頼山陽と広瀬蒙斎

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9
武
明治大学教養論集 通巻五O五号(ニO 一五・三)五九七二頁
頼山陽と広瀬蒙斎
田
一宿した。蒙斉は、名は政典、字は以寧、後に仁里。蓋八と称し、この年二十九歳であった。白河藩主
敷(三近堂)にて、しばしば春水と会見していた。春水は、八年には広島に居り、そのことぞ承知していて蒙斎は訪問
松平定信︹楽翁︺に仕え、寛政三年、その旨に由り、江戸によって昌平坂事問所に入り、その教官である柴野栗山の屋
の麗敷を訪い、
覚政八年(一七九六)十一月二十四日、奥州白河藩士広瀬蒙斎が、九州遊歴からの帰途、広島の頼春水(五十一歳﹀
翠斎の来訪
ものである。年齢順に展望できるようする為に、まず山陽の若い時の文章から始めよう。
説くものは、当今の学界にも論壇にも殆ど現れなくなった。そこで、本稿では彼の文章の読解を行い、その意義を説く
ぐっと少なくなるが、それでもまだ結構いる。ところが文章、即ち漢文になると、実際にそれを読解して、その意義を
頼山陽は、漢学界では著名な人物であるから、その経歴や行動に就いては述べられることが多い。その詩を読む人は、
徳
、
したものであろう。春水の弟である頼杏坪(四十一歳)も春水邸に来ており、十七歳の山陽とともに接待に務めたとい
う(木崎愛吉町頼山陽全伝﹄上巻八十七頁)。
譲二十五日、豪斎は、春水の次弟春風(四十四歳)が居る竹原(現、広鳥県竹原市)に行くことになり、春水の指図
により山陽は蒙斎に伴って竹原へ赴き、その晩は瀬野(現、広島市安芸区瀬野)に泊まった。
盟二十六日には、蒙斎の紀行文である﹃有方録﹄によれば、仁志村にで猪の肉を食し、﹁味倍なり﹂ということであっ
た。それから両人は竹原に到着し、春風の家に入った。
二十七日には、山陽と豪斎は西方寺の普明閣に登り、その夜、蒙斎は船を発し、帰程に就いた。この別れの際に山陽
が著わした文章が﹁送広瀬以寧帰白河序﹂(贋瀬以寧の白河に帰るを送る序。﹃頼山陽文集﹄巻乙である。それを訓読
すると、次のようになる。なお、括弧の中の字は、解しやすくする為に筆者が補ったものである。また現代仮名遣いに
L4mザ令。
鳩
山
マ
あきら
瀧ばんか瀞ばんか。汗漫と云わんや。瀞なる者は集を養う所以なり。難険を経、変故に渉るに輪無く、即ち山獄河
海、之くとして集を養うべからざるは元し。
(山)城の尾・摂の頭、其の山は秀で、其の水は埜かなり。其の気の英朗を養う所以なり。左のかた(伊)珠・
(土)佐安望み、右のかた豊(大分)肥(長崎)を掠う。浩波怒溝、清と韓とに接す。其の気の宏潤を養う所以な
ややあがこれ
り。富士の撤、相(模)に跨り駿(河)を擁す。突冗乎として天揮を衝く。其の気の高傑を養う所以なり。而して
の
白河に伴仕し、幕府の校に議ぷ。巴にして城に瀞び摂に瀞び、四国・九州に瀞びて事を過ぎる。吾以て之に
よ
岐蘇の峡.雷乎闘ひ、龍乎陸る。其の気の沈深奇偉・を養う所以なり。気は養いて成る。諸を中に蓄え、諸を功業文
寧
章に描ぷ。贋瀬以寧の如き是れなり。
以
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明治大学教養論集
頼山陽と広瀬蒙斎
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見ゆるを得たり。
あくせ︿
一見して心酔す。其の心の宏く、其の貌の奇にして、其の文の高く且つ深きを以てなり。蓋し其
の潜に得たる者多しと為さん。
瀞びに志すこと
夫れ天下の士子、衆からざるに非ず。総食安坐、章句を是れ務め、事の顛を経ず、物の変に渉らず、躍艇として自
さん
から足る。而るに其の気は振わず。是れ何ぞ事業を望まんや。市れども予も亦た其の一なり。予
故に其の帰るに於いて、此の説を作りて之に贈り、以て我が志を一一ム一口いて、其の事業を他日に勉まし
久し失。未だ其の十に一を得ること能わず。能く以寧に敢然たること元からんや。況や以寧の仕うる所は、当世の
明主なり。我
めんとす。別れに臨んで之に訣して日く、天下の山嶺河海、皆子を助けて以て其の試を養う。子其れ天下の山嶺河
海に負くこと勿れ。
旅は気を養い、養われた気は事業や文章を発展させる、という説を述べる。そして、広瀬蒙斎は、旅によって気を養
ぃ、人格と文章とを向上させた、と賞賛する。これに対して、当今の学士は、旅を行わず、それ故に気を充実させず、
ために事業が振るわない、と批判する。ただ山陽の早熟な点は、返す万で自分をも斬る所に在り、しかるが故に旅を志
向する、と論ずる。最後に、注目すべきこととして、山陽は、老中首鹿として寛政の改革を断行した松平定信を﹁当世
ってよいであろう。
の明主﹂と称揚し、その明主に信任されている蒙斎が将来活躍することを期して巳まないのである。
山陽が十二歳の年長である蒙斎に野意を懐き、その能力を認めたことを示す文章、
はたして蒙斎は、翌寛政九年に擢んでられて、馬廻格に班し、藩拳立教館筆頭を命ぜられる。ところが、俗儒ならば
殊に喜ぶであろう、この抜擢を、蒙斎が喜ばなかったことは、次の山陽の文によって知られ、そうした事情があればこ
そ、山陽は次の文章﹁与広瀬以寧書﹂(広瀬以寧に与うるの書)を作るのである。
・
山陽の諌言
﹁与広瀬以寧書﹂は、山陽が江戸の昌平費に遊んだ折、即ち寛政九年丁巳(一七九七)、十八歳の時に記されたもので
おb
頼姿再拝して、書を白河︿立教館)教授慶瀬以寧足下に奉ず。嚢に山陽に於いて、始めて接見を得て、
あることは、容易に判明する。
安事の書生
留撃を願う。市して
関西に遊び、山林の瀧士と交わる。我其の用うべからざるに至る
之を聞き、乃ち自か
故に罵ぎて之を継ぐ﹄と。博士対うること
固に帰るの後、其の事務を眠い、欝欝として楽しまざるなり﹂と。僕
おさ
仕えざれば則ち巳む。仕うれば当
若し其の仕えざるを楽しむ所以は、則ち知己の主元ければなり。才を展ずるの地元ければなり。乃ち決意として起
し。是れ古の人の仕えを楽しむ所以なり。
に英主を得て、其の素より負う所の才を展じて、其の嘗て撃ぷ所の道を行い、其の国家を経め、其の民人を済うべ
古の人、必ずしも仕えず?必ずしも仕えずんばあらず。遇の如何のみ。大丈夫
ら捕らず、将に足下の為に言うこと有らんとす。
はか
莫くして退く。足下
を恐る。之を馬に誓うるに、野馬に群すれば、必ず野心を生ず。我
二博士も亦た為に之を請う。君侯日く、﹃生
我が為に語る、﹁足下の西より至るや、君侯促して国に帰り、皐職を幹せしめんとす。足下
今春来りて本府に辞び、昌平学に留学す。柴野・尾藤二博士に従いて、足下の近事を悉くすを得たり。二博士
山津林麓の聞に随従し、高談偉論、猶お耳に在りて忘るること能わず。爾来進業之効、意うに当に震時に加わるべ
し
僕
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~首巻 505号 (
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ち、広く天下の名山大津に瀞び、周ねく天下の豪傑奇偉の士に交わり、其の懐抱を静べ、其の道を千載に伝う、是
れのみ。
而れども是れ以寧の今日の宜しく楽しむべき所に非ざるは、何ぞや。君侯の英明は、海内の共に知る所、七道の士、
才を負い器を抱く者、之が周を為すを思わざるは元し。
いず︿か
而して足下は何の幸いぞ、世よ侯家に臣たり。侯は足下の才の駿過なるを知りて、鴛して之を用いんと欲す。是れ
足下の其の筋骨を喝して、以て其の誼に報ずるの時なり。烏んぞ彼のふイは知られず、策は用いられずして、抑欝
ちょうひっ
して決起する能わざる者と比すべけんや。
熟ら之を思え。
だ江戸で学びたかった蒙斎は、これを渋り、二博士も議斎に同意した。しかし、堅実な政治家である定信は、これを認
それに拠れば、松平定信は、蒙斎が西遊から帰るや、すぐさま奥州白河に戻して立教館の学頭に任じようとした。ま
たから(﹃頼山陽全伝﹄上、九十七頁)、こちらからも父の消息を聞くことはあったであろう。
から忌俸の無い蒙斎の噂を聞いたことであろう。おまけに昌平聾の寮には、蒙斎の二男養浩もいて、親しく交わってい
て山陽が夜遅くまで二洲の歴史談を聞いていて、叔母から無遠慮をたしなめられていたほどであるから、山陽は二博士
二洲も春水の親友であり、なかんづく二洲の妻梅月は山陽の母梅蝿の妹、即ち叔母であり、そうした近しい関係もあっ
ほいし
江戸に来たり、昌平聾に入門した山陽は、その教授である柴野栗山と尾藤一一洲から親しく豪斎の噂を聞いた。栗山も
有り。故に敢て其の愚を陳ぶ。喰だ足下
僕の言う所を以て然りと為すや、不らずと為すや。皐阻の心、己む能わざる者
之を用うるの地を得て、用いず。乃ち撃と云わんや撃と云わんや。僕窃かに足下
且つ夫れ士の拳ぷゃ、何ぞ必ずしも砧曝のみと云わんや。固より将に之を用いること有らんとするも、特に之を
用うるの地王きのみ。足下
寸
の為に取らざるなり。知らず足下
三
、
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めない。
﹁台八(蒙斎の通称)は、西国で世に隠れている者たちと交わって来た。彼が役立たずになられては困る。馬で審え
れば、野性の馬と群れれば必ず粗野になるようなものだ。そこで、これを繋いでおくのだ﹂
ここで定信が言う﹁山林の瀞士﹂とは、西山拙斎・中井竹山であることは、菅茶山の﹁拙斎先生行状﹂に、
白川の遊停広瀬典、九州に遊びでより還り、路に至楽居(拙斎の住居)を訪う。寓居累月、先生(拙斎)乃ち門生
塾童に命じて特に敬礼を加う。蓋し其の主(定信﹀を敬いて、其の使い(蒙斎)に及ぶの遺意なり。侯(定信﹀、
某博士に謂いて日く、﹁典や西避して、拙斎・竹山の徒輩と遊ぷ。恐らくは肥遁粛散の気に染まらん﹂と。蓋し深
く先生(拙斎)の隅操を知れるならん。
とある文が語っている。それは、柴野・尾藤ニ博士が山陽に語った言葉とほぼ同文であるからである。山陽が﹁山林の
静士﹂と表現したものが、ここでは﹁拙斎・竹山の徒﹂と明記されているからである。拙斎や竹山は、それぞれ郷土で
私塾を経営してはいるが、藩に仕えてはいない。藩士として主君に仕える苦労と緊張とを持たず、この点では気楽な陪
者だ、と定信は言いたいのである。
かくて実際政治の渦中に在る定信は、蒙斎を地方の学校行政という責任ある仕事に振り向けたのである。
立教館の設立に際しては、様々の煩雑な事務や交渉などがあって、蒙斎の苦労は容易な物ではなかったであろう。定
慣のような頭脳の廻る政治家のもとに在って、諸事万端抜かりないように整備することは、綿密な神経と多大の精力を
消費することであろう。豪斎が事務そ厭い、種々とするのも無理からぬことだ。
だが山陽は、蒙斎に考え直すよう説く。英主を得て、白日の学識と才能とを活かし、国を治め民を救うことができる
のは、儒者として恵まれた立場であり、その立場を活用すべきである、と。
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若年のものながら、堂々たる正論であり、蒙斎を反省させる効力を十分に有している、といえよう。そしてまた、こ
の文章においても、山陽が定信を高く評価していることが見て取れるのである。
松平定信と﹃日本外史﹄
家斎が山陽の諌言をどのように受け止めたかを知ることのできる資料は、現在のところ、見当たらない。写本として
僅かに残る﹃蒙斎先生文集﹂七巻(文政十一年五月二十一日、立教館教授片山成器序。慶応義塾大学図害館蔵)には、
直接に山陽に関係する文は存在しないようであるし、分厚い﹃頼山陽書簡集﹄(徳富猪一郎・木崎愛吉・光吉元次郎編。
昭和二年、民友社刊)上下二冊にも、蒙斎関係の書簡は無いようだからである。ただ、蒙斎のその後の一生は、山陽が
勧めたように、藩儒として定信を補佐し、その信任を得たものになった。この点で、蒙斎は、山陽の諌言を﹁もっとも
だ﹂と思い、その親切に感じ、若くして立派な漢文を綴れる山陽の文才と見識とをますます認めるようになる、という
﹄とは、十分にあり得るのである。
右のように山陽との交友や文章の受容を通して、山陽を認めるようになった蒙斎が、帰藩の後、春水の子に山陽とい
う鬼才がいることを主君の定信に伝えたであろうことは、容易に想像できるのである。定信は、寛政の三博tと親しく
て幕府の文教政策を陰で助けていた春水のことは、栗山や二洲たちから聞いて知っていたであろうが、その春水の子に
異才がいる、ということも、この寛政十年頃には早くも知ったかも知れない。
それはともかく、蒙斎がその後も長く山陽の動静に注目し、時折それを定信に伝えることがあったであろうことは、
遥か後年の文政十年(一八二七)の正月某日に、桑名藩士不破右門が京都の山陽の宅を訪れて来たことから推測できる
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のである。即ち﹃頼山陽会伝﹄下のその日の条に言う。
桑名藩士、不破右門来訪。詩稿を示されて、その中の﹁梅﹂に和韻した。右門は、広瀬棄粛と同格の藩用人兼城使
を勤め︹定府︺、今、京邸の留守居であった。この日の会見は、﹃日本外史﹄公刊発表の上に、その曙光のみとめら
たのうち
れた重要性を持っていた。席上、右門は、吋外史﹄の噂に及び、﹁何卒老侯(楽翁︺之覧に入れ度存居候﹂と物語つ
やとい
た。この際、又、囲内月堂(徳田注。定借家臣)よりの手紙に﹁其内に、外史を写して差越くれ、是は風流の事と
違ひ候故、粛藤︹節翁││桑名滞京用達︺に申付、筆工を情候て:・﹂といふ沙汰も来てゐるのであった。(文政十
年四月九日。市河米庵宛手紙参照)
不破右門の所属が桑名藩になっているのは、定信、隠居して楽翁の継嗣である松平越中守定永は、文政六年二月に桑
名に転封されていたからである。その京都留守層役不破右門が﹃日本外史﹄を楽翁の上覧に入れたい、というのは、山
陽の動静、換言すれば、写本として伝わっている﹃日本外史﹄の好評が定信の耳に入っていたからであろうが、それを
定信に伝えたのは、藩中では蒙斎である可能性が一番高い。
たてまつ
そうした推測は、早く木崎愛吉も懐いていて、可全伝﹄の同十年五月二十一日の条にいう。
あた
﹁上楽翁審﹂(﹁楽翁に上れる寄﹂││刊本吋日本外史﹄の巻頭を飾れる書庸一篇は、その日附が﹁五月二十一日﹂
(徳田注、文政十年﹀になっている。
﹁今窓、尊嫡君侯︹松平越中守定永︺、幕命に膚り︹彦根藩主井伊掃部頭直亮と同じく︺、入朝して、︹将軍、太政大
臣︺天拝の思を謝す:・。図らざりき、邸吏︹用人│京都留主居不破右門︺、閣下の命を帯び、来って嚢が家に就き、
著はす所の私史を取り、覧観を賜はらんと欲す、礼意股勤にして、塊傑こもごも至れりJ
﹁夫れ、頭、敢て閣下に求めず、而も閣下、嚢に求む、嚢の柴や大なり、復た何の嫌ふ所ありて辞避せんや。米だ
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そばや︿
馨咳に接せずと雄も、その調命を聞く、亦以て白から壮にすべし。是に於て、その蕪臓移}忘れ、出だして以て下執
事︹側役田内主税、号は月堂︺に納る。﹂
右門と主税が、内外両面より、その進行上、密接の干繋ぞ持っていたことは、前述、ほ Yその聞の消息は明らかに
されていた。私は、更に旧交ある贋瀬蒙粛が今すでに六十歳の老齢を以て、右門と同じく用人格を以て、老侯の親
任を荷うていることを思い、その推挽の力もあったのではないかとさへ想像する。
すなわち、難斎が世評に高い﹃外史﹄を楽翁の上覧に入れることを提案し、その側役の主税の協力を得て楽翁の承認
を取り、右門をして山陽にその意を伝達させる。こうした経緯が容易に想像できるのである。念のために言えば、豪斎
と主税とが文化十一・二年(一八一五)に江戸に滞在していた菅茶山ぞ招宴するなどの折に頬繁に同席していた様は、
茶山の日記から知られるのである(富士川英郎著﹁菅茶山b。こうして木崎愛吉も、﹃外史﹄を定信に推薦した、陰の
力を蒙斎に帰するのである。果たして然りとすれば、﹃外史﹄の巻頭に﹁上楽翁審﹂が掲げられるようになった基困に
は、蒙斎が山陽について早くから着目していたという事情が存するのである。
換言すれば、山陽が十七、八歳の交に物した二篇の漢文こそが、ほぼ一二十年後、彼の畢生の業績たる﹁日本外史﹄を、
嘗ての最高権力者であった松平定信の上覧に供する契機となったのであり、その山陽伝における、また吋外史﹄の伝播
における意義には大層重要なものがあったのである。
襲斎の漢文
広瀬蒙斎は、あまり言及されることの無い人である。殊にその漢文は、顧みられること少ない。そこで、山陽と愛憎
回
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こもごも、密接な関係にあった菅茶山に関する文が﹃蒙斎先生文集﹄には二編存するので、それを紹介しておこう。
み
は、﹁茶山先生を送る序﹂(巻二)である。
予久しく山陽に茶山先生有り、婦に徳有りて以て詩を能くし、而して世に隠れんと欲する者なりと聞く。而るに我
量我を以て怠りて志無しと為すこと無からんや。
西遊して先生に寓すること五日、先生の我を収むるに款懇なること故人の知し。乃ち我を詰るに怠りて
其の徳を聞くも、嘗て文書を通じて問遣する所有らず。先生
市して我
志無きを以てせざるを知る。
予尋いで置に就き、上に君長有り、下に妻家有り、進んでは諸生と業を講じ、退いては独り我が文を修め、惟だ奔
走日びに用うるも、而も力給せざることを恐る。故に二十年間を以て、而して音信を通ずる者、五、六次に過ぎず。
江戸に来れば、先生既に先に藩邸に在り。我
まみ
我を収め、酒を飲みて綱謬す。乃ち我に問うに箆にして礼無きを以てせざるを知る。
先生宣我を以て箆にして礼無き者と為すこと無からんや。而して予
往きて入りて拝すれば、先生
孜の江戸に於ける、之を去ること己に久し。而して今偶々復た来れば、則ち朋友故人、或いは数歳にして相見ゆる
もの有り、乃ち尽くは捨てることを得ず。官事の暇に、力めて之を専らにす。先生に於けるや、故に一年噴を以て、
而して聞を冒して談宴する者、五、六次に過ぎず。先生畳我を以て簡にして薄情なる者と為すこと無からんや。而
して先生今将に我と別れんとし、桐畑の情、言面に発す。乃ち我を責むるに簡にして薄情なる者を以てせざること
を知る。我是に於いてか先生の物を待つことの弘きを見る。而して先生の独り我に私するのみに非ざることを知る。
いかん
是れ其の世の有徳と称する所以なるか。
然らば則ち先生の詩は何加。先生の詩は固より高し失。而して其の之を成すや、其れ亦た人を遇する者と其の道を
同じうするか。意に命ずるの初めに及びてや、之を温柔敦厚の地に養い、之安平正寛恕の途に行い、之に耳聞目見
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おのずし
の実を雑う。其の能く博容にして養うこと有るは、猶お我の始めて見る時のごときか。其の句を得るに及。ひ、煙雲
水石・虫魚鳥獣草木の品葉より、以て古今の賢達官人・野老闇婦藤女の悲併に至るまで、威な其の物の自から爾
かるを写すのみ。其の字は必ずや順、其の言は藷加ならんことを欲し、其の能く物を棄てざるは、猶お我の再び相
見ゆる時のごときか。其の章を成すに及び、人に絶するの才有るを忘れ、老成の徳、日々に朋友に就きて相質す。
之を陶するに金の沙に埋まるを恐れ、之を口するに玉の撲に在るを要す。其の日に成るや、足らざる所有るが如し、
猶お今の我の将に別れんとするがごときか。先生の詩に於ける、尽に猶お是くのごとし。
よぎ
夫れ斯の一一者有り、是以て交道の日々に広き所以、名東の日々に遠き所以なり。故に其の山陽に在るや、措紳の東
ただ
西に行くに、必ず過りて其の虚に礼せざる者莫し。十年前、嘗て瀞びて江戸に在り、僅かに数月間のみ。折びて之
を慕い、費して之に見みえ、其の人の衆き、遡に其の嘗て過ぎりで礼する者の多きのみならず。
かたじけな
市して去年又た再び日戸に入り、留まりで以て今年に軍る。月将に周ねからんとす。四方の人士、聞きて之を喜び、
其の聞こゆる無きことを欲すと雄も得んや。文化十二年乙亥二月
見えて之を識る。争いて下風に趨き、以て詩を求めて其の知音を辱くせんと欲するもの、又た前日の多きより
多し。先生
文末に明記されるように、文化十二年(一八一五)二月、茶山が江戸から神辺に帰郷するのを送る文章である。
第一段では、蒙斎が寛政八年、九州からの帰途、神辺の茶山の廉塾に五日間滞在したことを述べる。即ち山陽に会つ
て椋なく茶山とも面識を持ったのである。その様は、富士川著書が茶・山の日記を用いて紹介している。
第二段は、その後、蒙斎は藩に仕えたために、二十年間に五、六度しか茶山に便りを送れなかったこと、文化十一年
に江戸で再会したことを一言う。
第三段は、盟十二年までの一年間、江戸でもお互いに忙しく、それほど頻繁には会えなかった、と述懐する。しかし、
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けつこう両者が歓会を持った様は、やはり富士川著書に詳述されている。
そして第四段には、茶山の詩性が分析されている。この分析は、後世の読者の参考になるものであろう。それは即ち、
﹃詩経﹄の温柔敦厚の素地(人柄)に発し、平正寛恕な思念と感情に藩づいて、写実的に詠じられ、その題材は幅広く
多様であり、その言語は、穏当自然である。そして、出来上がった後にも、後進にも意見を聞いて推敵して巳まない、
とい,っ。
結末の第五、六段では、かかる温厚な人徳と秀でた詩性ゆえに、茶山を慕う者が多い、と結ぶのである。
もう一つは、巻四の﹁廉塾記﹂である。ただし、部分的に誤写や脱字があるようで、慶応本が蒙斎自筆の稿本ではな
いことを示しているのではないか、と考えている。そうした部分を意を以て補いつつ訓読する。
国の為に教えを設くる者は、校舎を創造して、以て生徒を待ち、規制完全、百度情備す。家に居りて教えを為す者
は、地は蓬馨に接し、居所阻約、事は皆草略なり。故に校舎に学ぶ者は、既に菓くるに給有り、官秩待つ有り、典
籍書史、叢集浩織、求索すれば必ず供せらる。市かも材を成すの功は乃ち微なり。塾堂に従う者は、親しく賎役を
執り、困乏に苦学す。而して従瀞の徒日々に多し。侯閣の建学は、近世精や多し。市れども国初に成る者は稀なり
人を得るに非ざれば、則ち興り難くして廃し易し。
失。古に始まる者は、基祉巳に固し。市るに近きに起とる者は、維持日々に浅きは、勢いなり。況や郷序里塾、侍
む所は則ち人心の尊尚のみ。是を以て師導
のζ
備後の菅翁茶山、その郷神辺に於いて塾堂を開き子弟を教うる者、四十年なりき失。束惰贈遣、自ら之を納めず、
積みて以て待つ。翁謂う、道なる者は人道なり。人は道外に遺るべからざれば、則ち学無かるべからず。我巳に子
たれば、以て不孝なるべからず。我己に臣たれば、則ち以て不忠なるべからず。妻翠僕妾有れば、以て養いて御せ
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1 頼山陽と広瀬変斎
ざるべからず。理乱獄訟、以て聴きて断たざるべからず。徒らに之を心に求むるは、之を書に読むに如かず。之を
あやうここおく
書に読むは、則ち学を為す所以なり。凡そ事は皆聖人に求むれば、則ち道全し。若し之を己れに決すれば、則ち
殆し。我子弟を率いて与に之に従事する者なり。是を以て有くも徳重有る者至れば、之に飼り之を留め、子弟
の為に講習す。其の倦怠に当たれば、則ち従容として談笑し、之を詩賦に養い、之を筆札に娯しむ。力めて迫切せ
ず、楽しみて流蕩せず、成して払打寄せずと。翁の教えたるや是くの如し。
福山候聞きて禄と金とを賜う。翁復た自らは之を納めず、積みて以て待つ。乃ち謂う、古は神辺は山名氏の治所た
ゆるし
り、其の時能く文学の土を出だし、化して他州に及ぶ。石人木麗長宗来たり学ぶこと有れば、則ち我が郷凶より文
ひろ
学の郷たり。宣古に行われて今に興らず、今に興りて後に延びざらんやと。乃ち建白して可を得、阻を飾り狭き
ためちか
を移くし、基祉を展拓し、群居族処し、麗担俸を切礎し、其の盛んなること巳に他日に倍す。斯道の為に謀る者遠し。
市して志為に酬いらるること有るに庶幾からんか。予昔者神辺に遊ぶに、猶お私塾のごとし。今其の盛んなる
を観んと欲するも、我巳に仕えて往くこと能わず。是号以て特に事の由と翁の志とを記し、後の翁を承けて此の塾
に師と為る者の、其の永く伝えて衰えざる所以の者、将に何に由りて然るかを思わんことを欲す。文政辛日(四年)
即ち、第一段では、官学と私塾の相違を述べ、私塾は恵まれない点が多いから、師導に人を得ないといけない、と説
た文章であろう。震亭の後に廉塾の都講となる者へその心構えを説いたもの、と考えられる。
月八日に江戸へ引っ越すことを命ぜられ、同二十五日、準備のために一日寸神辺に帰るのだが、その際に震亭に託され
茶山の後継者たる北条霞亭は、文政四年(一八二二四月、藩主阿部正精に江戸に召し出され、六月四日に着府、八
暮
秋
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通巻 5
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号 (
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明治大学教養論集
第二段においては、まず茶山が学費を私しないで蓄えたこと、 つまり、堅実な緑営を行ったことを指摘する。次に茶
山から直に聞いた、その教学思想を解説する。具体的に言えば、人はそれぞれ人としての道を抱懐せねばならないが、
道・を自身で考えることは危うく、聖人の書に就いて求むるに知かず、これが学ぶことである、という。そして、いかに
も茶山らしい教えであるが、詩文によって余暇を楽しむことを付加している。朱子学者流の思想に文人趣味を加味した
ものである、と言えよう。
第三段では、廉塾の後継者への蒙斎の要請を述べる。 つまり、茶山の努力により、廉塾は、寛政八年には福山藩の郷
校となっ・たのであるが、家斎は、私艶から郷校にまで発展させた茶山の経営法と教学思想および人徳を、後継者が受け
継ぐよう念を押すのである。
法学部教授﹀
このようにして、茶山に関する蒙斎の二つの文は、茶山と廉塾を知る上で、貴意な情報と示唆とを与えてくれるもの
なのである。
︿とくだ・たけし