1609kogane_no_inochi

10/17
定例法座
JINZUJI
9月のご法座でも、たくさんのご門徒さんにお参り
いただき、尊いひとときを過ごしました。
あゆ
10 月は、七日町の中沢さんファミリーより、鮎の炭
火焼きを振る舞っていただきます。また、八軒町の大
野さん・松本さんより、生ビールを提供していただき
ぶっぽうだんぎ
ます。仏 法談義をしながら、ともに聞き合い、語り合
うひとときを過ごしましょう。
のうこつどう
現在、本堂ではロッカー式納 骨堂設置工事が行わ
れております。10 月中旬には完成し、下旬より利
がっそうしきえいたいくようぼ
用可能となります。城山町内の合葬式永代供養墓は、
11 月下旬完成予定で、来春より利用可
能となります。
神通寺報
PM 1:00 〜
(月) PM 7:00 〜
第 276 号
(2016 年 9 月号)
〒 506-0021
高山市名田町 5-30
明林山 神通寺
住職 朝戸 臣統
0577-32-3614(TEL/FAX)
カラー版神通寺報はこちらから!→
[email protected]
www.jinzuji.com
神通寺報 配布スタッフの皆様(敬称略)
不破 朝子・三枝 勝・黒田 はな・中垣 久美子・中澤 一弘・塚本 清洋・中田 泰子・永富 登代子・
石垣 美代子・洞口 義武・松尾 衿子・片岡 節子・畠山 正一・松本 文男・阿多野 正昭・
柴田 和子・安藤 礼子・成畑 瑛子・大萱 勝・谷口 忠雄・若田 義隆・千原 繁・大野 光夫・
原田 尚子・大村 和弘
配布スタッフ募集地域;緑ヶ丘〜上岡本方面
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第 276 号(2016 年 9 月号)
の
う
り
ょ
う
かなら
り
おさ
ゃ
と
く
ゆいしんしょうもんい
が
へ
ん
じ
す
う
こ
ん
のうりょうがりゃくへんじょう
ょ
能令瓦礫変成金
しんらんしょうにん
あ み だ さ ま
鸞聖人は、
『唯心鈔文意』の中で、
「能令瓦礫変成
こ親
ん
げもん
金」とある偈文のお心を、次のように示されます。
れき
よ
なか
さげす
阿弥陀様の「必ず摂め取って捨てることがない」と
ちか
うたが
う
と
が
のお誓いを、疑うことなく受け止めたそのときに、瓦
た
おも
ひか
かがや
礫(かわら・つぶて)のように、世の中から蔑まれ、
やく
おうごん
か
役 に 立 た な い と 思 わ れ て い る わ れ ら が、 光 り 輝
く黄金(こがね)へと変えられていくのです。
「 い し・ か わ ら・ つ ぶ て 」 が、
「こがね」と変
ほとけ
かんじゅせい
え ら れ る と は、 仏 さ ま の 感 受 性 に よ っ て、 光 り
あまぎしじょうえん
輝 く い の ち の 本 質 を 知 ら さ れ る、 と い う こ と で
もあります。
☆★☆★☆★☆★
ひだそぶっきょうこうしゅうかい
じょうど
みず
はっくどく
先 月 行 わ れ た 飛 騨 組 仏 教 講 習 会 で、 天 岸 浄 圓
先生はこんなお話しをして下さいました。
ぶっせつあみだきょう
『仏説阿弥陀経には、お浄土のお水は「八功徳
すい
つめ
お
と
い
やわら
す
うるお
あた
きよ
やす
水」であると説かれてあります。澄んでいて、清らか
う
のぞ
そだ
くだ
そな
に冷たく、美味しく、軟らかく、潤いを与え、安らか
ば
じょうど
みず
わたし
しゃば
で、飢えを除き、お育てを下さるというはたらきが備
す
わっているのです。
いっしょ
みず
ほんしつ
くどく
う
と
このような素晴らしいお浄土のお水は、私が娑婆で
あじ
みず
なに
ちが
じつ
ほんしつ
味わうお水と何が違うのでしょうか。実は、その本質
かんじゅせい
わたし
ほとけ
けっていてき
ちが
は一緒なのです。お水の本質を、功徳として受け止め
わたし
みず
く
ていく「感受性」が、私と仏さまでは決定的に違うの
です。
どうだい
たか
つ
私たちはお水の功
や や も す る と、
どく
わす
すい
徳を忘れがちであるだけでなく、「水
きんせんてき
か
ち
みず
み
道代が高く付くからもったいない」
じょうど
み
と、 金 銭 的 な 価 値 だ け で お 水 を 見 て
はっくどくすい
ほとけ
かんじゅせい
し ま い が ち で す。 お 浄 土 に 満 ち て い
らん
る 八 功 徳 水 は、 仏 さ ま の 感 受 性 で ご
みず
すがた
しゃば
わたし
かん
覧になられたはたらきをあらわされ
じゅせい
ほとけ
はな
た お 水 の 姿 な の で す。 娑 婆 の 私 の 感
わたし
かん
受 性 が、 仏 さ ま と か け 離 れ て い る か
ら、 私 に は 感 じ る こ と が で き な い の
ご法話をされる、天岸浄圓先生。
第 276 号(2016 年 9 月号)
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きょう
なか
じょうど
とお
い
せかい
と
です。お経の中に、お浄土が遠い世界にあると説かれ
とお
ほんしつ
み
かんじゅせい
はな
わたし
ゆえ
輝いて見えるのだ、ということでありましょう。
あ み だ さ ま
☆★☆★☆★☆★
ぶつりてき
あ み だ さ ま
てあるのは、物理的な遠さを言っているのではありま
わたし
せ ん。 私 と 阿 弥 陀 様 の 感 受 性 が か け 離 れ て い る が 故
おし
ているとは、どういうことなのでしょうか。
阿弥陀様の願いの中にある私たちのいのちが、
では、
「いし・かわら・つぶて」から「こがね」と変えられ
みず
はっくどくすい
に、お水でさえもその本質が見えなくなっている私の
すがた
姿を、八功徳水は教えてくださるのです。』
きを見られない、受け止められないということです。
☆★☆★☆★☆★
実を言うと、つい先日、お風呂のボイラーが故障し
て、業者さんに取替工事をお願いすることになりまし
年齢・性別・職業・収入・国籍・出身地など、様々な
私のいのちが「いし・かわら・つぶて」であるとい
うことは、普段の私たちの感受性が、いのちのかがや
た。十二年間、ボタン一つで当たり前のようにお湯を
自分中心のモノサシで、いのちを区別・選別・差別し
すく
ねた
さげす
われ
ひか
かがや
くべつ
しゅっしんち
沸かしてくれたボイラーや、お湯のありがたさを感じ
ながら、妬みと蔑みのまなざしで相手のいのちを見て
かなら
さげす
こくせき
るというよりも、
「修理代はいくらかかるのだろう?」
いる私たちの姿がここにある、ということです。
ねた
しょくぎょうしゅうにゅう
と、ついつい金銭的な負担のことを考えている私がこ
ほとけ
せいべつ
こにいます。私の感受性はどこまでも自己中心的で、
必ず救う。我にまかせよ。
あ み だ さ ま
阿弥陀様の願いをよりどころとしていくということ
わ
へだ
じょうど
う
は、全てのいのちを分け隔てなく浄土に生まれさせて
ねんれい
ら、壊れてお風呂には入れないと、
「役に立たないボ
仏と成らせる、というはたらきをよりどころとしてい
こせい
さべつ
イラーだ。修理代がかさんで困る。
」としか見ること
くことです。そこには、妬みや蔑みのまなざしはなく、
せんべつ
ができません。しかし、仏さまの感受性からご覧にな
全てのいのちがそれぞれの個性で光り輝くいのちの世
金銭的な価値判断でボイラーやお湯を見ていきますか
る と す る な ら ば、 普 段 か ら お 世 話 に な っ て い た ボ イ
界が開かれています。
な
ラーやお湯の便利さ、素晴らしさ、ありがたさが光り
第 276 号(2016 年 9 月号)
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よく
お
残念ながら、この娑婆世界で自己中心のモノサシを
捨てきることはかないません。様々な苦悩を抱えなが
ら、
「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねた
りんじゅう
いちねん
ねた
さげす
は
から、妬みや蔑みのまなざしでいのちを見ているわた
は
しの感受性が「恥ずかしい」と知らされます。
恥ずかしいから、仕方ないと開き直るのが私の生き
方ではありませんね。恥ずかしいと知らされたからこ
お
むこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるま
そ、少しでも恥ずかしくない生き方をめざしていきた
いつわ
いという、新しい生きる方向が定められていくのです。
でとどまらず、きえず、たえず」というのが、偽らざ
る私の姿なのです。
の 有 り 様 を つ く り 出 し て い た の は、 他 で
み だ さ ま
よう
うなモノサシに
悲 し い こ と に、 そ の よ
はんにん
しょうがい
縛られた犯人により、
「障害を持ついのち
も な い 私 自 身 で あ り ま す。 そ の 私 が、 阿
あ
は 生 き る 価 値 が な い の だ 」 と、 多 く の い
弥 陀 様 の「 摂 め 取 っ て 捨 て る こ と が な い 」
「いし・かわら・つぶて」のようないのち
のちが奪われるという事件も起きてしま
と い う 願 い を よ り ど こ ろ に す る こ と で、
あ
い ま し た。 本 当 に 恐 ろ し い 事 件 で あ り、
そ れ ぞ れ の 個 性 の ま ま に 光 り 輝 く「 こ が
ねんぶつもう
す
絶 対 に あ っ て は な ら な い こ と で す。 た だ
ね」のいのちを感得していくのです。
ねが
ざ さ ず に は お れ な い と い う、 新 た な 私 の
あ み だ さ ま
と
同時に、お念仏を通して、一歩間違えたら、
おさ
私 自 身 も 自 分 の モ ノ サ シ に 縛 ら れ て、 人
お 念 仏 申 す 人 生 と は、 今 ま で の 私 の 生
き 方 が「 恥 ず か し い 」 と 知 ら さ れ、 少 し
うば
の命を傷つけかねない生き方をしている
でも阿弥陀様の願いにかなう生き方をめ
しば
のだと知らされます。
ねが
あ
生きる方向が定められていくことなので
で
阿 弥 陀 様 の 願 い に 出 遇 い、
そ の 私 が、
こせい
ひか
かがや
それぞれの個性のままに光り輝くいのち
す。
あ み だ さ ま
の 世 界 を 聞 か せ て い た だ く の で す。 そ こ
熱心にお聴聞されるご門徒の皆さん。
第 276 号(2016 年 9 月号)
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