、母艦に引き返す敵機と翼を振ってすれ違う。
文洋は自分の中でどす黒い感情が溶けてゆくのを感じた。
俺の殺したパイロットにも家族はいるだろう⋮⋮。
朝日にきらめく海に黙祷して、文洋は北へと針路を取る。
§
﹁ユウキ少尉、助かりました﹂
またしても突然、耳のそばでラディアの声がして文洋はビクリと
なった。戦闘機に乗っている時に、間近で話しかけられるのはどう
も慣れない。
﹁フェアリード准尉こそ、単騎で敵の母艦を撃退するなんて、大し
たもんだ﹂
﹁ラディアで良いですよ、少尉。でも、飛行戦闘中に魔法はダメで
すね、隙ができる﹂
﹁俺もそれで助かった﹂
あの場面、相手が魔法でなく機銃の撃ちあいを選んでいれば、良
くて引き分けだっただろう。
﹁それで、ラディア、どうやったんだ、敵の母艦から煙が見えたが
?﹂
﹁ああ、あれですか?ちょいと銃撃してやったら、ハッチを開けっ
放しにして逃げ出したバカな見張がいたんで﹂
﹁それで?﹂
185
﹁サラマンダーを召喚して、ハッチから一匹放り込んでやりました﹂
﹁⋮⋮っく﹂
ミスリル装甲に防護符、ドラグーン隊の魔法攻撃すら凌ぎきる魔
法防護も、艦内にサラマンダーを放り込まれては型なしというわけ
だ。
﹁もう少し時間があれば、中からこんがり焼いてやれたのに残念で
す﹂
﹁そいつはいい、今度は切り込んで白兵戦でもしてみるか﹂
﹁いいですね少尉! それ! ウチの連中なら戦艦一隻でも沈めて
みせますよ﹂
こらえきれず、文洋は声を出して笑った。ラディアも声を上げて
笑う。ひとしきり笑いあった後、ラディアの真剣な声が文洋の名を
呼んだ。
﹁フミヒロ・ユウキ⋮⋮少尉﹂
﹁どうした?かしこまって﹂
﹁復讐の女神に魅入られると、命を縮めます﹂
﹁ありがとう、気に留めておくよ、ラディア﹂
翼を振ってラディアが定位置に戻る。フワリと温かい風を残して
シルフが掻き消えた。
レブログ基地に着陸した文洋は、機体を整備兵に任せると真っ先
に医務室へと向かった。薬臭い医務室で、額に包帯をまかれたロー
ラが眠っている。
﹁来たわね、色男﹂
186
隣の部屋から、肉感的な美女がやってくる。
﹁エレイン先生、ロー⋮⋮﹂
﹁シッ﹂
唇に人差し指を押し付けられ、文洋はそこで言葉を飲み込んだ。
﹁その子は眠ったばかりなの、寝かせてあげなさい﹂
白衣のポケットからシガレットを取り出して咥えると、アップに
した金髪をほどいてエレインがベッドを指さした。
ローラの隣のベッドで、毛布にくるまったレオナが、猫のように
丸くなって眠っている。エレインに肩を叩かれ、文洋は後に従った。
﹁火、持ってる?﹂
ポケットからオイルライターを出すと、文洋はエレインのシガレ
ットに火をつける。
﹁それで先生、ローラは?﹂
ヒーラー
﹁そうね、二ヶ月ほどは歩くのに苦労するでしょう、額の方は腕の
いい治癒術士に任せたほうがいいわね、傷が残ってはかわいそうだ
から﹂
﹁よかった、ありがとう﹂
﹁それで、あの子達はあなたの何なのかしら?﹂
軽く握った拳で左の鎖骨をトン、と叩かれる。
﹁つっ、妻と娘⋮⋮だと言ったら信じてもらえますかね?﹂
187
﹁どうかしらね、あと、あの飛行艇、アリシア貴族の紋章が入って
るって噂になってるわよ?﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
ポケットからシガリロを取り出して、文洋は火をつける。一口吸
って、天井を見上げた。
﹁エレイン先生、とりあえずお願いがあるんですが﹂
﹁なあに? 高いわよ?﹂
﹁身体で払いますよ﹂
文洋の軽口に笑みを浮かべて、エレインが小首をかしげた。
﹁セレディア=エレフ共和国の大使館に手紙を届けてもらえません
か?﹂
﹁エルフのお嬢さんの保護を?﹂
﹁ええ、娘もセレディア国民なので⋮⋮、あとソールベル伯爵家に
電報をお願いします﹂
﹁ソールベル伯爵夫人?﹂
軽くうなずいて、文洋はシガリロを吸い込んだ。 開け放たれた窓から、夏草の香りのする風が吹き込み、吐き出し
た紫の煙をかき消していった。 188
花束と猟犬
威徳の白百合
﹁ん⋮⋮﹂
目を覚ましたローラを覗きこんでいたのは、文洋でもレオナでも
なく、金髪の人間の女性だった。
身体を起こそうとしたところを、優しくだが力強く抑えられ、再
び薬臭い枕に頭をもどす。
﹁ここは?﹂
問いかける言葉に、ローラの肩を抑えた女性がローラの瞳を覗き
込む。
﹁ここはレブログ基地の医務室、私は医者のエレイン。ローラさん、
この指は何本に見えますか?﹂
﹁二本です﹂
﹁そう、頭痛や吐き気は?﹂
﹁ありません⋮⋮あの、レオナとフミは?﹂
シーっと指を唇に当てて、エレインが指さした方向を見ると、レ
オナが毛布をかけられ眠っていた。
﹁レオナ⋮⋮よかった⋮⋮、フミは?﹂
カルテを書く手を止めてエレインが困った顔をしてローラを見つ
189
める。
﹁もしかして⋮⋮﹂
エレインがベッドの横にかがみこみ、ローラの耳元で囁いた。
﹁彼は無事、今のところは。ただ⋮⋮立場は厄介ね﹂
﹁フミはなにも間違ったことはしていません﹂
﹁そうね、そういう人だとは私も思うけれど⋮⋮﹂
苦笑する気配に、少しムッとしてローラはエレインに向き直る。
﹁なにも処罰されるようなことはしていません、娘の家族を取り戻
しに行っただけなのですから﹂ ﹁そう⋮⋮これ、ユウキ少尉からの伝言﹂
エレインが胸ポケット小さく畳まれた紙片を取り出す。渡された
紙片を受け取ってローラは丁寧に開いた。綺麗な筆記体で一行、文
洋からのメッセージ。
﹃ローラへ、セレディア大使館へ連絡しておいた。私は大丈夫だ、
レオナを頼む﹄
﹁⋮⋮うそつき﹂
つぶやいて、クシャリと紙を握りしめ、ローラはエレインへと向
き直った。
﹁エレイン先生?﹂
﹁はい?﹂
190
﹁フミもレオナも私の大事な家族です﹂
それで? と小首をかしげ、エレインがローラを見つめる。
﹁エルフは家族を大事にします、一度家族と決めたなら、それが他
の種族だとしても﹂
亜人類の多くが人間社会に同化する中、部族社会を評議会の元に
まとめ、巨大な家族として、国家の体をなしているエルフたちの矜
持。
﹁何かお手伝いできることは?﹂
優しく微笑んでエレインがうなずく。
﹁電話をお借りできますか?﹂
﹁なんとかしましょう、でも折角傷をふさいだのですから、医者の
言うことは聞いて頂きます﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
﹁では、ここで大人しく寝ていていること、いいですね?﹂
頷いたローラに背を向けて、エレインが部屋から出てゆく。
十五分後、背中に野戦電話の電線リールを背負った兵士が、大き
な電話機を文字通り小脇に抱えて医務室にやってきた。
﹁エレイン先生、まじ勘弁してください、おやっさんに怒られちま
います﹂
﹁しっ!声が大きい!﹂
エレインの指差す先で眠るレオナを見て、兵士があわてて声を潜
191
める。
﹁すいません﹂
﹁野戦電話の敷設訓練だとでも言っときなさい、バーニー伍長﹂
﹁整備長室の外線電話を外すわ、民間の電話線に割り込みかけるわ
⋮⋮ほんと無茶苦茶っす、営倉入りで済まないっすよ﹂
﹁男が泣き言いわないの!﹂
目を丸くしたローラの前に、伍長が電話を抱えてくる。涙目の伍
長にローラはぺこりと頭を下げた。
﹁主人がいつもお世話になっております、フミヒロ・ユウキの妻で
す﹂
﹁バ、バーニー伍長であります、しょ、少尉殿の奥様でありますか﹂
腕に電話機を抱えてバーニー伍長があわてて敬礼する。ブリキの
玩具のような伍長の様子に笑いながら、エレインが受話器を差し出
した。
﹁どうぞローラさん﹂
ローラに優しく微笑んでから、エレインが伍長に向き直ると指先
を突き付ける。
﹁バーニー伍長、市内の交換手につないであげて。あと、ここで聞
いたことを喋ったら殺すわよ?﹂
﹁しゃべりません、しゃべりません。私はなんにも知りません﹂
直立不動で脂汗を流す伍長に、ローラはクスリと笑って、横たわ
ったまま受話器を受け取った。交換手にセレディア大使館へ繋ぐよ
192
う言いながら、ローラは開けられた窓を見上げる。雲一つない夏空
を、一羽のミサゴが輪を描いている。
⋮⋮今日も暑くなりそう⋮⋮。大使が電話に出るまでの束の間、
ローラは輪を描いて飛ぶミサゴを見つめていた。
§
巡らす紅薔薇
﹁奥様、屋敷からメッセージが届いております﹂
アリシア滞在の最終日、この国随一の高級ホテル、﹃銀の牝鹿﹄
のロイヤルスイートで遅い朝を迎えたローズは、執事の声に眠い目
をこすった。
﹁ブライアン⋮⋮今、何時?﹂
となりで眠る金髪の青年の耳を引っ張る。
﹁いてて、勘弁してくださいよ⋮⋮〇九三○時ですよ﹂
﹁そう⋮⋮、ほら、起きるわよダメ子爵様﹂
﹁えー、もう少し⋮⋮いてっ!﹂
甘えるように腕を伸ばしてくるブライアンにデコピンをくらわせ
ると、ローズはベッドから降りてガウンを羽織った。
﹁いま行くわジェームス、メッセージはテーブルに、あとメイドを
一人よこして頂戴﹂
﹁かしこまりました﹂
193
返答を聞きながら、ローズはカーテンを開く、暴力的な日差しが、
遠慮無く寝室へとなだれこんでくる。
﹁うぉ、まぶしっ﹂
長い金髪をクシャクシャとかき混ぜながら、ブライアンが身体を
おこすのを見て、ローズはクスリと笑った。
﹁ほら、メイドが来る前に服を着て! 荷物をまとめたら戻ってい
らっしゃい﹂
﹁へいへい﹂
ゴソゴソと服を着ると、シャツを出したまま自室へ戻るブライア
ンを横目で見送り、ローズはバスルームへと向った。
長いブルネットの髪をまとめ、シャワーを浴びる。熱い湯が、二
日続けての豪華な夜会と、官能的な夜の甘い記憶を洗い流してゆく。
﹁さてと、こんな朝から届くメッセージなんて、ロクなのが無いの
だけれど⋮⋮﹂
着替えをメイドに手伝わせながら、電報で屋敷から届いたメッセ
ージに目を通す。
︱︱ ムスコ イガイ ブジニ カエル シエン コウ F.Y.
﹁ほら、やっぱりロクでもない﹂
ムスコ
息子は執政官に連れてゆかれたというレオナの弟のことだろう。
それ以外が無事に帰ったなら、まあテルミアまではたどり着いたと
194
ころまでは想像は想像がつく。
その上で支援を⋮⋮というのなら、ユウキが困難な状況に追い込
まれたということだ。袖のボタンを止め終わったメイドが、自分の
険しい表情を、困った顔で見上げているのに気づき、ローズはニコ
リと笑った。
﹁ありがとうメアリ、もういいわ。ブライアンとジェームスを呼ん
でくれるかしら?﹂
﹁わかりました奥様﹂
ホッとした顔で部屋をでてゆくメイドに苦笑いして、ローズはテ
ーブルに用意された紅茶を一口飲んでから、頭の中でパラパラと名
簿をめくった。
﹁奥様、およびでしょうか?﹂
﹁スティーブン、屋敷に連絡して、アビエル少将を夕食にお招きし
て⋮⋮そうねなるべく早いほうがいいわ﹂
﹁わかりました﹂
﹁あと、この間、結婚のお相手探しを頼まれていたサンデル子爵の
お嬢さん、えーと﹂
﹁ミランダ嬢でございますか?﹂
﹁そうそう、あの綺麗なお嬢さん、あの子もご招待しましょう﹂
禿げ上がった頭に整った口ひげ、片眼鏡の執事が他に御用は? という表情でローズを見る。
﹁あと、屋敷に戻ったら、ユウキ少尉についての情報を集めてちょ
うだい、奥さんと娘さんの事も不自由がないように取り計らって﹂
﹁了解いたしました﹂
195
一礼して扉を締める執事を見送り、ローズは窓の外の夏空を見上
げる。
⋮⋮まったく、男というのは⋮⋮。
ローズがため息を一つついた、レースのカーテンを揺らして、海
風が吹き抜けてゆく。
§
ラベンダー
怒れる薫衣草
コウモリ
﹁なんだってユウキ少尉が情報部の連中に捕まってんのさ?﹂
二人で﹃ヒュードラ﹄を撃退してから三日、来客棟に入ったきり
全く音沙汰のない文洋に、ラディアはいら立ちを募らせていた。
挙句、今日の午後に司令部に到着したのは、情報部の連中だ。情
報部が出張ってくるということは、クラーケンに頭から齧られる程
度には面倒事だということだ。
ひよ
﹁姐さん、おさえてください﹂
﹁日和んじゃないよ、フェデロ、あの夜、少尉の娘さんに助けられ
てなきゃ、今頃あんたは魚のエサだったろ!﹂
ダン! とカップを叩きつけ、ラディアがフェデロにまくしたて
る。
﹁そりゃそうですが、ここで姐さんが暴れても、仕方ないでしょう﹂
﹁だいたいなんだい、意気地のない、仲間が理不尽な目にあってる
ってのに、ダンマリ決め込んで?﹂
196
立ち上がって、ラディアが待機所兼サロンで、暇つぶしに興じる
男たちを睨み付ける。一気に冷え込む空気に、ラディアは鼻を鳴ら
した。
﹁あたしがデカブツに火をつけてる間に、ユウキ少尉が落としたの
は二機、追っかけてきた奴までスパンと落として、三機だ、おまけ
に年端もいかない娘さんまで、あたしの可愛い部下を助けてくれた
ときた﹂
そこで一度言葉を切って、ラディアがあたりを見回す。先日、ラ
ディアに食って掛かった候補生が憎々しげな眼でこちらを見ている
のに気が付く。
﹁そこの、坊や、あたしゃ人間の男なんて、あんたみたいなタマナ
シばっかだと思ってたがね﹂
その視線を見据えてラディアは腰にてをあて、豊かな胸を張る。
﹁胆の据わったのが居て安心したよ、もっとも、あたしらと同じ、
アンタの大嫌いな色つきの人間だが、アレになら抱かれてもいいね﹂
しなを作って、襟足をかきあげ、ラディアが扇情的なポーズでウ
ィンクすると、そこかしこから口笛と喝采があがる。居心地悪そう
に、候補生が立ち上がり部屋から出ようとしたその時、待機所の入
り口が開き、よく通るバリトンが響いた。
﹁諸君! 君たちは紳士だということを忘れるな﹂
片腕をギプスで吊り下げ、革のフライトジャケットを羽織ったロ
197
バルト中佐の姿に、部屋にいた全員が一斉に立ち上がり敬礼する。
﹁誰だい?﹂
反射的に敬礼しながら、ラディアは隣のフェデロに小声で尋ねた。
﹁ロバルト・E・バーリング中佐、敵の飛行船に体当たりして落と
したっていう、ドラグーン隊の隊長ですよ、退院してきたんでしょ
う﹂
﹁なんだい、キンタマぶらさげてそうなのが、他にもいるじゃない
か﹂
小声でつぶやいたラディアの方にツカツカとバーリング中佐が近
寄ってくる。
﹁フェアリード准尉﹂
﹁なんでしょうか、中佐殿﹂
中佐が目の前に立ち止まり、ラディアをしげしげと見つめる。ま
た何か言いがかりでもつけられるのかと、ラディアと後ろに控える
ダークエルフ達に緊張が走る。
﹁私がいる限り、我が隊では以後、種族、民族に関しての差別はさ
せない。一切の例外なくだ﹂
﹁わかりました、中佐殿﹂
﹁だから、君も、我が隊に居る間は、キンタマをぶら下げたレディ
として振る舞うように﹂
﹁努力します、中佐殿﹂
吹き出しそうになるのをこらえ、ラディアが目を白黒させて答え
198
る。
﹁よろしい、なおユウキ少尉と君が敵母艦を撃退したという件につ
いて、詳しく話を聞きたい、二十分後に司令官室へ出頭せよ﹂
﹁了解いたしました﹂
司令室への階段を上る中佐を見ながら、ラディアはどうすればユ
ウキ少尉の力になれるか考えていた。
当たって砕けろだ、うちの連中を国に引き上げるくらいの事は言
ってやってもいい。なんといっても中佐公認の﹃キンタマをぶら下
げた﹄レディなのだから。
ニヤリと笑ったラディアの隣で、フェデロが小さくため息をつい
たのには、気が付かないふりをしておいた。
199
猟犬と肉食竜︽ラプトル︾
チラリと時計を見て、文洋はため息をついた。拘束されてから丸
三日、憲兵隊の次は情報部と来た。
﹁さて、フミヒロ・ユウキ少尉、自己紹介をしよう、私の名前はヒ
ースコート、情報部中尉だ﹂
対面に座った爬虫類を思わせる表情の男が、笑いながら挨拶する
なり、文洋は裏拳で殴り飛ばされた。
殴られた方向に身を投げ出し、ダメージを最小限に抑えたものの、
派手に転がった文洋を、憲兵曹長が慌てて駆け寄って抱え起こして
くれる。
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁ありがとう曹長﹂
礼を言って、文洋は立ち上がると飛行服についたホコリを叩いて
落とした。
﹁甘いな、憲兵が甘いから亜人だの黄色い猿だのにナメられる﹂
﹁中尉、我々は女神テルミアと巫女に忠誠を誓った平等と光の守護
者⋮⋮﹂
﹁それで? そのような甘い取り調べで、このスパイは口を割った
のかね、憲兵曹長﹂
座り直した文洋を指さし、情報部少佐が冷たく微笑みを浮かべる。
それを聞いて、文洋は自分の立ち位置がいかに危ういかを再確認し
た。
200
ダークエルフ
﹁スパイとおっしゃいましたか中尉?﹂
ケンタウロス
﹁ああ、貴様のような黄色い猿は、黒兎やうすのろの駄馬同様、王
国を陥れるスパイに決まっている﹂
甲高い声でそう言って、ヒースコート中尉が憲兵隊から受け取っ
た調書を読み上げはじめた。
﹁極東地域、芙蓉国出身、ユウキ伯爵家三男の二十三歳、住所は王
都テルミア、セレディア租借地フェリア通り四番、テルミア航空学
校に留学、卒業後、テルミア空軍に配属、撃墜数は三﹂
﹁五だ﹂
卒業後、最初に配属された第三飛行隊での戦闘と、先日の戦果を
踏まえ、文洋が訂正する。
﹁撃墜数五! エース様じゃないか!﹂
言いながら、ヒースコートに先ほどと反対側の頬を殴られた。今
度も大げさに床に転がって見せる。
﹁中尉!﹂
ヒースコートを睨みつけ、曹長が再度文洋を抱え起こす。
﹁ありがとう、曹長﹂
文洋は再度立ち上がって椅子へと腰掛けた。
﹁中尉の個人的な種族、人種のへ好き嫌いはともかく、こんな不当
201
な扱いをされる覚えはない﹂
口の端についた血を拭って、文洋は胸を張って座り直す。なるほ
ど、自白のための自白をさせようというなら、もうこれは、いかに
負けないかという戦いだ。
ならば、と肚をくくり、文洋は胸を張って、情報部中尉を睨みつ
けた。
﹁気に入らん、実に気に入らん目つきだ﹂
ラプトル
肉食竜のような顔をして、中尉が文洋の視線を受け止めニヤリと
笑う。
四日目の夜、そろそろ夜半を過ぎようかという頃、文洋は昨日の
午後から何十回と繰り返される質問に、ひたすら同じ回答を返し続
けていた。
氏名、年齢、職業、住所から始まるその質問は、ヒースコートが
手にした書類の順番に、時計のように正確に繰り返される。
﹁なぜ休暇中にアリシアに?﹂
﹁娘の弟を亡命させるために﹂
﹁北壁の騎士の紋章の飛行艇はどこから?﹂
﹁娘の財産だ﹂
﹁では、娘は北壁の騎士だと?﹂
﹁そういうことになるな﹂
﹁では何故彼女がテルミアに?﹂
﹁それを聞いたのは引き取った後だ。事実、両親とは死別している
はずだ﹂
ここで決まって、頬に一発、拳が飛んでくる。
202
最初は殴られる勢いを殺していた文洋だが、こう何度もとなると
イイのを何発かもらって、口の中が傷だらけだった。その後も決ま
って同じ質問が延々と繰り返される。
﹁なぜこの基地に着陸を?﹂
﹁妻が負傷したからだ﹂
﹁何故負傷を?﹂
﹁偶然、出くわした連合の戦闘機に襲われた、この基地の偵察隊も
知っているはずだ﹂
文洋は時々殴られながら、淡々と事実を回答し続ける。
機械的に、何一つウソを交えず。
端から対話など求めていない空虚な会話が続く。
時折、思わぬタイミングで突飛な質問が飛んでくる。
﹁芙蓉で軍に所属していた事は?﹂
﹁ダークエルフのパイロットと男女の仲では?﹂
﹁エルフの奥方から、軍務について聞かれたことは?﹂
⋮⋮これは空中戦だ。
イレギュラーな質問を慎重にかわし唐突に殴られながら、文洋は
考えていた。相手はこちらの集中力が切れるのを待っている⋮⋮。
クルリ、クルリと相手の背後を取ろうと、回り続ける空中戦なの
だ。こちらが弾切れで、ただひたすらに避け続けることしか出来な
い、一方的な戦いだが⋮⋮。
賭けられたチップは、自分の名誉と、愛する者の人生。ならば、
203
何日でも、何週間でも、同じ答えを繰り返してやるまでだ。
文洋は殴られるたびに、自分に気合を入れなおした。
これはタフな空中戦だ⋮⋮。
眠気の中、殴られるたびに、文洋は心の中で操縦桿を握り直した。
﹁なあ、ユウキ少尉、私も悪魔じゃない、知っていることを話して
くれないかね?﹂
相変わらず、表情の読めない顔に、貼り付けたような笑顔を浮か
べて、中尉が大げさにため息をついてみせる。
﹁聞かれた事には答えてるさ﹂
腫れ上がった頬で精一杯の微笑みを文洋は浮かべる。ガツンと一
発、イイのをもらって、文洋は気を失った。
§
拘束されてから、五度目の起床ラッパが鳴り響く。
起床ラッパと同時に、ノリの利いたシャツを来たヒースコート中
尉が部屋のドアを開けて入ってきた。
﹁やあ、ユウキ少尉、ごきげんはいかがかな?﹂
﹁⋮⋮ああ、たった今最悪になったところだ﹂
机に突っ伏して眠っていた文洋は、腫れぼったい瞼をこじ開けて、
ヒースコートを睨みつけた。
204
﹁昨年から、テルミア王国と芙蓉が同盟交渉を行っているのは、少
尉も知っていると思うが﹂
バサリ、とテーブルに新聞を投げだして、ヒースコートが忌々し
げに吐き捨てた。
﹁本日の午後の王国議会で、同盟が締結される事が決まった﹂
ギシリ、と椅子を軋ませて中尉が対面に座る。新聞を手に取り、
文洋は一面の記事を眺めた。 戦争のさなかアリシアとの中継貿易
で利益を上げ続ける海運株が高値をつけたという記事が踊っている。
その隣に、テルミア、扶桑両国が明日にも同盟を締結か?という
スイウ
キサメ
テールス
記事と、レブログに入港する扶桑艦隊の様子が描かれていた。
フタバ
﹁巡洋艦 双葉、駆逐艦 翠雨、樹雨、極東の黄色い猿が地球の裏
からご苦労な事だ﹂
そこまで言ってから、胸ポケットからシガレットを出すと、ヒー
スコートが火を着ける。
﹁おかげで君は命拾いして、私は黄色い猿を一匹、狩りそこねたと
いうわけだ﹂
﹁関係がわからん﹂
新聞を突き返した文洋に、シガレットケースを差し出すヒースコ
ートに、文洋は憮然として答える。
﹁我が国と扶桑は相互の権利を認め合うという形で調印式に望むそ
うだ﹂
﹁それで?﹂
205
﹁我が国では、確たる証拠のない場合、貴族の逮捕、監禁、拷問は
禁止されている。この同盟の結果、君の扱いは、我が国の貴族と同
等になったというわけだ﹂
⋮⋮それを気にするようなタマかよ。
﹁情報部がそれを気にするのか?﹂
殴られるのを覚悟で、文洋は差し出されたシガレットに手を伸ば
す。
﹁貴族だろうとなんだろうと、私にとって貴様は祖国に仇なす猿に
違いはないと確信している﹂
言いながも、文洋のシガレットに火を着け、中尉は言葉を継いだ。
コウモリ
﹁だが、私もこう見えて軍人でね、命令は絶対なのだよ﹂
﹁情報部に命令できる奴なんて居るのかよ﹂
一口吸い込んだ途端、口の中の傷に煙がしみて、文洋は涙目でむ
ヴァンパイア
せた。国家のためなら法を犯し、例え貴族でも拉致、拷問し、求め
た答えにたどり着く、血も涙もない集団。黒いコートを吸血鬼にな
ぞらえて、情報部がコウモリと呼ばれる所以。
﹁恐れ多くも、フェリス・エル・テルミア王女殿下からの勅命とあ
っては、我々も手を引かざるをえない﹂
﹁⋮⋮﹂
女神テルミアの巫女、王女とは言うが、実質の最高権威者。
206
﹁どういう手品を使ったかは知らんが、我々は貴様から目を放さん﹂
﹁どういう手品を使ったら王女殿下に助けてもらえるのか、判った
ら教えてくれ﹂
シガレットを灰皿に押し付け、文洋は立ち上がる。
﹁では、失礼します中尉殿﹂
ふん、と鼻を鳴らしておざなりに敬礼する中尉を残して、文洋は
部屋を後にした。
⋮⋮少なくとも、今回は誰かの援護のおかげで辛くも逃げ切った
というわけだ。
§
来客棟を出て、文洋は医務室に向かって歩き出す。セレディア大
使が真面目に仕事をしていれば、ローラとレオナはエルフ居住区か
大使館に保護されているはずだ。それでもひょっとしたら⋮⋮とい
う気持ちがそちらへ足を向けさせた。
﹁まあ、まだ来てないわな⋮⋮エレイン先生﹂
ポーチの柱にもたれると、階段に座り込んで文洋は目を閉じた。
脱力感が襲いかかり、そのまま眠りこむ。
﹁ユウキ! ユウキ! 大丈夫かい!?﹂
肩をゆすられ、文洋は目を開けた。泣きそうな顔をしてラディア
が文洋の顔を覗き込んでいる。
207
﹁君が天使でないなら、多分大丈夫だ﹂
﹁こんな色の黒い天使がいるもんか﹂
言いながら飛びついてきたラディアに文洋は抱きしめられた。暖
かで柔らかいな感触に包まれて、文洋はもう一度目を閉じる。
﹁酷いじゃないか、こんなのって⋮⋮﹂
腫れ上がった頬を撫でながら、ラディアが流す涙が、時折ポタリ
と文洋を濡らす。
⋮⋮ああ、全く酷いもんだ⋮⋮。
その後、出勤してきたエレインに痛み止めを貰い、ローラとレオ
ナがセレディア大使館に保護されていることを聞かされて、文洋は
安堵のため息をついた。
﹃あたしの部下を救ってくれた少尉の家族にゃ、指一本触れさせ
ない﹄息巻くラディアが率いるダークエルフの偵察隊と、何があっ
たのかレオナにえらく肩入れした整備隊が、セレディア大使館まで
の護衛を申し出でて、ロバルト中佐が車両の使用許可まで出したと
いう。
双剣で武装したダークエルフと、小銃で武装した整備隊の車両に
前後を護衛され、目を白黒させるセレディア大使を伴って、基地を
出てゆくさまは中々の見ものだったらしい。
結局、エレインの見立てでもう二日、傷病休暇が延長になった文
洋だったが、真っ先に訪れた大使館でローラに叱られ、レオナには
泣かれ、散々な傷病休暇は幕を閉じた。
208
§
多少アザが残っているものの、部隊に復帰した文洋が待機所でコ
ーヒーを飲んでいると、ブライアンが新聞を持ってやってくる。
﹁おい、フミ、コイツお前をぶん殴ってたっていう中尉殿じゃねー
のか?﹂
﹁んん?﹂
︱︱ 陸軍の軍用車が首都テルミアの広場で突然の爆発、市民四
名と乗員二名が負傷した。後部座席に座っていたアルバート・ヒー
スコート中尉が重傷、警察は燃料漏れによる事故として軍に厳しい
対応を求めていく模様
﹁な? 同じ名前だろ?﹂
﹁ああ、なんというか、嫌な奴だったが⋮⋮﹂
うっかり口にした熱々のコーヒーが、まだふさがらない傷口にし
みてうめき声をあげる。
ソブラ
﹁暗黒神に呪われたんだよ、ナメた事ばっか、やってるもんだから﹂
隣で朝食をとっていたラディアが、ボソリとつぶやいた。新聞か
ら目を上げて、文洋はラディアに目をやる。
ブルーベリージャムをタップリ乗せたトーストを、おいしそうに
頬張るラディアが氷のような冷たい微笑みを浮かべるのを見て、文
洋はとりあえずラディアも敵に回すのはやめようと心に決めた
209
魔術師と艦長︽コマンダー︾
﹁フミ!起きて!﹂
ここは、レブログのエルフ居住区。港を見下ろす高台
そう言って、レオナは深夜に帰ってきてグッタリと眠る文洋をゆ
さぶった。
に建てられた石造りのアパートメントの五階。 危ないから王都に帰るように諭す文洋を、ローラと二人で泣き落
とした結果の仮の住処だ。
﹁んー?﹂
うめき声とも返事ともつかない声を上げる文洋に、レオナは幼い
ころ祖父が飼っていた大きなアリシア狼にしたように、バサリと覆
いかぶさって、ゆさゆさと揺さぶりながら、もう一度、声をかける。
﹁フミ!扶桑の船を見に行きたいの!﹂
﹁んー﹂
ほんとに⋮⋮、お祖父様の飼ってた狼みたい⋮⋮。面倒臭そうに
片目を半分開けて返事をする文洋が何だか可笑しくて、レオナはつ
い笑ってしまう。
﹁もう!﹂
笑いながら、レオナは文洋が潜ったブランケットをぱしぱしと叩
いた。
210
﹁んー﹂
部屋を見回すと、脱いだ軍服の上着が椅子の背もたれにかけてあ
る。ズボンは皺がつきそうで付かない程度に、デスクの上に畳んで
投げてあった。
﹁フミの寝坊助﹂
いくら起こそうとしても、そしらぬ顔で眠っていた老狼にしたよ
うに、レオナはブランケットを引っ剥がし、文洋の頭を胸に抱える
と髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。
﹁判った、おきるよ、おきるから﹂
﹁ホントに?﹂
﹁ああ、シャワー浴びたらダイニングに行くから﹂
﹁約束!﹂
文洋が一度約束すると、絶対に反故にしないのを知っていて、レ
オナはそう口にする。
﹁わかった、約束だ﹂
やっぱり面倒くさそうに片目を開けて返事をする文洋をぎゅっと
抱きしめてから、レオナは寝室を後にした。
§
﹁あら、フミ、今日は早いんですね?﹂
﹁ローラ、フミが扶桑の船を見に連れて行ってくれるって﹂
211
卵と夏野菜のソテーをパンに挟んで、モソモソと口にする文洋を
横目に、レオナは車椅子に座ったローラにそう言った。
﹁あらあら、それは楽しそう﹂
﹁ローラも一緒よ?﹂
少し寂しそうな顔をするローラにそう言って、レオナは文洋に目
をやる。
﹁ああ、ローラも一緒だ﹂
﹁でも、フミ、この足では邪魔になってしまいます﹂
﹁大丈夫、いざとなったらフミが抱っこしてくれるわ、ね、フミ?﹂
ローラが文洋の事を好きなのは、レオナも知っていた。それを考
えると、何故か自分の胸の奥にモヤリと何かが横切る。
だから、レオナはなるべくその事を考えないようにていた。そう
しないと、なんだか今の生活が壊れてしまいそうで怖かった。
﹁車いすは私が押すわ、いいでしょ? ね? ローラ、お願い﹂
﹁そうね、じゃあ支度しましょう。レオナ、着替えを手伝ってもら
えるから?﹂
大使館が護衛をかねて付けてくれたエルフのメイドのシェラーナ
が、まるで珍しい動物でも見るかのように、不思議そうな顔で文洋
に給仕しているのを見て、やっぱりなんだが、祖父の飼っていたア
リシア狼のようだと、レオナはクスリと笑う。
﹁どうしたの?﹂
212
﹁ひみつ﹂
﹁まあ、レオナの意地悪﹂
子供のようにすねるローラに、ニコリと笑うとレオナは車いすを
押して、ダイニングを後にした。
ローラの着替えを手伝って、自分も少しオシャレをしたレオナは、
車いすを押してエレベーターを降りた。
アプローチに回された馬車から、スラリとした青年の御者が降り
てくる。その青年が、男物のスーツ着た先ほどのエルフのメイドの
なのに気づいてレオナは目を丸くした。
﹁シェラーナさん、どうしたの、その格好﹂
﹁シェラーナでいいですよ、レオナ様。私、ローラお嬢様と、レオ
ナ様の護衛ですので﹂
﹁でも、そんな男の子みたいな格好で⋮⋮﹂
﹁この方が動きやすいですから﹂
何か問題でも?と首をかしげる男装のシェラーナは、おとぎ話の
王子様のようだ。
﹁さあ、どうぞ﹂
﹁あ、ありがとう⋮⋮﹂
お姫様のようにエスコートされ、レオナは顔を赤くして二頭立て
の馬車に乗り込む。
﹁フミ?﹂
﹁ん?﹂
213
﹁抱っこ﹂
﹁足は?﹂
﹁痛いけれど、少しだけなら大丈夫﹂
その後ろで、甘えるローラを文洋がお姫様のように抱きかかえ馬
車に乗せた。いいなあ⋮⋮とレオナは少しヤキモチを妬いた。自分
もああやって、腕を伸ばしたら抱き上げてもらえるのだろうか⋮⋮。
ブンブンと頭を横に振って、そんな考えを追い出したレオナは、
馬丁とシェラーナが手伝おうとするのを断り、車いすを馬車の後ろ
に器用に結わえ付ける文洋を見てローラと顔を見合わせて笑いあう。
﹁ねえ、ローラ﹂
﹁なあに、レオナ﹂
﹁あんな伯爵家の息子なんて、わたし見たことがないわ﹂
﹁そうね、フミは不器用で、貴族っぽくないもの﹂
⋮⋮扶桑の人はみんなああなのかしら?
﹁これでよし、さあ、行きましょう﹂
﹁え? えーと、結城少尉?﹂
﹁なんです?﹂
馬車の中ではなく、御者台に当たり前のように座る文洋に、シェ
ラーナが困惑するのをみて、レオナはふたたびローラと二人、顔を
見合わせて吹き出した。
﹁フミ、フミ、あれはなんて書いてあるの?﹂
初めて食べる露天のクレープを手に、レオナは波止場に係留して
ある灰色の軍艦のへさきを指さす。船の名前だろうか、そこには何
214
か丸い文字が書かれていた。
﹁ふたば、ずいう、きさめ﹂
手前に係留された大きな船から順番に、文洋が指さして答える。
﹁文洋の国の言葉?﹂
﹁ああ、扶桑の軍艦は山や川、雨や風の名前がついてるんだ﹂
言いながら、文洋がレオナの顔に文洋が手を伸ばしてきた。
﹁?﹂
見上げたレオナの口の端についたクリームを指で拭い、その指を
ペロリとなめると文洋が手前の大きな軍艦を指さす。
﹁あの大きなのは双葉﹂
かあっと、耳が熱くなる。それをごまかそうと、レオナは文洋に
矢つぎばやに質問した。
ふたば
﹁どんな意味?﹂
﹁巡洋艦、双葉、扶桑の山の名前だ﹂
ずいう
きさめ
﹁ずいう、と、きさめは?﹂
﹁瑞雨と樹雨は、雨の呼び方だ、瑞雨は作物を育てる恵みの雨、樹
雨は朝露や霧が木の葉に溜まって落ちてくるしずくの事だ﹂
﹁フミの国には雨に名前がたくさんあるのね﹂
﹁ああ、雨がたくさん降る国だからな﹂
車いすを押す文洋の袖をつかんで、レオナは雨がたくさん降る異
215
国に思いをはせた。いつか行ってみたいな⋮⋮。そう思いながら。
一般公開されている三隻の軍艦のうち、一番の人気はやはり大き
な巡洋艦だった。ラッタルの前には長蛇の列ができるほどの盛況だ。
だが、レオナは大きな鉄の城のような巡洋艦の奥で、ちんまりと
控えている駆逐艦に目を奪われた。薄いグレーと黒色でしましま模
様に塗り分けられた小さな船は、弟の持っていたブリキの玩具のよ
うで、他の二隻と比べて愛らしく見えた。
﹁フミ、あの小さな船に乗ってみたい﹂
﹁じゃあ行こうか﹂
コトコトと波止場の石畳を音を立てて、文洋に押された車いすが
走る。車いすに乗るローラと手をつないで、レオナは波止場を歩き
出した。
﹁近くでみると、大きいのね﹂
﹁ざっとみて、二〇〇フィートくらいだな﹂
テールス
地球の裏側から来たというのに、ピカピカに磨き上げられた真鍮
の飾り金具と縞模様に塗り分けられた船体。まるで、昨日、出来上
がったばかりのようだ。
この船なら低いからローラの足でも⋮⋮と思ったのだが、この小
さな船のラッタルは車いすを持って上がるのも難しそうだ。
﹁フミ⋮⋮?﹂
﹁シェラーナさんと行っておいで﹂
見上げたレオナに文洋がいった。
216
﹁あの、ローラお嬢様?﹂
﹁ついていってあげて、フミはこう見えても貴方より強いから﹂
ローラの言葉に、シェラーナが懐から短剣を出して渡そうとする
のを片手で制し、文洋が空軍の制服の腋の下をポンポンと叩く。
いつもは武器を持ち歩かない文洋が、腰の後ろに下げている短刀
のほかに、今日は銃まで持ってきたという事実にレオナは自分の愚
かさを反省した。皆はやっぱり大人なのだ⋮⋮。
そんな空気を読んだかのように、シェラーナがにっこりとわらう
と、レオナに手を差しだす。
﹁じゃあ、行きましょうかレオナ様?﹂
﹁あの⋮⋮わたし⋮⋮﹂
﹁大丈夫よ、ほら、行ってらっしゃい﹂
シェラーナに手を取られてラッタルを上がる。あまりの見物人の
少なさに手持無沙汰にしていた水兵が、ブリキの兵隊のように捧げ
筒で迎えてくれた。
﹁ピカピカで綺麗ね﹂
﹁ええ、本当に手入れの行き届いた船ですね﹂
木製の甲板は磨き上げられ、真鍮の手すりの部品は顔が映るほど
だ。日に焼けた男たちは、年若い水兵まで、真っ白でノリの利いた
服を着ている。 レオナが舷側越しに波止場にいる文洋とローラに目をやると、こ
ちらを見ながらローラが手を振っていた。笑顔で手を振りかえしな
がら、狭い艦橋横の通路を通り抜けたとき、角から出てきた誰かに
ぶつかってひっくり返った。
217
﹁危ない!﹂
後ろを歩くシェラーナが抱き止めてくれる。
﹁申し訳ない。お怪我はありませんか? お嬢さん?﹂
レオナが謝罪の言葉を言う前に、真っ白な軍服に金モールの士官
が帽子を取ってそういいながら、片膝をついて、レオナの顔を覗き
込む。
﹁あ、あの、ごめんなさい、わたしが悪いんです⋮⋮﹂
綺麗なテルミア語を話す士官に、慌ててレオナも詫びの言葉を口
にする。そんなレオナにニコリと笑って、口髭をはやした若い士官
が右手を差し出した。
﹁私の名前は、テルフミ。テルフミ・ユウキ、駆逐艦キサメの艦長
です。﹂
﹁わ、わたしはレオナ、あの、ごめんなさい艦長さん﹂
﹁お詫びに、御嬢さん達に扶桑のお菓子を御馳走しましょう﹂
立ち上がりながら、テルフミと名乗った背の高い艦長は、日焼け
した顔をほころばせた。
﹁あ、あの⋮⋮でも⋮⋮﹂
口ごもりながらレオナは波止場の二人に目をやった。その視線を
追って合点がいったという顔をして、艦長がもう一度レオナの前に
かがんで視線を合わせると、ニコリと笑う。
218
﹁大丈夫、お二人もご招待しましょう﹂
﹁でも、足にけがをしたばかりで、あの細い階段では﹂
﹁大丈夫ですよ﹂
ポン、とレオナの頭に大きな手を置いて、艦長はレオナがびっく
りするような大きな声を張り上げた。
﹃ヤマナカ少尉! あそこにいらっしゃる方々を艦にお招きしろ!
テルミア語の勉強が実戦で役立つかやってこい!﹄
﹃了解しました﹄
艦長の後ろに控えていた、線の細い士官が、小さな敬礼をして駆
けてゆく。
﹃甲板長、短艇を降ろせ、足の悪いご婦人をお招きするぞ!﹄
﹃了解﹄
異国の言葉で飛び交う受け答えに、あっけにとられるレオナ達を
しり目に、小さな船がたちまち活気づいた。
﹁みな、この小さな古い船を見に来てくれたのが嬉しいのですよ﹂
部下に次々に指示を飛ばしながら、笑顔を向ける艦長に、レオナ
もつられて笑う。
テールス
地球の裏側からきた小さな船の甲板で、着々と小さなお茶会の準
備が整えられてゆく。なんだか少し、行ったこともない文洋の生ま
れた国の事をレオナは好きになった。
青い夏空に、入道雲が湧きあがる。
219
この空の向こうにも、自分の知らない国が沢山あるのだと、レオ
ナは遠い異国に思いを馳せた。
220
エルフと艦長
﹁あ、あの⋮⋮失礼します﹂
船から走ってやってきた若い士官が、直立不動で敬礼すると、た
どたどしいテルミア語で話しかけてくる。
﹁?﹂
文洋を見上げて、ローラは小首をかしげた。その仕草を見て、言
葉が通じていないと思ったのか、若い士官がひどくどもりながら、
同じフレーズを再度繰り返した。
﹁失礼します﹂
﹁なんでしょう?﹂
テルミア語で返した文洋に、士官が安堵の表情を浮かべて、言葉
を継いだ。
﹁自分は扶桑海軍所属、ヤマナカ少尉です、先ほど乗艦されたお連
れのレディ二名とともに、艦長がお二人をお茶にお招きしたいと申
しております﹂
﹁でも、私、あの急な階段を登れませんし﹂
﹁えーと⋮⋮﹂
話せても聞き取れないのか、若い士官が困った顔をするのをみて、
ローラは文洋を見上た。
221
﹁ヤマナカ少尉、お招きには感謝しますが妻は足を怪我しています。
抱き上げるにもあの細いラッタルでは危なくて仕方ない﹂
ローラには半分ほどしか理解できなかったが、文洋が扶桑の言葉
で士官に話しかけると、線の細い優しげな士官が目を丸くする。
﹁扶桑の方ですか?﹂
﹁ええ、故郷の言葉は四年ぶりに聞きます﹂
﹁奥様は、右舷の短艇を降ろします。それに乗っていただければ、
我々が引き上げます、どうでしょうか?﹂
なにを話しているのだろう? 思いながら、ローラは文洋の袖を
つまんで、ちょんちょん、と引っ張る。
﹁あれで君を引き上げてくれるそうだよ﹂
文洋の指差す先で、何人かの水夫が短艇を下ろしていた。なるほ
ど、あれをエレベーターのようにして、私を引き上げようというの
かと、ローラは納得する。
﹁フミ、行きましょう﹂
﹁妻も行きたいそうなので、ご招待をお受けします﹂
﹁ありがとうございます﹂
ローラと文洋の返事に敬礼して、少尉が踵をかえすと、吊り下ろ
される短艇に向かって歩き出す。文洋の押す車いすに揺られて、ロ
ーラは船へと近づいていった。
§
222
﹁短艇収容よし﹂
無事に釣り上げられたものの、ボートから甲板までは四フィート
フェザーフォール
程の高さがある。今の足ではハシゴをかけられても降りられないの
で、着陸魔法で降りようと⋮⋮ローラが下を覗きこむと、そこには
大小の木箱を組み合わせて、階段がしつらえてあった。
﹁そこにいてください。今、お迎えにあがります﹂
ノリの効いた真っ白な長袖シャツ、日焼けした顔、短く刈り込ん
だ髪、海軍の軍人を絵に書いたような男が、流暢なテルミア語でそ
う言って、木箱の階段を登ってくる。
﹁お手をどうぞ﹂
伸ばされた手につかまって、ローラはケガの無いほうの足で立ち
上がった。
﹁失礼﹂
﹁きゃっ﹂
つかまった手を引き寄せると、手慣れた感じで無造作に抱えられ、
ローラはひょいと短艇から階段へとおろされる。
﹁さあ、肩を﹂ ﹁あ、ありがとうございます﹂
あまりに無造作な感じに、何故か少しムッとしたが、礼を言って
ローラが階段を降りる。
223
﹁ローラ!﹂
﹁お嬢様﹂
降りた所で駆け寄ってくるレオナとシェラーナに支えられ、ロー
ラは文洋を探して振り返った。
ヤマナカ少尉と二人で、細いラッタルに四苦八苦しながら、車椅
子を抱えて登ってくるのが見える。
⋮⋮フミがああなのは、国柄なんだ⋮⋮、士官なのに、荷物運び
も水兵さんに任せてしまわないのは⋮⋮。
その様子を見て、なんだかローラは微妙に納得した。
﹁ローラ、彼が艦長さん﹂
視線を戻したローラに、レオナが先ほどの男性を紹介してくれる。
少年水兵から上着を受け取って、金モールに詰め襟の真っ白な上着
を着た姿は、なるほど、若いながらも偉い人にみえる。
﹁扶桑海軍、ユウキ少佐、駆逐艦﹃樹雨﹄の艦長です、招待に応じ
ていただき光栄です﹂
﹁ローラ・エラ・スェルシ・ハーラと申します、娘と夫共々、お招
きいただきありがとうございます﹂
﹁歓迎します、ローラさん。そうですか、娘さんでしたか、可愛ら
しいお嬢さんだ﹂
﹁ええ、お転婆さんですが﹂
その言葉に、顔を真っ赤にしてすねるレオナのふわふわの髪を撫
で、ローラはふと思った。フミと同じファミリーネームは扶桑には
沢山いるのだろうか? と。
224
﹁では、私は準備の様子をみてきます、車椅子がくるまで、そちら
にかけてお待ちください﹂
﹁ありがとうございます、艦長﹂
§
﹁フミ!﹂
狭いデッキで頭を下げたり、車椅子を持ち上げたりと、ほうほう
の体でやってくる文洋にレオナが駆けてゆく。
﹁みんな真っ白なお洋服で、なんだかお人形さんみたいなの!﹂
﹁そうか﹂
他愛もない会話をしながら、レオナの前にやってきた文洋にロー
ラは無言で両手をのばした。
﹁もう! ローラばかりずるい﹂
﹁なんだ、レオナも抱っこして欲しいのか?﹂
﹁ち、ちがうもん! そうじゃなくて!﹂
二人のやりとりに吹き出しながら、ローラは文洋に抱き上げられ
て、車椅子に載せられる。艦長の時と違い、腕を通じて伝わる優し
い感じに、安堵のため息をついた。
﹁ほら、フミ、ちゃんとしてください、テルミアの兵士がみんなフ
ミみたいにだらしないと思われたら大変です﹂
文洋の襟元に手を伸ばし、水色の制服の上着と、白いシャツの襟
225
ギャリソンキャップ
元を綺麗に整え、無造作に肩章止めに押し込まれた舟型帽の形を直
して被せる。 ﹁よろしいですか?﹂
そんな茶番を微笑んで見ていたヤマナカ少尉に促されて、一行は
賑やかな後部甲板へと向かった。
下から見ていた時には前後に並んで長い筒が二本ついていた後部
甲板は、筒が横に回され、ちょっとしたスペースが作られていた。
広いとは言えないそのスペースに、小さなテーブルと、椅子が用
意され、その筒に結わえつけたポールを利用して、日よけの天幕ま
で張ってある。
﹁ほら、頭を下げて﹂
﹁フミ、この大きな筒はなんです?﹂
筒をくぐりながら、ローラは文洋に尋ねた。
﹁魚雷発射管だ、そうだな、海の中を走る爆弾みたいなもんだ﹂
﹁爆弾の間でお茶会なんて、なんだか変な気分です﹂
﹁違いない﹂
§
﹁艦長、お客様をお連れしました﹂
ヤマナカ少尉が、背を向けて指示を飛ばしていた艦長に声を掛け
る。
﹁﹁⋮⋮﹂﹂
226
振り向いた艦長と、文洋が一瞬無言で見つめ合う。
不審に思ったローラが、文洋を見上げた途端、ゼンマイが解けた
ように文洋が敬礼した。
﹁お招きに預かり光栄です、艦長﹂
﹁こちらこそ、少尉。来ていただき光栄です。綺麗なお嬢さん達が
来てくださったのですから、今日は階級抜きで楽しんでいってくだ
さい﹂
なんだか、ぎこちないテルミア語での社交辞令。
扶桑の言葉で話せばいいのに⋮⋮。
﹁フミ?﹂
覗きこんだローラに、文洋が曖昧な笑顔を返してくる。
⋮⋮まただ⋮⋮、ローラはそんな文洋の笑みを見て、ピンときた。
ジトリと目を細めるローラに、一瞬、文洋が困った顔をするのを
見て、ローラは小さなため息をついた。
﹁小さな船です、大したおもてなしは出来ませんが、しばし、お楽
しみください﹂
§
﹁わぁ!﹂
小皿に盛られた可愛らしい菓子にレオナが、歓声をあげた。ピン
227
クの花、薄緑の木の葉の形をした、指先ほどの小さな菓子。
﹁艦長さん、これは、何?何でできているの?﹂
﹁砂糖です、一つ一つ、職人が手でつくるんですよ﹂
目を輝かせるレオナの前に、艦長が一つ、一つ、花の形をした砂
糖菓子を並べてみせる。その小さな菓子が、どれひとつとして同じ
形をしていないことに、ローラは感嘆した。
﹁フミ?それは何?﹂
木のピックで、茶色の四角いチョコレートのような物を口に運ぶ
文洋に、ローラは尋ねる。
﹁これかい?これは豆だな﹂
﹁え?﹂
美味しそうにもしゃもしゃと食べてから、紅茶を飲む文洋をみて、
シェラーナが恐る恐るといった体で、同じものを手に取ると、一口
頬張った。
﹁ん⋮⋮﹂
目を見開いて、シェラーナが固まる。
﹁お口にあいませんでしたか?﹂
心配そうにそう言って見つめる艦長の視線、シェラーナがフルフ
ルと首を振って、飲み込んでから声を上げた。
228
﹁おいしいです、凄いです、初めて食べました﹂
なんとなく無表情な感じを受けるシェラーナの妙なテンションに、
テーブルを囲んだ面々が一斉に声を上げて笑う。顔を真っ赤にして
うつむくエルフの少女に、艦長がにこやかに言葉を継いだ。
﹁それは、うちの厨房長の自作です﹂
﹁作り方を教えて欲しいです﹂
﹁あとで、メモにしてお渡しましょう﹂
﹁ホントですか?﹂
またしても、目をキラキラさせるシェラーナに、一同がこらえき
れずに吹き出す。そんなに美味しいものならと、ローラも一つ食べ
てみたが、甘さの後からフワリと豆の香りがただよい、とても上品
なお菓子だ。
テルミアの菓子より、森と土の恵みで生きるエルフの食べ物に近
いかもしれない。
﹁これ、私も気に入りました﹂
﹁それは良かった、他所の国で、自分の国の物が褒めていだけるの
は、とてもうれしい事ですから﹂
ひどく苦くて、やたらと緑色のお茶、甘い芋で作ったパイケーキ、
透き通ったオレンジ風味の水菓子、厨房長自慢の茶菓子を一通りご
ちそうになって、一時間ほどの小さなティーパーティーはお開きに
なった。
§
﹁とても楽しかったわ、ありがとう、ローラ、フミ! おやすみな
229
さい﹂
﹁おやすみなさい、レオナ、虫歯になるから、ベッドで食べちゃダ
メよ?﹂
芙蓉の兵食のビスケットに、少しずつ入っているという色とりど
りの可愛らしい砂糖菓子が入ったガラス瓶まで土産に貰って、その
日、レオナは寝室に戻るまでご機嫌だった。
﹁よかったわね、レオナ、楽しかったみたい﹂
﹁ああ、少しでも元気になってくれるなら、何よりだ﹂
﹁それで、フミ、私になにを隠しているのか、正直におっしゃい﹂
﹁ローラには敵わないな﹂
文洋が上着のポケットからメモ書きを出して、ローラに差し出す。
﹁今夜、二三○○時に、港の酒場﹃ラダー&ハッチ﹄で待つ、テル
フミ﹂
扶桑の言葉ではなく、几帳面なテルミア語の筆記体で記されたそ
れを、読んで、ローラが小首をかしげる。
﹁どなたからです?﹂
﹁結城照文、海軍少佐、今日の艦長さんだよ﹂
﹁ねえフミ﹂
﹁ん?﹂
﹁あの方、フミの親戚?﹂
﹁ああ、兄貴だ﹂
⋮⋮それで、お茶会で⋮⋮。二人の間に流れた微妙な空気にロー
ラは思い出した。
230
﹁兄貴は招待した時点で俺とは気がついてなかったんだろう﹂
﹁でも、兄弟ならお茶会でお話がでても﹂
そつ
﹁そうすると、お客ではなく、弟を歓待したように見える﹂
﹁公私混同だと?﹂
﹁そう、彼はとても優秀で、とても真面目で、なにより卆のない、
よく出来た長男さ﹂
そつ
⋮⋮卆の無い⋮⋮か⋮⋮無造作に抱えられた時のあの、妙な違和
感はそれだったのだろうか。
﹁それで、行くのですか?﹂
﹁まあな、逃げたと思われても、気に入らない﹂
メモを取り上げて、張り詰めた表情で立ち上がった文洋に、ロー
ラは両手を伸ばす。
﹁ん?﹂
当然のように抱き上げてくれた文洋をギュッと抱きしめて、ロー
ラは耳もとで囁いた。
﹁大好きですよ、フミ。だからお酒はホドホドで、喧嘩せずに帰っ
てきてくださいね?﹂
﹁⋮⋮わかった。ありがとう、ローラ﹂
珍しく、文洋がローラの耳元で、静かに囁いた。
バシャリ
231
ダイニングで物が落ちる音にローラと文洋が振り返ると、そこに
は布の袋を床に落としたシェラーナが顔を真っ赤にして、立ってい
た。
﹁あ、あのですね、お嬢様、これは、帰りに厨房長が﹃あずき﹄と
いう豆を分けてくださったので、水にまる一日つけておくとのこと
で⋮⋮、どうしても早く食べてみたくて⋮⋮あの、違うんです、違
うんです⋮⋮、ゴメンナサイ!﹂
両手で顔を隠して、シェラーナが走って逃げていった。
﹁いってらっしゃい﹂
車椅子に腰を落として、苦笑いしながら、ローラは文洋に小さく
手を降る。
﹁うん、行ってきます﹂
ポン、と肩に手を置いて、文洋がダイニングを後にした。手を置
かれたところから、なんだかぬくもりが広がる気がして、ローラは
そっと肩を触ってみる。
しじま
トテトテトテとシェラーナが階段を登る音が、夜の静寂に響いた。
232
﹃ラダー・アンド・ハッチ﹄は港に面した通りにある酒場だ。
猟犬と艦長
開けっ放しの両開きの大扉を開けると、文洋は喧騒の中に足を踏み
入れた。
一〇〇人は入れるだろうか、四人掛けのテーブルとスタンディン
グの長いカウンターは、そろそろ二三〇〇時を回ろうかというのに、
大盛況だ。
王都にゃドラゴンがでたん
﹁よぉ、こんな所で珍しい。空軍サンじゃねえか﹂
﹁おお、兄ちゃん、飛行機乗るのか?
だろ?﹂
首都防空戦で体当たり攻撃をしかけたドラグーン隊の活躍のお陰
で、比較的空軍の評判は悪くない。水色の制服を着ている限り、異
国人の風貌をした文洋にすら人々は敬意を持って接してくれていた。
人懐っこく話しかけてくる水夫にエールを一杯おごってやり、文
洋は店の中を見回す。兄のことだ、約束の五分前には来ているはず
である。
テールス
﹁俺の兄貴が地球の裏側から来ているんだが、極東人の海軍サンを
見なかったか?﹂
﹁海軍の礼服みたいなのを着た極東人ならさっき見たな⋮⋮。ほら、
アレじゃねーのか?あの奥の隅っこだ﹂
﹁ありがとう、飛行機の話は今度な﹂
文洋に奢ってもらったジョッキを、ご機嫌な様子で掲げ、水夫
﹁約束だぜ、空軍サン﹂
233
がカウンターに戻って行くのを尻目に、文洋は部屋の隅のテーブル
に近づいた。
﹁山中少尉、昼間はどうも﹂
てるふみ
兄の照文の隣に座る山中少尉に、文洋は頭を下げる。ニコリと笑
って少尉も会釈を返し、気を利かせて席を立ちカウンターへ向って
いった。
﹁久しぶりだな、文洋、昼間のご婦人、あれは知り合いか?﹂
どんな表情をするかと、ジョッキを手にしたまま、文洋は兄の
﹁ああ、妻と娘だ﹂
顔を見つめる。ふむ⋮⋮、と思案顔をして照文が見つめ返してきた。
﹁物腰を見る限り、どちらも育ちの良さそうな女性たちだったが﹂
﹁家柄だけでいっても、俺の一〇倍はいいさ﹂
どうやら冗談だと受け取ったらしい兄に、グビリと一口、ジョッ
キを傾けて吐き捨てるように文洋は言う。
﹁なあ、文洋﹂
テーブルのボトルからウィスキーをグラスに注いで、照文が差し
出す。
﹁⋮⋮﹂
﹁国に帰ってくる気はないか? 扶桑は今、お前のような新しい文
化に触れ、新しい技術を手にした人間を求めている﹂
234
変わってないな⋮⋮、まじめな顔で自分を見つめる兄をしばらく
見つめてから、グラスを受け取り、文洋は視線を外して酒場を見回
した。
腕に入れ墨を入れた水夫たち、胸元が大きく開いたドレスに身を
包んだ給仕の娘たち、紺色の制服を来た水兵。今ではすっかりなじ
んでしまったテルミア語の喧騒。
﹁なあ、兄貴﹂
﹁ああ﹂
﹁この国に来て、俺には家族ができたんだ﹂
世迷いごとを⋮⋮と、険しい顔をして見つめる兄の視線を真っ向
から受け、ニコリと笑うとウィスキーのグラスを一息に開ける。
安ウィスキーの香りが鼻を抜けてゆく。少佐殿とは言え、外貨の
乏しい新興国だ。良い酒が買えるほどの給与ではないのだろう。
﹁冗談じゃないんだな?﹂
﹁やさしい妻に娘、どこの馬の骨ともつかない俺を、全力で救って
くれる友人。俺の人生は今ここにある﹂
文洋の笑顔に毒気を抜かれた顔をして、照文が、空になったグラ
スになみなみとウィスキーを注いだ。
﹁なあ、文洋。親父の事、恨んでるか?﹂
﹁兄貴が兵学校に入った年の冬に、親父がしたことを考えるとな﹂
﹁ハルには気の毒なことをしたと思っている﹂
﹁兄貴のせいじゃないさ﹂
﹁いや、それでも何かできることはあったはずだ﹂
235
母が死に、年若い後妻を迎えて数カ月後、文洋の乳母で女中頭だ
ったハルが理不尽な理由で追い出された日の事を、文洋は昨日の事
のように覚えている。
文洋と離れるのは嫌だと泣く乳母の娘のユキに、自分も後から行
くからと、そう嘘をついたのは紛れもない自分だ。そういう意味で
は俺もろくでなしに違いない⋮⋮。そう思ってため息をつく。
﹁そうか⋮⋮﹂
自分のグラスを一息で飲み干し、お前も空けろと促す照文の視線
に、文洋がグラスをグイ開けたその時、カウンターで怒号が響いた。
﹁貴様、もう一度言ってみろ!﹂
てるふみ
怒号が扶桑語だと認識するのに文洋は数瞬かかったが、照文は稲
妻に打たれたように立ち上がる。
﹁少尉!﹂
テルミア語で発した地を震わすような照文の大音声に、酒場が静
まり返った。その静寂の中をスタスタとカウンターに向かう兄の後
ろを、エールのジョッキ片手に、文洋は追いかける。
﹁何があった?﹂
﹁は、この水夫が扶桑海軍をブリキの兵隊だと罵倒したものですか
ら⋮⋮﹂
しどろもどろの山中少尉の返答に、照文がその水夫に向き合い、
テルミア語で問い掛けた。
236
﹁我々は、テルミアと同盟を結ぶために、はるばる四万海里の波濤
を越えて来た﹂
﹁それがどうしたってんだ!﹂
酔った水夫が気圧されたのを悟られまいと虚勢を張る。
﹁そのテルミア王国が、同盟国と認めた我々がブリキの兵隊だとい
うなら、君はたった今、テルミア王国を自身で辱めた事になる﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
水夫が酔った顔をさらに赤くして、言葉に詰まった。ああ、やっ
ちまったな⋮⋮と文洋はジョッキをテーブルに置くと、あたりを見
回して上着の腕をまくる。
掛かってきそうなのはざっと十人といったところか⋮⋮、上着を
洗濯に出したばかりだというのに、またローラに怒られるだろうか
⋮⋮。
﹁う⋮⋮うるせえ!﹂
水夫が逆上して、手にしたジョッキを照文の顔めがけて投げつけ
た。ほとんど動いて無いようにすら見える小さな動きで、ヒョイと
かわされたジョッキは、そのまま後ろで飲んでいた別の水夫の背に
当たった。
﹁この野郎!艦長にっ!﹂
ジョッキが投げられると同時に、怒号を上げた山中少尉の蹴りが
吸い込まれるように水夫の首元に叩き込まれる。すっ飛んだ水夫が
となりのテーブルになだれ込んだ。
237
﹁てめえ、なにしやがる﹂
﹁イイ度胸だ、やっちまえ!﹂
白い礼装が目立つ照文と少尉に水夫が殺到する。兄の背を護るよ
うにして、文洋は殴りかかり、つかみかかってくる水夫たちを、右
へ左へ、さばいては投げ飛ばす。
三人に囲まれて苦戦している山中少尉の援護に、文洋はテーブル
のジョッキを掴むと、少尉を羽交い締めにしている水夫の後ろ頭め
がけてぶん投げた。
乱戦だ、命中を確かめず、向き直った文洋の目に、椅子を振りか
ざした水夫が迫るのが映る。間に合わないと判断して、恥も外聞も
なく床に転がり、一撃を避けた文洋の頭上を、椅子が凪いでゆく。
﹁文洋!﹂
空振りしてよろける水夫を、照文が綺麗に裏投げで床にたたきつ
けた。
﹁バカ兄貴!﹂
ひょいと飛び起きる。この乱戦の中、親切にもケガをさせまいと、
照文が水夫の襟を引いてた。
その一瞬の隙に、別の水夫が後ろから瓶を持って照文に飛びかか
っていった。文洋はその水夫の腰に飛び蹴りを食らわせてふっ飛ば
した。
﹁異国ぐらしで鈍ったか? 文洋﹂
﹁兄貴こそ、偉くなったせいでキレがない﹂
顔を見合わせニヤリと笑う。何発か良いのを貰ったらしく、目の
238
端に切り傷をこしらえた山中少尉が加わり、三角形に互いの背を守
る格好で店内を睨みつけた。
一瞬、喧騒が途切れる。
ズダン!
その静寂を、一発の銃声が切り裂いた。全員があっけにとられ、
銃声の方に目をやる。金象嵌に白いグリップの小型拳銃を、白い太
腿を見せつけるようにして、腿のホルスターにしまい込み、二階席
から一人の女が降りてきた。緋色のドレスに燃えるような赤い髪。
﹁はい、はい、今日はここまで!!﹂
パンパン!と手を叩いて言う彼女の言葉に、ドウ、と酒場がざわ
めくと、男たちが諦めたように、肩を貸し合いながら立ち上がり、
彼女に道を譲った。
﹁ほら、そこの坊やも、その血だらけの上着を脱いでよこす!﹂
﹁え、ぼ、坊や?﹂
赤毛の女に指でさされた山中少尉が、照文が頷くのを待って血ま
みれの上着を脱ぐ。渡そうとした腕を、給仕の女の子に取られ、そ
のままキッチンへ消えていった。
﹁それで、あなたが一番偉い人かしら?﹂
つかつかと照文に近寄り、女がそう言いながら照文の胸をツン、
とつつく。
239
﹁そうだ﹂
﹁バカを言葉で追い詰めたら、こうなるって事くらい、覚えといて
損は無いわよ﹂
﹁次から気をつけよう﹂
﹁次から⋮⋮ねえ⋮⋮、私の店をこんなにして、言うことはそれだ
け?﹂
﹁申し訳ない、これで足りるとは思えないが、取っておいてくれ﹂
財布ごと女に手渡し、照文が帽子を取り小さく頭を下げる。ため
息をついた女が片手を上げると、給仕の娘とボーイ、驚いたことに
水夫達までが一斉に祭りの後片付けを始める。
﹁まあ、そっちに賭けたおかげで、少しばかり儲かったからね、こ
れで許してあげる﹂
﹁いや、それでは申し訳がない、次の給与が入ったら追加で支払お
う﹂
この人⋮⋮バカなの? と目で訴えかけてくる女に、ヤレヤレと
手を広げて文洋は肩をすくめて見せた。バカの下に真面目がつく⋮
⋮それだけの話だ。
﹁じゃあ、支払いの代わりに二つ言うことを聞いてもらおうかしら
?﹂
﹁出来る事なら何なりと、マム﹂
﹁陸に居る間は毎日飲みに来ること﹂
﹁約束しましょう﹂
﹁もうひとつは⋮⋮、ちょっと目を閉じてくださる?﹂
目を閉じた照文の首に、女主人が腕を回すと照文の唇を奪う。驚
いて目を開いた照文にウィンクして、女主人がニコリと笑った。
240
﹁な⋮なにを?﹂
﹁今日は朝まで楽しんでいくこと﹂
﹁明日の昼まで非番なので、かまいませんがマム?﹂
照文の腕を取ってクルリと背を向けた女主人の背に、小さな黒い
翼と揺れるシッポを見つけて文洋は苦笑いする。
﹁文洋?﹂
﹁俺は帰るぞ兄貴、楽しかった、また会おう﹂
ローラ
﹁待て、文洋﹂
﹁妻が待ってるから帰る﹂
﹁待てって!﹂
﹁レブログ空軍基地か、エルフ居住区で俺の居場所を尋ねれば連絡
つくから﹂
リリス
情けない声を上げながら、しかし、抵抗することなく女主人に腕
チャ
を引かれてゆく兄に背中で手を振って、文洋は酒場を後にした。
ーム
兄が唇を奪われた時に、チリリと首の後ろに走った痛みは、魅了
魔法か何かだろう。まあ、真面目すぎるのもアレだから、せいぜい
楽しむがいいさ。
夜の潮風、満天の星空、文洋は見上げながらエルフ居住区へ向け
て歩き出した。気が抜けたのか、急な坂道のせいか、急に酔いが回
り始める。
さて⋮⋮シミだらけの上着を、ローラに見つからずに洗濯屋に出
すにはどうしたら良いかと考えながら、文洋は急な坂道を一歩ずつ
登っていった。
241
猟犬とフクロウ
文洋が機体の整備を手伝おうと格納庫を訪れると、整備兵達が片
隅に集まっているのが目に入った。
車輪付きの台座に乗せられて、格納庫の片隅に置かれた﹃スレイ
プニル﹄の周りに集まった整備兵達が、空飛ぶ魔法金属の塊のよう
な機体を分解しては組み立てなおしている。
﹁おやっさん、こいつは結局どうなるんです?﹂
﹁どうなるって、直したところでこんなもん、飛ばせる奴がいねえ、
普通に考えりゃバラして報告書上げたらスクラップだ﹂
取り外したミスリルの外板と骨組みの一部を牽引して修正しなが
ら、フリント整備中尉がニヤリと笑って言葉を継いだ。
﹁でも、おめえの娘は飛ばせんだろ?﹂
文洋は真剣な顔をして頷く。レオナにとって、この小さな飛行機
は、思い出でそのもので、ほんの少しだけ残された、彼女の世界の
一部なのだから。
﹁だからな、報告書上げてスクラップにしたことにしちまえばいい
さ、外板は木製で推進器は燃料切れで詳細不明とでも書いときゃ問
題ねえ﹂
﹁すまない、おやっさん、恩に着るよ﹂
﹁やめろよ、坊主、それにな、こいつはおめえの為ってわけじゃね
え﹂
242
ハンマーで、整備員たちを指して、中尉が肩をすくめてみせる。
﹁朝来たら、どこから入ったのか、可愛らしい嬢ちゃんが、格納庫
の隅っこで飛行機を撫でながら泣いてんのを見つけちまった﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
﹁そしたら、おめえ、バカ共が舞い上がっちまってよ、絶対なおし
てやっから、泣くんじゃねえって、よってたかって、皆でお嬢ちゃ
んをなぐさめてやがる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁本当? って聞かれたもんだからよ、俺もつい、胸ぇ叩いて言っ
ちまった、任せとけってな﹂
﹁良かったんですか?﹂
﹁言っちまったもんはしょうがねえ。それに、こちとら整備屋だ、
機械ならなんだって直してやるさ﹂
歪んだフロートの付け根を、アセチレンバーナーで切断していた
バーニー伍長が、振り向いて笑った。
こ
﹁そうっすよ、皆で金出してミスリルの外板も揃えたし、あの娘の
瞳と同じ、紫色のペンキだって用意してるんっすから!﹂
﹁てめえは、偵察隊の機体組み立てをやってから、デカイ口叩きや
がれ﹂
﹁酷いなあ、ちゃんとやってますよ、おやっさん﹂
今度の休暇に、修理しているところを見せてやろう⋮⋮。文洋は
そう思いながら、紫と銀色の外板が、つぎはぎになっている﹃スレ
イプニール﹄を見上げた。
﹁ロバルト中佐がお呼びだよ!﹂
243
機体を見上げる文洋の耳を、そよ風がくすぐると、唐突に耳元で
ラディアの声がして文洋は飛び上がった。文洋をからかうように、
シルフがクルクルと舞いながら、格納庫の入り口で笑うラディアの
方へ戻ってゆく。
﹁准尉、脅かすのはやめてくれ、毎回寿命が縮む﹂
﹁そりゃ大変さね、ただでさえ人間の寿命は、あたいらの四分の一
くらいしかないのに﹂
﹁それで、ロバルト中佐が呼んでるって?﹂
﹁なんだかロクでも無いことを思いついたみたいだよ﹂
§
﹁お呼びでしょうか?﹂
司令官室の重いドアを開くと、文洋はテーブルに広げた地図を眺
めるロバルト中佐に敬礼する。
﹁かけたまえ、傷はもういいのか? ユウキ少尉﹂
﹁おかげさまで﹂
﹁もう少し早く私が戻っていれば、情報部には好き勝手させなかっ
たのだが﹂
差し出されたウィスキーのグラスを受け取り、文洋は椅子に腰掛
けて中佐と向かい合う。
﹁妻と娘に車まで出していただいたそうで、ありがとうございます﹂
﹁整備中隊とダークエルフ達に礼を言っておきたまえ、大した愛さ
れようだ﹂
﹁そうですね、そうします﹂
244
﹁それに、セプテントリオンの先代は知らない仲ではないからな﹂
﹁⋮⋮﹂
中佐の家の紋章らしいフクロウの紋章が刻まれたシガレットケー
スからシガリロを咥え、小さく指を鳴らす。 指先に灯った小さな
鬼火で日をつけると、紫煙を吐き出してロバルト中佐が文洋を見据
えた。
﹁ユウキ少尉が以前、氷をぶつけられた時、赤水晶の話をしただろ
う。その時から、もしやとは思っていたが﹂
﹁赤水晶の話ですか﹂
﹁そうだ、遊び程度ならともかく、そこまでの規模で魔晶石を自由
に使える技は、アリシアの近衛騎士くらいにしか、もう残っていな
い﹂
アリシアの戦争への介入を、その時点で疑っていたということか
⋮⋮と文洋は思う。ならば、敵対したアリシアの騎士を、中佐が助
けて良いのだろうか?
﹁そこまでご存知なら、何故です?﹂
﹁何故? 戦災孤児を助けるのに理由がいるかね?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁子供を戦地に送り込む外道も、それを政治利用する外道も、少な
くとも騎士のすることではない、そうだろう?﹂
グラスを掲げると、ぐいと一口で飲んで、中佐が人懐こい笑顔を
みせる。
﹁奥さん共々、なかなかのお転婆さんのようだが、大事にしたまえ﹂
﹁⋮⋮そのつもりです﹂
245
さて、本題だ⋮⋮と、中佐が咥えタバコで一枚の図面をデスクの
上に開いた。
﹁これは?﹂
飛行船とは違い、翼の生えた船に見える図面を、文洋は手にとっ
て眺める。精緻な細工の施された、前時代的な木製船に近いイメー
ジだ。
﹁テルミア王家に代々伝わる精霊船﹃シームルグ﹄、世界で唯一の
科学の力を借りずに空を飛ぶことが出来る船だ﹂
﹁名前は聞いたことがありますが、代々、王女殿下のお召し艦です
よね?﹂
﹁風の女王から初代の女王に贈られたという伝説の船だ。テルミア
の歴史的遺産だといっていいだろう﹂
美しい船だと思いながら、文洋はテーブルに広げられた地図に目
をやった。レブログの東方にいくつかの印がつけられている。
﹁一週間後、王女殿下が、﹃シームルグ﹄でレブログを訪問後、東
方の都市を視察される﹂
ヒュードラ
﹁同盟が黙っているとは思えないですが﹂
﹁君ならどうする?﹂
﹁すくなくとも、あの飛行空母で拿捕をねらいますね、王女殿下を
人質にすれば、炭鉱の一つや二つ、譲らざるを得ないでしょう﹂
﹁私も同じ意見だ﹂
文洋は顔をあげて中佐を見つめる。
246
﹁ゆえに、これを逆手に取って、我々は全力をもって﹃ヒュードラ﹄
を拿捕する﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お召艦を囮ですか?﹂
﹁いや、少し違うな﹂
そこで言葉を切って、中佐はニヤリとわらった。
﹁シームルグの乗員をもって、ヒュードラに移乗攻撃をかける﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁相手がこちらの拿捕を狙うのであれば、我々はそれを逆手に取っ
て、接舷攻撃を敢行、相手を拿捕する﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁フェアリード准尉の偵察隊が志願している。偵察飛行船部隊から、
操縦手と機関士が、整備中隊から数名のメカニックが参加する。﹂
右手に持ったグラスから文洋はウィスキーを煽ってため息をつい
た。熱いものが胃に落ちてゆく。
﹁ユウキ少尉﹂
﹁なんでしょう、中佐?﹂
﹁君は、ダークエルフ達をどう思うかね?﹂
試すような視線を正面から受け止め、文洋は中佐に言葉を返した。
﹁義理堅く、真面目で、信頼に足る連中だと⋮⋮少々クセはありま
すが﹂
﹁整備部隊ともずいぶん仲が良いようだな?﹂
﹁彼らが居ないと、飛べませんから﹂
247
ふむん、口ひげを撫で付た中佐は、しばらく考えるように目を閉
じると、クリスタルの灰皿にシガリロを放り込み、文洋をまっすぐ
に見つめた。
﹁ユウキ少尉、本日より王立近衛旅団所属、シームルグへの乗組を
命じる﹂
﹁はっ﹂
反射的に敬礼してから、文洋は聞き直した。
﹁中佐殿?﹂
﹁聞こえなかったか? 斬り込み部隊の指揮を取れ、作戦は追って
伝える。委細は追って伝えるが、極秘任務である。他言は無用だ﹂
﹁了解しました﹂
カツン、とかかとを鳴らして敬礼すると、文洋はじっと中佐の顔
を見つめる。
﹁まだ何かあるかね、少尉﹂
﹁もう一杯いただけますか、中佐﹂
﹁もちろんだとも、やりたまえ﹂
自分と文洋のグラスに、琥珀色の液体を注ぐと、中佐がグラスを
掲げる。
﹁幸運を、少尉﹂
﹁王女殿下とテルミア王国に﹂
喉を焼き、胃に落ちてゆく甘い香りの毒薬に、文洋は不思議な高
揚感を覚えていた。開け放たれた窓から吹き込む風は、少しばかり
248
秋の香りがした。
249
猟犬と餓狼
レブログから軍用列車に揺られること十時間、夏の長い日が暮れ
始めるころ、文洋は王都テルミアに到着した。墜落した飛行船の残
骸はすでに綺麗に片付けられており、石畳に焦げ跡の残る広場には
小さな記念碑が立てられている。
近衛旅団司令部への出頭は明朝の十時という事だったので、長ら
く留守にしたままのアパートメントの様子を見にゆこうと駅前でタ
クシーを止めた。
﹁ユウキ少尉! 少尉ってば!﹂
乗り込もうとしたところで、後ろからラディアの声がして、文洋
は振り返る。
﹁どこに行くのさ? 宿なら近衛の宿舎を貸してくれるそうだよ?﹂
﹁ああ、ちょっと家にな、長いこと留守にしたままだから﹂
そう言ってタクシーに乗り込む文洋に続いて、ラディアが反対側
のドアを開けて乗り込んできた。
﹁フェアリード准尉?﹂
﹁ラディア!﹂
そう言うとプイと頬をふくらませたラディアに、文洋は苦笑いし
て運転手にアパートメントの住所を告げた。どうあってもついてく
る気なら、止めるだけ無駄だろう。
250
﹁タクシーなんて初めて乗るよ、自治区には無いからねえ﹂
﹁そうか﹂
車窓に流れる繁華街の風景を、ラディアが子供のようにはしゃい
で眺めるのを、文洋は何の気無しに見つめていた。褐色の肌に琥珀
色の瞳、開けられた窓から入ってくる風が、薄い紫の髪を揺らして
いる。
﹁少尉⋮⋮﹂
﹁ラディア、最初に言っとくが泊めないからな?﹂
﹁か弱い女の子に一人で夜道を帰れとか、ユウキはひどい奴だねえ﹂
﹁家の様子見て、着替えを取ったら、近衛の宿舎へ行くからな?﹂
﹁えー、折角のお泊りなのに⋮⋮﹂
文洋の腕をグイと掻き抱くと、イタズラっぽい笑顔を浮かべて、
しなだれかかるラディアの顔に、文洋は手を伸ばした。頬にかかっ
たラディアの髪をそっとかき上げる⋮⋮。
﹁ユウキ⋮⋮?﹂
琥珀色の瞳が面白がるように文洋の顔を覗き込む
﹁ラディア﹂
名を呼んで、ほつれた髪を尖った耳の後ろにかけてやり、そして、
そのまま⋮⋮文洋はラディアの額にデコピンを一発お見舞いした。
﹁痛っ!﹂
﹁からかうのもいい加減にしろ﹂
251
居住区入り口でタクシーを降りると、文洋は居住証明書を衛兵に
見せ、エルフ居住区の検問所を通り抜けた。ダークエルフのラディ
アに、検問所の衛兵が露骨に嫌な顔をしてみせたが、秘書だと文洋
が言い切ると、さっさと行けと身振りで示す。
﹁なんだい、感じ悪い﹂
﹁まあいつもの事だ﹂
もともとがエルフ居住区の外れということもあり、アパートメン
トは検問所からそれほど遠くない。少し坂を登り、雑貨屋の角を曲
がったところで、アパートメントが姿をあらわす。
﹁いいところに住んでんだね﹂
﹁ローラの家だけどな﹂
﹁ローラさん、あたしらダークエルフにも、とても丁寧でいい人だ
ったよ﹂
﹁俺みたいな、極東の端っこから来た馬の骨を、旦那にしちまうく
らいだからな﹂
門の鍵を開け、左右から覆いかぶさる藤棚を通り抜ける。樫の木
で出来た正面扉に近づいたところで、文洋は違和感を感じて立ち止
まる。
﹁少尉﹂
﹁判ってる﹂
ラディアも何かを感じたのだろう、小声で、だが鋭く言って、腰
から短い双剣を引きぬいた。
ガサリと茂みをかき分ける音がして、ゆらりと大きな影が姿をあ
らわす。
252
﹁ッツ!﹂
息を飲んで、ラディアが後ろに下がる。
腰の後ろに吊った双剣程度では、足しにもならない圧倒的な存在
感。
﹁グルル﹂
あちこちに乾いた血をこびりつかせた、銀色の獣が文洋達の前に
立ちふさがる。
﹁クラウス⋮⋮?﹂
﹁ワガキミ ハ イズコニ﹂
無事でなければ、お前を食い殺してやる。そんな迫力で銀狼が一
歩前に出る。
﹁少尉!﹂
﹁⋮⋮大丈夫だ、レオナの身内だ﹂
チリリと首の後ろに電気が走る。小さく印を結ぶような仕草を見
せるラディアを手を上げて止めると、文洋は腰の短刀から手を離し
た。
﹁レオナはレブログのエルフ居住区だ。セレディアの元老院議長の
孫娘、俺の妻のローラが面倒を見てる﹂
そこで一旦言葉を切って、文洋は武器をしまうようにラディアに
促した。
253
﹁それに、ここにいるダークエルフ自治区の連中、何人かのテルミ
ア貴族も助けてくれている、問題ない﹂
﹁ソウカ⋮⋮ソレハ⋮⋮ソレハ、ヨカッタ﹂
安心したのか、ドウ、と膝から崩れ落ちると、クラウスが気を失
って倒れこむ。風船から空気が抜けるように、老人の姿に戻るクラ
ウスに、文洋はラディアと顔を見合わせ、安堵した。
ワーウルフ
とりあえず、倒れたクラウスを三階の客間に担ぎこんで横にする。
人狼の回復力のせいもあって、浅い傷は殆どふさがっているが、肩
に一箇所、弾が抜けていない傷があり、一箇所がひどく炎症を起こ
していた。
﹁弱ったな⋮⋮﹂
﹁医者かい?﹂
﹁ああ、不法入国者の治療なんて、引き受けてくれる所に心当たり
ないぞ⋮⋮﹂
﹁普通はそうだろうねえ﹂
熱があるのか、時折唸り声をあげるクラウスを前に、文洋は途方
にくれていた。
﹁仕方ないねえ、この家、電話はあるのかい?﹂
﹁ああ、二階のダイニングだ﹂
﹁ちょいと借りるよ﹂
﹁ああ﹂
﹁上手くいったらキスの一つもしておくれよ﹂
﹁わかった﹂
254
軽口を叩きながら、ラディアが部屋をでてゆく。
﹁申し訳ない⋮⋮みっともないところを⋮⋮﹂
気がついたのか、疲れきった表情でクラウスがしゃがれた声を出
す。
﹁近所には、老人が訪ねてきたら、レブログにいると伝言を頼んで
いたが聞かなかったか?﹂
﹁今日の払暁前に⋮⋮、新聞配達の少年に聞いてたどり着いた所で
して⋮⋮﹂
ケガをしてやつれ果て、鬼気迫る目をした老人に、道を尋ねられ
た新聞配達に文洋は同情した。
﹁いま、ラディアが医者を呼んでいる、今からレオナとローラに電
話してこちらに来てもらおう﹂
﹁それでは⋮⋮面目が立ちませぬ﹂
﹁レオナはきっと喜ぶぞ、だから、そんな面目なんざ、裏庭に穴掘
って埋めちまえばいい﹂
そう言って、文洋はクラウスに笑ってみせる。
﹁そうでしょうか⋮⋮﹂
﹁ああ、家族だからな、そりゃ喜ぶさ﹂
﹁家族⋮⋮ですか⋮⋮﹂
﹁ああ、そうだ﹂
憔悴しきった顔で、それでも心底嬉しそうな笑顔をクラウスが浮
かべた。
255
﹁少尉、うちのやぶ医者が一時間でくるとさ﹂
ソブラ
﹁すまん、恩に着る﹂
﹁暗黒神の加護を、爺さん﹂
﹁ああ、恩に着るよお嬢さん﹂
闇医者がやってくるまでの間、文洋はレブログに電話をすると、
ローラとレオナに事情を説明した。電話の向こうで嬉しくて泣きだ
したレオナに、朝から軍務で出かけるので、なるべく早く来てくれ
るように伝えて文洋は電話を切る。
﹁クラウス、明日の朝には俺達は軍務で行かなきゃならん、夕方前
にローラとレオナがこちらに来てくれる﹂
﹁お嬢様が来てくださるのでしたら、死んでも死にきれませんな﹂
﹁ああ、そうだな﹂
麻酔なしで弾丸を取り出した闇医者が、痛み止めと傷薬を置いて
帰るころには、時計は夜半を回っていた。今から近衛旅団の宿舎に
押しかけるわけにも行かず、ラディアに自分の部屋のベッドを使わ
せて、文洋は客間のソファーで横になった。医者に見てもらったと
は言え、クラウスが心配だったというのが、正直なところだ。
§
翌朝、目を覚ました文洋は、クラウスを起こさないように静かに
起きると、簡単な朝食を作り始めた。瓶詰めのソーセージにピクル
ス、食料庫にあったジャガイモにチーズ、豆の缶詰で出来る料理な
どたかが知れているが、料理が好きなローラのお陰で、調味料には
事欠かない。
幸い、エルフ居住区は街の中心部にそびえ立つ﹃銀の塔﹄にほど
256
近く、近衛旅団の司令部までは自転車で十五分ほどだ。朝食を食べ
てからでも十分間に合うだろう。
﹁クラウス、朝飯だ、食えるか?﹂
客間に朝食を運んで、ベッドサイドのテーブルに盆を置く。マッ
シュポテトに缶詰のベイクドビーンズ、軽く焼いたソーセージにピ
クルス、作っておいてなんだが、なかなかに手抜きでロクでもない。
﹁おお、ありがたい⋮⋮なんとお礼を言ってよいか﹂
目を爛々と輝かせて、クラウスが朝食を文字通り、かき込むよう
に口に押しこんでは飲み下す。
﹁ゆっくり食えよ、メシは逃げないから﹂
﹁温かいメシを食うのは三日ぶりでして﹂
マッシュポテトを、飲むように食べるクラウスが、ピクルスの酸
味にあてられたのか、大きくむせる。
﹁後で下げに来るから、食器は置いといてくれ﹂
まるで、腹を空かせた狼だな⋮⋮涙目になりながら、ソーセージ
にかぶりつくクラウスを見てそう思いながら、文洋は客間を後にし
た。
§
﹁准尉、入るぞ﹂
257
ドアをノックしても返事がないので、文洋はそう声をかけて扉を
開いた。あと一時間半程あるとはいえ、近衛旅団の司令部にギリギ
リについたとあっては格好がつかない。
﹁⋮⋮ん﹂
寝返りを一つうって、ラディアが文洋に背を向け、ブランケット
に潜り込む。
﹁准尉、起きろ遅刻するぞ、軍法会議で懲罰房だぞ﹂
﹁⋮⋮ラディア!﹂
﹁わかったわかった、ラディア、ほら朝メシもできてるから起きて
くれ﹂
﹁⋮⋮ユウキ、昨日約束した﹂
﹁ん?﹂
﹁上手くいったら、キスしてくれるって﹂
⋮⋮約束はしてない⋮⋮いや、した気がするな⋮⋮。思いながら、
文洋はラディアの背中を見つめる。
﹁あたし、頑張った﹂
﹁うん﹂
﹁少尉の嘘つき﹂
子供のように拗ねるラディアの髪に文洋は手を伸ばした。
﹁わかった、約束したもんな﹂
﹁うん﹂
尖った耳にそっと触れて、自分のほうを向かせる。
258
﹁恥ずかしいから目は閉じて﹂
そういって琥珀色の瞳を閉じるラディアに、つられるように目を
閉じて、文洋は頬に手を添えると、顔を近づけた。
パチン!
﹁痛ってえ﹂
﹁昨日のお返し﹂
力いっぱいのデコピンを食らって、文洋は涙目で額を抑えた。腹
を抱えて笑うラディアに、釣られて一緒に笑い出す。
﹁なあ、ラディア﹂
﹁なんだい、ユウキ﹂
﹁クラウスのこと、ありがとうな﹂
﹁なんだい、水臭い⋮⋮ほら、着替えるんだからでてっておくれよ﹂
﹁ああ、二階のダイニングに朝飯できてるから、降りてきてくれ﹂
そう言って、後ろ手に扉を締める文洋の耳に、﹁ユウキのバカッ﹂
と小声でつぶやくラディアの声が聞こえた。そうだな、うん、バカ
なのは間違いない。
淹れたてのコーヒーの香りがするキッチンへ向かいながら、文洋
は一人、微笑んだ。ともかく、レオナの家族が増えた。それは同時
に俺の家族にもなるのだろうけれど。
だからこそ、気を引き締めてこの任務、かからないとな⋮⋮。両
手でパチンと頬を叩いて、文洋は自分に気合を入れなおす。みな、
大事な仲間だからこそ、誰一人、犠牲にするわけには行かないのだ。
259
猟犬と不死鳥︽シームルグ︾
﹁ほら、少尉、もっと急いで!﹂
﹁だから早く起きろって言ったろ!﹂
丘の上のエルフ居住区から、二人乗りの自転車が駆け下りる。ア
パートメントから近衛旅団の司令部まで自転車で十五分といったと
ころだが、しょっぱなから遅刻というわけにはいかない。
晩夏の清々しい空気の中を、荷台に横座りになってはしゃぐラデ
ィアと、汗だくで自転車をこぐ文洋のなんともチグハグな二人が駆
け抜けてゆく。
自転車を近衛旅団司令部の正門に乗り付け、守衛に無理やり預け
るという離れ業まで使って、文洋たちは、何とか開始時間の十分前
に旅団司令部の作戦室にたどり着いた。
すっ飛ばしてくる途中で、あまりの暑さに脱いだ上着をラディア
から受け取り、なんとか見られるように服装を整える。
﹁あぶかなったねえ、ユウキ少尉、着任早々遅刻するところだった﹂
﹁だ・れ・の・せ・い・だ﹂
﹁あたしは知らないモン﹂
﹁准尉⋮⋮可愛く言ってもだめだ﹂
﹁今のは自信あったのに﹂
ワザとらしい仕草でプイとすねてみせるラディアに、部下たちか
らヤジが飛ぶ。
﹁姐御が壊れた、整備中隊、修理を頼む!﹂
260
﹁馬鹿野郎、頭のネジなんかなおせねえよ﹂
バカバカしいやりとりに、声を上げて笑うダークエルフと整備士
達を見回して、文洋は笑いながらも、身が引き締まる思いがした。
できれば全員、無事に連れて帰りたい⋮⋮そう思った。
十時ちょうど、市街の中央にある﹃銀の塔﹄が時を告げる鐘を鳴
らす。ほぼ同時に、丈の長い、真っ白な軍服に身を包んだ女性士官
が二人、入ってきた。
中佐の肩章を着けた女性は歳の頃なら四十半ば、少尉の階級章を
つけている方は、階級の割にやけに幼く見える。
﹁気をつけ、敬礼﹂
文洋の号令に、談笑していた隊員たちが立ち上がり、かかとを鳴
らして敬礼する。
﹁フミヒロ・ユウキ少尉、以下十五名、総司令部の命令により出頭
いたしました﹂
答礼して、中佐がフミヒロを見つめる。優しげな風貌と優雅な身
のこなしは、軍人というより神官と言ったほうがしっくりくるだろ
う。
﹁楽にしてよろしい。私は﹃シームルグ﹄船長アシュレイ・マイヤ
ーズ中佐、そちらは秘書のアマンダ・グレンフェル少尉﹂
蜂蜜色の髪をショートカットにした、グレンフェル少尉がペコリ
とお辞儀する。
261
﹁最初に言っておきますが、﹃シームルグは軍船﹄ではありません、
都合上、近衛旅団に属していますが、あくまでテルミア教団の持ち
物です﹂
優しげなグレイの瞳でまっすぐに見つめる中佐を、文洋は見つめ
返した。 シームルグ
﹁シルフを束ねる風の女王、ウェンサーラが初代の巫女様に授け、
代々、テルミアの王女に受け継がれてきた、飛空船は、テルミアの
教義を広めるための翼であり、本来、人を殺す道具ではありません﹂
ゆっくりと、諭すように言う中佐に、文洋は黙って頷く。
﹁先日、王都に空襲があった際、テルミア神との古の盟約によって
﹃フルメン﹄が顕現したのは、皆さんの知ってのとおりです。これ
により神殿は守られましたが、空中で爆散した敵艦の破片による市
民の死者は八名、負傷者は四百三十二名、敵方の死者は二隻で推定
九十名を超えると思われます﹂
あのデカイのが落ちて、それで済むってなら、そのドラゴンとや
らは、ずいぶん人間に優しいさね⋮⋮。隣で小さくつぶやいたラデ
ィアを文洋が小声でたしなめた。
﹁銀の塔の礼拝堂から、その光景をご覧になられていた、ラティー
シャ・リア・ユーラス王女殿下は大変悲しんおいでです。これ以上、
殿下は無辜の市民の犠牲を望んでおられません﹂
⋮⋮ならば、炭鉱など、くれてやれば良かろう⋮⋮と、文洋は一
瞬思ったが、そういう訳にもゆかないのが、工業化された世界だと
思い直す。
262
﹃扶桑﹄が世界の裏側まで軍艦に乗ってやってきて、列強諸国に
同盟を求めるように、工業化された社会を支えるのに、技術と鉄と
石炭は今や水とパンと肉と同義で、それを持たぬ弱者は周囲の国か
ら噛み付かれ、喰い殺される。
﹁現在、三都同盟で確認されている飛行船は四隻、二隻は先日、﹃
ヒュードラ
フルメン﹄により屠られ、一隻は空軍の活躍により中破、現在我が
国を脅かすのは、﹃九頭蛇﹄ただ一隻となりました﹂
そこで言葉を切って、中佐は一人ひとりの顔を順番に見つめた。
ヒュードラ
﹁王女殿下は、この戦を終わらせるために、テルミアの至宝﹃シー
ムルグ﹄で刺し違えてでも、﹃九頭蛇﹄を仕留めよと仰っておいで
です﹂
過激な言葉に、隊員たちからどよめきが起きる
﹁諸君らの活躍に期待します﹂
§
﹁もう一度だ、敵味方を入れ替えるぞ﹂
文洋が近衛連隊の設備部に掛け合い、練兵場の中に板を立てて作
った、狭い船内を模して作られた施設で、ダークエルフの兵士達が
突入訓練を繰り返す。
精霊を召喚できるダークエルフが十二人もいれば、前衛後衛にわ
かれて、小火器を無効化することはできる。そのため、文洋はもっ
ぱら白兵戦に重点を置いて出撃までの三日間、訓練を行うことにし
た。
263
﹁そこ、曲がり角のカバーが甘い、横から撃たれるぞ﹂
実戦さながらに銃弾の盾となるサラマンダやシルフが飛び交い、
双剣を手にしたダークエルフ達が廊下を駆け抜ける。
﹁せいっ!﹂
﹁うわ! 姐さん!﹂
半分ずつに別れての白兵戦、狭い廊下を模した場所で、胸に飛び
蹴りを食らって飛んできた兵士を半身でかわすと、文洋は袖を掴ん
で後ろに放り投げた。
﹁ええっ? 少尉!﹂
・・
後ろに投げ飛ばされた味方が、情けない悲鳴をあげて文洋の後ろ
に転がってゆく。
﹁やるじゃないか﹂
漆黒の刃に金象嵌、二〇インチほどのエルフ作りの双剣を構え、
ラディアが文洋に飛びかかってくる。
一撃、二撃と、稲妻のような早さで打ち込んでくる双剣を、文洋
は借り物のショートソードでしのぐ。
加減しているのかいないのか、ラディアが打ち込む剣戟が激しく
火花を散らした。
﹁セイッ! ヤッ!﹂
舞いのように美しいニ連撃。
264
上から打ち下ろしてきた右の剣をショートソードで受け止める。
・・
スキのできた文洋の右の脇腹を狙って、左の剣がバックハンドで
打ち込まれる。
文洋は右肘をたたんで間合いを詰めると、左手でラディアの左手
首をつかみ、変則的な四方投げで投げ伏せた。
頭を打ちそうになるラディアの襟を、剣を投げだして引いたとこ
ろで、ラディアの後ろから来たフェデロ曹長に一本とられ、めでた
く文洋も戦死判定をくらう。
﹁ユウキ少尉はあの剣術とも拳闘術ともつかない変な技、禁止﹂
﹁俺は魔法が使えないんだから、体術ぐらいハンデだ﹂
﹁でもずるい、あんなの防げない﹂
﹁クラウスはちゃんと防いでたぞ﹂
﹁そもそも、人狼と素手で戦える少尉がおかしい﹂
デブリーフィングでふて腐れるラディアに笑いが起こる。だが、
全員、目は真剣だ。なにしろ命がかかっているのだ。
﹁よし、今日はここまで、整列﹂
午後の三時間を使っての訓練で身体のあちこちに、打ち身とアザ
を作った隊員たちが、クタクタになりながら整列する。
﹁手当の必要な人はいませんか﹂
お目付け役と言ったところか、テンプルナイトを一名つれて、練
兵場の端で訓練を見ていたグレンフェル少尉が心配そうに文洋の元
へ駆け寄るとそう行った。
﹁怪我人は誰かいるか?﹂
265
﹁大丈夫だよ、この程度で呼ばれちゃ治癒術師が可哀想さね﹂
﹁まったくだ、この程度の打ち身なら、姐さんに蹴られたほうが痛
いってもんだ﹂
﹁そうかい、蹴飛ばしてやるからケツだしな﹂
ダークエルフ達のやりとりに、文洋は苦笑いする。どいつもこい
つも強がりばかりだが、頼もしくはある。
﹁言葉遣いほどには、悪い者達ではないのですよ、グレンフェル少
尉﹂
﹁それにしても厳し過ぎはしませんか?﹂
どこかに引っ掛けたのか、腕の所がかぎ裂きになり、血の滲んだ
文洋のシャツを見ながら、少尉が言う。
﹁死なずに帰ってくるためです、生きるための努力に厳しすぎると
いうことはないでしょう﹂
﹁ではなおの事、打ち身一つでもきちんと治すべきです﹂ なるほど、筋は通っている。
﹁私をはじめ、皆、異教徒かもしれませんよ?﹂
おそらく、彼女も神官かそれに属する身分であろうと見当をつけ
て、文洋はすこし意地悪を言ってみた。
﹁テルミアの光はあまねく生き物に注がれます。異教徒であろうと、
たとえ人でなかろうと﹂
﹁わかりました、手当をお願いします﹂
266
強い調子できっぱりと言い放つグレンフェルに、文洋は両手を上
げて降参する。
﹁さあ、まずはあなたからです﹂
そう言われて袖をまくった文洋の腕にグレンフェルが手をかざす
と、ポワリと傷のあたりを光がつつむ。
先日撃墜された際に、ウォルズ村で経験していたが、彼女の治癒
術はその比ではなかった。薄皮が貼るどころか跡形もなく傷口がふ
さがってしまった。
﹁おおっ﹂
﹁すごいな﹂
輪になってその様子を眺めていたダークエルフ達からどよめきが
あがる。
﹁はい、おしまいです、他にもケガをした方は並んでください﹂
結局、隊員の半数が手当てを受け、その日の訓練を無事終えた。
文洋は、その様子を無表情に⋮⋮というより、多少の敵意すら感
じられる眼差しで見つめるテンプルナイトが気になったが、まあ、
近衛旅団の中核をなすのは修道騎士の彼らだ、異国人にダークエル
フが彼らの本拠地をウロウロするのは気に入らないという事だろう。
﹁よし、全員解散、明朝十時に練兵場に集合﹂
出航は三日後、個々人では間違いなく優秀な戦士の彼らがスムー
ズに連携することが出来れば、勝率はぐんと上がることだろう。
267
§
﹁間近でみると素晴らしいな﹂
ピッタリとした革鎧の上から、修道女たちの着る白いローブをま
とったダークエルフの一団と、近衛の正装に身を包んだ文洋が格納
庫の中で、ぷかりと浮かんだ﹃シームルグ﹄を見上げていた。
全長は一五〇フィート、高さは五〇フィートほどだろうか、かつ
てエルフたちが住んでいた深い森に生えるというアイアンウッドと、
ドワーフ細工の精緻な彫刻が施されたミスリル板、材質の想像もつ
かない半透明の安定翼、息をのむような美しい船が目の前にあった。
﹁気を付け﹂
船腹の中ほどに取り付けられたハッチから船長が現れる。
﹁本船は一旦、南方の要塞都市レブログへ向かい、その後、東方都
市へ向けて出港します、王女殿下はレブログまで本船に乗船いただ
きます﹂
おおっ、とその場にいる全員がどよめいた。釣りの餌を魅力的に
見せるためとは言え、実際に王女殿下に同行出来るというのは、そ
うはない名誉である。
﹁なお、王女殿下が乗船前に皆にお言葉を下さる、全員、甲板へ注
目﹂
ザッ、と音を立て、全員が甲板へ向き直立する。磨き上げられた
真鍮の手すりの向こうに、金糸で刺繍された修道服と、緑の宝石の
268
サークレット、同じく緑の大きな宝石のついた杖を持った、金髪の
少女が現れた。
﹁おい、あれ⋮⋮﹂
﹁いや、でもな﹂
その姿に、背後のダークエルフ達がざわめくのを感じて、文洋は
声をあげる。
﹁王女殿下に敬礼﹂
反射的に敬礼した隊員たちに、この三日間で見慣れた顔となった
少女が、手を上げて答礼すると、口を開いた。
﹁最初に、みなさんを騙していたことにお詫びを申し上げます﹂
﹃元グレンフェル少尉﹄が小さく頭を垂れる。
﹁ですが、この三日間、みなさんと一緒に過ごして、空軍がどうし
てあなた達を派遣してきたのか、とてもよく理解できました﹂
﹁捨てやすいコマさね⋮⋮。﹂隣でラディアがボヤく。
﹁兵士の皆さん、あなた方は生まれついての騎士ではないかもしれ
ません、ですが、勇気に溢れ、機知に富み、それに奢らず修練を重
ねる皆さんを見込んで、テルミア王女として、お願いがあります﹂
命令ではなく、お願いときたか⋮⋮。文洋は彼女の言葉に、大し
た役者だと舌をまいた、文洋の隊には、自分と部族長の娘であるラ
ディア以外、平民しかいない。
269
それにテルミアの巫女、ラティーシャ・リア・ユーラス王女。事
実上の国家の最高権力者が﹃お願い﹄するというのだ。
ヒュードラ
﹁この国のために、九頭蛇を狩って下さい、そしてこの戦に終止符
を﹂
そこで言葉を切って、ラティーシャ王女が隊員、一人ひとりの顔
を覚えるかのように見つめる。
﹁勇敢な兵士に勝利を、皆にテルミアの加護があらんことを﹂
しばしの静寂と緊張感を、王女の凛とした声が打ち破り、格納庫
に響いた。うおおお、と兵士たちが雄叫びを上げる。
﹁王女殿下に勝利を!﹂
文洋が、声を上げた。
﹁王女殿下に勝利を!﹂﹁王女殿下に勝利を﹂
隊員たちが唱和する。
﹁まったく、これだから男ってのは﹂
ボソリ、とつぶやくラディアに苦笑いして、文洋はその言葉を聞
かなかったことにした。そうだな、まったく男ってのは単純な生き
物だ。
﹁さて、一泡ふかせてやるとするか﹂
270
誰に言うでもなくひとりごちて、文洋はラッタルに足をかけた。
できれば飛行機のほうが良かったが、まあそれでも今度はこちらが
狩る番というわけだ。
大扉が開かれると、涼しい石造りの格納庫に、熱い風が吹き込み、
陽光が磨き上げられた﹃シームルグ﹄を宝石のように煌めかせた。
271
不死鳥︽シームルグ︾と九頭蛇︽ヒュードラ︾︵前編︶
十年に一度、儀式の時にのみ姿を見せる﹃シームルグ﹄と、その
船尾楼から手を降るラティーシャ王女に熱狂する国民たちに見送ら
れ、船は一路南へと向かった。
途中、基地から上がってきた護衛機が、三十ノットほどで巡航す
る﹃シームルグ﹄の上空をフライパスしては戻ってゆく。
﹁ユウキ少尉﹂
﹃シームルグ﹄の前方デッキで編隊を組んでは行き過ぎる護衛機
を見上げていた文洋は、後ろから声をかけられて振り返る。
﹁王女殿下﹂
ローラ
カツン、とカカトを鳴らして敬礼する文洋に、ラティーシャ王女
が微笑んだ。
ローズ
﹁二人の時はラティーシャで構いません、ユウキ卿。大叔母様の旦
那様で、叔母様のお友達なんですもの、親戚みたいなものです﹂
﹁えーと⋮⋮では、私のことはフミと呼んでいただけますか、殿下﹂
文洋はしばらく固まってから、そう返した。太古の時代からテル
ミア教を守護してきたテルミア王家は、宗教を通じてエルフ達と親
めいそん
交が深く、それは血縁に及ぶと聞いてはいたが、いきなり現れた義
理の姪孫がテルミア王女となると、全く実感がわかない。
﹁では、フミ⋮⋮。情報部にひどい目にあわされませんでしたか?﹂
272
﹁殿下のおかげで助かりました﹂
﹁大変だったんですよ? 大叔母様が、お祖母様に連絡してこられ
て﹂
﹁王家でも情報部は抑えられませんか?﹂
おじ
文洋の問いに、ラティーシャ王女が首を横にふり、吹き出しそう
になりながら言葉を継ぐ。
とうさま
いさま
おじい
﹁国王陛下に、政治に首を突っ込むなと言われたお祖母様が、先王
さま
陛下に泣きついたものですから⋮⋮。お祖母様に首ったけの先王陛
下が、馬を引け! 鎧を出せ! 妻の妹御の大事だ! ワシが自ら
助けにゆく! って⋮⋮お止めするのが大変でした﹂
ローラ
﹁それは⋮⋮大変でしたね﹂
﹁ええ、本当に。それで、大叔母様のお怪我は大丈夫なのですか?﹂
﹁ええ、あとは日にち薬といったところです﹂
ヒュードラ
ローラの怪我を思い出して、文洋の心の底に、もやりと黒い感情
が沸き起こる。待っていろ、九頭蛇、奈落の底に叩き落としてやる。
﹁フミ⋮⋮、無事に戻ってらしてください、大叔母様と一緒に、晩
餐会にご招待いたしますから﹂
そんな文洋の心を、見透かしたように、ラティーシャ王女が文洋
の手をそっと握りしめる。
﹁そうですね、ありがとう御座います。殿下⋮⋮いえ、ラティーシ
ャ﹂
そうだ、皆のもとに生きて帰らなければ、空を見上げて、深呼吸
すると、文洋はラティーシャに笑顔を向けた。
273
§
その日の夕刻に、レブログ軍港へ着水した﹃シームルグ﹄は、翌
朝、扶桑海軍の閲兵式を行ったラティーシャ王女を乗せ、護衛の小
型飛行船二隻とともに、市民たちの大歓声に見送られてレブログを
後にした。
もっとも、護衛の警備艇に守られたランチから﹃シームルグ﹄へ
乗り込んだのは、彼女の影武者だったが⋮⋮。
﹁ラディア、対空警戒、四点鐘︵二時間︶ごとに交代だ﹂
﹁まかせな! フェデロ、一人連れて後ろへ、最初に敵を見つけた
奴には、少尉が好きなだけ奢ってくれるとさ﹂
﹁ああ、支払いならまかせとけ﹂
見張りをラディア達に任せ、文洋は航空地図を見せてもらいに船
オーブ
首へと向かった。ガラス張りのブリッジには、時代がかった舵輪が
据え付けられ、操舵手の後ろに青みがかった大きな玉石が据え付け
られ、輝いている。
﹁航空地図を見せていただけますか?﹂
航海士に言って、文洋は広げられた大きな地図にコンパスを当て
た。最終目的地、﹃ヴァストカ﹄は、紛争の原因となった炭鉱のあ
るラダル炭鉱のあるレシチア諸島に近い貿易都市だ。
護衛の飛行船にあわせて、三十五ノットで東南東に向かうこの船
を、自分ならどこで襲うか、時計とコンパスを片手に地図に印を付
けてゆく。
﹁日の出は何時ですか?﹂
274
﹁○五三○︽まるごさんまる︾時です、少尉﹂
日の出まで八時間、この時期ならその三○分前には明るくなる。
コンパスで七時間半の距離を刻んで、文洋は地図に×を打つ。レブ
ログから三二〇マイル、ウィリデ湾上空、おそらくここだろう。
﹁マイヤーズ艦長、敵飛行船発見後の操舵について意見具申を﹂
﹁いいでしょう、艦長室へ﹂
緊張した面持ちのマイヤーズ中佐がブリッジ中央の椅子から立ち
上がり、先導して歩く。⋮⋮みなが緊張しているのだ。無意識に文
洋は腰の後ろに吊った短刀を確かめる。カチャリと漆塗りの鞘がな
った。
§
﹁ユウキ少尉! 敵艦発見!﹂
文洋が想定したおおよその会敵時間をラディアに話したのは、良
かったのか、悪かったのか⋮⋮伝声管に響いたのはラディアの声だ
った。
﹁了解!﹂
丈の長い近衛の上着を脱ぎ捨てて、文洋は隊員たちの待つ食堂へ
と向かった。慌ただしい空気にすでに勘づいていたのか、ダークエ
ルフの戦士たちが、白い僧服を脱いで黒の革鎧に双剣の出で立ちで
待っている。
﹁少尉、俺たちはどうすればいいんです?﹂
275
ヒュードラ
慌ただしく戦闘準備をする戦士たちの後ろで、手持ちぶたさに佇
んでいるのは、整備兵二人と、九頭蛇をぶんどった時のために連れ
て来られた航海長と機関長だ。
﹁船は俺達を降ろしたら一旦、現場を離れる、そこのお嬢さんを守
ってやれ﹂
カービン
着剣した騎兵銃を手にした整備兵に、文洋はレブログを発つ時に
乗せられた影武者の少女を指して、命令を出す。
﹁大丈夫、この船はどの飛行機より早く飛べる、いざ死ぬときは俺
達だけだ﹂
文洋は、食堂の隅で膝を抱えて震える少女の横にしゃがみ、少女
の髪をクシャクシャとかき混ぜてニコリと笑う。キョトンとした顔
で自分を見上げる少女に、もう一度微笑んでから、文洋は立ち上が
った。
﹁ラディア、左舷、前部上甲板へ全員を﹂
﹁了解、少尉﹂
もうここまで来たら、艦長の手腕を信じるしか無い。ボウと音を
立て、船窓の外が明るくなったのは、敵の戦闘機に護衛の飛行船が
落とされたからだろう。
気にせず前部上甲板へのラッタルを駆け上り、舷側にあるハッチ
のそばにしゃがみ込む。
﹁もう一隻、落とされるぞ﹂
276
船窓から外を覗いていたダークエルフの戦士が叫び声をあげる。
釣られて窓を覗いた文洋の前で、護衛の飛行船が火を吹きながらな
お、夜空を焦がせとばかり曳光弾を吐き続け、暗い海面へと落ちて
いった。
﹁敵艦より、発光信号﹂
発光信号、か⋮⋮読まなくともわかる。降伏勧告だ。
﹁すまないな、ラディア﹂
文洋は腰の短剣と、左脇の拳銃、それに腰から下げた二発の手榴
弾を確認して、目を閉じる。
﹁バカだね、フミ、あたしたちは楽しんでる。むしろ感謝すらして
るさ、そうだろお前ら!﹂
ラディアが吼える。十二人の戦士たちが、呼応して雄叫びを上げ
た。
﹁あいつをぶんどって基地に帰る。生き残った奴らには全員、好き
なだけ奢ってやるからおぼえておけ!﹂
叫び声を上げ、カッと目を見開いて、文洋は上甲板への扉を開い
た。
ゴウと音を立てて、逆巻く風が通路へとなだれ込んでくる。
§
発光信号で降伏すると見せかけた﹃シームルグ﹄が、想像を絶す
277
ヒュードラ
る機動で、﹃ヒュードラ﹄に体当たりを仕掛けた。一五〇フィート
を超える巨体が、戦闘機顔負けの速度と身軽さで、九頭蛇の側面を
擦るように体当たりをぶちかます。
ズシン、という衝撃で甲板に待機していた兵士の数人が転がる。
﹃シームルグ﹄の三倍以上と、圧倒的に大きな﹃ヒュードラ﹄の軽
金属の外殻が火花を上げ、対魔法用の防御符が剥がれ落ちて、銀色
の吹雪をまき散らした。
﹁いくよ、野郎共!﹂
突然の衝突に、あっけにとられた敵艦の機銃座に、ダークエルフ
が召喚したサラマンダーが炎をまき散らす。コートについた火を消
そうと、転がり回る機銃手をサラマンダーがパクリと咥えて、無造
作に空中へと放り出した。
落下の途中、機銃手が飛行船の外殻に当たる。サラマンダーの炎
が防護符の効果でかき消され、反応した防護符が砕け散って、銀色
の吹雪が夜空にきらめく。気の毒な機銃手はそのまま三千フィート
の暗闇の中、海へと落ちていった。
﹁撃て﹂
この日のために上甲板に備え付けられた捕鯨銛が、爆音を上げて
ワイヤーの尾を引き、機銃座の周りに突き刺さる。一本、二本、三
本、銃座の周りに張られたワイヤーを頼りに、フック付きのロープ
ゆけ
ゆけ
に身を預けて、戦士たちが機銃座へと滑り降りた。
ゆけ
﹁イリア、イリア! イーリア!﹂
乗り移ったダークエルフ達が、エルフ語で叫び声を上げながら、
双剣を引き抜きハッチから雪崩こむ。
278
﹁ラディア、後ろから回りこめ、ブリッジで会おう﹂
タチ
﹁死ぬんじゃないよ! 少尉﹂
﹁約束は守る性質だからな、次は酒場だ﹂
ギシリと、ヒュードラの軽金属の外壁ごと刺さった銛をむしりと
って、﹃シームルグ﹄が離れてゆく。短刀を引き抜いて、文洋は先
をゆくダークエルフの戦士の後を追った。
﹁て、敵襲!﹂
ボーディング
木造帆船が主流から外れて四半世紀、空中で斬込攻撃を食らうな
どと、誰が想像だにしただろう。当たるを幸いなぎ払い、文洋とダ
ークエルフたちは快進撃を続けた。
グラリ、と巨体を傾かせ、大きな唸り声を﹃ヒュードラ﹄が上げ
たのは逃げ出した﹃シームルグ﹄を追うために違いない。
﹁この野郎!﹂
叫び声を上げ、手斧を片手に敵兵が飛び出してくる。切りかかっ
てくる一撃を交わし、敵兵の顔面に肘を叩きつけて、文洋はそのま
ま前へと進みつづける。
﹁少尉、そろそろ向こうも気がついたようですぜ﹂
﹁らしいな、急ぐぞ﹂
双胴飛行船の胴体を前へ前へと進み続け、中央部に釣られたキャ
ビンへ通じるハッチの手前で、文洋と二人のダークエルフ兵は釘付
けにされていた。
召喚したサラマンダーが、火力任せに薄いハッチを焼ききったま
279
では良かったが、途端、扉の中から一斉射撃を浴びて蜂の巣になっ
た。
長さ十ヤード、幅二フィートほどのキャットウォークを挟んで、
猛烈な銃撃が文洋たちに襲いかかる。
苦し紛れに再度召喚したサラマンダーが、炎を吐く前に蜂の巣に
なって、火の粉になると虚空へ舞い散った。
﹁くそっ、駄目だ、一匹じゃどうにもなんねえ﹂﹂
﹁ドアの向こうに召喚できないのか?﹂
﹁広さがたりねえよ﹂
ここに釘付けになると、数で押し切られる。
﹁二秒でいい、俺が突っ込む間、扉の向こうを黙らせてくれ﹂
﹁なら、そいつを二発とも貸して下さい﹂
文洋の腰に付けた手榴弾をダークエルフの兵士が指差して、ニヤ
リと笑った。
上空三千フィート、しかも最大戦速で空を飛ぶ飛行船の上だ。た
かが一〇ヤードとは言え、風のせいであの中に放り込めるとも思え
なかったが、自信満々の様子に文洋は手榴弾をダークエルフの戦士
に手渡す。
﹁少尉、ゆっくり五つ数えたら突撃です﹂
一個ずつ手榴弾を手に持つと、二人のダークエルフが頷き合った。
﹁わかった﹂
﹁じゃあ行きますよ﹂
280
一つ、ハッチ付近に再度サラマンダーが現れる
二つ、二匹のシルフが、ピンを抜いた手榴弾を受け取り飛び去っ
た。
三つ、一斉射をくらって、サラマンダーが火の粉になって砕け散
る。
四つ、ピンを抜いた手榴弾を渡されたシルフが、ハッチめがけて
飛んでゆき
一呼吸の静寂の後、ドウ!と爆炎が向こう側のハッチから吹き上
がった。
同時に、文洋は右手に短刀、左手に拳銃を握りしめ、駈け出した。
地上三千フィート、時速四十ノット、叩きつけるような横風の中、
身を低くした文洋は、軽金属のキャットウォークをハッチ目掛けて
疾走する。
風の音以外なにも聞こえず、鼻をつく硝煙の匂いの中、文洋は不
思議な高揚感に包まれ走り続けた。
281
不死鳥︽シームルグ︾と九頭蛇︽ヒュードラ︾︵後編︶
高度三千フィート、冷たい風が吹きすさぶキャットウォークを、
文洋は一息に走り抜けた。まだ晴れぬ硝煙の中に飛び込み、敵の姿
を探す。
柔らかいものにつまづいて、見下ろした文洋の目に、武器を放り
出して座り込んだ兵士が目に入る。迷うこと無くその顎をけり上げ、
次の敵兵を探す。
﹁おらぁ!﹂
途端、怒号ともに文洋の左側から銃剣が突き出された。キン!と
高い音たて、受け流した短刀が火花を散らす。そのまま左手の力を
抜くと、敵兵を巻き込むよう誘い込み、右手の三十八口径のリボル
バーを至近距離から撃ち放つ。
腿を撃ちぬかれた敵兵が、小銃を放り出し崩折れた。駆け込んで
きたダークエルフの双剣が、敵兵の首に一太刀を浴びせ、銀色の壁
が血の色で染まる。
﹁降伏しろ﹂
出来る限りの大音声で文洋が叫ぶ。
﹁クソッタレ!﹂
叫び返し、小銃を構えた兵士の胸板に、文洋は無言で三十八口径
を二発撃ち込んだ。反動で壁に打ち付けられるように、もんどりう
282
った兵士を目にして、まだ意識のある二名が、両手をあげる。
ハッチを守っていた七名から武器を取り上げ、外に投げ捨てると、
文洋は気を失った兵士を、履いているズボンのベルトで縛り上げた。
両足をそろえ左右の靴紐を片結びにする。縛り上げた敵兵の見張
りと怪我人の手当に一名残し、文洋はブリッジ目指して再び走りだ
した。
§
﹁遅いよ、ユウキ少尉﹂
ブリッジの扉の前で、文字通り返り血で紅に染まったラディアと
フェデロが待っていた。床には喉を切り裂かれた敵の死体が三つ転
がっている。
﹁准尉、状況は?﹂
﹁右舷のエンジン室は全部抑えてエンジン止めといた。左舷は手が
足りないからキャットウォークを全部、サラマンダーで焼き落とし
た﹂
﹁それで、さっきから船がずっと左に回ってんのか﹂
﹁飛行甲板に行った時には三機しか残ってなくてね、残った機体が
出られないように、機材を全部ぶっ壊しといた﹂
ほめろと胸を張るラディアに、そうか、と頷いて文洋はブリッジ
の扉へ向き直る。五ヤードほどの細い廊下の先、白兵戦など想定し
ていない薄い扉。
⋮⋮だが、少なくともブリッジ要員はこの扉の向こうで手ぐすね
引いて待ち構えているに違いない。
283
﹁ドアを開けたら蜂の巣だろうなあ﹂
﹁そりゃそうさね、それに鍵がかかってるだろうし﹂
残念なことに、入り口は一つしかない。どうしてもここを通らな
ければ、向こうへは行けないというわけだ。
﹁サラマンダーで焼き切れないか?﹂
﹁この通路幅じゃ呼び出せないねえ﹂
﹁扉の向こうに呼び出すのは?﹂
﹁見えてなきゃ無理﹂
そうだったな、文洋は一つ思案してから、足元に転がったライフ
ルを拾い上げた。
﹁じゃあ、あのドアに覗き穴を開けるとしよう﹂
文洋は足元に転がる死体からライフルを拾うと、フェデロと連れ
てきた兵士にも同じようにさせ、予備弾薬を死体の弾薬入れから引
っ張りだした。
﹁扉の上から一フィート、真ん中あたりを、弾がなくなるまで撃ち
まくれ﹂
ダークエルフ二人が扉の上半分、ほぼ同じ位置を目掛けて撃ちま
くる。派手な火花を上げて、顔ほどの高さに蜂の巣のように穴が開
いてゆく。文洋は反撃が無いのを確認して床に寝そべると、床から
十インチほどの高さに穴を一つ開けた。
﹁ラディア﹂
284
﹁まかせな﹂
文洋も立射に戻り、三人で扉を撃ち続ける。
弾が切れたところで、手を上げて射撃を止めた。
﹁右舷は制圧した、諸君、降伏したまえ﹂
あれだけドアが穴だらけなら聞こえるだろうと、大声で文洋が降
伏勧告する。どことなくロバルト中佐風になったのは意識してのこ
とだ。
﹁断る、かかって来⋮⋮うぎゃあああ﹂
拒絶の言葉を最後まで言わせることなく、扉の向こうから断末魔
の悲鳴が上がった。銃声、怒号、金属音、それとあまり聞きたくな
い、骨のひしゃげる音。
﹁砲雷長がやられた!﹂﹁うわあ、逃げろ!﹂
ドアの向こうで恐慌の波が広がる。悲鳴と喧騒。
﹁艦長だ、降伏する、降伏する!! 全員武器を捨てろ、もう沢山
だやめてくれ!!﹂
悲痛な叫びがブリッジから上がった。覗き穴から目を放し、返り
血と硝煙で汚れた顔をこちらに向けたラディアが、頬を上気させ愉
悦の表情を浮かべている。隣で額に手をあてるフェデロの表情を見
て文洋はため息をついた。
﹁准尉、良くやった、もういい﹂
285
頬についた血を指でぬぐってやると、文洋はラディアの頭をポン
ポンと叩いて、立ち上がらせる。
中から鍵が開かれると、文洋は蜂の巣になったドアを用心しなが
ら開き、ブリッジに足を踏み入れた。全員が血の気の引いた顔をし
て両手を上げて立っている。
﹁武装解除を全乗組員に通達して下さい﹂
﹁わかった、わかったからそいつを近づけないでくれ﹂
金色のモールをぶら下げた艦長と参謀らしい男が、ラディアを見
て震え上がる。彼らが何を見たのかは、知らない方が良さそうだ。
﹁いいでしょう、准尉、無線室を抑えろ。軍曹、ブリッジの武装解
除を確認しろ、抵抗すれば殺して構わん﹂
﹁まて、待ってくれ、今すぐアナウンスを流す、抵抗はしない!﹂
そこから先は呆気ないほどにあっさりと事は進んだ、戦闘機に追
われて逃げ出した﹃シームルグ﹄と午後の早い時間に合流すると、
﹃ヒュードラ﹄はウィリデ湾北方の民間飛行船係留所に係留され、
乗組員は全員捕虜となった。
敵の戦死者は二十八名、負傷者は三十八名、味方の損害は﹃シー
ムルグ﹄で戦闘機の機銃掃射による死者が一名、負傷者二名。護衛
飛行船二隻の乗組員二十八名が全員死亡。
ただし、捕虜の中に敵のパイロットは数名しかおらず、白狐のマ
ーキングの黄色い戦闘機に乗ったパイロットは含まれて居なかった
事を聞かされ、文洋は落胆すると共に安堵した。
286
§
﹁冷たいねえ、帰りは乗せて行ってくれないなんてさ﹂
ヒュードラ
地上に下ろすと、バカバカしいほど大きな﹃九頭蛇﹄が巨大な影
を飛行場に落としている。
文洋達を置き去りにして、敵の艦長他、貴族階級の捕虜を乗せ、
﹃シームルグ﹄は王都へと飛び立っていった。
﹁まあ、いいじゃないか、おかげで少しばかり、休憩できる﹂
迎えの民間飛行船が来るまで二泊三日、文洋たちはウィリデ湾に
面したこの小さな港町に逗留することになった。連れてきた整備兵
の指揮のもと、サラマンダーが焼ききったキャットウォークが修理
され、敵の負傷者と水兵達は近くの陸軍基地へと移送されてゆく。
﹁そうさね、ゆっくり休むとしよう。ああ、そうだユウキ少尉、全
員に奢りだからね、高い飲み会になるよ?﹂
血まみれの革鎧を脱いでシャワーを浴び、地元の土産物屋で買っ
てきたらしい、生成りのワンピースに、同じ色のボレロ、大きな帽
子を被ったラディアが、文洋の背中を叩いて、カラカラと笑う。
﹁ここじゃ、ツケは効かないだろうなあ﹂
﹁まあ、ウィリデ基地の司令が置いてった、全員分の滞在費とやら
で飲んじまえばいいさね﹂
﹁いや、それじゃ俺のおごりにならんだろ、滞在費は等分するんだ
から﹂
それを聞いたラディアがキョトンとした顔をして、となりのフェ
287
デロ軍曹の顔をマジマジと見つめた。
﹁フェデロ、この隊長さん、ピンハネしないそうだよ?﹂
﹁そのようですね﹂
﹁いや、普通しないだろ? 三日分の滞在費、一人、一六〇クナー
ル、綺麗に分けてもカツカツじゃないか﹂
﹁保証してもいいけど、その金、ここへ届くまでにウィリデ基地の
司令はピンハネしてると思うけどねえ﹂
﹁してるでしょうね﹂
ラディアが混ぜっ返すと、フェデロが頷いた。わかったわかった
と手を上げて、文洋は二人の会話を遮って、宣言する。
﹁ともかく、酒場には俺が話をしよう、滞在費は等分だ﹂
§
三都同盟の紋章が入った空中空母拿捕という、あまりに飛行船自
体が大きすぎて隠し切れないニュースは、またたく間に小さな町に
ひろがった。
係留所勤務の市民から漏れたうわさは、たちまち尾ひれがついて、
外国人の空軍士官とダークエルフの一団が、敵の飛行船に切り込ん
だ挙句に皆殺しにしたという話になっていた。
﹁いや、とんでもない、王国の英雄じゃないですか! お代なんて
いただけませんよ!﹂
その日の夕刻、町で一番、大きな宿屋に押しかけた文洋たちの前
で、宿の亭主がそう言って首を振る。
288
﹁いや、それは困る。 市民にたかったとあっては、問題になる﹂
﹁ああ、もう! イライラするねえ、このトンチキは。ほら、お前
ら、有り金全部だしな﹂
後ろに居並ぶ部下たちにそう言って、ラディアは帽子を脱ぐと、
自分の財布の中身を取り出して帽子に放り込んだ。文洋の財布も上
着からヒョイと抜き取り、札を抜いて帽子の中に、放り込む。
﹁まじかよ、姐御、傑作だなそれ!﹂
﹁違いねえ、大体、軍から預かった金を等分とか、少尉もめでたす
ぎるよな﹂
﹁生きて帰れただけ見つけもんだしな、使っちまえ使っちまえ﹂
差し出された帽子に、ダークエルフ達が、次々に財布の中身をぶ
ちまけた。
﹁ほんと、少尉はバカ正直でクソ真面目だからな﹂
整備兵も、仕方がないとばかりに財布をひっくり返し、中身を全
部ラディアの帽子に突っ込む。
﹁はい、少尉! これで二日間、飲み放題、食べ放題!﹂
小さな子供がするように、両手で帽子を持って差し出すラディア
から、文洋は苦笑いして帽子を受け取って店の主人を振り返る。
﹁それでいいかね、ご亭主﹂
コクコクと首を縦に亭主が振るのを見て、全員が大笑いする。亭
主にラディアが小さく耳打ちしているのが気になったが、みなに押
289
されるようにして、文洋は一階のホールへと足を向けた。
何にしろ、生きて帰った。今日は何も考えずに、へべれけに酔っ
払おう。
﹁まずは冷たいエールで乾杯だ﹂
﹁おうっ!﹂
雄叫びをあげる男たちを引き連れて、文洋は真ん中の大テーブル
へと足をすすめる。うわさを聞きいて駆けつけた地元の人々から歓
声があがり、拍手の渦につつまれた。
運ばれてきたエールのマグジョッキを高々と掲げ、乾杯する。冷
たいエールが喉を潤し、ホップの香りが鼻に抜けてゆく。
生きてる。
今日くらいは、その実感に酔ったところで神様だって許してくれ
るだろう。
290
魔術師と執事
怪我したクラウスを王都で見つけた、そんな連絡を文洋からもら
ったレオナは、翌朝、一番の汽車で王都へと向かっていた。
﹁クラウスが生きてた⋮⋮生きてた⋮⋮﹂
コンパートメントの窓に流れる麦畑を見ながら、レオナが小さく
つぶやく。向かいに座ったローラが、そんなレオナをみてニコリと
笑う。
﹁良かったわね、レオナ﹂
﹁ええ⋮⋮あの⋮⋮あのね、ローラ﹂
﹁ん?﹂
ウェアウルフ ヴァンパイア
レオナはそこで言葉を切ってローラを見つめた。人狼と吸血鬼、
この二つの種族は驚異的な力と、あまりに人に近い外見を持つがゆ
えに、他の種族より人一倍忌み嫌われている。
神話の時代に狼の子孫と謳われたアリシアの国柄ゆえ、狼に慣れ
親しみ、上流階級の家庭では、犬の代わりに狼を飼うことすらある
ウェアウルフ
アリシアですら、人狼を快く思う人間はそう多くはない。
﹁どうしたの?レオナ﹂
ウェアウルフ
﹁セプテントリオンの執事は、代々、人狼なの﹂
﹁そう﹂
﹁ローラは家に人狼がいても嫌じゃない?﹂
﹁どうして? アパートメントにはまだお部屋は沢山残っているし、
レオナの家族なんでしょう?﹂
291
そうだった⋮⋮ローラはこういう人だった⋮⋮気負った分、なん
だか拍子抜けして、レオナはまた、窓の外に視線を戻した。
﹁でも、困ったわね﹂
﹁あ、あの、迷惑だったら言ってね、わたし⋮⋮﹂
﹁ほら⋮⋮、私、お肉のお料理、あまり得意じゃないでしょ? 時
々、鹿を使うくらいでエルフのお料理はお肉使わないから﹂
﹁えと⋮⋮え?﹂
﹁やっぱり、クラウスさん? 狼さんなんだから、お肉、好きなん
でしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
本当に困った⋮⋮という顔をするローラにレオナはクスリと笑う。
釣られて、レオナの隣に座ったシェラーナも小さく吹き出した。
﹁レオナ、ここに来て﹂
ポンポンと自分の隣を叩いて、ローラが言う。レオナは立ち上が
ると、ローラの左隣、怪我をしていない足の方に腰を掛けた。コン
パートメントのビロード張りの長椅子が、ぽふりと音をたてる。
﹁どうしたの、ローラ?﹂
とし
﹁ねえ、レオナ、私は人間より、長い長い時間を生きて来たし、こ
れからも生きてゆくわ﹂
﹁うん﹂
とし
﹁あなたのお祖父様が、レオナくらいの年齢だった頃、私はそうね、
シェラーナ位の年齢だった﹂
少し遠い目をして、ローラが窓の外に視線を投げた。
292
﹁あなたも、いつか私を追い抜いて、大人になって、そして私を置
いていってしまうの﹂
そう言って、少し悲しそうな顔をした後、レオナはローラにぎゅ
っと抱きしめられる。
﹁だから、私の家族で居る間は、出て行くなんて寂しいことは言わ
ないで﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
背中に手を回しレオナはローラをぎゅっと抱きしめる。頬にかか
るプラチナ・ブロンドの髪から薔薇油の香りがした。
﹁ごめんなさい﹂
もう一度謝ってから、レオナはローラの胸に顔をうずめる。自分
の髪を撫でる優しい指に目を閉じて身を任せた⋮⋮。ゴトン、ゴト
ン、ゴトン、鉄路の音が静かなコンパートメントに響き渡る。
§
﹁ただいま! クラウス? クラウスどこなの?﹂
テルミア中央駅からタクシーを飛ばし、アパートメントに戻った
レオナは、ローラが扉の鍵を開けるなり、家のなかに駆け込んだ。
﹁クラウス?﹂
階段を駆け上がり、客間のドアを開く。ベッドメイクまでされた
293
部屋は、そこに人など最初から居なかったかのように片付いていた。
﹁⋮⋮﹂
キッチン、屋上と階段を駆け上り、レオナはクラウスの姿を探し
求めた。大きな背中、好々爺とした笑顔。だが、洗濯されたシーツ
が屋上にはためいていた以外、そこに誰かがいた気配はどこにもな
い。
﹁クラウス!﹂
名前を呼んで階段を降りる。
⋮⋮私をおいて、どこかに行ってしまうなんて、許さないんだか
ら。
階段を駆け下り、中庭への扉を開く。
﹁まあ、どうしたのレオナ﹂
扉の向こうで、ローラが驚いた顔でこちらを見ている。隣に立つ、
見慣れた大きな人影。
﹁クラウス!﹂
﹁ああ、お嬢様!﹂
大きさの合う服がなかったのだろう、だらしなく前を開けて、な
のにキッチリと前掛けをつけたクラウスが、ポカンとした顔をして、
じょうろとスコップを手に、中庭に立っている。
心配したのに⋮⋮居なくなったかと思ったのに! なんで中庭の
手入れなんてしてるの! 怪我人のくせに! やり場のない感情の
294
渦がこみ上げる。
﹁バカ、クラウスのバカ! どうして横になってないの! この大
馬鹿!﹂
罵りながら駈け出して、レオナは泣きながらクラウスの胸に飛び
込んだ。
﹁お召し物が汚れます、お嬢様﹂
⋮⋮ほんと、バカ、このバカ狼⋮⋮。
﹁そんなの、いいわよ、バカ、このバカ執事! なによもう、だら
しない格好をして﹂
片腕でヒョイと抱き上げられ、包帯が巻かれた肩に顔をうずめる。
困った顔をして、頭を掻くクラウスを見て、レオナの中で何かがプ
ツンと切れ、声を上げて泣きじゃくった。
§
呆れたことに、三日もするとクラウスの傷はあらかた塞がってし
まい、庭仕事に掃除洗濯と、シェラーナと二人で難なくこなすよう
になっていた。
王都に戻ってから五日、何事もない平和な日が過ぎてゆき、ここ
毎日の日課になっている皆揃ってのティータイムを楽しんでいたレ
オナは、外でガチャガチャと自転車を止める音に気がついた。
﹁少々お待ちを、シェラーナさん、ここを頼みます﹂
295
給仕をしていたクラウスがそう言って、玄関へ向かう。セプテン
トリオンの家はとうに無く、自由にして良いとレオナが断ったのだ
が、頑なに彼女に仕えることに拘ったクラウスは、結局、ローラに
雇われる形で、掃除から給仕、レオナの家庭教師に中庭の手入れま
で、なんでもこなしていた。
﹁シェラーナ、ほら、あなたも掛けて、お茶になさい﹂
﹁いえ、私、メイドですので﹂
メイド兼、護衛として付けられているシェラーナも、クラウスに
あてられたのか、レオナが強引に誘って部屋で二人でお茶を飲む時
以外は、すっかり畏まってしまっている。
﹁二人とも、困ったものね﹂
ローラが苦笑いして、カモミールティーを一口飲んだところで、
クラウスを従えて、中庭に文洋が入ってくるのが目に入った。
﹁﹁フミ!﹂﹂
ローラと二人、なんだか少し日焼けした文洋に声をあげる。立ち
上がって文洋に駆け寄ると、レオナは文洋の腕に抱きついた。
﹁レオナ、ほらおみやげだ﹂
﹁なに?﹂
ひょいと差し出された籐の籠を、レオナは覗き込む。グレーの毛
玉がもそもそと動いたかと思うと、ひょこり、と顔を上げ、緑の目
がレオナを見つめて、にゃーと鳴いた。
296
﹁わぁ!﹂
﹁まあ、可愛らしい﹂
差し出した指に顔をこすりつけ、ゴロゴロと喉を鳴らす子猫をレ
オナは抱き上げる。
﹁どうしたんです、この猫ちゃん﹂
車椅子のローラがレオナの腕の中の猫を覗きこむと、フンフンと
鼻を鳴らして、子猫がローラの頬に子猫が頭を擦りつけた。
﹁こら、くすぐったいです﹂
﹁ああ、詳しくはまだ話せないが、ちょっと仕事で行った先の宿で
な、引き取り手を探してて貰ってきた。ローラには、これ﹂
﹁まあ? なんです?﹂
紙袋を受け取り、ローラが膝の上で袋を開く。ガラスの小瓶にい
れられたハーブが次から次へと姿を表した。
﹁戦争が始まってからこっち、南大陸のハーブが手に入らなくなっ
てたろ?﹂
﹁ええ、でもこんなに沢山どうしたんです?﹂
﹁泊まった宿の裏に、ハーブを作ってる農家があって、分けてもら
ってきたんだ、北大陸でも作れるものなんだな﹂
そんなやりとりの中、人間の都合などさておいて、一心不乱に胸
元のリボンで遊ぶ子猫を撫でながら、レオナは中庭を見回した。
小さな中庭に、フミがいて、ローラがいて、クラウスがいる、シ
ェラーナに、それにこの小さな新しい家族。ここに、弟がいれば、
もうなにも言うことはないのに⋮⋮。
297
﹁クラウスも元気そうでなによりだ﹂
﹁かたじけない﹂
皆でテーブルへ戻ると、シェラーナの作った羊羹を摘んだ文洋が、
クラウスの腕をポンと叩く。差し出されたハーブティーを一口、文
洋が飲んだところで、クラウスが思い出したように口を開いた。
﹁そう言えば文洋様﹂
﹁文洋でいいよ、クラウス、なんならフミでいい﹂
﹁いや、そういう訳にも、なにせ私、ここに雇われましたので﹂
﹁まあ、好きに呼べばいいさ﹂
肩をすくめ、文洋が諦めたように言う。
﹁ああ、それで文洋様﹂
﹁ん?﹂
﹁先般の夜、助けて頂いた、あのダークエルフのお嬢さんにも、何
かお礼をしたいのですが﹂
﹁ああ、ラディアな、伝えておくよ﹂
ピクリ、とローラのとがった耳が動いたのを、レオナは見逃さな
かった。
﹁フミ、おうちに女の子をご招待したのですか?﹂
﹁ちょ、ちょっとまてローラ﹂
﹁フ・ミ・?﹂
﹁クラウス!﹂
﹁ああ、奥様、なにもやましいことなど無いと⋮⋮思います多分﹂
﹁⋮⋮﹂
298
ローラに問い詰められ、しどろもどろになる文洋を見ながら、レ
オナはクスリと笑う。モソリと子猫が腕のなかで動くと、緑色の目
でレオナを見上げて、﹁にゃー﹂とひと声、鳴き声をあげた。
299
雄牛︽ミノタウロス︾と衛生兵︽メディック︾
テルミア王国と三都同盟、その紛争の発端となったラダル炭鉱を
巡って、地上では一進一退の攻防が繰り広げられていた。 時折、
海軍の支援でどちらかにバランスが傾くものの、島の中央部では、
散発的な突撃と塹壕戦が行われている。
§
バヨネット
﹁着剣!﹂
歩兵少尉の号令がとどろき、ラッパが響き渡った。一斉に兵士た
ちがライフルの先に一フィートはあろうかという銃剣を取り付ける。
﹁突撃﹂
﹁とつげーき﹂
槍のように長い小銃の穂先を、夏の太陽に閃かせ、兵士たちが塹
壕から飛び出してゆく。途中に張られた有刺鉄線をワイヤーカッタ
ーで断ち切り、黙々と銃弾の雨の中を突撃してゆく。
タタタッ タタタタタタッ
キツツキのような乾いた音が響き、敵の塹壕手前の蛸壺から機関
銃が火を吹いた。鉄条網に取り付いた兵士がが次々と打ち倒されて
ゆく。
﹁衛生兵!﹂
300
﹁撃たれた! 助けて、助けてくれ!﹂
機銃になぎ倒され、鉄条網に絡め取られ、あちこちで悲鳴と、救
護を求める声が上がった。
﹁バカな事を、俺達に任せておけば機銃座の一つや二つ、明後日の
夜には吹き飛ばしてやるってのに﹂
ヘルメットを斜めにかぶったドワーフの隊長が、タバコを咥えて
ボソリとつぶやく。難しいことはわからないが、隊長が言うならそ
うなんだろう、アレフはそう思いながら、ウンウンと相槌をうつ。
﹁衛生兵! 行け!﹂
﹁行くぞ、みんな﹂
少尉の号令に、黄色と白の派手な腕章を付けた人間達が立ち上が
おきて
る。腕に黄色いのを巻いている奴は怪我人を助ける。だから、敵で
も殺してはいけない、それが掟だとアレフは隊長に教わった。
掟は守らなければいけない、だからアレフは黄色いのを巻いてい
るのは、敵でも殺さないようにしていた。だがグズだ、ウスノロだ
と、アレフに偉そうに言う人間たちは、その掟を守らないものも多
かった。
掟は守らなければならない、アレフたちの一族なら、どんな小さ
な子供でも知っていることだ。
﹁隊長、アレフ、人間守る﹂
﹁⋮⋮お前も、めでたいやつだな﹂
﹁あいつ、俺に優しかった﹂
﹁衛生兵は撃たれない、そういう決まりだ﹂ 301
﹁でも、人間、掟を守らない、アレフ、アイツに助けられた。﹂
﹃衛生兵﹄、あの日、怪我をしたアレフを助けてくれた人間をそ
う呼ぶのか⋮⋮。塹壕に蓋をするように置かれていた鋼鉄の大盾を
持ち上げ、アレフは隊長に向き直る。
﹁仕方ないやつだな、いいか、お前が行っていいのは、あの木のと
ころまでだ、そこから向こうへは行くな﹂
敵と味方の丁度中間あたりに、奇跡のように残った一本の松の木
を指して、隊長が言う。
﹁アレフ、あの木までしか行かない﹂
﹁よし、俺が行けといったら走れ﹂
﹁わかった﹂
隊長は人間よりずっと小さいが、アレフの一族のように力が強く、
モーター
人間のようにアレフをバカにしない、とても良いドワーフだ。
モーター
﹁工兵隊、迫撃砲用意、煙幕弾!﹂
﹁了解、迫撃砲用意、煙幕弾﹂
後ろで、ドワーフ達が、鉄の筒を並べ始める。 ﹁一番、方位一六○、二番、一九〇、三番、二二○。各砲、三〇ミ
ル右へ修正しつつ、三斉射!﹂
シュポン!、シュポン、シュポン!
マヌケな音がして弾が飛び出すと、爆発の代わりに煙が上がり、
302
松の木の向こう側に白煙の壁ができる。
﹁行け、アレフ、可哀相なチビ共を助けてやれ﹂
﹁わかった、アレフにまかせろ﹂
高さ六フィートはあろうかという、壁のような盾を掲げ、アレフ
は腕に黄色い布を巻いた人間を追って塹壕から走り出た。怪我人を
助けている人間を見つけては、その前で盾を掲げ、弾を避けてやる。
煙が薄くなり始める頃、松の木のたもと、一番敵に近い場所にいる
人間のところまでアレフはたどり着いた。
﹁やあ、アレフ﹂
﹁衛生兵、アレフ、お前を助けに来た﹂
﹁ありがとう、腕はもういいのかい?﹂
﹁アレフ、強い、問題ない﹂
鉄条網に引っかかってもがく歩兵を、黄色い布を腕に巻いた人間
が、引き剥がそうと苦労している。
﹁アレフに任せろ﹂
大盾を地面に立てて片手で支えると、アレフは素手で鉄条網を掻
き分け、紺色の服を着た歩兵を片手で持ち上げた。
﹁よし、こっちだ、戻ろうアレフ﹂
負傷兵を肩に担いで、衛生兵が立ち上がる。一歩、二歩、歩いた
ところで、衛生兵がもんどり打って倒れた。
﹁衛生兵!﹂
303
すっかり晴れてしまった煙の向こう、二〇〇ヤードほど先で、一
人の敵がニヤリと笑っているのを、アレフは確かに見た。それを合
図にしたように、アレフの掲げる鋼鉄の盾に、集中砲火が襲いかか
る。
﹁衛生兵?﹂
倒れこんだ名も知らぬ衛生兵の隣に、アレフはしゃがみこんで、
背を揺する。
動かない衛生兵の背を揺するアレフの掲げた盾を、甲高い音を立
てて銃弾の雨が叩き続ける。
﹁うるさい⋮⋮﹂
つぶやいて、アレフは敵に向き直った。
﹁うるさい⋮⋮うるさい!﹂
一歩、二歩と敵陣へと向かう。 右手で松の木を揺さぶると、力
任せに引き抜いた。 ﹁うるるるるるるるらああああああああああああああああ!﹂
太さ一フィートほどの松の木を小脇に、アレフは盾を構えると、
頭の角を振りかざし、雄叫びを上げて敵陣へと突き進む、背後で突
撃ラッパがひびき、喊声が上がる。
盾が銃弾を弾く音がドラムのようにリズムを刻む。味方の砲弾が
アレフを追い抜いて、敵の塹壕へと降り注いだ。目の前に迫る敵の
304
機銃座を、松の木のひとふりでなぎ倒し、アレフは衛生兵を撃った
敵を探して塹壕へ踊りこんだ。 かたき
﹃ミノタウロスの戦士は泣かない﹄父からはそう教わってきた⋮
⋮。だが自分に優しくしてくれた人間の敵を取ってから、友のため
に泣くのは許してもらえるだろうか。
かたき
腰から斧を引き抜くと、ミノタウロスのアレフは、敵を探して、
斧を振るった。
§
﹁これにより、双方の艦隊に実力差は無いものと思われる。以上が
周辺海域における情勢である﹂
今回のテルミア遠征艦隊の司令官、山形少将が、パチン、と音を
立て、手に持った扇子を閉じた。
﹁何か質問は?﹂
ガンルーム
それを受け、重巡﹃双葉﹄艦長の伊藤大佐が士官室を見回す。黒
板に貼り付けられた海図を睨みながら、照文は手をあげる。
﹁任務は補給線団の護衛ですが、交戦の可能性はどの程度でしょう
か?﹂
﹁テルミア主力は島の南西部を包囲、敵主力との決戦に望むつもり
のようだ、よって北側の輸送船団が襲われる可能性は、ほぼ無いと
言っていいだろう﹂
てるふみ
⋮⋮結局は後進国のお客様扱い、といったところか⋮⋮、と照文
は小さくため息をついた。
305
﹁結城少佐、少なくとも、何かを任されるのは、名誉なことではな
いかね?﹂
扶桑海軍の設立の礎を築いた功労者の一人、祖先は有名な海賊か
ら成り上がった歴史上の人物。そんな少将が、仕方がないやつだと
いう顔で、照文を見てそういって、ニカリと笑った。
﹁はっ、申し訳ありません﹂
﹁血気盛んなのは、この老人にとっては羨ましいことだが﹂
パチンと扇を鳴らして少将が、はっはっは、と大声で笑う。
はやま
﹁他に質問がないようなら、巴山大使より、大皇陛下からのお言葉
を伝えていただく﹂
﹁全員起立﹂
居並ぶ士官達が、直立不動の姿勢を取る。グレーのスーツを着た
大男が進み出ると、一礼してから懐から紙を取り出し、読み上げ始
める。
﹁本作戦に参加する、全ての将兵諸君。我が扶桑は世界からすれば、
小さく、歩み始めたばかりの小国である、そのような小国と、対等
な同盟を締結してくれた、テルミア王国に、扶桑は感謝の念を込め、
義を持って事にあたることとした﹂
ガンルーム
大使がそこで言葉を切り、士官室の中を見回した。装甲板を通し
て、船腹を叩く波音がシンとした部屋に響く。
﹁扶桑の未来は、将兵諸君らの双肩にかかっている、義をもってそ
306
れを信頼の礎とせよ﹂
士官達が一斉に敬礼、それに一礼して、大使が士官室から出てい
った。
⋮⋮義を持って信頼の証、その言葉に、なぜだか照文は﹃ラダー・
アンド・ハッチ﹄の赤髪の女主人を思い出していた。陸に居る間は
毎日来いと言われて通ってはいるものの、とうに財布に金はなくツ
ケで飲まされては、時折、ベッドに引っ張り込まれるような、ジリ
貧の戦況になっている。
彼女に言わせると、彼女にとっての収支はあっているというのだ
が、照文にとっては、なにか居心地の悪いものが少々なきにしもあ
らずといったところだ。
﹁出港は三日後、各員、必要な物資を確認後、リストにして本日十
七時までに提出せよ、以上、解散﹂
大佐の言葉で解散となり、照文は山中少尉を連れて、駆逐艦﹃樹
雨﹄へと足を向けた。﹃双葉﹄と違い、小さな二等駆逐艦だ、主計
科に聞かなくても補給物資のリスト程度なら、小一時間で出来てし
まう。
﹁山中少尉、主計士官と、掌帆長、砲雷長、機関長を一時間後に招
集してくれ﹂
﹁了解しました﹂
少尉が小走りに駈け出してゆく。
細いラッタルを登りながら、照文は扶桑で見るのと違い、どこま
でも突き抜けるような青い空を見上げた。一話のミサゴがクルリ、
307
クルリと円を描いて飛んでいる。
空を飛ぶ鳥を見上げて、文洋はどうしているだろうか?と、ふと
弟の事を思い出していた。
308
猟犬と王女
﹁王女直属の近衛旅団、敵空中母艦を拿捕⋮⋮だとさ、あたしらは
いつから、そんなに偉くなったんだい?﹂
白地に紺の縁取りがされた、近衛旅団の制服を着たラディアが、
テルミア・タイムズ紙を食堂の机に放り出す。
民間飛行船で王都テルミアに送り届けられてから七日、原隊復帰
の命令が出ないまま、文洋たちは近衛旅団の預りにされてしまって
いた。
﹁ボヤくなよ、極東から来た馬の骨と、ダークエルフの一団が敵の
空中母艦を拿捕って、書かれて、新聞記者に囲まれたいか?﹂
﹃ヒュードラ﹄の士官室から失敬してきた敵の戦闘機、あの白狐
が乗っていたのと同型機の整備マニュアルを読んでいた文洋は、そ
う言いながらパタリと表紙を閉じる。
﹁こんなヒラヒラのお人形みたいな服を来て、ヒマを持て余すより
は、そっちの方がよほどマシさね﹂
男物の上着に、ローブを縫い直し裾に贅沢にレースを奢ったスカ
ート、女官たちが腕を奮ってラディアにのために仕立てた制服風の
衣装と、顔が映るほど磨き上げられたひざ上まであるブーツを履い
たラディアは、異国のお姫様といった体だ。
多少はすっぱなところが、むしろ人気で、時折、若い女官達に囲
まれて困惑しているのを文洋は見かけていた。
309
﹁ユウキ少尉﹂
﹁ん?﹂
﹁十時だよ、昼食まで外で遊ぼう、外で﹂
﹁遊びってのは、もう少し楽しいもんだと思うが﹂
﹁あたしは楽しいよ? 少なくとも、こんな穴蔵で腐ってるよりは。
お前ら、少尉が訓練付けてくれるって、行くよ!﹂
ことのほか、扶桑の体術が気に入ったしく、ダークエルフ達はヒ
マを見つけては文洋から体術を習いたがった。
双剣の使い手で、やたらと短いリーチでの戦いを習熟しているダ
ークエルフ達だけあって、教える文洋も舌を巻く勢いで体術を習得
してゆき、三本勝負だと毎回一本取られるほどの勢いで、彼らは熟
達していった。
§
﹁ちがう、そうじゃない、力で持って行こうとするな﹂
ダークエルフ達に、文洋は扶桑の体術を、出来る限りの形で教授
する。この手の体術の基本は、ほぼ歩法と力の流し方で出来ている
と言っていい。
ダークエルフ達はまたたく間にそれを理解し、実家で数年鍛えら
れた文洋の技を、当たり前のように吸収してゆく。
﹁精が出ますね﹂
後ろから声をかけられて文洋は振り返った。白地に銀糸の縁取り、
蔦の刺繍の入った神官服を着たラティーシャ王女が護衛の女官と共
にそこに立っている。
310
﹁整列、気をつけ﹂
文洋より先に、王女に気がついたフェデロ軍曹が号令をかける。
ダークエルフ達が小走りに文洋の後ろに駆けより整列した。
⋮⋮全く、生真面目な男だと、文洋は当たり前のように隣に並ぶ
ラディアと苦笑する。
﹁皆さん、にお話があります﹂
蜂蜜色ショートカットの髪をゆらし、ラティーシャ王女がそう言
って兵士一人ひとりの顔を見つめる。
﹁今回の功績について、王国は⋮⋮いえ、私は皆さんを非常に高く
評価しています﹂
ザワリ、と兵士たちがどよめいた。百五十年前に恭順するまでテ
ルミア王国と戦い続け、恭順してなお自治を勝ち取るため、数度に
わたって反乱を起こしてきた彼らは、疎まれることはあっても、評
価されることなどなかったからだ。
﹁私個人としては、皆さんを叙勲して、近衛旅団に迎えたいとすら
思っていますが、残念ながら、王国の中には皆さんをよく思ってい
ない者達も数多くいます﹂
頭を振って、ラティーシャ王女が悲しそうな顔をする。
つるぎ
﹁それで、私は考えました、せめてものお礼として、勇敢な兵士た
ちには、優れた剣を⋮⋮と﹂
何が言いたいのだろう? そんな顔をして文洋を見上げるラディ
311
アに文洋はウィンクして見せた。
﹁ラティーシャ・リア・ユーラスの名において、ナイトホーク偵察
飛行隊を解散し、私直属の遊撃隊として再編成します﹂
おおっ、と兵士たちにどよめきが走る。
﹁それで王女殿下、私達は何をすればよろしいのですか?﹂
・・
﹁私は、勇敢な兵士に優れた剣を与えると言ったはずですよ、フェ
アリード少尉﹂
﹁はっ⋮⋮あの⋮⋮少尉?﹂
﹁王国の最新鋭機、﹃ハティ﹄をあなた達に預けます、その剣をも
・・
って、テルミアの空を守護なさい。期待していますよフェアリード
少尉、みなさんも、一階級ずつ昇進です﹂
ダークエルフ達が歓声を上げた。ラディアがぽかんとした顔で、
王女と文洋の顔を交互に見つめる。
﹁良かったな、ラディア、これで君たちも戦闘機乗りだ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
感極まった顔で、ラディアが文洋を見上げる。泣き出さんばかり
に琥珀色の瞳が潤んでいた。空を飛ぶのが好きな文洋にとって、そ
んなラディアの気持ちは手に取るようによく判る。
﹁ユウキ少尉は?﹂
﹁俺は古巣に帰るさ﹂
その一言で、歓声がシンと静まる。同盟国から来た義勇兵という
触れ込みで、この一件を機に文洋を近衛旅団に配属しようという動
312
きはあった。
だが、あらゆる手を使って、近衛旅団への異動の話を文洋は固辞
ヒューマン
していた。話題になればなるほど、ローラや、レオナとの繋がりを
深く探られる。それはどう考えても得策ではない。
・・
﹁何を言ってるんですか?ユウキ中尉﹂
﹁え?﹂
﹁あなたを遊撃隊の隊長に任命します、あなたのお仕事は、人間と
ダークエルフ、二つの種族の間を取り持つことです﹂
ヤラれた⋮⋮とんだ王女殿下だ。文洋は中庭にある練兵場の四角
く切り取られた空を見上げてため息をついた。
ヒュードラ
﹁ユウキ中尉、必要な人員と物品は司祭長に報告して下さい﹂
﹁了解しました﹂
﹁四日後、、鹵獲した九頭蛇が到着します、遊撃隊の初飛行は王都
での﹃ヒュードラ﹄のお披露目です﹂
﹁機体の受領後、訓練に入ります﹂
敬礼する文洋に、にこりと笑って、王女が踵を返した。
﹁殿下! 殿下!﹂
王女が数歩進んだ所で、思い出したようにラディアがそう言いな
がら駈け出す。ラディアと王女の間に、護衛の女官がツイと割り込
んだ。
﹁なんですか、フェアリード少尉﹂
片手を上げて、護衛の女官を止めると、ラティーシャ王女が子供
313
のようにはしゃぐラディアを見上げる。
﹁頂いた飛行機は、好きな色に塗っても?﹂
その問いに、ラティーシャ王女が不思議そうな顔をして、文洋を
見つめた。
﹁第一航空隊では、みな尾翼と主翼の識別マーク以外は、好きな色
に機体を﹂
﹁ああ、そういうことですか⋮⋮、それでフェアリード少尉は何色
にしたいのです?﹂
微笑んで王女がラディアにそう尋ねた。
﹁翼を黒に、胴体を白と黒のチェック模様に⋮⋮ユウキ中尉がライ
オンを書いてる所には、黒ウサギを﹂
﹁黒ウサギ⋮⋮ですか?﹂
ひそ
人間がダークエルフを揶揄する時に使う、黒ウサギをどうしてワ
ザワザ? 当て付けだろうか? そう思ったに違いない。眉を顰め
る王女に、ラディアは笑ってこう答えた。
﹁我々は殿下の剣となり、盾となり、不敗を誇るよう努力します、
そうすればいつか、黒ウサギは、ダークエルフに対する褒め言葉に
なるでしょう﹂
﹁ユウキ中尉? あなたの隊です、隊長としてどう思いますか?﹂
﹁扶桑では武名を轟かせる名家に兎の紋章を使う家が御座います、
それで彼らの士気が上がるなら、よろしいかと﹂
文洋に見えるように、ぴょこり、と耳を動かすラディアに、笑い
314
出しそうになるのをこらえ、文洋はしかめつらしくそう答えた。
﹁わかりました、ではこうしましょう、フェアリード少尉﹂
ブラックラビッツ
﹁なんなりと、殿下﹂
﹁遊撃隊名は﹃黒兎隊﹄とします、初志、忘れないように励んで下
さい﹂
ハウンドドッグ ブラックラビッツ
猟犬から黒兎か⋮⋮まあ、空を飛べるならどこでもいいし、新し
い機体がもらえるなら大歓迎だ。
ダークエルフ達の歓声を背に、文洋は先ほど読んでいた敵機のマ
ニュアルを思い浮かべていた。新しい機体が﹃レイフ﹄より余分な
馬力と、高いロールレートを持っているなら、今度こそあの白狐を
仕留めてやれる⋮⋮と。
§
﹁まわーせー﹂
ブラックラビッツ
急遽レブログから連れて来られた整備部隊に、宮廷画家まで動員
して突貫で仕上げられた黒兎隊の機体が、王都東方十マイルの郊外
にある民間飛行場で唸りをあげていた。
﹁おやっさん、すまないな、無理いって﹂
﹁まったくだ、しかしコイツはじゃじゃ馬だぞ﹂
﹁上がっちまえばそうでもないんだがな﹂
文洋の新しい機体は、ベースの群青色は以前のままに、胴体はダ
ークエルフたちとデザインを合わせ、チェック模様になっている。
コックピット下には、狛犬など見たこともないテルミアの宮廷画
家が、精一杯、腕を奮った結果、おすわりをしたライオンが描かれ
315
ていた。
ラディア達の機体はと言えば、黒い翼にチェック模様の胴体、ク
ロスした双剣を背景に、微妙に目つきの悪い黒ウサギが描かれてい
る。識別用にウサギの隣には、エルフ文字で数字が書き込まれてい
た。
﹁しかし、いいエンジンだ、お前らにはもったいない﹂
相変わらずの大声で、フリント整備中尉がそう言って笑う。
﹁ああ、マイナスGをかけると咳き込むが、それ以外は完璧だ﹂
フルチューンでも一五〇馬力だった空冷の星形エンジンは、二〇
八馬力の水冷八気筒エンジンに改められ、美しい曲線を描く機体は、
水平速度で一〇五ノット、急降下中なら一二五ノットを叩き出す。
なにより、プロペラ同調装置のついた二丁の機銃が頼もしい。そ
んな新しい機体を、点検しながら文洋とフリントが軽口を叩いて笑
っていると、急に飛行場を影が覆った。
﹁⋮⋮来たか﹂
﹁おいおい、でけえな、あんなの相手にしたのか、おめえら﹂
ヒュードラ
飛行場上空に、拿捕した﹃九頭蛇﹄が姿をあらわす。馬鹿げた大
きさの飛行船が、滑走路に降り注ぐ陽光を遮り、その威容を誇って
いた。
塗り替えたのだとしたら、大した手間がかかった事だろう、銀色
だった船体は真っ白に塗られ、胴体の横には、テルミアの紋章、真
紅のワイバーンが描かれている。
316
﹁あれを分捕ったご褒美がコイツなら、わるくないだろ﹂
ポン、と操縦桿を叩いて文洋はフリント中尉に笑った。
﹁まったく、無茶しやがって。ああ、そうだ、﹃スレイプニール﹄
な、あれ、キッチリ直しといてやったぞ﹂
空を覆う巨鯨を見上げたまま、フリント中尉もそう言って笑う。
﹁ありがとう、レオナが喜ぶよ﹂
﹁とはいっても、誰も飛ばせなくてな、試験飛行ができんのだ﹂
﹁これが終わったら、レオナを連れて取りに行くよ﹂
﹁そんときゃ、後ろに乗せてくれ、あれがなんで飛ぶのかさっぱり
判らんが、一度乗ってみたい﹂
﹁ああ、約束だ﹂
は
文洋が親指を上げると、フリント中尉がポンと飛び降りた。整備
兵が車止めを外す。
し
少しだけ秋の匂いのする風を受けて、群青色の機体が滑走路を疾
走る。滑走路上空をフライパスしてゆく巨鯨を追って、文洋の後に
白と黒の機体が次々と続く。
﹁ユウキ中尉﹂
﹁どうした、ラディア﹂
さすがに慣れっこになったウィンドボイスに、文洋はトリムを調
整しながら返事をした。
﹁あんたは、あたしたちに翼をくれた﹂
317
﹁俺はなんにもしてないさ、自分たちで勝ち取ったんだろ﹂
﹁それでも⋮⋮﹂
フォーポイント
文洋の右側で、ラディアが綺麗な四点ロールを決める。
﹁それでも、ありがとう、中尉﹂
﹁ああ、わかった、だから今日はとりあえず、いい子にしててくれ、
ラディア﹂
﹁わかった、いい子にしてる﹂
すねたような声に苦笑しながら、文洋は片手を上げ、ラディアを
後ろに下がらせ、飛行空母の上空にでた。澄んだ空気に王都中心の
﹃銀の塔﹄が輝いて見える。
銀の塔の向こうに、﹃テルミアの涙﹄と呼ばれる巨大な湖が見え
始める。
⋮⋮兄はどうしているだろう。
陽光に輝く湖を見て、文洋はふとそう思った。
318
猟犬と王女︵後書き︶
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新型機のイメージは S.XIII
319
メリュ
艦長と巨人︽アルビオン︾
ヒュードラ
ジーヌ
﹃九頭蛇﹄改め、﹃竜翼の淑女﹄と名付けられた白亜の飛行空母
のお披露目が終わり、文洋達は王都東部の民間飛行場へと戻ってき
た。
盛大に花火が打ち上がる中、ペンキの匂いのする真新しい機体で、
大観衆の上を飛んだ興奮と熱気にあてられ、ダークエルフのパイロ
ットたちが、肩を叩き合い祝盃をあげている。
﹁飲み過ぎるなよ、フェアリード少尉﹂
﹁了解しました、ユウキ中尉殿﹂
おどけて敬礼をしながら、ラディアが応える。皆に囲まれジョッ
キを傾けているラディアを置いて、文洋は機体を整備しているバー
ニー伍長に近づいた。
﹁バーニー!﹂
﹁ああ、ユウキ少尉、あ、ちがった中尉﹂
翼桁のワイヤーを締め直していたレンチをポケットに放り込み、
バーニー伍長が慌てて敬礼する。
﹁すまんな、無理を言って﹂
﹁大丈夫っすよ、どうせヒマですし。それにしても、良い機体っす
ねコレ﹂
﹁ああ、エンジンもだが、ロール性能が﹃スコル﹄とは段違いだ﹄
群青色と白のチェック模様に塗られた胴体をポンと叩いて文洋は
320
笑った。
﹁ドラグーン隊のも、ハウンドドッグ隊のも、順番に置き換えるそ
うですよ﹂
﹁そうか。ああ、そう言えば、スレイプニールを直してくれたんだ
って?﹂
﹁おやっさんから、聞いたんすか? 塗装なんて、どこが新しくな
ったかわかんないくらいにバッチリっすよ﹂
どうだとばかりに、バーニー伍長が胸を張った。
﹁レオナが喜ぶよ﹂
﹁カワイイ娘さんがいて、羨ましいっす﹂
﹁かかった代金、言ってくれよ、出来る限りは俺が払うから。﹂
﹁冗談にもなんないっすよ、最初はレオナちゃんの為にとか言って
たのに、あんまり凄い機体なもんだから、みんなで取り合いで修理
してたんっすから﹂
ニコニコと笑う伍長に、文洋は﹃スレイプニール﹄を引取にゆく
時は何か、お礼を持っていこうと思いながら、右手をあげて、あた
りを見回した。
文洋の群青色の機体から順番に、白と黒で塗られたダークエルフ
ラダー
達の機体が並んでいる。祝盃を上げる連中に混ざること無く、フェ
デロ准尉が見覚えのある整備兵と話しながら、方向舵を調整しても
らっていた。
﹁フェデロ、皆と飲まないのか?﹂
﹁ああ、中尉失礼しました﹂
フェデロの声に振り返り、敬礼しようとする整備兵に、文洋はそ
321
のまま続けろと身振りで指示して、目前で綺麗な敬礼するフェデロ
に答礼した。
﹁いい機体だ、そう思わないか、フェデロ准尉﹂
﹁ええ、夢のようです、中尉、以前、中尉のスコルに乗りましたが、
段違いに素晴らしい﹂
﹁レブログに運んでくれたんだっけか?﹂
﹁ええ、レイフのエンジンに積み替えたあたりで、姐さんにとられ
てしまいましたが﹂
言いながら、クロスした双剣にちょっぴり目つきの悪い黒兎、隣
にはエルフ数字で﹃2﹄と書き入れられた自分の機体を、フェデロ
がうっとりした顔で眺めている。
﹁明後日、こいつでレブログまで飛ぶ、第一航空隊麾下になるが、
少なくとも君たちダークエルフの部隊だ﹂
﹁中尉﹂
﹁ん?﹂
﹁あなたの部隊ですよ、隊長﹂
﹁そうか⋮⋮そうだな、扶桑の馬の骨が隊長で、自治区のダークエ
ルフが隊員か、なかなかの取り合わせじゃないか﹂
﹁違いないですね﹂
フェデロが相好を崩した。
﹁ハメを外し過ぎるなと、ラディアに伝えてくれ﹂
﹁中尉は?﹂
﹁家に帰る、嫁が怖いんでな﹂
そう言って肩をすくめる文洋に、フェデロが声をあげて笑う。傾
322
いた日差しに、オイルの匂いのする涼しい風が滑走路を吹き抜けた。
§
﹁艦長、まもなく夜明けです﹂
艦長室で仮眠をとっていた結城照文は、山中少尉の声に起こされ
た。
﹁わかった、すぐにいく﹂
レブログを出港してから五日、輸送船に合わせて八ノットで巡航
する船団は、ウィリデ湾沖二〇〇マイルを東南東に進んでいた。
このまま順調に行けば、ラダル炭鉱のあるレシチア諸島には、二
日でつく計算だ。巡洋艦﹃双葉﹄を先頭に、
単縦陣を組み、輸送船七隻を扶桑海軍の三隻が護衛している。
﹁おはよう御座います、艦長﹂
﹁航海長、引き継ぐ、休んでくれ﹂
﹁了解しました、進路、一三五、速度八ノット、全て異常なしです﹂
無精髭を生やした航海長が、敬礼してブリッジを後にする。荒れ
た扶桑の海と違い、凪いだエメラルドグリーンの海がどこまでも広
がっている。
退屈な任務だが、こう風景が綺麗だと、コレも良いかもしれない。
露天艦橋で空を見上げ、照文は微笑んだ。
そんな平穏な航海は、照文が目を覚ましてたった二十分で終わり
を告げた。○六二○時、見張り員が声を張りあげる。
323
﹁艦長! 水平線上になにかいます、飛行船のようです﹂
晴れ渡った空にきらめく陽光、鏡のように凪いだ海を進む﹃樹雨﹄
のブリッジでコーヒーを飲んでいた照文は、カップを従卒に渡すと、
首から下げた双眼鏡を手に取った。
﹁どこだ?﹂
﹁方位、一七五、水平線近くです﹂
事前の調査で、民間航路は全て地図に書き込まれているが、ここ
は中立国アリシアからの航路からは大きく外れていた。つまり⋮⋮
南から来る飛行船は、味方でなければ全て敵だと言うことだ。
﹁戦闘配置、砲戦用意﹂
﹁了解、戦闘配置、砲戦用意﹂
戦闘配置のラッパが鳴り響き、船内が一気に慌ただしくなった。
﹁両舷、前進、強速﹂
みぎ
﹁了解、両舷、前進、強速﹂
﹁双葉の右舷にでる、発光信号、﹃敵見ユ、方位一七五﹄﹂
先頭をゆく巡洋艦﹃双葉﹄に並ぶべく、照文が命令を出す。蒸気
レシプロエンジンが雄叫びをあげ、小さな船をまたたく間に加速さ
せた。
﹁双葉より返信、﹃瑞雨ト供ニ迎撃セヨ﹄﹂
飛行船にいくら爆弾を詰んだ所で、動いている目標に当てるのは
324
至難の業だ、ならば、小回りの利く駆逐艦で挑発して、爆弾を捨て
させるのは、良い手だと照文も思う。
﹁了解を返信、面舵四〇、方位一七五、対空戦闘用意﹂
幸か不幸か、扶桑初の国産駆逐艦﹃瑞雨﹄と﹃樹雨﹄の主砲は、
建艦当時にテルミアから輸入された十三ポンド高射砲そのものだ。
見学に来たテルミア海軍の船乗りから、この艦は飛行機と戦うつ
もりかと笑われたが、今日の所は行幸といったところだろう。
﹁航海長、両舷、ニ戦速、距離千八百メートルで面舵百八十、同航
戦を挑む﹂
﹁了解﹂
﹁砲雷長、旋回中に、片舷斉射、当たらんでもいい、目立ってこっ
ちに爆弾をひきつけろ﹂
﹁わかりました!﹂
対空戦闘、しかもあんな大きな飛行物体との砲戦など、どこの国
も行ったことがない。諸元がわからない以上、距離も今ひとつ読み
きれない。だが、少なくとも敵に高度がある分、近づいた方が弾は
あたるだろう。
そう考えた照文は、相手が三都同盟の飛行船と同じ大きさと仮定
して測距するように指示、双眼鏡の中で大きくなる灰色の飛行船を
睨み続けた。
﹁!?﹂
距離が五千メートルを切ったあたりで、敵の飛行船の下部が炎と
煙に包まれた。一瞬、敵が爆発したかと思ったが、次の瞬間、巨大
な飛行船が、黒煙を押しのけ現れる。
325
ズシン! ズシン! ズシン!
二呼吸おいて、腹に響く着弾音と供に、﹃樹雨﹄と﹃瑞雨﹄の間
に水柱が上がった。
﹁挟差!﹂
﹁くそっ! 砲撃だと!! 面舵十五、回避!﹂
照文が驚嘆の声を上げる。三連装砲塔の一斉射、水柱の上がり方
から見て、巡洋艦クラスの砲撃だ。あんな重いものを抱えて空を飛
べるなど、驚く他にない。
﹁瑞雨! 被弾!﹂
水柱が消えた左舷に目をやると、至近弾を食らったのか、瑞雨の
側面装甲がめくれ上がっている。普通の艦は上空から撃たれること
など想定していない。まともにくらえば自分たちを守るのは、薄い
木製の甲板だけだ。
ほぞ
照文は臍を噛んだ。﹃飛行船は砲撃しない﹄そういう愚かな思い
込みで完全に先手を取られた。
﹁航海長、最大戦速、蛇行して近づけ、転舵のタイミングは田植え
歌でも歌え!﹂
﹁了解﹂
﹁砲雷長、各個射撃! 撃ち方はじめ!﹂
相対距離五千メートル、人類が初めて遭遇する飛行戦艦に対して、
扶桑海軍二等駆逐艦﹃樹雨﹄と﹃瑞雨﹄は、その総力を持って戦い
326
の火蓋を切った。
﹁撃ちまくれ!﹂
相対距離千二百メートルで照文は百八十度転舵を命令する。相手
のほうが速度が速い。こちらの武器は、大仰角が取れる高射砲だけ
だ。
ならばと、敵の死角、腹の下に潜り込んだ二隻の駆逐艦が、砲も
焼けよと撃ち続ける。だが、直撃弾を放つたび、魔法陣が緑の燐光
をあげ、決死の覚悟で撃ち放つ砲弾を阻んだ。
﹁敵艦、直上!﹂
﹃樹雨﹄と﹃瑞雨﹄の最大戦速を、敵の飛行船は十ノットほど上
回る。追いつかれた二隻の上空で、銀色の巨鯨の腹が開き、爆弾の
雨が降り注ぐ。
﹁逆進、取舵一杯!﹂
並走する﹃瑞雨﹄が左に舵を切る。合わせて取舵を切りながら、
照文は逆進をかけ、爆撃のタイミングをずらした。上空を飛ぶ飛行
戦艦が航路を微調整、爆弾の雨が海面を叩きつける。
ズズズズズズ、ズムズムズム、ズズズズズン!
右舷をゆく﹃瑞雨﹄が水柱に包まれた。
ズムン!
きさめ
腹に響く大音響と供に、﹃樹雨﹄のマストよりはるか上空まで水
327
柱が上がる。
ずいう
﹁瑞雨、轟沈!﹂
﹁撃ち続けろ!﹂
報告を無視して、照文は上空を睨んでそう命令する。﹃樹雨﹄の
頭上を追い抜いて船団へと向かう巨大な飛行戦艦に﹃樹雨﹄の十三
ポンド高角砲が火を吐き、緑の燐光を放つ魔法陣に阻まれる。
﹁双葉、発砲!﹂
その時、護衛していた商船を逃すべく、飛行戦艦の前に巡洋艦﹃
双葉﹄が立ちはだかった。﹃瑞雨﹄が波間に姿を消し、﹃樹雨﹄が
射線からズレたのを見計らい、最大仰角で二〇サンチ砲が火を吹く。
⋮⋮二連装二〇サンチ砲、列強諸国から学んだ技術を惜しみなく
ますらお
注ぎ込み、はじめて国内で建造された最新鋭艦の主砲が雄叫びを上
げ、鍛えぬかれた益荒男達の放った渾身の一撃が飛行戦艦に直撃す
る。
グワン! っと、空気が揺れ、敵が緑の燐光と黒煙に包まれた。
﹁直撃!﹂
樹雨の艦橋で歓声があがる。バラバラと破片が海面に落ち、水柱
を上げた。
ドゥン!
そんな彼らをあざ笑うように頭上で砲声が鳴り響き、空気が揺れ
る。砲撃の衝撃波でまとわりつく黒煙を振り払って、敵の飛行戦艦
328
が応射しつつ姿をあらわした。
﹁くそっ! 面舵十五! 両舷、前進、最大戦速!﹂
右斜め上方を行く飛行戦艦に喰らいつくように、再び﹃樹雨﹄が
同航戦を挑む。練度に物を言わせ、直撃弾を次々と繰り出す﹃樹雨﹄
の十三ポンド砲を、ことごとく緑の魔法陣が阻む。
数瞬後、飛行戦艦の下面に備えられた三連装砲が再度火を吹いた。
﹁双葉、被弾! 炎上!﹂
上空から放たれる砲弾は阻むすべがない。そもそも、軍艦はこん
くろがね
なものと戦うようにできていない。それでも、輸送船団との間に立
ちふさがった鉄の城は、炎上しながらも堂々と、一歩も引くこと無
く、再度雄叫びを上げる。
最大仰角でなお足りず、﹃双葉﹄の主砲弾が敵飛行戦艦の下方を
かすめて飛び去ってゆく。かなわぬとしってなお、﹃双葉﹄の甲板
に据えられた四門の高角砲が敵艦目掛けて猛然と反攻を開始した。
﹁輸送船団は?﹂
⋮⋮勝てない、照文は冷静に分析してそう思う。
﹁北西に向かって、それぞれバラバラのコースで退避しています﹂
﹁わかった﹂
ならば、彼らの盾となるまでだ。照文は肚をくくって命令を出す。
﹁撃ち続けろ、双葉から奴をひきはがせ!﹂
329
はし
最大戦速の二十八ノットを大幅に越え、三十一ノットで老朽艦が
疾走る。
銀色に光る巨大な飛行戦艦を睨みつけ、照文は砕け散れとばかり
に奥歯を噛み締めた。
330
艦長と巨人︽アルビオン︾︵後書き︶
331
艦長と小悪魔︽リリス︾
﹁ユウキ中尉、ロバルト中佐がお呼びです﹂
ブラックラビッツ
レブログ基地に黒兎隊を率いて戻った文洋が駐機場に機体を寄せ
ると、待っていたかのように少年兵が伝令に駆け寄ってきた。
﹁了解した﹂
新型機を見ようと集まってくるパイロット達の中に、ブライアン
を見つけて、文洋は片手を上げると親指で背後の愛機を指し示した。
嬉々としてブライアンが駆け寄ってくる。すれ違いざまハイタッチ
して、文洋は司令官室へと向かった。
﹁ユウキ中尉をお連れしました﹂
﹁入りたまえ、中尉﹂
﹁失礼します﹂
重い扉の向こうで、真剣な顔をしたロバルト中佐が文洋に席を勧
める。
﹁今回の働き見事だった。第一航空隊にも王女から感状がとどいて
いる﹂
﹁は、ありがとうございます﹂
テーブルの上をウィスキーの入ったグラスが滑ってくる。受け取
って文洋は一口飲んだ。
332
﹁それで⋮⋮だ﹂
﹁なんでしょうか?﹂
言い辛そうにしながら、中佐が茶色の封筒を引き出しから取り出
す。
﹁三日前、テルミア海軍と扶桑海軍の共同作戦が実施された﹂
﹁初耳です﹂
﹁テルミア海軍主力部隊がレシチア島、南西部へ進出、敵主力艦隊
と交戦、同時に北西部に扶桑艦隊の護衛を受けた陸軍の増援部隊が
突入、島内戦力の増強を図る⋮⋮﹂
﹁少ない戦力の扶桑艦隊を使うには、順当な作戦ですね﹂
文洋の言葉にロバルト中佐が、バサリ、と封筒を投げ出して文洋
によこした。
﹁見てもよろしいのですか?﹂
﹁ああ﹂
ロバルト中佐が右手でこめかみを抑え、返事をする。
﹁これは⋮⋮﹂
﹁扶桑艦隊が護衛した商船乗組員が撮影した写真だ﹂
距離があったのだろう、トリミングされた上に大きく引き伸ばさ
れた不鮮明な写真に、飛行船が写っている。手前で煙を上げている
のは﹃双葉﹄だった。
﹁巡洋艦﹃双葉﹄撃沈、駆逐艦﹃瑞雨﹄轟沈、駆逐艦﹃樹雨﹄大破﹂
﹁飛行船一隻で、軍艦三隻ですか?﹂
333
不自然なほど大きな損害に、文洋は聞き直す。照文は無事だろう
か?
﹁ああ、そうだ二枚目を見たまえ﹂
にびいろ
今度の写真は飛行船が鮮明に写っていた。白黒の写真を通してす
ら、その船体が鈍色に光る鋼鉄で覆われているのがわかる。何より、
恐ろしいことに船体中央部に三連装の砲塔が一基写っていた。
もはや、これは、飛行船などというものではなく、飛行戦艦とい
った方が正しいだろう⋮⋮と文洋は息を呑む。
﹁これは﹂
﹁双葉に乗り組んだ従軍記者の撮影したものだ﹂
﹁こんなものが何故飛べるんです?﹂
﹁判らん、すくなくとも現代の科学力ではありえん﹂
目で促されて、文洋は三枚目の写真を手に取り、その場で固まっ
た。
﹁これは⋮⋮﹂
上空を覆わんばかりの飛行戦艦の船腹に、砲弾が当たったのか炎
と煙が見える。だが、その煙の向こうには、見慣れた魔法陣が展開
されていた。
﹁魔法陣にと術式に関しては、君の娘のと全く同じものだ﹂
﹁しかしレオナは⋮⋮﹂
﹁君の娘を疑ってはいない、ただ、一つ間違いないのは、今回もア
リシアが関与しているだろうという事だけだ﹂
334
レオナと共に三国同盟の飛行船で戦ったという西の騎士はすでに
亡く、レオナを除けば、騎士は残りは二人のはずだ、そのうちのど
ちらかが、これをやったというのだろうか?
﹁ちなみに扶桑の生存者によると、この飛行船は高角砲の直撃どこ
ろか、巡洋艦の主砲の直撃に耐えたということだ﹂
﹁巡洋艦の? 九インチ砲をですか?﹂
﹁ああ、商船の船長も目撃している﹂
文洋は天井を見上げた。
﹁ユウキ中尉﹂
﹁はっ﹂
﹁この件について、私は情報部を使う気はない﹂
情報部の名が出た途端、文洋は眉をひそめた。レオナをあの情報
部に関わらせるなど、考えただけでも吐き気がする。
よほど酷い顔をしていたのだろう、ロバルト中佐が文洋のグラス
にウィスキーを注ぎ足した。グイと飲み干して息をついた文洋に、
中佐が言葉を継ぐ。
﹁ただし、どうあってもアレと戦闘になる可能性がある以上、情報
を集める必要がある﹂
﹁判ります﹂
文洋が封筒にしまった写真を、ロバルト中佐が受け取り、アタッ
シュケースに投げ入れる。
﹁君の兄上がレブログ海軍病院に入院中だ、意識不明との事だが回
335
復次第、連絡がくるよう手配してある。それは君に預ける、訪問し
て、情報を収集し給え﹂
バチン、音を立ててアタッシュケースを閉めると中佐が文洋の方
に滑らせてよこした。
﹁了解しました﹂
アタッシュケースを受け取り、文洋が立ち上がる。
﹁アリシア王国の関与については、魔術師協会を通じてあたってみ
よう﹂
﹁お願いします﹂
できれば、レオナをあまり関わらせたくないものだ⋮⋮そう思い
ながら、文洋はアタッシュケースを手に司令官室を後にした。
§
﹁ほら、しっかりして﹂
俺は眠いんだ⋮⋮もうすこし眠らせてくれ⋮⋮。
自分を呼ぶ声に、照文は腫れぼったい目蓋を開いた。真っ白い光
が目に飛び込み、もう一度目蓋を閉じる。
ああ、そうだ、戦闘中だ⋮⋮俺は何をしてるんだ⋮⋮艦はどうな
状況報告﹂
ったんだ⋮⋮。静かだ⋮⋮何も聞こえない。
﹁掌帆長、
336
照文はかすれた声を上げた、声と共に体中から力が抜け、落ちて
ゆく感覚⋮⋮。
﹁だめ、しっかりして﹂
女の声がして唇が柔らかいものに塞がれた⋮⋮温かい力が照文の
体に流れ込み、一気に意識が戻ってくる。
﹁⋮⋮カレン⋮⋮?﹂
﹁よかった、目がさめた?﹂
やたらと真っ白な部屋で目を覚ました照文を、﹃ラダー・アンド・
ハッチ﹄の女主人が覆いかぶさるようにして覗きこんでいた。燃え
るような赤い髪に手をのばそうとして、左手がガッチリと包帯で巻
かれていることに気がつく。
﹁っつ﹂
体を起こそうとすると、左わき腹に激痛が走った。
﹁ほら、だめよ、寝てないと﹂
﹁ここは?﹂
﹁レブログの海軍病院﹂
﹁今日は何日だ?﹂
﹁砂の月の十七日﹂
交戦があった日は確か、十二日だったはずだ。五日も眠っていた
ことになる。
﹁俺の艦は?﹂
337
目を閉じて照文は状況を思い出す。﹃瑞雨﹄が轟沈、巡洋艦﹃双
葉﹄炎上。反撃をあざ笑うように上空を旋回した敵の空中戦艦は、
炎上する﹃双葉﹄に爆撃を加え、海面近くまで高度を落として、至
近距離から照文の艦に一斉射した。火を吹く砲口を睨みつけ、対抗
射撃と面舵を命じたところまでは覚えている。
﹁戻った商船乗りから聞いたわ、戦場で浮いてたのは、あなたの艦
だけ⋮⋮、あなたの艦も浮かぶ鉄クズだったそうよ﹂
﹁⋮⋮商船は?﹂
﹁レシチアに向かった二隻は三国同盟の駆逐艦に拿捕されたけれど、
他はみんな無事に戻ってきたわ﹂
船乗りの集まる酒場の主人だけあって、さすがに耳が早い⋮⋮、
酷い戦闘だったが、商船が無事なのがせめてもの救いか⋮⋮。安堵
して照文は息を吐く。ぽそり、と枕に身を任せ、ベッドの端に腰掛
けたカレンの赤い髪を見つめる。
﹁すまない、当面、ツケは返せそうにない﹂
派遣された艦艇全てを失い、扶桑海軍は面子を失った。
生き残った上級士官が自分だけなら、おそらく全ての責任は自分
に振りかかるだろう⋮⋮。
それでも⋮⋮、どんな生き恥をさらしてでも、部下は守ってやら
なければなるまい。
﹁クビになったら、うちにいらっしゃいな、わたしが養ってあげる
から﹂
﹁⋮⋮それもいいかもな﹂
338
そういって目蓋をとじた照文の脳裏に、苦々しげな父の顔がよぎ
る。また気を失うと勘違いしたのか、慌てて覆いかぶさったカレン
がもう一度唇を重ねてきた、温かい力が体の芯に染み渡る。
マナ
﹁これは?﹂
﹁生命力を直接流し込んだの﹂
﹁呪術のたぐいか﹂
﹁失礼ね、いままで少しずつ貰ってたのを、返してあげただけ﹂
赤い髪をゆらして、悪戯っぽい笑顔を浮かべるカレンを照文は右
手を伸ばして抱きしめる。
﹁だめよ、甘えっ子さん、元気になったらまたお店にいらっしゃい﹂
耳元でカレンがそうささやいて笑った。 ﹁ああ、そうだな、そうしよう﹂
魔物に魅入られた⋮⋮か。抱きしめた腕を解いて、照文はそっと
カレンの頬をなでた。緊張の糸が切れ涙が出そうになる。カレンが
優しく微笑むと照文の頬に、そっと手を伸ばした。
﹁うわ、少尉おさないでください﹂
﹁ちょ⋮⋮え、あ﹂
バターン、カランカラン。
その時、入り口のほうで声がして、ドアが開き、従卒の二等兵と
山中少尉が転がり込んできた。右足をギプスで固めた山中少尉の松
葉杖が派手な音を立てて床に転がる。
339
﹁あら、覗き見なんて、いけない子たちね﹂
﹁ししし、失礼しました﹂
従卒の肩を借りて松葉杖にすがって立ち上がり、山中少尉が慌て
て敬礼する。
﹁艦長のご無事、みなに知らせてきます﹂
真っ白の水兵服を翻し、従卒の兵士が慌てて駆け出してゆく。
﹁あ、貴様ズルイぞ、またんか、って痛ってえ﹂
後を追おうとして、ギブスを椅子にぶつけ、山中少尉がうずくま
った。
﹁少尉、無事でよかった、そこへかけろ﹂
笑いながら、照文は涙目の少尉にベッドサイドの椅子を勧める。
﹁邪魔がはいっちゃった、また来るわ、艦長さん﹂
﹁ああ、ありがとうカレン﹂
﹁うちの子が心配してたわよ、少尉さん﹂
﹁ひゃ? ハイ!﹂
手を振って出てゆくカレンを見送って、照文は山中少尉に向き直
った。
﹁俺の艦はどうなった?﹂
﹁缶が半分やられましたが、なんとか動けます。上層構造物の後半
340
分は全滅、魚雷が誘爆しなかったのは奇跡です﹂
﹁乗組員は?﹂
﹁戦死一〇、重傷者二十八、行方不明者二名です﹂
三分のニが戦死傷か、酷いものだ。ため息を一つついて、照文は
真っ白な天井を見つめた。
﹁他の艦は?﹂
﹁瑞雨は轟沈、生存者はありません、双葉は大破、自沈処分、戦死
九十六、重軽傷者二〇八、伊藤大佐は戦死、山形少将は⋮⋮最後ま
で指揮を取られた後、艦と運命を共にされました﹂
大皇陛下から預かった艦と共に⋮⋮か⋮⋮、あの人らしいといえ
ば、あの人らしい。呵々と笑う好々爺とした山形少将を思い出して、
照文は目を閉じた。
﹁艦長﹂
﹁どうした、少尉﹂
﹁昨日、病院で亡くなった航海長の⋮⋮最期の言葉です﹂
﹁聞かせてくれ﹂
﹁艦長を死なせるな、腹を切るなんて言ったら、ぶん殴ってでも止
めろ﹂
﹁そうか﹂
カタン、と音がして山中少尉が立ち上がる。
﹁艦長、皆の仇を取って下さい﹂
脇の下に挟んだ松葉杖で、体を支え、山中少尉が敬礼する。
341
﹁ああ、俺は死なん、任せておけ﹂
横になったまま、照文は答礼した、白いカーテンを揺らして、風
が病室を吹き抜ける。
俺には判る、奴はわざと樹雨を見逃した。
だから死なん、皆のために一矢報いずして死んでたまるものか⋮
⋮。
342
魔術師と子猫
﹁鋼鉄の飛行戦艦、友邦の艦隊を撃滅﹂
﹁三都同盟の新兵器か?﹂
﹁英雄、山形少将は、艦と運命を共にす﹂
かんこうれい
扶桑艦隊壊滅から一週間、商船員たちへの緘口令は長くは持たず、
テルミアの新聞は商船員からの伝聞を元に記事を書き始めた。
扶桑に同情的な記事が多いのは、商船に一人の死者もでなかった
こと、そして最後まで戦い続けた彼らの奮戦ぶりを、商船の水夫達
が尾ひれを付けて新聞記者たちに語ったところが大きい。
﹁ユウキ中尉、本当に裏口でよかったんですか?﹂
﹁ああ、あまり目立ちたくないんでな、少し待っててくれバーニー﹂
派手な見出しの踊るテルミア・タイムスを後部座席に放り投げ、
文洋は助手席のドアを開いた。裏口を守る衛兵が文洋を見て敬礼す
る。
﹁三十分で戻る﹂ ﹁了解です﹂
五階建ての海軍病院の最上階、フロアの半分ほどを仕切って、扶
桑海軍の負傷兵達が収容されていた。
傷の程度にかかわらず一箇所に集められているのは、情報統制の
意味もあるのだろう⋮⋮そう思いながら廊下を歩いていた文洋は山
中少尉がを見かけて声を掛ける。
343
﹁山中少尉﹂
﹁はっ﹂
返事をしながら振り返った拍子に転びそうになる少尉を、慌てて
支えた。
﹁大丈夫か?﹂
﹁声が艦長と似ておられるので、びっくりしました﹂
﹁驚かせてすまなかった。それで、兄はどこに?﹂
﹁その先の突き当り、左側です﹂
軽傷者達が退屈そうに廊下にたむろする先を、山中少尉が指差す。
﹁ありがとう、足の具合は?﹂
﹁大したことはないですが、ここまで大げさに手当されると、なん
だか本当に重傷者の気分です﹂
山中少尉の強がりに手を上げ笑うと、文洋は負傷者の群れをかき
分け、病室へと向かった。
﹁どうぞ﹂
病室のドアをノックすると、中から兄の声が帰ってくる。
﹁失礼します﹂
明るい陽射しの差し込む病室の中、あちこち包帯に巻かれて横た
わる兄に、文洋は敬礼する。
344
﹁このままで失礼する﹂
てるふみ
背に丸めた毛布を押し込んで、半身を起こした照文が答礼した。
公式にアポイントを取ってから訪れた文洋は、兄弟ではなく情報収
集に訪れたテルミア軍士官という訳だ。相変わらず生真面目だな⋮
⋮思いながら文洋は仕事にとりかかった。
﹁結城少佐、いくつかお話を聞かせていただきたい﹂
﹁了解した﹂
数枚の写真、商船員からの聞き取り内容、それらを確認するよう
に文洋は話をすすめる。武装、速度、装備。得られた情報の中で、
文洋の興味を引いたのは、飛行戦艦に推進用のプロペラがついてい
た事だった。
戦闘速度で距離を詰めに来た際も、四〇ノット程度の速度しかで
ないという話が本当ならば、﹃シームルグ﹄のように魔法で自由自
在に飛べるというわけではなさそうだ。
﹁少佐、扶桑艦隊は相当数命中弾を与えたようですが、直撃弾は?﹂
文洋の言葉に、兄は魔法陣の写った写真を手に取り、目をつぶっ
た。
﹁双葉が主砲を命中させた際に結界を前方に集中させたからだろう。
敵の後部側面に直撃弾を二発与えた﹂
﹁それで?﹂
﹁十三ポンド砲の直撃では、敵の装甲には焦げ目がついた程度だっ
た﹂
﹁では、相手はガスで浮揚する飛行船ではなく、得体のしれない力
で飛ぶ巡洋艦⋮⋮といったところですか⋮⋮﹂
345
﹁⋮⋮﹂
風景を思い出したのだろう、ギリと奥歯を噛みしめて頷く兄の姿
に文洋は同情した。巡洋艦が空を飛ぶのは科学の力では不可能だ。
そういう結論に到って、文洋はため息をつく。
﹁最後に一つ﹂
﹁どうぞ﹂
﹁その砲弾を弾いた結界は何色か覚えていますか?﹂
﹁緑、薄い緑だ春先の桜の若葉のような。砲弾が当たった時に弾け
て舞い散る燐光は美しくすらあった﹂
自分がレオナの乗る飛行船と戦闘になった時に、感じた事をその
まま兄が言う。
﹁ありがとうございました、少佐﹂
書類をアタッシュケースに詰めなおし、文洋は兄に握手を求めた。
﹁どういたしまして﹂
きびす
そこで兄が初めて笑顔を見せ、文洋の手を握る。握手して踵を返
し、ドアノブに手をかけた所で、後ろから呼び止められる。
﹁文洋﹂
﹁ん?﹂
﹁中尉になったのか﹂
﹁ああ﹂
振り返り文洋は笑顔で応える。
346
﹁そうか、おめでとう⋮⋮あと、これ、忘れ物だ﹂
﹁ありがとう。兄貴⋮⋮早まるなよ?﹂
﹁ああ、大丈夫だ﹂
燃える﹃双葉﹄と砲弾を弾く魔法陣の写真を受け取り、その写真
を上着の内ポケットに入れると、文洋は手を上げて病室を後にした。
§
﹁こら、クリオだめ﹂
扉を開けた途端、子猫が首にまかれたブルーのリボンを揺らし、
バスケットから飛び出した。トトトッと小さな足音を立てて階段を
駆け登り、真ん中あたりでレオナの方を振り向いてニャアと鳴く。
﹁まちなさいクリオ﹂
グレーの毛並みの子猫を追いかけ、レオナも階段を駆け上った。
﹁お待ちくださいお嬢様、危のうございます﹂
大きな衣装ケースを二つ抱えたクラウスが、そう言ってレオナの
後を追う。
﹁⋮⋮お転婆さんが二人になっちゃったわね﹂
家族は一緒に住むべきだ⋮⋮と文洋の後を追いかけて、レブログ
のアパートメントに戻ってきたローラは、階段を駆け上ってゆく一
匹と二人を微笑みながら見つめていた。
347
§
その日の夕刻、レオナがいつもの顔ぶれで食卓を囲んでいると、
フラリと文洋が帰ってきた。
﹁レオナ、いいニュースが一つ﹂
﹁なに?﹂
フォークを置いて、レオナは後ろに立つ文洋を見上げる。
﹁スレイプニールが直ったぞ﹂
﹁ほんと?﹂
レオナの声に驚いたのか、膝の上で丸くなっていた子猫がビクリ
と飛び起きて逃げてゆく。
﹁あらあら、びっくりしたのね﹂
ぴょん、と膝に飛び乗る子猫を優しく抱き上げて、ローラが微笑
んだ。
﹁ごめんね、クリオ﹂
﹁うにゃう﹂
謝るレオナに、返事をするように鳴くクリオに文洋が声を上げて
笑った。いつもならそこで、拗ねてフミに抗議するところだが、今
のレオナは喜びのほうが大きく、それどころではない。
﹁それで、それで?﹂
348
﹁明日の午後、﹃スレイプニール﹄をおやっさん達が、基地の北側
の外れにある湖に持ってきてくれるそうだ﹂
フミは嘘をつかない。そんな彼が、真面目な顔をして自分に言う
のだ。
﹁すごい! ローラ! 直ったんですって!﹂
一度は全てを投げ出す覚悟をした。最後に残された思い出の詰ま
った飛行機さえも⋮⋮。代わりに新しい家族を得たけれど、思い出
の物が何一つないのは、心のカケラを何処かに置き忘れた気がして
いたのも事実だ。
﹁よかったわね、レオナ﹂
文洋に夕食のミートパイを切り分けながら、ローラがそういって
笑う。
﹁尾翼の紋章はさすがに、塗りつぶしたそうだが、それは許してや
ってくれ﹂
﹁仕方ないわフミ﹂
杖と剣とサーペンとの紋章。それはレオナの家の証そのものであ
り、誇り高きセプテントリオン家の印だ。
だが、もう家はない、捨てると決断したのは自分だ⋮⋮。悔しい
けれども、今の喜びに比べれば些細なことだと、レオナは自分に言
い聞かせた。
﹁でも⋮⋮フミ⋮⋮私⋮⋮みんなに何もお返しできない⋮⋮﹂
349
祖父の代から、さまざまな物を切り売りしてでも、セプテントリ
オン家は王家の求めに応えてきた。城下の貧民に可能な限り仕事を
与え、高貴なる者の義務を体現し続けた。
先般、行き倒れの少女に扮した間者に付け入られたのも、それを
体現してきたセプテントリオン家ゆえの事だ。
だから、国を出てから出会う人たちが皆、見返りもなく自分を助
けてくれる事に、レオナは罪悪感にも似た居心地の悪さを感じてい
た。
﹁なあレオナ﹂
そんな気持ちを察したのか、うなだれたレオナの頭に、文洋がポ
ンと手を載せて髪を撫でる。
﹁⋮⋮なに? フミ﹂
鼓動が跳ね上がり、顔が紅潮するのをごまかすように、レオナは
文洋につっけんどんに返事を返した。
﹁みんな君の事が好きだから、助けてくれる、それでいいじゃない
か﹂
﹁そうね、レオナ、私もそれでいいと思いますよ﹂
﹁フミ⋮⋮ローラ⋮⋮﹂
本当にそれでいいんだろうか⋮⋮。制服のポケットから取り出し
たスキットルから、グラスにウィスキーを注ごうとして、ローラに
取り上げられ、しょげる文洋を見ながら、レオナは目を伏せて考え
ていた。
§
350
﹁中尉ー、こっちっすー﹂
レブログ空軍基地から北へ一マイル、﹃水瓶﹄と皆が呼ぶ、周囲
五マイルほどの湖があった。元はここまで大きな湖ではなかったの
だが、豊富な湧水を城塞都市で利用するため、泉は池となり、池は
湖と呼ばれるほどの規模になったらしい。
﹁バーニー伍長、フリント中尉!﹂
タクシーを降りると、レオナは見知った面々に手を振って駈け出
した。
﹁お嬢様、危のうございます﹂
皆のお礼にと、ローラとシェラーナも手伝ってくれた、スコーン
にクッキー、サンドイッチ、豚ひき肉と玉子のフライ、それにワイ
ンボトルが詰まった大きなバスケットを二つ抱えて、クラウスが後
ろから声を上げながら追いかけてくる。
﹁クラウス、大丈夫よ、子供じゃないんだから﹂
﹁では、レディらしいお振る舞いを⋮⋮﹂
言いかけたクラウスに小さくアカンベェをして、くるりと回ると、
レオナ再度走りだす。湖のほとりに止められたトラックの荷台に、
自分の瞳と同じ色の飛行艇が、キャンバスのカバーをかけられて載
せられている。
﹁フリント中尉、治ったの?﹂
﹁ああ、嬢ちゃんと約束したからな、バッチリだ﹂
351
機体を見上げるレオナの頭に、フリントの節くれだった大きな手
がポン、と置かれた。
﹁直したところも全部、もとと同じ色に塗ったっす⋮⋮尾翼は白塗
りっすけど⋮⋮﹂
帽子を取り申し訳無さそう言って顔を伏せるバーニーを、レオナ
は抱きしめた。
﹁でも飛べるんでしょ? ありがとう、伍長さん!﹂
﹁い、いや、みんなで治したっす﹂
しどろもどろになる伍長に、他の整備兵たちから、一斉にヤジが
飛ぶ。
﹁あらあら、みなさん、ありがとうございます﹂
そんな彼らに礼を言いながら、文洋が押す車椅子に乗って、ロー
ラがやってくる。
﹁すまんなみんな、娘たちがせめてもの礼にと作ったんだ、メシが
まだならやってくれ﹂
文洋がそう言うと、芝生の上にクラウスがバスケットを下ろした。
整備兵達が一斉に中を覗きこみ、ため息混じりに怨嗟の声をあげ、
軽口を叩き始める。
﹁やばい、うまそう。中尉はいつもこんなの喰ってるんですか?﹂
バーニーがボヤく、﹁やべえ、俺も嫁さん貰って娘つくろう﹂、﹁
352
てめえにそっくりだったらどーすんだよ﹂、﹁そうだな、やっぱ息
子でいいわ﹂騒ぐ整備兵たちに、レオナは一人ひとり握手して礼を
言ってまわる、
﹁オラ てめぇら、仕事はまだ終わってねえだろ、下ろして調整す
んぞ﹂
﹁了解っす﹂
フリント整備中尉の声に整備兵達が一斉にトラックへと走りだし
た。ロープが解かれ、トラックの荷台から水面へ、ままたたくまに
木製のスロープが作られる。
ローラに文洋、クラウス、テルミアの整備兵達。みなに助けられ、
一つ、また一つ、失ったものを取り戻した⋮⋮だから、ルネ、あな
たもきっと助けにゆくから⋮⋮。
柔らかな陽射しの中、アメジスト色に輝く機体が水面へと降ろさ
れる。スロープを滑り降りたスレイプニールが、湖に大きな波紋を
広げてゆく。
少し高くなった雲、頬を撫でる優しい風。目を閉じて、レオナは
そう自分にそう誓った。
353
ふくろうと巨人︽アルビオン︾
﹁哨戒飛行船より入電、敵艦見ゆ! レシチア諸島西方四〇マイル、
フェニル岩礁上空!﹂
通信兵の上ずった声がブリッジに響いた。
﹁艦長、この場で旋回待機をお願いします、直衛に四機残しますの
で﹂
ジーヌ
ロバルトはそう言って立ち上がると、どよめきの上がるブリッジ
メリュ
を後に、航空甲板へと向かった。
﹁諸君、仕事の時間だ﹂
ヒュードラ
鹵獲した﹃九頭蛇﹄改め、﹃竜翼の淑女﹄と名付けられた白亜の
飛行空母が、ラダル炭鉱を目指して飛び立ってから三日、ロバルト
の予想通り、敵はレシチア諸島手前で彼らは現れた。
﹁我々の目的は、敵飛行戦艦の情報収集だ、無駄死には許さん﹂
アルビオン
扶桑艦隊が壊滅的な打撃を受けてから一ヶ月、﹃巨人﹄と名付け
られた敵の飛行戦艦は、気まぐれのように、前線へ向かう輸送船団
を襲うものの、頻繁に姿をあらわすことはなく、襲われた船団も半
壊することはあっても、全滅することは無かった。
﹁ドラグーン隊、全機出撃﹂
354
アルビオン
わざと見逃しているようにすら見える敵の意図が何処にあるにし
ろ、参謀本部は﹃巨人﹄と名づけた空中戦艦についての情報を求め
ていた。
ならば、最精鋭の我々が一あてしてみればいい、そう主張してロ
バルトは賭けに出た。テルミア空軍の最精鋭が前線へと向かうとい
う情報と航路を、敵方に漏洩するよう仕向けたのだ。
﹁偵察機は無理をするな、敵の護衛機の有無は確認されていない﹂
﹁了解しました﹂
ロバルトの言葉に小気味よく敬礼して、ダークエルフのパイロッ
ブラックラビッツ
トが複座の偵察機に乗り込んだ、慌てて後を追うように、後部座席
に人間のカメラマンが乗り込む。
王女殿下直属のダークエルフの飛行隊、黒兎隊の名声のおかげで、
人間と亜人に連帯感が生まれ始めたことは、亜人の占める割合が他
国より多いテルミアにとっては幸運なことだと言えた。
﹁私も出るぞ﹂
クルーにそう言って、ロバルトはフックで吊り下げられた﹃レイ
フ﹄に乗り込むとゴーグルを下ろす。一機、また一機と母艦を離れ、
カラフルな機体が秋空を一路東に向かった。
§
﹁中佐、敵艦発見。二時の方向、高度、約二〇〇〇フィート﹂
ウィンドウィスプ
風の囁きで、偵察機に乗るダークエルフの准尉から連絡が入る。
ロバルトも目を凝らし、哨戒飛行船を追う敵の艦を見つけた。
355
﹁良い眼だ、准尉﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁えらく⋮⋮低いな﹂
﹁バラストを捨てる様子も見られません、あの高さまでしか上がれ
ないのでは?﹂
﹁かもしれん、油断はするな﹂
高射砲だろう、時折砲煙が上がり哨戒飛行船の周りに、パッと黒
煙の花が咲く。高度差はざっと一五〇〇フィートといったところか
⋮⋮徐々に引き離しているとは言え、迂闊に近寄り過ぎだ。
﹁写真屋を頼むぞ、准尉、無茶はするな﹂
﹁了解﹂
准尉の声を中継しているシルフに言うと、ロバルトは座席横から
信号拳銃を抜いた。打ち上げられた信号弾が緑の煙を引き、青空を
切り裂く。
アルビオン
それを合図に、六機のワイバーン隊と二機の偵察機が、鈍色に輝
く巨人に向けて降下を開始した。
﹁大きいな、重巡くらいか﹂
アルビオン
ロバルトはひとりごちた。先行する偵察機が巨人を挟むように別
れ、二〇〇ヤード程離れてフライパスする。
後を追うように、甲板上の機銃座が一斉に火を吹いた。扶桑艦隊
との交戦で撮られた写真では判らなかったが、上甲板には木製の滑
走路らしき物が見て取れる。
﹁さてと、どう出る?﹂
356
アルビオン
ロバルトが翼を振ると六機のドラグーン隊が散開、牛を追い立て
る群狼のように巨人を取り囲み、一斉に急降下した。
例の防御魔法の有効距離は測っておくべきだろう。一度追い抜い
てから旋回し、ロバルトは三〇〇ヤードあたりからトリガーを引き
っぱなしにして艦橋へ機銃弾を叩き込む。
﹁⋮⋮﹂
艦橋へ吸い込まれる機銃弾の前に、直径五十フィートほどの緑の
魔法陣が現れ、機銃弾が火花をあげて弾かれる。タイミングを図っ
ていた僚機が、艦橋の横を狙って機銃を発射、やはり一三〇ヤード
程手前で同じように魔法陣に弾かれた。
﹁なるほど﹂
⋮⋮ならば、とロバルトは垂直上昇から宙返りして、一旦離れる
と艦の後部へと向かった。艦の下部に潜り込み推進器めがけ急上昇
をかける。装甲で覆われた推進器の﹃レイフ﹄の翼長ほどある大き
なプロペラに狙いをつける。
﹁イヤキント・ハスタム、イヤキント・ハスタム、紫電の槍来たり
て⋮⋮﹂
呪文を唱えながら、距離を図る。
二〇〇ヤード、、一八〇ヤード⋮⋮。
スロットルを戻し、トリガーを引く。ブゥンと音がして緑の魔法
陣が展開された。連装機銃から放たれた弾丸が、緑の飛沫を散らし
て跳ね返される。弾丸を喰った魔法陣が、そこから解けるように消
357
えて行く。
防御が薄い⋮⋮油断したな?、ニヤリとロバルトは笑った。
息を止め、意識を集中させる。右手を操縦桿から離すと、まっす
ぐに伸ばしプロペラの中心を射抜くように指さした。
ライトニング・ジャベリン
﹁蒼雷飛槍﹂
機銃が穿った魔法陣のほつれ目をくぐり、雷の槍がまっすぐに伸
びる。
ゴウという破裂音と、あたりを照らす稲光。
確かな手応えを感じ、ロバルトは操縦桿を握り直した。
失速してフラットスピンに入った愛機の機首を下げ、スピンと反
対方向にラダーを蹴飛ばす。木の葉のように舞った機体が、速度を
取り戻し、ゆっくりと立ち直る。
﹁いい子だ、頼むぞ﹂
そっと操縦桿を引き、機首を上げた。
海面から二六○フィート、なんとか立てなおし、機首を巡らせる。
﹁火は吹かんか⋮⋮﹂
アルビオン
推進器が一基止まったものの、悠然と頭上を行く巨人の威容を見
て、ロバルトは肩をすくめる。そう何度も出来るような芸当ではな
い。自分でもよくわかっている。だが次につながる一手ではあった。
﹁中佐! 大丈夫ですか? 中佐?﹂
358
ダークエルフの准尉の声がコックピットの左側から響き、ロバル
ウィンドウィスプ
トは振り向いた。コックピットの縁に捕まるようにして、シルフが
こちらを覗きこんでいる。風の囁か⋮⋮上手く使えば戦術的に優位
にたてるな⋮⋮。
﹁ああ、大丈夫だ、写真は?﹂
﹁多分、撮れたと思います﹂
﹁そうか、上等だ﹂
椅子の横から信号拳銃を抜くと、ロバルトは弾をつめ替えて上空
に放った。赤い尾を引いて信号弾が秋空に上がり、ドラグーン隊が
各々回頭すると東へと向った。
﹁いずれにせよ、機銃で何とかなる相手ではないな⋮⋮﹂
扶桑海軍から聞き取りした内容と、今日の戦闘結果を考えると、
あの防御魔法をなんとかしない限り、空軍力だけでは歯が立たない
だろう。
ジーヌ
§
メリュ
﹃竜翼の淑女﹄と合流したロバルト達は、四機ずつの編隊を組む
と、クルリクルリと母艦の上を舞い続けた。
コックピットに備え付けられたウィンチを巻き上げると、複葉機
の上翼にとりつけた着艦金具が持ち上がる。それを母艦側のフック
に引っ掛けることで、一機づつ収容されるという段取りだ。
残り六機という段になって、偵察機が軸線を合わせてアプローチ
を始める。ロバルトを含め、ワイバーン隊最古参の四機が、上空を
359
警戒しつつ、母艦の上空で輪を描いた。
﹁少し上だ准尉、落ち着きたまえ﹂
﹁了解です中佐﹂
偵察機の斜め後ろについて、ロバルトはコクピット横にしがみつ
いているシルフを通して、指示を出す。訓練したとは言え、上翼の
フックで着艦するのは、針の穴を通すような芸当だ。
シルフを使いながらも、操縦が乱れないダークエルフの技量に舌
を巻きながら、ロバルトの目は上下左右を見張り続ける。
﹁よし、そのまま直進﹂
チラリと時計を見る、午後二時、とりあえず今日はこれで終わり
になりそうだ⋮⋮と一息ついたその時、目の端で何かが動いた。
ブレイク
﹁避けろ!﹂
叫び声を上げ、ロバルトは操縦桿を左に倒し、左のペダルを踏み
込む。
ひねりこむように急降下、上空から降ってきた二機の機体をやり
すごす。
火線が左主翼に穴を開け、グラリと機体がバランスを崩した。
二機の黄色い戦闘機が、ロバルトの横を駆け抜けてゆく。
一機の胴に、白い狐のマークが描かれているのが目に焼きついた。
﹁くそっ﹂
声を上げた両脇を、味方の機体が追いかけてゆく。
360
﹁准尉!﹂
コックピット横のシルフを探し、ロバルトは振り向いた。半透明
の風の精霊が掻き消え、澄み切った秋の空を、煙を吹いて偵察機が
落ちてゆくのが目に入る。
﹁つっ⋮⋮﹂
煙と炎の尾を引いて海に落ちてゆく翼を、ロバルトは言葉もなく
見送った。
§
はやま
﹁艦長、巴山大使がいらっしゃいました﹂
折れた腕はまだ自由にはならないものの、それ以外は普段の生活
に困らない程度回復していた照文は、山中少尉の声に身体を起こし
た。
﹁いやいや、気にせずそのままで﹂
コートと帽子を少尉に手渡し、巴山大使がベッドサイドの椅子に
腰掛ける。
﹁少尉、席を外してくれ﹂
カツン、と敬礼する山中少尉に答礼して、照文は身体を起こすと
ベッドに腰掛けた。
﹁身体はどうですか、少佐﹂
361
﹁はっ、とりあえず病院から出していただければ、軍務に戻れる程
度には﹂
﹁そうですか、それは良かった﹂
ニコニコと読めない笑顔で巴山大使が答えるのを見て、照文は心
の奥底からイラだちが湧き上がるのを抑えられなかった。
﹁それで、なんの御用でしょうか? 大使閣下﹂
尋ねつつ、照文は覚悟を決めていた。生き残った佐官が自分しか
居ない以上、今回の責任は恐らく自分一人に回ってくることは判っ
ていたからだ。
﹁ふむ、そう怖い顔をするもんじゃないですよ﹂
丸メガネを外して、ハンカチで拭き、巴山大使がそういった。
﹁今回の戦闘について、テルミア王国から、亡くなられた山形司令、
﹃青葉﹄の伊藤艦長、﹃瑞雨﹄の竹中艦長を叙勲、全将兵に報奨を
出すと連絡がありました﹂
﹁そうですか﹂
﹁もっとも⋮⋮﹂
そこで言葉を切って、メガネをかけ直すと、大使が照文をまっす
ぐに見据える。
﹁海軍府では、だれかに責任を⋮⋮という話は⋮⋮﹂
﹁でしょうね﹂
誰かが責任を負う、それは仕方がないことだ。目を閉じて照文は
362
首を振った。まあいいさ、どんな罰でもあえて受けよう。銃殺以外
ならカレンのヒモになってでも、必ず死んだ部下たちの仇を討って
やる。
﹁ですが、生憎と石頭の海軍府も、テルミア王国が叙勲した英雄を、
処分する訳にもいきません、相手国に恥を書かせてしまっては、今
後の外交の汚点になる﹂
そういって、巴山大使が一通の手紙を取り出した。大仰な羊皮紙
に、赤色の封蝋が押されている。どうぞ、と差し出され。照文は封
を切る。
﹁結城照文、扶桑国海軍少佐。テルミア王国、第一王女の名におい
て、海軍十字章を授与する、ラティーシャ・リア・ユーラス﹂
読み上げて、照文はあっけにとられた。 ﹁おめでとう、結城少佐、我が国の生存者で初めて他国から叙勲さ
れた英雄になりましたな﹂
﹁しかし、大使閣下、それでは海軍は部下にしめしがつかないので
はないですか?﹂
小さくため息をついて、巴山大使が首を振った。
﹁山形少将は私の義父でしてね、彼が命をもって責任を取った、そ
れで良いではないですか﹂
﹁閣下⋮⋮しかし⋮⋮﹂
口ごもる照文にドン、とテーブルを叩いて巴山大使が照文を睨み
つける。
363
﹁少佐、今君がするべき事は、生きている者の為に再び戦うことで
はないですか? 違いますか?﹂
﹁そうですが⋮⋮いや、確かに⋮⋮﹂
生真面目過ぎると笑う文洋の顔が、脳裏に浮かぶ。組織の一員と
しての立場と、一個人としての立場、照文はは拳を握りしめてうな
だれた。
そんな照文の肩をポンと叩くと、巴山大使はもう一通、和紙で出
来た封書を取り出し、立ち上がると背筋を伸ばした。
﹁勅命である﹂
その一言に、照文は跳ね上がるように直立不動の姿勢を取った。
さがら
﹁帝国海軍中佐、結城照文。レブログ造船所にて建造中の軽巡洋艦
﹃相楽﹄を受領、派遣艦隊の生存者と共に引き続きテルミア海軍の
作戦に協力せよ、遠い友邦での諸君らの奮闘を期待する﹂
和紙の封書を綺麗にくるみなおすと、敬礼する照文に巴山大使が
勅書を手渡す。一国を統べる二人の人物からの直筆の手紙を手に、
照文は頭の中が真っ白になったまま立ち尽くした。
﹁昇進おめでとう、結城中佐、海軍十字章の授与式は明後日だ、新
しい礼装は後で届けさせよう﹂
そのままカバンを持つと、巴山大使が踵を返す。
﹁山中少尉、巴山大使がお帰りだ﹂
364
我に返った照文が、山中少尉に声を掛ける。コートと帽子を受け
取り、巴山大使が小さく礼をして病室から出て行った。
﹁艦長?どうされました?﹂
呆けたように立ち尽くす照文に、不思議そうに山中少尉が声を掛
けてきた。
﹁いや、何でも無い、少尉、すまないコーヒーを頼めるか﹂
トスン、とベッドに腰を下ろし、照文は両手の中に有る二通の手
紙をぼんやりと見つめていた。
365
猟犬と子供達
﹁フミ、軍服の上着、持っていくからね?﹂
そろそろ朝晩は肌寒くなる季節なのに、相変わらず窓を開け放し
たまま、ベッドに伸びている文洋にレオナは声をかけた。
﹁んー?﹂
昨日もしこたま飲んだらしい文洋が、祖父の飼っていたアリシア
狼のように、間の抜けた声で返事をしながら、ベッドの中で伸びを
する。
﹁んーじゃなくて、夏服! お洗濯にだすの! シェラーナ、クロ
ーゼットの中をお願い﹂
一緒についてきたシェラーナにそう言って、レオナは椅子にかけ
られた水色の制服を手に取った。ポケットから紙巻たばこの入った
シガレットケースと札入れを取り出し、机の上に並べる。
﹁シェラーナ、ポケット、ちゃんと見てね?﹂
⋮⋮弟も何時もポケットの中に沢山物を入れっぱなしだったな。
そう思いながらコインをズボンのポケットから取り出し、机の上に
重ねる。﹁あら?﹂と後ろで小さな声がして、シェラーナが一枚の
紙切れを上着の内ポケットから取り出すのが見えた。
﹁どうしたの?﹂
366
﹁いえ⋮⋮これ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮っつ⋮⋮﹂
チラリと見えた写真に、レオナは血の気が引くのを感じた。シェ
ラーナの手から写真をひったくるようにして取り上げると、レオナ
は食い入るように写真を見つめる。
﹁フミ!﹂
鋭い声に、驚いてベッドの上で半身を起こした文洋に駆け寄り、
レオナは手にした写真を突きつけた。
﹁これ⋮⋮、新聞に出ていた、同盟の?﹂
﹁⋮⋮﹂
レオナの勢いに押されるように、文洋が黙って頷く。
﹁ルネ⋮⋮そんな⋮⋮﹂
なんてこと⋮⋮まだ八つの子供に⋮⋮一体なんてこと⋮⋮。炎上
する扶桑艦隊と、先月、新聞を賑わせた三都同盟の新兵器。引き伸
ばされ、ピンぼけになってはいるが、扶桑艦隊の砲撃を受け止めて
いるその魔法陣は、間違いなく自分の魔術式と寸分違わず同じもの
だった。
クシャリと音を立て、右手のなかで写真を握りつぶす。怒りと絶
望に目の前が暗くなる⋮⋮。
﹁私の⋮⋮私のせい⋮⋮﹂
367
倒れるように文洋の胸にもたれて、レオナは声を上げ泣きじゃく
った。
§
ローラ、レオナ、クラウスにシェラーナ、しわくちゃになった写
真を中心に、アパートメントの食堂に一同が介していた。
﹁レオナ? 少しは落ち着いた?﹂
椅子に座ったレオナをローラが後ろから抱きしめて髪を撫でてい
る。
﹁フミ⋮⋮私、私のせいで⋮⋮水兵さんたち⋮⋮皆、あんなに優し
くしてくれたのに﹂
机の上に置かれた新聞に目をやり、レオナが泣き崩れそうになる。
﹁レオナ﹂
文洋はテーブルの上に置かれた写真に手を伸ばすと、魔法陣を指
さしてレオナの目を覗きこむ。
﹁君の弟がコレに乗っているのは間違いないんだね?﹂
レオナを除いた、その場に居る三名の、責めるような視線が文洋
に突き刺さる。文洋はそれを気にせず、まっすぐにレオナの瞳を見
つめた。
﹁⋮⋮間違いないわ、その魔術式は、私がルネに教えたものだから
368
⋮⋮。ルネは⋮⋮じゃあこれで皆を守ってあげられるね⋮⋮って、
いつもコレばかり練習して⋮⋮﹂
紫色の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
﹁文洋殿、同胞が殺されたお怒りはよく判ります。ですが⋮⋮﹂
﹁フミ⋮⋮レオナは何も⋮⋮﹂
ローラとクラウスが抗議の声を上げようとするのを、片手で押し
とどめ、文洋はポケットからオイルライターを取り出すと、テーブ
ルの空き皿の上で写真に火を着ける。
﹁⋮⋮﹂
﹁フミ?﹂
﹁文洋殿?﹂
白い皿の上で灰になってゆく写真をしばらく見つめてから、文洋
は微笑んで口を開いた。
アルビオン
﹁なら⋮⋮この鈍色の巨人から、ルネを助けなきゃな﹂
﹁⋮⋮﹂
一瞬の静寂。
﹁ローラ﹂
﹁良かったわね、レオナ﹂
抱きついてきたレオナを、ローラが胸に抱きしめる。その光景に
文洋は文洋も微笑んだ。偽善だと自己満足だと、言いたい奴には言
わせておけばいい。
369
少年だったあの日、冬空の下、だんだん小さくなってゆく乳母の
ハルと、不安そうに振り返るその娘のユキの姿が不意に脳裏に浮か
ぶ。せめて今、両手の届く範囲の幸せくらい守ってやってもいいじ
ゃないか⋮⋮。文洋はそう思った。
そんな苦く切ない記憶は、背後から突然に襲ってきた衝撃で途切
れた。椅子ごと抱え上げるようにクラウスに後ろから抱き上げられ、
文洋は逃れようと暴れる。
ソブラ
﹁ああ、暗黒神よ! ご加護を、勇者がここに居らっしゃった﹂
﹁こら、やめろクラウス、暑苦しいし気持ち悪い﹂
﹁勇者殿、誓って、坊っちゃんをお救いするまで、このクラウス、
粉骨砕身お仕えいたしますぞ﹂
出来の悪いコメディのような有り様をみて、ローラとレオナが声
を上げて笑い出す。
﹁わかったから、離せクラウス、朝から暑苦しい!﹂
﹁何を言ってるんですかフミ、もうお昼です。ねぼすけさんは朝ご
はん抜きです﹂
真顔で言うローラに、テーブルの横で澄ました顔で立っていたメ
イド姿のシェラーナが、堪えきれず吹き出し、皆にとっては早めの
昼食が、文洋にとっては、遅めのブランチが始まった。
§
﹁あ、いたいた、中尉、中佐が呼んでたよ﹂
﹁そうか、ありがとうラディア。どうした今日はめかし込んで﹂
370
翌朝、待機所でコーヒーを飲んでいた文洋を呼びに来たラディア
の服装を見て、文洋は言った。
﹁レブログの初等学校の生徒が、見学にくるっていうから、その引
率﹂
以前、近衛旅団で女官たちが腕をふるって誂えた制服を来たラデ
ィアが、クルリと回ってみせる。
褐色の肌に白地に銀糸の刺繍が入った近衛旅団の上着、女性神官
達が寄ってたかって縫い上げた裾に豪奢なレースを奢ったスカート、
顔が映るほどピカピカのブーツ。黙っていれば異国のお姫様に見え
るんだがなと、文洋は笑う。
﹁可愛い?﹂
﹁ああ、黙ってればな、子どもたちを泣かせるなよ﹂
﹁中尉の意地悪﹂
少年兵を従者よろしく引き連れ、頬を膨らますラディアに手を上
げて、文洋は司令室へと向かった。 §
﹁失礼します中佐﹂
﹁入りたまえ、ユウキ中尉﹂
勧められるままに腰掛け、文洋は差し出されたグラスを受け取る。
ジーヌ
バサリ、と写真の束が文洋の前に投げ出された。
メリュ
﹁先日、﹃竜翼の淑女﹄を囮にして撮影した敵の空中戦艦だ﹂
371
一枚一枚、文洋はその写真を食い入るように見つめる。上甲板か
ら低い流線型の艦橋が伸びている。船腹の左右に機銃座が突き出し、
ざっと見ただけで片舷に六門の高射砲が並んでいた。
﹁これは⋮⋮飛行甲板⋮⋮ですかね?﹂
船体中央に伸びる木製の大型甲板を見て、文洋は中佐に尋ねる。
﹁恐らくはな。本作戦中、収容間際に偵察機が一機、敵の戦闘機に
やられた。見事な手際の送り狼だ。識別マークは白狐だ﹂
むぅ、と唸って文洋が目を閉じた。大きなスピナーのついた空冷
エンジンの機首、派手な黄色の機体に染めぬかれた跳ねる白狐。
少しばかり離れた場所から撮られた写真が数枚、続く。どれも円
形の魔法陣が、火花を散らして戦闘機からの攻撃を弾いていた。
﹁魔法陣展開の素早さはなかなかに見事なものだ﹂
﹁私の娘より⋮⋮ですか?﹂
﹁そうだな、早さと正確さでいば、彼女より格段に上だろう﹂
﹁⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
二杯目をグラスについて、ロバルト中佐が一息に飲み下す。
﹁重巡洋艦の主砲を止めたというのだ、まずはあの魔法を何とかし
なくては、勝ち目はないだろう﹂
どうだ?とボトルを掲げる中佐に、文洋はグラスを差し出した。
この人は、ルネの事について、もう知っているに違いない⋮⋮と文
洋はグラスを差し出し、ため息をついた。
372
﹁中佐、レオナは高射砲弾の破片を止めるのが、自分の力ではやっ
とだと言っていました。自分の術式と手持ちの赤水晶の魔力では、
そこまでが限界だと﹂
﹁だろうな、戦争において魔法が廃れつつあるのは主に二点に集約
する、資質が無い者には使えない特殊性と、兵器の物量が古き良き
時代とはケタ違いである事だ﹂
文洋の国にも、半世紀ほど前、﹃文化繚乱﹄と呼ばれる解放路線
に舵を取る際、、大皇を擁する派閥と、現状維持を唱える派閥の争
いがあった。
現状維持を唱える派閥の一角に、式神使いを擁する一大派閥があ
ったが、彼らは壮絶な戦闘の後、新政府軍の鉄と鉛の暴威の前に、
あえなく敗れ去った。
アルビオン
﹁中佐、レオナと同じ術式で、二〇インチ砲が止められるものでし
ょうか?﹂
﹁あの鈍色の巨人を浮かべるだけの魔力供給があれば、あるいはな、
もし赤水晶の力だとすれば巨大なものになるだろう﹂
︱︱ レオナ、魔法でゆっくりおろせないか?
︱︱ ルネなら魔法で下ろせたかもしれない、でも私にはこんな
に大きくて重たいものは無理
ローラが怪我をした時のレオナとの会話を思い出す。ならば⋮⋮
ならば、なおの事、ルネを奪還しなければならないということだ。
﹁さて、話は変わるが中尉、明朝、テルミア海軍工廠で扶桑へ巡洋
艦の受け渡し式が開催される﹂
﹁は、新聞で読みました﹂
﹁その後、扶桑の巴山大使と結城照文海軍中佐は、当飛行場より離
373
陸、飛行船﹃エクソ・ヴォランテ﹄にて王都へ異動、女王陛下への
謁見と叙勲式へ臨まれる﹂
扶桑の英雄⋮⋮か、仏頂面の兄の顔を思い浮かべ、文洋は少しお
かしくなった。
アルビオン
﹁私の読みでは、間違いなく現場に奴らが嫌がらせに現れる﹂
﹁巨人がですか?﹂
﹁いや、本体は来ないだろう、私が思うに、あの船は、同盟とはま
た別の意図で動いてるように感じる﹂
﹁では空襲ですか?﹂
なるほど、艦載機による式典への空襲なら、実に効果的な嫌がら
せにはなるだろう。テルミアと扶桑の離間工作としては効果的な部
類だ。
ブラック・ラビッツ
﹁全戦力を持って、我々は式典の安全を確保する、﹃黒兎隊﹄にも
準備をさせたまえ、ブリーフィングは明朝六時﹂
﹁了解しました﹂
グラスを飲み干して立ち上がり、文洋が敬礼する。
﹁兄君の晴れの舞台だ、しっかり守ってさしあげたまえ﹂
答礼してグラスを飲み干し、中佐がニコリと笑った。
§
司令室を出た文洋が階段を降りると、パイロットの待機室は子供
達でいっぱいだった。めいめいがパイロットたちを捕まえては、質
374
問攻めにしている。
﹁こんにちは﹂
﹁こんにちは、お嬢さん﹂
七歳位だろうか、階段に座って文洋を見上げ、元気に挨拶してく
る女の子に、文洋は挨拶を返す。
﹁ねえ、おじさんはパイロット?﹂
﹁ああ、あそこのお姉さんと同じだ﹂
ひし形に黒い兎の刺繍が入ったワッペンを少女に見せると、文洋
はラディアを指さした。子供に貰ったのだろう、野花で出来た冠を
かぶったラディアと目が合う。プイとそっぽをむくラディアに苦笑
いして、文洋は足元の女の子に視線を戻した。
﹁おじさんは、どこの人? カフェラル?﹂
﹁いや、扶桑からきたんだ﹂
﹁扶桑? しってる、船乗りのパパが、褒めてた、扶桑の水兵、あ
れが本物の男だって﹂
﹁そうか、皆に伝えておくよ﹂
﹁もう行かなくちゃ、お仕事頑張ってね! これあげる﹂
﹁ありがとう﹂
差し出された小さな紙包みを受け取って、文洋は駆けてゆく女の
子に手を振った。
﹁姐さん、ああ見えて子供好きなんですよ﹂
﹁みたいだな﹂
375
フェデロの声を聞きながら紙包みを開くと、文洋は包まれていた
ドロップを口に放り込んだ。人間の子どもたちに囲まれて、困惑す
るダークエルフの戦士たちを笑顔で眺める。
イチゴ味だったらしいドロップから、甘い香りが一杯に口の中に
広がり、ほろ苦いモルトの香りを塗りつぶしていった。
376
黒兎と白狐
さがら
さがら
﹃相楽﹄引渡し式典の一時間前、早めに到着した照文は、レブロ
グ軍港に停泊する﹃相楽﹄を山中少尉と共に見上げていた。
﹁美しい船ですね﹂
山中少尉がまだペンキの匂いのする船体を見上げ、そう言って目
を細めた。扶桑の古都を流れる川の名を頂いた流麗な船体が、花曇
りの秋空に輝いている。
ラム
﹁衝角が無いからな、公試では全力運転で三十三ノット出したそう
だ﹂
﹁それはすごい﹂
﹁ああ﹂
そう言いながら、照文は目を閉じた。六インチ連装砲三基六門、
四インチ高角砲四門、三連装の魚雷発射管が二基、素晴らしいとい
って差し支えない武装だが、あの化け物を相手にして、足りるだろ
うか⋮⋮。
﹁艦長! あれを﹂
﹁ん?﹂
山中少尉の声に我に返ると、照文は指差す方角を見つめた。レブ
ログの街の中心部、小高い丘の向こうから現れた巨大な影がゆっく
りと近づいてくる。
377
メリュ
ジーヌ
﹁竜翼の淑女⋮⋮、テルミアが鹵獲した敵の飛行船だな﹂
白い船体も相まって実に豪勢なものだ⋮⋮、ゆっくりとこちらへ
向かってくる飛行船を眺め、照文は思う。
﹁まだ来ますね﹂
キラリと陽光を反射して、軍艦の横で跳ねるイルカのように、巨
体の脇を小さな影が追い抜いてきた。ゴマ粒ほどの影は見る見るう
ちに翼を持つ機影になる。
さがら
﹁これもまた、派手な市松模様だ﹂
フィンガーフォー
四機編隊が三つ、﹃相楽﹄を眺めるように低空で並んで抜けてゆ
く。どれもが胴体に派手なチェック模様を描き、先頭の群青色の機
体以外は、黒色で統一されている。
﹁おーい﹂
山中少尉が無邪気に帽子を振る。それに気がついたのだろうか、
二機が編隊を離れてこちらへ翼を翻した。
﹁あれ、こっちに来ますよ?﹂
キョトンとした顔の少尉に苦笑いして、照文は旋回しながらこち
らへ高度を下げてくる二機をじっと見つめた。群青色の機体に白の
チェック模様、胴体には白で⋮⋮座ったライオン⋮⋮、いや狛犬?
ゴウとエンジン音が吠える。
ぐい、とこちらへ機首を向けて降下してきた。
378
﹁ちょ⋮⋮え?危ない危ない﹂
﹁慌てるな、気をつけ、敬礼﹂
照文は少尉に命令して、まっすぐに機体を見つめ返した。反射的
に山中少尉が同じ姿勢を取ると、二人の頭上で群青と黒の二機が並
んで宙返りする。
﹁まったく、バカ野郎め﹂
こちらを見つめ、小さく敬礼している二人のパイロットに照文が
つぶやいた。
﹁艦長?﹂
﹁弟だよ、文洋だ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
二機が並んで、踊るように翼を振ると編隊へと戻ってゆく。沖へ
と飛んでゆく弟の姿に、照文はもう一度つぶやいた。
﹁死ぬなよ⋮⋮﹂
さがら
陽射しを遮り、﹃相楽﹄よりはるかに大きな双胴の飛行船が、戦
闘機の群れを追って上昇してゆく。圧倒的な大きさの白亜の巨鯨を
見上げ照文は思う。自分の船も空を飛べたなら⋮⋮と。
§
﹁もう、中尉、あとで怒られても知らないよ﹂
379
ウィンドウィスプ
文洋のコックピットに寄り添って飛ぶシルフから、ラディアの声
がする。最初の頃は驚かされた風の囁きだが、最近ではすっかり慣
れっこだ。
﹁一緒に叱られてくれるんだよな?﹂
﹁いやだよ、お断り﹂
﹁冷たいな﹂
﹁だって、中尉は意地悪なんだもん﹂
笑いながら、文洋はスロットルを開き、大きな弧を描いて上昇す
る編隊に追いついた。
﹁さあ、仕事の時間だ、皆に指示を﹂
﹁了解﹂
中佐の考えた作戦はこうだ。
メリュ
ジーヌ
レブログ軍港の南方、十マイル沖、高度一万フィートに﹃ドラグ
ーン隊﹄を載せた﹃竜翼の淑女﹄を静止、防衛拠点とする。
ブラックラビッツ
文洋の率いる﹃黒兎隊﹄の任務は、これを起点にしての哨戒任務
だ。十二機を三つの編隊に分け、軍港の西側九十度を哨戒にあたる。
ブライアンの率いる﹃ハウンド・ドッグ隊﹄十六機も同様に展開
し、会場の直衛と、東側九十度を哨戒していた。
﹁中尉﹂
﹁なんだ?﹂
一万フィートまで高度を取り、周囲を警戒する文洋にラディアが
声をかけてくる。
380
﹁なんで西から二番目のコースを選んだのさ?﹂
﹁そこから敵が来そうだからだ﹂
﹁だからなんで?﹂
﹁東側はアリシアへの中立の海域で船が多い、南はラディウス群島
に海軍が観測所を建てた﹂
﹁それで﹂
﹁一番西は、陸地に近すぎる﹂
チラリと時計を見る。飛び立ってから四十五分、式典が始まるま
で十五分、残りの燃料が二時間といったところだ。文洋はポケット
から式典のプログラムを引っ張りだすと、逆算を始めた。
式典は一時間、クライマックスは最後の十分、もしそこを狙って
いるのだとしたら、そろそろと言ったところだろう。
﹁曇ってきたな⋮⋮高度を上げる、警戒を厳に﹂
﹁了解﹂
雲が視界を遮る。軽く翼を傾け、文洋は緩く旋回しながら、周囲
を見回した。
広い空だ、行き違ってしまえばそれまでだ。
雲の切れ間を睨みつけ文洋は目を凝らした。
﹁中尉、四時の方向、下方、雲の切れ間、二機、凄く大きいのが﹂
﹁三番機と四番機を、油断するな、近くに護衛が居るぞ﹂
﹁了解﹂
ふっ、とコックピットの風が乱れ、シルフが姿を消した。三番機
と四番機にラディアの指示が通ったのか、後ろの二機が反転、降下
を始める。文洋は彼らの上空をカバーするように、高度を変えずに
381
追尾した。
アルビオン
双発の爆撃機? あんなデカブツをよく連れてきたものだ⋮⋮と、
思いながら、文洋は巨人の写真を思い出す。もしあの甲板から双発
機で飛び立ったなら、さぞかし勇気が必要だっただろう。
﹁うわっ!﹂
刹那、三番機と四番機を目で追いながら、周囲を警戒する文洋の
目の前に、雲を突き抜け黄色い戦闘機が飛び出してきた。とっさに
左上方にひねり込んで回避する。
﹁ラディア!﹂
文洋は叫んだ。集中が切れたのだろう、コックピット横に居るは
ずのシルフが掻き消えていく。
﹁くそっつ﹂
一旦高度を取った文洋が周囲を見回した。雲を突き抜けて来たよ
うに見えたが、実際は雲の谷間を縫って来たようだ。 向こうも驚いたのだろう、編隊が大きく乱れる。ゆるく上昇して
背面飛行に入った文洋は、瞬時に編隊を組み直す敵に、感嘆の声を
あげた。
﹁行くぞ!﹂
ポン、とスロットルレバーを叩いて、文洋は自分に喝をいれる。
そんな文洋の一〇〇フィート程下方に、ボフンと音がしそうな勢い
でラディアが雲を突き抜け現れた。
382
上を取られた敵が急降下を開始する。テルミアの機体は急降下が
遅い。そう判断しての事だろう。だがそれは﹃スコル﹄や﹃レイフ﹄
なら⋮⋮だ。
﹁見てろよ﹂
獰猛な笑みを浮かべ、文洋は操縦桿を引きつけた。
カクンとループの頂点から群青の翼がこぼれ落ち、黄色い編隊を
追って加速する。
翼桁とワイヤーが唸りを上げ、﹃ハティ﹄が遠吠えをあげる。
照準環の中で、敵機がどんどん大きくなる。
ゆっくりと息を吐いて、一連射。
ボム!
爆炎を上げ最後尾の機体が四散した。文洋は破片を避けようと操
縦桿を引いて急上昇。その文洋の脇を、ラディアの機体が駆け抜け
てゆく。
垂直上昇しながら機体をひねり、ラディアを目で追う。一斉に散
開した敵機の軌道を頭に入れ、文洋は先頭の隊長機を狙うラディア
の後を追った。
﹁速度がのりすぎだ、馬鹿﹂
新型機は﹃スコル﹄どころか﹃レイフ﹄と比べても二割近く最高
速度が速い。しかも一定速度を超えると操縦桿が重くなる癖があっ
た。
案の定、右に一瞬ふらつかせてから、左ロールで急減速する敵機
のフェイントに引っかかってラディアがオーバーシュートする。
383
﹁間に合え!﹂
叫びながら、文洋は射撃位置につこうとする敵の鼻先に向けて、
長い長い一連射を入れる。
当たるような距離ではないが、敵が乱れればそれでいい。
左へ捻りながら上昇、敵機が文洋の弾をかわす。
文洋はその胴体に白い狐が染めぬかれているのを見つけた。だが、
今回は自分でも不思議なほどに冷静だった。
急降下でラディアが逃げるのを確認して、自分も距離を取ると文
洋は水平飛行に戻して右に緩旋回。
﹁さて、仕切りなおしだ﹂
見回した文洋の左前方に、味方に追われて逃げる双発機が目に入
る。一機はどうやら落としたらしい。ラディアは大型機を挟んで大
ブラックラビッツ
きく回りこみ、緩く上昇しながら高度を取り戻している。
先ほどの白狐は文洋を追うのを諦め、大型機を追う黒兎隊の方へ
と機首を向けた。後ろを見ると、二機の戦闘機が自分を追ってきて
いる。
﹁⋮⋮﹂
文洋は一瞬、逡巡した。この二機を引きつけておけば少なくとも
ブラックラビッツ
向こうは二対一だ、ラディアも入れれば三対一になる。だが、これ
を引き連れて乱戦になれば残念ながら、黒兎隊の練度では全滅しか
ねない。
﹁死ぬなよ⋮⋮﹂
384
つぶやいて文洋はスロットルを緩めると、敵機を引きつけて右に
旋回する。射程ギリギリを飛び、敵に撃たせ続けた。
ペダルを軽く蹴り、微妙に横滑りさせると、翼端ギリギリを弾丸
が通過していく。そうしておいて、文洋はひたすら高度を下げなが
ら敵を戦場から切り離した。
﹁さすがに気づいたか﹂
高度一〇〇〇フィートまで引きずり降ろされ、ようやく文洋の意
図に気がついた敵が反転する。
ボロボロに破れた翼端を見ながら、ため息をつき、文洋はスロッ
トルを全開にした。
水冷八気筒エンジンが唸りをあげ、群青の翼を加速する。上昇率
は敵のほうが多少良いとは言え、水平速度で二〇ノットの差は埋め
ようがない。
あっという間に追いつくと、敵の後下方から、急上昇して一連射。
パイロットに当たったのだろう、クルリと背面飛行に入り、その
まま敵がキリモミで落ちてゆく。
﹁⋮⋮﹂
離脱した敵はそのまま捨ておき、文洋は仲間の姿を求めて秋空を
昇り始めた。
§
﹁ユウキ中尉!﹂
燃料切れいっぱいまで捜索したものの、結局、隊と合流出来なか
った文洋が雨の降り始めたレブログ空軍基地に着陸すると、顔から
385
服から、見事にオイルまみれのラディアが駆け寄ってくる。
﹁無事だったか、ラディア﹂
﹁バカっ、それはこっちのセリフだよ!﹂
半泣きで抱きついてきたラディアを引き離し、文洋はラディアに
尋ねる。
﹁それで、こっちの損害は?﹂
文洋の問いにキョトンとした顔でしばらく固まった後、ラディア
が笑う。
﹁あたしの飛行機が、ちょっと壊れた﹂
﹁他には?﹂
﹁無い﹂
﹁誰も?﹂
﹁うん、誰も﹂
雨空に顔を向け、文洋は目を閉じる。しばらくそうしてから、文
洋は目を開けラディアに尋ねた。
﹁それで⋮⋮、どうやったんだ?﹂
オイルのついた頬を、親指で拭ってやり、ラディアの目を覗きこ
む。小首を傾げ笑みを浮かべると、ラディアが文洋の首っ玉に抱き
ついて、耳元で囁いいた。
﹁⋮⋮大きなのを落とした後、あたしが黄色いのを正面から一発ひ
っぱたいて逃げた。そりゃあもう、皆で一生懸命逃げた﹂
386
もう一度雨空を見上げて、文洋は想像する。
﹁そうか、逃げのか?﹂
尖った耳に文洋がささやき返すと、パタリと耳が動く。
﹁うん、だってアレおっかないし﹂
ラディアの答えに、文洋は子供にするように脇の下に手を入れる
と、グイと抱き上げた。
﹁ちょ、ちょっと中尉﹂
﹁ハハハ、そうか⋮⋮逃げたか! 良くやった、そいつはいい! 無事でなによりだ﹂
黒兎にひっぱたかれた白狐の顔を見てみたかったと思いながら、
文洋はラディアを持ちあげてクルリと回り、大いに笑う。
⋮⋮雨の中、傘をさし、自分を見つめる兄と、ロバルト司令の姿
に固まったのは、それから数瞬後のことだ。
387
艦長と王女
﹁おやっさん、俺の機体、治りそうか?﹂
雨の中、子供のようにラディアと戯れた文洋は、格納庫に戻ると
自分の機体に駆けつけた。
﹁護衛で飛ぼうってんなら諦めな﹂
長さ二〇インチはあろうかという大きなスパナで、肩をトントン
と叩きながら、フリント整備中尉はそう言ってボロボロになった翼
端をさす。
エルロン
﹁翼端がケタごと持ってかれてる、右の補助翼はワイヤーが半分切
れかかってた﹂
つっ⋮⋮と文洋は言葉を失った。戦闘が終わって冷静になると、
恐怖というのはまとめてやってくるものだ。
﹁飛べないか﹂
﹁ああ﹂
﹁ちなみにあいつは?﹂
そう言って文洋はラディアの機体を指さす、白黒のチェック模様
の機体が派手にオイルで汚れている。
﹁エンジンブロックにニ、三発くらってる﹂
388
渋い顔をするフリントに、とぼけた顔でラディアが逃げ出そうと
するのを捕まえて、文洋はコツンとゲンコツを食らわせた。
﹁あいたっ、おやっさん、中尉がいじめるの﹂
﹁馬鹿野郎、泣きたいのはこっちだ、お前らのせいで届いたばかり
の予備部品総ざらいじゃねえか﹂
鳴り物入りの王女殿下直属の部隊ということで、文洋たちも叙勲
式とパーティに招かれている。出ないわけにも行かないので護衛は
部下たちに任せ、結局文洋とラディアは巴山大使一行のエスコート
という名目で民間飛行船に同乗することとなった。
§
エスコートと言っても、ボーイから護衛の陸軍の兵士まで一揃い
している大型の民間飛行船だ、二等船室でくつろいでいる扶桑の兵
士達に混ざり、文洋達はこれといってすることもなく窓の外を眺め
ていた。
﹁敬礼﹂
不意に扶桑語で号令がかかると、全員が立ち上がる。釣られて立
ち上がり敬礼する文洋とラディアに、真っ白な海軍の礼装を着た照
文がつかつかと歩み寄る。
﹁レディ、少し、中尉をお借りしてよろしいですか?﹂
﹁え⋮⋮、あ、はい﹂
異国の将官に声をかけられ、ラディアが固まる。
389
﹁山中、結城中尉が戻るまで、そちらのお嬢さんの話し相手をして
さしあげろ﹂
﹁か、艦長?﹂
無茶振りされて慌てる山中少尉の肩をポンとたたいて、文洋は兄
の後をついて行く。一等船室の扉の前で立ち止まり、照文が扉をノ
ックした。
﹁どうぞ﹂
と扶桑語で返答が来るのを待って、照文が扉を開けると、そこに
はロバルト中佐と恰幅のいい扶桑の紳士前とした男が立っていた。
﹁こちらは巴山大使だ﹂
仕立ての良い黒の礼装に身を包んだ大使を紹介され、文洋は右手
を差し出す。
﹁光栄です、大使閣下﹂
﹁やあ、君が結城中佐の弟君だね、随分と活躍しているそうじゃな
いか﹂
﹁偶然です﹂
﹁ふむ、ならばそれは君の引き寄せた運命だろう﹂
ビロード張りのソファーにマホガニーの調度品という贅沢な一等
船室、巴山大使と握手を交わした文洋はロバルト中佐に勧められ、
椅子の一つに腰掛けた。
﹁報告を聞く時間がなかったのでな、今日の戦闘報告を聞かせても
らおう﹂
390
﹁は、我々が遭遇、撃退したのは双発の爆撃機が二機、戦闘機が四
アルビオン
機、いずれも同盟の物で間違いありません﹂
﹁それで、﹃巨人﹄は?﹂
﹁アルビオンには遭遇しませんでした﹂
そこで文洋は言葉を切り、左右を見回した。
﹁敵の目的をどう見る?中尉﹂
文洋の視線を捉え、兄がそう口を開く。
﹁式典に対する嫌がらせなのは間違いないでしょう﹂
﹁そこまでするほどの価値があると思うか?﹂
兄の言うことはもっともだと文洋も思った。離間工作なのは間違
いないが、そこまでする価値があるかと言われれば、疑問ではある。
﹁よろしいですかな?﹂
巴山大使がそう言ってウィスキーのグラスを掲げる。皆の視線が
恰幅の良い大使に集まった。
アルビオン
﹁我が艦隊が壊滅的打撃を受けてから、﹃巨人﹄の動向は沈静化、
時折輸送船を襲うことはあっても、テルミア王国と三国同盟の艦隊
戦に積極的に出撃する気配はない﹂
一口ウィスキーを飲んで大使が続ける。
﹁あくまで推測ですが、﹃巨人﹄は同盟とはまた違う意思で動いて
る気がしてならんのです﹂
391
﹁と、いいますと?﹂
ロバルト中佐が大使にシガリロを差し出し、そう尋ねる。
﹁失った重巡一隻に駆逐艦二隻、本日受領した一隻、来年完成予定
の戦艦二隻を加えると、扶桑がこの海域に投入できる戦力はそれな
アルビオン
りの物になる予定だった。だから彼らは先手を打って我々を襲った﹂
﹁だが、その後、﹃巨人﹄は動かない⋮⋮﹂
﹁そう、動かない。戦争の勝敗がどちらかに傾かないように調整す
るように﹂
ぐい、とグラスを開けて巴山大使がシガリロを咥えた。マッチで
火を付け紫煙を吐き出す。
﹁勝敗の天秤がテルミアに傾くような事があれば、またぞろ出てく
るかもしれませんな﹂
一同が沈黙する。⋮⋮文洋は知っていた。だれがその﹃調整者﹄
なのかを、そしてその調整者を気取る者から、自分の家族を取り戻
さないとならない事を。
§
翌朝、﹃銀の塔﹄と呼ばれるテルミア教の総本山、六百年ほど昔
に建てられてという大聖堂に照文は居た。扶桑のどの建物よりも高
い石造りの塔の中、ズラリと並ぶ神官と貴族、そして騎士たち。
死した兵達ならばともかく、自分にここへ来るだけの価値がある
のか⋮⋮? と直立不動のまま照文は思う。
﹁扶桑海軍中佐、結城照文殿、前へ﹂
392
時代がかった胸甲を付けた老騎士の声が響く。照文は事前に教え
られたとおり、王女の座る玉座の前へ進み出て片膝をついた。
﹁中佐、顔をあげてください﹂
サラリ、と衣擦れの音がして壇上から軽い足音が近づく。同時に
場内にどよめきが巻き起こった。
﹁⋮⋮?﹂
顔を上げた照文に、壇上から少女が降りてくるのが目に入る。豪
奢な金糸で縁取られた神官服に、エメラルドの散りばめられた王冠
をかぶった少女、閲兵式では遠目に見ただけだが、間違いなく、ラ
ティーシャ王女その人だ。
﹁姫殿下⋮⋮﹂
何か言いかけた老騎士を片手で押しとどめ、王女は海軍提督に勲
章を渡すように手を差し伸べる。
﹁殿下?﹂
勲章を手渡しながら、不思議そうな顔をする提督の様子に、なに
か問題が起きているのは照文にも理解はできた。
﹁皆さん、良くお聞きなさい﹂
どよめきを消し飛ばすように、凛とした少女の声が大聖堂に響き
渡る。
393
﹁ここに居る勇敢な戦士は、遥か四万海里彼方から来訪し、我々の
為に血を流し、死んでいった異国のつわもの達の代表です﹂
その一言で、議場が静まり返った。
﹁我らが友邦の扶桑国は、多大な犠牲を払った上で、さらにテルミ
アの困難に共に立ち向かうと約束をして下さいました﹂
線の細い少女のどこから出るのか⋮⋮石造りの大聖堂に切々とラ
ティーシャ王女の声が響く。
﹁その勇気と誠実さに私ができることは、手ずから勲章を授ける事
だけです﹂
立ちなさい、と目で促され照文は立ち上がった。自分の胸ほどし
かない小さな王女、彼女がテルミア教の巫女であり、テルミアの最
高責任者だというのだ。
﹁貴方の失ったものの対価として、ふさわしいとは思いません、で
すがこれが私にできる精一杯です﹂
すこし寂しそうに笑って、王女が、金の七芒星と銀の十字、中央
にサファイアの嵌められた勲章を照文の胸ポケットにピンで止める。
﹁光栄です、殿下﹂
王女にポンと胸を小さく叩かれて、照文はそう答えると踵を揃え
敬礼する。
394
﹁死んでいった戦士たちの為に、そして戦い続ける戦士たちのため
に、祈りを﹂
ひざまづ
壇上に戻ったラティーシャ王女が祭壇に向かって跪くと、大広間
に集まった人々が一斉にそれに続く。信仰という名の圧倒的な空気
に気圧されるように照文も見様見真似で跪き、見知らぬ神に祈った。
§
﹁なんか、中尉と違って、真面目そうなお兄さんだね﹂
シードル
貴族と高級軍人たちに囲まれても堂々とした振る舞いをみせる照
文の様子に、ラディアがそう言って林檎酒のグラスを傾ける。
新設されたラティーシャ王女直属の部隊の代表、そういう触れ込
みで呼ばれているものの、実際に参加してみれば、実に居心地が悪
い場なのは間違いない。
﹁そうだな、俺と比べたら百倍真面目な兄貴だよ﹂
﹁中尉も大抵まじめだとおもうけど⋮⋮その百倍かあ、あたしじゃ
付き合いきれないな﹂
おかわり! とグラスを差し出すラディアの頭にポンと手を置く
と、飲み物を取りに文洋はテーブルへと向かう。人間とエルフの貴
族たちでごった返す中、ボーイからグラスを受け取った所で、トン
!と後ろから何かがぶつかってきた。
﹁おっと﹂
﹁くっ﹂
395
かろうじて零さずにすんだグラスをボーイに戻して、文洋は振り
向く。
﹁大丈夫かい﹂
そこには真紅のドレスを着た小さな女の子が尻もちをついていた。
長い金髪をアップにして燃えるような赤い瞳がいたずらっぽく輝い
ている。
﹁大丈夫じゃ、すまぬ﹂
妙に時代がかったテルミア語を話す少女に手を差し伸べ、文洋は
少女を助けおこした。
﹁ちょっと、爺から逃げておってな、そちも手伝え﹂
﹁ん?﹂
﹁ほら、行くぞ﹂
有無を言わせず少女が手を引く。壁の花になっているラディアに
飲み物と伝言を届けるようボーイに頼んで、文洋は少女に手を引か
れ歩き始めた。
﹁じゃあ中庭にでも行こうか﹂
﹁うむ、それは名案じゃな﹂
少女を背中で隠すようにして文洋は中庭へむかって歩き出す。
﹁それで、どうして逃げてるんだい?﹂
﹁ふむ、どこぞの公爵に挨拶せよだの、やれ伯爵夫人がだの、やか
ましくての﹂
396
﹁なるほど﹂
﹁いつもなら招待されても顔を出さぬのじゃが、巫女が変わってか
ら一度も顔をだしておらぬし﹂
どこかの貴族のお嬢様⋮⋮という雰囲気でもない。どちらかとい
うとソールベル伯爵夫人に近い感じを受けて、文洋は不思議に感じ
た。
ははご
﹁ラティーシャ王女の知り合い?﹂
﹁ふむ、どちらかというと、母御の知り合いかの﹂
中庭の繁みに隠されて、パーティー会場から見えない位置まで移
動すると、少女は木製のベンチに無造作に腰掛けて、伸びをした。
﹁ああ、清々した。あのような狭い所に羊のように群れて、頭が痛
くなる﹂
﹁隣にかけても?﹂
﹁おお、気が付かず、すまなんだ﹂
ちょこん、と端にかけ直し、ポンポンと自分の隣を叩いて、ここ
へ座れと少女が笑う。
﹁僕はフミヒロ、ユウキ・フミヒロ、名前を聞いても?﹂
﹁わらわか? スカーレット、スカーレット・アドラコ・カステル
ーム﹂
ふむ、と小首をかしげてスカーレットが文洋を覗きこむ。
﹁見慣れぬ顔じゃな、どこの生まれじゃ?﹂
﹁扶桑⋮⋮と言ってもわからないよね?﹂
397
﹁バカにするな、新聞くらいは読むぞ﹂
テールス
﹁ああ、ごめん、ごめん﹂
﹁地球の裏側から来て、わざわざ巫女の近衛とは、また酔狂じゃな﹂
文洋の近衛旅団の制服を見て、スカーレットがクスリと笑った。
﹁色々あってさ﹂
﹁ああ、しかしアレじゃな、パーティーは難儀じゃが、菓子はもう
少し食べたかったの﹂
そう言って残念がるスカーレットに文洋は微笑んだ。
﹁これで良ければ食べるかい?﹂
ポケットから飛行船の売店で買ったキャンディの缶を取り出す。
﹁おお、気が利くの、うちの爺にも見習ってほしいくらいじゃ﹂
﹁誰が誰を見習うのですかな?﹂
﹁うわっ﹂
少女の言葉を聞いていたかのように、ガサリと繁みを掻き分け、
クラウスを思わせる精悍な老人が現れた。
﹁ち、違うのじゃ爺﹂
﹁さ、お戻り下さい﹂
ぐいと袖を掴んだ少女の頭を撫で、文洋はキャンディの缶を手渡
す。
﹁くれるのか?﹂
398
﹁あげるよ、お仕事頑張って﹂
﹁そうか、うむ、もう逃げも隠れもせぬから、そう急くな爺﹂
老人に手を引かれながら、ふり返って手を振る少女に文洋は笑顔
で手を振り返した。
﹁どうしたの?あの子﹂
いつの間に来たのか、隣に立っていたラディアが不思議そうな顔
で文洋を見おろす。
﹁ああ、俺と同じく、不真面目で不出来などこかのお姫様だよ、き
っと﹂
そう答えて、文洋は目を閉じた。
漏れ聞こえる喧騒が秋風のざわめきに溶けてゆく。
399
猟犬と赤竜
﹁さて、どうしたものかしらね?﹂
ポットから紅茶を注ぐ執事に、ローズは手紙の束を投げ出してつ
ぶやいた。
﹁どうなさいました? 奥様﹂
﹁どこまで関わっていいかしらと、ちょっとね﹂
紅茶を一口飲んで、ローズは、頬杖をつく。
﹁戦争が続いたほうが、船会社は儲かるし、ソールベル伯爵家とし
て嬉しいんだけれど﹂
﹁なにかお気に召さないことが?﹂
クッキーの小皿を優雅な手つきでテーブルに置く、執事のジェー
ムスの瞳を見つめてローズはニコリと微笑んだ。
・・
ピエロ
﹁フィクサー気取りの、若造が気に入らないってところかしら﹂
﹁アリシアの執政官ですか?﹂
﹁そうね、ルデウス・ベリーニ、あの、笑わない道化師﹂
アリシア王国の執政官、ルデウスのスカした顔を脳裏に浮かべ、
顔をしかめる。
﹁しかし、今回は珍しく、若者に肩入れなさいますな?﹂
﹁いいじゃない? みんな可愛らしいんだもの﹂
400
仕方のない人だという顔をする老執事に、ローズは羊皮紙を一枚
渡し、部屋の隅の小さなハヤブサの置物を指さした。
﹁ガリウス伯に、そろそろ潮時だと教えて差し上げましょうか、も
ちろん、見返りはいただくけど﹂
﹁わかりました﹂
受け取った執事が、手の中で文字通り羊皮紙を圧縮する。漆黒の
モヤに包まれて、手紙が黒い小さな円柱へと姿を変る。
﹁いつもながら、大したものね、また新しい魔術式?﹂
﹁なにせ、時間だけは余るほどありますからな﹂
﹁良ければ今度教えて頂戴﹂
﹁お望みなら、我が女卿﹂
ジェームスがハヤブサの置物を手に取ると、台座に取り付けられ
たツマミをパチリとひねった。ブロンズ色の彫像がグイと翼を広げ、
束縛から解かれたように頭を振る。
﹁ゆけ、ソナタの魂はこれを届ければ自由だ﹂
細身の執事のどこからそんな声が出るのか、奈落の底から這い上
がるような冷たい声が響く。ぶるり、と彫像が怯えたように身震い
して、金属棒を片足に掴むと羽ばたいた。
開け放たれた窓から、矢のように飛び立つハヤブサの彫像を見て
ローズはため息をつく。
﹁すこしやり過ぎましたかな?﹂ ﹁ええ、脅し過ぎよ、愛しの暗黒卿﹂
401
§
ブラックラビッツ
お披露目のパーティが終わり、夜もとっぷりと更けた頃、文洋は
銀の塔を出て家路についた。飲み歩く気満々の﹃黒兎隊﹄の面々に、
普段着に着替えてから飲みにゆけと指示して、文洋は財布の中から
札を取り出すと、奢ってやれとラディアに押し付ける。
﹁大丈夫かい?﹂
﹁ん? 何がだ?﹂
﹁いや、中尉が何でも無いならいいんだけれど﹂
﹃銀の塔﹄からエルフ居住区までは、三十分ほどだ。貴族たちの
車と馬車でごった返す王宮前を、文洋はふらりふらりと家路へとつ
いた。冷たい秋風に目を細め、中天に輝く月を見上げる。
顔なじみのエルフ居住区の衛兵が、近衛旅団の制服を見て直立不
動で敬礼する。そう言えばこの制服でここを通るのは初めてだった
かと思いながら、文洋はおざなりに答礼して居住区へと入った。
﹁ただいま﹂
鍵を開ける、ふと、口をついて出た扶桑語でそう言って、アパー
トメントの扉を開く。
﹁おかえりなさい、フミ﹂
﹁⋮⋮?﹂
階段に一歩足をかけた所で、二階から声がする。
402
﹁今日は一人なんですね﹂
薄い緑の夜着と、ショールをまとったローラが、燭台を片手に降
りてくる。
﹁ローラどうして?﹂
﹁明日、王女殿下に晩餐会にご招待されたの、招待状、フミにも来
てたでしょ?﹂
晩餐会⋮⋮そんな話をした覚えがあるなと、文洋は﹃シームルグ﹄
でラティーシャ王女と交わした会話を思い出した。
招待状⋮⋮、そういえば三日前にレブログのアパートメントでえ
らく立派な封筒をデスクの上で見た気がする⋮⋮。
﹁王女殿下の招待状をほったらかしなんて、ほんとに大した近衛中
尉さん﹂
﹁ああ、ほんとだな﹂
文洋はポリポリと頭を掻いて苦笑いする。
﹁レオナは?﹂
﹁ちゃんと、皆一緒よ。今のあの子危なっかしいから﹂
ああ、ローラは何時だって正しい。
﹁でも、勝手なことをして、貴方を困らせたりしないわ、あの子も
貴族。義務と責任はよく判っているもの﹂
﹁まだ、子供なのにな﹂
それが、辛いのだ⋮⋮と言いかけ、文洋は小さくため息をついて
403
言葉を飲み込んだ。
﹁パーティーは楽しめた?﹂
﹁いいや、さっぱりだ﹂
﹁だと思った、少し食べるものを用意しておいたの、食べる?﹂
﹁ありがたい﹂
ローラが文洋の手を引いてキッチンへと連れてゆく、灯の落とさ
れた食堂で、テーブルに立てた燭台の火がゆらゆらと揺らめいた。
﹁夜遅いから少しだけですよ? 残りは明日の朝に﹂
そう言って、目の前にほうれん草のキッシュとローストビーフが
目の前に出されると、文洋は急に空腹感をおぼえた。
﹁うまい!﹂
﹁そんなに急いで食べなくても、ご飯は逃げたりしませんよ﹂
がっついてむせる文洋に、ローラが笑いながらマグに入った水を
差し出す。
﹁あと、今日は特別ですからね?﹂
ローラが立ち上がり、ガラスのボトルと木製のゴブレットを二つ
持って、テーブルに戻ってくる。トン、と置かれたボトルの中には、
どうやって入れたものか、リンゴがまるごと入っていた。
﹁私、お酒のことあまりわからないから、クラウスさんのオススメ。
美味しいんですって﹂
﹁そっか﹂
404
﹁特別ですからね?﹂
文洋の隣に腰を下ろし、注いで? と目で促されて、文洋はコル
クの栓を開けた。キュッっという音と共に、甘い、だがキリリとし
た香りが広がる。
新しいボトル独特の、トクトクという音を立てるアップル・ブラ
ンデーをゴブレットに三分の一ほど注いで、文洋はローラに手渡し
た。
﹁ありがとう﹂
﹁ん? ああ﹂
小さくゴブレットを掲げて、文洋は琥珀色の液体を流し込む。甘
い香りが鼻を抜け、熱い感覚が喉元を駆け下りてゆく。文句なしに
いい酒だ。
﹁んっ﹂
止めるまもなく、文洋の真似をして、ゴブレットを傾けたローラ
が、ケホケホとむせる。慌てて文洋が水の入ったマグを差し出すと、
ローラは涙目で流し込んだ。
﹁無理をするから﹂
﹁だって、フミが美味しそうに飲むんですもの﹂
立ち上がり、咳き込むローラの背をさすってやる。
﹁大丈夫?﹂
涙目のローラが頷く。 405
﹁強い酒だから、こうやって飲むといい﹂
そう言って文洋は水差を取って薄めてやる。恐る恐るといった体
で水割りにされたアップル・ブランデーに口を付け、ローラが今度
はニコリと笑う。
﹁美味しいですね﹂
﹁そうか、よかった﹂
しばらく無言で並んで酒を飲む。ローラはちびりちびりと、文洋
は煽るように⋮⋮。三杯ほど飲んだだろうか、ローラがふと立ち上
がった。
文洋の後ろに回り込み、ローラが背中に身体を預けるようにして
もたれかかる。ぐっと抱きしめられた文洋の頬を長い髪がくすぐり、
薔薇油の香りがふわりと漂った。
﹁ねえ、フミ﹂
柔らかな感覚と、アップル・ブランデーの酔いに身を任せ文洋は
目を閉じた。背中に伝わるローラの体温で、心の中から黒く、尖っ
たものが抜けてゆく感覚が心地よかった。
﹁うん?﹂
﹁いいんですよ? 一人で頑張らなくても、大丈夫です﹂
﹁ローラ⋮⋮﹂
スルリと文洋の首に腕を掛け、クルリと回って猫のようにローラ
が膝の上に座る。
406
﹁疲れた時は、弱音を吐いてもいいんです﹂
窓から差す月明かりに照らされた翡翠の瞳が、文洋の心の底を見
透かすように覗きこむ。
﹁俺は⋮⋮﹂
それが怖くて、文洋は目を閉じた。
﹁いいんです、フミ﹂
暖かな手のひらに頬をなでられ、文洋は目を開けた。優しい笑顔
に不意に目頭が熱くなる。ごまかそうとして上を向きかけた所で、
ぐいと、ローラに抱きしめられ唇を奪われる。
コトン、カラカラカラ
ゴブレットが文洋の手を離れ、テーブルを転がった。一瞬⋮⋮そ
して永遠の数秒が過ぎ去り静寂が訪れる⋮⋮。蒼い月の光の中、虫
の音が響き始めていた。
§
﹁どうぞ、こちらへ、お久しゅうございますローラ様﹂
﹁お久しぶり、ヘンドリクス、調子はどう?﹂
﹁この通り、まだ鎧を着るくらいには﹂
顔見知りなのだろう、ローラがにこやかに尋ねると、時代がかっ
た胸甲の老騎士が相好をくずしてそう言った。
407
﹁こちらは、フミヒロ、フミヒロ・ユウキ中尉﹂
﹁存じ上げております、姫様が大変お気に入りのご様子﹂
﹁駄目よ、私の旦那様なんですから、あげませんからね?﹂
﹁ハハハ、お伝えしましょう﹂
呵々︽かか︾と笑いながら、老騎士が先を歩く。着慣れない正装
にホワイトタイの文洋は、ぎこちなくローラをエスコートして後に
続いた。
﹁時間までこちらでご歓談を﹂
﹁ありがとう、ヘンドリクス﹂
通された広間にはすでに、何人かが先に来ており、それぞれ挨拶
を交わしていた。雰囲気から察するに全員がそれなりに知り合いの
ようだ。
ローラの紹介で幾人かの貴族に挨拶しながら、文洋はなんだか実
家の正月の寄り合いを思い出していた。
﹁ローラ﹂
奥の扉が開くと、トトっと軽い足音がして、ラティーシャ王女が
ローラのところに駆け寄ってきた。
﹁まあ、殿下、大きくなられて﹂
﹁ちっとも来てくださらないんだもの、大きくもなってしまいます﹂
今日はプライベートということなのだろう、神官服ではなく女の
子らしい水色のドレスを着たラティーシャがそう言って笑った。
﹁中尉、ローラったら酷いのよ? 何度ご招待しても来てくださら
408
ないの﹂
そう言えばローラのアパートメントに下宿して三年になるが、一
度も正装で出かけたのは見たことがないなと、文洋は怪訝に思う。
﹁でもいいわ、次からはユウキ中尉と一緒にご招待しましょう、そ
うしたら来てくださるのよね?﹂
ローラもあまりこういう場所が得意ではないのだろう、どちらか
といえば一人静かに暮らしている印象しか無い。なら、今回は自分
の為に来てくれた⋮⋮という事なのだろうか。
﹁私は何時でも、妻は時々。それではいけませんか?殿下﹂
むぅ、と子供のように膨れ面をしてから、年齢相応の少女らしい
笑顔をみせて、ラティーシャ王女がニコリと笑う。
﹁いいわ、中尉、主賓は貴方なんですから、今日のところはそれで
許してあげます。さ、ローラ、お祖母様とお祖父様が、ずっとお待
ちよ? 中尉、奥様をお借りしますからね?﹂
文洋が頷くのを見て、ローラが王女に手を引かれ去ってゆく。自
分のための機会だというなら、なるほど、無駄にしてはいけないだ
ろう。背筋をのばして文洋はあたりを見回した。コネはあっても邪
魔にはならない。
ヒュードラ
﹁ふむ、九頭蛇殺しの英雄が来るというので、残っておったが、昨
晩の﹃飴玉の君﹄とはな﹂
聞き覚えのある声と共に、ツンと後ろから裾を引かれて文洋が振
409
り返った。真紅のサテンのドレスに紅玉の瞳、セミロングの金髪は
今日は左右で結ばれている。
﹁こんばんは、えーと、スカーレット﹂
﹁今日は少々、晴れ晴れとした顔をしておるな、﹃飴玉の君﹄﹂
﹁そうかな?﹂
﹃飴玉の君﹄というのは、名誉なのか不名誉なのか、と思いなが
ら文洋はとぼけてみせる。 レイス
﹁昨夜なぞ、思いつめた幽霊のような面じゃったが、良いことでも
あったか?﹂
﹁すこしばかり﹂
わらわ
﹁そうか、それでもまだ悩みがあるようじゃがの、言うてみるがよ
い、妾が力になってやろうぞ﹂
不思議な少女だと思いながら、文洋は射抜くような瞳を見つめ返
す。首の後ろにチリリと電気が走った。やられたと判っていながら
も、視線が外せなくなる。
ドラゴン・ネスト
﹁あらあら、フミ、赤竜城塞の公女殿下に何かご無礼を?﹂
その時、いつの間に戻ってきたのか、後ろからローラに声をかけ
られた。不意に身体が自由になり、文洋は我に返って振り向く。
﹁おお、スェルシ・ハーラの次女か、大きくなって、親父殿は息災
か?﹂
﹁ええ、殿下、つつがなく﹂
﹁そうか、なに、今日の主賓がなんぞ悩み事がありそうな顔をして
いたのでな﹂
410
翡翠の瞳を細め、ローラが公女に冷たい笑顔を向けて言い放つ。
﹁では、ご助力頂きたいときにはご連絡をいたします。その時はお
力添えを﹂
﹁おお、怖い怖い。安心せい、取って食いはせぬよ、少々恩がある
でな﹂
後でな、﹃飴玉の君﹄と無邪気に手を振って、スカーレットが去
ってゆく。ローラにぎゅっと、尻をつねられて、文洋は飛び上がっ
た。
﹁っつ!﹂
﹁だめですよ?フミは私の旦那様なんですから﹂
﹁いまのは?﹂
﹁誰だか知らずに話してたんですか? 片翼の赤竜、スカーレット
公女殿下﹂
呆れたようにローラが文洋を見上げる。
﹁あんな小さな子に、ずいぶんと物騒な二つ名だな﹂
﹁いえ、小さい子のフリをした、大きな古代竜ですよ?﹂
あまりのデタラメさに、文洋は息を呑んだ、王都に出てきた青竜
と並んで、片翼の赤竜といえば、テルミアのお伽話に出てくる有名
な古代竜だ。
﹁なあ、ローラ﹃飴玉の君﹄は名誉なのか?﹂
﹁そうですねえ、確か、シルヴェリアの英雄王は、﹃揚げパンの君﹄
だったはずです﹂
411
英雄王の﹃揚げパンの君﹄より、﹃飴玉の君﹄の方がちょっと良
いかと思っている自分が可笑しくなって、文洋は微笑みながらロー
ラの手を取ると、晩餐会場へと歩みを進めた。
412
紅薔薇と暗黒卿
﹁ん⋮⋮﹂
柔らかいものが首筋に触れる感覚でレオナは目を覚ました。時計
を見ると明け方の四時を指している。
﹁クリオ、くすぐったい﹂
枕元で頬に頭をこすりつける子猫に、レオナは毛布の端を持ち上
げてやる。灰色の子猫が隣にスルリと潜り込んできた。
﹁ねえクリオ、私、どうすればいいと思う?﹂
誰にも言えないその問いかけをレオナは口にした。
﹁にゃう﹂
呼ばれた子猫が緑の目を輝かせ、伸ばした手にじゃれついてくる。
目を細める子猫をしばらくなでてやってから、レオナはベッドから
抜けだし、カーテンを開けて窓の外を眺めた。まだ暗い町にガス灯
が揺らめいている。
﹁うにゃう﹂
せっかく一緒に寝ようと思ったのに! そんな顔を毛布から覗か
せて、子猫が抗議するように声を上げる。
413
﹁ごめんね、クリオ﹂
そう言って手を伸ばしたレオナの胸元に、嬉しそうに灰色の毛玉
が飛び込んできた。
﹁大丈夫、どこにも行かないわ﹂
喉を鳴らす子猫の暖かさに微笑んで、レオナは再び窓の外を眺め
る。まだ暗い空に、細い三日月が浮かんでいた。 自分一人では、
弟の元にたどり着くことすら出来ない⋮⋮なんて無力なのだろう。
﹁ねえ、クリオ?﹂
﹁うにゃう?﹂
﹁ルネは許してくれるかな⋮⋮﹂
ぶるり、と寒気がして身体が震える。寒さと、冷たい夜の押し寄
せるような静けさに恐怖を感じて、レオナは、クリオを抱いてベッ
ドにもどった。
暖かさの残る毛布の中に潜り込んだレオナの首元でクリオが丸く
なる、柔らかな毛並みを感じながら、レオナは目を閉じた。
ゴロゴロゴロ
クリオの喉を鳴らす音に隠れて、音を潜めた足音が廊下を遠ざか
ってゆく。
⋮⋮忠義者で心配性のクラウス⋮⋮大丈夫よ、一人で何処かに行
ったりもしないから⋮⋮。
毛布をぎゅっと握りしめて、レオナは小さく嗚咽を漏らす。
414
ゴロゴロゴロ
喉を鳴らし、レオナの頬に顔を擦りつけるクリオを撫でながら、
レオナは一人、涙を流した。
§
ホー⋮⋮ヒー⋮⋮ホー⋮⋮
ボースンコール
照文がタラップに足を書けた途端、号笛が鳴り響いた。艦長とは
言え中佐程度が乗艦するときに鳴らす号笛ではない。
﹁山中、俺は何時からそんなに偉くなった?﹂
﹁今の所、派遣軍で中佐より偉い方は居ないようですし、良いので
はないですか?﹂
照文のボヤキに、アタッシュケースを持って後ろから付いてくる
山中少尉がそう言って笑った。
﹁しかし、テルミアの海軍工廠の連中が乗り込むとは聞いていたが、
えらく多いな﹂
﹁コレ幸いと、新技術の実地試験する気を隠そうともしてないです
ね﹂
さがら
山中少尉の言う通り、﹃相楽﹄にはテルミアが試験的に採用した
技術が大量に用いられていた。極東の新興国から受注した艦で実験
というのだから、なかなかに良い御身分だ⋮⋮と照文は思ったが、
扶桑には残念な事に、実験するだけの技術すら無いのも事実だ。
415
﹁いずれにせよ、間違いなくここ五〇〇マイル四方では、艦長は扶
桑海軍で一番偉いですよ﹂
﹁そうか、俺が司令官兼任なのだな﹂
誰にいうとでもなく小さくつぶやき照文が見上げた甲板で、濃い
紺色の扶桑海軍制服を着たの水兵と水色のツナギを着たテルミアの
技術兵が、出港準備に走り回っている。
﹁失礼します、艦長!﹂
タラップを登り切った所で、桜をかたどった軍章の下に、機関兵
を意味する青色の識別章を付けた二等水兵が駆け寄ってきた。
﹁どうした?﹂
緊張した面持ちで敬礼する水兵に、照文は答礼して尋ねる。
﹁じ、自分は機関科の狭山であります、き、き、機関長の田山中尉
より伝言を預かってまいりました﹂
田山は確か、撃沈された﹃青葉﹄の機関長だった男だ、経験豊富
な士官のはずだが⋮⋮と、怪訝に思いながら、カチコチに固まって
いる水兵にニコリと笑ってみせる。
﹁二等水兵、君は初年兵か?﹂
﹁はっ、い、いいえ、三年目であります﹂
﹁なら、落ち着いて話せ、固くなることもない﹂
狭山二等水兵が、照文の様子に毒気を抜かれたような顔をして深
呼吸すると、言葉を継いだ。
416
﹁現在、新式の機関の説明を、テルミアの技術者から受けておりま
すが、機関科にテルミア語の判るものが機関長以外おりません、航
海科にお聞きした所、山中少尉が語学堪能とお聞きしまして﹂
今にも緊張で泣きそうな顔の二等水兵の肩を、バンと叩いて、照
文は山中少尉に向き直る。
﹁山中﹂
﹁はっ﹂
﹁航海長には俺から言っておく、本作戦中は田山中尉が必要とする
限り、機関科の補助をしてやれ﹂
﹁りょ、了解しました﹂
派遣が長引くようなら、兵たちに語学の研修も必要かもしれない
な⋮⋮。アタッシュケースを照文に渡し、水兵の後を小走りについ
て行く山中少尉の背を見ながら、照文はそう思った。
﹁艦長、出港準備終わりました﹂
ブリッジに入って小一時間、伝声管でやりとりしていた岡西航海
長が、安堵のため息を付きながら照文に報告してくる。
﹁結構かかったな、原因は?﹂
﹁は、新型の機関の取り扱いによるところが大きいかと思われます﹂
﹁そうか、すまないな、科員を勝手に借りて﹂
照文より十歳以上年上の航海長が、照文の感謝の言葉に意外だと
いう顔をしてから、ニヤリと笑う。
417
﹁いえ、お役に立てて光栄です、艦長﹂
﹁航海長、航海科でテルミア語の判る者は何名だ?﹂
﹁は、山中少尉を含め、四名おります﹂
﹁砲雷長?﹂
﹁うちには三名、あとは船務科に一名堪能なのが﹂
自分と医官を入れて、二〇人に一人といったところか⋮⋮、希望
者に勉強会でも開いてやろう、そう思いながら照文は居並ぶ艦船に
目をやった。
今回の任務は、﹃相楽﹄の慣熟訓練を兼ね、旧式の戦艦を旗艦に
六隻の艦隊によるレシチア諸島への砲撃任務だ。
﹁テルミア海軍、戦艦﹃ラクリマス・エラ・テルミア︵テルミアの
涙︶﹄より信号、各艦、抜錨五分前﹂
見張り員が発光信号を大声で叫ぶ。
﹁抜錨準備!﹂
ソーフ
ウィンチが鎖をたぐり寄せ、ジャラリと金属音が響く。水兵たち
が掃布で鎖を拭おうと駆け寄ってゆくのを見ながら、照文はまっす
ぐに朝焼けに染まる海を見つめた。
扶桑海軍テルミア派遣部隊が全ての艦を失ってから二ヶ月。風の
月五日、〇六三五時、再び、この中つ海に軍艦旗をはためかせ、我
々はここに帰ってきた。
﹁抜錨完了!﹂
﹁両舷前進、微速﹂
﹁アイ、サー、両舷前進、微速﹂
418
テルミア初の軍用蒸気タービンが音もなく船を押し出し、﹃相楽﹄
が滑るように海面を加速してゆく。
﹁﹃ラクリマス・エラ・テルミア﹄より信号! 宛、本艦。﹃我等
の海へようこそ、歓迎する﹄﹂
今度は自分の目でも発光信号を読んでいた照文が、通信士に返答
文を指示する。
﹁返信、﹃感謝を、我等、王女殿下の剣とならん﹄﹂
﹁復唱、返信﹃感謝を、我等、王女殿下の剣とならん﹄﹂
単縦陣の最後尾、メインマストに戦闘旗をはためかせ、﹃相楽﹄
は滑るように加速する、朝焼けが穏やかな海を紅に染めてゆく。
ブリッジに立って照文は東の空を睨みつけた。どういう結果にな
っても、自分は復讐の鬼となろう。命を賭した者達の為に⋮⋮。朝
焼けの空の下、白波を立て﹃相楽﹄が征く。前へ、前へと。
§
﹁奥様﹂
ノックの音に、ブランデーのグラスを片手に外を眺めていたロー
ズが我に返った。
﹁どうしたの?ジェームス﹂
﹁ガリウス伯から、返信がまいりました﹂
﹁そう、入って﹂
419
グイと残った酒を飲み干しローズが立ち上がる。ジェームスが小
さなクリスタルの筒を持って、執務室に入ってくる。
﹁えらく早い返事ね﹂
﹁向こうにも、何か事情があるのでしょう﹂
ストーンレター
ローズが差し出された琥珀色のクリスタルを手に取る。石の文と
呼ばれる古い魔法だ。手紙を石に変え、渡すべき相手に渡った時に
のみ、石は元の手紙へと戻る。
魔法が全盛の時代、貴族の密使たちの間でこれが流行った頃は、
解呪のために手首を切られたものが多数出たというが、暗号と電信
が主な手段となった今では、この魔法も失われつつある。
﹁あらあら﹂
ローズが、呆れたように呟いた。手に取ったクリスタルの筒が輝
いて解呪された途端、手紙二枚に加え、一枚三フィート四方はあろ
うかという大きな羊皮紙が五枚、姿を現したからだ。
﹁随分と多いですな﹂
ジェームスも目を丸くして羊皮紙の束を見つめた。
﹁ええ、コレだけのものを圧縮するのはホネでしょうにね﹂
時間と魔力が有り余っているローズ達ならともかく、定命の人間
がこの枚数を変性させるには大きな魔力が必要になる。赤水晶の使
い手が数多くいるアリシアにしても、相当の使い手でないと無理だ
ろう。
420
﹁おじ様と同じく、ルデウスに失脚してほしい方が、四騎士の中に
でも居るって事かしらね﹂
﹁属性は光、迂闊に素手で触った私の手が焼け落ちるところでした、
奥様﹂
﹁うそをおっしゃい、全盛期の私でも、精々貴方の前髪しか焦がせ
なかったのに﹂
﹁ですが、奥様は美しさで私の心を焼きつくしたではないですか﹂
世辞に、もういい、と手を振って答えと、ローズは株取引関連の
事案が描かれた小さな羊皮紙を二枚引き抜いて、のこりの五枚をジ
ェームスに手渡した。 ﹁それで、ジェームス、それは、坊や達の役にたつような物かしら
?﹂
﹁船の通路図面ですな﹂
パラリ、パラリと図面をめくりながら、ジェームスがふむ、と手
を止める。
﹁北壁の騎士、セプテントリオンのご子息が居るとすればここでし
ょう﹂
白い手袋を嵌めた指でジェームスがトントンと図面を叩く。横か
らヒョイと覗きこみ、ローズはため息をついた。
﹁その司令室の中央を見ると、嫌気がさすわね⋮⋮﹂
ジェームスの指差す先に、大きな台座が置かれ、台座の上に巨大
な球形の物体が描かれている。
421
ソーラ
・セカレ
﹁第二の太陽ですか﹂
﹁昔、アリシアの王宮の広間で見たことがあるわ、アリシアの地下
に眠る、古代の魔法都市からの発掘品﹂
﹁千年にわたり、アリシアに伝わる国宝、巨大な赤水晶⋮⋮でした
かな?﹂
﹁そうね、普段は王宮の広間で、永遠に消えない灯として飾られて
いるはずだけれど﹂
人の歴史とその宝物を欲望のために利用し、あまつさえ幼子を戦
に巻き込む。昔から繰り返された良くある事だ。長く生きれば生き
るほどに、嫌と言うほど見てきた。
マム
﹁お怒りですかな?女卿﹂
﹁そうね、でもまあ、私が坊や達を助けてあげるのはここまでかし
ら﹂
﹁相変わらずお厳しい﹂
﹁何を言ってるの、我が愛しの暗黒卿、若者は苦労しなくては﹂
ニコリと笑ってローズは手にした羊皮紙をジェームスに差し出し
た。
﹁図面の写しを三部おねがい、こっちの手紙は処分していいわ﹂
﹁御意﹂
ジェームスの手の中で、二枚の羊皮紙が、青白く冷たい炎をあげ
て舞い散った。綺麗⋮⋮と少女のような事を考える自分が可笑しく
て、ローズはグラスにブランデーを注ぎながら、窓の外に目をやり
微笑んだ。
422
423
猟犬と家族
﹁ようフミ、どうした、難しい顔して?﹂
待機所の片隅、ダークエルフ達が陣取る一角で文洋が新聞を読ん
でいると、いつもの調子でブライアンがやってきた。
先日行われた再編成の際に、生き残りの中では最先任ということ
で、ブライアンも中尉に昇進している。
﹁いや、何でも無い﹂
﹁ほら、コーヒー﹂
﹁ああ、すまん﹂
アルビオン
湯気の立つコーヒーを受け取り、文洋は一口飲んで新聞に目を戻
す。﹃巨人﹄はテルミアと扶桑の式典に嫌がらせに出てきて以来そ
の姿を潜め、ときおり輸送船を襲っては、なぜかその中の数隻だけ
を沈めるという行動を繰り返していた。
﹁ウォルズ中尉﹂
﹁俺達だけの時はブライアンで構わんよ、フェアリード少尉﹂
﹁じゃあ、あたしもラディアでいいよブライアン。ユウキが辛気臭
いの、カビが生えちゃいそうだから何とかして﹂
ラディアがそう言って肩をすくめる。
﹁だとよ、フミ﹂
﹁そうか、そいつは悪かった﹂
424
新聞から目を話さず、文洋は生返事をする。
﹁ああ、もう!﹂
くしゃくしゃと頭を掻くラディアに、ブライアンが声を上げて笑
うと文洋に大判の分厚い封筒を差し出した。
﹁ほれ、ソールベルの叔母さんからだ﹂
﹁ん?﹂
﹁あとは、いいか? 何かやるときは俺も混ぜろ﹂
ひょい、と文洋から新聞を取り上げ、ブライアンが立ち上がる。
﹁仲間はずれはなしだぞ?﹂
親指を上げ、笑って立ち上がるブライアンを見送って、文洋は渡
された封筒を覗きこみ、言葉を失った。
﹁ユウキ、なにそれ?﹂
﹁内緒だ﹂
後ろから覗きこもうとするラディアに、軽くデコピンを入れる。
﹁あいた、もう、中尉のいじわる﹂
その様子に、ダークエルフたちからドッと笑い声が上がり、ラデ
ィアが膨れ面でそっぽを向いた。
﹁ユウキ中尉、ロバルト中佐がお呼びです﹂
425
少年兵の声に、渡された封筒を手に文洋は立ち上がり、拳を握り
しめた。⋮⋮少なくとも一歩前進だ、そう思いながら。
§
﹁さて、ユウキ中尉、私の元に魔術師協会を経由してこういうもの
が届けられた﹂
ロバルト中佐が金属製の筒から羊皮紙の束を取り出して机の上に
広げた。
アルビオン
﹁巨人の図面⋮⋮ですか﹂
﹁そうだ﹂ 手元の封筒の中身はこれの写しか⋮⋮と、文洋は双方に同時に届
けられた意味を考え、覚悟を決めた。
﹁私にもこれが﹂
がさり、と図面の写しを掴むと、文洋はマホガニーのテーブルの
上に図面を広げた。
﹁ほう﹂
ひそ
思案するように中佐が眉を顰める、サイドテーブルからシガーを
取り上げて指を鳴らした。ポッと指先に灯った鬼火でシガーに火を
付け、紫煙をゆっくりと吐き出し目を閉じる。
﹁誰かが我々をダンスに誘っているようだな﹂
﹁ええ﹂
426
﹁心当たりがあるのだろう、中尉?﹂
﹁⋮⋮﹂
文洋は黙ってロバルト中佐を見つめる。
﹁まあいい。それで、この招待状の主が君に求める者はなんだと思
うね?﹂
文洋は目を閉じて考える。だれが何処まで信用できるのか、そし
て何をするべきなのかを。
﹁ルネ・エル・セプテントリオンの救出﹂
目を見開き文洋は中佐を見据えて答えた。
﹁なるほど、それでアテはあるのかね?﹂
﹁前回のようには行きませんが、移乗戦闘ならばあるいは﹂
﹁あの鉄壁の魔法防御をかいくぐってか?﹂
文洋は小さく頷いた。
﹁三人、わたしを含めて三人であれば﹂
﹁その非常に分が悪い賭けには、空軍の運命はのせられんな﹂
当然だ⋮⋮と文洋は思う。一人の少年の命と一国の空軍では釣り
合うはずもない。
﹁中佐、我々が取り付くまで、三都連合の戦闘機から守って頂けれ
ば、あとは撤退して頂いても結構です﹂
﹁そこまでする価値が?﹂
427
﹁家族を取り戻すのに、価値や理由など意味がないでしょう﹂
文洋の言葉に中佐が笑って頷いた。灰皿の上にシガーを置くと、
ぜんげん
クリスタルのボトルを取り上げ、二つのグラスにウィスキーを注ぐ。
アルビオン
﹁巨人艦載機の漸減、私の権限でここまでなら協力してやろう﹂
﹁ありがとうございます﹂
ずい、と突き出されたグラスを受け取って、文洋は一息に煽った。
﹁あの防御魔法陣がある限り、手が出せないのも事実だからな﹂
﹁ただ問題は⋮⋮﹂
そういって、文洋は机に広げた図面を集めて封筒に戻し始める。
アルビオン
﹁ああ、巨人が出てこない限り、捕まえようがない。それが一番の
問題だな﹂
文洋の言葉を継ぐように中佐がそう言ってウィスキーを煽った。
§
冷たい夜風に吹かれながら、文洋はレブログの小高い丘の上に建
つアパートメントに戻ってきた。
﹁おかえりなさいませ、フミヒロ様﹂
﹁ああ、ただいまシェラーナ﹂
呼び鈴を鳴らし、出てきたメイド姿のシェラーナにコートを渡し、
文洋がダイニングへと向かう。
428
﹁おかえりなさい、早かったのねフミ﹂
﹁ただいま、ローラ﹂
テーブルでお茶を飲んでいたローラの向かいに、文洋はそう言っ
て腰掛けた。
﹁シェラーナ、シチューを温めなおしてくれる? 食べるでしょう
? フミ﹂
﹁うん﹂
クラウスの大きな手が手際よく皿を並べてゆく。茹でた秋野菜に
鴨のソテー、チーズ入りなのだろう、甘いの香りのするシチュー。
見覚えのあるラベルの赤ワインには﹃ウォルズ﹄の銘が入ったラベ
ルが貼られていた。
﹁レオナは?﹂
アルビオン
ローラが首を横に振る。﹃巨人﹄の写真を見て以来、ふさぎ込み
がちなのは文洋も知っていた。
﹁そうか﹂
文洋は黙々と料理を食べる。料理の暖かさが身体を駆け巡るのと
裏腹に、なぜか美味しいと思えなかった。
﹁フミ⋮⋮?﹂
そんな文洋を、何も言わずに見つめていたローラが、最後の一欠
片を赤ワインで流し込んだ所で口を開いた。
429
ああ、どうしてローラには隠し事が出来ないのだろう⋮⋮。ロー
ラに見据えられ、文洋は覚悟を決める。
﹁ごちそうさま﹂
扶桑に居る時から癖になってしまっている食後の挨拶をして、文
洋はカバンがから封筒を取り出した。
﹁クラウス、ちょっと来てくれ﹂
シェラーナが空いた皿を片付け、コトンとコーヒーカップを置い
て立ち去ると、入れ替わりに前掛けを畳みながら、クラウスがテー
ブルにやってくる。
﹁これは⋮⋮?﹂
アルビオン
数枚の写真と、﹃巨人﹄の通路図面、縦六層からなる甲板と通路
図面にクラウスが目を丸くした。
﹁見ての通り、ルネが囚われているアリシアの空中戦艦だ﹂
﹁どこからこのような物を?﹂
コーヒーを一口飲んでから、文洋はクラウスの質問に黙って首を
横に振る。知らない方がいい事もあるのだ。と、目で訴えた。
﹁これを何とか、手の届くところにおびき出して、乗り込みたい、
知恵を貸してくれないか﹂
文洋はそう言って、ローラとクラウスを見る。
430
﹁フミ⋮⋮この戦争は貴方にとって何ですか?﹂
両手で包みこむようにカップを持ったローラが、文洋をそう言っ
てまっすぐに見つめてくる。透き通った翡翠色の瞳が、心の奥底ま
で見透かすように、静かに。
﹁最初は、空を飛ぶための口実だった﹂
ウソは言うまい、そう思って文洋はローラを見つめ返す。
﹁次に仲間が出来た、だから彼らと共に飛んだ﹂
ぬるくなったコーヒーを一息に流し込む、カップを置くと同時に、
クラウスがおかわりを注いでくれた。
﹁ありがとう﹂
いいながら、文洋はローラ、クラウス、そしてキッチンで食器を
洗うシェラーナと順番に目をやりながら文洋は答える。
﹁そのうち、こうして家族ができた。チグハグで寄せ集めで、それ
でも俺にとって家族と思えるものが出来た﹂
﹁ユウキ殿⋮⋮﹂
目をうるませる髭面の大男にニコリと笑って、文洋はローラに目
を戻す。
﹁だから、この戦争は、俺の家族を守るための戦争だ﹂
じっと何も言わずに、自分を見つめるローラを、文洋もじっと見
431
つめ返した。カチャカチャとキッチンからシェラーナが皿を洗う小
さな音だけが聞こえてくる。
トンッ、カリカリカリ
会話が途切れるのを待っていたように、廊下で小さな音がした。
﹁入っていらっしゃい、レオナ﹂
カチャリ、扉が開く。トテトテトテ、軽い足音を立てて灰色の毛
並みの子猫が部屋に駆け込むと、ローラの膝の上に飛び乗って、得
意げな顔で﹁にゃう﹂と鳴いた。
﹁そうね、クリオも家族ね﹂
顎の下を撫でられて、目を細める子猫の表情とは裏腹に、浮かな
い顔のレオナが裸足で入ってくる。
﹁フミ⋮⋮﹂
﹁こっちにおいでレオナ﹂
隣の椅子を指して、文洋はレオナを呼び寄せた。
﹁シェラーナ、レオナにお茶をいれてあげて﹂
ローラがそう言って立ち上がり、レオナの後ろに回って少女を抱
きしめる。
﹁レオナ、私は止めないわ﹂
432
ローラの言葉にハッとしたように、レオナがローラと文洋の顔を
交互に見つめる。そんなレオナに文洋は問いかけた。
﹁レオナ、もしあの船を守っているのがルネだったとして、﹃スレ
イプニール﹄で近づけると思うかい?﹂
﹁ええ、きっと﹂
レオナの紫色の瞳が、文洋を覗きこむ。
﹁どうしてそう思う?﹂
﹁私が乗った﹃ルウス・デュオ﹄と同じ﹃水晶宮﹄が付いているの
なら、必ずルネは私達を見つけるもの﹂
テーブルの上に広げられた図面、艦橋の二層下をレオナが指さし
た。艦橋の二倍ほどのスペースに﹃水晶宮﹄、と整った筆記体で描
かれている。
﹁そして、あの子が﹃スレイプニール﹄を見間違えるはずはないか
ら﹂
そしてそのまま、スッ、と指をずらしたレオナが絞りだすように
言葉を継いだ。
﹁クラウス、愚かなのは執政官だけでは無かったみたい﹂
・セカレ
﹁そのようですな、お嬢様﹂
ソーラ
﹃第二の太陽﹄筆記体で描かれたそれを指し、クラウスが苦々し
げに吐き捨てる。
アルビオン
﹁それで、この﹃巨人﹄がやってくるのはいつなの、フミ?﹂
433
レオナを後ろから抱きしめていた腕をほどいて、ローラが文洋に
問いかける。
﹁わからん﹂
﹁判らないって、そんな﹂
失望を隠せないレオナに、文洋は頭を抱えテーブルに肘をついた。
﹁俺が思うに、奴は戦争を長引かせようとしてるんだと思う﹂
﹁どうして?﹂
文洋の言葉にレオナが問いかけてくる。
メリュ
・ジーヌ
﹁扶桑の艦隊が狙われた時、輸送船は戦況を一気に決められるほど
の兵士と弾薬を運んでいた﹂
﹁それで?﹂
﹁次に現れたのは、鹵獲した飛行空母﹃竜翼の乙女﹄と、ドラグー
ン隊が主戦場へ配備されるという情報を流した時だ﹂
顔を上げ、文洋はレオナの質問に答える。
アルビオン いくさ
﹁つまり、一度目も二度目も、巨人は戦の天秤があからさまにテル
ミアに傾くのを防ぐ為に現れた、ユウキ殿はそうおっしゃるのです
かな?﹂
ひげを撫で、クラウスがそう言ってむぅと唸った。
アルビオン
﹁ああ、そして、戦争が長引けば貿易で得をするのは、影で﹃巨人﹄
を動かすアリシアなのは間違いない﹂
434
﹁そんな⋮⋮、それでは執政官はお金の為だけに無為に人を殺して
いると?﹂
レオナの言葉に文洋は頷く。奪うべき領土も資源もない、自国の
経済活動のための戦争への関与、この世界における新しい戦争の形
だと言えるだろう。
﹁だから、天秤を傾けうるだけの何かを引っ張りだせば、きっとあ
れはまた出てくる、俺はそう思う﹂
﹁そんな大きな力など⋮⋮﹂
むう、とクラウスが再び唸る。沈黙が続くテーブルの真ん中に、
ドンと大きなアップルパイの皿が置かれた。
﹁ありますよ、お話を聞いてくれるかはわかりませんけど﹂
﹁え?﹂
サクサクサクと、パイを切り分けながら、ことも無げに言うロー
ラに全員の視線があつまる。
﹁とても強い力があれば良いのでしょう? シェラーナ、小皿を、
貴方もこっちにいらっしゃい﹂
﹁はい、奥様﹂
シェラーナが全員にお茶を注いで回る、我に帰ったようにクラウ
スがパイを小分けして配ってゆく。
﹁えーとローラ?﹂
文洋がローラに問いかける。
435
﹁難しいお話は後です。折角の家族会議なのですから、みんなで頂
きましょう、クラウスも、そこにかけなさい﹂
﹁いえ、しかし奥様、私は﹂
﹁ク・ラ・ウ・ス?﹂
﹁はい⋮⋮、奥様﹂
主人に怒られた犬のように、シュンとするクラウスにレオナがク
スリと笑う。ローラがあるというのだ、ならば何かあるのだろう。
﹁すこしだけですよ?﹂とアップルブランデーを出してくれるロ
ーラを見ながら文洋はダイニングを見回した。
ニコニコと笑うローラに釣られたように、皆の表情が明るくなっ
た。いつの間にきたのか、文洋の膝の上で、灰色の子猫がフンフン
と鼻を鳴らしてパイの匂いをかぐと、﹁にゃうな﹂と声をあげる。
﹁ああ、そうだな、お前も家族だ﹂
そういって子猫の頭をなでる。チグハグで寄せ集めで、そんな家
族だからこそ、自分がこれを守るのだと、文洋は決意を新たにした。
436
飴玉の君と揚げパンの君
﹁よう、フミ、聞いたか﹂
﹁ああ、海軍は空軍が出張るのが気に入らないようだな﹂
アルビオン
﹃巨人﹄の設計図を受け取った翌日、ラダル炭鉱北端に空軍基地
を設けるという作戦案が、海軍の強い反対で却下されたという記事
がテルミア・タイムズ紙にすっぱぬかれた。
基地建設が現実となれば、異動となるのは恐らく、テルミア空軍
アルビオン
でも最大の機数を保有するハウンドドッグ隊だ。そんな訳でレブロ
ジーヌ
グ空軍基地の中でもちょっとした話題となっていた。
メリュ
﹁前回、﹃竜翼の淑女﹄をエサにつり出した時に、﹃巨人﹄が出て
きたのが効いてんだろうな﹂
﹁ああ、俺達が出て行くと、﹃巨人﹄が出てくるかもしれない、そ
うなると足の遅い海軍が的になる、そういう判断だろう﹂
﹁だが、﹃巨人﹄を叩かなきゃ、戦争は終わらない⋮⋮か?﹂
ブライアンがそう言って胸ポケットからシガレットケースを出し
火を着ける。差し出されたシガレットケースから一本貰い、文洋も
大きく吸い込んだ。
﹁なあ、ブライアン、俺の兄貴の話しだと、相手は重巡の主砲すら
跳ね返したそうだ﹂
﹁俺達の機銃じゃ、豆鉄砲もいいとこだな﹂
﹁おまけに空まで飛べるんじゃ、海軍では手に負えない﹂
﹁海軍の連中に後始末を任せるにしても、とりあえず奴を空から落
とさないとな﹂
437
﹁ああ﹂
それにはまず、前に出てきてもらわないことには、どうにもなら
アルビオン
ない⋮⋮、文洋はもう一口大きく吸い込んで考えこむ。ローラは﹃
巨人﹄を引きずり出せると言った。戦況を左右するだけの大きな力
は、まだあるのだと⋮⋮。
﹁ユウキ中尉、お電話が入っています、三番です﹂
少年兵の声に文洋は手を上げて立ち上がり、部屋の奥の電話口へ
と向う。
﹁ユウキだ﹂
﹁やあ、﹃飴玉の君﹄、ごきげんはいかがかの?﹂
取り上げた受話器の向こうから、どこかで聞いた妙に古風なテル
ミア語が響いた。
﹁あまり良くはない⋮⋮ですね⋮⋮、スカーレット公女殿下?﹂
﹁うむ、よう覚えておったの、殊勝なこころがけじゃ﹂
長距離回線なのだろうか、雑音の向こうでカラカラと笑うスカー
レットに、文洋は嫌な予感がする。こちらに来てからというもの、
ドラゴン・ネスト
行動力のありすぎる女性ばかりだ。今度は何か? と疑りたくもな
る。
わらわ
﹁今、どこに?﹂
﹁ああ、妾か、﹃赤竜城塞﹄の執務室じゃよ、仕事仕事と爺がうる
そうてかなわん﹂
438
その解答に、受話器から老人の大声が漏れ聞こえ、文洋は吹き出
した。
﹁それで、公女殿下が、私に何のご用です﹂
受話器の向こうで言い合う二人の声が収まるのを待って、文洋は
改めてスカーレットに問いかける。
﹁ああ、それなんじゃがな、お主の奥方から今朝がた手紙が来ての、
なんでも、﹃サイクロプス﹄だか﹃ギガント﹄だかを、お前さんが
アルビオン
狩るとか⋮⋮、あやつら大陸ではとうに滅びたと思っておったが﹂
﹁ああ、﹃巨人﹄の事ですか?﹂
﹁おお、そうじゃそれじゃな⋮⋮そ、それくらいは、知っておった
ぞ?﹂
﹁それで、ローラはなんと?﹂
受話器の向こうでクククと童女が笑う声を聞いて、文洋はこめか
みを抑えた。これは⋮⋮厄介事の種の予感だ⋮⋮。
﹁ふむ、お主が困っているので助けてやってはくれまいか、と﹂
﹁それで、公女殿下が私を助けてくれるのですか?﹂
ドラゴン・ネスト
テルミアの北方、﹃赤竜城塞﹄は北方の山岳地帯にある小さな公
国だ。むしろ城塞都市と言ったほうがしっくり来るだろう。
だが、元首の一存で動くほどの小国家とはいえ、一国が肩入れし
たとあっては三国同盟に宣戦布告したのと同じ事になってしまう。
わらわ
﹁そうじゃな、妾の願いをいくつか聞いてくれたら、助けてやって
もよいかの﹂
﹁お願いですか?﹂
439
わらわ
わらわ
﹁ああ、そうじゃ。ラティーシャには妾が話を通してやる、とりあ
えずお主は妾のもとへ来るがよいぞ﹂
言うだけ言って、ガチャリと電話が切れた。
﹁だれからだ?﹂
席に戻った文洋に、ブライアンがそう言ってコーヒーカップを差
し出す。
﹁知り合いのお姫様からだよ﹂
﹁なんだよそれ、可愛い子なら紹介しろよ?﹂
ストン、と椅子に腰をおろして、文洋はコーヒーを受け取り一口
すする。まあ、なんにしろ、この調子では断ることはできなさそう
だ。そう思いながら。 §
ブラックラビッツ
何をどうやったのかはともかく、スカーレットから電話があった
ドラゴン・ネスト
フユーリー
翌日、文洋の元には一通の命令書が届いた。﹃黒兎隊﹄は練習機一
ドンガメ
機と﹃スコル﹄一機を﹃赤竜城塞﹄へ移送せよ、一名はユウキ中尉
が、残りの人選は任せるという内容だ。
バーニー
﹁それで、中尉、あたしはなんで整備屋を載せて、練習機を運んで
るのか、教えてくれないかね?﹂
﹁命令だからだよ、そもそもラディアは志願したんだ、文句は聞か
ないからな﹂
ウィンドウィスプ
安定性重視の練習機が退屈なのだろう、﹃風の囁き﹄でぼやくラ
440
ディアに言って、文洋は﹃スコル﹄の燃調を絞った。機体の大きな
練習機と違い、燃料タンクが小さい分次の着陸地点まで節約する必
要がある。
﹁ユウキ中尉、おやっさんから、しばらく帰れないから覚悟しとけ
って言われたんですが、俺は何処に連れてかれるんですか?﹂
ラディアが中継したのだろう、バーニー伍長の情けない声が文洋
の左隣、コックピットの縁に捕まるようにして飛ぶシルフから聞こ
えてくる。
﹁何だ、聞いてないのか?﹂
﹁今朝、基地についたら、おやっさんに、﹃試運転でちょくちょく
飛んでるから、おめえにするか﹄って、言われて、何がなんだかわ
からないまま、連れて来られたんっすよ? なんにも知りませんよ﹂
まあ、整備ができてテスト飛行とはいえ、操縦もこなせるとなれ
ば、今回の任務にはうってつけだとは言える。
﹁着いてからのお楽しみにしとけ﹂
﹁ひどいっすよ、中尉、ひどいっすー﹂
そう言いながらも、なんだか少し楽しそうなバーニーと、ラディ
アの笑い声を聞いて、文洋もつられて笑う。機嫌よく回り続けるエ
ンジンの声に耳を傾け、文洋は地図を開いて中継地点として指定さ
れた国境の町を目指した。
§
途中、テルミア王国と宗教と代々の血縁を通じて一体化してしま
441
った、エルフの統べる国、セレディア共和国領内を飛行し、グリフ
ォンにまたがった飛行騎士の誘導を受けて飛ぶという稀有な経験を
して、飛び続けること四日半、文洋達は無事﹃赤竜城塞﹄の数少な
い平地部分に作られた民間の飛行場にたどり着いた。
文洋達は、大陸最高峰の山々を背に、竜たちが魔法で岩山を削り
だした伝説の城塞都市のほど近く、民間飛行船用の八十ヤード四方
ほどの芝生の広場に機体を下ろした。
ドラゴン・ネスト
﹁中尉、ここは?﹂
﹁赤竜城塞﹂
﹁まじっすか? 同盟国ですらないじゃないっすか﹂
﹁まあ、そうなるな﹂
物珍しさに、物売りの少年から飛行船を待つ乗客と、大勢の野次
馬達に囲まれた文洋は、それでも管理棟らしき建物から黒塗りの大
型車がやってくるのを見逃さなかった。
﹁ほら、お迎えだ、ラディア、バーニー、しゃんとしろ﹂
飛行帽を脱いで髪をなでつける。慌てて文洋の後ろに横並びに整
列するラディアの額についたオイルを、スカーフの端で拭ってやる。
﹁ちょっと、くすぐったいよ中尉﹂
﹁我慢しろ、バーニー、帽子﹂
﹁あ、すんません中尉﹂
翼を広げた竜の紋章がドアに描かれた大型車が文洋たちの前に止
まると、運転手が後部ドアを開く。開くやいなや、中から真紅の旋
風が駆け出してきた。
442
﹁おお、これか、二機とはラティーシャも気が利くの﹂
﹁殿下だ!﹂
飛行機を見に集まっていた野次馬の最前列にいた、物売りの子供
が声をあげた。
﹁おお、フェルミの孫か、みな、元気にしておるかの?﹂
﹁うん、おばあちゃんが、殿下が揚げパン食べにこないって、寂し
がってたよ﹂
﹁爺がうるそうてな、また近いうちにゆくと伝えておくがよいぞ﹂
﹁殿下?﹂
﹁ええい、うるさい、民草の様子を知るのも領主のつとめじゃ!﹂
先日、夜会で手を引いていった老紳士が、目を白黒させて怒る様
子に、周りを囲む市民たちから笑い声が巻き起こる。
﹁フミヒロ・ユウキ中尉、以下二名、ラティーシャ王女殿下の命に
より、お伺いいたしました﹂
かしこ
ようやくこちらへ注意を向けたスカーレットに、文洋はそう言っ
て敬礼する。
わらわ
﹁なあに、そう畏まることもあるまいよ、あのエルフのじゃじゃ馬
娘が、妾に頼み込んでくるくらいに、惚れたというのじゃから、お
主はなかなか大したものじゃ﹂
そう言って、スカーレットがニカリと笑うと右手を差し出した。
﹁光栄です、殿下﹂
443
ローラと見た芝居の真似をして、差し出された手を取り、文洋は
くちづけようとぎこちなく膝を折る。途端、そのままグイと手を握
られ、スカーレットが一歩前にでると、文洋の頬にキスをした。
﹁殿下!﹂
声をあげる老紳士をからかうように、ペロリと舌をだし、スカー
レットが文洋の耳元で小さく囁く。
﹁この間の飴玉の礼じゃ、奥方には内緒にしておくがよいぞ﹂
そんな文洋の背後で、むう、とラディアの声がして、後ろから耳
を引っ張られた。
﹁いてて、こら、やめろラディア﹂
﹁くくく、なんじゃ、中尉殿はモテモテじゃの﹂
真紅のドレスの裾をはためかせクルリと回ると、スカーレットが
野次馬達に向き直る。
テールス
﹁そこな若者は、扶桑という、地球の果ての国から来ておってな、
今はテルミア王女の近衛だそうじゃ﹂
おお、と感嘆の声を群衆があげるのをみて、満足そうにスカーレ
ットが頷いた。
わらわ
おのこ
わらわ
﹁今日はわざわざ、妾の為にこの、空飛ぶ機械を届けてくれた、覚
けいし
えておくが良いぞ、この良き男子の名は、フミヒロ・ユウキ、妾が
この者に恵賜たる名は﹃飴玉の君﹄じゃ﹂
444
﹁殿下!?﹂
わらわ
﹁なんじゃ、爺、よいではないか、シルヴェリアの﹃揚げパンの君﹄
、英雄王ロスェンバルト以来、妾に何の欲もなく菓子をくれたのは
この男くらいじゃぞ? 騎士の位をくれてやっても良いくらいのお
人好しじゃ﹂
どうにも、褒められている気がしないのだが、当のスカーレット
には全く悪気がないのは明らかだ。
﹁とにかく、ようきた。とりあえずは休むが良い﹂
招かれるまま、黒塗りの豪奢な車に乗せられて、文洋達は城塞都
市の圧倒されるような石壁へと向かう。
文洋やバーニー、ラディアにちょっかいを出しては、老紳士に叱
られるスカーレットを見ながら、文洋は考える。
五百年以上前に、英雄王に﹃揚げパンの君﹄と名づけたこの、見
た目無邪気なこの公女殿下は、どれだけの物を見聞きしてきたのだ
ろう⋮⋮そのうえで、自分に何を求めるのだろうと。
445
片翼の赤竜と雷の青竜
到着から丸一日、休息を与えられた文洋達は、翌々日の午後、ス
カーレットに呼び出された。
﹁どうじゃった? 我が城下町は﹂
﹁石造りの荘厳な街ですね、あとは街の人たちが明るい﹂
わらわ
﹁じゃろ? 古くは我が祖父が、新市街は我が父の代の作でな、建
築のセンスの無い妾では、ああはいかん﹂
そう言って、スカーレットが胸を張る。この童女でさえ、五百年
ほど前の書物に名があるというのに、それの祖父の時代となると、
もはや文洋の国では神代の時代だ。
﹁あと、ドワーフをやたらと見かけましたが?﹂
﹁うむ、父の時代からの付き合いじゃからな﹂
⋮⋮昨夜、酒場でラディアが尻を撫でられ、巻き込まれた自分と
二人でドワーフを五人程ぶっ飛ばしたのは黙っておこう。そう思い
ながら、文洋はラディアに目をやる。
﹁ああ、どうりで素敵な金属細工が多いと⋮⋮﹂
澄ました顔でお茶を一口すすり、ラディアがウィンクを一つ返し
てきた。
ドラゴンネスト
﹁さて、そろそろ、そなたらが竜の巣に来た理由を知りたいじゃろ
?﹂
446
﹁そうですね、私の妻が何をお願いしたのか、聞かせて頂ければ﹂
文洋の問いに、スカーレットは、かじっていた焼き菓子をウクン、
と飲み込んで八重歯を見せて笑う。
﹁それは、女同士の秘密じゃ、まあ、奥方にはこれで、貸し借りな
しじゃと伝えるが良いぞ﹂
秘密については聞かないほうが良さそうだと、文洋はニカリと笑
う童女に黙って頷いた。
§ 再び、黒塗りの大型車に揺られ文洋達は空港を訪れた。建てられ
たばかりといった風情の格納庫に、昨日持ち込んだ機体が二機、並
んで格納されている。
﹁どうじゃ?﹂
スカーレットが、自分のドレスと同じ紅に塗り変えられた機体の
前で胸を張る。プロペラをはじめ、木製部分に象嵌が施された機体
は空飛ぶ工芸品といった風情だ。
﹁これはまた⋮⋮、バーニー、機体のチェックを﹂
﹁了解っす﹂
文洋の命令に、動作に不具合の出るようなところに塗装されてい
ないか、バーニーがチェックに走った。
﹁なんじゃ、急に﹂
447
﹁とても綺麗ですが、間違ったところに塗装すると、壊れてしまう
のですよ殿下﹂
﹁ああ、そんなことか、安心せい﹂
文洋に、スカーレットが、呵々︽かか︾と笑い声をあげる。
﹁ダークエルフの娘、えーと﹂
﹁ラディアでございます殿下﹂
﹁おお、そうじゃったそうじゃった、ラディアよ主なら判るじゃろ
?﹂
格納庫に並ぶ真紅の機体の前で、そう言ってスカーレットが無邪
気にクルリと回ってみせる。ツインテールの金髪に結んだ紅のリボ
ンと、同じく紅のドレスがふわりと広がる。小さな薔薇の花のよう
だと思いながら、文洋はその姿を眺めていた。
﹁金属部分に象嵌、塗り目も見えない丁寧な塗装。ドワーフの職人
に?﹂
﹁あたりじゃ、あのヒゲモジャ達のすることじゃ、機械と細工にか
けては間違いはなかろう﹂
﹁そうですね、そう思います﹂
ときおり、陸軍の工兵や海軍の整備部で見かけるドワーフ達が、
あのハンマーを振るう無骨な手でこれほどの細工を作るのかと、文
洋はしげしげと象嵌の施されたプロペラを眺める。
﹁中尉、全く問題ないです。見事なもんですよ、動翼の内側にまで
装飾してあります﹂
﹁そうか、ならいい﹂
448
ひと通り機体を点検してきたらしいバーニー伍長が文洋にそう言
って肩をすくめる。
﹁当たり前だ、人間よ、しかし公女殿下に献上するのに、農機具の
ような仕上げで、恥ずかしげもなく持ってきたものだ﹂
その背後、格納庫の隅から野太い声が響き、背が低く、それこそ
樽のようなシルエットの男が現れた。
﹁なんじゃ、スタンリー、おったのか﹂
﹁仕上げが気になりまして、公女殿下﹂
機体の影で恭しく胸に手を当て、頭を垂れる年若いドワーフを、
スカーレットが手招きして呼び寄せる。
﹁ふむ、調度良い、そっちのバーニーとやらが、今日からお主の先
生じゃ、こやつの仕組みと整備の方法、しっかり教えてもらうがよ
いぞ﹂
﹁え?ええっ?﹂
ギロリと睨まれて、バーニー伍長が素っ頓狂な声をあげる。
﹁ああ、バーニー、いい忘れたが、俺達が居られるのは、あと二日
ほどだ、その後はお前が、この国で飛行機の飛ばし方を教える事に
なってる﹂
わらわ
﹁え? ちゅ、中尉﹂
﹁うむ、妾が再び空を駆ける術をな、よろしく教えてたもれ?﹂
﹁で、殿下にですかっ?﹂
目をまんまるにして驚くバーニーの慌てように、たまらずラディ
449
ほう
アが吹き出すと、呆けた顔のバーニーを囲んで一同が声を上げて笑
い出した。
§
わらわ
﹁さて、とりあえずは妾を乗せて飛んでもらおうかの﹂
着替えるといって、侍女とラディアを伴って車に戻ったスカーレ
ットが、えへんと胸を張って﹃スコル﹄の横に立つ。
﹁殿下、二人で乗るならこちらのほうが⋮⋮﹂
﹁ふむ、じゃが、あの二人乗りは舞うようには飛ばんのじゃろ?﹂
ロンド
﹁舞うように⋮⋮ですか?﹂
﹁ああ、空の上で、輪舞曲を踊るように﹂
練習機なだけあって、安定性はピカイチだが、その分確かに小回
りは効かない。だが、民間用にゆったりと作られた﹃スレイプニー
ル﹄とは違い、﹃スコル﹄ではスカーレットほどの童女でも、膝の
上に乗せると、ろくに操縦も出来ないだろう。
どこか寂しげに、飛行機と空を交互に見つめる瞳をみて、文洋は
ため息をつく。
ロンド
﹁殿下、輪舞曲を踊るように、空を舞って差し上げます、だから今
日はコイツで我慢してください﹂
二人乗りの練習機を指さして、文洋は手袋を外すと小指を立てて
スカーレットに差し出す。
﹁なんじゃ?﹂
450
﹁扶桑で、約束するときの契約です。うそをつくと針を千本飲まさ
れる﹂
﹁ほう﹂
すぅっと、赤い瞳を細くして、スカーレットが小指を立て、文洋
の小指に絡ませる。
﹁約束じゃぞ? 満足せねば針を千本、飲ませて良いのじゃな?﹂
﹁ええ、約束です。 バーニー、殿下を前席に座らせてやってくれ、
座面にクッションを入れて、しっかりベルトをしめろ、殿下、乗っ
たら操縦席の縁に捕まって、中の機械には絶対に触れないこと。約
束してください﹂
﹁うむ、約束じゃ﹂
ニカリ、と八重歯をみせて、差し出された可愛らしい小指に自分
エルロン
エレベーター
の指をからませ、指切りをしてから、文洋は後席のタラップをよじ
登った。
ラダー
ベルトを締める、操縦桿を倒す。補助翼、昇降翼を目視確認、ペ
ダルを踏んで方向舵を動かす。
格納庫から押し出される機体を、スカーレットが﹁爺﹂と呼ぶ執
事服の老人が見つめている。
ロンド
﹁爺、空にあがったらの、こやつがひさしぶりに、輪舞曲を踊らせ
てくれるそうじゃ、上で待っておるぞ?﹂
興奮して叫ぶスカーレットの声を、文洋はなんの気無しに聞き流
す。
﹁回わーせー﹂
451
文洋の号令に、バーニーがプロペラを回す。
タスン!、タスン、タスン! ゴウ!
プロペラが回ると、轟々とエンジン音を響かせ、芝生の広場を機
体が走り始める。
ゴトゴトゴト
わらわ
﹁ああ、翼じゃ、妾の翼じゃぞ、ユウキ中尉﹂
ふわり、と浮き上がった途端、感極まった声が、エンジンの轟音
に負けじと前席から聞こえた。
﹁片翼の赤竜⋮⋮か﹂
泣き笑いの、感極まった表情でこちらを振り向くスカーレットに
親指を立て、文洋はフルスロットルから操縦桿を引く。紅の翼が、
くるり、くるりと輪を描き、地表が小さく遠ざかって行った。
§
対地高度で三千フィートほどまで高度を上げた所で、巡航に入っ
た文洋を振り返り、スカーレットが城塞都市の西側に広がる湖を指
差す。首から下がった伝声管を口に当て、文洋が大きな声を出す。
﹁湖にゆくんですね?﹂
飛行帽の耳元から聞こえた文洋の声に、きょとんとした後、首元
452
にさげられた送話器を指差す文洋に、笑顔を見せ、スカーレットが
真似をして送話器を口にあてた。
﹁あそこでしばらく待っておれ﹂
もっと高く、というのだろう、上を指差すスカーレットに頷いて、
文洋は湖の上でさらに高度をあげ続ける。
六千五百フィートほどまで上げた所で、飛行場の方から鳥のよう
なものがこちらを目指してくるのが目に入った。
﹁ほれ、心配症の爺が追いかけてきおったぞ﹂
実に嬉しそうな声が、伝声管を通して飛行帽に響く。やがて翼を
わらわ
広げこちらへ向かってやってくるのが何者なのかを視界に捉え、文
洋は目を丸くした。
﹁ドラゴン!﹂
﹁あたりまえじゃ、妾は赤竜公女スカーレットぞ?、ちなみに、あ
の口うるさい爺はな、女神テルミアの守護者、雷の竜﹃フルメン﹄
じゃ﹂
開いた口が塞がらないとはこの事だ。
レオナの乗った三国同盟の空中空母二隻を、こともなく叩き落と
したというドラゴンが、目の前にいる。
翼長一二〇フィートはありそうな青竜が、紅い機体を追い抜きざ
ま、轟と吠えた。
ロンド
﹁さあ、ユウキ、約束じゃ、輪舞曲を踊ってたもれ、爺の尻尾に噛
み付いてやれ﹂
453
⋮⋮まったく、無茶な、と苦笑いしながら、文洋はスロットルを
全開にして竜を追いかける。
推力で飛ぶ航空機とは異質な機動で、目の前に出た﹃フルメン﹄
が翼を広げ、急制動。
﹁フミでいいですよ殿下! あと、しゃべると舌をかみます!﹂
片手を開ける余裕はない。伝声管を放り出し、叫けびながら一気
にスロットルを閉じ、機首を上げる。
﹃フルメン﹄を追って機体が急上昇。
ドラゴンの頭の横に並んだところで、前席のスカーレットが歓声
をあげた。
楽しそうに手を振るスカーレットに、ドラゴンの黄色い目が笑い、
牙を向いて吠える。
﹁笑ってやがる﹂
一旦空中で止まった﹃フルメン﹄が翼をたたんで急降下する。
ラダーを蹴ってハンマーヘッドターン、練習機は翼が大きい分動
きが緩やかだが、操縦はしやすい。
天地がひっくり返り、文洋はスロットルを全開にして急降下する
ドラゴンの後を追った。
わらわ
﹁ああ、フミよ! 妾は飛んでおるぞ、のう! フミよ!﹂
前席で伝声管を片手にスカーレットが興奮した声をあげるが、文
洋はそれどころではない。
前にしか進めない飛行機で、コウモリを追いかけるようなものだ。
インメルマンターン、スプリットS、ロースピードヨーヨー、
ありとあらゆる戦闘機動で、目の前のドラゴンを追い続ける。
454
﹁ほれ、くるぞ﹂
翼をたたんで急降下する構えのドラゴンに、文洋はスロットルを
叩きつけた。
﹁くそっ!﹂
急降下は見せかけで、誘われた事に気がついて、文洋がスロット
ルを戻し操縦桿を引く。
なんとか水平飛行に戻した真後ろに﹃フルメン﹄が笑うように大
きく口を開けていた。
﹁ありゃ、やられたのぅ﹂
スカーレットのつまらない⋮⋮といった風な声が飛行帽に響いた
途端、文洋は操縦桿とペダルをチグハグに操作して、機体をフラッ
トスピンに持ち込んだ。
﹁なんじゃああ!﹂
伝声管なしでも聞こえるほどの悲鳴を前席でスカーレットが響か
せる。
ラダー
文洋はコマのように回る機体を、丁寧に操り直す。
スロットルを絞り、方向舵を回転と逆に蹴飛ばす。
水平に三度回った所で主翼が空気を掴む感覚が戻る。
そのまま﹃フルメン﹄の尻尾にかじりついた。
﹁ははは、よい、実に良いぞ、フミ!﹂
455
手を叩いてスカーレットが笑う。
いつのまにか横にならんだ﹃フルメン﹄が楽しそうに、そして高
らかに吠えた。
その昔、お伽話に出てくる赤竜は、国を守るため片翼を失ったと
いう。
その赤竜を乗せ、機械じかけの紅の翼が晴れ渡った空を飛ぶ。
﹁のう、フミよ、空は自由じゃ、の?﹂
その問いに、文洋は無言のままバレルロールで応え空港へ向かっ
た。
そうだ、空は自由だ。
そんな思いを乗せて、機械じかけの紅の翼が晴れ渡った空を飛ぶ。
456
猟犬と竜の目
﹁今宵は城に泊まってゆくが良いぞ﹂
興奮冷めやらぬ顔で、あれこれ楽しげに語るスカーレットに請わ
れるまま、城に残った文洋達が開放されたのは、夜半も過ぎた頃だ
った。
﹁これで、公女殿下が力を貸してくれれば良いんだがな﹂
﹁それで、中尉は何をお願いする気なのさ?﹂
先を歩く案内役のメイドのスカートの裾の下でピョコピョコ動く
尻尾と、耳の上に生えた髪飾りのような小さな角を見ながら、文洋
はラディアに肩をすくめる。
﹁今日は疲れたからな、夢の中で﹃巨人﹄が動きたくなる理由を考
えてみるさ﹂
﹁あきれた、よくそれで今までやってこられたもんさね﹂
﹁俺もそう思う﹂
ラディアと隣同士の部屋に案内され、文洋が部屋に入る。振り向
いて案内の礼を言う文洋に、茶色の髪メイドが笑顔で口を開いた。
﹁他に御用はございませんか?﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
﹁何かあれば、そこの呼び鈴を﹂
きびす
うなずく文洋に一礼して、踵を返しかけたメイドが、耳の上の角
457
に手をやって小首をかしげる。
﹁あの、これ、気になりますか?﹂
﹁あ⋮⋮いや、すまない、気にならないと言えば嘘になる﹂
﹁正直な方ですね﹂
銅色にも銀色にも見える角を、指でついっと撫で、メイドがそう
言って微笑んだ。
﹁私、魔法が下手で、どうしてもこうなっちゃうんです﹂
ブロンズドラゴン
﹁君も空を飛べるのかい?﹂
﹁ええ、青銅竜ですから﹂
文洋は昼間の空中戦で青竜﹃フルメン﹄が見せた、大きな体躯に
似合わない戦闘機動を思い浮かべる。
﹁そうか、羨ましいよ﹂
﹁え⋮⋮? う、羨ましいですか?﹂
﹁ああ、人間は飛行機がなきゃ空を飛べないからさ。自由に飛べる
君たちが羨ましい﹂
変な人だ、という顔をするメイドに文洋はポリポリと頭を掻く。
﹁あ、あの﹂
﹁ん?﹂
﹁あんなに楽しそうな殿下を見るの、私、はじめてで⋮⋮﹂
そんな文洋の顔を、メイドが茶色の瞳でじっと見つめて言葉を継
いだ。
458
﹁だから、空を飛ぶために人間が作った機械も、きっと、素敵なん
だと思います﹂
﹁そうか⋮⋮うん、そうだね⋮⋮。ありがとう﹂
素敵か⋮⋮違いない。例えそれが血塗られた戦闘機械であっても、
自由への翼には違いない。そう気を取り直し、文洋はメイドに笑顔
を向けて右手を差し出した。
﹁フミヒロ、フミヒロ・ユウキ、テルミア空軍のパイロット、よろ
しく。えーと﹂
﹁エ、エレーナです、あ、あの﹂
差し出した手をおずおずと握り返し、エレーナが俯いたまま、小
さな声で言う。
﹁ユウキ様、時々、殿下はイタズラが過ぎることがあって⋮⋮﹂
﹁ああ、知ってる、だけど、悪気はなさそうだ﹂
﹁ええ、そうなんですが﹂
﹁大丈夫、心配しないで﹂
文洋の言葉に、パタンと尻尾が床を叩く音を残し、エレーナがク
ルリと身を翻す。
﹁おやすみなさいませ、ユウキ様﹂
﹁おやすみ、エレーナ﹂
重い音を立てドアが閉じる、ふと、文洋は何も載っていないサイ
ドテーブルに目をやって、水差しを頼めば良かったなとため息をつ
いた。
459
§
酔いと疲れで眠りの淵に落ちかけ、喉の乾きに寝返りを打つ。や
はり水を頼めばよかったな⋮⋮と頭の片隅で思いながら、文洋は浅
い眠りの中にいた。
カチャリ
何度目かの寝返りを打ち上を向いたその時、金属音がして扉が開
いた。忍び足で誰かが近づいてくる。
王城の客間で、さして重要人物ともいえない自分に害を及ぼそう
という者がいるとは思えない。ましてやここは古代竜の巣なのだ。
呼吸をなだらかに整え、文洋は狸寝入りを決めこんだ。
﹁ふむ﹂
と、枕元で小さな声がする、スカーレットだ。殿下はイタズラが
過ぎる⋮⋮か⋮⋮。文洋は目を閉じたまま身じろぎ一つせず、様子
をみることにした。
消し忘れたルームランプの光がまぶた越しに入ってくる、自分の
左側から伸びてきた気配に、光が遮られ暗くなる。左目の前に手を
かざしているらしい。
﹁⋮⋮⋮﹂
聞こえないほどの小さなつぶやきが文洋の耳に入る。
ピリリ、と首の後ろに小さな痛みが走った。
途端、文洋は、目の前にかざされた手を掴み、クルリと身体を回
した。
460
﹁ゔにゃあ!﹂
驚いた猫のような声を上げ、何が起こったのかわからない、とい
う顔をしたスカーレットをベッドの上に組み敷く。
﹁ま、まて、まつのじゃ﹂
紅玉の瞳を見開いて、スカーレットが逃げようとする。
﹁待ちません。あと、何をしようとしたか、言うまで許しません﹂
﹁だから、ちがうのじゃ、ひっ!﹂
イタズラだとエレーナは言ったが、黙って魔法をかけられるとい
うのは、面白くない。するりと両手をスカーレットの脇腹に差し込
んで、文洋は両手で掴めるほどの小さな脇腹をくすぐり始める。
﹁ひ、ちょ、やめ、やめるの、ひゃ、わ、わら、ひっつ﹂
身をよじらせ逃れようとするスカーレットを組み敷いて、文洋は
執拗に脇腹をくすぐり続けた。
﹁ひっ、ひっ、ひゃ、ひゃめて、ひう、ひうから﹂
人形のような白磁の頬を紅潮させ、絹のような金髪を振り乱した
童女が、泣きべそをかき懇願する。頬に涙が伝うまでくすぐって、
文洋はようやく手を緩めた。
﹁さあ、話してください﹂
﹁ひゃ⋮⋮ひっ⋮⋮わ、わかった、その前に水を⋮⋮水を一杯﹂
461
§
結局、呼び鈴でエレーナを呼び出すことになってしまったが、深
夜にしては妙にシャキっとしていたのをみると、公女殿下のイタズ
ラとやらを彼女も知っていたのだろう。
グラスと水差しを置いて、そそくさと立ち去るエレーナが、自分
だけに判るようにウィンクして去っていくのを見て、文洋はそう確
信した。
﹁あのな、フミヒロ。空を飛んだじゃろ?﹂
﹁ええ﹂
﹁凄く楽しかったのじゃ、あのように飛んだのは、翼を失って以来
じゃったからの﹂
﹁誰かの背に乗せてもらった事はないのですか?﹂
メイドのエレーナでも空を飛ぶくらいだ、親しい者の背に乗せて
もらうくらいは許されるだろう。
わらわ
﹁祖父がの、よく乗せてくれた。優しい方じゃった。父は翼を失っ
たのは、妾の軽率さゆえと、自戒の為にと乗せてはくれなんだ﹂
メイドが薪を入れなおしていった暖炉の前で、膝を抱えたスカー
レットが遠い目をしていう。
わらわ
﹁妾が国を治めるようになってからは、弱みを見せぬために泰然と
せねばならん⋮⋮と、一度も飛んだことはなかった﹂
懐かしげで悲しげな小さな背中に、文句をいう気も失せた文洋は、
ベッドに腰掛けて小さな背を見つめる。
462
﹁それで、私に何をしようとしてたのです?﹂
文洋の声に立ち上がり、グラスをテーブルにもどしたスカーレッ
トが、ベッドに座った文洋の膝の上に、当然だという顔をして腰掛
ける。
ドラゴンネスト
﹁女神テルミアが暗黒神ソブラと戦って以来、﹃竜の巣﹄は定命の
いにしえ
者の戦には参加しておらぬ。我々が肩入れすれば、必ずそちらが勝
利するからの、それは二柱の神と結んだ太古の契約でもある﹂
胸にもたれかかり、ときおり文洋を見上げながら話すスカーレッ
わらわ
トの話に、文洋は黙って耳を傾ける。
わらわ
﹁ゆえに、妾は外の世界を知らぬ、妾たちを殺せるのはお互いの権
力闘争と、神々くらいのものじゃったからな﹂
そういいながら、スカーレットは文洋の右手をひょいと掴むと自
分の身体に巻きつけた。そのしぐさに、妹のようにかわいがってい
た乳母の娘を思い出し、文洋は、乱れた髪を左手で梳いてやる。
﹁じゃが、今日、定命の者の作った飛行機に乗って思ったのじゃ。
爺に負けぬほどに飛ぶ機械は、百年もすれば、我等を殺すに至るの
ではないか⋮⋮と﹂
﹁それで?﹂
ゆ
わらわ
﹁それで、お主の目をな、借りようと思った。これから、お主は戦
場へ征く。ローラはお主が空を飛ぶ鋼鉄の船と戦うと言う。妾は外
の世界を知らねばならぬ、国の民の未来の為に﹂
この見かけ小さな公女様は、やはり一国の主なのだと文洋は思っ
た。
463
﹁ですが、その鋼鉄の船は、戦の天秤が大きく傾く時にしか現れま
せん﹂
﹁それを引きずり出して欲しいのじゃろ?﹂
﹁そうですね﹂
紅玉の瞳がまっすぐに文洋を見つめ、小さく頷いた。
わらわ
むつ
﹁お主の片目に竜の目を授ける。遠目も夜目も利く。じゃが、そな
たが見たものは妾にも見える。なに、睦みごとの時は片方塞いでお
れば良い。妾もそこまで悪趣味ではない﹂
﹁そして、その目で私は戦場を、戦場を退いたら世界を殿下に見せ
続けろと?﹂
くるりと、膝の上で身体を回し、文洋の右腕に背中を預けて紅玉
の瞳でスカーレットが見上げる。
﹁爺がの、怒り狂っておる﹂
﹁雷の竜、フルメンですか?﹂
﹁うむ、あやつは女神テルミアにベタぼれじゃからの﹂
外国でパイロットをしていたはずが、いつの間にか、お伽話に紛
れ込んでいる。そんな妙な気分に文洋はため息をつく。
﹁故に、少々、八つ当たりをさせてやろうと思うのじゃ﹂
﹁八つ当たりですか?﹂
﹁お主らが石炭を取り合っている小島へ向かう同盟の軍艦や、島に
荷揚げされた大砲あたりを少々壊せば気もすむじゃろう。むろん戦
争が終わるほどの肩入れはせん﹂
464
その程度で奴が出てくるだろうか? そもそも、﹃フルメン﹄と
戦うリスクを彼らが取るだろうか?
そんな気持ちを見透かしたように、スカーレットが八重歯をみせ
てニヤリと笑った。
﹁その後、テルミアの南端、なんといったかな、百年ほど前に行っ
た時は帆船が沢山いて賑わう港町じゃったが﹂
わらわ
﹁レブログですか? 私の部隊の基地もそこに﹂
﹁おお、そうじゃ、そこにの、妾自ら物見遊山に出かけようかの、
テルミアの巫女殿も一緒に﹂
そこまで聞いて、文洋は考えるのを諦めた。これで無理なら自身
の力で何とかなる問題ではない。目玉一つでそれが叶うというのな
ら、破格だと言えるだろう。しかも見えなくなるわけでは無い。
わらわ
﹁判りました、では殿下には私の左目を差し上げますよ﹂
﹁色がな、妾の瞳と同じになる﹂
﹁綺麗な紅玉ですね﹂
﹁少々目立つがの﹂
黒い瞳の片側が紅となれば、少々目立つではすまないだろうが、
わらわ
この国で暮らすにあたり、もともと扶桑人など珍獣のようなものだ。
﹁まあ、仕方ないでしょう﹂
﹁剛気じゃの、そういう男は妾は好きじゃ﹂
そういって、ピョコンと膝の上から飛び降りると、スカーレット
がごそごそと文洋のベッドに潜り込む。
﹁冷えてしもうた、委細はあすじゃ。今宵はここで寝るぞ﹂
465
ばさり、と布団をはいで、スカーレットが自分のとなりをペシペ
シと叩く。灰をかけ、暖炉の火を小さくして、文洋も乾いた喉に水
を流し込み、ベッドに潜り込んだ。
﹁夜伽はしませんよ﹂
﹁それは残念じゃの、だが一人寝よりは暖かくて良い﹂
二人してクスリと笑うと、冷えてしまったスカーレットの身体を
抱きしめてやる。腕の中で安らかな寝息を立て始める童女に、ほん
とうにこの子が﹁フルメン﹂ほどの大きさの竜なのか? と疑いな
がら文洋もその寝息につられるように再び眠りについた。
466
道化師と白狐
﹁ルネ、ルネ、ほら起きて、今日はピクニックに行く約束だったで
しょ﹂
母様の声が遠くから聞こえる。ああ、そうだみんなで、ピクニッ
クに行く日だ。父様と母様、それに執事のクラウス⋮⋮⋮⋮。
﹁おはよう母様﹂
﹁おはよう、お寝坊さん、ほら起きて支度なさい﹂
優しい母の笑顔に、ルネは目をこすりながらベッドから起き上が
った。
﹁坊っちゃま、早くお着替えを﹂
髭面のクラウスが着替えを持って入ってくる。
﹁うん、わかったよクラウス、ぼくイチゴジャムのサンドイッチが
食べたいなあ﹂
﹁用意させましょう﹂
にこにことクラウスが笑う。ルネはクラウスの優しい笑顔が大好
きだった。
﹁ほんと?約束だよ﹂
そう言って、ルネは用意された着替えに袖を通す。右そでのボタ
467
ンが上手く止まらない。
﹁あれ? んー﹂
そこでふと手を止めて、ルネは周りを見回した。
⋮⋮なにか忘れている気がする⋮⋮なにか大事なことを。
﹁ルネ、はやくいらっしゃい﹂
﹁ちょっとまって、母様﹂
・・
せかす母の声に、右そでのボタンを、一生懸命止めようとするう
ちに、そんな疑問も忘れてしまい、ルネは春の陽射しの中、窓から
差し込む暖かい光に目を細めていた。
§
ズズン、ズズズズン!
着弾音が地面を揺らし、腹に響く。パラパラと音を立て天井のベ
トンが剥がれ落ちた。
﹁くそ、うちの海軍は何をやってやがる! アレフ、ちょっとあれ
黙らせてこい﹂
隊長の声にミノタウロスのアレフは首を振った。三日前、味方の
テールス
艦隊が敵陣を砲撃した時は、皆で歓声をあげ見ていたが、彼らが補
給へ戻った途端に敵の猛反撃だ。
三日前の攻撃では味方の艦隊に、﹃扶桑﹄という地球の裏側から
きた戦士達が居るという話だった。
そんな海の向こうの地球の裏側の話など、海を見たのもこの戦争
468
が初めてだというアレフからすれば、想像することも出来ない世界
だ。
﹁隊長、アレフ、泳げない、だからあれは倒せない﹂
艦砲の弾着があるたび、ベトンで固められた掩蔽壕が大きく揺れ
る。入り口に扉代わりに立てかけられたアレフの大盾に小石が当た
り甲高い音を立てる。
﹁うははは! 冗談だ、いくらお前でもあいつは一人じゃ無理だ﹂
ドワーフの隊長が土埃にまみれた顔をほころばせ、ヒゲをなでた。
その様子に笑おうとしたアレフの耳に、この世のものと思われない
声が、着弾の爆音すら引き裂き響き渡った。
ゾクリ、と悪寒が走り、総毛立つ。
アルビオン
﹁隊長、何かくる、恐ろしいものがくる﹂
﹁なんだ? ﹃巨人﹄とかいう飛行戦艦か? おまえ、耳がいいか
らな﹂
﹁違う、もっと恐ろしい物﹂
アレフの本能が、逃げろ逃げろと告げている。大きな体を小さく
小さく丸めて、アレフは掩蔽壕の隅で膝を抱えた。
ペリスコープ
﹁見張り! 弾着観測鏡上げろ!﹂
﹁あっちゅうまに吹き飛ばされますよ、こんな砲撃の中じゃ﹂
﹁いいから上げろ、アレフ、どっちだ?﹂
隊長の声に、ミノタウロスのアレフは、膝を抱えたまま、猛る獣
469
の声が聞こえる方角を指さした。
§
﹁爺、人間どもにな、八つ当たりしてきて良いぞ、ゆるす﹂
﹁八つ当たりでございますか?﹂
スカーレットの言葉に、フルメンは首をひねった。
けが
﹁うむ、爺が惚れておる女神の寝所を穢したバカ共に、少々、痛い
目をみせてやれ﹂
わらわ
﹁よろしいので?﹂
﹁うむ、妾が許す。ただし、やりすぎんようにな﹂
スカーレットに機械仕掛けの翼を届けたテルミアの使者が、帰国
の途についてから数日後、スカーレットの命で﹃爺﹄こと青竜フル
メンは冬の澄み渡った空に翼を広げ南東へと向かっていた。
﹃雷の竜﹄、﹃雷帝﹄、﹃暴虐の蒼竜﹄、定命の者達にそう呼ば
たか
れて幾星霜、一族の中でも最古参になってしまったフルメンの心は
久しぶりに昂ぶっていた。
フルメンが若い頃、女神テルミアと暗黒神ソブラが戦った﹃神代
ドラゴン・ネスト
の戦﹄、それを最後に、竜族は定命の者の戦に関わることをやめ、
﹃竜の巣﹄に引きこもることを選んだ。
それは、二柱の神の元、ふた手に別れて戦った結果、竜族が極端
に数を減らした危機感から生まれた、実利的な判断であった。
︱︱ 神と関わるな、人と関わるな、彼らは熱狂をもたらし、熱
狂は死をもたらす。
470
ドラゴン・ネスト
それから数千年、﹃竜の巣﹄の初代当主、つまりはスカーレット
かんげん
の祖父の家訓を、スカーレットは踏み越えようとしている。長らく
仕えてきた家老としては、諫言すべきだったかもしれない。
だが、フルメンは見てしまった。
ロンド
スカーレットを乗せ、空を舞う機械の翼を。
そして、経験してしまった。
わらわ
空を駆ければ竜族随一と言われた自分と、輪舞曲を踊る機械の翼
を。
﹁のう、爺。もはや、空すら妾達のものでは無いのかも知れぬの﹂
そう言って、感慨深い顔で飛行機から降りるスカーレットは、自
分がテルミアの王都で、人間の操る飛行船と対峙したときと同じ気
持ちを味わったのだろう。
その上で判断したのだ。自身の強さだけで、一国の力だけで生き
残れる時代が、終わりつつあると。人と共に歩まねばならぬと。
だが⋮⋮定命の者よ、今日は我が愛しの女神テルミアへの無礼、
少々高く付くことを教えてやろうぞ。
神代の時代、まだ若い頃の甘い思い出が蘇る。
自分の鼻面を撫でるあの、柔らかい女神の手のひら。
無邪気に脇腹に寄り添って眠る、美しいテルミアの暖かさ。
思い出にトクン、と自分の心臓が跳ねるのがわかった。
彼女を愛した、若き日の気持ちに嘘は無かった。
眼下に数隻の軍船が見える。少し前までは木製で、風まかせに走
っていたそれは、今では鋼で作られ石炭で走るという。その小さき
471
者共の軍船が、しきりに地上の陣地へむけて、大砲を撃ちかけてい
るようだ。
ああ、そうだ、あの小さな人間どもは、またたく間に武器を整え、
自分たちより強大な力を持つ亜人や獣人たちを駆逐し、屈服させて
行った。
ドラゴン・ネスト
我等が祖国﹃竜の巣﹄が無事だったのは、竜族がその武器をもっ
てなお、倒せぬほどに強力だったからに過ぎない。
ならば、ならばこそ⋮⋮。
愛しい女神テルミアと、片翼を失いし優しい姫様よ、ご照覧あれ!
竜族の威光、あの小さき者どもの魂に刻んでくれようぞ。
大きな牙の並んだ口で、ニヤリと笑ってフルメン吠えた。
芝居がかった大陸語で、空も裂けよと声を張りあげる。
﹁聞け、不信心ものよ! 我が名はフルメン、女神テルミアの守護
者!﹂
叫びに応じるように、澄み渡っていた青空に雷雲が湧き出し、陽
光を遮る。
眼下の艦隊が慌てて八方に舵を切り回避し始めた。
﹁わが怒り、思い知るが良い!﹂
逃げ惑う艦隊から、パラパラと高射砲が打ち上がる。
いつの時代、どこの国にでもいる、実直で勇敢な兵士が撃ちかけ
る砲が、フルメンの周りに鋼鉄の花火を打ち上げる。
472
よかろう! 人間ども、その意気や良し!
翼をたたむと、一声、轟と吠え、風を切ってフルメンは急降下を
開始した。
§
三都同盟最南端の都市、ツバイアス、紛争の発端であるラダル炭
鉱から南に約五〇〇マイルのこの都市は、同盟最大の軍需物資集積
地であり、クロードの父、リュック・エル・ツバイアスの領国でも
あった。
﹁おまちください、クロード少佐﹂
アルビオン
そのツバイアスに停泊中の﹃巨人﹄の中枢部、三都同盟の飛行船
と同じ投影板に囲まれた﹃水晶宮﹄へ踏み込もうとしたクロードを、
小銃を携えたアリシア海兵が小銃を差し出し止めにかかる。
﹁忠義、大いに結構、だが火急の用だ、通して貰えるかな海兵軍曹﹂
それでもなお、微動だにせず、行く手を遮るように突き出された
小銃を、クロードはむんずと掴むと軍曹を投げ飛ばし、﹃水晶宮﹄
へと足を踏み入れた。
﹁三都同盟、﹃白狐隊﹄隊長、クロード・エル・ツバイアス少佐だ、
ルデウス殿はおられるか?﹂
そう言って、クロードは﹃水晶宮﹄の中を見回した。中央の艦長
席と操舵席、ここまでは同盟の飛行船と変わらない。だが、艦長席
の背後に光り輝く、馬鹿でかい赤水晶と、その赤水晶にへばりつく
473
ように取り付けられた、男の子が封じ込められたガラスの箱が、異
様な雰囲気を漂わせていた。
﹁どうされました? クロード少佐﹂
﹁そこへおられたか、ルデウス殿﹂
棺にも見えるガラスの箱の影から、黒い長髪の美男子がにこやか
な笑顔で現れるのを見て、クロードは足早に歩み寄る。
﹁何事です?﹂
あくまで温和な笑みと落ち着いた声。﹃笑わない道化師﹄という
社交界での二つ名通り、柔和な笑顔の奥に押し込められた人を食っ
た性根、それに感づけないほどクロードは鈍感ではない。
﹁ルデウス殿、テルミアで我が国の飛行船を二隻、撃墜したドラゴ
ンを?﹂
﹁ええ、青竜フルメン、テルミア神殿の守護者。おとぎ話に出てく
るドラゴンですね﹂
笑顔でそう言ったアリシアの執政官が、フルメンの名を言いなが
らチラリと男の子の封じ込められたガラスの箱に目をやったのを、
クロードは見逃さなかった。
﹁そのドラゴンに、ラダル諸島沖で三都同盟の艦隊が攻撃を受けま
した、昨日の話です﹂
﹁なんと、ドラゴンは人の戦に手を出さぬものと聞いておりました
が﹂
﹁損害は戦艦、巡洋艦一隻小破、駆逐艦二隻轟沈﹂
474
ふむ、とルデウスが顎に手をあて思案する。
﹁それで、クロード少佐、三都同盟は何をお望みかな? 今から出
撃しても間に合わぬと思いますが﹂
掴みどころのないルデウスの笑顔は、しかし、次の瞬間クロード
の言葉に打ち砕かれた。
﹁複数の海軍の兵が聞いた話だと、青竜は飛び去る際にこう言った
そうです。﹃影に忍び戦を操るものに伝えよ、我と我が当主の怒り
思い知らせてやろうぞ﹄⋮⋮と﹂
貼ついたような笑顔が消え、冷たい真顔に戻るとルデウスがクロ
ードをまっすぐに見据えた。美しいとも言える顔立ちと、髪と同じ
色の黒い瞳、だがクロードにはそれが酷く空虚な闇に見えた。
﹁我と、我が当主ですか?﹂
﹁複数の兵の証言です﹂
﹁我が⋮⋮当主ですか⋮⋮﹂
そう言って、アリシアの執政官、ルデウスが再び思案顔になる。
ドラゴン・ネスト
﹁それで少佐は、﹃竜の巣﹄が我々に敵対すると?﹂
﹁わかりません、ただ言えるのは、我々がテルミア神殿を爆撃しよ
うとした事、そして、おとぎ話に出てくる女神テルミアの恋人が報
復を仕掛けてきた、それだけです﹂
ね
そう言ってクロードはルデウスを睨めつけた。目の前に立つこの
男は、同盟評議会に、飛行船団にはアリシア随一の騎士を同行させ
ましょう。そう言って北壁の騎士と名乗る年端もゆかぬ少女よこし
475
た男だ。噂によれば、後ろのガラスの容器で眠る少年は、その弟で
あるという。
﹁いずれにせよ、アリシア王国も巻き込まれる可能性がある事、ご
考慮に入れられよ﹂
三都同盟の連絡将校としてではなく、これは同盟の一角、ツバイ
アスの嫡男としての忠告だ。彼と同じく冷たい仮面をかぶり、声を
潜めてクロードは耳元で囁いた。
﹁ご忠告、痛み入ります﹂
相変わらずの読めない表情でそう言って目礼するルデウスに、一
歩さがるとクロードはかかとを鳴らして敬礼する。
退出の際、入り口の横できまり悪げに敬礼する海兵軍曹に、クロ
ードは答礼してから握手を求め、ニコリと笑う。
﹁すまんな、軍曹、悪かった﹂
これは戦争だ、石炭という資源を奪い合う戦争だ。得る物は利益
であり、絶対な正義のありかなど判りかねる。
だが⋮⋮とクロードは思った。年端もゆかぬ子供を兵器として利
用する事に、一片の正義や真理が、あってたまるものか、と。
476
猟犬と慕情
﹁お嬢様、お迎えのお車が参りました﹂
クラウスの声が階下から響く。チキン・サンドと甘いお茶の入っ
た水筒、それにブランデーの小瓶を入れた小さな紙包みを持って、
ローラはキッチンから飛び出した。
﹁ローラ、行ってきます﹂
暖かくて燃えない生地を⋮⋮とのフミの言葉に、街中の仕立て屋
ファイアフォックス
を回ってローラはワイバーンの革で出来たコートを用意していた。
紺色に染められたコートの内側は砂漠火狐の毛皮を貼りこんである。
﹁レオナ、まって﹂
紺色のコートを身にまとい、赤水晶をいれたポシェットを肩から
下げたレオナを呼び止めた。
﹁これ、お弁当、あと小さい瓶はお酒だから、フミに﹂
﹁ありがとう﹂
そう言って、まるでピクニックにでも出かけるような気軽さでレ
オナが笑った。キュッと心が締め付けられる音がする。
﹁⋮⋮﹂
﹁ローラ?﹂
477
その無邪気な笑顔に、たまらずローラは少女を抱きしめた。
﹁レオナ⋮⋮ちゃんと帰ってくるんですよ﹂
﹁ええ、ルネを連れて帰ってくるわ﹂
﹁約束ですからね﹂
﹁大丈夫、フミもクラウスも一緒だもの﹂
少女がローラの腕からすり抜け扉を出てゆく。途中、一度だけ振
り返り、手を振って迎えの車に消えていった。
﹁奥様、それでは行ってまいります﹂
見慣れた執事服ではなく、飛行服に革のジャケットを着たクラウ
スが、胸に手をあてて一礼する。
﹁クラウス⋮⋮﹂
﹁ご安心召されよ、奥様。このクラウスが命に代えても、必ず皆を
守り通してみせますゆえ﹂
銀髪を綺麗に撫で付けた威丈夫が胸をドンとたたいてニカリと歯
を見せる。
﹁だめですよ?﹂
﹁?﹂
﹁あなたも、無事に帰ってこないとだめです﹂
クラウスの目をまっすぐに見返して、ローラはクラウスにそうい
った。こういう男は何人も見てきた。忠誠を尽くし、自分の命を盾
にする真っ直ぐな者達。
478
﹁ハハハッ、奥様にはかないませんな﹂
厳しい髭面をほころばせ、クラウスがローラに背を向ける。
﹁だめですよ⋮⋮﹂
久しぶりに、閑散としてしまった屋敷で、ローラはポツリと呟い
た。寿命の短い人間たちを相手に、何度も繰り返してきた景色。
まだ冷たい風が吹き抜ける中、何度繰り返しても慣れない感覚に、
景色が少し滲んで見えた。
§
ドラゴン・ネスト
﹁諸君、本日レブログにラティーシャ王女殿下と﹃赤竜城塞﹄のス
カーレット公女殿下がおいでになられるのは、皆の知ってのとおり
だ﹂
ロバルト中佐のよく通るバリトンが響き渡る。文洋は左隣で眠そ
うな顔をしているブライアンの脇腹をひじで小突いた。
﹁おきてるよ、フミ。で? その海賊の親玉みたいな眼帯はなんだ﹂
﹁ああ、これか﹂
文洋はヒョイと眼帯を持ち上げて、赤い瞳をブライアンに見せる。
﹁おいおい、なんだそれ﹂
﹁話せば長くなるが、目立つんでな﹂
しまってろ、と眉を片方上げるブライアンに文洋は苦笑いしなが
ら眼帯を戻した。スカーレットには悪いが、悪目立ちするのは間違
479
いない。
コンバットエアパトロール
﹁そこで、今回の任務は戦闘空中哨戒だ、司令部では今回も三都同
盟の妨害が入ると予想している﹂
そこで中佐は言葉を切ると待機室のパイロットたちを見回してか
ら再び口を開いた。
アルビオン
﹁前回、前々回の失敗を考えると、おそらく﹃巨人﹄を利用した直
接攻撃が予想される﹂
おおおっ、と待機所のパイロットたちがどよめく。
ハウンドドッグ ブラックラビッツ
﹁前回同様、ドラグーン隊はレブログ南方二十マイル、高高度にて
待機する。猟犬隊、黒兎隊はそれぞれの担当区域を哨戒せよ﹂
バシン、と地図の貼られた黒板を指示棒で叩いて、中佐が皆の注
目を集めた。
アルビオン
ぜんげん
﹁残念ながら、巨人には航空機銃では歯が立たん、それぞれの隊は
可能な限り高度を取り、敵戦闘機の漸減に全力を尽くせ、そこから
先はドラグーン隊の仕事だ、以上、解散﹂
一斉にパイロットたちが立ち上がり、扉を出て行く。
﹁それで、今度は何をやらかすつもりだ﹂
ブライアンが一人残った文洋の横に座って、ボソリと呟いた。
﹁ああ、家族をな、取り戻すのさ﹂
480
﹁そうか﹂
バン、と文洋の背中を叩いてブライアンが立ち上がる。
﹁まったく、損な性分だな、フミ﹂
﹁ああ、まったくだ﹂
片手を上げて出てゆくブライアンを見送ってから、文洋も立ち上
がった。
﹁それで、隊長、あたしはどうしたら良いんだい?﹂
ブラックラビッツ
滑走路に出た文洋の前を、色鮮やかな機体が次々に飛び立ってゆ
く。白黒のチェック模様が描かれた黒兎隊のパイロットが、目ざと
く文洋たちを見つけると、敬礼して空へ舞い上がって行った。
﹁待つのさ、役者が揃うのをな﹂
アルビオン
﹁了解、じゃあたしは自分の飛行機にいるから﹂
﹁ああ、巨人が来たら、連絡を頼む、信号弾は緑が⋮⋮ラディア?﹂
腕を引っ張られて、文洋は立ち止まる。
耳たぶを引っ張られて、顔を傾けた文洋の頬に、ラディアの唇が
触れた。
﹁なっ⋮⋮﹂
﹁おまじない、いつものユウキらしくないから﹂
イタズラっぽい笑顔でラディアが笑うと、もう一度文洋の耳を引
っ張った。口の中が乾いているのは分かっていたが、緊張が顔に出
ていたらしい。
481
﹁そうか、すまん﹂
文洋は肩をすくめて苦笑いする。
﹁うん、ユウキはそのほうがいい、また後で﹂
小走りにハンガーへ駆けてゆくラディアを見送って、文洋は格納
庫の壁に立てかけたオートバイにまたがると、基地の北側にある湖
に向って走りだした。
§
家からそのまま﹃スレイプニール﹄の係留された湖につれて来ら
れたレオナは、黒塗りの乗用車の隣で湖を見つめていた。
﹁うちのバカ共が、誰がお嬢ちゃん迎えにいくかでちょいとした騒
動になってな、だから俺が来た﹂
基地の北側にある﹃水瓶﹄と呼ばれる小さな湖の前に車を止めて、
運転手を務めてくれたフリント整備中尉がそう言って笑う。
﹁ごめんなさい、忙しいのに⋮⋮﹂
﹁構いやしねえよ、整備は完璧だ、自称、空の騎士様とやらがヘマ
しない限り、落っこちやしねえ﹂
テルミア空軍の紋章、金色の七芒星が描かれた扉に寄りかかって、
中尉がタバコに火を着ける。
﹁ありがとう、中尉﹂
482
﹁すまねえな、あんな綺麗な飛行機に、無骨なものつけちまって、
使い方はユウキ中尉が知ってるからな﹂
そう言って中尉が指さした先には、﹃スレイプニール﹄が浮かん
でいた。いつもと様子が違うのは、操縦席の両脇に斜め後ろ、下向
きに取り付けられた大きな銛のせいだ。
流麗な機体に、似合っているとは言えなかったが、今のレオナに
は、自分の心を映し出したようで勇ましく見えた。
﹁いいんです、あれは、戦場に赴く騎士の槍です﹂
﹁そうか、騎士の槍か﹂
﹁ええ﹂
﹁お嬢ちゃんは、偉いな﹂
ぐい、とフロントガラスにタバコを押し付けると、吸い殻を無造
作にポケットに放り込んで、フリントがレオナに向き直る。
﹁そうでしょうか? なんの役にもたたない小娘です﹂
﹁なあ、お嬢ちゃん、俺達は裏方だ、油にまみれ、地面に寝転がっ
て、飛行機をいつも飛べるようにするのが仕事だ﹂
﹁お仕事、嫌いなのですか?﹂
﹁いや、俺達が居なきゃ、飛行機なんざタダの鉄くずさ﹂
寒い中、袖をまくった油まみれの太い腕は、いつも機械いじりば
かりしていた祖父を思わせる。見上げるレオナの頭に、ポンと手を
置くと中尉がニコリと笑って言葉を継いだ。
﹁だから、俺達は誇りを持って仕事をしてる、どんな偉い騎士様だ
って、俺達がいなきゃ空一つ飛べやしねえ﹂
﹁わかります﹂
483
言いながら、レオナは五十ヤードほど離れた丘の上で、南を見つ
めるクラウスを振り返る。
﹁あの大きいのは?﹂
﹁執事のクラウスです、今はもう無い、私の家の⋮⋮﹂
レオナは視線をフリントに戻して、ため息をつく。
﹁どうした? お嬢ちゃん﹂
﹁フリント中尉も、クラウスも、フミも、ローラも、みんな私を助
けてくれます、なぜです? 私は⋮⋮﹂
そこまで言ったところで、コツンと頭に小さくゲンコツをくらう。
﹁っつ﹂
理不尽だ⋮⋮と、睨むレオナにニヤリと笑って、フリントがレオ
ナの目線まで屈みこむ。
﹁いいか、お嬢ちゃん、みんなお前さんの事が好きだから、助けて
くれてるのさ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁でも、もヘチマもねえ、世の中そうじゃなくっちゃいけねえ、ユ
ウキからあらましは聞いた、お前さん、弟を助けに行くんだろ?﹂
フミ⋮⋮フミだってそう、私のためにこんな危ないことしなくて
も⋮⋮。
﹁でも⋮⋮中尉﹂
484
﹁俺達は、お嬢ちゃんを助けてやる、その代わり、お前さんは弟を
助けてやれ、世の中ってのはそういうもんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そして、二人して大きくなったら、困ってる連中を助けてやれば
いい、それがみんなへの恩返しだ﹂
自分は色々なものを失った、そして、新しいものを沢山もらった。
だから、いつかそれを返せればと思ってきた。でも、この目の前の
油まみれの整備中尉は、それは要らないという、他の人を助けてや
れという。
﹁中尉、ありがとう、ほんとうに、ありがとう﹂
﹁いいってことよ、ほら、お嬢ちゃん、少々、変わり者だが、お前
さんの騎士様の登場だ﹂
中尉の指さす先に、土煙を上げてオートバイが走ってくる。
⋮⋮私の騎士様?
左目に海賊のような眼帯をして、こっちに向かってくるのが文洋
だと気がついたレオナが赤面するのを、フリントが笑い飛ばした。
レオナの家を滅ぼした貴族の執政官、北の騎士と言われ育てられ
てきた自分自身、そして、目の前で笑う油にまみれた整備中尉、誰
が誇り高い生き方をしているのだろう、誇り高く生きるとはどうい
うことなのだろう。
晴れ渡った冬の空を映す小さな湖に、紫色の翼が揺れる。
冷たい風は、少し、春の匂いがした。
§
485
﹁のう、王女よ﹂
﹁どうされました、スカーレット殿下﹂
護衛の騎馬隊に囲まれて、四頭立ての馬車が石畳を走ってゆく。
沿道は、お伽話に出てくる赤竜公女をひと目見ようとする市民であ
ふれかえっていた。
﹁昔な、お主の祖母に招かれて、この街の離宮で過ごしたことがあ
った﹂
﹁良い所ですものね、お祖母様、あの海の見える離宮がお気にいり
でした﹂
時折、民衆に愛想を振りまきながら、スカーレットはラティーシ
ャ王女に話しかける。
﹁ああ、エルフなのに、いつも海を見ている変わり者じゃった﹂
﹁お祖父様が、海で亡くなったの、ご存知ですよね?﹂
﹁戦でな⋮⋮﹂
﹁お祖母様、待っておられたんです。いつか帰ってくるんじゃない
かって﹂
死んだ者は帰ってこない、わかっていながらもすがることで、生
きる希望をつなぐこともある。
ドラゴン・ネスト
﹁ああ、知っておるよ﹂
テールス
﹁赤竜城塞﹂の始祖の言葉が、スカーレットの脳裏にちらりと浮
かぶ。と同時に、あの地球の裏側からやってきたという若者の目を
通して、鮮やかな風景がスカーレットの脳裏に描き出された。今は
飛行機の操縦席で、膝の上に少女を乗せ、なにやらやっているよう
486
だ。
﹁ラティーシャ王女よ﹂
﹁はい?﹂
﹁いや、なんでもない﹂
︱︱ 神と関わるな、人と関わるな、彼らは熱狂をもたらし、熱
狂は死をもたらす。
わらわ
わらわ
妾の判断が、我が国の、そして竜族の存亡を決める。失った片翼
がズキリと痛む。父は軽率だと妾を叱るだろうか?
﹁殿下、大丈夫です、わたくしは、そして女神テルミアは、殿下を
見捨てません﹂
女神テルミア⋮⋮爺の想い人⋮⋮、ぽすん、と音を立ててスカー
レットはビロードのシートに背を預けた。
﹁ありがとう、ラティーシャ﹂
わだち
ガラガラガラと轍の音を響かせて、馬車が海沿いの道を走る。
スカーレットの耳に、沿道の熱狂的な歓声が響き渡った。
487
猟犬と巨人︵前編︶
﹁ねえ、フミ⋮⋮﹂
水面に揺れる﹃スレイプニール﹄のコックピットで、レオナが文
洋を見上げる。
﹁ん?﹂
紅玉の左目で、南の空を睨みつけていた文洋が、レオナの声に視
線を落とした。
﹁大丈夫?﹂
﹁ああ﹂
心配そうに言うレオナに、文洋は赤い瞳を閉じてウィンクしてみ
せる。だが、正直な所、眼帯を外した途端になだれ込んできた情報
の量に困惑していた。
左目だけが倍ほど見通しが利く上に、普通なら見えないものが目
に入ってくる。レオナが赤水晶を﹃スレイプニール﹄に取り付けた
時など、コンソールからスロットルへ、スロットルから魔法推進器
へと流れてゆく魔力の流れが見えたほどだ。
﹁ちょっと、色々見えすぎて困ってるだけだ。大丈夫、じきになれ
る﹂
﹁そう⋮⋮﹂
488
うつむくレオナの頭に、ぽん、と手を置くと文洋はもう一度笑っ
てみせた。
﹁連れて帰ろうな、レオナの家族を﹂
﹁うん、きっと﹂
いずれにしろ生きて帰らなければな⋮⋮。
湖面で静かに揺れるスレイプニールのコックピットで、再び文洋
は南の空を睨みつけた。
§
︱︱ どこで計画が狂った⋮⋮。
アルビオン
ルデウスは一路北を目指して、四十五ノットで空を征く﹃巨人﹄
の艦橋で自問自答していた。アリシアの経済は戦争が始まって以降、
嘘のような好況をていしている。
この戦争が長引けば長引くほどアリシアは潤い、その昔﹃中つ海﹄
にその国ありといわれた海運国アリシアの復興も夢ではない。
﹁ルデウス卿、直掩に四機残していきます﹂
そんな思索の時間は、クロード少佐の野太い声で断ち切られた。
革のフライトコートに白いマフラー、ゴーグルを首からぶら下げた
少佐が、水晶宮の投影板がら顔を上げ、こちらをじっと見ている。
いまいましい男だが、三都同盟最大の港町を取り仕切る貴族の嫡
男とあっては、無下にもできない。ルデウスはいつもの通り笑顔を
489
くら
浮かべ、ほの昏い思いを仮面の下に押し込める。
なんにせよ、ここまで来たからには、成果を出すしかない。怠惰
な王室や時代遅れの官僚たちに切り捨てられるトカゲの尻尾などに
なってたまるものか。
﹁ありがとう少佐、全機連れていって下さい。航空機銃では我々に
は傷ひとつ付けられはしませんよ﹂
アルビオン
﹃巨人﹄に搭載された戦闘機が十四機、同盟の飛行船二隻に搭載
された戦闘機が四機ずつ。合計で二十二機。
少ないようだが、敵も哨戒にでている機数を引けば数の差は問題
にならない。情報部からはテルミア空軍は夏の戦いで自治区のダー
クエルフまで動員するほどに損耗しており、訓練の度合いも高くな
いとの報告を受けていた。
﹁しかし、ドラゴン相手にこの船だけでは、鈍重がすぎるでしょう﹂
コツコツと床を鳴らし、クロード少佐がそう言いながら司令席ま
でやってくる。
﹁ご心配はごもっともですが、巡洋艦の主砲より、おとぎ話のトカ
ゲの方が強いはずもないでしょう、少佐﹂
いつもの調子で笑顔の仮面を浮かべ、ルデウスはクロードに肩を
すくめてみせる。青竜﹃フルメン﹄の襲撃は気がかりだが、その後、
何度か同盟の艦隊が襲われたものの、最初の襲撃以上の損害は出て
いない。
490
さしもの青竜も人の叡智の前には力不足ということだ⋮⋮。
﹁なるほど、ご配慮に感謝しますルデウス卿。我々は十五分後に出
撃、貴艦に先行、戦闘にはいります﹂
﹁ご武運を、少佐﹂
﹁そちらこそ﹂
かかとを鳴らして敬礼し、司令室から出てゆくクロード少佐の背
中を見送って、ルデウスは自分の背後を振り返った。
ゆめ
セ
巨大な赤水晶の隣で、分厚いガラスに囲まれ幸せな夢を見続ける
少年を。
プテントリオン
﹁さあ、君のその幸せな世界を守るために、働いてくれたまえ、北
の騎士殿﹂
§
﹁哨戒飛行船、二十二号より、入電、敵戦闘機多数と交戦中!﹂
﹁二十二号の空域は?﹂
﹁レブログより方位一八五、距離五〇マイル!﹂
スカーレット
通信士の声に、ロバルトは腕時計をちらりと見た。〇八四五時、
赤竜公女殿下の演説が始まるのは一〇〇〇時、敵の狙いがそれを邪
魔する、もしくはラティーシャ王女殿下と公女殿下の命だとすれば、
小一時間で、あの空飛ぶ怪物が姿を現すということだ。
﹁艦長、出撃準備が完了するまで南進しながら上昇を、通信士、レ
ブログ空軍基地に全機出撃を送信﹂
﹁了解、レブログ空軍基地に全機出撃を送信﹂
491
メリュ・ジーヌ
直掩の六機が灯火信号に反応して﹃竜翼の淑女﹂を追い抜き上昇
してゆく。真っ黒な翼、胴体に派手なチェック模様、操縦席の下に
クロスした双剣と、黒い兎が誇らしげに描かれていた。
﹁諸君、仕事の時間だ﹂
メリュ・ジーヌ
伝声管に向って、ロバルトは力を込め、声を響かせる。艦内にブ
ザーが鳴り響き、白亜の巨体を唸らせて﹃竜翼の淑女﹄が上昇を始
めた。
§
﹁来た﹂
南の空に黒い翼が現れる。
﹁よく見えますな﹂
後部座席からクラウスが感嘆の声を上げた。
﹁候補生、ロープを解いてくれ﹂
フリント整備中尉が残していった少年兵に、文洋は声をかける。
慌てて少年兵がもやい綱に駆け寄ると、機首のロープをほどく。
﹁これ、あげる。後で食べて﹂
﹁はっ、え?﹂
﹃スレイプニール﹄をもやっていたロープを解き、フロートが当
492
たらないよう、スレイプニールの主翼の付け根をそっと押し出す少
年兵に、レオナが紙袋をさし出した。中身はローラのお弁当だ。
﹁レオナ﹂
﹁ええ、フミ﹂
スレイプニールが桟橋から離れる。そっとレオナがスロットルに
手を乗せると、ブンと低くうなって、コンソールが赤く光る。
機体を巡る魔力の流れが、まばゆい光の線となって文洋の目に飛
び込んでくる。一つ、二つ深呼吸して、文洋は左目に意識を集中す
る。
﹁フミ?﹂
﹁大丈夫だ﹂
すうっ、と普段の視界が戻ってくる。待っている間の小一時間で、
文洋は風の流れにのって踊るシルフィードや、水面に揺れるユリカ
モメを相手に、見なくて良い物を見えなくする練習をしていた。
轟々とエンジン音を響かせ、ラディアの乗った﹃ハティ﹄が文洋
コックピット
たちの上をフライパス、緑の信号弾を空中に打ち上げる。誇らしげ
に操縦席下に描かれた黒兎のマークに文洋はニヤリと微笑んだ。
﹁行こう﹂
レオナの左手を包むようにして、文洋はスロットルをゆっくりと
開く。
風上に機首を向け、加速する。
ヒュイーンと高い音がして、緑の燐光を振りまき、飛沫をあげて
紫の機体が駆ける。
493
タン、タン、タタン!
投げられた水切り石のように軽い衝撃を残し、ふわりと機体が浮
かび上がった。操縦桿をひいて魔法推進器の力任せに上昇して、文
洋はラディアと翼を並べる。
魔力の流れまで見えるようになった目が、精霊を召喚する際の魔
力の流れを捉え、ぼんやりとした光が操縦席の右でうず巻くのが見
える。
﹁中尉、敵は真南から、まっすぐこっちに﹂
ウインドウィスプ
うずの中から姿をあらわしたシルフから、ラディアの声が響く。
初めて体験する風の囁きで、不意に声をかけられたレオナが、文洋
の膝の上でビクリと小さく飛び上がった。
﹁了解、他の連中は?﹂
なるほど、魔力の流れが見えるのは便利なこともあるな⋮⋮思い
ながら、スロットルを握るレオナの手を、ぽんとたたいて文洋は見
上げるレオナに笑顔を向ける、顔を赤くした少女が頬をふくらませ
てすねてみせた。
ブラック・ラビッツ
﹁うちの連中は基地の上で待ってる、ハウンド・ドッグ隊の残りと、
爆弾積んだ偵察機はまっすぐ南に出てったよ﹂
﹁そうか、俺達も行こう﹂
ブラック・ラビッツ
スロットルを少し開けラディアの前に出る。数分で基地上空で六
機の黒兎隊と合流した。
494
﹁中尉、お借りしてます﹂
今度はラディアの召喚したシルフと反対、左側にぼんやりと光が
うずを巻き、フェデロ准尉の声がする。翼を振ってこちらに寄って
くるのは、群青色に白い狛犬が描かれた文洋の愛機だった。
﹁ああ、フェデロ、壊さないでくれよ﹂
左手をあげて文洋が答えた。なるほど、一機でも戦力が欲しい今
なら、遊ばせておく手はない。
﹁それで、どうするさね﹂
りんこう
右側のシルフからラディアの声。緑色の燐光を振りまき、コック
ピットの左右にシルフを従えた機体は、外から見ればさぞかし絵に
なることだろう。
アルビオン
﹁高度を上げながら南へ、﹃巨人﹄は二〇〇〇フィートそこらしか
上がれんが、護衛機は上からくるぞ﹂
﹁了解﹂
空軍が全力で出撃はしているものの、航空機銃で何とかなるよう
な相手ではない。頼みの綱はロバルト中佐率いるドラグーン隊の魔
法攻撃くらいのものだ。
アルビオン
﹁そういや中尉はその銛で巨人を狩ろうってのかい?﹂
﹁そうだ﹂
﹁大昔、ダークエルフの英雄にそんなのがいたっけね﹂
﹁なら、巨人を退治してたらお姫様のキスが貰えるな﹂
495
ラディアの軽口に笑顔で答え、文洋は操縦桿を引いた。二体のシ
ルフを左右に従え、紫色の機体が澄み渡った空を駆け上った。
§
レブログのテルミア神殿、この街で最も古く、公会堂としても使
われてきた石造りの広間には、テルミア議会の主だった面々と、招
かれた貴族たちが集まっていた。
﹁ひさしいの、ヘンドリクス﹂
﹁ええ、公女殿下、先日の舞踏会でお会いできませなんだので、か
れこれ、十五年ぶりですかな﹂
控えの間で懐かしい顔を見かけて、スカーレットは子供のように
手を振ってみせる。
﹁殿下!﹂
﹁よいではないか、のうヘンドリクス﹂
﹁変わりませんな、相変わらずのお転婆のようで﹂
わらわ
﹁お主ら人間がの、コロコロと変わりすぎるだけじゃ、うちの爺な
ど三百年も変わらず、この調子で妾に小言を言っておる﹂
時代がかった老騎士の胸鎧を、拳でコンコンと叩いて、スカーレ
ットは呵々と笑った。
﹁失礼します、近衛隊長﹂
真っ白い近衛の制服を着た兵士が、そんなヘンドリクスに駆け寄
ると、小さくたたんだメモを手渡す。
496
﹁なんと⋮⋮﹂
竜の目を通して、文洋とダークエルフたちが空を行く風景を見て
アルビオン
いたスカーレットは、ラティーシャ王女を見て小さく頷いた。思っ
たとおり﹃巨人﹄が姿を現した⋮⋮。そういう事だ。
﹁よい、ヘンドリクス、このまま続けようではないか﹂
なんでもお見通しだとばかり、スカーレットは老騎士に胸を張り、
言った。
﹁しかし、危のうございます﹂
﹁ラティーシャ?﹂
隣に立つ王女を見上げて、スカーレットは問いかけた。
﹁ヘンドリクス、ここで負けるようでは、王国に未来はありません﹂
﹁しかし姫様﹂
﹁全軍に打電なさい、﹃ラティーシャ・リア・ユーラスは、レブロ
グのテルミア神殿にあり。女神に皆の武運長久を祈る﹄﹂
小さくため息をついて、老騎士が伝令を呼ぶ。
﹁安心せい、ヘンドリクス、ここが一番安全じゃ﹂
スカーレットは後ろに控える老執事を振り返ってニカリと歯を見
せた。
わらわ
﹁爺、妾は腹をくくったぞ﹂
497
小さくため息をついて、老執事がメガネを外す。
わらわ
アルビオン
﹁それで、何をすればよろしいですかな?﹂
﹁妾に翼を与えてくれた者がの、いま﹃巨人﹄と戦おうとしておる﹂
﹁手伝って来いと?﹂
﹁なに、八つ当たりの続きをしてまいれ﹂
そういって、スカーレットは横に立つラティーシャと目を合わせ
る。
﹁わたくしからも、お願いします、女神テルミアの恋人さん﹂
バツの悪そうな顔で照れる老執事に、王女と二人で顔を見合わせ、
スカーレットは訳知り顔で微笑んだ。
498
猟犬と巨人︵中編︶
﹁間に合わなかったか﹂
眼下で哨戒飛行船が火の手をあげて落ちてゆくのを見て、ブライ
アンは毒づいた。神様は信用していないが、今回ばかりは彼らが落
とされる前に警報を発信していることを祈るばかりだ。
アルビオン
その上、思ったより敵の数が多い、﹃巨人﹄の艦載機は十機程度
のはずだが、二十やそこいらはいるだろう。
ラッキーなのはこっちのほうが二〇〇〇フィートは高い上、装備
が旧式の﹃スコル﹄から新型の﹃ハティ﹄に切り替わっていること
だ。
それにしても数に差がありすぎる⋮⋮待つか⋮⋮いや⋮⋮。
翼を振ってブライアンは機体をひねり、僚機がついてくるのを見
届けてスプリット機動で反転すると同盟軍の黄色い編隊に向けて急
降下させる。
﹁いくぜ、黄色い狐共、後ろ足に噛み付いてやる﹂
きらめく海上を雁行する敵編隊めがけ、ブライアンの真紅の翼が
矢のように急降下。
黄色い翼の敵編隊めがけ、二機の﹃ハティ﹄が唸り声をあげた。
気付いた敵が編隊を解き、三々五々回避を始める。
499
ヘッドオン
無謀にも機首を上げ、正対しようとする敵の二機にブライアンは
狙いを定めた。
空を征く騎士の槍試合。
降下、降下、距離が縮まる。
射程距離まであと一息。
そこでブライアンは、操縦桿を力いっぱい引き上げた。
ギシリと機体がきしむ。
降下で稼いだ速度を高度に変えて、﹃ハティ﹄が蒼空へ駆け昇る。
﹁あいにく、こちとら、生活にも困る貧乏貴族でな⋮⋮﹂
慌てて軌道を修正しながらフラフラと上昇し、機銃を撃ちかける
敵機をブライアンは釣り上げた。
フェア
﹁馬鹿正直に、殴りあうほど清廉潔白じゃないのさ⋮⋮﹂
高度をあげて引き離しながら、後ろの敵機をじっと見続ける。
敵の速度がみるみる落ちてゆく。
﹁残念だったな﹂
ペダルをグイと蹴飛ばして、ハンマーヘッドターン。
速度を失い、ヨタヨタと機首を下げる敵の頭上にブライアンは襲
いかかった。
照準環の中、こちらをパイロットが見上げている。
﹁あばよ、兄弟﹂
500
呟いて、ブライアンは発射レバーを引いた。
二丁の三十口径機銃が短く唸り声を上げる。
血の花が咲き、敵のパイロットがもんどり打つ。
そのまま、降下してスロットル全開で速度を稼ぐと、ブライアン
は僚機をつれて敵編隊の真ん中を射抜くように突っ切った。
§
︱︱ ひどいものだ、これでは奇襲どころか強襲もいいところだ。
幸先良く哨戒飛行船を落としたのもつかの間、上から降ってきた
テルミア空軍の紅い機体にかき回された編隊を立て直すべく、クロ
ードは緑の信号弾を打ち上げる。
信号弾に反応して集まった直属の部下八機を率いて、クロードは
その場で旋回しながら編隊を整えると高度をとりなおした。
アリシアの空中戦艦がどうなろうと知ったことではないが、優秀
な部下を無駄に失うのは御免だ。
五分ほどその場で緩やかに弧を描いて八〇〇〇フィートまで高度
を上げ、クロードは再度進路を北へと向けた。
先行した隊がすでに戦闘に入っているのだろう、どちらの機体と
もつかないが、前下方に炎と煙がたなびくのが見える。
それを無視してクロードは北上を続けた。こうなった以上、必ず
アリシア空軍の増援がくるに違いない。ならば高度を落として乱戦
に巻き込まれるのは愚の骨頂だ。
︱︱ 来た⋮⋮何機だ、五⋮⋮いや、六機か。
501
正面からやってくるアリシア空軍の機影を睨みつける。真っ黒に
塗られたエンジンカウルと翼。胴体は恐らく、派手なチェック模様。
ヒュードラ
以前、自分に真正面から撃ちかかり、鮮やかに逃げ去った連中と
同じカラーリング。九頭蛇を鹵獲した褒美に、王女直属になったと
いうダークエルフ達の機体だろう。
︱︱ 隊長機はどこだ?
夏に一度落として以来、なんの因果か幾度と無くやりあった蒼い
機体を目を凝らして探す。数はほぼ同数、腕なら間違いなくこちら
が上だ。
だが、前回のように上からかぶられてはたまらない。見える範囲
に奴は居ない、だが何処かに居るはずだ⋮⋮。
僚機を振り返り大きく手を振ると、クロードは戦闘開始を告げる
赤い信号弾を打ち上げた。
自分の部下たちが腕で負けることはない、ならばいつも通り、上
から見守ってやればいいだけだ。
作戦に無理があったの判っていたことだ。だからこそ、こんな所
で部下を死なせるつもりはクロードにはサラサラなかった。
§
﹁ラディア、正面、空中戦が見えるか?﹂
南へ十分ほど飛んだ所で、文洋の紅玉の瞳が前方の空中戦をとら
えた。敵味方合わせて、一ダースほどの機体がきらめく海を背景に
輪を描いて踊っている。
502
メリュ・ジーヌ
ブラックラビッツ
黄色は敵機、黒い翼は﹃竜翼の乙女﹄の直掩につけた﹃黒兎隊﹄
だろう。黄色と黒の機体が踊る輪の中に、一機だけ、紅い翼に派手
な白十字を描いたブライアンの機体が混ざっている。
﹁なんにも見えないよ中尉﹂
﹁こっちだ、ついてこい﹂
翼を振って編隊に合図すると、文洋はスロットルを押し上げ前に
出た。エルフですら見えない距離から機種と色まで判別出来るとい
うのは、空中戦では絶対のアドバンテージだ。
﹁ああ、やっと見えた、わたしも欲しいなその紅い目玉﹂
四〇秒ほど飛んだところで、ラディアが感嘆の声をあげる。その
時、文洋の紅い瞳は機体に描かれた識別マークを読むことすらでき
ていた。
﹁押されてるな⋮⋮、俺達はこのまま突っ切る、ラディア、残って
仲間を助けてやれ﹂
﹁でも中尉⋮⋮﹂
アルビオン
ラディアの言いたいことはわかる、﹃巨人﹄は、﹃スレイプニー
ル﹄一機で立ち向かうには大きすぎる敵だ。
﹁いいんだ、隊を頼むぞ﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
すねたような声が返ってくる。
503
﹁白い狐がどこにも居ない。背中と頭上に気をつけろ﹂
﹁⋮⋮ユウキも、帰ってこなかったら許さないんだからね﹂
﹁ああ、帰ったら皆で祝杯だ﹂
横にならんでゴーグルをあげ、ラディアがこちらを見つめる。
﹁約束、したから﹂
ブラックラビッツ
手をあげる文洋にそう言い残し、アカンベェをしてラディアが機
体を降下させる。引き連れてきた﹃黒兎﹄が彼女を追って次々と降
下してゆくのを見ながら、文洋は高度をとって戦場を避けようと、
軽く操縦桿を引いた。
晴れた空を見上げる。一つ、二つ、切れ切れに小さな雲が浮かん
スカーレット
でいた。後ろと上に何も居ないのを確認するのは、もう癖のような
ものだ。
そのうえ、赤竜公女からもらった左目は、集中すれば雲の向こう
さえぼんやりと透かして見える。
﹁くそっ!﹂
雲を見上げて目を細め、文洋は毒づいた。
﹁きゃあっ! なに!?﹂
﹁掴まってろ﹂
透かして見えた影に、文洋は﹃スレイプニール﹄を急降下させる。
一瞬遅れて、雲の中から黄色い機体が飛び出してきた。
§
504
︱︱ 気がづいていた?
雲の影から完璧なタイミングで飛び出したはずの自分の事が、ま
るで見えていたかのように急降下してゆく紫の機体にクロードは違
和感を覚えた。
︱︱ 見えるわけがない、だが見えていたようだった。
テルミア王国の機体にしては、やたらと流麗な単葉の飛行艇が、
急降下してゆく。翼の上に載せたエンジンから彗星のように緑の光
を振りまいている。
クロードはその機体に見覚えがあった。夏の夜、落としそこねた
機体だ。あの時、すれ違ったのは一瞬だが、特徴のあるシルエット
と緑の燐光を撒き散らすエンジンのことはよく覚えている。
︱︱ 今度は逃がさん。
スロットルを叩きつけるように押し出すと、黄色の翼が唸りをあ
げて加速する。
きらめくアメジストの単葉機の後部座席で、大柄な男がこちらを
振り向いた。
︱︱ 複座? 偵察機か?
きゃしゃ
華奢なわりに、なかなかの速度で加速してゆく紫色の機体を、新
パワーダイブ
型の十二気筒エンジンが咆哮をあげ、ジリジリと追い詰めてゆく。
重量が軽いのか、急降下ではこちらのほうが速いようだ。
避ける気が無いかのように、乱戦状態の戦場めがけ、まっすぐに
505
降下してゆく紫色の機体が照準環のなかで大きくなる。
必殺の距離まで引きつけ、クロードは操縦桿についたレバーを短
く握りこんだ。
連装機銃が雄叫びをあげた。
そして⋮⋮あの夜と同じく、弾丸は魔法陣に行く手を遮られ、宝
石のような燐光を空中にきらめかせた。
︱︱ 今の魔法陣、見覚えがある。
前回と違い、完全に後ろをとった状態だ、じっくりと観察する余
裕がある。
その上、前方をゆく紫の機体は、その防御魔法に全てを賭けるよ
うに、まっすぐに降下を続ける。
三度引鉄を引いて、魔法陣の模様を確認する。
そして、クロードは自分が誰を相手にしているのか思い当たった。
︱︱ そうか、生きていたのか。
銃撃を止めてクロードは前の機体に手を振る。
機首を右に振って、射線から外すと、左右に翼を振った。
パイロットの肩越しに、小さな影がこちらを振り向くのが見える。
さらに加速して翼を並べた。
パイロットの膝の上に窮屈そうに座った少女が、飛行帽を脱ぐ。
ふぁさり、と亜麻色の髪が風に広がり、少女がこちらを見つめる。
︱︱ 生きていたのか、麗しの防空士官殿。
最後に見かけたあの日と変わらない強気な瞳で自分を見つめる少
女に、えも言われえぬ感情が巻き起こった。
506
頭ではなく、感情の命じるままに、南南西を指さし、クロードは
大きく身振りで、﹁行け﹂と腕を振る。少女を膝の上にのせたパイ
ロットが、小さく敬礼して、クロードが指さした方へ機首を向けた。
︱︱ このロクでもない戦場に、取りもどしにきたのか、少女よ。
ソーラ・セカレ
アリシアの飛行戦艦、水晶宮と呼ばれる司令室で、 第二の太陽
と呼ばれる巨大な赤水晶の下、ガラスの棺で眠る少年がクロードの
脳裏に浮かぶ。
︱︱ アリシアの宰相閣下には悪いが⋮⋮ここまでだ。
彼らを守ろうというのだろう、乱戦の中からチェック模様の機体
が何機か、こちらめがけて突進してくる。その中に紺色の隊長機を
見つけたが、クロードはそれを無視して翼を翻した。
座席の横から信号拳銃を取り出し、敵機を交わしながら赤い信号
弾を打ち上げる。再装填して二度、三度。
テルミア王国の南にあるダークエルフ自治区、テルミアの頭痛の
種と言われたダークエルフたちに守られて、紫の機体が小さくなる。
︱︱ 戦争に正義など無い、だが、今日のこの戦いに限っていうな
ら、正義は彼女のものだろう。
味方に食い下がる敵機を撃ち落とし、追い払いながら、クロード
は隊を南東へと逃がす。
この数なら、本国の飛行船にでも回収できるだろう。
︱︱ まったく、ひどいものだ。
507
目を細め、きらめく海に小さくなってゆく紫の機体を見ながらク
ロードはため息をついた。
508
猟犬と巨人︵後編︶
﹁見つけた、一時の方角﹂
十分ほど飛んだ所で、﹃巨人﹄︽アルビオン︾の姿を探し求める
文洋の目に巨大な空中戦艦が飛び込んできた。
﹁ユウキ殿! 左上空!﹂
下に気を取られている二人に背後からクラウスの声が響く。
﹁大丈夫、味方だ﹂
クラウスが指さした方角に視線を走らせ、文洋はクラウスに返事
をする。先頭のチョコレート色の機体に描かれた紋章はフクロウ、
ロバルト中佐のドラグーン隊だ。
﹁ドラグーン隊の攻撃に乗じて、こちらも突入しよう﹂
アルビオン
六機の編隊が一斉に散開すると、﹃巨人﹄めがけて急降下してゆ
く。実際には初めて見る巨大な飛行戦艦の上空を、文洋は大きく弧
を描いて旋回し、固唾を呑んで見守った。
﹁レオナ﹂
﹁なに?﹂
二度、三度、ドラグーン隊が降下しては、機銃と雷撃魔法を叩き
つける。弾丸があたったところに緑色の魔法陣が現れ、燐光を残し
509
て砕け散る。
二機ずつペアになり、タイミングを合わせてプロペラのついた推
進器を狙っているようだが、見事に魔法陣に遮られていた。
ソーラ・セカレ
﹁あの防御魔法は、あんなに強力だったか?﹂
﹁あの飛行船の赤水晶は、アリシアの国宝﹃第二の太陽﹄、魔力は
無限って言われてる﹂
無限の魔力⋮⋮か、それにしたって強力過ぎる。中佐の話では前
回は機銃で崩した後に本体に魔法が届いたという話だったはずだ。
﹁クラウス、まわりを見張っててくれ﹂
そう叫んでから、文洋は降下しながら左目に意識を集中する。ド
アルビオン
クンと心臓が跳ね上がり、頭に光の渦が流れ込む。普段の数倍の情
報を見せられて頭痛とめまいに襲われる。
﹁フミ? 顔が真っ青よ?﹂
﹁大丈夫だ﹂
・・・
額に冷や汗が流れるのを感じながら、文洋は﹃巨人﹄の周りに流
れる魔力の流れを見ようと目を凝らす。
﹁クソッ﹂
﹁なに? どうしたの?﹂
﹁あれは、もう魔法陣なんてもんじゃない、殻だ﹂
霞がかかったような視界の中、巨大な船を包み込むように魔力が
渦巻いているのが文洋に見える。
510
﹁だから攻撃してこないの?﹂
﹁ああ、あの様子じゃ外から攻撃出来ない代わりに、中からも攻撃
出来ないからな﹂
ヒュードラ
舷側にならんだ機銃座に兵は配置されていない、甲板の高射砲に
もだ。九頭蛇の時の戦訓を得て、閉じこもる事にしたという訳だ。
﹁奴ら、あのままレブログまで行くつもりだ﹂
﹁フミ、でもおかしいわ﹂
膝の上の少女が、身体をひねって文洋を見上げる。
﹁何が?﹂
﹁だって、あれ﹂
アルビオン
レオナが﹃巨人﹄の船体側面で回っているプロペラをさした。﹃
スレイプニール﹄の機体ほどはあろうかという大きなプロペラが片
側に三基回っている。
アルビオン
﹁もし﹃巨人﹄があれで進んでいるなら、どこかから風出てなくち
ゃ、ダメなんじゃない?﹂
﹁ああ、そうだな、プロペラで進むならどこかに風の出入口が必要
だ﹂
完全に閉じた殻のなかでプロペラを回しても推進力は生まれない、
なるほど、そいつは道理だ。だが、実際に進んでいるならどこかに
風の出入口がある⋮⋮。
﹁でも、どこにあるのか⋮⋮。﹂
﹁俺の眼なら見えるさ、殻に開いた穴を見つければいいんだろ?﹂
511
文洋はそう言ってスロットルを開いた。人間が作ったものなら、
人間が作ったようにできているはずだ。ならば、艦首側に風の入り
口が、艦尾に出口があるだろう。
今度こそ、出来る事全てを尽くすのだ。何も出来なかった少年時
代のように、レオナの希望が消えるのを、ただ見ているだけなど、
出来るものか。
業を煮やしたドラグーン隊が四機編隊で急降下して、弾丸の嵐と
アルビオン
雷撃魔法を一か所に浴びせかけた。空気を切り裂く大音声とともに
稲妻の束が走り、﹃巨人﹄の一二〇ヤードほど手前で燐光を上げて
消え去った。
§
﹁母様、雷だ、怖いよ﹂
屋敷の外で幾度となく響く雷鳴に、ルネは身体を小さく震わせて
隣に座った母の膝に身を預けた。 ﹁あらあら、甘えん坊さん﹂
﹁だって雷は大きな音がするんだもの﹂
甘えるルネの栗色の髪を、母の温かい手がゆっくりと撫でてくれ
る。
﹁ルネは男の子でしょう? 大きくなったら騎士になるんじゃなく
て?﹂
﹁いいんだ、僕は騎士にならなくても、だって強くないし﹂
512
目を閉じて、ベロア生地のソファーに寝転がり、母の膝に頬をの
せた。
﹁そうね、ルネは優しい子だから﹂
そう、僕は弱虫で強くないから、騎士は代わりに代わりに⋮⋮。
なにか忘れているような気がして、ルネはふと考えこむ。なんだろ
う? 何かを忘れている気がする。
ぼくは強くないから⋮⋮騎士は強い人がなればいいんだ。そう、
いつだって強い⋮⋮誰か⋮⋮が。
§
アルビオン
左目の奥に広がる痛みと闘いながら、文洋は﹃巨人﹄を包む魔力
の切れ目を探す。血管というにはあまりに規則正しく枝分かれする
その流れは、流線型の船体にそって流れ、十ヤードごとに生えてい
るアンテナを基点に防御魔法を張っていた。
﹁見つけた﹂
巨体を追い抜いて艦首の前まで出た文洋は、艦首前方に楕円形に
口を開けた殻の切れ目を見つける。二十ヤードほどの円形の穴がぽ
っかりと殻の先端に開いていた。
﹁通れそう?﹂
﹁やってみるさ﹂
アルビオン
四〇〇ヤード程距離を取り、﹃巨人﹄に正対する。三〇〇、二〇
〇。
513
﹁チッ﹂
どこかで見ていたかのように、船体の表面を魔力がほとばしり、
艦首のアンテナから防御魔法が展開される。
﹁きゃあっ﹂
操縦桿を大きく引き、すんでの所で魔法防壁をかわす。
﹁ルネ⋮⋮﹃スレイプニール﹄が見えないの? ルネ⋮⋮﹂
文洋の膝の上でレオナが小さく涙声を上げた。
﹁手を離すな、もう一度だ﹂
レオナがスロットルから手を放せば﹃スレイプニール﹄の推進器
は止まる。
﹁大丈夫、まだ負けてないもの﹂
﹁いい子だ﹂
アルビオン
このままでは、らちがあかない。﹃巨人﹄上空を飛び抜けて、文
洋は後ろに回った。
スレイプニールのスロットルはミスリル製だ、スロットルを開け
ればミスリル銀の接触面積が広くなり、スロットルを閉じれば狭く
なる。推進器に刻まれた魔術式に、レオナを媒介にして赤水晶の魔
力を流しているに過ぎない。
514
ソーラ・セカレ
アレが同じように、﹃第二の太陽﹄の魔力にまかせ、常に防御魔
法を展開して、それを機械的に制御していたら? そこにルネの意
思が介在する余地はない。
﹃スレイプニール﹄を見てルネが動揺すれば、取り付く島がある
かもしれない。そんな目論見自体が甘かったということだ。
﹁ファリナ灯台か﹂
岩礁に設置された灯台はもうレブログまで、十五マイルほどしか
無いことを示している。
残された可能性は、敵が殻を解いて砲門を開き、砲爆撃を開始し
た時だけだ。
文洋の脳裏に、アパートメントを出るときに、寂しげに手を振っ
たローラの瞳が浮かんだ。
奴をあの街にたどり着かせてはならない。
俺たちは、あそこに、そろって帰るのだ。
﹁くっ﹂
また何も出来ないというのか⋮⋮、文洋はギリと奥歯を噛み締め
た。
﹁ユウキ殿、上空!﹂
背後からクラウスの野太い声が響いた。
反射的に機体を傾けると、文洋は機体を右にバンクさせ急旋回す
る。
﹁あれ!﹂
515
レオナが目を丸くして上空を指さした。大きな翼の影が見えた。
機体を水平に戻し文洋はその影めがけて上昇した。
§
青竜フルメンは、眼下で繰り広げられている定命の者達の戦いを
上空から眺めていた。魔術師の乗った機械じかけの翼が六機、空を
飛ぶ鉄の船に襲いかかっては、周囲にめぐらされた強力な防御魔法
にむなしく跳ね返されている。
︱︱ なに、八つ当たりの続きをしてまいれ
いたずらっぽい笑みで殿下に、そう言って送り出されたものの、
フルメンはいまだ踏ん切りがつかずにいた。本当にこれで良いのだ
ろうか? 孤立を捨て、定命の者と関わり生きてゆくという殿下の
決断を、自分は諌めるべきではなかったのだろうか?
﹁?﹂
自分を見つけたのだろう、紫の機械じかけの翼が上昇してくる。
目を凝らすと、小さな翼には三人乗っていた。﹃飴玉の君﹄⋮⋮殿
下がひどく気に入り、﹃瞳﹄をくれてやった若者だろう。
﹁フルメン、雷の竜、フルメンよ﹂
テールス
地球の裏側から来たという若者が呼びかけてくる。自分の横に並
んだ若者の左目は、殿下と同じ紅玉だ。その目を通して、殿下は自
分のことを見ているだろう。
彼の膝の上に座る少女は、自分を見て怯えていた。そうだ、定命
の者よ、我らは恐れられるからこそ、強きものだからこそ、貴様ら
516
に狩られず生きてきたのだ。
﹁問おう、異国の若者よ﹂
フルメンはテルミア語で黒髪の若者に問いかけた。
﹁⋮⋮﹂
紅玉と、黒色の瞳が、無言でまっすぐに見つめ返してくる。そこ
に怯えも、怒りも無かった。あるのは少々の焦りといったところだ
ろう。
﹁殿下は、貴様を手伝って来いとおっしゃった、故に汝に問う、な
にゆえ戦うかと﹂
ユウキ、確かそんな名前の若者は、その問いにゴーグルを上げて
微笑んだ。
﹁あなたと同じだ、フルメン、愛しい者の、そして家族のためだ﹂
照れること無く、恥ずかしげもなく言い切った若者の答えにフル
メンは声を上げ笑った。なるほど、こいつはバカに違いない。
﹁よかろう、定命の者よ、望みを言うがよい﹂
フルメンの言葉に、若者は小さくうなずいて、口をひらく。
ソーラ・セカレ
﹁あの防御魔法を打ち消したい、魔力の源は﹁第二の太陽﹂﹂
﹁忌々しい古代アリサリアの遺物か、船ごと壊してしまえばよいで
はないか﹂
517
フルメンの姿を見て怯えていた少女が、その言葉に狼狽する。
﹁家族があれに乗っている、だから落とすなら助けた後だ﹂
少女の肩をそっと抑えて、若者がそう言って首を振った。
﹁あれに、乗り込むと言うのか? 貴様らたった三人で?﹂
﹁ああ、必ず取り戻す、大事な家族だ﹂
ああ、なるほど、こいつはバカ者だ。しかも飛び切りの。
だが、こういうバカは嫌いではない。
同胞の為に命を投げ出す馬鹿者。
﹁よかろう、貴様ら定命の者の始めた戦だが殿下の命だ、一度だけ
手伝ってやろう。ケリは貴様らでつけろ。だが、殿下に事が及ぶな
ら貴様らごとあの船を焼き尽くしてくれる﹂
﹁恩に着る﹂
離れていろ、と頭を振ったフルメンに一礼して、紫色の機体が翼
をひるがえす。愛しい物のため⋮⋮か⋮⋮、ふわりと女神テルミア
に鼻面を撫でられた気がして、フルメンは微笑んだ。
翼を畳んでフルメンは急降下する。初めて目にする空を征く鉄の
船、定命の者の力、いかほどのものか見せてもらおう。
バサリ、と翼を広げて制動をかけると。巻き起こった風に煽られ、
魔術師たちの乗った機械仕掛けの翼が一機、くるくると落ちて行っ
た。慌てて散り散りに逃げ出す小さな翼を歯牙にもかけず、フルメ
ンは溢れる魔力に意思をのせ目の前の鉄の船に叩きつける。
518
﹁我が名はフルメン、女神の守護者、雷の青竜。我が当主の命で貴
様らを通すわけにはゆかぬ﹂
アルビオン
フルメンの古風な名乗りを砲声がさえぎり、﹃巨人﹄の艦首が砲
煙を上げる。
アルビオン
撃ちだされた砲弾は、フルメンの手前で稲妻に撃たれると紫の燐
光をあげて砕け散った。
﹁下郎どもめ! 思い知れ!﹂
怒声をあげてフルメンが唸る。
雷雲が巻き起こり、神をも穿つ雷が﹃巨人﹄叩きつけられた。
アルビオン
千と余年にわたり蓄えらえた魔力の奔流が防御障壁が食い破り、
鋼鉄の﹃巨人﹄の装甲板を走って火花を散らす。
それを待っていたかのように、陽光に翼をひらめかせ紫色の機体
が飛び込んで行く。
見送りながら、フルメンは自分が笑っていることに気が付いた。
巨大な翼をひと振りして再び空高く舞い上がる。
︱︱ 少々、あの若者にあてられたかも知れぬな。
アリビオン
紫の翼を守るように取り囲み、魔術師たちが駆る翼が再び﹃巨人﹄
に挑みかかってゆく。
︱︱ これでは殿下に小言もいえぬではないか。
眼下に光る海の上、定命の物たちが争い続ける。その姿に胸躍ら
せている自分がおかしくて、 轟と吠え、フルメンは笑いながら羽
519
ばたいた。
520
猟犬と道化師︵前編︶
﹁右舷より敵機、機数四!﹂
ピクシー
戦闘が始まって何度目かの警告が指揮所に響く。指揮所を囲むよ
うに取り付けられた投影板に、召喚士が呼び出した小妖精の視界を
映し出す水晶宮には、テルミアの魔法使いたちが無駄な努力を繰り
返すさまが映しだされている。
﹁何度来ても無駄なことです﹂
ソーラ・セカレ
司令席でアリシア執政官、ルデウス・ベリーニはほくそ笑んだ。
第二の太陽の魔力をルネという少年の類まれなる能力を媒介にして
引き出し、あらかじめ船の各部に刻まれた魔法式に流して防御陣を
展開する。
前回の戦いで防御を少年に任せた際は、判断の甘さで破られたが、
今回は少年の意思など関係ない。あくまで彼を媒介に赤水晶の魔力
を引き出し、全力で機械的に展開しているだけだ。
﹁ファリナ灯台上空を通過、目的地まで十五マイル!﹂
﹁進路そのまま﹂
ルデウスの隣に座っている艦長も、落ち着き払った様子だ。三十
分ほど前に平文で流された無電を思い出して、ルデウスは笑みを浮
かべた。
﹃ラティーシャ・リア・ユーラスは、レブログの神殿にあり﹄
521
愚かな王女よ、時代遅れの魔法騎士共と空飛ぶトカゲをたよりに
蛮勇をふるうならば、後悔させてやろう。
﹁正面、殻の切れ目から一機接近、開閉器作動、術式展開!﹂
ガシャン、と金属質の音がしてレバーが上げられる。地図を見て
いたルデウスは、投影板に目もくれず残り時間を計算する。十五分
もすればレブログの街が射程に入るだろう。
﹁直上! 雲の影に巨大な機影! いえ⋮⋮ドラゴンです!﹂
その時、防空指揮所の伝声管から悲鳴に近い声が響き渡った。
﹁対空戦闘用意!﹂
﹁まちなさい、艦長﹂
立ち上がり、ルデウスは手を上げると艦長を押しとどめる。
﹁執政官殿、しかし!﹂
﹁進路そのまま、主砲の用意を﹂
﹁上空に主砲は撃てませんぞ﹂
一気に慌ただしくなる艦橋で、ルデウスは一人、柔和な笑みを浮
かべ艦長を見つめる。
﹁どうせ時代遅れのトカゲのすることです、騎士よろしく正面で名
乗りを上げることでしょう﹂
﹁そこを撃てと?﹂
﹁ええ、彼らのカビの生えた価値観など、鉄の嵐の前に無力だと教
えてやればよろしい﹂
522
アリシアの中級貴族の出身だと聞く艦長が、一瞬、釈然としない
顔をしてから、小さく息を吐いた。
﹁砲撃戦用意、主砲発射準備!﹂
﹁砲撃戦用意﹂
そう、それでいいのだ。ドラゴンだの、魔法使いだの騎士だのに
は、昔話の中に帰ってもらえばいい。そう思いながら右手に持った
赤水晶の杖に目をやって、ルデウスは自嘲する。
﹁ドラゴン、来ます正面!﹂
闇を司る魔法、それ自体殺傷能力があるわけでもなく、防御能力
があるわけでもない。それを得意とする下級貴族の家系ゆえ、ルデ
ウスも子供の頃に覚えたそれだけは使える。
だが、自分を一国の執政官へと成り上がらせ、アリシアの四騎士
の上に立たせたのは、そんな魔法の力ではない。知恵と策謀、そし
て金と暴力だ。
﹃我が名はフルメン、女神の守護者﹄
船体を震わせ古代語でドラゴンが名乗りを上げる。そうだ、それ
でいい、間抜けなトカゲめ。
﹁照準よし﹂
砲雷長の声が響き渡る。
﹁撃て!﹂
523
アルビオン
艦長の号令に﹃巨人﹄が震える、艦首を閃光が包み、砲煙が視界
を遮った。破裂音があたりを震わせる。
﹁やったか?﹂
艦長が投影板を食いつくように見つめる。重巡洋艦の主砲と同じ
十二インチ二連装砲の直撃に耐えられる生き物など居るものか。ル
デウスは黒い歓喜と興奮を柔和な笑顔の仮面に押し込める。次の瞬
間。
﹃下郎供どもめ! 思い知れ!﹄
分厚い鋼鉄に守られた司令室を、古代語の叫びが揺らし、耳をつ
ピクシー
んざく轟音と衝撃が船を襲った。立ち上がっていたルデウスはよろ
めき、床にたたきつけられる。怯えた小妖精が妖精界に逃げ出し、
投影板がブラックアウトする。
﹁損害報告!﹂
艦長の声が遠くで聞こえる、頭をぶつけたらしい。ぬるりとした
ものが、頬を伝う。
﹁赤水晶への接続回路、安全装置が作動、いえ、焼き切れました!﹂
﹁応急班を呼べ! 召喚士、水晶宮の復旧急げ﹂
﹁無理です艦長、いまので怯えて、小妖精が召喚に応じません﹂
ルデウスの様子に気付いた士官が駆け寄り、傷口をハンカチで抑
える。
524
﹁執政官殿、大丈夫ですか? 衛生兵!﹂
その士官を押しのけるように立ち上がり、ルデウスは声を荒らげ
た。 ﹁魔導技師を呼んで接続回路を修理させなさい、進路はそのまま!﹂
﹁執政官どの!﹂
指揮を横取りされ、艦長が声を荒らげる。
﹁あんな大魔法、何度も使えるものではありません、艦長は艦橋に
あがって指揮を﹂
﹁しかし!﹂
なおも抗議する艦長にルデウスは右手の杖を振り上げた。
﹁アリシア王国執政官、ルデウス・ベリーニの名において、これ以
上の抗命は王国に対する反逆とみなします﹂
ただの脅しだ、ルデウスの使える魔法は二つしかない、ルネとい
う少年を信用させるために、教えを請うた防御魔法と、子供の頃に
覚えたあたり一面を闇で包む魔法。どちらも人を殺すには程遠い魔
術だ。
﹁し、失礼しました、執政官どの﹂
苦虫を噛み潰したような顔でそれでも艦長が返答する。
﹁召喚士と魔法防御に必要なものを残して、士官はブリッジに、対
空戦闘用意、進路そのまま﹂
525
矢継ぎ早に命令を出し、艦長と士官達が駆け足で司令室を出てゆ
く。がらんとした司令室で、ルデウスは背後の赤水晶を見上げて、
ギリリと歯噛みした。
§
パラパラとあちこちから銃座目指して飛び出してくる兵士たちを、
四機のドラグーン隊が蹴散らしてゆく。先ほどのドラゴンの特大の
雷撃の後だ、ロバルト中佐含め、魔術師達が放つ雷は威力以上に敵
の戦意をそいでいた。
﹁フミ! どうやって降りるつもり?﹂
レオナの質問に文洋は、﹃スレイプニール﹄の機首を下げる。
﹁こうやってだ﹂
アルビオン
﹃巨人﹄の飛行甲板中央に狙いを定め、文洋は飛行甲板めがけて
降下する。
﹁つかまってろ﹂
﹁墜ちる!﹂
空港に無理におろした事を思い出したのだろう、レオナが悲鳴を
あげた。
﹁墜ちない!﹂
アルビオン
あの時と違う。今回は﹃巨人﹄も四十ノットほどで動いているの
526
だ。
失速ギリギリまで追い込めば⋮⋮。
集中した文洋の指先に、翼から風が剥がれるのが伝わる。
機首を上げ、ストンと甲板上に文洋は機体を落としこむ。
それでも二十ノットはある速度差で、﹃スレイプニール﹄が甲板
を滑りだす。
﹁フミ! 止まらない﹂
時折、火花を上げながら機体が滑ってゆく。
﹁止まる!﹂
操縦桿から手を放して、文洋はレオナを抱きしめると、スロット
ルの前に取り付けられたレバーを握りしめた。
ズンッ!
腹に響く爆発音ともに、操縦席の両側から銛が放たれ、甲板へと
突き刺さる。
﹁つかまれ!﹂
膝の上の少女を両腕で抱きしめ、文洋は衝撃に備える。
﹁うぐっ﹂
ワイヤーが伸びきり、ガツンとした衝撃とともにベルトが肩に食
い込む。離すまいと文洋は少女をしっかりと抱きしめた。
﹁フミ⋮⋮、くるしい﹂
527
レオナの声に、文洋は腕を緩める。
﹁おい!大丈夫か!?﹂
整備兵だろうか、声を上げると慌てて数人が駆け寄ってきた。
少女を膝に乗せ、三人乗りで戦場に出てくる奴などいない、その
思い込みが油断だ。
﹁クラウス!﹂
﹁はい、お嬢様﹂
レオナの声に、ひらりと舞い降りたクラウスが、瞬く間に三人の
整備兵を叩き伏せる。
﹁さあ、お嬢様﹂
﹁ええ﹂
﹃スレイプニール﹄から外した赤水晶を杖にはめ込むと、レオナ
が立ち上がる。文洋も座席の下から肩掛けのかばんを取り出した。
右手に三十八口径のリボルバー、左手に愛用の短刀を握りしめる。
かばんの中には手榴弾が五つ。
﹁レオナ﹂
艦内へと続くハッチの前で文洋はレオナを呼び止める。
﹁?﹂
怪訝な顔でレオナが文洋をみあげた。
528
﹁ここから先は戦場だ、見たくないものも見るしか無い﹂
緊張した面持ちで少女がうなづく。
﹁だがひとつだけ、お願いがある﹂
文洋の言葉に紫色水晶の瞳が、文洋をじっと見つめ返す。
﹁できるだけ、君は殺すな﹂
甘い、それはわかっている。だが⋮⋮そう思いながら文洋は言葉
を継ぐ。
﹁君は俺達をしっかり守ってくれればいい﹂
文洋の言葉にホッとした表情を浮かべて小さく頷くレオナの頭の
上にポンと手を置いて、次に文洋はクラウスの髭面を見つめた。
﹁殺しは俺達の仕事だ、それでいいな、クラウス﹂
甘い、それはわかっている。だが⋮⋮一度殺せばもうそこは泥沼
だ。
﹁くは﹂
文洋の視線をとらえたクラウスが、額を抑えて声を上げて笑う。
﹁まったく、あなたという方は﹂
529
言いながらクラウスが上着と靴を脱ぎ捨てる。
﹁アリシアの北壁の騎士を継ぐお嬢様に⋮⋮ああ、まったく﹂
獰猛な笑みを浮かべ、クラウスが唸り声をあげた。メキメキと音
を立てて体が膨れ上がり、銀色の体毛が老執事の古傷だらけの体を
覆い始める。
﹁カンシャヲ、サア、ユコウ、ワガ、トモ﹂
牙を剥いて笑うクラウスを、レオナが目を丸くして見つめた。
﹁ああ、行こう、友よ、人殺しは大人の仕事だ、それでいい﹂
アルビオン
﹃巨人﹄は時速四十ノットで北へと駆けつづける。
轟々と甲板を吹き抜ける風の中、空にむかって吠えたクラウスの
長い長い遠吠えが、猛々しく、だが物悲しい響きで冬空に溶けてい
った。
530
猟犬と道化師︵中編︶
帆船時代からの伝統で、士官の命令が無い限り海軍の兵士は武装
アルビオン
していない。ましてや、この鉄壁の防御をかいくぐり侵入されると
は思っていないのだろう、﹃巨人﹄の中は手薄そのものだった。
その上、素手の人間など人狼の敵ではない。時折出くわす伝令ら
しい兵士をクラウスが殴り倒し、難なく道を切り開いてゆく。
﹁フミ、どっち?﹂
﹁その先の階段を降りて右﹂
慣れない人間にとって船の中は鋼鉄の迷路だ、特に軍艦は同じ風
アルビオン
景にしか見えない。テルミアに留学するときに乗った貨客船で、そ
れが身に沁みて判っていた文洋は、前もって巨人の図面を頭に叩き
込んでいた。
﹁次の角を左だ!﹂
文洋の指示でクラウスが丁字路を曲がる。
ドスンと鈍い音がして、出会い頭にぶつかった男が弾き飛ばされ
た。
﹁うぉっ! じ、人狼!?﹂
男の声にレオナの足が止まる。
オートマチック
狭い通路でレオナの肩を掴んで体を入れ替え、文洋は四十五口径
の自動拳銃を構えて前に出た。
姿勢を低くして、クラウスの後ろで片膝を立た姿勢で銃を構える。
531
紺色の海兵の制服が二人、白の制服の将校が三人。
﹁何者だ!﹂
ボルト
言いながら紺色の制服を着た海兵が遊底を引く。
撃つ隙を与えず、クラウスが足元の将校を片手で掴み上げて盾に
した。
﹁や、やめろ、こんなことをして﹂
﹁モンドウ ムヨウ!﹂
﹁うわぁ﹂
クラウスが吠え、白服の将校を放り投げる。
発砲をためらった海兵を巻き込んで、三人が通路に折り重なって
倒れた。
﹁何をしている撃て!﹂
一番後ろの将校がクラウスを指さして叫ぶ。
ひとかたまりで倒れている三人を一足で飛び越え、銀狼が雄叫び
を上げて海兵に襲いかかった。
﹁ひっ!﹂
クラウスの雄叫びに、怯えた顔で銃を構え海兵が発砲する。
リン、と鈴の鳴るような音がしてクラウスの直前で緑の燐光が飛
び散り、風の盾が弾丸を受け止めた。
﹁ガアッ﹂
532
唸り声と共に血風が舞い、盾にした銃ごとへし折られて海兵が壁
にたたきつけられる。
﹁バケモノがっ!﹂
先ほど投げられた将校の下敷きになっていた海兵が半身を起こし、
クラウスに拳銃を向けた。
ダン、ダン!
重い銃声をのこして、文洋の放った銃弾が紺色の制服の背中に吸
い込まれる。
弾かれるように前にくずおれる海兵の姿と、右手に残る重い反動
に文洋は小さく祈りを上げた。
§
﹁悪いことは言わん降伏したまえ、そんな子供連れで何をするつも
りだ﹂
﹁その子供を戦争に利用しているのは、あなたたちでは無いですか﹂
文洋に銃をつきつけられ、両手を上げる将校にレオナが言い放つ。
﹁⋮⋮あれは⋮⋮﹂
まるでゴミでも見るような冷たいレオナの眼光に、大佐の階級章
を着けた将校が言葉をつまらせた。
﹁あなた達がいくら殺しあおうと私にはどうでも良いことです。で
も、私の弟は返してもらいます﹂
533
そう言ってグイ、とレオナが赤水晶の杖を握りしめる。
﹁弟? 栗色の髪の少年のことかね?﹂
﹁そうだ、先ほどの海兵には気の毒なことをしたが、我々は少年を
返してもらえれば、それでいい﹂
そう言って大佐に銃を突きつけ、文洋が列の先頭に立つ。レオナ
の背後を守るようにクラウスが最後尾にいた。ざとなればこの男を
盾にする、そう肚をくくって文洋は水晶宮へと歩みを進める。
﹁ここだ、間違いない﹂
﹁ずいぶんと詳しいものだ﹂
﹁無駄話をする気はない、少年を返してもらえればそれでいい﹂
後頭部に銃身を押し当て、文洋は大佐にゆっくりと、だが決意を
込めて口調で言い放つ。無言でうなずく将校に目配せして文洋は扉
を開けさせた。
﹁おや、艦長、何か忘れ物ですか?﹂
一人がやっと通れる小さな扉を将校が開けると、中から男の声が
する。緊迫感あふれる戦場にそぐわない柔和な声に文洋は違和感を
覚えた。
﹁いえ、執政官殿、実は﹂
そこまで言った所で、文洋は艦長と呼ばれた男の襟首を掴んで部
屋へと踏み込こんだ。
534
﹁全員動くな!﹂
大声で怒鳴り天井に向けて引鉄を引く。思わぬ闖入者の出現で﹃
水晶宮﹄に悲鳴が上がった。
﹁⋮⋮﹂ アルビオン
艦長を盾にして、あっけにとられた表情の執政官に銃を向け、文
洋は﹃巨人﹄の司令室である﹃水晶宮﹄へ二歩、三歩と足を踏み入
れる。
﹁何者です?﹂
人を食った柔和な声に、この男が﹃笑わない道化師﹄ルデウスだ
と文洋は確信した。その男の背後、一段高い場に直径三フィートは
ある赤水晶が設置されている。
よほどの魔力なのだろう、意識しなくても文洋の左目に赤水晶か
らあふれた魔力が光の滝となって、台座下のガラスの棺に流れ込ん
でいるのが見える。
﹁あなたは何者です?﹂
沈黙して睨みつける文洋に男がもう一度問いかけてくる、長い黒
髪に神経質そうな整った顔立ち、眉根にシワを寄せながらも、柔和
な声を変えないルデウスの様子に、これは己を隠す芝居だと文洋は
直感した。
﹁弟を返してもらいに来ました、ルデウス執政官﹂
背後から入ってきたレオナが、その問いに答えながら文洋の隣に
535
並び立つ。
﹁⋮⋮おや、ご無事でしたか、北壁の騎士レオナ・エラ・セプテン
トリオン﹂
﹁家も領地もあなたに取られましたが、家族は返してもらいますル
デウス﹂
紫の瞳に決意を宿し、冷たい鋼のような言葉がレオナの口からこ
ぼれた。
﹁ですがルネ君はこの艦の要、はい、そうですかと渡すわけにも行
きません、それに反逆者の言うことなど﹂
ルデウスの言葉の途中でチリリと首の後ろに電気が走り、文洋は
あたりを見回す。
ルデウスの手前に、左右に別れて三人ずつ並んで座っているロー
ブの男が何かつぶやいているのが見えた。躊躇せず文洋は引き金を
引く。
ダ、ダン!
二発目が命中して胸を撃たれた男が後ろに吹き飛んだ。
ウォークライ
それが合図となって、一斉にローブを着た魔術師達が呪文を唱え
始める。
﹁クラウス、行きなさい!﹂
﹁オマカセアレ﹂
めい
レオナの命に、クラウスの鬨の声が響く。
水晶宮の投影板を震わせ、魂を凍らせる叫びに、半数の魔術師が
536
ビクリと身を震わせて固まった。
刹那、銀色の疾風が文洋の左隣を飛び抜けてゆく。
踏み台にされた﹃水晶宮﹄の機材が、派手な音をたて、ひしゃげ、
はじけ飛ぶ。
左の列をクラウスに任せて、文洋は右の列の魔術師を狙い撃った、
一発、二発。
三発目で魔術師が肩を抑えてクルリと回ると、もんどりをうつ。
﹁ガァッ﹂
同時に、銀狼の叫びと、骨のひしゃげる音がして、左端の魔術師
が壁にたたきつけられた。
︱︱ あと一人
クラウスが飛びかかるより撃つほうが早い。そう判断して文洋は
魔術師を狙う。
ドン!
左にそれて魔術師をかすめ、壁にあたって火花を上げる。
文洋の目前に魔力の渦が現れる。
︱︱ 間に合え。
左手を添えて大きく生きを吸う。踏み出した左足に体重をのせ、
ゆっくりと吐きながら絞りこむように力を入れる。
ドン!
537
手応えとともに放たれた銃弾が魔術師の額を貫き、血煙をあげて
後ろに倒れた。
﹁フミ!﹂
レオナの悲鳴と魔力の渦から何かが飛び出してくる気配に、文洋
は飛びすさった。
轟と風を巻いて、胸元ぎりぎりを固いものがないでゆく。
﹁アラクネ!?﹂
レオナの悲鳴を聞きながら、二撃目を左手で抜いた短刀で受け流
す。
赤い目に蒼い肌、そしてテーブルほどはあろうかという胴体をも
つ蜘蛛女。
死んだ魔術師の置土産というわけだ。
美しくはあるが、いい趣味とは言えない。
﹁レオナ、下がれ﹂
障壁をはろうと身がまえるレオナに言いながら、文洋は蜘蛛の前
足を短刀で受け流し続けた。
一撃一撃の重さが人間相手とは段違いだ。だが、引くわけには行
かない。
半歩ずつ下がりながら四撃目を受け流し、反撃の機会をうかがう。
ジリと距離をつめ、アラクネが動く。
途端、ズシンと振動がして蜘蛛女が衝撃音と共に大きく沈みこみ、
キイと悲鳴を上げた。
細い首に、背後から銀狼のたくましい腕が伸びる。
538
アラクネ
グキリと骨の砕ける音がして、美しい顔があらぬ方向にねじ曲げ
られた。
出てきた時と同じように、忽然と黒い霧となって蜘蛛女が渦の中
へと姿を消した。
§
﹁まったく、無能ですね困ったものです﹂
血にまみれて倒れた者たちと、部屋の隅に集まり恐怖に震える生
き残りを一瞥して、ルデウスがそう言って微笑む。
﹁ルデウス、ここまでです﹂
怒りを込めた紫の瞳で執政官を睨みつけるレオナに、肩をすくめ
たルデウスが杖を持ち司令席から立ち上がった。
チリリと文洋の首の後ろに再び電気が走る。
嫌な予感がして、文洋はルデウスを撃つ。
ズン、と重い銃声。カチンと音がしてオープンホールド。弾切れ
だ。
手応えはあった。だが、文洋の放った銃弾はルデウスの手前で緑
の燐光を放ち、遮られる。
﹁弟さんに教わった魔術に救われましたよ、エラ・セプテントリオ
ン。では死んで下さい﹂
トン、とルデウスが床に杖をつく。
刹那、﹃水晶宮﹄は、真っ暗な、まるで空気自体に色がついたよ
うな濃密な闇へと包まれた。
539
猟犬と道化師︵後編︶
﹁クラウス、レオナを﹂
﹁シツレイ、オジョウサマ﹂
闇の中で、ゴソリとクラウスの動く気配がする。
﹁きゃっ﹂
レオナを背後にかばっていたのが幸いして、そう苦労なく闇の中
でも彼女を捕まえられたようだ。
﹁レオナ、クラウスと自分を魔法で守ってろ!﹂
﹁でもフミ﹂
レオナが抗議の声を上げる。途端、銃声がひびき、文洋の左頬を
熱い銃弾がかすめた。背後に魔方陣が一瞬浮かび緑の燐光を散らす。
﹁大丈夫か?﹂
﹁平気﹂
︱︱ 向こうからは見えているのか。
マガジン
じとり、と冷たい汗が噴き出た。
手探りでポケットから予備の弾倉を取り出す。
空のマガジンを落とす。予備をグリップに叩き込みリリースレバ
ーを下げた。
チャキン! 金属音を響かせスライドが戻る。
540
︱︱ 奴は一段高いところにいた、降りてくる階段は正面の一つ。
落ち着いて情景を思い起こす。
司令官席までの距離は十ヤード程だったはずだ。
腕を真っ直ぐに突き出して、相手の動きを待つ。
銃声が二発響き、再び目の端に緑の燐光が舞い散るのが目に入っ
た。
﹁くそっ﹂
毒づいて、文洋は発砲音のしたあたりに、七発の銃弾を角度を変
えながら叩き込む。
四十五口径の重い銃声があたりを圧する。
着弾先で銃弾が金属音をたてて跳ねる、生き残りの魔術師達の悲
鳴が響いた。
︱︱ 魔方陣がはじける燐光は見えるが、着弾した火花は見えな
い、ならば⋮⋮。
正面、上方、たしかあのあたりに巨大な赤水晶があったはずだ。
文洋は右目をつぶり、左の紅玉の瞳に意識を集中させる。
ぼんやりと巨大な光の塊が姿を現した。
頭痛と吐き気が襲ってくるのを、意志の力で押さえつけ、さらに
意識を研ぎ澄ます。
魔力が光の滝となって、台座へと流れこむのが見える。
︱︱ まだだ。
541
ぐいと目を見開き、集中する。
光の流れが台座の下で箱形になり、中の小さな人型を通じて船の
左右に流れてゆくのが見える。
その光の根元あたりでカンテラのように弱い光が動いている。ル
デウスの杖だ、文洋は直観した。
弾切れの銃を捨て左手に短刀を握り直す。
§
偶然とは言えこちらへ銃口が向いた途端、ルデウスは司令席の後
ろにとっさに身を隠した。
重い銃声が響き、鉛弾が付近のものを弾き飛ばして大きな金属音
を立てる。
︱︱ まずはあの男を殺そう。そもそも、今日は想定外が多すぎ
る。
最初にドラゴンに邪魔をされ、次にこの三人だ。
セプテントリオン家は王の信頼も厚く、国民にも絶大な人気があ
った。
だからこそ、手間暇かけて死んでもらったというのに、小娘の代
になってなお、私の前に立ちはだかるというのか。
ギリリと歯を食いしばり、司令席の影から身を乗り出す。
司令室である﹃水晶宮﹄から連絡がなければ兵が来る、それまで
嬲ってやればいい。
そう思っていたのが間違いだったのだ。
︱︱ 向こうはこちらが見えない、だから良く狙って撃てばいい
だけではないか。
542
手のひらの汗をズボンで拭うと、細工の聞いた銃をに切り直して
ルデウスは大きく息をすった。
ふらりと立ち上がり、こちらをじっと見つめる男に銃を向ける。
引鉄に指を書けた途端、男と目があった。
︱︱ 見えるわけがない。
躊躇した自分を叱咤するように微笑みを浮かべた。
︱︱ 魔法で守られていない奴なら、私の敵ではない。
§
部屋を流れる魔力が、そして魔力を帯びたモノすべてが、光の輪
郭をなして文洋の目に映る。
強力すぎる赤水晶から漏れた魔力のおかげで、周りにある机や椅
子までが仄暗い光を帯びていた。 そんな不思議な世界の中で、光に囲まれた人影が立ち上がるのが
見える。
人影が手にした杖を通して魔力が拡散され霧のように散らばって
ゆくのが見える。
︱︱ それが、闇の正体か? そして、お前には俺が、見えてい
るのだろう?
獰猛な笑みを浮かべ、文洋は肩にかけた袋から手榴弾をとりだす。
見せつけるように掲げると、大声で叫びながら男の足元めがけて
放り投げた。
グレネード
﹁手榴弾!﹂
543
文洋の声に部屋中から悲鳴があがった。
﹁爆発するぞ、伏せろ﹂
叫びながら文洋は、魔力の光に照らされた世界を、ルデウスめが
けて全速で走る。
ゴン、と手榴弾が床を叩き、ゴロゴロと重い音を立てて転がる。
ルデウスが司令席のある壇上から慌てて飛び降り、バランスを崩
して膝をついた。 ﹁ルデウゥス!﹂
文洋の叫びに薄く光る人影が顔を上げる。
悪夢の中の亡霊のように、ポカリと黒い口を開け、驚愕の表情を
浮かべたルデウスが文洋に銃を向ける。
だが、一瞬早く、文洋の短刀がルデウスの右手に届いた。
グリップを握る指を切り飛ばし、ガチンと、金属同士がぶつかり
合う。
﹁ひいっ﹂
小さく悲鳴をあげて右手を抱え込んだルデウスの顎に、文洋はブ
ーツのつま先を叩き込んだ。
ゴキリと嫌な音がして、ルデウスが吹き飛ぶ。
ピクリと痙攣して、ルデウスが動かなくなった。
途端、あたりを包んでいた闇が晴れ、赤水晶の放つ暖かな光が﹃
水晶宮﹄を照らしだした。
﹁フミ!﹂
544
レオナが駆け寄ってくる。
急に戻った視界の明るさと、それに重なって見える魔力の光に文
洋は目を細めた。
﹁顔が真っ青よ? 大丈夫なの?﹂
﹁ああ、大丈夫だ、それよりルネを﹂
床に落ちていたルデウスの銃を取り上げるとベルトにさす。
ベルトを抜いて後ろ手に縛りあげ、あたりを見回す。艦長は逃げ
たのだろう姿がない。
﹁時間がないぞ、早くルネを﹂
言いながら文洋もガラスの棺へと駆け寄った。途中、床に転がっ
ていた手榴弾を拾い上げる。
ピンを抜かずに投げたのだがそんなことは知るよしもない。手榴
弾を投げられた。そう思ったのが運のつきだ。
︱︱ 無事に帰れたら、中央広場のデパートで好きなだけキャン
ディをおごってやるよ、スカーレット。
ジクリといたむこめかみを抑えて文洋は微笑んだ。まったく大し
た目だ。
﹁クラウス!﹂
﹁オマカセヲ﹂
銀狼が力任せに棺の蓋をこじ開けにかかる。
腕と背が盛り上がり、ボルトで止められた棺と床がミシリと音を
545
立て持ち上がる。
華奢に見えるガラスの蓋は、それでもなお、びくともしなかった。
﹁開かないの、クラウス?﹂
レオナの声に、肩で息をしながら再び挑もうとするクラウスを文
洋は押しとどめる。
﹁フミ?﹂
﹁ルネの魔法はこの船全体を守ろうとした、そして棺も開かない﹂
﹁だから何?﹂
﹁彼は魔法で何かを守ってる、多分自分自身をだ﹂
ソーラ・セカレ
台座に据えられた巨大な赤水晶﹃第二の太陽﹄から、莫大な魔力
が棺へと流れ込み、どこかへ分配されている。ブーツからナイフを
引き抜いて、文洋は台座の塗装を削りとった。
﹁ミスリル?﹂
﹁ああ、そうだ、これは巨大な魔法の杖だ﹂
﹁じゃあ、石を外せば﹂
﹁ああ、そういうことだ﹂
台座から外れないよう、細工の効いたミスリルの輪で抑えられ、
輪は四本のボルトで止められている。
棺と反対側へ回ると、文洋はクラウスの肩を借りて、よじ登った。
﹁レオナ、こいつを吹き飛ばす、魔法で守ってくれ﹂
﹁え? ちょっとフミ﹂
先ほど拾った手榴弾をポケットから出すと、止め輪と赤水晶の間
546
にグイと挟み込む。
安全ピンに指をかけ、文洋はレオナを見つめた。
﹁信じてるぞ﹂
﹁どうなっても知らないんだから﹂
§
﹁怖いよ﹂
﹁ルネったら、男の子でしょう?﹂
そう言われて、ルネは頬をふくらませると毛布の中で丸くなった。
いつだってそう。クラウスも同じことを言うのだ。
︱︱ 男だからって強くなきゃいけないなんて、誰が決めたんだ
ろう。僕は強くなんてなりたくないのに。
温かい毛布にくるまって、ルネは遠くで響く雷の音を聞いていた。
バン、バン、バン、風が窓を叩く風の音がする。
稲妻が光り、雷鳴が響く。ビクリと震えてルネは毛布の中で丸く
なる。
︱︱ 騎士なんて、ぼくより強い人がなればいいんだ。
﹁ルネ、ルネ﹂
︱︱ うるさいなあ、僕はいつだって弱虫だ。騎士は僕じゃなく
て姉様がなればいい、姉様はいつだって僕より強いんだ。
547
﹁ルネ、起きて、ルネ﹂
︱︱ わかったよ、起きるよ、姉様⋮⋮。ねえ⋮⋮さま⋮⋮?
﹁起きなさい! ルネ﹂
﹁姉様?﹂
§
追いすがる海兵に最後の手榴弾を投げつける。
背後で爆音と悲鳴が響いた。
人質に取っていたルデウスを、クラウスが麦の袋のように甲板へ
放り出す。
風が吹きすさぶ飛行甲板を、一同は紫の翼めがけて駆け抜けた。
文洋は操縦席に乗り込むとレオナから受け取った赤水晶をコンソ
ールにはめこんだ。
膝の上にレオナが滑りこんでくる。
﹁クラウスとルネは後席に、急げ﹂
﹁おまかせあれ﹂
上半身裸に裸足の実にしまらない姿の老執事が、少年を抱き上げ
ると後部座席へ大きな身体を押し込んだ。
﹁外れてくれよ﹂
文洋は言いながら、スロットルレバー横につけられた、親指ほど
の太さのピンを力任せに引き抜く。
バネ仕掛けのトリガーが作動すると、機体に取り付けられたワイ
548
ヤーが火薬で根こそぎ吹き飛んだ。
︱︱ 大したものだ、フリント整備中尉。
﹁つかまっていろ﹂
ワイヤーが外れた﹃スレイプニール﹄がズルズルと飛行甲板を滑
ってゆく。
スロットルレバーを握るレオナの小さな左手を上から包みこみ、
スロットルを押し上げた。
車輪のない水上機が火花を上げながら、飛行甲板を強引に滑走す
る。
左翼下のフロートが何かに引っかかり、ギシリと軋んでちぎれ飛
ぶと、くるくると回って落ちていった。
﹁フミ! おちる!?﹂
﹁堕ちないっ!﹂
斜行して甲板から飛び出した機体を立て直し降下しながら速度を
稼ぐ。
魔法推進器が唸りをあげて、緑の光の尾を引いて急加速。
左右のバランスが崩れたのと人数オーバーで、ヨタヨタと、それ
でも﹃スレイプニール﹄が高度を上げはじめると、背後でルネが歓
声をあげた。
﹁すごい、姉様、飛んでる﹂
﹁ええ、約束したもの﹂
アルビオン
少し得意げなレオナに、文洋は小さく笑って右旋回。
﹃巨人﹄の対空砲が火を吐く中、ドラグーン隊とハンドドッグ隊
549
アルビオン
が、盾を失った﹃巨人﹄に襲いかかり、推進器を狙い撃ちにしてゆ
く。
︱︱ これで、負けはなくなった。
海へ向けて高度を落とす飛行戦艦の姿に、文洋が安堵の吐息を吐
いた時、
ズガン!
激しい振動がして、推進器が止まった⋮⋮いや、正確にははじけ
飛んだ。
550
群青の竜騎士︵前編︶
﹁きゃあっ﹂
横殴りにされたような衝撃と共に、機体が一気に右に傾く。
流れ弾にしろなんにしろ、直撃弾を貰った、それしかない。
台座から吹き飛ばされた魔法推進器がくるくると回りながら海へ
とおちてゆく。
﹁くそっ﹂
右のペダルを蹴とばして、傾いた機体を下に向ける。
小刻みな振動とともに、スレイプニールが急降下。
三〇〇フィート、二〇〇フィート
用済みになったスロットルから手を離し、文洋は両手で操縦桿を
握りしめた。
﹁姉様! おちる!﹂
後席でルネの悲鳴が響く。
推進器がもがれた分、重心が後ろに移動しているのだろう、文洋
はやたらと機首をあげたがる﹃スレイプニール﹄をを力任せに押さ
えつけて降下する。
﹁フミ!﹂
﹁祈ってろ﹂
高度五十フィートで機首をあげようとする﹃スレイプニール﹄に
551
逆らわず、水平飛行に戻す。
今度は右に傾こうとする機体に操縦桿を倒してあて舵、ペダルで
横滑りを押さえ込んだ。
﹁全員つかまれ!!﹂
後席に聞こえるように叫んで、文洋はゆっくりと操縦桿を引きつ
ける。
機首を軽く上げる、速度が急激に失われた。
右下を覗きこむ、高度十フィート。
集中した文洋の視界がスローモーションになる。
ドンッ!
右の翼に海面を叩かせまいと、着水した瞬間に左に操縦桿を軽く
倒す。
ドッ、ドッ、ドッ
リズミカルな音を立てて﹃スレイプニール﹄が水面を跳ねる。
みなも
ザバリ、と大きな波を上げて期待が叩きつけられ、水しぶきが収
まった。
一瞬の静寂の後、この時期にしては静かな水面で機体が波に揺れ
る。
﹁私達⋮⋮生きてるの?﹂
﹁ああ、多分な。大丈夫か?﹂
﹁だいじょうぶ⋮⋮だと思う﹂
大きく息を吐いて、文洋は座席にもたれかかった。
552
﹁クラウス? 無事か?﹂
ベルトを外して文洋が振り返る。
﹁ナントカ﹂
ルネを守ろうとしたのだろう、獣人化したクラウスがゾロリと牙
を見せて笑う。
その左右の腕には推進器の部品が突き刺さり、血が流れていた。
﹁クラウス、だいじょうぶ? 痛くない?﹂
﹁イタイノハ、イキテイル、アカシデス、ボッチャマ﹂
§
﹁召喚術氏は視界の回復を、魔導技術者は浮揚回路の修理を急いで
下さい﹂
切り落とされた指に包帯を巻き、顎をおさえながら、ルデウスは
瀕死の巨艦の指揮を取り続けていた。
半壊した固定具で押さえられた赤水晶と台座の間に、厚さ三イン
レビテーション
チのオークのテーブルがねじ込まれている。あの人狼の仕業にちが
いないと、ルデウスは歯噛みした。
アルビオン
テーブルで回路を遮断されたせいで、浮上用の魔具との回路を失
った、﹃巨人﹄は無様に海へと叩き落とさたのだ。
﹁何でもいい、長い棒をを持ってこい、赤水晶を持ち上げろ﹂
﹁いや、この板をロープで引いたほうが早いぞ﹂
553
赤水晶の前で汗を書きながら魔導技術者達が言いあっている。
﹁口ではなく、手を動かしたらどうだ!﹂
アルビオン
そんな技術者たちに苛立って、ルデウスは大声で叱咤した。着水
した﹃巨人﹄は今のところ、ハリネズミのような対空火器でテルミ
アルビオン
ア空軍と互角に渡り合っている。どちらにしても、航空機銃程度の
攻撃は﹃巨人﹄にとって蚊にさされるようなものだ。
ピクシー
﹁小妖精召喚、視界、もどります﹂
ピクシー
戦闘で半分以下に減ってしまった召喚術師が小妖精を呼び出し、
水晶宮に光が戻る。視界の後ろ半分が消えているのは魔術師の数が
足りないからに他ならない。
﹁死にたくなければ、十五分でその板をどけなさい﹂
感情を押し殺した柔和な声で技術者たちにそう言って、ルデウス
は外の景色を眺めた。敵の主力艦隊はトライアス沖で戦闘中、少数
の旧式艦がレシチア沖で支援砲撃をしているとの報告を受けている。
だとすれば、港にいるのはせいぜい駆逐艦が数隻程度だろう、空
中に浮かびさえすればこちらの敵ではない。
﹁体制を立て直します、通常推進で進路を南へ、よろしいか? 執
政官殿﹂
アルビオン
伝声管から艦長の声が響く。発電と海上移動用の蒸気機関を使い、
巨人が南へゆっくりと回頭を開始した。
554
﹁わかりました、南へ向かいましょう、一度脱出します﹂
ドラゴンがこれ以上手を出してこない出てこないなら、空に浮か
んでしまえばこちらのものだ。そう思いながらルデウスは投影板を
睨みつける。
小型の爆弾を持っている敵がいるのか、艦の左右に水柱があがり
一発が甲板に命中して爆炎を上げた。
﹁修理がおわり次第、離水してトライアスに戻ります﹂
︱︱ 絶対的な盾は失ったが、あの坊やのおかげで、自分にもこ
れくらいは出来るようになった。
柔和な笑みを浮かべ、ルデウスは、はしごを登ると台座に腰掛け、
右手を赤水晶に、左手を台座へと触れた。
§
猟犬隊と、ドラグーン隊に援護され、黒塗りの偵察機が一機、爆
弾を落としていった。
一発が甲板に命中すると、甲板に爆炎があがる。
﹁ヤリマシタナ!﹂
後部座席にみっしりと詰まった銀狼が、胸にルネを抱いて歓声を
あげる。
﹁ラディアたちか﹂
目を細め、北の空を見つめる、紅玉の左目に黒塗りの偵察機が五
555
機、その上空に派手なチェック模様の黒兎隊が四機、こちらへ向か
ってくるのが見えた。
アルビオン
﹁フミ、﹃巨人﹄が!﹂
アルビオン
レオナの声に、文洋は海へ落ちた﹃巨人﹄に目をやった。艦橋後
部の煙突から煙をあげ、丸く太った巡洋艦のような船体がこちらへ
向って回頭してくるのが見える。
﹁こっちに、くるよ﹂
アルビオン
ルネが怯えた声をあげた、﹃巨人﹄の南側に着水した文洋達に向
って、鈍色の艦がゆっくりと艦首をむけてくる。酷くゆっくりな挙
動が、逆に不気味さをましていた。
﹁大丈夫だ、まだ一マイルはある﹂
ブラックラビッツ
そう言って文洋は降下してゆく偵察機と、黒兎隊をじっと見つめ
る。一ダース以上の爆弾、その上、ダークエルフたちのことだ、甲
板にサラマンダーをばらまくことくらいやりかねない。ルネの盾が
無い今なら、十分なダメージをあたえられるにちがいない。
偵察機の編隊が一斉に降下を開始する。
胴体下から三発づつ、爆弾が切り離されるのが見えた。
放物線を描き、南へ向って回頭する巨人めがけて吸い込まれてゆ
く。
﹁よし﹂
七割は当たる、そう思って小さくつぶやいた刹那。半数ほどの爆
556
弾が緑の燐光をあげ、手前で爆発した。
﹁っ⋮⋮﹂
空中に現れた魔方陣に、レオナが言葉を失う。
﹁そんな⋮⋮、ぼくのせいだ⋮⋮ルデウスにすごく褒められて、教
えてほしいって⋮⋮だから﹂
ルネの言葉に、文洋は艦内でルデウスが銃弾を止めたのを思い出
した。
﹁レオナ、むこうが撃ってきたら止められるか?﹂
愕然とするルネの様子に、文洋は膝の上のレオナをぎゅっと抱き
しめる。
﹁⋮⋮やってみる、皆を守れるのは、私だけだもの﹂
§
﹁半分ほどは防げましたか﹂
アルビオン
魔術の才が無い自分にしては上出来だ、そう思ってルデウスは笑
みを浮かべた。何度攻撃してきても、この程度であれば﹃巨人﹄が
沈むことはない。
﹁視界を可能な限り全方位に﹂
﹃水晶宮﹄に湧き上がる賞賛のどよめきに、高揚感を覚えつつル
557
デウスは召喚士たちに命じる。思わぬ盾の出現に、一斉にテルミア
空軍機が距離を取るのみてルデウスはほくそ笑んだ。
﹁見張り員から報告、前方に着水した機体、逃亡した北壁の騎士一
行と思われます、捕まえますか?﹂
伝声管から砲雷長の声が響いた。
﹁⋮⋮撃ち殺しなさい、無理ならそのままぶつけてやりなさい、反
逆者です﹂
﹁りょ、了解しました﹂
砲雷長の狼狽した声に、ルデウスは微笑んだ。
良心が咎めるから、、海の男だから、相手が子供だから、躊躇す
る。
︱︱ それでいいのだ、人間はそうでなくてはいけない。私はそ
れを踏み台にして上りつめてきた。
艦首の高射砲が火を吹き、海面に揺れる小さな飛行艇のまわりに
水柱が上がる。
命中する度に緑色の燐光が舞い散り、対空砲弾を弾き返す。
いくら砲弾を弾いた所で、この船ごとぶつけられれば防げるはず
もない。
テルミア空軍機が魔法で、機銃で、そして精霊を呼び出して立ち
はだかる。
だが、この巨艦にとっては蚊に刺されたようなものだ。
小さな飛行艇との距離が縮まる、残り六〇〇ヤード。
558
︱︱ 反逆者にはお似合いの最期です。さようなら、お伽話に帰
りなさい、北壁の騎士、セプテントリオン。
ルデウスが微笑んだその時。
﹁左舷雷跡! 四! いや、六!﹂
﹁取舵一杯、回避!﹂
悲鳴に似た声が艦橋と繋がれた伝声管から聞こえてきた。
§
アルビオン
こちらへまっすぐ向かってくる﹃巨人﹄の姿に、クラウスが東を
指さした。
﹁アノシママデ、オヨギマショウ﹂
一マイルほど先にある東の島を指差し、クラウスが言う。
﹁だめよ、クラウス、水の中で風の盾が使えないのは、知っている
でしょう?﹂
何としても守ってみせる、決意のこもった瞳で、レオナが反論す
る。
﹁魔法はともかく、真冬の海に飛び込んで生きてられるのはお前く
らいだクラウス﹂
こうなっては一蓮托生だ。コンソールから外した赤水晶をぎゅっ
と握りしめ、風の盾をはり続けるレオナの左手に自分の左手を重ね、
559
文洋は北の海を睨みつけた。
﹁ごめんね、フミ、巻き込んじゃって﹂
﹁いいんだ﹂
アルビオン
北から迫り来る﹃巨人﹄を紫の瞳がまっすぐに見つめている。
文洋は気丈に戦い続ける少女の、だが、小さく震える身体を右腕
で抱きしめた。
二発、三発、近づくにつれ、命中弾が増えてゆく。
緑の燐光に包まれながら、揺れる飛行艇の中で文洋は祈る。
︱︱ 誰でもいい、俺の家族を、大事な人たちを守ってくれ。
大口径高射砲の直撃弾。
今までにない大きな衝撃に﹃スレイプニール﹄が揺れる。
脳裏に浮かんだのは、銀色の髪、翡翠の瞳、焼きつくような胸の
痛み。
﹁ごめん、ローラ﹂
アルビオン
文洋は小さくつぶやいたその時⋮⋮、距離六〇〇ヤードほどまで
近づいてきた﹃巨人﹄が、大きく傾きながら文洋たちから進路をそ
らした、まるで何かから逃れるように東へと進路を変える。
﹁フミ、あれ!﹂
アルビオン
レオナが指さした東の島影から一隻の軍艦が飛び出してきた。
アルビオン
艦影にしては大きな砲声が響き、一斉射撃を﹃巨人﹄に叩き込む。
何発かが緑の燐光に阻まれたが、砲弾が﹃巨人﹄の横腹を貫き、
炸裂した。
560
﹁相良!︽さがら︾﹂
トップマストに扶桑の軍艦旗を掲げた軽巡洋艦が﹃巨人﹄︽アル
アルビオン
ビオン︾に砲も灼けよとばかりに砲弾を叩き込む。
旋回する﹃巨人﹄の艦首側の高射砲が応戦しようと火を吹いたそ
の時、
ド! ドムン!
アルビオン
﹃スレイプニール﹄の機体越しに腹に響く低くい音が伝わり、二
本の水柱が﹃巨人﹄の左舷に上がった。
﹁ウォーン!﹂
感極まったクラウスが遠吠えをあげる。
﹁助かった⋮⋮の?﹂
クタリ、と膝の上でレオナがへたり込む。
﹁まだだ、レオナ、奴が沈むまでは油断するな﹂
アルビオン
小さくつぶやいて、文洋はレオナを後ろから抱きしめる。
コクリと頷いて、レオナが﹃巨人﹄に視線を戻した。
﹃相良﹄の主砲が二度目の咆哮を上げる。
再び半数ほどが緑の燐光に阻まれたが、艦首と艦尾に直撃し、爆
炎を上げた。
︱︱ 勝った⋮⋮、俺達の勝ちだ。
561
文洋が思ったその時。
アルビオン
﹁フミ、﹃巨人﹄が!﹂
﹁くそっ、なんでここで﹂
炎をあげ、満身創痍の巨艦が水しぶきを上げながら離水を始める。
アルビオン
﹃相良﹄の主砲がさらに二発の追い打ちをかける。
魚雷の破孔から大量の水が流れ落ち、一気に﹃巨人﹄が高度をあ
げた。 主砲の仰角が足りなくなった﹃相良﹄の対空砲が、巨人を追って
火を吹く。
鈍色の巨人が黒煙を引きながら、そんな努力をあざ笑うかのよう
に高度をあげてゆく。
︱︱ ここで、ここまできて⋮⋮。
アルビオン
安堵の吐息をついて文洋が背もたれに身を預ける。
南に向って﹃巨人﹄が小さくなってゆく。
赤い信号弾があちこちで上がり、空軍機も引き上げを開始する。
﹃相良﹄からカッターが降ろされるのが見えた。
これで助かる、それは間違いない。
︱︱ だが⋮⋮、だが、このわき起こる黒い気持ちは、
﹁つっ!﹂
﹃スレイプニール﹄が大きく揺れる、海を割って目の前に巨大な
首が持ち上がった。
雷の青竜、テルミアの守護者。
562
﹁定命の者よ、これはうぬら人間共の始めた戦、我々竜族には関係
ない﹂
﹁⋮⋮﹂
文洋がまっすぐに見つめると、金色の瞳の縦長の瞳孔が、すっと
細くなる。
﹁だが、我は問う、殿下はうぬに助力せよと仰せになった、戦う意
思はあるか? 戦士よ﹂
青竜の金色の瞳を見つめたまま、コクリ、と文洋はうなずいた。
563
群青の竜騎士︵前編︶︵後書き︶
もうすこし、つづくのです。
564
群青の竜騎士︵後編︶
﹁クラウスあとは頼む﹂
フルメン
大きく頷いた銀狼に後を託し、文洋はスレイプニールの翼づたい
に、青竜の首によじのぼった。
﹁フミ! まって私も﹂
レオナの声が追いかけてくる。﹃相良﹄から降ろされた短艇がこ
ちらへ向かってくるのを確認して、文洋はレオナに小さく敬礼した。
﹁準備は良いか、人間よ﹂
空気を震わすフルメンの声に、文洋はスカーフを顔にまき、ゴー
グルを下ろして応える。
﹁ああ、終わりにしよう﹂
首を高くあげ、紫の飛行艇から十分に離れたところまで離れると、
水中から大きな翼があらわれる。
﹁後戻りはできぬぞ﹂
﹁そうだな、だが、ここから先は戦士の仕事だ、そうだろう?﹂
﹁違いあるまい、そして、幼き者が見ずに済むならそれがよかろう﹂
大きな顎を薄く開いて、フルメンが笑う。
565
﹁公女殿下も見ておいでだが、彼女は例外でいいだろう﹂
スカーレットと視界の繋がっている紅玉の瞳を指さして文洋も笑
った。
﹁ゆくぞ、人間よ﹂
﹁ああ﹂
差し渡し三〇ヤードはあろうかという巨大な翼が、轟々と風を巻
いて羽ばたいた。
振り落とされないよう、目の前の大きなトゲを操縦桿のように掴
む。
飛行機とは違う浮遊感に文洋は思わず歓声を上げそうになった。
ドドゥドウ!
アルビオン
空中の諸元をどう計算したのか、それでも距離が開いたことで、
砲が当たると判断した﹃相良﹄の主砲が﹃巨人﹄に最後の一斉射を
加える。砲弾に道案内されるように、雷の青竜フルメンが手負いの
|﹃巨人﹄アルビオンを追って冬空に羽ばたいた。
§
アルビオン
間一髪ではあったが、なんとか脱出に成功した巨人の艦内では、
総出で鎮火作業に追われていた。
ーー アリシアの貴族院を黙らせる方法を考えなければなりませ
んね。
鎮火作業に駆り出されたのは﹃水晶宮﹄の召喚魔術師たちも例外
566
ではなく、人の気配が無くなった﹃水晶宮﹄で、ルデウスは一人物
思いにふけっていた。
船の中心部奥深く、分厚い装甲に守られた﹃水晶宮﹄に輝く巨大
な赤水晶、その台座の根本に据えられたガラスの棺を見ながら、ル
デウスは眉をひそめる。
ーー まず戻ったら、北壁の騎士には姉弟共々死んでもらうこと
にしましょう。
姉がどこに匿われていたのかは謎だが、敵に回せばあの姉弟の能
力は厄介だ、それに何より政治的な面で致命傷になる可能性がある。
だからこそ、速やかに死んでもらう必要があった。
ーー 後は扶桑とテルミアの離間工作も進めなければ。
アルビオン
巨人に痛烈な一撃を与えた扶桑の船は、一度壊滅させた扶桑艦隊
の生き残りで編成されている。にも関わらず、あの練度と士気は異
様だと言えた。今後のことを考えると、政治的に離間工作を進めな
ければ厄介なことになりかねない。
ーー しかし、酷い一日だった。
慣れない魔法を使ったことで押し寄せる疲労感に、ルデウスは司
令席の横のキャビネットからブランデーを取り出しグラスに注いだ。
琥珀色の液体がクリスタルグラスに注がれてゆく。甘い香りを漂わ
せるそれを、手に取ろうとしたその時。
ズムン!
と衝撃が走り、グラスがテーブルから滑り落ちた。
567
﹁執政官殿、ブリッジへ!﹂
伝声管から航海長の声が響く。
﹁今の衝撃は?﹂
﹁敵艦の砲撃です!﹂
テルミア空軍に推進器を削られたせいで速度が落ちているとはい
え、三十五ノットは出ているはずだ、ましてや先ほどの船は引き離
して後方に⋮⋮。
﹁まぐれ当りでしょう﹂
アル
﹁それは、問題ではありません、執政官、ドラゴンが追ってきます
!﹂
§
﹁人というのは器用なものだな﹂
ビオン
道案内でもするように撃ちだされた六発の砲弾のうち、一発が巨
人に命中する。
﹁復讐の女神の加護だろう﹂
感慨深げにつぶやく青竜に、風に負けじと文洋は大声で応えた。
ますらお
﹁仲間の仇討ちか。ならば、その思い、遂げてやるのが益荒男の務
めであろうな﹂
568
アルビオン
楽しげにフルメンがそう言いながら、上空から距離を詰めてゆく。
残り四〇〇ヤードを切った途端、先をゆく巨人の対空砲が一斉に
火を吹いた。
﹁無駄なことを﹂
フルメンの声が響く。
しがみつく文洋をよそに急降下。
その巨体めがけて打ち出される対空砲弾が、前方で紫電をあげて
弾き飛ばされた。
高らかに巨竜が吠える。
カッ!と目の前が一瞬明るく輝き、圧倒的な熱気に文洋が目を閉
じた。
﹁⋮⋮﹂
高度が上がるのを感じて、文洋が目を開き、後ろを振り返った。
そこには地獄の様相が広がっていた。
甲板が燃え上がり、鉄の手すりが溶け落ちている。
舷側の機銃座で人が燃え、のたうちまわっていた。
﹁レオナを連れてこなくて良かった﹂
口の中で小さくつぶやく。
圧倒的な破壊の前に、ブルリと背筋に震えが走る。
﹁奴さえ倒せば、終わる⋮⋮﹂ ルデウスの姿を探して左目に意識を集中する。
艦橋の窓からこちらを見上げる男の姿が見えた。
569
見つけた。
﹁ルデウス!﹂
﹁敵の首魁か?﹂
﹁ああ、そうだ、艦橋に見える杖の男﹂
アルビオン
アルビオン
バサリ、バサリと二度ほどはばたくと、フルメンが巨人を追い抜
いて前上方へと抜ける。
飛行機ではありえない機動でクルリと身体を回し、青竜が巨人に
正対した。
艦首の高射砲と機銃座が火を吹き、再びフルメンのまわりに紫電
が嵐のように巻き起こる。
﹁再び相まみえたな、忌々しきアリサリアの末裔どもよ﹂
あたりを揺るがす大音声で見得を切り、青竜のブレスが艦首を焼
いた。
炎に焼かれた兵士が、空中へと身を踊らせる。
﹁降伏すれば良し、さもなくば⋮⋮﹂
そう言って、加減した炎が艦橋へと伸びた。
ルデウスの仕業だろう、緑の魔方陣が炎を遮る。
文洋の紅玉の瞳に、ルデウスと艦長が言い争っているのが見えた。
艦長がルデウスを指差し、隣の軍人がルデウスめがけて一歩踏み
出す。
途端、艦長の白い軍服が紅に染まり、胸を押さえて倒れこんだ。
﹁バカなことを﹂
570
アルビオン
文洋のつぶやきが聞こえたかのように、フルメンが巨人から離れ
ると、真正面に構えた。
﹁本当に、バカなことを﹂
再びつぶやいた文洋が、じっと艦橋を見つめる。
双眼鏡を覗きこむルデウスと目があった。
主砲がこちらを向く。
巨竜が高らかに吠えた。
耳をつんざく轟音が響き渡る。
巨大な稲妻が主砲塔を貫き通し、火花が砲塔を包み込んだ。
砲身が膨らみ、炎を吹き出して裂ける。
スローモーションのように艦首がはじけ飛ぶと、巨艦が断末魔を
あげて傾いた。
﹁まだだ﹂
まだ、奴は生きている。
恐怖を顔に張り付かせたルデウスが、大きく目を見開いてこちら
を見つている。
この先はただの殺戮かもしれない。
今なら降伏するかもしれない。
だが⋮⋮。
脳裏にレオナとルネの顔が浮かぶ。
ーー 復讐の女神に魅入られると、命を縮めます。
いつか言われたラディアの言葉が脳裏に浮かぶ。
だが、それでも。
571
﹁まだだ、フルメン!!﹂
文洋は声の限りに叫んだ。
﹁良かろう、戦士よ﹂
文洋の言葉に応えて、フルメンが羽ばたいた。
青い矢となってブリッジへまっすぐに突っ込んでゆく。
文洋の顔を熱気があぶり、地獄の業火がブリッジへと伸びた。
最後まで見なくてはいけない。
そうでなければ、これは俺の戦いでなくなる。
大きく見開いた文洋の目に緑の魔方陣が、刹那、炎を食い止める
のが映る。
圧倒的な力に、魔方陣が燐光をあげて焼き切られた。
手すりが、窓が、ブリッジそのものが焼け落ちて⋮⋮。
そして、恐怖を張り付かせたまま、ルデウスが炎の中に溶けてい
った。
﹁討ち取ったり!﹂
アルビオン
文洋を背に載せたドラゴンが高らかに勝ち名乗りを上げた。
巨人が後方に傾く。
黒煙を引いて巨艦が冬の海へと落ち、巨大な水柱をあげた。
§
レブログへと戻る﹃相良﹄の露天監視所で、レオナは南の空を見
つめ続けていた。
文洋を、止めるべきではなかったのか。
ルネが帰ってきてくれたのだから、もう、皆で暮らせればそれで
572
よかったのだ。
ローラになんて言えばいいんだろう。
﹁お嬢さん、風邪を引くといけない﹂
じっと空を見つめながら、考え事をしていたレオナは、肩にぶ厚
いピーコートをかけられて我に返った。
﹁ありがとうございます﹂
横にならんだ白い服の士官を見上げる。
﹁艦長⋮⋮さん﹂
文洋とよく似た横顔に、今はなき駆逐艦﹃樹雨﹄で親切にしてく
れた人たちの事を思い出して、レオナは目をそらす。
ルデウスに使われてたとはいえ、弟の守っていた船が、この人の
⋮⋮フミの兄の⋮⋮部下や同僚を殺したのだ。
﹁あらましは聞いています。我々の中にあなた方を恨むものなどい
ませんよ、お嬢さん﹂
﹁つっ⋮⋮﹂
胸にこみ上げるものを抑え、レオナは南に空を見つめる艦長をも
う一度見上げた。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁戦争は大人の勝手で始めるもので、子どもに責任を押し付けるよ
うなものじゃない﹂
﹁フミと同じことをいうのですね﹂
573
レオナの言葉に、こちらを向いて艦長がニコリと笑った。
﹁まったく、いきなり叔父さんだとか、戻ったら文洋に一言いって
やらないと﹂
そう言いながら、艦長がまっすぐに南の空を指さし、首からかけ
た双眼鏡をレオナに差し出した。
艦長が指差す方向に、小さな黒点が現れる。
慌てて覗き込んだ双眼鏡の中で、どんどん翼を持つ影が大きくな
ってゆく。
﹁フミ!﹂
肉眼で見えるほどになったドラゴンが、急降下してくると、海面
スレスレを追い抜いてゆく。
涙でかすむ視界の中、油煙で煤けた一人と一匹が楽しそうに飛ん
でいた。
﹁ばか、フミのばか、心配したんだから﹂
手を振る文洋に、千切れるほどに手を振り返してレオナは泣き笑
いした。
﹁お伽話みたいだな、まあ、あいつらしいといえばあいつらしい﹂
艦長のあきれた声に、レオナは応える。
﹁ええ、ほんとに⋮⋮。帰ったらローラにうんと叱ってもらうんだ
から、竜騎士だなんて、お伽話の真似もいい加減になさいって﹂
574
司令部からの勝利を知らせる無電に湧き上がる歓声を残して、北
へと船は走る。
群青色の影を落とし、大きな竜と一人の青年が透き通った冬の空
に駆け上っていった。
575
群青の竜騎士︵後編︶︵後書き︶
プロローグ︵後日譚︶と、後書きを19日中に描き上げまする。
だから待って、妖怪ブクマ剥がしはやめて!きゃー。
576
エピローグ
﹁ふむ、我らの勝ちじゃな﹂
ひるがえ
アルビオン
真紅のドレスを翻して、スカーレットは立ち上がった。文洋と繋
がった視界に﹃巨人﹄がおちてゆく姿が見える。
﹁勝ちましたか、それでどうされますか公女殿下?﹂
壇上で祈りを捧げていたラティーシャ王女がが立ち上がり、じっ
と見つめてくる。
﹁この戦、テルミアだけでは勝てはしなかったじゃろう﹂
﹁そうでしょうね﹂
﹁じゃが、﹃飴玉の君﹄がいなければ、爺も本気をださなんだろう
からの、おあいこにじゃ﹂
﹁飴玉の君?﹂
﹁ああ、お主の近衛に飴玉をくれた親切な男がいての﹂
呵々と笑って、スカーレットは議場を振り返る。
テールス
﹁ご来訪のお歴々よ、﹃巨人﹄︽アルビオン︾はたった今、地に墜
ちた、テルミアの騎士達、わが配下、雷の竜フルメン、そして地球
の裏側から来た勇敢な友人たちの手によって﹂
議場に熱狂の渦が巻き起こった、拍手、歓声。
それを抑えるように、ラティーシャ王女が立ち上がる。
宝石の散りばめられた杖を掲げ、議場が静まるのを待った。
577
﹁みなさん、今日この瞬間、我々は学びました、我らだけではこの
窮地に抗えなかったであろうことを﹂
ざわり、と小さく議場がざわめく。
﹁ゆえに私は﹃赤龍城塞﹄︽ドラゴン・ネスト︾との同盟とその締
結を提案いたします!﹂
どっ、と歓声に包まれる議場にスカーレットはいたずらっ子のよ
うな笑みを浮かべた。まったく、この小さな王女は油断も隙もない。
﹁ヘンドリクス﹂
﹁は、ここに﹂
﹁お主のところにダークエルフ共がおったろ? あれらをな、明日
の夜会に招待してやろうとおもうのじゃ﹂
﹁はっ?﹂
﹁あそこの隊長にの妾が名をやったのじゃよ、﹃飴玉の君﹄とな、
英雄王ロスェンバルト以来じゃの﹂
胸甲をつけた老騎士が、思案顔をしてからポンと手を打った。呵
々と笑ってスカーレットは視線を戻す。それにしても、爺め、少々
やり過ぎじゃわ、そう思いながら。
§
玄関先でエンジンが止まる音がして、ローラは窓から外をのぞく
と階段を駆け下りた。
踊り場の姿見に映った自分の姿に立ち止まり、手櫛で髪を整える。
泣きはらした目はもうどうしようもないけれど、でも、それでも。
578
﹁ローラ﹂
油煙でくっきりとゴーグルの後がついた文洋が、腕を広げて笑う。
﹁おかえりなさい⋮⋮フミ﹂
ローラはその腕の中に飛び込んだ。ぐいと抱きしめられる、オイ
ルと硝煙、そして血の臭い。
﹁みんな無事だ、さあ迎えにいこう﹂
革のジャケットをローラにはおらせると、文洋がローラの手をぐ
いと引っ張る。
﹁まって、フミ﹂
そう言って手を引き返し、目を閉じた。
﹁ただいま、ローラ﹂
大きな手が頬を撫で、引き寄せられて唇を重ねる、
文洋の唇からは、やっぱりオイルの香りがした。
<i209552|13110>
群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人 ∼ ︵完︶
579
エピローグ︵後書き︶
﹁群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人 ∼﹂
2014年9月18日に書き始め、なんとか書き上げました。
なろうの流行というのがまったくわかっていないオッサンが、20
年ぶりに書いたこの長編小説は、主流からは大きく外れている上に、
専門用語を投げっぱなしという大昔のSFの手法で書いたものです
から、当初、あまりの読者の少なさに心が折れそうにもなったりし
たものです。
それでも、この作品を愛してくださる人たちがいること、折れそう
なときに支えてくれた人たちがいたことが書いてゆく上での大きな
支えになりました。
二年にわたりお付き合い頂いた読者の皆さんに感謝して、このスト
ーリーは一旦筆を置きたいと思います。
もしよければ、一言で良いので感想を書いていってください。今後
もマイナージャンルを書いてゆく、一番の励みになります。
二年間、ありがとうございました。
580
■巻末付録 ∼ 飛行機の簡単な説明 ∼
みなさんあまり飛行機になじみがないと思いますので、巻末付録と
して簡単な説明を作りました。
思えば最初にやっとけばよかったなと思いますが⋮⋮。
■各部の名前
<i209679|13110>
飛行機は空を飛ぶ乗り物なので、基本的には前に進むことが前提と
なっています。
ですので、前に進みながら、翼に受けた風の方向を変えることで傾
いたり、方向を変えます。
主に三つの動翼︵操縦すると動く部分︶で回ったり、上がったり下
がったりします。
■コックピットにあるもの
<i209680|13110>
<i209685|13110>
<i209682|13110>
いまの飛行機も基本は同じで、飛行機は二つのレバーと左右のペダ
ルで操縦します。
A:操縦桿 :機首の上下の傾きと、翼の左右の傾き
を操作する
↓押し込むと機首が下がる、引くと機
首が上がる
↓右に倒すと、機体が右に傾く、左に
581
倒すと左に傾く
B:スロットルレバー :飛行機の速度を操作する︵自動車のア
クセル︶
C:ラダーペダル :水平方向の左右回転を操作する。
↓右のペダルを踏むと、機首が右に水
平回転
↓左のペダルを踏むと、機首が左に水
平回転
■操縦桿でできること
エレベーター
<i209683|13110>
操縦桿を引くと、昇降舵がよいしょ、と上をむき、風を受けたしっ
ぽが下がります。
︵逆に機首はあがる︶そのまま引き続けると、飛行機は宙返りしま
す。
操縦桿を倒すと、飛行機は傾きます。機体を90度傾けて操縦桿を
引くと、飛行機は90度傾いた状態で横向きに宙返りします。
つまり、急旋回です。
■小説の中に出てくるハンマーヘッドターンという機動
<i209684|13110>
飛行機はボール投げと同じで、スピードが速いものほど沢山のエネ
ルギーを持っています。
いまの戦闘機はエンジンの出力がすごいことになっているので、空
気が薄くなってエンジンが弱るまで垂直に上昇できる機体もあった
りしますが、このお話に出てくる機体は、100馬力から200馬
582
力程度しかありません。いまの普通自動車くらいですね。
なので、スピードを限界までだしても、重力に負けてつり合い、そ
して落っこちます。
上昇して、ヘロヘロになって、でもまだ操作できるくらいの風が流
れている状態で、ペダルをけ飛ばすと、重たいエンジンを下にして
カクンと回ります。
使うタイミングを間違えると、敵の目の前で止まるのでただの的に
なりますが。
583
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n1197ce/
群青の竜騎士 ∼ 鈍色の巨人 ∼
2016年10月3日15時19分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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