2016 2016年9月 25 日 聖書:ローマ人への手紙 聖書:ローマ人への手紙 2 章1- 章1-16 節 タイトル:「 タイトル:「人間の罪( 人間の罪(2)」 序 論 ●これまでもしばしば申し上げてきたように、私たち夫婦を育ててくれた牧師は、 これまでもしばしば申し上げてきたように、私たち夫婦を育ててくれた牧師は、第二次大戦の折、イ 私たち夫婦を育ててくれた牧師は、第二次大戦の折、イ エス・キリストだけが唯一の神であるという信仰のもと、当時の日本 エス・キリストだけが唯一の神であるという信仰のもと、当時の日本政府の政策に反し 、当時の日本政府の政策に反し、 政府の政策に反し、天皇陛下を 神として受け入れず 神として受け入れず、拝まなかったので、特別高等警察に捕まえられ、裁判にかけられ、投獄された。 ●その中で、韓国済州島での裁判のとき、 その中で、韓国済州島での裁判のとき、同島で事業 韓国済州島での裁判のとき、同島で事業を 同島で事業を営んでいた 営んでいた彼の父親を知る裁判官が いた彼の父親を知る裁判官がたまたま 彼の父親を知る裁判官がたまたま彼 たまたま彼 を担当し を担当した。その た。その裁判官は言った。「幸 その裁判官は言った。「幸茂くん、お父さんの知人としても勧めるよ。一言、 裁判官は言った。「幸茂くん、お父さんの知人としても勧めるよ。一言、『天皇陛 茂くん、お父さんの知人としても勧めるよ。一言、『天皇陛 下が神です』と言えば、それで済むんだよ。 下が神です』と言えば、それで済むんだよ。」 、それで済むんだよ。」(正確な引用ではないが) 正確な引用ではないが)と。しかし、そのとき私たち の牧師は答えた。「それは、できません。イエス・キリストは私にとって の牧師は答えた。「それは、できません。イエス・キリストは私にとって命ですから」と。 は私にとって命ですから」と。 ●それは、正に ●それは、正に彼の命をかけた信仰告白であり、同時に、彼にとって 正に彼の命をかけた信仰告白であり、同時に、彼にとって、イエス・キリスト無き人生は、 彼の命をかけた信仰告白であり、同時に、彼にとって、イエス・キリスト無き人生は、 「生ける屍」 生ける屍」であることを意味していた。 であることを意味していた。 ●私たちはどうであろうか? 「私にとってイエス様は命」ですと言えるだろうか!? 物質的にも、 精神的にも、何もかもが自由な 精神的にも、何もかもが自由な現代に生きるクリスチャンとして 何もかもが自由な現代に生きるクリスチャンとして、 現代に生きるクリスチャンとして、私たちは、「キリストは私の命」 私たちは、「キリストは私の命」 「キリスト無くして私は屍 「キリスト無くして私は屍」と言う くして私は屍」と言う明確な意識やID 」と言う明確な意識やIDをもって生きているだろうか 明確な意識やIDをもって生きているだろうか?! をもって生きているだろうか?! ●自分が何者であるかを知っている人、自分のIDがハッキリしている人、 自分が何者であるかを知っている人、自分のIDがハッキリしている人、またそれを常に意識して 自分のIDがハッキリしている人、またそれを常に意識して生 またそれを常に意識して生 きている人は強い。 きている人は強い。 ●しかし、うっかりすると、 しかし、うっかりすると、私たち うっかりすると、私たち現代 私たち現代のクリスチャン 現代のクリスチャンは、神さまの存在を信じ、イエス・キリストを のクリスチャンは、神さまの存在を信じ、イエス・キリストを 救い主と信じ、毎週できる限り 救い主と信じ、毎週できる限り日曜日に教会に行っている人、 できる限り日曜日に教会に行っている人、・・・ 日曜日に教会に行っている人、・・・と言う程度の ・・・と言う程度のボヤーッとした と言う程度のボヤーッとした理 ボヤーッとした理 解とIDしかないのではないか?! とIDしかないのではないか?! ●勿論、それらは、決して間違いではない。しかし、それでは十分ではない。ど ●勿論、それらは、決して間違いではない。しかし、それでは十分ではない。どこまで 十分ではない。どこまですれば こまですれば、どこま すれば、どこま で言えば、十分だとは誰も言えない。しかし、明らかにそれでは十分ではない。 で言えば、十分だとは誰も言えない。しかし、明らかにそれでは十分ではない。 ●クリスチャン信仰とは、 クリスチャン信仰とは、そんな薄っぺらなものではない は、そんな薄っぺらなものではないはずである そんな薄っぺらなものではないはずである。イエス様は、 はずである。イエス様は、私たちを 。イエス様は、私たちをそんな程 私たちをそんな程 度の人にするために、ご自分の命を捨てられたのではない。 度の人にするために、ご自分の命を捨てられたのではない。福音は、 人にするために、ご自分の命を捨てられたのではない。福音は、「イエス・キリストは私の命で 福音は、「イエス・キリストは私の命で す」と、命を懸けて裁判官の前に宣言した私たちの す」と、命を懸けて裁判官の前に宣言した私たちのかつての 私たちのかつての牧師 かつての牧師のようにIDを明確にもった 牧師のようにIDを明確にもった人物を のようにIDを明確にもった人物を 産みだすのである。 ●その意味でパウロも、獄中で書いたピリピ その意味でパウロも、獄中で書いたピリピ 1 章20節でこのように言う。「 章20節でこのように言う。「生きるにしても、死ぬに しても、私の身によってキリストの素晴らしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにか しても、私の身によってキリストの素晴らしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにか なっている」。 なっている」。 ●しかし、私の牧師にしても、パウロにしても、 しかし、私の牧師にしても、パウロにしても、彼らが、 私の牧師にしても、パウロにしても、彼らが、これらの 彼らが、これらの明確なクリスチャンとしての意識と これらの明確なクリスチャンとしての意識と IDを持っていた背後には理由があった。 IDを持っていた背後には理由があった。それは、理性的に、自分が何を信じているかを整理してい た事実であった。 ●世の中には、「 世の中には、「骨のある人間」 骨のある人間」と言う表現があるが、彼らは正にクリスチャンとして と言う表現があるが、彼らは正にクリスチャンとして信仰の は正にクリスチャンとして信仰の「 信仰の「骨のあ る」人たちであった。即ち、彼らは、単に感情的に信じているだけ に信じているだけではなく、 だけではなく、信仰の「骨」として、 ではなく、信仰の「骨」として、 理性的に、何を信じているか 理性的に、何を信じているかを 何を信じているかをしっかりと しっかりと整理してもっていた人 整理してもっていた人たちであった もっていた人たちであった。 たちであった。それが、彼らを強く していたのである。 ●私たちは、私たちも、その信仰の骨を持つ ●私たちは、私たちも、その信仰の骨を持つべく、そのために く、そのために最も最適な書と思われる「 われる「ローマ人への 手紙」 手紙」を選び、先々週の日曜日から「ローマ人への手紙 週の日曜日から「ローマ人への手紙」 ローマ人への手紙」を学び始めた。 ●今日は、その第三回目である。初回は、序論としての 1 章 1-17 節から「福音としてのキリスト教 信仰」について学んだ。 ●2 回目の先週から「人間の罪」について 週から「人間の罪」について学び始めた。「救い」と一言で言っても、「 めた。「救い」と一言で言っても、「病からの救い」 「貧困からの救い」を筆頭に色々な救いがある。その中で、「キリスト教の救い」が、「どこからの 救い」であるかを明確にするためにこのことの整理は必要である。大 である。大雑把に言って、 (1)先週学んだ 1 章の後半は「異邦人の罪」 人の罪」と呼ばれる部分である。しかし、そこで描かれている罪 は、異邦人だけではない。ユダヤ人をも ヤ人をも含めた全人類の罪に共通するものである。 (2)今日から学ぶ 2 章に描かれている罪も、選民であるユダヤ人の罪を直接的に、中心的に描いてい ると言われる個所であるが、同時にそれはまた、 であるが、同時にそれはまた、全人類に共通した罪である。 した罪である。 1 (3)その意味で、今日ここにおられるすべての人が、今日のメッセージを単にユダヤ人の罪、他人の罪 としではなく、 としではなく、「私たちの罪 く、「私たちの罪、私の罪」の 「私たちの罪、私の罪」の問題として受け留めて頂きたい。 本 論 Ⅰ.パウロが、ここで、まず挙げている罪は、「人を裁く罪である」。 今日は、このことを学びたい。 A. 少なくとも日本語新改訳聖書では、1-5節の間に7回「裁く」と言う言葉が出て来る。 1.1節に3回、2節 、2節に1回、3節に2回、5節に1回の計7回である。 2.この内4回が、「人間が人間を裁く」ことに関してであり、3回が「神が人間を裁かれる」 ことについてである。 3.パウロはここで、ユダヤ人たちが、神様に特別に選ばれた民族、聖なる「選民」と自負して、 して、 傲慢にも、他の民族、異邦人たちの在り方、言動、情況を上から目線で、軽蔑し、批判し、 裁いている姿を、「 を、「それは罪である」 それは罪である」と断罪しているのである。 4.それは、熱心な宗教者の陥り易い罪であり、道徳的で真面目人、正義感の強い人が陥り易い 罪であるが、ある意味で、私たちは皆、「自分は正しい」「自分は客観的にものを見てい る」とする「自己義」が強いので、「人を裁く」罪は、「 」が強いので、「人を裁く」罪は、「万人の罪」 の罪」と言える。 4.7 4.7 回も「裁く」と言う言葉が繰り返されているという事実はこの罪の重要性を物語っている。 B. この問題の重要性:なぜ、この「裁き」「裁く」と言うことが、そんなに重要なのか? 1.第一に、「裁き」の事実は、人生の 第一に、「裁き」の事実は、人生の「 「裁き」の事実は、人生の「厳粛さ」を反映しているからである。 (1)すべての人は、いつか必ず神の「裁き」の座の前に立つのだという厳粛さである。聖書 は言う: ★Ⅱテモテ4章1節 ★ヘブル9章27節 ★ここローマ書2章でも ここローマ書2章でも、 章でも、3、5節で、 節で、パウロは、私たちが神の裁きの前に立つことの 厳粛さを忘れてはならないと強調している。 している。 (2)先日初めてアメリカでアップルピッキングに行かれた方の話:アメリカでは、入場料も 何もなくて、ただで自由に好きなだけアップルを籠なり、何なり なり、何なりの 何なりの入れ物に入れられる ので、いい気になり、夢中になって、楽しく、余り考えないで取っていた。しかし、 っていた。しかし、気 が付いたら途轍もない量になり、出口の清算所で結構お金を払っうことになりビックリ。 ックリ。 (3)私たちは、この自由の時代、特に日 私たちは、この自由の時代、特に日欧米などの自由社会では、人生で何をすることも、 会では、人生で何をすることも、 ほぼ何でも許されていると言える されていると言える。 と言える。しかし、聖書は明確に言う。 しかし、聖書は明確に言う。やがてその一つ一つを 聖書は明確に言う。やがてその一つ一つを 神の前に言い開きをするために、神の裁きの前に きをするために、神の裁きの前に立って清算する日が来ると。 (4)誰も、何人も、この神の裁きを逃れることはできないのである。 2.第二は人を「裁く」 第二は人を「裁く」こと 人を「裁く」ことは ことは、聖書が繰り返し強調し、私達に警戒していることだ していることだからである。 (1)最も代表的な箇所は、イエス様の は、イエス様の「 イエス様の「山上の垂訓」(マタイ 5-7 章)の中、7章 1-5 節 である である。 ★「・・・・・」 ★そこには、他 そこには、他人の間違いや欠点 人の間違いや欠点には、 欠点には、直ぐ には、直ぐに 直ぐに気が付くが、自分のことには意外 くが、自分のことには意外に気が 付かない。 かない。否、気が付いても、自分の欠点 いても、自分の欠点には 欠点には甘 には甘く、人には く、人には厳 人には厳しい。そんな人間の しい。そんな人間の傾 人間の傾 向性への厳 への厳しい警告 しい警告が 警告がある。 ★例話: 例話:①羽鳥明 ①羽鳥明先生のメ 生のメッセージからフィケ からフィケットと言う人の「おかしくないか?」と フィケットと言う人の「おかしくないか?」と 言う言葉 言う言葉の引用「おかしくないか?人が何かを言ったり、したりすると、出 の引用「おかしくないか?人が何かを言ったり、したりすると、出しゃばり と言い、自分がすると、積極 と言い、自分がすると、積極的と言う。人が何かをしないと意 積極的と言う。人が何かをしないと意気地 的と言う。人が何かをしないと意気地なしと言い、自分 気地なしと言い、自分 がしないと、慎重 がしないと、慎重で 慎重で考え深いと言う、などなど( いと言う、などなど(正確な引用ではない) 正確な引用ではない)。②まだ日本で 「障子」が 障子」が普通 」が普通だった 普通だった頃 だった頃の少し昔の話:ある奥 ある奥さんが、 さんが、隣の家のだらしなく破 のだらしなく破れたま まになっている障子 まになっている障子を、「 障子を、「隣 を、「隣の奥さんたら、あの障子 さんたら、あの障子を 障子を直しもしないで、なんてだら しがないこと」と自分の家 しがないこと」と自分の家の破れた障子 れた障子の 障子の穴から見 から見ながら思 ながら思ったという。 ったという。 ★イエス様は、ここで イエス様は、ここで他人の欠点や間違い、罪 や間違い、罪に 、罪に気が付いたら、それをその人に言う前 に、まず、自分にその同じものがないかを点検するべきであると言われる きであると言われる。 と言われる。 2 ★よく言われることであるが、「あなたが、誰かを人 よく言われることであるが、「あなたが、誰かを人差し指一本で、指さすとき、三本 の指(中指、くすり指、小指)があなたを指していることを忘れてはならない」 れてはならない」。 (2)もう一つの (2)もう一つの例はヨハネの福音書8章 1 節からの「姦淫の女」として有名な箇所である。 ★群衆は、「 は、「姦淫」の現場を捕まえられ、大衆の前に引きずり出された女を、寄ってた かって、明らかに「罪ある女」として裁き、当 」として裁き、当然のように石を投げつけて処罰しよう としていた。 としていた。 ★しかし、その前にイエス様がこの女をどのように裁くかを見たくて、イエス様に迫っ た。「モーセの律法ではこの女は石打ちですが、あなたはどうされますか?」と。 ★その群衆に向かって、イエス様は言われた。「あなたがたのうちで、罪のない者が、 最初に彼女に石を投げなさい。」( を投げなさい。」(ヨハネ8章7節)。 ★イエス様は、「この女を裁く前にあなた自身を点検しなさい」と言われたのである。 (3)なぜか? 裁くことは、神さまがすること、神さまだけができること 裁くことは、神さまがすること、神さまだけができることだからである。 、神さまだけができることだからである。 ★パウロも本章 パウロも本章3、5 節で言う。 節で言う。「神の裁きが正しいことを知っている」、 言う。「神の裁きが正しいことを知っている」、「 「神の裁きが正しいことを知っている」、「神の正し 神の正し い裁きの現れる日」 裁きの現れる日」と。神様だけが正しい裁きを行うことができるとパウロは強 神様だけが正しい裁きを行うことができるとパウロは強調す る。だから、神さまを恐れる人は、自分で裁きをせず、 れる人は、自分で裁きをせず、神様に裁きを 自分で裁きをせず、神様に裁きを委ねる。 ★それは、表現や内容も少し異なるが、ローマ 12 章 19 節の終わりの「復讐」に関す る聖書の教えに通じる。 じる。「・・・・」。 ★パウロは、第一コリント書 4 章 4-5 節でも、神さまだけが正しい裁きをなさるのだ から、先走って自分で裁いても、人の裁きで一喜一憂してもならないと言う。 ★人が人を「裁く」ことは、人が神の 人が人を「裁く」ことは、人が神の領域に入ることであり、罪である。しかも、 に入ることであり、罪である。しかも、結果 は、できもしないことをして は、できもしないことをして、 できもしないことをして、かえって、事を かえって、事をメチャクチャにしてしまうのである。 ★私は、かつて比較的ものごとがうまく行っていたころに、余裕のあるところを見せよ うと、傲慢にも言った。「皆さん、するなと言っても、どうせ皆さんは牧師を批判す るときが必ず来るでしょう。だから、批判するなと言いません。批判しても構いませ ん。私は欠点だらけですから。でも必ず、その後、必ずその牧師のために祈ってくだ さい。」と。でも、私は今はそのように言わない。なぜなら、それは間違いだからで ある。 ある。今はこのように言いたい。「それが牧師であろうとなかろうと、そのことが事 実であろうと、なかろうと、一切批判をして、誰かを裁くことはやめましょう」と。 ★なぜか? たとい後で祈ったとしても、神さまの立場に立ち、批判し、誰かを裁いて 判し、誰かを裁いて いる間は、その人の魂は罪を犯しているからである。私たち一瞬たりとも罪に身を委 ねてはならない。それは、必ず更に深い心の暗闇に私たちを引きずり込むからである。 ★だから今は言いたい。批判しないで、裁かないで、祈りましょうと。 C.しかし、ここで大切なことがある。今申し上げて来た「裁く」ことと、私たちが生活の中でしばしば直面する、 人々への忠告や、警告とは、区別しなけれならなことである。 1.この区別、その違いは 別、その違いは、 その違いは、微妙なことが多いし、簡単ではないこともしばしばであるし、 ではないこともしばしばであるし、いつ るし、いつ のまにか、忠告・警告が、批判や裁きに移ってしまう、変わってしまうことも多い。 2.それだけに、その違いをある程度整理しておかないと、いつのまにか裁きの罪に陥ってしま っているのに気が付かないで かないで忠告だと言い張って、実際には裁いていたり、逆に必要な忠 告・警告をしているのに、自分が人を裁いてしまっているのではと、いたずらに自分を 告・警告をしているのに、自分が人を裁いてしまっているのではと、いたずらに自分を責め てしまっていることがある。 てしまっていることがある。 3.それでは、その違いは それでは、その違いは何か? その違いは何か? 「抽象的」であるが、その二つのことの 的」であるが、その二つのことの背後に 二つのことの背後にあ 背後にある「動機」 であり、「愛」のある・なしである。 のある・なしである。 (1)私は、 (1)私は、結婚するときに、家内になる女性である「かおる」に言った。あなたにお願いし たいことは、これから僕にとって、あなたが「ご聖霊」の次の人になってくれることで す。ご聖霊が率直に、正直に私にアドバイスをくれたり、忠告(批判的忠告)をくれたり して、助け主として助けてくれるように、あなたにそういう人になって けてくれるように、あなたにそういう人になって欲しい。牧師に なると、特に年を取るにつれて、人々は遠慮したり、色々な思惑から正直にものを言わ 3 なくなる。そんなとき、一番近い人として、私を見ていて、愛するがゆえに、言うこと ができる、言わねばならない、痛いことも大いに含めたことの言える人になって欲し い。・・・・と。 (2)このような (2)このような妻の、或いは夫の、伴侶者に対する愛するが故の忠告が必要である。 (3)それは、親の子どもに対しての忠告・警告・叱ることの中にも見られる。今でも、冗談 のように長女の「しのぶ」が会話の中で私に言う。「愛しているから言うんだよ」 (That means I love/she love/she you)と。それは、私が 。それは、私が、 私が、うちの子供たちがまだ小さかったこ ろ、叱ったり、スパンク( ったり、スパンク(お尻を叩く)前後に必ず、彼らの目をしっかりと見ながら、或 いは、 いは、抱きしめながら、涙を流しながら繰り返し言った言葉である。「愛しているか ら・・・だよ ら・・・だよ」と。 だよ」と。 (4)破壊的批判と建設的忠告(して良い批判としてはいけない批判)の違いは、ここにある。 即ち、愛するがゆえに、その背後に、痛み(自分が迷惑するからではない、その人自身の ことを思っての) っての)と涙をもって言っているか、 をもって言っているか、否かである。 結 論 ●時間が来ているので、今日は、ここで止めたい。来週もなお、人間の罪、特に、 週もなお、人間の罪、特に、ユダヤ人の罪、宗 教を持っているものの罪、人生で特権を頂いている人の罪、自分が正しいと思っている人の罪、エ リートの罪について、引き リートの罪について、引き続き、神さまからのメッセージとして、聖書から として、聖書からご一 、聖書からご一緒に考えたい。 ●今日は、「裁く」と言う罪についてご一 日は、「裁く」と言う罪についてご一緒に考えた。それが、神の選民としてのユダヤ人の罪の冒 頭に挙げられた罪であった げられた罪であった。しかも 罪であった。しかも 7 回も「裁く」と言う言葉を繰り返してである。 ●それは、「裁く」と言うことが神様にとっては、私たち罪人である人間を扱う上で大きな問題だか らである。私たち らである。私たちは、 私たちは、罪人として神様に裁かれる日が は、罪人として神様に裁かれる日が必ず来る。しかし、神さまは、私たちを る。しかし、神さまは、私たちを愛し ておられるので、私たちを正しく裁き、正当な手 ておられるので、私たちを正しく裁き、正当な手続きをもって赦したいのである。 ●それだけではない。神様は、また、裁き それだけではない。神様は、また、裁き合うコミュニティ ミュニティーではなく、愛し合う愛のコミュニティ ミュニティ ーを私たちのど真ん中に起ち上げたいのである。 ち上げたいのである。 ●そのために、イエス様は十字架にかかられ、死んで 3 日目に甦られたのである。 ●あなたもイエス様を救い主として受け入れ、かつその信仰に深められ、愛のコミュニティ ミュニティーの建設 のために神様と共に、その生涯をとおして働きませんか? 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