凶獣の愛し方 - タテ書き小説ネット

凶獣の愛し方
白銀トオル
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タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
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︻小説タイトル︼
凶獣の愛し方
︻Nコード︼
N4886DH
︻作者名︼
白銀トオル
︻あらすじ︼
旅行に来たというイタチ獣人の青年に、しばしのお宿を提供して
あげる事にした人間の村娘。
職業は傭兵だというし、この土地に以前来た事もあるようだし、何
か事情のある気配はするものの細かい事は気にしない。
しかし、緩くほのぼのと交流を楽しむある日、事件が︱︱。
ひとときの出会いのはずが、いつの間にか特別なものになってしま
1
う話。
﹁⋮⋮ねえ、君、僕を
ただのイタチ
﹁イタチじゃないの?﹂
の獣人と思ってるの?﹂
﹁いや、まあ、イタチではあるけど⋮⋮﹂
︱︱それと、外見に騙されてはいけない話、でもあります。
2
01︵前書き︶
2016.06.18 連載開始:1/3
◆◇◆
■イタチ獣人と人間少女
あまり他に見ない動物の獣人の物語が読みたかったのですが、そも
そも自分好みの獣人小説が何処にも見当たらなかった。︵※通常運
転︶
ので、自給自足するべくネットの海を泳いだ結果、出るわ出るわの
伝説に心奪われた、白銀トオルです。
あやつらはたぶん最凶の︵小型︶肉食獣。これは⋮⋮なんて素敵な
ネタの宝庫⋮⋮! 勢いで書いてやる事にしました。
なお、生態や形態など、作者の妄想が混ぜ込まれているところもあ
りますので、あらかじめご注意下さいませ。
また例に漏れず、この物語には︻獣頭の全身フル毛皮な獣人︼が出
現しています。
くつろぎのお供になる、そんな毛皮物語でありますように。
3
01
いつものように、カティは父が作った装飾品を机に広げて確認作
業をした。
この日、町の装飾店へ納品する品は五つだ。今回は、淑やかな女
性に似合うだろう上品なデザインの首飾りや耳飾りといった品であ
る。父が丹誠込めて作り上げたそれらはどれも美しく、窓辺に差す
柔らかい日差しを受け光を纏っている。
手元の発注リストと装飾品を照らし合わせ、間違いがない事を確
認した後は、丁寧に包装して木箱に納める。父が昔から愛用してい
たその箱は、もう年季が入り貫禄も滲んでいる。感慨深くなってそ
の蓋を撫でつつ、カティは自らの身支度も整え、木箱を片手に玄関
へ爪先を向ける。
︱︱その前に、チェストの上に飾られた、二つの首飾りへ視線を
配った。
丸く綺麗に磨かれた、青色の石の首飾り。箱に入って並ぶその二
つは、どちらも同じ形をしている。
﹁行ってきます。父さん、母さん﹂
両親が生前身に着けていたお揃いの品へ微笑みかけ、今度こそカ
ティは木箱を大切に持って自宅を後にした。
外は、緑を抱く長閑な村に相応しい、暖かな陽気に満ちている。
暮らし慣れた普段通りの村の風景だが、いつもと変わらないものと
して受け止められるようになったのも、喪失の色が薄れてきたから
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だろう。
カティは大きく息を吐き出すと、歩いて十数分ほどの隣町に向か
って踏み出した。
︱︱装飾品を作る職人として生計を立てていた父が、二ヶ月ほど
前に世を去った。
カティは十八歳を迎えたので、世間体で言えば年頃の娘。その父
となれば随分若いのだろうとよく想像されるが、父は享年六十歳で
ある。
父が結婚したのは、なんと四十歳を超えてから。そして母はなん
と二十歳半ば。見事な年の差婚だった。
母は病気がちで身体が弱く、カティが十歳を迎えたところで先に
旅立ったが、父は見送る事を覚悟の上で結婚したそうだ。そしてた
っぷり泣いた後、彼はくよくよせず活動してカティを育てた。あの
世でアイツに会った時怒られたらたまらないからな、とは父の言葉
だ。父、母にだけは昔からめっぽう弱かった。
そんな父のおかげで、カティも前を向いてゆけた。家事を一手に
引き受け、母の代わりに父を支えた。
そして、カティも働けるようになり一人前となってから現在︱︱
父は母のもとへ旅立った。
病気もなく生来元気に活動していた彼だったので、きっと天寿だ
ったのだろう。
それでも、カティや村の人々にとっては衝撃だった事には変わり
ない。飾り物を作る職業柄、手先は器用で物作りなども得意だった
父は村の人々からよく修理の相談を受けて、快く引き受けていた。
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気っ風の良い人物として親しまれてきたので、父の死を悼む声は当
時多くあがった。当然、カティもそうである。しかし、一人娘の彼
女はいつまでもくよくよとしていなかった。母が居なくなった後の
父がそうであったように、カティもまたその心を受け継ぎ、満足す
るまで思い切り泣いた後顔を上げた。
すぐに立ち直る事は難しく、ぐずぐずと涙はこぼれ、また今も時
々ふと一人きりである事を噛みしめてしまうけれど。最初と比べて
しまえば、かなり逞しく立ち上がったと言えるだろう。
なにせカティには、いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかな
い理由もあったのだから。
通いなれたいつもの道を進み隣町へやってきたカティは、その足
で目的地へ向かった。店が軒を連ねる通りの一角に佇む、装飾品店
である。
カティは居住まいを整え、その扉を開けた。
﹁こんにちは。おじさん、居ますか? カティです﹂
様々な装飾品たちが並ぶ店内へ踏み入れ、入り口で少し待つ。
ほどなくし、奥から足音が軽快に近付いてくる。顔を覗かせたの
はこの店のオーナーである男性だ。柔和な笑みがとても似合う齢五
十を超えたその人物は、カティの父と仕事関係にあったが、私生活
でも親しく付き合っていた人でもある。幼い頃からカティも世話に
なり、今では気軽におじ様と呼んでいる。
﹁いらっしゃい、カティちゃん﹂
﹁お邪魔します。父さんが請け負っていた仕事の納品に来ました。
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確認をお願いします﹂
カウンターへ近付き、丁寧に木箱を置く。オーナーは少し雰囲気
を変え、微笑みながら頷いた。彼が片眼鏡を掛ける傍らで、木箱を
開いてそっと差し出す。
﹁もうすっかり板についたね、カティちゃん﹂
﹁父さんからお願いされた最後の仕事ですから﹂
﹁⋮⋮しっかり者の娘が居て、レドは安心して逝けただろうな﹂
オーナーはしわの刻まれたまなじりを緩め、木箱の中から装飾品
を取り出した。
この日に納品する約束であった、父の最後の仕事。床に臥せる前
に、力を振り絞り完成させた父の遺作は、きらりと輝いた。
﹁父さんから託された納品の仕事は︱︱これで終わりです﹂
カティは微笑み、これまでたくさんの作品を運んできた古い木箱
をひと撫でした。やり遂げた達成感もあるけれど、ほんの少しの寂
しさも残った。
残っている完成品を、届けてくれないか︱︱それが父の最期の頼
みだった。
約束の納品日に遅れるような真似は決してしなかった、職人とし
ての父らしい頼み事。カティはもちろん頷いた。
父の作業場には、長年使ってきた道具や機器、そして棚に並べら
れた完成品たちがそのままの状態で置かれていた。まるでつい先ほ
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どまで誰かが居たような、煩雑さ。父、昔から家事全般が不得意だ
った。なのでカティが一手に引き受けたくらいだった。
ボードに貼られたメモ紙と、納品日の書き込まれたカレンダーを
見比べながら、装飾品を木箱に詰めて届ける日々が始まる。依頼人
のもとへ出向いて直接手渡したものもあったが、基本的に大部分は
隣町の装飾品店のオーナーが仲介してくれたので彼に引き渡してい
た。
またそれだけでなく、父が亡くなったという事で仕事関係の人々
からの挨拶だとか何だとか、あるいは自宅の片付けだとか、怒涛の
身辺整理も開始されたのでカティはこの二ヶ月間とにかく駆けずり
回っていた。
これまで父を手伝ってきたとはいえ、その父の代わりとして動く
のは初めての事。ここにきて慣れない作業がしこたま続いたが、お
かげで悲しみも薄れ思い出に昇華された。
カティもようやく、ごく自然に笑えるようになったのである。
︱︱そして、今日。
職人の父から託された頼みは、これで全て完了した。
約束の日を待っていた作品は依頼人やオーナーへしっかり届け、
作業場の棚は空になった。少し寂しくもあるが、父の仕事が果たさ
れた事の方が嬉しい。
ほっと息をついたカティへ、オーナーが微笑みかける。﹁これで
終わりだね、お疲れ様﹂労う声は優しく響く。カティも笑みを返し
た。
﹁はい。あとは⋮⋮父さんが使っていた道具を、使ってくれる人に
譲れば﹂
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﹁え、レドの道具、手放しちゃうのかい?﹂
オーナーから驚いた声が上がった。カティは頷くと﹁私は使えな
いですから﹂と告げた。
職人として真摯に仕事に向き合う父の後ろ姿は好きだったが、そ
の仕事を継ぐという考えには至らなかった。その事は父も納得して
おり、道具は大事に使ってくれる人に渡すようにとカティへ言って
いた。
﹁大切に使ってくれる人へ渡した方が、埃被って眠るよりもずっと
良いですから﹂
﹁そうか⋮⋮なら、私の仲間に聞いてみるよ。あいつらだったら、
絶対に大事に使ってくれるから﹂
﹁いつもありがとう、おじさん﹂
カティは木箱の蓋を閉じた。それを手に持った時、カウンター越
しにオーナーが尋ねた。
﹁カティちゃんは、これからどうするんだい?﹂
彼の柔和な瞳は優しく視線を寄越している。身辺整理が済んだカ
ティの、今後を心配してくれているのだろう。少し考え込むカティ
へ、彼は﹁いや、無理に言わなくて良いよ﹂と大きな手で制した。
﹁ただ、何かあったら、相談に乗るからね。遠慮しないで言ってく
れよ﹂
カティは微笑んで頷き、店の外へと出た。後ろ手で入り口の扉を
閉め、ふう、と息を吐き出す。
これから、か。
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近頃のカティを考えさせる、避けてはゆけない現実問題。父の身
辺整理も一段落つき始め、ようやくカティの日常も落ち着きを取り
戻している。今後の身の振りを決めなくてはないのだと、カティ自
身もそう思う。
︵父さんも、私の好きなようにして良いと言ってくれたけど︶
カティは少し考えつつも、肩に掛けた鞄を直し空の木箱を振って
歩き出す。一番の目的であった装飾品店の用事は終わったので、今
度は働いている食堂へと足を運ばせる。これまで隔日あるいは隔週
で不規則に店に出ていたが、今後は復帰できる旨を伝えるためだ。
カティはゆったりとした足取りで町の通りを進む。喧噪とは無縁
な空気が流れているそこには、普段よりも人の姿が行き交っている
ような気がした。
豊かな自然に囲まれた風景の通りに、この一帯はいわゆる田舎に
分類されるので、目を引く珍しいものや輝かしいものはない。ただ、
ここ最近は少し来訪者が多いような気配を感じた。ごく小さな町な
ので、旅装束や町人とは異なる装いは特に目立つからかもしれない。
﹁︱︱︱︱ねえ、ごめん、そこの人﹂
︱︱と、ぼんやりとそんな事を思いながらゆっくり進むカティへ、
不意に呼び止める声が掛けられた。
視界の片隅で動く人影へ、カティは視線をやる。側面から近付い
てくるその人は︱︱獣人だった。
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身体つきは人間と同じ、しかしすらりと伸びた四肢には毛皮を纏
い、獣の尻尾と頭部を持った獣そのものな人。
︱︱獣人。その名の通りに、人と獣、二つの性質を持つという種
族。
力と身体能力に優れたものが多く、特に肉食動物は戦いに力を発
揮すると言われている。
また能力だけでなく、個人差はあるが外見にも獣性が現れる。人
とほぼ同じ姿であったり、あるいは毛皮を纏い獣の頭部をしていた
りと様々だが、共通して獣の耳や尻尾を生やす。そして彼らが持つ
獣の種は多種多様に分岐するので、国籍で判断される人間よりも遥
かに多いという。
獣人や人間だけでなく、鳥人や魚人などなど数多くの異種族たち
が互いの領分を守り明確な線引きをなされていたのは、もう過去の
話。現在はごく普通に交流しているところだ。
ただ、土地柄や歴史によって種族の分布は異なるので、その割合
には多少の偏りがあるかもしれない。
カティが暮らすこの一帯は普段は基本的に人間が多く過ごしてい
るので、獣人はちらほらと見かける程度だった。
しかし、だからといって警戒する事ではない。古くから獣と共に
暮らしてきた人間にとっては隣人のような存在であるし、何より互
いが同じ言葉を持つのだから道理の通じない相手でない。
さすがに獅子や豹、虎や狼といった獣人には怯むかもしれないが
⋮⋮。
それを考えれば、カティのもとへ近付いてくる獣人は外見的な恐
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ろしさや威圧感はない。むしろ第一印象は、可愛いとすら思えた。
すらりとした身体の天辺へ乗った頭部は獣そのものだけど、鼻先
の尖った丸い輪郭の中に円らな瞳ときゅっと閉じた口がある。黒い
鼻は小さく、その鼻梁も犬ほど長くない。耳は丸みを帯びてやはり
小さく、ちょこんと頭の上に生えていた。
全体的に少し濃い茶褐色の体毛に覆われているが、口の周辺と喉
元は白く、鼻筋と目の周辺までは暗褐色に染まっている。模様のな
い無地の毛皮は、ふわふわというより、ふかふかとした柔らかさを
感じる。
その顔には、覚えがある。
あれは確か、ウィーズル︱︱つまりは、イタチだ。
先端が黒く染まった茶褐色の豊かな尾を優雅に揺らし、近付いて
くるイタチの獣人。その種に通じる細さやしなやかさなどに目を引
かれつつ、カティは立ち止まった。
﹁はい、なんでしょうか﹂
﹁町の人だよね。少し聞きたい事があるんだけど﹂
きゅっと閉じた口から、青年の声がこぼれる。可愛らしいイタチ
のお顔だけでは年齢が全く分からないが、年の近い人物のようだ。
齢二十前後だろうか。あるいは、カティと同い年かもしれない。
﹁この町にあるパン屋って何処があるのか、教えてくれませんか﹂
﹁パン屋、ですか?﹂
身なりからしてこの辺りに住む人ではなさそうだ。足を運ばずに
いられないような有名なパン屋はなかった気がするものの、カティ
は指で示した。
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﹁町のパン屋は、この通りの、あのお店ですよ﹂
﹁うーんと、そこは別の人にも教えてもらったんだけど、他の場所
とか﹂
﹁いえ、パン屋はあそこだけです﹂
新しいパン屋が出来たとも聞いていないので、この通りにある店
のみだ。
カティが告げると、イタチ獣人の彼はそうですかと小さく呟いた。
毛足の長い弾力のありそうな尻尾が、少し寂しそうに揺れる。
﹁もしかして移動販売とかだったのかな⋮⋮。ありがとう、呼び止
めてすみませんでした﹂
カティが﹁いいえ﹂と返す前に、イタチ獣人は踵を返して去って
行った。豊かな尾をたなびかせ、遠ざかる彼の背をぼんやりと見送
る。
随分と、珍しい事を尋ねる人が居るものだ。
町人や村人などと異なる上質な衣装を着て、鞄を肩に掛けて、見
るからに外からの来訪者であるのに、尋ねた事はパン屋の有無。大
抵、食事所だとか宿屋だとかを尋ねてくるのだが。けれど不審者と
一切思わなかったのは、その愛らしいイタチの顔のおかげだろう。
不思議な事もあるものだ。カティは特に気には留めず食堂へ急い
だ。
食堂を営む夫妻は、カティを労いつつ復帰する事を快く受け入れ
てくれた。﹁これから忙しくなるから良かった﹂と喜んでくれて、
さっそく明日から再び働く事となった。
明日からまた頑張ろうと心を改めるカティの中に、不思議なイタ
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チ獣人の存在はもう無くなった。
◆◇◆
その翌日の正午から、カティは食堂に立って働いていた。
唯一の従業員だったので、常連の町人たちは皆カティの事情を知
っていた。復帰を喜ぶと同時に何処か気遣わしく接してきたけれど、
そのたびにカティが明るく応じたので空気が重くなる事はない。
いつまでもくよくよとしていられなかった。ただ、そうやって自
身に言い聞かせているのも事実である。賑わう食堂で何も考えず働
けて良かったかもしれないと、カティは忙しなくテーブルとカウン
ターを行き来した。
それはさておき、食堂にやって来る客の数が普段よりも多い。町
に数軒しかない飲食店は普段見慣れた常連客ばかりなのだが、今日
は見知らぬ顔ぶれが並んでいるように思う。ここ最近は隔週で出て
きていたためか、殊更にそれを体感する。
今日でこれだから、きっと数日後にはもっと来訪者が増えている
のだろう。
父の件でうっかり忘れがちだったが、長閑な田舎町や近隣の村々、
そして周辺一帯を年に一度賑わす時期がやってきたのだ。
︵今までは父さんが居てくれたけど⋮⋮今年はどうしようかなあ︶
浮上する問題は忙しさを理由に脇へ寄せる事にした。先送りとも
言う。
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昼食時を過ぎれば、食堂にはすっかりと落ち着いた空気が漂った。
ちらほらと散らばった客は、のんびりと飲み物を口に含んだり穏
やかな会話を弾ませたりとしている。カティもほっと息を吐き、人
心地つく。
再び食堂の扉が開き、取り付けた小さなベルがカランと鳴り響い
た。
﹁いらっしゃいま⋮⋮あッ﹂
振り返った姿勢で、カティは目を瞬かせる。
入り口に佇んでいたのは、シュッとしたしなやかさを持つ体躯の、
イタチの獣人であった。
昨日の人だとカティが思った時、恐らくは相手もそうなのだろう、
円らな瞳を少し丸くしていた。
茶褐色の尻尾を揺らし食堂に踏み入れる彼のもとへ、カティはト
レーを脇に挟んで近付いた。
﹁昨日の人ですよね。いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ﹂
彼は可愛らしいイタチのお顔を頷かせ、カウンターに近いテーブ
ルへ座った。
お水を取りに駆け寄った厨房から、夫妻が知り合いかと尋ねてく
る。昨日ちょっとだけ、と短く答え、イタチ獣人のもとへ向かう。
﹁お水とメニューです﹂テーブルに置くと、彼は小さく頷き、つ
ぶらな瞳でカティを見上げた。
﹁昨日はありがとう﹂
﹁いいえ。探してるパン屋さんは見つかりましたか?﹂
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彼は少し笑うと、肩を竦めて首を振った。そうだろうな、あの店
しかないのだから。カティは慰めるように笑みを返す。
﹁そうでしたか⋮⋮でも、せっかく来て下さったんですから、ゆっ
くりしていって下さいね﹂
あんまり見所はないけど、のんびりとした良いところですから。
カティがにこやかに告げると、彼はつぶらな瞳を瞬かせる。椅子か
らはみ出た尻尾がふわりと揺れた。
獣人は総じて身体能力に長け、その上強靭な肉体を持つという。
その点で恐れられる事も多々あるようだが、カティの目の前にいる
彼はとても可愛らしい。いつだったか食堂へやって来た狼獣人や虎
獣人などは獣の風格が凄まじく圧倒されてしまったけれど、目の前
の彼は親しみさえ感じた。
︵獣人といっても、色んな人がいるのね︶
カティはそんな事を思いながら給仕に当たった。
︱︱しかしこの後、彼もまた獣であるとカティは痛感させられる。
可愛らしいイタチのお顔に反して、食べる際には歯茎と鋭い牙を
剥き出すらしく、その姿はじゃっかん恐怖を抱くほどに野生的だっ
た。
ひとくちに獣人といっても、本当に色んな人物がいるようだ⋮⋮。
カティは別の意味でドキドキしっぱなしであった。
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02︵前書き︶
2016.06.18 更新:2/3
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02
﹁お嬢ちゃーん! 注文取ってくれるー?!﹂
﹁はーい、ただいまー!﹂
﹁こっちもお願いねー!﹂
﹁はーい! 少々お待ちをー!﹂
くそ忙しい。
内心で絶叫を上げながらも、カティは笑顔で店内を行ったり来た
り駆け回った。テーブルのほとんどは客で埋められ、賑わう空気に
飛び交う注文の声。目が回りそうとは、まさにこの状況だ。食事を
取る昼時とはいえ、この忙しさは普段の比ではない。
父の事にまで考えが回らず助かるけれど、それにしてもこれは凄
い。日ごと増える客足は、昨年や一昨年の繁忙期と比べられないの
で、今年は一味違う事になりそうな予感がした。
賑やかな客足が順々に減ってゆき、食堂の風景に普段の長閑さが
戻る。ようやくカティも落ち着き、ほっと安堵した。厨房を見れば、
食堂を営む夫妻もようやく人心地がついたようである。
これ以上は増えないと思うが、もう何日か続くのだろう。
嬉しいような、そうではないような気分になる。
︱︱と、考えるカティの耳に、カランと鳴るベルの音が届く。
﹁いらっしゃいませ⋮⋮あ﹂
﹁こんにちは、落ち着いた頃かな﹂
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開かれた扉から覗く、可愛らしいイタチのお顔。きゅっと閉じた
口の周りと喉は白く、額と丸い耳は茶褐色の毛皮で覆われ、今日も
ふわりと柔らかそうだ。
彼はちらりと店内を見渡してから食堂へ踏み入れる。シュッと細
くしなやかな四肢の向こうで、先端の黒い尻尾がたなびいた。猫の
ように細長くはなく、毛足の長い少し厚みのある豊かな尾だ。
イタチの頭部と人の身体を持つその獣人は、カティに視線を合わ
せるとつぶらな瞳を緩めた。カティは微笑むと、いらっしゃい、と
改めて彼を招いた。
﹁なんとかね。ナハトはいつも絶妙な時に来るのね﹂
空いてる席にどうぞと告げれば、彼は迷う素振りを見せず、カウ
ンターに一番近いテーブルへついた。食堂にやって来るたびに彼は
そこを選ぶので、お気に入りの場所なのだろう。町へやってきて二、
三日の旅行者なのに、まるで常連客のような落ち着きだ。
﹁今日も日替わり定食?﹂
彼は返事をする代わりに、キュッと甲高い鳴き声を漏らした。思
わずカティの頬が緩みそうになる。
ナハト、というのが彼の名だと知ったのは、わりとすぐの事であ
った。
初対面から不思議な印象を強く覚えていたし、数日とはいえ毎日
ほぼ同じ時間に出会って顔を見ていれば、緊張も自然と薄れる。
食堂を営む夫妻が言うには、なんでも夜も足を運んでくれている
らしい。小さな町なので飲食店も数える程度だが、通りにある同業
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者の店が混んでいるのでここへやって来るのだろう。
そしてごく自然と互いに名を伝え合ってからは、短いながら言葉
を交わすようになっていた。
細くしなやかな肉体と四肢を持つ、イタチ頭の獣人の青年。年が
近しいという事と、外見の可愛らしさ︱︱男の人だから怒るかもし
れないので言わないが︱︱もあって、カティはこの獣人に親しさを
感じていた。
身体能力に長け、人と獣の二つの面を持つ獣人。ナハトの姿から
もその種族性を感じるが、身構えるほどの恐怖を感じないのはイタ
チという種のおかげなのだろう。
だって、可愛いもの。お顔から尻尾までふかふかして、たまにモ
キュモキュ小さく鳴いてるし。
客としても一個人としても、ナハトという人物はカティの中では
少なくとも好意的な印象であった。
︱︱ただ。
﹁はい、お待ちどうさま! 今日の日替わり定食です﹂
料理を乗せたトレーを、そっと彼の前へ差し出す。彼は穏やかに
ありがとうと告げると、フォークを取って早速食べ始めた。
︱︱途端、可愛いお顔が歪み、野性的に剥き出される歯茎と鋭い
牙。
小さいながらも十二分に凶器と呼べる牙をもって、本日の日替わ
り定食のメイン、魚のソテーを噛みちぎる。つぶらな瞳は細く細く
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歪められ、端から見るとそれは誤解されかねない絵面だ。
ナハト本人は、たぶんきっと、美味しく食べてくれている。皿か
らは順調に料理がなくなっているので。ただ、あまりにも、その。
︵何で顔だけホラーになるんだろう⋮⋮︶
せっかくの可愛らしい面持ちが、ホラーじめた凶悪な顔面と化す
その瞬間だけは、カティは慣れずにいた。
また一人、食事を終えた客が食堂を去ってゆく。
カティはその背を見送り、ほっと落ち着きながらテーブルの片づ
けを済ませた。
﹁︱︱ねえ、良かったら、ちょっと付き合ってくれないか﹂
不意に掛けられた言葉に、カティはやや驚いてナハトを見た。茶
褐色の体毛に覆われたイタチの顔は、カティへじっと視線を合わせ
ていた。
﹁聞きたい事とかあるんだ。食べている間だけで良いから﹂
椅子からはみ出た豊かな尻尾が、ふわりと揺れる。
彼からそんな言葉を掛けられたのは、これが初めてであった。カ
ティが少し驚いていると、厨房の夫妻から﹁他の客も居ないし、せ
っかくだからお相手してあげて﹂と後押しされた。
確かに今は食堂にナハト以外の客の姿はなかった。
﹁でも⋮⋮﹂
22
﹁ああ、こっちは良いんだよ。カティちゃん、ずっと立ちっぱなし
だろう? ついでに休憩してくれよ﹂
夫妻のフランクな言葉にカティは苦笑をこぼすが、ナハトは気を
悪くした様子もなく﹁店主の許可も出た事だしさ﹂と椅子を勧めて
くる。どちらが客か分からない状態にますます笑ってしまったが、
カティはその空気に甘えお相伴に預かる事にした。
実を言うと、立ちっぱなしで確かにきつかった。
ナハトの隣に腰掛けると、カティの唇からはふうっと息がこぼれ
る。
﹁いつもこんな風に忙しいのか? この食堂⋮⋮というか、この町
全体﹂
ナハトは、ぱくりと口の横からフォークを含む。
﹁ううん、普段は長閑なものだよ。外からやって来る人も、本当に
少ないしね。今の時期だけだよ﹂
﹁今の時期?﹂
きょとりとするイタチの顔を、カティは見つめた。不思議そうな
その表情に、カティもまた首を傾げる。
﹁あれ、知らなかった? 私、てっきりナハトもそれ目当てで来た
のかなって﹂
﹁いや、僕はただの旅行者だよ。何となくここを選んだだけのね﹂
ナハトはそう言って、料理をぱくりと口に運ぶ。ギッシャギッシ
ャと牙を見せ咀嚼する様は、間近で見ているせいか余計に迫力を感
じる。
23
ただの旅行としても、こんな田舎を選ぶのも珍しい。
カティはふうんと声を漏らしながら、田舎町が人で賑わう理由を
彼へ説明する事にした。
﹁普段は本当に田舎だよ、この辺りは。でも、今の時期はあちこち
で特別な花が一斉に開花するから、こんな風に賑わってるんだよね﹂
カティが暮らすこの自然豊かな土地には、この地でのみ育まれる
というとある特別な花が群生している。
花弁は大きく、他の色を許さぬ純白一色に染められており、たお
やかに花を開かせる。その様は豪奢でありながら清楚さも放ち、何
とも美しい外見をしている。時期が訪れると示し合わせたように一
斉に咲き乱れるので、見事な大輪を咲かせ空へ上向くその光景は、
人の手では生み出せない清らかな美しさに満ちていると評判だ。
しかもその花は、たっぷりと蓄える蜜がとにかく甘いと評判で、
さらには蜜だけでなく花弁から茎までは薬の材料とされている。そ
の道に精通する人々からは、魅惑の存在として認知されているらし
い。
だが、この土地で暮らす人々からしてみれば、魅惑の白花の一斉
開花は戦争開始の合図である。
甘い蜜をたくわえる、自然界の特別な花。恩寵を受けるのは、な
にも人間だけではない。自然で生きる生物たちも同様なのだ。
この花が咲く時期になると、それを食料とする周辺の野生動物が
大小問わずに集まり、そしてさらに集まった動物を求めて別の動物
が集まるという、連鎖が生じる。
人里付近にも咲く花なので、周辺で暮らす人々が鳥獣とはち合わ
せ襲われてしまうという話も、珍しくはない。
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白花が咲いて恵みをもらたらすのは事実だが、同時に危険も訪れ
るのだ。
そのため、この時期になると、白花を求める者だけでなく、集ま
った鳥獣から糧を得ようとする者や、人里に近づき過ぎた場合の駆
除を引き受けた者、白花を採取する際の護衛などなど、様々な人々
が集まるのである。
一年に一度、毎年必ず。
この喧噪を、カティは十八歳という年齢の分だけ体験してきた。
そして現在の賑わいを見る限り、近々、あの花が咲くのだろう。
カティがそう説明すると、ナハトはしきりに頷いた。
﹁なるほど⋮⋮ようやく納得した。やけに色んな人が居るなあとは
思ってたけど﹂
﹁今年は特に人が多いみたいだしね。地元民もびっくりしてるよ﹂
もしかしたら、今年は大量発生しているのかもしれない。恵みを
もたらしてくれる白花は大切な存在ではあるが、人だけでなく鳥獣
までも集めるのはなかなか毎年頭を悩ますところだ。
﹁そんな時に来ちゃって、ナハトも驚いたでしょ﹂
﹁まあねえ。まさか同業者がこうも多いとは思わなかったかな⋮⋮﹂
せっかく遠くに来たのに、と呟く彼は肩を竦めた。
﹁同業者?﹂
﹁ああ、この町に来ている来訪者の半分くらいは、傭兵だったから
25
さ。経験積みの連中かな﹂
確かに、町に滞在する来訪者の中には、荒事を生業とする傭兵も
含まれていると聞いている。花を咲かせた白花の近くには、必ず巨
大な鳥獣や昆虫たちが潜んでいるので、これを退けてもらわない事
には採取などの作業が何も始まらないのだ。
来訪者の半分とは、さすがに思ってもなかったが。
ただ、カティが驚いたのはそこではない。彼は、同業者、と表現
した。
﹁ナハトは、傭兵なの?﹂
尋ねたカティに、彼は口元をくっと引き上げてみせた。﹁今はた
だの旅行者だけどね﹂
返されたその言葉に驚き、カティはまじまじとナハトを見てしま
う。茶褐色のふかふかした体毛に包まれるイタチ頭の青年は、獣人
という種族にしては細くしなやかな印象を受ける。女性と見紛う身
体つきではないものの、テーブルについた腕やその下で組まれる足
など、傭兵という単語が何処にも見当たらないしなやかさを有して
いる。そして何より︱︱その可愛らしいイタチの顔を見て、とても
そうとは思えなかった。
にわかに信じがたい話である。
﹁ふふ、君は思った事がすぐ顔に出るね﹂
﹁⋮⋮あ! ご、ごめんなさい。不躾に﹂
﹁いや、良いよ。そっちの反応の方が助かるし﹂
ナハトに気を悪くした様子はない。カティはほっと安堵した。
﹁今はただの旅行者だけど、これでも結構強いんだよ、僕﹂
26
﹁そうなの⋮⋮? 全然そうには見えないなあ﹂
﹁はは、新鮮な反応。そう言われたのは久しぶりかな﹂
テーブルに頬杖をつく上機嫌なイタチは、つぶらな瞳を細めた。
食事の時のあのホラーな目つきではなく、何処となく柔らかい仕草。
きゅっと閉じた口元も、心なしか緩んでいるように見えた。きっと、
それが彼の笑顔なのだろう。それにつられて、カティもにこりと笑
みを浮かべる。
傭兵といえば、商隊や貴族の護衛、揉め事の物理的駆除といった
荒事を請け負い片付ける人々だ。実力だけがものを言う厳しい業界
と噂でしか知らないが⋮⋮。
そう言われたとしても、ナハトは傭兵に見えない。
﹁それはともかくとして、やけに人が多い理由分かってすっきりし
たよ。どおりで宿屋が全部埋まってるわけだ﹂
﹁そうだね、たぶんどこも⋮⋮ん? あれ、ナハトは町の宿屋を使
っていないの?﹂
まさかと思い尋ねると、イタチの頭が頷いた。カティは思わず身
を乗り出す。
﹁え、じゃあ、この町の、近くの村とかで寝泊りして⋮⋮?﹂
﹁いや、野宿﹂
﹁野宿?!﹂
この時期に、屋外で。カティは絶句するが、ナハト本人は﹁やれ
ない事もないよ﹂と実にあっけらかんとしている。
﹁傭兵生活が長いから、野宿くらい特に問題ないよ。まあ確かに、
やけに野生動物だとかやたら大きい虫だとか遭遇するなあとは思っ
27
ていたけど﹂
﹁そ、そりゃそうだよ。これから白花が咲くんだから、もう集まっ
てきてるはずだもの﹂
という事は、彼はこの数日間、危険度高まる屋外で寝ていた事に
なる。カティは驚きのあまり声を喘がせる。
見る限り怪我の類はないので本当に無事に過ごしたようだが、そ
れでもよく堂々と野宿の選択肢を入れられたものだ。本当に、彼は
傭兵なのかもしれない。
﹁でも、だからってそんな⋮⋮いつまで町に居るの?﹂
﹁さあ、まだ未定。気が済んだら、かな﹂
そんな計画性のなさで、今後ますます危険になるだろう外で野宿。
本人よりも、話を聞くカティの方が次第に不安になってくる。出
会って数日だが、目の前にいるこの獣人の青年を放っておいてはな
らないような、そんな感情が徐々に浮かんできた。
母亡き後、家事関係が苦手だった父には任せられず、幼い頃より
一手に担ってきたカティ。培われてきたお母さん的気遣いが、この
瞬間つい出てきてしまう。
﹁⋮⋮ねえ、泊まるところがないなら、提供するよ?﹂
﹁え?﹂
﹁これから、たぶんもっと危険になるだろうし、夜ろくに眠れなく
なるのは大変でしょ?﹂
いやらしさの欠片もない声で提案すると、ナハトはしばし口を閉
ざし考え込む。
会話を聞いていたのだろう、厨房に居る夫妻はいつの間にかカウ
ンターにまでやって来ており、不安げにカティへ声を掛ける。
28
﹁カティちゃん、泊めるったって、何処に泊めるんだい﹂
﹁父さんの作業場。物はもうないし、一人くらい平気よ。それに⋮
⋮﹂
カティは、打って変わり苦笑いをこぼした。
﹁半分くらいは、私もちょっとだけ下心があるの﹂
白花の一斉開花の時期に合わせて集う、鳥獣や昆虫たち。これま
では、父が年を感じさせない逞しさで自宅周辺を守ってくれていた
が、これからはカティがどうにかしなくてはならない。村の男衆も
見回りなどをしてくれるはずだけれど、自己防衛の必要が生まれた
のだ。
とはいえ、齢十八の娘がどこまで獰猛な野生の生き物と渡り合え
るかも定かでなく、ここのところの不安の種だった。
けれど。
﹁傭兵さんにはあんまり見えないけど、村人よりも腕は立つんでし
ょう?﹂
﹁まあ、これでもね﹂
﹁交換条件って事にしない?﹂
カティが寝床を提供する代わりに、花が咲いて鳥獣たちが特に活
発化するその数日間、ナハトは危険を排除する。
どうだろうと提案するカティの声に、ナハトの持つ丸みを帯びた
小さな耳はしっかりと傾けられている。茶褐色のイタチの顔に難色
を示すものは浮かんでいないので、さらにカティは言葉を重ねた。
﹁ついでに今なら朝夕の食事も付けちゃうよ。どう?﹂
29
覗き込むカティに、ナハトの眼差しが注がれる。イタチの口元に
僕
の事を知らない、そうだよね
はつぶらな瞳は笑っているが、どこなく不敵な仕草が窺えた。
﹁一つ聞いても良いかな。君は
?﹂
﹁え? うん、こないだのが初対面よ﹂
﹁そうだよねえ⋮⋮ちょっとお人好しが過ぎるかな、こっちが不安
になってくるよ﹂
これが狼や虎だったら、カティも怯んでいたのだろうが。
なにせつぶらな瞳が可愛らしいイタチ頭なので、天秤は恐怖より
も親しさへ思い切り傾いている。
だが⋮⋮確かに、いきなり不作法な提案だったかもしれない。つ
い目先の事にばかり気を取られて勢いのまま言ってしまった。カテ
ィは少しだけ焦ってしまったが、不敵な表情を作るナハトは、打っ
て変わりにこりと笑った。
﹁でも⋮⋮宿を貸してくれる上にご飯つきだしね。家の防衛だっけ
? その条件でお願いさせてもらうよ﹂
﹁本当に? わあ、助かるよ﹂
カティは両手を合わせ喜んだが、食堂の夫妻の声は芳しくなく不
安そうである。
背格好はだいぶ人と近いけれど、その身に流れるのは色濃い獣の
血。隣人としてもっとも近しい種族としても、異種族なのだ。
カティは穏やかに宥めていたが、当のイタチは気にしておらず、
至極当然な反応だとむしろ頷いている。
30
﹁なら、こうしようか﹂
そして、ナハトは提案する。この子を危ない目に遭わせないと、
まずは貴方たちに誓おう。それなら良いだろうと、彼は告げた。
﹁ほら、本人もこう言ってるし﹂
﹁君はちょっと緩すぎかな⋮⋮﹂
﹁だって実際、馬鹿に出来ない問題なんだもの﹂
傭兵になんてまったく見えないけれど、少なくとも棒を振り回す
しか脳のない村娘よりかは、断然安心だろう。
力説するカティに、ナハトは仕方なさそうに肩を竦める。こぼす
声には苦笑いが含まれているが、楽しそうな響きも感じられた。
食堂の夫妻も、誓ってくれるのなら、と歩み寄りを見せた。彼ら
僕
をたったそれだけの条件で雇うなんてね
の目にもイタチの可愛い頭が映っているだろうから、なかなか彼は
得する外見である。
﹁それにしても⋮⋮
え⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁ん、何でもないよ﹂
ナハトは居住まいを直すと、片手をカティへ差し出した。茶褐色
の体毛に包まれた、獣の手。その指先には、人とは異なる、鋭い爪
が生え揃っている。
﹁ともかく、これで交渉成立なわけだ。少しの間、お世話になるよ﹂
カティは向けられた手のひらとイタチの顔を見比べ、にっこりと
笑った。こちらこそ、とカティも己の手を差し出し、毛皮に包まれ
31
た彼の手を迷わず握る。
茶褐色の彼の手は、意外にもがっしりとしていた。指の長さも手
のひらの面積、触れた頑丈さも、全てカティの倍はある。それは獣
人という種族より、異性であるという事を示しているようだった。
32
03︵前書き︶
2016.06.18 更新:3/3
33
03
お疲れ様でした、と声を掛けて食堂の外に出ると、橙色で染めら
れた空が広がった。
涼やかさを帯びた風がふわりと吹く。穏やかな心地よさに、カテ
ィはほっと肩の力を抜いた。
陽が傾いて夕刻を迎えた町は、日中の喧騒よりかは静かな気配が
あるものの、やはり人通りが普段よりも格段に多い。この時期でな
ければ今頃はもう人々は帰宅し、団欒を取りながら夜を迎え寝静ま
るのだが。
カティは食堂の勝手口から表側の入り口へ足を進める。店の前に
設置された角灯にも明かりが付けられ、じんわりと光を放っている。
その下で佇む荷物を担いだ獣人の背を直ぐに見つけ、カティは小
走りで近付いた。
﹁ナハト!﹂
豊かな長い尾を翻し、向けられていた背が振り返る。茶褐色のイ
タチの獣人︱︱ナハトの瞳が、カティへ定まった。
﹁ああ、仕事は終わった?﹂
﹁うん、待たせてごめんね。暗くなる前に行こっか﹂
暮れるの空の下を、カティとナハトは共に進んだ。
集まった人々で一段と賑わう町も、いったん離れてしまえば自然
豊かな環境に満ちる静けさで包まれる。暮れる色に染まった町と村
34
を繋ぐ道には、二人分の足音が響いていた。
﹁︱︱それにしても、まさか獣人の、しかも傭兵に寝床を貸すなん
てね﹂
ナハトが不意にそう呟いた。
﹁危険だとは思わないの?﹂
カティは少し考える仕草をしつつ、隣のナハトを見上げる。
細くしなやかな躯体と四肢には、シュッとした凛々しさ。上背は、
ちょっぴり小柄なカティよりも伸びやかで、頭一つ分と半分程度の
身長差だろうか。首や肩の周りも同様で、ガチガチの頑丈さはない
が女にはない自然な凛々しさが浮かんでいる。こうして見ると、彼
は大柄の部類ではなくて、背格好もとても近しい印象だ。外見こそ
人と獣、両方の性質を持つ種族の特徴はあるものの、恐ろしく思う
事はない。
それに、なにより︱︱やはり、イタチの頭とふわふわな尻尾に、
恐れる要素が見当たらなかった。
というカティの考えは顔に出ていたようで、ナハトは肩を竦め﹁
外見で判断したら危険じゃない?﹂と少し冗談ぽく笑う。
﹁まあ、そうなんだろうけど、でも⋮⋮大丈夫、きっと。ただの勘
だけど﹂
でなければ、そもそも世話焼きのカティとて寝床を貸してあげる
という心遣いを向ける事はない。
﹁それに、田舎って情報伝達が早いからね。仮に何かあれば⋮⋮う
35
ん、ナハトが真っ先に疑われちゃう﹂
脅しているようで、この言い方はカティ自身もあまり好感は抱け
ないが、ナハトは感心するように頷く。﹁抜けてるようで抜けてな
いね﹂と呟く彼の声には、笑みが含まれる。
取っ付きにくさや居心地の悪さはない。けれど、確かに感じた違
和感に⋮⋮縁遠い傭兵という単語が、ほんの一瞬だけ近付いた気が
した。
﹁まあ、寝床を貸してもらえるのは助かるし、色々と言ったけどそ
こはありがたく思ってるよ﹂
﹁ふふ、そうでしょ? それで良いじゃない﹂
カティはにこりと微笑む。ナハトの黒いつぶらな瞳が緩やかに瞬
く。
・・・・・・
﹁ところで、君は僕の事を、ただのイタチの獣人って思ってるのか
な﹂
﹁? イタチじゃないの?﹂
﹁いや、それは当たってはいるけど⋮⋮うーん、警戒されないのは
やっぱりそこかな﹂
彼の言葉が何を示しているのか分からず、カティは首を傾げる。
﹁なんでもないよ。この顔で良かったと思っていただけだから﹂
ますます分からなかったけれど、カティが暮らす村が見えてきた
ので、その話はそれで終わった。
カティは軽く駆けて先に進むと、こっちだよ、とナハトを呼び先
導する。そんなカティの背を、ナハトは少し笑って見つめた。
36
﹁⋮⋮大小の違いはあっても、狼や熊と何も変わらない生き物なん
だけどな。イタチって﹂
ナハトの呟きは、カティに届く事なく風の音に吹き消された。
仰ぐ空は茜色を深め、彼方から藍色を招きよせている。暗くなる
前に無事に到着した村は、長閑な静けさをもってカティとナハトを
出迎えた。
質素な民家がぽつぽつと並ぶ村の道をしばし歩み、奥まったとこ
ろに佇むカティの家へ辿り着く。その道中、顔見知りな村人たちと
言葉を交わし、ついでにナハトの説明などをしたりして進んだので、
普段以上に時間が掛かってしまった。
人も少ない村なので、物珍しい事には食いついてしまうのだろう。
ナハト本人は気にしていないようだが、不躾だった事には変わらな
いのでカティは彼らに代わり謝罪をした。
ともあれ、カティはナハトを引き連れ、無事に帰宅を果たした。
カティの家は、父の仕事の関係上、夜遅くにまで作業が長引く事
が多いので周囲の迷惑にならない場所へ佇んでいる。住居と作業場
が併設されているので、外観だけは恐らく村一番の大きさなのだろ
う。他はありふれていて、柵で囲った敷地に小さな畑がある程度だ。
﹁ここが私の家だよ﹂カティは笑うと、ナハトを作業場へ案内す
る。
扉を開け、明かりを灯す。薄暗かった屋内が、ぱっと照らし出さ
37
れた。
作業場の中は至極シンプルな造りをしていて、作業をする大部屋
と、仮眠などを取る小部屋が付いているだけだ。作業台や机、椅子、
棚などが大部屋には残っているが、道具などは全て部屋の片隅に集
め、細々としたものは収納家具の中へ納めているので、現在は広々
とした空間がそこにあるだけだ。小部屋にはベッドのみだが、寝泊
まりする分には事欠かないだろう。
カティが歩を進めると、その後ろにナハトも続く。きょろりと見
渡すイタチの頭は、何処か興味深そうな面持ちだ。小さな茶色い鼻
をひくひくと震わせて匂いを確かめる様子は、まさしく獣。
﹁ここは⋮⋮君の⋮⋮?﹂
﹁正確には、父さんの仕事場。装飾品作りの職人だったから﹂
﹁立派な仕事場だね﹂
そう言われて、悪い気はしない。カティは微笑み、ありがとうと
礼を返す。
﹁でも、大事なところだろう。良いのか、あまり良い顔はしないん
じゃ﹂
﹁ああ、そこは大丈夫﹂
カティも作業場を見渡した。
﹁父さんは、もう死んじゃって居ないから﹂
音のない、生活感のない、ただ広い静かな空間。二ヶ月前までそ
こにあった姿は、今は追想する記憶の中だけだ。
一瞬、ナハトの動きが鈍る。人間のように表情が明確ではないけ
38
れど、気まずく思ったのかもしれない。カティはすぐに細い首を振
り、もう平気だよ、と屈託のない笑みを浮かべた。カティ自身もし
んみりとしないよう、重くなりそうな空気を蹴り飛ばす。
﹁それにほら、これだけ広いんだし、ちょっと寝床を貸すくらい父
さんだって快く受け入れてくれるよ﹂
ナハトはしばし押し黙ったが、カティの笑みにつられるように身
体の力を抜き、﹁ならお言葉に甘えて﹂と呟いた。
そうそう、使うぐらい、構わないんだから。存分に使っちゃって
ね。
カティは冗談ぽく言った後、小部屋のベッドを手早く整え、いつ
でも客人が寝れるよう用意した。そこまでしなくて良いのに、と彼
は笑ったが、そこは世話焼きの心ゆえに適当は出来ない。
今後の詳しい話などもしたいところだが、明日以降に持ち越しと
なる。もう間もなく陽が落ち、村は夜を迎えるだろう。
﹁夕飯食べてきた? そっか、じゃあ明日から交換条件の朝夕のご
はんを実行するね﹂
﹁⋮⋮ねえ、君、お母さんみたいって言われない?﹂
﹁よく言われる! 何でだろうねえ。あ、それと作業場と家は繋が
ってるから。奥の、あの扉。何か入り用ならいつでも言ってね﹂
﹁⋮⋮そして、とても緩い。ねえ、僕が言うのもなんだけど大丈夫
?﹂
こうしてカティの家は、旅行中のイタチ獣人のお宿となった。
39
40
03︵後書き︶
イタチを見て、青ざめ警戒する人はまず居ない。
けれど、実際の中身が外見に伴うかどうかは分からないところ。
41
04︵前書き︶
2016.06.19 更新:1/1
42
04
期間限定の同居人が加わったその翌日は、涼しい風がふわりと吹
くよく晴れた朝を迎えた。
白く明けた空の下、カティは欠伸をこぼしながら背伸びをする。
花が咲く暖かな季節だが、朝方はまだ少し肌寒い。閉じそうになる
目を擦ってから、日課となっている小さな畑に実る野菜の収穫を始
めた。小さな篭に二人分の野菜が入るのは、少し久しぶりに感じる。
収穫を終えたら、次は村の共用の井戸で水を汲みに向かう。奥ま
った場所に佇むカティの家からは、村の中心の井戸まで少々距離が
ある。その道すがら、同じように朝仕事を済ませる顔馴染みの村人
たちと挨拶を交わすが、早速とばかりに尋ねられるのはナハトの事
である。小さな村だから、本当に情報の伝達が素早い。彼らは一様
にカティを心配していたものの、きっとそこには好奇心等も含まれ
ているのだろう。
水汲みを終えたその帰りも、カティの細い背には視線が寄せられ
ていた。カティは多くを言わず大丈夫とだけ返したが、仕方のない
事なのかもしれない。
無事に自宅へ運んだ井戸水を水瓶に注ぎ入れた後、カティは朝食
の支度をする。簡単だがサラダとスープを作り、作り置きしていた
スコーンを添えて出す。完成させた頃には、外はすっかりと明るく
澄み渡っていた。
ナハトは、もう起きてるかな。
寝ているならまた後で運べば良いだけなので、念のため確認だけ
43
しておこう。カティは、自宅と作業場を繋ぐ勝手口へ足を進め、扉
を叩いた。﹁ナハト、起きてる?﹂声を掛けつつ、そっと扉を押し
て窺う。
見慣れた父の作業場はしんと静かで、がらんどうの空間を朝陽が
照らしているだけだった。まだ眠っているのだろうなと思って扉を
戻そうとした時、小部屋の扉が動いた。ギイイ、と間延びした音を
立てて開かれたその先に、茶褐色のイタチの顔が現れた。
﹁んあ⋮⋮ああ、カティ﹂
意外と鋭い牙を見せ欠伸をこぼしたナハトへ、カティは小さく笑
みを向ける。
﹁おはよう、ごめんね、起こしちゃったみたい﹂
﹁ああ、おはよ⋮⋮起きてたから平気⋮⋮朝が弱いだけだから⋮⋮﹂
そうらしい。しょぼしょぼとつぶらな瞳を細めるイタチは、半分
ほど眠っている。うつらうつらとする様子は、青年に言ってはおか
しいのだろうが、大変可愛らしい。イタチ頭ゆえだろう。
﹁朝ごはん、簡単だけど用意したよ。持ってこよっか﹂
﹁ああ⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
ゆらゆらと頭を動かす彼はもう一つ欠伸をこぼした。カティは﹁
がってん!﹂と返し、住居へ戻って朝食を並べたトレーを持つと、
再び作業場へ赴く。その間に身支度を整えたようで、ナハトの顔か
らはいくらか眠気が引いているように見えた。
どうぞ自由に食べてって、と声を掛け朝食を机に置くと、カティ
は踵を返す。宿屋の女将さんにでもなった気分だ。
︱︱と、その背を、ナハトの声が引き留めた。
44
﹁あーちょっと待って。ねえ、君はもう食べたの?﹂
﹁え? ううん、これからだよ﹂
﹁なら、君も一緒に食べなよ﹂
カティは目を丸くした。その反応に何か思ったのか、ナハトは首
を振った。
﹁違うよ、ほら、一応今後の事を決めとかないと。寝床を貸しても
らう代わりに雇われたわけだからさ。食べながらついでに話せない
かと﹂
カティはハッとなると、ぷるぷると首を振り返す。
﹁あ、ち、違うの。別に嫌だったとかじゃなくて﹂
カティは笑みを浮かべ、すぐに持ってくるね、と住居へ踵を返す。
そして自らの朝食を手にして戻ると、作業場の机でナハトと共に食
べ始めた。
特別な意味はない。話し合いをするためだ。変に意識なんてして
いないはずなのに、ほんの少し浮き立つような気持ちが宿っていた。
︵朝、誰かと食べるのは久しぶり⋮⋮︶
なんとなく思うカティの頬は、ほんのりと緩んでいた。
それより、彼の口には合っただろうか。カティは斜め前に腰掛け
るナハトへ視線を向ける。どうかな、と尋ねようとして︱︱口をつ
ぐんだ。
斜め前には、ぐしゃりと顔を歪めながら牙を剥き出し、ハムを噛
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み千切る彼の姿があった。
窓辺から射す爽やかな朝陽に、照らされるは鋭利な牙と迫力満点
な恐怖の形相。無防備なところへ飛び込んできた風景に、カティの
頭の中の何かが、スン、と冷静になる。
ああ、そうだ。
彼は、食べる時だけ、ホラーじみた顔になるんだった⋮⋮。
一瞬、尋ねようとした言葉が迷子になってしまったが、カティは
何とか平常心を戻して言葉を掛ける。顔こそは恐ろしいものの、ナ
ハトは﹁美味しいよ﹂と声音を緩め、ぱくぱくと平らげていった。
彼の顔つきにどうしても目が向いてしまったが、口に合って良かっ
たと安堵し、カティも自らの食事を進める。
﹁それで、今後だけど﹂
食後の茶で人心地つきながら、カティとナハトは互いに視線を合
わせる。
﹁私は、昨日言った通りだよ。寝泊まりするところと朝夕のご飯を
提供する代わりに、家の周りに寄ってきそうな野生動物を駆除する
か、追っ払うかして欲しいの﹂
﹁他はいいのか?﹂
小首を傾げる様が、実にあざとく可愛らしい。先ほどのホラーじ
みた食事風景はもう忘れた。
46
カティは首を振り、十分すぎるよと口元を緩める。それだけでも、
本当に助かるのだ。
﹁それに、ナハトは旅行で来たんでしょう? あんまり制約なんて
したら、せっかくの自由時間がつまんなくなるじゃない﹂
﹁旅行というか、まあ⋮⋮いや、君がそれで良いのなら、それで頼
むよ﹂
どこか含みを込めた言葉であったが、ナハトは格好を崩し、笑う
ように目を細める。
﹁宿と食事の代わりに、この家に近づく害獣を片付ける。他につい
ては、まあ自由、適宜って事で﹂
﹁うん、それだけでも助かるよ﹂
﹁僕は、日中は自由にさせて貰うけど、何かあったら言いなよ。宿
の主を手伝うくらい、訳ないから﹂
ありがとうと笑うカティへ、ナハトは茶褐色の尻尾をぱたりと揺
らした。
かくして今後を決める話し合いは、始まりと同じく、緩い雰囲気
のまま終わったのだった。
◆◇◆
自宅の掃除などの雑務を終えて迎えた正午、カティはいつものよ
うに歩いて十数分の隣町へ向かった。
働き慣れた食堂でも、やはり今朝と変わらないやり取りを繰り返
した。
47
食堂を営む夫妻に心配され、お茶を飲んでいた装飾品店の男性︱
︱父の古い友人であるおじさん︱︱にも心配され、情報伝達が早い
なあとカティはのんきに思う。人の出入りが多い大衆食堂という事
も要因だろう。カティは彼らにも何の心配もないと告げたが、安心
した表情は返ってこなかった。彼が獣人だからだろうか。
そんなに心配しなくてもいいのに。それに獣人って言っても、ナ
ハトは可愛いイタチの顔をしてるし。
不思議そうにするカティへ、彼らは﹁むしろそこだよ﹂と言った。
﹁イタチというところが、少し気になるんじゃないか﹂
﹁一口にイタチといっても色々いるけど、もともとイタチは恐ろし
い種族だし﹂
﹁そうなんですか? あ、でも、確かに食べる時になると顔が恐ろ
しくなりますね⋮⋮﹂
歯茎と牙をガッと剥き出し、バリバリ食べに掛かるあの姿。可愛
らしい見た目を裏切る野生的な食事風景は、恐ろしくインパクトが
ある。
﹁うん、えっと、そこじゃあないんだが⋮⋮大らかなところはお父
さんの血だなあ﹂
﹁間違いなく、レドの性格だねえ﹂
気勢を削がれたような笑みをこぼす彼らに囲まれ、カティは首を
傾げた。
﹁ああ、そうだ、カティちゃん。こないだの話だけど、レドの道具、
仲間で引き取る事にしたよ。みんな使うって言っていたから﹂
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﹁本当? ありがとう、おじさん﹂
﹁またあとで詳しい日にちを決めよう。引き取る時は、みんなで全
部まとめて持って行こうと思うから﹂
そう言って、彼は席を立ち食堂を去って行った。その広い背中に、
ありがとう、とカティは再度言葉をかける。
良かった、おじさんの仲間なら、きっと大切に使ってくれる。
安堵が胸に広がったけれど、いよいよ作業場から何もなくなるの
だと思うと、しんみりとした気持ちも少し浮かぶ。
食堂の扉が開き、カランカランと軽快なベルの音が響いた。新た
にやって来た客で、店内はあっという間に賑やかになる。
まずは、今日もこの山場を乗り越えよう。カティはすぐに笑顔で
切り替えると、トレイを持ってテーブルの間を駆け回った。今日も
食堂は盛況である。
そして食堂が落ち着いた頃、ナハトがやって来た。
食べに来るくらいなら簡単な昼食でも用意しとくのに、というカ
ティの思い浮かべた事は顔に出たようで、ナハトからは﹁僕がこう
したいから良いんだよ﹂と笑みが返ってくる。
﹁それに、外食は旅行の醍醐味でしょ﹂
そう言って今日も彼は日替わり定食を注文している。
店としては客が一人でも入るのは嬉しい事だが、やっぱりナハト
は不思議な旅行者だ。わざわざこんな田舎を選び、何故かパン屋を
探し、しかもこの茶褐色の可愛いイタチの外見で傭兵ときた。本当、
つくづく不思議なひとである。
49
︵そして、食べる時の顔だけが怖い︶
不意に、カティはくすりと笑みをこぼす。なんだか、次第にあの
野生的な食事風景がクセになってきた。コワ可愛い、というのだろ
うか。
しばらくし、食堂には新たに三人の男性客がやって来た。見るか
らに町の住人の身なりではないので、彼らも白花関係でやって来た
来訪者だろう。カティはいつもの通りに席へ案内するが、去り際に
呼び止められた。
﹁ああ、給仕のお嬢さん。ちょっと頼みがあるんだけど﹂
振り返るカティへ、絵が描かれた紙を差し出された。
﹁これは⋮⋮?﹂
﹁人探しの絵だ。頼まれちまってさ、適当に貼っておいてくれない
かな。人の出入りが多い今の時期だけでいいから﹂
カティは紙を受け取り、視線を落とす。ベージュがかった白色の
紙には、カティに向かって吼え猛る黒く塗り潰された物体が描かれ
ていた。熊のように両腕を振り上げて立ち上がったその身体の側面
には、白い帯状の模様が走っており、とても獰猛そうな姿をしてい
る。
人探しといっていたから、動物ではなく、きっと獣人なのだろう
が⋮⋮。
こんな迫力のあるひと、一度見たら絶対に忘れないなあ。
カティの記憶の中に、思い当たる事は一つもなかった。
50
注文を伝えるがてら貼り紙の掲載を食堂の夫妻に尋ねると、構わ
ないという言葉を貰ったので、早速店の壁に貼る。
﹁何だいそれ﹂
﹁人探しの貼り紙だって﹂
ふうん、と気の無い声を漏らし、ナハトは壁に貼られた紙を眺め
ている。
ちなみに、紙には文章も添えられており。
﹁﹃凶獣、連絡を乞う。もしも見かけた場合はガルバインまで﹄⋮
⋮だって。ガルバインってなんだろ﹂
﹁傭兵ギルドの総本部がある都市の事だよ。別名、傭兵都市ガルバ
イン﹂
ナハトが教えてくれたけれど、都市名に覚えはない。が、名の通
りに数多くの傭兵が闊歩する都市なのだろうと予想は出来た。
﹁凶獣って、この人の名前?﹂
﹁通り名だよ、お嬢さん﹂
少し遠くでコップを傾けていた三人の客が言った。曰く、たくさ
凶獣
という名で呼ばれる
んの依頼や任務をこなし実績を重ねた腕利き傭兵には通り名がつく
らしい。そして、貼り紙の探し人は、
ようになった、と。
これだけ迫力ある外見なら、物々しい名前にも納得がいく。なる
ほど、とカティは全然知らないのに頷く。
﹁有名な人なんですね﹂
﹁有名というか、まあ、恐ろしい人なんだろうな﹂
51
﹁俺らはまだ新米だが、色々と逸話は聞くさ。で、その有名人が最
近急に居なくなっちまったから、探してる人がいるってわけさ﹂
へえ、とカティは貼り紙を眺める。その側で食事を平らげるナハ
凶獣
とかいう傭兵の顔を、あなた達は見た事
トは、耳を傾けつつも興味は無さそうな様子だった。
﹁⋮⋮ねえ、この
があるのか?﹂
ナハトの問いかけに、三人の客は声を揃えて﹁まさか﹂と笑った。
﹁新米の俺らには縁が無いし、もともと徒党を組む奴じゃないから﹂
﹁上の連中から貼り紙を頼まれただけで、顔なんて知らんよ。獣人
ぐらいしか分からん﹂
﹁おっかない呼び名に見合うだけの実力者なのかも、そもそも知ら
ねえしな!﹂
なかなかざっくりとしている、傭兵の内情を垣間見た気がした。
と、その時、厨房から食事の配膳の声が掛かったので、カティは
カウンターにまで向かう。そうして三人分の食事を運び、追加の注
文を取ったりとしている内に、カティの貼り紙への関心は薄くなっ
ていった。
誰か
がこぼした小さな呟きも、耳には届かなか
﹁⋮⋮盛りすぎでしょ、この絵。わざとらしいなあ﹂
︱︱だから、
52
った。
53
04︵後書き︶
︻凶獣︼が誰かはきっと予想がついていると思うので、申し上げま
せんが。
︻黒く塗り潰された身体の側面に、白い帯状の模様︼。
動物に詳しい方なら、たぶんきっとある程度の目星は付けられるか
もしれませんね。
それこそまだ申し上げられませんが、今後も欠片をぱらぱら撒くの
で、予想を立てつつお待ち下さいませ。
⋮⋮ただ、当方の個人サイトを見ている方なら、たぶんきっと分か
るとは思いますが。
内緒です、ええ、まだ内緒です。
54
05︵前書き︶
2016.07.02 更新:1/1
55
05
旅行にやって来たという不思議なイタチの獣人︱︱ナハトの存在
は、意外とすぐに受け入れられた。
小さな村ゆえに古くからの付き合いが長い顔馴染みで、そのせい
か外から来た人にはつい過剰に反応してしまうけれど、もともと村
人はのんびりとした気の良い人たちばかりだ。よそよそしい妙な空
気は、一日、二日経てばすぐになくなった。
カティが、この時期に野外で寝泊りしていてかわいそうだった、
一時の旅のお宿に作業場を提供した、普通に良いイタチの青年だ、
などなど念入りに話をしたのもあるが、どうやら男衆から気に入ら
れた事が大きいらしい。
曰く、この時期に野宿するたぁなかなか度胸があるじゃねえか、
と。
大真面目に危険になる野外で過ごしたというところは確かにカテ
ィも仰天したが、度胸があるというより、怖いもの知らずが過ぎる
と言うべきだろう。
当のナハト本人も。
﹁そう驚く事じゃないんだけどね。僕が生まれ育った場所の方がも
っと凄かったし﹂
と、非常にあっけらかんとしている。あまり危機を危機として見
ていないのか。
傭兵という職に就いているという事が本当なのかどうかと考えて
しまうほど、彼は全体的にほっそりとしなやかな外見なのだが⋮⋮
その心胆はとても据わっている。
56
白花に誘われて集まった野生の生き物を退ける役を、二つ返事で
イタチ
というだけで眉をしかめる人も、中には存
引き受けるくらいなのだから、そうなのだろうが⋮⋮。
ただ、彼が
在した。
イタチという生き物は怖いのだと。恐ろしく、油断ならないのだ
と。
確かにこの辺りは田舎で、畑仕事をする人も多いから荒らされた
等の話はたびたび耳にするが、しかし。だからと言って、彼の事も
等しくそう見る必要はないだろうに。カティにはよく分からなかっ
た。
目に映るナハトという人物は、傭兵という単語から遠い、険のな
い声と柔軟な物腰を感じる、不思議なイタチの青年だった。それは、
旅先の宿を提供する今も変わっていない。
変わっていないが。
﹁⋮⋮君は素直だね。でも、僕は言うほど優しくはないかもしれな
いよ﹂
時々、少し意地悪な言葉を口にする。
◆◇◆
朝方の白い靄が晴れ、長閑な景観が広がる村に、今日も穏やかな
陽が注いだ。
カティはいつものように田畑の様子を見て、洗濯と掃除に勤しん
57
だ。
ついでにシーツとかも洗っちゃおうかな、とリネンを抱えて家の
外に出た時だった。カティはふと遠くを眺め、その足を止めた。
村はずれに佇む自宅は、周辺に広がる平原と隣り合わせで、背の
低い木の柵を超えればその向こうは豊かな自然だった。その中に点
在する木々の一つに、寄りかかる影を見つけたのだ。
もしかして、と思ったカティはリネンを入れた篭を抱えたまま向
かい、近づいて覗き見る。
やはりそれはナハトだった。
しなかな躯体を木に預けるようにして座る彼の横顔は、うたた寝
をしているのか、瞼を下ろしている。イタチの頭も相まって、ちょ
っぴりと無防備さを感じた。
さすが、この時期に野宿するだけはある。カティは苦笑いの感心
をこぼしながら、ふと、ナハトをじっと見下ろした。
人と獣の二つの性質を持つ、獣人という種族。その中でもイタチ
という種の血を持つ彼は、全体的にシュッとしなやかな外見で、柔
らかそうな茶褐色の毛皮を全身に有している。地面に横たわる尾は
豊かで、こうして見るとやはり彼はあんまり怖くない。現在、食堂
を出入りする傭兵の面々や、いつだったかに見かけた虎や狼の獣人
の方が、よっぽど恐ろしいだろう。
食堂のおじさんや、ナハトを見かけた人々は、イタチというとこ
ろに渋り顔を見せたけれど⋮⋮。
︵そんなに構えなくても良いって思うんだけどな︶
カティはそんな風に思いながら、少し背をかがめて距離を詰める。
人間と同じ大きさのイタチの顔を、近くからぼんやりと見つめた。
︱︱と、その時。
58
閉ざされていたナハトの瞳が、勢いよく見開いた。
前触れもなく突然彼の瞼が上がり、カティは驚いて身を引く。け
れど、片腕を凄まじい力で掴まれ、カティは一瞬の内に地面へ引き
倒された。全身に響く、鈍く重い衝撃。激しく打ちつけられた事を
理解する間もなく、カティの身体は仰向けに縫い付けられた。
今、何が起きたのだろう。
カティは何一つとして分からず、微かに呻く。突然降りかかった
衝撃によって、反射的に閉じた瞼の裏には、影と光が交互にちらつ
いた。
身動ぎをしようとしたが、出来なかった。まるで百、いや万の力
が掛かったように、カティの身体は重く押さえ付けられていた。仰
向けになる首や腹部に、息苦しさが重なる。
カティは硬く閉じた瞼を恐る恐る押し上げた。
真っ先に映ったのは、よく晴れた青空と、空に向かう木の葉の茂
みと。
逆光を受けて影を落とす、牙をむいた獣だった。
カティの胸の奥で、心臓が歪な音を立てて跳ねる。身動ぎしよう
とした四肢は、ぴたりと動くのを止めた。
仰向けになったカティの上には、ナハトが馬乗りになっていた。
カティの細い腕を地面に縫いつけ、無防備に晒す細い喉に何かを突
きつけ、明らかな意図をもってカティを睥睨している。
59
﹁ナハ、ト﹂
上手く声が出なかった。
この数日間、カティは少なくとも彼を怖いと思った事はない。あ
るとしても食事する時の顔つきくらいなもので、これからもそう思
う事はないと何処かで思っていた。
けれど、彼が獣人だという事を、獣人という種族の所以を、あま
り真に理解していなかったのかもしれない。
唐突に、それを垣間見た心地だった。
獰猛な肉食獣
頭上から睥睨するイタチは、鼻筋にしわを寄せ、小さいながらも
非常に鋭い牙をむき出している。その顔つきは、
を彷彿とさせた。いや、もしかしたら、そのものなのかもしれない。
︱︱平原に吹く風が、強張る静寂を撫でて過ぎ去ってゆく。場違
いなものに感じるほど凪いだ、優しい風の音がカティとナハトの間
に響いた。
数秒の間、そんな体勢で視線を交わしていると、鋭く光るナハト
の瞳がハッと瞬いた。
﹁⋮⋮カティ?﹂
眼光が薄れ、鼻筋に浮かんだしわがなくなる。獰猛そうな顔つき
が、何度も見てきた可愛らしいそれに戻った。
カティの身体の強ばりが解け、ほっと息を吐き出す。しかし、未
だドクドクと跳ねる己の心臓の音を、確かに聞いた。それを隠して、
カティはナハトをしっかりと見上げたまま、うん、と頷く。
ナハトの拘束が、ぎこちなく緩んでいく。ようやく身動ぎが出来
60
るようになったので頭を起こした時、視界の片隅に鋭利な光を放つ
何かが飛び込む。それはよく見ると︱︱短剣だった。
喉元に突きつけられた短剣はすぐに離れ、ナハトの腰の後ろへ戻
ってゆく。護身用に隠し持っていたのだろう。
気まずい空気が、穏やかに吹く風へ混じる。バツが悪そうなナハ
トからは、特にそれが強く放たれている。カティはそれを和らげよ
うとして、にこりと笑ってみせた。
﹁ごめんね、私ったら。なんにも言わないで、急に近付いたりした
から﹂
彼は、傭兵だ。反射的にそうなってしまうと考えれば、カティが
受けたものも納得がいく。
ナハトは何か言おうとしたが、一度口を閉ざすと素早く立ち上が
った。そして引き倒してしまったカティの前へ、その手のひらを差
し出す。
ふかふかの茶褐色の体毛で覆われた、男性らしい大きな手。
つい先ほど、予期せぬ拘束をしたイタチの手だが、今はもうその
気配はない。カティはそっと自らの手を置き、ナハトに引き上げら
れて立ち上がる。
﹁⋮⋮悪かったね﹂
呟いたナハトの声は少し低い。ぎこちなく紡ぐ言葉には、申し訳
なさとバツの悪さが含まれている。
カティはもう一度首を振り﹁いいよ、大丈夫﹂と微笑む。正面に
佇むナハトは、様子を窺うようにちらりとカティへ視線を下げてい
る。
61
﹁それにしても、びっくり! ナハト、すごく力があるんだね、全
然動けなかったよ﹂
﹁⋮⋮そりゃあ、これでも雄だし、鍛え方も君とは違うからね﹂
仰るとおりである。ただの村娘が、力自慢で有名な獣人の、それ
も男性に敵うはずがない。
イタチの獣性とはいえ、彼は男性で、間違いなく獣人なのだ。女
と男、人間と獣人、その差異を見せ付けられたような気分になる。
そんな事を考えるカティの前で、ナハトが不意に小さく呼気を漏
らした。
﹁君は⋮⋮はあ、なんだか、気勢を削ぐというか、毒気を抜いてく
るね﹂
﹁そうかな?﹂
﹁そうだよ。⋮⋮長年の癖みたいなもんなんだ、悪かった﹂
﹁いいよいいよ、気にしてないから。傭兵さんなら、仕方ないよね﹂
﹁いや、そっちもだけど、そっちじゃなくて﹂
カティは小首を傾げる。ナハトは視線を横へずらし、あれ、と指
差した。その動きを目で追いかけたカティは、ようやく思い出した。
小脇に抱えていたはずのリネン類を入れた篭が、いつの間にかな
くなっていた事を。
放り投げてしまった篭から散らばった白いシーツなどが、風に煽
られ緑の平原に広がってゆくその光景。ようやく視界に入れたカテ
ィは、わたわたと追いかけ始めたが、風はまたもふわりと吹き、リ
ネンを遠ざけるように悪戯に運んでゆく。
ああ、拾っていくそばから!
﹁⋮⋮まあ、僕のせいだしね。ほら、篭を持ってて﹂
﹁え、あ﹂
62
﹁集めてあげる。君の足じゃ、余計に時間が掛かりそうだからね﹂
ナハトは拾い上げた篭をカティに渡すと、その場で屈伸運動を軽
くした。そして、茶褐色のしなやかな身体を低くし︱︱疾風のよう
に、駆け出した。
平原に吹いた風を追い抜くように、緑の上を疾走するしなやかな
姿。煽られた髪をそのままに、カティは横を過ぎ去ったイタチの背
と宙を泳いだ豊かな尾を無意識に追いかけて見つめた。
音を立てず、無駄を生まない、俊敏な身のこなし。風にも追いつ
きそうな速さには、イタチという種を裏付ける、鮮やかな美しさが
放たれていた。
﹁⋮⋮風みたい⋮⋮﹂
そうしてカティがぼんやりとしている間に、ナハトは散らばった
リネンをあっさりと集め、脇に抱えて再び戻って来る。疲れた様子
はなく、もちろん息も切れていなかった。
︱︱リネン類を拾い集めた後、結局ナハトは洗濯から干し作業ま
で全て手伝ってくれた。
邪魔したのは私なのに、ありがたいやら申し訳ないやら。
洗い立ての白いシーツが気持ちよくはたはたと揺れる様子を、カ
ティは作業場の窓の向こうに見た。
﹁お客様なのに、ありがとう。助かっちゃった﹂
そして新しいシーツを住居から用意して、作業場のベッドを整え
63
る現在である。
しわ一つ作らないよう丁寧にシーツを広げ四隅を折り込んでいる
と、カティの背にナハトの声が届いた。
﹁お客様、か﹂
抑揚のない、静かな声音。振り返ったカティに、ナハトの視線が
向けられていた。つぶらな瞳の、ふかふかしたイタチの顔。けれど、
その中に冷ややかなものが宿っているような気がした。
﹁武器を向けられたのに、お客様と言ってくれるの? それは嬉し
いけどね、カティ、君は僕を切り捨てる権利があると思うよ﹂
切り捨てる。
思ってもいない物騒な台詞を聞いて、カティは仰天する。
﹁き、切り捨てるって﹂
﹁刃物を向けられたんだから、追い出す権利は君にはあるでしょ﹂
﹁い、言い方が怖いよー!﹂
何故そんな言葉選びをしたのかと思いながら、カティは首をぶん
ぶんと横に振る。追い出したりなんてしないよと言えば、ナハトの
丸い瞳がさらに丸く見開いた。
あ、それ、ちょっと⋮⋮いやかなり、可愛い。
どうして、と無言で問いかけるナハトへ、カティは言った。
﹁だって、ナハトは傭兵で、身についた癖なんでしょ? 私が、驚
かせたのが悪いんだもの﹂
﹁またされるかもしれないよ? 今のうちだと思うけどね、追い出
すなら﹂
64
﹁でも、謝ってくれたじゃない。悪かったって、わざとじゃないっ
て、それで、色々手伝ってくれたもの﹂
それも嘘ではないと、カティは思った。
頭一つ分ほど上背の伸びたナハトを、じっと見つめる。ナハトは
しばし瞬きを繰り返すと、気勢をそがれたような笑みをこぼした。
﹁どうして、君の方がそう必死なの﹂
﹁え? あ⋮⋮﹂
ナハトに言われ、確かに力が入ってしまっていた事をカティは自
覚した。
確かに、何で私の方が必死に言い募っているのだろう。
急に気恥ずかしさが押し寄せてきたが、ナハトは柔らかな雰囲気
で佇んでいる。先ほどの冷ややかな気配は見当たらず、しなやかな
体躯にもゆったりとした空気が寄り添っていた。
﹁⋮⋮そうしたって悪くないし、俺は恨んだりしないのに。君はや
っぱり、毒気を抜いてくるね。こっちが悪いことを言ったみたいだ﹂
﹁ええっと、ごめんね⋮⋮?﹂
首をかしげながら告げれば、ナハトは吹き出すように息を漏らし
﹁こちらこそ、悪かった﹂と二度目の言葉を口にした。
そこに居るのは、つぶらな瞳の、シュッと可愛いイタチの青年。
豊かな尾を揺らし、不思議な気品を醸す柔和な居住まいの、しなや
かな青年だ。
冷ややかな気配は何処にもなく、カティはふわりと微笑む。ほら、
そんなに怖い人じゃない。
﹁もしまた反射的にしたって、傭兵ってそういうものなんだって分
65
かったから大丈夫。だから気兼ねなく、居てくれて良いからね﹂
そしてこれから、白花が咲いて本格的に大変になるから、是非と
も力を貸してね。
そんな言葉も付け加えれば、ナハトは頷きぱたりと尾を揺らした。
そして不意に、その黒い瞳を細めた。
﹁君は緩いね、でも⋮⋮少しは自覚できたかな?﹂
﹁え?﹂
﹁僕が︱︱傭兵だっていう事を﹂
ふわりと、あまりにも自然な足運びでナハトが距離を詰めた。
カティがあっと声を出した時には、既に胸と胸がぶつかりそうな
ほど近い場所に彼が佇んでおり、カティを頭上から見下ろしている。
﹁それと、獣人だっていう事も﹂
ナハトの足が、突然、カティの足を払った。
なんで?! と心の中で叫びながら、カティはあっさりとバラン
スを崩し、作業場の床へ倒れてゆく。
けれど、その身体を茶褐色の手が抱きとめた。
膝がくず折れたような不格好な姿で、カティはなんとか踏みとど
まる。けれど、正しくは、支えられていた。カティの腰に回った、
ナハトの片腕によって。
﹁ナ、ナハトッ?﹂
意図せずカティの声はひっくり返った。
不安定な体勢を腕一本で支え、覆い被さるように身を寄せ至近距
離からカティを覗き込むナハト。視界いっぱいに広がる黒い瞳や小
66
人
でもあった。
さな鼻など、何処を見てもイタチのものなのに、カティの前に居る
のは
腰に回る、意外にもがっしりとしている腕。不安定な体勢でも危
うさが全くない身体。そして、笑みを湛える、黒い双眸と口元。
獣と人、二つの性質を持つ種族なのだから当然だけど、唐突にそ
う思ってしまったのは︱︱。
﹁⋮⋮獣人の雄がどういうものか、ようやく分かった?﹂
困惑を露わにするカティへ、ナハトは笑みを含んだ声で言った。
ハッと意識を戻すと、目の前でイタチの顔が笑っている。からかう
ちょっと緩すぎる
ような、悪戯っぽさを含んだ仕草に見えて、カティは慌ててナハト
の胸を押す。
﹁ちょ、も、もう、からかわないでよ!﹂
﹁からかっていないよ。言ったでしょ、君は
って﹂
ナハトはあっさりと佇まいを直すと、不格好な姿で踏ん張ってい
たカティを引き上げる。ようやく体勢が戻ったけれど、そわそわと
心が落ち着かない。カティは視線をそらし、もう、と肩を尖らせた。
﹁気を付けてないと、横からかじられるよ﹂
ほら︱︱今みたいに。
ふわりと空気が動いて、視界の片隅で茶褐色が動く。つられて顔
を動かした、その瞬間︱︱カティの鼻先に、かぷりとイタチがかぶ
りついた。
もちろん本気の力はない。痛みらしいものはない。けれど、目を
67
見開く程度には衝撃があった。
呆然とするカティの正面で、ナハトがにんまりと口元を上げる。
小首を傾げて可愛らしく、けれど、僅かな揶揄を含んだ悪戯なあ
ざとさに満ちた仕草。
カティは思わず、備え付けておこうと思っていた新しいタオルを
持ち上げ、ナハトの胸に投げつけた。絶妙なところでかわされ、彼
の腕に引っかかった。
﹁もう、馬鹿! からかわないで!﹂
ずんずんと足を運び、カティは作業場を後にする。その背には、
ナハトの楽しそうな空気が終始感じられ、ますます気恥ずかしいよ
うな腹立たしいような気分になる。
作業場から自宅へ戻ったカティは、大きく息を吐き出して肩を竦
める。腹立たしいけれど、むかむかする不快なそれではなかった。
⋮⋮誰かと悪ふざけをするなんて、いつぶりだろう。
カティはかじられた鼻先を指で撫でながら、ふと考える。
冷ややかで鋭利な、傭兵の顔。
人間の、それも女とは根本から違う屈強な、獣人の顔。
それと、少し意地悪で悪戯っぽい、ナハト個人の顔。
一度に色んな彼を目撃したせいか、少し頭が困惑する。つぶらな
イタチの顔にばかり目を向けていた証拠なのだろう。
外見こそはほっそりとしなやかだけど、職業柄でも種族柄でも、
遥かに強靭な存在︱︱それをカティも理解した。
︱︱だって。
68
︵腕、意外とがっしりしてたなあ⋮⋮︶
回された腕の感触が、何故かとても熱く残っている。
あれは、獣ではなく、確かに人のものだった。
◆◇◆
大股で出て行ったわりに、扉を閉じるのは妙に丁寧だった。何気
ない仕草からも家主の性質を感じる。
扉の向こうへと足音が遠ざかり、広い作業場には静寂が戻る。ナ
ハトは作業場の椅子に腰掛け、くつくつと笑みをこぼした。
﹁︱︱かっわいいなあ﹂
おっとりしてるかと思ったが、なんだ、ああいう表情もちゃんと
出来るらしい。
カティの困惑した真っ赤な顔を思い出し、愉悦に近いものが浮か
び上がる。
﹁本当に、可愛い﹂
明るくて、のんびりとして、しっかりしているようで隙だらけ。
気を抜いているのか信頼しているのか、簡単に牙が届いてしまうの
に彼女の空気は緩やか。
︱︱そういうところが、僕とは違うって事なんだろうな
69
上機嫌に、イタチは笑う。
真っ赤になったカティの顔は、意外と、悪くはなかった。
70
05︵後書き︶
今までのヒーローとはまたタイプの違う性格。
犬猫よりも遙かに肉食系になりました。
某狼獣人のお兄さんとはえらい差ですね!︵明け透け︶
◆◇◆
頂くご感想や、ちらっと見に行くツイッターなどで、物語の方向性
をほんのちょっぴり変える事にしました。
読む方にはどう変わるのか分からないのでただの作者の宣誓ですが、
︻ヤンデレ風味︼と︻外見詐欺︼は変わりません。
安心安全のクリーンな人外小説︵※当社比︶を目指します。
71
06︵前書き︶
2016.07.28 更新:1/1
お待たせしました。
﹁カティとナハトに変化を与えるぜゲッヘッヘ!﹂と気合いを入れ
たら、予想以上に長くなりました。
大体いつもこんな感じの、白銀トオルです。
72
06
村の周辺に、見かけない野生動物の姿が現れるようになった。
この地域にのみ群集する特別な白花が、いよいよ咲き始めるのだ
ろう。
顔なじみの村人たちは、今朝からそんな話で盛り上がっていた。
気を付けなくちゃね、と言葉を交わすおば様方に混じってカティも
頷いたが、今のところ目立った被害は出ていない。村の男性たちが
見回りをしてくれているおかげだと思う。
さて、そうなると村の一番外れにあるカティの家は、真っ先に被
害を受ける危険があるのだが⋮⋮。
︱︱ナハトという青年の力は、凄かった。
﹁わあー?! どうしたのこれー!﹂
野菜を取りに畑へ向かったカティの前には、野生動物が横たわり
並んでいた。そのどれもが既に事切れており、その上しっかり血抜
きも施されている。
﹁どうしたって、君の家の近くに来た奴らだよ。警告しても来るか
ら、まあ止む無くね﹂
ピキュ、と鳴いたイタチは、今日もあざとく可愛らしい。が、そ
73
こに並ぶ生き物の中には、彼よりも幅のあるどっしりと立派な猪も
いるので、カティは驚くほかない。
﹁一体どうやって⋮⋮﹂
﹁これでも傭兵だよ? こんな事は日常茶飯事だし、こういう作業
も慣れてるしね﹂
そう言ってぽんと叩いた彼の腰には、鞘に収まる短剣が装着され
ている。
大きいとは言えないその剣で、この立派な猪を。
こんなにシュッとしなやかな身体つきなのに⋮⋮人は見かけによ
らない。
﹁ところで、白花だっけ、それが咲くと毎年こんなのがやって来る
の?﹂
﹁うん、そうなんだけど、でも⋮⋮﹂
こんなに大きな生き物がやって来た事は、あっただろうか。白花
の恩寵にあやかれずにあぶれた小型の生き物ばかりだったような気
がするが⋮⋮。
なんとなく疑問には残ったが、思い悩むほどではなかった。今年
はそういう年なのかなとカティが笑うと、ナハトも気にした風もな
く﹁そう、不思議な地域だね﹂と呟く。
﹁あ、それより、これをどうにかしないと。ええっと確か、毛皮を
はいで、燻製か生肉にするはず﹂
﹁君、できるの?﹂
﹁⋮⋮出来ない﹂
仕留めた後の工程は父の姿を見て覚えたが、さすがに自ら行う技
74
術は盗み取っていない。
﹁あ! でも、大丈夫。すぐ隣の町にそういう加工をしてくれるお
店があるから。そこに持って行けば﹂
確か村にも荷車が、と考えたところで、ナハトが呆れたように笑
った。
﹁一人で全部する気? 君のその細腕じゃ、猪を持ち上げられない
でしょ﹂
﹁それは、そうだけど﹂
﹁雇った傭兵がいるんだから、使えば良いんだよ。気軽なお手伝い
要員とでも思ってさ﹂
ナハトの言葉に少し恐縮しながら、ありがとうと返す。
先日の一件︱︱鼻先をかじられたあれ︱︱のおかげか、ナハトと
カティの間の遠慮も薄れ、家主と客人というより友人のやり取りが
増えた。カティとしては、堅苦しいよりずっと良い。
一人
なんだから、自分だけで︱︱。
﹁でも、いずれは⋮⋮一人でやっていかなきゃならないよね﹂
もう
つぶらなナハトの黒い瞳へ笑みを返すと、カティは﹁さて﹂と両
手を合わせる。
﹁朝ごはん食べたら、村で共有してる荷車を借りてくるね。そした
ら、町のお店にまで運ぼうか﹂
手伝ってくれるなら助かるよ、といつもの調子で笑いながら、カ
75
ティは畑の野菜を収穫し自宅へ戻った。
その後、カティとナハトは朝食を済ませ、猪などを積んだ荷車を
押し町へ向かうのだった。
◆◇◆
持ち込んだ獣の加工を請け負う店は、ここのところ繁盛している
ようで作業料の半額セールをしていた。実に太っ腹である。
けれど、荷車に乗せた立派な猪にはたいそう驚いたようで、カテ
ィを二度見してきた。今年の季節に入って一番の大物らしい。﹁あ、
違います、私じゃなくてこっちです﹂と慌ててナハトを指差してた
が、余計に困惑させてしまった。驚く店主の顔には、その細腕でや
ったのか、という念が透けて見えた。そこいらの傭兵よりも強面で
屈強な店主と比べたら、ナハトは明らかに細く、しかもあざといイ
タチの頭だから仕方ない。
﹁おっちゃん、今年入って一番驚いちまったよ⋮⋮それで、これを
全部加工するのかい?﹂
顔に似合わず気風のよい対応のもと、荷車に乗せたものは全て引
き渡した。猪の処理は丸一日時間を取るが、他のものは今日の夕方
頃には終わるらしい。食堂の仕事が終わり次第、再びこの店に来る
事を決める。毛皮については、そのまま買い取って貰う事にした。
﹁ところで、この猪は森に入って獲ったのかい?﹂
店の従業員が運んでいった後、店主からふと尋ねられる。カティ
は首を振り、自宅周辺に近付いてきたものだと答えた。
76
﹁ふうむ、そうか⋮⋮﹂
﹁あの、何かありましたか?﹂
﹁いやな、ようやく白花が咲くってのに、こんだけ立派なやつが人
里に来るのも妙だなってな﹂
その言葉に、カティも神妙な面持ちを宿す。それは、確かにカテ
ィも不思議に思った事である。
﹁実はよ、俺んとこに持ち込まれるやつも、どうも雰囲気がいつも
と違くてな。人里には滅多に近付かないようなやつが居たりして﹂
﹁滅多に近付かない⋮⋮﹂
﹁考えすぎかもしれねえけどな!﹂
店主はニカッと笑い、受け取り番号等を書いたメモ紙を差し出し
たので、カティたちはそれを握って店を後にした。
身軽になった荷車を、ガタゴトと音を立てて進ませる。こうして
眺める町の風景は、毎年やってくる季節の通りに賑やかで様々な人
が行き交っているが⋮⋮。
﹁今年は、いつもとちょっと違う気がするなあ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん、うまく説明できないけど⋮⋮﹂
妙な違和感が、カティの胸の中に宿る。ただの気のせいだとは思
うが⋮⋮。
77
﹁⋮⋮野山にいる獣が下りてくる時っていうのはさ﹂
賑やかな空気にナハトの声が浮かぶ。
﹁食べ物が減った時だとか、人間がか弱く簡単に食べ物を奪える相
手だと知った時だとか、色々あるけど。一番可能性があるのは、住
処を荒らすやつが現れたとかかな﹂
﹁住処を荒らすやつかあ﹂
﹁野山の獣は、そういうのに敏感だからね﹂
これは僕の考えだけどさ、とナハトは付け加えたが、納得できる
言葉だった。彼が獣人という種族だからだろうか。もしそうだった
としたら恐ろしい事ではあるけど、願わくは杞憂であって欲しいも
のだ。
﹁長閑な雰囲気なのに、期間限定で危険なんだね。この辺りって﹂
﹁そうでしょー。長年暮らしてると慣れるけどね﹂
だから野宿していたナハトの勇気は勲章ものなのだ。本人は相変
わらず涼しい顔、いや可愛い顔をし、堪えた様子はまったくないが。
﹁今年は咲く前から大きな動物が出るし⋮⋮ナハトはよく野宿でき
たね﹂
﹁ん? いや、そういう危ない事とは職業柄隣り合わせだし、それ
に﹂
ふ、とナハトの目が細くなった。
﹁昔、過ごしていた場所が厳しかったからね。ちょっとだけ思い出
すよ﹂
78
呟いたナハトの横顔からは、しんとした空気が感じられた。
そういえば、以前も彼はそのような事をこぼした気がする。
カティはじっとイタチの横顔を見上げた。
﹁ナハトは⋮⋮﹂
﹁︱︱おーい、カティちゃん!﹂
開きかけた口を閉じ、カティはぱっと振り返った。父の友人であ
る装飾品店の男性が、小走りで駆け寄ってくる姿が飛び込んだ。
﹁こんにちは、おじさん﹂
﹁ああ、こんにちは。良かった、たまたま見かけたから来たんだが﹂
ちらりと、視線がナハトへ移動する。ナハトは空の荷車をその場
に置き、軽く会釈をした。
﹁すまない、何か運ぶところだったのかな﹂
﹁ううん、運んだ後。今朝大きい猪が来てね、ナハトが仕留めてく
れたから加工屋さん持って言ったところ。だから大丈夫です﹂
途端、男性の目に、少しの驚きが宿る。きっと、今朝のカティと
同じ心境を抱いているに違いない。
﹁えっと、ナハトくんだったね。ありがとう﹂
﹁いえ、宿を貸してもらっているから、これくらいは当然ですよ﹂
そうか、と呟いた面持ちは緩んでいた。
﹁⋮⋮ああ、そうそう、カティちゃんに話があってね。こないだ頼
79
まれた件だけど、引き取りたい仲間が揃ったと言っただろう? 全
員都合がついたから、今日の夕暮れあたりに運ぼうかって事になっ
て﹂
今日の夕暮れ。
その言葉は、カティの中に深く落ちていった。
﹁カティちゃんの用事はどうだろう。作業自体はすぐに終わるんだ
が﹂
カティは少しの間呆けていたが、慌てて頷いた。
﹁大丈夫、仕事も少し早めに切り上げるんで。待ってますから来て
下さい﹂
﹁⋮⋮そうか、分かった﹂
じゃあ、今日の夕暮れ、仲間を連れて行くからね。
彼はそう告げると去って行った。その広い背を見つめながら、カ
ティは小さく息を吐き出す。
﹁⋮⋮いよいよ、なんにも無くなるなあ﹂
残っていた道具が全て運ばれれば、もう。
あの作業場は、何も︱︱。
﹁⋮⋮カティ?﹂
ハッとなってカティは顔を上げる。いつの間にか、隣にはナハト
かぶり
が並んでいた。しなやかな背を少し屈め、覗き込む茶褐色のイタチ。
カティは頭を振り、にこりと微笑んだ。
80
﹁ううん、何でもない。大丈夫﹂
﹁⋮⋮そう﹂
ナハトは何も言わず背を戻す。カティは濁してしまった空気を取
り除くように、明るい声で言った。
﹁今日の夕暮れあたり、作業場に人が来るから。ちょっとの間だけ
ど、よろしくね﹂
﹁僕は別に構わないけど⋮⋮作業っていうと﹂
﹁うん、作業場の中の道具をね、運び出すの﹂
カティが歩き出すと、ナハトもそれにならう。空の荷車が、再び
ゴトゴトと音を立てる。
﹁二ヶ月前まで、父さんが使っていた道具なんだ﹂
そのまま捨てる事は出来なかったから、良かった。カティは笑っ
てみせたが、声や仕草には寂しさが浮かんだ。
ナハトは多くを言わなかったが、その黒いつぶらな瞳は、カティ
の細い背をじっと見つめていた。
正午、いつものように食堂へ向かったカティは、店を営む夫妻か
ら早めに切り上げる許しを貰った。事情をよく知る二人は大らかに
了承し、帰り際もカティを見送ってくれた。
彼らの温かい優しさに感謝しながら村へ続く道を進むカティの胸
には、やはり安堵と寂しさが広がっていた。
父に託された最期の仕事は終え、そしてもう間もなく、父が長年
81
使った道具を譲り渡して作業場が空になる。父が居なくなって二ヶ
月、身辺整理に明け暮れたカティからもようやく荷が降りるのだ。
ほっとしながら、少し、胸がぽっかりと侘しい。
︵最後の仕事、だね︶
ぐっと前を見据えるカティの頭上には、薄い夕陽色の滲む空が広
がっている。
◆◇◆
帰り際に加工屋から受け取った処理済みの肉を使い、夕食の準備
を早めに終えた頃、辺りは夕暮れを迎え夜の訪れを匂わす静けさに
包まれた。
作業場に足を運んだカティは、ゆっくりと中を見渡す。あらかた
の道具の整理はもう終えているので、そこにはがらんどうの空間が
広がっている。道具たちが居なくなれば、ここはいよいよ無人の建
物となるだろう。
隅にまとめた道具の小山に近付き、被せていた布を取り外す。父
の姿と共に昔から見てきた、職人の手足ともいえる大切な道具。鉱
石などを削り、あるいは研磨するものから、細かな装飾を施す大小
様々な小刀などが、そこに集まっている。触れる事はなかったけれ
ど、何に使うのか、どうやって使うのか、仕事に打ち込む父の姿を
見てカティは知っている。
﹁⋮⋮父さんの友達が、大事に使ってくれるからね﹂
82
同じ道を選ばなかった私が、持て余して埃を被せるより、ずっと
良い。
カティは最後の労いを呟き、そっと指先で撫でた。
﹁︱︱カティ﹂
作業場の入り口に寄りかかるナハトが、声を掛ける。しなやかな
躯体のイタチの青年へ視線をやれば、彼は茶色い毛皮にくるまれた
長い指を外へ向けた。
﹁昼間の人、来たみたいだよ﹂
﹁⋮⋮あ、本当? ごめん、気付かなかった﹂
カティはすぐに道具の側から離れ、外へと向かう。ナハトの横を
過ぎ出入り口をくぐろうとした時。
﹁⋮⋮大丈夫?﹂
小さな声で、一言だけ。
カティは振り返り、ナハトを見た。茶褐色の柔らかい毛皮を持つ
イタチの、黒いつぶらな瞳が、じっとカティを見下ろす。人間のよ
うな表情の変化はないけれど、その眼差しはとても柔らかく感じた。
カティは微笑み、頷きを返す。
﹁大丈夫、ありがとう﹂
その一言だけで、カティの心は軽くなった気がした。
カティのもとへやって来た人々は、父の友人である装飾品店の男
83
性と、その職人仲間だった。彼らの顔には覚えがある、確か父が死
んだ後すっ飛んできた人々の中に居たのではなかっただろうか。
彼らはカティを気遣い、また労い、父の道具を引き取る事を改め
て願い出た。その姿を見て、カティは何処かほっとした境地だった。
目の前にいる全員の指は、長年仕事に打ち込んできた事を表す武骨
な外見をしており、父と同じ空気を確かに纏っている。
この人たちなら、きっと、いや絶対に、父の道具を大切に使って
くれる。
カティは頭を下げ、どうかよろしくお願いします、としっかり告
げた。
彼らは作業場に入ってゆくと、誰がどの道具を引き取るのか最初
に話し合いをし、それから運び出していった。
暮れる空の下、慌しく広がるその光景を、カティはじっと外から
見守る。
母がいた頃から、父の仕事場は日常の一部だった。
母は身体が弱いために体調を崩しがちだったけれど、それを感じ
させないよう常に朗らかで明るく振る舞う人だった。晩年は歩く事
も難しくなってしまったが、それでも父の側に居ようとし作業場で
日中を過ごしていた。そして母がいなくなった後は、その役目をカ
ティが一身に引き受け、仕事に打ち込む父のもとへ食事を届け作業
場を出入りした。
他にも様々な場面が蘇り、あの場所は自覚していた以上に思い出
が詰まっていたのだと、カティは改めて理解した。
温かさと、少しの寂しさが、胸に広がってゆく。目尻に込み上げ
てくるものを時々指で拭いながら、しっかりと作業を見据えた。日
常の一部だった父の道具を見るのも、これが最後なのだ。
ふと、カティの隣で、ふわりと空気が動いた。しなやかに伸びた
84
躯体の影を片隅に収め、カティは小さく口を開く。
﹁職人の大切な道具だからね、捨てるなんてそんな事は出来ないか
ら、持っていってくれてありがたいよ﹂
隣に佇むナハトの視線が、カティの頭へ注がれる。
﹁父さんの友達や、同じ職人仲間なら、絶対に間違いない。大切に、
使ってくれる﹂
でも、やっぱり、ちょっとだけ寂しいね︱︱。
カティはもう一度まなじりを拭い、笑みを浮かべた。
父の古い友人たちが作業場から道具を運び出し、そしてそれらを
携えて去ってゆくまで、カティは一度も背を向けず見送った。その
隣にいたナハトも、何も言わなかったけれど、最後まで黙って付き
合ってくれた。
それがカティにとっては、励ましのひとつに思えた。
作業が始まる前に見た夕暮れの空は、もうすっかりと夜を迎え、
藍色を広げていた。涼しく吹く風も、夜の匂いを孕んでいる。
自宅の敷地を囲んでいる木の柵に寄りかかって座るカティは、ふ
う、と静かな吐息をこぼす。道具が運び出される時は感慨深くこみ
上げるものがあったけれど、落ち着いた今はすっきりとした気分だ
った。
一番の心残りだった大切な道具が、埃を被らず新しい場所で活躍
するのだ。それがなによりも嬉しい。
85
ともかく、これで任された仕事は全てやり終えた。
そう思うカティの胸に、夜風の涼しさが妙に響いた。
﹁︱︱隣、良いかい?﹂
不意に声を掛けられ、カティは斜め横へ顔を振り向かせる。背の
低い柵に両手をついたナハトが、小首を傾げ覗き込んでいた。彼の
つぶらな瞳を見上げ、カティは頷きを返す。
ナハトはしなやかな躯体を屈めると、カティの隣へ腰を下ろした。
そして、何かを乗せた手のひらをカティの前へ差し出す。ふわりと
香った、甘い匂いのそれは。
﹁干した果物。夕飯前だけど、一つどう?﹂
カティはナハトの顔と手のひらを交互に見て、ありがとうと呟き
一つ摘んだ。口に運ぶと、瑞々しい果物とは異なる、弾力のある歯
ごたえと凝縮された甘みが広がった。
﹁ん、甘くて美味しい﹂
﹁移動とかが多い職柄だからね、こういう簡単に摘めるものは何か
しら持ち歩いてるんだ﹂
そう言って、ナハトも一つ口へ放り投げる。
少しの間、素朴だけど甘みの深い干した果物を、二人でもぐもぐ
と咀嚼した。
﹁︱︱父さんが死んだのは、わりと最近でね﹂
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ごくりと飲み込んだ後、カティはなんとなしに語り始めた。これ
といった理由はなく独り言のようなものだったが、ナハトは耳を傾
けてくれた。
﹁変な病気もなくて健康体そのものだったから、きっと、寿命ね。
父さん、晩婚ってやつで六十歳超えてたけど、元気に働いて、元気
に暮らして、それで寿命を全うして母さんのところにいった﹂
二ヶ月前の事だったと、カティは付け加えた。
﹁︱︱知ってたよ﹂
少し間を置いた後、ナハトが呟いた。
﹁村の人たちや、君のその親父さんの友人から、少しだけど聞かさ
れたからね。君が働いてる間に、ちらほらと﹂
﹁そっか⋮⋮。もう二ヶ月前だし、きちんとお別れしてあるから気
にはしてないんだ﹂
残っていた道具を大切に使ってくれる人へ明け渡して、これでよ
うやく最後の仕事も完了した。今はカティも、ほっと安堵している。
﹁ごめんね、びっくりしたでしょ? せっかく旅行に来たのに、重
い話題と遭遇しちゃって﹂
カティはおどけるように軽い調子で笑った。けれどナハトは首を
振り、君が謝る事ではないでしょ、と静かな声で言った。
﹁大切なひとを看取って、そのひとが使ったものや場所をきちんと
整理したんだ。立派な事だと思うよ﹂
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僕だから余計にそう思うのかな。呟くナハトの言葉を耳にし、カ
ティは彼の横顔をじっと見つめる。
少しの間、口を閉ざしていたナハトであったが、小さく息を吸い
おもむろに語り始めた。先ほどのカティと同じ、独り言のような口
調で。
﹁⋮⋮面倒になって逃げてきた﹂
﹁え?﹂
﹁旅行のようなもので来たとは言ったけど、本当はね﹂
驚いた表情を浮かべたカティに、ナハトは小さく口角を動かし笑
う。﹁君が話したのに僕が話さないというのもね﹂そう言って、彼
は続けた。
﹁僕、これでもそれなりに傭兵として成功してる方でね。名指しの
依頼を入れてもらえる程度にはさ﹂
だから、逃げてきた。呼び声が面倒になって、それが聞こえない
場所に行きたくて︱︱。
淡々と響くナハトの声が、カティの耳に不思議と残った。
﹁傭兵になろうと思ったのも、これといった特別な理由があったわ
けじゃない。自分の性に合ってた、それくらいだからかな﹂
そんな風に言ったら、必死に成功しようと下積みしてる人たちか
ら恨みを買いそうだけどね。
ナハトは冗談ぽく笑みをこぼしたが、カティの目に映るイタチの
横顔は⋮⋮深い静けさを宿しているように思えた。イタチという動
物の頭そのものなのに、彼ら獣人は意外と表情が豊かである。
88
﹁⋮⋮ナハトって、出身は何処なの?﹂
ふとこぼれた言葉は、カティの初めての問いかけだった。それに
険を浮かべる事もなく、ナハトはすんなり応じた。
﹁生まれは、ずっと北⋮⋮北方の国だよ﹂
暖かい季節は短く、寒い季節が長い、白銀に覆われる厳しい世界。
大部分を雪で閉ざされる土地柄、そこで生きるものは人や獣、獣
人問わず心身共に逞しく鍛えられる。厳しい環境で助け合いながら
暮らし、あるいは他を退けて台頭する強者たちもいる、そんな場所
だった。
だからこそ、白銀に染められた世界は、緑豊かな土地には決して
ない張り詰めた美しさに満ちていた。
そう語るナハトの横顔は、故郷の光景を思い出しているのか、と
ても穏やかだった。生まれてからずっと気候も穏やかで雪に閉ざさ
れる事もない場所で暮らしているカティには、北方の地の厳しさは
想像も出来ないが⋮⋮ナハトの穏やかな様子には口元を緩めた。
﹁へえ、ナハトは北国育ちなんだ。ちょっとだけ意外﹂
﹁よく言われるんだよね、それ。でも、獣人も人間もそんな関係な
いでしょ。人間だって雪国だとか山間だとか、海の側にだっている
じゃない﹂
それは、確かに。
うんうんと頷くカティの横で、茶褐色のイタチは丸い小さな耳を
ピコピコと揺らす。
89
﹁ねえ、北国ってなると、やっぱりみんな白いの? あともっこも
こ?﹂
﹁情報が偏ってるね﹂
﹁だってそんなイメージがあるから﹂
ふわふわの白ギツネとか、もこもこの白ウサギとか。カティは可
愛らしい生き物を思い浮かべ胸をときめかせたが、ナハトはおかし
そうに笑った。
﹁この辺りとは比べられない大きな熊や大きな狼とかもウジャウジ
ャいるけど?﹂
しかもその血をくむ獣人もいるし、わりと弱肉強食の世界だよ︱
︱と、ナハトは告げる。
カティの頭から真っ白なふわもこの動物が遠ざかり、牙を見せ唸
り声をあげる捕食者たちが埋め尽くす。
﹁じゃあ、ナハトも冬になると白くなる? もふもふ?﹂
﹁一体何の期待を⋮⋮。僕は白くならないよ、そういうイタチの連
中もいるけど﹂
⋮⋮そういうイタチ? カティが小首を傾げると、ナハトは合点
がついたように笑って肩を竦めた。
﹁イタチっていったって、色んな奴がいるよ。一口に人間といって
も色んな国の生まれがいるようにさ。僕は、普通のイタチと、北国
だけで暮らしてきたイタチの仲間との間に生まれたから﹂
いわゆるハーフというもので、しかもそのどちらも白くなる種で
はない。外見こそごく一般的なイタチの姿をしているが、寒い冬に
90
なると残り半分の血が現れ、毛皮の色が茶褐色からガラリと変わる。
ただのイタチ
と思っているのか、なん
広い意味ではイタチだが、厳密に言えばイタチの仲間だと、ナハ
トは言った。
そういえば、彼は以前
てカティに尋ねた事がある。なるほど、ハーフという意味を含んで
いたのか。カティは勝手に納得した。
﹁じゃあ、ナハトは冬になると何色になるの?﹂
﹁しいていえば⋮⋮黒?﹂
﹁く、黒?! ええー黒いイタチっているんだ⋮⋮世界って広いね
え﹂
﹁いや、だからイタチの仲間⋮⋮まあ、いいやもう、イタチで﹂
ほのぼのとしているカティの隣で、ナハトは気の抜けた笑みをこ
ぼす。
﹁⋮⋮獣人の間なら伝わるけど、やっぱり人間だと認知度は低いな﹂
﹁え、なあに?﹂
﹁なんでもないよ。で、そこで生まれ育ったわけなんだけど、やっ
ぱりそれなりに大変な場所でね﹂
不満があったわけではないが、いずれこの地を離れもう少し日々
を楽に生きていきたい。
そう思うようになり、十歳を過ぎた頃、北の地を一人離れやって
来たという。もともと身体能力の高さや腕っ節の強さには多少の自
信があり、傭兵という職に就いたのは自然な事だった。そしてそれ
は、思った以上に自分の性に合っていた。
けど、とナハトは呟く。
91
﹁逃げてきたんだから、あんまり説得力はないかな﹂
そう明かす彼の言葉を、カティは笑わなかった。
﹁傭兵って、普段どういう事をしているの⋮⋮?﹂
﹁まあ、一言で言えば、なんでも屋かな﹂
傭兵という字面から、多くの人々は荒事を請け負う荒くれ者とい
うイメージを根強く持つだろう。もちろんそれは否定しない。
傭兵に届けられる依頼の大部分は、戦争の兵力であったり山賊や
盗賊などの討伐だったり、力をもって成し遂げる事が多い。だが実
際はそれだけでなく、旅や領地、館の護衛をしたり、失せもの探し
に採取活動など⋮⋮内容は多様で、雑用と言っても差し支えない。
冒
という人々の後任である。雑多な依頼を請け負うのは、歴史
そもそも傭兵という職は、その昔未開拓な土地を開いてきた
険者
のようなものだろう。
ただ、傭兵という職の実情は一般人には縁遠い事なので、荒事を
請け負う荒くれ者、という認識が通る。結局のところはそれなので、
誰も否定はしない。なんだかんだいって、力でどうこうする依頼を
好む傭兵も多いのだ。
そう語るナハトの言葉を、カティは関心して聞いていた。傭兵の
世界なんて未知の領域そのものだ。想像もつかないけれど、そんな
多種多様な依頼をナハトも請け負うという事だ。凄いなと、カティ
は素直に思っていた。
﹁大変な職だね、傭兵って。ナハトもじゃあ、剣を振ったりして身
一つでやってるんだ﹂
﹁君が言うと柔らかく聞こえるのは何でだろうなあ⋮⋮。まあ、そ
92
うだよ﹂
﹁そっかあ⋮⋮凄いね﹂
そんな職に、場所に、身を置き続けているという事が。
﹁⋮⋮どうだろ、自分のためだけにやっているから、僕にはあまり
実感がないよ。それに﹂
ふっと、ナハトは笑った。
﹁一度だけ、手痛く失敗してるからね﹂
﹁失敗⋮⋮?﹂
﹁そ、依頼自体は成功だったんだけどさ﹂
もう五年以上は前だったかなあ。ナハトはぼんやりと夜空を仰い
だ。
貴族の末端にだが名を連ねる、とある良家の護衛依頼を受けた。
道中は平穏だったが、目的地に到着する前に刺客の強襲に遭い乱戦
となった。護衛対象は守りきって依頼は完遂したが、ナハトはその
時、浅くはない怪我を負ったという。
﹁ちょうどその頃くらいから、傭兵の仕事の基盤も出来上がって、
名指しの依頼も増えてきてね。色々と面倒なタチの依頼もあって⋮
⋮ちょっと冷静じゃなかったから。剣が刺さるなんて馬鹿な失敗を
しちゃったよ﹂
﹁さ、刺さったの?! それ大丈夫だった?﹂
﹁大丈夫だったよ。そうでないと今も続けてないよ﹂
軽く笑って、ナハトは片手を振った。
93
﹁でも、冷静じゃなかった頭にはそれがけっこう響いてね。端的に
言えばやさぐれた、ていうのかな。なんで傭兵なんてしてんだろう、
みたいな﹂
そう思うのも無理はない。カティは頷いて、彼の横顔を見つめる。
﹁でも、傷の手当てに立ち寄った場所で⋮⋮声を掛けてくれた男の
人がいてね﹂
﹁男の人?﹂
﹁下ばかり見ていたから顔も覚えてない、名前も知らない、たぶん
町の人。その人は、他人なのに話を聞いてきて、励ましたりなんだ
り気遣ってくれてね。それで最後は⋮⋮ふふ、これで元気を出せと
かいってパンまで持たせてきて﹂
パン。
あっと、カティは声を漏らした。おかしそうに笑うナハトは、カ
ティを見やり頷いた。
﹁そう、あの町でね﹂
話をしたのは、ほんの一時。けれど、その時に声を掛けてくれた
事や気遣って食べ物を持たせてきた事、男性と別れた後に口にした
パンの味など、今も思い出すほどに何故か心に残り続けている。
まったくの赤の他人なのに、一度煩わしさから逃げようかと思っ
た時、どういうわけか浮かんできたのもその男性だった。
しかし、その人がどういう人物なのか、どういう顔や格好をして
いたか、それすらまったく覚えておらず、どうにか探そうとして⋮
⋮。
94
﹁だから、パン屋さん探してるなんて変な事⋮⋮﹂
カティの呟きに、ナハトは吹き出して笑う。
﹁ぷ、やっぱり変な事聞いてた? でもそれくらいしか思いつくの
がなくてさ。まあ、そもそもパン職人だったかすら怪しいよね﹂
この町へ再びやって来て尋ね回ったが、結局、その人の情報は一
つも出てこなかった。そもそも、その記憶だけで辿ろうというのが
間違いである。
会ってどうこうしようというわけではないけれど、ただなんとな
く、あの人は今度なんていうのか気になった。
呟くナハトの横顔は、温かいものが浮かんでいた。
﹁珍しいというかなんか変なパンだったから、すぐ見つかると思っ
たんだけどなあ﹂
﹁そう⋮⋮それで、この辺りにまでやって来たんだ﹂
﹁顔も名前も知らない人に会おうなんて、変な話だな﹂
﹁そんな事ないよ。でも⋮⋮そっかあ﹂
カティは座り直し、うん、と頷く。
﹁じゃあナハトは、自分を見つめ直しにやって来たんだ﹂
私と同じだね。
小さく笑うカティに、ナハトの顔が向き直る。そこには、少し驚
いたような色が窺えた。言葉なく﹁君も?﹂と尋ねているような気
がした。
﹁父さんが死んで、これからどうしようって、近頃よく思ってるか
95
ら。私が出来る事はなんだろうって﹂
﹁⋮⋮細工師だっけ? 君の親父さん﹂
﹁そう、けっこう仕事の受注もあったんだよ。最期まで、抱えた仕
事をやり抜いた﹂
そういう父の姿を、尊敬していたし、もちろん誇らしかった。け
れど、カティはそれを継がなかった。
﹁私、食堂で働いてるでしょ? きっとそういうのが性に合ってる
んだよね。母さんが死んでからずっと厨房の当番だったし、料理も
わりかし好きだし。人と接するのも嫌いじゃないし﹂
食を提供する場所で働けたら、携われたら。
それが今のところの、カティのやりたい事であり、願いでもあっ
た。きっとそれを感じ取っていたから、父も細工師の後を継げなん
て言わなかったのだろう。
﹁⋮⋮そう、君、料理上手だしね﹂
﹁! 本当?﹂
﹁うん、だって美味しかったし﹂
その言葉に、カティは表情をぱっと明るくさせる。ナハトの食べ
るスピードから口に合っているのだろうとは思っていたが、そう言
ってもらえると俄然やる気に繋がるというものだ。良かった、とこ
ぼすカティの口元で上機嫌な微笑みが綻ぶ。
﹁別に店を持ちたいとかそういうんじゃないけど、そういう場所に
関わっていけたら、楽しいんだろうなあって思う﹂
その時、サア、と静かに夜風が動く。
96
カティはおもむろに背伸びをし、大きく深呼吸した。少しの肌寒
さの残る空気が、心地よく全身を伝う。
﹁誰かに声に出して言ったの、初めてかも﹂
思い返せば、こんな話を、誰かとした事はなかった。
笑いながら隣を見れば、ナハトのつぶらな瞳と視線が交わった。
何となく気恥ずかしさがこみ上げ、カティは慌ててそらすと、ぽん
っと自らの足を叩く。
﹁えっと、すっかり話し込んじゃったね、夕飯にしよ﹂
座り込んだ身体を立たせようとした時、ナハトが素早く先に立ち
上がった。しなやかな躯体が伸び、カティの横に佇む。そして、大
きな手のひらをカティの顔の前へ差し出した。その意図を理解し、
カティは少し躊躇いながらも自らの手をそこに乗せる。ナハトは軽
々と、カティを引き上げ立たせた。
﹁僕も、初めてかもしれない﹂
﹁え?﹂
﹁身の上話なんて、誰かにするのはさ﹂
そう言いながら、彼は少しおかしそうに肩を震わせた。そんな彼
を見上げて、カティも笑みを浮かべる。
﹁一緒、だね﹂
﹁⋮⋮そうかもね、案外﹂
カティはにっこりと目を細め、﹁さ、夕飯にしよ﹂と歩き始める。
その隣に、ナハトが並ぶ。
97
﹁自分の見つめ直し、うまくいくといいね。お互いに﹂
静けさに包まれるカティのナハトの間を、夜風が過ぎ去る。背格
好も外見も、種族も異なる二人の肩と爪先は自然と並び、歩幅を合
わせて進む。
︱︱条件のもとに宿を貸した主と、宿を借りた旅人。
何
最初に築かれた二人の関係に、その時、確かに何かが芽生えてい
た。
が︱︱。
小さくささやかだけれど、明らかに最初とは異なる、特別な
か
98
06︵後書き︶
ついでにナハトの出生をパラパラとばらまきました。
動物に詳しい方なら、これでいよいよ特定も容易になったと思いま
すが、まだ内緒でお願いします。
後で必ず名前が出てきますので∼
99
07︵前書き︶
2016.07.30 更新:1/1
前話と比べると短いですが、一つ更新です。
この辺りから、ちょっと物語の雰囲気が変わってくるかな、と思い
ます。
そろそろキーワードの︻残酷描写︼と︻戦闘描写︼が生かされるだ
ろうか⋮⋮!
︵※早く生かしたかった作者︶
でも安心して下さい、ほのぼの小説ですよ︵※あてにならない当社
比︶
100
07
︱︱パカン、パカン
澄んだ青空に向けて斧が振り上げられ、勢いよく下ろされる。そ
の真下にセットされていた木材を、外す事なく正確に捉えると、気
持ちいいほど綺麗に半分に割った。
作業場の脇にて次々と薪を生み出し積み重ねてゆく光景は、なん
て事はない薪割りの作業なのだけれど。
﹁わあ∼やっぱり男の人がやると早いね﹂
カティは感心しきり、それを見守っていた。
軽快に薪割りをしていたナハトは、一度斧を置き、呆れた様子で
振り返る。茶褐色の尾が、ふわりと揺れて翻る。
﹁君は危なっかしくて見てられないからね⋮⋮﹂
あんなヨタヨタして薪割りされそうになったら、代わるしかない
よ。溜め息をこぼすナハトに、カティは笑う。
﹁ごめんね。でも、助かっちゃった!﹂
おかげで当分は困らない量を備蓄する事が出来る。本当に大助か
りだ。
ナハトは何でもないように﹁これくらいはするよ﹂と言うが︱︱
彼にとっては本当に大した事はないのだろう︱︱、カティは頭が上
がらない。
101
﹁君はしっかりしてるけど、こういうところがやっぱりちょっと緩
いよ﹂
呆れながらも浮かべる笑みは、親しみが込められている。ナハト
の背を叩くカティも、すっかり打ち解けて朗らかそのものだった。
宿の主と、借りた旅人。
最初に築かれたその関係が、変わり始めているからだろう。少な
くとも、カティの中では、それまでとは異なるものになっていた。
外見こそ可愛らしくしなやかだが、中身は意外としたたかさで鋭
い、イタチの獣人の青年。彼が生まれた場所や身を置く職業など、
カティとは比べられないほど大変で、さぞ揉まれてきただろうと想
像つく。けれど、言葉を交わして感じた、ごく当たり前に共感出来
る迷いに、カティは確かに自らを見いだした。
イタチの獣人に、客人以上の何かを思ったのだ。
それを、どう言葉にしたら良いのか見当もつかない。ただ、特別
だった。暮らし慣れた村に、町に、ある日ふっと現れたしなやかな
イタチが、何故かとても︱︱特別な存在に思えた。
散らばった薪はまとめられ、作業場から自宅脇へと移動した。や
はりそこでもナハトが手伝ってくれて、カティは大変助かった。
﹁やっぱりこういう作業は、男の人がいると楽だね﹂
﹁昔っから力仕事はしているし。慣れてるから﹂
ナハトは肩に担いだ薪の塊を下ろすと、腕をあげて背を伸ばす。
102
﹁⋮⋮でも懐かしいな、こういうの。いつからやらなくなったっけ﹂
呟く彼の横顔は、楽しそうに見えた。その言葉からも、彼が普段
身を置く場所が平凡な日常から離れたところにある事を理解する。
﹁久しぶりに思い出せた。旅行しに来て良かったよ﹂
きゅっと閉じている口に笑みを浮かべるイタチは、ただひたすら
にあざとく可愛らしい。同じように居心地よく思ってくれているな
ら、カティはとても嬉しく思う。
けれど、そう思うからこそ。他とは違う特別な存在だからこそ。
自分が宿の主であり、相手が宿を借りた旅人だと、余計に強く感
じてしまう。
︱︱どうしてだろう。自分で知っている事なのに、胸がチクチク
する。
いつか彼は宿を去り、この場所から帰ってゆく。そして自分は、
再び一人で暮らしてゆく。
最初からすでにあった事実が、何故かこの頃、胸の片隅をつねる。
けれどそれを出さず、カティは微笑んでナハトの隣に立っている。
﹁そう思ってくれるなら嬉しいよ﹂
そして心軽やかなまま帰り、旅人から傭兵に戻っても、ひと時の
楽しい思い出として振り返ってくれたら嬉しい。
それも確かに、カティの願いだった。
︵でも、何だろう、この気分⋮⋮︶
103
初めての感覚に、カティは困惑するばかりだった。
そんな悩ましさにはお構いなく、カティのもとにある知らせがつ
いに届けられる。
この地域にのみ群集する白花が、一斉に開花したという。
◆◇◆
白花が咲くという事は、いよいよ本格的に野生動物たちとの戦い
が始まる事を表しているけれど、近隣の町村総出で採取活動が始ま
る事も告げている。
薬にもなり、甘味料にもなり、見目も美しく鑑賞用にも持って来
い︱︱そんな良いとこずくめの白花を求め、住人や遠方から集まっ
た人々は群生区域に向かっているだろう。
カティも白花が咲けば家族と共に向かい、採集がてらピクニック
し、後で薬なり甘味料なりに加工していた。この季節の一番の楽し
みだった。
せっかくだから、ナハトにも見て欲しいな。
理由はなんであれ彼は旅行、観光でやってきたのだ。一年を通し
て長閑なこの土地が唯一盛況する空気や、噂の白花を、是非見てい
ってもらいたい。
そう思ったカティは、ナハトへ提案してみた。
104
﹁︱︱白花を見に?﹂
﹁うん。せっかく来たんだもの、旅行っぽい事をしても良いと思う
んだ﹂
色々と手伝いってくれて大助かりだが、ナハトの自由時間も取っ
ているような気がして申し訳ないので。そうカティがこぼすと、ナ
ハトは﹁けっこう自由に楽しませてもらってるけどね﹂と笑った。
﹁その白花ってやつ、そんなに綺麗なのかい?﹂
﹁綺麗だよー。地元民もそう思うんだから、ナハトもびっくりする
よ﹂
﹁へえ﹂
﹁旅行の、思い出にでもさ。どう?﹂
ナハトは少し考えた後、こくりと頷いた。良かった、とカティは
笑い、両手を合わせる。
﹁じゃあ、もうちょっと落ち着いたら見に行こうよ。お昼ご飯を持
って﹂
﹁楽しみにしてる。色々と、ありがとね﹂
ナハトは笑っていたが、きっとそれ以上に楽しみにしているのは
自分の方なのだろうと、カティは知っていた。
旅の思い出、と言いながら、その思い出を一瞬でも望んだのは他
ならぬカティだ。
せめて彼がいる時間は、楽しく過ごし、そしてお別れしたい︱︱。
ナハトがやって来て、もう五日ほどは経過している。彼が去る日
はすぐそこなのではないかと、カティは痛む胸の奥で思う事が増え
105
た。
けれどそれを出さないよう、カティは微笑むのだ。あの屈託のな
い柔らかな笑顔で。
村もそうだったが、あれほど賑わった町はすっかり閑散としてい
た。
見慣れない人々が行き交った通りや、人の出入りの激しかった店
など、今は極端に人影が減り、日中でありながらまるで夜半のよう
な静まりようだった。
白花が咲いたという知らせが朝一番に巡り、多くの人が早速出か
けたからだろう。
﹁昨日までの賑わいが嘘みたいだ﹂
﹁極端でしょ。初日はこんな感じで、夜になったらまた賑やかにな
るよきっと﹂
言葉を交わしながら通りを進むが、二つの足音がはっきりと判別
出来るほどに静かなので、妙な気分でもある。
﹁でもこれだけ人が居ないならお店も混んでいないだろうし、お買
い物は楽だよ﹂
カティは懐からメモ紙を取り出し、買出しリストを見下ろす。小
麦粉に調味料に、その他諸々の食材の名が並んでいるが、白花ピク
ニックの時に持って行く食事の材料である。
﹁気合入ってるね。何を作ろうっていうの﹂
106
﹁ふふん、仕事中の父さんによく持っていった、母さん直伝のお手
軽パンもどきだよ﹂
﹁もどき⋮⋮?﹂
ナハトは小首を傾げる。ただひたすらにあざとく可愛らしい仕草
だ。これで食べ顔が野生的でなければ、愛くるしさの塊だろう。
﹁パンと言ったら、ほら、そこのパン屋さんみたいに焼いたままの
を出すのが主流でしょ﹂
たまたま近くにあったこの町唯一のパン屋を指差し、ガラスケー
スに並ぶ商品を示す。この辺りに限らず、多くの家庭や店で並ぶも
のは何かを挟んだり他の味を足したりしないしないはずだ。
﹁うちだと作業の片手間に食べられ、なおかつメインとおかずを一
度に全部取れるように、こう、ぎゅっと挟むの﹂
カティは両の手のひらを合わせ、ぎゅうぎゅうに押し付け合う動
作をする。
ともかくなんでも種類問わず挟んでしまうので外見から王道のパ
ンを外れているが、これがけっこう自慢の一品だった。
最近はとんとパン作りなんてしていなかったので、カティ本人も
楽しみだった。
﹁⋮⋮なんでも挟む⋮⋮﹂
﹁そう、なんでも。あ、うちと同じような事を考える人がいたかな、
もしかして﹂
なにせ楽だからね、とカティは上機嫌に通りを進む。
107
その後ろでナハトが少し考え込み﹁あれ、あの時﹂と呟いたが、
綺麗に聞こえなかった。
﹁⋮⋮まあそれはいいとして、でも君、今までパンとか出してなか
った?﹂
﹁ごめんあれ貰い物。だってみんな妙に気を遣って持ってきたから、
たくさんあって⋮⋮﹂
﹁わー砕けてきたねえ、そっちの方が僕も楽だけどさ﹂
でもそれ言っちゃう? と笑うナハトにつられて、カティも声に
出して笑うのだった。おかげでだいぶ在庫が減ったよ、と軽口を叩
くうちに、目的の食品店へ到着した。
カティは扉へ駆け寄り中に入ろうとしたけれど、ふと貼り紙が目
に入り、一度動きを止めた。
帯状の模様を持つ、熊のような獣が吼える絵︱︱食堂にも貼って
ある、あのひと探しの貼り紙だ。
﹁この貼り紙、まだ貼ってあるね。見つかってないって事なのかな﹂
凶獣
なのだか
いかにも凶暴そうで、迫力のある生き物。それが何なのかカティ
にはまったく見当もつかないけれど、ついた名が
ら⋮⋮そういう事なのだろうか。
この絵の通りの姿ならば、一目見れば記憶に残る事は間違いない。
いまだにそれらしい人物を見かけた覚えはないので、この町にはさ
すがに居ないだろう。
凶獣
なんだろうね﹂
︱︱と思いながらカティが貼り紙を眺めていると、背面で気配が
動いた。
﹁なにをもって
108
振り返ろうとしたカティの肩が、とん、とナハトの胸にぶつかる。
思っていたよりもずっと近い距離に彼が佇んでいて、カティは一瞬
息を飲んだ。
﹁やり方か、性格か、気性か。渾名がつく習わしは嫌いじゃないけ
ど、本人とは預かり知らぬところで付けられていつの間にか定着し
てるんだから、凄いよね﹂
上目で見たナハトは、陽が遮られ少し影を纏っていた。そのせい
か、茶褐色の毛皮が濃く染まり、陽の下の彼とはまた違う印象を受
ける。もっと単純に言えば、別人に見えた。
ナハトが不意に視線を下げ、カティを真上から見つめる。つぶら
な瞳の、シュッとしなやかなイタチの頭部に、静かな何かが張り付
いているような気がした。
﹁君は⋮⋮﹂
ナハトは言い掛けて︱︱口を閉じてしまった。
空気を払うように口角へ笑みを浮かべると、おもむろにその腕を
持ち上げ、カティの顔の横から手を伸ばす。そして、無防備なカテ
ィの鼻先を、むぎゅっと摘んだ。
ふぎゃ、とカティの声が漏れる。
﹁あはは、言ったでしょう、君は緩すぎるって﹂
﹁だ、だってナハトが今﹂
﹁気を付けて、またかじられるかもしれないよ?﹂
イタチの顔が近づき、見せつけるように牙を覗かせた。カティは
慌てて離れると、あざとく笑うイタチを軽く叩く。もう、と細い肩
109
を大きく上下させて、カティは店の扉を開いた。
あれ、なんだか誤魔化されたような気がする、ような⋮⋮?
まあいいかと、カティは店に足を踏み入れる。それよりも必要な
凶獣
なんだろう?﹂
材料を揃えなければならないと、カティの中から貼り紙はすぐに消
え去った。
﹁⋮⋮本当、なんで
ナハトは貼り紙を見やり、カティの後に続いた。
﹁︱︱え、在庫がない?﹂
メモ用紙を握ったまま、カティは愕然とした。
店主の女性は、申し訳なさそうに視線を下げると同時に、不思議
そうに首を捻った。
﹁いつも町に来てくれる商人さんたちが、いつまで経っても来やし
ないんだ。とっくの前に到着しているはずなのに﹂
だから店に並んでいるものだけが今のところの在庫だと、彼女は
頭を下げた。
そんなあ、とカティは情けない声を漏らす。在庫がないなら手の
打ちようがないけれど、それにしたって。
﹁どうして小麦粉⋮⋮﹂
困った、我が家直伝のパンもどきが作れない。
110
いや、それだけではなく、他の人もきっと困惑するだろう。
あからさまに落ち込んだカティの頭へ、ナハトの手のひらと、何
度目かの店主の謝罪が重ねられる。カティは首を横に振り、仕方な
いと自らに言い聞かせた。
﹁でも⋮⋮この季節にそんな遅れるなんて、今までなかったですよ
ね﹂
この一帯の名物である白花を目当てにし、多くの人々が集まるの
は毎年恒例の事。人が集まる分だけ物の売り買いも比例して増える
事を、この一帯で商いをする人々なら知っているはずだ。
それだけではなく、何日も前から足が途絶えているなんて⋮⋮人
々の暮らしにだって影響が表れる。
そんな致命的な遅刻をした事はなかったはずだ。
﹁他の店のみんなも困り果ててるところだよ。とにかく隣の町とか
に連絡を取ってみる事にはしたんだけど、今は在庫でしのぐしかな
いんだ。本当にごめんね、お嬢ちゃん﹂
﹁いえ、おばさんのせいじゃないです﹂
メインの小麦粉が手に入らなかったのはかなりの痛手だが、仕方
ない。調味料や他の必要材料の一部を買い、店を後にするしかなか
った。
﹁商人が来ない、ねえ。そんな事ってあるの?﹂
﹁まあ、たまにね。こんな田舎だし、遅れる事はあったよ。でも、
この季節だけは絶対にそんな事しないはずなんだけど⋮⋮﹂
カティは表情を曇らす。こないだから感じている違和感が、胸の
111
内で大きくなってゆく。開花する前から人里へ近づく大きな獣とい
い、商品の仕切れの遅延といい、今年は何かが違う。何かが起きて
る。そんな気配を、カティは確かに嗅ぎ取っていた。
﹁何もないといいんだけど⋮⋮﹂
小さな溜め息をこぼし、カティは顔を上げた。
﹁それより、ごめんね。うちの自慢のパンもどきと一緒に、白花を
見て欲しかったんだけど⋮⋮これじゃあ片っぽだけになっちゃう﹂
﹁僕は別に気にしてないよ。それに、ただ単に遅れてるっていう事
もあるじゃない? 待ってればいずれ来るよ﹂
﹁⋮⋮うん、そうだね﹂
カティは不安を押し込み、ようやく微笑んだ。
旅人に励ましてもらって、これじゃあ本当に立場が逆だわ。
﹁じきにきっと新しい仕入れがあるよね。それまで、少しのお預け
だね﹂
そう、たまたま、そういう事があっただけかもしれない。今まで
と変わらない白花の季節を迎えたのだ、不安に思う事なんてきっと
起きない。
そう言い聞かせたカティだったが︱︱その不安感が払拭される事
は、残念ながら叶わなかった。
結局その後、町に商人がやって来る事はなかった。
白花の開花で賑わう町村に、にわかに漂い始めた不穏な気配。例
112
年とは明らかに違う事が起きようとしていると、全ての人々が抱き、
囁くようになった。
そして翌日、その予感は的中し、さらなる凶事の知らせが舞い込
む。
白花の採取に出掛けた人々の一部が、負傷して帰還したのだ︱︱。
113
08︵前書き︶
2016.08.19 更新:1/2
お待たせいたしました。本日は二つ更新で、翌日同じ時刻にもう一
つ更新です。
そろそろ皆さま、お飾りなキーワード︻戦闘描写︼︻ヤンデレ風味︼
が欲しい頃でしょう⋮⋮
114
08
へきれき
それは正に、青天の霹靂と表現すべき凶事であった。
白花の採取に出掛けた人々の一部が、負傷して帰還した︱︱。
誰かが叫んだ言葉は、食堂で働いていたカティの耳にも届いた。
食事をしていた客や店主夫妻は飛び出してゆき、カティもそれに続
いて通りへ躍り出る。走ってゆく人々の後を追って到着した広場に
は、騒然とした人だかりが既に出来上がっていた。
﹁なんて酷い⋮⋮﹂
﹁一体何が⋮⋮﹂
カティは隙間から人だかりの中心を窺い、そして口を覆った。
横たわり、あるいは座り込む、血塗れの人々がいた。
白花を集めに出掛けたのだろう、彼らの傍らには摘み取ったばか
りのそれが散らばっていた。傷口から止めどなく溢れる血が滴り、
清楚な純白の花弁は深紅に染められ、どろりと重く残る甘い匂いを
放っている。
町の人々が駆け寄り、負傷した彼らへ布などをあてがい止血を施
す。一体どうしたのだと尋ねれば、痛苦に満ちる掠れた声で答えた。
﹁突然⋮⋮襲われ⋮⋮どうにか逃げて、きたが⋮⋮﹂
﹁誰にやられたって言うんだ﹂
﹁わか、らな⋮⋮でも、あれは⋮⋮賊かなにか⋮⋮﹂
115
その後、担架を担いだ人々がやって来たので、彼らは急いで運ば
れていった。町の診療所に連れて行かれたのだろう。
負傷した彼らの事も心配だが、それ以上に人々をざわつかせたの
は。
﹁賊ですって﹂
﹁そんな、この辺りにそんな奴らはいなかったはずだ﹂
人々の顔色がさっと青ざめ、ざわつく空気がいっそう厚みを増す。
カティも動揺を禁じえなかった。
どうして、そんな人たちが︱︱。
恐慌状態になろうとした時、広場に駆けつけた町の自警団員や町
長が落ち着くようにと声を上げた。﹁事実関係を調べるから、まず
は落ち着いて家に戻って欲しい。詳しい事はすぐに伝え、対策を立
てるから﹂凛然と響く言葉に、集まった人々は次第に落ち着きを取
り戻し、広場から去ってゆく。けれど、その表情はどれも強張り、
隠せない不安を滲ませていた。
﹁おーいカティー﹂
人波に逆らいながら近付いてくるのは、ナハトだった。しなやか
な身体の向こうで茶褐色の尾を揺らし、カティの前に佇む。
﹁なんだか大変な事になってるねえ﹂
そうしょう
﹁うん⋮⋮さっきの人たち、大丈夫かな⋮⋮﹂
﹁たぶん大丈夫だよ。見た限り、深い創傷じゃない、手当てを受け
れば問題ないさ。それよりも気にすべきは賊の人数かな﹂
騒然とする空気や青ざめるカティとは違い、ナハトの様子は平素
116
と変わっていなかった。むしろ、誰よりも落ち着いて周囲を見渡し
ているようにさえ見えた。
﹁賊の、人数⋮⋮?﹂
やはり、襲ったのものが賊という事は確定なのだろうか。
信じられない思いでカティは見上げたが、ナハトはそれ以上は言
わなかった。けれど、静かな彼の眼は、肯定しているような気がし
た。
﹁⋮⋮いや、今は止しとこう。町長とか調べるだろうし、あとで詳
しい事も分かるよ。それより、食堂に戻らないといけないんじゃな
い?﹂
そう言って、彼はカティの腕を取り歩き出す。カティの足は滑ら
かとは言い難い動きであったが、ナハトに従い元来た道を戻った。
けれど気になるのは、やはり先ほどの光景、そして町の空気であ
る。白花の開花を喜ぶ、町全体のあの明るさは、もうすっかり消え
失せてしまっていた。
﹁⋮⋮今度は、何が起きるんだろう﹂
﹁さあね。でも、たぶん﹂
︱︱これで終わり、なんて事は間違ってもないだろうな。
その言葉が、ぞくり、とカティの背を震わせた。怯えに反応して
か、ナハトは小さな声でごめんと謝る。
﹁困った、職業病かな。ともかく、気を付けなよ、カティ﹂
﹁うん⋮⋮ナハトもね﹂
117
﹁馬鹿、僕は傭兵だってば﹂
﹁あ、そうだった。ふふ﹂
緊張が緩み、ようやくカティの顔にも笑みが戻る。いつの間にか
自然と交わせるようになったこのやり取りが、今は最もカティを安
心させてくれた。
その後、カティは食堂に戻ったけれど、結局仕事を早めに切り上
げ帰宅する事になる。ナハトが隣に居てくれたので、何事もなく無
事に村へ到着したが⋮⋮。
暮らし慣れた場所に感じる不穏な空気を、花の香りを纏う風が運
んでゆく。毎年、その香りを吸い込むたび、心を躍らせていたとい
うのに。
今カティが思い出すのは︱︱赤く塗れた、白い花弁だった。
◆◇◆
その翌日、カティは護衛も買って出てくれたナハトと共に、町へ
再び訪れた。
村もそうだったように、町の空気は重く垂れ込んでいた。それに
加え、今日は人々の姿が多く残っているようにも見える。昨日は極
端なまでにがらんどうだったが、無理もない、怪我人が現れては外
へ踏み出せなくなるだろう。
﹁護衛を雇ったひとも居たけど⋮⋮さすがに出てないよね﹂
118
﹁状況がはっきりしない内は出ないだろうね。それだけじゃなくて
も、傭兵とかきっと出たがらないだろうし﹂
無償で行う慈善活動ではないから、契約外の事はやりたがらない。
一般人には残酷と思われるかもしれないが、命の盾にされる分そう
いう面には厳しいのだと、ナハトは言った。
﹁本人がそれを望んだ場合は、また違うけどさ﹂
カティは、そっか、とだけ返した。
喉元まで出掛かっていた言葉は、何とか必死に飲み込んだ。
︱︱なら貴方は、煩わしく思っていないのだろうか。
そんな事を言ってしまう事の方が迷惑だと、カティは振り払うよ
臨時休業
の札が掛けられた食堂へ入ると、驚いた表情の夫妻
うに足早に通りを進んだ。
と、装飾品店の男性が出迎えた。こんな時に出歩いたら危ないだろ
うと揃って口にし、わらわらとカティへ駆け寄ってくる。
﹁大丈夫です、ナハトがいるんで﹂カティは背後を指さしたが、
反応は何故か芳しくなかった。可愛いイタチ顔のせいだろうか、こ
う見えて彼はだいぶ剛胆な人物なのだが⋮⋮。彼らも傭兵だという
事を忘れているらしい。
﹁ごめんナハト﹂
﹁いいよ、慣れてるし﹂
119
ナハトは気にするどころか楽しそうにしていたので、少しだけほ
っとした。
﹁あ、それより、昨日からどうなりましたか。何か分かりましたか﹂
彼らは顔を見合わせると、その事を今話してたんだよ、とカティ
たちへ椅子を勧めた。
﹁︱︱昨日の怪我した人たちは、みんな無事だったよ﹂
まずはそう切り出した食堂の夫妻に、カティはほっと安堵する。
﹁見た目ほど酷い傷ではなくてね。きちんと手当てしたから命に別
状はないと﹂
﹁それで、すぐに町長や自警団がその人たちから話を聞いて、詳し
く調べたんだけど⋮⋮﹂
彼らは薬師などの職に携わる人々で、白花の噂を何処からか聞き
つけ遠方から足を運んできたのだという。
花が一斉に開花した昨日、多くの人と共に採取に出掛けたが、つ
い欲を出してしまった。もっと多くの白花を集めようと思い、離れ
てはならないという約束を忘れ、奥へ進んでしまったという。彼ら
はまだ人の手がついていない群生する白花を見つけ、夢中になって
採取活動に励んだ。
︱︱そのため、そこに潜んでいたいくつもの人影に、気付けなか
った。
120
突然の急襲を受けた彼らは、這う這うの体でどうにか逃げ切り帰
還したが、採取した白花以外の全ての荷物を奪われたという。
彼らは襲われながらも、しっかりと見ていた。
背後に居たのは獣ではなく︱︱盗賊か山賊かの、無法者だったと
いう。
ナハトの言葉が的中していた事より、本当に賊が出没したという
事にカティは衝撃を受けた。
彼らはさらに続ける。
その話を聞いて、町長は遠方からやってきた来訪者、さらにこの
町だけでなく近隣の町などにも使いを出し、すぐに調べて回ったと
いう。そして、ある事を知った。物資の流通が滞っていたのは、こ
の町だけではなかった。最近、どの町でも一時仕入れなどの流れが
途絶え、大変な事になっていたという。
その要因を、ようやく到着したという商隊に問い正したところ、
彼らは恐ろしい話を口にした。
少し前に、中央の都市部近隣で、大規模な討伐作戦があった。
都市部にほど近い山間を根城にし、かなりの大人数に膨れ上がっ
た山賊の一団と、国の騎士団や集められた傭兵集団が、激しく戦っ
たらしい。
以前からその一団によって人々の暮らしや周辺地域に被害が現れ
ていたが、今回その討伐が大々的に行われたというのだ。
だが残念な事に、よりにもよって山賊の頭領と、その側にいる腕
利きの部下、合わせて十数名を取り逃がしてしまった。
121
﹁今はこの町に商隊が来ないだろう? どうやら、その逃げた山賊
の残党が街道を襲撃したりして物資を奪っていったからだそうだ﹂
そして、その逃亡した山賊の残党は、僅かな人数でありながらな
お悪行を重ね、移動し続けている。
その言葉を聞いた時、さすがのカティもすぐに理解した。
つまり、その逃げた山賊の残党は、現在︱︱。
﹁この近くに居ると⋮⋮いう事なんですか⋮⋮﹂
食堂に、重い空気が流れる。
町にやって来る商人が途絶えたのも、奥地から出てこないはずの
獣たちが急に姿を見せ始めたのも、全てその山賊が荒らして起きた
事だったのだろう。
﹁町長たちは断定をしていなかったけど、そうなんだろうなって町
のみんなが話してるよ﹂
﹁時期が一致するしな⋮⋮くそ﹂
忌々しさを抑えきれずにこぼした声は、温厚な彼らにしてはとて
も乱暴だったが、それだけ大変な事なのだ。カティも机の上に置い
た自らの手をぎゅっと握る。
﹁⋮⋮騎士団とかには、連絡を取ったんですか﹂
今まで会話を聞くのみだったナハトが、その時初めて口を開いた。
険しさもない、苛立ちもない、イタチの静かな居住まいは変わって
いなかった。
122
﹁もちろんだ。ただ、こんな田舎だ。一番近い駐在地に急いでも、
一日、二日掛かる﹂
﹁町にいる傭兵たちにも、なんとか出来ないかとお願いしたそうだ。
だが渋られて、いい返事はまだ貰えていないらしい﹂
装飾品店の男性は、苦く表情を歪め、コップを握りしめた。職人
の無骨な指に、歯がゆさが滲む。
﹁⋮⋮町にいる傭兵は、たぶん見た限り、経験は浅い。採取の護衛
任務だしね。討伐任務とはまた訳が違う﹂
しかも、都市部で暴威を振るい台頭した一団の頭領と、その側付
きの精鋭という可能性があるのなら、渋るのも無理はない。国のた
め忠誠を誓い殉職も厭わない騎士団と、何かあるたび命の盾にされ
る消耗品の傭兵とでは、残念だが考え方が根本的に違うのだ。
そう話すナハトへ、食堂の夫妻などは何かを言い掛けたが、諦め
たように口を閉ざす。きっと、頼もうとしたのかもしれない。この
イタチの青年へ。けれど淡々と話す様に、無駄かと、あるいは頼り
にならないと、思ったのだろうか。
ナハトの言葉は、冷酷といえば冷酷。けれどカティには、それを
口にし叩きつけるような真似は出来なかった。彼と過ごしたこの数
日間と、彼のこぼした言葉を思えばこそ︱︱。
﹁そ、それより! 駐在している騎士団のところに連絡をしに行っ
てるなら、きっと助けに来てくれますよね!﹂
いっそう重く垂れ込む空気を押しのけるように、カティは明るい
声で言った。
123
﹁ああ、まあ、問題はその騎士がどうにか残党を捕まえてくれれば
いいが﹂
﹁だ、大丈夫です! こういう時こそ一致団結して備えないと!﹂
ほとんど口から出任せのようなものだったが、こういう時こそ、
明るく前向きにいかなくては。カティは自らも奮い立たせ、そう高
らかに声を張った。
彼らの表情はまだ強ばっていたが、カティの明るく振る舞う意図
を察したのだろう、目尻や口元をいくらか和らげ笑みを浮かべた。
﹁そうだね。町長たちも、無理に動かず、まずは防御や見張りをし
っかりしようと言っていたし﹂
﹁騎士が来るくらいまでは、大丈夫だろうしな﹂
彼らは顔を見合わせ、そしてカティへ視線を移した。
﹁やっぱり、君はレドの娘さんだね﹂
あいつだったら、きっとそういうのだろうな︱︱その言葉が、カ
ティを勇気づけた。
隣に腰掛けるナハトは、カティの横顔をじっと見つめていた。
そろそろ食堂からお暇しようとした時、カティは夫妻に呼び止め
られ言い聞かせられた。
戸締まりをしっかりし、無闇に出歩かないように。こんな状況だ
から賊が出るまでは仕事は休みでいい、ただし気を付けて。
何度も告げられ、カティは苦笑いをこぼしながら頷きを返し続け
124
た。
そんな彼らの傍らで、ナハトは食堂の表口に貼られた貼り紙を眺
めていた。
︱︱凶獣、連絡を乞う。もしも見かけた場合はガルバインまで
吼え猛る黒い生き物の側に添えられた文章に、今一度目を通した
ナハトは、小さな黒い鼻を鳴らした。なるほど、貼り紙を作ったの
は。
﹁⋮⋮そういう事﹂
人知れず呟きをこぼす︱︱その時、ナハトは不意に声を掛けられ
た。
﹁⋮⋮ナハトくん、ちょっといいかい﹂
振り返った先には、神妙な面持ちを宿す、装飾品店の店主だとい
う男性が佇んでいた。ナハトはしばしその瞳を見つめて黙したが、
静かに頷き彼へ歩み寄った。
カティは夫妻に挨拶をして別れた後、食堂を離れた。いつの間に
かナハトが居なくなっていたようだが、彼は何食わぬ顔でふわりと
125
隣へ戻ってきた。
﹁おじさんと、何か話してたの?﹂
﹁まあね。でも、そんな大した事じゃないよ﹂
隣を歩むナハトが、じっと、カティを見下ろす。どうしたのと首
を傾げると、ナハトは首を振り、顔を前に戻した。
﹁何でもない。ただ﹂
﹁ただ?﹂
不思議そうに眺めていたカティだったが、不意に、自らの手を握
りしめられる。ぱっと見下ろせば、カティの手を覆うようにナハト
の手が包んでいた。
﹁︱︱君は、よくよく他人を引き付ける人なんだなって、思っただ
けだ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁気にしないで、独り言。それより、早く戻ろう﹂
そう言って、ナハトはカティの手を引き進む。細い指を握る彼の
力は、自宅に戻るまで、決して緩む事はなかった。
カティは困惑しながら、その温かい力強さに安堵を抱く。人間と
は異なる毛むくじゃらな獣人の指を、そっと握り返した︱︱。
126
08︵後書き︶
恐らく、お父さんの古い友人であるおじさんは、ナハトの
に気付いてるのでしょう。
何か
127
09︵前書き︶
2016.08.19 更新:2/2
この辺りからいよいよ意図的に避けていたナハトの戦うシーンが出
てきます。
⋮⋮ッしゃァァァ書きたかったんだァァァ!!
︵※読者以上にフラストレーションを抱えていた作者︶
128
09
討伐を逃れた都市部の山賊の残党が、この周辺に潜伏している可
能性がある。
戸締りに用心し、不用意な外出は控えるように︱︱。
翌日、近隣の町や村には、速やかに注意勧告が行われた。
そのおかげであれ以上の負傷者が出る事はなかったものの、白花
の開花による盛り上がりは水を打ったように静まり返ってしまった。
華やかなのは、風が通った後に感じられる、咲き誇る花の甘い残り
香のみだ。
だというのに、人里に現れる鳥獣は例年通りに元気よく出没し、
余計に人々の頭を悩ませてくる。
騒動が解決するまでは、この状態が続くのだろう。仕方のない事
だが、あまり面白くはない。
早く騎士団なり何なりが来て、捕まえてくれますように。
例年の賑わいを願うカティは、大人しく自宅待機だった。
ただ、そんな中、ナハトは︱︱。
﹁何処かに出掛けるの?﹂
尋ねたカティの視線の先には、短剣やポーチなどを身に着ける作
業中のナハトが居る。
129
もともと彼は、町民や村民が着るような簡素な服とは違い、質の
良い丈夫そうな服︱︱きっと激しい動きに対応出来るものなのだろ
う︱︱を着ているので、旅人らしからぬ姿ではあったが、そうやっ
て武器などを装備すると本当に傭兵に見えてくる。
いや、最初から、彼は傭兵だったけれど。
﹁うん、ちょっと周りを見てくるよ﹂
本当に都市部から討伐を逃れた賊の残党ならば、手負いの可能性
もある。動かないでいてくれるなら楽だが、商隊を元気に襲ってい
る手合いだ、今後大人しくしているとは思えない。
ナハトはそう言った。
﹁獣と同じだよ、傷を負った奴ほど手が付けられなくなる。気が立
ってるだろうね﹂
彼の声は、何処か淡々として響いた。恐れなどの類を抱いていな
いのだろうか。カティは僅かな畏怖を覚える。
﹁だ、大丈夫なの⋮⋮?﹂
﹁うーん⋮⋮心配すべきは、僕より君の方じゃないかな﹂
ナハトは肩を竦めると、不意に茶褐色の指先でカティの額を弾い
た。
﹁どうも君は危ういからね。僕が戻るまで、大人しくしてなよ?﹂
﹁むッこんな時にふらふら出歩いたりはしないよ﹂
﹁⋮⋮そうだと思いたいんだけどねえ﹂
ともかく下手に出歩かないように、とナハトは何度もカティへ言
130
い聞かせ、支度を整えるとすぐさま出掛けていった。
その後、時間が過ぎ太陽が中天に差し掛かっても、ナハトは戻っ
て来なかった。
﹁本当に大丈夫かなあ、ナハト⋮⋮﹂
正午になりお昼時を迎えたが、ナハトの姿は相変わらず見えない。
この一大事にもお構いなしに広がる、見事な青空ばかりが視界に映
る。
ナハトは明確な言葉を口にはしなかったが、残党の件で周囲の様
子を見に行ったという事はカティにも分かった。それが嬉しくて心
強かったが︱︱何故だかとても、苦しく思う。
ナハトはもともと傭兵という職に思うところがあり︱︱嫌気が差
したのかどうかは分からないが︱︱この場所にまでやって来た。息
抜きと、以前出会ったという名も知らぬ人を探すため。
それなのに、こんな状況に遭遇してしまって。彼はどう思ってい
るのだろうか。
﹁⋮⋮考えるとモヤモヤする、何か作ってよう﹂
カティは頭を振り、篭を抱え外の畑へ向かった。が、扉から出た
その時、何か遠くで動いたような気がして、カティは視線をやる。
民家の間をすり抜け、走り去る二つの小さな人影。それは村の外
へ向かってしまった。
131
﹁あれって⋮⋮﹂
人影の正体は、おおよその見当がついた。
︱︱僕が戻るまで、大人しくしてなよ?
ナハトの言葉が脳内で甦る。篭を持ったまましばらく右往左往を
繰り返したカティだったが、やはりどうしても放ってもおけず、篭
を畑に投げ捨てた。
誰も気付いていないようだし、何かあったら大変だ。
言い訳がましく思ったが、後で確実にイタチの青年の怒りを買う
だろうなと、カティは苦笑いをこぼした。
︵大丈夫、連れ戻したら、すぐに戻るから︶
遠ざかってゆく人影を追いかけ、カティは村の外へ駆けた。
◆◇◆
はたしてその正体は、村で暮らす二人の子どもであった。
いつも一緒に仲良く遊ぶやんちゃな男の子たちで、カティも何度
もその姿を見ている。時々、過ぎた悪戯をする事もあるが、性根は
とても素直なので、今もカティが叱ると﹁ごめんなさい﹂ときちん
と謝った。
﹁もう、お母さんやお父さんに言われたでしょ? 今はお外がとっ
132
ても危ないから遊びに出たら駄目だって﹂
それなのに、こんなに村から外れた林のただ中にやって来るとは。
賊の残党も危険だが、忘れてはいけない、鳥獣の存在もある。
﹁おうちにずっといるの、つまんなくて⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい、もう帰る⋮⋮﹂
悪い事だとは一応分かっているらしく、二人はしょんぼりとする。
カティは苦笑いをこぼしながら、下がり気味の丸い頭を撫でた。
してはならないという事ほど子どもはしたがるもので、おまけに
普段駆け回っている二人だ、自宅で大人しくしている事はなかなか
に辛いものがあるだろう。分からなくもないが、それはそれ、これ
はこれだ。
﹁お母さんたちが気付いてなかったら、黙っていてあげるから。さ、
帰ろ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
カティは二人の手をしっかりと握り、村へと戻るべく踵を返した。
最初こそしょんぼりとしていた二人だが、次第にいつもの調子が戻
ってきたようで、カティの手をぶんぶんと振り﹁母ちゃんみたい﹂
と笑う。
まったく調子がいいんだから、と思いながらカティの口元は僅か
に緩む。こんな状況だからか、子どもの笑顔が一段と眩しく感じ、
束の間の安らぎを抱く。
しばらく進むと、次第に緑の茂みが薄れてゆく。村の周囲に広が
る長閑な草原の風景も現れ始め、林を抜ければ見慣れた村も遠目に
見えるだろう。ほっと胸を撫で下ろし、林の終わりに真っ直ぐと向
133
かった。
︱︱ガサリ、と茂みが大きく揺れたのは、その時だった。
カティの足が驚いて立ち止まる。
今の音は、明らかに、自分たちのものではない。
ぞくりと背筋が震え、弾かれたように振り返る。
背面に広がる木々と緑の茂みの間に、粗野な風貌の人間の男が佇
んでいた。
偶然にも遭遇したという雰囲気はなく、男の方が後を追ってきた
ような気配が、揺れる屈強な肩から感じた。
﹁⋮⋮なんでェ、女の声がするかと思えば、ガキ二人がついてやが
る﹂
背格好はかなり立派で、体格も分厚くがっしりとしている。その
面持ちや言動には獣のような荒々しさが滲んでおり、腰にぶら下が
った得物も無骨な存在感を放っている。とてもじゃないが、堅気の
存在には思えなかった。
たぶん、きっと、考えるまでもなく。
この辺りに潜伏しているという、残党の︱︱。
こんなに近くにいるとは、正直思っていなかった。村はすぐそこ
で、手足を伸ばせば届く距離にいるなんて、誰も思わないだろう。
カティはたじろぎ、子どもたちの小さな手を強く握る。
その男の背面から、さらにもう一人、同じ風貌の男が現れた。
134
﹁女といっても、随分若いけどな﹂
﹁斥候を命じられただけだが、まあ手土産には良いんじゃねえか。
頭領や他の連中もつまらねえだろうし、少し早い略奪の前祝いって
事でよ﹂
近付いてくる男たちの強面の顔に、下卑た笑みが浮かぶ。舐めつ
けるような眼差しが、カティの身体を這った。
男たちの言葉の意味を理解するより早く身体が真っ先に動き、強
ばった足が走り出す。
しかし、男たちの方が早く、飛び越えるように距離を詰められる。
賊の指先が、背筋に触れるところにまで伸ばされているのが、見な
くとも分かった。
カティは咄嗟に、繋いでいた子どもたちの手を前へ引き、放り投
げるように大きく振り解いた。少年の小さな身体が前へ飛び、地面
に打ち付けられる。
﹁村へ行って、みんなに伝えて!﹂
﹁あ、姉ちゃ⋮⋮﹂
﹁早く!﹂
地面に倒れ込んだ彼らが立ち上がって走り去るのと、カティの身
体に男たちの手が絡まるのは、同時だった。
カティは凄まじい力で地面に引き倒され、一切の身動ぎすら出来
ず縫いつけられる。あまりの強さに、腕とは言わず全身に痛みが走
った。
﹁おい、ガキはどうする?﹂
﹁放っておけ、どうせすぐ村は襲う予定なんだからな。田舎の自警
135
団なんぞ、増えようが怖くもなんともねえ﹂
村は、襲う予定︱︱。
頭上で交わされた野蛮な会話に、カティは鈍器で殴られたようだ
った。
あの村を、襲うというのか。小さくて、長閑で、気の良い人ばか
りが暮らす、あの村を。
青ざめる肌に、冷たい汗が伝った。
﹁︱︱そんな事より、だ﹂
男たちの視線が、うつ伏せに押さえつけられるカティへ落ちる。
肩越しに振り返ると、影を帯びた男たちの顔が広がる。薄ら暗い、
ぞっとする何かが浮かんでいた。思わずカティの身体が恐怖で飛び
跳ねる。
﹁手土産としては上等だが⋮⋮頭領に差し出す前に、どうだ、先に
ちょいと﹂
﹁おい、恨まれんぞ?﹂
﹁ハハッ! んな細かい事を気にするお人かよ﹂
品のない低い笑い声が降り注ぎ、カティは息を大きく飲み込んだ。
抜け出そうと必死に身体を捻ったが、やはり僅かな身動ぎすら出来
ず、地面に頬を擦り付けるだけだった。
直後、男たちの手が、動きを変える。
力任せに縫いつけるだけだった無骨な手が、地面に投げ出された
カティの両手を一つに束ね、もう一方ではカティの腰を掴みひっく
り返したのだ。仰向けにされたカティの身体に、ギラギラとした視
136
線が突き刺さった。
明らかな意図をもった行動に、ザア、とカティの思考が青ざめる。
何をしようとしているかなど、考えるまでもない。いよいよ激しく
暴れたが、娘の力なんて大した障害にはならず、むしろ男たちを助
長させる結果となった。下卑た笑みをさらに凶悪に深め、音を立て
舌なめずりをすると。
﹁ほら、お嬢ちゃん、これが見えるか﹂
そういって腰から引き抜いた無骨な剣を、仰向けにされたカティ
の顔へかざす。目の前に突きつけられ、ヒッと、カティの白い喉が
ひきつる。剣なんて、そんな綺麗なものではなく、まるで大鉈のよ
うだった。錆びついた色を纏い、肉どころか骨まで断ち切るだろう
重厚な刃渡りを見て、カティの動きが止まるのは必然だった。
怯えて青ざめる様子に気をよくし、男たちは充足した表情で剣を
持ち直す。その切っ先をカティの胸元へ運ぶと、衣服に引っかけ力
任せに引き裂いた。
ビリビリと、あまりにも呆気なく衣服が布切れにされてゆく。カ
ティは呆然とそれを見るしかなかった。
﹁や、やだ、や⋮⋮ッんぐ、う!﹂
固い手のひらが、口元を覆う。汗ばんだ、不快な臭いと感触がし
た。それだけで泣きそうになる。
﹁お、小娘かと思ったら、悪くない身体をしてるな﹂
素肌の上を、無遠慮に手のひらが這い、カティは男の手の向こう
で悲鳴を上げた。嫌悪感が全身を包み、カティは必死になって止め
てくれと懇願したが、それは言葉にならず男の手の内で握り潰され
137
る。
自分が、こんな風に弄ばれる未来なんて、想像していなかった。
不用意に動けば、こうなるかもしれない状況だったというのに。
何処か、遠い事だったのかもしれない。平穏に過ごし、それが当
たり前であったから。
理解するには遅く、自らの浅慮が招いた結果は変わらない。けれ
ど、カティは叫びながら、必死に救いを求め続けた。
村や町の住人か。
気に掛けてくれる装飾品店の男性、食堂の夫妻か。
すでに存在しない、両親か。
︱︱いや、違う。
カティが真っ先に思い浮かべたのは。
助けてくれと声なく叫んだ先にいたものは。
カティは口を覆う男の手に、思い切り歯を立て噛みついた。塞い
でいた手のひらが剥がれた、その僅かな瞬間、カティは無意識に叫
んだ。
﹁ナハト︱︱!﹂
再び口を覆われ、乱暴に押さえつけられる。のし掛かった男の無
骨な手には、剣が掲げられていた。
138
﹁このガキ、よくも噛みつきやがって⋮⋮!﹂
剣の先端がギラリと光り、目の前へ持ち上げられる。カティは覚
悟を決めるように、涙の滲む瞳を固く閉ざし、顔を逸らした。
︱︱ざわりと、緊張を帯びて張りつめた空気が震えた。
草木が揺れ、生い茂る緑が音を奏でる。林の中を通り過ぎてゆく
それは、風だった。
強い、突風のような激しさの︱︱。
頭上を吹き抜けると同時に、カティの上にのし掛かった男の巨体
が真横へ飛んだ。受け身を取っていない屈強な身体が、強烈な音を
立て木の幹へ打ち付けられ、引き潰れたような声と共に崩折れた。
突然の出来事に、カティはもちろん、手首を掴んでいる男も間の
抜けた声を漏らし瞠目した。
困惑するカティらの前に、ふわり、と人影が着地する。
全体的にしなやかで細身の、茶褐色の尾を揺らす影。緑の風景が
よく似合う、獣の横顔に、カティは小さな声を漏らした。
けれど、何故か今は、柔らかさをまったく感じない。むしろ、正
反対の︱︱。
降り立ったその人物は、しなやかな背を振り返らせ、逆光を受け
鈍く光る双眸を下げる。衣服を引き裂かれ上半身を露わにしたカテ
ィと、その両手を奪い地面へ押さえつける男を、その目に収めると。
139
﹁てめえ、一体な︱︱﹂
躊躇なく、男の顔面を蹴り上げた。
なのか
ボキッ
なのか定かでない、強烈な恐ろしい
大気を引き裂くように鋭く放たれた回し蹴りが、男の頬に食い込
ゴキッ
む。
音がカティの耳元で鳴り響いた。
男は呻き声を漏らし、横へ倒れ込む。両手の拘束がなくなり、カ
ティは慌てて身体を起こし距離を取った。引き裂かれた服はまった
く原型を留めていないので、自らの腕で露わになる上半身を庇い、
そうっと目の前に佇む背を見上げる。
男性にしては細身の、しなやかな綺麗な躯体。そこに意外な力強
さを内包している事は知っていたが⋮⋮その足に、腕に、彼よりも
屈強で大柄な男を吹き飛ばすほどのものがあるなんて、思ってもい
なかった。
﹁⋮⋮何って、それ、こっちが言いたいんだけど﹂
沸々とする感情を湛えながら、ぞっとするほど抑揚のない青年の
声。
カティは、先ほどとは違う悪寒を抱いた。
﹁鼻の曲がりそうな臭いのついた手で触って、それ、喧嘩売ってん
の﹂
その声も、後ろ姿も、揺れる尾も、カティは知っている。
けれど、つぶらな瞳を捕食者の形に歪め、鋭い牙を剥き出して、
140
凶暴な唸り声をこぼす横顔は︱︱知らない。
﹁⋮⋮上等だよ、山賊の分際で﹂
吐き捨てると同時に、しなやかな獣︱︱ナハトが吼えた。
そこに居たのは、凛々しくて可愛らしい、イタチではない。
獰猛な本性を露わにした、爪と牙を持つ肉食獣だった。
141
09︵後書き︶
イタチという生き物は、外見こそとても愛くるしいけれど、本性は
極めて狂暴。
体格こそは小さいけれど、立派な肉食獣なのです。
142
10︵前書き︶
2016.08.20 更新:1/1
143
10
傭兵
の世界に身を置くという彼の、その力や姿を見る事は初
その時になって、カティはふと気付いた。
めてだ、と︱︱。
せいひつ
静謐な空気が引き裂かれ、無造作に散らされる葉が激しく踊った。
屈強な背格好と、筋肉が盛り上がる強靭な四肢を持つ、獣のよう
に荒々しい男たち。山賊という言葉に相応しい風貌を宿し、凶悪な
大鉈を振るった。
その姿は、何の力も持たない民間人が見たならば、立ち向かう気
力を失くし呆然とするばかりだろう。カティがそうであるように。
︱︱けれど。
何の躊躇いもなく正面へ飛び込み牙を剥いたナハトは、骨肉を断
ち割る凶刃にも、荒々しい男の気迫にも、一切怯んでいなかった。
むしろ、大柄な男二人を相手取りながら、押しているようにさえ
見えた。
攻撃を避ける素早い身のこなしは、風が踊るようにしなやか。け
れど、至近距離にある大鉈にも怯む事なく繰り出す猛攻は、その姿
には似合わないほど、何処か蛮勇じみて凶暴。
144
あれが、ナハトなのだろうか。大人びた一面と、茶目っ気のある
一面を併せ持つ、傭兵という職についている事が不思議なくらいに
柔和であざとく可愛い、イタチの青年なのだろうか。
カティは、恐怖というより困惑を抱いた。目の前で男たちに牙を
剥く口元がどう笑うかも、男たちを殴る手がどれほど温かくて優し
いかも、カティは知っているのだ。
ナハト︱︱。
呟いた彼の名は、口の中で消えてしまった。
﹁この⋮⋮ッちっせえイタチの、分際で!﹂
苛立ちを露にし、男が大鉈のような剣を振り下ろした。ナハトは
それを冷静に見据え、短剣で受け止めいなす。空を切っただけの剣
の上、小ぶりな短剣を滑らせて踏み込むと、ナハトと男の距離がな
くなった。
﹁︱︱そのちっさいイタチを止められないなら﹂
男の強面が、ハッとなって歪む。男の目の前には、獰猛な笑みを
浮かべた裂けた口と、獣の眼が広がっていた。
﹁アンタはただの木偶の坊だな﹂
跳躍すると同時に繰り出された飛び膝蹴りが、男の顎に炸裂する。
かち上げられた衝撃で男はしばしふらつくと、力を失い崩折れる。
使い手を失った剣は、ガランガランと音を立てて地面へ落下した。
その様子を見て、もう一人の男は背を向けた。
145
離れようとする背を、獰猛な光を宿した獣の眼が追いかける。倒
れ伏した巨体を飛び越え、茶褐色の影が一息に木の幹を駆け上がる。
三角跳びの要領で幹を蹴りつけると、男の頭上から強襲した。
﹁が⋮⋮ッ!!﹂
背中に衝撃が迸り、男はたまらず地面へ倒れ込む。
﹁⋮⋮ほら、たかがイタチなんでしょう? どうしたの、僕はまだ
息も切れてないのに﹂
踏みつける足の踵が、男の背にゆっくりと沈み込む。ギシギシと
骨が軋み、身体が悲鳴を上げる。声なく叫ぶ男の姿に、イタチは表
情を変えず、さらに加重し容赦なく嬲った。
もう少しで、その背骨を踏み砕く。イタチの瞳が残忍に瞬いた。
﹁︱︱ナハト!!﹂
カティは、ほとんど無意識に名を叫んだ。
攻め立てた獣が、ハッとなって振り返る。動きが止まった彼へ、
カティは身を乗り出し首を振る。
﹁ナハト⋮⋮﹂
男への同情ではない。自分が置いて行かれてしまいそうな、不安
からの行動だった。
離れていかないで欲しいと、カティの涙で滲む瞳が訴える。布切
れにされた服をたぐり寄せ身体を抱きしめる彼女の頼りなさに、ナ
ハトから急速に怒りが引いてゆく。歪んだ面持ちが、次第に平素の
146
ものへ戻っていった。
踏みつけていた男の背から、ナハトは静かに退く。男はすでに気
を失っているようで、地に伏したまま動かなかった。
喧噪が鎮まり、緊張を帯びた空気が凪ぐ。豊かな緑の風景に、場
違いとも言える穏やかさが舞い戻った。
冷え切ってしまった自らの身体を抱きしめ、カティは震える息を
漏らす。
サクリ、サクリ。
草を踏みしめ近付いてくる足音に、ハッとなって顔を上げる。カ
ティの目の前には、ナハトが佇んでいた。
﹁あ⋮⋮﹂
見下ろすイタチと視線がぶつかったけれど、カティは自分から逸
らした。
頭が上手く働かない、けれど、自分が愚かな事をしたとは分かっ
ている。心配してくれた彼の言葉を裏切って、このざまだ。言い訳
なんて出来ないだろうし、彼も怒って⋮⋮いや、呆れ果てている事
だろう。
不安、恐怖、情けなさ︱︱様々な感情が巡り、カティは何度も口
を開閉させてみたが結局黙り込むしかなかった。
﹁︱︱馬鹿﹂
唐突に降ってきたナハトの声は、抑揚が薄く淡々としていた。
そう、だよね。そう言われても、仕方ない。
ぎゅっと自らの身体を抱きしめ、カティは歪な笑みを浮かべる。
147
﹁う、うん⋮⋮本当⋮⋮そうだよね。ご、ごめんなさい﹂
﹁本当に、君は馬鹿だよ﹂
さらに言い募られた言葉に、カティは身を縮ませる。
﹁︱︱だけど、それ以上に馬鹿なのは、僕の方だ﹂
ナハトはそう言うと、おもむろに自らの上衣を脱ぎ始めた。留め
具を外し、左右に割って腕を引き抜く。現れた彼の上半身は、頭と
同様、茶褐色の毛皮を纏っている。カティはぼんやりと見上げ、ふ
と、ある所に目を止める。彼の上半身の側面には、模様が走ってい
た。躯体のラインに沿って伸びる、明褐色の帯状の模様が︱︱。
なんとなしに見つめているカティの前へ、ナハトが膝をつきしゃ
がむ。そして、脱いだばかりの上衣を肩へ羽織らせた。
﹁ごめん、怖かっただろ﹂
温かさにふわりと包まれ、カティはこみ上げるものを堪えた。首
をぶんぶんと横に振り、貴方が謝る必要なんて何処にもないと言お
うとしたが、上手く声にならなかった。
﹁さ、戻ろう。周りには他の奴は居ないし、大丈夫﹂
﹁あ、あの、男の人たちは⋮⋮?﹂
そっと視線を向ける先には、意識が戻らず昏倒している二人の男
が転がっている。
﹁しばらくは起きないだろうけど⋮⋮そうだな﹂
148
ナハトは頷くと、男の側に歩み寄りうずくまる。彼はしばらく、
ピクリともせずに転がる男に何か施し、それからカティのもとへ戻
る。去り際、わざと踏みつけるという足癖の悪さも見せて。
﹁とりあえずは、あれでいいよ。起きたら村じゃなくて潜伏先に戻
るだろうし。一応、あとで町の自警団にでも報告しとけばいい﹂
そう言いながらナハトはカティへ両腕を伸ばし、座り込んだ身体
を不意に抱え、立ち上がった。
目線の位置が急に高くなり、カティは驚いて目の前の毛皮にしが
みつく。何をしたのかと尋ねようとしていた言葉は、全て引っ込ん
でしまった。
﹁お、重いよ、ナハト⋮⋮﹂
﹁いいから、大人しくしてなよ﹂
静かな声で諭され、カティは口を閉ざす。
背中と膝裏に回っている彼の腕は、見た目の細さに反してとても
力強く、カティの重みなどものともしない。その足取りや身体の軸
も、ひと一人を抱えているにも関わらず、しっかりと安定し頼りな
さなんてない。
肉球のついた大きな手と、力強い獣の腕を視界の片隅に納めた後、
窺うように視線を上げる。ナハトはカティを見なかったが、その代
わり、毛むくじゃらの手に力を込めた。
カティは顔を下げ、一度だけ、小さくすんっと鼻を鳴らす。不安
を拭う彼の手に、カティの心には感謝と謝罪が溢れていた。
149
◆◇◆
村に戻ると、気遣わしげな面持ちを宿した住人たちに出迎えられ
た。先に戻った子どもたちから、すでに話は聞いているのだろう。
ナハトに抱えられるカティの格好にも視線が集まり、いっそう痛ま
しげに表情が歪む。
居心地の悪さを覚えながら、カティは必死に明るく振る舞い、何
事もなかったと笑った。それがただの強がりである事は、誰もが知
っているに違いない。それでもカティは、いっそ止めた方が良いだ
ろう歪な笑みを、強ばる頬に浮かべ続けた。
﹁ごめんなざいィィィ!!﹂
﹁ぶわァァァん!!﹂
涙と鼻水でとんでもない事になっている、泣きじゃくる子どもた
ちのためにも。
二人の傍らに並ぶそれぞれの両親が、同じように何度も頭を下げ
謝っている。きっと二人は、彼らに大目玉を食らった事だろう。カ
ティはナハトに言って下ろして貰うと、二人の前へしゃがみその頭
を撫でた。
﹁みんなに伝えてくれたんだね、ありがとう。偉いね﹂
カティの穏やかな声に、緊張が弾けたのか、さらに勢いを増して
二人は泣きじゃくった。﹁もうどこにもいがないィィィ﹂と叫ぶ姿
が、ちょっとだけおかしかった。
﹁本当に、本当にごめんよ。カティちゃん﹂
﹁いいの、おばさん。だからもう、怒らないであげて下さい。私は
150
大丈夫だから﹂
カティは立ち上がり、改めて村の周囲に賊が現れた事を伝えた。
住人たちの顔色がさっと強ばり青ざめるその様子を、カティは眺め
ていたけれど、ぐいっとナハトに腕を引かれその場を遠ざかる。
ああ、そうだ、いつまでもこんな格好をしていてはみっともない。
自宅へ戻るまで、カティは何処かぼんやりとしていた。
ナハトに先導され、辿り着いた自宅。
扉を開け、住居に踏み入れる︱︱その瞬間、ぐらりとカティの身
体が揺れた。すぐさまナハトの腕が伸びたので転倒は免れたが、足
に全く力が入らない事にカティは狼狽えた。
﹁あ⋮⋮やだ、わ、私ったら﹂
足下がふらつく。膝が震え、力が抜けてゆく。
先ほどまでは大丈夫だったに、何故急に。今になって、賊に襲わ
れた恐怖が押し寄せてきたのだろうか。
﹁︱︱邪魔するよ﹂
﹁え? あッ﹂
ナハトは再びカティを抱えると、住居の中を進み、リビングの椅
子へ下ろした。
﹁コップは? あと、水瓶﹂
﹁あ、そこの棚に⋮⋮水瓶は、厨房の隅に﹂
ナハトはスタスタと移動し、コップを取り出して水を注ぐ。それ
151
を片手にカティの側へ戻ると、目の前に差し出した。少しの困惑を
覚えたが、カティは両手を伸ばしコップを受け取る。冷たい水を口
に含んでこくりと飲み下すと、少し気分が落ち着いた。
﹁あ、ありがとう、ナハト﹂
カティは微笑んだが、ナハトは何も言わずにコップを取り上げ、
机へ置く。彼は椅子には座らず、机に寄りかかって視線を下げた。
﹁⋮⋮どうして、あんなところに行ったの﹂
抑揚の欠けた声で尋ねられ、カティは一瞬まごついた。
﹁あ、あの⋮⋮村の、子どもたちを、追いかけて﹂
﹁それは何となく分かる。そうじゃなくて、君はどうして外に出た
の﹂
今がどんな状況なのか分かっているはずだと、言外でナハトは言
っていた。
﹁連れ戻すため? 何かあったら大変だから? ︱︱それでそんな
目に遭ったんだろう、いい加減、お人好しが過ぎる﹂
ナハトは険しさを露わにし、カティの身体を見下ろした。羽織っ
た上衣の下にある惨状を、彼の目が示唆していた。カティはぎゅっ
と服を寄せ合わせ、押し黙った。
﹁⋮⋮君の美点だろうけど、どうしてそこまでする。僕には分から
ないよ﹂
152
ナハトの指がおもむろにカティの頬へ伸びる。指の腹で何かを拭
う動作につられ、カティも自らの頬に触れる。ザラザラとした感触
がし、指先を見下ろせばそこには土が付着していた。倒れた時に地
面へ擦り付けてしまったのだろう。
﹁ご、ごめんね、本当⋮⋮迷惑掛けて、み、みっともないよね﹂
カティが小さく笑うと、ナハトの瞳がぴくりと動いた。
﹁そうしちゃう、性格なのかな⋮⋮で、でも、私は、大丈夫だから
︱︱﹂
そう口にした瞬間。
机に寄りかかっていたナハトが、不意に動いた。
椅子に腰掛けるカティへ、イタチの獣人が床を踏みつけ近付く。
覆い被さるように佇んだ彼は、カティに影を落としながら睥睨した。
突然の事に、カティは声も出せず驚く。視界の片隅で、しなやか
な尾が翻る。
﹁⋮⋮大丈夫だから?﹂
影を帯びたイタチの顔に、感情が溢れる。怒りなのか呆れなのか、
定かでない。しかし、射抜くような鋭さが、そこにあった。
﹁何をもって、大丈夫なの?﹂
ナハトの手が、カティの手首を掴む。大きくて、肉球があって、
鋭い爪も持つ、獣の手。強い力で引き寄せられ、カティは椅子から
僅かに腰を浮かせた格好になる。
153
﹁ナハト⋮⋮﹂
﹁まだこんなに震えてるくせに、大丈夫だって? 今にも泣きそう
な顔をしてるのに、無理をしてまで僕の前で笑うな﹂
何処か苛々とした様子で、イタチは憤りを露わにする。カティは
困惑に暮れ、声を喘がせる。こんな風に彼が剥き出しの感情を見せ
たのは、この数日間、初めての事だった。
﹁⋮⋮君と僕は、ほんの少しだけ似てる﹂
一人で生きて、一人でどうにかしてゆき、そしてこれからも一人
で何でも出来る︱︱そう思っているところだ。
真っ直ぐと見つめられたカテイは、無意識のうちに視線を泳がせ
た。
﹁わ、私、は⋮⋮﹂
﹁︱︱あの山賊は、また来るよ﹂
ひっそりと呟かれた言葉に、カティは肩を揺らす。
﹁あんなに人里に近付いていたって事は、略奪の下見だろうな。近
いうちに、都市部や街道でしてきた事を、この村でやる﹂
必ず、とナハトは重く付け加えた。
治まりかけていたはずの恐怖が再びこみ上げ、震えとなってカテ
ィの全身を包む。
地面にその身体を縫いつけ、下卑た笑みをこぼし見下ろした、粗
野な風貌の男たち。あれが、この村へやって来る。
カティはか細い呼吸を繰り返し、どうしようもない恐ろしさを抱
154
いた。
﹁まして、攻め込むには簡単すぎる村だ。障害物がなくて見晴らし
もいい。夜中にやって来たら、どれほどの人が朝陽を拝めるかなあ﹂
︱︱どうして、ナハトはそんな事を言うのだろう。
近いうちに略奪が行われる事を告げられ、平常心で居られるひと
なんていない。
これから起きるだろう惨劇をほのめかし、それをどうするつもり
なのだと突きつけ、彼は一体何を言いたいのだろう。どうしようも
ない事を認めさせ、私が馬鹿だと責めたいのか。
﹁わ、私⋮⋮ッ﹂
声まで震えてきて、カティはぎゅうっと身を縮めて顔を伏せる。
結局、自分は震えるしかない村娘なのだ。どれだけ、奮い立たせ
ても︱︱。
︱︱その時、握られた手首が、ぐっと力強く引き寄せられた。
﹁⋮⋮どうして、僕に頼らないの﹂
カティは、ハッとなって顔を上げた。激しい感情に満ちていたイ
タチの顔や声は、打って変わり、静けさを湛えていた。
155
﹁僕に頼ればいい。縋ればいいだろう。どうして、僕を見ない?﹂
﹁だ、だって⋮⋮﹂
﹁僕は君にとって、そんなに頼りない存在か。信用ならない、いず
れは消える存在か﹂
そんな事はないと、カティは大きな声で反論した。頼りないなど、
それだけは決して思っていない。
けれど、手を伸ばしても、引っ込めてしまうのは。
﹁ナハトは、傭兵が嫌で⋮⋮この辺りに、旅行に来て⋮⋮﹂
断片的な言葉をカティが小さく漏らせば、ナハトは呆けるような
面持ちを一瞬浮かべ、溜め息をこぼした。
﹁僕は確かに逃げてきたけどね、それは傭兵稼業が嫌になったから
じゃない。僕の人となりではなく名前や噂だけを聞いて詰め寄って
くる人たちから、遠ざかりたかっただけなんだよ﹂
ふと、ナハトの黒い瞳が、カティをじっと見つめた。
﹁⋮⋮自分でも、不思議なんだけどね﹂
彼の指が握りしめる力を緩め、撫でるようにそっと指の位置を変
えた。
﹁君だけは、僕に遠慮なんてしないで欲しいと、ここのところ思っ
てる。そういうの、好きな方じゃなかったはずなんだけど﹂
﹁ナハト⋮⋮﹂
﹁僕と君は、最初から口約束だけでしか繋がっていない。寝泊まり
する場所を貸した主と、それを借りた旅人。それ以上でもそれ以下
156
でもない関係。それで、最初は良かったはずだったんだけど﹂
ナハトは、ふっと自嘲するように呼気を漏らす。
﹁︱︱何だか、駄目だ﹂
慣れていたはずの口約束だけの関係が、今は酷く煩わしく感じる。
いやむしろ、邪魔とすら思える。
そんなものではない、もっと別の、上っ面ではないものが心底欲
しい。
何処か急いたように吐露するイタチの言葉に、カティは心臓を跳
ねさせる。それはまるで、ここ最近、彼にだけは決して見せないよ
期待
と共に熱がじわじわ
う隠していた、カティの本心によく似ていたのだ。あるいは、その
ものだろうか。
いや、でも、そんなはずは。
跳ねる心臓から、抱いてはならない
と広がる。カティは声を震わせ、何度も口を開閉させる。
﹁⋮⋮だから、その約束は、捨てさせてもらうよ﹂
そして、その代わりに。
﹁ただの人間の君へ、ただの獣人として願う﹂
どうか、僕を頼って欲しい。
いつ来るとも分からない騎士団や、別の傭兵などではなく、今こ
うして目と鼻の先にいる僕を。
吐露されたイタチの声は、急いた熱を帯び、懇願も滲ませた。
157
﹁⋮⋮僕はこれまで、生きるためだけに自分勝手にやってきた。傭
兵の仕事はあくまで生きる手段、だから誰かに必要以上こき使われ
る事も、飼い慣らされる事も、死んでもごめんだった。だけど、君
になら﹂
﹁ナ、ナハト⋮⋮﹂
﹁僕を頼れよ、カティ。僕だけを﹂
微かな目眩が過ぎる。目の前のしなやかな獣に、どうしようもな
いほど感情が募る。
﹁で、でも、どうやって⋮⋮﹂
ずっと一人でやってきて、これからもそうだと思っていた。誰か
に頼る方法など、カティは持っていない。
﹁た、頼り方なんて、私、知らな⋮⋮﹂
頼ってくれと言ってくれる彼に捧げる言葉が何なのか、カティに
は本当に分からなかった。
すると、ナハトの双眸が笑みを湛えた。これまで見てきたもので
はない。凶暴性をも匂わす、危険なほどの甘やかさを滲ませる笑み
だった。
﹁︱︱さっきみたいに、言えばいいよ﹂
男たちに捕まり、咄嗟に名を叫んだように。
ただ一言、口にすればいい。
158
﹁僕だったら、君も、村も、助けてあげられる。誇張でもなんでも
なく、本当に﹂
さあ、どうする︱︱。
ナハトの瞳が、目の前で力強く瞬いた。
しばらく押し黙り、堪えていたカティだったが、それ以上は耐え
きれなかった。
無理に笑みを浮かべ強がってきた面持ちが剥がれ、少女のように
くしゃりと歪み、肩が小刻みに震え出す。
﹁⋮⋮ナハト﹂
震える唇からこぼれる声と共に、カティの眦からぽろりと雫が伝
う。
﹁助けて︱︱﹂
それは間違いなく、歪な笑みで隠していた、カティの本心だった。
その瞬間、ナハトは婉然と微笑み、カティの手首を強く引き寄せ
た。
あっと思った時には、カティの顔とナハトの顔は距離を失い︱︱
音もなく、折り重なっていた。
一瞬の沈黙が、二人だけの空間を覆った。
折り重なっていた影が、ゆっくりと離れる。
唇を覆う、柔らかな毛皮と、牙の感触。そして、ぺろりと舐めた、
薄い舌︱︱。
159
涙を湛える目を見開き、呆然と見上げるカティの視界には、イタ
チの顔だけが広がっていた。
酷く危険な風にさえ見える、甘やかで熱を帯びた、獣の笑み。
イタチという獣そのものの頭部なのに、それがありありと読み取
れて、カティはぞくりと震える。むしろ人間ではないから、余計に
そう思うのかもしれない。
ナハトの両手がふわりと伸び、濡れた頬を包み込む。優しく、け
れど余所見を許さぬ強さで、カティを引き寄せる。
﹁︱︱助けてあげるよ、カティ﹂
再び距離を詰めるイタチが、甘く囁く。
﹁君が望むなら、いくらでも﹂
微笑んだ獣は、カティの頬を伝い落ちる雫を舐め取った。
160
10︵後書き︶
しっかり者になろうとし続けたカティの弱さや、上から目線でしか
語れないナハトの不器用さが、出てたら嬉しい回でもありました。
告白めいた甘いシーンを入れたはずだったのですが、何故か危険な
香りが漂っています。
甘いシーンとは⋮⋮
次話、がつっと戦闘描写予定です。また長文になる予感。
161
11︵前書き︶
2016.09.12 更新:1/2
お待たせしました。
別ベクトルで頭が禿げそうになりましたが、お飾りだった︻戦闘描
写︼が出てきます。
生粋のアクション好き、残酷好きな方には物足りないかもしれませ
んが、よろしくお願いします。
162
11
空が、赤く暮れる。
夜の訪れを感じさせる静かな風が、ふわりと吹く。
綺麗な、夕焼け。今晩はきっと、素敵な月夜になるんだろうな︱
︱。
幼少期から飽きるほどに見てきたはずの夕暮れは、今、かつてな
いほどカティの胸をざわつかせる。
今晩は、村にとっても、自分にとっても、運命の一夜になる。そ
れを知っているようだ、とはさすがに考えすぎだろうが、それほど
に今日の静けさは別格だった。
︵ナハト⋮⋮︶
この場所にいない茶褐色のイタチの青年が、カティの脳裏に浮か
び上がる。彼は今、何処まで進んでいるのだろう︱︱。
︱︱夕暮れを迎える刻限の、少し前の事。
ナハトは村人や村長などへ賊が近いうちに︱︱いや下手したら今
夜にでも︱︱略奪にやって来る事を躊躇いもなく伝えた。そして同
時に、一つだけ彼らへ頼み事をした。
163
﹁何もせず、静かに待っていて欲しい﹂
略奪の標的にされたこの場所で、何もせずそのまま過ごして欲し
いと、彼は言ったのだ。
当然ながら誰もが目を剥き、何もせず死ねと言うのか、と声を荒
げた。しかし、ナハトはそれに怯む事はなく。
﹁下手に動かれて山賊に警戒されたら、余計に面倒になるから﹂
落ち着き払った声と眼光で、人々の動揺を半ば強引に鎮めた。い
や、射抜いた、と言うべきか。
ナハトがこれから何をしようとしているのか、誰もが理解した。
旅行者として信頼しても、命を預ける相手としてすぐに信頼したか
と問われれば、正直なところ、否だったのだろう。けれど、怖じ気
づく様子が微塵もない彼に、微かな期待を抱いたのも事実で。
賊のもとへ向かおうとするナハトを、誰も止める事はなかった。
その姿を見て複雑な心境だったのは、カティである。助けてくれ
なんて安易に口にしてしまったのではないかと、今更ながら後悔に
似た感情を抱いた。
⋮⋮そんな心を、ナハトは見抜いていたのだろうか。
﹁心配なんかしないで、待っていればいいよ。これはどちらかと言
うと、僕が望んだ事だから﹂
これから賊のもとへ向かおうとしているだなんて思えないほど、
朗らかに笑った。
164
﹁それに、ちょっとした用事もあるしね﹂
﹁用事⋮⋮?﹂
﹁個人的な、ね。だから君は、ここに居ればいいよ。何も心配はい
らないから﹂
伸ばされた薄い舌が、涙痕の残る目尻を舐める。からかうように、
悪戯っぽく。
﹁じゃ、行ってくるね﹂
そうしてナハトは、尾を揺らし行ってしまった。これから賊のも
とへ向かうには、およそ不釣り合いな軽い足取りで︱︱。
初めて会った時から、そうだった。あのしなやかなイタチの外見
に反し、彼は妙に肝が据わった部分を持っている。カティの不安な
ど余所に、存外、怖くも何とも思っていないのかもしれない。
その強さが、少しだけ羨ましく感じた。
しかし同時に︱︱とてつもなく、心配でもあった。
屈強な賊を返り討ちにする力を彼は確かに持っているが、それは
何処か⋮⋮蛮勇じみた危うさがあるのだ。それが彼のやり方なのか、
イタチという種の獣性なのか、はたまた獣人という種族特有のもの
なのかは分からないけれど。
そんな風に考えて、ふと、カティは思う。
︵⋮⋮私、ナハトの事、全然知らないや︶
165
彼自身の事だけでなく、ナハトがわざわざ危険に飛び込もうと決
めた理由も、唇に牙を重ねた理由も、結局、時間がなくて訊けずじ
まいだった。
︱︱助けてあげるよ
︱︱君が望むなら、いくらでも
唇に残り続ける牙と毛皮の感触に、カティはどうしようもなく燻
られる。
握り合わせた両手を持ち上げ、額に押しつけて強く祈った。ナハ
トが無事に、早く戻ってくるように、と。
しかしカティの祈りとは裏腹に、頭上に広がる空はまた少し不安
な夜へ近付いていた。
◆◇◆
刻々と近付いていた夜の気配は、今や世界を覆い、包み込んでい
た。
空にあった朱色はすでに無く、しんと静まり返った辺りは色濃い
暗闇が満ちている。唯一の光は、白い月明かりのみだ。
そこに広がるだけで警戒する暗闇、五感の全てを研ぎ澄ます緊張
︱︱これまでと何も変わらない状況のはずなのに、懐かしく感じる
のは、旅行と銘打った非日常が続いたせいか。
166
ただ、以前とは明らかに違う点が、一つある。
︵利害一致や損得勘定なく、自分の意志だけでやろうなんてねえ。
絆されちゃったみたいだなあ︶
自らの事なのに少しおかしくて、つい含み笑いをこぼした。しか
もそれが嫌な気分ではないのだから、余計に笑ってしまう。
﹁︱︱さて、と﹂
獲
すん、と嗅いだ空気は深まった夜の匂いがし、涼しく鼻腔へ広が
の匂いがあった。
る。そしてその中には、微かに、けれどはっきりと存在を示す
物
ナハトは浮かべた笑みをスッと引き、その場から立ち上がる。
樹木の枝に座り込んでいたため、茂みで塞がれがちだった視界が
広がった。昇り始めた月が白く輝き、周囲は薄ぼんやりと照らし出
されている。今晩は、良い月夜になりそうだ。
つまりは︱︱自分にとって、最もやりやすい環境だと言える。
﹁⋮⋮やるとしますかね﹂
村の人々には、余計な行動をしないよう釘を差した。
隣町の自警団からは、賊の出現の報告がてら、明日の朝方、ある
いは日中に騎士団が到着する事を聞いた。
そして、町の傭兵たちは、警護に当たるがまだ直接動く事はない。
横やりを入れられる事なく、自分が満足に力を発揮して動けるの
は︱︱今晩しかない。
音もなく飛び降りたイタチは、暗闇にあってもはっきりと分かる、
167
獰猛な眼光を放った。
◆◇◆
人里から離れた自然の奥地には、打ち捨てられた村の跡地があっ
た。
それなりに立派な村だったのだろうが、今は田畑や朽ちた家屋に
緑が生い茂り、生活の足跡を隠すように純白の野花が咲いている。
跡地の大部分は、既に自然界の一部となっていた。
しかしその中には、半壊しながらも屋根を支え続ける家屋もある。
ひとが生活出来る外見ではないが︱︱仮宿としては申し分ない。
忘れ去られた村跡には、今、古い角灯の明かりが灯っている。こ
の地に流れて来た、招かざる来訪者たちを照らし出した︱︱。
静謐な月夜を破る、複数の粗暴な笑い声が響く。
﹁ったく、ここの連中は骨がねえや。挑もうっていう気骨ある奴が
いやしねえ﹂
﹁まったくだ、町も村もなまっちょろい。いつでも襲って下さいっ
て言ってるようなもんだ﹂
寄せ集めた角灯を中心に囲み、男たちがかぶりつく食べ物。その
ほとんどは、此処に来るまでに街道などで商隊から強奪してきたも
ので、中にはこの一帯に生息する獣たちの肉もあった。
﹁これならすぐに近くの村を奪えるだろうし、人質だって簡単に手
168
に入るだろうな﹂
﹁違いないな!﹂
﹁︱︱まあ、慌てるんじゃねえよ﹂
重厚な低い声が、男たちを宥めた。
彼らの視線は等しく一際体格の良い大柄な男へ向けられる。
刃物による傷跡が斜めに走る、無骨な強面。大柄な体格に見合う、
どっしりと重い気迫。屈強な身体には、薄汚れてはいるが白く分厚
い毛皮のマントが掛けられ、いっそうその存在感が増している。
その男は、少数だが一団を率いてきた、招かざる来訪者︱︱山賊
の頭領だった。
﹁血気盛んなのは構わねえがな、まずは確実に備えねえとな。なに、
人質も資源も周りに山ほどあるんだ、慌てる必要はねえ﹂
残忍な笑みを浮かべた強面が、明かりに照らされる。獣に勝ると
も劣らない獰猛な空気が、その屈強な全身から放たれる。
部下である男たちもまた同様に笑うと、力強く頷く。頭領は焼い
た獣の肉に食いつき、上機嫌に鼻を鳴らした。
討伐の手を逃れ、都市部から流れ流れて辿り着いたこの地は、あ
まりにも長閑で容易く手中に納められそうな場所だった。
小さな町村には、脆弱そうな住民ばかりが暮らし、襲撃するのに
も実に簡単な外観。おまけに周囲は実りも豊かで、再び根城を築く
には最適な環境だ。
一晩もあれば、村一つどころか、町すら制圧出来るだろう。
それを思うと、頭領の矜持へ付けられた傷は薄れ、自尊心が膨れ
169
ていった。
︱︱数週間前の事。
都市部の山間に根城を築き、周辺の闇を牛耳るほどに膨れ上がっ
た山賊の一味を、国はいよいよ看過しておく事が出来なくなり、騎
士団と傭兵から成る討伐隊を編成した。
戦いは拮抗し、真夜中にまで及んだ。頭領は、部下が食い止めて
いる間に戦線を離脱。一部の部下を引き連れ、街道を行く商隊の物
資を奪いながら各地を流れてきた。
何十、何百もの部下を抱え、周辺を牛耳る力を持っていた男にと
って、それは耐え難い屈辱だった。
再び拠点を築き、巨大な根城を作り上げ、名を轟かせた一味を再
興する︱︱その執念を糧にし、頭領は追っ手を振り払ってきた。
しかし、そんな日々はすぐに終わりを迎えるだろう。
今はそういう季節なのか、明らかにこの田舎には不釣り合いな野
生の生き物たちが数多くうろついている。最初は戸惑ったが、それ
らの毛皮や牙を取り、あるいは肉を調達して備える作業は笑えるほ
どに捗った。
さらに、周辺にあるのは、何の力もない町村ばかり。略奪し、制
圧する事など簡単だった。傭兵らしいものが多くいたが、都市部に
いる百戦錬磨の者たちと比べたら赤ん坊のようなもので、恐ろしさ
の欠片も抱かない。
まるで再興するために天が味方してくれたような、この容易い環
境。
170
溜飲が下がるような心地よさを覚え、頭領はここのところ上機嫌
だった。
︱︱ただ一つ、懸念があるとすれば。
﹁⋮⋮おう、お前ら﹂
おもむろに向けた視線の先には、二人の男がいる。都市部の戦い
で作ったものではない、真新しい傷を負った彼らは、何処かバツが
悪そうにしながらも顔を上げる。
﹁若い獣人の小僧にやられたってのは気に入らねえが、次からはヘ
マするんじゃねえ。いいな﹂
﹁へ、へい、もちろんです﹂
強く頷く男たちを見ながら、頭領は髭の伸びた顎をさする。
軟弱な部下は居ないと自負しているので、不意を付かれてしまっ
ただけだろう。単なる小僧のはったりだとは思うが、引っかかるも
のはあった。
しかし、頭領は自らの腕には自信があった。かつて自ら倒しては
ぎ取った、とある生き物の毛皮のマントを撫でれば、その気分はた
ちどころに良くなるのだ。
毛皮の正体
に気付いて無様に震えるに違い
その獣人の小僧が何かは知らないが、相手は結局、獣。これまで
の獣や獣人と同様、
ない。
無骨な手で撫でつけるその白い毛皮も、頭領の矜持の一つであっ
た。
171
﹁準備しておけよ、お前ら。近々、下見に行かせたあの村を襲うか
らな﹂
貧相な村だが、奪えるものは全て奪え。金も、住処も、食い物も
︱︱女も。
男たちの面持ちに、賊が賊と呼ばれるだけの、浅ましい笑みが浮
かび上がる。何度味わっても、その瞬間の昂揚は、何にも代え難い
ものだった。
追いかけてくるだろう騎士団を除き、自分たちと戦おうとする者
獣
が潜んでいる事を、まったく気付かなか
はこの地に居ない︱︱そう思い油断しきっていた山賊たちだからだ
ろう。
すぐ側に牙を剥く
った。
夜通しの見回りに当たる数名を除いて、山賊たちは眠り始める。
寄せ集めた角灯の周りに、四人が座る。そのうちの一人が、村跡
の周囲を巡回し、ひとしきり見たら別のものに交代する。
そうやって一晩を過ごす順行が、数回、問題なく繰り返された真
夜中︱︱音もなく静かに崩されていった。
何度目かの巡回の番になった男が、欠伸を噛み殺しながら明かり
の側を離れる。次に交代する男はそれを見送り居住まいを正したが、
しかしおかしな事にいつまで経っても戻って来ない。もしや居眠り
172
でもしているのか、などと軽口を叩き仕方なく探しに向かったが、
その男までも戻らなくなってしまった。
さすがに、これは様子がおかしい。残りの二人も武器を握りしめ、
警戒を露わに動き出した。
しかし、その時にはもう遅かった。
村跡の外れから聞こえる、か細い声。夜鳴きの音とは明らかに異
なる、痛苦に満ちたその声を辿り、男たちは慎重に足を進める。そ
してその先で、彼らは仲間の姿を見つけた。
地に倒れ伏し、苦悶の声を上げるばかりの、哀れな姿を。
ザア、と押し寄せる悪寒に、息を吸い込む。しかし、それを声と
して吐き出す間もなく︱︱突如、黒い腕が伸びた。
風が通り過ぎるような素早さで、黒い影が全身に巻き付く。振り
払う間もなく、捕らえられた男の全身は軋み、そして︱︱。
﹁あんたが最後の見張り、かな﹂
壮絶な叫びを上げ崩折れた仲間を踏みつけ、細く黒い影が嗤う。
暗闇に浮かび上がった眼光に、最後の獲物と定められた男は、角
灯をガシャリと落とした。
︱︱あァァァァアアア⋮⋮!!
静かな月夜を引き裂く絶叫が、辺り一帯に響き渡る。
眠っていた山賊たちは勢いよく飛び起き、側にあった得物をそれ
173
ぞれ掴んだ。それは頭領も同じで、大きな身体を起こすと、毛皮の
マントを翻し半壊する家屋から飛び出した。
悲鳴は、すぐに止んだ。再び静寂が覆ったが、残された余韻は肌
を不気味に撫ぜる。
︱︱サク、サク
︱︱ズルリ、ズルイ
足音が、遠くから聞こえる。何かを引きずるような音も、それに
重なっている。
近付いてくる気配に、誰もが武器を握る手に自然と力を込めた。
﹁⋮⋮お頭﹂
﹁慌てんじゃねえよ、馬鹿が﹂
頭領は低い声で一喝し、前方をねめつける。明かりを放つ角灯の
向こう、歩み寄る人影は次第に大きくなっていた。
たった一人で、この首を取りにきた奴がいたか。こんな田舎に、
そんな気概のある奴がいるとは。
頭領は表情を厳めしく歪め、一体どのような輩かと視線を外さな
かった。
しかし、その表情はすぐに崩される事になる。
﹁︱︱こんばんは、お邪魔します﹂
174
仲間の脚を持ち、引きずってやって来たのは︱︱屈強さの欠片も
見当たらない、しなやかな細身の獣人だった。
◆◇◆
︱︱おうおう、驚いてる驚いてる。
屈強な男たちが、揃いも揃って茫然としている。そういった表情
を向けられるのは珍しくないから、特に気にはしなかったが⋮⋮こ
こまでぞろりと並ぶと笑いがこみ上げてくる。
・・
そうだな、彼らの前にいるのはいかにも無害そうな、しかも細身
のイタチだ。これが出てくるとは、さすがに思っていなかったのだ
ろう。
ナハトはそのまま周囲を照らす角灯の側へ歩むと、片手に引きず
っていたものをポイッと放り投げる。
見回りを担っていた四名のうちの、最後の一人だ。
﹁ひッあぐ、うゥ⋮⋮ッ!﹂
仲間の山賊たちから、微かに息を詰める音が聞こえた。
外見こそ目立った外傷はないが、泡を吹き痙攣する様は、痛々し
いの一言に尽きる。自分でしておきながら、さぞや辛いだろうなと
ナハトは他人事のように思う。
﹁てめ⋮⋮ッ何しやがった!﹂
食って掛かる賊へ、ナハトは流暢に応じた。
175
﹁動かれちゃかなわないから、腕と脚をちょこっと折らせてもらっ
た﹂
﹁な⋮⋮ッ﹂
﹁骨で済んで良かったでしょ、命は取ってないんだから﹂
僕にしてはかなり譲渡した方なんだが、と肩を竦めてみたけれど、
山賊たちの空気は激しくいきり立った。
ピリピリと五感を焼く、明確な敵意。その感覚は、少し懐かしく
て、そして心地よくもあった。
﹁⋮⋮俺たちが何なのか、知っている上でやったのか﹂
﹁話だけはね。都市部で有名な大きな山賊の一団、でしょう?﹂
この地域にやって来てから、初めて存在を知ったわけではない。
風の噂で、これまで幾度か耳にしてきた。ただ興味はなかったから、
それほど気にしてこなかっただけだ。
﹁︱︱大した度胸だな﹂
得物に手を掛ける十数名ほどの賊の向こうに、ひときわ重厚な存
在感を放つ大柄な男が居た。考えるまでもなく、それが残党を率い
る頭領なのだろうが⋮⋮。
︵⋮⋮? 何だ、この匂い︶
頭領が羽織る白い毛皮のマントに、ナハトの意識が向かう。何処
かで嗅いだ事のある獣の匂いが、風に乗って届けられる。
﹁そういうてめえは、何処のもんだ。まさかとは思うが、町にいる
176
傭兵か何かか?﹂
﹁僕? 僕は、村でちょっとお世話になってる旅行者だよ﹂
世話になっている旅行者。
その言葉を聞き、山賊たちは一瞬呆けたが、その直後どっと大声
で笑った。
﹁なるほど、ちょっと名を上げたくて無茶した、若造って事か!﹂
﹁こりゃあ傑作だ、可愛いイタチのくせに、大した度胸だぜ!﹂
嘲りに満ちた言葉も、ナハトには大して響かなかった。それもこ
れまで幾度となく浴びせられてきたものだった。
仲間の惨事を見ていながら、侮って余裕を浮かべる山賊たちを、
その間静かに観察する。
数は、十人と少し。他の見回りはいなかったから、ここにいる連
中で全部ってわけだ。
﹁旅行者とは驚きだ。ところで、ここに正面から乗り込んで、どう
するつもりだったんだ﹂
たった一人でどうこう出来るのかと、言外で嗤っていた。
ゆるりと構えていたナハトは、その瞬間に、すっと表情を変えた。
﹁⋮⋮やる事なんて、一つしかないさ﹂
纏う空気が変わる。細められた獣の瞳に、冷徹な光が宿る。
﹁助けてくれと言われたからね。あの子の願いを、まずは叶えてあ
げないと﹂
177
﹁へッ⋮⋮正義の味方の、つもりかよ!﹂
視界の片隅で、賊の一人が剣を抜き払う。ナハトはそれを冷静に
見やり、静かに身体の向きを直した。
勢いよく踏み込んだ男とナハトの体格差は、比べるまでもなく歴
然。誰もが油断し、侮っていた。
﹁お、お頭、あいつです!﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁俺たちがやりあった、昼間のイタチの獣人は、あいつです︱︱!﹂
︱︱次の瞬間までは。
ナハトは自らの身体を半歩ずらし、至近距離で剣をかわす。呆気
なく空を切った切っ先に、男の表情が崩れた。ナハトはすかさず無
防備な腕を絡め取ると、ギリッときつく捻り︱︱容赦なく、硬い地
面へ叩きつけた。
身体ごと落とされ強打する音の中に、何かを砕く異音が混じる。
途端に上がった男の悲鳴を、ナハトは無感情に見下ろす。
﹁︱︱正義の味方。そんなつもりはないけど﹂
あの
叩き折った腕をさらに捻り、泡を吹く男を踏みつけ立ち上がる。
﹁でも、今くらいは、そうなるのも悪くないかな﹂
これほど自分に不釣り合いな言葉はないだろうが、それで
178
子
に寄り添えるなら。
そう思うと、不思議とナハトの心臓が震えた。思わず笑みをこぼ
してしまうほどの、甘い昂揚感。こんな感覚は自分にもまだあった
のかと、ナハトは無意識に表情を深める。
﹁さて、こっちにも用事があるんだ。だから︱︱﹂
細身の身体から、殺気が溢れ出す。牙を見せつけ笑う獣人は、大
型の獣たちにも劣らぬ、獰猛な本性を露わにした。
﹁周りは、黙っててもらうよ﹂
ナハトは踏みつけた男を飛び越え、辺りを目映く照らす角灯を蹴
り飛ばす。古びたそれは壊れ、火種は燃え移る事なく硝子の破片と
共に散った。
光が失われ、瞬く間に押し寄せる暗闇。
夜空には見事な月が昇り、そう長く掛からず目は慣れるだろう。
けれど、何も出来ない無防備な時間が僅かでもあれば︱︱それで
十分だった。
人間は夜目が利かない生き物だが、イタチという種は夜行性だ。
ナハトは身を低くし、躊躇なく、敵の懐へ飛び込んだ。
179
11︵後書き︶
獅子や虎は、王者。
犬や狼は、兵士。
だと思う。
そんな風に各動物たちを呼ぶのであれば、個人的にイタチは
ザ
ヤク
そしてそろそろ、ナハトの持つもう半分の動物の名も明らかに。
180
12︵前書き︶
2016.09.12 更新:2/2
2016.09.12 ちょこちょこと修正
︻戦闘描写︼︻ヤンデレ風味︼を書いておいてなんですが、作者は
平和をこよなく愛しています。
181
12
気が昂り、血が沸騰する。
目の前の獲物の事しか、考えられなくなる。
振り下ろされる爪も牙も構わず、息の根を止めるまで喰らいつき
たくなる。
血
の本能だと理解している。
そうやって、生まれ育った白銀の厳しい地を生き抜き、天敵の猛
者と争ってきた。
それは身の内に流れる、抗い難い
それをおかしなものと考えた事はなかったが、その根付いたやり方
が多くのものに恐怖を与えるのだと知ったのは、北の地を離れてか
らだった。
獣人という種族の持つ、生涯決して切り離せない、獣の本性。
何をもって、獰猛なのか。何をもって、恐ろしいのか。何が、一
体悪かったのか。
北の地を離れてからずっと、生きるための術を否定されたような
思いは、わだかまりとなって残り続けた。
けれど。
︱︱ナハト
︱︱助けて
182
あの時、全て忘れて望んだ自分がいた。あまりにも単純すぎて、
笑えてくる。
角灯の明かりが全て消え、暗闇が押し寄せる。
誰かの叫びを皮切りにし、次々と低い大音声が上がり、美しい月
夜を引き裂いた。
前触れもなく視界を奪われ、立て続けに仲間の悲鳴が上がれば、
いとも容易く混乱の極地に至る。構わず剣を抜き払い、隣の仲間の
腕を切り裂く姿もあった。
滑稽の一言に尽きる。暗闇の中でもがき、溺れているよう。
夜間の活動などに慣れているとしても、あくまでそれは人間の目。
よほどの訓練を積んでいなければ、光を奪われた直後に動く事はま
ず不可能である。
都市部で名を轟かせた山賊の一味というが⋮⋮自分たちが不意打
ちと強襲を受けるのは、どうもお気に召さないらしい。
獣の感性が非常に強く、また夜行性の種である獣人のナハトにと
っては、苦になる環境の変化ではない。すぐに目は切り替わり、彼
らの引きつる表情を鮮明に捉える。
ナハトは角灯の明かりが飛散すると同時に、賊の懐へ飛び込んだ。
無防備な身体を崩し、喉を潰す。もがいた腕は雁字搦めに捻り、頭
から地面へ叩き落とす。骨の折れる感触を手のひらで確認しながら、
決して止まる事はない。振り回される剣は弾き落とし、突っ込んで
くるものは受け流して放り投げる。
恐れは、僅か一片もなかった。
183
体格に勝るもの、力に勝るものと争って生存してきた経験と、一
族の矜持が、ナハトのしなやかな躯体に闘争心をもたらす。
︵まあ、この外見だから、こいつらも油断してたんだろうなあ︶
ナハトは冷静に見据え、淡い暗闇を舞う。
あれほど喧噪に包まれた村跡は、瞬く間に、しんとした静けさを
取り戻した。
そこに佇んでいたのは、ナハトと、山賊の頭領だけであった。
﹁︱︱こいつはたまげたな﹂
深い髭の向こうでこぼした声は、純粋に驚いた様子だった。だが、
かといって恐怖したわけではない。分厚く屈強な肉体には、褪せぬ
戦意が浮かんでいる。
﹁ちっさい小僧かと思ったが、いや、大したもんだ﹂
さすがは獣人だと、頭領の男は笑った。月明かりに慣れたその粗
暴な瞳は、ナハトを真っ直ぐと見下ろす。その眼差しに怯む事はな
かったけれど、気になるのは、あの匂い。
頭領が動くたびに漂う︱︱マントの匂い。
白い分厚い毛皮から放たれる匂いに、ナハトの背はざわざわと落
ち着かなくなる。
何処かで嗅いだ、強烈な匂い。不愉快で、だけど無視できない、
その匂いは果たして何だったか。
黒い瞳を細め、ナハトは自らの鼻の下をぐっと擦る。
﹁⋮⋮そのマントは、特別製かい?﹂
184
﹁これか⋮⋮まあな。昔、俺が倒した獣の毛皮よ﹂
悠然と、頭領は答える。
十数名の部下を叩き落とされても、未だ変わらぬその余裕。自慢
げに撫でる仕草から、男の自信が透けて見えた。
﹁これを着てると、大半の獣は逃げていく。獣人もだ、面白いぐら
い警戒しやがる﹂
小僧、お前もそうだろう? にやりと笑う頭領の無骨な手が、毛
北の王者
ってのは、大したもんだ。何十年経ってもその力を
皮のマントをつまんだ。
﹁
失わねえ!﹂
声高々に放った言葉に、ナハトはたまらずピクリと反応した。
﹁北の王者⋮⋮﹂
﹁そうよ、こいつはその時、一番でかいと言われたやつの︱︱ホッ
キョクグマの毛皮だ﹂
自慢げに、白いマントが翻る。その動きを、ナハトは自然と目で
追っていた。
薄汚れてはいるものの、未だその強烈な残り香を放ち、本能を畏
怖させてくる、毛皮の正体。ナハトは理解し、そして思い至る。あ
あ、だからこんなに不快で、無視しがたいのだと。
白い巨熊は、ナハトにとって︱︱。
﹁⋮⋮へえ、これはちょっと、驚きだな﹂
185
自信に満ちた頭領の顔に、怪訝な色が浮かぶ。
好敵手
に出会えるなんて、思っていなかったよ!﹂
ナハトは怯えるどころか、身体を震わせ︱︱笑ってみせたのだ。
﹁ここで
ナハトは地を蹴り、自らよりも遙かに屈強な頭領へ向かい疾走し
た。
上衣を翻し、腰の後ろに両手を回す。シャラリ、と音を立て抜き
払ったのは、これまで鳥獣を追い払うために使ってきた、短剣では
ない。ナハトが得意とする本来の得物︱︱対の短剣から成る、双剣
だった。
月光を受けて光る二つの鋭い煌めきを両の手に携え、躊躇なく踏
み込むイタチの姿に、頭領は一瞬我を失った。少なくとも、目の前
にいる細くしなやかな身なりの若造が、そうするとは思っていなか
ったのだ。
重く振り払われた長剣と、双剣が、火花を散らして交差する。し
かし、僅かに反応の遅れた分、頭領の方が押され、太い足がじりっ
と後退する。
﹁この匂い、確かにあいつらのものだ。あんまりにも長く離れてい
たから、一瞬忘れちゃったよ! 懐かしいなあ、本当に!﹂
躊躇なく、二つの剣を携えたイタチが踊り狂う。しなやかに、優
雅に︱︱けれど、ぞっとするほど狂気的に。
淡く照らされる月明かりの下、歪む猛獣の瞳が見えた。それは、
いくつもの修羅場を潜ってきたはずの山賊の頭領の、生物としての
本能を冷たく揺さぶった。
186
﹁ッそんな反応する奴ぁ、なかなか居ねえ。あんた、一体何だ。た
だのイタチの獣人じゃねえのか!﹂
一瞬でも抱いた恐れの感情を隠しながら、頭領が吼える。弾き合
う鋭い刃が、音を立て激しく衝突した。月光に照らされる火花を片
隅に見て、ナハトはにんまりと笑う。
ああ、本当に、どうしてこういう反応をする輩が多いのか。
イタチという種が、か弱く何の力も持たないだなんて、一体誰が
言ったのだろう。
﹁イタチはイタチだけど、まあ僕たちに虚仮威しは通用しないねえ﹂
﹁虚仮威しだと﹂
﹁身体が大きく、優れた爪や牙、猛毒を持っていても、それに食ら
いついて放さないのが僕らの教えだ﹂
残り半分の血
は、
二つのイタチの種の間に生まれ、姿こそ特筆すべき点のないごく
普通のイタチのそれをだが、身体と本能に宿る
北国に適応し、なおかつ強敵だらけの厳しい環境を生き延びてきた
一族のものだ。
ヒグマやホッキョクグマ、狼といった大型の猛獣たちと獲物や縄
張りの奪い合いをしてきたこの種の本能は、ハーフといえどナハト
にも色濃く受け継がれている。
従って、生きたホッキョクグマを恐れるどころか進んで突撃して
ゆくような生き物が、中身のない剥いだ毛皮に怯むか否か。その答
えは︱︱執拗に攻撃を続ける姿で証明した。
そして互いに宿る士気の違いは、交わされる刃にも明確に表れ始
める。
187
いつの間にかその戦いは、決して引かず執拗に狙い続ける獣と、
無意識の内にそれを追い払おうとする人間の光景になりつつあった。
至近距離に張り付いたまま剥がれないイタチの牙に焦れ、無骨な
長剣が大きく払われる。
がらんどうになる無防備な胴体を、ナハトは見逃す事はない。剣
をかわしながら、その脇腹へ双剣の柄の先端を叩き込む。半ばめり
込むように入った攻撃に、たまらず頭領が身体を折り曲げたところ
で、ナハトは跳躍する。鋭く放った回し蹴りは、難なく側頭部へ決
まり、巨体がどうっと横に倒れ転がる。
頭領の手から離れた長剣が、月夜を高々と舞う。静かに地面へ突
き立てられた刃が、戦いの終わりを告げた。
仰向けになる頭領の身体を跨ぎ、ナハトは正面に立つ。
ホッキョクグマを倒したというから期待したが⋮⋮思っていたよ
りも呆気なく片付いてしまい、肩すかしを喰らった気分だった。
きっとその毛皮の主は、怪我か何かを負い、万全な状態ではなか
ったのだろう。倒したという事すら、そもそも怪しいが。
﹁⋮⋮同郷って雰囲気じゃないな。あんた、もともと色んなところ
を流れてた口か﹂
見下ろした頭領は忌々しそうに強面の顔を歪めていたが、双剣を
突きつけられ、戦意は既にないようだった。
﹁⋮⋮おめえ、一体、何だ﹂
﹁職業が傭兵なだけの、ただの獣人の旅行者だよ﹂
188
ついでに言えば、その白い毛皮の持ち主︱︱北の地の王者と、浅
でもいいけど﹂
って、知らないかな﹂
ウルヴァリン
クズリ
からぬ因縁が多少ある獣人だ。
﹁︱︱
﹁は⋮⋮﹂
﹁もしくは
︱︱クズリ、あるいは、ウルヴァリン。
貂熊
と呼ばれる通りに、外見は
雪に閉ざされる北の地の限られた場所で生活する、イタチの仲間
に分類される生き物。
小型に属するものの、別名で
とてもイタチには見えず小さな熊のよう。
平素は愛らしいのんびりとした空気を持っているが、その実態は
ホッキョクグマや狼から平然と獲物を奪い取り、あげく、追い散ら
して噛み殺すまでの獰猛な性質を有す、紛う事なき肉食獣。
小さな悪魔
とまで言われる生き
恐怖心を持たず、自分よりも大きな相手に立ち向かう蛮勇と、小
型にあるまじき凶暴性から︱︱
物だった。
ハーフとはいえその血をしっかり継いで生まれたナハトは、クズ
リの獣人の里で育った。
北の地の頂点を欲しがったわけではないが、王者にもっとも近い
ホッキョクグマや狼の獣人たちとは、縄張りや獲物を巡って幾度も
189
衝突した。向こうはどうだったか分からないが、クズリの獣人たち
は彼らの事を良き好敵手、あるいは隣人と思っている。ナハトもそ
うだ。
﹁ま、この姿じゃ分からないよね﹂
ハーフであるためか、クズリの姿が出るのは冬季のみ。しかも、
クズリという種族自体が、犬猫ほど有名ではないらしく、一部にし
かあまり知れ渡っていない。
おかげで何度も普通のイタチと間違われ続け、そして冬になって
毛色が変わるとひどく驚かれた。日頃から、半分は別のイタチの仲
間だと言っていたというのに。
︱︱それはさておき。
山賊の頭領の顔を見る限り、クズリの名は通じていないらしい。
ホッキョクグマの毛皮を剥いだというのなら、何処かで聞いても良
さそうだが。
﹁⋮⋮お前、傭兵なのかよ﹂
﹁今はただの旅行者﹂
﹁どっちでも良いさ﹂
たった一人で部下を叩きのめし、頭を下した。その手柄は、間違
いなくこのイタチの獣人のものとなる。
頭領は、苦く笑った。
﹁俺の首を持って行くか⋮⋮大したもんだ。小僧のくせに﹂
居住まいを正した頭領の表情は、覚悟を決めたようにも見えた。
いいぞ、何処からでもやれ。そう挑むような眼差しを放つ。
190
︱︱だが、ナハトは、こてんと可愛らしく首を傾げ。
﹁え? いやいや、あんたの首に興味なんてないよ﹂
空気を破壊しかねない言葉を、平気で吐き出した。
案の定、頭領の表情は崩れ、素っ頓狂に歪む。一体この若造は何
を言っているのかと、揺らぐ双眸には本気の疑問が浮かぶほど。
ナハトは双剣を腰の鞘に戻すと、首をポリポリと掻く。
﹁別に、山賊の一味を全て倒したかったわけじゃないよ。言ったで
しょう、ちょっとした用事って﹂
﹁⋮⋮何を、言っている﹂
﹁まあ、つまりさ︱︱僕の目的はあんたの首じゃなく、そこで伸び
てる部下の方にあるって事さ﹂
その言葉に、頭領の表情が愕然と歪む。
何だそれは。それじゃあ、まるで。
﹁今更、手柄稼ぎなんてしないさ。あんたは、追いかけてくる騎士
団に捕まって︱︱真っ当な罰を受けてくれよ﹂
まるで、この俺が、部下のついでのよう︱︱。
イタチの腕が、無防備な首に巻き付き、意識を奪いに掛かる。最
後の最後で矜持を打ち壊され、頭領は意識を手放した。
ドサリ、と巨体が落ち、力なく地面へ横たわる。
191
ナハトは上体を伸ばし、ほっと息を吐き出した。
﹁はあ∼ようやく周りが片付いたぁ﹂
が果たせそうだ。
前座の方が長くなってしまったかもしれないが、これでようやく
目的
最後の仕上げに、ナハトは倒れている賊を全て縄で縛り、半壊す
る家屋へ寄せ集める。場を整えるその間、イタチの顔には笑みが浮
かんでいた。
◆◇◆
﹁︱︱さっさと起きなよ﹂
かぶり
ナハトは足下に転がる、気絶したまま動かない二人の男を、容赦
なく蹴り飛ばした。
男たちは身体を丸めて呻き声を漏らすと、瞼を押し上げ頭を振る。
薄く開くその目はまだぼんやりとし、虚空を見つめさまよう。何が
起きたか、まだ飲み込めていないのだろう。
しばらくし、彼らの虚ろな視線が、ようやくナハトを捉えた。形
だけの笑みを浮かべて手を上げてみせると、男たちの目が次第には
っきりと覚醒し、ようやく呆けた表情が引き締まった。
﹁てめ、どういう⋮⋮ッぐ!﹂
勢いよく身体を起こしたが、すぐに地面へ倒れこむ。腕と足を縛
られている事に気付かなかったらしい。二人から恨めしそうに見上
げられたが、ナハトが怯えるはずもなかった。
192
日中、カティを襲った相手なのだ。むしろざまあみろという気分
である。
・・・・
﹁いやあ、元気元気。その見た目であっさり気絶したのに、心は頑
丈だね﹂
﹁なんだと⋮⋮﹂
﹁それくらい逞しいと、こっちも折り甲斐があるよ﹂
その時、ようやく男たちは周囲の状況に気付いたようだ。十数名
の仲間と、頭領が、何処にも見当たらない。月明かりの注ぐ村跡に
は、彼らと、ナハトしか居ないと。
﹁ああ、他の人たちだったら、まとめて縛って、向こうの家で寝て
もらってる。見回りだった人もね﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁僕の用事は、別に山賊を捕まえる事じゃないし﹂
骨は折ったが、何も命を取ったわけではない。きちんとした手当
てを受ければ、問題なく動けるはずだ。さすがにその後の面倒まで
見る気はないので、応急処置は施さず雑に放置したが。
そもそも悪事を重ねた賊なので、丁寧に扱う理由が何処にもない。
罰にはならないだろうが、せいぜい夜明けまで苦痛を味わえばいい。
︱︱だが、目の前の二人については、別だ。
結果として、全て倒したような事態になってはいるが、あくまで、
それはおまけ。
ナハトの目的が果たされるのは、ようやく、ここからだ。
﹁⋮⋮カティが見てる手前、逃がしてあげたけど﹂
193
彼女の目が届かないのなら、遠慮する必要はもう何処にもない。
﹁昼間の借りは、きちんと返さないとね﹂
そのために、この二人を気絶させた後、仕事道具の一つである特
殊な薬液︱︱月明かりを受けると発光する液体︱︱を足下に散布し、
目印になりそうな匂い袋を懐に入れ、その痕跡を辿ってきた。
最初から、ナハトには見逃すつもりは毛頭はなかった。
﹁昼間? ⋮⋮ああ、あの小娘の事か﹂
まるで今まで忘れていたような、その声に。
ナハトの双眸には、酷薄な光が浮かび上がった。
﹁見た目のわりに良い身体して、胸も足も悪くはな︱︱﹂
男が最後まで言葉を紡ぐ事はなかった。
放たれた靴の爪先が、男の鼻面を弾いたからである。
ナハトは背を屈めると、蹴り飛ばされ横にずれた男の髪を乱暴に
鷲掴み、地面から引き上げる。変形した鼻から血が滴り、顎や首筋
を黒く染めていた。
苦しそうな顔つき。だけど、彼女は、もっと痛ましかった。
うつ伏せの男の身体を横へ倒し、鷲掴みにした髪を放す。
﹁⋮⋮これでもね、けっこう、苛々してるんだよ﹂
194
この辺りから、脳天まで、ぐちゃぐちゃになりそうなくらいに。
自らの腹部や心臓を指先でなぞりながら、ナハトは感情の抜けた
声を落とす。
﹁さて、何処からいこうかな﹂
近くに転がっていた賊の剣を握り、ゆらりと持ち上げる。鈍く光
った刃が、強ばる男たちの表情を微かに照らす。
﹁あの子の身体を見た目玉からいくか。それとも、触った両手か。
動けない恐怖を知ってもらうため、両足からでもいいなあ﹂
目と鼻の先に突きつけた切っ先で、順番に示す。
何処からいこうかなあ。こぼれる声は、底冷えするほどの冷酷な
余韻を残す。月明かりに浮かび上がる瞳には、何の躊躇いもない。
僅か一片のはったりすら、見当たらなかった。
︱︱こいつ、本気でやる気だ。
男たちの表情が、見る見る青白く変わる。
﹁待てよ、どうして下っ端に執着する。頭領の首を持って行けばい
いだろ、そっちの方があんたにとってよっぽど良いはずだ!﹂
どうにか逃れようと身を捩り、あげく自らの頭の首を交渉に突き
出した。都市部で名をあげ、大規模な討伐隊を引きずり出した山賊
の一味とは思えない姿は滑稽で、失笑を禁じ得ない。いや、もしか
したら頭領の片腕たちは皆、頭を逃がすために奮戦し、ここにいる
のは末端の部下なのかもしれない。そんな想像をするほどに、足下
にいる二人は、愚かだった。
195
﹁後から来る騎士団や討伐隊に加わった傭兵たちと、面倒な諍いを
起こすつもりはないよ﹂
ここで頭領を潰せば、彼らにとって獲物の横取りになる。それが
・・・・
熊や狼から奪い合いを重ねてきたクズリの本性だとしても、そこま
で馬鹿ではない。
だが。
片腕でも何でもない、単なる一介の部下ならば︱︱多少の事は、
目を瞑ってくれるだろう。
にんまりと笑えば、愉快なほどに男たちは表情を歪めた。金に繋
がる首を、いとも容易く必要ないと押し退けるイタチに、信じられ
ないと言わんばかりだ。
ナハトは大きく溜め息をつき、仕方なさそうに教えた。
﹁今更、手柄集めをする必要なんかないんだよ、僕は﹂
﹁なんだと﹂
﹁︱︱町の色んなところにある、張り紙﹂
唐突に話題を振ると、男たちの面持ちが虚を突かれたように変わ
る。
﹁どうせ、下見で町にも近づいてるでしょ。あの張り紙、都市部に
居たっていうなら、ちょっとくらい覚えもあるんじゃない?﹂
町中に飾られた、探し人の張り紙。
都市部に属する傭兵都市ガルバインで、上位に入る腕利きの傭兵
︱︱凶獣を探すもの。
わざとらしく盛った挿し絵つきの張り紙を思い出し、ナハトは首
196
を掻く。
﹁渾名がつく習わしは嫌いじゃないけど、
凶獣
なんていう渾名
は納得しないなあ。何で凶獣なんだろうね、別に狂ってないのに﹂
男たちは最初、ナハトの言葉の意味を理解していない様子だった
が、次第に何かに気づき、別の意味でも表情を青くさせる。まさか、
と声無く叫んだ男たちに、ナハトは冷酷に微笑む。
︱︱ああ、その反応は、懐かしい。
この辺りでは、そもそも名が浸透していなかったから。
﹁望んだわけでもない人気者って、辛いねえ﹂
﹁あ、あんた⋮⋮﹂
﹁今の季節じゃ、あれで分かるひとはまず居ない。でもあんたたち
には⋮⋮十分だったみたいだね﹂
ごくりと唾を飲み、男が呟く。
﹁⋮⋮もしも、あんたが本当にそうなら⋮⋮なおの事、分からねえ
よ﹂
傭兵なんてものは、世間が思うほど正義に満ちた優しいものでは
ない。依頼の中には、汚れ仕事︱︱要人の暗殺等︱︱の類も少なく
ない。賊と傭兵、やっている事などさして変わらず、違いなんても
のはそこに報酬が発生し正当化されているかどうかだけだろう。
だとすれば、そんな界隈で名を上げる人物が︱︱清廉潔白なはず
がない。
そう口にする男たちの表情には、それまでにはない困惑の色が浮
かんでいた。
197
ナハトは、特に否定はしなかった。弱いものが淘汰され、強いも
のが台頭するのは、世の常。ましてあの厳しい北の地で生きてきた
自分は、その摂理を当然のものと考えている節もある。
︱︱だが、ただ一点。気に入らない箇所がある。
﹁⋮⋮ここに来る前の僕だったら、そうだったろうね﹂
自分のため、生きていくため、どんな依頼も請け負った。それこ
そ賊と変わらないような類のものも、ほんの数回ではあるが、やっ
てみた事もある。
賊と傭兵、違いは報酬があるかないか程度だと、以前ならば頷い
て同意しただろう。
だが、あの子と知り合い、数日間過ごしてしまい、情も抱いてし
まった。彼女のため正義の味方になってみるのも悪くないと思って
しまうほどに、彼女は心の中の重大な場所を陣取ってしまっていた。
賊と同じ存在として括られるなど、今のナハトにとっては、我慢
しがたい事だった。
﹁山賊なんかに理解されたいとは思わない。ただ、一度くらい、あ
の子のためだけに動きたかった︱︱それだけだ﹂
理屈や理由なんてものがない、直情的な言葉を返された男たちは、
愕然と見上げる。青ざめた面持ちには次第に引きつった笑みが浮か
び、渇いた声が溢れ出た。
﹁ほ、本気で、言ってるのかよ﹂
198
声を喘がせ口元を歪めながらも、そう言わずにはいられなかった。
一人で後を追い、拠点に乗り込み、十数名の賊を全て倒して、そ
の手柄を総取りするかと思えば要らないと言い放ち。あげくの果て
が、目的は頭領の首ではなく、取るに足らない下っ端の方!
しかも、たった一人の、村娘のためだけ︱︱!
本気なのかと、心の底から問いかけた男に、ナハトは︱︱。
﹁ああ、いたって本気だよ﹂
何一つ疑問のない、純然とした眼差しを返した。
月明かりのもとに垣間見せた異常性に震えたのは、男たちだけだ
った。
こぼれ落ちた渇いた声は、次第に戦慄くような笑い声へ変わる。
﹁は、はは⋮⋮ッど、どうかしてるよ、お前﹂
向けられた言葉に、ナハトは小首を傾げる。
﹁たかが小娘一人のためだけに、ここまでやっただと。本気で言っ
てるなら、あ、あんたどうかしてる!﹂
男は半ば叫ぶように言い放ったが、ナハトの表情が特別変わる事
はない。
﹁︱︱そうかな、普通じゃない?﹂
出会った誰かと親しくなって、心を寄せ、あるいは動かされ。
いつの間にか好ましく思うようになって、気が付けば、ずいぶん
と心の中を入り込まれて。
199
笑い顔を見るため、泣き顔を止めるため、何でもしてあげたいと
願うようになる。
そんなごく当たり前の事は、人間も獣人も関係なく、誰にだって
あるだろう。
まさか、獣には許されないと言うのだろうか。人間だけが許され、
獣や獣人がそう思う事は、あってはならないと。
僕
だけが許されないなんて、それこそどうかしている。
ヒトも獣人も、感情を声や身体で表し、与える種族なのに。
不思議そうに首を傾げるナハトへ、男たちは震える笑い声をこぼ
し続ける他ない。
﹁⋮⋮やっぱり、あんた、狂ってる﹂
そうとしか言えなくなった男の言葉に、ナハトは笑みを浮かべた。
牙を見せる獰猛な笑みではなく、まるで愛しい人を思い浮かべ緩ん
でしまったような、この場には相応しくない︱︱婉然とした笑みを。
﹁︱︱ああ、悪くないな。今、そう呼ばれるのは﹂
イタチだから。クズリだから。
そんなよく分からない世間の心象を押し付けられ、狂っていると
言われた事も、これが初めてではない。
あの時は不愉快になったけれど、今は、そんなに悪い気分にはな
らなかった。
自分とは対極の位置にいる彼女に、自分が出来る事は、してあげ
られる事は、結局これだけなのだ。
200
猛獣の牙を問答無用で宥める、あの笑顔をまた自分に見せてくれ
るなら︱︱狂気の沙汰と言われようと構わない。
ナハトはゆっくりと剣を持ち上げ、銀色の月に切っ先を突きつけ
た。
﹁さあ、始めようか。そうだな、まずは足からいこうか﹂
言葉になりそこねた悲鳴と懇願が夜風を震わせる。それにナハト
が同情や躊躇いを感じる事はやはりなく、天へ向けた剣は静かに振
り下ろされた。
201
12︵後書き︶
自覚のある狂人はもちろん恐ろしいけど、まったくの無自覚な凶暴
性を蒔く人の方が、恐ろしい時もある。
◆◇◆
というわけで、今回ようやく! ナハトのもう半分の動物の名前も
出せました。
どうでしょう、予想をしていた方々、当たりましたでしょうか?
ここまで来ると多くの人がかなり確信を持っていたとは思いますが、
中には﹁そんなに凶暴か?﹂と思う人もいるかもしれませんね。
アニメが関係しているのでしょうか。ほのぼのなんとかという⋮⋮。
いやいや、騙されちゃいけませんよ。
僅か1メートル前後の小柄な身体で、狼やヒグマを追い払い、ホッ
キョクグマすら時に噛み殺し、そんな猛獣たちから獲物を奪い取る
ようなヤツが、大人しいはずがありません。
普段の外見は、とても可愛いんですけどね。もっふりおっとりして。
クズリの認知度、世間ではどれほどでしょう。知ってる人には超有
名、ただし知らない人は本当に知らない、そんな絶妙な境目にいる
動物のような気がします。
ただ、英名のウルヴァリンは、知っている方も多いはず。某アメコ
ミヒーローのモデルですしね。
202
一部では、地上最凶とも呼ばれるほどの、伝説の多いクズリさん。
よかったらネットの画像検索をどうぞ。とてもイタチの仲間とは思
えない猛獣ぶりです。
203
13︵前書き︶
2016.09.25 更新:1/1
204
13
深い藍色の空は、白く薄れていた。
音のない静寂で満たさる世界に、眠りから醒める夜明けの兆しが
漂う。じきに朝陽が差し、周囲は目映く照らされるだろう。
けれど、ナハトの姿は、未だに戻らない。
そりゃ、すぐに帰ってくる事は、難しいだろうけど、でも。
出て行ったっきり見えない茶褐色のイタチの青年を思い浮かべ、
カティの口から溜め息がこぼれる。もう何度目になるか、数えても
いない。
彼は、心配しないで待っていればいい、なんて言ったが︱︱ゆっ
くり眠るなんて事は出来るはずもなく、結局、一睡も出来ず夜を明
かした。
月が煌々と輝いている間はじっと家の中で待っていたが、空が白
んできてもナハトは戻ってこないので、ついには耐えきれず外へ出
て玄関前に座り込んでいた。
三角座りをしぎゅっと小さく丸める身体は、笑えるほど震えてい
る。それが朝方の肌寒さのせいだけでない事は、カティも自覚して
いた。
少しだけ、思い出すのだ。元気だった両親が、ある日突然倒れ、
命の灯火が目の前で徐々に薄れていって︱︱その時に抱いた、どう
しようもない不安感を。
私が、助けてなんて言ったから。何にも考えないで、口にしてし
205
まったから。
時間が過ぎれば、その分だけカティは強く苛まれた。想像もした
くないが、もしもナハトが戻らなかったら、どうしたらよいのだろ
う。抱えた膝に、額を押し付ける。
どれほどしっかりしようと思っても、本当の自分はこうなのだと、
カティは突きつけられた気がした。
︵︱︱特別な人たちが居なくなるのは、もう辛いの︶
寂しさ
が告げていた。
カティにとって、ナハトという獣人はもう単なる旅人ではない事
を、胸に満ちる
どれくらい、そうしていただろう。
ふと抱えた膝から顔を起こすと、一段と明るくなった空が広がっ
た。先ほどと比べれば夜の気配は遠のいているが、まだ辺りはしん
と静まり返っている。
カティはおもむろに立ち上がると、すっかり痛くなったお尻を擦
り、歩き始める。道端にまで出てみたけれど、やはりナハトの姿は
見えなかった。
本当に、彼はいつ戻って来るのだろう。
カティは小さく溜め息をこぼし、踵を返し玄関まで戻ろうとした
︱︱その時である。
下げがちな視界の片隅で、何かが動いた。
足を止め、もう一度顔を上げる。視線を向けたその先に、現れた
のは。
﹁あ⋮⋮﹂カティは小さな声をこぼし、呆然とする。
206
出て行った時とほとんど変わらない足取りで、それは近付いてく
る。肩を回し、首を擦り、のんきに欠伸なんてしながら。道端に出
ているカティの存在に、気付いていないのだろうか。
ようやく眼差しがぶつかると、つぶらな瞳を丸くして歩みを止め
た。
﹁⋮⋮あれ、カティ、何で起きてるの﹂
言うに事欠いて、そんな言葉をこぼして。
胸の内から勢いよく広がる感情の波に、カティは逆らわなかった。
立ち尽くしていた両足を大きく動かして駆け寄り、そして︱︱。
﹁ナハトォーー!﹂
︱︱体当たりをかますように、正面から突撃した。
﹁ぐッふゥ⋮⋮! ちょ、鳩尾⋮⋮!﹂
苦しげな声を吐き出したわりに、体当たりを受けてもその身体は
ほとんど動かなかった。しなやかなイタチでも、獣人は獣人である。
少し憎たらしく思いながら、カティはナハトの服を思い切り掴む。
﹁起きてるよ、起きてるに決まってるよ! のんきに寝てられるは
ずないじゃない!﹂
﹁ええー⋮⋮ちょっと、どうしたの。何で怒ってるの﹂
﹁別に、怒ってない!﹂
そう、怒っているわけでは、ないのだ。
ただ、様々な感情が一度に溢れ返って、収拾がつかないだけで。
207
困惑するナハトなどお構いなしに、カティは張り付きぐいぐいと
上衣を引っ張る。今は汚れてるから止しといた方がいいよ、という
言葉もまったく耳に入らない。
怪我らしいものは見当たらないが、確かに衣服は土埃や葉っぱな
どで汚れている。どのような事があったかは想像も出来ないが、争
いに身を投じた事は、その姿がはっきりと語っていた。
﹁も、戻って来るのが、遅いから﹂
ぎゅうっと握り締めるカテイの手に、さらに力が増す。
﹁怪我してたら、どうしようって。そうしたら、私、馬鹿な事を言
ったんじゃないかって﹂
﹁心配するなって言ったでしょ? ほら、顔を上げて﹂
カティは押し付けていた頭をのろのろと起こす。ナハトは驚いた
ように目を丸くしたが、その後すぐにやんわりと笑みを浮かべた。
﹁なにも泣く事ないだろ。ほら、止めて止めて。泣くほどの事じゃ
ない﹂
﹁むりぃ⋮⋮余計に出てきたぁ⋮⋮﹂
そんな優しい声で宥められても、涙は止まるどころかさらに溢れ
てくるだけだった。
ぐすぐす言い始めるカティへ、ナハトは苦笑いをこぼし、ぽんと
丸い肩を叩く。
﹁やめてよ、僕、こういうのには向かないんだから⋮⋮﹂
208
毛皮に包まれるナハトの指が、カティの濡れたまなじりに触れ、
ごしごしと涙を拭い取る。いかにも不慣れな不器用さが溢れていた
けれど、それが逆に心地よかった。
﹁山賊は⋮⋮どうなったの⋮⋮?﹂
﹁とりあえず、潜伏してたところに置いてきた。動けないだろうし
ね﹂
﹁怪我は、してない⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮してないよ、この通り﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ようやく緊張が緩み、カティの唇からは安堵の溜め息がたっぷり
と吐き出される。
﹁信用ならなかった?﹂
﹁違うよ、馬鹿﹂
﹁知ってる。ほら、やっと泣き止んだ﹂
からかうように笑ったイタチの声は優しく、カティの唇が柔らか
い弧を描く。ようやく自然にこぼれた微笑みが、赤らむ頬を彩った。
﹁︱︱まあ、それはそれとしてさ﹂
おもむろに、ナハトが居住まいを直す。
﹁もうちょっと、何かないかなあ﹂
﹁え?﹂
﹁余裕だったけど、一晩、戦ってきたわけだし。自分でも望んだ事
だけど、泣き付かれるよりも、ねえ﹂
209
意味深に紡がれる言葉を聞き、カティは少しの間首を捻って考え
ていたが、不意にあっと声を漏らした。
﹁えっと﹂
﹁うん﹂
﹁あ、ありがとう⋮⋮﹂
そう言ってもいいのか分からなかったけれど、途端、カティの前
に佇むナハトは。
﹁ん、どういたしまして﹂
満足げに黒いつぶらな瞳を細め、ピキュー、と高い音を鳴らす。
イタチそのものの顔には、見て分かるほどの、上機嫌な様子が窺え
た。
柔和だけど、何処か澄ましたような面持ちが多かったナハト。こ
の人もそんな風に笑うのかと、カティは少し驚き︱︱ドキリとする。
﹁⋮⋮それと、お疲れ様。あと︱︱おかえりなさい﹂
続けて言った言葉に、ナハトは目を丸く見開き、異様に驚きを見
せた。
﹁⋮⋮ここでそれ? 君、本当、お母さんみたいだな﹂
﹁よく言われる。おかえりなさい﹂
二度、同じ言葉を告げれば、何を言わんとしているかは通じただ
ろう。じっと見上げるカティに、ナハトは少し困ったように肩を竦
めたが、やがて観念したようにイタチの頭を下げる。
210
﹁⋮⋮ただいま﹂
耳元で呟かれた小さな声に、カティはようやく実感する。怯えて
待つ夜が無事に明けたのだ、と。
万感を胸に抱いて、カティはもう一度、ナハトの胸に額を押し当
てる。ナハトは呆れるように笑って︱︱たぶんきっと照れ隠しだろ
う︱︱カティの肩をぎゅっと包んだ。
◆◇◆
その後、カティとナハトは互いに軽食をつまみ、少しだけ眠って
身体を休めた。
二人が起きた時には、辺りはすっかり薄暗さが消え、清々しい朝
を迎えていた。
村の方々からは、普段よりも賑やかな声が飛び交った。澄んだ青
空の下に出た顔馴染みの住人たちは、一様に明るい面持ちを宿して
いる。ここ数日、重く垂れ込んでいた不安や緊張が全て消え去り、
久方ぶりに見る彼らの笑顔は輝いていた。
長閑な一帯を脅かした元凶である、山賊の残党が全て捕らえられ
たという話は、既に広がっていたようだった。
つい先ほどの事なのに、とカティは驚いたが、どうやらナハトが
先に潜伏先等を伝えておいたらしい。夜が完全に明ける前に、隣町
の夜勤担当の自警団員を捕まえ、賊の件は全て押し付けてきたのだ
そうだ。じきに来る騎士団に伝えて欲しい、と。
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現れた時は不安のどん底に陥ったが、捕まえてしまえば呆気なく
事態は収束に向かってゆく。それは喜ばしい事なのだが︱︱少しだ
け、カティは気がかりなところがあった。
﹁⋮⋮良かったの? ナハト、思いっきり関わってるのに﹂
賊を捕らえる事に貢献した当のナハトは、一切名乗りを上げず、
自警団や追ってきた騎士団に全ての手柄を渡してしまったのだ。泣
きついてしまってそんな事態になったとはいえ、結果として彼は十
分褒められる事をしたはずだとカティ思った。しかし、ナハトはた
だ一言﹁面倒だからいい﹂と言った。
﹁君が思う以上に、傭兵の世界ってやつは面倒事が多くてね﹂
山賊の討伐に関わっていない自分が頭領の首を持てば、後で必ず
ねちねち言われる。だからいいんだよ、とナハトは笑った。
カティからしてみれば、不思議な話だ。誰であろうと、助けてく
れた事には変わらないはずなのに。傭兵世界の暗黙の掟は、なかな
か難しいらしい。
﹁僕は僕の用事を果たしたし、それに︱︱君が安心出来たなら、報
酬はそれで十分﹂
だからいいんだ、と笑うナハトは最高にあざとく、そして︱︱最
高にかっこよかった。イタチの頭だというのに。
﹁まあ、村の人たちは、ナハトのおかげだって知ってるし、それで
良いなら良いんだけど⋮⋮。あ、ねえ、それよりナハト﹂
﹁なに?﹂
﹁用事って、何だったの?﹂
212
ナハトはきょとんとすると、不意に牙を見せ、ニイッと微笑んだ。
﹁︱︱内緒﹂
その声と雰囲気が妙に凄みを帯びていたので、カティはそれ以上
尋ねる事はしなかった。
ともあれ、これで周辺を脅かしていた山賊は居なくなった。毎年
恒例の白花の開花と、それによって集まる鳥獣の狩猟の賑わいが、
再び戻ってきたのだ。
その日の午前中には注意勧告も解除され、作業の遅れを取り戻す
ように人々が出かけてゆく。夕方にはきっと、採取した白花や狩猟
した獣など、自然から分けて貰った恵みが数多く集まり、いたると
ころがさらに賑わうはずだ。
毎年の風景が戻り、喜ぶカティ。しかし、突然の来訪者が見えた
のは、それからもう間もなくの事だった。
﹁︱︱すまない、こちらに山賊の残党の情報提供をしたという人が
居ると聞いたのだが﹂
平凡な民家の前に並ぶ、いかにも勇壮な雰囲気を放つ凛々しい出
で立ちの男性たちに、カティが﹁へい﹂と間抜けな返事をしてしま
ったのは仕方のない事だった。
長閑な村の風景には不釣合いな輝かしい衣装を纏い、ここいらで
213
は見ない上等な剣を腰に差している。そして、その腕には国の印を
描いた腕章が誇らしく着けられている。滅多に見る事はないが、彼
らが騎士だという事はカティもすぐに理解した。
いやしかし、我が家に、騎士。
あまりにも信じがたくて、つい呆然と立ち尽くした。放たれる威
光にカティは気後れし、しどろもどろになりながらも、どうにか頷
く。賊の情報提供といったら彼の事なので、すぐに呼びに走った。
作業場にいたナハトは、数名の騎士が訪ねてきた事を伝えると、
露骨に嫌そうな表情をして渋った。イタチの頭なのに、こういう時
ばっかり妙に感情豊かだ。しまいには﹁留守って言って﹂とまで言
い出したので、カティはナハトの腕を取り、問答無用で連れ出す。
不満か文句を訴えているのか、クククク、という低い声を彼は上
げ続ける。イタチはそういう声も出すのかと関心したが、決して足
は止めなかった。何を嫌がってるか分からないが、待たせてしまっ
て良いはずがない。
どうにか道端に佇んでいる騎士たちのもとへ辿り着き、彼らの前
に立たせたが、可愛らしいイタチの顔はさらに歪み。
﹁げえ⋮⋮﹂
あげく、失礼な言葉を吐き出した。
ちょっと、国の騎士様になんて事! カティはぺちんと腕を叩い
たが、その騎士もナハトの顔を見るや表情を変え。
﹁︱︱やっぱり、お前か﹂
⋮⋮え、顔見知り? カティはきょとんとして、ナハトと騎士を
見比べた。
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﹁山賊の潜伏先に単身飛び込んだイタチ獣人と聞いて、考えたくは
なかったが⋮⋮本当にお前だったのか﹂
﹁わざわざ確かめに来なくてもいいのに﹂
﹁仮にお前でなくとも、礼くらいは言わなければならないだろう﹂
友人、という風には見えなかったが、遠慮なく交わされる会話か
らそれなりに親しい間柄である事は窺えた。思ってもなかったナハ
トの交流関係を見て、カティはただただ唖然とする。
﹁⋮⋮ああ、すまない。こいつとはちょっとした知り合いでな。ま
あ、主に荒事の縁で繋がってるんだが⋮⋮﹂
騎士の男性は溜め息をつくと、ナハトを睨むように見る。
﹁敵の拠点に突っ込むような馬鹿がお前の他にいたのかと思ったが、
安心した。馬鹿はお前だけだったな﹂
﹁うるさいな、頭目と部下を取り逃がしたくせに﹂
相手の額にビキリと青筋が浮かんでも、ナハトは態度を改めない。
彼らの間にいるカティの方が慌ててしまい、ちょっと、とナハトの
腕を引く始末だった。
﹁ぐ⋮⋮ッそれは事実だ、否定はしない。この辺りの住民たちを危
険に晒した。迅速な情報提供、感謝する﹂
潔く頭を下げた騎士に、ナハトもようやく肩を竦め﹁そういうの
は要らないから﹂とやんわり押し止めた。
﹁言っちゃなんだけど、僕は僕の用事があっただけで、山賊の事は
215
おまけみたいなものだ。礼とか、そういうのは必要ない﹂
凶獣
のわりに﹂
﹁⋮⋮えらく殊勝な事を言うな。傭兵の中でも戦闘狂なんて言われ
てる
ナハトの瞳がぴくりと震える。
カティは目を丸くし、思わず﹁え?﹂と聞き返した。
﹁え、あの、今なんて﹂
﹁ん? ああ、そうか、知らないか﹂
男性は懐を探ると、ぴらりと一枚の紙を取り出して広げた。
凶獣
それは、町のいたる所に貼られている、黒い獣が吼え猛る挿し絵
付きの人探しの張り紙だった。
﹁傭兵が集まって出来た都市ガルバインで腕利きと言われる
。これ、こいつの事だ﹂
至極あっさりと言い放った騎士に、カティは口をぽかんと開き、
呆ける他なかった。
カティの目は、自然と張り紙へ向かう。そこにあるのは、熊の如
き迫力に満ちた黒い獣だ。おずおずと張り紙を受け取り、居心地悪
そうに明後日の方角を見る、ナハトの顔の横へ持ち上げる。
挿し絵と、ナハト本人を何度も見比べた末︱︱カティは思わず叫
んだ。
﹁︱︱全然、似てない!﹂
爪の先端すら掠っていない挿し絵に、カティは驚愕した。
え、そっち? と別の意味で驚愕しているのは、ナハトや、騎士
216
たちであったが。
﹁やだ、全然似てない。何処がナハトだろう﹂
﹁いや、もうそっくりだよ、お嬢さん。間違いなく、こいつ。戦っ
てる時、本当にこんな顔しているよ﹂
ええッ嘘だ、だってこんなに黒くな︱︱ああ、そっか、別のイタ
チの仲間とのハーフだって言ってたっけ!
異なるイタチの獣人との間に生まれ、外見はごく普通なイタチだ
が、残り半分は別のイタチの種だとか。
という事は、これは以前彼が言っていた、冬季にだけ出てくると
いう姿なのだろう。挿し絵でありながら、熊と言われてもなんら可
笑しくはないこの迫力。獰猛な鳴き声が聞こえてきそうな力強さを
感じるけれど、ナハト本人だと言われるとやはり信じがたい。そし
て、イタチの仲間とも思えない。
カティは張り紙をナハトの顔の横から下げると、静かに彼を見つ
める。
﹁本当に、ナハトなの?﹂
一瞬、ナハトの眼差しが逡巡する。まるで意を決したように小さ
く息を吐き出すと、そうだよ、と頷いた。
﹁その張り紙が探してる傭兵は︱︱僕の事だよ﹂
カティの瞳を、ナハトがじっと見下ろす。真摯な光がイタチの双
眸に宿り、虚偽がない事を悟る。
カティは、そうなんだ、と呟くと︱︱にこりと微笑んだ。
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﹁全然、気付かなかった。冬になるとこんなに変わるのね、びっく
りした!﹂
はいどうぞ、と張り紙を騎士に返す。
﹁⋮⋮⋮⋮それだけ、か?﹂
﹁え?﹂
﹁もっと、何か出てこないのか﹂
カティは口元に指を持ってゆき、首を捻る。もっと何か、と言わ
れても⋮⋮。
﹁凶獣だなんて呼ばれる傭兵だぞ﹂
﹁そうらしいですね、初めて聞きました﹂
﹁いや、初めて⋮⋮そうらしいって⋮⋮﹂
何故かとても驚かれてしまい、粗相でもしたのかとカティは慌て
たが、ナハトにぽんと肩を叩かれる。
﹁いや、良いよ。ほっといて。大丈夫﹂
﹁⋮⋮私、何かやらかしたかな﹂
﹁いや、何も。君は何もしていない﹂
笑うナハトの瞳には、微かな安堵が浮かんでいる。それが何を示
しているのか分からなかったけれど、ひとまず失礼をしたわけでは
ないらしいので、カティはほっと口元を緩める。
﹁⋮⋮まあ、それはおいといて﹂
218
ナハトの眼差しが、カティから騎士たちに移る。
﹁まさか、本当に情報提供の礼だけで寄ったんじゃないんだろう?
僕に何か話でもあるんじゃない?﹂
騎士たちとナハトの間に流れる空気が、変わったような気がした。
カティは自ずから理解し、﹁じゃあ私は向こうに行ってるね﹂と声
を掛け、彼らの側を離れる。
ぺこりと会釈をしたその背には、騎士たちの視線が集まっていた
けれど、カティはまったく気にも留めなかった。
◆◇◆
カティの細い背中が遠ざかり、一軒家の中へ吸い込まれる。
長閑な風が、残されたナハトと騎士たちの間を吹き抜けた。
﹁⋮⋮一体、これはどういう状況なんだ。凶獣﹂
這うように響いた騎士である男の声には、色濃い困惑が滲んでい
た。
﹁まともな連絡もなくガルバインから消えて、何処に行ったかと思
えばこんな片隅の村。しかも、娘と一緒だと。おい、何なんだ一体、
何でこんなところに﹂
矢継ぎ早に投げられる問いかけに、ナハトは煩わしさを隠さない。
相変わらず面倒な奴だと思いながら、仕方なしに応じた。
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﹁ちょっと息抜きをしたくてガルバインから離れただけだよ。ギル
ド長には一応言ってある﹂
﹁一応って、お前な﹂
﹁騎士と傭兵を一緒にするな。僕がいなくてもそれを埋める代わり
は大勢いる﹂
﹁だが、お前個人を頼る者が数多く存在しているのも事実だ﹂
男は一度、大きく溜め息をつくと、声音を整える。
﹁お前が、前からその立場に思うところがあったのは知っているが
⋮⋮何か一つくらい言い残していってもいいだろうに﹂
まったく、本当に。ナハトは肩を竦め、溜め息をこぼす。煩わし
さだけでない、親しみを込めた呆れがあった。
傭兵と騎士︱︱職に対する意識も信念もまったく異なる両者だが、
荒事を請け負うというただ一点の共通点により、何かにつけて関わ
り合いが生じてきた。
ナハトもその例に漏れず、望んではいないのにこの騎士とは顔見
知り以上の間柄になってしまった。友人と呼ぶほど深く親しい間柄
ではないのに、顔を合わせる回数が妙に多いせいだろう。
言うなれば、腐れ縁というものか。
凶獣
と呼ばれる事が﹂
だから少なからず、この男はナハトが抱いてきたものにも気付い
ている。
﹁そんなに嫌だったのか、
﹁勘違いしないでよ、僕は別にそう呼ばれる事自体を嫌ってはいな
い﹂
通り名や渾名が付けられる事は、母体となった大昔の冒険者とい
220
う職業から続く、古い慣習だ。何故
悪鬼
や
死霊
凶獣
という名がついたのか
などといった、もはや生き物にすら
は不思議で仕方ないが、付けられる事に対して特に文句はない。傭
兵の中には
凶獣
は可愛いものだろう。比べたら、だが。
分類されていない呼び名を付けられた者もいるので、それらと比べ
たら
ただ、イタチだから、クズリだから、ああだこうだと言われるの
が嫌いなだけだ。
﹁イタチは狡猾で悪者︱︱誰かが言っていたよ、その動物の血を持
つ僕も、狡猾で悪者な獣人の傭兵だって﹂
・・・・・・
正義を通す清廉潔白な性格でない事は、自ら理解しているのでそ
れは良しとする。だが、イタチだからと言われるのは腹立たしい。
人と獣、二つの性質を持つ獣人という種族の特性上、その身に持
つ動物の血によって多種多様な癖や生活習慣があるのも事実。イタ
チ独自の思考や文化など、一つや二つ、きっとあるだろう。しかし、
だからといってイタチの獣人や生き物を、全て同一に見るのは、ど
うなのだろう。
そう思ってみても、心象が特にものを言う業界なので、ナハトは
決して短くはない間、味わい続けてきた。じわじわと巡り蝕んでゆ
く、毒のような言葉を。
今はある程度の慣れを身につけたが、それでもやはり時折、頭の
芯や臓腑の底にふつりとくる事がある。
﹁僕は僕の、生まれ育った場所で培ったやり方や、一族の教えを貫
いてるだけだ﹂
221
名前と種族だけの薄っぺらい判断をされるのは、一番勘に障る。
ふん、と鼻を鳴らせば、騎士の男は何処か感心したように声をこ
ぼした。
﹁⋮⋮俺はお前の事を、頭のネジを捨ててきた戦闘狂だと思ってい
る。だがたまに、酷く誇り高く感じる。不本意だが、たまにな﹂
男の視線は、不意にナハトから一軒家へと移った。
﹁⋮⋮お前を探す張り紙が出回った理由、気付いているのか﹂
﹁ああ、あれ。山賊の残党狩りか、その前の討伐戦にでも呼び戻し
たかったんだろ?﹂
﹁分かってて戻らなかったのか、お前らしい﹂
﹁︱︱戻っている時間も、なかったしね﹂
張り紙の意図に気付いたのは、襲撃に遭い負傷者が現れた時だっ
た。わざわざ問いただしにガルバインへ帰還する時間などなかった。
ナハトが呟きをこぼすと、驚いた男の視線が再び向けられる。
﹁⋮⋮さっきの子、ここに来てから世話になってるんだけどね。一
度、山賊に襲われてるんだ﹂
略奪の下見にやって来た男、二人にね。小さく呟けば、周囲の空
気が強ばった。
﹁⋮⋮平和な田舎に要らない危険を投げ込んだのは、ヘマをした騎
士と傭兵のせい。襲われて酷い目に遭いそうになったのは、目を放
した僕のせい﹂
しかし、一言の不満も、文句も口にしなかった。それを彼女が言
222
っても、何もおかしくはない、当然の主張であるのに。
それどころか、迂闊だった自分のせいだと言った。あんなに震え、
泣き崩れる手前だったくせに、強がって歪な笑みを浮かべた。
なんて優しく、愚かな事か。
そんな顔をするなら、いっそ、その辛さを自分に突き立てて欲し
い︱︱あの時の衝動は、ナハトを確かに突き動かした。
﹁⋮⋮ここだけの話、僕はあの子がいなかったら、山賊の残党なん
て知らんぷりしてたよ。だけど、あの子が居たから﹂
他でもない自分という獣に泣いて、助けてくれと頼ってくれた。
あの時、どんな事でもしてあげようと思った。憐憫や正義感とい
った臭い理由ではなく、獣人という種族らしい、もっと本能的な感
情でそう思ったのだ。
そして山賊と争っている間、頭の中には︱︱彼女しかなかった。
ナハトの横顔を見つめた男は、不意に声を潜め﹁ようやく合点が
ついた﹂とこぼした。何の事だとナハトが問えば、男は小さな声で
続けた。
﹁逃亡した山賊たちを追って、今朝方、ようやく町に到着したんだ
が⋮⋮﹂
町に着くなり、出迎えた自警団から山賊の潜伏先が判明したとい
う言葉が出され、追ってきた騎士たちはすぐさまそこへ向かった。
辿り着いた、打ち捨てられ朽ちた村跡には、取り逃がした山賊の頭
とその部下、十数名が縄に掛けられ転がっていた。彼らは等しく腕
や足の骨を折られ、しかもそれを雑に放置され、かなり悪化し憔悴
としていたが、命に別状はなく騎士団が捕らえ護送した。
そこまでは、問題なかった。
223
︱︱だが、その中の賊の二名が、凄惨な姿で発見された。
重い声音で語る男は、真っ直ぐとナハトを捉える。
﹁⋮⋮両足の腱はことごとく切られ、両腕の肘から下は潰れていた。
胴体と手足は繋がっているが、治ったとしてもまともに機能する事
はないだろうな。一生涯﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁付け加えて、止めが、両目。綺麗に真一文字にやられ、治療の施
しようがない状態だった。それでも、まだ二人は生きている、辛う
じて﹂
かなり短い灯火だが︱︱。
男の言葉を、ナハトは無言で聞いていた。茶褐色のイタチの頭部
に、僅かな動揺もなかった。
﹁頭領ではなく一介の部下、というところが疑問だったが⋮⋮今の
を聞いて、納得した﹂
そして、山賊の頭領と部下を見つけ、捕まえた手柄の全てを、騎
士団に譲ったその真意も。
﹁目を瞑れ、という事か。賊二名への過剰な攻撃を﹂
ナハトは微笑みで肯定した。イタチという可愛らしい生き物の頭
部を持ちながら、そこに滲むのは肉食獣の獰猛な本性だった。
﹁あの二人だけは、僕の獲物。あの子が襲われた時から決めていた。
他のは興味ないから、あんた達に任せるよ﹂
﹁⋮⋮周辺の町村で略奪が行われる前に、賊の潜伏先を突き止めた
224
上に、全て生きたまま捕まえた功績を譲られたんだ。仕方ない﹂
﹁話が早い、助かるよ﹂
これであとは早く山賊の話題がなくなれば、あの子も安心するか
な。ナハトは上機嫌に、茶褐色の尾を揺らした。
﹁⋮⋮お前、少し見ない間に、変わったか?﹂
﹁まさか。まあ、でも⋮⋮﹂
ナハトはふっと口元を穏やかに緩めると、無意識の内に甘く囁く。
﹁自分には似合わない事をしてでも、守ってあげたくなる存在は出
来た、かな﹂
その時の男は、お前もそんな事を言うのかと、あからさまな驚愕
を浮かべていた。やや腹立たしいが、それについてはナハト自身で
も思う事だ。
自分にも、まだそんな心があったのかと。
いや︱︱そんな心を持ってしまうような日が来るのかと。
獣
なんだろうな﹂
﹁⋮⋮獣人は、愚直なほど本能に従う、だっけ﹂
﹁は⋮⋮﹂
﹁ふふ、僕も結局、ただの
道理や理性ではなく、感情と本能を尊ぶ種族︱︱獣人。
今更になって、改めてそれを噛みしめた。ただ一人の雌のため、
敵の群れに飛び込む事も厭わないなんて、客観的に見れば頭がどう
かしている。狂った獣、あるいは雄そのものだろう。
225
︱︱いいな、それ。
悪くないと、ナハトは静かに笑う。
﹁⋮⋮酷い顔だ、今にも噛みつきそうな目をしている﹂
呟いた男の言葉に、ナハトはありがとうと礼を言っておいた。
﹁︱︱あれ、騎士様たち、もう帰られたの?﹂
﹁ああ、大した用件じゃないし、向こうも忙しいしね﹂
﹁そう⋮⋮お茶でも、と思ったんだけど﹂
少し残念そうにしながら、カティはカップを戸棚に戻してゆく。
のんびりと笑う彼女の背を、ナハトはじっと見つめた。
︱︱⋮⋮お前、少し見ない間に、変わったか?
去っていた男の言葉が脳裏で再び聞こえる。
たった一人のため
という言葉が加わ
まさかと否定はしたが、実際はその通りだろう。両足、両手、両
目を奪ってゆくその理由に
ったのだ。決して、些細な変化ではない。
﹁お湯、沸かしちゃったしなあ。もったいないし、ナハトも飲まな
い?﹂
226
くるりと振り返ったカティは、カップを二つ握って、にこやかに
笑っている。頂くよ、と頷きを返すと、彼女は再び背を向け茶の準
備を始めた。
ただの宿の主
と思えなくなっていたのか。
鼻歌が聞こえてきそうな、穏やかな背中。その無防備な姿が、い
つから
小さな存在でない事を理解して喜ぶと同時に、悲しい事に、途方
もない不安感を抱く羽目になった。
︵あいつに知られたって事は⋮⋮絶対、ガルバインの方にも伝わる
な︶
このまま放っておいてくれるような人物ではない。きっと帰還す
ると同時に、傭兵ギルドの長にもこの事を報告するだろう。そうな
れば、確実に何らかの接触があり、下手したら連れ戻されるかもし
れない。
︱︱よりにもよって、自覚したこの瞬間に!
もしも、自分がここを離れた直後、他の雄の影が近付いたとした
ら。
ほんの一瞬、その光景を思い浮かべ、すぐに引き裂いた。今度こ
そ半殺しで済まなくなる事は、あまりにも容易く想像出来た。
そんな浅ましい葛藤や醜い欲望を、彼女は気付きもしない。だか
ら、ああも平然と、見てくれだけは無害を装った獣に、無防備な背
中を見せられるのだ。
︱︱あの無防備な存在を守るのも、柔らかい唇や首筋に噛みつく
のも、全て自分だけだ。自分だけでいい。
227
そう考えた時、今まで抱いた事のない疼くような熱が、奥底で這
い上がった。
そんな風に誰かを求めるのも、ナハトにとって初めての事であっ
た。
228
13︵後書き︶
そろそろ、リビドー溢れるアニキアネキが待ち望む、18禁シーン
の予感です。
戦闘シーンとは別ベクトルで頭を禿げ散らかしながら執筆しますの
で、恐らくとてもお時間を頂きます。ご了承下さい。
︵いつも通りの長文の予感がしますね!︶
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n4886dh/
凶獣の愛し方
2016年9月25日00時32分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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