33歳、苺キャンディ - タテ書き小説ネット

33歳、苺キャンディ
京 みやこ
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タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
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︻小説タイトル︼
33歳、苺キャンディ
︻Nコード︼
N8521W
︻作者名︼
京 みやこ
︻あらすじ︼
誕生日に彼に振られた理沙。諸々を吹っ切るつもりで、新しい職
場では秘書として張り切っている。ところが、就いた部長補佐とい
うのが少々厄介で⋮。●男前の熱視線にドギマギしながらも、その
視線に篭められた意味に気づかない恋愛面には鈍い理沙。渋みのあ
るイイ男全開で、虎視眈々とチャンスを狙う部長補佐。そんな二人
の恋愛物語。●今まで書いたことのない﹃大人のイイ男﹄を送り込
もうとしています︵笑︶。今気が付いたんですけど、﹃大人のイイ
1
男﹄って、実は肉食系男子ですよね︵爆︶。冷静に罠を張り、徐々
に獲物︵=理沙︶を追い込む部長補佐。ある意味、非常に性質が悪
いかも!?●例のごとく、二人がくっつくまで絡みのシーンはあり
ません。ほのぼので切なくて、でもちょっと笑ってしまう、そんな
お話をお楽しみください。●話数についている︵ ︶は理沙ちゃん
視点、︻ ︼は野口氏視点となっています★作品の舞台や登場人物
が﹃女帝VS年下彼氏﹄に若干リンクしています。先に女帝を読ま
れたほうが、より楽しめると思います。ですが、お読みにならなく
ても、まったく問題ないです。
2
︵1︶涙の誕生日
派遣社員としてこれから大手文具メーカーKOBAYASHIに
出向く一団が、某派遣会社の事務所に集まっている。
小綺麗なメイクにおしゃれな服。
おまけに20代前半の彼女たちはピッカピカに輝いて見える。
若さ
という最大の武器がある
そんな彼女たちをある1人の女性は冷めた目で見ていた。
︱︱︱そんなに着飾らなくても、
んだからいいじゃないのよ。
やや卑屈に構える私、古川 理沙 33歳。⋮⋮独身。
これまで務めていた会社を訳あって辞め、秘書という資格を活か
して新たな職場で頑張ろう!と、意気込んでいた矢先に、自分と彼
女たちの肌の張りの違いに愕然としている最中だったりする。
一歩離れて彼女たちを観察している私に、その中の1人がこちら
を向く。
﹁私たち、これが初めての派遣なんです。古川さんってベテランで
すよね?分からない事、色々教えてください﹂
﹁もうご結婚されてますよね?子育てが一段落したから、職場復帰
ですか?﹂
屈託のないコメント。
そのどれもが容赦なく私の心を抉る。
︱︱︱ベテラン?それって要は﹃老けてる﹄ってことでしょ?そり
ゃ、私ぐらいの歳であれば、大抵の人は結婚しているでしょうけど。
私は⋮⋮、私はね!
3
腹の奥底から怒りがグツグツとこみ上げてくる。
が、そこは年の功。腹立ちを微笑みの下に隠す。
﹁秘書の仕事は長いけれど、派遣社員登録したのはつい最近なの。
私も今回が初めてなのよ。それから⋮⋮﹂
私は左手を胸の前でかざす。
芸能人が結婚記者会見時によくしているお決まりのポーズだ。
しかしそこには光り輝く婚約指輪も、落ち着いた存在感を持つ結
婚指輪もない。
﹁あいにく、私は独り者なの。別にバツイチってことじゃないから﹂
にっこりと笑いかけると、彼女たちの瞳に哀れみの色が浮かんだ。
︱︱︱ふん、なによ。30過ぎて独身でいることの何が悪いのよ!
KOBAYASHIまでの引率者である派遣会社のマネージャー
が諸注意を述べている中、私は心の中でブチブチと文句を垂れてい
る。
︱︱︱好きで結婚しないわけじゃないの!チャンスはあったんだか
ら!
本来であれば、今頃は幸せな結婚に向けて、突き進んでいるはず
だった。
4
5年付き合っていた彼に突然の別れ話を切り出されたのが2ヶ月
前。
私の誕生日だったその日、ウキウキしながら待ち合わせ場所に向
かった。
﹁お待たせ♪﹂
この日ために頭の先からつま先まで、そりゃもう念入りにお手入
れし、精一杯おしゃれをした。
弾む口調で彼に声をかけたら、
﹁あ、別に、そんなに待ってないし⋮⋮﹂
と覇気のない返事が返ってきた。
彼の様子を不審に思い、内心首を傾げる。
そして、原因に思い当たった。
︱︱︱もしかして、緊張してる?やっぱり、今日プロポーズしてく
れるつもりなのね!
長いこと付き合ってきたし、お互いいい歳だし、そろそろ具体的
に結婚の話が出てもいい頃だしね、なんて胸を躍らせてデートを楽
しんでいた。
視線を合わせようとしない彼を、まったく怪しむことなく。
ところが帰り際に、
﹁俺、部長の娘と結婚するから﹂
と、核爆弾級の衝撃発言をプレゼントされた。
5
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
︱︱︱な、なによ、それ!?
寝耳に水。
青天の霹靂。
豚もおだてりゃ木に登る、⋮⋮あ、これは違うか。
とにかく、心臓が止まるほどビックリしたのだ。
顔も体も硬直している私に、彼は決まり悪そうに話を続ける。
﹁じ、実はさ、相手が俺に一目惚れしたって言うか⋮⋮。それに、
出世のチャンスだし。男である以上、出世したいんだよ。分かるだ
ろ?﹂
︱︱︱いいえ、分かりません。
﹁ま、そんな感じなんだよ﹂
︱︱︱そんな感じって、どんな感じよ。
﹁理沙はいい女だから、すぐに次の男が見つかるって﹂
︱−−いい女だと思うなら、別れるなんて言わないでよ!
言いたいことは山ほどあるのに、顔の筋肉が固まってしまって言
6
葉が出てこない。
しばらく経ってやっと口から出てきたのは、
﹁そう⋮⋮﹂
という乾いた一言。
その後は頭を真っ白にしながらも、どうにか帰宅。
ボーっとしてしまっていてよく覚えていない。⋮⋮あ、強烈な平
手を一発お見舞いしてやったっけ。
彼には内緒にしていたが、私は空手2段である。
その私が放った平手は相当な威力だっただろう。歯の1本ぐらい
は折れているかもしれない。
﹁ふん、ざまーみろっての﹂
自宅マンションの玄関でパンプスを乱暴に脱ぎ捨て、リビングに
向かう。
手狭なワンルームマンションだが、モダンでありながら落ち着く
造り。
大事な私の城。
昨日食べたアンパンの袋がそのまま床に落ちているが、城と言っ
たら城なのだ。
その城の奥に鎮座しているベッドに身を投げ出した。
﹁ワンピース脱がないと、皺になっちゃうなぁ。メイクも落とさな
いと、マズイよねぇ﹂
そうは言うものの、体が言うことを利かない。
じわじわと目頭が熱くなる。
﹁私、振られちゃったんだなぁ⋮⋮﹂
7
これまで堪えていた涙が次々と溢れ出し、枕を濡らしてゆく。
﹁ふ、くぅ⋮⋮﹂
食いしばる口元から泣き声が漏れる。
シーツをきつく掴んで必死に堪えるが、涙も嗚咽も止められない。
﹁ううっ、あ⋮⋮﹂
枕に顔を押し当て、私は一晩中泣き明かした。
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︵1︶涙の誕生日︵後書き︶
●﹃女帝VS年下彼氏﹄がままならないというのに、新連載を始め
てしまう無謀な作者のみやこ京一です︵笑︶
途中すったもんだがありまくりな展開になるかと思います。
でも、最終的には﹃恋愛っていいよね﹄と感じていただける作品を
目指して、妄想&爆走してゆきます。
どうぞお付き合いくださいませ。
PS:この作品にサブタイトルをつけるとすれば、﹃アラサー女性
の一発逆転ホームラン﹄って所でしょうかね︵笑︶
9
︵2︶吹っ切れた私
翌朝、鏡の中の私は見事なほど泣き腫らした目をしていた。
とても人に見せられるような顔ではないが、幸いにも今日は日曜
日。会社に行く必要はない。
昨日は悲しくて悲しくて。 30過ぎた大人の女︵自称︶がこんなにも大泣きするなんてみっ
ともないかもしれないが、悲しくて堪らなかった。
それに、誰に見られるわけでもないのだ。
ここにいるのは私1人。
城だというのに、執事も侍女もいない︵当然である︶。
彼氏もいない︵のこのこやって来たらブチ殺す︶。
私は泣きに泣き暮れた。
散々泣き尽くすと、今度は悲しみを通り越して、彼に対する怒り
が渦巻きだす。
﹁こうなったら飲んでやるわ!!﹂
正面に映る自分をキッと睨み付けてから、私はドスドスと大股で
キッチンへ向かった。
空きっ腹にアルコールは危険なので、私は冷蔵庫の中の食材を使
い切る勢いで、次々と料理を作りリビングのローテーブルに載せる。
そして、デート後に彼と飲もうと思って用意していた取って置き
の白ワインを引っつかんで、床に座った。
﹁飲んで、食べて、あんな奴のことなんか忘れてやるんだから!!﹂
こうしてパジャマのまま、1人大宴会をスタートさせた私だった。
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月曜日。
出社早々、上司に辞表を提出。 突然のことで呆気に取られていたが、そこは必殺スマイルを添え
て、辞表を上司の手の中にねじ込む。
今の仕事は好きだし、引き止めてくれる同僚や先輩、後輩もいた
けれど、社内恋愛していた私と彼の関係をそれとなく知っている人
たちが向けてくる哀れみの視線が、とにかくツライ。
後任の子には悪いと思ったが、一日で引継ぎの仕事を叩き込み、
火曜日からは溜まりに溜まっていた有休を消化。
そして、私は会社を去った。
思い返してみれば、私の恋愛はいつもこんな感じで幕を閉じてい
た気がする。
相手からはっきりとした意思表示もなく、なんとなくの流れで付
次こそは、素敵な彼氏を捕まえてみせる!
き合い始め、そして捨てられる。
今までは失恋しても
と息巻いていたが、今回はあまりに痛すぎて早々には立ち直れな
い。
5年という長期に亘る恋愛を失うことは、ことさら大きなショッ
クだった。
おかげで恋愛に対して、かなり臆病になってしまったのだ。
しかし、人間はどん底まで落ちると、あとは吹っ切れるもので。
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結婚していない自分に焦るよりも、開き直って独身を楽しむこと
を選んだ。
友達に言わせると、﹃吹っ切る方向が違う﹄ということだが、こ
れでいいのだ。
奇しくも世の中はお一人様ブーム。
ちょいと年月を重ねたオネエ様にとって、優しい世の中になって
いる。
そんな社会情勢が、私を新しい恋愛からますます遠ざけていた。
派遣先の会社は大手の文具メーカー。
近年では海外での事業にも力を入れていると聞く。
KOBAYASHIにはイケメンが多い
ということ。
成長著しい企業であることも有名だが、他にも点でも有名だった
りする。
それは、
﹃入社基準は顔なのか?﹄と言われんばかりに、イイ男揃いとい
う話である。
だから、私以外の女の子たちは、これから合コンが始まってもお
かしくない格好をしているのだ。
︱︱︱いいわねぇ、若いって。
イイ男たちに注目されたい。
あわよくば、派遣先で彼氏ゲット♪
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恋愛からは一線を引いた私の目には、そんなことを胸に秘めてい
る彼女たちが可愛く映る。
︱−−ま、私は私らしく、真面目に仕事をしようっと。いい同僚に
恵まれるといいなぁ。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、マネージャーの諸注
意が終った。
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︵2︶吹っ切れた私︵後書き︶
●おそらく、このように強引な退職のやり方はありえないかと︵汗︶
ただ、上司としても彼女の退職日まで腫れ物に触るような態度で過
ごすよりは、職場と自分の精神衛生上の安寧を考えて、理沙の有休
にOKを出してしまったというか︵苦笑︶
あくまでも、小説の仮想世界ということでお許しください。
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︵3︶心強い存在
会社に着き、私たちはそれぞれの部署に振り分けられる。
彼女たちはパソコン要員として各部署に。
私は海外事業部の部長補佐秘書として。これまでに重役秘書とし
て積んできた経験を買われたらしい。
マネージャーはKOBAYASHIの担当者に私たちを引き合わ
せた後に、人事部へと向かっていった。
これからの顔つなぎを含めた挨拶といったところだろうか。
不況のこの時代では、なかなか新たに派遣社員を雇い入れてくれ
る企業は少なく、ましてや大企業とのパイプは大切だ。
派遣会社自体の安定と、派遣した社員の安寧のために、マネージ
ャーは頭を下げることを厭わない。
若いとは言えなくなってしまった私の職場探しにも心を砕いてく
れ、そして、若い派遣社員の輪に入っていけない私に心配りをして
くれたマネージャー。
45歳、結婚13年目にしてようやく女の子を授かったパパさん
である彼は、厳しく、優しく派遣社員を見守ってきてくれていた。
歳の離れたお兄さん的存在のマネージャーがそばにいない状況は、
どことなく落ち着かない。
どうやら、私は自分の想像以上に立派な社屋を構えるKOBAY
ASHIに圧倒され、心もとなくなっていたようだ。
︱︱︱いけない。私はもう、小さな子供じゃないのよ。会社の雰囲
気に呑まれて、心細くなっている場合じゃないわ。
彼の背中を見送っていたら、私を案内してくれる方が静かに声を
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掛けてきた。
やや小柄な方で、175センチ近い私に比べて10センチ強の差
がある。
歳は7、8つほど下といったところだろうか。
まだまだ若いだろうが、こうやって外部から人を案内する役を任
されるということは、それなりにしっかりしているのだろう。
﹁では、行きましょうか﹂
﹁はい、お願い致します﹂
軽く頭を下げて、私たちは歩き出した。
綺麗に設えられたエレベーターに乗り込み、ゆっくりと運ばれる。
︱︱︱私が向かうのは、8階か⋮⋮。
ちょっと体が強張った。
実は、エレベーターが怖いのである。
城
である。断固主張させてい
閉所恐怖症ということではない。狭いところが怖いのであれば、
あんな手狭なマンション︵いや、
ただこう︶に1人では住めない。
ただ、子供の頃に乗り合わせたエレベーターが停電により緊急停
車し、1人きりだった私はどうすることもできずパニックになり、
ひたすら大泣きしたという過去がある。 それ以来、エレベーターが苦手だ。
いい歳した大人がこんなことで怖がるところを見せてはいけない
と、隣に立つ案内人に気付かれないようにそっと深呼吸を繰り返し
た。
﹁どうやら、エレベーターが苦手なようですね﹂
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残すところあと1階というところ、無言で階数表示板を見つめて
いた私にやんわりと声が掛けられた。
﹁えっ?﹂
これまで誰にも、それこそ友達にも指摘されなかったことを初対
という顔をしていらっしゃるから﹂
面の人から言われて不思議に思っていると、クスクスと可愛らしい
早く降りたい
微笑が向けられる。
﹁だって、
︱︱︱この人はエスパーか!? 表情もしぐさもそれと分からないようにしていたのに、どうして
この人は気付いたのだろう。
内心驚いていると、ようやく笑いを納めて彼女は言った。
﹁私、感情を表に出さない人の気持ちを読むことが得意なんですよ﹂
総務部 沢田
と書かれていた。
そう言って、改めてにっこりと笑う彼女の胸につけられたネーム
プレートには
エレベーターが目的階に着き、沢田さんに促されて降りる。
数歩後ろを歩く私は、
︱︱︱この人、なんか油断できない。
と、思っていた。
少し小柄で、ふんわりとした優しい雰囲気の人なのに、どことな
く鋭さを持っている。
だけど、恐怖感や威圧感はない。
間違いなく私より年下であるはずなのに、とても安心感を与えて
くれる。
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というプレートが掲げら
新しい職場に対して緊張していた私だが、こういう人が社内にい
海外事業部
ることが分かって心強さを感じた。
8階の廊下を少し歩き、
れたドアを沢田さんがノックして中に入ってゆく。
それに私も続いた。
室内には20代、30代の社員が目立つ。 近年、本格的に立ち上げた部署ということで、若い社員が多いの
だろう。
私たちに気付いた1人の男性がこちらにやってきた。
﹁沢田さん、ご苦労様です。こちらが新しい秘書の方ですね?﹂
﹁そうです。では、私は部署に戻りますので﹂
沢田さんは私を引き渡し、軽く会釈をしてその場を離れる。
なんとなく寂しさを感じて彼女を見遣れば、沢田さんは退出寸前
に私へと視線を向け、にこっと笑いかけてくれた。
それだけで、私の不安は軽くなる。
︱︱︱彼女、やっぱりエスパーだわ。
人の心の機微に聡い彼女と友達になれたら、それこそ心強いもの
だろう。⋮⋮敵に回したら、考えるまでもなく恐ろしいことになる
だろうが。
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︵3︶心強い存在︵後書き︶
●まもなく、まーもーなーく、
捕食者
という名の部長補佐︵笑︶
が登場いたしますので、今しばらくお待ちください!!
●さて、﹃女帝﹄でも大活躍中︵みさ子さんにとってはちょっと厄
介な後輩か︵笑︶︶の沢田さんが、こちらにも登場です。
苺キャンディにおいての彼女の役割は、女帝ほど重要にはならな
いと思います。
⋮たぶん︵汗︶
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︵4︶趣味は身を助ける
沢田さんにもらった笑顔のおかげで無駄な緊張が解れた私は、背
筋をすっと伸ばし、そばに立つ男性に頭を下げた。
﹁古川 理沙と申します。どうぞ宜しくお願い致します﹂
﹁教育係を任された花田です。こちらこそ宜しく﹂
差し出された手に素直に応じて、握手を交わす。
男性の歳は私より少し上ぐらいだろうか。身長も私より少し上。
微笑むと幼く見えるが、卒のない身のこなしや意思の強さが伺え
る瞳はとても頼もしく見える。
そして、穏やかで爽やかな人。
KOBAYASHIのイケメン伝説は嘘ではないのかもしれない。
﹁では早速ですが、ミーティングを始めましょうか﹂
花田さんが部屋の隅へと移動する。それに着いていくと、簡単な
応接セットがあった。
﹁どうぞ、おかけください﹂
声を掛けられ、ソファーの1つを勧められる。
﹁ありがとうございます﹂
腰を下ろすと、花田さんは私の向かいに座った。
﹁既にお聞きかと思いますが、古川さんは僕の退任後、この海外事
業部部長補佐の秘書を引き継いでいただきます。主な仕事は補佐の
スケジュール管理。当社は欧米をはじめアジア圏とも取引があり、
特に中国、韓国との取引が著しいです。時には深夜、早朝問わず、
仕事が飛び込んできますよ﹂
﹁はい﹂
さすが日本の文具メーカートップのKOBAYASHI。勢いの
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ある会社だ。
私はこの会社で働くことが楽しみになってきた。
やりがいを感じることはもちろんだけれど、忙しくしていれば、
失恋なんてあっという間に忘れることができるだろう。
吹っ切れたというものの、時折胸の奥から顔をのぞかせる彼との
思い出を笑いとばせるほど、私は強くなかった。
今の私には、落ち込む暇もないほど忙しくしていることが必要だ。
﹁それと⋮⋮﹂
花田さんは手にしている私の履歴書に目を落とす。
﹁秘書は通訳としても借り出されます。古川さんは中国語と韓国語
を習得されているんですね。これはまさに打って付けです﹂
顔を上げた花田さんが微笑んだ。
﹁当社には英語、ドイツ語、フランス語が堪能な女子社員がいるの
ですが、アジア言語に通じる者がいないんですよ。大抵は英語で済
ませていますが、細かなニュアンスを伝える為には英語では足りな
いので﹂
﹁少しはお役に立てそうで良かったです﹂
私は遠慮がちに頭を軽く下げる。
韓流、華流ドラマブームに乗っかって覚えた言葉は、DVDを字
幕なしで観賞できるほどに上達した。
もちろん、聞き取りだけではなく、話すことも出来る。
韓国人ママさんが経営する焼肉店に行って韓国語でやり取りして
飲み食いしたり、中国人夫婦が経営する中華料理店でやはり中国語
でやり取りして飲み食いするのが私のストレス発散法である。
飲み食いばかりで色気がない発散法だと友人一同に突っ込まれる
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が、それによって自分が癒されるのだから止める気は毛頭ない。
それに、趣味が高じて覚えたことがこうして仕事に役立つのだか
らいいではないか。
まったく、人生何が有益に転ぶか分からないものだ。
﹁僕が退任する日まで一緒に行動してもらいますので、仕事を覚え
てくださいね﹂
﹁はい、分かりました﹂
しっかりとうなずき返すと、満足そうに花田さんが目を細める。
そして、腕時計に目をやって立ち上がった。
﹁部長補佐と顔合わせの時間ですので、こちらへ﹂
花田さんが座っていたソファーから少し離れた所に、そこそこ立
派な木の扉があった。
︱︱︱なんで、部屋の中にこんな扉が?
軽く首を傾げる私にかまわず、花田さんが扉を強めにノックする。
﹁野口部長補佐、お時間です﹂
声を掛けると、中からくぐもった声で返答があった。
﹁失礼いたします﹂ 断りを入れた花田さんと共に、扉をくぐる。
薄暗い小部屋。とても仕事をする環境には思えない。
﹁あの⋮⋮、この部屋は?﹂
小声で尋ねる。
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﹁ここは部長補佐の仮眠室ですよ。先ほども申したように時間を問
わない仕事なので、帰宅できない場合がありますから﹂
︱︱︱なるほど。私はけっこう大変な仕事を抱える人の秘書になる
のね。
でも、それこそ願ったりである。
花田さんはパチパチと照明のスイッチを入れる。
すると視線の先に、1人掛けのソファーに深く腰を掛けている男
性が見えた。
その人はふぅ、と大きく息を吐いてから、目頭を指で揉み解して
いる。
﹁またベッドを使わなかったんですか?﹂
気安い感じで、花田さんが話しかける。上司と部下である関係な
がら、きっといい人間関係が築けているのだろう。 クスクスと笑いながら、花田さんは部屋の奥にあるカーテンを開
けた。
﹁せっかく社長が用意してくださったのに。簡易ベッドとはいえ、
寝心地は悪くないはずですよ﹂
﹁悪くないから困るんだよ。勤務時間内に熟睡してしまったらマズ
イじゃないか﹂
寝起きゆえ、僅かにかすれた声が凄く艶っぽい。
大人の男
の色気
男性に対して艶っぽいという表現は違うかもしれないが、その人
からは明らかに色気が漂っているのだ。それも
が。
﹃犬も歩けば棒にあたる﹄ではなく、﹃KOBAYASHIを歩け
24
ばイケメンにあたる﹄である。
25
︵4︶趣味は身を助ける︵後書き︶
●無駄に大人の色気満載の部長補佐が、いよいよ登場です︵笑︶
大人の男性キャラを書くことが初めてですので、妄想力を限りな
く働かせて書き進めていきます。
26
︵5︶フェロモン神、降臨︵前書き︶
●お待たせしました。野口部長補佐の登場です♪
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︵5︶フェロモン神、降臨
軽く頭を振ってから、その男性はソファーから立ち上がった。
︱︱︱うっわぁ、背が高いなぁ。
女性としてかなり背の高い部類に入る私が見上げてしまうほどだ。
おそらく185センチを悠に超えているだろう。
しかも彼は、ただ単に背が高いだけではない。
薄手のワイシャツを通して伺えるのは、引き締まって適度に筋肉
のついた腕や上半身。スラックスを留めているベルトの位置がやた
らに高く、脚の長さは一目瞭然である。
まるでパリやフランスのファッションショーで悠然とランウェイ
を歩くトップモデルのように、みごととしか言いようのない均整の
取れた身体。
その素晴らしいプロポーションの身体の上に載っている顔も、こ
れまた素晴らしかった。
やや硬そうに見える黒髪は全体的にすっきりと後ろに流し、数本
崩れ落ちた長めの前髪が異常なほどセクシーだ。
髪と同じように黒い眉は凛々しさを描き出しているが、ベストな
太さである為、まったく暑苦しさを感じさせない。
嫌味にならない程度に高くスッと通った鼻梁、若干薄めの唇は上
品に結ばれている。
︱︱︱こんなにかっこいい人が存在していいのか!!⋮⋮待てよ、
ここまで整った外見を持つ存在がそもそも人なのか?宇宙人とか、
妖精とかなんじゃないの!?
28
33年の人生史上初めて出会った超絶美形に、腰が抜けそうにな
っている私。
しかし、彼が天から与えられた美徳はまだあったのだ。
花田さんの横に立つ私に気付いて、口を開く。
﹁君が新しい秘書さんだね?﹂
何より圧倒されたのは、彼の声。
こんなにも耳に心地よい声を今までに聞いたことがなかった。
テノールよりも低く、だけどバスほどは重苦しくない。艶と渋み
を同時に含む奇跡の声。
さっきも思ったけれど、どうしてこんなにも色気が漂っているの
だろうか。
全身からも、声からも、その色気が溢れている。
彼の年齢は38だと、花田さんに教えられていた。
その顔立ちは歳相応の落ち着きを持ちつつも、けして老けている
という印象はなく、こうして目の当たりにしてみると、実年齢より
な
というオプション
THE 大人
も若々しい。本当に良い年齢の重ね方をしている人だ。
︱︱︱私と5歳しか違わないのに、こんなにも
大人の色気フェロモン
雰囲気を持っているなんて。
見た目完璧な上に、
まで携えたこの人はもはや神様。 何もかもが揃いまくっている彼を見て、思わず拝んでしまいそう
になった。⋮⋮だって、なんかご利益ありそうだし。
29
しかし、呆けている場合ではない。
上司から水を向けられたのだ。これからの業務に支障をきたさな
い為にも、きっちり挨拶しなくては。
素早く一歩踏み出し、居住まいを正した。
﹁お疲れのところを申し訳ありません。古川と申します﹂
かつての会社で先輩から徹底的に叩き込まれたお辞儀をする。仰
々しくならないように、それでいて軽々しくもない深さに頭を下げ
た。
契約期間は半年となっているが、下手をしたら期間満了を待たず
に解雇となってしまう場合もある。
だから第一印象は凄く大切なのだと、マネージャーから聞かされ
ていた。
適度に間を空けたところで姿勢を戻す。
ところが、野口部長補佐は何も言わず、黙ったまま。
その顔つきはなんとも表現しがたいもので、私は一気に不安で一
杯になった。
︱︱︱え!?顔合わせから失敗!?
﹁あ、あの⋮⋮、何かお気に障ったのでしょうか?﹂
ビクビクしながら上司の顔を伺うと、フッと目を細められた。
﹁履歴書の写真よりも数倍素敵な方だったので、思わず見惚れてし
まったよ﹂
︱︱︱いやいやいや、素敵なのはあなたですからーーーーー!!一
目惚れはしない主義の私でも、思わずグラリと来ちゃいましたから
ーーーーー!
30
悩殺ボイスに加えてはにかんだ様な微笑を向けられ、もはや私は
腰が抜けるどころか、魂まで抜けそうである。
しかし、部長補佐の言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうほど、私
は世間知らずの子供ではない。
おそらく彼の言葉は、緊張している私を和ませてくれようとした
ものに違いない。
なんて心配りの出来た人なのだろうか。
︱︱︱うん、いい人だわ。この上司となら上手くやっていけそうね。
私はニッコリと笑みを返した。 先ほどの応接セットに移り、花田さんを交えた3人で仕事の引継
ぎについて細かく話し合う。
ローテーブルを挟んで2人掛けのソファーが向かい合わせに置か
れている応接セットには、私の向かい側に花田さんが座り、私の左
側にはなぜか部長補佐が座っていた。
こういう場合、花田さんと部長補佐、もしくは私と花田さんが並
んで座るべきではないだろうか。
しかも、やけに部長補佐と私の距離が近い気がする。
︱︱︱新人の私と早く慣れるため?なんだか分からないけれど、嫌
われていないようだから別にいいか。
1人で納得し、私は花田さんの説明に耳を傾ける。
そんな私と部長補佐を見て、花田さんは面白いものを見つけたと
いわんばかりに目を輝かせていたことを、手元の資料に目を落とし
31
ていた私は気が付かなかった。
ザッと説明を受けた後、今度は皆に紹介するということで3人で
立ち並ぶ。
﹁すまないが、少し手を止めてくれ﹂
よく通る渋い声が海外事業部内に響く。
皆の視線がこちらに向いたのを見計らって、部長補佐が再び口を
開いた。
﹁花田君の後任として入った古川君だ﹂
横に立つ部長補佐にそっと背中を押されて、私は前に出る。
﹁古川 理沙です。どうぞ宜しくお願い致します﹂
頭を下げると、温かい拍手が起こった。
いい上司に加え、いい同僚にも恵まれたようだ。
︱︱︱この職場なら、うまくやっていけそうだわ。
私はそっと胸をなでおろした。 32
33
︵5︶フェロモン神、降臨︵後書き︶
●色気満載なセクシー肉食系上司にロックオンされてしまった理沙
︵笑︶
さて、これからどうしましょうかねぇ︵ニヤリ︶
ちなみに、みやこの中にある野口部長補佐のキャライメージは﹃優
雅な強引野郎﹄です︵爆︶
●いつものように段階を少しずつ踏ませながらの展開ですので、ゴ
ールを迎えるまでに少々時間がかかります。
ですが、これがみやこの作風ですので、ご理解いただけると幸いで
す。
34
︵6︶悪魔で預言者︵?︶な先輩
翌日から花田さんは丁寧に、そして容赦なく私に仕事を叩き込む。
そんな中、まだまだ働き盛りの花田さんが、なぜ今の職を退くの
かものすごく気になっていた。
が、そういう個人的な事情に首を突っ込むのは失礼だろう。
だからそ知らぬ顔で淡々と仕事をこなす日々。
というか、覚える事がありすぎて、そういうことに気を回す余裕
がなかったのが正直な所だったりする。
優しい微笑みを浮かべているにも拘らず、花田さんの背中に黒い
羽根が見えたのは、疲れているが故の幻覚だろうか⋮⋮。
そして引継ぎ期間を終えての花田さんの送別会の最中、端の席で
のんびりと白ワインを飲んでいた私のところに本日の主役がスッと
近づいてきた。
﹁古川さん、私に何か言いたいことがあるのでは?﹂
﹁え?﹂
一瞬ギクリとするが、表情があまり崩れることのない私は、軽く
息を吸って落ち着きを取り戻す。
﹁言いたいことですか?親切にご指導くださって、ありがとうござ
いました﹂
改めて花田さんに向き直り、頭を下げてそう述べると、クスクス
と笑われた。
35
﹁
言いたいこと
ではなく、
訊きたいこと
でしたかね?﹂
パッと顔を上げると、いたずらっ子のような表情をしている花田
さんと目が合った。
﹁気になっているんでしょう?僕が退職する理由﹂
本人からずばりと切り出されて、唖然となる。
﹁⋮⋮私、そんなに知りたそうな顔をしていましたか?﹂
恩ある先輩に不躾な態度を取ってしまっていたのかと、私は恥ず
かしさで顔が熱くなった。
すると、﹃違いますよ﹄と言って、花田さんが首を振る。
﹁僕、かなり勘が鋭いので﹂
もう一度クスリと笑って話し出したのは、そんなに大それた理由
ではなく、奥さんの出産に合わせて育児休暇を取るために一時休職
するのだというもの。
花田さんはいずれ復帰するのだから、契約期間が決まっている派
遣社員を雇い入れる方が好都合だったとのこと。
なるほどね、と納得していると、花田さんは話を続ける。
﹁古川さんは無表情ではないけれど、相手に気持ちを悟らせないタ
イプですね。おまけに、意外なところで鈍かったりする。⋮⋮恋愛
で何度か失敗した経験があるのではないですか?﹂
それは人の粗探しをするような感じではなく、妹を心配する兄の
ように温かい口調。
だから私も素直に頷いた。
﹁実は、つい最近も大失恋をしたばかりでして⋮⋮﹂
苦笑いを浮かべながら、一番最後の失恋を話し出した。
あんな最低男、知るもんか!!
36
そう思っているのに、話していて胸が少し苦しくなる。
なんだかんだ言っても、彼が好きだった。
話しているうちにジワリと目が潤み、気付かれないようにこっそ
り涙を拭く。
そして、暗い気持ちを振り切るようにグラスに残っていたワイン
をクッと飲み干した。
﹁だから、これからはひたすら仕事を頑張ろうって決めたんです。
恋愛はもうこりごりですから﹂
肩をすくめてそう言うと、花田さんがポンッと私の頭を軽く叩く。
﹁仕事に打ち込むのはいいことですが、やはり恋愛はいいものです
よ﹂
﹁そうですかぁ?それは花田さんが幸せなご結婚をされたから、そ
う言えるんですよ。連戦連敗の負け組みな私には、これ以上色恋に
係る余裕がないんですから﹂
ほろ酔いの私はお世話になった先輩に食って掛かるが、爽やかな
笑顔でかわされた。
﹁大丈夫ですよ、今度は失敗しませんから。僕が保障します﹂
﹁今度?何を根拠に?﹂
こんなにきっぱり言ってのける自信はどこから来るのだろうか。
首を傾げると、
﹁言ったでしょう。僕は勘が鋭いって﹂
答えになっているような、なっていないような返事が返ってきた。
そこへ⋮⋮。
﹁こら。上司を差し置いて、2人で楽しそうにしているんじゃない﹂
私と花田さんの間を割って入る様に、部長補佐が登場。お酒のせ
いでほんのり上気した肌が、これまた凶悪なほどセクシー。
その色気を私に分けてくれませんかと、本気でお願いしたいくら
37
いだ。
そんなフェロモン絶賛撒き散らし中のセクシー上司が、なんとな
く私に寄り添っているように感じるのは気のせいだろうか。
傍らに立つ上司を﹃訳が分からない﹄といった態度でしげしげと
眺めている私を見て、花田さんはプッと小さく噴出す。
花田さんが言った意味深な台詞と今の笑いが何を指すのかさっぱ
り分からないまま、送別会は終わりを迎えた。 38
︵7︶戦うオンナの独り立ち
週明けの今日から、いよいよ部長補佐秘書として独り立ち。
出来るオンナ
という感
これまでよりもちょっと気合を入れて、一番お気に入りのスーツ
で出社することにした。
深い藍色と形のいいタイトスカートが
じ。
﹃スーツは男の戦闘服﹄
そんなキャッチコピーをどこかで耳にした事がある。
企業戦士である男性を謳ったであろうこのコピー。
しかし、戦っているのは男性だけではない。
女性の私だって、戦う気満々だ。
職場という厳しい戦場で、世間という荒れる海原で、己の能力を
使い、己の存在を確立する。
権力や暴力で、存在を示すものではない。
力
で相手と対峙するのは、いい歳した大人がすること
示してはいけない。
そんな
ではない。
⋮⋮突然別れを切り出した彼には、問答無用の熱い拳︵あ、平手
か︶で分からせてやったが。
あのことは職場内の出来事ではないし、仕事も絡んではいなかっ
たので、私的ルールに違反していないからいいのだ。
39
﹁あ、もうこんな時間。メイクしなくちゃ﹂
素早くベースメイクを終えて、ポイントメイクに入った。
すっきりとした奥二重の目はともするときつい印象を与えがちだ
が、シックなブラウンのアイシャドウに軽くゴールドのパウダーを
重ねて、柔らかさを心がける。
アイラインとマスカラは、﹃いかにも塗ってます﹄と思われない
ように、うっすらと。
唇にはパールの入っていないローズカラーのグロスを薄く載せて、
落ち着いた雰囲気を出す。
背中の半分ほどまで伸ばした栗色の髪を後ろで1つに縛った。
重苦しい印象にならないように、だけど、派手にはならないよう
に、毛先だけを緩く巻くのが最近の定番。
前髪はサラリと斜めに流す。
その仕上がりは全体的にナチュラルになるように。 友人いわく、﹃理沙って目鼻立ちがはっきりしていて、スッピン
でも美人だよね。だけどさ、がっつりメイクすると、宝塚の男役み
たい﹄らしい。
自分でもそう思う。 もちろん羽も背負ってないし、歌劇の経験もないが。
﹁さ、頑張るわよ﹂
40
メイクを終えた私は用意しておいたスーツに急いで着替え、
を出た。
城
失恋を忘れるためにも仕事に没頭したいと思っていたが、実際は
予想以上の仕事量。
次から次へと書類が回され、ひたすら翻訳。
それを部長補佐に提出したら、すぐさま返答原稿を作成。
その間にも会議や取引先との打ち合わせスケジュールを組んだり、
部長補佐の外出に同行したりと、本当に目の回るような忙しさ。
午後3時を過ぎた頃、思わずため息が零れてしまった。
﹁古川君、少し休憩したらどうだい﹂
﹁えっ?﹂
いつの間にか私のデスクの脇に部長補佐が立っていて、声を掛け
られちょっとびっくりした。
︱︱︱この人は気がつくと私のそばにいるような⋮⋮。
研修期間中も花田さんが私から離れて程なくすると、横か後ろに
立って声を掛けられていた。
なぜだろう。
そんなに頼りなさそうに見えていたのだろうか。
顔を上げると、素敵に微笑む上司と目が合った。
下から仰ぎ見る彼もいい男である。
どの角度から見ても様になっているというのが、いい男の条件な
41
のかもしれない。
︱︱︱野口さん、いつでも隙が無いよねぇ。うん、眼福、眼福。
仕事とはまったく関係の無いことをぼんやりと考えていたが、今
は勤務中なのだということを思い出し、慌てて正気に戻る。
﹁あ、いえ。大丈夫です。次はそちらの書類を翻訳すればよろしい
ですか?﹂
部長補佐が左手に持つ書類に手を伸ばしたところで、彼はスッと
手を引いた。
︱︱︱なんで?
数回瞬きすると、苦笑された。
﹁先ずは一息入れて。その方が集中力が戻ってくるからね﹂
﹁でも⋮⋮﹂
上司を差し置いて自分だけ休憩を取るわけにも行かない。
返事を渋っていると、
﹁私もこれから休憩を取るところなんだ。部下の古川君が手を止め
てくれないと、こちらとしても休憩が取りづらいということだよ﹂
私が気兼ねなく休めるようにと上手く促してくれる。
穏やかな物腰。さりげない気遣い。加えて腰砕け必死の艶のある
声で勧められたら、断れない。
︱︱︱確かに、そろそろ甘いものが食べたかったんだよねぇ。
﹁そういうことでしたら﹂
ここで私がぐずぐずしていると、彼の休憩時間が短くなってしま
う。
42
デスクの上に広げていた書類を手早くまとめて、スッと立ち上が
る。
﹁では、遠慮なく休憩を取らせていただきます﹂
﹁30分以内に戻ってきてくれればいいから﹂
﹁わかりました﹂
答える私に、優しい笑みを浮かべる部長補佐だった。 43
︵8︶大人の私。子供の私。
私は海外事業部を出て、非常階段入口へと向かった。
鉄の扉を開けると、爽やかな5月の風が私の頬をなでる。
﹁今日も良い天気ねぇ﹂
デスクワークが続いたおかげで固まっていた筋肉を解すように、
私は大きく背伸びをした。
そして、ジャケットのポケットから小さな包みを1つ取り出す。
正式に雇われているとはいえ、派遣社員の私としてはこの会社の
正社員達に混じって休憩室でのんびりすることは性格的に出来ない。
大胆不敵なように思われるが、意外なところで小心者だったりす
る。
なので、踊り場のスペースで大好きな苺キャンディを味わうこと
が、この会社での休憩の取り方。
大抵の会社員は息抜きにタバコやコーヒーというのが定番だろう。
仕事に追われたサラリーマンがやや疲れた顔でタバコをくわえ、
ゆったりと紫煙を吐き出す。
その時、小さな幸福を味わう表情がなんとも言えずカッコいいと
思う。
近年は女性の喫煙者も増え、この社内でもチラホラとその姿を目
にすることが出来た。
スラリとした指に挟まれたタバコを静かに口元に持っていく仕草
が、同じ女性ながら色っぽくて好きだったりする。 44
しかし私は気管が弱くてすぐに咳き込んでしまう為、タバコの煙
が苦手なのだ。
おまけにコーヒーは苦くて飲めない。
ミルクたっぷりのカフェオレに、これまたたっぷりの砂糖を入れ
なければ駄目。
市販のコーヒー牛乳も、私にはちょっと苦い。
いつだったか、自宅でコーヒー牛乳を作っていた私を見た友人が、
﹃それって、コーヒー牛乳じゃなくて、コーヒー風味牛乳だよね﹄
と突っ込んできた。
確かに、コーヒー牛乳というには、いささか白すぎる飲み物だっ
た。
そんな私が寝ぼけてブラックコーヒーなんて口にした日には、そ
なのに、
の苦味に悶絶し、15分ほどひたすらうがいを繰り返した。まさに
キリッとした大人のキャリアウーマン
﹃苦い過去﹄である。
私の見た目は
味覚がそれに伴っていない。
そんな私の息抜きアイテムは、甘い甘い苺キャンディ。
︱︱︱いいじゃない。外見に合わせた味覚じゃなくても。
キャンディの包装を破り、口に入れる。
途端に広がる苺の味と香り。
﹁うん。いつ食べても、美味しい﹂
45
そう呟いて、私は階段の手摺りに肘を載せ、頬杖を付く。
この前別れた彼も、今までの彼も、﹃年齢と外見に見合った行動
を取れ﹄と私に押し付けてきた。
私が苺キャンディを食べていると、決まって眉をしかめていたも
のだ。 ﹃大人なんだから、可愛い物を好むな﹄
﹃大人なんだから、子供っぽいものを食べるな﹄
いくらスーツが似合っても。
大人
になりきれるものではない。
いくら仕事が出来ても。
全てが
なのに、そういう私の心情は理解してもらえず、﹃大人でいろ﹄
と押し付けてくる彼氏には素直になれないことも多々あって。
相手のことは好きなのに、どこか捻くれて接する態度の私がいた。
︱︱︱だから振られたのかなぁ。しょっちゅう﹃お前は可愛げが無
い﹄って言われてたしね。
自己嫌悪に陥り、大きくため息。
甘いキャンディを舐めているのに、口から出たのは苦い苦いため
息。
46
﹁いけない、いけない。息抜きに来たのに、落ち込んでどうするの
よ!﹂
誰も来ないし、下からも死角の踊り場ということで、私は塞いだ
気持ちを振り切るために、気合を込めた正拳突きを繰り返した。
47
︵8︶大人の私。子供の私。︵後書き︶
●世の中は割と、イメージ先行型なんですよね。
﹃〇〇さんって、××っぽいですよね﹄と言われると、そのイメー
ジにあった自分を作り上げようとしたり⋮。
大人だから
子供だから
男だから
女だから
そんな枠組みにとらわれて生きている人がたくさんいると思います。
誰か
に出会うことが、幸せに繋がること
時には﹃本当の自分﹄を解放することも大切なことですよ。
飾らない自分を出せる
だと思います。
ちなみに、みやこは会う人に必ず、かーなーらーず、﹃第一印象と
違う﹄と言われます。
黙って座っていれば上品なお姉様に見えるらしい︵苦笑︶
悪かったな。
中身が阿呆の男前で︵爆︶
48
︵9︶だから、負け惜しみじゃないってば
8階の非常階段から見渡す景色はなかなか良かった。
今は初夏に向かう季節ということで、街路樹や遠くに見える小山
の緑が目にも鮮やかで癒される。
煌くような日中の日差しとは違って、夕暮れ前の柔らかな光が辺
りを照らしていた。
周りにビルは建ち並ぶものの、自然が多く残るこの地域を渡る風
は心地よい。
そんな清々しさを味わいながら、キャンディを口の中で転がす。
︱︱︱こういう時間っていいものよねぇ。
しみじみそう感じることが出来るのも、働く環境が良いからであ
ろう。
同僚達は馴れ合いにならない良い距離感で私と接してくれている
し、何より部長補佐の影響は大きい。
以前の会社で秘書をしていた時、担当上司がやたら威張り散らし
て無茶なスケジュールを唐突に押し付けてくるので、毎日四苦八苦
していた。
今の会社も同じように殺人的ペースで仕事が回ってくるものの、
精神的負担がぜんぜん違う。
いや、仕事量としては今の方が断然多いのだが、上司の采配のお
かげでそれほど大変とは思わない。
疲労感はあっても、そこに苦痛を感じることは無かった。
49
﹁ほんと、ラッキーよね﹂
失恋したあげくに、職を追われて派遣されてきたようなものだが、
むしろそれでよかったと思えるほど、この職場は居心地が良かった。
﹁他の子たちの部署はどんな感じかしら﹂
出勤するとまずは自分のデスクで書類を片付け、それが終ると社
内でも社外でも忙しなく仕事をこなす。
おかげで一緒に派遣されてきた派遣社員の子達と顔を合わせる機
会が無かったのだ。
そんなことを休憩中に考えていたおかげか、珍しく退社時に顔を
合わせることになった。
社員通用口に向かって1階の廊下を歩いていると、後ろから呼び
掛けられる。 ﹁古川さん、お疲れ様です﹂
華やかな笑顔で声をかけてきてくれたのは、あの中でも一番気合
いの入った格好をしていた子だった。
ボン、と張ったバストラインが目立つセクシー美人ちゃん。
胸もメイクも服装も、相変わらず素晴らしい。
﹁お疲れ様。調子はどう?職場の方々と上手くやってる?﹂
確か彼女は総務部のパソコン要員として働いていたはず。
尋ねると、
﹁仕事自体は特に問題ないですね。無表情で超コワ∼いお局様が1
人いますけど、職場の人間関係は悪くないと思いますよ﹂
50
男性社員が優しくって、毎日楽しいです♪
くるセクシー美人ちゃん。
と弾む口調で告げて
彼女の小悪魔的魅力とダイナマイトなバストに、女の私だって目
が奪われる。
︱︱︱襟ぐりのやや広いカットソーから見えるデコルテがたまらな
い!⋮⋮って、私は変態親父か!?
コホン、と小さく咳払いをして冷静さを取り戻す。
﹁人間関係は大事だものね。悪くないなら安心したわ﹂
﹁そういう古川さんはどうですか?﹂
﹁毎日書類の山に向き合いつつ、会議や打ち合わせで目が回りそう
よ。だけど、まぁ、こなしているわね﹂
苦笑いを浮かべると、彼女はちょっと驚いたように小さく何度か
頷く。
﹁秘書って、思っていたよりもハードワークなんですねぇ。ドラマ
で見ると、優雅な感じですけど﹂
ここまでは可愛らしく微笑んでの会話であったが、彼女の目が何
かを探るように輝き始めた。
﹁それで、良いオトコはいますか?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
セクシー美人ちゃんが一瞬の間にハンターな雌豹の顔となり、私
は呆気にとられる。
﹁ほら、この会社ってイケメン揃いで有名じゃないですか。もちろ
ん、海外事業部にもイケメンがいますよね?誰が一番カッコいいで
すか?﹂
情報欲しさに私へと詰め寄る彼女。
背の高い私が彼女を見遣れば、ちょうど襟ぐりから覗く胸の谷間
が見えた。
51
︱︱︱うおぉっ、これはたまらん!!⋮⋮っと、だから私は変態親
父じゃないっての!落ち着け、私。
再び意味不明な咳払いをして、口を開く。
﹁そうねぇ﹂
同僚の男性社員たちを思い浮かべた。
みんないい人。
いい仕事仲間。
人柄も、顔立ちも、なかなかに良いメンバー。 その中でも花田さんは爽やか美青年だが、結婚しているので彼女
の求める男性からはずして良いだろうし、彼以上にいいオトコがあ
の部署には居る。
﹁ダントツは野口部長補佐かしらね。顔立ちもスタイルも良いし、
あの渋くて落ち着いた雰囲気は本当に素敵よ﹂
驚いたことに、あの歳でも補佐は独身だった。
仕事が忙しくて婚期を逃した、という話を本人の口から聞いたこ
とがある。
ま、男性は多少結婚が遅くても、女性ほど外聞は悪くないだろう。
それに、あれほど完璧な男性であれば、嫁の1人や2人︵⋮⋮あ、
2人はマズイか︶あっという間に捕まえることが出来るはず。
渋い
と感じるってことは、それなりの歳
ところが、部署一番の男前を教えたというのにセクシー美人ちゃ
んは乗り気ではない。
﹁うーん。古川さんが
ですよね?﹂
52
あからさまに顔をしかめることは無かったが、どうも反応がよろ
しくなかった。
﹁38歳だけど、見た感じはずっと若々しいわよ﹂
ぜんぜんくたびれた感じはしないし、清潔感はあるし、世間一般
で言われる﹃オヤジ﹄とは真逆の人。
だ。
しかも、知的で頼りがいがあるから、社内からはもちろん、取引
いいオトコ
先からの信頼も厚い。
まさに
部長補佐の魅力を語りつつ、花田さんの送別会で取った写メを彼
女に見せてあげた。 ﹁確かにカッコいい人ですね。⋮⋮でも、私にはちょっと歳上過ぎ
るかなぁ﹂
首を傾げて写メを覗き込んでいた彼女が、
﹁やっぱり私は営業部の北川さん狙いでいこうっと﹂ と言った。
﹁北川さん?﹂
﹁はい。この会社で5本の指に入るイケメンですよ。今、23歳な
んですって。実は、他の派遣の子達と一緒に、北川さんとお昼を食
べることになってるんです♪﹂
はしゃぎながら、嬉しそうに報告してくる彼女。
なんていうか、若いなって思う。
ええ、ええ。
私は若くないですが、何か問題でも?その点について、あなたに
迷惑かけましたか?
一人でやさぐれていると、なおも話を続けてくる彼女。
﹁古川さんも、明日社員食堂に来ませんか。イケメンと知り合える
53
チャンスですよ﹂
こうして何の気なしに誘ってくるのは、私をその北川氏に近づけ
ても問題なしと思われているからだろう。
︱︱︱23歳のイケメンは33歳のオバサンを相手になんてするは
ずがない、ということね。⋮⋮別にいいけど。
私としても、10歳も下の男性を気に掛けるつもりはなかった。
負け惜しみではない。
そもそも、今は恋愛よりも仕事だ。
事実、仕事が忙しくて決まった時間に昼食が取れない。
下手をすれば、食堂が閉まる時間になっても仕事に追われている
こともある。
こんな日常の私が、北川氏と食事を取るのはもはや不可能だろう。
ここで改めて言う。
けして負け惜しみなどではないのだ。
﹁お誘いはありがたいけど、昼休みに入る時間が不規則でね﹂
﹁そうですか。ご一緒してもらえなくて、残念ですぅ﹂
大して残念そうでもない顔で彼女は言うと、﹃じゃ、失礼します﹄
と頭を下げて帰っていった。
54
営業部の北川さん
は相当に良いオトコらしい。
︵10︶それって、どういうことですか?
噂によると、
彼女はまだいないということなので、正規の女性社員たちはもち
ろん、派遣社員の子達も、彼の彼女の座を射止めようと躍起になっ
ているようだった。
私と一緒に派遣されてきた彼女達の中で営業部に配属された人は
いないのに、どうやって別の部署の北川さんとランチで同席できる
ことになったのかは不明だが、彼女達の頑張りはある意味賞賛に値
する。
その行動が例の北川さんにとって嬉しいかどうかは、それこそ不
明ではあるが。
実は、男の好みにうるさい彼女達が浮き足立つほどの噂の主を一
目見てみたいと思っている。。
見るくらいは、何の問題も無いではないか。
自分がその彼と恋に落ちるなんて事は、これっぽっちも考えたこ
とはないし。
第一、色恋沙汰はこりごりである。
これは単なる好奇心だ。
とはいえ、分単位のスケジュールに押されまくりの私と、外回り
に忙しい北川さんが顔を合わせる機会など早々簡単には訪れない。
ましてや国内での取引が中心の営業部と、海外事業部ではあまり
接点が無いのである。
55
︱︱︱私の契約期間が切れるまでには、一度くらい会えるでしょ。
そんな風に暢気に構えていたら、チャンスはいきなりやってきた。
梅雨に入り、曇天広がるある日の午後。
韓国からのお客様を接待した帰り、社員通用口に差し掛かる前で
部長補佐の携帯電話が鳴った。
彼は私に向かって片手を挙げ、数歩離れて電話に出る。
かすかに耳に入る口調からすると、出張している部下からの報告
を受けているようだ。
話はなかなか終りそうに無いが、1人で先に海外事業部に戻るの
もなんとなく憚られ、私は入口のところで待つことに。
その時、若い男性社員2人が外回りから帰ってきた。
ってさ。明日は
私に比べて一回りほど歳下の彼たち。1人は楽しそうで、もう1
また一緒にランチしましょ
人は見るからに不機嫌。 ﹁派遣の女の子達が
比較的外の仕事も少ないから、食堂に行けるよな﹂
ちょっとお調子者な感じのする社員が、先を歩くもう1人の社員
に話しかけている。
﹁俺は行かない。この前の昼食も、騙まし討ちだったじゃないか。
是非、営業部の方とご一緒したい
って
俺は派遣の女の子達と一緒に食事するなんて、聞いてなかったぞ!﹂
﹁だって、派遣さん達が
言うからさ。可愛い子から頼まれたら断れねぇよ﹂
﹁それなら、岸1人で行けばよかったじゃないか。お前だって、れ
っきとした営業部社員なんだからよ。俺は、静かに飯を食いたいん
だ﹂
56
眉間に皺を寄せてズカズカと足を進めていく彼。
不機嫌オーラが全開である。
﹁何でそんなに嫌がるんだよ?綺麗どころに囲まれて、すっごく楽
しいじゃん﹂
﹁とにかく、俺は絶対に行かないからな!﹂
と呼ばれた男性は振り向きもせず、スタスタと歩いていっ
﹁おい、待てよ北川っ﹂
北川
てしまった。
︱︱︱へぇ。あの人が噂の北川さんかぁ。
凄く長身ということではないけれど、全体のバランスが取れてい
るからスタイルがよく見える。
顔立ちに少しばかり幼さが残っているけれど、キリッとした眉、
形のいい目、筋の通る鼻はどれも絶妙の配置だ。
やわらかそうな茶色の髪が、彼の印象を更に良くしている。
さっきはしかめっ面だったけれど、あの彼が笑顔になれば女性に
対して恐ろしいほどの威力を発揮することだろう。
﹁あぁ、なるほどねぇ。あれだけ格好良ければ、女性達に騒がれる
のも無理ないわ﹂
ポツリと呟けば、私のセリフに被さるように声がした。
﹁あんな歳下の男じゃなく、俺にしておけ﹂
︱︱︱え!?
背後からの突然の声にびっくりして、勢いよく私は振り返る。
57
数歩離れた所に、電話を終えた部長補佐が立っていた。
﹁野口補佐?﹂
キョトンとして名前を呼べば、彼は目をフッと細める。
﹁そういうことだ﹂
短く答えると、部長補佐は通用口に入っていった。
︱︱︱俺にしておけって、何?そういうことって、どういうこと?
﹁女性の人気を独り占めしたいのかしら⋮⋮?﹂
私は先を歩く彼の背中を見つめながら、大きく首を傾げた。 58
︵11︶可愛い?この私が?!
部長補佐の発言は結局理解できず、かといって改めて尋ねること
も出来なかった。
が、﹃それほど重要なことではあるまい﹄と、自己判断を下す。
というよりも、ヨーロッパ市場とアジア市場の取り纏めで忙しく、
部長補佐に訊く余裕が無いのだ。
今日も立て続けに打ち合わせが入り、4時を回ったところでよう
やくミーティングルームから開放される。 この会社の3階にはミーティングルームが5つあり、社員同士の
打ち合わせによく利用されていた。
また、小綺麗なソファーセットが置かれているので、応接室に空
きが無い時はお客様をお通しすることもある。
そこそこ座り心地のよかったソファーだが、私はやや疲れ気味。
たかが打ち合わせと侮るなかれ。
下調べやら、データの取り寄せやら、資料の翻訳やら、1つの取
引で私が関わる仕事にはそう簡単に終わりが見えない。
でも、手を抜くことなんて絶対にしたくないから、ひたすらに頑
張っている。
部屋を出たところで、部長補佐が口を開いた。
佐々木みさ子さんに似ている
と、何度と
﹁つくづく思うのだが、古川君は総務の佐々木君に似ているな﹂
入社してから、私は
なく言われてきた。
59
﹁部の方々にも言われましたよ。私はまだ彼女にお会いしたことが
無いので分からないのですが、そんなに似ていますか?﹂
﹁ああ。仕事に生真面目な所とか、全体的な雰囲気とか﹂
そう部長補佐が言ったところで、私達が居た部屋よりも2つ先の
ミーティングルームから人が出てきた。
我が海外事業部の上田部長と、私ほど長身ではないもののスラリ
とした女性だった。
肩の辺りで切りそろえられた黒髪、硬質なイメージを与えるシル
バーフレームの眼鏡、濃いグレーのパンツスーツ。
その女性の印象は、あまり、というよりぜんぜん甘さも柔らかさ
も無かった。
﹁佐々木君、急に通訳を頼んですまなかった﹂
﹁いえ、お役に立てて幸いです﹂
とても落ち着いた声の女性が部長に返事をした後、こちらの存在
に気が付いて顔を向ける。
そして私と目が合うと、軽く頭を下げてきた。
︱︱︱この人が佐々木さんなのね。
似てると言われれば、そうかもしれない。
隙の無い感じや、仕事に妥協しないところとか。
ただ、おそらく歳下であるはずの彼女から感じ取れる威圧にも似
たオーラは何なのだろう。
そう言えば誰かが
﹃佐々木さんの無言の圧力って怖いよなぁ。さすが女帝﹄
と言っていたっけ。
60
そんな風に聞いていたから、もっと尊大な態度の人なのかと思っ
ていたけれど、私には分かる。
︱︱︱この子、本当は凄く優しい人だわ。
可愛い人
だと思う。⋮⋮私とは違って。
眼鏡のレンズの奥にある瞳は一見すると冷たそうだが、真っ直ぐ
でとても綺麗だ。
それに、本来は
可愛げが無いと、何度も彼に言われ。
でも、どうやったら可愛く振舞えるのかも分からず。
気付けば、別れを切り出される始末。
︱︱︱彼氏にすら、可愛いところを見せられなかったんだもの。私
を捨てて他の女性との結婚を選ぶのも当然ってことよね。
振られた時に比べればだいぶマシにはなったが、チクン、と胸の
奥が痛くなった。
廊下を歩いてゆく佐々木さんの背中を見つめながら、そっとため
息をつく。
すると、穏やかな声で呼ばれた。
﹁古川君﹂
ハッと見上げると、心配そうに私を見ている部長補佐の視線が。
﹁急に黙り込んで、どうかしたのかい?﹂
﹁あ、いえ⋮⋮。佐々木さんは私より歳下かと思うのですが、なん
だか圧倒されてしまって﹂
61
自分の心情を上司に愚痴ることも出来ないので、さっき感じたこ
とを口にした。
可愛い人
だと思います。見た目は綺麗という
﹁ははっ。佐々木君は見た目通りに厳しい人だからね﹂
﹁ですが、きっと
感じですけれど﹂
︱︱︱私に似ているようで、ぜんぜん似ていない。
そんな私の心の呟きが聞こえたかのように、
﹁古川君も可愛い人だよ﹂
と、耳に心地よい声で部長補佐が言った。
﹁⋮⋮今、なんと仰いましたか?﹂
︱︱︱まだ33歳なのに、もう耳が遠くなったのかしら?!
信じようにも到底信じられない彼の言葉に、思わず聞き返した。
古川君も可愛い人だよ
と言ったんだ﹂
すると、今まで私の左側に居た部長補佐が正面に回る。
﹁
ゆっくりと、そしてはっきりと唇を動かした。
古川君も可愛い人だよ
?⋮⋮可愛い!?この私が!?
さすがに今度は聞き逃さなかった。
︱︱︱
62
寝耳に水どころか、睡眠中にバズーカ砲を乱射されたような発言
内容に、私の顔は噴火寸前で、頭は爆発寸前。
﹁えっ、あっ⋮⋮、そ、そんなことないです。あ、あのっ、私、今
まで男性からそのように言われたことがありません。一度だってあ
りませんからっ﹂
しどろもどろになりながらも、どうにか言葉を返すと、
﹁へぇ﹂
少しばかり目を瞠って、部長補佐に驚かれた。
︱︱︱何よ、その目。人を珍獣みたいに見ないでよ⋮⋮。
失礼ね、と思いつつも正面から上司を睨むわけにもいかず、無表
情になる。
すると、彼がフッと表情を緩めた。
﹁これまで君の周りにいた男どもは、女性を見る目がぜんぜん無い
な﹂
あははっと楽しげに笑いながら、部長補佐は歩いていってしまっ
た。
1人残された私は、徐々に小さくなる背中を見遣りながら瞬きを
繰り返す。
﹁なにが言いたいんだろう⋮⋮﹂
しばらくぼんやりと考えて、1つの結論に行き着く。
63
︱︱︱そっか。急に元気の無くなった私を、リップサービスで慰め
てくれたのね。
まったくもって、心配りの行き届いた上司だ。
﹁っと、いけない!呆けている場合じゃないわ!﹂
まだまだ今日の仕事は残っているのだ。
私はすっかり遠くなってしまった背中を慌てて追いかけた。
64
︵11︶可愛い?この私が?!︵後書き︶
●次回、予定では野口氏SIDEでのお話になります。
下書きしている途中、彼の言動に何度となくみやこの顔に苦笑いが
浮かびます。
﹁こんな男に捕まったら、理沙ちゃん大変だなぁ。⋮ピンクな意味
で﹂と︵笑︶
野口氏、ヤバイと思います。
みやこ作品史上、﹃恋は盲目病﹄の最重症患者かもしれません︵爆︶
65
︻12︼結婚したがらない男︵前書き︶
今回は野口氏視点でのお話です。
サブタイトル前の話数表示で︵ ︶は理沙視点、︻ ︼は野口氏視
点となります。
66
︻12︼結婚したがらない男
穏やかに晴れ渡ったある春の日の午後。
大学時代からの友人の結婚式に招かれていた俺は、ガーデンパー
ティーに参加していた。 綺麗に整えられた芝、きちんと刈り込まれた木々、手入れの行き
届いた花々は新たな門出を迎えた新郎新婦の初々しさと相まって、
とても感じのいい庭だ。
︱︱︱38のあいつが7つも歳下の新婦と同様、初々しいってのも
おかしいか。
キリッと冷えた白ワインを堪能しながら、俺はクスリと笑う。
そんな俺の傍に、この席に参加しているやはり大学時代からの友
人の1人である田所がやってきた。
お互い手にしたグラスをカチンと軽く合わせ、結婚した友人を祝
して飲み干す。
﹁阿部の奴、鼻の下伸ばしっぱなしでだらしない﹂
﹁あいつにはもったいないくらいに可愛い嫁さんだよ﹂
今日の主役を眺めつつ、俺と田所は仲の良い友人ならではのこき
おろしを口にする。
そんな軽口の応酬をしばらく続けていると、田所が不意に呟いた。
﹁俺達の仲間内で、独身はとうとう野口だけになったなぁ﹂
空いたグラスに自らワインを継ぎ足しながら、田所がしみじみと
言う。
67
そういう田所は、自身の大学卒業と彼女の短大卒業を期に結婚式
を挙げたのだった。
嫁さんは2つ下の幼馴染。
彼らの母親同士は高校の同級生で仲が良く、結婚後もたびたび互
いの家に遊びに行っていたという。そこで、たまたま連れられて行
った時に紹介された女の子に一目惚れしたとか。
10歳の頃からずっと彼女を一途に想い続け、深く想うあまり逆
に気持ちを告げられずに過ごすこと10年。
田所が大学2年の時、玉砕覚悟で告白したら、はにかんだ笑顔で
OKしてくれたとのこと。
﹃あの時の笑顔がたまらなく可愛かった!もう死んでもいい!﹄と、
翌日、恋愛成就の報告と共に惚気まくった田所は、
﹃だったら死んでしまえ!﹄と、俺達から友情に厚い祝福︵?︶の
言葉を受けた。
結婚して15年が過ぎ、それでもいまだに仲がよすぎる田所は事
ある毎に結婚の素晴らしさについて語ってくるが、俺にはその気が
無い。
﹁放っておいてくれ。気楽な独身生活が俺には合っているんだよ﹂
昨年、海外事業部の部長補佐に抜擢され、周囲からは異例のスピ
ード昇進と囁かれた。
社内の地位も給料も跳ね上がったが、その分、肩にのしかかるプ
レッシャーも跳ね上がった。
しかし、新たな事業を展開していく自分の仕事に誇りを持ち、そ
68
れがまた自信へと繋がってゆく。
仕事人間の自分としては、結婚して家庭に縛られるよりも、今の
まま仕事に打ち込める独り身は万々歳なのである。
と思える女性
﹁お前の性格を考えれば、それも分からなくはないけどさぁ。そん
なに仕事ばかりで寂しくならねぇのか?﹂
俺を哀れむような目を向ける田所。
これは
フッと小さく笑って、僅かに肩を竦める。
﹁仕方が無いだろ。こんな俺のことを覆す
に出会えないんだからさ﹂
女性が嫌いなのではない。
これまでに何人かの女性と付き合ってきたこともあるが、どうも
長く続かない。
いつも気持ちが途切れてしまうのだ。
付き合っている相手に対して執着心が持てない。
それが、交際の続かない理由。
過去に自分から交際を申し込んだことは無く、相手からの誘いで
付き合いが始まるのだが、そこに多少なりとも好意が合ったからこ
そ付き合い始めたわけで。
なのに、どんなに時が過ぎても相手の女性を深く愛することが出
来ず、それが申し訳なくなり、別れを切り出す。
それを何度か繰り返しているうちに、女性と付き合うことが馬鹿
馬鹿しくなり、ここ数年は誕生日もクリスマスも一人で過ごしてい
た。
69
花嫁の横で幸せそうに微笑んでいる友人を見て、俺は苦笑いを浮
かべる︱︱︱自分には、おそらく縁がないであろうあの笑顔。
そんな俺を見て、田所は同じように苦笑した。
﹁無駄に理想が高いんじゃねぇのか?なぁ、具体的にはどんな女が
タイプだ?﹂
﹁そう言われても思い浮かばないな。俺は恋愛に関して冷めている
のかもしれない﹂
これまで自分から女性にのめり込んだこともないし、別れた元彼
女達に対して多少の罪悪感は抱くものの、未練は一切無い。
そう自己分析すると、田所は俺のグラスにワインをドボドボと継
ぎ足す。もちろん、自分のグラスにも。
﹁いや、そういう奴ほど本気の恋に落ちるとハンパないハマり方す
るからなぁ。寝ても覚めても、頭の中は彼女一色♪って感じでさ﹂
﹁ははっ、そんな自分は想像も付かない﹂
女性を想って時を過ごすことなどありえないのは、これまでの経
験上よく解っている。
﹁なんだよぉ。寂しい事言うなって∼﹂
俺の肩をバンバンと叩く田所。こいつは酔うと必ず絡み酒になる
のだ。
これ以上興味の無い恋愛談義をされても面白くないので、適当な
理由をつけてその場を離れた。
70
︻12︼結婚したがらない男︵後書き︶
●野口氏サイドの話を執筆しながら、彼につけたニックネームは﹃
野獣紳士﹄。
﹃羊の皮をかぶった狼﹄などと言う表現では生ぬるいです︵笑︶
これから数話は野口氏サイドが続きますが・・・。
お願いですから、ドン引きしないでください!!
理沙に対する愛情が深すぎるだけなんですぅ!!
71
︻13︼見つけた⋮⋮
塀のように植えられているやや背の高い垣根に沿って歩いている
と、なにやら声がした。
この外側はちょっとした広場に面しているので、通行人がいても
おかしくはない。 ⋮⋮が、聞こえてくる口調は少々おかしかった。
と言うより、穏やかではなかった。
漏れ聞こえてくる話からすると、一組の男女が別れ話をしている
ようだ。
男性には他に好きな女性が出来、近々その新しい恋人と結婚する
のだとか。
庭の内側では、今日結婚式を迎えて幸せ一杯の2人。
庭の外側では、その真逆の展開。
︱︱︱なんだか妙な空間だな。
他人の痴話喧嘩に興味の無い俺は、再び足を進めようとする。
その時、植え込みの隙間から意外な光景が目に飛び込んできた。
外側に立つ男女の横顔が見え、互いに向き合っている。
そして︱︱︱。
﹁そう﹂
と、簡素に呟いた女性が強烈な平手を繰り出した。
バッチィィィィィン!!
72
凄まじい
の一言に尽きる頬を打つ音。
︱︱︱えっ!?
思わずその女性に目が釘付けになった。
大抵の女性は別れを切り出されると必死に媚を売って泣き縋るか、
ヒステリックに喚き散らすといった、この2パターンの行動を取る。
実際そんな場面を自分や、知人の別れのシーンで何度と無く見て
きたのだ。 ところが、目前で繰り広げられた光景は一度たりとて目にした事
がなかった。
︱︱︱こんなバイオレンスな女性、見たことがない⋮⋮。
自分が今まで経験したことのない別れ際の行動を示した女性に、
呆然となる。
俺が呆気に取られていると、女性は静かに手を下ろし、歩道でも
んどり打つ男性にクルリと背を向けた。
だった。
その瞬間、今まで我慢していたのであろう涙が堪えきれずに、雫
大人の女性
がツ⋮⋮と彼女の頬を伝う。
彼女は見るからに
しかし、強烈な平手を迷うことなく相手にお見舞いする豪胆さ。
そして、少女を思わせる儚く可憐な泣き顔。
その様子はとてもアンバランスなのに、それがやけに俺の心を惹
き付けた。
73
突然、俺の中で
なにか
見つけた、と思った。
欲しい
が目を覚ます。
と感じた。
恋愛に本気になれなかった自分の心を、ほんの一瞬で鷲掴みに
したこの女性を
仕事以外に達成感を見出せず、たった一人の、しかもほんの僅か
な時間垣間見ただけの女性によって、これまでの自分が根底から覆
された。
だ。
愛しさ
を超えて、マグマのよ
愛すべき女性がこの世に存在していたことを知り、俺の身体の奥
底が熱くなる。
執着
それは、柔らかな温もりを抱く
うにドロリと熱い
俺の出来る限りを与えて、甘やかして、愛して、そして彼女の身
も心も全て奪い尽くしたい。
彼女の中を俺だけで満たしてやりたい。
他の女はもう要らない。
彼女でなければ、一切意味がない。
彼女を手に入れなくては、一生後悔するだろう。
万が一、自分以外の男に彼女が囚われてしまえば、俺はその男を
殺しかねない。いや、確実に殺す。そして、この腕に彼女を捉える。
狂気とも思えるこの感情に、人知れずそっと苦笑を漏らした。
74
75
︻13︼見つけた⋮⋮︵後書き︶
●野獣紳士の片鱗を窺わせますねぇ。
﹃恋をすると人は変わる﹄と言いますが、野口氏、変わりすぎじゃ
ない?︵笑︶
野口氏サイドのお話は、こんな感じで進みそうです。
しかし、理沙ちゃんを完全に手中に収めるまではガツガツは行かな
い予定。
手に入れちゃったら⋮⋮︵ニヤリ︶
76
︻14︼底知れぬ黒い微笑み
しかし⋮⋮。
ふと気がついた時には、彼女は背を向けて足早に立ち去っていた。
先ほど見た彼女の顔は、植え込みの葉に邪魔されてはっきりとは
分からない。
なぜ、すぐさま追いかけなかったのだろう。
どうして、この腕に抱きしめなかったのだろう。
﹁くそっ﹂
自分の失態に、思わず舌打ち。
が、スッと1つ息を吸ってすぐに冷静になる。
植え込みを抜け、叩かれた頬を押さえて倒れている男に歩み寄っ
た。
﹁大丈夫ですか?﹂
男に手を差し伸べ、引き上げてやる。
﹁あ⋮⋮、す、すいません。おお、いってぇ﹂
顔を歪めて頬を擦る男は、彼女が歩いていった方向を睨みつけて
いた。
﹁ったく、女のくせに⋮⋮。最後まで可愛げのない奴だ﹂
憎憎しげに吐き捨てる男のセリフに、カチンとくる。
﹁自分の度量が狭くて彼女の魅力を引き出せなかった上に、交際中
の彼女がいながら出世の為に他の女を選んだことを棚に上げるとは
77
⋮⋮。いやはや、なんとも見下げた根性だ﹂
男に聞かせるつもりもなく、ボソリと低く呟いた。
ろくでもない男に限って、﹃女のくせに﹄という口癖があるよう
に思う。
ならば、逆にこの男に言いたい。﹃男のくせに、女性を泣かせる
とは何事だ﹄と。 ﹃女のくせに生意気だ﹄
﹃女のくせに出しゃばるな﹄
それはまったく意味を成さない、完全なる女性蔑視。
男と女は、別の生き物だ。生物学的にも社会的にもその役割が分
かれているが、男性の役割が女性より優れていることにはならない。
一般的に言って、男性の力強さは女性には持ち得ないもの。背の
高さや、体格の良さなどもそうだ。
だからといって、﹃自分は男だ﹄という、なんの後ろ盾もない根
拠だけで女性を軽視できる理由などにはならない。
そして、女性だから常にか弱くあるべきだとも思わない。腕っ節
が強いのもまた魅力の内だ。
自分は女性を低く見てもいないし、かといって崇拝をしているわ
けでもない。﹃人間﹄として、同列の存在だと思っている。
男だから出来ることがあり、また、女性だから出来ることがある
のだ。
そんな諸々の腹立ちがあるが、とりあえずは押し隠す。
78
﹁は?今、何を?﹂
俺が何を言ったのか聞き取れなかった男が訊き返してくるが、差
し当たりの無いない笑顔を向ける。
﹁いえ、何でもありませんよ。ところで、あなたにお伺いしたいこ
とがあるのですが﹂
﹁なんですか?﹂
いきなり現れた初対面の男に﹃伺いたいことがある﹄と言われて、
いぶかしむ事を隠しもせず、ジロジロと俺を見る。
こんな男の手を借りるのは吝かではないが、彼女に繋がる手立て
はコイツしかないのだ。
彼女のことを知る為なら、頭を下げることも厭わない。
﹁先程、あなたとご一緒だった女性のことを教えていただけません
か?﹂
爽やかな笑顔を浮かべて、男にそう言った。
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
たっぷり間を空けて、その男が一言呟く。
ポカンとしている男に、俺は改めて言った。
﹁立ち去ったあの女性のことを教えてください。取り急ぎ、名前と
住んでいる所を﹂
﹁何の為に?﹂
口を半開きにして、相変わらず間抜け全開な男の表情。
そんな男に向けて、静かに笑う。
﹁彼女を手に入れるためですよ﹂
それを聞いて、今までぼんやりと呆けていた男の目がカッと開い
79
た。
﹁あ、あ、あんた、本気で言ってんのか!?﹂
俺はゆっくりと大きく頷く。
﹁ええ、もちろん本気ですよ。いい歳の男が、ふざけてこんなこと
を言うと思いますか?﹂
さも、当然といった表情で言い切ると、その男は目を丸くしたま
ま大声を上げる。
﹁何考えてんだ!?あいつは俺が別れを切り出しても、涙1つ見せ
ないような冷たい女だぞ!おまけに、男に暴力を振るうとんでもな
い女だぞ!﹂
好物は苺味の飴だ
とか、ふざけたことを抜か
男は平手を食らった腹いせか、次々に彼女に対する暴言を吐く。
﹁30も過ぎて、
しやがる。小さな女の子じゃないんだ。自分の歳や外見とのバラン
スも考えられない、ホントくだらない女だぞ!﹂
そこまで一気に言うと男は大きなため息をつき、﹃理解できない﹄
といった目を俺に向けてきた。
﹁あんたは男の俺から見てもなかなかいい男だ。それが、あんなク
ソ女を手に入れる?ははは⋮⋮、信じられねぇ﹂
男はほとほと呆れたように乾いた笑いを浮かべる。
俺は利き手を固く握り締めた。
︱︱︱⋮⋮いや、駄目だ。彼女について、何も聞き出せていない。
﹁それで、教えていただけるのですか?﹂
今にも殴りかかりたい衝動を必死に堪えて再度請うと、男は合点
がいったとでも言うように口元を下品に緩める。
﹁ああ、それとも、遊び相手にするつもりか?それなら分かるさ。
可愛げはないが、身体だけは結構いい女だからよ﹂
これまでに重ねた彼女との情事を思い出したのだろう。ニヤニヤ
と下卑た笑いを浮かべている男。
80
そんな男の言葉と態度に俺の肝がスゥッと冷え、悪魔が裸足で逃
げ出すほど冷酷な瞳で男を見遣った。
今の俺は、視線だけで人を殺せる自信がある。それほどまでに腸
が煮えくり返っていた。
その鋭い視線に、男がビクッと震える。
﹁自分の不甲斐なさを反省することなく、彼女を愚弄するとは⋮⋮。
まったく、男の風上にも置けない人間だな。彼女がクソ女?ふん、
馬鹿なことを。どうやら性根も目も腐っているようだ﹂
︱︱︱あの可愛らしさが分からないとは、残念な男だな。
俺は同情の色を浮かべる。
いや、彼女の魅力がこんなクソくだらない男に理解されなくて、
反って幸いだ。
おかげで、彼女は今、自由の身なのだから。
﹁お前のような狭量な男には相応しくない。私が彼女の傍にいよう﹂
そのためには情報が必要だ。
俺はゆっくりと男に向けて手を伸ばす。
そして、笑顔と共に、男の胸座をがっちり掴んだ。
﹁⋮⋮教えてくれるよな?﹂
それは、魔王が土下座して泣き叫ぶほどの暗黒な笑顔だった。 81
︻15︼天使が
彼女
を連れてきた:1
あの男から聞き出した彼女の名前は古川 理沙。先日の誕生日で
33歳になったところだと言う。
住んでいる所は、俺が暮らすマンションから車で1時間ほどのと
ころ。
行こうと思えばすぐにでも行ける距離だが、いまだにそれは叶っ
ていない。
いや、彼女の住むマンションまでは行った。
時折、偶然出てきた彼女の様子を遠巻きに伺うこともした。
が、それ以上の行動を起こしてはいなかった。⋮⋮起こせなかっ
た。
見ず知らずの、なんの接点も無い男がいきなり尋ねて行っても、
門前払いを食らうだろう。
﹃あなたが好きです﹄と突然申し出ても、単なる変質者扱いされ、
即座に警察へ通報されるに違いない。
そこで警戒されて、その先の展開が潰されてしまっては元も子も
ないのだ。
今日も仕事終わりに彼女の自宅前まで車で訪れ、部屋の明かりが
消えるのをただ見上げていることしか出来なかった。
82
﹁いつまでもこんな調子では駄目だな﹂
腕を投げ出し、ハンドルにもたれかかりながら低く呟く。
恋に恋する青臭い子供ではないのだ。
彼女の姿を眺めているだけで幸せだなんて、到底思えない。自分
はそんなお子様ではない。
これまで付き合ってきた女性には抱かなかった獰猛な肉欲が日々
激しく渦巻いており、それを抑えるのもかなりつらくなってきた。
このままの状況が続くのであれば、思い余って彼女の部屋に侵入
しかねない。もしくは、彼女の帰宅時間を狙って誘拐しかねない。
だが、彼女の身も心も確実にこの腕に捕らえるためにも、アプロ
ーチを間違えてはいけないのだ。
﹁さて、どうしたものか⋮⋮﹂
薄暗い車中で、大きなため息をついた。
しかし、運命の女神は俺の味方をしてくれたようである。
3月に入り、俺の担当秘書をしてくれている花田から﹃大事な話
があるので、時間を作って欲しい﹄と言う申し出が合った。
その日は珍しく仕事が詰まっておらず、空いているミーティング
ルームを押さえ、彼と話す場を作る。
﹁野口補佐、お手間を取らせてしまって申し訳ございません﹂
向かい合わせに座る花田が、深々と頭を下げた。
﹁気にするな。それで、どうしたんだ?﹂
大事な話と言う割には、彼の顔に悲壮感は無い。むしろ、幸福感
83
が漂っている。
﹁実は、ようやく子供を授かりまして﹂
本当に嬉しそうな顔で、花田はそう報告してきた。
彼は結婚してすぐにでも子供が欲しかったそうだが、奥さんが妊
娠しにくい体質だと分かり、それ以降、夫婦二人三脚で不妊治療に
当たってきた。
妊娠にいいといわれる方法を片っ端から試し、そして、残念なが
ら妊娠に至らず。
そんなことを何年も繰り返してきた。 肉体的にも精神的にも苦労しながら、それでも﹃あなたの子供を
どうしても生みたい﹄と、諦め切れなかった花田の奥さんは、見て
いるほうがつらくなるほど必死だったと言う。
そして、5年が経ち。
夫婦の努力はとうとう実を結んだ。
﹁おめでとう、良かったじゃないか!子供が生まれるとなれば、よ
り一層仕事に熱が入るな﹂
そう激励したのだが、彼は苦笑いを浮かべる。
﹁しばらく仕事を休もうかと思います。可能な限り、早急に。幸い
この会社は、男性社員にも出産前期間を含む育児休暇がありますか
らね﹂
俺は眉をひそめた。
﹁休暇を取る事に反対はしないが、なぜそんなにも急ぐんだ?出産
はまだまだ先だろう?﹂
﹁そうですが﹂
彼はまっすぐに俺を見てくる。その瞳は﹃もう決めたのだ﹄と言
わんばかりだ。
84
﹁出来る限り妻の傍にいてサポートしたいんです。妻は不妊体質の
上に、流産しやすい体質でもあります。ようやく授かった子供が万
が一にも出産できなかったとしたら、今度こそ妻の心は壊れるでし
ょう﹂
これまで彼女が味わった苦労を思い出したのか、花田はつらそう
に顔を曇らせた。
周りの一般的な男性社員から見れば、花田の行動は理解できない
かもしれない。
子供が生まれたどころか妊娠が分かったばかりの妻のために、重
役秘書という責任の重い仕事から離れるのだから。
社会人としての責務を取るか。
夫として、また父親としての心情を取るか。 彼自身もそのことについて悩まなかったはずはない。
それでも彼は、妻と生まれてくる我が子の為に万全を期したいの
だ。
かけがえの無い家族を守るために。
﹁そうか⋮⋮﹂
一時的にとはいえ、彼ほどの優秀な秘書を手放すのは非常に困る
が、それを聞いたら彼の申し出を受け入れるしかない。
仕事人間の俺ではあるが、部下の幸せは心から願っているのだか
ら。
俺はソファーの背に凭れ、力を抜いた。
﹁話は分かった。近々、人事に育児休暇申請を提出しておくように。
ところで、どのくらいの期間を休むつもりだ?確か最長は3年だっ
85
たか﹂
﹁それほど長い期間は必要ありません。無事に子供さえ生まれれば
後はどうにかなりますから、取りあえずは1年ほど休暇を取ればい
いと思います﹂
﹁だが、育児と言うのは生後数ヶ月では落ち着かないだろう。君が
出社している間、奥さん1人で子供の面倒を見るのは大変なのでは
ないか?﹂
首が据わり、早ければハイハイを始め、一番目が離せない時期で
はないだろうか。
徐々に溜まりつつある育児疲れも、その辺りがピークだと言う話
を母親から聞かされたことがある。
花田は首を振った。 ﹁大丈夫ですよ。その頃には妻の両親が揃って定年退職を迎えるの
で、日中、生まれた子供の面倒を見てくれるそうですから﹂
﹁それなら、安心だな。よし、あとで一緒に上田部長へ話しに行こ
う﹂
﹁はい﹂
ホッとしたのか、彼の顔がそっと緩んだ。
86
︻16︼天使が
彼女
を連れてきた:2
その後、部長や人事部と話し合い、花田の後任には派遣で秘書を
雇うことになった。
今の時期は重役秘書を任せられそうな社員の手が空いておらず、
それならば外部から経験者を雇った方がいいだろうという判断であ
る。
数日後、俺を担当することになるであろう秘書の履歴書がいくつ
か手元に届いた。
業界内ではそこそこ大手で、日頃から世話になっている派遣会社
が持ってきた履歴書なので、おそらく外れは無い。
が、一般社員と違い過去の経歴は秘書として重要なため、じっく
りと職歴書に目を通す。
秘書の経験はもちろん、それに付随する語学やその他の資格も念
入りにチェック。 そして、最後の履歴書を開いて息が止まった。
︱︱︱⋮⋮彼女だ。
俺が持っている履歴書には、少し緊張気味に微笑む彼女の写真が
貼ってある。
当たり前のことだが、泣き顔ではない。
そのことに心の底から安堵した。
87
氏名の欄には﹃古川 理沙﹄とあり、記入されている住所も俺が
知っているものと同じ。
他人の空似ではなく、俺が犯罪に手を出しかねないほど欲しくて
欲しくてたまらない彼女本人。
︱︱︱決定だな。
俺は迷うことなく、8通の履歴書の中から彼女のものを大切にデ
スクの引き出しにしまい、そして申し訳ないが他の7通は即座にシ
ュレッダーにかけた。
もちろん、あの彼女だから採用したのだが、その職歴は採用され
るに相応しいものだったし、なにより今、海外事業部ではアジア言
語に明るい人材が早急に欲しかったのだ。 彼女が自分の部下になり、なおかつ人材も確保できるとなれば、
他の誰を差し置いても彼女を選ぶしかない。
これは俺のためだけではなく会社の利益にもなるのだから、彼女
を採用することに文句のつけようが無いだろう。 本当に、幸運の女神には感謝するばかりだ。
自分のデスクの椅子に深く腰をかけ、ゆっくりと息を吐く。
︱︱︱これで、彼女との接点が出来たな。
直属の上司として、彼女と接する正当な機会を得た。
声をかけることに、ためらいなど一切必要なくなった。
遠目でただ見ているだけの日々も、もうこれでおしまい。
︱︱︱⋮⋮あとは、彼女を手に入れるだけ。
ゆっくりと瞼を閉じ、先ほど見た写真の彼女を思い描く。
88
彼女を初めて見た日から、幾度と無く夢に見てきた。
どんな顔で笑うのだろう。
どんな顔で泣くのだろう。
どんな声で話すのだろう。
どんな声で怒るのだろう。
そして、俺に抱かれてどんな乱れ方をするのだろう。
どれほど懇願されても、絶対に放してやらない。
俺以外の男の記憶が彼女の身体に残っていることは非常に業腹だ
が、そんなもの、丹念に上書きして消してしまえばいい。 朝も、昼も、夜も、抱いて抱いて、抱き尽くして、あの身体に俺
を刻み付けてやればいい。
あの瞳に映るのは俺の姿だけ。
あの声が呼ぶのは俺の名前だけ。
それ以外、彼女には必要ない。
︱︱︱ははっ、少し気が早いか。
しかし、自分の中では彼女との交際が既に決定事項となっている。
交際どころか、結婚も視野に入れている。
89
彼女を目にしたあの日から、直感が俺に告げるのだ。
彼女に出逢うために、俺は他のどんな女性にも心を奪われること
が無かったのだと。
俺の伴侶は彼女しかいない。
健やかなる時、病める時、いつ如何なる時も、俺のすぐ傍にいて
欲しい。
そして、何があろうとも彼女の傍にいたい。
︱︱︱誰かにこんなにも執着する日が来るとはね。田所が言ったよ
うに、我ながらとんでもないハマりっ振りだ。
俺はこみ上げてくる笑みを抑えるのに苦労した。
それにしても人生というのは、何がどう転ぶか解らないものだ。
花田と彼の奥さんのおかげで、俺は彼女を手に入れる一歩を踏み
出すことが出来る。
︱︱︱出産祝いは相当豪華にしてやらないと。
生まれてくる彼らの子供に感謝した。
90
︻16︼天使が
彼女
を連れてきた:2︵後書き︶
●今まで、この手のタイプの男性キャラを書いたことが無かったの
で、楽しくて溜まりません。
どちらかと言うと、これまでの男性キャラはヘタレ要素が含まれて
おりましたし︵苦笑︶
みやこ作品に登場する男性キャラは総じて﹁愛ある意地悪H﹂をモ
ットーにしておりますが、野口氏が群を抜いてその特性を生かすこ
とになるでしょう。
ツンデレではありません。むしろヤンデレ︵笑︶
大人の余裕でベッタベタに甘やかし、他の男に目を向ける余裕が無
いほど溺愛しまくる⋮というのが理想ですね。
91
︻17︼夢にまで見た彼女との対面
待ちに待った彼女が入社することになった日。
俺は数日前からこなしてきた仕事による疲労が一気に押し寄せ、
仮眠室で休んでいた。
この仮眠室は社長の厚意で用意されたものだが、不規則な仕事を
こなしがちな自分にとって大変ありがたい。
しかし、やたら寝心地が良いベッドはありがた迷惑だったりする。
ついうっかり、熟睡してしまうのだ。
仮眠室を作る話が持ち上がった際、フランス人の血を四分の一引
いている我が社の若社長︵俺よりも年齢は下でも、その手腕には舌
を巻く︶は、どういう訳かベッドには異常な執着を見せていた。 寝心地にこだわる彼の姿勢の裏には、なんだか艶めかしい理由の
存在を感じるのは気のせいだろうか、とベッドのカタログ片手に熱
弁を揮うわが社のトップを横目で見遣った。
それが自分の勘違いではないことが、後日判明。
ベッドがこの部屋に納品された日、社長も立ち会った。
その時、
﹁このブランドのベッドは本当に質がいいんだよねぇ。寝心地はも
ちろん、ほどよいスプリングとか軋み音の少なさとか、恋人と甘い
夜を過ごすには、それはもう最高だよ﹂
と、ウインク付きでのたまった。
やっぱり、そうか。そういうことか。
ある意味、予想を裏切らない男だ、この社長は。さすがフランス
男︵四分の一だが︶。
92
しかし社長一押しのベッドはそれほど出番がなく、今日もソファ
ーに凭れて休んでいると、やわらかいノックの音がした。
﹁ああ、起きている﹂
花田の呼びかけに応えると、扉が静かに開いた。
﹁失礼いたします﹂ 彼に連れられて、彼女がやってくる。
目頭に手を当て揉み解しながら、俺は僅かに緊張していた。
︱︱︱ようやく会えるな。
緩む口元を抑えるのに、必死だった。
自分の傍までやってきた彼女の姿を目にして、ニヤけてしまいそ
うな自分を押し隠して立ち上がる。
﹁君が新しい秘書さんだね?﹂
女性にしては背の高い部類に入る彼女の顔を、男としても背の高
い俺は正面から見つめた。
植木越しに見たその姿でも俺の心を掴んだが、こうして間近で接
するとますますその魅力に惹かれる。
奥二重の目元は涼やかで、柔らかくアーチを描く眉とのバランス
が絶妙だ。
流行の目許を強調させることのない控えめなメイクが、彼女の美
しさをより引き立てている。
今はこうして穏やかな目元だが、涙を浮かべた瞳はまた格別だっ
た。
とはいえ、俺には女性を泣かせて喜ぶ趣味はない。どうせなら艶
93
っぽく
啼かせて
、悦楽の涙を流すところを見たいものだ。
そして視線を少し下に下げる。
大きすぎず小さすぎず、形が良く絶妙の高さの鼻は顔の真ん中に
品よく納まっている。
色付いているとは言えないほど、うっすらと控えめな赤みを乗せ
た唇。この瞬間にでもキスをしてやりたいという衝動を抑えるのは、
ニヤける顔を隠すより苦労した。 花田に促されて一歩踏み出した彼女は、スッと背筋を正す。
﹁お疲れのところを申し訳ありません。古川と申します﹂
ようやく身近で聞くことが出来た彼女の声。
落ち着いた声音の中にほんの僅か潜む甘さは、俺の心臓を打ち抜
くのに充分な威力を放つ。
︱︱︱この声で喘ぐのか⋮⋮。
神聖なる職場において、あるまじき淫らな妄想を繰り広げる俺。
背後には社長お墨付きのベッドもあることだが、花田もいるし、
さすがに襲い掛かるようなことはしない。﹃今は﹄という注釈付き
で。
彼女の声に心奪われてしまった俺は、妄想劇場に幕を下ろそうと
内心必死になり、しばし無言のまま。
そんな俺に、怯えながら顔色を伺ってくる彼女。
﹁あ、あの⋮⋮。何かお気に障ったのでしょうか?﹂
大人の上品な顔立ちが、不安に揺れる少女のそれに変わる。
︱︱︱ああ、このギャップがたまらない。
どこか小動物を思わせるその表情に、幕が下りるどころか怒涛の
94
拍手を浴びてアンコールだ。
夢ではない現実の彼女は、クソくだらない馬鹿男が言っていたよ
うに、抜群のスタイル。
女性らしい曲線を描く身体のラインは健康的で好ましい。
世の女性たちは﹃痩せていることが美しさの条件﹄と思いがちだ
が、俺としては無闇矢鱈に細いよりは、適度に肉感的なほうがそそ
られる。
33歳でも肌の衰えは影もなく、その頬は艶やかで張りがあった。
︱︱︱ああ、今すぐにでも触れたい。抱きしめたい。
指先がピクリと動く。
それを理性総動員でなんとか留めた。
﹁履歴書の写真よりも数倍素敵な方だったので、思わず見惚れてし
まったよ﹂
正直に告げるものの、どうやら社交辞令として受け取られてしま
ったらしい。
そこには動揺など一切なく、そつのない笑みを返されてしまった。
それから部内にある応接セットで、引継ぎの話し合いに参加した。
実際には彼女と花田の間で話をすれば済むことなのだが、当然の
顔をして彼女の横に腰を下ろす。
花田は一瞬片眉をヒョイッと上げたが、すぐにいつもの爽やかな
表情に戻り、何も言い出さない。
︱︱︱気付かれたな。
勘の良い彼のことだ。俺の一連の行動が何を意味しているのか、
すぐに悟ったのだろう。
95
かといって、慌てることも誤魔化すこともしない。
花田に知られたところで、彼は面白おかしく囃し立てるような無
粋な男ではないので困ることはないからだ。
だから安心して、俺はこの場に居座った。
打ち合わせに集中している彼女が俺に気を回せなくなっているの
をいいことに、少しずつ身を寄せてゆく。
座った時は1人分ほど空いていた間が、今では拳1つ分。
俺の右腕には、彼女の体温がほんのりと伝わってくるようだ。
密やかに漂ってくるのは香水か、彼女自身の香りか。華やかさよ
りも清涼感がいい意味で目立っていて、とてもセンスのいい香りだ
った。
間近で見る彼女はキリッとしており、甘さも弱さも感じられず凛
としていて、その香りに合っている。
︱︱︱真剣な表情が、なんともそそるな。
再びふしだらな妄想に明け暮れる俺は、何とはなしに上げた視線
の先に含み笑いを浮かべている花田を見つけた。
打ち合わせを終え、社員証や交通費申請書を取りにいくと言う彼
女を送り出した。
﹁野口補佐、ようやく春が来たようですね﹂
デスクに戻った俺に、花田が話しかけてきた。
彼は何年も俺に彼女が居ないこと、そしてその理由を知っている
のだ。
﹁そうだな。ようやく、だ﹂
96
1ヶ月
という期間は、時間にすればそれほ
彼女が平手を放ったあの日から、約1ヶ月。
長い人生において
ど長いものではない。
しかし、手出しする有効な方法がなく八方塞だった俺からすれば、
独り身だった数年よりも耐え難いほど長いものだった。
その長きを終え、堂々と彼女に接する機会を迎えた今、﹃我慢し
ろ﹄と言う方が無理な話。
﹁嬉しいお心は分かりますが、程々になさらないと古川さんが怯え
て逃げますよ﹂
聡い花田が、ありがたい忠告をくれる。
それに対して、俺はニヤリと微笑んだ。
﹁大丈夫だ、逃がすようなヘマはしない﹂
﹁問題はそこではないと思いますが⋮⋮。程々にするお気持ちは、
更々ないんですね﹂ 自信たっぷりに言ってのけた俺に、呆れた顔を隠しもしない花田
だった。
97
︻18︼猛執上司と爽笑擬兄
優しそう
と評判の花田だが、仕事においては
翌日から彼女は花田指導の下、きっちりと丁寧に仕事をこなして
ゆく。
その外見から、
そうではない。
意地悪や理不尽というのではなく、爽やかな笑顔を浮かべたまま
容赦ないのだ。
穏やかな口調と仕草でありながら、絶対に甘やかさない。しかし
その厳しさは会社にとって必要なことで、周囲もそれを充分承知し
ているため、場の空気は重くなかった。
そんな中、彼女は教わったことを懸命に吸収してゆく。
以前の会社で重役秘書の経験を積んでいるため、この調子なら花
田の仕事を引き継いでも何ら問題はなさそうだ。
彼女の仕事に目を配りつつ、後任として太鼓判を押した。
もちろん彼女のことを愛しているが、職場において仕事の出来な
い彼女を盲目的に擁護するつもりはなかった。 そこまで色ボケで甘ちゃんな俺ではない。
数日かけて事務的な業務を一通り教え込んだ後、海外事業部が特
にお世話になっている取引先へ新しい秘書を紹介する為に外回りを
予定に組み込む。
俺の秘書として抜群の働きを見せてきた花田は、取引先からの信
頼も厚い。彼に準じる能力を持つ彼女も、いずれは同様の信頼を得
98
るはずだ。
として捉えた場
として捉えるのであれば、
秘書
俺としては鼻が高いし、これまでのように友好な会社関係が続く
事に安堵している。
女性
だがそれは、取引先があくまでも彼女を
合のみだ。
もし取引先の野郎共が彼女を
今後の取引はどうなるか分からない。
あからさまに敵意を剥き出しにはしないものの、裏からこっそり
と何か仕掛けかねない自分がいる。
﹁野口補佐、なんだか黒いオーラが立ち込めていますよ。取引先に
着くまでには、その物騒なオーラを完全に消してくださいね﹂
社用車が置いてある駐車場に向かいながら、横を歩く花田がそっ
と囁いてきた。
社用での外出時、KOBAYASHIでは個別に運転手が付くの
ではなく、同行する秘書が運転することになっていた。
いつものように、花田が開けてくれたドアから後部座席に乗り込
む。
俺がシートに身を落ち着けたのを確認して、花田が彼女に言った。
﹁古川さんが道を覚えるまで、当分の間は僕が運転しましょう。で
は、助手席にどうぞ﹂
花田は当然のようにそう言ったが、俺としては甚だ面白くない。
︱︱︱なぜ、彼女を俺の隣に座らせないのだ?
今時はナビも付いているため、それほど道を覚える必要などない。
99
それに外回り初日から道を覚えさせなくてもいいだろう。花田が
一時休暇に入るまでには、まだまだ日数に余裕はあるのだ。 ︱︱︱つまらん!
俺の前の運転席に座る花田の後頭部を、﹃禿げろ!﹄と怨念を込
めて睨みつけてやった。
SIDE:花田
得意先に向かう運転中、後ろから並々ならぬ殺気を感じていた。
︱︱︱本当に、この人は⋮⋮。
しっかり前を見据えながら、内心では呆れて返っている。
上司が苛立っている理由に、嫌というほど心当たりがあった。どう
せ、﹃自分の隣に古川さん座らせろ!﹄ということだろう。
長年の恋愛氷河期を終え、ようやく心から愛せる女性に巡り会え
たこの上司は、仕事中にも拘らず、なにかと古川さんに接触しよう
としている。 それによって仕事に支障が出ているわけでもないし︵支障が出る
ようならば、ぐぅの音も出ないようなもっともな理由を付け、彼女
とこの上司を断絶させてやる︶、またポーカーフェイスの得意な上
司であるから、職場の雰囲気は以前と何一つ変わっていない。
仕事面においては抜群の察知力を見せる古川さん。
なのに恋愛面に関してはことのほか鈍いようで、上司のさり気ない
︵自分からすれば、ぜんぜんさり気なくない︶アプローチに気付き
100
もせず、真摯な態度で懸命に仕事に励んでいる。
しかし、その熱心な仕事ぶりが少し心配だったりもする。
彼女は何も言わないが、忘れたいことがあって仕事に打ち込んで
いる様子が手に取るように分かるのだ。
その忘れたいこととは、間違いなく﹃過去の失恋﹄。察するに、
別れは男から切り出されたものだろう。
社会人としても女性としても、かなり高得点を得ている古川さん
だが、そんな彼女でも失恋はするようだ。
元彼を忘れようとして仕事に打ち込む彼女を傍で見ていると、い
つかは幸せな恋愛を手に入れて欲しいと願ってしまう。
自分に妹はいないが、もし、妹がいればこんな心境かもしれない。
︱︱︱今は気付かなくても、あなたを裏切らない男性がいますから。
道順をメモしている古川さんを横目でそっと見て、人知れず微笑
んだ。
︱︱︱それにしても⋮⋮。
車を出してから、一瞬たりとも逸らされない上司の視線。その眼
差しで、自分の頭には穴が開きそうだ。
上司の見せる尋常ではない執着ぶりに、時折恐ろしさを感じる。
そんな彼に愛されて、彼女は本当に幸せになれるのだろうか。
擬似兄として心配になる、今日この頃だった。 101
102
︻18︼猛執上司と爽笑擬兄︵後書き︶
●野口氏⋮︵苦笑︶
今回も楽しく執筆できました♪
103
︻19︼ギャップ=魅力
花田が休暇に入る日が近付いてきた。
これまでの彼の働きを労うためのご苦労さん会と、少々遅ればせ
ながら彼女の歓迎会を開くことに。
始めは静かだった会場も、酒が入り、時間が経つに連れて賑やか
になってゆく。
花田は職場の全員から次々に声を掛けられ、温かい励ましを受け
ていた。
一方、もう1人の主役である彼女は上田部長と韓国語で話し込ん
でいる。
部長の娘さんがある韓流ドラマの俳優にハマっているということ
で、共通の話題のために韓国語を習い始めた部長。父親の涙ぐまし
い努力が微笑ましい。
俺はといえば、取引先からの電話につかまってしまい、会場から
少し外れたとこで携帯電話片手に部下達の︵主に彼女の︶様子を眺
めていた。
今夜はほぼ無礼講な会で彼女に近付く絶好のチャンスであるのに、
大のお得意様からの電話は切るに切れず、声をかけることすらでき
ない。
焦れながらも会話をしていると、花田が彼女に近付いていくのが
目に入った。
始めは楽しそうにしていた2人。ところが、ふとした拍子に彼女
の顔が悲しそうに曇った。
104
その表情にピンと来るものがある。彼女は別れた男のことを思い
出したのだ。
あんな理不尽な理由で振られたにも関わらず、まだクソくだらな
くて馬鹿でだらしのない男のことで胸を痛めているのか。
そう思うと猛烈に腹が立つ。
別れてもなお彼女を苦しめる、クソくだらなくて馬鹿でだらしの
ないアホ男。あの時、足腰立たないほど痛めつけてやればよかった
!それよりも殺ってしまえばよかった!!
ようやく通話を終え、近くを通りかかったボーイにシャンパンを
頼み、それを3杯立て続けに煽った。
そして、彼女の元へ歩み寄る。
﹁こら。上司を差し置いて、2人で楽しそうにしているんじゃない﹂
花田と彼女の間に割り込んだ。
途端にプッと小さく噴き出し、﹃僕に敵愾心を向けないでくださ
い﹄と呟いて苦笑する花田は、
﹁いいじゃないですか、楽しんでいても。ね、古川さん﹂
と、わざとらしく爽やかな笑みを浮かべてくる。
﹁⋮⋮ええ、そうですね﹂
それに対して、わずかに声を詰まらせた彼女。
万事が万事、彼女に神経を行き渡らせている俺は、とっさに涙を
ぬぐった彼女の仕草を見逃すことはない。
即座にソッと身を寄せて、笑顔を浮かべる。
﹁古川君の頑張りのおかげで、花田君がいなくても安心して仕事を
任せられるよ。君のような優秀な女性に出会えて、本当によかった。
これからも無理をしない程度に、業務に励んでほしい﹂
掛け値なしの賛辞を送る。
その言葉を素直に受け取ってくれた彼女は、悲しげな表情を消し
て嬉しそうに微笑んだ。
105
あの時とは違い、今はこうして彼女に近付いて、慰めてやること
も出来るのだ。
出来る事なら言葉だけではなく、この腕に抱きしめ、その涙を俺
の唇で拭ってやりたいが、そんなことは人前では出来ないし、それ
より何より。
﹁⋮⋮野口 忠臣部長補佐﹂
花田が仰々しく、役職付きのフルネームで俺を呼ぶ。
妄想吹き荒れる俺の内心を正確に読み取る能力を持つ彼の背中に、
黒い翼が悠然と羽ばたいているのが見え、俺の妄想は瞬時に萎み、
正気に戻った。
︱︱︱お前は重度のシスコン兄貴か!
花田が職場を離れ、彼女はいよいよ独り立ちすることになる。
処理能力の高い彼女だが、それでも回ってくる仕事の量は半端な
ものではない。
おまけに韓国語に明るい彼女は、花田が受け持っていなかったア
ジア圏の書類の処理もこなしている。
それだけを見ても、ハードな仕事内容だ。
時間なんてあっという間に過ぎ去り、ともすれば休憩のタイミン
グを逃す。
頑張ってくれている彼女には心底感謝するし、任せられた仕事を
106
きちんと終らせたい彼女の責任感の強さには感心するが、無理はい
けない。
部下の体調管理をするのも、上司の役目だ。
俺は自分の席を離れ、彼女のデスクの横に立つ。
﹁古川君、少し休憩したらどうだい﹂
﹁えっ?﹂
書類に熱中するあまり、俺の気配に気付かなかった彼女が驚いて
顔を上げた。
ハッと大きく開かれたその瞳は、子供のようにあどけない。
あのクソくだらなくて馬鹿でだらしなくてアホで間抜けな男は、
彼女の子供のような仕草を毛嫌いしていたが、俺からすればそのギ
ャップがまたいいのだ。
こちらが勧めても休憩を取りたがらない彼女を、上手い言葉で促
してやる。
何度か言葉を濁した後で席を外した彼女に、俺は穏やかに笑いか
けた。
クソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根性の腐
った男は、彼女に対してしきりに﹃可愛げが無い﹄とほざいていた。
俺からすれば、彼女は存在自体が可愛くて仕方がない。
パッと見れば綺麗だと思うが、ふとした時に見せる表情や仕草は
にならなければな
可愛いといってもなんら差し支えがないものだ。
大人
大人がなぜ、可愛くしてはいけないのか。
歳を取ったら、どうして趣味も好みも
らないのか。
107
とは、責任ある立場の人間が、責任を果
本人がいいと思えば、子供っぽかろうが大人びていようが、かま
子供っぽさ
わないと思う。
俺が言う
たさなければならない場面で﹃やってらんな∼い﹄と逃げ出すよう
な﹃子供じみた無責任な態度﹄というものとは違う。
大人
だとは思えない。
大人
一方的な
として見られること
子供の頃から馴染んでいる味の好みを、無理矢理作り変えること
が
似合わない背伸びをして、周りから
の重大さも分からない。
自然でいること。
それが大切なことなのだと思う。
を押し付けることの、なんと狭量なことか。
自分の恋人や妻である女性に、自分の価値観で決めた
女性像
ありのままの彼女を受け入れることが、男としての度量の見せ所
なのだから。
108
︻20︼可愛い人
韓国からのお客を接待した帰り、社員通用口の手前で営業部の若
い社員たちとすれ違った。
1人は名前までは分からないが、苛立ちも露にズカズカと歩いて
もう1人
とは北川 貴広といい、なかなかに優秀な仕事
ゆくもう1人のことは知っていた。
その
っぷりと王子様のようなルックスで、社の女性社員の注目を集めて
いる男だ。
現在付き合っている相手は居ないようなので、北川の恋人の座を
狙って連日のように女子社員がモーションをかけている、という話
は彼の入社当時から今なお囁かれている。
そんな彼の背中を見送っていた彼女が、不意にポツリと漏らした。
﹁あぁ、なるほどねぇ。あれだけ格好良ければ、女性達に騒がれる
のも無理ないわ﹂
しみじみと感慨深く呟く彼女の声音に、北川に対する恋情は感じ
られない。
とはいえ、彼女が俺以外の男を気にするのは面白くない。
︱︱︱つい先日、男の度量について考えを巡らせたばかりだという
のに。
口元には苦笑いが浮かぶ。
いや、この点については、度量云々ではない。
惚れた女性が自分ではない男を気に掛けることに、余裕だの懐の
深さだのと言っている場合ではないのだ。
それに、そろそろ彼女に対して自分の想いを少しずつ伝えてもい
109
い頃だろう。
私
ではなく、男としての
俺
を見て欲しい。
﹁あんな歳下の男じゃなく、俺にしておけ﹂
上司の
ありのままの君を愛してあげるから。
綺麗な君も、可愛い君も。
大人っぽい君も、子供っぽい君も。
凛とした君も、泣き虫な君も。
全部ひっくるめて愛してあげる。だから⋮⋮。
何を言われたのか理解できないといった顔をしている彼女に、自
分の想いが伝わるようにと願いながら、
﹁そういうことだ﹂ と、笑顔と共に口にした。
あれから彼女との距離を縮めようとはしているものの、予定以上
に仕事が忙しく、相変わらず上司と部下の関係から脱却できない日
々。
強引に迫ろうかと思うことも多々あるのだが、失恋という痛手を
男として
信頼してもらい、意識し
負い、忘れる為に躍起になっている彼女にすればその手は逆効果だ
ろう。
先ずは上司としてではなく
てもらう事の方がむしろ近道なのかもしれない。 昔から﹃急がば回れ﹄と言うではないか。﹃急いては事を仕損じ
る﹄とも言うではないか。
110
少しずつ、少しずつ、会話の隙を狙って、
を言外に含ませる。
好きだ
という想い
ある日、彼女と2人きりでミーティングルームに篭ることがあっ
た。
海外事業部内の応接セットで話すには少々込み入った話で、他の
社員に聞かせたくないものだったからだ。他意はない。
時間通りに現れた彼女の手には、資料となる書類が束となってい
た。
どんなに時間に追われていても、生真面目な彼女は手を抜くこと
をしない。自分に出来る最大限の結果を出してくる。
その仕事ぶりは、我が社にいる1人の女性社員を思わせた。
総務部の佐々木みさ子君の仕事の優秀さはそれはもう有名で、上
層部からは﹃彼女に任せた仕事で、残念に思ったことは一度たりと
もない﹄との評価。
妥協
という言
社会人を何年もしていると、ともすればだらけてしまいがちにな
り、手を抜くことを覚えるものだ。
しかし佐々木君は入社して以来、仕事において
葉を知らない。上司や周囲が望む以上の結果を見せる。
それは俺の目の前で資料を広げている彼女にも通じるものがあっ
た。
﹁つくづく思うのだが、古川君は総務の佐々木君に似ているな﹂
常々感じていたことを口にすれば、他の社員からもそう言われて
いると彼女が述べる。やはり、皆も同じようにそう感じていたよう
だ。
そんな話をしていたら、別のミーティングルームから佐々木君が
111
出てきた。
今日も全体的に隙がなく硬質的なイメージを持つ佐々木君を、横
に居る彼女がじっと見つめている。
そして言った、﹃佐々木さんは、きっと可愛い人だと思います﹄
と。
そう口にする彼女は悲しそうだった。
彼女が口にした言葉の裏には﹃自分は佐々木さんとは違って可愛
くないのだ﹄という思いが隠れている。
あのクソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根性
が腐っていてどうしようもない男に、何度となく﹃可愛げが無い﹄
と言われてきたのだろう。
本質を見抜けない男の戯言など、いつまでも気にすることはない
のに。
君の素晴らしさを分かっている俺が傍にいるのに。
だから言った。
﹁古川君も可愛い人だよ﹂
と︱︱︱ありったけの愛しさを込めて。
﹁えっ、あっ⋮⋮。そんなことないです﹂
俺にそう言われたとたんに顔を赤らめ、しどろもどろになる彼女。
︱︱︱ほら、やっぱり可愛い。
しかし、自分のことになると、素直にはならない彼女。
俺の言葉を簡単には信じてくれない。
それは彼女が悪いのではない。悪いのは全て彼女に余計な認識を
112
植えつけた、クソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜け
で根性が腐っていてどうしようもなくて救いようのないあの男だ。
﹁これまで君の周りにいた男どもは、女性を見る目が全然ないな﹂
本来の君はとても可愛い人なんだよ。
俺の今までを一瞬で覆してしまうほどに。
俺の心を一瞬で虜にしてしまうほどに。
いつの日かそのことに気付いて欲しい。
そして俺のこの想いにも。
113
︻20︼可愛い人︵後書き︶
●ここで一旦野口氏サイドを締めます。まだまだ彼の﹃野獣でヤン
デレ﹄な一面を出し切れていないですね。
ですが、少しは理沙ちゃんに惚れ込んでいる彼を表現できたかと。
⋮単なる﹃危ない妄想野郎﹄にしかなってないかもしれませんが︵
苦笑︶
●理沙ちゃんの元彼がひどい言われよう︵笑︶
どこまで長い呼び名となるのか、挑戦してみますよ。
それこそ﹁じゅげむ﹂並みに↑マジで!?
114
︵21︶寝ぼけてますよね?!
連日続いた打ち合わせや会議が一段落し、今日こそは定時で上が
れるかと思っていたところに、備え付けられているファックスが反
応を示した。
﹁なんだか、嫌な予感がするわ﹂
独り言をぼやきつつ、用紙を取り上げる。それは韓国から送られ
てきたものだった。
﹁ええっと﹂
知らない人が見たら単なる記号の羅列にしか見えないハングル文
字に目を通していくうちに、私の顔がみるみる青褪めてゆく。
韓国にある下請け工場が、先ごろの大雨によって引き起こされた
山崩れに飲み込まれてしまったとの事。
全壊ではなかったが、それでも予定していた納期には絶対的に間
に合いそうも無い事。
判断と今後の方針を至急仰ぎたいとの事。
その三点が記されている。
︱︱︱ええっ!マズいんじゃないの、これ!?
このA工場に発注していた商品は、お得意先である有名ビールメ
ーカーが直々にKOBAYASHIに注文してくれたもので、一週
間後には確実に納品しなければならないのだ。
サッと見回しても他の社員達は既に退勤しており、部長は会議に
出席中。
115
仮眠室に部長補佐がいるけれど、別のトラブル解決のためにほぼ
徹夜で対処に当たり、ついさっきようやく仮眠を取る時間が空いた
のだ。
︱︱︱どうしよう。でも、一刻を争うし⋮⋮。
眠りを妨げるのは非常に心苦しいが、私は意を決して仕切られた
扉をノックした。
ノブを回し中に入る。
﹁失礼いたします﹂
一応声を掛けてみるが思った通り返事はなく、耳に入ってきたの
は規則正しい寝息。
普段はソファーで仮眠を取っている彼は、激務がよほど堪えたの
か今日は珍しくベッドで休んでいた。
スーツの上着をベッドの足元に投げ出し、布団もかけず、横にな
っている部長補佐の傍らに歩み寄り、一瞬息を飲む。
普段はきっちりと形付けられている前髪が、今はやや乱れて閉じ
られた瞼に掛かっている様子や、ネクタイが外され緩められたワイ
シャツの首元から男性の色香が感じられてドキリ、とした。
︱︱︱寝姿もかっこいいなんて⋮⋮。おっと、見蕩れている場合じ
ゃなかったわ。
﹁部長補佐。お休みのところ、申し訳ございません。起きていただ
けますか?﹂
まずは静かに呼び掛ける。
案の定反応はなかった。
﹁う∼ん、仕方ない﹂
116
私は上体をかがめて補佐の両肩に手を置き、耳元に寄って声を掛
ける。
﹁韓国からの緊急ファックスが届きました。起きてください﹂ ごめんなさいっ
と謝りながら、更に声を大きくする
掴んだ肩を揺すってみても、なかなか目を覚ましてくれない。
心の中で
私。
﹁非常事態です!起きてください、野口部長補佐!﹂
寝ている彼の表情ばかり気にしていた私は、いつの間にか背に回
された腕に気が付かない。
えっ?と思った次の瞬間には、抱きすくめられていた。
力強い腕。
広い胸。
補佐は着痩せして見えるようで、実際は思っていた以上に逞しい。
︱︱︱うわーっ、うわぁーーーーっ!
突然抱きしめられた上に、思っていた以上の男らしさにドキドキ
しまくる私。
︱︱︱心臓が爆発するーーーーーー!!
しかし、いつまでも抱きしめられている場合ではないのだ。
気を取り直して、姿勢を戻そうと試みた。
ところが身を起こそうとするものの、ガッチリと腕が回されてい
るせいか、空手有段者である私でも外せない。
︱︱︱なんで?どうして?
今度は身を捩ろうとするが、部長補佐の腕は緩まない。
117
緩まないどころか、徐々に締め付けが強くなっているように思え
るのは気のせいだろうか。
︱︱︱どうしようっ、どうしようっ。
今の私は届いたファックスの内容を伝えることよりも、高鳴る胸
の動悸を知られたくないことの方が重要となってしまった。
好きとか、嫌いとかではない。
毎日のように、これだけ魅力溢れる人の傍にいるのだ︵きっちり
かっちり仕事だけど︶、嫌いといえば嘘になる。
かといって、はっきりとした恋愛感情があるのか?と訊かれれば
答えに詰まる。
このドキドキ感はおそらく大ファンの俳優に遭遇した時に感じる
ものと同じ類だろう。
来日する韓国俳優を空港で待ち受けていた時と、似たような胸の
高まり。
その程度のものだと、私は思っていた。
上手く説明できない感情を知られることがなぜか妙に気恥ずかし
くなり、私は必死で気持ちと体勢を立て直す。
身を捩ったり、腕を突っ張ったりして、なんとか部長補佐から離
れることに成功。
︱︱︱やれやれ。補佐ったら寝相が悪いのね。
身なりを整え、深呼吸を3回してから、改めて起こしにかかった。
﹁起きてください!﹂
乱暴とも思えるほど鷲掴みにした肩を揺さぶり、耳元で騒ぐ。
﹁緊急事態です!﹂
118
﹁ん⋮⋮﹂
そしてようやく、部長補佐は眉をしかめつつ、うっすらと目を開
けた。
それに安堵し、私はベッドから一歩下がる。
﹁お休みのところ、大変申し訳ございません。韓国から少々厄介な
知らせが入りました﹂
すっかり冷静さを取り戻した私は、いつものように秘書の顔とな
って告げる。
ゆっくりと瞬きをした部長補佐は、横になったまま私を見上げ、
そしてボソリと呟いた。
﹁つまらん。もっと動揺してくれると思ったのに⋮⋮﹂
﹁何か仰いました?﹂
部長補佐が完全に目を覚ましたことが分かった私は、早々に扉に
向かって歩いていたところで、なにやらブツブツと口にしている声
が聞こえて振り返る。
その時には既に部長補佐は立ち上がり、やや乱れていたワイシャ
ツを直していた。
﹁いや、大したことじゃない。それで、韓国の工場はなんと言って
る?﹂
﹁詳しくはこちらに﹂
私も補佐も、何事もなかったかのようにデスクへと向かう。
今後予想される対処の大変さで頭が一杯の私に、補佐が漏らした
﹃嫌われてはいないようだから、もっと迫ってみるか﹄という言葉
は届かなかった。
119
120
︵21︶寝ぼけてますよね?!︵後書き︶
●いよいよ野口氏のアプローチが始まりますよ∼。
くれぐれも申し上げますが、あくまでもアプローチです。
﹃それって、完全にセクハラでしょ!!﹄という突っ込みは一切受
け付けません︵笑︶
121
︵22︶2人きりの慰労会:1
本来、商品の受注は納品期限に余裕を持って執り行うものだが、
今回は納品可能な期間ギリギリの日数で依頼されたとのこと。
古くから付き合いのあるお得意様の少々無理な頼みを聞いてこそ、
会社同士の強い繋がりが生まれるのだとか。
もちろん、あまりに無謀な依頼は会社にとって不利益しか生まれ
ないので、そういった場合は丁重にお断りするようだ。
依頼を請け負った当初の予定では、今日の10時に納品となるは
ずであったのだが、被害状況からしてどうやっても間に合わせるこ
とは不可能であるとの判断が下された。
それでも、そこは天下のKOBAYASHI。
ピンチもピンチ、大ピンチ∼な韓国工場土砂崩れ事件は、日本国
内とヨーロッパ国内の工場のいくつかに事情を話し、どうにか生産
ラインを確保することで解決の糸口を見出した。
結果として予定時間には間に合わなかったものの、一応指定日ど
おり商品を先方に収めることが出来たのは奇跡に近い。
つい先ほど、営業部の担当者から納品完了の連絡をもらい、やっ
とこの一件が無事に片付いたところである。
﹁終ったーーー!﹂
自分のデスクに備え付けられている電話の受話器を下ろし、私は
122
大きく伸びをした。
﹁頑張った。私、頑張った!﹂
海外事業部には誰もおらず、歓声を上げてこれまでの苦労を自分
で労う。
本当に、本当に大変だったのだ。
あのファックスを目にした補佐は、すぐさま私を連れて現地に向
かった。
工場は半分近くが土砂に埋まっており、現存する生産ラインでは、
その生産量が5分の1以下に落ちていたのだった。
補佐は発注依頼主に納期延長のお伺いを立ててみたものの、﹃事
情は分かりましたが、こちらとしても先延ばしには出来ないもので
すから﹄と、色よい返事はもらえず。
どうやら依頼してきた品というのは、8日後の創業記念日に開催
されるパーティや全国各地でのイベントで配られるものらしい。
そういう事情ならば、納期の遅れは許されない。
それでも、﹃約束は10時の納品でしたが、20時までに納めて
もらえればどうにかイベントに間に合わせることが可能です﹄とい
う返事をもらえた。
伸ばされた10時間でどうにかしなくてはならない。
補佐と私は知らず知らずのうちに拳を握っていた。
私はまず、工場長とシステム管理者に話を聞きに行く。
今回の注文品は商品自体を一から作り上げるのではなく、KOB
AYASHI既存の商品に指定されたロゴを印刷するというものだ。
システム管理者によると、ロゴのデータは残っているとの事。
とりあえずは一安心だが、この先が問題だった。
123
このロゴというのがとても複雑なデザインで、おまけに注文数が
多い。
お得意様であるビールメーカーに依頼された商品を製造する生産
ラインを確保しつつ、通常業務に差し支えないようにしなければ。
話を聞き終えた私たちは韓国支社に戻り、本社の海外事業部部長
に連絡を入れる。
稼動枠に余裕がありそうな工場にコピーしたロゴデザインのデー
タを持ち込み、泣き落とし同然で、頭を下げまくりお願いした。
更に商品の運搬やら、配送の手続きやらその他諸々の作業を刻々
と迫る時間内にこなさなくてはならなくて、本当に、本当に、本っ
っっ当に大変だった。
詳しく思い出すと疲労がどっと押し寄せてくるので、ここで止め
ておこう。
﹁はぁ。どうにか間に合ってよかったぁ﹂
感動に浸る私。
﹁⋮⋮あ、いけない、いけない。私だけの手柄じゃないわよ!﹂
軽く頭を振る。
無理な作業日程を引き受けてくれた各地の工場と、急遽にもかか
わらず大量の商品を請け負ってくれた配送業者と。
そして何より、補佐の尽力によるものが大きい。
私は日本国内の工場を回っただけで済んだが、彼はとんぼ返りの
日程でヨーロッパ内の工場に足を運んだのだ。
その補佐は今、私が無理矢理押し込めた仮眠室で身体を休めてい
る。
納品が済んだらすぐに起こすように言われていたので、背伸びを
した際に崩れた襟元を正し、部屋の奥の扉へと向かった。
124
静かに扉を開ける。
明るさが絞られた室内は快適な温度に設定されていて、眠るには
ぴったりの環境だ。
それなのに、補佐はソファーでうとうとする程度で済ませてしま
っている。
腕を組み、足を組み、やや俯き加減のその様子は、何かを深く考
え込んでいるように見えるが、規則正しい寝息が聞こえていた。
︱︱︱少しでもベッドで眠った方が、効率よく疲れが取れると思う
けどなぁ。
部長補佐直属の秘書ではあるが、眠る場所に対していちいち口を
出すのも部下としてはおこがましいので黙っているけれど。
どういう体勢で寝ようと補佐の自由だと思うものの、厚意で用意
されたベッドが極々たまにしか使用されていない事をもったいない
城
にあるベッドよりも、仮眠用に用意されたこのベッ
と感じてしまうのは、私が単に貧乏性だから。
自分の
ドの方が格段に上質だということに対する嫉妬心ではない。
その仕事振りや佇まいを見て、すっかり彼のファンになってしま
った私は﹃寝ている今がチャンス♪﹄とばかりにじっくり眺めてい
た。
お気に入りの韓国俳優にどことなく似ているところも、ポイント
が高い。
125
︱︱︱相変わらず、寝姿もかっこいいですこと。
どこを切り取っても様になる上司様は、ただ寝ていても絵になる
お方だ。
︱︱︱あら?
落ちた前髪の隙間からは、深く刻まれた眉間の皺が見えた。
海外事業部の誰よりも仕事に追われ、仮眠中ですらいつ呼び出さ
れるのか分からないこの上司は、一体いつ心を休めているのだろう
か。
︱︱︱って、そんな気遣いはおせっかいよね。
独身とは聞いているけれど、これほど素敵な男性なのだ。恋人が
いないはずはない。
可愛い歳下の男の子
が恋人だったりして
休日ともなれば、優しい彼女に身も心も癒されているのだろう。
いや、もしかしたら
!?
︱︱︱ありえる。
と押し寄せるに違いない。
補佐クラスのダンディー紳士であれば、甘えたがりの男の子が
我先に!
あのセクシーボイスで愛を囁いて、めくるめく官能の世界⋮⋮。
﹃忠臣さん、お帰りなさい﹄
男性の1人暮らしのわりには、きちんと整頓されたリビング。そ
126
の奥からは小柄で黒目のクリッとした愛らしい男の子が、エプロン
姿で駆け寄ってくる。
﹃いつもお仕事ご苦労様。僕ね、忠臣さんのために頑張ってハンバ
ーグを作ったんだよ﹄
楽しそうに笑う男の子。
君
が食べたいな﹄
そんな男の子を見て、こちらも嬉しそうに笑う補佐。
﹃ありがとう。⋮⋮でも私は、ハンバーグより
そう言って、男の子を軽々と横抱きにした補佐は寝室へと足を向
けた。
︱︱︱おっと、いけない。腐女子な妹に毒されてるわ。
久々に実家へ帰ったら、一回り歳下の妹のクローゼットの奥には
男の子同士の恋愛漫画がどっさりあった。
﹃理沙お姉ちゃんと私の秘密ね。みんなには絶対に言わないで﹄
そんな秘密、ごめん被りたい︵顔面蒼白︶。
他の家族同様、私にも知らせないで欲しかった︵そして号泣︶。
目に入れても痛くないほど可愛がり倒した末っ子の妹が、いつの
間にやらそんなウ腐フな世界にハマっていたとは。
お姉ちゃん、目玉が飛び出て落っこちるかと思ったよ。
そんな秘密、誰に聞かれたって私の口からは言わないから。どっ
かり安心したまえMy little sister。 妹による衝撃告白を回想していた私は、ハッと我に帰る。
127
人様の恋愛事情を勝手に妄想するのは、それこそおせっかいだ。
恋人が女性であれ男の子であれ、プライベートが充実しているか
らこそ仕事に打ち込めるのね、と結論付けてこの件は私の頭の中か
ら追い出した。
128
︵23︶2人きりの慰労会:2
︱︱︱そんなことより、補佐を起こさなくちゃ。
ソファーから3歩ほど離れたところから声を掛ける。
﹁お休み中に申し訳ございません﹂
起すことになっていたので遠慮なく声をかけるが、彼は目を覚ま
さない。
一歩近づいて声をかけ、起きないのでまた一歩近づいて呼び掛け
る。
それでも補佐は起きない。
このまま寝かせておきたいけれど、それでは指示を無視すること
になってしまう。
︱︱︱困ったわ。
彼の真正面に立つ私の耳に、いまだ届く小さな寝息。
こうなったら、以前のように揺さ振るしかない。
私は一応﹃失礼いたします﹄と言ってから、上体をかがめて補佐
の肩を掴む。
﹁起きてください﹂
私に揺らされて、彼の頭が軽く前後する。⋮⋮でも起きない。
よほど疲れて寝入っているようだ。
力を強めて、更に揺さ振る。
﹁野口補佐、起きてください!﹂
ガクン、と大きく首が傾いで、﹃む、ぅぅ⋮⋮﹄とくぐもった声
がした。
補佐は何度か頭を振り、そしてゆっくりと私を見上げる。
129
気だるそうな瞳が凄まじくセクシーで心臓が跳ねた。
そこへ。
﹁あぁ、古川君か﹂
寝起き特有の掠れた声が、これまたセクシー。
跳ねた心臓が爆発した。
︱︱︱うぅっ。補佐を起こすのって、心臓に悪い⋮⋮。
鼓膜を突き破らんほど煩く脈打つ鼓動を感じつつ、私は何とか冷
静になろうとする。
﹁先ほど納品が完了いたしましたので、ご報告に参りました﹂
いつもより事務的に報告し、﹃それでは失礼いたします﹄と頭を
下げ、用は済んだとばかりに仮眠室を出ようとする。
ところが。
﹁古川君、ちょっと待ってくれ﹂
と、呼び止められてしまう。
振り返ると補佐は先ほどの気だるい様子は微塵もなく、まっすぐ
な視線を私に向けていた。
﹁何か御用でしょうか?﹂
﹁今回の件の慰労会をしようと考えていてね﹂
突然何を言い出すかと思えば。
だが、今後における各業者との付き合いをスムーズにする為にも、
確かにそれも重要な仕事のうちだ。
﹁では関係者のご都合を伺いまして、直ちに日程を調整いたします﹂
頭の中で招待するメンバーをピックアップしていると、補佐が苦
笑い。
﹁いや、参加者は私と古川君だ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
︱︱︱どういうことですかね、それ。
130
顔にデカデカとクエスチョンマークを貼り付け、いつの間にやら
目の前にやってきていた上司を凝視。
﹁もちろん工場スタッフや配送業者のおかげでもあるが、一番頑張
ってくれたのは君だよ。だから、個人的に慰労してあげようと思っ
てね﹂
形のいい目をやんわりと細め、楽しそうに我が上司が言う。
﹁ですが、私はあくまで仕事をしただけです。特別なことはしてお
りませんので、私に対する慰労は必要ありません﹂ 今しがた彼が口にした﹃一番頑張ってくれた﹄という言葉だけで
充分だ。なので謹んで辞退しようと申し出た。
にも拘らず、補佐は退いてくれない。
﹁私と慰労会するのは迷惑かな?﹂
穏やかな口調なのに逆らえないのはなぜだろう。
おまけにこの目。
補佐はニッコリと微笑んでいるだけなのに、まるで全身を絡め取
られているような錯覚に陥る。
﹁い、いえ、迷惑だなんて、滅相もございません。ただ、わざわざ
労っていただくのはもったいないと⋮⋮﹂
言葉に詰まりながらも何とか断ろうと頑張っているのに、補佐は
追撃の手を休めない。
﹁なら慰労会ではなく、単なる食事会ならどうだろうか。どうせ夕
食は摂らなければならないんだ。一人の食事は味気ないから、付き
合ってくれると助かる﹂ 優しい瞳は変わらないのに、そう呟く口調と瞳に浮かぶ光が寂し
そうなので、つい、
﹁今夜は夕食を作る気力がないので、外食で済ませようと思ってい
たところですから。私でよければご一緒しますよ﹂
131
と、言ってしまった。
すると﹃よかった﹄と言って、すぐさま満面の笑みを浮かべる補
佐。
︱︱︱はうっ!疲れた私の目に、その笑顔は眩しすぎます!
キラキラしい微笑みの裏で補佐がしたり顔を一瞬滲ませたことに、
動揺していた私は気付かなかった。
132
︵24︶2人きりの慰労会:3
食事もできるお洒落なバーに連れてこられた。
厭味のない高級感が漂うこのお店は、社の上層部達のご贔屓らし
い。
︱︱︱本当に素敵なお店よねぇ。
そう思いながらも今の私の表情は、この店に似つかわしくなく重
苦しい。
補佐の右側にあるカウンター席に座っている私は、彼に気付かれ
ないようにソッと息を吐いた。
始めは2人用のボックス席に案内されそうだったが、心臓に悪い
上司と向かい合う度胸は微塵も所持していない私。
﹃カウンターでお酒を飲むのが夢だったんですよっ﹄
と言い訳し、どうにか真正面から向き合う事態を避けた。
店内にはムードのあるスローテンポなジャズが流れているが、私
の脈は一向にスローにならない。
食事を済ませた後にカクテルを2杯飲んだのだが、まったく酔え
ないでいた。
なにしろ素敵上司様は終始ご機嫌で、例の心臓爆発級スマイルを
惜しげもなく披露しているのだ。
︱︱︱苦労が報われ無事に納品できて嬉しいのは分かるけど、ずっ
とニコニコしてなくてもいいじゃない⋮⋮。
133
せっかく雰囲気のあるお店に連れてきてもらったのに、ぜんぜん
楽しめない。
おまけにお店にいる女性たち︵お客もスタッフも︶が補佐に向け
る熱を含んだ艶っぽい視線のせいで、居心地が悪かった。
︱︱︱いっそのこと、誰かこの上司様を連れ出してくれませんかね
ぇ。うぅ、帰りたい⋮⋮。
俯いて再びため息をつくと、補佐が私の顔を覗きこんできた。
﹁古川君、どうした?﹂
﹁はい?﹂
思った以上に近くから聞こえた声に驚き、パッと顔を上げると、
心配そうに見つめてくる補佐と目が合う。
︱︱︱近い!近いですって!
今の私たちは10cm程度しかお互いの顔が離れていない。
︱︱︱こんな至近距離でご尊顔を拝見したら、その眩しさにやられ
て私の心臓が止まります!!
そんな心の絶叫が届くはずもなく、補佐はますます顔を寄せてく
る。
﹁さっきから黙り込んでしまって、体調悪いのか?﹂
そう言って、補佐は右手を伸ばし私の頬に触れてきた。
︱︱︱ひゃぁーーー!
唖然とする私にかまわず、頬の丸みを味わうかのように彼の親指
134
が滑り、肌触りを楽しむかのように手の平が小さく円を描いてゆく。
その手はなかなか離れず、ゆっくりと私の頬の上で動き続ける。
︱︱︱どんな羞恥プレイなのよぉぉぉ!!
パニックに陥った頭ではその場に最適な行動を下すことが出来ず、
ただじっとされるがままの私。
しばらくして、近付いてきた時と同じく静かに補佐の手が離れて
いった。
︱︱︱あぁ、びっくりしたぁ。
少し俯き加減で、パチパチと瞬きを繰り返した。
すると、これ以上の羞恥はないだろうと思っていた矢先に第二段。
﹁相当顔が赤いな﹂ 事もあろうに、補佐が私の額と自分の額をコツンと合わせてきた。
まさかの﹃おでこで熱計り﹄である。
︱︱︱いやーっ!熱はありませんからっ!むしろ、あなたのその行
為で熱が上がりますからっ!!
額同士を合わせるなんて、もう20年近く昔に母親からされたっ
きりだ。
会社の上司に、しかもとびきり素敵な男性にこんなことをされて、
恥ずかしくてたまらない。
とても目を開けていられる状況ではなく、私はギュッと瞼を閉じ
た。
︱︱︱慰労されるどころか、補佐のせいで疲労マックスなんですけ
ど!?
135
全身が硬直している私は心の中で喚きまくるが、顔の筋肉すらも
固まっているので一言も出てこない。
じっくり1分ほど額を合わせ、ようやく補佐が姿勢を直した。
拷問のような時間を体験し、全身からヘナヘナと力が抜けてゆく。
﹁熱はないみたいだな﹂
の方が数倍落ち
そんな私に掛けられたのは、深く優しい補佐の声。
﹁あ、は、ですね﹂
城
脱力して、間の抜けた返事しか出てこない私。
︱︱︱お願い、もう帰して⋮⋮。
この店の方がよほど宮廷に見えるが、私の
着く。
しかし、部下の私から先に帰りたいなどとは失礼に当たるため、
とても口に出来ない。
︱︱︱目の前がクラクラする⋮⋮。ここにきて、アルコールが回っ
てきたのかなぁ。
だって、こんなに素敵な男性が私のことを愛おしそうに見つめる
なんて、絶対にありえないもの。
そんな勘違いは、お酒のせいにしてしまうしかなかった。
136
︵24︶2人きりの慰労会:3︵後書き︶
●この先、2人の仲が進むまで、都合がつく限り更新ペースを上げ
ます。
今までのみやこからはありえない更新ペースかもしれませんが、別
に生き急いでいるわけではないのでご安心を︵苦笑︶
みやこ自身が理沙ちゃんと野獣紳士が絡むシーンを早く書きたくて
&読みたくて。
ただし、2人がくっつくまでに段階を踏む時間を少々頂きますが、
出来る限りハイペースで更新しますので、ご容赦ください。
毎度のことながら、女性キャラに恋心を自覚させることが難しくて、
今にも脳みそ干からびそうです。
⋮⋮誰ですか、﹃もともと脳みそ無いくせに﹄と言ったのは。
●さて、苺の24話が2011年最後の投稿になると思います。
皆様、今年もヘナチョコみやこの作品にお付き合いくださいまして、
本当にありがとうございました。
妄想が暴走したみやこ作品は、2012年も変わらず妄想が炸裂す
ることでしょう。
勢いで連載をスタートさせてしまった﹃33歳、苺キャンディ﹄で
すが、思った以上に皆様に愛され、作者としては嬉しい限りです。
137
この作品以前に執筆をスタートさせていた﹃女帝VS年下彼氏﹄も
苺同様に読者様に大切にしていただき、作者冥利に尽きます。
少しでも﹃読んでよかったな﹄と思っていただける作品を目指して、
今後も精進を続けます。
来年もどうぞお付き合いくださいませ。
それでは皆様、良いお年を。
みやこ 京一 拝
138
︻25︼2人きりの慰労会:4
役員達にも評判が良く、そして自分のお気に入りでもある店に彼
女を連れてきた。 一歩踏み入れた途端、軽く店内を見回した彼女の顔が嬉しそうに
綻ぶ。
﹁素敵なお店ですねぇ﹂
︱︱︱やはりこの店にして正解だったな。
お気に入りの店を気に入ってもらえて、俺の方こそ嬉しくなった。
こうして2人で色々な感覚を分かち合えたら、どんなに幸せなこ
とだろう。
嬉しい、楽しいといった正の感情はもちろん、悲しい、苦しいと
いった負の感情も彼女となら分かち合いたい。
できれば、この愛しい彼女のすぐ傍で。
更に望むなら、自分のこの腕の中に彼女を抱き込みながら。
︱︱︱いずれは感覚だけではなく、時間や空間も分かち合えるよう
にするつもりだがな。
うっとりと店の様子に目を向けている彼女の横顔を盗み見ながら、
クスリと笑みを浮かべた。
俺たちの来店に気付いたスタッフが案内しようとしたのは、2人
用のボックス席。
139
高さのある椅子の背が隣の席との境となり、変な圧迫感を感じる
ことなく自分達だけの空間が味わえる。
もう少し彼女と親密になりたいものだと、日頃からそう思ってい
た俺にとって、ベストとも言える席だった。
ところが。
﹁あ、あの。補佐、ちょっといいですかっ﹂
スタッフの様子をチラチラと気にしながら、焦ったように小声で
俺を呼ぶ彼女。
﹁どうした?﹂
﹁勧めていただいた席も素敵ですが、私、バーのカウンターでお酒
を飲むのが夢だったんですよっ。ですから、今日はカウンター席で
もいいですか?﹂
何故かボックス席に対していい顔をしない彼女が、必死になって
言い募る。
︱︱︱互いの距離を近づけるいい機会だと思っていたのだが。まぁ、
彼女さえ近くにいてくれれば、席などどこでもかまわないか。
そう思って、俺はその申し出を受け入れた。
しかし、望み通りカウンター席に腰を下ろしたにもかかわらず、
彼女の表情は段々と沈んでゆく。
職場を離れた空間で彼女と2人きりになれたことが幸せで、どう
やっても笑みを隠せない俺とは対照的だ。
店に入った時はあんなに嬉しそうだったが、隠してはいるものの
さっきからため息を重ねている彼女。
140
︱︱︱どうしたんだ?やっぱり、疲れが出たのか?
俺の次に激務をこなした彼女だ。
こんなことなら半ば強引に誘うのではなく、日を改めれば良かっ
たと後悔するが、もう遅い。
﹁古川君、どうした?﹂
心配になって顔色を伺う。
目を伏せている彼女の顔を見るには、グッと近付くしかなかった。
﹁はい?﹂
驚きに目を瞠る彼女の顔色は、確かに健康そうとは言えない。
﹁さっきから黙り込んでしまって、体調が悪いのか?﹂
思わず手を伸ばして頬に触れ、次いで額をくっつける。彼女を心
配する気持ちに嘘はないが、下心込みの行為でもある。
ヒュッと息を飲んだ彼女が、ギュッと目を閉じる。
その様子があまりにも可愛らしくて、俺の方こそ熱が出そうだ。
ドサクサ紛れにこんなことをしたついでに、彼女の様子をそれこ
そ吐息が触れ合う距離でじっくり味わう。
震えるまつげの、なんと長いことか。
肌の肌理の、なんと細かいことか。
そして、噛みしめるように閉じられた唇の、なんと愛らしいこと
か。
ほんの少し動けば簡単にキスができる距離にいる俺と彼女。
その衝動は抗いがたいものだったが、本当にキスをしてしまうに
は時期尚早だろう。
嫌われていない自信はあるが、迂闊に手を出せばその足場は簡単
に崩れる。
︱︱︱もう少し、彼女の気持ちを自分に向けさせなければ。
141
グッと奥歯を噛みしめ、己の欲を強引に抑え込んだ。
俺が離れたと同時に、やれやれといった表情で頬を緩める彼女︱
︱︱まるで、俺に触れられていたことが苦痛であったかのように。
その様子が面白くなかった。
︱︱︱俺のことを、もっともっと意識してくれればいいのに。俺か
ら離れられなくなればいいのに。
そっと握った手には、先ほど触れた彼女の肌のすべらかな感触が、
心地よい温もりが、しっかりと残っている。
︱︱︱まずいな。
握り締めた拳に力が篭る。
一度触れてしまったせいか、我慢できなくなってしまった。
︱︱︱まずいな⋮⋮。
改めて心の中で呟く。
犯罪者になることに何の躊躇も抱かないほど、この一時で更に囚
われてしまった。
彼女とは恋人として、ゆくゆくは妻としての関係を築き上げたい
と心底願っているのに、そんな段階を一切吹っ飛ばして、彼女の気
142
持ちを無視してでも、幾重にも鍵を付けた部屋に閉じ込めてしまい
たい激情が俺の中に吹き荒れる。
俺以外の人間を彼女の目に映すのは嫌だ。
俺以外の人間の名を彼女が呼ぶのは嫌だ。
俺以外の人間に彼女が手を伸ばすのは嫌だ。 彼女がどんなに泣き叫ぼうが、渾身の力で俺を拒絶しようが、絶
対に開放してやらない。
彼女が認識する人間は、俺1人だけでいいのだ。
︱︱︱俺の全てで、彼女の身も心も埋め尽くしたい。
危険極まりない思考が俺の心の奥底で頭をもたげる。
しかし、本心で望むのはそんな一方的な形の関係ではない。
︱︱︱落ち着け⋮⋮。
氷が解けてかなり薄くなったウイスキーを一口、二口と含んだ。
冷たいウイスキーが流れ込むにつれ、少しずつ理性が戻ってくる。
︱︱︱俺は彼女を愛したいだけなんだ。怯えさせたくなどないのだ。
だが、このままいつまでも上司と部下でいるわけにはいかない。
一刻でも早く彼女を手に入れなければ、俺は本当に犯罪者になっ
てしまう。
さすがに職場で口説くのはよくないだろうと、これまで会社では
さほど積極的な行動は示さなかったが、そんな悠長なことを言って
いられない状況だ。
143
︱︱︱さて、そろそろ追い込むか。
グラスに残ったウイスキーを一気に煽りながら、そんな決心をし
た。
144
︻25︼2人きりの慰労会:4︵後書き︶
●新年明けました♪
皆様、今年もよろしくしてあげます★↑なぜ、上から目線!?
●24話の後書きで更新ペースアップの理由を、﹁みやこ自身が2
人のくっついたシーンを早く書きたい&読みたい﹂と書きましたが、
25話を読み返して、先述の理由に誤りがあることに気付きました。
本当の理由は⋮。
﹁自分のキャラが犯罪者になるのを防ぎたい!!﹂︵爆︶
もう、これに尽きます!
ほのぼのラブコメ︵時に切ないシリアス︶が信条のみやこ作品です
が、このままでは作品史上初の犯罪者を出しかねません︵滝汗︶
ギリギリ犯罪者な彼氏はみやこ的にも好きですが、100%犯罪者
の彼氏はノーサンキュー。
みやこワールドの住人にはなれません。
まぁ、そんなこんなで頑張って更新します。
皆様、どうぞ応援宜しくお願いします。
145
︵26︶スイート・スリリング・ストロベリー
今年は梅雨らしく長雨になる日もほとんどなく、いつのまにか夏
を迎えていた。
クールビズということで、KOBAYASHIの社員もこれまで
のスーツ姿とは違ったやや軽い服装で出社している。
しかし、営業部や海外事業部はお客様と接する機会が多いため、
これまで通りきっちりとした服装だ。
同僚達は少しうんざりしたような感じだが、我らが野口部長補佐
殿は世間がどんな灼熱地獄になろうとも、相も変わらず涼しげであ
る。素晴らしい。
花田さんが一時退職して、早2ヶ月。
先輩の指導が良かったのか、私はこれといった手違いもなく、無
事に仕事をこなす日々だ。
今日は韓国支社から送られてきたメールを翻訳し、その合間に部
長補佐に頼まれていた商談に必要な資料を取り纏め、それが終ると
手元の手帳を見ながら来週以降における部長補佐のスケジュールを
確認と修正。
午後になると海外事業部内の会議に出席し、そこで出た議案につ
いて解決すべきための資料集め。
というのが、本日これまでの仕事の流れだった。
腕時計を見ると15時20分を示している。
146
︱︱︱そろそろ一息入れようかしらね。
パソコンの電源を落とし、席を立つ。
そして、資料に目を通している補佐の元へと向かった。
﹁失礼いたします。一段落いたしましたので、休憩を取らせていた
だいてよろしいでしょうか?﹂
﹁ああ、かまわないよ﹂
手元から目を離した部長補佐が、穏やかに微笑みながら許可を出
してくれる。
それに軽く頭を下げて、私は海外事業部を後にした。
いつものように鉄の扉を開け、非常階段の踊り場で休むことにし
た。
もちろん休憩のお供は、これまたいつものように苺味のキャンデ
ィ。包装を破り、ポン、と口に放り込めば途端に大好きな味が広が
る。
その甘さに、私の頬がほころんだ。
﹁いつ食べても美味しい∼♪﹂
非常階段の手摺りに寄りかかり、遠くに煌く海原を眺めながら、
横風に軽く煽られた前髪を手櫛で直す。
夏の午後の空気はまだまだ熱を孕んでいるが、それでも陽の射さ
ないこの場所を吹きぬける風は嫌な暑さがなく、その独特な温度が
結構好きだったりする。
﹁今日はちょっと疲れたなぁ﹂
両腕を上げて背筋を伸ばしていると、背後にある扉が不意に開い
た。
顔を覗かせたのは⋮⋮。
147
﹁野口補佐?!﹂
ついさっき見た穏やかな笑顔がそこにあった。
扉の隙間からスルリと身を滑らせ、そして後ろ手でゆっくりと扉
を閉める部長補佐。
その身のこなしが何故かジワジワと獲物を追い詰める肉食獣に見
えたのは、仕事で疲れた脳ミソが見せた錯覚だろうか。
パチクリと瞬きを繰り返す私に、補佐が尋ねてきた。
﹁君はいつもここで休憩していたのか?﹂
ライトグレーのサマースーツが厭味でなく似合う我が上司様が、
表情を崩すことなく腕を前で組む。
そんな上司に慌てて向き直った。
口に物を入れたままでは失礼だろうが、食べ始めたばかりの飴は
飲み込むことが出来ない。
ちょっと困りつつも無視するわけにもいかないので、右内頬に飴
を寄せて返答した。
﹁はい。私にはタバコもコーヒーも必要ないので、この場所で充分
ですから﹂
あまり口を開けると飴が飛び出すのでモゴモゴしながら返事をす
るも、彼は別段変な顔をすることも無い。心の広い上司様である。
そんな彼が今度はほんの少し笑顔を引き締めて、ほんの少し気に
なることを言い出した。
﹁一息入れると言って海外事業部を出て行っても休憩室にはいない
し、どこに消えたのかずっと気になっていてね。それで後をつけて
きたんだ﹂
忙しい彼が、わざわざ部下の後を追ってくるとは何事だろう。
︱︱︱後をつけてきた?もしかして、それは私に注意する為? 148
﹁ここは立ち入り禁止でしたか!?﹂
伸ばした背筋に嫌な汗が流れる。
誰かに確認してからここに来るべきだったかもしれない。
前の職場でも当たり前のように取っていた行動だったので、深く
考えずにKOBAYASHIでも同じようにしてしまった。
︱︱︱防災の観点からも、むやみに非常階段を利用していたらマズ
イのかも。
考えなしな自分の行動に、今更ながらちょっと焦る。
しかし、部長補佐は私を宥めるように小さく手を振った。 ﹁いや、大丈夫だ。うちの会社はそういったことには厳しくなくて
ね。昼飯にしろ、休憩にしろ、ゴミをきちんと片付ければどこに行
こうが基本的に自由なんだ﹂
﹁そうでしたか、よかった⋮⋮﹂
私がホッと胸をなでおろすと、補佐が笑みを深くする。
そしてグルリと周囲を見回した。
﹁それにしても、古川君はいい休憩場所を見つけたな。この会社に
勤めて14年ほどになるが、まったく知らなかった﹂
彼の言葉に嬉しくなる。
自分のお気に入りの場所を褒めてもらうのは、何気に嬉しいのだ。
﹁見晴らしがいいんですよ。気分転換に最適だと思います﹂
お
ニッコリと笑顔になる私の肩越しには、遠景に海が見えているこ
とだろう。
﹂
﹁適度に風が通り、海が見えて、本当にいい休憩場所だ。⋮⋮
まけに誰も来ないしな
︱︱︱今の補佐の言葉、一部だけやけに強調されていたように聞こ
えたのは、気のせい?
149
軽く首を傾げた時、今まで横から吹いていた風が私の背中から補
佐に向かってそよぎだした。
﹁おや?﹂
何かに気付いた補佐が辺りを伺う。
﹁甘い匂いがするな。なんだろうか﹂
不思議そうな顔をした補佐が、スンスンと匂いを辿っている。
﹁私がキャンディを舐めてますので、その匂いではないでしょうか﹂
そう言うと、突然補佐が私に近付いてきて、すこし前かがみにな
なんなの、この近さは!?
り、ゆっくり私へと顔を寄せた。
︱︱︱え?え?なに、なに!?
私の右頬に彼の鼻先が触れてしまいそうなほどの至近距離で、目
の前には補佐の艶やかな黒髪。
彼はただ香りの元を辿っているだけなのに、真正面からではなく
少し首を傾けているこの姿勢は、まるで今からキスをするかのよう
だ。
驚きすぎて、声が出せない。
まるでマネキンのように立ち尽くしていると、ポツリと補佐が呟
いた。
﹁これは、苺味かな?思わず食べてしまいたくなるほど、甘くてい
い匂いだ﹂
︱︱︱彼の感想に異常な色気を感じたのは、やはり脳ミソが疲れて
いるから!?
確認を済ませた補佐は姿勢を戻し、スッと下がる。
﹁来週末にでも、B社と打ち合わせの場を設けてほしい。休憩を終
150
えたら、早速段取りを頼むよ﹂
私の顔を見て何故か楽しそうな表情を浮かべた補佐は、足取りも
軽くその場を去っていった。
扉が閉まる音を聞いて一気に脱力した私は、踊り場の手摺りに縋
りついた。
﹁⋮⋮今のは、何?﹂
額にジワリと浮かんだ汗は、夏の熱気のせいではないだろう。
頬を撫でる風を涼やかだと感じるということは、自分の顔は相当
に熱くなっているのだろう。
破裂寸前の心臓が収まるまで、私はその場から一歩も動けなかっ
た。
151
︵27︶本当の
私
朝からよく晴れた夏のある日曜日。
私は簡単に朝食を済ませた後、掃除機片手に
ていた。
ちなみに、掃除機には名前が付いている。
我が城
その名は﹃セバスチャン﹄だ。機体のカラーは黒。
誕生日に例の末妹からプレゼントされたものである。
を片付け
私にはなぜ黒い掃除機に﹃セバスチャン﹄と名付けたのか皆目見
当が付かないが、そこは深く追求するまい。
﹁こんなものかな﹂
ザッと辺りを見回す。
そしてマガジンラックの前に﹃イカの燻製 お徳用﹄と書かれた
空のビニル袋を発見し、慌ててゴミ箱に突っ込む。
﹁よし、これで完璧っと﹂
そう呟いた時、玄関のチャイムが鳴った。
﹁いらっしゃい﹂
ドアを開けると、親友の恭子とその彼氏である星野君が立ってい
た。
恭子とは小学校からの腐れ縁で、何でも話せる心の友だ。
なんだかんだで彼女とは行動を共にしている為、星野君ともすっ
かり仲良くなった次第である。 152
今では3人で飲みにいく機会も多かった。
﹁今日も暑いね。ちょっと歩いただけで、汗かいちゃったよ﹂
﹁すぐ、つめたい飲み物を用意するから。さ、上がって。星野君も
どうぞ﹂
﹁﹁おじゃまします﹂﹂
ピッタリと息の合った挨拶。相変わらずな2人の仲の良さに、思
わず笑ってしまった。
昼時ということもあり、私の用意したトマトと大葉の冷製パスタ
を三人でつつくことに。
多目のオリーブオイルの中に刻んだニンニクを入れ、焦がさない
ようにじっくりと熱する。
ニンニクに火が通ったら鍋を火から下ろし、そこに刻んだ完熟ト
マトと千切りにした大葉を混ぜる。
味付けのベースは塩で、物足りなさを感じたらコンソメをプラス。
それを冷蔵庫でしばらく冷やしたら、茹でた後に冷水で締めたパ
スタに和えるだけ。
それだけで完成。
シンプルな割りに、これがなかなかいい味なのだ。
﹁あ、美味しい﹂
今日の
パスタは食べられるね﹂
星野君が褒めると、恭子も大きく頷く。
﹁うん、
彼女が﹃今日の﹄の部分に力を入れたのには訳がある。
私は料理があまり上手ではないのだ。
手際もそれほどよくないし、味付けもいまいち自信が無い。
自分の家で自分のために作る食事はとりあえずお腹を満たすこと
が目的なので、料理の腕を上げることには余り熱心ではない。
153
それって大人女子としてどうなの?
自分なりに
という注
と突っ込まれてしまうのが
私だ。ほんと、女子力が低いのである。
だが、これでも頑張っているのだ︱︱︱
釈つきだが。
前回2人が来た時に振舞ったシーフードピラフは張り切り具合が
空回りし、残念ながら不評だった。
﹃あんなにいい材料を使ってこんなに不味い料理を作れるって、あ
る種の才能だわ⋮⋮﹄
それがピラフを一口食べた恭子の感想。
その横で星野君は目に涙を浮かべながら、水をがぶ飲みしていた。
大皿によそったパスタを各々がお代わりしながら、話は弾む。
﹁ところでさ、KOBAYASHIって例の噂通り?﹂
恭子はこれで3回目のお代わりだ。
私に対してお世辞を一切使わない彼女が率先して食べるというこ
とは、本当に美味しいということだろう。
こういうのってなんか嬉しい。
私も自分の皿にパスタを乗せながら返事をする。
﹁うん、びっくりするほどイケメン率高いよ。いろんなタイプのイ
イ男が揃ってるんだよね﹂
社内報に顔写真が掲載されていた社長は、正統派の王子様タイプ。
フランス人の血が4分の1流れているとか。
ちらっとだけ姿を見た北川君は柔らかい印象の好青年だったし、
彼と同じ営業部の永瀬さんは、体育会系の爽やかないい男。
開発部の大神さんは、ちょっと俺様なワイルド系のイケメン。
既に総務部のホープとの呼び声高い新人の吉田君は、キリッとし
154
た凛々しい男前。
販売促進課の蘭課長は、いつでも穏やかな素敵紳士。
もちろん、我が上司様の存在も忘れてはいない。
入社間もない私でも、こんな簡単に数人の名前が挙げられるのだ。
この会社で働くようになって、世間に広まるほど噂が立てられる
ことに納得する日々。
﹁へぇ、私もKOBAYASHIで働きたい∼!﹂
私の話に目を輝かせていた恭子がそう口にすれば、星野君が慌て
て彼女の肩をつかんだ。
﹁ダメだよ恭子ちゃん!恭子ちゃんは僕だけ見てればいいの!﹂
グイッと自分の方に向かせた恭子に、星野君は焦ったように言葉
を走らせる。
﹁恭子ちゃんを誰よりも愛しているのは、この僕だよ。だから、他
の男なんか見なくていいの!﹂
なんていうか、その必死さが可愛い︵星野君は180センチ近い
身長のけっこうガッチリタイプで、可愛いとは形容しがたいが︶。
人懐っこい大型犬がご主人様の気を引こうと、必死にアピールし
ているようだ。
そんな彼を見て心底嫌そうな恭子だが、瞳の奥が笑っている。
﹁えー!伸吾ばっかり見てたら飽きるじゃん﹂
プイッとそっぽを向けば、なおも必死に言い募る星野君。
﹁そんな事言わないで!お願いだから、僕に飽きないで!﹂
今にも泣き出しそうな星野君を見て、恭子がニヤリと片頬を上げ
155
た。
﹁⋮⋮冗談だよ﹂
﹁冗談でも言ったらダメ!﹂
ガバッと恭子を抱きしめた星野君の目が本気で潤んでいた。
﹁はいはい。ったく、このくらいの冗談、サラッとかわしてよ。め
んどくさい男だなぁ、伸吾は﹂
呆れた表情を隠しもせずため息を付く恭子に、星野君が吠える。
﹁サラッとかわせないくらい、俺は恭子ちゃんが好きなの!﹂
毎度おなじみの展開なので、私は特にうろたえる事も無く、黙々
と口にパスタを運ぶ。
星野君は私や恭子より8歳下の25歳。
3年前、恭子が勤める出版社に新入社員として入ってきたのが、
星野君。 付き合い始めた経緯は頑として口を割らない恭子だが、星野君が
強引に押し切って︵泣き落としで︶交際が始まったらしい。
男前の姉御肌である恭子︵下に妹1人、弟2人がいる長女︶と、
そんな彼女にベタ惚れの星野君︵3人の兄、2人の姉を持つ末っ子︶
。付き合って2年の彼らは、なかなかいいコンビなのだ。
寸劇まがいのラブラブショーが落ち着いたところで、恭子が再び
話を切り出す。
﹁そんなにイイ男が多いなら、その中から彼氏を選べば?﹂
咀嚼したパスタをゴクン、と飲み込んだ後、私は興味なさそうに
ポツリと呟く。
﹁彼氏ねぇ⋮⋮﹂
﹁そういえば、理沙の歴代彼氏って同い年か年下ばっかりだったよ
ね﹂
腐れ縁ともなれば、お互いの恋愛遍歴は丸分かり。
156
﹁あぁ、そうだね﹂
私の答えに、星野君が頷く。
﹁なんか分かるなぁ。理沙ちゃんって、見るからに出来るオンナだ
もん。恭子ちゃんとはまた違った意味で、頼りがいがありそうだし﹂
星野君の言葉に、恭子が大きく頷いた。
﹁そうそう。見た目はキリッとしてるし、人付き合いはうまいし、
おまけに仕事もばっちりだしね。理想のお姉様って感じだよ﹂
ニッと笑った恭子が、次の瞬間には真面目な顔になる。
﹁でもさ、本当の理沙は彼氏に頼られてばかりじゃキツいんでしょ
?そりゃ、キャリアウーマンだし、精神面もしっかりしてるけど、
見た目の印象通りかっていうと、そうでもないし﹂
﹁可愛い部分も沢山持ってるしね﹂
そう言った星野君がすぐに、﹃僕にとっては、恭子ちゃんが世界
で一番可愛いけど♪﹄と惚気ると、恭子はそんな彼の顔面に無言で
拳を見舞った。彼女は極度の照れ屋なのだ。
恭子は顔を両手で押さえて床にうずくまる星野君を足蹴にすると、
涼しい顔で再びパスタを食べ始める。私の親友は、いろんな意味で
強すぎだ。
﹁だから、今度の彼氏は自分が甘えられる年上の人がいいよ。そう
いう人、理沙の身近にいないの?男として意識するような人﹂
そう言われて、野口補佐の顔が一瞬脳裏に過ぎった。
年上ならではの包容力と丹力満載の我が上司様。容姿もさること
ながら、その人間性も素晴らしい人物。
上司
として存在している彼のことは恋愛
︱︱︱確かに理想的な男性よね。
しかし、私の中では
対象として見ることが出来ず、すぐさま意識から消し去る。 ﹁今は仕事に精一杯で、そういうことには目が行かないなぁ。それ
157
に、恋愛はもうコリゴリだしね﹂
肩をヒョイッとすくめてパスタを口に入れた私に、恭子は呆れて
ため息をつく。
﹁何言ってんの、まだ33歳じゃん。女はね、30からが華なんだ
から﹂
彼女の攻撃に慣れているのか、思った以上に復活の早い星野君が、
懲りもせず恭子の腰に抱きつきながら私に顔を向ける。
﹁恭子ちゃんの言うとおりだよ。そんな枯れた考えじゃ、この先の
人生寂しいよ。失恋を忘れる為に必要なのは、仕事じゃなくて新し
い恋だからね﹂
﹁⋮⋮うん、そうだね﹂
私は曖昧に微笑を返した。
恭子と星野君の話も分からないではない。
だけど、子供っぽくて、女らしさに欠けて、可愛げのない自分を
本当の私
を好きになってくれる
そのまま受け入れてくれる人などいるのだろうか。
外見とのギャップを含めて、
人など今までにいなかったのだ。
誰一人としていなかったのだ。
自然と俯く私に恭子が声を掛ける。
﹁大丈夫だよ、自分に合う人がきっと見つかるから。理沙がどれほ
どいい女なのか、私はずっと傍で見てきて知ってるよ。だから、弱
気にならないで、頑張りすぎないで、ありのままの理沙でいればい
い﹂
﹁恭子⋮⋮﹂
親友の温かい励ましに、ジワリと涙が浮かぶ。
持つべきものは友達だ、としみじみ感じた瞬間、
﹁だけど、料理は頑張り過ぎるほどに頑張れ。この前みたいな殺人
ピラフを食べさせられたら、流石に友達をやめたくなる﹂
158
意地の悪い笑みを口元に浮かべる我が親友。
﹁恭子ちゃん、笑顔が怖いー!でも、そんな恭子ちゃんも好きー!﹂
﹁うるさいっ!﹂
恭子の怒鳴り声が部屋に響いた瞬間、彼女の右肘が星野君の左脇
腹にめり込んだ。
159
︵27︶本当の
私
︵後書き︶
●理沙ちゃんが話中であげたイケメン男性社員の名前は、この先も
しかしたら投稿するかもしれない小説に出てくるキャラです。
ある程度のネタ出しはしてありますので、いつか日の目を見せてあ
げたいものですね。
これまで社会人同士の小説と言うのはどちらかと言えば苦手でした
が、女帝を書き始めてから、職場恋愛の面白さに嵌ってしまいまし
たよ︵笑︶
KOBAYASHIはネタに欠かない舞台なので、社会人の恋愛小
説にますます嵌っていきそうです。
とか言いつつ、ファンタジーも書いてみたいです。
こちらもネタ出しができているのに、推敲する時間が無い︵号泣︶
160
︵28︶何がしたいのでしょうか?
︱︱︱なぜだろう。最近、補佐がベッタリくっついてきているよう
な⋮⋮。
昼休み直前に、韓国支社からの報告書メールが送られてきた。
先日の土砂崩れ事件ほどではないが、そこそこ急を要す内容だっ
たので、昼食を後回しにしてパソコンに向かっている私。
ハングル文字がズラッと並ぶ韓国支社からのメールを見ながら、
要点を日本語で書き出している私の左背後には何故か補佐がいる。
ちなみに、同僚達は皆、昼食を摂る為に出払っていた。
﹁翻訳が終りましたらお持ちしますので、席でお待ちください。も
しくは、先に昼食を召し上がられてはいかがでしょうか﹂
ペンを握る手を止めた私は、時折身をかがめてこちらの手元を覗
き込む補佐を見上げてそう伝える。
すると、どことなく寂しそうに目を細められた。
﹁私がいると、邪魔かな?﹂
﹁いえ、そういうことではありません。少々時間がかかりますので、
立ってお待ちになって頂くのは申し訳ないと﹂
メール自体も長いものだし、おまけに企業独特のビジネス用語が
入った文章なので、私といえども日常会話を翻訳するより若干手こ
ずるのだ。
あと15分ほどはかかってしまうかもしれないと告げるも、彼は
動こうとはしない。
161
﹁古川君が邪魔でなければ、ここにいさせて欲しいのだが﹂
﹁それはかまいませんけれど。でしたら、翻訳し終えた部分を先に
お読みになりますか?﹂
半分程度訳し終えたものを書き付けた用紙を差し出すが、補佐は
首を横に振った。
﹁いや。文章全体に目を通した方が、用件の流れが掴める﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
︱︱︱それなら、ここにいる必要ないんじゃない?
別段楽しい事があるわけでもないのに、ここに居たがる理由に見
当付かない私は首を傾げた後、翻訳に戻った。 長ったらしいハングル文字の集団を訳し終え、自分で書いた文章
に目を通して確認する。
︱︱︱これでよし。
小さく頷いた私のすぐ傍で声がした。
﹁ご苦労様﹂
︱︱︱えっ?
少しでも早く終らせようと作業に集中していた私は、自分の状況
に気付いていなかった。
左手をデスクに着き、右手を私が座る椅子の背に置いた補佐が上
体をかがめて、私の顔を覗き込んでいたのだ。
﹁な、なにか?﹂
162
ギョッとして目を瞠る私に、補佐が苦笑する。
﹁熱心に仕事をしている君の横顔があまりに綺麗で、つい見惚れて
いたんだよ﹂
﹁︱︱︱!?﹂
補佐の発言内容とあまりに近い距離に、私はのけぞって補佐から
離れる。
すると私が離れた分だけ、補佐が寄ってきた。
そして、椅子の背にあったはずの右手が私へと伸びてくる。
﹁少し崩れた髪形というのは、妙に色気があるものだな﹂
﹁あ⋮⋮﹂
視界の隅で、焦げ茶の筋が僅かに揺れる。
今日の髪型は前髪も後ろに流して1つに纏め上げていたのだが、
下を向いて作業しているうちに、その前髪の一部がハラリと落ちて
いたようだ。
私の左頬に掛かるその一筋の髪を、補佐が指先で弄り始める。
彼の行動に驚愕し、全身が固まった。
﹁野口⋮⋮補佐?﹂
落ちた前髪を指先にクルリと巻きつけ、彼はクスリと笑う。
﹁思っていたよりも、柔らかい。私の髪質とぜんぜん違うな﹂
︱︱︱補佐は何をしたいの!?
このまま黙っているのは非常に気まずいので、何とか会話を繋げ
る。
﹁お、怏々にして女性の髪は細いので、その⋮⋮、柔らかいのでは
ないかと。だ、男性の中にも、柔らかい髪質の人もいるでしょうけ
れど。ええと⋮⋮、部長補佐がお付き合いされている女性の方の髪
はいかがでしょうか?﹂
しどろもどろになりながらも、どうにか口を動かした。
しかし気が動転するあまり、余計なことまで言葉にしてしまった。
163
私の言葉にほんの少し驚いたようにして見せたが、その一瞬後に
は穏やかな笑顔が返ってくる。
﹁私に恋人はいない。安心したまえ﹂
︱︱︱何に安心しろというのだ?
﹁はぁ⋮⋮﹂
どうにも意を得ない補佐の言葉に、なんと返事をすればよいのや
ら。
間抜けな相づちを返せば、クスクスと苦笑を隠さない補佐。
﹁これまでに女性と付き合ったことはあるが、その時は髪質など気
にも留めたことがなかったよ。気になったのは、君が初めてだ﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
︱︱︱で、補佐は結局何がしたいの?単に私の髪が気になっただけ?
怪訝に思ったその時、巻きつけた髪を補佐は私の耳にかける。
彼の指先が耳に触れた。
ピクッと私の肩が小さく跳ねたのを楽しそうに見遣った補佐が、
ゆっくりと耳の輪郭に沿って指を這わせる。
同時にゾクリ、と何かが背筋を駆け上がり、頬がカァッと熱くな
った。
﹁古川君⋮⋮﹂
呼ばれてそっと視線を上げれば、そこにあったのは真っ直ぐに見
下ろしてくる補佐の瞳。
その瞳に浮かぶ光は初めて見るような色で、私は戸惑う。
﹁野口⋮⋮補佐⋮⋮?﹂
掠れた声で呼び掛ければ、彼の笑みが更に濃くなる。
︱︱︱な、何なの⋮⋮?
164
視線を逸らすことが出来ず、今の私はさながら蛇に睨まれた蛙の
ように、身じろぎ1つ出来ない。 水を打ったように、静まり返った空気が部屋に漂っていた。
いつにない補佐の様子に、私はただ黙っていることしか出来ない。
じっと見上げている私に向って、補佐が更に身をかがめてくる⋮
⋮。
その時、補佐のデスクにある内線電話が鳴った。
﹁!!﹂
途端に我に返った私。
補佐といえば、私から一歩下がり、やたらと鋭い視線で電話機を
睨んでいる。憎々しげな舌打ちが聞こえたのは、空耳だろうか。 ﹁古川君、今から1時間休憩を取ってくれてかまわないから﹂
そう早口に告げると、補佐は自分のデスクへと歩き出した。
私は軽く頭を下げ、海外事業部を飛び出す。
人気のない廊下を早足で進み、いつもの休憩場所に向かった。
例のごとく誰もいない非常階段の踊り場に来ると、私はその場に
しゃがみこんだ。
男
だったように思
そしてバッと両手で自分の顔を覆うと、手の平には尋常ではない
熱さを感じる。
︱︱︱な、な、な、何だったの、あれは!?
あそこにいた彼はいつもの上司ではなく、
えた。
165
﹁は、ははは⋮⋮。やだ、私ったら。そんなの、気のせいに決まっ
てるわ、はは⋮⋮﹂
乾いた笑いが口から漏れる。
﹁暇つぶしに、私のことをからかったのよ。30過ぎても、男っ気
のない私がどんな反応するのか見たかったのね。うん、きっと、そ
うよ﹂
自分の上司はそんな捻じ曲がった人格ではないとは思うが、それ
以外に彼の行動をどう理由付ければいいのか。
﹁それにしても、驚いたわぁ⋮⋮﹂
ふぅ、と大きく息を吐いて立ち上がり、崩れ落ちた前髪を指で掬
って耳に掛ける。
私は耳を触られるのが弱いのだ。
誰しもがくすぐったさを感じる場所だろうが、恭子にしても、星
野君にしても、我が妹にしても、私ほどの反応は示さない。
さっき、ほんの僅かに補佐の指先が触れただけだったのに、何と
もいえない感覚が背筋を襲った。
それは確かに嫌悪ではなかったが、では一体何なのかと問われれ
ば答えに窮してしまうのだった。
166
︵28︶何がしたいのでしょうか?︵後書き︶
●野口氏、それは完全にセクハラではないでしょうか?︵滝汗︶
●次のお話からほんの少しシリアスな展開になります。
ここを乗り越えれば、2人の関係に変化が現れるでしょう。
2人の関係と言うか、強引に押し迫る野口氏の一方的な展開かもし
れませんが︵笑︶
167
︵29︶私の存在意義:1
お盆休みを目前に控え、会社全体が慌しい雰囲気に包まれている。
海外事業部は他の部署ほど日本の行事に振り回されないが、それ
でもお盆に合わせて帰省する社員達も中にはいるため、通常の自分
の仕事以外の作業も割り当てられることもあった。
﹁古川君、このフランス市場調査の結果報告書を上田部長に渡して
くれないか。今、第2会議室で社長達とミーティングしているだろ
うから﹂
﹁はい﹂
パソコンのキーボードを叩いていた手を止め、補佐のデスクに小
走りで駆け寄り、差し出された書類の束を受け取る。
﹁それと、この書類を英訳して、ロンドンの××社宛のメールに添
付して送ってほしい﹂
更に書類を追加で受け取る。
韓国語ほどではないが、私は一応英語も理解できるのだ。 ﹁かしこまりました。いつまでにロンドンへ送ればよろしいですか
?﹂
﹁明日の午前中までに終らせてくれると助かるな﹂
﹁出来る限り早急に終らせます﹂
﹁頼むよ﹂
そんなやり取りの後、私は急いで会議室に向かった。
部長に報告書を手渡すとすぐさま引き返し、分厚い書類の束の英
訳に取り掛かる。
一般的に﹁英語﹂というのはアメリカ圏とイギリス圏で使われて
168
いるが、同じように見えて米語と英語は若干の違いがあるのだ。
例えば、﹁秋﹂のことをアメリカでは﹁fall﹂と表記し、イ
ギリスでは﹁autumn﹂と表記する。
建物の1階を示すのもアメリカは﹁the first flo
or﹂となるのに対し、イギリスでは﹁the ground f
loor﹂となる。ちなみにイギリスでは2階が﹁the fir
st floor﹂である。
このように、同じものを示唆しても米語と英語では表記が変わる
ので、その使い分けが面倒くさい。
そして私たちが一般的に慣れ親しんでいるのは米語なので、××
社に送る文章には気を遣うのだった。
念のために時折辞書を引きながら英訳を進めていると、私のデス
クにある内線が鳴った。
﹁僕が出ます﹂
隣の席に座る滝さんが受話器を持ち上げる。彼は私より2歳上の
先輩秘書だ。
秘書と言っても直属の役員について回るのではなく、部長、副部
長、部長補佐、副部長補佐各秘書の仕事を取りまとめるパートリー
ダーみたいな位置付けである。
電話口に出てくれた彼に対して軽く頭を下げ、私は英訳作業を再
開した。
﹁お疲れ様です、滝です。⋮⋮はい、⋮⋮え?C社の増岡専務がこ
ちらに?分かりました、電話を繋いでください﹂
それは受付から掛かってきた内線電話だったようだ。
︱︱︱C社の増岡部長はまだお会いしたことないわね。
野口補佐に連れられ、取引先との挨拶は全て終えたと思っていた
が、取りこぼしがあったのか、それとも新規参入の取引先で、私と
169
はまだ面識がなかっただけなのか。
C社といえば、中国市場で絶大な力を発揮している貿易会社。素
材の輸入に関して、このC社に及ぶ会社は日本においてまずないと
言ってもいい。
アジア圏に力を入れ始めたKOBAYASHIにとって、すごく
大切な取引先だ。 私は手帳を取り出し、忘れないうちにメモ欄へ﹃C社 増岡専務﹄
と書き込んだ。
電話を終えた滝さんが徐に席を立ち、補佐の元へと歩いてゆく。
﹁失礼いたします。今しがた連絡がありまして、増岡専務がこちら
に見えられているそうです﹂
それを聞いて、補佐は僅かに眉を顰める。
﹁会う約束はしていなかったはずだが﹂
﹁ええ、存じています。近くに来る用事があったので、立ち寄った
とのことです﹂
﹁ったく、私を暇つぶしの茶飲み相手とでも思っているのか?やれ
やれ⋮⋮﹂
苦々しい言葉を呟きながらも立ち上がったところを見ると、相手
は軽く追い返せない人物らしい。
チラリと私を見た補佐は、滝さんに何事かを話し掛け、彼を連れ
立って海外事業部を出て行った。
本来であれば直属の秘書である私が同行するべきであるが、急ぎ
の仕事を抱えているのを気遣ってくれたようだ。
︱︱︱さてと、集中、集中。
せっかく時間を作ってもらえたので、私は気合を入れなおして報
告書に目を落とした。
170
翌日、昨日の作業の続きをし、10時前には英訳を終えて無事に
メールを送ると、その旨を報告する為に補佐のデスクへと向かう。
﹁野口補佐、××社への送信を終えました﹂
﹁思っていたよりも早かったな、さすが古川君だ。一仕事終えたと
ころで申し訳ないが、今度はこの書類を英訳してアメリカの▲▲社
に送ってほしい﹂
﹁かしこまりました。お急ぎですか?﹂
﹁そうなんだ。今日中に終るかな?﹂
渡された書類の束は××社に送ったほどの厚さはない。それに米
語であれば、それほど厄介ではないだろう。
﹁おそらく大丈夫かと﹂
﹁助かるよ。では、よろしく﹂
﹁はい。あ、野口補佐、本日は増岡専務との打ち合わせがあるとあ
りますが﹂
海外事業部の入口付近の壁にあるホワイトボードに、部長、副部
長、部長補佐、副部長補佐など、上役のスケジュールを書き込むこ
とになっている。
今朝出社したら、野口部長補佐の欄に﹃C社 増岡専務 打ち合
わせ 直帰﹄とあった。
直帰ということは、増岡専務と会うのは割りと遅い時間ことだろ
う。
﹁この量の書類であれば、お時間までに終えることが出来ますから。
本日は私も同行させてください﹂
私の申し出に、補佐は笑顔で首を横に振る。
﹁もしかしたら、先方の都合次第で時間が早まるかもしれないんだ。
171
それに、滝君が同行してくれるから、君は心配しなくていい﹂
これまで当たり前のように補佐の外出に同行していたため、断ら
れたことでちょっと気落ちしてしまう。
﹁そうですか⋮⋮﹂
心もち肩を落とせば、補佐は立ち上がって私の肩をポン、と叩く。
﹁滝君が英語に明るければ、▲▲社の書類を君に任せなくても済む
んだが。生憎、彼の能力より、古川君のほうが優秀なようだから﹂
﹁韓国語と英語は負けますが、ポルトガル語は誰にも負けませんよ﹂
いつの間にか傍にいた滝さんが胸を張れば、
﹁KOBAYASHIにはポルトガル関連の取引先はないから、ま
ったく役に立たないな﹂
と、補佐がばっさり切り捨てる。
そのやり取りに苦笑すれば、補佐が優しい視線を向けてくる。
﹁古川君は何も気にすることはない。通常業務のほかにも仕事を抱
えて大変だろうが、よろしく頼む﹂
﹁はい、頑張ります﹂
頭を下げてその場を辞する。
席に戻った私を見た補佐と滝さんが、なにやら意味深に視線を交
わしていた。 172
︵30︶私の存在意義:2
社員達の夏休みが一段落し、私の仕事も落ち着きを見せてきた。
それでも、増岡専務との打ち合わせに同席することは未だになく、
補佐はいつだって滝さんを打ち合わせの場に連れてゆく。
急ぎの仕事を抱えていた時は特に何も思わなかったが、今でも直
属秘書の私を同行させないことに妙だと思い始めた。
誰を同行させるかは補佐が判断することで、私が口を出すのはお
こがましいが、滝さんだけが増岡専務と同席することが許されてい
ることにショックを受けていた。
︱︱︱野口補佐の秘書として頑張ってきたけど、私じゃ役に立たな
いってことなのよね⋮⋮。
いつもの場所で息抜きしていた私は、口の中の苺キャンディがほ
んの少し苦いものに感じた。
休憩を終え、私は人事部で書類を受け取り、その後手続きするた
めに1階の総務部へと向かった。
3ヶ月の契約期間を間もなく終えるに際し、継続して契約社員と
して雇ってもらえることが決まったのだ。
自分の仕事が評価されての契約更新だ。
嬉しくないはずがない。
だが増岡専務の件を思えば、それほど心は弾まない。
︱︱︱私は本当に仕事がこなせているのかなぁ。野口補佐は、私の
173
こと必要としてないんじゃないかなぁ。
そんな疑心暗鬼に囚われてしまった私は契約更新に必要な書類を
胸に抱え、海外事業部へ戻る為に廊下をとぼとぼと歩いていた。
エレベーター恐怖症の私はいつもなら階段を使うのに、ボンヤリ
していたため目の前でタイミングよく開いたエレベーターに思わず
乗り込んでしまう。 その時、
﹁すまん、乗せてくれっ﹂
という声が聞こえた。
少し離れた所からこちらに向かって立派な体格をした⋮⋮といえ
ば聞こえがいいが、かなりメタボな50代半ばに見える男性が頼り
ない足取りで駆けてきた。
私はすかさず開ボタンを押し、その男性の到着を待つ。
﹁ふぅ、やれやれ。ありがとう、助かったよ﹂
﹁いえ、どういたしまして。どちらに向かわれますか?﹂
﹁ミーティングルームへ行きたいんだ。いつもは出迎えてもらうが、
たまにはこっちから会いに行って驚かせてやろうと思ってな﹂
いい年齢でありながら悪戯好きな来客に、どう返せば良いのか対
応に悩む。
とりあえず微笑みを返してその男性に目を向ければ、スーツの襟
元にある社章が目に入った。それはC社の社章。
︱︱︱そういえば、16時から増岡専務との打ち合わせがあるって、
ボードに書いてあったっけ。ということは⋮⋮。
﹁失礼ですが、お客様はC社の増岡専務でいらっしゃいますか?﹂
﹁ん、そうだが﹂
問いかければ、男性が喉もとの肉を揺らして頷いた。
﹁ご挨拶が遅れて申し訳ございません。野口の秘書を務めておりま
174
す古川です﹂
書類を小脇に抱え、急いで名刺を差し出す。
﹁古川君?野口部長補佐の秘書は滝君ではなかったかな?﹂
受け取った名刺と私を見比べる増岡専務に苦笑を浮かべる。
﹁社員の夏季休暇の都合で時間が折り合わず、私が同行することが
出来なかったものですから、滝が代わりに﹂
時間に都合がついても滝さんが同行していたことは、特に伝える
必要もないだろうと口にしなかった。
﹁そうだったのか。うん、うん、古川 理沙君ね。海外事業部の野
口君とは長い付き合いでな。これからは君もよろしく頼むよ﹂
︱︱︱長く付き合いがあるということは、やっぱり大切な取引相手
ということよね。粗相がないように気をつけないと。
﹁こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします﹂
丁寧に下げた頭を戻して目の前の専務を見れば、不躾にジロジロ
と見てくる視線にぶつかった。
私のことをどんな人間なのか、秘書として足る能力があるのかと
いった検分的なものではなく、纏わりつく厭らしい視線。
途端に背筋に悪寒が走り、ブラウスの下の腕に鳥肌が立つ。
﹁今後はKOBAYASHIとの商談が楽しみだよ﹂
エレベーターが着いていたことに気付かず立ち尽くしていた私の
肩をネットリと撫で回し、ニヤニヤしながら彼は出て行った。
増岡専務の姿が見えなくなった頃、ようやく私は足を動かすこと
が出来た。
おぼつかない足取りで廊下を歩くが、数歩進んだだけで力が抜け
てしまい、思わずその場にうずくまる。
175
︱︱︱こんなことを思ったらいけないんだろうけど。
取引のある相手会社の重役を悪く言うのは憚られるが、彼のあの
視線は女性として耐え難いものだった。
︱︱︱怖い、嫌だ、気持ち悪い⋮⋮。
ジワリと涙が滲み、私は自分で自分を抱きしめると、
﹁古川さん!﹂
後ろから声をかけられた。同じ海外事業部、ヨーロッパ担当の桑
田さんだった。
40歳、2児のママさんは面倒見がよくて、私の姉のような存在。
素早く私の正面に回り、彼女が膝を着いて私の顔を窺う。
﹁真っ青よ!一体、どうしたの?!﹂
﹁⋮⋮いえ、何でもありません﹂ 私は弱々しいながらも桑田さんに微笑んで立ち上がった。
︱︱︱大丈夫。ひどいことをされたわけじゃないし、あの程度で参
っていたら、重役秘書としての名折れだわ。大丈夫、大丈夫⋮⋮。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
﹁ちょっと立ちくらみしただけですから。桑田さんも戻った方がい
いですよ﹂
私はもう一度大きく息を吸って、静かに歩き出した。
部に戻り、韓国支社から送られてくる定時報告のメールに目を通
していると、廊下が何やら騒がしいことに気がついた。
喧嘩というほど物々しくはないが、勤務時間内の社内にしては騒
々しい。
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社員が怪訝な顔をして海外事業部の入口を見つめていると、勢い
よく扉が開いた。
誰もが呆気に取られていれば、我が者顔で入って来たのは先ほど
エレベーターで乗り合わせた増岡専務。
その後から続いて野口部長補佐と滝さん。2人とも苦虫を100
匹くらい噛み潰した顔をしている。
︱︱︱どうしたの?商談に失敗でもした!?
誰もがどう対応したらいいのか分からず、3人に釘付けだ。
そんな中、まさにズカズカといった遠慮のない様子で増岡専務が
私の方へと近付いてきた。
﹁ああ、いたいた!﹂
満面の笑みで歩み寄る部長に、私は慌てて席を立った。
﹁私に何か御用でしょうか?﹂
引きつる顔で必死に笑みを作る。
﹁帰る前にもう一度君に会いたくてね。野口君も人が悪いなぁ、こ
んな素敵な秘書がいたことを隠しているなんて。これからの商談に
は、是非とも古川君も同席させてくれ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
珍しく言いよどむ部長補佐。
しかし専務はその様子を気に留めることはなかった。
﹁いやぁ。見れば見るほどいい女だねぇ、古川君は﹂
﹁⋮⋮恐れ入ります﹂
再び私の肩へと手を伸ばそうとしてくる増岡専務に、思わず私の
身が竦む。
しかしその手が私に到達する前に、補佐がスッと私の前に身を滑
らせた。
﹁増岡専務、迎えの車が先程から待機しております。どうぞ、車の
方へ﹂
177
スマートであるが、どこか強引さも伺える仕草で、補佐が増岡専
務の退室を促す。
滝さんは海外事業部の扉を開け、手で押さえている。
後は専務がここを出て行くだけ。
﹁この後、社の会議に出席する予定さえなければ、古川君とゆっく
り出来たのに残念だよ。ま、それは後日のお楽しみに取っておくか
な﹂
社員達の目があるせいか、エレベーター内で見せたものよりもい
くらか押さえられていたが、それでも厭らしい感じを与える視線を
私に向けた後、増岡専務が滝さんに連れられて出て行った。 ややあって、専務が登場する前と同じ静けさが戻ってきた。
私は糸が切れた操り人形のように、ストン、と椅子に腰を下ろす。
︱︱︱なんか、どっと疲れた⋮⋮。
女性秘書ということで、以前の会社でも色を含む視線を向けられ
たことはあったが、そのどれもが増岡専務ほど強烈なものではなか
った。
それに、私が秘書として同席した相手は、自分の上司と同等の立
専務
という肩書きは野口部長補佐よりも上。
場か、それより低い相手だった。
しかし、増岡の
絶対に失礼があってはならない相手だ。
︱︱︱大丈夫。大丈夫よ⋮⋮。
何度も自分に言い聞かせていると、名前を呼ばれた。
﹁古川君﹂
178
側に立つ補佐が気遣わしげに私を見ている。
﹁さっき、増岡専務から聞いたよ。まさか君が専務とエレベーター
で出くわしたとはね。タイミングが悪かったとしか言いようがない
な﹂
苦笑いを浮かべる補佐の顔はいつもとは違って、目の奥に複雑な
光が浮かんでいる。
﹁専務はああ言ったが、無理に同席する必要はないんだよ﹂
﹁いえ﹂
私は静かに首を横に振る。
﹁増岡専務の態度の理由はよく分かりませんが、仕事上でのお付き
合いでしたら、問題なくこなせると思いますから﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
眉間にグッと皺を寄せ、低く唸るように返事をした補佐。
口元を押さえてしばらく何か考えていたようだが、手を外して私
を見る。
﹁ありえないとは思うが、万が一増岡専務に何かされたら、すぐ私
に言うように。いいね?﹂
補佐は何かを心配しているようだ。
しかし、いくら女好きだとしても流石に打ち合わせの場で手を出
してくるほど、増岡専務も考えなしではないだろう。
それに、補佐も滝さんも同席するのだ。何かが起こるわけもない。
︱︱︱他社の人は仕事以外で会うこともないし、平気よ。
﹁分かりました。その時はすぐに報告いたします﹂
私の返事に、野口補佐はようやく眉間の皺を解いた。
179
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︵31︶私の存在意義:3
その後、ほぼ毎日のペースで増岡専務との商談がスケジュールに
組み込まれた。
打ち合わせする場所はKOBAYASHIのミーティングルーム
だったり、C社に出向いてだったり。
これまでに5回増岡専務との商談に同席したが、手を出されるこ
ともなくその場を後にしていた。相変わらず、厭らしい視線を浴び
せられてはいたけれど。
今日は滝さんに急用が入ったために一緒ではなかったが、補佐が
護衛官のように私の傍を離れなかったので、無事に商談を終えるこ
とが出来た。
C社を出て、車に乗り込む。
ハンドルを握る私に、後部座席に座る補佐から声が掛かった。
﹁ご苦労様。増岡専務に会うと、精神的にキツイだろう?﹂
﹁正直申し上げればそうですけれど、ですが、最近は慣れてきまし
たから﹂
小さく微笑んで、私は視線を前に向ける。
余談だが、以前、補佐と一緒に出向く時、何故か彼は助手席に座
りたがった。
初めて私の運転で外回りに向かおうとしたら、私が補佐のため後
部座席のドアを開ける前に助手席に乗り込んだのだ。
そして、何食わぬ顔でシートベルトを締め、シートに収まる上司
様。
181
︱︱︱何で?
ポカン、となった私に補佐が笑顔で話しかける。
﹁古川君、今後は助手席に座らせてもらうから﹂
﹁ええっ﹂
︱︱︱花田さんからは、そんなこと聞いてないんですけど!!
﹁それは困ります!﹂
﹁何が困るんだ?道を完全に覚えたのだから、花田が同行すること
もないし、助手席は空いているだろ﹂
︱︱︱いやいやいや、空いているからいいだろってことじゃないで
しょ!横並びで外回りに向かう秘書と上司なんてありえない!
﹁申し訳ありません。私は助手席に人がいると、集中できないもの
でして⋮⋮﹂
何とか言い訳を捻り出し、どうにか上司の言い分を取り下げても
らおうとすれば、
どこの世界に
﹁それなら、私が運転するから君が助手席に座ればいい﹂
と、予想外の追い討ちが。
︱︱︱何を言い出すんだ、この上司様は∼∼∼!!
上司を運転手に使う部下がいますか!
解雇
と
﹁いえ、それも困ります。社員がそのことを目撃したら、私は秘書
としての真価を問われかねないかと。最悪の場合、私は
なります﹂
﹁それもそうか⋮⋮。残念だな﹂
182
本当に残念そうな顔をして、補佐はションボリと後部座席に乗り
込んだのだった。
そんなやり取りがあったことを思い出し、私はクスクスと笑う。
﹁何だか分からないが、商談の後にその表情が出てくるということ
は、それほど深刻ではないのかな?﹂
﹁そうですよ。補佐も滝さんも心配しすぎです。相手は専務という
立派な肩書きをお持ちですから、流石に取引先の秘書に何かを仕掛
けようだなんてなさいませんよ﹂
﹁そうだとしても、油断はしないでくれ﹂
﹁はい、肝に銘じておきます﹂
そう答えたものの、私はそれほど真剣に受け止めてはいなかった。
C社との6回目の打ち合わせはKOBAYASHIで行われるこ
とになっている。
﹁本日の14時半に増岡専務がいらっしゃいますね﹂
朝の申し送りで、私は手帳を開いて補佐に確認する。
﹁それまでに余裕があれば、2週間後にD社へ納品予定の商品の出
来上がり状況を、韓国支社に確認しておいてくれないか?﹂
﹁かしこまりました﹂
私は自分の席に戻り、まずはいつもの仕事に手をつける。
これまでに届いているメールや郵便物に目を通し、必要に応じて
翻訳していく。 この作業が一段落すると、来週の社内会議で使う資料を纏める。
そうこうしているうちに昼食の時間。
桑田さんと一緒に社員食堂で食事を済ませ、その後は補佐に言わ
183
れたように韓国支社と連絡を取り合う。
今では土砂に埋まった部分は完全に復旧し、生産ラインに問題の
ない韓国工場。
商品は余裕を持って仕上がったようだ。
﹁よしよし、それなら安心ね﹂
腕時計を見れば間もなく14時。
︱︱︱そろそろお茶の準備をしておいた方がいいかな。
そう思って立ち上がったところに、内線電話が鳴った。
﹁はい。海外事業部、古川です﹂
﹃お疲れ様です、受付の佐川です。只今、C社の増岡様がこちらに
見えられました﹄
﹁え?﹂
もう一度腕時計に目を落とせば、14時を示している。念のため
に壁にかけられている時計を見遣れば、やはり14時。
約束の時間ではないが、到着してしまっている以上待たせるのは
失礼だ。
﹁分かりました。すぐそちらに向かいます﹂
﹃お願いいたします﹄
受話器を置いた私は補佐のデスクに目を向けた。
しかしそこは空席。
隣の滝さんの席も空いている。
﹁桑田さん。部長補佐と滝さん、どちらに行かれたか分かります?﹂
﹁ああ、補佐は上田部長と急な打ち合わせで、滝君は経理に行って
るわよ。2人ともすぐに戻るって言ってたけど﹂
﹁そうですか、ありがとうございます﹂
私はペコリと頭を下げて、部屋を出た。
補佐か滝さんと増岡専務を迎えるべきだが、いないのでは仕方が
184
ない。
急いで受付に向かうと、私の姿を目にした増岡専務が軽く手を上
げた。
﹁お待たせして申し訳ありません﹂
小走りで駆け寄ってお辞儀をする。
﹁いや、こちらこそ時間通りに来なくて悪かった。今日はやけに道
が空いていてね。だが、少しでも早く古川君に会えて嬉しいよ﹂
ニッコリと笑いかける専務の笑顔は、今日も絶好調に気持ち悪い。
﹁渋滞に巻き込まれなくて何よりです。では、参りましょうか﹂ 私は鳥肌になった腕を擦りたいのを堪えながら、専務をエレベー
ターへと案内した。
エレベーターで増岡専務と2人きりになるのは危険かと思ったが、
見えるところに防犯カメラがしっかり装備されているので、心配し
ていたような事態は起きない。
色ボケ専務様もその点は理解しているらしく、あからさまな行動
は取らないでいた。
予約を入れたミーティングルームの扉を開けて、専務に声をかけ
る。
﹁どうぞお入りください﹂
外側に開く扉のノブを廊下側で引いた状態で、まずは専務に入室
してもらう。
そして中に入った彼に背を向けて扉を閉めたその瞬間、後ろから
抱きつかれた。
私より10cmほど背の低い専務の鼻先が、ちょうど首筋に埋ま
る。
﹁増岡専務、何をっ!?﹂
慌てる私の声に取り合わず、専務はクンクンと鼻を鳴らす。
﹁古川君、いい匂いがするねぇ。どこの香水を使っているのかな?﹂
185
更に鼻を寄せながら、専務はギュウッと抱きしめてくる。
﹁うんうん、理想的なスタイルだ。いいねぇ、いいねぇ﹂
﹁は、放してください!﹂
出来る事なら彼の腕を振り払って平手の2、3発もお見舞いして
やりたいが、相手が相手なだけに手が出せない。
﹁嫌がる君も可愛いな。ますます気に入ったよ﹂
ウエストを撫で回され、さっきとは比べ物にならない鳥肌が全身
に浮かぶ。
︱︱︱いや、やめて!
カタカタと小刻みに震える私の背中で、専務が楽しそうに笑って
いる。
﹁ふふっ、そんなに怯えることはないじゃないか。私は優しい男だ
よ﹂
︱︱︱優しい男が、女性の背後からいきなり抱きつくか!?匂いを
嗅ぐか!?
パニックのあまり泣きそうになったところで、増岡専務は腕の力
を緩めた。
彼の腕の中から飛び出し、急いで数歩下がって距離を取る。
﹁何をなさるんですか!?﹂
目上の人に対して失礼だろうが、こんなことをされたのだ。睨み
つけるぐらい許されるだろう。
ギッと強い視線を向けるが、専務は悪びれもせずニヤニヤと笑っ
ている。
﹁おお、その顔もまたそそるねぇ。だが、私に対して不遜な態度を
取るのは、利口とは言えないぞ﹂
一層ニヤつく増岡専務。
186
﹁KOBAYASHIの取引において、私は社から一任されている
んだよ。⋮⋮つまり、私の心1つで、KOBAYASHIとの付き
合いが決まるって事だ。優秀な秘書である古川君なら、私の言いた
いことが理解出来るね?﹂
自分の立場が上であることを疑わないそのセリフ。
悔しいことにそれは事実で、私たちよりもC社の専務の立場は上
なのだ。
︱︱︱今のことを黙っていろと言う事?!
恐怖と怒りでおかしくなりそうだが、私が騒ぎ立てたら今後の取
引において明らかに不利となる。
悔しくて涙が滲みかけた時、背中にある扉がノックされた後に開
いた。
サッと涙を拭って振り返れば、補佐と滝さんが立っている。
﹁古川君?﹂
硬い声で私を呼ぶ補佐に対して、私は根性で笑顔を作る。
﹁増岡専務が早めに到着されたので、先にご案内いたしました。で
は、私はお茶の用意をしてまいります﹂
いつものように、そつのない態度で補佐にそう告げると、私は給
湯室へと向かったのだった。
187
︵32︶私の存在意義:4
その日以来、打ち合わせのある日には増岡専務がわざと早目にK
OBAYASHIへと出向いて来るようになった。
補佐や滝さんの手が空いている時は彼らが専務を案内するが、時
折2人に急用が入ることもあり、その時は私が専務を案内するしか
ない。
ミーティングルームで抱きつかれたり、お尻を触られたりと、私
は完全なるセクハラを受け続ける。
補佐に言うことも出来ない。
自分の状況を悟らせるとさえも出来ない。
増岡専務に半ば脅されていたので黙っていたということもあるが、
取引相手に良いようにされているということは、秘書としてのプラ
イドが許さなかった。
︱︱︱私1人でも、この状況を何とかしてみせる。そのくらい出来
なくちゃ、補佐に呆れられてしまう。
そんな意地が、私の中にあった。
9月に入り、C社との打ち合わせが最終段階へと近付く。
この重要な段階を迎え、こちらがどうすることも出来ないのをい
いことに、増岡専務は一層容赦なく私に手を出してくるようになっ
ていて、今日は胸を掴まれてしまった。
188
その動揺は流石に隠しきれず、ミーティング後に補佐に呼ばれて
いた。
海外事業部の応接セットで向かい合う私と補佐。
﹁顔色がよくないな。何かあったのか?﹂
やや浅めに腰掛けた補佐はジッと私を見て、こちらの反応を窺う。
﹁いいえ、特に何も。昨晩は寝つけなかったので、それが原因だと
思います﹂
淡々と答える私に、補佐はため息をついた。
﹁⋮⋮もう一度訊く。何かあったのか?﹂
さっきよりも幾分低い声で補佐が尋ねるのを、私は同様に答える。
﹁何もありません。野口補佐が心配するようなことは何も﹂
私の頑なな態度にこれ以上は無駄だと思ったのか、彼は口を噤ん
だ。
﹁韓国支社に連絡を入れるようにと、先ほど部長に頼まれまして。
仕事に戻ってもよろしいでしょうか?﹂
秘書としての顔を取り戻した私が、さっきまでの動揺を押し隠し
てそう告げれば、補佐は何も訊けなくなったようだ。
﹁ああ、時間を取らせてすまなかった﹂
﹁いえ、失礼いたします﹂
頭を下げて立ち去る私の背中を、補佐はジッと見ていたことに私
は気がつかなかった。 C社との打ち合わせがない今日、久々に落ち着いた気持ちで仕事
を進めている。
ふと手を止めた時、デスクの端に置いていた明日使用するC社と
の打ち合わせ資料が目に入った。
︱︱︱このままではダメよね。
189
何とかしなくては、と思うものの、具体的にどうすれば良いのか
分からず、結局、増岡専務の思うがままにされていた。
はぁ、と息を吐いた時、目の前の内線電話が鳴る。
﹁海外事業部、古川です﹂
﹃お疲れ様です、受付の佐川です。あの⋮⋮、今日はC社の増岡様
と会うご予定は入っていましたか?﹄
彼女の言葉に、私は首を傾げた。
打ち合わせにくる取引先の予定は、全て受け付けに知らせてある。
時折、何の前触れもなく売り込みに来る営業マンがやってきて、
何とか上層部に会おうとするが、それを阻止するのが受付上の役目
となっているのだ。
﹁いいえ、その予定はありません。何かありましたか?﹂
﹃実は、増岡様がこの場におりまして⋮⋮。あっ、ダメです!増岡
様っ!﹄
佐川さんの声が耳に響いた後に、男性の声が聞こえてきた。
﹃もしもし、古川君かな?いきなりで申し訳ないんだが、取り急ぎ
渡したい書類があってね﹄
どうやら増岡専務は佐川さんから受話器を奪い取ったらしい。
常識外れな行動に、ムッとなるのが隠せなかった。
﹁それでしたら、受付の者に書類を渡してください﹂
素っ気無く言い捨てたものの、相手はその程度で大人しくなるよ
うな殊勝な人物ではなかった。
﹃いや、それじゃマズイんだよねぇ。何しろ取引に関する重要書類
だから、確実に担当者に渡さないと。今日はこれを渡しに来ただけ
だから、すぐに帰るよ。頼むから、受け取ってくれないかな?﹄
簡単に引き下がらないようだ。
このまま専務が受付に居座れば、佐川さんに迷惑が掛かってしま
う。
︱︱︱出向くしかないか⋮⋮。
190
﹁かしこまりました、そちらに伺います﹂
私は重々しい気分で受話器を置いた。
アポイントも無しに訪れた増岡専務だが、ロビーで書類を受け取
って、﹃ハイさよなら﹄という訳にはいかない。最低限、お茶の1
杯も振舞わなければ。
急いでミーティングルームと小会議室の空き状況を調べると、い
つも使っているミーティングルームの隣が空いていた。
﹁桑田さん。増岡専務が見えられたので、ミーティングルームBに
ご案内してきます﹂
﹁増岡専務?何で、急に?今日はC社との打ち合わせが無いから、
補佐も滝君も外の用事であと1時間は帰ってこないわよ﹂
﹁いえ、打ち合わせではなく、書類を渡しに来ただけだそうで。す
ぐお帰りになると﹂
﹁ふぅん、分かったわ﹂
そう言った桑田さんが、自分のデスクの引き出しから何かを取り
出した。
﹁古川さん、これあげる﹂
桑田さんが差し出したのは、鼈甲のバレッタ。
﹁お客様と会うのに、黒い髪ゴム一本で纏めた頭じゃ失礼よ﹂
妹を窘める優しいお姉さんの表情で、桑田さんが言う。
﹁安物だけど、そのゴムよりはだいぶマシだと思うわ﹂
﹁ありがとうございます。今朝は寝坊して、慌てていたもので﹂
眉を寄せて困り顔をすれば、桑田さんは苦笑い。
﹁あらあら。キャリアウーマンたるもの、いつでも時間に余裕を持
っていなくちゃダメね﹂
﹁はい、以後気をつけます﹂
私も苦笑いを浮かべて、バレッタを受け取った。
191
髪形を整えてから急いで専務を迎えに行き、ミーティングルーム
へ案内する。
﹁申し訳ございません。本日は野口も滝も生憎外回りの最中でして﹂
﹁ああ、かまわないよ。まったく問題ないさ﹂
増岡専務はいつになくゆったりとしていて、余裕さえ感じさせる
その様子が妙に違和感を与え、私は普段以上に用心する。
しかし、これまでは扉を閉めた途端に抱きつかれたりしていたに
もかかわらず、今日の専務は何をするでもなく大人しくソファーに
向かった。
︱︱︱気を回しすぎかしら?やれやれ、今日は大丈夫そうね。
﹁只今、お茶をお持ちいたします﹂
専務が深く腰をかけたのを見遣って私がそう言えば、彼は手を振
って断ってくる。
﹁必要ないよ。それより、この書類だが⋮⋮﹂
テーブルの上にA4サイズのファイルが置かれた。
﹁拝見いたします﹂
ソファーに近付いて書類に手を伸ばした瞬間、私の右手首を掴ん
だ増岡専務がそのまま勢いよく引いた。
そして、ソファーに仰向けで倒れこんだ私の上に、専務が馬乗り
となる。
﹁イヤッ!﹂
急いで身を起こそうとするが、私より身長が低いくせに体重は私
の倍もある専務の身体はなかなか動かなかった。
無駄に肉の付いた専務の喉が、クツクツと奇妙な笑い声を響かせ
192
ている。
﹁今日の古川君は、いつもと違ってセクシーだねぇ﹂
まさに嘗め回すという言葉以外の何物でもない視線で私を見下ろ
している専務にそう言われて、自分の服装に気付いてハッとなる。
野口補佐から言われて、増岡専務との打ち合わせに同席する時は、
パンツスーツを着ることにしていた。
ところが、今日は専務に会う予定がなかったので、膝上のタイト
スカートで出社したのだ。
おまけにブラウスは少し深めの開襟タイプで、デコルテがばっち
り見えている。
﹁こんなに胸元を晒して、おまけに腰のラインが丸分かりタイトス
カート。ふふふ、君も期待していたのかな?﹂
︱︱︱そんな訳あるか!
と、怒鳴りつけてやろうと口を開いた瞬間、増岡専務が丸めたハ
ンカチを突っ込んできた。
﹁むっ!﹂
急いでハンカチを取り出そうとするが、それよりも早く座面に手
を押さえつけられる。 ﹁妻は4年前に亡くなってね、今の私は独身だから、不倫や浮気で
訴えられる心配はないよ﹂
︱︱︱そんな心配、最初からしてない!
﹁む、うっ!﹂
しかし、塞がれた口は言葉を発せない。
﹁私は君を手に入れて、君はKOBAYASHIの役に立てる。ほ
ら、お互い損はないだろ。ふふ、なんにも怖がることは無いさ、最
後まではしないから⋮⋮﹂
193
ここ最近で見た一番の厭らしい笑顔で、増岡専務は私の胸元に顔
をうずめる。
︱︱︱いや!いやっ!!
﹁ぐっ、うー!ううっ!﹂
最後の抵抗とばかりに首を振れば、ポロポロと涙が零れた。
どうすることも出来ない歯がゆさと、悔しさと、嫌悪と、恐怖が
入り混じり、涙が次々と溢れてゆく。
︱︱︱誰か!誰か、助けて!!
硬く目を閉じた時、ミーティングルームの扉が激しい音を立てて
開いた。
194
︵33︶私の存在意義:5
轟音とも言える大きな音に、ハッとした増岡専務が扉へと顔を向
ける。
私も首を動かして目を向けた。
そこにいたのは、怒りの烈火を背負って仁王立ちしている私の上
司。
﹁古川君から離れろっ!!﹂
初めて聞く補佐の鬼気迫る怒鳴り声で、空気がビリビリと震えた。
私に圧し掛かっていた増岡専務はビクンと跳ね上がり、慌ててソ
ファーから降りる。
﹁い、いや、これは、その⋮⋮﹂
余裕を見せていた表情から一転して、額に脂汗を浮かべた増岡専
務が顔を引きつらせて言い訳を探している。
その間に補佐が私へと駆け寄って口の中のハンカチを取り出すと、
自分のスーツの上着を脱いでかけてくれた。
急いでここに駆けつけたのだろう。肩で息をしている補佐の前髪
が、バサリと崩れている。
﹁遅くなってすまない。だが、もう大丈夫だ﹂
補佐は耳元でそう囁き、床にへたり込んだ私をその広い胸にグッ
と抱きしめた。
﹁⋮⋮野口補佐?﹂
弱い声音で呼び掛ければ、優しく背中をなでられる。
﹁大丈夫だ。全て終らせるから、何も心配しなくていい﹂
補佐はもう一度私を抱きしめるとユラリと立ち上がり、圧倒的な
195
身長差で増岡専務を睨み下ろした。
﹁何か、言いたいことはありますか?﹂
地獄の閻魔様もかくや、といった低い声、鋭い眼差し。
更に顔を引きつらせた増岡専務は、ブルブルと全身を震わせて卒
倒寸前だ。
それでも、倒れることなくガチガチと歯を鳴らしながら口を開く。
﹁ご⋮⋮、誤解だよ、野口君っ﹂
﹁ほう、誤解とは?﹂
1歩前に踏み出す補佐。
2歩後ろに下がる増岡専務。
﹁こっ、これは合意の上で⋮⋮。い、いや、古川君から誘ってきた
んだ。わ、私は悪くない。悪くないんだ!﹂
眉間の皺がグッと深くなり、補佐の顔が一層厳しくなった。
﹁この期に及んで、何を言い出すやら。彼女の表情を見れば、状況
は明らかではありませんか﹂
﹁な、何を言う!表情なんて、見る人によって捉え方は様々だ。そ
んな不確かな言いがかりをつける前に、確かな証拠を出してみろ!﹂
開き直った増岡専務は声を荒げて補佐を睨み返す。
しかし補佐は、そんな専務の視線を笑い飛ばした。
﹁ははっ。とことん最低の男ですねぇ、あなたは。⋮⋮いいでしょ
う。ご希望通り、証拠を出しましょうか﹂
補佐はスラックスの後ろポケットから手の平より小さな四角い物
体を取り出す。
そして、なにやらボタンを押すと、その四角いものから声が流れ
た。
﹃妻は4年前に亡くなってね、今の私は独身だから、不倫や浮気で
訴えられる心配はないよ﹄
﹃む、うっ!﹄
196
﹃私は君を手に入れて、君はKOBAYASHIの役に立てる。ほ
ら、お互い損はないだろ。なんにも怖がることは無いさ、最後まで
はしないから⋮⋮﹄
﹃ぐっ、うー!ううっ!﹄
それはこの場所でつい先ほど行われたやり取りだった。
補佐は小さなボイスレコーダーをポケットに戻し、唖然としてい
る増岡専務に冷笑を向ける。
﹁明らかに専務の声ですよね?もし、信用していただけないのであ
れば、声紋鑑定にかけてもいいですよ﹂
﹁ぐ⋮⋮﹂
奥歯を噛みしめ、ギッという鈍い音が専務の口内から漏れる。
﹁どうぞ、お引き取りください﹂
補佐の声で、いつの間にか来ていた滝さんが増岡専務の腕を掴ん
で扉へと向かった。
ミーティングルームの扉が閉まり、この空間には私と補佐の2人
が残っていた。
増岡専務がいた時のような嫌な空気は無く、ただ、ただ静かに時
が流れる。
いまだ床にへたり込んでいる私の側に補佐が膝を着いた。
﹁怖い思いをさせて済まなかった。もっと早くに駆けつけたかった
のだが、渋滞に巻き込まれてしまってな﹂
やけに乱れている前髪を補佐は片手でかき上げる。
197
話によると、増岡専務からなんだか要領を得ない電話をもらった
時点で嫌な予感がし、更に桑田さんから増岡専務が来ているという
連絡を受け、すぐさま帰社するはずだったそうだ。
しかし途中、前方で事故が起こって車がまったく進まないので、
車を滝さんに任せて補佐は走ってきたのだという。
どうやら一駅分は走り通したようだ。
﹁お気になさらずに。おかげで最悪の事態は免れましたから﹂
固まった表情筋では上手く微笑むことは難しいが、それでも口角
を上げることが出来た。
それを受けて、補佐は私に優しく目を細める。しかし、その表情
とは裏腹に、口にした内容は恐ろしいもので。
﹁そんなことになっていたら、増岡専務を生きたまま地獄に突き落
としてやった後、内臓を引きずり出して煮えたぎる釜にブチ込んで
差し上げたよ﹂
素敵なお顔で物騒なことをサラリと口にする補佐に、せっかく落
ち着きだした心臓が別の意味でバクバクと音を立てた。
しばらくして動悸が治まった頃、私は気になっていたことを尋ね
る。
﹁補佐⋮⋮。一体、どうやって、会話を録音したんですか?﹂
この部屋を使うことになったのは増岡専務が来てから決まったの
で、会社外に出ていた補佐も滝さんも、盗聴マイクを仕掛けること
など出来なかったはずだ。
198
不思議そうに尋ねれば、補佐は私へと手を伸ばして髪を纏めてい
たバレッタを外した。
﹁ここにマイクを仕掛けておいたんだ﹂
補佐は私の掌の上でバレッタをひっくり返し、金具の部分を指差
す。
そこには、小指の先ぐらいの小さなマイクが金具に隠れるように
潜ませてあった。
﹁これって⋮⋮﹂
﹁最近、君の顔が浮かないのが気になってね。事情を知ろうにも何
か理由があって必死で隠していたようだから、無理に聞き出すよう
な真似はしたくなかったんだ。盗聴器を仕掛けることは最後まで迷
っていたが、どうも嫌な予感がして﹂
目を伏せ、私は黙って補佐の話を聞いている。 ﹁増岡専務は社長の娘と結婚したという理由だけで専務にまで出世
できたような、さほどずば抜けた実力があるとは言い難い男でね。
何事に対しても小心者だが、自分が有利な立場では己に慢心する性
格だから、君にはいずれ大胆に手を出すだろうと踏んでいたんだ﹂
﹁だから、桑田さんがこれを?﹂
手の中にあるバレッタをソッと握り締め、姉のように慕っている
女性の顔を思い浮かべる。
﹁ああ、桑田君には事情を話しておいた。万が一、私や滝君が不在
の時に古川君と増岡専務が接触するようなことがあれば渡すように
と、予め用意していたんだ﹂
バレッタを握る私の手を、補佐の大きく温かい手が包み込む。
︱︱︱この人の手は、なんてあったかいんだろう。
その体温が私の身体のこわばりを解いてゆくのが分かる。
増岡専務に触られた時はひたすら嫌悪しか感じなかったが、今は
静かな安堵を感じていた。
199
私を気遣う補佐の仕草が凄く嬉しい。 沢山の言葉をかけてくれるでもなく、側で私の手をただそっと包
んでくれているだけなのに、凄く嬉しかった。
派遣社員でしかない部下をこれほどまでに心配してくれる上司に
出会えて、本当によかった。
少しずつ平常心を取り戻してゆく私の表情に、補佐は話を再開す
る。
﹁小者なりに用意周到で、増岡専務はわざわざ私や滝の携帯電話に
連絡を入れ、不在を確認した上でKOBAYASHIに来たんだよ。
専務から電話を受けてすぐ、桑田君に連絡をしてね。おそらくこの
後専務が来るだろうから、このバレッタを古川君に渡すようにと指
示を出した﹂
﹁そうだったんですか⋮⋮。あの、増岡専務は、なぜ私に固執した
のでしょうか?﹂
それが不思議だった。
単なる女好きな取引先に対しては、補佐や滝さんは異様に警戒し
ていたような。
﹁ああ、それなんだが、古川君は恐ろしいほど専務の好みド真ん中
なんだよ。見た目とか、仕草とか、性格とか、全てにおいてね。普
段女性に対して消極的な専務だが、好みの相手に対してだけは別人
のように積極的になるんだ﹂
私は素直に首を捻った。
﹁はぁ、増岡専務って女性を見る目ないですね。手を出したくなる
ほどの女ではないですよ、私は﹂
補佐が﹃分かってないな﹄とボソリと呟いてため息をついた後に、
話を続ける。
200
﹁まして肩書きだけ見れば、彼の立場の方が上だ。だから、彼と引
き合わせたら確実に手を出されるに違いないと、あえて君を連れず
に滝を同席させていたんだ。それが理由で君の事を隠していたんだ
が、まさかあの日、社のエレベーターで乗り合わせるなんてね﹂
今の補佐の言葉で、心の片隅にあった小さな棘が霧散した。
︱︱︱そっか。私を見限っていた訳じゃなかったんだ。邪魔だから
とか、役立たずだから、同席を許さなかったわけじゃないのね。
そんなはずはないと思いながらも、どこか不安だった私。
同席させない明確な理由があったことに、ようやく安堵すること
が出来た。
ところが、緊張を解いた私とは反対に、これまで穏やかに話を進
めてきた補佐の顔が少し曇った。
﹁それにしても、どうしてもっと早くに言い出さなかった?古川君
が優秀な秘書であることは、この数ヶ月で充分見させてもらった。
だが、君個人ではどうにもならないこともあるのだということは、
分かっていたことだろう?﹂
たしなめるようなやや固い口調の補佐に、私は目を伏せた。
﹁それは⋮⋮﹂
言葉に詰まった私に、補佐は口調を強くする。
﹁そんなに私は頼りないか?﹂
﹁い、いえ、そういうことでは⋮⋮﹂
顔を上げるのが怖くて、目を伏せたまま何度も首を振る。
しかし、一向にはっきり告げないでいると、補佐は私の肩を掴ん
で更に強く言う。
﹁KOBAYASHIの部長補佐という肩書きはお飾りじゃない!
それなりの実力を認められてのことで、あの程度の小者に遅れを取
201
るような私ではないんだ!君は⋮⋮、君は、私を
男
ろか、上司としてすらも頼ってくれないのかっ!?﹂
大きな声にビクッと身をすくめた。
としてどこ
︱︱︱違う、そうじゃない。迷惑をかけたくなかったから。会社に、
そしてなにより尊敬する補佐に⋮⋮。だから、だから⋮⋮。 そう言いたいのに、補佐の激しい感情に驚いてしまい、うまく言
葉にならない。
怯える私に補佐は自分の口元を押さえ、指の隙間からは﹃しまっ
た⋮⋮﹄という小さな呻きが聞こえた。
﹁怒鳴って済まない﹂
平気だと伝える為に、私は大きく首を横に振る。
それを見て、厳しい表情を穏やかなものに変えた補佐が、視線も
柔らかく変えた。
﹁君が秘書として頑張ろうとしてくれているのは、よく伝わってく
るよ。だが、必死になるあまり、やたらと意固地になっているよう
にも思えるんだ。今回の件も、自分1人で何とかしようと考えてい
たから、私に何も言わなかった。そうだろう?﹂
補佐の言葉を聞いているうちに、3年程前、元彼に言われたセリ
フがふと蘇った。
その意地っ張り、いい加減直せよ。ホント、可愛くねぇ女だなぁ
あの頃とちっとも進歩していない。
結局、私はいつまで経っても可愛い女性にはなれないのだ。 忘れていた心の痛みがジクジクと襲い、床の上の拳を見つめなが
ら思わず唇を噛みしめる。
202
補佐はそんな私の頬を両手で挟み、少し上を向かせた。
そして右親指の腹で私の唇をなぞる。
﹁そんなに強く噛みしめたら、綺麗な唇に傷がつく﹂
やんわりと微笑んだ補佐が、今度は指先で私の涙を拭った。
滲んでいた世界がクリアになり、目の前には真っ直ぐに私を見つ
める補佐。
フッ、と苦笑いした彼が優しく囁いた。
﹁まぁ、私としてはそんな意地っ張りの君が心底可愛くて堪らない
のだがね﹂
視線を合わせて言われたそのセリフは小さくもよく響く声だった
ので、聞き逃すことは無かった
203
︻34︼俺の存在意義
滝と社外での用事を済ませている最中、仕事用の携帯電話が鳴っ
た。
相手は増岡専務で、内容は別段重要ではなく、今日の俺の予定を
尋ねるもの。
今は外回りの最中で社に戻るのは2時間ほど後だ告げると、嬉し
そうに彼は電話を切った。
﹁野口補佐?﹂
隣に立つ滝が心配げに俺を見る。
﹁この後の用事、明日以降にずらせるか?﹂
それだけで、彼は俺が言いたいことを理解したようだ。
﹁調整はお任せください。では、急いで戻りましょう﹂
滝はハンドルを大きく切って、方向転換した。
しかし、途中で渋滞に巻き込まれ、車内でジリジリしながら一向
に動かない車の列を睨みつける。
そんな時、再び俺の電話が鳴った。
今度は桑田君からだった。
﹃増岡専務が受付におりまして、古川さんが応対に向かいました﹄
思った通りだ。
いつか俺や滝の不在を狙って古川君と接触してくるだろうと思っ
ていたら、案の定来やがった、あのエロ親父。
こうなったら、一刻も早く戻らなくては。
なのに、さっきの位置から車は動いていない。
﹁ダメですね、裏道も使えそうにありません﹂
204
ナビでルート確認をしている滝が、悔しそうに告げる。
﹁くそっ!﹂
俺は拳をシートに叩きつけた。
このままでは、俺の予想していることが現実となってしまう。
何よりも愛しい人が、一生苦しむ傷を負ってしまう。
もう、一瞬たりも待てない。
﹁滝っ、ここで降りる!!﹂
そう言って、俺は車を飛び出した。
普段から10キロほどジョギングしている俺でも、全力疾走で走
り通すのはかなりキツイ。
それでも、彼女を思って脚を動かし続けた。
それから15分近く掛かって、ようやくKOBAYASHIに到
着。
桑田君が差し出した水を一気に飲み干し、受信用のボイスレコー
ダーを掴んで教えられたミーティングルームへ向かった。
礼儀の一切を吹き飛ばし、破壊する勢いで扉を開けた。
そして目に飛び込んできたのは、腕を押さえつけられ、口には布
を突っ込まれ、増岡専務に馬乗りされている彼女の姿。
一気に腸が煮えくりかえった。
﹁古川君から離れろっ!!﹂
俺の怒声に慄いた専務が真っ青な顔で冷や汗を流す。
﹁い、いや、これは、その⋮⋮﹂
目を泳がせる専務が必死で言い訳を考え、そして出た言葉が。
﹁ご⋮⋮、誤解だよ、野口君。こ、これは合意の上で⋮⋮い、いや、
古川君から誘ってきたんだ。わ、私は悪くない!悪くないんだ!﹂
205
日頃からどうしようもない男だと思っていたが、ここまで腐った
男だとは。
しかも無様に開き直り、証拠を出せと喚き始める。
俺はお望み通りに確固たる証拠を突きつけ、エロ親父を滝に任せ
た。
俺が貸した上着の前を合わせて握り締めた彼女が、床にへたり込
んで震えている。
そのすぐ傍に膝を着いた。
﹁怖い思いをさせて済まなかった。もっと早くに駆けつけたかった
のだが、渋滞に巻き込まれてしまってな﹂
そう言うと、気丈な彼女は首を振る。
完全に間に合ったとは言いがたいが、本当によかった。
まぁ、彼女に手を出した時点で専務の地獄行きは決定していたよ
うなものだが、あれ以上事が進んでいたら、﹃いっそのこと殺して
くれ!﹄という拷問を、生きながらにじっくりと味あわせてやると
ころだ。
彼女がどうにか無事であったことが確認できると、俺の中でこの
ところ燻っていた懸念が顔を出す。
彼女は俺を一切頼ろうとしなかった。
こんな状態に追い込まれるまで、俺に悟らせることもしなかった。
それがどんなに悔しいことなのか、彼女はまったく分かっていな
い。
206
恋愛対象としての男どころか、会社の上司としてすらも必要とさ
れなかったことが、心の底からもどかしくて悔しかった。
︱︱︱どうすれば、君は俺の存在を受け入れてくれる!?一体、ど
うすれば君は俺を見てくれるんだ!
感情のままに言葉を放てば、彼女が身を縮める。
︱︱︱まずいっ。
今しがた増岡専務から怖い思いをさせられたのに、ここで俺が彼
女を怯えさせてどうする。
心を落ち着けさせるために、深呼吸を繰り返した。
頭が冷えたところで、話を続ける。
﹁君が秘書として頑張ろうとしてくれているのは、よく伝わってく
るよ。だが、必死になるあまり、やたらと意固地になっているよう
にも思えるんだ。今回の件も、自分1人で何とかしようと考えてい
たから、私に何も言わなかった。そうだろう?﹂
彼女の意地っ張りな態度は、頑張りの現れ。
我侭などではない。
責任や、自分の立場や、そういった諸々のことを含んだ態度なの
だ。
簡単に投げ出さず、人に甘えず、全うしようとするその一生懸命
な姿勢が愛おしい。
だが、愛おしく感じると同時に、心配なのだ。
何もかも自分で解決しようとする彼女が、危なっかしくて仕方が
207
無いのだ。
すると俺の話を聞いていた彼女は、悲しそうに眉を寄せて唇を噛
みしめる。
その顔は例のクソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜
けで根性が腐っていてどうしようもなくて救いようのない器の小さ
なあの男に言われた言葉に傷ついているといったもの。
自分の感情を持て余し、どうしたら良いのか分からなくなってい
る少女のような彼女の表情を見て、何度目かも分からないほど繰り
返された魂を鷲掴みされる感覚を味わう。
花に誘われる蝶のように、彼女の唇と瞼に指を這わせた。
そして、思わず零れた言葉。
﹁まぁ、私としてはそんな意地っ張りの君が心底可愛くて堪らない
のだがね﹂
揺れる彼女の瞳に、微かながらも今までとは違う光を見つけたの
は、俺の気のせいではなことを強く願った。 208
︻35︼俺の存在意義 嵐の後
定時を30分ほど過ぎた頃、今日の業務を終えた。
一人デスクに残った俺は私用の携帯電話を取り出して、とある人
物に電話を掛ける。
5コールほど呼び出し音が聞こえた後、繋がった。
﹁お疲れ様です﹂
﹃忠臣か?こんな時間にお前から掛けてくるなんて珍しい。明日は
槍が降るかもしれないな﹄
砕けた口調で親しげに話す男性の声は、機械越しでもなかなかい
い声だ︱︱︱まぁ、俺には負けるだろうが。
﹁ええ、少しでも早く解決したいことがありましてね。今、お時間
よろしいですか?﹂
﹃⋮⋮増岡のことか?﹄
何も言い出さなくても相手には伝わったようだ。
﹁はい、とうとう動きましたよ﹂
﹃ほう﹄
はっきりしたものではないが、そこには確かに驚きを含んだ響き
の声音。 ﹁証拠もありますし、本人も認めています﹂
そう言って、俺は手の中のボイスレコーダーに視線を落とす。
﹃そうか、これで増岡を辞めさせる理由が出来たな﹄
やれやれといった口調で、相手は言う。
﹁ところで、自己都合ということで退職させるおつもりですか?﹂
そう訊けば、相手は淡々と答えた。
﹃お前は納得しないだろうがね﹄
209
︱︱︱分かっているなら、わざわざ言うな!
﹁彼女に手を出した下種ですからね、懲戒免職でも手ぬるいくらい
です!﹂
増岡の過去をくまなく調べ上げた後に全て公表し、社会的にあの
男を抹殺しても、まだ俺の気持ちが治まらない。
そんな俺の様子に、電話の向こうの男性が苦笑した。
﹃まぁ、そう騒ぐな。事を大きくしないためには仕方ないんだ。騒
ぎになれば、古川君をしかるべき場に出さねばならない。それは彼
女の心を傷つけることになるが、お前はそんなこと、望まないだろ
?﹄
そう言われて、俺は二の句が継げなかった。
男に襲われた女性は、心を2度殺されるという。
1度目は襲われている最中。
そして2度目は警察の事情聴取や法廷などで、被害に遭った状況
を思い出さねばならない時。
屈辱と恐怖の時間は1度きりでも絶望を与えるのに、同じ思いを
また味あわねばならないのだ。
しかも、第3者の視線に晒されながら。
﹁⋮⋮そうですね﹂
俺の怒りは治まりを見せないが、ここは引くしかない。
﹃増岡がごねても奴には退職するしか道は無いのだし、退職後に何
かイチャモン付けてきてもきちんと対処してやるさ。もちろん、古
川君には一切迷惑をかけない﹄
大そうな事を言っているが、彼はそれだけのことを出来る権力も
210
地位もある。
﹁頼みますよ。古川君だけは、何があっても絶対に巻き込まないで
ください﹂
﹃分かった、分かった。⋮⋮そうだ、お前の愛しい彼女は酒が飲め
るか?﹄
﹁はぁ、飲めますが﹂
突然何を言い出すのかと怪訝に思えば、
﹃今回協力してくれた礼に、皇鳳ホテルのバーに予約を入れておく。
ご希望なら、スペシャルスイートルームも取っておこう。もちろん、
支払いは私持ちだ﹄
と、破格の提案を出された。
彼の言う皇鳳ホテルというのは、横浜臨海区域に立つ伝統と革新
を見事に調和させた日本でも、いや世界でもトップクラスのホテル。
そこにある最上階のバーというのが会員しか予約できないもので、
その会員になるには年収やら、社会的地位やら、様々な審査をパス
しなければならず、おいそれと認めてもらえるわけではないのだ。
バーの会員証はおそらく、世界で一番審査が厳しく、一番名誉な
証。
そして、そんなバーを持つホテルのスペシャルスイートともなれ
ば、サービスも内装も料金も桁外れ。
﹁ずいぶん気前のいい報酬ですね﹂
﹃長いこと邪魔だった人間が排除できたのだから、安いものだ﹄
少し疲れたように、電話の向こうの相手がポツリと呟く。
邪魔な人間というのはもちろん増岡のことだ。
この男に目立った能力は無かったが、実直さが売りの真面目で大
人しい人間。上司にも同僚にも、その人柄で好かれていた男だ。
社長の娘に一目惚れし、そして少々強引な押しで彼女に迫るも、
211
無事にゴールイン。
周囲に温かく見守られた結婚生活は順調で、夫婦の仲睦まじい様
子は社内の誰もが知るところだった。 しかし、4年前、奥さんを病気で亡くしてから女性トラブルとい
った厄介ごとを引き起こすようになってゆく。
奥さんを失った寂しさゆえに⋮⋮といえば体裁はいいが、それで
も専務という肩書きを背負った人間に許される行動ではない。
しかも年を追う毎に悪質化し、そして、意外にも尻尾をつかませ
なかった。
増岡の裏の顔に気付いたC社の上層部にとって、彼は面倒極まり
ない存在だったのだ。
だが、今回の一件で取引先の秘書に暴行未遂を働いたという証拠
がある。だからこそ、電話の向こうの相手は破格の報酬を提示した
のだ。
彼女が受けた拷問のような時間を思えば、安すぎるかもしれない
が。
﹃増岡はああ見えて、女性なら誰でも良いといった男ではない。ま
して、取引相手の社内で手を出すような、肝の据わった男でもない。
そんな増岡が思わず手を出してしまうとは、古川君という女性はよ
ほど魅力的なのだろうな﹄
そんな言葉に、俺は間髪入れずに返答する。
﹁当然ですよ、私の心を虜にした唯一の女性なんですから﹂
﹃おぅ、おぅ、言うなぁ。ま、これでようやくお前の両親も安心す
ることだろうよ。早く結婚して、孫の顔を見せてやれ﹄
呆れたようであり、嬉しそうでもある声音で男性が返してくる。
形のいい切れ長の目を緩やかに細めていることだろう。
﹁そう急かさないでくださいよ。まぁ、近々彼女を手に入れてみせ
212
ますがね。いずれホテルのスイートルームを利用させてもらいます﹂
自信満々に告げれば、相手の苦笑が届く。
﹃めでたく恋人となった時には、私に紹介してくれ﹄
﹁嫌です。プライベートで、彼女の目に私以外の男は映ってほしく
ありませんから﹂
これまた即答すれば、豪快な笑い声が。
﹃はっはっは、まだ付き合ってもいないのに、ものすごい独占欲だ
な﹄
この電話の向こうでいかにも楽しげな笑い声を立てているのは俺
の伯父であり、そしてC社の社長だった。
携帯電話を上着のポケットに滑り込ませたところで、滝がスッと
コーヒーが差し出した。
﹁今日はお疲れ様でした。あれだけ走って、脚は痛くなりませんか
?﹂
﹁あの程度で痛めるような、柔な身体じゃないさ﹂
月に何度かジムに通い、時間に余裕があればジョギングもこなす
俺だ。
38歳という年齢の割りに、体力には自信があった。
﹁古川君はどうした?﹂
横に立つ滝を見上げる。
﹁桑田さんに付き添われて帰りましたよ﹂
﹁そうか﹂
出来れば俺が家まで送り届けてやりたかったが、増岡の件を先に
片付けてしまいたかった。
﹁ところで、増岡専務のことは?﹂
213
滝が真面目な顔で俺に尋ねる。
桑田君には話していなかった俺とC社の社長の関係も、滝には包
み隠さず話してあった。
こちらが言うまでもなく、滝は俺と、俺の父親の一番上の兄であ
る伯父との関係には気付いていたようだ。どうやら、野口一族は声
と目元に明らかな特徴が現れるとか。
﹁今、連絡を入れて片付いたところだ﹂
明日にも、増岡に制裁が下るだろう。
﹁ではこの件はもう大丈夫ですね。ただ⋮⋮﹂
滝が言葉を濁らせた。
﹁ただ?﹂
片眉を上げて隣に立つ部下の顔を見遣れば、滝はこれまでの緊張
を解く。
﹁もう1つの件はかなり厄介だと﹂
﹁なんだ?もう1つというのは﹂
訊き返せば、彼は困ったように笑う。
﹁古川さんのことです。彼女、補佐の気持ちに気付いていませんよ﹂
自分から彼女に対する想いを滝に説明したことはないが、今回の
俺の言動を見ていれば、彼には一目瞭然だっただろう。
︱︱︱あれだけ触れて、あれだけ囁いても、彼女には通じていない
のか⋮⋮。
ほんの少し苦いため息をつけば、滝は優しく微笑む。
﹁そう落ち込まないでください。自分に自信のない女性というのは、
異性から寄せられる気持ちを頭から否定し、好意を厚意だと思って
受け取るものです﹂
214
俺は滝の言葉を大人しく聞いている。
﹁ですから、そろそろこれまで以上に思い切った行動を取られては
?遠まわしの言葉ではいつまで経っても伝わりませんよ﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
あんなに危なっかしい彼女を、上司としてではなく、恋人として
支えてやりたい。
そのためには、俺の想いを彼女に受け入れてもらって、恋人とし
ての立ち位置を確立しなければ。
温かいコーヒーを一口飲み下した後、もう一度﹁そうだな﹂と呟
いた。
215
︻35︼俺の存在意義 嵐の後︵後書き︶
●舞台は徐々に整いつつあります。
追い込み作業も終盤に差し掛かってきておりまして。
あと1段階⋮⋮、いえ、1,5段階ほどで目処が付きます。
毎度の事ながら、意識していなかった男性に女性が恋心を抱くシー
ンは悩みどころですよ︵泣︶
でも、頑張ります♪
216
︵36︶告げられた想い:1
﹃まぁ、私としてはそんな意地っ張りの君が心底可愛くて堪らない
のだがね﹄
真剣に見つめられた状態でこんなセリフを聞かされたら、嫌でも
意識してしまうではないか。
それがたとえ、落ち込む私を慰めるためのセリフだったとしても
⋮⋮。
︱︱︱それにしては少しオーバーに思えたけど。でも心優しい上司
様にすれば、そんなセリフを口にするのは容易いわよね。
あの時はちょっとドキドキしたが、お気に入りの白ワインを飲ん
でグッスリ眠ってしまったら、翌日には割りと冷静に補佐と接する
ことが出来たのだった。
残暑の厳しい日々。
暑さが変わらないように、私の仕事も相変わらず忙しい。いや、
いつも以上に忙しかった。
﹁メールが押し寄せてくる⋮⋮﹂
パソコンの画面を睨みながら、私はポツリと零す。
9月の中旬を迎えれば、月末の決算に向けて各国の支社や工場か
らメールが送られてくるのだ。
通常業務に加えての決算業務は、なかなかに厳しい。
おまけに今日は週の締め日の金曜日ということもあり、それこそ
217
目を回しそうだ。
﹁うぅ、1つ翻訳する間に3通も届いてるなんて﹂
以前の会社に無かった初めて体験する忙しさに気が滅入っている
と、後ろを通った伊藤君が小さく笑った。
﹁いつもビシッとカッコいい古川さんがめげているなんて、すっご
く貴重ですね﹂
今年入社した彼は中学生の頃に成長期を終えてしまったかのよう
に、顔立ちも体つきも幼く、言動もやはりどこか幼い。
だが、﹃マー﹄の発音だけでも5種類だか8種類だかある中国語
を見事に操る彼の仕事ぶりは、けして侮れないのだ。 ﹁これだけひっきりなしにメールが送られてくれば、誰だってめげ
るわよ﹂
可愛らしい彼にボヤキを返し、再び画面に目を向ける私。
﹁では、頑張る古川さんに飲み物を差し入れしましょう。何がいい
ですか?﹂
伊藤君が言えば、周りの同僚が一斉に口を開いた。
﹁俺、ホットコーヒー。ブラックで﹂
﹁あ、私もホットコーヒー。ミルク入りの砂糖抜きね﹂
﹁私はアイスカフェオレ。ガムシロは2つ﹂
﹁僕はレモンティー、激アツで宜しく﹂
﹁じゃぁ、私はアイスレモンティー﹂
﹁え?え?ちょっと、皆さんっ、順番に言ってくださいよぉ!﹂
この光景は海外事業部ではすっかりお馴染みとなっている。彼が
可愛がられている証拠だ。
伊藤君が大慌てでみんなのオーダーをメモしている。
﹁岡崎先輩がホットのブラックと、えと⋮⋮﹂
どうにか注文を書き終えると、ニコッと可愛い笑顔を向ける伊藤
君。
﹁古川さんは何にします?﹂
218
﹁私は⋮⋮温かいストレートティーをお願いするわ。砂糖は多めに
ね﹂
﹁はい、了解です!﹂
ピシッと敬礼した伊藤君が、給湯室に向けて駆けていった。
数分後、頼まれた飲み物をお盆に載せて、伊藤君が少し危なっか
しい足取りで戻ってきた。
そして、それぞれのデスクに飲み物を置いてゆく。
﹁えっと、滝さんは激アツレモンティーっと﹂
伊藤君が私の隣の席に歩み寄ってきたその時、誰かが空気の入れ
替えのために少しだけ開けていた窓から突風が吹き込み、窓傍のデ
スクにあった数枚の書類が舞い上がり、伊藤君の靴の下へ滑り込む。
﹁うわぁっ!!﹂
書類を踏んで脚を滑らせた伊藤君が大きく前のめりになった。
彼の悲鳴に驚いて振り向けば、お盆の上の飲み物たち︵しかも1
つは激烈に熱いレモンティー︶が私に向かってくるのが目に入る。
︱︱︱うわっ。駄目だ、避けられない!
衝撃や熱に堪える為に、私は硬く目を閉じて肩を縮めた。
が、どれだけ待っても痛みも熱さも感じない。
その代わり、少し息苦しさを感じた。
息苦しさの原因は⋮⋮、いつの間にか現れた補佐が私を庇うよう
に抱きしめていたから。
219
恐る恐る目を開けると、私の様子を伺う瞳の補佐と目が合った。
﹁⋮⋮補佐?﹂
おずおずと呼び掛ければ、優しく瞳が細められる。
﹁飲み物は掛からなかったか?﹂
﹁は、はい。大丈夫です⋮⋮﹂
﹁それならよかった﹂
殊更目を細めた補佐が、何故かキュッと私を抱き寄せてからゆっ
くりと腕の力を緩めた。
﹁もっ、申し訳ありません!!﹂
伊藤君が声を裏返し、私の横でスーツの上着を脱いでいる補佐に
頭を深く下げる。
﹁気にするな。服の上から掛かったから、火傷も大したことないだ
ろう。流石に、着替えないとマズイだろうがな﹂
一瞬のうちに自分の席から私の元に駆けつけた補佐にみんなが未
だ唖然とする中、彼は替えのスーツやワイシャツが置いてある仮眠
室へと歩いていった。
220
︵36︶告げられた想い:1︵後書き︶
●思うように2人の仲が進展せず頭を悩ませまくってきましたが、
恋人の関係になるまでの下書きを全て纏め終えましたので、あと数
話のうちに理沙ちゃんが捕獲されるのは確定です︵笑︶
しかし、猪突猛進なだけではみやこ的に面白くないので、ほんの少
しだけしんみりするシーンが入ります。
それも大事なスパイスなのでどうかご容赦を∼。
恋愛を拒否する理沙ちゃんを恋のステージに引っ張り上げるのは、
本当に至難の業です︵号泣︶
221
︵37︶告げられた想い:2
﹁あ、いけないっ﹂
飲み物をかけられそうになったり、抱きしめられたりで動揺する
あまり、補佐にお礼を言ってなかった。
急いで仮眠室に飛び込むと、ベッドの横に立ち、新しいスラック
スへと既に穿き替えたものの、上半身はまだ裸のままの補佐の背中
が私の目に飛び込んできた。
︱︱︱キャーーー!
思いがけない光景に、瞬時に顔が赤くなる。
男性の背中を見たぐらいでうろたえる様な初心な私ではないのだ
が、スーツ姿しか見たこと無い上司の肌を見ると言うのは、得も言
われぬ羞恥を与えたのだ。
すぐに目を逸らしたものの、瞼の裏にたった今見た光景がくっき
りと残っている。 ︱︱︱この人、何か武道を嗜んでいるんだ。背中の筋肉の付き方が
すっごく綺麗。無駄が無くて、バランスもいいし、ギリシャ彫刻の
ようにカッコいい。
⋮⋮って、筋肉妄想にふけっている場合ではなかった。
私は補佐の背中を視界に入れないように、ゆっくりと歩み寄る。
﹁大丈夫ですか?﹂
﹁ああ、痛みはないから平気だと思うんだが。なにしろ、背中は自
分で見られなくてよく分からないな﹂
222
肩越しに振り返って、困ったように笑う補佐。 この部屋には鏡がないため、自分で自分の背中を見るなんて、ろ
くろ首でもない限り出来るはずもない。
﹁いいところに来てくれたよ。古川君、様子を見てくれないか?﹂
﹁えっ?!は、はい﹂ 私を庇ってくれたのだ、そのくらいはしないと申し訳ない。恥ず
かしがっている場合ではない。
小さく息を飲んでから、補佐の広くて頼りがいのある背中に目を
向けた。
そこには火傷というほどではないが、赤くなっている部分が。
﹁水膨れにはなっていませんが、肩甲骨の辺りに少々赤味がありま
すね。﹂
﹁そのくらいなら、医務室で軟膏を塗ってもらえば問題ないだろう。
ありがとう﹂
そう言って補佐は持っていた新しい白のTシャツを着込む。
目の前の肌が隠れたことで、私はちょっと冷静になれた。
そして、自分が何のために彼を追いかけてきたのかを思い出す。
﹁野口補佐。先程はありがとうございました。それで、クリーニン
グ代は私に払わせてください﹂
しかし、私の申し出は笑顔で断られてしまった。
﹁その必要は無いさ﹂
﹁私を庇ってくださったのですから、そのくらいはさせていただき
たいのですが﹂ と私が言えば、補佐はクルリと振り向き、凄く優しい目をした。
﹁大切な君に、ほんの少しでも火傷や怪我を負わせたくなかったか
らな。身体を張るのは当たり前だよ﹂
大切な
なんて言っても、深い意味は無いわ
トクン、と私の心臓が跳ねる。
︱︱︱ば、馬鹿ね。
223
よ、うん。きっと、部下として大切にしてくれているのよ。
心の中で自分にそう言い聞かせれば、動悸が治まってゆく。
﹁ありがたいお言葉ですが、それではあまりに申し訳ないです。何
かの形でお詫びさせてください﹂
真面目な顔で言い寄れば、補佐は苦笑いを浮かべる。
﹁本来、クリーニング代は私に飲み物をかけた伊藤君に払ってもら
うべきだろうが、風に吹かれて落ちた書類が原因だから、誰かに責
任を取らせるのもおかしな話だ﹂
補佐の話はもっともだが、何だか納得行かない私。
そんな私の表情を見た補佐がさらに苦笑い。
﹁私がいいと言っているのだから、古川君が気にすることではない
さ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
だが、それで済ませていい話だろうか。
腑に落ちない思いを顔に出していると、補佐がなにやら考え込み、
ややあってこう言った。
﹁そんなに私に謝罪したいなら⋮⋮、では、抱きしめさせてもらお
うか﹂
﹁︱︱︱は?﹂
ポカンと口を開けば、わざわざ補佐が繰り返した。
﹁古川君を抱きしめさせてくれと言ったんだ。今度は聞こえたかな
?﹂
︱︱︱だ、だ、だ、だ、抱きしめるっ?
﹁え?⋮⋮え??﹂
忙しなく瞬きしているうちに、すぐ目の前に補佐が立っていた。
224
Tシャツの袖口から伸びる腕が、かなり逞しい。スーツを着てい
ると、そこまで筋肉質であることがわからなかった。
その男らしい彼の腕がゆっくりと私に向かってくる。
︱︱︱う、嘘っ、本気!?
バクバクと、ものすごい勢いで心臓が脈を打つ。
︱︱︱ど、どうしよう!?
キュッと瞳を閉じて、その時ジッと待っていると、
﹁まいったな⋮⋮﹂
という補佐の呟きが聞こえた。
恐る恐る目を開ければ、斜め下に視線を落とし、口元を右手で覆
っている補佐が見える。
素敵上司様に抱きしめられると言う危機︵?︶をとりあえずは回
避出来て、ホッと胸を撫で下ろす私。
﹁⋮⋮あの、何がまいったのでしょうか?﹂
尋ねれば、﹃あー﹄とか﹃んー﹄とか唸った後、ポソリと口にす
る。 ﹁古川君の困った顔、すごくそそられるんだよ。扉の向こうに人が
いることをすっかり忘れて、ベッドに連れ込むところだった﹂
﹁へ?﹂
私が間抜けな声を上げれば、補佐は爪が食い込むほど右手をグッ
と握り締めて厳しい顔をする。
﹁抱きしめるのは止めておこう。⋮⋮君に触れたら、押し倒さない
自信がないから﹂
補佐は天井を見上げて、深く息を吐いた。
225
︱︱︱ちょ、ちょ、ちょっと、どういうことですかーーーーー!
﹁あ、あのっ﹂
﹁着替えたらすぐ戻るから、私の分のコーヒーを用意しておいてく
れるかな﹂
少し前まで醸し出されていた凶悪な色気は成りを潜め、普段の穏
やかな表情に戻った上司は、衣装ケースから出したYシャツに袖を
通している。
﹁はっ、はい。かしこまりましたっ﹂
何だかよく分からないが、ペコリと頭を下げて退室しようとその
場を辞すると、背中に声をかけられる。
﹁⋮⋮そうだ。古川君﹂
振り返れば、あっという間にネクタイを締め終え、穿き替えたス
ラックスと同色の上着のボタンを留めた補佐が襟を直していた。
﹁何でしょうか?﹂
﹁今ので、少しはドキドキしたかい?﹂
体の前で腕を組み、何かを探るような視線を私に向けてくる補佐。
﹁あ、はい。少しどころではなく、尋常ではない脈拍数でした。補
佐のような素敵な人に、例え冗談でも抱きしめたいと言われれば当
然ですよ﹂
︱︱︱今日の補佐は、ずいぶん人が悪いこと言うなぁ。
いつに無い彼の態度に何だかおかしくなってしまって、つい、ク
スリと笑ってしまうと、
﹁︱︱︱冗談などではないんだが﹂
補佐の硬く低い声が届いた。
226
﹁え?﹂
私を見る補佐にはさっきまでのような穏やかさは無く、真剣な瞳
がこちらに向けられている。
﹁少し強引かと思う態度で示してきたが、やはり君はぜんぜん気付
いてくれていないみたいだね﹂
その物言いに、彼が苛立っていることを感じた。
﹁気付く?何をでしょうか?﹂
どこで上司の機嫌を損ねてしまったのか見当がつかず、素直に聞
き返せば、口調も雰囲気もガラリと変えて補佐が言った。 ﹁俺の気持ちだ﹂
︱︱︱い、今、﹃俺﹄って言った?それに、雰囲気がさっき以上に
妖しく色付いてる!?
再び胸が激しく動き出す。
﹁⋮⋮気持ちとは、どういうことでしょうか?﹂
ドクン、ドクン。
耳に響くその音は、本日最高潮の高鳴り。
言葉に出来ない緊張感が、この部屋に張り詰める。
自分の額にうっすらと汗が浮き出たのを感じると、補佐が私には
分からない何がしかの覚悟を決めた顔つきになる。
﹁態度ではなく、きちんと言葉にしないと駄目みたいだな。滝の言
う通りだ﹂
﹁は?滝さんが﹂
︱︱︱﹃何を言ったんですか?﹄
と最後まで言い切る前に、補佐が口を開く。
そして、彼の口から出たセリフは⋮⋮。 227
﹁古川君が好きだよ﹂
私の心臓が爆発した。
228
︵38︶告げられた想い:3
しばらくして、補佐の衝撃発言により爆発した心臓がゆっくり再
生し、ゆっくり動き出した。
ドクン。
ドクン⋮⋮。
大きく耳に響く心臓の音。
︱︱︱この人、今、何て言った?
33歳という身空で、もう耳が遠くなってしまったのだろうか。
いや、違う。
彼の言葉は聞こえていた。
ただ理解できないのだ。
私の口は言葉を紡がず呆然と立ち尽くしていると、補佐が更に距
離を詰めてくる。
背の高い補佐がほんの少し腰をかがめ、徐々に顔を寄せた。
端整な顔立ちはいつも通りなのに、そこにある表情は今まで見た
男
だった。
ことも無いほど獰猛さを感じさせる。
それは上司ではなく、完全に
切れ長で形のいい瞳の奥に妖しく揺らめく光は、色気以上の艶め
きがある。
彼の瞳の光の強さに思わず後ずさりすると、背中に扉が当たった。
私はこれ以上下がれないのに、それでも補佐は前に出る。
229
そして彼は両腕を伸ばし、私の顔のすぐ横に手を着いた。
︱︱︱動けない⋮⋮。
逃げ場を失った私の喉が、ゴクン、と鳴る。
今、私を襲っているのは、羞恥ではなく、得体の知れない恐怖だ。
︱︱︱この人、誰?私が知る野口部長補佐じゃない!
扉に両手を着いた姿勢で、彼が顔を寄せてくる。
﹁気付いてなかった?﹂
引きつった表情を浮かべている私の様子に機嫌を損ねることなく、
むしろ楽しんでいるかのようにクスクスと笑みを零す補佐に、私は
驚くほど緩慢な動作で頷きを1つ返した。
﹁ふっ。そういう鈍いところもたまらなく可愛いが、そろそろこっ
ちも色々と限界でね。いい加減理性が焼き切れてしまいそうだよ﹂
︱︱︱色々と限界?理性が焼き切れる?⋮⋮ああ、駄目。分からな
い。
背中に当たる硬い扉の感触を感じながら、ただ補佐の話に耳を傾
ける。
﹁君に俺を意識してもらおうとセクハラ紛いに手を出してきたが、
古川君は何も感じてくれない。いや、その場では照れたり戸惑った
りしていたが、翌日にはまた秘書の顔でこれまでと変わらず俺に接
する君に、もう黙っていることなど出来なくなってしまった﹂
左に首を少し傾ける補佐の、その首筋が色っぽかった。
一瞬見惚れていると、彼の瞳は苦しそうに揺れる。
﹁⋮⋮野口、部長補佐?﹂
震えて仕方が無い唇で免罪符のように彼の名を呼ぶが、それはま
230
るで効力を発揮せず、補佐は互いの顔がぼやけないギリギリの距離
部長補佐
か⋮⋮﹂
まで接近してきた。
﹁
呼び掛ければ、彼は自虐的に自分の肩書きを言い捨てる。
なにかに傷ついた様相の補佐に、私は戸惑いを隠せなかった。し
かし、気の利いた言葉は一切浮かばない。
視線を泳がす私に、補佐は一度目を閉じてから静かに開いた。
部長補
でいたくない。俺を上司としてではなく、男として見てくれな
﹁このままの関係では嫌なんだよ。俺は⋮⋮、君の前では
佐
いか?⋮⋮君を愛する1人の男として﹂
そっと細められる瞳。
薄く開かれた唇。
そして何より耳の心地よく響く低い声。
その全てに溢れんばかりの色気が。
あまりの色香に、そして彼のセリフに、私はまともに呼吸が出来
ない。
それでも、訊きたいことは言葉にしなくては。
﹁ど⋮⋮して、わた⋮⋮し⋮⋮を?﹂
︱︱︱元彼たちに散々笑い飛ばされてきた私を、どうして?!
﹁どうして⋮⋮と、訊かれてもね。理屈じゃないんだ。俺の身体が、
心が君を求めるんだよ﹂
の烙印を押された女だから。可愛げのない女
﹁で、ですが、私は補佐に好きになってもらえるような女ではない
女失格
んです⋮⋮﹂
︱︱︱私は
231
だから。
弱々しく零せば、補佐はフフッと優しく笑う。
﹁俺からすれば、君以上に素敵で可愛い女性を見たこと無いな﹂
私の目が驚愕に大きく開いた。
︱︱︱目が腐ってるんじゃない!?
おおよそ言葉に出せない悪言をどうにか心内に押しとどめ、私は
慌てて口を開く。
﹁あ、あの、私の履歴書をご覧になっているからご存知でしょうが、
わ、私は結構いい年齢ですし、それに、顔立ちも体型も可愛いとは
言いがたいものだとっ﹂
﹁確かに。君の造作は可愛いと言うより綺麗だ﹂
うっとりと目を向けてくる補佐に、私はますますパニックになる。
﹁い、いえっ、そういうことではなくてですね!﹂
﹁ふふっ、分かってるさ。俺が言いたいのは君の見た目ではなく、
些細な表情や心の機微が可愛いと言うこと。そしてそれが、俺の欲
情を煽り立てるということだよ﹂
彼の瞳が一際深く妖しく光った。
喉がカラカラに渇いて何も話せない。知らず知らずのうちに、涙
が目に浮かぶ。
そんな自分に出来ることは、目前の補佐を見上げることだけ。
ガクガクと震えていると、間近の彼の顔が一層近くなった。
︱︱︱これって⋮⋮。
232
﹁俺の以外の男に、その顔見せるなよ﹂
私の唇に補佐の息が掛かった。
と思った瞬間、ドンドンという音と共に背中が揺れた。
﹁古川さん!どうしたの!?﹂
後頭部部分にある磨りガラス越しに伊藤君の声が響く。
その声で補佐の動きが止まった。
﹁残念、タイムリミットは思ったより早かったな﹂
ふぅ、と息を吐いた補佐がドアノブを掴む。
横をすり抜け出て行く間際、硬直している私の耳元で囁いた。
﹁⋮⋮逃がさないから﹂
腰が砕けそうなほどものすごく艶っぽい声で、ものすごく危険な
発言を残し、彼は足取りも軽く出て行った。
私のすぐ後ろで扉が閉まり、それにもたれる様にズルズルとへた
り込む。
︱︱︱補佐が⋮⋮私を⋮⋮⋮⋮、好き?
233
冗談でそんなことを口にするような人ではないことは、直属の部
下としてよく知っている。
上司
でしかなく、男性とし
だから、先程の彼の告白は偽りの無い本心なのだろう。
しかし私からすれば彼はやっぱり
てみることも、ましてや恋人候補として見ることなど出来ない︱︱
︱見たくない。
好きとか、嫌いとか、そういった感情に2度と振り回されたくな
いのだ。
﹁傷つくのは嫌なの⋮⋮﹂
私の呟きが、本来の主がいなくなった部屋にひっそりと響く。
子供だって大人だって、失恋すれば心に傷を負う︱︱︱年齢に関
係なく。
いや、大人になって、恋愛の先に﹁結婚﹂という2文字を含むよ
うになった分、心が受けるダメージは大きいと思う。
﹁もう、傷つきたくないの⋮⋮﹂
それならば、いっそのこと一生独りで生きていけばいい。
誰のことも好きにならなければいい。
︱︱︱私はもう、恋愛などしないと決めたのだから。
こんな風に恋愛を諦めた自分だが、万が一の可能性でこの先、誰
かを好きになるかもしれない。
それでも、職場恋愛だけは絶対に嫌だ。
234
付き合いが上手くいっている間はいい。
しかし破局してしまったら、その後に待つ時間は私に苦しみを与
えるだけ。
同情や嘲笑の視線を向けられるのは、本当に嫌だった。
その苦しみに耐え切れず、私は前の会社を辞めた。
部署の違う元彼と別れた時でも、充分辛酸を舐めた。
なのに、補佐と付き合ったのちに別れることになれば、それ以上
の辛酸が簡単に予想できる。
別れた人と同じ会社、しかも直属上司の秘書となれば、顔を合わ
せないわけには行かないから。
それでも私も補佐も大人なので、あからさまに態度に出すことは
無いだろう。
だが、微妙な雰囲気までは隠しきれないはず。
職場の雰囲気が悪化することは、部の、ひいては社の業績悪化に
も繋がる。
そうなれば、仕事が出来て肩書きのある補佐より、派遣社員の私
の首を切る方が、会社にとって損害は無い。
私のように、彼は挿げ替えの聞く存在ではないのだ︱︱︱退職を
言い渡される前に、私自身が環境に耐えられず、以前のように辞め
てしまうかもしれないが。
﹁それにしても、何だって私のことを好きだなんて言うのよ。私の
どこが好きなのよ⋮⋮﹂
職場で見せる私の一面しか知らないから、﹃好きだ﹄なんて言え
るのだ。
本当の私は食べ終えた菓子パンの袋を捨て忘れたり、晩酌のお供
235
はお洒落の
お
の字も無いイカの燻製だったり、味覚が子供だっ
たり、感情に任せて男性を平手打ちしたり、酔って帰った時にはメ
イクを落とさず寝てしまったり。
おしとやかという言葉とは真逆の位置にいる。
そんな私を知らないからこそ、彼は簡単に愛の言葉を囁くのだ。
︱︱︱いっそのこと本当の時分を曝して、諦めてもらう?
いい案だと思ったが、却下した。
実際、至らぬ自分を彼の目に曝して諦めてもらうどころか、呆れ
られてしまったら﹃人﹄としての尊厳をなくしてしまう気がする。
尊敬する上司に侮蔑の目で見られてしまうことは、人として痛い。
せっかく得た職場だ。
仕事について不満はないし、人間関係は良好で、こんなにいい職
場はおそらく今後巡り会えないだろう。
仕事は辞めたくない。
だけど、補佐と付きあうつもりもない私はどうするべきか。
︱︱︱やっぱり、本当の自分を見せて、補佐には諦めてもらった方
が手っ取り早いかもね。
恋愛はしなくても生きていけるが、仕事を失っては生きていけな
い。
精神的なものは自分の心次第でどうにかなるものの、生きていく
ためには金銭的なものが絶対的に不可欠だ。
お金さえあれば、1人で生きていくことが出来る。
旦那がいなくても、子供がいなくても、お金さえあれば生きてい
ける。
236
そこ
にあるのだか
︱︱︱本当の私を見れば、補佐も私を好きだといった言葉を撤回す
るはずよ。
だって、元彼たちと別れた理由は、すべて
ら。 だから、補佐だって⋮⋮。
237
︵38︶告げられた想い:3︵後書き︶
●ここですんなり﹁では、お付き合いしましょう﹂とならないのが、
みやこ作品のヒロイン達です。
すいません、すいません︵滝汗︶
でも、これで野口氏のスイッチが入ります。
理沙ちゃん。肉食獣ってね、逃げれば逃げるほど必死で獲物を追い
かけてくるんですよ∼︵ニヤリ︶
238
︵39︶お願いだから、諦めて!:1
駄目な自分を見せて、補佐に諦めてもらおう!
どこかおかしいモチベーションを胸に熱く抱き、週が明けての月
曜日、私は張り切って出勤した。
それでも就業時間中は流石に真面目な態度で、しっかりきっちり
秘書の自分を通そうと誓う。流石に職場や取引先、各海外支社に迷
惑をかけるわけには行かないから。 気合を入れて職場に足を踏み出し同僚達に挨拶をすれば、補佐が
既に自分のデスクに着いていたのが見えた。今日の彼はいつもより
早めに出社していたようだ。
﹁おはようございます﹂
すぐさま駆け寄り、緊張気味に挨拶をすると、
﹁おはよう。今日の午後に予定していたE社との打ち合わせが、先
方の都合で中止になった。改めて予定を調整してほしい。急で悪い
が、宜しく頼むよ﹂
静かな態度でそう言われた。
﹁は、はい、かしこまりましたっ﹂
彼の態度に面食らう。
これまでであれば、私と顔を合わせた途端、その瞳に何か意味を
含ませた光を浮かべていたものだが。
︱︱︱もしかして、同僚の目があったから何もなかった?
しかし、その後に補佐と2人でミーティングルームに篭った時も、
何も起こらず。 239
あれだけ情熱的な告白をした割に、補佐は特に何を仕掛けること
もなく、終始拍子抜けするほど穏やかな態度で接してきたのだ。
ほんのちょっと寂しかったが、すごく安心した。
︱︱︱よかった。2日経って冷静になったら、私に告白したことが
馬鹿馬鹿しくなったのよ。この調子で今日が終ればいいな。
という私の考えは甘かったようだ。
定時を40分ほど過ぎ、私も補佐も本日の業務を全て終えた。
明日の業務準備を済ませ、私は帰り支度をしている補佐のデスク
へと歩み寄る。
﹁野口補佐、お疲れ様でした﹂
﹁ああ、お疲れさん。古川君は今日もいい女だね、一瞬ごとに好き
になるよ﹂
サラリと告げられたセリフに目が点になった。
﹁ほ、補佐!?﹂
﹁ははっ。その顔、可愛くてたまらないな﹂
楽しそうに笑った補佐が、私の手を握る。 ﹁えっ!?ちょっ、ちょっと待ってください!諦めてくれたのでは
ないんですか!?﹂
慌てて腕を引くが握られた手が放されることは無く、むしろ更に
強く握りこまれた。
﹁なぜ、そう思う?﹂
﹁だ、だって、今日の補佐は何もおっしゃらないですし、ぜんぜん
手を出してこなかったではないですかっ﹂
﹁何かしてほしかった?﹂
240
ニヤリと笑って掴んだ手を自分の口元に引き寄せ、私の手の甲に
唇を着ける。
そして、わざとらしく音を立ててキスをした。
︱︱︱ひゃぁっ!
﹁そういうことじゃないです!﹂
腰を落として綱引きのごとく腕を引こうと頑張るが、必死な私を
見て補佐は余裕たっぷりで楽しそうに笑うだけ︵この人、どんな筋
力してるんだ!?︶
﹁仕事中にガツガツ行ったら、思い切り警戒されるじゃないか。そ
れに不真面目だと、君に呆れられたくなかったしな。だから、この
時間まで抑えていただけだ。⋮⋮という訳で﹂
補佐が不意に力を抜く。
おかげで、急に後ろに倒れそうになった。
﹁きゃっ﹂
が、よろけた私の背中を補佐の腕が素早く支える。
﹁じゃ、行くぞ﹂ ﹁は?行く??﹂
パチクリ瞬きしている間に強引に腰に手を回され、海外事業部を
後にした。
立ち止まることは許されず、押されるままに脚を進めざるを得な
い。
﹁ちょ、ちょっと、補佐っ﹂
廊下に出れば、仕事を終えた社員がチラホラ。
﹁待ってください!﹂
すれ違う社員達は皆、私たちを見てはあんぐりと大きな口を開け
て唖然としている。
241
そんな彼らたちの様子に、今すぐこの場から消え去りたいと切に
願う私。
︱︱︱恥ずかしいーーー!
たくましい腕でグイグイ私の背を押しながら歩く補佐の足を止め
たくて、その場に必死で踏ん張ってみるが、補佐にしてみればまる
で幼い子供を相手にしているように、飄々とした顔で歩き続ける。
﹁待ってくださいってば!こんな姿、KOBAYASHIの社員達
に見られたら、補佐が困るんじゃないですか!?﹂
顔色を朱赤と蒼白の交互に染め繰り返し、私は補佐に小声で怒鳴
ると言う珍芸を披露した。
そんな私の様子がおかしかったのか、クスクス声を立てて笑い出
す。
﹁小さな声で怒るなんて、古川君は器用だな。そんなところも魅力
的だよ﹂
そして次の瞬間、回した腕にグッと力を入れて更に私を抱き寄せ
ると、こめかみにキスをしてきた。
︱︱︱ひぃぃぃ!
慌てて周りを見回せば、運のいいことに目撃者はいない。
それでも、この先どこで誰に見られるか分からないのだ。
﹁こんなこともしないでください!!見られて困るのは補佐だって
言ってるじゃないですか!﹂
﹁困る?何故だ?﹂
私たちが付き合っている
と、誤解されますよ!﹂
思い切り不思議そうな顔をしてくる上司に、ちょっと腹が立った。
﹁
こちらが目一杯不機嫌な顔をすれば、嬉しそうな表情を浮かべら
れた。
242
﹁ふっ、それこそ願ったりだ。君を狙う男供に対する牽制になるか
らな﹂
﹁は?け、牽制?!﹂
何だか理解できないことを、我が上司様は仰る。
﹁ああ。それと言っておくが、俺と君が付き合うというのは誤解で
はなく、いずれ事実にしてみせるさ﹂
片目を瞑り、ニヤリと片頬を上げる補佐に、
﹁はぁっ!?﹂
と、さっきよりも大きく叫んでしまった。
その後どんなに頑張っても補佐は私を放さず、いつの間にやら社
員駐車場に停めていた自分の車の助手席に私を乗せ、半ば拉致され
てやってきたのは、外回りの途中でよく通り過ぎていた緑地公園。
﹁着いたよ﹂
︱︱︱ここに何の用が?
訳が分からずシートに座ったままでいると、運転席を降りた補佐
が助手席のドアを開け、私のシートベルトを外す。
そして手を引いて、車外に私を連れ出した。
シートベルトを外してくれる際、補佐が私のおでこにキスをした
のは幻だと思いたい。
243
﹁あの、これからどちらに?﹂
無駄だと思いつつも、私は補佐の手の中から自分の手を取り返そ
うとグイッと力を入れた︱︱︱もちろん、無駄でしたよ。クスン。
これまでに無い上機嫌な補佐は、迷いのない足取りで進んでいく。
﹁週に一度、この公園に移動販売のハンバーガー店が開かれる。そ
のハンバーガーがとにかく絶品でね、是非とも君に食べてほしいん
だ。ハンバーガーは嫌いかな?﹂
﹁好きです。大好きですが⋮⋮﹂
﹃食べるのが下手で、口の周りを汚してしまうんです﹄
という言葉を咄嗟に飲み込んだ。
︱︱︱私の情けない姿を見せれば、補佐も私に対する気持ちを諦め
るでしょ。
﹁どうした?﹂
話を止めた私に補佐は心配そうに見てくる。
﹁いえ、なんでもありません。補佐がお勧めするハンバーガー、と
ても楽しみです﹂
ニコッと笑って、その場の雰囲気を繋いだ。
しばらく歩けば、食欲をそそる良い匂いがしてくる。
﹁ほら、ここだ﹂
彼の指差す先に、街中で良く見かけるタイプの移動販売車があっ
た。
その車の周りを、すでに先客たちが取り囲んでいる。
﹁結構混んでいますね﹂
﹁ああ。口コミで評判が広まったようで、販売日にはいつも客が押
し寄せているんだよ﹂
244
そう言って、補佐は列に並ぶ。私の手を繋いだまま。
︱︱︱いい加減、放してくれないかなぁ。 何気ない世間話を補佐に振りながら隙を突いて手を引き抜こうと
試みるも、それは一度たりとも成功には至らなかった。ちくしょう
⋮⋮。
ようやく順番が回ってきて、お会計の際にどちらが払うかでちょ
っと揉めた。補佐が一切引かなかったのだ︵ちなみに、財布を取り
出すため、ここでようやく補佐は私の手を放した︶。
そりゃ、補佐の方が私よりもはるかに稼ぎがいいだろうが、だか
らと言って﹃ラッキー。ご馳走になります♪﹄と暢気に言えない。
下手に借りを作ると、後々面倒な気がするのだ。
﹁先日のバーでも、補佐に奢っていただきましたし﹂
﹁あの日は俺から誘ったんだから、俺が払って当然だ﹂
﹁では、ここは私に払わせてください﹂
﹁今日も俺が誘ったようなものだよ﹂
﹁ですがっ﹂
睨むように補佐を見上げれば、肩をすくめて補佐が苦笑いする。
﹁⋮⋮分かった。ここの支払いは君に任せよう﹂
急に意見を引っこめた補佐に訝しく思ったが、彼の気が変わらな
いうちに慌てて自分の財布を取り出すと、私の耳に補佐の衝撃発言
が届く。
﹁奢ってくれた礼に、あとでキスしてあげるから﹂
補佐の左人差し指がツ⋮⋮と私の唇をなぞると、ピクリと肩が跳
ね身体が硬直する。
私が呆然としている隙に、補佐は支払いを済ませてしまったのだ
った。
245
︱︱︱何なのよ。何なのよ!何なのよ!!
補佐のペースで進んでいく事態に、腹が立つやら、恥ずかしいや
ら、情けないやらで、私の頭がグチャグチャになっていた。
そして言いたくないが、言・い・た・く・な・い・が、私と補佐
の手はまたしてもしっかりと繋がれている。あぁ、腹立つ∼。
今にもハミングしそうな補佐に引かれて、外灯の下にあるベンチ
に連れてこられた。
﹁ここで食べようか﹂
補佐の横に腰を下ろすと、だいぶ大振りな包みを渡された。
店のオリジナルロゴがプリントされた紙に包まれたハンバーガー
は、ホカホカと温かい。
﹁冷めないうちに食べたほうがいい。パンも肉も上手いが、手作り
ケチャップが何より旨いぞ﹂
訳の分からない状況だが、この手にある温かくていい香りを放つ
ハンバーガーの誘いを振り切ることが出来なかった。
そっと包装紙を剥げば、一層立ち上る芳香。
コクリ、と喉が鳴る。
﹁いただきます﹂
小さく頭を下げ、目の前のハンバーガーに齧り付いた。
綺麗に焼き上げられたバンズはフワリと柔らかく、ぎっしり旨み
の詰まったミートパテをきちんと受け止めている。
よくあるハンバーガー店よりも甘味の深い濃厚なトマトソースが、
酸味の強いピクルスと、香ばしいバンズ、ジューシーなお肉と相ま
って、絶妙なアクセントとなっていた。
シンプルな組み合わせなのに足りないものも余計なものもない、
それは衝撃的なハンバーガーだった。
246
﹁美味しい!﹂
思わず私の口からこの言葉が飛び出る。
︱︱︱ホント、美味しい!こんなに美味しいハンバーガー、初めて
食べた!幸せ∼♪
隣に上司がいることも忘れて、夢中でハンバーガーを頬張る私。
ムグムグと口を動かし食べ進めていると、横から熱い視線を感じ
た。
首を捻れば、真っ直ぐに見つめてくる補佐と目が合う。
﹁心底旨そうに食べてくれるんで安心したよ。ケチャップが付いて
いるのが分からないくらい、夢中だったんだな﹂
そう言った補佐が、まるで小さな子供に向けるような微笑ましい
視線を私の口元に向けた。
途端に私の耳がカッと赤くなる。
自分の情けない姿に居たたまれなくなるが、はたと当初の目的を
思い出した。
︱︱︱これは願っても無い状況だわ。子供っぽい自分を見せて、幻
滅させるチャンスよ!
私は補佐に向き直り、あえて困った表情を作りながら小さく笑う。
﹁昔からハンバーガーを食べるのが下手で、ケチャップを付けてし
まうんです。気をつけていても、毎回。33にもなって、みっとも
ないですよね﹂
わざとらしくため息をついて、わざとらしく肩を落とす私。
︱︱︱こんなだらしない私、補佐の恋人にするには向かないでしょ
?だから、さっさと諦めてくださいよ。
247
チラリと横目で伺えば、補佐は呆れているどころか嬉しそうに笑
っていた。
そしてこちらへ手を伸ばし、私の唇に付いたケチャップを右の親
指で拭うと、指に付いたケチャップを⋮⋮舐めた。
﹁ええっ!?﹂
︱︱︱何した?今、何した、この人?!
自分が予想とはまるっきり真逆の展開に、私は驚愕に目を見開く。
そんな私に、補佐は妖しく微笑んだ。
﹁いくら口元を汚しても俺が綺麗にしてやるから、安心して齧り付
いてもいいぞ。ああ、指じゃなくて直接舐めてやるのもいいな﹂
補佐の赤く濡れた舌が、唇の隙間からチロリと覗く。
私VS補佐。
初戦は私のKO負けだった。
248
︵39︶お願いだから、諦めて!:1︵後書き︶
●﹁こんなアプローチで本当にいいのか?!そもそも、これはアプ
ローチなのか?!誰が見ても100%セクハラだろ!﹂と思いつつ、
筆が進む、進む∼︵笑︶
こういう展開、書いていてとても楽しいです。
でも、﹁こんな野口氏、まだまだ可愛いもんだよなぁ﹂と作者なが
らに思います。
現在、苺の下書きは2人の絡みのシーンまで進めておりますが、ち
らちら出てくる暗黒&妖艶笑顔を装備した野口氏に、ちょっとだけ
腰が引けてるみやこ︵苦笑︶
大人のいい男に溺愛される理沙ちゃんをお披露目できるまで、あと
少しです。
読者様、どうぞ今しばらくお付き合いくださいませ。
249
︵40︶お願いだから、諦めて!:2
日本全国が清々しい秋晴れに見舞われたある朝。
私の目覚めは全くもって清々しくなかった。
﹁うぅ、一晩経っても恥ずかしさが消えてないぃぃ﹂
布団を頭までかぶり、恨めしい声を出す私。
︱︱︱補佐の逞しい腕が腰に回り、大きな手に繋がれ、こめかみに
キスされて⋮⋮。
あの時の情景を思い出しただけで、みるみる赤く染まる顔。
﹁まったく、どんな羞恥プレイなのよっ!﹂
就業後をだいぶ過ぎていたので残っていた社員はそれほど多くな
く、補佐の奇行︵?︶を目撃した人は数えるほどだろう。
それでも見た人がいるということは事実だし、なにより、当事者
の私が恥ずかしさで顔から火柱が出そうだったのだ。いや、出てい
たかもしれない。
︱︱︱それに、どんな顔して補佐と会えばいいの?
昨日の今日では気まずい。気まず過ぎる。
﹁出勤したくないよぉ∼﹂
ベッドの中でバタバタとのた打ち回りながら、どうにもならない
ことをぼやいてみる。
﹁病気になったわけでもないし、怪我をしたわけでもないし⋮⋮。
そうだっ﹂
250
よくある話に、元気でピンピンしている身内を危篤と偽って休み
をもぎ取るというのは、もはや社会人誰もが知る言い訳だ。
︱︱︱よし。
私はモゾモゾと布団から顔を出し、枕元に置いてある携帯電話に
手を伸ばし、緊急連絡先である海外事業部部長のパソコンアドレス
を開く。
︱︱︱とりあえず、兄を意識不明にするか。
指先で文章を綴り、残すは送信のみという段階で手が止まった。
今日も仕事が山のように待ち構えていて、とてもじゃないが休め
る状況ではないことを思い出す。
至極個人的な事情で欠勤することは、秘書としての仕事に誇りを
持つ私が一番嫌うことだ。
︱︱︱行きたくないけど、行きたくないけど⋮⋮。
ワシャワシャと頭を掻き乱し、﹃⋮⋮ああ、もう!﹄という叫び
声と共にベッドを 飛び出す。
﹁勤務時間中は昨日みたいに上司と部下という関係を守ってくれる
みたいだから、就業後に捕まらなければ何とかなるわよ、うん﹂
そう自分を納得させ、私は何年も着古してイイ感じにクタクタと
なっているスウェットを颯爽と脱ぎ捨てた。
昨日と違い、今日は一番乗りで海外事業部に踏み入れる。
251
自分のデスクで今日のスケジュールを確認していると、桑田さん
が出勤してきた。
﹁おはようございます﹂
﹁おはよう、古川さん。⋮⋮なんだか大変だったみたいね?﹂
微妙な疑問系で話しかけられた。
見上げてみれば、横に立つ彼女の顔が何故か楽しそうに微笑んで
いる。
何を指して﹃大変だったみたい﹄なのか。
嫌な予感がする。いや、嫌な予感しかしない。
﹁⋮⋮大変とは?﹂
恐る恐る切り出せば、桑田さんは一層苦笑を濃くする。
﹁野口部長補佐と強制デートしたんだって?﹂
﹁ど、どうしてそれを!?﹂
あの時点で桑田さんはとっくに退社していたはずだ。その彼女が
どうして昨日の顛末を知っているのだろうか。
あんぐりと口を開けば、桑田さんがパチンとウインクをする。
﹁うっふふん。とある目撃者からの情報提供があったのよ﹂
︱︱︱誰だ、その目撃者とは!渾身の正拳突きを顔面にお見舞いし
てやる!!
﹁いやっ、それはっ、そ、そのっ、確かに強制的に連れ出されまし
たが、デートではなくってですねっ、あの﹂
どう言い繕っていいのか見当が付かない。
慌てる私に、桑田さんは﹃ちょっと落ち着きなさい﹄と、肩を軽
く叩いてくる。
﹁別に隠すことないじゃない。ウチの会社は社内恋愛に対して寛容
よ﹂
まだこの場にいない滝さんの席に悠々と腰を下ろし、お姉さん口
調で話を続ける桑田さん。
252
﹁それに派遣社員とか、正社員とか、そういうことはまったく気に
する必要ないわ﹂
﹁そういうことではなくてですねっ﹂
﹁あら、補佐のことが嫌い?﹂
﹁あ、うぅ⋮⋮。嫌いということではないですが、恋愛対象として
見ることが出来ませんし、それに⋮⋮、補佐のあのような態度は困
るんです﹂
何とか落ち着きを取り戻し、ここでようやく理由らしきことが口
に出来た。
そんな私に、桑田さんは眉をひそめる。
﹁何で困るの?あんなお買い得な男性、早々いないわよ﹂
﹁補佐が素敵な人だということは重々承知です。でも、私は補佐と
お付き合いする気はまったくありませんので﹂
きっぱり言ってのければ、桑田さんは予想外の切り返しを放つ。
﹁それって、他に好きな人がいるから?﹂
桑田さんがそう質問してきた時、私の背後から重くて暗いオーラ
が漂ってきた。
︱︱︱何っ!?
パッと振り返れば、噂の主でもある我が上司様が体の前で腕を組
み、私のすぐ傍に立っていた。
彼の笑顔は今日の空のように爽やかであるのに、それでは何故、
彼の回りだけ雷雲が立ち込めているのだろうか。
﹁お、お、おはようござい、ま⋮⋮す﹂
彼のあまりの迫力にどもる私。
﹁おはようございます、野口部長補佐﹂
そんな上司を前にして、サラリと挨拶している桑田さん。その精
神力を是非とも分けていただきたい。
そんな素晴らしい丹力をお持ちの桑田さんが、さも楽しそうに補
253
佐に話しかけた。
﹁古川さんには好きな人がいるみたいですよ∼﹂
にんまりと笑う桑田さん。
顔面を引きつらせる私。
雷雲に暴風を追加させた補佐。
﹁⋮⋮ほう﹂
その短い一言で、私の心臓がキュッと縮む。
︱︱︱こーわーいーーーーー!補佐、怖すぎますーーーーー!
﹁古川君、その話は本当か?﹂
低い声での問いかけに対して、私はブンブンと音が聞こえてきそ
うなほど激しく首を横に振った。
その様子に、補佐を包む空気が徐々に和らいでゆく。
恐怖で半泣きになっている私の顔を見て、補佐が微笑を浮かべて
こう言った。
﹁まぁ、仮に君が想いを寄せる人が実際にいたとしても問題ないが
どんな手
って、どんなものですか!?法律的にも人道的
な。そんな存在はどんな手を使っても、君から遠ざけてしまえばい
い﹂
︱︱︱
にもアウトな感じがするのは、私の勘違いですよね!?
朝からどす黒い会話がなされる、海外事業部での1コマであった。
﹁なんか、もう、疲れました⋮⋮﹂
腕時計を見れば、8:52分。
254
これから仕事が始まるというのに、既に疲労困憊だ。
﹁大丈夫?﹂
クスクスと笑う桑田さんをチロリと睨みつける。
﹁桑田さんが余計なことを言うからですよぉ。私には好きな人はい
ませんし、それに、補佐と付き合う気もないんですぅぅぅ﹂
グスグスと泣き真似をする私の頭を、桑田さんが優しく撫でる。
﹁そう?でも、補佐はずいぶんあなたにご執心よ﹂
﹁その理由がまったく分かりません。私なんかより、ずっと素敵な
女性が、世の中には溢れているじゃないですか﹂
﹁そうは言ってもねぇ。世間でどんなに評判の美人でも、自分の好
みじゃなければ食指は動かないもの。古川さんという存在が補佐の
好みにハマってしまったんだから、あなた以外の女性を持ってきた
ところで無意味だと思うわ﹂
﹁嬉しくないです⋮⋮﹂
机に突っ伏して泣き言を漏らしたところで、就業開始の音楽が流
れた。
お昼休みに桑田さんから聞いた話では、私と補佐が連れ立って歩
いていたところを見た社員というのは10人に満たず、その誰もが
面白おかしく囃し立てる人達ではないとか。
そのことに私は大きく胸を撫で下ろした。
無闇に噂を立てられる心配がなくなれば、残る懸念は就業後の補
佐から逃げ切ることだけ。
そして現在、後5分で終業を迎えるところだ。
︱︱︱このまま行けば、何事も無く終わる!
既に帰る身支度を整え、足元には通勤バックがスタンバイ。いつ
255
でも海外事業部を飛び出せる私。
おまけに補佐は滝さんと一緒に外回り中で、ここにはいない。
︱︱︱よし、いける!
デスクの下で小さくガッツポーズした時、終業の音楽が社内に流
れた。
﹁お疲れ様でした!﹂
部長と同僚達に声をかけ、一目散に社員通用口を目指す。
順調に階段を駆け下り、滞りなく社員通用口を抜け、快調に駅ま
での道をひた走る。
︱︱︱やった、やった∼!
私は嬉しさを噛みしめつつ、駅の改札を抜けた。
⋮⋮と思ったら、寸前で自分のお腹の前に逞しい腕が回され、私
の脚が止められた。
次いで頭の上から艶めく美声が降ってくる。
﹁ここで張り込んでいて正解だったな﹂
︱︱︱こ、こ、こ、この声は⋮⋮。
グギギギギ、と錆びたブリキのおもちゃのような音を立てて私が
恐る恐る振り向けば、そこにいたのは逃げ切ったと思ったはずの上
司様。
256
︱︱︱な、な、なんでいるのっ!? ﹁外回りがちょっと長引いて、時間までには社に戻れそうになくて
ね。だから滝にここで降ろしてもらった﹂
︱︱︱なんですと?!
辺りを見回すと、駅前のロータリーに停めた車へ凭れて立ってい
る滝さんが見えた。
キッと睨みつければ、滝さんはニッコリ笑って私に小さく手を振
る。 ︱︱︱あと少しだったのに!余計なことをしやがりましたね!!
電車に乗ってしまえばとりあえずは安心だったはずなのだが、最
後の最後で補佐に捕まってしまった悔しさで、私の眼光はますます
鋭くなる。
そんな私の肩を掴んでクルリと反転させ、向かい合った私の頬を
手で包み、少し上を向かせて自分と視線を合わせようとする補佐。
﹁こら、滝を見るより俺を見ろ﹂
帰宅ラッシュが始まった改札前で繰り広げられる場違いな補佐の
甘い囁きに、私の精神力は燃え尽きた。
昨日に引き続き補佐に捕まってしまった私は、やはり昨日のよう
に補佐に手を引かれて歩いている。
腕を引いても、何を言っても、補佐はまったく私の手を放そうと
はせず、ドンドン歩を進める。
それでも、私の歩調に合わせてくれているのは分かった。
257
︱︱︱こういうさり気ない優しさって嬉しいんだけど、でも、恥ず
かしい⋮⋮。
消えてしまいたい思いのまま歩いていると、補佐の足が止まった。
顔を上げれば、居酒屋の看板が目に入る。
年季の入った木の看板には﹁居酒屋 のり﹂と大きく書いてあっ
た。
なんてことのない看板だが、なんだかすごくいいお店なんだろう
なって思わせてくれる温かさがある。 こういうお店は私も大好き
だ。
しげしげと眺めていると、補佐が説明を始める。
﹁ここは酒の種類が豊富でね、日本酒でも洋酒でも安価な値段で楽
しめるんだ。それに料理も旨いし店主の人柄もよくて、この前のバ
と言って、補佐は私を店内に案内した。
ーとはまた違う意味でいい店だ﹂
入るぞ
平日の6時前だというのに、店はそこそこ混んでいる。
サラリーマンだけではなくOL同士の姿もあるということは、女
性でも安心して入店できるということだ。
落ち着きとは正反対の店内だが、その賑やかさが心地良く、店内
は思いのほか清潔である。
﹁ここでいいな﹂
手近なテーブル席に腰を下ろし、補佐がドリンクメニューを差し
出した。
﹁何を飲む?﹂
どうせ帰してもらえないのだと諦め、渡された写真付のメニュー
にじっくり目を通すと、私が好きな白ワインがあった。
﹁このワインをグラスで﹂
メニューを指差せば、補佐が頷く。
258
﹁ああ、それならボトルで注文入れたほうがいいだろう。俺もその
銘柄が好きだからな﹂
それから互いの好きなおつまみを注文し、とりあえずは落ち着い
た。
﹁⋮⋮あの、補佐﹂
﹁何だ?﹂
呼び掛ければ、温かいお絞りで丁寧に手を拭っている補佐が私を
見る。
世のオジサマ達がよくするように顔を拭くようなことは絶対せず、
拭き終えたお絞りをきちんと畳んでテーブルの隅に置いた。
こういうところがスマートだ。
﹁今夜は私に支払わせてください。昨日も結局補佐にご馳走になっ
てしまいましたし﹂
すると見慣れた苦笑が返ってくる。
﹁あの程度、ご馳走したうちには入らないさ﹂
金額の問題ではなく、気持ちの問題なのだ。このままズルズル甘
えているのは、どうにも居心地が悪い。
﹁ですが、このままでは申し訳なくて﹂
なんとか支払いの主導権を取り戻そうと補佐を説得に掛かるが、
彼はやはりウンとは言ってくれない。
﹁そうは言っても、会計で君に払ってもらうのは上司として格好が
付かない。だから、古川君は気にすることなく奢られてくれ﹂
﹁いえ、でもっ﹂
今日も形勢不利になりつつあるのをヒシヒシと感じながら、それ
でもなんとか話を戻そうとする私。
補佐は口元に手を当てて少し考え、1つの提案を示した。
﹁ん∼、それなら何か別の形で俺に礼をしてもらおうか、例えば手
作り弁当とか。是非、古川君の手料理を食べさせてほしいな。好き
嫌いはないし、料理でもお菓子でもかまわん﹂
補佐の申し出に、心の中で私はニヤリと笑う。
259
料理。それは私にとって鬼門だ。
しかし、今は有効な手立てである。
︱︱︱ここで料理の出来ない女を強調して、補佐に諦めてもらおう!
﹁その程度でよろしければ何か用意して差し上げたいのですが、私
不味すぎて死にそう
とまで言
は料理が苦手なんです。この前、20年近く付き合いのある親友に
シーフードピラフを振舞ったら、
われたんですよ﹂
時には美味しい料理も作れるが、そこはあえて伏せておこう。
私の話を聞いて、補佐の片眉が驚きにちょっと上がった。
﹁そうか⋮⋮﹂
ポツリと呟く補佐に畳み掛けるよう、口を開く。
﹁はい、おまけに友達をやめるとまで。そのぐらい、私は料理が苦
手なんですよ。まともに料理が出来ない女性って、女として駄目だ
と思います﹂
﹃だから、諦めてください﹄と続けようと思った矢先に、補佐は自
信たっぷりに笑った。
﹁そこは問題ない。俺は料理が得意だから、今度、手取り足取り教
えてやろう﹂
料理
されて食べられ
テーブルに頬杖を付いて微笑む補佐の瞳に妖しい炎が灯る。
︱︱︱いやぁーーー!このままでは、私が
てしまう!
そんな予感を窺わせる補佐の瞳に、今日も自分の作戦が失敗した
ことを悟る私であった。
260
桑田さんはもちろん補佐の想いを知っています。そして、補佐
︵40︶お願いだから、諦めて!:2︵後書き︶
●
の応援者でもあります。
が、理沙ちゃんのみならず補佐をもからかうツワモノでもあります。
そうそう、滝君もばっちり協力者。
こうして理沙ちゃんの外堀が埋められてゆく⋮⋮︵笑︶
261
︵41︶お願いだから、諦めて!:3
︱︱︱どうしたら、補佐は私を見限ってくれるんだろう。
最近の私は、そんなことばかりが頭の中でグルグルと巡る。
子供っぽいところを見せても駄目。
料理が苦手だと言っても駄目。
普通の男性であれば、そんな女性はお断りのはずなのに。
現に、元彼たちにはそれが理由で振られたというのに。
︱︱︱どうしたらいいんだろう。
会社に向かう通勤電車に揺られながら、私は大きなため息をつい
た。
今日は午後からE社で打ち合わせがあったので、補佐と2人で取
引先に向かった。
条件等で若干折り合いが付かなかったものの、概ね順調に話し合
いは進んだ。
﹁なんとか方向性が見えて良かったですね﹂
E社の廊下を補佐の後について歩きながら、大きく頼もしい背中
262
に話しかける。
﹁そうだな。後は互いの立場を上手く擦り合せていけば、問題はな
いだろう。社に戻ったら、DM樹脂の市場価格を調べてくれないか。
原価を下げることが出来れば、ウチにとって有利に話が進められる﹂
﹁かしこまりました﹂
上司
と
部下
という関係は、とても居心地がいい。
私は内ポケットから手帳を取り出し、その旨を書き込んだ。
こうして
ずっと、こういう関係が続けばいいのに。
上司としての野口忠臣は嫌いじゃないのに。
仕事の話をしながらE社の玄関を出たところで、女性の悲鳴を耳
にした。
﹁ど、泥棒!﹂
歩道に倒れる老婦人が腕を伸ばす先には、女性物のハンドバッグ
を小脇に抱えて走り去る若い男の姿が。
幸い、今日の私の格好はパンツスーツにローヒール。
︱︱︱よし、いける! 私はひったくり犯目指して迷わず駆け出した。
ひったくり犯の脚はさほど速くなく、前を走る男の背中を睨みな
がら私は次第に距離を詰めてゆく。
体格は私よりもいい犯人だが、今まで空手で鍛えて鍛えまくって
きたのだ。女というハンデはあっても、油断しなければ負けること
はないだろう。
263
﹁待ちなさい!﹂
﹁ちっ、しつこい女だ﹂
後ろを振り返り、憎々しげに吐き捨てた男がグッと右に曲がった。
ビルとビルの間、大人2人がやっとすれ違えるような狭い路地へ
と入ってゆく男に私も躊躇なく続く。
﹁観念しなさい!﹂
疲れてスピードの落ちた男の服の背を掴んだ。そして力任せに引
き寄せ、男の右腕を背面で捻り上げる。
﹁ぐっ。は、放せよ!﹂
﹁そう言われて、放す訳、ないで、しょ!﹂
男は全身を闇雲に捻って私の拘束を解こうとする。
こういう破れかぶれの状態は、変則的な動きをするので厄介だ。
注意深く男を壁に強く押し付け、私はギリギリと相手の腕を更に
締め上げてゆく。
︱︱︱後は警察を呼んで、引き渡せばいいわ。
ひとまず息を付くと、今まで光が射していた背後が急に翳った。
﹁⋮⋮何?﹂
横を向けば、脇道の入口付近に見上げるような大男が。
﹁ア、アニキ!﹂ 私に押さえ込まれている男が嬉しそうに呼び掛けた。
現れた大男はどうやらひったくり犯の仲間らしい。
上背は私よりも頭1つ以上高く、Tシャツの下に見える肩も二の
腕も筋肉で盛り上がっている。日に焼けたその男は、まるで黒人ボ
クサーのようだ。
左右に目を走らせ辺りを窺うが、暴れる男を押えつつ、この狭さ
では大男相手に上手く立ち回る自信がない。
︱︱︱流石の私でも、2人を相手にするのは⋮⋮。
264
私の硬い表情を見た大男は、ヒュゥッと口笛を吹いてニヤリと笑
う。
﹁へぇ、結構いい女じゃないか﹂
自分の優位を信じて疑わない大男が、一歩、また一歩と私に近付
いてきた。
間合いを計るが、まだ遠い。この距離では上手く踏み込めない。
動揺が汗となって現れ、頬を伝った。
︱︱︱でも、逃げるわけにはいかないわ。
半身を引いて大男と向き合い、左手でひったくり犯の動きを押さ
えながら右腕で構えを取った。
例えどんなに自分に不利な状況でも、弱気になっているところを
見せてはいけない。
私は呼吸を整え、相手の出方を伺う。
ゴクリと息を飲む音が、自分の耳の奥でやけに大きく響いた。
その時、ドゴッ⋮⋮という鈍い音がして、大男の後頭部に恐ろし
くキレのあるハイキックが決まった。
﹁う、あ⋮⋮﹂
短く呻いた後、ドサリ、という音を立てて大男が倒れる。
︱︱︱何が起きたの?
逆光となっているため、眩しさに顔を顰めた。
265
忙しなく瞬きを繰り返し、徐々に目が明るさに慣れてくると、そ
こに立つのは見慣れたシルエット。
﹁古川君、大丈夫か!?﹂
先程見事なハイキックを繰り出したのは、補佐だった。
彼は通路の邪魔となっていた倒れた大男の襟首を掴んで歩道に引
きずり出すと、駆け寄って私を抱きしめる。
ちなみに私が捕まえた若い男は、アニキと呼んだ男があっさりと
倒されたことに腰を抜かし、白目を剥いて失神中。
﹁怪我はしてないな?﹂
補佐が私の頭、肩、腕を触って確かめている。
﹁は、はい。無事です﹂
コクコクと頷けば、
﹁⋮⋮よかった﹂
という呟きと共に抱きしめられた。
﹁あ、あの。ものすごい音がしましたが、あの男性、大丈夫でしょ
うか?﹂
あれからピクリとも動かない男に、少々心配になった私。補佐の
肩越しに、うつ伏せで倒れている大男へチラリと目を向ける。
すると補佐は、あっさりとこう言った。
﹁即死しないようには手加減したから、平気だろ﹂
︱︱︱それって、手加減じゃないと思います!
アグレッシブすぎる上司の言動にブルブル震えていると、補佐は
ため息混じりに口を開く。
﹁それにしても、危険も顧みず素手で男に向かっていくなんて。ま
ったく、君という人は⋮⋮﹂
困ったように眉を寄せて顔をしかめる補佐に、私は内心ガッツポ
ーズ。
266
︱︱︱お転婆を通り越して、無鉄砲でしょ!野蛮でしょ!ほらほら、
こんな女、お断りよね。ね?
ところが⋮⋮。
﹁なんてカッコいいんだ﹂
熱っぽい囁きと共に、一層強く抱き締められる。
﹁︱︱︱は?﹂
﹁綺麗で可愛いことはよく分かっていたが、更に凛としてカッコい
いなんて。古川君、惚れ直したよ﹂
﹁え?え??ええっ!?﹂
補佐に嫌われるどころか逆効果。
もう、どうしたらいいのよっ!! 267
︵41︶お願いだから、諦めて!:3︵後書き︶
●ようやくここまで辿り着きました。
次章でようやくケリをつけることが出来ますよ。
毎度の事ながら、告白シーンは頭が禿げるほど悩みますね。
散々考えて。散々迷って。
そうして書き上げたシーンが皆様のお気に召すことを願って、後日
投稿いたします。
268
︵42︶心が出した答え:1︵前書き︶
この章で、ケリをつけます。
269
︵42︶心が出した答え:1
毎日のように補佐に迫られ、甘い言葉を囁かれ、私の頭は混乱の
極みを迎えていた。
︱︱︱どうして?何で、補佐は私を嫌いになってくれないの!これ
以上、私はどうしたらいいの!
勤務中はまだいい。
だが、一旦職位場を離れれば補佐の猛攻が始まる。
どんなに拒否をしても、聞き入れてはもらえない。
そして、終業を迎えた今。
頭を冷やしたかった私は帰った振りをして補佐の目を盗み、非常
階段の踊り場にやって来た。
手摺りにもたれ、風に吹かれている。
しかし、冷却時間は私に与えられることはなく⋮⋮。
﹁ここにいたのか﹂
風に運ばれて聞こえてきた呟きは、今現在私を悩ませている人の
もの。
﹁まんまと騙されて、社員通用口で君を待ってしまったよ﹂
こちらを見て嬉しそうに微笑む補佐に、私は顔を引きつらせて後
ずさりする。
﹁野口補佐、目を覚ましてください。私は、あなたに相応しい女で
はありません!﹂
彼は例のごとく私の言葉には耳も貸さずにゆっくりと歩を詰め、
優しい表情できっぱりと言った。 270
﹁自分に相応しいかどうかは俺が決めることだ﹂
﹁で、ですが⋮⋮﹂
言葉に詰まる私に、補佐は僅かに眉を顰める。
﹁誰かに何か言われたのか?﹂
﹁いいえ﹂
首を横に振る。
幸か不幸か、補佐が私をかまうことに対して、誰からの中傷も受
けていない。
﹁それなら、何故俺を避ける?俺のことが嫌いなのか?﹂
﹁いえっ、そうではないんです。ただ、補佐とはお付き合いできま
せん!﹂
私がそう言うと、彼は無言になる。
2人の間に少しひんやりとした秋風が吹きぬけた。
しばらくして風が止み、それと同時に補佐が私に腕を伸ばしてく
る。
思わずビクリと肩が跳ねた。
それを見た補佐は伸ばした腕を止め、静かに下げる。そして苦い
ため息と共に口を開いた。
﹁⋮⋮分かった。君の気持ちがこちらに向くまで、強引なことは避
ける﹂
真摯な思いが伝わるその言葉に、私の心の緊張が静かに解ける。
しかし一瞬後には
﹁だが、よく覚えていてくれ。待つことはするが、逃がしはしない
ということを﹂
と、含み笑いと共に告げられた。
その態度に、これまで溜まった鬱憤が爆発する。
﹁逃がさないって何ですか!どうしてそんなこと言えるんですか!
271
私はあなたとお付き合いしないと、何度も申し上げているじゃない
ですか!それに⋮⋮、それに、私が補佐以外の人と付き合う可能性
だってあるじゃないですか!﹂
食って掛かる私の言葉に、補佐は小さな苦笑を返す。
﹁その可能性は万に一つも無いさ﹂
﹁⋮⋮それは、私のような女と付き合ってくれる物好きな男性は、
補佐以外にいないと言うことですか?﹂
上司に対して不遜にも仏頂面全開な私に、補佐は咎めることもな
く、静かに口を開く。
﹁古川君はどうしてそんなことを言うのかな?今更、説明する必要
ないだろう﹂
片頬を上げてクスリと笑う補佐の瞳が物騒に光った。
﹁可能性がないといった理由は⋮⋮、俺がその可能性を完全に潰す
からだ﹂
誰もが見惚れるその笑顔は、底知れぬ恐怖を私にもたらす。
﹁前にも言っただろ?君に下心を持って近付く男は、どんな手段を
使ってでも全て排除する。だから、君が他の男と付き合う可能性は
皆無だ。出来ることなら今すぐどこかに閉じ込めて、俺以外の誰と
も接触させたくない﹂
綺麗に弧を描く彼のその瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
︱︱︱何なの、この人。思考が危ない⋮⋮。
だけど、ここまで言われても、嫌悪感は一向に沸いてこないのが
不思議だった。
﹁これまでのように、無理に迫ることはしない。だから、俺のこと
を真剣に考えてほしい。それでも俺を受け入れられないのであれば、
俺との未来がほんの一握りも考えられないのであれば、俺の納得す
272
る答えを聞かせてくれ﹂
下心を感じさせないさり気ない仕草で私の頭を一撫でして、補佐
はこの場を去って言った。
その日以降、補佐は自分の言葉通りに終業後になっても私を口説
くことも、強引に連れ去ることもなくなった。
時折熱い視線を向けられたり甘い言葉を掛けられたりするが、以
前のような傍若無人な振る舞いは一切なくなった。
9月末が近くなったある金曜の夜、私の家の玄関チャイムが鳴っ
た。
ドアを開ければ、恭子がワインのボトルをひょいと掲げる。
﹁こんばんは∼。これ、お土産ね﹂
﹁ありがと。急に呼び出しちゃってごめんね、明日も仕事でしょ?﹂
﹁ううん。担当作家さんの原稿は無事に受け取ったから、休み取っ
た。伸吾は用事でいないし、今夜は女同士で語り明かすよ﹂
彼女はいつものようにニッと笑った。
食事もお風呂も済ませ、お互い気楽な部屋着に着替えて、リビン
グのローテーブルを挟んでワイングラスを傾けた。
﹁今日は本当にごめんね。このところずっと仕事が忙しかったから、
家でゆっくりしたかったよね﹂
私が気まずそうな顔をすれば、恭子はクッと一息にグラスを空け
273
る。
﹁私と理沙の仲じゃん、気にしないでよ。呼び出してまで、何か話
したかったんでしょ?ほら、話してごらん﹂
彼女の察しの良さに、私は何度も救われてきた。
﹁うん、実はさ⋮⋮﹂
私はワインを一口飲んでから、これまでの補佐のことを話した。
彼に告白されたこと。
告白後の彼の行動の事。 上手く言いたいことが纏まらず、時折時系列がバラバラになった
話も、恭子は静かに聴いている。
﹁それでついこの前、真剣に考えてくれって言われたんだ。でも、
どんなに考えても、答えが見つからなくって。もう、どうしたらい
いのか分からないよ⋮⋮﹂ 補佐のことは嫌いじゃない。
上司として、とても素敵な人。
でも、付き合うつもりはない。
だけど、ひどく突き放すことも出来ない。
どうしたら、あの補佐を納得させることが出来るのか。
どうすれば⋮⋮。 諸々の思いを残らず吐き出した。
私が全て話しきったところで、ようやく恭子が口を開く。
﹁相手は直属の上司なんだ。それって、立場的に厄介だね﹂
難しい顔をして低くうなる彼女に、私はすかさず口を挟んだ。
274
﹁あ、でも、肩書きを盾に迫るようなことはされてないよっ。そう
いう卑怯なことは絶対しない人だからっ﹂
補佐が親友に誤解されることに、何故か焦る私。
そんな私に恭子は追求することもなく、どこか納得したような彼
女。
﹁ふうん⋮⋮。で?そんな何もかも理想的な人に告白されて、理沙
は何を迷ってんの?﹂
﹁え、それは⋮⋮﹂
両手でグラスを包むように持ち、私は揺れるワインに目を落とす。
補佐を納得させる答えが見つからない理由は、私自身の中でどう
するべきなのかという方向性すら見つかってないからかもしれない。
すっかり黙り込んでしまった私の隣へやってきた恭子に、クイッ
と肩を抱き寄せられた。
コツン、と私と恭子の頭がぶつかる。
﹁あのさ、そういう時って考えないほうがいいんじゃない?ってい
頭
じゃなくて
心
が答えを持っているからさ、何か
うか、考えなくてもいいんじゃないかな﹂
﹁え?﹂
﹁きっと
のタイミングで答えが出るよ﹂
小さな子供をあやすように、恭子が私の肩をポンポンと優しく叩
いた。
﹁だから、焦らなくても大丈夫だよ﹂
それに対して、私は大きくゆっくり頷く。
︱︱︱そっか、無理矢理答えを見つけなくてもいいのか。
彼女の言葉と仕草で、私は肩の力が抜けた。
275
﹁ありがとうね﹂
﹁お礼を言われることなんか、なんにもしてないよ。私はただ、理
沙を励ましただけ﹂
恩着せがましくない自然な態度が、心底嬉しい。
﹁恭子ってホントいい奴∼。恭子が男だったら、絶対惚れるな﹂
ところが今さっき見せた優しさは影もなく、恭子は素っ気無く言
い放つ。
﹁私が男だったら、殺人ピラフを作る彼女はお断りだね﹂
﹁もう、いい加減ピラフのことは忘れてってば!﹂
大きな声を出す私に、恭子は目を閉じてしみじみと呟いた。
﹁あの衝撃的な味はそうそう忘れられないよ。もう少しで天国にい
るバアちゃんに呼ばれそうだったもん﹂
﹁恭子のおばあちゃん、まだピンピンしてるじゃん!﹂
87歳のおばあちゃんは、恭子の家で飼っているドーベルマンを
引きずりまわす勢いで散歩をするほどパワフルだ。
﹁物の例えだよ。そのぐらい強烈だったって事﹂
﹁いくら例えでも、殺したらおばあちゃんが可哀想でしょっ﹂
﹁大丈夫、あのバアちゃんなら殺しても死なない﹂
﹁そうじゃなくって!ああ、もう!﹂
恭子と馬鹿な話をしているうちに、私はすっかり笑顔になってい
た。
276
︵43︶心が出した答え:2
その日は朝から雲行きが怪しく、お昼休みを迎えた頃には雨が降
り出した。
﹁あ∼、これから大荒れだって。早退して、子供の小学校にお迎え
行こうかな﹂
携帯電話で天気予報を見ていた桑田さんが、お母さんの顔になっ
て呟く。
﹁かなり強力な低気圧が接近中だと、今朝のニュースで言ってまし
たしね。この時期の台風は油断できないですよ﹂
私は日替わり定食が乗ったトレイを手に、桑田さんの向かいの席
に腰を下ろす。
﹁雨が降るだけならいいんだけどねぇ﹂
ふぅ、とため息をついた桑田さんは、サラダに添えられたミニト
マトを口に放り込んだ。
﹁風が強いのが厄介だわ。傘は差しても役に立たないし﹂
﹁それに、何かが飛んでくるのも怖いですしね。お子さんだけで下
校するのは、やっぱり危ないと思いますよ﹂
母親の笑顔
を見
﹁そうよね。じゃ、さっさと食べて、仕事に取り掛かりますか﹂
﹁働くお母さんは大変ですね﹂
私が苦笑を浮かべれば、
﹁まぁね。でも、それ以上に幸せよ﹂
親子丼をかき込みながら、桑田さんは温かい
せてくれた。
277
どの社員も仕事を早めに終らせるか、キリの良い所まで進めて明
日に回すなどして会社を後にする。
私もある程度まで段取りをつけ、手を止めた。
午後4時を過ぎると遠くから聞こえてきたのは、低く響く雷鳴。
︱︱︱そろそろ帰った方がよさそうね。
今のところ雨はまだ強くないが、このまま時間が経てば、悪天候
により電車が止まるかもしれない。
デスクに広げていた書類とトントンと揃え、席を立つ。
﹁野口補佐。この後はどうされますか?﹂
﹁部長の許可も出ているから、これで帰るよ。古川君、よかったら
車で送ろうか?﹂
﹁いえ、電車もまだ動いてますので﹂
﹁そうか。では、気をつけて帰るように﹂
﹁はい、失礼します﹂
もしかしたら強引に引き止めて家まで送ると言い出すかな、とチ
ラッと考えたが、補佐は穏やかに微笑むだけだった。
手早く帰り支度を済ませ、海外事業部を補佐と出る。
私はいつものように階段へと向かって歩き出したが、階段の手前
には作業中の立て札が。
古くなった階段や踊り場の補修工事を行っており、あと1時間は
掛かるようだ。
天気は刻一刻と悪くなっていて、少しでも早く会社を出たいとこ
ろ。
︱︱︱仕方ない、今日はエレベーターを使うしかないか。
278
重い足取りで引き返すと、補佐がエレベーター待ちをしていた。
﹁どうした?﹂
私がエレベーターを使わない理由を知っている補佐が、戻ってき
た私を不思議そうな顔で見る。
私はヒョイッと肩を竦めて、困り顔で笑った。 ﹁階段の補修工事が予定よりずれ込んだらしく、まだ使えないんで
す。さすがに工事が終わるまで待っていたら、帰れなくなりそうで
すから﹂
﹁そうか。まぁ、私が一緒に乗ってあげるから、そう怖いこともな
いさ﹂
私を気遣って、優しく、そしてちょっとおどけたように補佐が言
った。
程なくしてエレベーターが到着し、私と補佐が乗り込む。
私が階数ボタンの近くに立てば、補佐はその対角の隅に立った。
こちらが無駄に気詰まりしないよう、少しでも距離を取ろうとし
てくれたようだ。
︱︱︱こんな優しい人、私にはもったいないよ。
ふぅ、と息を吐き出した時、エレベーターはゆっくりと下り出し
た。
KOBAYASHIのエレベーターは外に面する最奥壁に幅60
センチに亘って透明な強化ガラスが張られ、外の様子が見えるよう
になっている。
晴天であれば綺麗な眺望が広がるが、今日のような天気では私に
279
とって最悪な状況でしかない。
エレベーターが動き出した音を聞きながら、体が徐々に強張って
いった。
遠くで曇天が光り、それほど時間を置かずに雷鳴が届く。
︱︱︱なんか、嫌な感じがする⋮⋮。
エレベーター恐怖症のきっかけとなった、あの日と同じような状
況。
チリチリと項の産毛が逆立つような、妙な緊張感。
寒いわけでもないのに、両腕に鳥肌が立つ。
恐怖でガクガクと震え、足に力が入らない。
そして。
目が眩むほどの閃光が背後のガラスからいきなり飛び込んできた。
それと同時に巨木が真っ二つに裂けたようなバリバリという大き
な音が耳を襲い、その一瞬後にはエレベーターがガクンと揺れて止
まる。
落雷の衝撃で停電が引き起こされたらしく、エレベーター内は薄
闇に包まれた。
とたんにフラッシュバックする幼き日の情景。
あの時のエレベーターは非常灯が作動せず、目の前は伸ばした自
分の手さえ見えない完全なる闇だった。
視界が遮られた私に届くのは、まるで地獄の底で唸っている悪魔
のような低い雷の轟きだけ。
それが子供だった自分にとって、どれだけ恐ろしいものだったの
か。
280
﹁い⋮⋮、いやぁーーーーー!﹂
︱︱︱怖い!怖い、怖い!!誰か、助けて!誰か⋮⋮!
私は助けを求めて、とっさに手を伸ばした。
﹁古川君!?﹂
突然すがり付いてきた私に驚いた声を上げるも補佐は突き放すこ
となく、それどころか優しく抱きしめてくれた。
﹁すぐ自家発電に切り替わるから、怖がらなくていい。そうすれば
非常システムが作動して、そのうち無事に動くさ﹂
そうは言われても、私の震えはいっこうに収まらない。今の私は
子供の頃に体験したあの恐怖に囚われてしまっている。
︱︱︱怖い、怖いっ!
指が白くなるほど強く、補佐のスーツの上着を手に握りこんだ。
﹁あの日と違って君は1人じゃない。私が傍にいるから安心しなさ
い﹂
彼の上着をきつく握り締めて震え続ける私に、補佐は﹃大丈夫だ。
大丈夫だよ﹄と辛抱強く繰り返した。
落ち着いた声で何度も囁かれ、ゆっくりと背を撫でられているう
ちに、少しずつ、少しずつ冷静になってゆく。
身体の強張りが徐々に取れ、冷たくなった指先にほんのりと体温
が戻ってきた。
281
そこで、ピタリと上司に張り付いている自分の痴態に気がつく。
﹁も、申し訳ありません!﹂
ガバッと上体を剥がして補佐から離れようとするが、脱力した脚
が動いてくれない。
﹁無理をするな。下手によろけて怪我でもされたら余計に困る﹂
そう言って、離れようとする私をそっと抱き寄せた。
立っているものは上司でも使え
と言うだろ?﹂
﹁動き出すまでに、もうしばらくは掛かりそうだ。遠慮することは
ないさ。昔から、
補佐は明るい口調で私の緊張を解してくれる。
それに対して私は、ちょっとだけ笑うことが出来た。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
﹁お恥ずかしいところをお見せして、本当に申し訳ありません﹂
﹁何を謝る?﹂
﹁小さな子供のように取り乱しまして⋮⋮。いくらなんでも、あり
えないですよね﹂
いい年の大人が、たかが雷でこうもパニックに陥るとは。
トラウマだから仕方ないとはいえ、それにしてもここまで取り乱
すのは我ながら情けない。
自分を恥じていると、補佐がフフッと小さく笑う。
﹁謝る必要などないさ。それが本当の君の姿なのだろう?ならば、
それを間近で目にすることが出来て、むしろ嬉しいものだ﹂
﹁で、ですが⋮⋮﹂
スッと目を細めて、補佐が私を見つめた。
﹁私に言わせれば、その態度は子供っぽいのではなく、可愛いんだ
よ﹂
﹁え!?﹂
282
ここ最近形を潜めていた獰猛なる肉食獣がそこにいた。
言葉を発せずパクパクと口だけを動かしていると、補佐は更に目
を緩やかに細める。
﹁古川君は可愛いよ﹂
︱︱︱こんな間近で、そんなセリフを言われた日には、私の脳みそ
が沸騰する!
﹁い、いえ、ですからっ。前にも言ったように、33の私に向かっ
て可愛いとは、あまりにそぐわないです!﹂
﹁33だろうが43だろうが、可愛いものは可愛い。いや、君だか
らこそ可愛いんだ﹂
やけに自信たっぷりに言う補佐。
その様子に私の脳みそは沸騰どころか、ジリジリと焦げ付き始め
る。
﹁そ、そんなっ、私は可愛くないんですってば!過去、お付き合い
した人に散々言われましたし!﹂
﹁そんなクソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根
性が腐っていてどうしようもなくて救いようのない器の小さなろく
でなし男の戯言など、即刻忘れるべきだ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
補佐が元彼のことを、ものすごい強烈な形容で言い表す︱︱︱私
の元彼、どんだけダメ人間なの?
補佐にバッサリ切り捨てられた元彼にほんの少し同情していると、
彼は笑みを深めた。
﹁それにしても役得だな。こうして君から抱きついてきてくれた﹂
私を宥める為に背中にあった補佐の左手が腰に回り、右手が頬に
触れてくる。
283
﹁そ、それは、ついっ﹂
補佐の行動に、私の顔が熱くなる。
﹁とっさに縋りつくほど、私のことを頼りにしているということか
な?﹂
オロオロと落ち着かない私の頬を緩々と撫でながら、嬉しそうに
クスクスと笑う補佐。
﹁あ、あのっ、ですからっ﹂
自分の気持ちがどういう状態なのか、自分でもよく分かってない。
だけど、助けを求めて無意識に補佐の腕に飛び込んだということ
は。
それは、つまり⋮⋮。
答えを探して補佐を見つめると、私を真っ直ぐに見つめる補佐と
目が合う。
﹁いい加減、素直になれ。︱︱︱理沙﹂
頬を滑り落ちてきた補佐の手が私の顎先をクッと上向きにすると、
艶のある囁きが私の唇に降りてきた。 284
︵43︶心が出した答え:2︵後書き︶
●今朝、みやこの後頭部に直径5センチの円形脱毛症が出来ている
夢を見ました。
野口氏の呪いでしょうか⋮︵ガクガクブルブル︶
これ以上野口氏に呪いをかけられないように、もう一頑張りします
︵切実!︶
285
︵44︶心が出した答え:3︵前書き︶
野口氏の暴走⋮、いえ、溺愛開始まで3.2.1.GO!!
286
︵44︶心が出した答え:3
恐怖と緊張で冷たくなっていた私の唇とは反対に、補佐の唇は凄
く熱い。
その熱が、私の唇の上で何度も踊っていた。
唇を彼のそれでやんわりと挟まれたり、チュ、と短い音を立てて
吸われたりしているうちに、私の唇に彼の熱が移ってくる。
そして唇から伝わる熱が、徐々に全身へと広がってゆく。
すっかり冷たさが取れた頃には、補佐の舌先が私の硬く閉じた唇
をノックした。
﹁ま、待って⋮⋮﹂
それに驚いた私が思わず薄く口を開けば、スルリと口の中に侵入
してきた補佐の舌。
とっさに離れようとするが、いつの間にか補佐の右手は私の後頭
部をしっかりと押さえつけ、そして左腕は絡みつくように私の腰に
回されている。
﹁ん、んんっ﹂
抗議の声を上げるが言葉にならず、むしろそれが補佐を煽ってし
まったらしい。
補佐は角度を変え、私の口内を舌で舐る。
奥まで滑り込んできた舌が私の舌を絡めとり、強く吸い上げれば、
自分の舌の根元がピリッと小さく痛みを訴えた。
私が拳でドンドンと補佐の胸を叩くと、腰に回された腕が更にグ
ッと引き寄せられ、手が動かせないほど彼と密着する。 そして、私の後頭部にある手にも力が込められていった。 おかげで私は一ミリたりとも動けない。
キスをされているというよりも、食べられているといった方が相
287
応しいこの状況。
なのに、ぜんぜん嫌じゃない。
恐怖の中、無意識に彼の腕の中に飛び込んだ私。
答え
なんだ。
強引にキスされて、嫌悪を感じない私。
︱︱︱これが、恭子のいっていた
これでようやく補佐の想いと自分の気持ちを受け入れることが出
来そうだった。
︱︱︱で、でも!いくらなんでもこのままじゃ、私、酸欠で倒れる
ってば!
一向に動きを止めることなく私の唇を奪い続ける補佐に、私はな
んとか抵抗する。
﹁む、うー!うー!!﹂
頭も腕も腰も固定されていたので、唯一動ける足を使って補佐の
足を思い切り踏んだ︱︱︱しかもヒールの踵で。
補佐の足はしっかりとした革靴に覆われていたから、それほどダ
メージは与えられなかったかもしれない。
それでも、補佐のキスを止めることが出来た。
絡めた舌をゆるりと解き、補佐は私の口内から未練がましくゆっ
くり後退していった。
288
しばらくぶりに自由を取り戻した私の唇から、思わず大きなため
息が零れる。
﹁⋮⋮いきなり、何するんですかっ﹂
気付いた自分の想いと与えられた熱いキスが恥ずかしくて、私は
とても補佐と目を合わせられる状態ではなく、彼の肩に額を付けて
早口で愚痴った。
責めるように低く言えば、補佐はポツリと呟く。
﹁すまん、嬉しくて自制が効かなかった﹂
素直に謝るわりには、その口調は反省していないように感じる。
旋毛にキス攻撃
をかわすために頭をフルフルと左右に
ああ、もう、頭の天辺にキスしないでよ!
補佐の
動かせば、今度は頬ずりが始まった。だから、やめてってば!
﹁まったく、何考えているんですか。ここ、社内ですよ!﹂
︱︱︱いつ停電が直って、監視カメラが作動するか分からないって
のに、この上司様はーーー!
ギュウギュウと脚を踏みつけてやっているのに、補佐の動きは一
向に止まらず。
おまけに、補佐の発するオーラが甘く妖しくなった。
﹁それは⋮⋮、社内でなければいいということか?﹂
頬ずりをしたまま補佐が言う。
﹁は?﹂
ガバリと身を剥がして補佐を見上げれば、補佐の瞳に浮かぶのは
壮絶なまでに妖しい色。
﹁確かに、ここでは理沙を思いきり抱けないしな﹂
﹁はあっ!?﹂ 素っ頓狂な声を上げれば、補佐はキスのせいで少し赤くなった唇
289
を緩ませ、ニヤリと微笑んだ。
ブン、という鈍い音がして、エレベーター内の照明に明るさが戻
る。
止まっていたエレベーターが動き出しても、補佐は私を腕の中か
ら解放することなく︵頬ずりと旋毛にキスはかろうじて回避した︶、
扉が開く直前までその胸に抱きしめたままだった。
外は変わらず大荒れの空模様だが、ピッカピカに晴れて恋人同士
になった私と補佐。
そんな私たちが向かう先は⋮⋮⋮⋮、補佐の家!?
︱︱︱いやいやいやっ、いくらなんでも展開早すぎでしょ!私なん
て、ついさっき自分の気持ちを認めたところなのよ!
いつの間にか車に乗せられ、補佐の住むマンションの地下駐車場
に着いていたことに驚き、急いで車を降りようとする。 ﹁私、自分の家に帰ります!﹂
シートベルトを外してドアロックを解除しようとすれば、それよ
りも早く補佐の右手が上から私の手を押さえつけてきた。
助手席側のドアロックを補佐の右手が抑えているということは、
つまり、運転席から身を乗り出して私の上に圧し掛かっているとい
う状況。密着第二段炸裂である。
私が苦しくない程度に体重をかけ、絶妙に私の動きを封じながら
補佐が微笑む。
﹁ここまで来て、俺が理沙をすんなり帰すと思うか?﹂
やや崩れ落ちた前髪が切れ長の目にかかり、妖しさを一層醸し出
した。
290
︱︱︱ギャー、なんて黒い笑顔!
﹁か、か、帰すと思いますっ。補佐は紳士ですからっ﹂
往生際悪くガチャガチャと必死にドアロックを弄れば、その手を
補佐がグッと握り締める。
﹁ははっ、俺は君が思うほど紳士じゃないさ﹂
カラリと笑う補佐の背中には、大きく立派な黒い翼が。
︱︱︱確かにその微笑みは、紳士ではなく魔王ですよね!? ﹁いえ、でもっ﹂
どうにもならないと分かっていてもなかなか観念しない私に、補
佐はクツクツと喉の奥で笑う。
﹁⋮⋮煩い口は塞ぐぞ?﹂
そう言った補佐は私の唇を再び奪った。
291
︵45︶心が出した答え:4
上から圧し掛かられてされるキスは舌の侵入具合が深く、エレベ
ーター内で受けたキスより奥まで補佐の舌が入ってくる。
﹁ん、ふっ⋮⋮﹂
器用に動く補佐の舌先が私の上顎を擽ると、ゾクリと震えた。
私の舌を根こそぎ引き抜こうといわんばかりに吸われ、身体の奥
がジクリと疼く。
口内を補佐の思うがままに蹂躙され、雷への恐怖とは違う意味で
腰が抜けた私。
︱︱︱な、何なの⋮⋮?
こんなキス、今までにしたことはなかった。
ううん、激しいキスならされたことはある。
だけど、こんなにも心が攫われてしまうような感覚は初めてだ。
これがキスだというのなら、私がこれまでに経験したキスという
のはまるで子供の挨拶。
深く、熱く、そして官能をダイレクトに刺激してくる補佐のキス
に、私は翻弄される。 クタリと力が抜けてしまったことに気付いた補佐は、ドアロック
を開けようとしていた私の手から離れ、首筋をそっと撫でる。
﹁んっ﹂
眉を寄せてピクンと肩を跳ね上げれば、目を閉じていても補佐が
苦笑しているのが分かった。
﹁可愛いな、理沙は﹂
292
唇を離した補佐が耳元で囁く。
低く甘い声が私の腰を更に砕いた。
完全にぐったりとしている私を嬉しそうに見下ろしている補佐。
逃げ出したいのに身動き取れない私に安心して、悠然と車を降り
て助手席のドアを開ける。
﹁もう、帰るなんて言わないな?﹂
獲物を手の内に納めた捕食者の顔で、補佐は微笑んだ。
︱︱︱言いたくても、声が出てこないわよ⋮⋮。
それでも視線に力を込めて補佐を睨み返せば、優しく頭を撫でら
れる。
帰りたい
と口にしないほうがいい。何度も言うと、
﹁その挑戦的な顔、綺麗で惚れ惚れする。⋮⋮ああ、そうだ。俺の
前であまり
今から足腰立たないほど抱き潰して、一生俺の部屋から出したくな
い気分になるからな﹂
切れ長の目を細める補佐は、もはや紳士とは遥か遠くにかけ離れ
た存在に見えた。
補佐は私の背中と膝裏に腕を通し、いわゆるお姫様抱っこで私を
持ち上げる。
スーツの下には素晴らしい肉体が隠れているのを知っているし、
あのハイキックを見れば、相当武術に長けた人だというのは分かっ
293
ていた。
それでも、結構身長のある私を事も無げに抱き上げる補佐。
そんな恐ろしいほど逞しい補佐になんて、とてもじゃないけど逆
らえず、私は大人しく抱き上げられている。
でも、それは反論するのが怖いからじゃなくて、補佐の傍にいる
のが心地良いから。
だけどそれを口にするのがちょっと悔しくて、言ってあげない。
⋮⋮補佐に言ったら、絶対調子に乗りそうだからね。
補佐はビクともしない足取りで駐車場を抜け、マンションのエン
トランスにやってきた。
彼に抱っこされているのは好きだけど、いつまでもこのままでは
マズイ気がする。
こんな天気の夕方、駐車場内はもちろんマンション内に人影はな
いものの、いつどこで住人と顔を合わせるかもしれない。
流石にそれは恥ずかしい。
﹁あ、あの、補佐。そろそろ下ろしていただけませんか?逃げたり
しませんし⋮⋮﹂
チロリと見上げればキスされた。
﹁ダメだ﹂
そして一言で切り捨てられてしまう。
﹁ダメじゃないです!誰かに見られたら、流石に気まずいじゃない
ですか!﹂
﹁何が気まずい?仲の良いところを見せ付ければ良いだろ﹂
私を放す気配を見せず、備え付けられているエレベーターにすた
すたと乗り込んだ。
﹃下ろしてほしい﹄、﹃自分で歩ける﹄と口を開くたびにキスで唇
を塞がれる。しかも舌で口腔内をかき混ぜて、わざとらしくチュク
294
チュクと音を立てながら。 エレベーター内はもちろん、廊下を歩く最中も補佐は唇を離さな
い。
私は自分の置かれている状況が恥ずかしくてひたすら目を閉じて
いるが、補佐は目を開けているのだろう。そうでなくては歩けない
だろうし。
何を言っても聞いてくれない。
口を開けば濃厚なキスをされる。
こうなれば、もう黙るしかない。
私は万が一、マンションの住民と鉢合わせしても自分の顔が見ら
れないように、補佐の首に腕を回し、その襟元に顔をうずめた。
﹁そうやって、しっかりしがみついていろ﹂
補佐は膝裏に回した左腕一本で私を支え、右手でドアの鍵を開け
る。
さっき助手席から私を抱き上げた時もそうだが、補佐は軽々と私
を扱う。
最後に付き合った元彼と別れた際、平手打ちで大の男を伸してし
まった私だが、こういう扱いを受けると自分がか弱い女性になれた
ように思えて、ちょっと嬉しい。 嬉しいが。
補佐の家に初めて訪問して︵拉致とも言う︶、最初に腰を落ち着
けた場所がベッドの上って、どういうことですか!
立派な寝室に相応しい大きなベッドへ仰向けに押し倒され、手首
をガッチリと縫い押さえられて、私の焦りは最高潮。
この後何が起こるのか容易に想像つくが、それでも、想いが通じ
合ってその日のうちに、というか、ほんの1時間足らずで身体を重
295
ねるというのは初めてのことだ。
補佐に抱かれるのは嫌じゃない。
さっき受けたキスで、自分の身も心も補佐を受け入れているのは
理解できている。
それでも急すぎる展開にはついていけない。 ﹁お、お、落ち着いてください!﹂
どうにか補佐に思い留まってもらおうとするが、それはまったく
意味を成さない。
﹁好きな女を目の前にして、落ち着いていられる男なんているわけ
がないだろ﹂
手首を押さえつけ、膝をついている補佐が私を上から見下ろす。
そこには仕事中に見ることがなかった、どこか余裕のない顔があっ
た。 その様子に、私は更に焦る。
﹁ま、ま、ま、ま、待ってください!﹂
﹁嫌だ。待たないし、もう待てない⋮⋮﹂
補佐の瞳の奥に、今にも焦げ付きそうな情欲の光を見つけて、私
は二の句が告げなくなってしまった。
動けなくなった私に補佐は優しく微笑むと、首筋に唇を当て、そ
して吸い上げた。
途端にチリッと小さな痛みを感じる。
︱︱︱なに?
﹁綺麗に跡が付いたな﹂
今しがた唇を当てていた所に視線を落とし、やけに満足そうな声
の補佐。
︱︱︱え?跡?それってもしかして⋮⋮、キスマーク?!
296
痛みを感じた場所は、鎖骨より5センチほど上のところ。
ブラウスの襟からバッチリはみ出しているだろう。
﹁ちょ、ちょっと、何するんですかっ!﹂
﹁マーキングは雄の基本行動だろ﹂
そう言って、補佐は唇を少しずらして1つ、また1つと跡をつけ
てゆく。
身を捩って逃げようとするが、ガッチリと手首を押さえつけられ
ているので、それは叶わない。
﹁そんなところにつけたら、人に見られるじゃないですか!﹂
猛然と抗議をするも、補佐は綺麗に方頬を上げる。
﹁見えるところに付けているんだ。誰に何を言われても、堂々とし
ていれば良い﹂
︱︱︱無理っ!そんな大胆な真似は出来ません!!
﹁お、お願いですから、やめてくださいっ﹂
半泣きで懇願すれば、ようやく補佐が首元から唇を離した。 ︱︱︱よ、よかったぁ。分かってくれたのね。
そう安心したのも束の間、補佐は私のブラウスのボタンを上から
外してゆく。
﹁へ?﹂
唖然としているうちにボタンは3つほど外され、胸の谷間が晒さ
れている。
﹁見えないところなら、付けても良いんだろ?﹂
そう言って、補佐は私の胸元に唇を寄せた。 297
298
︵46︶心が出した答え:5
ボタンを外す為に離れていた補佐の手が、今度は手首ではなく、
私の肩を抱きすくめてガッチリ動きを封じた後、彼の舌が私の胸元
を這い回る。
今日の私はいつもよりカップの浅いハーフカップのブラを着けて
いた。
だから、仰向けに寝かされている今の状態は、胸の膨らみがあっ
さりと零れてしまう。
そんな胸元に補佐は尖らせた舌先を谷間に潜り込ませ、どこにキ
スマークを付けるのかを探るように、下着から出ている膨らみをゆ
っくりと辿った。
ハーフカップのブラとの境をじっくりと辿り、やがて心臓の真上
で舌が止まる。
そして、チロリとそこを舐め上げられたかと思えば、さっきと同
じような小さい痛みが。
少し顔を離し、眼下の跡を見遣る補佐。
﹁良い色だ﹂
満足気に言葉を漏らした彼は、その辺りを中心にキスマークを散
らしてゆく。
いくつ跡が付けられたのか分からないほど沢山の赤い花びらが散
った後、補佐は右の乳房に噛み付いた。
ビクン、と私の跳ねた背中が緩い曲線を描く。
キスマークを付けられた時よりも少し大きな痛み。だが、そこに
長引く苦痛はない。
背を反らしたことにより、胸がブラから零れ出た。
﹁なんだ?今度はここにキスしてほしいのか?﹂
クスクスと苦笑しながら、補佐が右の乳首にソッと唇を当てる。 299
キスで散々蕩けさせられた私の身体は、ほんの少しの刺激で反応
を示してしまった。
﹁んっ﹂
漏れたのは、鼻にかかった甘い吐息。
︱︱︱たったこれだけのことで、こんなにも簡単に声が出てしまう
なんて。
これまでに付き合ってきた彼とは、何度も身体を重ねてきた。 穢れを知らない処女でもないくせに、なぜ、こんなにも感じてし
まうのか?
なぜ、こんなに気持ちいいのか?
彼に与えられる刺激に戸惑いを覚えながら、ただ、短く喘ぐ。
補佐はツンと尖りを持った乳首にチュッと音を立ててキスを降ら
せ、次いで口に含み舌で転がす。 コロコロと舌で弄り、チュクチュクと湿った音を立てて吸われた。
﹁は、あぁ⋮⋮﹂ ﹁ふふっ。こんなことで感じてくれるなんて、可愛いなぁ理沙は﹂
すっかり姿を見せてしまっている胸の飾りを男らしい指でピンと
弾かれれば、ギュッと目を閉じてしまう。
﹁あ、んっ﹂
今度は吐息ではなく嬌声が漏れる。
﹁その顔、たまらない⋮⋮﹂
うっとりとした声音で補佐が言う。
﹁廊下でキスした時、理沙はずっと目を閉じていただろ?あの時の
顔、すっごいそそられた。今の顔でより一層煽られたよ。ほら﹂
そう言った補佐は自分の左手で私の右手を取り、彼の下腹部へと
導いてゆく。
300
そして、私の掌にはスラックスの上からもはっきりと形を示して
いる彼の昂ぶり。
﹁理沙はまだ胸しか見せていないのに、全裸にした元の彼女を抱い
た時よりも俺を硬くさせている﹂
クスッ。
クスクス⋮⋮。
微笑と共に、補佐は私の手に腰を押し付ける。
楽しそうな補佐に反して、私は戸惑いから抜け出せないでいた。
これまでに体験したことのない大きすぎる快感が、得体の知れな
い恐怖のように思えているのだ。
︱︱︱私、どうなってるの?これから、どうなっちゃうの?
補佐の体温は確かに心地良いのに、不安が拭えない。 閉じている目の奥が熱くなり、ジンワリと潤み始めた。 そんな私に、すかさず優しい声がかけられる。 ﹁理沙、大丈夫だ﹂
そしておでこに優しいキスが落とされる。
﹁怖いほど感じるのは、理沙が俺を求めているからだ。だからこん
なにも気持ちいんだよ。不安や恐怖を感じる必要はない﹂
胸先を補佐に指で摘まれ、おへその裏辺りがズクン、と疼いた。
﹁あっ﹂
たまらず補佐の首に腕を回してしがみ付く。
摘まれた乳首を親指と人差し指で捻り上げられれば、疼きは全身
へと広がってゆく。
少し強めの力でクリクリと捻りあげられ、ぷっくりと膨らんだ乳
首は更に敏感となり、大きく喘いでしまう。
﹁やぁん、んんっ!﹂
ギュウッと抱きついた私の耳元で、補佐が囁く。
﹁いい声だ。もっと聞かせろ﹂
301
彼が私の乳首の先端に爪を立てた。
ビリビリとした何かが、背筋を駆け上がる。
﹁あっ、はぁん。ダメ、ダメェッ﹂
感じすぎてしまったが故に滲んだ涙が、瞳をきつく閉じた拍子に
溢れ出た。
それを補佐は唇で吸い上げつつ、乳首に指先を押し付けてグリグ
リと回し弄る。
首を小刻みに振り、その刺激をやり過ごそうとするが上手くいか
ない。
﹁ん、んんっ、ふっ﹂
ポロポロと次々に零れる涙を、舌と唇で丁寧に拭う補佐。
﹁や、あんっ!﹂
甲高く叫んだ時、それに重なるようにして雷が鳴り響いた。
官能とは違う刺激が私を襲い、ビクッ、と身が縮む。
この寝室には東と南に面して窓があり、今は遮光カーテンが閉め
られている。
しっかりとした作りの生地の厚いカーテンではあるが、流石に音
までは遮ることが出来ない。
ゴロゴロと響く嫌な音が、断続的に聞こえてくる。
今まで意識があやふやになる程補佐に翻弄されていたのに、正気
に戻るどころか、恐怖に囚われそうになってきた。
時折耳に入る雷の音が怖くて、その度に身を竦ませる。
補佐はそんな私に呆れることなく、頬にかかった髪を静かに指で
払ってくれた。
﹁やっぱり怖いのか?﹂
涙の払われた目を開ければ、色気をその瞳に浮かべた補佐が落ち
着いた声で訊いてきた。
もうここはエレベーターの中ではないし、私は一人ではない。
それでも、あの強烈なトラウマをなかったことに出来るほど、あ
302
の時の恐怖は軽いものではない。
補佐の問いかけにコクリと頷けば、左右の瞼に軽くキスされた。
男らしく引き結ばれた彼の唇は、その見た目からでは信じられな
いほど柔らかく、触れられるほどに私の心も少しずつ、少しずつ柔
らかくなってゆく。
﹁大丈夫だ。雷が気にならないほど、俺が理沙を気持ちよくさせて
やるよ⋮⋮﹂
補佐が自分の首元から勢いよくネクタイを引き抜いた。
補佐は素早く上半身裸になると、私の上に圧し掛かる。
広い胸にはしっかりと筋肉がついていて、綺麗に割れた腹筋がカ
ッコいい。
二の腕はたくましく盛り上がり、骨太の肘下は筋が目立って色気
すら感じさせる。
すぐ目の前に現れた美しい男身に息を飲んでいると、補佐の顔が
近付いてきた。
私が静かに目を閉じると、遠慮なく彼の舌が私の口腔内に滑り込
む。
キスに翻弄されているうちにブラウスのボタンは全て外され、ブ
ラは取り去られた。
唇から耳へと彼のキスが移った頃には、私のスカートとストッキ
ングが完全に脱がされていた。
はないだろ?俺のことは名前で呼べ﹂
大きな手が私の胸を揉みしだく。
補佐
﹁あんっ。ほ、補佐⋮⋮﹂
﹁こら。ここに来て
耳たぶを甘噛みしたり、舌先を耳に差し込んだりしながら囁いた
ハンパない彼の艶声が脳に直接響く。
303
胸の形が変わるほど下から上に揉まれ、親指の先で乳首を嬲られ、
私は名前を呼ぶことなど出来ない。 ﹁あっ、ん、んんっ﹂
﹁理沙、早く﹂
意地の悪い笑みを浮かべて、補佐が言う。
﹁ほら、呼んでごらん?﹂
耳をベロリと下から舐め上げられる。
大きな手で鷲摑みにされた私の胸は円を描きながら揉まれ、それ
に喘ぐ私の様子を伺う補佐。
私が彼の名前を呼ぶまで、この悪戯は続くのだろう。
私
に居場所を与えてくれた彼の名前を言葉にした
押し寄せてくる快楽の波から逃れたくて、そして、コンプレック
スの塊だった
くて、震える唇を動かした。 ﹁はぁ、んっ。う、ふっ⋮⋮、た、忠臣さ⋮⋮ん。忠、臣さんっ﹂
喘ぎの合間に、たどたどしいながらもどうにか名前を紡ぐ。
すると彼は、色気よりも嬉しさを露にした笑顔で
﹁理沙、好きだよ﹂
と、甘く囁いてくれた。
304
︵47︶心が出した答え:6
私も彼も既に何も身に纏っておらず、ピタリと合わせた素肌から
は忠臣さんの体温が伝わり、少し早くて力強い彼の鼓動が私に伝わ
ってくる。
そんな彼の鼓動の何倍も大きく早く、バクバクと鳴り響いている
私の心臓。
雷に対する恐怖は、どんなに彼からキスを受けても、いまだに軽
減されていない。
でも、忠臣さんに抱かれる恐怖は一切なかった。
舌を絡めるキスを与えられ続け、口腔内を掻き混ぜられるたびに
大きな水音ばかりが私の耳に届く。
今の私の耳に聞こえるのは、艶っぽい水音と自分の吐息だけだっ
た。
吐息ごと攫われるキスは嬉しいけれど、その分苦しいのだ。
思わず私は首を横に振って空気を求めるもののそれは許されるこ
となく、深く強いキスが続く。
﹁ん、ふ⋮⋮﹂
苦しさのあまり私の眉が寄るが、それを間近で見ているにも関わ
らず、彼の舌は一向に私の口腔内からは出て行ってはくれない。 ﹁こうしていれば、雷の音など聞こえないだろ?﹂
僅かに唇を離して、彼が低く甘く囁く。
そしてすぐさま唇が重ねられた。
意地が悪くて強引な忠臣さん。
だけど、彼の仕草はどこまでも優しかった。
向けられる眼差しも、囁かれる声も、重ねられる唇も、触れてく
305
る手も、すべてが優しくて、どんな私でも丸ごとすっぽりと包んで
くれる。
︱︱︱これまで付き合ってきた彼たちとは、ぜんぜん違う⋮⋮。
忠臣さんの優しさと温かさに心がフワッと軽くなったと感じた時、
彼がボソリと言った。
﹁今、何を考えていた?﹂
何だか不穏な物言い。
﹁あ、あの、忠臣さんの手が優しいなって⋮⋮﹂
正直に答えたら、彼が不機嫌な空気を纏い始めた。
﹁それは、これまでに付き合ってきた男と比べてということか?﹂
素直にコクン、と頷けば、忠臣さんの眉間の皺がグッと深くなっ
た。
︱︱︱どうして?元彼より良いって褒めたのに?
急に機嫌の悪くなった忠臣さんに戸惑い、不安そうに見つめてい
れば、彼は大きなため息をついた。
﹁比べるということは、前の男のことをまだ覚えているということ
だな﹂
﹁そう⋮⋮なりますかね?で、でも、忠臣さんの仕草は元彼よりず
っとずっと優しくて、その⋮⋮好きですよ﹂
恥ずかしさをおして告げたのに、彼の機嫌は全く良くならない。
﹁俺が言いたいのは、誰かと比べて自分が勝っているということで
はなく、理沙の中に俺以外の男の記憶が残っていることが腹立たし
いって事だ﹂
チッと短い舌打ち混じりに、苦々しく忠臣さんが言う。
︱︱︱そ、そう言われても⋮⋮。
306
そんな態度の彼にどうしたらいいのか、何を言えばいいのか分か
らなくて、口を噤むしかできないでいる私。
すると、フッと自嘲気味に忠臣さんが笑った。
﹁まぁ、いい。前の男共がどうだったか思い出せないくらい、理沙
の中を俺だけ満たしてやろう﹂
ニヤリと笑う彼の瞳の奥に狂気とも言える色が見て取れたのは、
気のせい⋮⋮ではないかもしれない。
私に圧し掛かるように上に乗っている忠臣さんにキスをされなが
ら、彼の左手は私の胸の突起を摘んでは捻り、絶妙な刺激を与える。
そして右手は愛液で濡れそぼる秘部へと忍び込んでいた。
少し骨ばった長い指が割れ目に沿って上下に動いていて、時折わ
ざとらしくクリトリスを掠める。
途端にピリリという痺れるような刺激が背筋を駆け上がった。
﹁あ、んんっ﹂
身を捩ろうにも動きを封じられていて逃げることも出来ず、せめ
て顔だけでも背けようとしても、彼の唇と舌が更に強く私を押さえ
込む。
私の反応に気をよくしたのか、忠臣さんは執拗に割れ目を丹念に
撫でる︱︱︱やんわりと、もどかしい力加減で。
それがたまらなくじれったくて、余計に私の悦楽が高められてゆ
く。
﹁ん、ふ、うぅ⋮⋮﹂
くぐもった喘ぎが止まらない。
307
︱︱︱ずっとこんな風にされていたら、頭がおかしくなっちゃう。
欲情を叩きつけるみたいにもっと即物的に抱かれるのかと思って
いたのに、じっくり味わうように愛撫される。
それは優しさではなく、むしろ意地悪かもしれない。
︱︱︱早く楽になりたいのに。
許しを請うように、彼の舌に自分から舌を絡めた。
そんな私に、忠臣さんが小さく笑う。
しばらく舌を絡めあった後に唇を放した彼は上体を起こして肘を
つき、私を見下ろした。
﹁こら、煽るなよ﹂
﹁煽ってなんか⋮⋮﹂
渦巻く快楽が涙となって表面化し、治まっていた雫が再び視界を
濡らす。
﹁泣くな、理沙﹂
﹁そ、そんなこと言われてもっ﹂
子供のようにグスグスと鼻を鳴らしていると、彼は口角をゆるく
持ち上げた。
﹁ったく。理沙に泣かれると、⋮⋮思いっきり啼かせたくなるんだ
よ﹂
という囁きと共に、忠臣さんの硬くそそり立った剛直が私の秘部
にめり込んできた。
﹁あっ、ああーーーっ!!﹂
内側から容赦なく押し広げられる苦しさに、私はあられもない悲
鳴を上げてしまう。
脚を左右に大きく開かれ、その間に割り入った忠臣さんが一気に
308
腰を叩きつけた。
同時にガツン、という互いの肌が勢いよくぶつかる鈍い音が聞こ
える。 愛液でグッショリ濡れていても充分には解されていなかった私の
ナカは彼のペニスを排除しようと狭まるが、それをものともせず、
ほどなくして彼は私の最奥に到達した。
﹁せっかく、ゆっくり理沙を抱こうと思っていたのに﹂
根本までペニスを収めた忠臣さんが、悔しそうな口調のわりには
嬉しそうな顔をしている。
私の足を肩に担ぎ上げ、クスリと笑いながら指先で私のウエスト
の括れをなぞった。
﹁理沙のナカをもっと指で掻き混ぜて、クリトリスを舌で舐め上げ
て、もっともっと感じさせてから挿れようとしたのに、理沙が煽る
から。⋮⋮理沙が悪いんだぞ?﹂
なぞっていた指が私の腰を掴み、一呼吸置いてから忠臣さんが微
笑みながらズクッ、ズクッと突き上げる。
﹁あ、う⋮⋮、きつ、お、大きい⋮⋮﹂
大きくて硬くて熱くて、息が出来ないほどの圧迫感に、私は浅く
喘ぐ。
私の言葉を聞いて、フッと忠臣さんが片頬を上げた。
ちょうどいい
と思われるほうがいい﹂
﹁大きいと言われるのは男として嬉しくもあるが、出来れば理沙に
とって
忠臣さんが右手で私と彼が繋がっている部分をソロリと撫でる。
そして、今まで聞いた中で一番艶めいた声で忠臣さんが囁いた。
﹁まぁ、今日は金曜日だし、時間はたっぷりあるしな。馴染むまで
抱いてやるよ﹂
309
310
︵47︶心が出した答え:6︵後書き︶
●野口氏は嫉妬深く、理沙に関しては独占欲の塊です。
理沙ちゃんの記憶に中に自分以外の男がいることが許せないほど、
狭量な男なのですよ︵苦笑︶
311
︵48︶心が出した答え:7
焦らされた私の身体は、簡単に高みに押し上げられた。
すぐに一度目の絶頂を向かえ、これで楽になれるとホッとした私
にも拘らず、間髪入れず二度目の絶頂がもたらされ、今の私は陸に
上がった魚のように喘いでいる。
なのに、彼の腰の動きは一向に留まることを知らない。
私を解放する為に突き立てられた剛直が、逃げどころのない快楽
への高みへとひたすらに私を追い込んでいた。
﹁お、お願い。も、もう⋮⋮﹂
﹃止めて﹄と続ける前に、忠臣さんが同じ体勢のまま私を三度目の
絶頂に導こうと暴れ出す。ちなみに彼は、まだ一度もイってない。
恐るべき持久力だ。
止め度なく溢れる愛液が伝い零れ、忠臣さんのペニスが抜き差し
されるたびに、ジュプ、クチュ、といやらしい音が響く。
耳に絡みつくような淫音と共に、強く強く内壁が抉られた。
そしてガチガチに硬い忠臣さんのペニスの先端が、私の弱いとこ
ろを執拗に攻め立てる。
﹁は、あぅ⋮⋮﹂
目の前がチカチカする。
頭の芯がクラクラする。
焦点の合わない私の目線が、ボンヤリと寝室の天井を捉えた。
救いを求めるようにシーツの上で力なく手を彷徨わせれば、忠臣
さんが動きを止める。
﹁そんなものを掴むより、俺にしがみつけ﹂
憮然とした表情で忠臣さんが言った。
312
キュッとシーツを握り締めている私の指を彼がやや乱暴に解き、
そして自分の首に回させる。
﹁俺以外見るな。俺以外触るな。理沙のすべては俺のものだ、忘れ
るな﹂
唸るように低くそう告げた彼は私の背に腕を潜り込ませ、そして
抱き起こすと同時に膝の上に私を乗せた。
自分の体重がかかることで、ズブズブと忠臣さんの剛直がいっそ
う容易く飲み込まれていく。
これ以上奥に侵入するのは無理だろうと思っていたのに、更にそ
こで忠臣さんが下から腰を突き上げた。
その突き上げは一度では止まず、何度も何度も奥の奥まで猛るペ
ニスに犯される。
﹁やっ⋮⋮、ああんっ、ん、くぅっ﹂
激しい快感に強く目を閉じれば、色々な光が瞼の裏でスパークす
る。 私の中で暴れる忠臣さんの欲情の塊は相も変わらず大きくて硬く
て、感じる圧迫も相変わらず。
それでも、彼の剛直は私のナカに馴染みつつある。
焦げ付くような欲情の渦に巻き込まれながら、私はどこかで聞い
た﹃身体の相性﹄という言葉を思い出していた。
今の私の身体は、まるで忠臣さんを受け入れる為にあるようだと
感じ始めている。
それはまるで、ピタリとはまる鍵と鍵穴のよう。
鍵はスペアを作れるけれど、スペアからスペアは作れない。
マスターキーとなれるのは1つきり。
そのマスターキーが、私にとっては忠臣さんなのかもしれない。
自分の唯一に巡り会えて、私は自然と顔が綻んでいた。
313
﹁ほう。考え事をする余裕がまだあるのか?なら、もっと動いても
平気だな﹂
逞しい腕で頼もしい胸に抱きこみ、忠臣さんは上下に私を揺さ振
りながら不適な笑みを浮かべて訊いてくる。 これだけ激しく動いているのに、彼はほとんど息を乱していない。
そんな忠臣さんの体力についていけそうもなく、私は振り落とさ
れないようにだるい腕でどうにかしがみついているのがやっとだ。
﹁あんっ、ん⋮⋮、だ、めぇっ﹂
我ながら悩ましげな嬌声が口をつく。その声は切羽詰っていて、
もうまもなく3度目の絶頂が訪れるだろう。
﹁やっ、ああっ、べ、別に、悪いこと⋮⋮とか、考え、て、ない⋮
⋮。はぁ、あんっ﹂
私の弱い所や最奥をこれでもかといわんばかりに剛直で弄られ、
短い言葉ですら滑らかに紡げない私。
身体の奥から溢れ来る快楽の波を受け止めようと、うっすらと汗
ばむ彼の首筋に顔をうずめた。
そんな私の髪を愛おしそうに撫でて、彼が耳元で囁く。
﹁何も考えるな。考える暇がないほど、もっと俺に溺れろ、理沙﹂
そう言った忠臣さんはこれまで以上に激しく腰を打ちつけてきた。
造りの良いベッドが、彼の動きに合わせてギシギシと軋む。
絶妙なスプリングが彼の腰の動きに勢いを与え、それにより私の
ナカには限界まで彼が入り込む。
﹁いやっ、ん、あっ、ああっ!﹂
搾り出された甲高い嬌声が私の口から零れた時、ようやく忠臣さ
んが熱い欲情を迸らせた。
314
目が覚めた時はすでに雷の気配はなく、カーテンの隙間からそっ
と洩れいずる陽の光が朝を告げていた。
︱︱︱あれ、もう朝?私、いつの間に寝てたんだろ?
三度目の絶頂後の記憶が曖昧だ。
薄れ行く意識の中で、﹃まだこれからだ。理沙は3回イッたが、
俺はまだ1回だけなんて、そんなの不公平だろ?﹄と、超絶的な艶
声で囁かれたのは夢だったのだろうか。
寝起きの悪い私の頭は絶好調に回転が悪く、肌触りのいい羽毛布
団の中でボンヤリとしている。
モゾリ、と小さく身じろげば、後ろからソッと抱きしめられる。
何も着ていない私の背中に、同じように何も着ていない裸の彼の
胸が当たった。
﹁理沙、起きたのか?﹂
少し掠れたその声は、意識を飛ばす直前に聞いたものと同じ。
﹁え?﹂
首を捻って振り向けば、頬に唇が押し当てられた。
﹁おはよう﹂
声をかけてきたのは我が上司様であり、昨日めでたく恋人となっ
た忠臣さん。
いや、まぁ、この状況で彼以外に声をかけてくる人がいたら、そ
れはそれで大問題だけどね。
緩く抱きしめられていたので、私は彼の腕の中で方向変換した。
モゾモゾと忠臣さんに向き直り、朝のご挨拶。
﹁おはようございましゅ?﹂
目は開いているのに、寝覚めていない頭と異様なほど疲れきった
身体は、相当に反応が鈍い。
315
って﹂
どこかポヤンと彼の挨拶に応えれば更に抱きしめられ、チュッと
しゅ
音を立てて唇の横にキスされた。
﹁何で疑問系なんだ?それに
おかしそうに笑いながら、忠臣さんは何度もキスをしてくる。
何でと言われても、まだ寝ぼけている私には良く分からない。パ
チクリと瞬きを繰り返し、軽く首を傾げる。
そういえば、恭子が﹃理沙って眠い時は子供になるよねぇ。言動
とか、思考とかさ。そのギャップ、すっごい笑える﹄って言ってた
なぁ。
少しずつ戻ってくる意識の中、これからはそんな自分を改めるべ
きだろうかと考えていたら、
﹁その顔、可愛いな﹂
という呟きと共に唇が塞がれる。
しっとりと重ねられた彼の唇は、やっぱり優しい。
ひとしきりキスされ、ようやく離れた目の前の彼を見つめている
と、穏やかに微笑まれた。
﹁どんな理沙でも、俺は愛してる。だから、何も変わることはない。
変える必要もない。分かったな?﹂
念を押すように低く問われてコクンと頷けば、﹃いい子だ﹄と言
って、忠臣さんがまたキスをしてくる。
でも、今度のキスは朝のご挨拶にしては深く、念入りで、当然の
ように忍び込んだ彼の舌が私の舌に絡みつく。
そして、背中に回っていたはずの彼の右手が私の胸を揉みしだき、
左手はそのまま下に滑り降りてお尻を撫で始めた。
﹁う、んっ、ちょ、ちょっと、待って⋮⋮。あ、あんっ﹂
官能的な刺激に息が弾む。
馴染むまで抱く
って。理沙が起きるまで待
そんな私にニヤリと口を歪める忠臣さん。
﹁夕べ言っただろ?
ってやったんだ、もう、待たない﹂
ようやく目覚めた脳が彼の言葉を思い出し、そして本気が宿る忠
316
臣さんの視線を浴びて快楽とは違う震えに襲われる。
﹁いやっ、あのっ、も、もう、十分馴染んでいるかと⋮⋮﹂
今からあんなに激しく抱かれるのは無理だ、勘弁してほしい。全
身の筋肉と関節が悲鳴を上げている。
蒼白になった顔で忠臣さんを見遣ると、﹃そうか?﹄と短く返さ
れた
﹁は、はいっ、だから、このまま大人しく寝かせてくださいっ﹂
彼の胸に手を付き、グイッと腕を伸ばして忠臣さんとの距離を取
ろうとすれば、柔らかい双丘の間から滑り込ませた彼の指が、ぬめ
りの残る私の秘部を弄り始める。
﹁その前に、本当に馴染んでいるのか確かめないとな?﹂ クツクツと笑う忠臣さんの背中に、昨日見た大きな黒い翼が優雅
に羽ばたいている。
彼と付き合うことを決めたのは、早まったかもしれない。
317
︵48︶心が出した答え:7︵後書き︶
●ようやく、第1部を書き終えることができました。
ここまでお付き合いくださった読者の皆様、ありがとうございます。
これでどうにか野口氏の視線で、みやこの頭が禿げる事態は避けら
れそうですよ。
やれやれ。
⋮⋮いや、﹃この程度で俺が満足すると思っているのか?このダメ
作者が!﹄とか言って、さらに呪われそうな気配が︵滝汗︶
さて、晴れて恋人同士になった理沙ちゃんと野口氏。
これから思う存分、野口氏に暴走させることができます。
なにしろ、彼氏ですからね。正々堂々と理沙ちゃんを弄り倒せるわ
けですよ。何をヤっても許されるはずですよ︵ニヤリ︶
だから野口氏、みやこの後頭部を殺人的視線で射抜くのはもう止め
てください︵号泣︶
これからしばらくは、2人の甘々なイチャつきを書こうかと思って
います。
理沙ちゃんにとって甘いかどうかは、甚だ疑問ではありますが⋮。
それでは皆様、これからもどうぞ温かく見守ってあげてください。
318
︵49︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :1
落雷による停電が原因で会社のエレベーターに閉じ込められ、過
去に体験した恐怖が生み出した渦の流れのままに自分の想いに気付
いて、そして補佐⋮⋮じゃなかった、忠臣さんと恋人になった私は
今、彼の腕の中に閉じ込められていた。
昨日の夜に3回イかされ、朝は目が覚めたところでもう1回。
散々抱き合ったにも拘らず、彼はしつこいほど私にまとわりつく。
そしていまだにベッドの中。
ベッドヘッドに置かれたデジタル時計は、もう9:07を指して
いた。
﹁そろそろ放してもらえませんか?﹂
私の後頭部と腰に手を回して抱きしめてくる忠臣さん。なので、
今の私は彼の肩口に顎を載せているような体勢。
相当長い時間密着しているのに、彼は飽きもせずに、ひたすら私
を腕に抱きこむ。
﹁あの、忠臣さん?﹂
彼の名前を呼べば、即座に
﹁嫌だ﹂
と返ってきた。
﹁もう、ずっとくっついているじゃないですか﹂
呆れ顔で返せば、
﹁理沙がトイレに行く時とシャワーを浴びる時は放してやっただろ。
だから今はくっついていたいんだよ﹂
と、悪びれもせずに言ってのける彼に、私は大きく息を吐いた。
319
この人、トイレは流石に入ってこなかったものの、シャワーを浴
びようとする私と一緒にお風呂場に入ってこようとしたのだ、当然
といった顔で。
脚のふらつく私の腰に腕を回して支えてくれた忠臣さんは、脱衣
所まで連れてきてくれた。
﹁ありがとうございます。じゃ、シャワー借りますね﹂
ちょこんと頭を下げた私は、忠臣さんが出て行ってくれるのを待
つ。
が、彼は一向にその場を動かない。
この時の私は、タオル地の薄い肌掛けをグルグルと巻いて肌を隠
していた。
しかし、入浴となれば裸になる。
電気のついた明るいお風呂場で彼の目に晒されることになるなん
て、そんなの、恥ずかし過ぎる!
﹁脚取りもだいぶしっかりしてきましたし、私、一人で大丈夫です
よっ﹂
﹁いや、俺も入る﹂
そう言って、彼は着ているバスローブを脱ぎ始めた。
﹁はぁ?!忠臣さんは先にシャワーを浴びたじゃないですか?!﹂
私はとっさに彼の手を掴んで、動きを止める。自分の裸を見せる
こともそうだが、彼の裸を見ることも羞恥の極みだ。
なので必死で忠臣さんの着るバスローブの襟元を掴んでいる。
しかし彼はそんな私の様子を楽しむかのように、クスクスと笑い
続けていた。
﹁理沙の身体を洗ってやる﹂
﹁い、いえ。自分で出来ますからっ﹂
﹁遠慮するな﹂
﹁遠慮じゃなくって、恥ずかしいから嫌なんです!お願いですから、
320
部屋に戻ってください!!﹂
思いつく限りの言葉で彼を宥め賺し、なんとか1人でシャワーを
浴びることに成功した私だが、洗面室を出たところで待ち構えてい
た忠臣さんに捕獲され、再びベッドの中に戻らされたというわけだ。
ちなみに、今の私はサラサラと肌さわりのいいバスローブ。脱衣
所にバスタオルと共に用意されていたこれは、多分シルクだ
忠臣さんも私と同じバスローブのサイズ違いを纏っている。
この年になって、恋人とお揃いを着るなんてちょっと恥ずかしい
が、凄く嬉しかったりする。
そういえば、恭子には﹃理沙には乙女的思考が備わっている﹄と
言われてたっけ。なのに、お酒のおつまみにイカの燻製をチョイス
する親父的思考も同時に装備。
︱︱︱私って、変よね?
どうでもいいことをツラツラと考えていた私だが、現在、深刻な
問題がわが身に降りかかっていた。
︱︱︱お、お、お腹空いた⋮⋮。
思い返せば、昨日の夕方に拉致され、激しく抱かれた後は気を失
い、寝覚めたところで4回戦が始まってしまい、シャワーを浴びた
後はこうしてベッドに連れ込まれている。
私を正面から抱きこみ、額にキスを降らせ続けている彼に、おず
おずと申し出た。
﹁あ、あのっ、お腹空きました﹂
何とも色気のないセリフだが、私の胃袋が切実に食料を要求して
いるのだ。
321
だが、彼は笑うことも馬鹿にすることもしない。
﹁流石に俺も空腹だ。何か用意しよう﹂
そう言った忠臣さんは私をギュッと抱きしめた後、ベッドから抜
け出た。
﹁あっ、私が作ります﹂
シャワーを浴びて気分的にはすっきりしたものの、いまだにだる
さの残る身体を起こせば、
﹁気にせず横になっていろ﹂
と、髪をサラリと撫でられる。
﹁ですが、女の私が食事の用意をするべきかと⋮⋮﹂
元彼たちに散々言われてきた。﹃女なんだから家事をやれ﹄と。
なのに忠臣さんは小さく笑って、当たり前の顔をしてこう言った。
﹁料理でも洗濯でも、手の空いている方がやればいいだろ。そもそ
も、女だから家事をこなす、男だから家事をしなくてもいいなんて
考え方はおかしい。
以前の日本は男性が外で懸命で働き、その分女性が家を守るとい
う社会だった。だから、家事は女性の担当という考え方が根付いた
家事は女の仕事だ
というこ
のかもしれないが、現代社会では女性も社会進出し、世の中も変わ
ってきている。それなのに、いまだ
とに固執する男供の考え方は、あまりにも古過ぎる。性別に縛られ
ることじゃないんだよ。分かったら大人しく寝ていろ﹂
私の額にかかる前髪をソッと払ってチュッとキスをすると、忠臣
さんは寝室を出て行った。
︱︱︱私、甘やかされてる?
彼の言動は全体的に強引なのだが、大事にされているというか、
尊重されているというか。
322
今までの彼氏たちとはまるで違う扱われた方に戸惑う一方、彼氏
の意見に合わせたり、自分の外見に合わせたりする必要がないこと
がすごく嬉しい。
ただ⋮⋮。
嬉しくて枕をギュッと抱きしめていたら、いつの間にか傍に来て
いた忠臣さんに勢いよく枕を奪われた。
﹁俺以外に抱きつくな!例え枕といえども、許さん﹂
その独占欲はちょっと困る。
323
︵49︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :1︵後書
き︶
●ちょっと間が開いてしまいましたが、連載再開です。
﹁甘々な二人が見たい﹂
﹁理沙ちゃんが甘やかされるシーンが読みたい﹂
といったリクエストが寄せられましたので、書いてみたのですが
⋮。
大丈夫でしょうか?︵ドキドキ︶
324
︵50︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :2
﹁食事が出来たぞ﹂
そう言った彼は、手にしていた枕を放り投げる。ボフン、と音を
立てて枕が床に落下すると、ちょっと満足そうだ。
︱︱︱枕にまで嫉妬するなんて⋮⋮。
哀れにひしゃげた枕を見て呆気にとられていたら、忠臣さんがベ
ッドに片膝を着いて上半身だけ起こしたこちらに身を乗り出してき
た。
そして首の後ろに手を回した彼に引き寄せられ、唇を重ねられる。
あっという間もなく、スルリと忍び込んできた舌にチュクリと口
腔内をまさぐられた。
絡め、擦られ、鎮火した官能の炎を焚きつけようとしているのが、
彼の舌の動きから伝わってくる。
﹁あ、ふ⋮⋮﹂
僅かにずれた唇の隙間から、色付き始めた吐息が洩れた。
このまま流されてしまえば、確実に5回戦が始まってしまう。
︱︱︱お腹空いてるんだってば!
勢いを付けた拳でドン、ドン、と忠臣さんの胸を叩いて抵抗する
と、舌先を甘く噛まれてから彼が渋々と離れていった。
﹁何なんですか、いきなり!食事はどうするんですか!?﹂
キスは止めてくれたものの、抱きしめることは止めてくれなかっ
た忠臣さんが、ほんの少し拗ねたように言う。
﹁仕方ないだろ、理沙の唇が誘うんだから﹂
325
彼の視線が私の唇に落ちる。
﹁はぁっ?!誘ってませんけど!﹂
何を言い出すのだ、この人は。お腹が空き過ぎて、私が幻聴を聞
いているのか、はたまた、彼が幻覚を見ているのか。
そんなことはどうでもいい。とにかく、今は食事だ。
私のお腹の虫が盛大な唸り声を上げる前に、一刻も早く何か口に
しなければ。
彼の胸をグイグイと押しやれば、放すまいと忠臣さんが背中に回
した左腕に力を入れる。
そして、右手の親指で私の唇の輪郭をなぞる。
﹁誘ってる、こんなに赤く腫らして﹂
右から左へ、そして左から右へ。緩慢な動きで、指を滑らせる。
ただそれだけのことなのに、ゾクリ、と背中が粟立つ。
﹁そ、それはっ、忠臣さんが何度もキスするから!﹂
プイッと顔を背けてツンと言えば、
﹁ふぅん、俺のせい?﹂
と、どこか楽しげな忠臣さん。
﹁そうですよ!!あんまり触らないでください!少し痛いんです!﹂
擦り傷を負った時のように、ヒリヒリとした痛みを訴える私の唇。
更にツンとした口調で告げれば、忠臣さんは右手で私の顎を掴ん
で半ば強引に視線を合わさせる。
﹁⋮⋮なら、俺が責任取らないとな。舐めて治してやる﹂
治療という名の恥辱
を受けていた
彼の口元から覗く赤い舌が、チロリと淫猥な動きを見せた。
それから暫く彼の舌による
が、限界を迎えた私のお腹がとうとう声高に存在をアピールした。
クルルルルル⋮⋮。
その音を耳にした私は、彼から与えられる官能とは別の意味で恥
326
ずかしくなった。
﹁す、すみません⋮⋮﹂
居たたまれなくなった私が小さく謝罪を口にすると、忠臣さんは
顔を顰めるどころか、優しく微笑んでクシャリと私の頭を撫でた。
どころか、
随時
撤退していただきたい。
﹁理沙は腹の虫の音まで可愛いな。さて、一時撤退して食べるか﹂
一時
そう思うのは、私のわがままでしょうか? 時計を見れば9時半になるところだ。
﹁もう、食事が出来たんですか?﹂
寝室を出てから10分ほどしか経ってない。
私であれば、おそらくインスタントラーメンくらいしか用意でき
ないだろう。
髪を撫でる忠臣さんを見上げれば、苦笑を漏らす。
﹁たいした材料がなくて簡単なものしか用意できなかったが、まぁ、
味に問題はあるまい。それより立てるか?﹂
問いかけられてゆっくりベッドの脇に立ち上がるが、少し脚がふ
らついてしまった。
でも、この位なら大丈夫だろう。ちょっとそこのリビングに行くだ
けだし。
と思っていたら、素早く横抱きにされた。
﹁だ、大丈夫ですって。歩けます!﹂
急に高くなった視界に私が驚けば、落ち着けとばかりに額にキス
される。
﹁いいんだ、俺が理沙を抱き上げたいだけだから﹂
327
間近でどうにも恥ずかしいセリフを囁かれ、私は彼の腕から抜け
出そうと身を捩ると、忠臣さんの口角がニヤリと上がった。
﹁いいのか?見えるぞ﹂
︱︱︱そうだった!
私の下着は、乾燥までやってくれる全自動洗濯の中で回っている
最中。下手に抵抗すれば、バスローブの下の裸が見られてしまう。
﹁うぅ、大人しくしてますぅ﹂
ローブの前身ごろをかき合せて身動きしなくなった私を見て満足
そうに微笑んだ忠臣さんは、スタスタと歩いて寝室を後にすると、
リビングに置かれているソファーに私をそっと下ろした。
﹁今、持ってきてやるから﹂
彼の後姿を見遣った私は、そのまま視線を室内に巡らす。
なにしろ昨日は寝室に直行だった為、部屋の様子を伺う余裕など
なかった。
男性の1人暮らしの割には片付いていて、私の部屋よりも綺麗か
もしれない。あんパンの空き袋も見当たらない。
余計なものはなく、すっきりとした室内。
家具はそれなりにいいものだろうが︵何しろ部長補佐だから、給
料も良いはず︶、華美な印象はなく、どれもこれも趣味がいい。
︱︱︱なんとなくムカつくわね。顔もスタイルもよくて、仕事が出
来て、包容力があって、たくましくて、オマケにセンスがいいなん
て。欠点の1つぐらい見せなさいよ!
自分の恋人が素敵彼氏なことを誇らしく思うのではなく、なぜか
腹が立ってきた私は唇を尖らせて盛大に膨れていると、忠臣さんが
トレイになにやら載せて戻ってきた。
彼も相変わらずバスローブ姿。下着を着けているのか少々気にな
328
るところだが、あえて訊かない。
下手なことを口にして、﹃そんなに気になるなら、ベッドの上で
見せてやる﹄とか言い出して、5回戦が始まっては困る。
﹁本当に簡単なもので悪いな。だが、腹の足しくらいにはなるだろ
う﹂ 私の隣に座った忠臣さんが差し出してきた皿には、こんがり焼け
たホットサンドがあった。
具はハム、レタス、スライストマトにスライスオニオンとチーズ。
半分に切られた断面から、綺麗に収まっているのが見える。
渡されたお絞りで手を拭いて、頂きます、と頭を下げた。
パクリ、と齧り付いた私の顔がとたんに綻ぶ。
﹁美味しいです!﹂
お世辞ではない私の表情に、
﹁残り物の有り合わせだから、そんなに喜ばれると返って恐縮する
な﹂
珍しく忠臣さんが照れている。
貴重な彼の表情を眺めつつ、私はどんどん食べ進めた。美味しい
ので、止まらないのだ。
一切れ食べ終えたところで、オレンジジュースの入ったグラスを
渡される。市販品ではなく、絞りたてのフレッシュジュースだ。
それを一口コクンと飲んで、ホゥッと息をつく。 ﹁本当に料理の上手な人って、そこにある材料でパパッと作れる人
だと思うんですよ。有り合わせでこんなに美味しいものが作れるな
んて、凄くうらやましいです。パンに塗られたソースは何ですか?﹂
﹁マヨネーズに刻んだアンチョビとガーリックパウダー、レモンジ
ュース、生クリーム。後は塩、胡椒だ﹂
どれも家庭にあるものだが、私ではその組み合わせは思いつかな
329
い。
︱︱︱ホント、完璧な恋人だわ。それに引き換え私は⋮⋮。
さっき感じた腹立ちはどこかに消え、自分がとてつもなく情けな
くなってきた私は、急に顔を曇らせる。
そんな私の顔を心配そうに覗きこむ忠臣さん。
﹁どうした?気分が悪いのか?﹂
違うという意味で、私は首を横に振った。 ﹁私、ぜんぜん出来ないから⋮⋮。忠臣さんは仕事も家事も出来ま
す。でも、私はいろんなことが中途半端で⋮⋮。どんなに頑張って
も料理で大失敗しますし﹂
彼との差をまざまざと見せ付けられ、すっかり気落ちしてしまっ
た私の頭を、忠臣さんが優しく撫でる。
美味しい料理を作ろう
と、頑張る姿勢が大事だ。努力してい
﹁落ち込むようなことじゃない。結果は、まぁ、よくなかったにし
ろ
れば、何事も上達する。気長に構えろ﹂
駄目な私を頭から否定するのではなく、穏やかに受け入れてくれ
る彼の寛容さにちょっと感動。
私の左側に座っている忠臣さんにソッと寄りかかると、逞しい右
腕に肩を抱かれた。
﹁俺にだって出来ないことはあるし、理沙にしか出来ないこともあ
る。お互い出来ることを補い合っていけばいい。ただ、それだけの
ことだ﹂
﹁でも、私の方が、たくさん出来ないことがあると思います。忠臣
さんの助けになるどころか、脚を引っ張ることになるかも⋮⋮﹂
悲しげに眉を寄せれば、忠臣さんはコツンと、頭を寄せてきた。
﹁それならそれでいい。理沙が1人であれこれ出来てしまったら、
いつの間にか俺の手を離れていきそうですごく嫌なんだよ。むしろ
何も出来ない方がありがたい﹂
330
﹁え?﹂
︱︱︱出来なくていいの?
そんなことを言ってくれる彼氏は、今までに1人としていなかっ
た。
﹃女なんだから﹄、﹃女のクセに﹄と言っては、私に注文を付け、
文句を放つ。
私だって疲れている時くらいは甘えたかったのに、甘えられるば
かりだった。
それが今では正反対。
こっちが申し訳なくなるほど、忠臣さんは私を甘やかす。
﹁⋮⋮いいんですか、こんな私で?﹂
おずおずと彼の顔色を伺う私。
今は付き合い初めだからいいだろうけれど、そのうち私のことな
んて邪魔に思うのではないだろうか。
何も出来ない私を疎ましく感じるのではないだろうか。
ところが、忠臣さんは綺麗な笑顔を浮かべてこう言った。
﹁いいんだよ、それで。出来ることなら、俺がいないと生きていけ
ないくらい依存して欲しいくらいだ﹂
いや、それは自分としても困る。そこまで徹底したダメ人間には
なりたくない。
どう返事をすればいいのか分からず俯いていると、
﹁とにかく、今は食べることに集中しろ﹂
と、保護者のような忠臣さん。 ただし、一般的な保護者と違って、彼は頬に何度もキスをしてく
る妖しい保護者。
﹁わ、分かりました!食べますよっ﹂
私は慌てて二切れ目のホットサンドを再び口に運んだ。
331
モグモグと口を動かす私を見て、忠臣さんは嬉しそうに目を細め
る。
﹁いくらでも追加で作ってやるから、遠慮なく食べろよ﹂
そう言って、彼は遠慮なく私にキスをする。
頬だけに留まらず、こめかみ、耳元、首筋、唇の横と。
︱︱︱こらーーー!!食べさせたいなら、キスするなーーー!!
332
︵50︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :2︵後書
き︶
●前話に対する読者様からの反応がなかなか良かったので、方向性
に間違いがなかったと、ホッと胸を撫で下ろしている小心者のみや
こです︵苦笑︶
野獣紳士の甘やかし方は、﹁女帝﹂のタカとは違う甘やかし方なの
で若干戸惑いますが、それでも楽しんで書けています。
理沙ちゃんにとってはえらい迷惑でしょうが︵笑︶
●現在、野口氏に対する理沙ちゃんの敬語をいつ外すか悩み中。
恋人同士になったから、即、馴れ馴れしくなるのは理沙ちゃんらし
くないかと。
心の中では、野口氏に対する暴言の嵐ですけども︵爆︶
333
︵51︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :3
私がホットサンドに噛り付くよりも、忠臣さんにキスされるほう
が多い気がする。
いや、気がするのではなく、確実に多いだろう。
﹁や、やめて、ください。これじゃ、食べられません!﹂
口の中にあったホットサンドを急いでゴクンと飲み込んだ私は、
忠臣さんに文句を言う。 なにしろ﹃ほら食べろ﹄、﹃ドンドン食べろ﹄と言う割りに、彼
の愛情表現︵私にとっては妨害行為︶は凄まじいのだ。
一口食べれば、その隙に3回キスされて。
モグモグと咀嚼しているうち、さらに5回はキスされる。
落ちつかないったら、ありゃしない!
︱︱︱いい加減にしてぇ!
左手で彼の唇をグイッと押しやれば、ペロリと手の平を舐められ
た。
﹁ひゃっ﹂
驚いて腕を引くと、その隙に忠臣さんのキスが左の瞼に訪れる。 ﹁食べてるだろ?口は塞いでないんだし﹂
チュッ、チュッ、と啄ばむような可愛いキス。
だけど、忠臣さんは妖艶に微笑むばかりで可愛くない。
﹁うぅ⋮⋮﹂
唸り声を上げて彼に恨めしい視線を送るが、これしきのことでめ
げるような殊勝な忠臣さんではなく、
﹁そんな可愛い顔してると、問答無用でベッドに引きずり込むぞ?﹂
334
と、ニヤリと妖しく笑うだけ。
私は慌てて彼から視線を逸らした。
怒ってもダメだし、ふてくされてもダメ。
一体どうすればいいのだ。
︱︱︱⋮⋮もういいや。
彼を黙らせることは完全に諦めた。
食べることに集中し、一口、また一口と食を進める。
大人しくなった私を見て嬉しそうに頬を緩め、ますます熱心に唇
を寄せてきた忠臣さん。
よく飽きないものだと、感心半分、呆れ半分の私は、ようやく最
後の一口を飲み込む。
しかし私にキスするばかりで、彼の分のホットサンドは手付かず
で皿の上に残っていた。
﹁忠臣さんは食べないんですか?﹂
﹁食べたいが、理沙があんまり可愛いからキスのほうが優先﹂ ﹁はぁっ?﹂
︱︱︱なんだ、その理屈。
人間の三大欲求である﹃食欲﹄、﹃睡眠欲﹄、﹃性欲﹄のうち、
性欲にのみ特化しているのか、この人は?
生命維持活動に直結する食事をそっちのけでいいのか?
余りに恥ずかしいセリフをサラリと事も無げに言ってのける彼に、
私は唖然となって視線を向けた。
フワリと目元を細めた忠臣さんが、ポカンとしている私の鼻の頭に
小さなキスを贈る。
﹁その顔、凄く可愛い﹂
335
︱︱︱ダレデスカ、コノヒトハ。
会社ではどんな時でも穏やかに泰然と構える
まるでウソか幻のような今の忠臣さん。
野口部長補佐
が、
ピロートークが甘やかなのは理解出来ても、素面の状態でこんな
に甘ったるいことを言える彼に、若干引く私。今ならちょっとした
潮干狩りが出来るほど、引いている。
さっきは甘やかされて嬉しいとか思ったけれど、これは私が許容
できる限度を超えていた。嬉しいを通り越して、背筋が薄ら寒くな
る。
︱︱︱とんでもない人の恋人になっちゃったのかも⋮⋮!?
ヒクリ、と頬を引きつらせる私。
すると、忠臣さんはそんな私の口元をジッと見る。
﹁そういえば、公園でハンバーガーを食べた時に言ってたな。食べ
るのが下手だって﹂
と﹂
突然彼が話題を変えてきたことに、一瞬、頭が回らない。
気をつけていても、口にケチャップを付けてしまう
﹁へ?﹂
﹁
﹁あ、ああ。確かに言いましたね、私﹂
告白というよりも捕獲宣言を言い渡された翌日、仕事終わりに強
引に連れ出され、やって来たのは外回り中に時折通りかかる公園に
出ている移動式ハンバーガー店。 そこで食べたハンバーガーは本当に本当に美味しくって、恭子に
教えたら彼女もハマリ、あれからも恭子と2人で買いに行っていた
りする。
336
﹁それが何か?﹂
﹁ソースが付いてるぞ﹂
クスリと忠臣さんが苦笑する。
﹁え、本当ですか?やだなぁ、もう﹂
口を拭うために慌ててお絞りに伸ばした手を忠臣さんに捕まれた。
振り払おうと手首を動かすが、彼が放すことはない。
と言った俺の台詞も覚えているか?﹂
いくら口元を汚しても俺が綺麗にしてやるから、安心して齧り
﹁忠臣さん?﹂
﹁
付いてもいいぞ
︱︱︱そう言えば⋮⋮。
記憶を過去に飛ばし、あの時の状況を思い浮かべる。
それと同時に、彼の台詞にとんでもない続きがあったことも思い
出した。
︱︱︱ま、まさか。
と言ったよな?俺﹂
記憶を辿る際に落とした視線を上げて彼の顔を見れば、そこには
指じゃなくて直接舐めてやるのもいいな
あの黒い笑顔が。
﹁
﹁そ、その、あのっ、んんっ⋮⋮﹂
唇の横に着いたソースを舌先で拭った忠臣さんは、隙を付いて深
いキスを仕掛けてくる。
︱︱︱無理、ホント無理!唇、痛いーーー!
﹃これからは絶対綺麗に食事してみせる!﹄
337
と、心の中で固く誓う私だった。
338
︵51︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :3︵後書
き︶
●こんな調子では、一体いつ一日が終わるのやら︵苦笑︶
申し訳ございませんが、今暫く野口氏の溺愛という名の暴走にお付
き合いくださいませ☆
339
︵52︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :4
散々私の口腔内を楽しんだ忠臣さんが、満足そうに一旦唇を離し
た。
微笑んだ彼は、右手の親指でやんわりと私の唇の輪郭をなぞる。
﹁ほら、口元が綺麗になったぞ﹂
﹁も、もう、何なんですか!何するんですか!﹂
再び唇を寄せようとしてくる彼から逃れるために、私は横に大き
く首を振る。
﹁俺は理沙の恋人で、その可愛い唇にキスをしただけだが﹂
必死な私をさも愛おしそうに眺めている忠臣さんが、脳ミソの代
わりに極甘のカスタードクリームでも詰まっているかのようなセリ
フを陶然と吐いた。
﹁そんなことは訊いてません!﹂
彼のセリフに照れるどころか驚愕を覚え、私は声を荒げる。しか
何なのだ
、
何するんだ
と言うから答えてやったん
しながら、そんなことで怯む忠臣さんではなく。
﹁だが、
だぞ﹂
﹁私はそんな答えを求めていません!⋮⋮けほっ、けほっ﹂
大きな声を出した私は、言い終えると同時に咳き込んでしまった。
昨日から散々喘がされ続けた上に怒鳴れば、喉が引き攣れても仕
方がない。
ケホケホと繰り返す私の背中を慌てて擦りながら、忠臣さんがオ
レンジジュースを差し出す。
﹁大丈夫か?これを飲んで、落ち着け﹂
手渡されたグラスを掴み、咽ないよう慎重に口に含む。
コクコクとグラス半分ほど飲めば、咳も治まってきた。
340
﹁はぁ﹂
一息ついて、もう少しジュースを飲もうとグラスに唇を付ける。
その時、
﹁口移しで飲ませてやろうか?﹂
と、懲りてない忠臣さんが耳元で囁いた。
﹁!?﹂
まだ飲む前だったので吹き出す事は無かったが、揺れたグラスか
らジュースが跳ね、顎先から首筋へと伝い落ちる。
私は急いでグラスをテーブルに置き、お絞りを掴もうと手を伸ば
した。が、その手を忠臣さんに阻まれる。
﹁そんな無粋なものを使わなくても、俺が綺麗にしてやる﹂
﹁はぁっ!?﹂
思わず彼の方に身体を向けた私の肩を掴み、忠臣さんはジュース
が付いているところへ舌を伸ばしてきた。
ネットリと熱く蠢く彼の舌が、垂れたオレンジジュースを追って
徐々に下がってゆく。
途端におへその辺りへ、ゾクリとした感覚が集まった。
﹁や、止めてくださいっ﹂
身を捩ろうとする私の肩をガッチリ掴んで執拗に舌を這わせる忠
臣さんが、小さな子供を説き伏せるように言う。
﹁動くな。このままだとローブに染みが付いてしまう﹂
その言葉に、私は思わず身を硬くした。
︱︱︱そうだ。これ、シルクだ。
絞りたてのオレンジジュースは市販のジュースと違って酸が強く、
デリケートなシルクには良くない。
染色していない生成りのローブでは、少しの染みでも目立ってし
まうだろう。
せっかく彼が用意してくれたローブを駄目にしてしまうのは嫌な
341
ので、私は大人しくするしかなかった。
くすぐったさと、それを上回る妖しい疼きにギュッと目を閉じて
耐える。
﹁あ、あの、まだ終わりませんか?﹂
そんなにジュースを零したつもりは無いのに、忠臣さんの舌の動
きは一向に止まらないのだ。
ツツ⋮⋮、と彼の舌先がどんどん下がってゆく。
﹁まだだ。さっき理沙が不用意に動いたから、随分下の方まで濡れ
てるぞ﹂
下手に動けば長引くと思い、私はただ、ただ大人しくしていた。
ところがそれは彼の思う壺で。
﹁ああ、こんなところまで⋮⋮﹂
ボソリと呟いた忠臣さんは鎖骨から更に動きを進め、胸の谷間に
舌を滑り込ませた。
そしてローブの合わせ目を指先でソッと開き、胸の膨らみに舌を
這わせる。
﹁あんっ﹂
ザラリとした舌の感触の動きに、小さく喘いでしまう私。
︱︱︱ちょ、ちょ、ちょっと、待ってよ!いくらなんでも、そこま
で零してない!
﹁た、忠臣さん!﹂
流石にこのまま彼のペースに流されてしまってはマズイと感じ、
閉じていた目をしっかり開いて忠臣さんを睨み付ける。
今の彼の頭は私の胸の位置にあり、忠臣さんは必然的に上目遣い
となった。
切れ長の目が壮絶な色気を纏って私を見遣り、フッとその目が細
められる。
﹁新鮮なオレンジも良いが、苺のように赤く色づいたココも旨そう
342
だ﹂
そう言って、チュッと私の左胸の先端に唇を寄せた。
そして、立ち上がり始めた乳首を口に含み、チュクチュクと吸い
始める。
﹁あっ、ん﹂
あれだけ何度も官能に溺れたというのに、枯れることのない泉の
ごとく、身体の奥から悦楽が湧き上がってきてしまう。
﹁や、だめ⋮⋮﹂
彼の髪に手を入れて掴んだ頭を追いやろうとするが、的確な舌捌
きで高みに追い詰めてゆく忠臣さんの前に、私の身体から力が抜け
だした。
結局、彼の頭の位置は変わらず、縋るように忠臣さんの頭を抱え
る私。
背中から回った忠臣さんの右手が私の右肩を掴んで私の動きを封
じると、彼の舌は更に自由に動く。
少し強めの力で舌を擦り付けながら執拗に何度も舐め上げ、完全
に硬くなった乳首を上下の唇で挟む。
忠臣さんの口腔内に取り込まれた乳首の先端が、尖らせた舌先で
チロチロと突き舐められた。
オマケに、彼の左手がもう一方の乳首に伸び、親指と人差し指で
クリクリと捻り回される。
遠慮の無い舌と指の動きに、ピクッ、ピクッと肩が小刻みに跳ね
上がってしまう。
﹁は、あぁ⋮⋮っ﹂
硬質で真っ直ぐな忠臣さんの髪の感触を指先に感じながら、熱い
吐息だけが洩れた。
︱︱︱気持ち、いい、けど⋮⋮。身体が付いていかない⋮⋮。
力の入らない指先で彼の頭をどかさせることも、身じろぎするこ
343
とも、抗議の声を上げることも、今の私は出来ない。
︱︱︱忠臣さんに抱かれるのは嫌じゃないけど、でも、今は⋮⋮。
あまりに疲労のたまった身体を、とにかく少しでも休めさせたか
った。
そう思った時、私の瞳から官能によるものとは違う涙がポロリと
零れる。
それに気付いた忠臣さんは、ハッとしたように動きを止めた。そ
して、乱れた私のローブの身ごろを優しく直してくれる。
﹁すまん、調子に乗り過ぎた﹂
形のいい眉を僅かにしかめた忠臣さんは、正面からギュッと私を
抱きしめた。
﹁悪かった﹂
彼の謝罪に、私は小さく首を横に振って応える。
そんな私の頭を、彼の大きな手がゆっくり撫でた。
﹁今まで自分は理性的な人間だと思っていたんだが、でも、理沙の
前では止められないんだよ。理沙が可愛過ぎて、愛し過ぎて。悪か
ったな﹂
もう一度私は首を横に振る。
﹁私こそ、ごめんなさい。ただ、ちょっと、疲れてしまって⋮⋮﹂
恋人にこんなに求められたことも、愛されたことも無かったから。
これまでに味わったことのない恋人からの愛情に、まだ戸惑いが
隠せないのだ。
けして、忠臣さんを拒絶しているのではない。
﹁謝るな。さて、俺も食べるか﹂
それを読み取ってくれた彼は、顰めた眉を僅かに下げて微笑んで
くれた。
344
私がオレンジジュースを飲む横で、忠臣さんは自分の分のホット
サンドを食べている。
彼は私とは違って、口元を汚すことは無い。大振りなハンバーガ
ーを食べた時でさえ、忠臣さんの口元は最後まで綺麗だった。
﹁そうそう。あの時食べたハンバーガー、味にうるさい友達にも教
えたんですよ。そしたら、彼女もすっかり気に入ってくれて﹂
﹁それはよかった﹂
コーヒーの入ったカップを持ち上げた忠臣さんが、ニコリと笑う。
﹁あのハンバーガーショップは、肉屋の息子とパン屋の娘が共同経
営しているんだよ。だから、パテもバンズも他の店とはぜんぜん違
う﹂
確かに、これまで食べてきたハンバーガーの概念をいっぺんで引
き飛ばしてしまうほど、衝撃的な味だった。
﹁本当に美味しいですよね。あのハンバーガー、好きです。何度食
べても飽きないほど、大好きです﹂
と言ってもらえるとは、
忠臣さんの笑みに私も笑顔で返せば、たちまち彼の顔から穏やか
好きだ
さが消え、目の奥が冷たく輝いた。
﹁ハンバーガーの分際で理沙に
何とも腹が立つ﹂
忠臣さんの手の中にあるカップが、ピシリと音を立ててヒビが入
る。
﹁⋮⋮あの店潰すか﹂
﹁は?!え?!な、なんてことを言うんですか!?ダメです!そん
なことをしたら、絶対にダメです!﹂
ビキビキとヒビが増え続けるカップを握る彼の手の上から自分の
手を重ね、私は必死にお願いしたのだった。 345
︵53︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :5
忠臣さんもホットサンドを食べ終え、ソファーで2人とものんび
りしている。
⋮⋮んだけど、私は今のこの状況に心もとなさを強く感じていた。
というのも、下着を身につけていないせいである。
バスローブ一枚
というのが問題なの
部屋は快適な温度に設定されているのでバスローブ一枚でも寒さ
も暑さも感じないが、この
だ。
自分の城ですら全裸はおろか、下着姿でうろついたことはない私。
﹁あ、あの、忠臣さん?﹂
﹁なんだ?﹂
こちらを向いた彼が、チュッと私の頬に唇を寄せた。
過度な愛情表現に慣れていない私としては、呼び掛けるたびにい
ちいちキスをするのを止めてほしいのだが、忠臣さんは一向に聞き
入れてくれない。
それに、嬉しそうな彼の顔を見たら、本気で強く拒絶することも
出来なかった。
︱︱︱私、流されてるよなぁ。
なかなか思うように彼の行動を諌められない自分に内心ため息を
つき、でも、心の底から嫌だとは思っていないので、仕方ないかと
半分諦めていたりもする。
そんなことより、目下の問題は自分の服装だ。
﹁いつまでもバスローブのままだと落ち着かないので、そろそろ着
替えたいんですけど﹂
さっき、洗面室から全自動洗濯機が終了のアラームを鳴らしたの
346
が聞こえてきた。
私の服が乾いたのだろう。
立ち上がろうとする私の腕を掴んで、忠臣さんが制する。
﹁ああ、俺が取ってこよう。理沙はここにいろ﹂
今度はおでこにチュッとキスをして、忠臣さんが立ち上がった。
途端に顔がサッと赤くなる。
︱︱︱うう、慣れない⋮⋮。
恋人同士って、こんなに甘いものだったのだろうか。
自分の感情の根底にあるものは嬉しさだったりするのだが、これ
まで自分が歩んできた恋愛にはなかった状況に、嬉しさよりも気恥
ずかしさが先に立つ。
手で仰いでパタパタと顔に風を送っていると、彼が服を持って戻
ってきた。
﹁ありがとうございます。着替えは何処で?﹂
﹁ん?ここで着替ればいい、俺が見ていてやるから﹂
﹁は!?﹂
思わず受け取った服を落としてしまった。
︱︱︱﹃俺が見ていてやるから﹄!?
鳩がマシンガンで何十発と豆を撃ち込まれたかのように、唖然と
なる。
そんな私へ可笑しそうに服を差し出しながら、彼が言う。
﹁冗談だよ。流石に嫌だろ?﹂
︱︱︱あったりまえでしょ!!そんな恥ずかしい真似が出来るか!
何が悲しくて、忠臣さんの前で全裸ショーを繰り広げなければなら
347
ないのだ!?
私の心の叫びが聞こえたのか、忠臣さんがクスクスと笑う。
﹁理沙の裸はベッドの中で堪能させてもらったし、これから先は何
度でも見させてもらうから、今は大人しく引き下がるよ。俺は部屋
で着替えてくる﹂
ソファーに座ってアワアワしながら見上げている私の頭をソッと
撫で、忠臣さんがその場を立ち去った。
﹁なんか、もう、どうしたらいいのよ⋮⋮﹂
氷が溶けきっていないオレンジジュースをグッと飲み干して、と
りあえず身体の中からクールダウンする。 よく冷えたジュースが身体の中を通っていくのが分かると、今や
らなければならないことを思い出した。
﹁早く着替えなきゃ﹂
私はバスローブを脱いでソファーの背に掛けると、手早く自分の
下着を身につける。
それから一緒に渡された白い布地をバサリと広げた。
﹁あれ?﹂
自分が着ていたブラウスかと思ったのに、それよりもかなり大き
なものは忠臣さんのYシャツだった。
オマケに下着の他にあったのはYシャツのみで、私のスカートが
ない。
一緒に洗濯して、私のブラウスと自分のYシャツを間違えて持っ
てきたのだろうか?
それはまだ分かるとして、スカートがこの場にないのはなぜだろ
348
うか。
﹁どういうこと?﹂
ブラとショーツを身につけただけの私が、白くて大きなYシャツ
を手に首をかしげていると、奥の方からこちらにやってくる足音が
聞こえてきた。
﹁どうしよう、忠臣さんが戻ってきちゃう!﹂
下着姿で彼と対面するわけにも行かないので、とっさに目の前の
Yシャツに袖を通した。
大急ぎで首もとの2つを残してボタンを嵌め終えたところで、リ
ビングのドアが開いた。
現れた忠臣さんは生成りの細い毛糸でざっくり編まれた薄手のニ
ットと、スーツとは違うカジュアルな感じの黒いスラックスという
格好。
適度に崩され、下ろされた前髪が自然な感じの髪型は、会社では
見ることがなかったものだ。
背が高くてスタイルがよくて、Vネックの襟から見える鎖骨と前
髪の間から覗く切れ長の瞳がとてもセクシーである。
なんてことのないシンプルな様相なのに、まるで映画俳優か雑誌
から飛び出したモデルのように思えて、あまりの格好良さにポカン
となってしまう私。
︱︱︱うわぁ、うわぁ、かっこいい。写メ撮りたい!
改めて自分の彼氏のかっこよさに見惚れて立ち尽くす私に、忠臣
さんが片方の口角を上げて言った。
﹁Yシャツの裾から伸びる生足が、いやらしくて最高だな。舐めま
わしてやりたい﹂
349
︱︱︱口さえ開かなきゃいいのに⋮⋮。
心の中で、私はそっと呟いた。 見た目は抜群、でも発言は残念な忠臣さんは私に近付くなり、ギ
ュッと抱きしめてきた。そして腕の中に閉じ込めた私を満足そうに
見遣る。
﹁その格好、恋人同士の朝って感じだな﹂
︱︱︱これまであなたがあれこれ手を出してくるから、すでにお昼
ですけど? という突っ込みは口に出さなかった代わりに、別の話をする。
﹁あの、私の服はどこにあります?返して欲しいんですが﹂
下着は身につけたが、こんな格好ではバスローブでいる時と大し
て変わらない。
早く自分の服を着て落ち着きたい私が忠臣さんに尋ねれば、彼が
少し拗ねたような表情になった。 ﹁ダメだ。服を理沙に返したら、着替えて帰ってしまうかもしれな
いじゃないか。そんなのは嫌だ。せっかく恋人になったのに、しか
も今日も明日も休みなのに。俺はもっと理沙と一緒にいたいんだよ﹂
ダメだ
とか、
嫌だ
とか言うのよね。
放さないと言わんばかりに、抱きしめる腕に力を入れてくる。
︱︱︱この人、やたらに
余裕たっぷりの冷静で大人な男性かと思いきや、その言動は結構
350
子供っぽい。
それが反対に嬉しかった。
自分ばかりが情けない人間に思えていたけれど、完璧に見える彼
にもこんなところがあってホッとしたのだ。
自然に頬が綻んでしまうのを見咎められ、忠臣さんが憮然と言う。
﹁何を笑っている?﹂
﹁いえ、その、忠臣さんにも子供みたいなところがあるんですね。
普段からは想像付きませんよ﹂
﹁そうか?﹂
それを聞いた彼が、表情を曇らせる。
まずいことをやらかした、といった感じのその表情に、私は慌て
て口を開く。
﹁違いますっ。そういう忠臣さんが嫌だってことじゃなくて、なん
だか可愛く思えて﹂
﹁本当に?﹂
﹁はい。カッコいい忠臣さんはもちろん、子供っぽい忠臣さんも好
きですよ﹂
ニコッと笑って私が告げたその時、彼の瞳が妖しく光る。
﹁⋮⋮やはりホットサンドみたいな軽食では、食った気がしないな﹂
唐突な話題変換に、私は首をかしげた。
﹁え?ああ、まぁ、男の人にはパン食だと物足りないのかもしれま
せんね﹂
私と同じように昨日の夕飯を食べなかった彼にすれば、ホットサ
ンドとコーヒーではお腹に貯まらないのだろう。
﹁だから、今から食事してもいいか?﹂
なぜか徐々に拘束を強めてくる彼の腕に疑問を感じつつ、
﹁は、はい、どうぞ﹂
と返す。
その一瞬後、忠臣さんに抱きかかえられた私は、ベッドに運ばれ
て押し倒された。
351
﹁な、なんでっ?﹂
﹁子供の食事といったら、
﹁ええっ!﹂
母乳
だろ﹂
にやりと笑った忠臣さんが、私が着ているYシャツの胸元に手を
掛ける。 ﹁満腹になるまで、味あわせてもらうよ⋮⋮﹂
︱︱︱こんな下心満載な子供を生んだ覚えはないんですけどーーー
ーー!
352
︵53︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :5︵後書
き︶
●男性の2大妄想ファンタジーに﹁裸エプロン﹂と﹁素肌にYシャ
ツ﹂があるという話を聞きました。︵⋮それ、どこの情報?︶
みやこ的には素肌にYシャツがツボですね。
大き目のシャツに着られている感じの女性︵BLなら受け仔︶が大
好物です♪
例え彼氏︵攻め様︶と大して身長が変わらなくても、肩幅とかの違
いでダボッとなるところがいいんですよぉ。
身長差があると、なお良しですがね☆
野口氏をはじめ、みやこ小説の男性キャラたちは、﹁裸エプロンや
素肌にYシャツより、何も着ていないほうがいい﹂とか言いそう︵
笑︶
353
︵54︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :6︵前書
き︶
●ちょっと短いですが、思いついたので突発的に投稿︵苦笑︶
354
︵54︶忠臣さんの恋人となって迎えた翌日は⋮。 :6
それから結局事に及んでしまい、私は再びベッドの住人と化して
いた。
そして、現在下着の一枚すら身につけていない私は、同じように
素肌の忠臣さんの胸に抱きしめられている。
一応薄い肌掛け布団がかかっているので、互いの視界に裸体が晒
されることは免れた。
真昼間ということで外は燦燦と日差しが降り注いでいるが、この
寝室は絶妙な照明加減の薄明かりに包まれている。
彼は明るい中で私を抱こうとしたが、﹃それは無理!﹄と叫んで
止めさせた。
流石に自分の裸体を見られるのは恥ずかし過ぎる。
︱︱︱そりゃ、忠臣さんは抜群のプロポーションだから、見られた
って恥ずかしくないだろうけどさ。
でも、私が恥ずかしいのだ。
自分の肌を見られることも、それ以上に忠臣さんの肌を見ること
も。
﹃何を生娘みたいなことを言ってんのよ!﹄
と恭子に突っ込まれそうだが、仕事ではあんなにもストイックな
のに、プライベートの忠臣さんは存在そのものが艶めかしくて、目
色気
という言葉は女性に向けられるものだとばかり思ってい
にするだけでクラクラするのだ。
たが、彼にこそ相応しい言葉だと実感しつつある。
355
だけど、こうして直に彼の温もりを感じるのは嫌じゃない。
けして華奢とはいえない私をすっぽりと包んでしまう広い胸。
難なく私を支えてくれるたくましい腕。
私より少し高い体温。
力強く脈打つ鼓動。
私を丸ごと受け止めてくれるそんな彼に、私はグッタリと四肢を
投げ出している。
︱︱︱うぅ、全身が痛い。
絶頂を迎える時に強張った筋肉も、彼の激しい動きに耐えた関節
も、絶え間なく喘ぎ続けた喉も、今までに味わったことのない疲労
感に襲われていた。
だって、初めてなのだ。
こんなに何度も何度も立て続けに求められたのは。
今までの彼氏は淡白という感じはしなかったが、忠臣さんに比べ
たらそうとしか言いようがない。
いや、元彼たちが普通なのであって、忠臣さんが異常なのかもし
れない。
自分の体のことを考えると正直拒絶したいのだが、愛おしそうに、
幸せそうに私を見つめてくる忠臣さんと目を合わせてしまうと、ど
うしても嫌だとは言えなくなってしまう。
なんだかんだあっても私のことを愛してくれる忠臣さんの事が、
どうしても心底嫌いにはなれないのだから仕方ない。 身体はクタクタだが妙な充足感を覚えて、私は忠臣さんの胸に大
人しく収まっている。
私は何処にも逃げないのに︵極度の倦怠感で逃げたくても逃げら
れないとも言うが︶、﹃誰かに奪われまい﹄と、忠臣さんは腕をし
っかり私の背に回していた。
356
ベッドの上で激しく動き、こうして体温の高い彼に抱かれている
と、エアコンで調節されていても肌がしっとりとしてくる。
せっかくシャワーを浴びてさっぱりしたというのに、うっすらと
汗をかいている顔には幾筋かの髪が張り付いていた。
うっとおしいと思うのだが、今は指一本を動かすことすら気だる
い。
不快気に眉宇を顰めた私に気付いた忠臣さんが、指先で髪をそっ
と払ってくれた。
そして現れた私の額に、唇をフワリと寄せる。
﹁俺に身を任せる理沙がすごく可愛い﹂
すっきりとした切れ長の目が、やんわりと弧を描く。
︱︱︱身を任せているんじゃなくて、脱力しているだけなんですけ
ど?
確かに忠臣さんに抱かれるのは嫌じゃないし、最終的には合意の
上で5回戦を始めましたよ。
でもね。でもね!
︱︱︱あなた、私を廃人にするつもりですか、こんちくしょう!少
しは加減してよ!
そんな思いで彼を睨めば、
﹁一生このまま、理沙が俺の腕の中にいればいいのに﹂
と、うっとり満足そうな顔をしてきたのだった。
357
358
︵55︶私と彼と先輩達 :1
金曜の夕方に忠臣さんに捕獲され、結局月曜の朝まで彼の部屋で
過ごした。
ホットサンドを食べ終えて、済し崩し的な感じで5回戦が始まり、
その後、夕食もご馳走になった私は体力の回復を待って帰ろうとは
したのだ。
ところが﹃そろそろ家に戻ります﹄と言い出した途端、ベッドに
運ばれ、あっという間にそれまで着ていた彼のYシャツを剥ぎ取ら
れた。
オマケに忠臣さんが私の服も下着もどこかに隠してしまい、帰る
に帰れなかったのだ。
それからは寝ても覚めてもベッドの中で大半の時間を過ごし、結
局、自分の家に帰れたのは月曜日の朝。しかも、出勤用に着替える
為だけ。
ギリギリまで忠臣さんは私を放さず、彼の車で家まで送られ、そ
して一緒に出社。
私が降りるよりも早く助手席側に回ってきた忠臣さんに抱きしめ
られて、しっかりキスされた。しかも爽やかな朝に相応しくない濃
厚なものを。
﹁な、何ですか!?﹂
一瞬の隙を突いて顔を背ければ、
﹁仕事したくない。このまま理沙と一緒にいたい﹂
といって、ギュッと抱きしめらた。
﹁馬鹿なこと言わないでください!今日は外せない会議がっ﹂
359
助手席のシートに押さえつけ、もがく私をものともせず、忠臣さ
んは再び唇を押し付け、舌を絡ませてくる。
クチュリと湿った音が耳に届いて、頬がカァッと赤くなった。
忠臣さんが使っている駐車スペースは奥まったところにあるけれ
ど、それでも、これから出社してくる重役達に見つからないとも限
らない。
︱︱︱はーなーしーてーーー!
喘ぎながらも彼の胸をドンドンと叩く。
すると殊更深く舌を絡ませたあと、ようやく忠臣さんが私の唇か
ら離れていった。
でも、離れたのは彼の顔だけで、私の身体はしっかりと抱きしめ
られたまま。
恥ずかしさと苦しさで潤んだ目でギリッと睨みつけたのだが、そ
んな私を見て、
﹁色っぽいな﹂
と囁き、チュッとわざとらしく音を立ててキスをしてきた。
﹁今日もよろしく頼むよ、古川君﹂
互いの顔が10センチと離れていないところで、楽しそうに笑う
忠臣さん。
︱︱︱よろしくって、何をですか!?
この状態で彼がそのセリフを言うと、どうも仕事以外のことをよ
ろしくされそうな気がする。
金曜とは違ってすっかり晴れ渡った朝だというのに、私の心はど
んより曇っていた。
そんな私に、ちょっと意地の悪い笑顔を見せる彼。
﹁これからは毎日、一緒に出社しようか?﹂
360
︱︱︱毎日!?イヤーーー!!
彼の提案には猛然と首を横に振って、断固拒否の姿勢を示した。
そんなことになったら、私の色々なもの︵精神力とか体力とか、
その他諸々︶が凄まじい勢いで削られていくのは間違いないだろう。
ブンブンと音が聞こえそうなほど首を振る私の頬に、ソッと手を
当てる忠臣さん。
彼の体温を感じた私は、ビクッと肩が震えて動きが止まる。
恐る恐る忠臣さんを伺えば、切れ長の瞳がゆるりと弧を描いた。
﹁あんまり嫌がると、ここで啼かすぞ﹂
彼がいきなり夜の艶っぽい雰囲気を醸し出す。
︱︱︱なかす!?それって﹃泣かす﹄とは違う意味合いに聞こえた
んですけど!?
顔色を赤、青、白、また戻って赤、と忙しなく染めた私に忠臣さ
んは、
﹁そろそろ行こうか﹂ と私の腰を抱き寄せて立たせてくれた。
駐車場を抜ける前に、彼の腕の中から脱出成功。
海外事業部までその体勢で行こうとしていた忠臣さんは舌打ちし
て悔しがったが、私の必死な訴えにしぶしぶ折れてくれた。
今日のとこ
って部分が非常に気にかかるが、まぁ、どうにか回避しよう。
その際、﹃今日のところは許してやる﹄と囁いた。
ろ
どうしようもなく強引な忠臣さんだが、私が心底本気で嫌がるこ
とは絶対にしないということが分かった。
361
これで、何もかも自分の思い通りに事を進めようとするのであれ
ば、忠臣さんは間違いなく、流れる血の色が緑色した大魔王なのだ
ろう。
朝から精神的にやや疲れてしまったが、午前中の仕事を手早く終
わらせる。
昼休み前に一区切り付いたところで、珍しく来客があった。
﹁こんにちは﹂
優しい声と共に入ってきたのは、私を指導してくれた先輩秘書の
花田さんだった。
私は急いで席を立ち、彼に駆け寄る。
﹁ご無沙汰しています、お元気そうですね。今日は社に用事でも?﹂
﹁いえ、安定期に入った妻がこの近くで友達と食事をするというの
で、車で送ってきたんですよ。ついでというのは言葉が悪いですが、
皆さんの顔を見に来ました﹂
静かに目を細める花田さんは、相変わらず爽やかな人だ。
扉から数歩入ったところで、互いの近況報告をしていたら、
﹁あら、珍しい人がいるじゃない﹂
﹁本当だ。花田先輩、お久し振りです﹂
所用で外に出ていた桑田さんと滝さんが戻るなり、花田さんに話
しかけた。
﹁順調に赤ちゃんは育ってる?﹂
ママさんとしても先輩の桑田さんが花田さんに様子を伺う。
﹁はい。定期健診でも何の問題もありません。桑田さんが妻にあれ
これアドバイスしてくれるお陰で、気持ちがかなり楽になっている
みたいです﹂
﹁ならよかったわ。伊達に2人も産んでないからね。分からない事
があったら、どんどん訊きなさいよ﹂
362
﹁はい、ありがとうございます。ところで⋮⋮﹂
花田さんが急に私に視線を向けた。桑田さんと滝さんもだ。
﹁そうね、はっきりさせてもらおうかしら﹂
﹁まぁ、聞くまでもないとは思いますが、一応確認として﹂
︱︱︱な、な、何?
﹁ねぇ、古川さん。あなたに訊きたい事があるのよ。ちょっと付き
合ってもらえるかしら?﹂
桑田さんの話し方はこちらにお伺いを立てているような様相だが、
明らかに決定事項で私が断る隙を与えない。 ﹁訊きたいこと⋮⋮ですか?﹂
嫌な予感がする。
ジリッと後ずさったところに、両脇から花田さんと滝さんにガシ
ッと腕を取られた。
﹁えっ?﹂
突然のことに呆気にとられると、これまた突然大きな声が上がっ
た。
﹁私の許可なく古川君に触れるな!﹂
自分のデスクに座って書類に目を通していた忠臣さんの声だ。
彼はギリギリと書類を握り締めて眼光鋭く桑田さんと花田さんと
滝さんを睨むが、そんな彼にひるむことなく、むしろ楽しそうに桑
田さんがニッコリと笑った。
﹁お願いすれば、許可してくださいますか?﹂
桑田さんの言葉に、
﹁するか!﹂
という即答を返す忠臣さん。
しかし、そんなことで怖気づくような桑田さんではなく、おどけ
た様にヒョイッと肩をすくめると、
﹁なら、仕方がないわね。花田君、滝君、行くわよ!﹂
363
桑田さんを先頭に、花田さんと滝さんが歩き出した。
﹁え?え?﹂
状況が飲み込めない私は、長身の男性二人に引きずられてゆく。
﹁おい、待て!﹂
忠臣さんが後を追おうと席から立ち上がったが、
﹁ああ、野口君。この書類のことで、至急打ち合わせをしたいんだ
が﹂
と、部長に話しかけられて足止めを食らう。
﹁いや、部長、今は⋮⋮。ああっ﹂
その時には、既に私たちの姿は忠臣さんの視界から消えていた。
海外事業部の社員たちは、いつも穏やかで冷静な野口忠臣部長補
佐がなにやら慌てている様子を初めて目にして、
﹃明日は嵐になるかもしれない﹄
と、心の中でソッと漏らしたのだった。 364
︵55︶私と彼と先輩達 :1︵後書き︶
●ようやく理沙ちゃんが魔王城、いえ、野口氏の部屋から出る事が
できましたよ。
まだ野口氏の家でアレコレされる理沙ちゃんを書こうとすれば出来
たのですが、彼女の体力が限界なので︵苦笑︶
理沙ちゃんに栄養ドリンクを差し入れてくださった読者様、ありが
とうございました★
野口氏に飲ませないよう、しっかり理沙ちゃんにだけ渡します。
それにしても。
なんだろう、野口氏のこの駄々っ子ぶりは⋮︵滝汗︶。
●みやこ的には桑田さんのキャラが好きです♪
365
︵56︶私と彼と先輩達 :2
桑田さんを先頭に、花田さんと滝さんに連行されて廊下を進む私。
社内はまだ昼休憩に入っておらず、廊下を歩く人が居ないのが不
幸中の幸いだ。
しかし、どう見ても自分の状況は楽観視できない。
﹁あ、あの、逃げませんから放してください。自分で歩きますから﹂
花田さんを見上げてはニコリと微笑み返され、滝さんを見上げて
も同じようにニコリと微笑み返される。
そして、私が解放されることはない。
﹁桑田さん、これは一体⋮⋮?﹂
スタスタと歩く先輩女性の背中に呼びかけると、止まることなく
首だけで振り返って彼女は言った。
﹁古川さん。報告を怠るというのは、社会人にとって致命的ミスよ﹂
そしてニコリと笑うと、また前を向いてしまう。
﹁え?報告?﹂
︱︱︱何か伝え忘れた事があった?
私は今日の業務を思い起こす。
変更があった点はすべてホワイトボードに記したり、担当者に伝
えたはず。
終わった仕事や、これからの予定も全て連絡済みのはずだ。
いや今日だけに限らず、これまでの業務全てにおいて報告に抜か
りは無かったはず。
︱︱︱いったい、どういうこと?
366
C
という札が付いている扉を開
訳も分からず歩かされているうちに、ミーティングルームのある
フロアにやってきた。
桑田さんは何の迷いもなく、
ける。
﹁さ。話は中で﹂
︱︱︱話って何の!?
首を捻る私をものともせず、花田さんと滝さんは室内へと私を引
きずり込んだ。
﹁花田君と奥さんの差し入れで、今日のお昼は緑水酒家のミニ会席
弁当で∼す♪﹂
ジャジャーンという効果音付で︵桑田さん自ら言ったのだが︶、
ミーティングルームのローテーブルに置かれている4つのお弁当箱
が示された。
緑水酒家は名だたる有名人や著名人がこぞって予約を入れるとい
う、中華料理の名店中の名店である。
味も素晴らしく良ければ、値段の方も素晴らしく高いのだが、こ
のミニ会席弁当は1500円という、この店にしては相当リーズナ
ブルな値段。
それでもランチ一食に1500円もかけるなんて、普段はもった
いなくてできないが。
﹁せっかくの温かい料理ですから、お話は食べながらでもいいでし
ょう﹂
そう言って、花田さんが私をソファーに案内する。
367
﹁は、はぁ﹂
いまだに状況が飲み込めない私をよそに、滝さんが部屋の奥から
ポットとお茶道具一揃いを持ってきた。
ミーティングルームの予約といい、ここに居る人数分の弁当とい
い、用意されていたお茶道具といい、まるで私がここに連行される
事が決まっていたかのような運びだ。
いや、決まっていたかのようなではない。確実に決まっていたの
だ。
この三人ならば、そうとしか考えられない。
︱︱︱今から何が始まるの?
ゴクリ、と息を飲んだのは、目の前にある美味しそうなお弁当だ
けが原因ではなかったと思う。
とりあえず皆で弁当を食べ始め、よくある世間話に花を咲かせて
いたのだが。
中身が半分以下になったところで、桑田さんがサラリと切り出し
た。
﹁古川さん、野口補佐と恋人同士になったのよね?﹂
﹁ごふっ﹂
海老のチリソースを口に入れたところで話しかけられ、私は海老
を喉に詰まらせる。
たとえ格安の1500円とはいえ、使っている食材はどれも一級
品。
吹き出すものかと必死に堪えて、どうにか飲み込んだ。
﹁ごほっ、ごほっ。ど、どうしてそれをっ﹂
左隣に座る桑田さんを涙目で見遣る私。
忠臣さんと付き合うようになったのは金曜の終業間際のこと。エ
368
レベーター内のことは勿論だが、廊下や駐車場でも人目に触れなか
ったはずだ。
なのに、どうして桑田さんは確信を持って訊いてくるのか。
桑田さんだけではなく、向かいのソファーに座ってニコニコと私
を見ている花田さんも滝さんも、事情を分かっている顔つきだ。
﹁どうしてって、訊くだけ野暮だと思うわ。古川さんは知らなかっ
ただろうけど、補佐ったら影で相当必死だったのよ﹂
﹁え?﹂
﹁古川さんに対する補佐の態度を見れば、割りと分かりやすかった
なのに、意
ですし。まぁ、表情を取り繕うことは天才的に上手い方ですから、
野口部長補佐
ここにいる3人以外には知られてないと思いますよ﹂
﹁は?﹂
﹁そうそう。仕事中は何も変わらない
外と分かりやすい行動取るしね。僕なんか、終業後の古川さんを捕
まえる為に時々協力させられてたんだよ﹂
﹁へ?﹂
桑田さんも花田さんも滝さんも、ニコニコと嬉しそうに︵楽しそ
うに?︶私を見ている。
︱︱︱どういう、こと?
呆気に取られて三人の顔を順番に眺めていると、桑田さんがクス
ッと笑った。
﹁古川さんって意外とって言ったら失礼だけど、外見の大人っぽさ
とは違う内面も持っていたりするでしょ?﹂
そう言う桑田さんの目は、我が子を見守る母親のように優しい。
﹁でも、補佐はそういうあなたもひっくるめて好きになったから。
この先、あなたが素直な自分を見せても大丈夫よ﹂
﹁は、はい﹂
それはこの週末でよく分かりました。
369
どんなに子供っぽい態度でも、どこか粗雑な態度でも、﹃どんな
理沙も可愛い﹄、﹃素の理沙が見られて嬉しい﹄と、目を細めて囁
いていたのだから。
﹁それで、私と補佐が付き合いだしたことを知りたかったんですか
?だから、私を連れ出したんですか?﹂
﹁あなたたちが付き合いだすのは間もなくだろうと踏んでいたから、
実のところそれが本題ではないのよ﹂
色鮮やかな緑茶を美味しそうにすすりながら、桑田さんが何気な
い調子で言う。
﹁では、何の為にここの集まったのでしょう。社内恋愛はするなと
いう忠告でしょうか?﹂
少しだけ身構えて尋ねる私に、桑田さんが手にしていた湯飲みを
ゆっくり茶たくへ戻す。
﹁違うわ。KOBAYASHIは社内恋愛を禁止してないから、そ
の点は心配しないで。心配なのは、これからのあなたことよ﹂
﹁え?﹂
予想外のことを口にされ、私は思わず桑田さんの顔を凝視した。
﹁野口補佐はあなた事を、それこそ入社する前から虎視眈々と狙っ
ていた、⋮⋮失礼、気にかけていたようです﹂
使った割り箸を丁寧に箸袋に戻しながら、サラリと告げる花田さ
ん。
途中、言い直された言葉が非常に気になりますが、追求は避けて
おきます。自分の精神衛生的にも。
﹁そうそう。事ある毎に古川さんに接触しようとして、職権乱用も
いいところだよ﹂
肩をすくめて苦笑する滝さんに、桑田さんと花田さんが小さく頷
いている。
﹁あの、それで、結局お話しというのは⋮⋮﹂
そう話しかけると、三人が一斉に私を見た。
370
﹁プライベートの時は仕方ないとしても、勤務中、補佐のアプロー
チがあまりにも激しかったら、私たちが助けてあげるわ﹂
﹁晴れて恋人同士となった今、そして我が社が社内恋愛を禁止して
いないとなると、補佐の行動は職場においても遠慮がないと考えら
れます﹂
﹁付き合っているからセクハラという言葉が相応しいかわからない
けど、あの補佐のことだ。社内でも古川さんに手を出してこないと
も限らない﹂
三人とも、忠臣さんのことをよく分かっていらっしゃる。
早速今朝、役員駐車場で手を出されましたよ。
﹁で、でも、そんなにご心配していただくことでもないかと⋮⋮﹂
彼の行動は羞恥の極みだが、人目がなければ耐えられなくも無い。
本気で抵抗すれば、一応は留まってくれるし。
しかし、三人は渋い顔をして首を横に振る。
﹁あのね、古川さん。補佐は冷静沈着な上司様だけど、中身は肉食
獣男子選抜代表みたいな男よ。ましてやあなたは秘書として部長補
佐と行動を共にする事が多いから、用心はしておくべきだわ﹂
﹁そうですよ。補佐のあしらい方についてお教えしますから、何か
あったらすぐに私の携帯に連絡をください﹂
﹁困ったことになりそうなら、すぐ僕に言ってくれ。出来る限り秘
書業務を代わるから﹂
みんなの申し出はありがたいが、自分の彼氏がそんなにも危険人
物なのだろうか。
内心首を傾げた時、ミーティングルームの扉が激しく打ち叩かれ
た。
﹁おいっ、ここにいるのは分かっているんだ!鍵を開けろっ、早く
理沙を出せっ!!﹂
371
連打に次ぐ連打でノックされ、それでも扉を開けない私たちに痺
れを切らした補佐がガチャガチャとドアノブを回しまくる。
﹁くそっ、こうなったら蹴破ってやる!しかし社内でそんな野蛮な
ことをしては、部下に示しがつかないか⋮⋮﹂
そう言っている間にも、ドアは激しく揺さ振られ続けている。
このままでは蹴り破られないまでも、蝶番が壊れてしまうに違い
ない。
今にも破壊されそうなドアを見遣りながら、私は三人に向かって
﹃どうかよろしくお願いします﹄と深く頭を下げたのだった。
372
︵56︶私と彼と先輩達 :2︵後書き︶
●文中で桑田さんが述べている﹁肉食獣男子﹂というのは、﹁肉食
系男子﹂の間違いではありません。
野口氏を表すなら﹁系﹂より﹁獣﹂ではないかと︵笑︶
そして、花田さん。何気に補佐に対して失礼な物言い。
裏設定としては、KOBAYASHI社長第一秘書の腹黒和風美青
年と花田さんは従兄弟だったりします♪
373
︵57︶私と彼と先輩達 :3
私が滝さんや花田さん、桑田さんの顔をオドオドと順に見回して
いる中、破壊的な連打音は続いている。
そのうちドン、ドンと音を立てるのと同時に、ミシッ、ギシッと
木がきしむ音が混じりだした。
﹁理沙!理沙!﹂
常に冷静で穏やかな空気を纏う忠臣さんが、こんなにも切羽詰っ
た声で私の名を呼ぶなんて。そのことがちょっとだけ嬉しくなる。
ただ、その何倍も得体の知れない恐怖も感じるが。
先輩3人の顔を窺っていると、桑田さんが﹃はぁぁぁ﹄と、肺の
全空気を搾り出すように大きなため息をついた。
﹁これ以上引き伸ばすのは無理そうね。まぁ、話も一応は済んだこ
とだし、そろそろ良いかしら﹂
眉間にうっすらと皺を寄せて、桑田さんがお茶をすする。
﹁そうですね。流石に自分の上司が器物破損で始末書を書く破目に
なるのは見たくないですし﹂
滝さんは苦笑いを浮かべて扉に目を向けた。
﹁では、開けますか﹂
ヒョイッと肩をすくめた滝さんが立ち上がって、予期せぬ暴力に
遭っている扉へと歩き出す。
すると花田さんが﹃ちょっと待ってください﹄と声をかけ、私に
向き直る。
﹁古川さん。先ほど伝えたように、野口補佐が手に余るようでした
ら遠慮なく電話をかけてください。いつでも相談に乗りますから﹂
彼の個人携帯番号が書かれたメモが、スッと私に差し出された。
﹁は、はい。ありがとうございます﹂
374
私はコクコクと頷いて、上着の内ポケットにメモを忍ばせる。
ある言葉
を囁
﹁それと⋮⋮。これは、古川さんを助けてくれるおまじないの言葉
です﹂
そう言って、花田さんは私の耳元に口を寄せて
いた。
﹁え?﹂
パチクリと瞬きした私に、花田さんがニッコリと笑う。
﹁勤務中に補佐からどうしても逃げられそうになかったら、この言
葉を口にしてください。きっと上手くいきますよ。そうそう、出来
れば吐き捨てるように冷たく言うか、ほとほと呆れ返ったように言
ってみてください。上目遣いの涙目だと逆効果になるので、気をつ
けて﹂
﹁わ、分かりました⋮⋮﹂
出来ることならこのおまじないを使う事態に陥らないことを真剣
に願っていると、滝さんがドアノブの内鍵に手をかける。
﹁じゃ、開けますよ﹂
その言葉を合図に滝さんは開錠すると、すぐさまヒラリと横に避
けた。
それと同時に、扉がこの会社始まって以来と思われるほどに荒々
しく開く。
滝さんが避けなければ、今頃猛然と突っ込んでいた忠臣さんに弾
き飛ばされていたことだろう。
先輩方は私が思う以上に忠臣さんの性格や行動を理解しているよ
うだ。
しかし私には、そんな先輩方に感心している余裕はない。
﹁理沙っ﹂
私の名前を呼びながら踏み込んできた彼の前髪が、少し崩れて幾
筋か落ちている。
そして逞しい肩が上下しているところを見て更に怖くなり、ソフ
ァーに座ったまま後ずさりした。
375
﹁一体何なんだ。私と理沙を引き離すようなことをして!﹂
渋みのある艶声の怒鳴り声は迫力がある。
しかし、素晴らしい先輩方は一切ひるむことはなかった。
﹁補佐、あんなに扉を叩いたら壊れますよ﹂
﹁まだ壊れていないから問題はないだろう。そもそも、鍵をかけた
方が悪い﹂
呆れ顔の滝さんをギロリと睨んで言い返す忠臣さん。
﹁鍵でもかけておかなければ、私たちの制止を無視して簡単に乱入
するではないですか﹂
隣に座る桑田さんが私を庇うようにその背中へ隠しながら、補佐
に声をかける。
﹁乱入とは人聞きの悪いことを。それより、理沙を拉致した方がよ
ほど性質の悪いことだと思うがな。君達は私と理沙の仲を邪魔する
のか?﹂ ﹁とんでもない、お2人の仲は応援していますよ。ただ、補佐のア
ホみたいに過剰な愛情はいかがなものかと﹂
涼しい笑顔で花田さんが言う。
︱︱︱今、﹃アホみたいに﹄って言ったわよね?休職中とはいえ、
自分の上司に向かって﹃アホみたいに﹄って言ったわよね?
そんなことを内心突っ込んでいるうちに、忠臣さんがすぐ目の前
まで迫っていた。
﹁仕方ないだろう、私は理沙を愛して止まないのだから。それより
理沙、大丈夫だったか?﹂
座っていた私に覆いかぶさるように、そして桑田さんを押しのけ
るようにガバッと抱きついてくる忠臣さん。
﹁あ、あのっ﹂
力強い腕に息が苦しいほど抱きしめられ、目を白黒させる私。
﹁お、落ち着いてくださいっ﹂
376
﹁怪我はしていないか?変な事をされていないか?﹂
真剣な顔の彼が、大きな手で私の体をあちこち触って確かめてい
変な事
をされていると思いますがね﹂
る。心配するあまりなのか、ドサクサ紛れなのか、かなりきわどい
部分まで。
﹁今まさに、
優しい微笑を浮かべながら、花田さんがサラリと呟いたのだった。
桑田さんは呆れたように笑い、滝さんは困ったように笑い、花田
さんは底の読めない微笑を浮かべてミーティングルームを出て行っ
た。
残されたのは、めでたく︵?︶交際を応援されている私と忠臣さ
んの2人。
そして、私はいまだ彼の腕の中に閉じ込められている。
﹁あの、野口補佐?﹂
その腕を放したらまるで消えてしまうのではないかと言わんばか
りに、腕の拘束を緩めない彼を小さく呼ぶ。
彼の広い胸にソッと手を置いて、今度は﹃忠臣さん?﹄と呼びか
けてみた。
すると深く息を吐いた彼が、ゆっくりと姿勢を元に戻す。
少々
と表現するのはどうかと思うが、私は何も言
﹁すまん、少々取り乱したな。驚かせて悪かった﹂ あの様子を
い返さない。
今までの彼氏が私に対して素っ気無い態度ばかりだったので、こ
うやって私を求めてくれる事が嬉しいから。
私は静かに首を横に振る。
﹁驚かされたことは責めませんよ。でも、廊下であんなに大きな声
を出されたことで、社員の方たちに私達の付き合いが知られてしま
った事が恥ずかしくて困ります﹂
377
﹁しかし、知らしめるいい機会になっただろうな。これで理沙に手
を出そうとする厄介な輩が減ったはずだ﹂
﹁え?﹂
思いがけない忠臣さんの切り返しに、私は首を傾げる。
﹁気づいてなかったのか?仕事中の理沙の真剣な表情や、普段から
の綺麗な立ち振る舞いに心を根こそぎ奪われた連中がいるんだぞ﹂
﹁まさか、そんなっ﹂
ありえない。
元彼たちに散々な捨て台詞を吐かれてきた自分としては、忠臣さ
んの言葉が信じられるはずもない。
驚きに目を丸くして彼を見つめると、忠臣さんはフッと目を細め
た。
﹁まさかではなく、本当のことだ。新入社員も、そこそこ古参の独
身男性も、隙あらばと言わんばかりだぞ。さすが、この俺を虜にし
ただけの事はあるな﹂
さっきまでの荒ぶった表情がウソのように、優しく微笑む忠臣さ
ん。
彼の言葉は嬉しいけれど、気恥ずかしくて俯いてしまう。
﹁私は、そんなたいそうな女じゃないですから﹂
﹁理沙は自分の魅力を分かっていないな。ま、俺だけが理沙のこと
を分かっていればいい話だ﹂
満足そうに呟いた忠臣さんが、私の額に唇を寄せる。
それから瞼に、頬に、鼻先に。その後に辿り着くのは⋮⋮。
﹁やっ、待ってくださいっ﹂
唇を塞がれる寸前で身を捩り、どうにかキスをされずに済んだ。
とたんに忠臣さんが不機嫌な声を出す。 ﹁なぜ避ける?﹂
﹁なぜって、ここは会社ですよ!﹂
﹁会社でもいいじゃないか。今は誰も見ていない﹂
確かにこの部屋には2人きり。
378
会社
という場所が、た
しかし、さっきと違ってあの扉に今は鍵がかかっていないはずだ。
いや、例え鍵がかかっていたとしても
まらなく落ち着かない。
ところが私のもがきを物ともせず、忠臣さんは顔を寄せる。
﹁万が一誰に見られても構わないさ。むしろ会社中の連中に見せ付
けてやりたい。俺と理沙は恋人なのだから﹂
彼の右手が私の顎先を捉え、左腕が私の腰に絡みついた。
一層彼による拘束が強まる。
﹁理沙⋮⋮﹂
渋く響くいい声で私の名前を囁きながら、ゆっくりと顔を近づけ
てくる忠臣さん。
おまじない
を思い出した。 クスッと笑った彼の吐息が私の唇にかかった瞬間、私は教えても
らったばかりのあの
﹁場を弁えない人や公私混同する人って、私、嫌いです﹂
大好きな忠臣さんに対して﹃吐き捨てるように冷たく﹄というの
は無理なので、呆れ返ったように言ってみた。沈んだため息のオプ
ション付で。
するとビクッと肩を震わせ、忠臣さんの動きが止まった。
﹁⋮⋮理沙?﹂
今しがた迄感じていた余裕はなく、忠臣さんは不安そうに私の瞳
を覗き込んでくる。
そんな彼の様子に良心がズキズキ痛むが、ここで甘い顔をすれば
忠臣さんは間違いなく突っ走ってしまうだろう。
自分自身の身の安全は勿論だが、万が一にも社の誰かに目撃され、
その結果、忠臣さんのことを悪く言われる事態は絶対に避けたい。
﹁俺を⋮⋮、嫌いになるのか?﹂
﹁会社で不埒なことをするなら、そういうことになりますね﹂
これ以上目を合わせ続けたら演技が続けられない私は、もう一度
379
ため息を付いてフイッと横を向いた。
﹁だから、放してくださいね﹂
その言葉をきっかけに、忠臣さんの腕の力が緩められた。
︱︱︱はぁ、よかったぁ。でも、まさかこんなにも早くこのおまじ
ないを使うことになるとは。 授かった呪文の威力に驚きつつ、自分の彼氏が皆の心配するよう
な人物だったとまざまざと思い知る私の心情はとても複雑だ。
抱きしめられたせいで皺の寄った服を直す振りをして横目で忠臣
さんの様子を伺えば、深く俯いて膝の上で拳を握り締めていた。
﹁そろそろ部に戻りませんか?ところで、補佐は昼食を召し上がっ
たのですか?﹂
すっかり部下に戻った私はソファーから立ち上がり、いつもの口
調で話しかける。
すると俯いたまま、忠臣さんがボソリと呟いた。
﹁会社で不埒なことをしてはいけないんだな?﹂
﹁え?ええ、そうですよ。それより、お昼は⋮⋮﹂
言葉を続けようとした私の目に、顔を上げた忠臣さんの妖艶な微
笑みが飛び込んでくる。
THE 肉食獣
という表情を浮
﹁つまり会社以外でなら、どこで何をしても良いということだな?﹂
嬉しそうに呟く彼は、まさに
かべていた。
ゾクリ、という寒気を感じた私は上司様を残してミーティングル
ームを飛び出し、先に戻っていた3人の先輩達に泣きついたのだっ
た。
380
381
︵57︶私と彼と先輩達 :3︵後書き︶
●花田さんから授けられた魔法の言葉︵笑︶
例え冗談でも好きな人に対して﹁嫌い﹂と言う言葉は使いたくな
かったのですが、話の流れ上やむなく⋮。
だって、このくらい言わないと野口氏止まらないんだもん︵苦笑︶
382
︵58︶差し入れと監禁と私
花田さんから教えてもらったありがたいおまじないのおかげで無
事に忠臣さんから脱出できたものの、その後の業務がちょっと困っ
た。
別に忠臣さんが上司と部下という関係以上のスキンシップを私に
仕掛けてきたり、人前であるにも拘らず甘い言葉で口説いてきたり、
ということで困ったのではなかった。
むしろ、真面目に仕事する彼の姿に参ってしまったと言うか⋮⋮。
いや、仕事をしてくれるのはとてもありがたい。
でも、真剣に書類に目を落とす彼の表情とか、部下に指示する声
の響きの良さとか、少し早足で部内を移動する凛々しい姿とか、そ
のストイックで何気ない立ち振る舞いが逆に私の心臓をドキドキさ
せて困るのだ。
忠臣さんのことは前々からカッコいいとは思っていたけれど、真
剣に仕事に取り組む男の人の姿がこんなにもセクシーなのだとは思
いもよらなかった。
そもそも、自分の彼氏を男性的な意味でカッコいいと思ったこと
はほとんどなかったかもしれない。
とか
支えてあげたい
とか、母性本能といった感覚が
いつも年下の男性と付き合ってきたからカッコいいと思うよりも、
可愛い
強かったのだと思う。 、
だからこそ、恋人であるにも拘らず彼氏に弱いところやダメなと
私が彼を守ってあげなくちゃ
本来の私
という観念に囚われてしまっていた。
ころを見せられず、いつでも
私がしっかりしなくちゃ
自分自身がそう思い込むことで彼氏もそういった私を
だと認識し、ふと気が緩んだ時に見せる大人の女性というイメー
383
ジから逸脱した
う。
私
であるのだ。
本当の
を目にして、彼等はがっかりしていたのだろ
私にしてみればどちらも私であるし、気が緩んだ時こそ
私
だが、そんな私を受け入れてもらえることはなく、受け入れるど
ころか元彼たちは拒絶反応を示していた。
︱︱︱なのに、忠臣さんと言ったら。
どんな私でも愛していると明言し、それどころかダメで子供っぽ
い私に対して、一層の愛情を注いでくれる。
こんなに度量のあるいい人が私の彼氏だなんて、夢ではないだろ
うか。
しかも仕事している姿が、壮絶にカッコいい。
部内の女性社員︵桑田さんを除く︶はそんな忠臣さんに熱心な視
線を注ぎ、そして若い男性社員は憧れと尊敬の視線を向けている。
彼に寄せられる視線はこの海外事業部のみならず、KOBAYA
SHIの社内で多数見受けられるのだ。
そんな人が自分の彼氏なのだと思えば、余計にドキドキしてしま
う。
︱︱︱どうしよう。こんな調子で、仕事できるのかしら?⋮⋮なん
て、甘いことを言っている場合じゃないわね。
海外市場の拡大を積極的に図っている今のKOBAYASHIに
おいて、この海外事業部が一番忙しい部署だと言っても過言ではな
かった。
ヨーロッパ市場拡大においては一段落し、現在はアジア市場の更
なる開拓に奔走しているのだ。
384
ましてやその任務における重要な一端を任されている野口部長補
佐の秘書である私が、いい加減な仕事をしていいはずはない。
いくらダメな私を喜んで受け入れてくれるとはいえ、仕事が出来
ない私を彼に見せたくないのだ。
野口部長補佐の秘書として、忠臣さんの彼女として、彼に呆れら
れたくない。
︱︱︱さ、気合入れなくっちゃ!
少し冷めてしまった紅茶を綺麗に飲み干し、私は自分のパソコン
に送られてきた山のようなメール処理に打ち込むのだった。
お昼休み以降、韓国支社からひっきりなしに送られてくるメール
の翻訳に追われていた。
﹁流石に疲れたわね﹂
ふぅ、と大きく息を吐き、背中を伸ばす。
ふと壁に掛けられている時計を見たら、既に終業を1時間も過ぎ
ていた。
﹁あれ?﹂
パチパチと瞬きをし、腕時計に目を落とす。
そこに示された時間も壁時計と同じ時刻。
﹁もう、こんな時間だったの?﹂
慌てて周囲を見回せば、自分の他には社員の姿がなかった。
﹁ぜんぜん気付かなかったわ⋮⋮﹂
やれやれと軽く首を回してから、デスクの上の資料を片付ける。
そこで、端に貼られている数枚のメモや栄養ドリンクに気がつい
た。
385
メモの内容は業務連絡だったり、先に帰る社員達からの励ましの
言葉だったり。
仕事に集中している私の妨げにならないように、みんながそっと
残してくれたようだ。
﹁なんか、こういうのって嬉しいな﹂
私はメモの一つ一つに目を通し、全て読み終えると栄養ドリンク
を手に取った。
これを差し入れしてくれたのは伊藤君。
お疲れ様です。
真剣な古川さんの横顔に、思わずドキッとしちゃいました。
凛とした姿が素敵です。今度、デートしてください
ドリンクに張られたメモにはそう書いてあった。
﹁ふふっ、伊藤君らしい﹂
部内のムードメーカーでありみんなに可愛がられているマスコッ
ト的存在である伊藤君は、こういったメモをみんなに対して気軽に
残す。
素敵だとか、デートしてくれとか書いてあっても、それは彼の本
心ではなく、あくまでもコミュニケーションとしての表現なのだ。
こういった何気ないメモでも疲れた心をフワッと和らげてくれる
のだから、伊藤君は侮れない。
﹁では、ありがたく頂こうかな﹂
クスクスと笑いながら、私は栄養ドリンクの瓶からメモを剥がし
た。
すると横から手が伸びてきてそのメモを攫い、そしてグシャリと
握りつぶす。
﹁え?﹂
びっくりして横を向けば、そこにはいつの間にか戻ってきていた
忠臣さんがそこはかとなく怒りのオーラを漂わせて立っていた。
386
﹁俺の理沙が素敵なのはよく分かるが、デートに誘うとは不届きな。
二度と理沙の姿を見られないように、アイツの目玉をくり抜いてや
るか⋮⋮﹂
低い声でそう漏らすと、彼の手が一層強く握り締められてギリギ
リと音がする。
不燃ごみ
と書かれたゴミ箱に栄養ドリンクを激しく叩
そして、机に置かれた栄養ドリンクの瓶を取り上げるとつかつか
と歩き、
き込んだ。
ちなみに握りつぶされた伊藤君からのメモは、早々に﹃これ以上
は無理!!﹄ってくらいに細かく破かれてからゴミ箱行きとなって
いた。
﹁え!?﹂
唖然とする私の元に、憤然とした表情で戻ってくる忠臣さん。
﹁あ、あの、ドリンク⋮⋮﹂
座ったままおずおずと見上げると、忠臣さんは
﹁俺がいくらでも買ってやる。それより帰るぞ﹂
と言って、私の腕を掴んで立たせる。 勢いよく腕を引かれたので、立ち上がった拍子によろけてしまっ
た。
しかし、身長も体格もバッチリの忠臣さんは何の危なげもなく私
を支える。
逞しい腕を回して、私の体勢を整えてくれた。
﹁⋮⋮怒っているんですか?﹂
どうにかその腕の中から脱出しようと試みるもことごとく失敗に
終わった為、今は大人しく抱きしめられたままでいる。
仕事中にはなかった冷静さを欠いた彼の様子に、そっと尋ねてみ
た。
﹁怒ってはいない。ただ、少し⋮⋮﹂
﹁少し、何ですか?﹂
私が訊き返すと、忠臣さんはギュッと私を抱きしめる。
387
﹁俺以外の男が、例え他意はなくとも理沙を見ていたり誘ったりす
るのが、我慢できなくてな﹂
﹁忠臣さん?﹂
﹁出来ることなら部屋に閉じ込めて、一生俺だけしか目にしないよ
うにしてしまいたい⋮⋮﹂
そう言って、また更に腕の力を強めてきた。
︱︱︱な、な、な、何言ってんの!?
いくら切ない声で囁かれても、そんな監禁宣言は容認できない。
﹁ふざけたことを言わないでください!﹂
﹁俺は本気だ﹂
間髪入れずに返ってきた答えに、﹃なおさら悪いわ!﹄と心の中
で突っ込む。
部下達から憧れの上司として見られている忠臣さんは、時々駄々
っ子のようなことを言う。
タチが悪いのは、彼がそういった発言を実行してしまえる大人で
あることだ。
しかし、そんなことを実行される私としてはたまったものではな
い。
だから彼を落ち着かせようと、必死で宥める。
﹁忠臣さんが私のことを真剣に想ってくださっているのは、よくよ
く分かっています。それに、私は忠臣さんの彼女なんですよ?恋人
なんですよ?あなた以外の男性に、靡くわけないですよ!﹂
﹁⋮⋮本当に俺以外の男に靡かないのか?﹂
﹁そうですよ!私が好きなのは忠臣さんなんですから﹂
﹁俺と一緒にいたいと思ってくれているのか?﹂
﹁はい!忠臣さんの傍にいたいです﹂
﹁なら、今から俺の家に行こう﹂
﹁勿論です!⋮⋮⋮⋮え?﹂
388
目を大きくする私の視線の先には、ニヤリと口元を緩める忠臣さ
ん。
﹁監禁しない代わりに、朝まで放さないからな﹂
彼の背中には、いつか見た黒い翼が優雅に羽ばたいていた。
389
︵58︶差し入れと監禁と私︵後書き︶
●女帝同様、こちらもご無沙汰しております。
タンポポの竹若とはまた少し違った暴走を見せる野口氏は、やはり
書いていて楽しいですねぇ。
⋮⋮その分、理沙ちゃんが大変な目に遭いますが︵苦笑︶
390
︵59︶苺キャンディ 1つ:1
せっかく伊藤君から差し入れてもらった栄養ドリンクは一口も飲
めずに︵あの栄養ドリンク、高いのにぃ。確か1本2千円くらいだ
ったはず。クスン︶、私は忠臣さんに腕を掴まれ、終業1時間後の
冷静沈着な野口忠臣部長補佐
としての顔しか知らな
社内の廊下を引きずられるように歩いていた。
日頃から
いKOBAHASHIの社員達は、忠臣さんのことをまるで珍獣で
も見るかのように思い切り好奇の視線を向けている。 しかし、今の彼は私にとって猛獣以外の何物でもない。
﹁野口補佐、手を放してください!﹂
﹁嫌だ﹂
彼は振り返ることもなく、ただひたすらに地下駐車場を目指す。
﹁逃げませんから!﹂
ええ、ええ、逃げませんよ。逃げませんとも。⋮⋮逃げられるは
ずもないですから。
しかし必死な私の懇願も叶わず、彼は歩みのペースも私の手首を
掴む手の力も緩めることなく、ズンズンと廊下を突き進む。
そう数が多くないとはいえ、すれ違う人は皆、私たちに釘付け。
︱︱︱ああっ、これで忠臣さんと私が付き合っているってことが不
用意に社内に広まってしまう。
恥ずかしくて恥ずかしくて俯いてしまうと、不意に忠臣さんが立
ち止まって振り向いた。
﹁理沙?﹂
少し不安そうに私の名前を呼ぶ忠臣さん。
そして、俯く私の顔を覗きこんできた。
391
﹁どうした?手が痛かったか?﹂
彼はほんの少しだけ掴んでいた手を緩める。
私は静かに首を横に振った。
分からない
といった表情で軽く首を
﹁いえ、痛みはないです。ただ、その、⋮⋮恥ずかしくって﹂
私の言葉に、忠臣さんは
捻る。
﹁恥ずかしい?何故だ?俺たちはただ歩いているだけではないか。
恋人同士なのだし、手をつないで歩いたところで誰に咎められるこ
ともない﹂
のではなく、
有無を
﹁忠臣さんはそうでも、私にとってはこうして社内であなたに手を
のだが。
手を引かれて歩いている
引かれて歩いているだけでも恥ずかしいんですっ﹂
正確に言えば
言わさず連行されている
まあ、この際それを持ち出したところで羞恥の差はさほどないの
で黙っている。
33歳にもなってこんな程度の事が恥ずかしいのかと馬鹿にされ
そうだが、いくつになっても恥ずかしいものは恥ずかしい。
いや、いい年の大人だからこそ、こうして社内で手を引かれて歩
く事が恥ずかしいのだ。
オマケに、誰も彼もが私たちのことを興味深く見ている。
︱︱︱これからは、出社するのに勇気がいるわ⋮⋮。
顔を真っ赤にして、それこそ耳まで赤く染めて俯く私に、忠臣さ
んはゆっくりと自分の手を離した。
途端にダラリと垂れる私の右腕。
強く握られていたおかげで少々手首が赤くなっているが、それで
も解放されたことにホッと息を吐く。
が、私の安堵は長く続かなかった。
﹁⋮⋮可愛い﹂
392
美声な低音がボソリと呟く。
﹁は?﹂
バッと顔を上げれば、はにかんだように微笑んでいる忠臣さんと
目が合った。
﹁困ったように照れている理沙が、猛烈に可愛い﹂
そう言って、正面に立っていた忠臣さんがガバッと私に抱きつい
てくる。
﹁いやぁぁぁっ﹂
廊下に響く私の甲高い悲鳴。
そんなことには頓着せず、忠臣さんはギュウッと腕の力を強めた。
﹁ああ、その慌てた悲鳴すら可愛くてたまらないな。誰の目にも触
れないように、やっぱり理沙を監禁したい﹂
百歩譲って、公衆の面前で臆面もなく私を可愛いと言うのは許そ
う。
千歩譲って、思い切り抱きついたことも許そう。
だが、その監禁宣言は許すわけにはいかない。
﹁馬鹿なことを言わないでくださいよ!﹂
﹁恋する男は、皆、馬鹿なものだよ﹂
︱︱︱いいえ!誰もがあなたほど馬鹿ではありません!!
ついさっきまで逃げるつもりはなかったけれど、今は本気で逃げ
たいと思った私だった。
⋮⋮で、結局逃げることは出来ず、地下駐車場へと連行されてい
る。
しか、今度は手首を掴まれるのではなく、しっかりと腰を抱かれ
ていた。
393
︱︱︱こんなことなら、大人しく手首を掴ませておけばよかった。
そう思ったところで、後悔先に立たずである。
嬉々として歩く忠臣さんに促され、私は黙って足を進めるしかな
い。
オマケにこうして横並びで歩いているおかげで、忠臣さんは時折
私のこめかみにキスをしてくるのだ。
手首を掴まれたごときで恥ずかしがっていたどころの騒ぎではな
い。
﹁止めてくださいっ﹂
真っ赤になって言えば、
﹁可愛い﹂
と言われ。
﹁いい加減にしてください!﹂
睨み付ければ、
﹁怒った顔がセクシーだ﹂ と言われる。
︱︱︱もう、どうしたらいいのよ⋮⋮。
がっくりとうな垂れたところで、ようやく彼が所持する車へと辿
り着いた。
その頃には心身ともにグッタリしており、彼のされるがままに助
手席へと座らされる。
運転席に座った忠臣さんが身体を寄せて私のシートベルトを締め
てくれたのだが、案の定というか、覆いかぶさるような体勢になっ
たとたんに私の唇に自分の唇を重ねてきた。
︱︱︱場を弁えろと、言ったばかりのに!
394
何度も角度を変えて唇を重ね続けてくる彼の胸を、ドンッと拳で
叩く。
﹁や、やめっ、やめてくださいってば!﹂
﹁どうしてだ?﹂
懲りない恋人様は、今度は啄ばむようにチュッと音を立ててキス
をしてくる。
﹁会社内ではこういうことをしないって、さっき約束したじゃない
ですか!﹂
どうにか隙を突いて彼のキスを避ければ、
﹁ここは会社内ではなく車内だ、だから問題ない﹂
と、自分勝手な解釈を繰り出す恋人様。
そんなことはない、問題だらけだ。
定時を過ぎたとはいえ、駐車場にはまだ車が残っている。
ということは、車の持ち主がやってくるということで⋮⋮。
そう思い至ったところで、二つの足音が響いてきた。
︱︱︱た、忠臣さん!
ドンドンと彼の胸を叩くが、キスが止まるどころか舌が侵入して
くる。
最悪なことに、その足音はますますこちらに近付いてきて、そし
て忠臣さんの正面に停められている車へとやってきた。
確かその車は社長のもの。そして、社長がいるということは、第
一秘書である竹若さんもいるはず。
︱︱︱やめてぇぇぇっ!
顔を赤や青に染めている私に構わず、忠臣さんは深いキスを続け
る。
395
まるで見せ付けるかのように執拗なキスを受け、羞恥のあまり気
を失いかけた私の耳には、
﹃社長。自分が一向に報われない片想いをされているからと言って、
そのように間抜けな、いえ、失礼いたしました。そのように羨まし
そうな顔はなさらないほうがよろしいですよ﹄
という、竹若さんの言葉は届かなかった。
396
︵59︶苺キャンディ 1つ:1︵後書き︶
●すいません、2人の絡みまでは辿り着けませんでした。
次話こそは絡めます!⋮⋮多分︵弱気︶
●今回は﹃タンポポ﹄をお読みの方に、ちょっとだけサービス。
あの2人が分かる方はニマニマしてください♪
そして社長はこちらでも竹若に毒舌吐かれてるし︵笑︶
397
︵60︶苺キャンディ 1つ:2
強引な忠臣さんに拉致されるように︵いや、これは完全に拉致よ
ね!?︶、彼のマンションへと連れられてきた。
車から降りると問答無用で腰を抱かれて歩かされ、玄関に押し込
まれるように入れられたとたんに財布や携帯が入ったハンドバック
と今の今まで履いていたパンプスが奪われ、再び彼に腰を抱かれる。
引きずられるようにリビングへやって来ると、奪われた私の持ち
物はテレビの陰に置かれているダイヤル式の金庫に放り込まれた。
呆気にとられる私の前で忠臣さんは手早く金庫のドアを閉め、グ
ルッとダイヤルを回してしまう。
﹁ちょ、ちょっと、忠臣さん!﹂
彼を押しのけ金庫の扉をガタガタと力任せに引いてみるが、後の
祭りでビクともしなかった。
﹁何するんですかぁ!?﹂
ヘナヘナと座り込んだ私は、すぐ横でゆったりと胡座をかいてい
る彼を睨み付ける。
しかし私の視線などものともしない、それどころか、﹃理沙の顔
は、どんなものでもそそる﹄というふざけた脳みその持ち主である
忠臣さんは、ただただ嬉しそうに笑っているだけ。 ﹁何って、こうしておけば理沙が帰れないと思って﹂
右膝の上に右肘をつけ、片ほお杖の姿勢でニッコリと笑ってくる
忠臣さん。
﹁はぁっ!?なによ、それ!﹂
私を帰さないために私物と靴を金庫に入れるだなんて、そんな事
をされたのは初めてだ。
いや、どんな女性でもこんな仕打ちは未経験に違いない。
﹁ふざけないでください!﹂
398
﹁俺はいたって真面目だが﹂
冷静に言い返してくる忠臣さんに、私は呆れるしかできない。
︱︱︱いやいやいや、真面目に人の持ち物を金庫にしまっちゃう人
ってどうなのよ!? 後悔
という二文字が脳裏
今更ながら、本当に今更ながら、私はとんでもない人の恋人にな
ってしまったのではないだろうかと、
をかすめる。
︱︱︱あり得ない。こんなこと、あり得ない⋮⋮。
呆然としていると、忠臣さんが上体を私の方へと倒してきた。そ
して、チュッと音を立てて私の頬にキスをする。
﹁⋮⋮え?﹂
チュッ、チュッと立て続けに聞こえるリップ音に、私はようやく
正気に戻り始めた。
気が付いた時には私は胡座をかく彼の膝の上に横抱きにされ、頬
に、まぶたに、鼻先にと、たくさんのキスを落とされている。
﹁⋮⋮⋮⋮え?﹂
︱︱︱私、いつの間に抱き上げられていたの!?
どれほど自分はぼんやりしていたのだろうか。
こんな事をされても気が付かなかったなんて、そんなにもショッ
クを受けていたということだろうか。
私がこんなにも唖然としている間に忠臣さんは好き放題していた
ことも、改めてショックだ。
﹁⋮⋮忠臣さん?﹂
ぼんやりと名前を呼べば、彼は切れ長の目をフワリと細めて、唇
399
へとキスを与えた。
ソッと掠めるようなキスは優しくて、身体の力が抜けてしまいそ
うになる。
縋るように彼のスーツの胸元を握り締めれば、さらに忠臣さんは
笑みを深めた。
﹁⋮⋮理沙、このままベッドに行こうか﹂
﹁断固反対です!!﹂
私は即座に自分に喝を入れ、その場から逃げ出した。
どんなにお願いしても忠臣さんは金庫を開けてくれることはなく、
私はふて腐れ全開で彼の作った夕食をムシャムシャと口に運ぶ。
︱︱︱ああ、もう!めちゃくちゃ腹が立っているのに、どうしてこ
んなに美味しいのよ!
ドレッシングもクルトンも手作りだというシーザーサラダは美味
しいし、ミネストローネはトマトの酸味とじっくり煮込まれた野菜
の甘さが絶妙だし、じゃがいものニョッキは歯ごたえ抜群で濃厚な
ホワイトソースとぴったりだし。
非の打ち所のない料理を出され、私の怒りは徐々にクールダウン
してゆく。
食後に温かいレモンティーを出してもらう頃には、すっかり私の
機嫌は直っていた。
﹁ごちそうさまでした。本当に美味しかったです﹂
紅茶が入ったマグカップ︵忠臣さんと色違い︶を受け取り、私は
素直な気持ちでお礼を述べた。
﹁そう言ってもらえてよかったよ。今日はデザートを仕込む時間が
なくてな、済まないがこれでも食べてくれ﹂
400
自分用のマグカップにブラックコーヒーを入れてやってきた忠臣
さんが、小さな包みを差し出す。
﹁何ですか?⋮⋮って、これは!﹂
私の目が忠臣さんの持つ包みのラベルに釘付けとなった。
それもそのはず。
彼が持ってきたのは、S県で苺農園を営んでいる個人農家に嫁い
だ若いお嫁さん達が集まり、地元の小さな工房で完全手作りしてい
るという知る人ぞ知る極上苺キャンディーなのだ。
完全手作りで行っている為、今はまだ地元でしか販売されていな
い。
だがその美味しさは口コミで全国へと広がり、今や手に入れるこ
とがもっとも難しいお菓子としても有名になっていた。
期待に目をキラキラさせて受け取ると、
﹁ああ、これは頂き物でね。最近引っ越してきたお隣さんの実家が、
このキャンディーを作っている苺農園の一つだそうだ。それで挨拶
の時に持ってきてくれた﹂
と、苦笑混じりに説明してくれる。
﹁理沙は苺キャンディーが好きだろ。だから、渡そうと思って取っ
ておいたんだ﹂
﹁うわぁ、ありがとうございます!﹂
逸る心を抑えて慎重に包装紙を開き、そしてゆっくり缶の蓋を開
け、キャンディーを一粒摘んで口の中へ。
甘酸っぱい香りと味は人工的な物とは全く違って自然に口に広が
り、私の顔はこれ以上ないほど綻んだ。
﹁美味しいーーーーー!﹂
子供のように無邪気にはしゃぐ私を見て、優しく私の頭を撫でる
忠臣さん。
﹁それは良かった。じゃ、俺は洗い物を済ませてくるから﹂
﹁あっ。洗い物なら私がしますよ。ご飯作ってもらった上に洗い物
までしてもらったら申し訳ないです﹂
401
マグカップをテーブルに置いて立ち上がろうとすれば、ポンポン
と頭を軽く叩かれた。
﹁気遣いは不要だ。理沙はその飴の味を堪能していろ﹂
クスッと笑った忠臣さんはクシャリと私の前髪をかき混ぜ、キッ
チンへと戻っていった。
美味しいご飯をお腹いっぱい食べて、食後には一度食べたいと願
っていた苺キャンディーを食べて、本当に幸せだった。
忠臣さんの言動にはたまに、いや、結構ついて行けないこともあ
るけど、私には優しいしベタ甘だし。
これまでの彼氏に比べたら別の意味での苦労は多いものの、まぁ、
幸せであることには違いない。
私はキャンディーへと手を伸ばし、2、3個まとめて口に入れる。
このキャンディーは小さくて、よくある飴よりも解けやすいので
口にほおばって食べたくなるのだ。
︱︱︱拉致とか監禁とか言い出さなければ、本当に文句なしの恋人
なんだけどなぁ。
舌の上でキャンディーを転がしながら、私は洗い物をしている忠
臣さんの背中を見て小さく笑う。
︱︱︱愛されている証拠と言うことなんだろうけど、仕事中のクー
ルな忠臣さんからは想像できないほど激情タイプよね。
クスクス笑いながら、私はソッと前髪をかき上げる。
その時、右側につけていたヘアピンがないことに気が付いた。
琥珀色のラインストーンがついていて、職場に着けていっても場
402
違いではなく、ちょっと上品でお洒落で気に入っているヘアピン。
﹁あれ?どこで落としたんだろう﹂
車を降りた時には、しっかりとついていたはず。
︱︱︱玄関で少し暴れた時に落ちちゃったのかな?
忠臣さんに靴を奪われた時のことを思い出し、苺キャンディーを
いくつか口の中に入れてから私は玄関へ向かった。
403
︵60︶苺キャンディ 1つ:2︵後書き︶
●新年明けました☆
2013年最初の投稿は苺でございます。
相変わらず忠臣さんがやってくれていますよ。
理沙ちゃんの私物を金庫にしまって帰れないようにするとは︵苦笑︶
絡みまでなかなか到達できなくて申し訳ないです。
絡み以外の二人のイチャイチャを書くのが面白くて⋮。
でも、次は絡ませますので、今暫くお待ちくださいませぇ。
404
︵61︶苺キャンディ 1つ:3
口の中で苺キャンディーを転がしながら、玄関付近を捜索中。
小さくて細いヘアピンだが、忠臣さん宅の玄関は物が少ないので、
そんなに時間もかからずに見つかるだろう。
まずは玄関にある忠臣さんの靴と、普段履きに使っている彼のサ
ンダルをどかした。
それからそのサンダルを履いて、陶器製の傘立てを動かす。
すると傘立て奥の左隅に落ちていたのを、予想通り難無く発見。
﹁あった、あった﹂
指でつまみ上げ、汚れを軽く拭いてから満足げに上着のポケット
にしまう。
﹁見つかって良かった﹂
と、呟いたところではたと気が付いた。
忠臣さんはキッチンで洗い物。
つまり、ここにはいない。
オマケに目の前にある扉を開けば、簡単に外に出られる。
ということは⋮⋮。
︱︱︱逃げられる?
私の靴は金庫に仕舞われてしまったが、今履いている忠臣さんの
サンダルを借りればいいだろう。
自分の服装とかなりミスマッチだが、まぁ、夜だし、他人もさほ
ど私の足下を気にすることはないだろう。
財布も携帯も家の鍵もないが、警察に財布を落としたとでも言え
405
ば、電車賃を貸してもらえるかもしれない。
そして実家に行けば、今夜は取りあえず無事に過ごせる。
︱︱︱行く?行っちゃう?
﹁行ってしまおうかしら?﹂
私はゴクンと息をのんで、ゆっくりと内鍵に手を掛けた。
その瞬間、
﹁外には行かせられないが、天国にはイかせてやるよ﹂
という艶っぽい声が耳元で聞こえ、後ろから私のお腹に逞しい腕
が絡みつく。そしてグイッと引き戻されてしまった。
﹁えっ?!﹂
ギクリと身をすくめる私。
私を拘束しているのは、この部屋の住人で、私の私物を隠した﹃
野口 忠臣﹄という名前の魔王である。
彼は抱きしめている腕に一層力を込めて、耳元でクツクツと笑う。
﹁何をしていたんだ?﹂
︱︱︱脱走しようとしていましたけど。
とは口が裂けても言えない。
こういう笑い方をする時の彼には絶対に逆らってはいけないのだ
と、これまでの付き合いで嫌というほど分かっている。
自分の身で散々味わいましたとも。ええ、そりゃあもう、徹底的
に。 ﹁あ、あ、あ、あ、あの、こ、これっ﹂
なので私はヘタなことは言わず、慌ててポケットからヘアピンを
406
取り出した。
﹁さっき、なくなっていることに気が付いたので。もしかして玄関
に落ちてないかなぁと思って、探しに来ただけです。ええ、そうで
す、そうなんです。ただそれだけなんです!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ほぅ﹂
私が必死に主張をすると、たっぷり間を取った後に一層深い声が
耳元で囁かれ、ますます私の身体が硬直する。
ビクビクと怯えながら魔王様の審判を待っていると、背後でフッ
と小さく笑うのが分かった。 ﹁そういうことにしてやってもいいがな﹂
見なくても分かる。今の忠臣さんは、壮絶に真っ黒な笑顔を浮か
べていることを。そして背中には大きくて黒い翼が悠々と羽ばたい
ていることを。
︱︱︱ひいいいいっ。
出来ることなら逃げたい。
この際だ、靴も財布も携帯も諦める。
だがしかし。
︱︱︱ここは逆らってはいけない。けして!
私は本能に従った。
結局私は彼に引きずられるようにしてリビングに連れ戻され、ソ
ファーへと座らされた。
すぐ横に忠臣さんが腰を下ろす。
407
﹁何か飲むか?﹂
﹁い、い、いえ、お構いなく⋮⋮﹂
異常な緊張感に包まれている私は少しでも心を落ち着かせようと、
ローテーブルに置かれているあの苺キャンディーに手を伸ばす。
が、缶には何も残っていなかった。
︱︱︱あれ?あと1個はあったはずだけど。
手を伸ばした体勢で固まる私に、横にいる忠臣さんが困ったよう
に頭を掻いた。
﹁すまん。残っていたから、もう要らないのかと思って食べてしま
った﹂
﹁あの、そんな、いえ。私はすでに十分食べたので﹂
と言いつつも、思いっ切り未練たらたらの私。
それが分かったのか、忠臣さんが
﹁ならば、返そう﹂
と言ってきた。
﹁え?でも、忠臣さんが食べてしまったんですよね?﹂
﹁まだ残っているさ﹂
そう告げて不敵に囁く彼の様子に、私の背筋を冷たい何かが走る。
とっさに逃げだそうとした私よりも先に、忠臣さんがガッシリと
私の肩と腰に腕を回してきた。
﹁な、なにをっ﹂
引きつる私に、忠臣さんが笑みを深めて近づいてくる。
﹁だから⋮⋮、返すんだよ、飴を﹂
﹁は?﹂
︱︱︱それは、どういう事!?
と、聞き返すまもなく、忠臣さんが唇を重ねてきた。
408
﹁ん、んんっ﹂
引き結ばれた私の唇を彼の舌が割り入ってくると、同時に彼の口
の中にあった苺キャンディーが押し込まれる。
甘くてほんのり酸っぱい苺の味が、私の口の中に広がった。
︱︱︱返すって、こういうことっ!?
まさかの展開に驚いている私に構わず、忠臣さんはどんどんキス
を深める。
彼の右腕は相変らず私の肩に回されていて、左手は腰に絡みつい
ているため、私はまったく逃げる事が出来ずに彼のキスを受け続け
るしかない。
﹁あ、ふっ﹂
息が苦しくなって空気を求めるが、追いかけてきた彼の唇にすぐ
さま塞がれた。
小振りの苺キャンディーはとっくに解けてなくなっているのに、
彼の舌は私の口の中を我が物顔で動き回り、舌を絡み付けては吸い
上げ、クチュリと湿った音を立てている。
キャンディーを舐めていたせいか、いつもより唾液が分泌されて
いるので、舌が動くたびに大きな水音が耳に届いた。
蛍光灯が煌々と灯るリビングに響く淫靡な音に、私は身体の奥が
ジワジワと熱くなるのを感じる。
そんな私の変化を鋭く察知した忠臣さんは、肩に回していた手を
私のうなじへと移動させ、そして指先でスルリと項を撫で上げる。
﹁んんっ﹂ いまだに塞がれている私の唇から、くぐもった喘ぎが上がった。
彼に抱かれるようになってから、私は以前とは比べものにならな
いほど敏感になってしまったようで、忠臣さんが与える些細な仕草
で容易に反応してしまう。
﹁ん、ふ⋮⋮﹂
409
彼にすがりついていないとソファーからずり落ちてしまいそうな
ほど力が抜けてしまい、私は彼のYシャツにしがみついた。
それに気を良くしたのか、雰囲気だけで忠臣さんが微笑んだのが
分かる。
彼はしつこくうなじに指を這わせ、耳を擦り、私を徐々に追い詰
めてゆく。もちろん、その間も彼の深くて熱いキスが止むことはな
い。
そのたびに私は快感に襲われて、ピクッ、ピクッと小さく跳ねる
しかなかった。
410
︵62︶苺キャンディ 1つ:4
執拗なほどに深いキスを繰り返され、私の頭の中は白い霞がサワ
サワと広がってゆく。
思考能力が奪われるほど、忠臣さんが与えてくれるキスは気持ち
よくて、嬉しくて、幸せで。
私は彼の胸にしがみつきながら、ただ、ただ、忠臣さんの唇の熱
を感じていた。
今までの彼氏とも真剣に向き合ってきたつもりだったが、そして
自分なりに恋愛というものをしてきたつもりだったが、これまでに
経験した過去の恋愛はなんと子供じみたものだったのかと思えるほ
どのキスだ。
私
という人間そのものを丸ごと欲しがられている
それほどまでに、彼に求められているのが分かった。
身も心も、
事が伝わってきた。 私に対して怖いくらいの独占欲を向けてくる忠臣さんだが、それ
ほどまでに私を愛してくれているのだと思えば、逆にそれが幸せだ
と感じる。
⋮⋮が、それは時と場合と加減にもよるが。
息つく暇も与えてくれないほど、忠臣さんは私にキスをし続ける。
思考も四肢の力も奪われ、私はクタリと彼に身を預けるが、それ
を幸いとばかりに忠臣さんは私の身体を強く抱き締めて、更に唇を
塞いだ。
411
︱︱︱く、苦しい⋮⋮。
薄れゆく意識は過ぎる幸せの為か、急激な酸欠の為か。
いや、この場合、どうみても明らかに後者だろう。
私は右手で作った拳で、素晴らしい筋肉に覆われている彼の逞し
い胸を叩く。
しかしそれは子猫がじゃれ付いているとしか思えないほど弱々し
く、そのせいか、彼のキスが止むことはない。
唇も舌も呼吸も激しく奪われ、いよいよ私の意識が危うくなった
時、ようやく忠臣さんが唇を放してくれた。
しかし素直に放すことはなく、彼の舌先が私の唇の輪郭を何度も
なぞっている。
それでもどうにか訪れた開放感に、私は深く息を吸った。
︱︱︱自由に息が出来るって、こんなにも幸せなのね。
ただ唇を重ねていただけなのに、まるで100メートルダッシュ
をしたかのように肩を上下させて大きく息をする私。
そんな私を悪びれた様子もなく、それどころかうっとりした瞳で、
ものすごく嬉しそうに見つめている忠臣さん。
ちなみに彼はまったく息が乱れていない。
﹁少し無理をさせたか﹂
艶のある声で囁く忠臣さんに、呼吸が整わない私は睨み付けるこ
としかできない。
天国
とは死後の世界のことですか!?
︱︱︱少しどころか、かなり危険な状態でしたが!もしかして、さ
っき言っていた
苦しくて自然と滲んだ涙が、目尻をツ⋮⋮と伝う。一雫流れた涙
は次々と溢れ、頬が濡れてゆく。
412
その涙を、忠臣さんが親指でソッと拭った。
﹁すまない、かなり苦しい思いをさせてしまったか﹂
さきほどの嬉しそうな顔は消え、心底心配そうに私の頬を優しく
撫でる忠臣さん。
力の抜けた私を労わるように、彼の腕が私を包み込む。
彼から伝わる穏やかな温もりと力強い心音を感じながら、私は何
も言えずに俯いた。
そんな私を更に優しく抱きこみながら、忠臣さんはゆっくりと息
を吐く。
﹁理沙が俺の傍から消えるのが怖くてな。目を放した隙にいなくな
ってしまうのがとてつもなく恐ろしくて、それでつい、理沙の身体
の力が抜けるまで⋮⋮。すまなかった。理沙を苦しめるつもりなん
て、これっぽっちもなかったんだ。すまない、理沙。本当にすまな
かった﹂
低く響く声が謝罪を繰り返す。
忠臣さんの胸にしなだれかかっている私の頭を、大きくて優しい
手が何度も何度も撫でていた。
お互いが無言になり、リビングには静かな時間が流れる。
彼に宥められながら、私はボンヤリした頭で彼の言葉を廻らせて
いた。
︱︱︱私が消えるのが怖いだなんて⋮⋮。忠臣さんほどのいい男な
ら、新しい彼女なんてすぐに見つかるだろうに。こんな私を、無理
に留めておくこともないだろうに。
﹁どうして⋮⋮﹂
彼の胸に顔を伏せたまま、私は呟く。
﹁ん?なんだ?﹂
私の小さな声に、忠臣さんが優しく訊き返してきた。 スッと短く息を吸った私は、改めて口を開く。
413
﹁どうして、私なんですか?忠臣さんの隣が似合う女性は、たくさ
んいるのに⋮⋮﹂
頭の中がフワフワしている私は、特に考えもなく、ふと、そんな
ことを口にする。
すると、忠臣さんがクスッと笑いを零して、愛おしそうに私の頭
に頬ずりしてきた。
﹁どうしてと訊かれても、答えられないな。俺が理沙を求めるのは、
理屈じゃないんだよ﹂
耳に心地よい声で優しく優しく囁く忠臣さん。
それを聞きながら、私は小さく頷いた。
﹁そうですか⋮⋮﹂
本人に分からない事をこれ以上訊いても無駄だろう。
そう思って私が口を噤めば、
﹁しいて言えば、本能だ。理沙の全てを徹底的に奪いつくして俺だ
けのものにしてやりたいという本能が、俺の中に激しく渦巻き、そ
れが俺を突き動かしている。そして理沙を俺だけのものにするため
ならば、少々法に触れても構わない覚悟だ﹂
と、私が欲しかったものとは着地点の違う答えがきっぱりとした
口調で返ってきた。
それを聞いて、私の背筋が寒くなったのは言うまでもないだろう。
ガクガクと震える私の後頭部に忠臣さんは右手を当て、私を上向
かせた。
﹁おしゃべりは終わりだ。言葉じゃなく、全身で俺の愛を分からせ
てやる﹂
草食動物を捕食しようとしている肉食獣を思わせるぎらついた瞳
で私を見つめ、今までよりも一層低く囁いたかと思えば、忠臣さん
に押し倒される。
﹁え?﹂
414
これまで大人2人を支えてもびくともしなかった立派な背もたれ
が、忽然と消えていた。
驚いて目を開く私に、忠臣さんはニヤリと笑う。
﹁ベッドにもなるんだよ。足元のレバーで、背もたれが倒れるんだ﹂
私の上に圧し掛かり、肩を押さえつけながら、忠臣さんが嬉々と
して説明してくれる。
﹁このソファーはベッド並に大きくて、こうしてフラットにすれば
スペースには何の問題もない。かなり丈夫な製品だから、多少激し
く動いても壊れないさ﹂
︱︱︱何が問題ないんですか!どう激しく動くんですか!
青ざめる私をよそに、忠臣さんは色気満載の顔で品のよいネクタ
イを勢いよく引き抜いたのだった。 415
︵62︶苺キャンディ 1つ:4︵後書き︶
●忠臣さんが、だんだん﹁痛い人﹂になってゆく⋮。
でも本当に好きな人も前では、このぐらい必死になってくれたほう
が、書く立場としては面白いです。
まぁ、相も変わらず理沙ちゃんは大変でしょうがね︵苦笑︶
416
︵63︶苺キャンディ 1つ:5
自分の首からネクタイを引き抜き、それを無造作に床へと落とす
忠臣さん。次いでYシャツのボタンを右手だけで1つ、2つと外し
てゆく。
その様子を少々怯えた眼差しで見つめる私。
逃げようにも逃げられない。
女性の私と比べて圧倒的に体格のいい彼にマウントポジションを
取られ、なおかつ、忠臣さんの左手で私の右肩をガッチリと押さえ
込まれているのだ。
それに、例え今この瞬間を逃れたとしても、﹁悪い子にはおしお
きだ﹂といわんばかりに、激しくて執拗な愛撫が襲ってくるに違い
ない。
過去の経験からして、それは絶対だ。断言してもいい。
彼の恋人
逃げたい思いもあるけれど⋮⋮、でも、私の本心はそれだけでは
なかった。
この恋人が与えてくれる激しいまでの愛情は、私に
としての存在意義を与えてくれるから。そして私に対する愛情の表
れだから。
だから、なんだかんだ言っても、彼に抱かれることは拒みきれな
い。
忠臣さんが上半身に纏っていたものを全て取り払ってしまうのを、
私はジッと見上げていた。
適度な筋肉に覆われた逞しい肌を露にした忠臣さんが、私を見て
ふわりと口元を緩める。
﹁その仕草は誘っているのか?﹂
417
﹁え?﹂
ベッドと化したソファーにただ横になっているだけなのに、忠臣
さんが艶っぽく笑ってそう言った。
﹁別に、誘っては⋮⋮﹂
何をしたわけではない私は、彼の言葉の意味が把握できない。
瞬きを繰り返す私に、忠臣さんは眼を細めた。
﹁ああ、そうか。どんな些細な仕草でも、理沙は色っぽいからな。
ただ見上げられているだけでも、誘われているように思えるんだ﹂ 私の何倍もの色気を醸し出している彼にそう言われても、正直実
感がない。
わずかに首を傾げると更に忠臣さんは笑みを深め、肩にあった手
も外して両手で私の頬を包んだ。
少しかさついて、やや硬くなった皮膚の感触が頬に当たる。
とても大きくて温かくて、男性特有の骨格をした男らしいその手
の温もりが、緊張気味だった私の身体のこわばりを少しずつ解いて
ゆく。
﹁理沙。可愛い、俺の理沙⋮⋮﹂
囁きながら、忠臣さんが上体をかがめて顔を近づけてきた。
きっちりと撫で付けられていた前髪がハラリと崩れ、彼の形のい
い瞳にかかって、独特の妖しさを漂わせる。
その前髪の間から真っ直ぐに私を見つめる彼。
そんな彼を真っ直ぐに見つめ返す私。
お互いが、お互いの存在だけをお互いの瞳に映し出している。
その様子に、忠臣さんは満足気に微笑んだ。
﹁ふふっ。そうだ、俺を見ろ。いつだって、俺だけを見ていろ。そ
うしてくれないと、俺は理沙の視線の先にある全てを破壊してしま
いかねないからな。⋮⋮物でも、人でも、容赦なく﹂
クツクツと喉の奥で低く笑った忠臣さんは陶然とした口調でそう
告げると、ゆっくりと自分の唇を私の唇に重ねた。
418
ついさっきまでの何もかもを奪うようなキスではなく、心の隙間
を埋める何かを与えてくれるようなキスを忠臣さんは繰り返す。
優しく唇を押し当て、少し離れては舌先で私の唇をなぞり、そし
て角度を変えてまた重ねた。
私が強引なキスに怯えたことを、彼なりに気にしているのかもし
れない。
いつだって厚顔不遜な忠臣さんだが、こうして私の様子を伺って
くるような態度は何だか嬉しい。
私
という一人の女性であり、彼の恋人としての
だってそれは、私のことを単に快楽を吐き出す為のモノとしての
存在ではなく、
存在を認めてくれているということだから。
繰り返されるこのキスに激しさはない。
しかし、そこには執着にも似た彼の愛情の深さを感じた。
﹁理沙、愛してる。俺から離れるな、絶対に。愛してるよ⋮⋮﹂
キスの合間に何度も囁かれる名前と睦言。 それがくすぐったいほどに嬉しくて、私は静かに彼の首へと腕を
回す。
抱き締めるように彼の首裏と背中を腕で捉え、縋りつくようにそ
っと引き寄せた。
するとその仕草が合図だといわんばかりに、彼の舌が私の唇を割
り入ってくる。
逃げることはしないけれど、なかなか積極的になれない私の舌を、
彼は優しく捉えて絡ませた。
︱︱︱熱い⋮⋮。
筋肉量が多い人は代謝がいいせいか、体温が高いように思える。
だからだろうか、こんなにも忠臣さんの舌が熱いと感じるのは
419
︱︱︱それとも、私に欲情しているから?だから、忠臣さんはいつ
でもこんなに熱いの?
そうであればいいと思い、私も拙いながら忠臣さんの舌に自分の
舌を絡ませた。
2人で絡ませあううちに、重ねた唇の隙間からはクチュリと水音
が洩れる。
私にとってはひたすら恥ずかしい音だが、忠臣さんにとっては官
能を刺激する好ましい音のようだ。
彼はさらに深く舌を侵入させ、しなやかに私の舌を奪い、更に湿
った音を立てさせようと私の口内で動く。
チュク。クチュ⋮⋮。
私は自分の頬や耳がカァッと赤くなるのを自覚した。
だが、彼のキスが止むことはない。
何度も何度もキスを与えながら、私の頬を覆っていた手はいつの
間にかそこから外れ、首筋や胸元を這っている。
鎖骨の辺りをサワサワと撫でられ、ボタンの外されたブラウスの
前身ごろが開かれ、キャミソールの裾から侵入してきた手が胸の膨
らみを揉みあげた。
大きな手が胸をすっぽりと覆い、強く弱く揉みしだく。
忠臣さんの動きに合わせてブラの布地が擦れ、乳首が敏感に反応
してしまった。
﹁あ、ふ⋮⋮﹂
その刺激に、唇のわずかな隙間から喘ぎが零れる。
すると、唇を重ねたまま忠臣さんがクスッと笑ったのが分かった。
それは私を嘲笑ったのではなく、彼の与える刺激に反応すること
が嬉しいという笑み。
クスクスと笑いながら、忠臣さんが胸の先端をブラの上からキュ
ッと摘んだ。
420
﹁んっ﹂
背筋が弓なりに反り、ビクンと身体が跳ね上がる。
それに気を良くした忠臣さんは、立て続けにそこを摘み上げ、時
折左右に捻った。
﹁理沙はこうされるのに弱いな﹂
﹁あっ、だめっ⋮⋮﹂
胸元で動く彼に手を押さえようと手を重ねるが、そんなもので止
まる忠臣さんではない。
それどころか、ますます動きを強める。
気がついた時にはブラウスはすっかり肌蹴ており、キャミソール
はデコルテまで捲り上げられ、ブラは外されていた。
彼の目の前にはフルフルと揺れる乳房と、それに合わせて揺れる
赤く色づいた乳首が。
もちろん、それを放っておく忠臣さんではなく、彼は右の乳首を
口に含んだ。
ネットリと舌で舐めあげては舌先と尖らせて転がし、チュクチュ
クと音を立てて吸い上げる。
ただでさえ敏感だった乳首が、一層硬く膨れ上がった。
﹁あ、あんっ。や⋮⋮、ああっ﹂
甲高い嬌声が立て続けに私の口をつき、背中は大きく仰け反る。
その体勢は彼に対して胸を突き出すこととなり、更に刺激をねだ
っているかのようだ。
けしてそんなつもりはないのだが、忠臣さんは再び喉の奥で楽し
そうに笑いながら、口腔内で弄んでいる乳首に歯を立てる。
そしてもう片方の乳首を右の人差し指でカリカリと引っかいた。
痛いほどに立ち上がった乳首には、歯先と爪先での刺激は十分す
ぎるほど。
﹁ん、くっ﹂
私は首を左右に振り、与えられる刺激を受け止めようとする。
﹁はぁ、あ⋮⋮、んんっ!﹂
421
二つの乳首から異なった刺激が次々と与えられ、私の首は更に大
きく振られた。 そんな私を忠臣さんはチラリと見上げ、空いている手をローテー
ブルへと伸ばす。
彼が何かしらを動かした後、部屋の照明が徐々に落ちていった。
忠臣さんが私の胸元を強く吸い上げてキスマークを残すと、上体
を少しだけ起こす。
そして艶めく声で囁いた。
﹁あまりに明るいと、俺の興奮が収まらなくて理沙を抱き潰しかね
ないからな﹂
そう告げる彼の瞳は、薄明かりの中でも餌を前にした肉食獣のよ
うにギラついていたのだった。
422
︵64︶苺キャンディ 1つ:6
明度を落とした部屋の中。
私の目の前で薄明かりに浮かぶのは、無駄なものが一切無い忠臣
さんの鍛えられた身体。
小柄とはいえない私を抱き上げてもビクともしない、逞しい腕。
私のことをすべて受け止めてくれる広い胸。
これまでに何度も抱かれて何度も目にしているのに、それでも、
初めて見たかのように彼の素肌にはドキドキする。
そして⋮⋮。
﹁理沙﹂
まるで世界一の宝物のように、私の名前を大切に音にしてくれる
耳に心地よい声。
私以外の存在を映さない、真っ直ぐで強い眼差し。
どれもこれもが、いつだって私の胸を高鳴らせる。
﹁忠臣さん⋮⋮﹂
初心なお嬢さんなどではないのに、心臓が激しく脈を打ち、彼の
名前を呼ぶことで精一杯だ。
そんな私を笑うことなく、忠臣さんは優しく微笑んで私に覆いか
ぶさってくる。
改めてしっとりとキスをかわし、忠臣さんの大きな背中に抱きつ
いた。
彼の右手は私の頬を撫で、スルリと首筋を辿り、胸元を通り、更
に下を目指す。
少しずつ手を移動させながら、ゆっくりと私の服や下着を剥いで
ゆく。まるでそれは服を脱がせることも一つの愛撫であるかのよう
423
に。
彼の手が敏感になった肌を滑るたびに、ピクリと小さく跳ねる私。
ただ触れているだけなのに、その大きく熱い手が忠臣さんのもの
だというだけで、私は反応してしまう。
すると宥めるように、私の口腔内にある忠臣さんの舌が優しく私
の舌を吸った。
ゆっくりと絡まり、ねっとりと解き、また吸い上げる。
ピチャリ⋮⋮。
湿った音が互いの唇の隙間から洩れた。
その音がやっぱり恥ずかしくて、だけど気持ちよくて、キュウッ
と忠臣さんに抱きつく。
そうすると、彼は分かっているといわんばかりに、大きな手で私
の全身を優しく撫で回すのだ。
程よい温もりを持った忠臣さんの手が、私の緊張を解すようにゆ
ったりと私の肌の上を滑る。
その手がウエストの括れを撫で、お尻の丸みを辿り、そして、愛
液でしっとりと濡れる茂みへと到達する。
髪の毛とは違って少しばかり硬い恥毛の感触を、忠臣さんはサワ
サワと指で味わう。
生えている流れに沿って撫で下ろしたり、指でクルリと巻き取っ
てみたりと、しばらくそんな仕草を繰り返していた忠臣さんの手が、
スルリと秘裂に滑り込んだ。
﹁ぅふっ﹂
ビクン、と私の肩が跳ね、声が出る。
しかし、いまだに唇が重なったままなので、短い嬌声はくぐもっ
た物だ。
忠臣さんは人差し指と中指で陰唇に割り入り、愛液で濡れそぼる
膣口に触れた。
そして関節一つ分だけを挿し入れ、チュプチュプと水音を上げさ
424
せる。
﹁ふ、んん⋮⋮﹂
鼻にかかった喘ぎが洩れた。
男の人らしいしっかりとした指で膣の入口付近を浅く抜き差しさ
れ、もどかしさに私の体が震える。
まるで先をねだるように、忠臣さんに抱きつく私。
ツンと硬く立ち上がった二つの乳首を無意識に彼の胸に擦り付け
ると、忠臣さんが喉の奥で笑ったのが分かった。
﹁欲しいのか?﹂
もっと奥まで、
唇を離し、忠臣さんが訊く。相変らず浅い挿入だけで、クチクチ
とわざとらしく水音を立てながら。
とは。
彼に訊かれても、恥ずかしくて言葉に出来ない。
熱いものが欲しいのだ
だから、分かって欲しくて、私は懸命に彼に擦り寄る。
忠臣さんの体に押し付けられ、私の胸が柔らかく形を変えた。
それでも、忠臣さんは膣口だけを弄るのみ。
溢れる愛液を指で掬って、2本の指先だけを入れてユルユルと出
し入れする。
︱︱︱それじゃ、物足りないのに。
﹁あ、やぁ⋮⋮﹂
もどかしさに思わず私は腰を揺らしてしまう。
が、忠臣さんはクスクスと笑うだけで、ちっとも私が欲しいもの
をくれない。
﹁た、忠臣さんの⋮⋮、意地悪⋮⋮﹂
そんなセリフが吐息混じりに口をつけば、ますます忠臣さんは苦
笑を深くするばかりだ。
﹁どうして俺が意地悪なんだ?理沙がはっきり言えば、すぐにでも
応えてやるぞ﹂
425
私が言えないことを知っているのに。
そうやって言う事が意地悪なのに。
﹁⋮⋮もぅ、バカ﹂
悔しくなって、でも、どうしても口にする事が出来なくて、私は
彼にきつく抱きついてそう囁く。
バカ
なんて言ったら、お
すると、忠臣さんの動きがピタリと止まった。
そして、
﹁理沙。この状況でそんな掠れた声で
前の足腰は保障できないぞ﹂
と、熱さと激しさと艶っぽさを織り交ぜた声で呟いてきた。
﹁⋮⋮え?﹂
まどろっこしい熱に犯されてボンヤリとしていた私が短く一言訊
き返せば、次の瞬間に膣口に添えられるような動きしか見せていな
かった2本の指がズブリと一気に根本まで埋まる。
おまけにいつの間にかプクリと膨れていた陰芽が、同時に彼の親
指の腹で押しつぶされた。
﹁ひ⋮⋮、ああっ!!﹂
埋まった指が激しく前後してジュブジュブと音を当ててナカを攻
め、当てられた親指の腹で硬く存在を主張している陰芽をグリグリ
と弄られる。
﹁いやぁっ、あ、んん、くっ!﹂
いきなりやってきた激しい快楽に体が驚き、悲鳴と大して変わら
ない嬌声が口を飛び出す。
﹁あんっ、あっ、だ、だめっ⋮⋮!﹂
﹁ん?駄目じゃないだろ?﹂
腰に響く低い美声で囁かれながら秘部を弄られ、ますます頭がボ
ウッとなる私。
﹁やっ!な、なんで、急に⋮⋮?﹂
私はいったいどんな失態を犯したのだろうか。分からない。分か
らない。
426
体を駆け巡る淫熱に翻弄され、私の思考回路は既に役立たずだ。
秘部から全身に広がってゆく悦楽に頭が支配され、グズグズに解
け始めている身体が完全に溶けてしまわないように、必死で忠臣さ
んに抱きつく。
バカ
なんて言うのは、
そんな私を組み敷きながら、忠臣さんが更に艶を増した声で囁く。
﹁抱き合っている最中に色っぽい顔をして
単に俺を煽るだけだ﹂ そう言った忠臣さんは一層熱心に手を動かす。
絶え間なく押し寄せる刺激に、膣口からコプコプと滴る愛液。
そのぬめりでナカにある彼の指は更に滑らかに動き、それが愛液
の分泌を促し、よって、忠臣さんの指の動きは潤滑さを増すばかり。
この無限ループに、私の思考回路がジリジリと焼き切れてゆく。
2本の指が限界まで入りこみ、その少しざらついた指先が私のイ
イ所をザリザリと擦り上げ、陰芽を弄る親指の腹が押し付ける強さ
をそのままに左右にクニクニと動けば、私は絶頂を迎えるしかない。
﹁あ、あぁ、も、もう、だめぇっ⋮⋮!﹂
普段にない高い声を上げ、そして、私は目の前に広がる真っ白な
世界を見た。
仰け反った身体がガクンとソファーの座面に落ちる。
胸を大きく上下させて息をしている私の両足を肩に担ぐと、忠臣
さんは熱くて硬い剛直を一気に秘部へと突き刺した。
ズブズブと奥まで侵入してくる忠臣さんのペニス。
﹁や、あぁぁっ!﹂
いくら待ち望んでいたとはいえ、絶頂直後にこの刺激は強すぎる。
挿入されただけでもキツイのに、忠臣さんは体重をかけて容赦な
く腰を打ち付けてきた。
育ちに育った彼のペニスの存在感は、先ほどまでナカを弄ってい
427
た指などとは比べ物にならない。
ひくつく膣壁を押し広げるように強引に侵入し、ガツガツと突き
上げる。
いつものように、いや、いつも以上に激しく攻めてくる忠臣さん。
彼のペニスが挿入され、引き戻されるたびに、結合部分からはグジ
ュグジュといやらしい音がひっきりなしに上がる。
﹁ほら、これが欲しかったんだろ?﹂
そう言って、忠臣さんは抜けそうになるギリギリまで引いた腰を
一息に押し付けてきた。
勢いよく入ってきたペニスの先端が、グンッと私のイイところを
抉る。
﹁ひぃ、ああぁっ!!﹂
私は喉を引きつらせて喘ぐ。
﹁理沙が欲しかったものを、思う存分くれてやる。なぁ、俺はちっ
とも意地悪じゃないだろ?優しいだろ?﹂
クツクツと笑いながら、忠臣さんは大きく腰をグラインドさせた。
彼の身体の下で、彼の思うように揺さ振られて、もはや私はまと
もな言葉を紡げない。
いつも抱かれるベッドよりもスプリングが利いているこのソファ
ー。性能のいいスプリングのせいで衝撃は逃げることなく、それが
あますところなく私を襲う。 ﹁あ、は、ぁっ⋮⋮﹂
嬌声すらろくに上げられなくなり、掠れた吐息だけが私の口から
零れた。 悦楽の波に飲み込まれ、焦点が合わなくなってきた私の瞳を覗き
込み、忠臣さんがニヤリと笑う。
﹁俺を煽った責任、その身体で取れよ?﹂
その言葉は、意識を手放しつつある私の耳には届かなかった。
428
︵64︶苺キャンディ 1つ:6︵後書き︶
●おかしい⋮。
野口氏は理沙ちゃんのことを溺愛しているのに、どうしてこうも
黒いんだろうか︵笑︶
ごめんね、理沙ちゃん。野獣は作者のみやこでも扱い切れません
︵爆︶
●恋人が甘い口調で囁く﹁⋮⋮バカ﹂は、核兵器並みの威力がある
と思います。
みやこ的には﹁馬鹿だな、お前は﹂とか言って、苦笑しながら彼女
をギュッと抱きしめる彼氏というシチュエーションに悶えますね。
割りと乙女思考です︵笑︶
429
︵65︶苺キャンディ 1つ:7
どのくらいの時間、忠臣さんに攻められていたのか、霞のかかっ
た頭では分からない。
私の喘ぎと吐息に混じって、ギシギシとソファーがきしむ音が聞
こえる。その音をおぼろげに聞きながら、私は自分の秘部でうねる
熱に耐えていた。
今の私はソファーに深く腰をかける忠臣さんと向き合って座って
いる。
いや、ただ座っているのではない。
大きく脚を開かされ、彼の剛直を深く身体に突きたてられている
状態だった。
自分の体重で限界までペニスがナカに刺さり、それだけでもかな
り苦しいのに、忠臣さんは容赦なくガンガンと腰を突き上げてくる。
﹁あ、あぁ、も、もう、はなして⋮⋮﹂
しがみつく元気もなくなった私は、彼の胸にグッタリともたれか
かっている。
私が疲労困憊であることは簡単に分かるはずなのに、忠臣さんの
衰えないペニスはズブッ、ズブッと速いテンポで膣壁を抉っていた。
﹁理沙が俺を欲しいって言ったんじゃないか。遠慮するな﹂
そう言った彼がガツンと一際大きく腰を突き上げた。
﹁ぁっ⋮⋮!﹂
息も絶え絶えな私の口から、小さく掠れた嬌声が上がる。
﹁色っぽくて可愛い理沙が悪いんだぞ。そんな理沙を見せられて、
俺が大人しくしていられるはずないだろう﹂
そんなことを言われても、私には何のことかちっとも理解できな
い。可愛らしさを振りまいたことも、色気をアピールしたことも、
まったく覚えがないのに。
430
﹁し、知らない⋮⋮。お願い、は、放してっ⋮⋮﹂
私の身体の中で暴走する快楽に、言葉を発することすらツラかっ
た。 なのに、彼の動きは一向に止まらない。
﹁放せって言ってもなぁ﹂
クスリと笑った彼が腰を上下させる動きから、前後に揺さ振る動
きに変えた。
途端に私の膣壁がますます彼の剛直を締め付ける。
﹁理沙のナカが俺を放してくれないんだから、仕方ないだろ?﹂
私の腰を大きな手でがっしりと掴み、擦り付けるように揺すって
くる忠臣さん。
﹁ひ、やぁ⋮⋮﹂
ビクビクと全身が震える。
これまでに何度もイカされ、過剰に敏感になったナカが痙攣にも
似た動きを見せた。
﹁ほら、キュウキュウにペニスを締め付けてる。俺に出て行って欲
しくないって、ココが言ってるぞ﹂
︱︱︱そんなこと、ない!
しかし、胸の叫びを言葉にする前に、忠臣さんが再び腰を動かし
始める。
ズン、ズン、と私の内部を抉り取る動きに、私の意識はいよいよ
飛びそうになってゆく。
﹁は、あ、ぁぁ⋮⋮﹂
力の入らない身体がグラリと後ろへとのけぞっていった。
それを許さないとばかりに、忠臣さんは逞しい腕を私の背中に回
して強く抱き寄せる。
そして、グンッと一層大きく腰を突き上げた。
﹁ん、くっ⋮⋮﹂
431
首を反らせ、食いしばった歯の間からうめきが洩れる。
強すぎる悦楽が苦しくなり、思わず眉をしかめてしまう。
間近で私の切羽詰った表情を見ているはずなのに、解放するどこ
ろか忠臣さんは凶悪に私の身体をむさぼり続けた。
揺さ振り、進み、後退し、深く大きく乱暴なまでに犯す。
﹁理沙っ、理沙⋮⋮﹂
私を呼ぶ彼の声が、切なく極まってきた。
忠臣さんも流石に絶頂が近付いてきたのか、ギュウと私を腕で締
め付けて隙間なく肌を合わせ、更に激しく猛然と私のナカに侵入す
る。
太くて硬い熱がグプグプと膣口からの出入りを繰り返し、やがて、
一番奥深いところで動きを止めた。
そして私は身体の中心で滲むように広がる熱をボンヤリと感じな
がら、完全に気を失ってしまった。
気だるげに瞼を持ち上げれば、視界に入ってきたのは最近馴染み
になりつつある忠臣さんの寝室の天井。 身体には軽くて肌触りのいいタオルケットが掛けられていた。
眠ったという感覚はないので、時間はそう経っていないだろう。
涙や汗やお互いの体液でべた付いていた肌はその感触が一切残っ
ておらず、サラリと気持ちがいい。 自然と頬が緩み、安堵の息をつく。 意識を飛ばした間に、忠臣さんが私をベッドまで運んできてくれ
たようだ。おまけに身体は綺麗に拭いてある。
こういう気遣いをしてくれるのも嬉しいが、できればこちらの意
識を飛ばすまで抱かないでくれたほうが嬉しい。
つい先ほどまでの情交を思い出し、顔が赤くなる。
毎回毎回、激しく際限なく求められ、嬉しいけれども正直身体が
432
きついのだ。
忠臣さんは私よりも年上なのに、どうしてあんなにもタフなのだ
ろうか。やはり日頃から鍛えているからかもしれない。
︱︱︱私も少しは運動して、持久力を付けたほうがいいのかな?
そう心の中で呟いて、すぐさま眉をしかめて否定した。
彼についていける体力をつけてしまえば、ますます忠臣さんが私
を放してくれそうにないと気がついたからだ。 ふぅ、と改めて息を吐き出すとクスッと笑う声が隣から聞こえて
きた。
ゆっくりと首を動かして左側を向けば、私を見て小さく笑ってい
る忠臣さんと目が合う。
﹁なんで笑っているんですか?﹂
﹁理沙の表情がコロコロ変わって可愛いから﹂
尋ねれば、ニッコリと笑って答えが返ってきた。
今の忠臣さんは前髪が下りていて、少しだけ雰囲気がいつもと違
う。
勤務中の冷静沈着で少し近寄りがたい空気を醸し出している彼は
文句なくかっこよくて大好きなのだが、こうして私だけが見ること
を許されている優しげな忠臣さんも大好きだ。
そんな彼に真っ直ぐに見つめられてちょっとだけ照れてしまい、
でも、目を放してしまうのがもったいないのでチラチラと様子を伺
っていると、忠臣さんが腕を伸ばして私を抱き寄せた。
途端に広くて逞しい胸にピタリと肌がくっつく。
﹁あ、あのっ﹂
体温の高い忠臣さんにすっぽりと包まれ、ドキンと心臓が跳ねた
拍子に私の体温も少し上がった気がする。
ドギマギしながらソッと目線を上げると、瞼にキスが降ってきた。
﹁理沙、可愛い﹂
433
耳に心地よい声でそう告げる彼。
更にドキッと心臓が跳ねる。
﹁べ、べ、別に、可愛いことなんてしてませんけど⋮⋮﹂
﹁してる。理沙は俺のことを堂々と見つめてくれて構わない立場な
のに、伺うようにこっちを見てきてさ。その上目遣いがたまらなく
可愛いんだよ﹂
そう言って、忠臣さんはもう片方の瞼にもキスを降らす。
チュッチュッとキスをしながら、忠臣さんは私をもっと抱き寄せ、
そして、腰を押し付けてきた。 あれだけ抱き合って彼も何度か淫熱を吐き出していたのに、忠臣
さんのペニスは芯を持ち始めている。
﹁な、な、なんでっ!?﹂
﹁可愛い理沙が俺の隣で裸のまま寝ていて、可愛い表情を見せてく
れたら、自然に勃つだろ?﹂
﹁いやいやいや!私、可愛くないですし!ああ、それならば服を着
ます。今すぐ着ます!﹂
起き上がろうとモゾモゾと彼の腕の中でもがけば、容赦のない力
で抱きしめられた。
﹁ぐふっ⋮⋮﹂
あまりの締め付けに、低く呻いてしまう。
しかし、彼は謝るどころか一層締め付けを強めてきた。
﹁服なんか着なくていい。着たところで、どうせ俺が脱がすんだし
な﹂
﹁脱がさないでくださいよ!っていうか、そろそろ寝ましょうよ!﹂
﹁だめだ。理沙に煽られた熱がまだ下がってないからな。責任持っ
て、熱を下げろよ。⋮⋮理沙のナカで﹂
クツクツと喉の奥で笑う彼が向ける視線は、まさに捕食直前の肉
食獣そのもの。
﹁ひぃっ!﹂
私の顔が引きつる。
434
﹁理沙の足腰が立たなくても、俺が全部世話してやる。だから、安
心して俺に抱き潰されろ﹂
︱︱︱そんなことを言われて、安心なんてできるかーーーーー!
という私の叫びは、深く重ねられた彼の唇の奥へと消えていった
のだった。
435
︵65︶苺キャンディ 1つ:7︵後書き︶
●﹁キャンディを口移しで⋮﹂というシーンが書きたいがために作
ったこの章。
可愛らしいじゃれあいになったらいいな、と思っていたのが結局は
野口氏のやりたい放題に⋮︵苦笑︶
436
︵66︶ある日の海外事業部仮眠室:1
11月に入り、海外事業部は忙しくなった。
日本の企業も年末に向けて業務が立て込むが、海外を相手にして
いる我が職場では、その忙しさが比ではない。
クリスマスやニューイヤーに合わせて、長期の休暇を取る事が当
たり前のような海外の顧客たちは、この時期から休暇調整の為、あ
れこれと無茶なスケジュールを押し付けてくる。
それを上手いこといなしながら、それでも可能な限り顧客の要望
を取り込んでゆくのは、本当に骨の折れることだ。
欧米地区担当の社員達はそれこそ死にそうな顔をしているが、私
たちアジア地区もそれほどではないにしても、やはり忙しい。
忠臣さんは今週になってから、定時でまともに帰れた事が無かっ
た。金曜の今日も、終業の合図と共に帰ることはおそらく不可能だ
ろう。
彼に付き従う秘書の私も当然のことながら忙しいのだが、それで
もまだ部長補佐である忠臣さんよりは大変ではない。
その彼は今、ようやく一息つける時間が出来たので、仮眠室で横
になっていた。
午後の業務が始まって少しした頃、顔色の優れない上司に﹃少し
休憩してはどうか﹄と申し出たら、
﹁他の社員達が仕事で忙しいのに、寝てなんていられるか﹂
と、すぐさま返ってきた。
だが、海外事業部の誰よりも動き回り、仕事をこなしているのは
みんなが知っていること。
437
おまけに、彼は時折仕事を家に持ち帰ってもいたのだ。
なので、就業中に仮眠室で横になったからといって文句など出な
い。
そう言って忠臣さんを説得にかかったのだが、仕事に対して厳し
い彼はなかなか首を縦に振ってくれなかった。
しかたないとばかりに、私は忠臣さんに告げる。
﹁少しは身体を休めてください。役職である以上、多少の無理は仕
方のないことかもしれませんが、今の部長補佐は限度を過ぎていま
す﹂
部下の私が上司に口出すことなど本来はあってはいけないことだ
ろうが、それでも彼が心配で思わず言葉にしてしまった。
だが、忠臣さんは手を止めない。
﹁この程度で参ってしまうような私ではない﹂
デスクに積まれた書類を次から次へと凄まじいペースで片付け、
私に目もくれない忠臣さんが素っ気無く言い放つ。
仕事熱心な彼のことは尊敬するが、それでも今の彼には休息が必
要だ。眠気をやり過ごす為の濃いコーヒーは、これで何杯目だろう
か。
職場でプライベートな関係を持ち出すのは私としても不本意だが、
こんなにも疲れている忠臣さんを見ていられない。
私はソッと周囲を伺い、誰もこちらの様子に気を配っていないこ
とを悟ると、書類を持つ彼の左手に触れた。
驚いたように目を開いて、横に立つ私を見上げる忠臣さん。
そんな彼の瞳をじっと見つめて、私は囁く。
﹁お願いですから、休憩してください。私が責任を持ってあなたを
起こしますから﹂
自分を心底心配する私の声音に、忠臣さんは目を伏せて大きく息
を吐いた。
﹁⋮⋮そうだな。仮眠を取って頭をすっきりさせたほうが、能率も
上がるか。では、お言葉に甘えて休ませてもらおうかな﹂
438
フッと苦く笑った忠臣さんがペンを置き、彼に触れている私の右
手に自分の右手を重ねる。
ようやく一息入れてくれることにした彼に、私は内心ホッと息を
吐いた。
だが、次の瞬間、安堵できないセリフを耳にする。
﹁もちろん、キスで起こしてくれるんだろうな?﹂
疲労のためにやや色の悪くなった顔で艶っぽく囁く忠臣さん。
いつもとは違った独特の儚い色気が漂ってきて、私の心臓がドキ
ンと跳ねる。
﹁そ、それは、業務外ですので、出来かねますっ﹂
小さな声で抗議をすれば、
﹁残念だ﹂
と、再び苦く笑ったのだった。
それから1時間ほど経った。
そろそろ忠臣さんを起こしてもいいだろうと、私は仮眠室へと向
かう。軽くノックするが、案の定、中からの返事は無い。
私は静かに扉を開けて、仮眠室に滑り込んだ
ゆっくりと扉を後ろ手に閉めて、薄暗い室内で目を凝らす。
どうやら今日の彼はソファーではなく、薄いタオルケットをかけ
てベッドできちんと仮眠を取っているようだ。側に置かれた椅子の
背に彼のスーツとYシャツ、ネクタイがかけられている。
︱︱︱やっぱり眠かったんじゃないのよ。
いつもだったら、よほどの事が無い限りソファーで仮眠を取る忠
臣さん。だけど、自分からベッドに潜り込んだということは、相当
疲れていたという証拠だ。
439
クスクスと小さく笑いながら、私はベッドへと歩み寄った。
﹁補佐、起きてください﹂
Tシャツ姿でうつ伏せになって枕を抱え込んで眠っている彼の肩
を、私は緩やかに揺する。
何度か呼びかけとその動作を繰り返せば、やがて忠臣さんが形の
いい瞳をうっすらと開けた。
﹁⋮⋮ああ、理沙か﹂
寝起き特有の掠れてセクシーな声で、しかも勤務中に名前を呼ば
れ、再び心臓がドキンと跳ねる。
︱︱︱今は仕事中。ここは会社。
そんな言葉を呪文のように心で呟き、冷静になろうと努力する。
ゴロリと仰向けになった忠臣さんに、私は頭を軽く下げた。
﹁先ほどは差し出がましいことを申し上げまして、大変失礼いたし
ました﹂
努めて部下としての態度で接すれば、それが面白くないとばかり
に忠臣さんが私をジロリと睨んできた。
﹁その点については謝らなくていい。俺を心配してのことだからな﹂
そう言って、忠臣さんは立っている私の腕を掴んで引き倒すと、
その逞しい胸に抱きこんでしまう。
﹁ほ、補佐!?﹂
慌てて起き上がろうとするが、その前に更に強く抱きしめられた。
私
ではなく
俺
という。
私が部下であろうとしているのに、忠臣さんはプライベートモー
ドで自分のことを
しかも、その態度は完全にプライベートのものだ。
﹁は、放してください﹂
﹁嫌だ。まだ目覚めのキスをしてもらっていない﹂
﹁ですからそれは出来かねると、先ほど申し上げたではないですか
っ﹂
440
大きな声を出すと誰かが乗り込んできそうなので、私は声を潜め
つつも怒鳴る。
﹁だが、今は誰も俺たちを見ていないぞ﹂
私の腰にガッチリと腕を回して、忠臣さんが顔を覗きこんできた。
﹁ほら、理沙﹂
目を閉じて、私からのキスを待つ忠臣さんに私は慌てる。
﹁い、いえ、ですが、誰かが入ってくるかもしれませんよ!?私が
この部屋に入ってから、もう10分は経ちますし﹂
なかなか出てこない私たちを不審に思って、誰かが様子を伺いに
扉を開けてしまう可能性がある。
だから早く私を解放して欲しいと必死にお願いすれば、
﹁ならば、その誰かがやってくる前にキスをすればいいだろ?﹂
と、言ってくる。
﹁む、無理ですっ﹂
﹁なら、俺は起きないし、理沙も放してやらない﹂
﹁そんなっ!?﹂
子供みたいに駄々をこねる忠臣さんを私には止める事が出来ない。
こうなっては、覚悟を決めるしかなかった。
﹁⋮⋮忠臣さん、起きて﹂
そう囁いて、私は彼の唇にソッと自分の唇を重ねた。
≪その頃の仮眠室扉前≫ 一向に出てこない私たちを心配して、伊藤君が仮眠室のドアノブ
に手をかけようと伸ばす。
が、寸でのところで横から掴まれた。
﹁うわっ﹂
驚いて顔を上げれば、静かな声で諭される。
﹁駄目よ、伊藤君。絶対に開けたら駄目﹂
441
その手と声の主は、桑田さんだった。
﹁な、なんでですか!?だって、野口補佐も古川さんもぜんぜん出
てこないんですよ。もしかしたら、補佐の具合が悪くなったんじゃ
ないですか!?﹂
真剣に心配する可愛い後輩に向けて、桑田さんが首を横に振る。
﹁そんな理由で出てこないんじゃないわ﹂
﹁どうしてそんな事が言えるんですか!だったら、どうして2人は
出てこないんですか!?﹂
泣きそうな顔で取り乱す伊藤君の肩に、後ろからポンと手が置か
れた。
怪訝な顔で振り返れば、滝さんが
﹁伊藤。それ以上何も言うな、訊くな﹂
と、やけに真剣な顔で告げてくる。
﹁えっ?えっ?いったい、どういうことなんですか!?どうしてみ
んなは、そんな生温かい目で扉を見ているんですか!?﹂
海外事業部の中でただ1人私と忠臣さんの付き合いを知らない純
情な伊藤君は、社員達の眼差しの意味を理解する事が出来ず、ひた
すらオロオロとするのだった。
442
︵66︶ある日の海外事業部仮眠室:1︵後書き︶
●桑田さん&滝さん、ナイスフォロー☆⋮⋮なのでしょうか?︵苦
笑︶
●たんぽぽで使っている≪その頃の∼≫を引用。
場面を変える時、これ、便利だわぁ♪
443
︵67︶ある日の海外事業部仮眠室:2
仮眠室扉の向こうで海外事業部の皆が中にいる私たちの様子を戦
々恐々興味津々な感じで見守っているとは露知らず。
私は駄々っ子の忠臣さんを宥める為に、しかたなくキスをした。
﹁⋮⋮忠臣さん、起きて﹂
単なる挨拶みたいなものだから、恋人同士としての深いキスなど
必要ないだろう︵そもそもキス自体が必要ないのだが︶。
そう思って、フワリと触れるだけのキスを彼の唇に落とす。
︱︱︱もう、職場でこんなことをする羽目になるなんてっ。
誰も見ていないとは言え、就業時間内にする行為ではない。
私は顔が赤くなるのを自覚しつつ、﹃これでお役御免﹄とばかり
に顔を離そうとすれば、それよりも早く彼の左手が私の後頭部を大
きく掴み、グッと自分のほうに引き寄せた。
﹁えっ!?⋮⋮んっ﹂
自分の身に起きた事が理解できず戸惑っているうちに忠臣さんは
右腕を回して私の腰を絡めとり、自分の両足で挟みこむように私の
脚を押さえ込む。
あっという間に私の自由は奪われた。
︱︱︱ちょ、ちょっと待ってよ!万が一誰かが入ってきたら⋮⋮。
チラリと視線で扉を窺えば、すりガラスの向こうに人影が見えた
ような気がした。
︱︱︱ま、まずいっ!扉のところに誰かいる!?
444
﹁ん、む、うぅ﹂
言葉は奪われているのでうめき声で抗議をするのだが、忠臣さん
は一向に慌てることがない。
焦って冷や汗をかく私とは反対に、忠臣さんは悠然とじっくり唇
を重ねていた。
位置関係のせいで私が忠臣さんに唇を押し付けているようになっ
ているけれど、けして自分から望んだキスではないのだ。
こんな状況で落ち着いていられるほど、私は擦れてもいないし涸
れてもいない。
︱︱︱ああ、もう、どうしたらいいの!?
ベッドの上で仰向けになっている忠臣さんに圧し掛かるような体
勢で彼の腕に抱きこまれ、真っ白なTシャツ越しに伝わる忠臣さん
の体温にドギマギしつつも、なんとか抜け出そうと頑張る私。
だけど身を捩ることも出来ないくらいにしっかりと彼の右腕に抱
きしめられ、後頭部は左手で押さえ込まれている上に、逞しい脚に
挟み込まれてもいるのだから、本当にどうにも出来ない。
︱︱︱忠臣さんってば!!
必死に首を捩り、背筋に渾身の力を篭めれば、わずかに唇が離れ
た。
︱︱︱よし、今だ!
このままどうにか逃げ出そうと更に背中に力を入れるが、一瞬の
隙を突いて忠臣さんの舌が入ってくる。
445
︱︱︱ええっ!?待って、待って、待ってよ!!
さっきの軽いキスだって相当な戸惑いがあったのだ。
それでもほんのわずかな時間だったし、例え入ってきた誰かに見
られても、角度によってはどうにかこうにかごまかせそうだったか
ら、まぁ、いいかと思ったのに。
さすがにこれはごまかせない。
︱︱︱忠臣さん!駄目ですって!
驚く私をよそに、深く舌を入れて口腔内を蹂躙する忠臣さん。
いつもはじっくりと確かめるような舌使いなのに、今は性急に絡
め、舐り、吸い上げている。
ほんの少しも顔を動かす事が出来ない私は、大人しく︵いや、実
際はもがいたり脚をバタつかせたりしてちっとも大人しくなんかし
ていなかったが︶彼のキスを受け続けるしかなかった。
寝起きのはずなのに、どうしてこうも忠臣さんは機敏に動けるの
か。
いやいやいや、今はそんなことに疑問を抱いている場合ではない。
私は無駄だと思えたが、再び彼の身体の上で暴れてやった。
結果、無駄でした。
彼の拘束は一切緩みませんでしたよ、ちくしょう⋮⋮。
せめてもの抵抗で私の口腔内にある彼の舌を押し出してやろうと
すれば、これ幸いとばかりに忠臣さんはネットリと舌を絡めて引き
ずり出し、自分の口腔内に私の舌を呼び込んでしまった。
慌てて舌を引き戻そうとするも、さっき以上に執拗に忠臣さんが
舌を絡ませてくる。
灯りを落とした薄暗い仮眠室の中で、クチュクチュと舌を絡ませ
446
る水音と、私の弾む呼吸が響く。
その音を聞きながら今は勤務中なのだと改めて思い起こせば、更
に羞恥で顔が染まった。
︱︱︱ああ、もう、これ以上は⋮⋮。
身体の奥に妖しい熱が灯りそうになった時、ようやく忠臣さんが
私の舌から自分の舌をスルリと解いた。
そしてゆっくりと腕や足の拘束を解いてゆく。
それと同時に、仮眠室の扉が少々激しくノックされた。
﹁野口部長補佐!もう十分ではないでしょうか!﹂
ノックと共に聞こえてきた桑田さんの声に、ビクッと肩を震わせ
る私。
︱︱︱もう十分って何!?き、きっと忠臣さんの仮眠時間のことよ
ね!?そうよね、ね!?
妙に深読みしそうになる思考を食い止め、私は急いで彼から離れ
た。
今日は皺になりにくいサテン地のブラウスとフワリとしたシフォ
ンスカートだったから、忠臣さんにベッドの上で抱きこまれてキス
されていただなんて誰にも気付かれないはず。
手早く身なりを整える私に、忠臣さんは苦笑した。
﹁そろそろタイムアップか。理沙からのキスも一応は貰ったし、起
きるかな﹂
起きて
なんていうから﹂
﹁一応って何ですか。⋮⋮あんなキスまでしておいたくせに﹂
﹁仕方ないだろう。理沙が可愛い声で
ベッドに腰をかけてスラックスを穿いている忠臣さんを睨みつけ
る。
﹁もう、それは忘れてください!﹂
447
プイッと顔を背けて出て行ってやろうと思ったが、着替えを始め
た上司に素知らぬ顔は出来ないと、私は椅子の背にかかっているY
シャツを差し出した。
次いでネクタイを手渡したのだが、この部屋には鏡がないので、
いくら器用な忠臣さんとはいえ感覚だけでは真っ直ぐに結べないよ
うだ。
﹁直しますね﹂
﹁ああ、頼む﹂
彼の正面に立ってネクタイの結び目に手を伸ばす。2、3回左右
に揺すって位置を正すと、満足のいく出来栄えになった。
﹁できました﹂
そう言って身を離そうとしたのだが、またしても忠臣さんの腕の
ほうが早かった。
白いYシャツを纏った腕が私を引き寄せ、そしてキスをしてくる。
今度は深いものではなかったが、唇を離す間際に忠臣さんの舌が
私の下唇をネロリといやらしく弄った。
ありがとう
っていう感謝のキスだが﹂
﹁な、な、な、なんですか!?﹂
﹁ん?
﹁そんなもの要りません!ああ、ここに鏡を置きましょう。明日に
でも、いいえ、今すぐ買ってきます!﹂
ネクタイを直すたびにキスをされたのでは、たまったものではな
い。
そう思った私は彼の腕の中から抜け出そうとするけれど、忠臣さ
んはまだ私を放す気はないらしい。
緩やかに、だけど私が逃げられない程度には強い力で私をその胸
に抱きこみ、忠臣さんは意地悪そうに笑っている。
﹁鏡を置くのは構わないが、俺は使わないぞ﹂
﹁何でですか!﹂ ﹁理沙にネクタイを直してほしいからな﹂
ニンマリと笑う忠臣さんに、私は少しだけ背中が寒くなった。
448
﹁だからそれは、鏡を見て自分でなさってください!﹂
こんな調子では、いつか誰かにキスシーンを見られてしまうだろ
う。そうなったら、恥ずかしくて次の日から出社するのは不可能だ。
なのに、忠臣さんは私の意見を聞こうとしない。
﹁嫌だ。絶対に自分じゃ直さないからな﹂
﹁どうしてですか!﹂
﹁つまらないじゃないか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁つまらないと言ったんだ、こうしてキスを出来なくなるのは﹂
そう言って、呆気にとられている私にまたキスをした。 449
︵67︶ある日の海外事業部仮眠室:2︵後書き︶
●野口氏、会社で何をやってるんですか⋮⋮︵苦笑︶
450
︵68︶本日、デート日和:1
十一月中旬、穏やかに晴れ渡った土曜日。目覚まし時計のアラー
ムのスイッチを切り、私は小さく欠伸を漏らす。
今日は忠臣さんとデートだ。
普段から仕事終わりに一緒に帰ったり、金曜の夜には忠臣さんの
部屋に泊まったり︵拉致された後に監禁ともいう︶、二人でいる時
間はけっこうあるのだが、一日ゆっくり出かけるのは久しぶりかも
しれない。
だって、休日ともなれば忠臣さんが私をベッドに連れ込んで、そ
れこそ朝とか夜とか関係なく⋮⋮。
いや、まぁ、彼に愛されるのは嬉しいけれど、たまには健全なデ
ートをしたいではないか。いつも忠臣さんに手料理を食べさせても
らっているから、たまには私がご馳走してあげたいし。
あ、言っておくけど、ご馳走するのは私の手料理じゃなくって、
お金を出してご馳走するって意味ね。料理上手な忠臣さんに、自ら
作ったものを食べさせるほど、私は豪胆ではない。
それでも、少しずつは料理の腕前が上がってきたんだけどね。殺
人ピラフのように大失敗することもなくなったし。
﹁いつか、自信を持って私の手料理を忠臣さんに食べて欲しいなぁ﹂
彼ならば私が作った料理をけなすことはしないだろうけど、我慢
して﹃美味しいよ﹄と言われても嬉しくない。心の底からの﹃美味
しいよ﹄が欲しいのだ。
﹁でも、そんな日が来るのかなぁ﹂
久々に自分のベッドで目を覚ました私は、苦笑いを浮かべながら
大きく腕を伸ばした。
451
朝食の後にメイクを終えた私は、クローゼットの中を覗き込む。
﹁今日は温かい一日だって天気予報で言っていたから、コートは必
要なさそうね﹂
そう呟いた私は、買ったばかりのロングニットに手を伸ばす。
﹁うん、やっぱりこのニットを着て行こうっと﹂
温かみのあるクリーム色の毛糸でやわらかくざっくり編まれたニ
ットは、そのシルエットが一目で気に入り、思わず飛びついたもの
だった。
ウエストの辺りで軽く絞られているので、まるでワンピースのよ
うに体のラインに沿うようになっており、女性らしさも感じさせる。
やや広めに開いた襟ぐりもいやらしくない程度なので、鎖骨が見え
てちょっとセクシー。
これにデニム地のレギンスとカーキ色のパンプスを合わせ、大判
のストールをゆったり首に巻けば、かっこいいかもしれない。
﹁忠臣さん、気に入ってくれるかなぁ﹂
姿身の前で全身をチェックしながら、思わずそう呟いてしまう。
なんだかんだ言っても、やっぱり私は忠臣さんが好きだから、彼の
反応が気になってしかたない。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。
﹁もっと女性らしく可愛い格好にしろ、とか言わないよね?﹂
私が好む服装は元彼たちの理想とは違っていたようで、よく渋い
顔をされていた。 女性らしい
とか
年相応
とか考えてしまう。
っ
元彼たちの反応や言葉はいまだに私の脳裏から消えることがなく、
つい
似合うね
﹁やっぱり、綺麗なワンピースの方がいいのかな⋮⋮﹂ ポツリと漏らした言葉に、私は軽く首を振った。
﹁ううん、忠臣さんはそんなこと言わない。きっと
て言ってくれるわ﹂
不安を打ち消すように髪を梳かしながら、左腕に巻いてある時計
にチラリと視線を落とす。
452
﹁待ち合わせまでまだ20分あるけど、行こうかな﹂
私はモスグリーンのストールを肩にかけ、ハンドバッグを手に玄
関を出た。
待ち合わせ場所は私の住むマンションの前だ。
忠臣さんが来るまでの時間、携帯でニュースを見て時間をつぶし
ていると名前を呼ばれた。
顔を上げると、こちら向かって歩いてくるのは双子の兄だった。
とはいえ、二卵性なので顔立ちはあまり似ていない。
﹁珍しいね、こんな時間にここを通るなんて﹂
兄は隣の市にある実家で、両親とともに暮らしている。実家は兄
の結婚を機に二世帯住宅に建て直し、その二階に兄夫婦が住んでい
た。
そんな兄は休日の午前中にのんびり散歩をするのが習慣らしいが、
こうしてこの近辺で顔を合わせるのは私が一人暮らしを始めてから
なかったことだ。
私の疑問に、兄は苦く笑いながら答えてくれる。
﹁今日、千賀子が家中の大掃除をしているんだよ。天気がいいから、
布団やらクッションやら全部庭に干してる。で、掃除に集中したい
から、俺にゆっくり散歩でもしてきたらって言い出してさ。そんな
訳で、ここまで足を伸ばしたんだよ﹂
千賀子さんは兄の奥さんで、年は一つ下。背は私より頭ひとつ分
くらい低くて小柄な女性だが、とにかく元気があって明るい。そし
て、何より優しい人だ。
兄の話だと厄介払いのために散歩に出したみたいな感じだが、そ
の実は兄が気兼ねなく散歩を楽しめるようにという口実に過ぎない。
もちろん、兄も奥さんの意向を正確に読み取っている。 兄夫婦は結婚してまだ二年ほどだが、千賀子さんが兄の職場に入
社して程なく付き合いが始まったので、なかなかに長い時間を過ご
453
してきた。時折喧嘩もするようだが、お互いのことを理解し、そし
て思い合う、とても仲のいい二人なのである。
﹁相変わらず、仲のいいことで。ホント、うらやましいなぁ﹂
﹁そういうお前こそ、恋人ができたって話じゃないか。お袋と千賀
子が、お前の恋人に会いたいって騒いでるぞ。今度、みんなで食事
でもするか?﹂
﹁あ、うん⋮⋮﹂
兄の提案に一瞬渋る。
忠臣さんのことは好きだし、出来ることならこの先ずっと彼と一
緒にいたいと思っている。
だけど、家族と顔合わせなんてしたら、いや、実際顔を合わせな
くても、みんなで食事をするという話だけで結婚を匂わせるような
ものだ。
はたして、それが忠臣さんのプレッシャーにならないだろうか。
そういうことが面倒で、私から離れていったりはしないだろうか。
彼に愛されていることは理解しているが、元彼との散々な恋愛に
よって、どうしても臆病になってしまう自分がいる。
﹁でも、付き合い始めてまだ二ヶ月も経っていないし。それなのに
私の家族と食事って言うのは、彼にはまだちょっと負担かもしれな
いし⋮⋮﹂
﹁そうか?本当に好きな相手であれば、たとえ付き合ってきた時間
が短くても、相手の家族に会う覚悟くらいはすぐに決めるぞ﹂
そういう兄は、付き合い始めて一ヵ月後に千賀子さんの両親に会
いに行くと自ら言い出したそうだ。実際には彼女の家の事情で、顔
合わせはしばらく経ってからになってしまったが。
そういう兄の潔さは立派だと思う。いつだったか、そのことを兄
に伝えたら、
﹃立派とか、そういうことじゃねぇよ。千賀子と本気で結婚したい
と思ったから、そう言い出しただけ﹄
と、照れ隠しにわざとぶっきらぼうに言い返されたっけ。
454
彼の愛情を疑うわけではないが、人によっては恋愛と結婚は別物
だという。
︱︱︱忠臣さんには、そういう覚悟があるのかな?
すぐに色よい返事が出来なかった私に、兄が小さく笑った。
﹁まぁ、すぐにとは言わないが、食事会は頭に入れておけ﹂
﹁⋮⋮うん、分かった﹂
コクリと頷く私の頭を、兄がポンポンと軽く叩く。
その時、ものすごいスピードで一台の車がこちらに向かって走っ
てきた。そして、耳を劈くような甲高いブレーキ音をさせて私達の
すぐそばで停車させると、歪むのではないかというくらいの勢いで
ドアが乱暴に閉められる。
﹁理沙っ﹂
大声で名前を呼ばれたかと思うと、いきなり腰に腕を回されて抱
き寄せられた。その力の強さによろめき、その人の胸に思わずしが
みつく。 すると、逞しい両腕が痛いほどにきつく私を抱きしめてきた。
唖然とした顔で見上げれば、今にも飛び掛らんばかりの厳しい形
相で兄を睨んでいる忠臣さんがいる。
﹁⋮⋮理沙、この男は誰だ?﹂
声がおっそろしく低い。警戒心と敵対心と嫉妬心丸出しの声。
威圧的な彼の様子に驚いている私は、声も出せずにポカンとして
いるだけ。そんな私に、再び忠臣さんが問いかける。
﹁大事で愛しい俺の理沙に軽々しく触れるような、命知らずのこの
男は誰だと訊いているんだが?﹂
腕の中に閉じ込めた私をまさに絞め殺すかのごとくギュウギュウ
と抱きしめ、険悪な空気︵いや、このレベルまで行くと殺気と言っ
455
たほうが正しいかもしれない︶を漂わせ、地の底から響くような声
を出す忠臣さんに恐怖で顔が引きつる私。
それでも、掠れた声でどうにか説明をする。
﹁あ、あ、あ、兄ですっ、双子のっ。二卵性なので、パッと見ると
ぜんぜん似てませんが、それでも、あの、目元は割りと似ていると
言われるんですけど⋮⋮﹂
身内の前でこんなイチャついた姿を見せてしまい︵見せたくて見
せたのではないが︶、私は青くなるやら赤くなるやら。
なのに、私を慌てさせた張本人の忠臣さんは相も変わらず、熱烈
に抱きしめ続ける。
説明を聞いて忠臣さんはジッと兄の顔を改めて見つめると、﹁あ
あ、そう言われれば似てるな﹂と言って、ようやく腕の力を緩めて
くれた。
すると、私から一歩離れ、兄へ右手を差し出す。
﹁失礼な態度を取ってしまい、大変申し訳ありません。私にとって、
彼女は何物にも変えがたい唯一至上の宝物なので、つい警戒してし
まいました。彼女可愛さゆえと言うことで、許していただけるとあ
りがたい﹂
なんか、聞いているだけで顔から火が出そうなことをサラリと言
われた。
真っ赤な顔をしてアワアワしている私と、ごく自然な感じで微笑
む忠臣さんを交互に見て、やや間をおいてから兄はおずおずと忠臣
さんの握手を受ける。
﹁いや、その、まぁ、驚きましたが、怒ってはいませんので﹂
何が何だがいまいち分からないと言った微妙な顔の兄ではあるが、
先ほどの忠臣さんの態度に本当に怒ってはいないようだ。まぁ、怒
るよりも戸惑いが大きすぎるのだろう。
ふう、と深く息を吐いた兄は、忠臣さんの隣で居心地悪そうに立
っている私に目を向けた。
﹁理沙、この人がお前の彼氏か?﹂
456
﹁う、うん。そう⋮⋮、かな?﹂
私も兄同様に戸惑いが大きく、思わず自信のない言葉を口にして
しまう。
すると、忠臣さんが左腕で私を抱き寄せ、右手を私の顎先に添え
て上を向かせた。
﹁こら、何故そこで疑問形になるんだ!それならばここで思いっき
り濃厚なキスをして、俺たちが恋人同士だということを思い出させ
てもいいんだぞ?﹂
ニヤリと笑うその顔は本気だ。この人、そのくらいのことは恥ず
かしげもなくやってのける。
私の背筋に冷や汗が伝うのを感じながら、
﹁か、彼氏ですっ。正真正銘、私の恋人ですっ﹂
慌てて兄に紹介した。
457
︵68︶本日、デート日和:1︵後書き︶
●理沙ちゃん、心配しなくても良い。野口氏は確実に君と結婚する
気だ︵笑︶
●ある程度の年齢になれば、結婚を視野に入れての恋愛になるので
しょうね。
みやこが大学生の頃は﹁恋愛する相手と結婚する相手は違う﹂とい
う意見がチラホラと周りで囁かれていました。
確かに、愛情だけでは結婚生活は成り立ちませんしね。それなりの
経済力がないと、生活を続けるのは現実的に難しいですし。
でも、大好きな人が結婚相手になったら、それは素敵なことだと思
います。
この作品を読んでくださっている読者様が素敵な恋愛を、ひいては
素敵な結婚を出来るようにと願っています。
え?みやこですか?
あの、その、まぁ、ごにょごにょ⋮⋮︵遠い目︶
458
︵69︶本日、デート日和:2
戸惑いからなかなか立ち直れない兄をそのままにしておくのも気
が引けたが、これ以上この場にいたら、忠臣さんが何をやらかすか
心配で、私が倒れそうだ。
︱︱︱まさか、私の身内の前で、こんなにも堂々と抱きしめたりす
るとは⋮⋮。
普通は、というか、今までの彼氏は、不意に私の家族と対面した
時、愛想笑いを浮かべることが出来れば上々。酷い時は、素っ気無
くわずかに頭を下げるだけだった。そして、私と付き合っているの
結婚
というものが、彼らにとって足枷でしかなかっ
に﹃彼氏です。恋人です﹄と、きっぱり言ってのけたことはなかっ
た。
それは、
たからかもしれない。恋人の家族と顔を合わせるということは、多
かれ少なかれ、そういう意味を含んでいるのだということを、元彼
たちは察していたのだ。
恋人という関係であれば、当人同士のやり取りだけで、いつでも
別れられる。しかし、結婚が絡んでくると、そうはいかない。
婚約者や夫婦となれば、色々な意味で制約されることが必ず出て
くる。それでも一緒にいたいとお互いが思い至ることが出来たら、
その気持ちが結婚へと繋がるのだろう。
恋人は欲しいが、結婚は考えら
という思考の人たちだったのだ。自分がいかに自由で楽し
今にして思えば、元彼たちは、
れない
く過ごすことが出来るかが大事だったのだ。
結婚が人生の全てではないが、彼らにとって私は結婚したいと思
えるほど大事な人間ではなかったのだと改めて思い知り、なんだか
459
泣きそうになった。
﹁理沙?﹂
信号待ちで車が止まると、忠臣さんが助手席に座っている私を呼
ぶ。
﹁どうした?﹂
心配そうな声音で呼びかけると、左手を伸ばしてサラリと私の前
髪をかき上げた。
﹁お兄さんに対する俺の態度に怒っているのか?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
怒ってはいない。恥ずかしかったが、私の恋人であると言動では
っきり示してくれたことは嬉しかった。
ただ、なんというか、これまでの彼氏達にあまり大事にされてい
なかったということを思い出して、ちょっと悲しくなっただけ。 逆を返せば、それだけ忠臣さんに大事に愛されているということ
なのかもしれない。人目を気にしない態度は少々困りもので、今ま
での彼氏とは違う付き合いに戸惑いも大きい。
でも、忠臣さんの愛情は一時の暇つぶしではなく、これから先も
共に歩んでゆくことを視野に入れたものだとは伝わってくる。
私は静かに首を横に振った。
﹁怒ってなんていないです。私の兄を前にしても、忠臣さんは堂々
とした態度でいてくれました。それが嬉しかったんです。元彼たち
は私の家族を前にすると、早く立ち去りたいっていう感じだったか
ら﹂
居心地悪そうにしていた元彼たちの顔を思い浮かべ、私は苦笑を
浮かべる。すると忠臣さんは不機嫌全開で舌打ちをした。
﹁理沙、いい加減にクソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで
間抜けで根性が腐っていてどうしようもなくて救いようのない器の
小さなろくでなしの腰抜け男たちのことは忘れるんだ。理沙の魅力
460
を理解できない奴等のことなど、思い出す価値もない!﹂
そこまで憎々しげに一気に告げた彼が、ギリッと奥歯を噛みしめ
た。
そして大きな手の平が、私の右頬を優しく包む。穏やかな温もり
がジンワリと伝わってきた。
﹁理沙があんな奴等のことで淋しそうな顔をするのは、どうにも耐
えられないんだ⋮⋮﹂
救われた
と思った。過去の恋人達との思い
私自身のことなのに、私以上に傷ついた顔をする忠臣さん。
その表情に、私は
出は楽しいことよりも苦しかったことが先に浮かぶ。だけど、その
苦しさが今、忠臣さんによって少しずつ昇華されてゆくように感じ
た。
私のことを真剣に気遣ってくれる彼を見て、くだらないことに縛
られている自分が情けなくなった。同時に、改めて彼の深い愛情を
感じて、心の奥が温かくなった。
もういい加減、過去の恋愛のことは引きずらないようにしなくて
は。今の私には、こんなにも私を愛してくれる彼氏がいるのだから。
︱︱︱大丈夫。彼なら、きっと大丈夫。今までの彼氏たちとは違う
もの。
私は何度も何度も小さく呟いた。
しばらく車を走らせ、郊外にある大きなショッピングモールに着
いた。
お互い仕事が忙しくてなかなかゆっくりと買い物に行けないため、
今日は一日使ってのんびりショッピングモールを回ることにしてい
るのだ。
461
併設されている立体駐車場に車を停め、シートベルトを外しなが
ら私は先ほどの話を口にする。
﹁兄に言われたんですけど、今度、食事会をしようって。私の家族
が、といいますか、主に母と義理の姉なんですけど、忠臣さんに会
いたいみたいで﹂
﹁食事会?﹂
それを聞いて、シートベルトを外し終えた忠臣さんの手がピタリ
と止まった。
怪訝そうに眉を寄せる彼の表情を見て、私は慌てて話を続ける。
﹁あの、その、堅苦しく考えないでくださいっ!別に忠臣さんが私
どこかでち
という感じでっ。本当に、大したことじゃないん
の家族に挨拶に来るとかそういうことではなくって、
ょっと食事でも
ですっ﹂
やっぱり、忠臣さんも私の家族に会うというのは、気が引けるも
のなのだろうか。もう少し、恋人として付き合う時間が経ってから
持ち出すべきだっただろうか。
兄のように﹃思い立ったらまっしぐら﹄という性格の人間も珍し
いから、彼の反応は極々当たり前だとは思うけれど、ちょっとだけ
淋しさを感じてしまう。
私はさっき心の中で何度も呟いたセリフを再び唱えるも、不安一
杯に彼の様子を窺えば、彼の右手が助手席の左肩を思いっきり掴ん
だ。つまり、運転席から強引に身を乗り出した忠臣さんが、私を取
り囲むように対峙しているのだ。
﹁た、忠臣さん?﹂
いきなりのことに驚いて身をすくめる私。そんな私をジッと見つ
める忠臣さん。
﹁食事会とは、本当に食事するだけか?他に何かあるのか?﹂
﹁い、いえ、本当に食事だけです。なので、軽い気持ちで参加して
もらえれば。
でも、無理にとは言いません。どうしても顔を合わせなければなら
462
ないものでもないですから⋮⋮﹂
語尾が尻すぼみになり、私の視線が徐々に下がってゆく。
が、突然忠臣さんの左手が私の顎先を掴んで、無理やりに顔を上
げさせた。
﹁えっ?﹂
驚いて見開いた目に、彼の艶然とした微笑が飛び込んでくる。
﹁ただの食事会など、時間の無駄だ。いっそのこと結納ということ
にしてしまえばいい。いずれしなくてはならないことだから、さっ
さと済ませた方が少しでも早く、名実共に理沙を俺のものに出来る﹂
﹁は?﹂
︱︱︱ゆ、結納?!
思いがけない言葉を耳にして、私の目が更に大きく開かれる。驚
く私に構うことなく、彼はややうっとりとした口調で話を続けた。
﹁近いうちにでも、理沙のご両親に挨拶しなければならないと思っ
現在、お嬢さんとお付き
なんて、下らない挨拶みたいなことは
ていたところだ。ああ、言っておくが、
合いさせてもらっています
お嬢さんと結婚させてください
だ﹂
言わないぞ。俺は結婚するつもりで、理沙のご両親に会いに行くん
だからな。言うなら
﹁け、け、結婚!?﹂
家族との軽い食事会の話が、なぜこんな流れになってくるのだ?
私の頭の中は大混乱。 目を白黒させて慌てふためく私を見て、忠臣さんがニヤリと片頬
を上げた。
﹁そうだ。俺がただ理沙と恋人同士の関係を続けるだけの男だと思
っていたのか?社会的にも戸籍上でも理沙を俺に縛り付ける為には、
結婚が一番合法的だ﹂
463
︱︱︱その言い方だと、合法ではない方法も用意してあるみたいに
聞こえるのは気のせい!?
そんなこと、恐ろしくて訊けない。心の叫びをグッと飲み込み、
私はビクビクと身を縮めるしかなかった。
ブルブルと小さく震えながら大人しくしていると、忠臣さんは左
の親指でゆっくりと私の下唇の輪郭をなぞってくる。
﹁理沙のご家族が単なる顔合わせをしたいというのであれば、それ
はそれで構わない。ただ、俺は理沙と結婚する気持ちで付き合い始
めたということだけは、よく覚えておけ。いいな?﹂
真正面から見つめられ、響きのいい声でこんなことを言われたら、
私は頷くほかはない。というか、頷かなかったら、忠臣さんの逆襲
が恐ろしい。
︱︱︱兄みたいな人がここにもいた⋮⋮。
まっしぐらな性格の人間は、身近には他にいないだろうと思って
いたのに、すぐ傍にいるとは。
私は何も言うことができず、ひたすら首を縦に振るのだった。
464
︵69︶本日、デート日和:2︵後書き︶
●理沙ちゃんの元彼たち、相変らず凄まじく罵倒されてますね︵苦
笑︶。
いったいどこまで長くなるのやら⋮。
●そして、野口氏の思考も相変らず。合法ではない理沙ちゃんの縛
り付け方は、怖くて書けません︵笑︶
465
︵70︶本日、デート日和:3
腰が引けた状態で助手席を降りれば、その腰に忠臣さんの逞しい
左腕が絡みついた。そしてたじろぐ私をその腕で促しながら、迷い
なく脚を進める。
いい年をした大人の恋人同士がこんなにも身を寄せて歩くなんて、
はたから見れば見苦しいのではないだろうか。いや、他人が見苦し
く思うよりも先に、私が羞恥心で発狂しそうだ。
﹁あ、あのっ﹂
半ば強引に歩かされながら、忠臣さんに声をかける。すると彼は
ニコリと微笑を浮かべた後、私のこめかみにチュッと音を立ててキ
スを落とした。
互いの半身をピタリと寄せ合って歩いているだけでも周囲の不興
を買いかねないのに、その上キスだなんて!
﹁何するんですか!﹂
再び近づいてきた忠臣さんの唇を、身を捻ることで何とかかわす。
すると、ムッとした表情で、彼が私の体に絡めた左腕にいっそう力
を篭めてきた。
﹁なぜ避ける?﹂
﹁なぜって、当然じゃないですか!私のほうこそ、なぜここで、こ
んなことをするのか訊きたいですよ!﹂
足にグッと力を入れて歩みを止め、一瞬の隙を付いて私は忠臣さ
んの腕から逃れながら言い返した。忠臣さんの間合いに入らないよ
うに気をつけながら、彼に対峙する。私よりもはるかに武道の経験
がある彼の間合いに入ってしまっては、忠臣さんの好きなようにさ
れてしまうからだ。
の代名詞みたいな人なのに。
会社では、こんな人ではないのに。いつだって冷静で紳士で、
洗練された大人の男性
466
﹁人目がある公共の場で、こういうことをするのは非常識だと思い
ます!﹂
忠臣さんの温もりも唇も嬉しいけれど、所構わず手を出されては
困るのだ。なのに、彼は睨みつける私を楽しそうに見遣るばかり。
﹁理沙が声をかけてきたから、キスをしてほしいのかと思って﹂
﹁は?﹂
︱︱︱なんだ、その脳内変換は?何をどうしたら、ただ声をかけた
だけの事がそんな風に思えてしまうのだ?
パチパチと瞬きを繰り返す私に、忠臣さんは言う。
﹁だが、ここは人目があるからな。さすがに唇へキスをするのはマ
ズいかと思ったんだ。俺は大人だから、周囲の状況をきちんと鑑み
ているぞ﹂
堂々とした口調でやたら胸を張って言い切る忠臣さんに、私は唖
然となる。
分別のつく大人だと主張するのであれば、私の腰を抱くことなく
歩いてほしい。こめかみにキスなんてしないでほしい。
なんと言い返せばいいのか分からずに一瞬呆けてしまえば、その
隙を見逃さなかった忠臣さんが正面から私を抱き寄せてきた。幸い
にも、今は周囲に人がいない。
﹁や、やめてくださいってば!﹂
私の背中にしっかりと腕を回して囲うことで、こちらの動きを完
全に封じてしまう。しかも絶妙な位置で私の肘を押さえつけている
ので、ロクに抵抗出来なかった。彼氏が武道に通じていると、こう
いうときは本当に困る。
それでも、大人しく抱きしめられているのはマズい。ここは休日
ともなれば家族連れや友人同士、恋人同士で人が溢れる場所だ。い
つ、車が入ってくるのか分かったものではない。
﹁もう、忠臣さん!離してくださいってば﹂
467
身を捩って抜け出そうとする必死な私に、忠臣さんはクスクスと
笑い、そして額に優しく唇を押し当ててきた。
﹁な⋮⋮﹂
愕然とする私に今度は額ではなく唇にキスを落とし、そしてよう
やく彼は私を解放する。それでも私の右手は、逃がさないとばかり
に彼の左手にギュウと握られているのだが。
﹁普段はきっちりした服装に身を包んで、仕事もテキパキこなして、
いかにも大人の女性という理沙が、こうやって取り乱す様子は殊更
可愛い﹂
クスリと微笑んで、切れ長の瞳を細めてくる忠臣さん。その表情
には愛しさが溢れていて、それはそれで恥かしい。
﹁⋮⋮見苦しいとは思わないのですか?﹂
そんな忠臣さんをまとも見ていられなくて、俯きながらポツリと
零す。
﹁三十を過ぎたいい年の女が、こんなに慌てふためく様子は見苦し
くないですか?﹂
私は肝が座っているようで、ふとした拍子で相当に慌てふためく。
そういう私を、元彼たちは﹃見苦しい﹄と言い捨てたものだが。
過去を思い出し、悔しさと悲しさで唇をソッと噛んでしまった私
に、忠臣さんは繋いでいた手に優しく力を篭めてくる。
﹁恋人が見せてくれる表情は、どんなものでも好ましいものだがな。
仕事中の真剣な顔ももちろん魅力的だが、こうやって慌てふためく
様子を見せるというのは、それだけ俺に気を許してくれている証拠
ではないのか?ならば、その素直な理沙を厭う必要などないだろう。
それこそ、恋人に許された特権だ﹂
を認めてくれるのだろう
として、どうしてすんなりと受け止め
私
瞳を一層緩めて、穏やかな声でそう言ってくれた。途端に私の心
の強張りがほどけてゆく。
私
忠臣さんは、どうしてこんなにも
か。ありのままの私を
てくれるのだろうか。それが嬉しくて、居心地がいい。
468
心の奥がくすぐったくなって、はにかんだ微笑を彼に向ければ
﹁一番好きな表情は、セックスの最中での悦楽に溺れる理沙の顔だ﹂
と、やけに艶っぽい視線を向けられた。
せっかくいい雰囲気だったのに、どうしてここでそんな残念な発
言をするのか。
顔と見た目は一級品なのに、思考回路が少々残念な恋人の顔を、
私は何とも言えない表情で見遣ったのだった。
残念発言の後は特に何をされるわけでもなく、普通に手を繋いで
店内へと続く連絡通路を歩いている。
その時、私をチラリと見て、忠臣さんが満足そうに何度か頷いた。
﹁あの、何か?﹂
﹁今日の服装、すごくいいと思ってな。理沙は背が高くて、適度に
筋肉が付いて引き締まっているから、こういうスポーティーな格好
が似合うんだ。特に、このニットがいい﹂
そう言って、ニコリと笑みを深めてくる。
私
を見てくれている。お気に入り
やっぱり忠臣さんは、これまでの彼氏たちとは違う。一般的な女
性としてではなく、私として
のニットを褒められて、私は嬉しくなった。
﹁店頭に飾られていたのを見て、一目で気に入ったんですよ。シン
プルなんですけど、編み目や色合いが綺麗で。それに、全体のライ
ンが素敵だと思うんです﹂
﹁ああ、俺もラインがいいと思う﹂
﹁ですよね﹂
私も笑顔で返す。
﹁特に、理沙の体のラインが良く分かるそのデザインがいい。緩や
かにフィットしているから、胸の形とウエストが強調されてセクシ
ーだぞ。それに、ニットの裾をまくれば、スラリとした脚が丸分か
りだしな。胸もとから足元まで服の下の裸を想像できて、かえって
色っぽい。ああ、今すぐ押し倒してしまいたいほどだ。うん。その
469
服装、理沙に似合ってるよ﹂
私が望んだとおりにニットを褒めてもらえたし、否定的な意見は
ひとつもなく彼の口からは賞賛の言葉ばかりだが、何かが違う!
私は嬉しさと困惑の入り混じった奇妙な顔つきになっていた。
再び微妙な顔をしている私に構うことなく、忠臣さんは手を引い
て店内へと入ってゆく。色々なお店が入っているので、どこから見
ようか迷ってしまう。
私は店内案内板を眺めながら、同じく案内板を眺めている忠臣さ
んに声をかけた。
﹁まずは、どこから行きますか?﹂
﹁指輪を買いにいく﹂
迷いのない答えが返ってきた。即座に返ってきた言葉に、思わず
聞き返してしまう私。
﹁指輪ですか?本当に?﹂
﹁付き合ってもう二ヶ月だ。俺としてはすぐにでもプレゼントした
かったのに、理沙が渋るからずっと待ったんだぞ。今日こそは、こ
こに嵌める指輪を買うからな﹂
そう言って、繋いでいない右手で私の左薬指に触れてくる。
指輪は嬉しいけど、忠臣さんのことだから会社でも必ず身に着け
ておけというはず。ゴテゴテとした飾りが付いていなければ仕事に
支障は出ないだろうし、誰かに﹃外せ﹄と、注意されることもない
だろう。
だけど、同じ職場に恋人がいることが知られている今、あえて恋
人の証である指輪を嵌めることが、やたらくすぐったい。桑田さん
あたりは、絶対にからかってくる。それに便乗して、滝さんもなん
だかんだとニヤニヤしながら口を挟むに違いない。
その二人以外の人たちもきっと、﹃あの指輪、野口補佐が古川さ
470
んにプレゼントしたのね﹄という、やたら温かい目で見てくるだろ
う。 指輪というのはアクセサリーの中で、特別な意味を持つのだ。恋
人からプレゼントされるアクセサリーはどれもこれも意味深だが、
指輪はそういう目で見られる。特に、左薬指に嵌められる指輪には。
これまで指輪をプレゼントされたこともなかったから、こういう
気恥ずかしさをどうしていいのか分からない。
ただ、そういうことが恥かしくて困るだけであって、けして、忠
臣さんから指輪をプレゼントされたくないということではなかった。
大抵のことは飄々とこなす自身はあるのに、いくつになっても、
こんな風に堂々とできない自分が私の中にいるのだ。
﹁忠臣さん。どうしても、指輪をしないと駄目ですか?﹂
﹁駄目だ﹂
これまた即答。
﹁最近の理沙は、やたらに狙われているんだぞ。KOBAYASH
I社内はもちろん、俺に同行した時は、取引先にもやたら熱の篭っ
た目で見られている。分かっているのか?﹂
﹁あ、その、まぁ⋮⋮﹂ 忠臣さんが言うように、ここ最近は男性社員に声をかけられるこ
とが多くなった。私と同じ年齢くらいの社員はおろか、年下や年上
の人からも。とはいっても、他愛のない日常会話が主で、彼が言う
ような色っぽい意味ではないと思うのだが。
﹁それがあいつらの手だ。そうやって差しさわりのない話題を交わ
すことで、理沙の警戒心を解くんだよ。なのに、理沙はそういうこ
って勘違いする人間も出てくる﹂
とをちっとも分かってなくて、いちいちバカ丁寧に答えてるから、
自分にも脈があるんじゃないか
﹁まさか、そんなこと⋮⋮﹂
﹁まさかじゃない!﹂
短い叫び声と共に、ガッと強い視線を向けられた。
﹁一昨日、E社の社員に声をかけられたよな。しかも、俺がそばに
471
いない隙を狙って﹂
﹁あ、あれは、私が少し咳き込んでいたので、心配してくださって
喉飴を﹂
E社は防犯の面から、ここ数年は受付に女性だけではなく男性社
員も座っている。 忠臣さんが今回の契約担当者であるE社営業部の副部長さんと帰
り際に話し込んでいたとき、受付で何度か顔を合わせたことがある
男性がそっと近寄ってきて喉飴を差し出してくれた。私たちが打ち
合わせをしている間に、わざわざ近くの薬局に出向いて飴を買って
きてくれたのだ。
ただ、それだけのことなのに、忠臣さんは帰りの車の中で﹃許さ
ん。アイツ、呪ってやる﹄と、ひたすら低い声で呟いていた。
あの日の出来事を思い出したのか、忠臣さんの表情は険しいもの
に変わる。
﹁その喉飴を渡すとき、理沙の手を握ったよな?しかも心配そうに、
顔を覗きこむようにして。あれはかなり近かったぞ、ヘタすればキ
ス出来る距離だ﹂
﹁まぁ、手は握られましたけど。それは私が飴を落としそうになっ
たので、とっさに掴んだだけではないでしょうか。具合の悪い相手
の顔色を窺うことも、良くあることだと。そのくらいは、特に取り
立てていうほどでは﹂
忠臣さんがどうしてそんなに怒っているのか分からずに首を傾げ
れば、彼の眉間に深い縦皺が刻まれた。
﹁そのくらいだと?理沙は警戒心がなさ過ぎる。それとな、昨日、
滝が教えてくれたんだが﹂ と言ってきた。しかも、その誰
KOBAYASHI社内で、古川さんに好意を抱いている男性
﹁滝さんが、何か?﹂
﹁
社員がこのところ急増してますよ
もがかなり本気らしい﹂
﹁は?﹂
472
︱︱︱何、その話。エイプリルフールでもないのに。
ポカンと口を開ける私に、忠臣さんは苛立ちも露に盛大なため息
をつく。
﹁滝が言うには、俺と付き合い始めてから理沙の表情に華やかさと
艶が加わったそうだ。それで年下も年上も関係なく、お前に惹かれ
ているんだと。中には俺と付き合っているのを知っていながらも、
理沙を奪う気満々な不届き者もいやがる﹂
ギリ⋮⋮と忠臣さんの奥歯が低くきしんだ音を立てた。
﹁だからこそ、改めて理沙には俺という恋人がいるんだと知らしめ
るために、指輪は買う。絶対に買う。いっそのこと、結婚指輪を!﹂
﹁ちょっと待ってください!!﹂
流石にそれはおかしい。今にも駆け出しそうな忠臣さんの手を、
グッと握った。
﹁私がそんなにモテるとは思えませんが、万が一にもそうだとして
も、私は忠臣さんが好きなんですよ。忠臣さん以外の人に靡くだな
んて⋮⋮﹂
真剣にそう告げるが、忠臣さんの表情が変わらない。
﹁理沙が俺を本気で好きでいてくれていることは、良く分かってい
る。分かってはいるんだが、それでもそんな話を耳にしたり、理沙
に言い寄る男の姿を見れば、俺の心は不安で一杯になるんだ。いい
年して、みっともないだろ?﹂
険しい表情を消した忠臣さんが自嘲気味に笑い、軽く肩を竦める。
いつだって自信に溢れている忠臣さんが、珍しく見せた気弱な姿。
それだけ、私のことを手放したくないと思ってくれているのだと伝
わってきた。
そんな彼の姿を見せられたら、私の中にある指輪を嵌めることで
生まれる恥かしいという気持ちはどこかに捨ててこなくては、と思
ってしまう。勤務中では絶対に見せることのない忠臣さんの今の様
473
子に、頑なだった私の心が徐々に解れてゆく。私だけに見せてくれ
た今の彼の姿、それはそれで嬉しいけれど、やっぱり忠臣さんは自
信満々でいて欲しいから。
私は繋いだ手をキュッと握り返し、
﹁分かりました。指輪、買いに行きましょう。シンプルだけど素敵
なデザインの指輪、選んでくださいね﹂
と、告げた。
474
︵70︶本日、デート日和:3︵後書き︶
●皆様、ご無沙汰です。久々に苺を更新いたしました。
野口氏、少々壊れ気味?︵苦笑︶
まぁ、この程度は通常運転の範囲でしょう☆
●異性から贈られるアクセサリーって、特別な意味が篭められてい
ると思うんですよ。バッグとか財布とか、そういったものとは意味
合いが違ってくるのではないでしょうか。
みやこ的には指輪とネックレスは﹃束縛﹄の意味合いで、よくネタ
にします。
まぁ、指輪は言わずもがなですよね。ネックレスは﹃首輪﹄という
ことで。︵笑︶
475
︵71︶本日、デート日和:4
私が指輪を買いに行こうと告げると、忠臣さんが照れくさそうに
笑う。
﹁遠慮せずに、結婚指輪でもいいんだぞ﹂
︱︱︱まだ言うか!!
﹁そこは遠慮させてください!﹂
私は即答する。
なんだってもう、この人はそこに拘るのか。いくらなんでも、気
が早すぎる。
﹁順番が違いますって!それならばまず、婚約指輪ですよ!﹂
思わず口にすれば、忠臣さんがニヤリと笑った。
﹁つまり、婚約指輪なら遠慮なく受け取ってくれるということだな
?﹂
ことさら重ねた手に力を入れて、彼が耳に心地よい声で告げてく
る。
﹁あ、え、その⋮⋮﹂
私は頼りなく視線を逸らせば、それを嗜めるように更に力を入れ
て手を握られた。
﹁そういうことだろう?﹂
得意げに目を細めてくる忠臣さんに、私は困ったように眉を寄せ
た。
してやられた。
結婚指輪よりも婚約指輪のほうがデザイン上ダイヤが目立ち、か
えって周囲の注目を浴びてしまうではないか。それこそ桑田さんと
滝さんの格好の餌食となる。
476
かといって、結婚指輪を嵌めるのはまだちょっと無理だ。下手を
すると、この流れで﹃これから籍を入れに行くぞ﹄と言い出しかね
ないのが忠臣さん。
彼のことは将来を視野に入れた時、外すことができない存在だ。
でも、それは今ではない。私の気持ちは、まだそこに追いついてい
ない。
視線を落とし、忠臣さんに気付かれないように息を吐いた。
私としては、無難なファッションリングで済ませるつもりだった
のだ。引くことをしない忠臣さんの提案を覆すのは、正直相当に骨
が折れる。とびきり甘くて優しい忠臣さんであるが、自分の提案は
割りと強引に押し通す人だ。
これまでの付き合いでそれが分かっているのでどうしたらいいの
だろうかと悩んでいたら、ふいに繋いでいる手の力が緩んだ。
これまで掴まれているといった感じだったのに、今は包まれてい
るといえるほど優しく彼の手が私の手を覆っている。
﹁忠臣さん?﹂
視線を上げて彼の様子を伺えば、
﹁冗談だ。理沙が思うとおりの指輪にしよう﹂
そう言って、忠臣さんが穏やかに微笑む。
﹁え?﹂
自分から意見を引いたことに驚き、私は彼を凝視してしまった。
すると、苦笑が返ってくる。
﹁俺からの婚約指輪や結婚指輪が嫌だっていう事ではないんだろ?﹂
彼の言葉に、私はコクリと頷く。
そうなのだ。
忠臣さんから貰うそういった指輪が嫌なのではなく、貰うタイミ
ングが今ではないということなのだ。
﹁だったら、今日のところはファッションリングでいいさ﹂
私の思いを分かってくれた忠臣さんはクスッと笑うと、空いてい
る手で優しく私の頬を撫でる。
477
﹁それに、婚約指輪は段取りを踏んだ後に、もっと然るべき所で渡
すものだしな﹂
忠臣さんもたまにはまともなことを言うではないか。
﹁ちなみに、忠臣さんの言う然るべき所って?﹂
そう訊きかえす私に、彼は一段と艶やかな笑みを浮かべた。
﹁ベッドの中だ﹂
彼の残念ぶりは、相変わらず健在なようである。
ショッピングモールのメインストリートからほんの少し奥まった
ところに、品のいい店構えのジュエリーショップがあった。
落ち着いた雰囲気だが足を踏み入れにくいといった感じもなく、
店内には私とそう年齢の変わらない女性客が数人いた。
﹁ここにするか?﹂
忠臣さんに訊かれて頷きを返す。
そこへ二人で入り、ショーケースに並べられている指輪たちを一
つ一つ眺めてゆく。
シンプルと一口に言ってもデザインは様々で、あちらこちらへと
目移りしてしまう。
﹁どれも素敵ですねぇ﹂
私と同じように、忠臣さんも視線をショーケース内の指輪たちに
落としている。
﹁理沙はどういうものが好みなんだ?﹂
﹁細身のリングがいいです。あまりしっかりしたものだと、指輪を
つけていることが気になってしまいそうで﹂
﹁なるほどな。それで色は?﹂
﹁そうですねぇ﹂
これまでに自分で買ったネックレスなどのアクセサリーを思い浮
478
かべる。
﹁どちらかというと、ゴールドはあまり身に着けませんね﹂
﹁好きな宝石はあるか?﹂
訊かれて軽く首を横に振る。
﹁私、そういうことに詳しくないので、忠臣さんにお任せします。
ただ、仕事中でもあまり目立たないものがいいです﹂
石の大きさもそうだが、ルビーやサファイヤなどの色が濃い宝石
だと、どうしたって視線が集まりやすくなる。かといって、透明な
輝きを持つダイヤは高価過ぎて気が引ける。
そういうことを説明すれば、
﹁そうか⋮⋮﹂
と、一言呟いた忠臣さんは店員さんを呼び寄せて、あれこれ指示
をする。
そして数分後、店員さんが藍色のビロードの台にいくつかの指輪
を載せて戻ってきた。 ﹁この中に、理沙の好みはあるか?﹂
目の前に差し出された指輪を見つめる。どれも多少デザインに違
いがあるが、リングは同じ色で、付いている石も同じ物。
﹁リングが細身で材質はプラチナ、そして、ムーンストーンのもの
を揃えてもらった﹂
並んだ五つのリングにはそれぞれカットの違う石が付いていて、
そのどれもがダイヤよりもやわらかい光を放っている。
﹁ムーンストーンですか?﹂
まさに月光のような淡い光を放つその石のその名前は聞いたこと
があるが、どうしてそこに拘るのだろうか。
首を傾げた私に、
﹁女性がムーンストーンを身に付けていると、幸せになれるらしい。
女子社員たちがそう話しているのを、ついこの前聞いてな。理沙が
特に指定しないのであれば、その石の指輪を贈りたいと思ったんだ﹂
忠臣さんが私の左手をとって、大きな手で静かに握り締める。
479
﹁俺が理沙を幸せにするのは当然のことだが、ムーンストーンを身
に着ける事で理沙がもっと幸せになれたらいい。俺はこの世界の誰
よりも、理沙の幸せを願ってるよ﹂
握った手を静かに持ち上げ、私の指先にソッとキスをする忠臣さ
ん。形のいい瞳がとても愛おしそうに私を見つめる。
そんな彼を見つめ返し、私は顔が熱くなる。⋮⋮嬉しさを上回る
羞恥で。
とても感動的なシーンだが、そういうことは誰もいないところで
やってほしい。店員さんがいたたまれない様子で俯いているではな
いか。
当初の予定では忠臣さんに指輪を選んでもらうつもりであったが、
一刻も早くここから立ち去りたい。 私は急いで5つの指輪の中から最も好みの1つを選び、忠臣さん
を引きずるようにしてその店を後にしたのだった。
480
︵72︶本日、デート日和:5
それからは服や日用品など買うために色々な店を巡り、頃合を見
てお洒落なフードコートで簡単な昼食を済ませた。
その後は夕食の材料を買い込み、今は帰途に着く車中だ。
日が少し西に傾き、微かにオレンジがかったやわらかい日差しが
私たちを照らしている。
そんな穏やかな状況の中、優雅な手付きでハンドルを握る忠臣さ
んをソッと横目で見遣りながら、私は膝の上にある自分の左手に右
手を伸ばした。
やたらと慌しい中で買ってもらった指輪が、私の左薬指に嵌って
いる。
慌しくなってしまった原因は自分の恋人様の言動なのだが、それ
を今ここで持ち出したとしてもどうにもならない。
忠臣さんを責め立てた所で、あの時感じた羞恥心はなくならない
のだ。
︱︱︱せっかく感じのいいお店だったのに、もう行けないなぁ⋮⋮。
彼に気付かれないように静かにため息を漏らすが、指先にムーン
ストーンの滑らかな感触が伝わると、心の中が途端に甘くくすぐっ
たくなる。
何だかんだで、結局は指輪をプレゼントしてもらえたことが嬉し
いのだ。
それに私のことを考えてわざわざムーンストーンを選んでくれた
ことが、本当に嬉しかった。
忠臣さんと付き合い始めてから、私はこれまでの彼氏と一緒にい
た時には感じなかった幸福感に包まれている。
481
どんなに情けない自分でも、どんなに子供っぽい自分でも、忠臣
さんは丸ごと私を愛してくれる。
見た目のイメージとは違う私が顔を出しても、彼はそれを厭うこ
となく、それどころか、そんな私を本当に愛おしそうに見つめてく
れる。
古川
という人物像を忠臣さんの前では作り上げる必要もない。
ありのままの自分を隠すことなく、そして周囲が思い描く
理沙
それがどんなに嬉しいことなのか。そういう人が自分を愛してく
れることが、どんなに幸せなことなのか。
そして、その相手が私の幸せを心底願ってくれていることが、ど
んなに幸運なことなのか。
忠臣さんによって、私はそのことを深く思い知ったのだった。
﹁どうした?﹂
信号待ちで車を止めた忠臣さんが、優しく微笑みながら私に声を
掛ける。
嬉しさで頬が緩みっぱなしの顔を見られたことが恥ずかしくて、
私は思わず俯いてしまう。
﹁え、その、忠臣さんから指輪をもらえたことが、自分でも思って
いた以上に嬉しいようで⋮⋮﹂
はにかみながらそう告げると、彼の左手がこちらへと伸びてきて、
スルリと私の頭を撫でた。
﹁良かった。店では不機嫌そうだったから、本当は嫌なんじゃない
かって心配していたんだぞ﹂
私は指輪を貰うことに対して、ちっとも嫌ではなかったのだ。嫌
だったのは、人目も憚らない彼の言動である。
そのことを視線に含めて無言で軽く睨むと、流石の忠臣さんもバ
ツが悪そうに苦く笑った。
﹁すまない。理沙にやっと指輪を受け取ってもらえるのが嬉しくて、
つい、な﹂
482
そんな彼に、私も苦笑で返す。
﹁もう、そのことはいいですよ。それより、本当にありがとうござ
います。大切にしますね﹂
の指輪だからな﹂
を強調され、私はますます苦笑いとなる。
そのため
ニコリと笑顔を浮かべると、忠臣さんの眼差しがやや真剣味を帯
びた。
そのため
﹁ちゃんと会社にも着けていけよ。
やたらと
本当の私
を知ったら、好意を寄せてくださっている方た
﹁忠臣さんは心配しすぎですって。第一、見た目と正反対のところ
がある
ちは100年の恋も冷めるという感じだと思いますよ﹂
そう告げると、忠臣さんはやれやれといったように首を軽く左右
に振る。
﹁理沙は男心をちっとも理解してないな﹂
ため息混じりに告げられ、私はパチクリと瞬きを繰り返した。
﹁え?男心ですか?﹂
﹁そうだ。普段はキビキビしている理沙が、何かの拍子にあどけな
い様子を晒してみろ。それを目にした男共は、そのギャップに打ち
抜かれて、あっという間にお前の虜だぞ﹂
今日も散々その話をされたけれど、どうしても忠臣さんの言うこ
とが理解できない。
﹁そうでしょうか?イメージと違うといって、反対に呆れ返るので
は?﹂
私はそのことで、これまでの彼氏たちに散々なことを言われてき
た経験があるのだが。
首を傾げていると、忠臣さんは拳でコツンと私の頭を軽く小突い
た。
﹁見た目でしか判断できないような、お子様野郎の話をしているん
じゃない﹂
そう言って彼は前を向いてハンドルを握ると、静かにアクセルを
踏み込みながら更に話を続ける。
483
俺が守ってやりたい
と誰も
﹁仕事中の理沙は毅然としていて、有能でカッコいい女性だ。だが、
そんな理沙が少女の顔を見せたら、
が思うはずだ。そして、その顔を自分以外の男に見せてはなるもの
かと、躍起になってお前を縛り付ける。男なんて、所詮は傲慢な生
き物だからな。⋮⋮俺のように﹂
前方に目をやったまま、忠臣さんが自嘲気味に笑った。
当然のように語られる彼の言葉に照れくさくなって、私はセータ
ーの裾をモジモジと弄る。
﹁ええと、その、自分がそれほど良い女だとは、どうしても思えま
せんが⋮⋮。私が好きなのは⋮⋮、忠臣さんだけですよ。プレゼン
トしてくれた人が忠臣さんだから、指輪を贈られてこんなに嬉しい
んです﹂
恥ずかしいながらも精一杯自分の思いを言葉にすると、再び信号
待ちで車を止めた忠臣さんが切れ長の瞳をやんわりと細めて私を見
つめる。
﹁そう言ってもらえて、俺のほうこそ嬉しいよ。指輪を受け取って
もらえて、本当に良かった﹂
心底愛おしそうに見つめられ、私の顔がほんのり赤くなった。
そんな私を、一層幸せそうに見つめてくる忠臣さんが次に口にし
たのは、
﹁もし拒否されたら、指輪じゃなくて手錠を買いに行くことになっ
ていたな﹂
という物騒なセリフだった。
忠臣さんのマンションに帰ってきた私たちは、それぞれに荷物を
手にして玄関に入る。
上がり口に荷物を降ろした私は、左手をすぐ横の壁に着いてパン
プスを脱ごうとした。そして視線の先にあるリングが頭上に灯って
484
いる照明を受けてほのかに輝く様子を見て、自然と頬が綻んだ。
そんな私を、一足先に靴を抜いて上がっていた忠臣さんが見てい
る。
﹁本当に嬉しそうだな﹂
﹁それはそうですよ。だって、好きな人から指輪を貰うなんて初め
てですし﹂
これまでの彼氏たちは、指輪を贈ってくれたことなどなかった。
きっと、指輪を贈ることで自分が私に縛り付けられてしまうとで
も考えていたのだろう。
彼らにとって、自分がいかに都合のいい女だったのかと、改めて
思い知る。彼女にするにはいいが、一生を共にするつもりはない。
要はそういうことだったのだ。
そのことに気が付いた途端、今の今まで幸せで膨らんでいた心が、
一気にぺしゃんこに萎んでしまった。
﹁私って、男性を見る目がないんですね⋮⋮﹂
思わず漏らした呟きに、忠臣さんが顔を顰める。
﹁そんなことで落ち込むことはないだろうが。理沙が悪いんじゃな
い。クソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根性が
腐っていてどうしようもないほど救いようのない器の小さなろくで
なしの腰抜けなガキ共が悪いんだ﹂
まじない
毎度ながら、私の元彼たちは散々な言われようである。
まるでの何かの呪いのような長い恨み節に半ば感心しつつ、私は
自分の不甲斐なさを伝える。
﹁でも、私が彼らのことを見抜いていたら、そういう悲しい思いを
することがなかったはずです。今からでも、男性を見る目を養った
方がいいですよね?﹂
ところが、忠臣さんは憮然とした表情で言い捨てる。
﹁そんなことは一切必要ない。これから先は理沙の隣には俺しかい
ないんだから、今更男を見る目を養う必要なんかないだろうが﹂
そう言って、忠臣さんが後ろから私を強く抱き寄せた。
485
﹁理沙。別れた男のことなんか、もう二度と考えるな。あんな奴ら
のことを考える暇があるなら、俺のことを考えていろ﹂
﹁忠臣さん⋮⋮﹂
﹁あいつらに傷つけられた以上に、俺が理沙を大事にする。あいつ
らに泣かされた以上に、俺が理沙を大切にする。だから、理沙は安
心して俺に愛されていればいい﹂
逞しい腕にきつく抱き寄せられ、背中には忠臣さんの頼りがいの
ある広い胸を感じる。
﹁理沙、愛してる﹂
彼にすっぽりと包まれて響きの良い声で優しく囁かれると、例え
ようのない安堵が私に訪れたのだった。
486
︵73︶本日、デート日和:6
忠臣さんに後ろからしっかりと抱きしめられ、私は彼の胸に背中
を預ける。
すると忠臣さんの右手が私の顎先を捉え、軽く上に向かせた。横
目で斜め後ろを見遣れば、忠臣さんが優しく微笑んでいる。
﹁理沙が欲しい﹂
蕩けるような声で囁かれ、頬にキスを落とされた。やわらかく押
し付けられた唇は僅かに離れると、再び私の名前と共に触れてくる。
﹁理沙、理沙⋮⋮﹂
何度も名前を呼ばれ、何度も頬や瞼にキスをされる。
私を抱きしめる腕も、私を呼ぶ声も、私に触れる唇も、何もかも
が優しくて、そして、私を一心に求めてくれているのが伝わってく
る。
恋人にこんなにも求められて、嬉しくないはずがない。
﹁⋮⋮忠臣さん﹂
自分の体に回されている彼の腕に触れ、頭をコトンと彼の肩に預
け、彼の目を見つめながら彼の名前を囁いたことで、私の気持ちは
伝わったらしい。
形のいい瞳にフワリと艶を浮かべると、忠臣さんは私の腰を抱い
て歩き出した。
歩きながら耳や首筋にもキスを落とされ、時折ゾクリとした感覚
が背筋を駆け上り、私は足の力が抜けてしまいそうになる。
﹁や、ん⋮⋮﹂
いざな
思わず喘いでしまった私を逞しい腕でしっかりと支えながら、忠
臣さんは寝室へと誘った。
そして私をベッドの縁に腰掛けさせると、彼は隣ではなく、私の
前に座った。
487
片膝を着き、忠臣さんは自分の右手で私の左手を厳かに捧げ持つ。
彼の上向きの手の平に添えるように載せられた自分の手。まるで何
かの儀式のようだ。
﹁理沙﹂
私を呼んだ忠臣さんは、艶を纏いつつも真剣な瞳でジッと私を見
上げていた。
﹁な、何でしょうか?﹂
まるで忠誠を誓う騎士のような忠臣さんに、私の胸はドキドキと
高まる。
そのドキドキを更に高めるように、彼は私の左手をソッと持ち上
げて、やわらかな光を放っている指輪にキスをした。
﹁指輪を受け取ってくれてありがとう﹂
﹁いえ、そんな。私こそ、こんなに素敵な指輪をプレゼントしてく
ださって、ありがとうございます﹂
改めてお礼を述べると、忠臣さんはまた指輪にキスを落とす。
彼は顔を上げることなく、しばらくの間黙り込んだ後、そのまま
の体勢で静かに話し始めた。
﹁俺は理沙の事になると、みっともないほど情けない男になる。理
沙より年上なのに、時折子供のように駄々をこねて理沙を困らせて
しまう。理沙の前では誰よりもかっこいい男でありたいのに、我慢
が利かないこともある⋮⋮﹂
俯いて語る忠臣さんは、まるで神の前で懺悔をしている熱心な信
者のようだ。許しを請うように何度も指輪にキスを落とし、そして
再び話し始める。
﹁理沙と俺にはそれぞれの考えがあるのだから、お互いの意見が一
致しなくて、すれ違ったり喧嘩をしたりするかもしれない。それで
も、理沙の事は何よりも大事にする。全身全霊で愛しぬく。理沙の
そばを離れることはしない﹂
伏せていた顔を上げてきっぱりと言い切った忠臣さんが、強い視
線で私を射抜く。
488
﹁この指に婚約指輪と結婚指輪を贈る権利を、俺にくれないか?﹂
忠臣さんの左手が私の左手に重なった。大きく温かな手が、私の
手と指輪を包み込む。
その様子をただ見守っている私に、忠臣さんは話を続けた。
﹁きちんと指輪を用意してから、その時にプロポーズをする。これ
は、プロポーズの予約だ﹂
﹁プロポーズの予約?﹂ 結婚の予約がプロポーズではあるが、プロポーズの予約など聞い
たことがない。
軽く首を傾げる私に、忠臣さんはほんの少しだけ苦笑した。
﹁理沙はまだ結婚に対して、かなり漠然としか考えてないだろう?﹂
彼の言葉に、ほんのちょっとだけ間を空け、そして正直に頷く。
年齢を考えると、そろそろ真剣に考えなくてはいけないだろうと
は思っていた。私の友人たちは既に結婚している人もいるし、子育
てしている友人もいる。
大親友の恭子だって結婚式場のパンフレットを集めて、休みの日
には無料で開催されているホテルの疑似結婚式に足を運んでいた。
まあ、異常なほどに熱心な彼氏の星野君に引きずられてという感が
否めないが、彼女も満更ではないようだ。
こんな風に、ある程度の年齢で、そして彼氏がいる女性であれば
結婚を考えるのも当たり前なのだろうが、私といえば頭の片隅でチ
ラリと考えるだけ。
忠臣さんと付き合い始めた頃も、そして今に至っても、まだ結婚
というものを具体的にも気持ち的にも考えることなどなかったのだ。
そんな私の事など、忠臣さんはお見通しだったのだろう。そのた
め、私に少しでも意識させるために﹃プロポーズの予約﹄と言った
に違いない。
だけど、彼はぼんやり屋の私の事を責めも怒りもすることなく、
柔らかな微笑みを浮かべて見つめている。
﹁でも俺は、結婚するなら理沙しか考えられない。理沙しか要らな
489
い。だから、結婚の心構えをしておいてほしい。今日をきっかけに、
結婚について考えてほしい﹂
そう言った忠臣さんは、キュッと私の左手を握ってきた。
﹁理沙に見捨てられないように、もっといい男になる努力をする﹂
整った顔が真剣みを帯びて、怖いくらいだ。そんな彼を見つめて、
私は苦笑した。
﹁これ以上忠臣さんがいい男になったら、私は心配でたまりません
よ。私なんかが太刀打ちできない、どこぞの令嬢に見初められたら
どうするんですか﹂
﹁だが⋮⋮﹂
言い淀む忠臣さんに、私は繋いでいる手を軽く握り返す。
﹁私にとって、忠臣さんは十分かっこいい、素敵な人です。⋮⋮ま
ぁ、正直呆れちゃうこともないとは言えませんが、見捨てるなんて
ありえませんよ﹂
クスッと笑みを浮かべた私とは反対に、彼の表情はまだ硬い。
﹁⋮⋮本当か?俺を見捨てないでいてくれるのか﹂
私の手を包む彼の手にやんわりと力が籠められ、更にしっかりと
包まれた。
いつだって自信満々の忠臣さんがこうして不安に思うということ
は、それだけ私の事を真剣に想ってくれていることの表れ。それが
何ともくすぐったい。
もう一度クスリと小さく笑った私は、コクリと頷いた。
﹁もちろんですよ。だって、忠臣さんは子供っぽいところがある私
を、丸ごと受け入れてくれたじゃないですか。情けないところがあ
る私を、すっぽり包んでくれているじゃないですか﹂
﹁当然だろ。そういうところも理沙の一部なんだから、それもまた
理沙の魅力だ﹂
間髪入れずに返ってきた言葉に一層胸の奥がくすぐったくなり、
私は更に笑みを零す。
﹁ふふっ。ですからそれと同じように、忠臣さんが言うみっともな
490
いところや駄々を捏ねるところも、私はちっとも嫌じゃないんです
よ。いえ、まぁ、人目があるところでは流石にやめてほしいと思っ
ていますけれど、それが忠臣さんを嫌いになる理由にはならないっ
てこと、分かってくださいね﹂
私がそう言うと忠臣さんは重ねていた手を解き、指を絡めてくる。
互いの指を重ねるように繋ぎ合わせると、忠臣さんが静かに立ち上
がり、そして空いている左手を私の右肩に掛けた。
﹁それを聞いて安心した。よし、今日も目一杯愛してやるからな﹂
さっきとは違って上から見下ろしてくる彼の視線は、壮絶な色香
を放っている。
これまではあれほど謙虚な騎士であったのに、今は絶対的な権勢
を誇る王様のようだ。
﹁い、いえ、そんな。十分愛されていますので、ほどほどでお願い
します⋮⋮﹂
忠臣さんから溢れる圧倒されるほどの色気に怖気づき、フルフル
と首を横に振っていると、肩に置かれている手にクッと力が入る。
﹁そう、遠慮するな。俺の愛情は無尽蔵だ。いくら愛情を注いだと
ころで、枯れやしないさ﹂
緩やかに細められた瞳の奥にちらつく光は、肉食獣が獲物を前に
した時のものと同じ。
逃がさない、食らい尽くす
そんな声なき声が聞こえてくるようで、私は顔が引き攣る。
︱︱︱それはそれで、困るんですけど⁉
残念ながら心の叫びが忠臣さんに届くことはなく、私はあっけな
く彼に押し倒されたのだった。
491
︵74︶本日、デート日和:7
彼に押し倒されて仰向けになった私の上に、忠臣さんがすかさず
圧し掛かった。
そして私に痛みを与えず、それでいてこちらの動きを封じるよう
に、見事なバランスで体重をかけてくる。
﹁た、忠臣さ⋮⋮﹂
彼の名前を呼んでいる途中で、忠臣さんがキスをしてきた。
薄く開いていた唇の隙間から、彼の舌が一気に侵入してくる。
僅かな隙間も許さないとばかりにグッと唇を押し付け、強く舌を
巻きつける忠臣さん。舌の付け根がピリッと僅かな痛みを感じるほ
ど吸われ、口内のすべてを舐めつくすようにネットリと弄られ。
かと思えば、今度は舌先をやんわりと甘く噛まれ。
強引さと激しさと優しさが絶妙に組み合わさったキスに、私の心
臓がドキドキと大きな音を立てていた。
これまでに何度だってキスをされてきたし、それこそ今のような
深くて力強いキスだって数えきれないほど与えられてきた。
なのに、まるで初めて恋人とキスをしたかのように、今日の私の
心臓は苦しいほどに暴れているのだ。 あまりに激しく胸を打つの
で、もしかしたらその振動が彼にも伝わっているのではないかと思
えるほどに。
それはきっと、彼がプロポーズの予約をしてくれたからだ。忠臣
という男性を改めて認識したからだ︱︱
さんとの結婚を私が意識したことで、彼の存在がより確固たるもの
野口 忠臣
になったからだ。
私の中で
︱将来を共にする、唯一の男性として。
そして、彼の言葉と態度が、本当に嬉しかったから。
これまで元彼たちに散々な言いぐさで捨てられた私を、精いっぱ
492
い愛してくれていること、愛し続けてくれることを約束してくれた
から。
その事が言葉で表現する以上に嬉しかったのだ。
︱︱︱やだ、私ってば、こんなに乙女だった⁉
心の中で呟いた自分の言葉に、弾けるような胸の鼓動が更に早ま
ってゆく。
まるで思春期を迎えた少女のみたいな自分がやけに居たたまれな
くなって、私は彼の服をキュッと握り締めた。
そんな私に、忠臣さんはますますキスを深めてゆく。彼が舌を絡
めるたびに、クチュリという湿った音が耳に響いた。
その水音は一度だけではなく断続的に繰り返され、じっくりと味
わうように忠臣さんの舌が淫らに動いている。 ﹁あ、ふ⋮⋮﹂
口内を長いこと掻き混ぜられ、息苦しくなってきた私は思わず喘
いでしまった。
すると唇を微かに浮かし、忠臣さんがクスリと笑う。
﹁今日の理沙は、ずいぶんと感じやすいんじゃないか?﹂
お互いの唇がぎりぎり触れるかどうかの至近距離で、彼は私の瞳
を覗き込みながらそう言った。
忠臣さんの目には頬を赤らめ、目にはうっすらと涙を浮かべてい
る私が写っている事だろう。
彼の言う通りなのだが、それを素直に認めてしまうのは何となく
気恥ずかしくて、少しだけ首を横に動かして忠臣さんから視線を外
した。それから彼の肩をちょっとだけ押し返してやると、忠臣さん
はまたクスリと笑った。
﹁照れる理沙はとても可愛くて、思いっきり綺麗だよ﹂
その笑い方も声も、すごくすごく優しい。
普段はキリッと凛々しい忠臣さんがこうして甘く囁いてくると、
493
私の脳はすぐさま蕩けてしまいそうになる。
おかげで私の心臓は休まる暇がないのだ。
恥ずかしさと、ほんの少し感じる悔しさで顏を逸らしたまま、今
度は忠臣さんの肩を拳でコツンと叩いてやった。
コツン、コツンと繰り返していると、何度目かで不意に手を掴ま
れる。
忠臣さんは掴んだ私の右の拳をゆっくり開かせると、自分の口元
に引き寄せた。そして人差し指と中指の二本をパクリと口に含むと、
チュッと吸いあげる。
途端に私の背筋がソワリと粟立った。
快感と呼ぶにはまだ弱いけれど、確かに私の中に湧き上がるもの
がある。
指先は敏感で、ちょっとした怪我でも痛みを強く感じるという。
どうやら、こうした愛撫にも反応してしまうようだ。
無意識に手を引きかけると、それを咎めるように彼の唇が指先を
食んだ。
﹁あっ﹂
何とも言えない感覚に、思わず彼へと視線を戻してしまった。
短く声を上げた私に、忠臣さんは形のいい切れ長の瞳をスッと細
めて微笑む。その表情が艶めいていて、心臓がこれまで以上にドク
ッと大きく跳ね上がった。
真っ直ぐに私を見つめ、私の指先に舌と唇で愛撫を仕掛けてくる
彼は何と淫靡な事か。忠臣さんから漂う大人の男の色気は、圧倒的
な威力があった。
戻してしまった視線は彼のそんな表情に釘付けとなり、少しも逸
らすことが出来ない。
黙ったままで彼を見つめ返していると、さっきまで散々私の舌を
弄った動きと同じく、彼の肉厚な舌がネットリと指に絡み始めた。
器用に舌を動かして、指の周囲を丹念に辿る。
舌が自分の指を舐めているだけなのに、それだけで背筋にゾクゾ
494
クとした感覚が走った。
﹁ん⋮⋮﹂
思わず鼻にかかった小さな声を漏らすと、忠臣さんは声を出すこ
となく喉の奥でクツクツと楽しそうに笑う。
それから爪の生え際辺りをチロチロと舐め、関節に軽く歯を立て、
指先から根元に向かって舌を這わせたかと思えば、指先までじっく
りと舐め上げていった。
その動きをそれぞれの指にしばらく続けていたのだが、指の付け
根まで下りた舌が今度は人差し指と中指の間の皮膚を舐りだす。
こんな場所を舐められるなんて初めての事でちっとも気が付かな
かったが、どうやらここはかなり敏感な場所のようだ。
忠臣さんの舌先が指の間に潜り込んで、子犬がミルクを舐めるよ
うにペロリ、ペロリと舐めるたびに、更に私の背中が粟立ってゆく。
﹁や、あ⋮⋮﹂
首筋や胸ではなくこんな所で感じてしまうなんて、今日の私はど
うかしている。感じすぎるにも程があるのではないか?
そんな疑問に答えを出す暇もなく、忠臣さんは次なる愛撫を仕掛
けてきた。
空いている片手でセーターの上から私の胸を揉むと、ビクッと肩
が震える。生地が厚いセーターの上からでも敏感にその動きを感じ、
私は肩が跳ねるのを止めることなどできない。
﹁ほら、やっぱりいつもより敏感だぞ﹂
彼は指先にそっと力を篭めただけで、服越しにユルユルと胸を揉
んでいるだけなのだ。なのに、私の肩は小刻みに震え続けている。
﹁そ、そんな事は⋮⋮﹂
カァッと顔を赤くして私がポツリと呟けば、
﹁別に恥ずかしがることはないだろう?俺としては、愛しい恋人が
自分の愛撫で感じてくれていることが嬉しくてたまらないのに。し
かもいつも以上に敏感に﹂
当然といった口調が返ってきた。
495
﹁で、でも⋮⋮﹂
尚も言い淀む私に、忠臣さんはほんの少しだけ何かを考えるよう
に間を空けた後、自分の腰を軽く押し付けてきた。
﹂
私の太ももの上部に当たるのは⋮⋮。
﹁た、忠臣さん⋮⋮
押し付けられた存在の正体に気が付いた私は、オズオズと彼の名
前を口にする。僅かに引けた私の腰を追いかけるように、忠臣さん
はまた腰をグイッと押し付けてきた。
﹁俺だって、こうして高ぶっているんだ。しかも理沙からは何も奉
仕されていないのに、お前の喘ぐ声と表情としぐさだけで臨戦状態
に近い﹂
クッと口角を上げて笑みを浮かべる忠臣さん。
﹁⋮⋮さぁ、俺をしっかり受け止めてくれよ。理沙﹂
低く囁かれた声と妖しい光を湛えた瞳に逆らう術を、私は持ち合
わせていなかった。
496
︵75︶本日、デート日和:8
忠臣さんはベッドヘッドに置かれているリモコンで、寝室の照明
を落とす。適度な暗さになった室内は、途端に淫靡な雰囲気に包ま
れる。
その雰囲気を纏った彼の瞳が、まっずぐに私を見下ろしていた。
いつもは後ろに流してある黒髪が、重力に逆らえずにサラリと前
に落ちている。
そのラフに乱れた髪が彼の凛々しさを更に強調していて。そして、
薄明りの中でもはっきり分かるほど強い光を宿したギラつく瞳が艶
っぽくて、かっこよくて。
いつ見ても見惚れるほどの彼の顔は、やっぱり、今見ても見惚れ
てしまう。
それは彼の顔立ちが整っているからだけではない。
私に向ける愛情がその視線や、口元、表情全てに現れているから
だ。
﹁理沙⋮⋮﹂
普段よりほんの少し掠れた声が私を呼ぶ。 それを合図に、私は静かに目を閉じた。
改めて唇が塞がれる。
彼に与えられるキスは激しけれど、優しい。力強いけれど、甘い。
強引だけど⋮⋮、気持ちがいい。
彼の首に腕を回し、緩やかに引き寄せた。私に引かれるままに彼
は顔を寄せ、一層深く唇を重ね合わせてくる。
時々角度を変え、唇同士を擦り合わせた。忠臣さんはクスリと小
さく笑って私の下唇を柔らかく食むと、薄く開く隙間から舌を侵入
させてくる。
497
絡んでくる忠臣さんの舌に自分の舌を絡ませれば、ピチャリ、と
いう水音が寝室に響く。 その音が恥ずかしいと感じるのに、私は彼とのキスがやめられな
い。
﹁ん⋮⋮﹂
短い喘ぎが漏れると、忠臣さんの舌が絡みついている私の舌が吸
い上げられる。
チュプリという湿った音が耳に届いた。
忠臣さんはわざと音を立てるように吸い上げて舐る。クチュ、チ
ュプという小さな水音を繰り返しながら私の口内をしばらく弄って
いた舌はスルリと抜け出し、下唇の輪郭に沿って舌先を這わせた。
一往復した舌は顎先へと移動して、今度は耳の輪郭に沿って動き
始める。
外耳の形を確かめるようにネットリと動く舌。その舌が耳の穴に
差し込まれて、緩やかに掻き混ぜてきた。
キスで立てられた音よりも更にはっきりと大きな水音が鼓膜を刺
激し、ゾクッという感覚がうなじの産毛をチリチリと巻き上げる。
﹁は、あ⋮⋮﹂
思わず漏らした吐息に、忠臣さんはフフッと笑う。その息が耳に
かかり、ゾクゾクとした感覚が一層大きくなって私を襲う。
﹁本当に今日の理沙は感じやすい﹂
満足そうに囁いた忠臣さんは、耳たぶにやんわりと噛みついた。
歯を立てて甘噛みし、コリコリとした耳たぶ特有の感触を楽しみな
がら、時々そこに吸い付いてチュプチュプと舐ってくる。
﹁んんっ﹂
閉じている瞼に力が入る。
馬乗りになって私の耳に愛撫をしていた彼は身を起こし、僅かに
眉が寄せられている私の眉間に唇を落とした。
チュッと吸い付いて、今度は瞼にもキスをする。そして目尻に優
しく吸い付く。
498
その仕草を繰り返しつつ、彼の両手は私のセーターをたくし上げ
ていた。
引き締まった筋肉を纏っている逞しい右手が私の背中とシーツの
間に侵入して、自分に引き寄せるように抱き上げる。同じように逞
しい左腕が、スルリとセーターを脱がせてしまった。
少し強引に脱がされたせいで、私の髪が乱れて額や頬に張り付い
ている。それを忠臣さんは鼻先や唇で整えてくれた。
その仕草が蕩けそうなほどに甘く、自分が物語の中の幸せなお姫
様になったようで、ジンと胸が熱くなる。
﹁⋮⋮忠臣さん﹂
薄く目を開けて彼の名前を呼んだ。
目の前にあるのは、私を優しく見つめる瞳。その瞳の奥にある熱
が、私を、私だけを求めている。
︱︱︱こんなに熱心に求められるなら、肉食獣に食べられてしまう
のも幸せかもね⋮⋮。
少々心配なのは、滾る彼の欲情を己の身ですべて受け止められる
かどうかだ。
空手で鍛えてきたので体力には自信がある自分だが、彼とのセッ
クスの後は全身が気怠さに襲われる。
でも、それはけして嫌ではなかった。
それほどまでに、忠臣さんが私を欲してくれている証拠だから。
私を心底愛してくれている証拠だから。
それに優しい彼は、疲労で身動きが取れない私をほったらかしに
などしない。それどころかあれやこれやと自ら動き、せっせと私の
世話を焼く。しかも、たいそう嬉しそうに。
忠臣さんに世話を焼かれるのは恥ずかしい時もあるし、自分の事
くらいは自分でこなしたいと思っているけれど。彼が私を気遣って
心配そうにしながらも、飛び切り甘く面倒を見てくることが嬉しい
499
のも事実。
食らい尽くした後も獲物の面倒を見てくれるのであれば、愛の行
為に溺れるのもいいだろう。
﹁⋮⋮忠臣さん﹂
先程と反対に、今度は名前を呼ぶと同時に目を閉じた。全てを彼
に委ねるという意味で。
私の想いを違えることなく受け取った忠臣さんは、キスのせいで
赤く色付いている私の唇にソッとキスをすると強く抱きしめてきた。
そのままゆっくりとベッドに私を横たえる。背中に回されている
腕の筋肉がグッと盛り上がり、一切ふらつくことなく私をベッドへ
と着地させた。
覆いかぶさって私の首筋や鎖骨に舌を這わせつつ、キャミソール
の肩ひもを下ろしてウエスト部分に移動させ、下着を露わにさせる。
ねっとりと鎖骨のラインを舐めていた舌が下がり、胸の谷間を舐
めはじめた。そこから舌先が左胸の膨らみを辿り、ザラリとした舌
特有の感触を与えてくる。
私の髪を撫でている忠臣さんの手の平よりも僅かに温かい、湿っ
た彼の舌。その舌がブラカップの上部から中に忍び込んできた。
そこまで締め付けがきつくない下着なので、彼の舌が侵入できる
余裕は十分にある。
それでも忠臣さんの舌は深く差し入れられることはなく、届く僅
かな範囲で私の胸を弄ってくる。
首の角度を変え、舌の侵入角度も変えてくる忠臣さん。ブラカッ
プの上部に隠れていた乳首に僅かに触れた。
薄く疼いているものの、まだ立ち上がるほどには硬くなっていな
い乳首。それを見つけ出して、忠臣さんは舌先で突つく。
数回突いただけでその動きを止め、次いで乳首の根元を舌で転が
し、乳輪の上半分だけを舌でなぞってきた。
その動きを繰り返しているうちに徐々に乳首に熱が集まり、少し
だけ芯を持つ。そんな乳首の先端を、チロチロと舌の先端だけで微
500
かに舐められた。
下着が邪魔というわけでもないのに、それ以上侵入してこない彼
の舌。それがもどかしくて、じれったくて、私の体が思わずくねる。
﹁や、あ⋮⋮﹂
右手の甲を唇に当て、私は切なげに喘いだ。
﹁理沙、我慢できないのか?﹂
胸に顔を埋めたまま、忠臣さんが訊いてくる。いまだにしっかり
と下着を纏っている胸の膨らみに唇をやんわりと押し当てながら、
ほんのちょっと意地悪そうな声で。
私は早く強い刺激が欲しくて、左手を彼の髪へと梳き入れた。少
し硬くて真っ直ぐな髪を指の間で捉え、軽く引っ張ってやる。
﹁お前は、どうして反応がいちいち可愛いんだよ⋮⋮﹂
クスクスと楽しそうに笑う忠臣さん。そんな彼の様子が何だか悔
しくなって、また髪を引っ張ってやった。
﹁そんなに煽るな。今日は嬉しさのあまりに暴走しそうな自分を抑
えるのに必死なんだぞ﹂
そう言った忠臣さんは、胸の膨らみにキスマークを付ける。
吸い上げる音と共に訪れた僅かな痛みに、体の奥がジンと痺れた。
それはそれで幸せな疼きではあるけれど、私が欲しいのは、もっ
と強いモノ。忠臣さんの想いのすべてを叩きつけるような激しい熱。
お互いのすべてを晒け出す、愛の情交。
彼が嬉しいと感じているように、私も嬉しいのだと分かってほし
いのだ。
﹁平気、だから﹂
手の甲で押さえたくぐもった私の声に、忠臣さんの喉がゴクリと
鳴る。
﹁⋮⋮その言葉、忘れるなよ﹂
獣が威嚇するように低く唸った彼は、乱暴にブラを剥ぎ取った。
フルリと揺れて現れた乳房に、忠臣さんが食らいつく。乳輪ごと
口に含み、乳首の根元を前歯で扱き、ジュルリと音を立てて吸い付
501
いたかと思えば、上下左右にと、乳首を舌で舐め上げる。
舌でジリジリ攻められ続けた左胸の乳首は、途端に反応良く立ち
上がった。
﹁ふ、あんっ。ん、んんっ⋮⋮﹂
少し強引な愛撫が気持ちいい。
私は鼻にかかった甘い吐息を遠慮なく漏らす。
その様子に忠臣さんはクツリと喉奥で笑い、左胸の乳首を唇や歯、
舌で弄りながら、右の乳房へと左手を伸ばしてくる。
肉厚で大きな手の平が、胸の形が変わるほど激しく揉みしだいた。
指先を柔らかい乳房に埋め込み、ムニムニと刺激してくる。
そして胸を掬うように上に持ち上げたり、乳首を中心に円を描い
たり、鷲掴みにして手の平で包み込んだりと、休む間もなく胸を刺
激する。
いつの間にか左の乳首同様、右の乳首も硬く尖り、ツンと上を向
いていた。それを親指と人差し指で摘まみ、擦り合わせるようにク
ニクニと捏ねまわす。
﹁ああっ!﹂
ビリビリとした電流にも似た感覚が、背筋を一気に駆け上がった。
条件反射のように身を捩るが、忠臣さんがそれを許さない。その
場に縫い付けるように彼の体が更に体重をかけ、私の動きを封じて
くる。
散々弄られた二つの乳首は赤みを増し、その体積も増していた。
それを容赦なく愛撫され、私は自分の背中をベッドに押し付けて善
がる。
﹁ん、くっ⋮⋮。は、ぁ﹂﹂
﹁理沙、もっと啼け。俺にイイ声、聞かせろよ﹂
ペロリと大きく左乳首を舐めた忠臣さんは、右の乳首をキュッと
捻り上げた。痛みを感じるスレスレの絶妙な刺激が、プクリと膨ら
んだ乳首に訪れる。
するとさっきの何倍にも膨らんだ電流がつま先まで走った。
502
﹁あん、やぁ⋮⋮っ!﹂
顎先を上げて軽く仰け反り、私は悲鳴にも似た嬌声を上げたのだ
った。
503
︵76︶本日、デート日和:9
忠臣さんの唇と舌と左手でしつこく乳首を弄られ、全身が火照っ
たようにやるせない熱を持つ。
ううん。火照ったように、というのは間違いだ。繰り返される吐
息すらも熱を含み、私の体は確かに熱くなっていた。
﹁や、あぁ⋮⋮﹂
妖しい熱に冒されて、私の口からはひっきりなしに喘ぎが漏れる。
鼻にかかった甘い声。僅かに掠れた嬌声は、隠しようがないほどに
悦楽を纏っている。
それを聞いて、私の胸に顔を埋めている忠臣さんがクスクスと笑
った。
﹁理沙の声は、本当にいい声だな。可愛いのに色っぽいから、際限
なく啼かせてやりたくなる﹂
嬉しそうに、だけど少しばかり意地悪く、それでいてとびきり艶
っぽい声で囁く忠臣さん。
弄られ過ぎて敏感になった乳首を舐めながら言わないでほしい。
僅かにかかる吐息ですら、今の私には刺激となるのだから。
﹁ん、んんっ﹂
下唇を噛んで首を横に振る。
くぐもった声を上げれば、忠臣さんは更に胸を弄ってきた。
尖らせた舌先で乳首をゆっくり舐め転がし、唇で優しく食んだか
と思えば、胸の膨らみを大きく口に含んで、きつく吸い上げる。
吸い上げた乳首をチュプンという音と共に開放すると、彼は私の
心臓がある辺りを中心にキスマークを散らしていった。
そして右の乳首は彼の爪でカリカリと引っ搔かれ、痛みを感じる
手前の絶妙な疼きを与えられている。
ジクジクと疼きを訴える乳首が不意に彼の人差し指の先で乳房へ
504
と埋め込まれ、その状態でグリグリと小さな円を描かれた。おまけ
に親指と残り三本の指が乳房を激しく揉み込んでくる。
左右の胸を先端から乳房まで熱心に愛撫され、私はビクビクと体
を大きく震わせる。
﹁いっ、あぁっ!﹂
甲高い啼き声を上げ、忠臣さんの頭をギュッと抱きしめた。
すると忠臣さんは、私の髪や首筋を撫でていた右手をゆっくりと
移動させてゆく。鎖骨を辿り、今まで舐めていた左の乳首を擦り、
ウエストのラインを撫で、デニム地のレギンスへと到着した。
中指の先を太ももの合わせ目にスルリと忍ばせ、生地の上からユ
ルユルと小刻みにこすってくる。あまり薄くはない生地の上からの
刺激がもどかしく、私は無意識のうちにモゾリと太ももを擦り合わ
せた。
そんな反応を示す私を見て、忠臣さんは胸からおへそにかけてキ
スを落としてゆく。
﹁理沙、可愛いよ。そうやって、もっと俺を誘え﹂
中指の爪が、股の縫い目に沿って何度も往復してゆく。デニム独
特のざらつく生地の上を爪が移動するたびに、ジリジリとした鈍い
振動が秘部に伝わった。
﹁ふ、く⋮⋮、んっ﹂
鼻を抜ける甘い吐息。それは気持ちいいという感情より、じれっ
たさを強く訴えている。
それでも忠臣さんの右手は静かに撫でてくるだけ。おへその上部
にチュッと小さなキスを落としながら、ひたすら縫い目を辿り続け
ている。
私は忠臣さんの頭をポカリと拳で叩いてやった。妖しい熱に囚わ
れているので、ろくに力なんて入っていない拳で。 彼の頭を一つ叩いた後、その拳を振り上げた。もう一度叩いてや
ろうと思ったのに、忠臣さんの左手がパシリと受け止めてしまう。
大きな手の平で難なく捉えられてしまったため、今度は左手で叩
505
いてやろうと腕を持ち上げた。
力の入らない腕でフニャリと拳を振り下ろせば、忠臣さんが拳を
キスで受け止める。
﹁そんな可愛い催促されたら、本気で暴走するぞ﹂
拳に唇をつけたまま、苦笑を零している。
忠臣さんからすると、私のどんな行動も可愛いらしい。
これまで年下の男性としか付き合ってこなかったからか、可愛い
と言われることはほとんどなかった。
それが今となっては何をしても可愛いと言われる始末で、慣れて
いない私としては気恥ずかしい限りである。
だけど、恋人から可愛いと言われて嬉しくない女性などいないわ
けで。
握っていた拳を解き、指先で彼の唇に触れる。誘う様に唇の輪郭
に沿って撫でながら、ソッと彼の口内に人差し指を差し入れた。
その指に彼が吸い付き、舌を絡めてくる。
その状態のまま、忠臣さんはレギンスのウエスト部分から手を侵
入させた。左手で私の右手首を捕え、唇で私の左手を愛撫し、彼は
右手だけで私からレギンスを剥ぎ取ってゆく。
膝下辺りまでレギンスを下げると、忠臣さんは足を使って器用に
脱がせた。ベッド下に落ちたレギンスが、パサリと乾いた音を立て
る。同様に下着も脱がせてゆく。
脱がせた下着もベッド下に落とすと、私の指先にキスをした。そ
してこちらに覆いかぶさる様な体勢だった忠臣さんが上半身を起こ
し、またぐ様にして膝立ちになる。
何も纏っていない私を上から見下ろし、やや乱暴気味に自身の服
を脱いでゆく。途端に現れた逞しい上半身に、熱に浮かされた瞳で
私が見上げる。
そんな私を忠臣さんが見つめ返す。
﹁もっと遠慮なく欲しがれ、俺は理沙の物だからな﹂
薄明りの中で微笑む忠臣さんは、やっぱり優しくて、とびきり艶
506
っぽかった。
忠臣さんもすべての衣服を取り払い、改めて私を抱きしめてきた。
左腕を首の後ろから回して私の左肩を抱き、額やこめかみに唇を
寄せている。まるで駄々を捏ねる小さな子供を宥めるような、そん
な優しいキス。
体中で渦巻く熱を吐き出させるほどの激しい愛撫も彼の率直な愛
情を感じられて好きだが、こういう優しさに溢れている愛撫もすご
く好きだ。
激しく求められつつも、慈しみ、守られ、大事にされながら﹃愛
してる﹄と囁かれ、心臓がドキドキと早鐘を打つ。
︱︱︱どうして忠臣さんは私の好みが分かるの?
熱心に唇を寄せてくる忠臣さんをぼんやりと見上げれば、切れ長
の瞳がやんわりと細められた。
﹁どうした?﹂
情欲を滲ませながらも穏やかさを湛えた声で、忠臣さんは私の瞳
を覗き込む。崩れた前髪の間から覗く瞳は、私だけを映していた。
甘い疼きを抱えている私はうまく言葉に出来ず、照れたように、
困ったように、ただ、彼を見つめていた。
そんな私を見つめる忠臣さんが、フッと笑う。
﹁こうして抱きしめられて、キスをされるのが好きか?﹂
まるで私の心の中を読んだような彼の言葉。その言葉にコクリと
頷く。
私の反応に、忠臣さんは更に目を細めた。
﹁それなら良かった。理沙の事を滅茶苦茶に乱れさせたいと思うの
と同じくらい、徹底的に大事にしてやりたいと思うんだ。もう、本
能レベルで組み込まれている感じだな﹂
その声が、その視線が、蕩けそうなほどに甘い。
507
ああ、私は本当に幸せ者だ。
これまでの恋人に傷つけられて、振られて。結婚を考えていた彼
にも手酷く捨てられて。
もう二度と誰の事も好きにならないと思っていたのに、そんな私
にこんなにも素敵な恋人が出来たのならば、これまでの恋人たちを
忘れられるわけではないけれど、過去に泣くこともなくなるだろう。
私も目元を綻ばせれば、瞼にキスが落とされる。
﹁だが、こうされるのも好きだろう?﹂ 喉の奥で小さく笑った忠臣さんが、もどかしさしか与えられなか
った秘部へと右手を伸ばしてくる。
男らしくて長い指が恥毛をソッと掻き分け、濡れそぼる秘部へと
割り入ってきた。さっきと同じように上下に割れ目を撫で上げてい
るけれど、直接触れられたことで、その刺激は何倍にも膨れ上がっ
ている。
﹁あんっ⋮⋮﹂
すぐさま私の口から喘ぎが飛び出した。
陰唇を開き、滲んでいる愛液を指先で掬うようにしながら、執拗
に往復を繰り返す彼の指。布地を辿っていた動きと変わらないが、
篭められる力は段違い。グイグイと指の腹を押し付けて擦り上げて
くる。
私は震える体を忠臣さんに押し付け、止められない嬌声を零し続
ける。
﹁ひ、や、あぁ、ん⋮⋮、んんっ!﹂
声を上げるほどに愛液が溢れた。忠臣さんの指が動くごとにヌチ
ヌチと湿った音が秘部から聞こえ、私の体が更に震える。
﹁震えるほど気持ちいいのか?﹂
こめかみに押し当てられる忠臣さんの唇は優しいのに、秘部を暴
く彼の指の動きは強引。人差し指と中指の先が膣口に侵入して、ジ
ュブジュブと大きく音を立てて掻き混ぜていた。
508
︵77︶本日、デート日和:10
男らしく骨ばった指が二本とも根元まで挿入され、水音を立てて
秘部を掻き混ぜていた。グチュリと鈍い音が絶えず響き、粘度のあ
る愛液が彼の指の動きによって泡立ってゆく。
グリグリと円を描く指によって丁寧に膣壁を広げられ、今では三
本の指がズプリと差し入れられていた。
﹁は、あ⋮⋮﹂
私の足の間に陣取り、右手を前後させて挿入を繰り返していた忠
臣さん。不意に空いている左手で淫芽を撫でてきた。
﹁ひゃ、ああっ﹂
これまで放置されていたソコをいきなり触れられ、私の腰がピク
リと揺れる。それに気を良くした彼がグチュグチュと指を前後させ
ながら、クリトリスを親指の腹で押し潰した。
プクリと膨れ上がった淫芽には強すぎる刺激に、私は何度も腰を
揺らす。
﹁ん、んん!﹂
﹁ほら、もっと啼けよ﹂
忠臣さんは指を奥まで突き入れ、ナカの敏感なところを容赦なく
擦り上げた。それと同時に、存在を主張しているクリトリスを指の
腹でクニクニと弄る。
内側と外側を襲う刺激に、私の全身から熱が吹き上がった。
﹁はぁ、ん!く、んん⋮⋮﹂
一気に押し寄せた強い快感に、思わず右手の甲を口に押し当てて
呻く。わざとではなく、無意識だった。
﹁こら、口を塞ぐな﹂
窘めるような声音で忠臣さんが言うが、無意識の行動なので私に
はどうすることも出来ない。
509
なおも唇を覆っていると、忠臣さんがクツクツと低く笑った。
﹁ならば、これはどうだ?﹂
そう言って、彼は秘部に飲みこませていた三本の指をナカでバラ
バラに動かし始める。次いでこれまで指の腹で弄っていたクリトリ
スを、親指と人差し指でキュウッと摘み上げた。
指のそれぞれが私のナカのイイところを暴き、攻め、襲い。そし
て、体の中で一番敏感ともいえる淫芽を摘まみ、擦り、潰す。
これまで以上の激しい愛撫に私の口元から手が外れ、その手が乾
いたシーツを握り締めた。
﹁ああっ!﹂
私の悲鳴じみた嬌声と、粘着質な水音が重なる。私の腰は揺れる
だけにとどまらず、ビクビクと跳ねあがった。
﹁やぁ、ん!ふ、あ、あっ⋮⋮﹂
甲高くて甘い声が連続して響き、それに煽られる様にして忠臣さ
んの手の動きが激しさを増してゆく。
限界直前まで私の体は高められ、あともう少しで体の熱が解放さ
れるといったその時、彼は私の体から手を離した。
行き場をなくした淫熱が体の奥で渦巻き、強すぎる悦が涙となっ
て瞳を濡らす。
戸惑いの表情で忠臣さんを見遣れば、手早く避妊具を装着した彼
と視線がぶつかった。
﹁やはり、俺自身で理沙をイカせてやりたくてな。俺の熱でお前を
最高に気持ちよくさせてやりたいんだ﹂
忠臣さんは目元を艶っぽく細め、私の右ひざを肩に抱え上げる。
そして、そそり立つ剛直の先端をぽってりと膨らんでいる膣口に宛
がった。
﹁俺を受け取れ⋮⋮﹂
そう囁くと、忠臣さんは上半身を倒してくる。張り出したペニス
の先端がグプリと音もなく飲みこまれ、奥を目指して進んでいった。
彼が前傾になるにつれて、剛直が確実にナカを押し開きつつ侵入
510
してゆく。やがて彼の恥毛が膣口にゾリッとした感触を伝えれば、
私の全身がフルリと震える。
﹁は⋮⋮、ぁ、んっ﹂
三本の指でグズグズになるまで解されていた膣内ではあるが、彼
の剛直はそれとはまた違う存在感を与えていた。
しかも、いつも以上に彼のペニスは硬く大きな気がする。痛みは
ないがすぐには馴染まず、私は思わず眉を寄せてしまった。
﹁んっ⋮⋮﹂
喉を詰まらせたような低い声に、忠臣さんが更に奥へと進もうと
している腰の動きを止めた。
﹁理沙?﹂
彼は左手で私の膝裏を掬ったまま、右腕をシーツに付けて私の顔
を窺う。
薄く目を開いていた私は、こちらを気遣ってくる声に腕を伸ばし
て彼の背中へと回す。気怠い腕でゆるく抱き付いて、浅い呼吸の合
間に囁いた。
﹁⋮⋮平気、だから。⋮⋮もっと﹂
熱のこもった声で、彼に告げる。欲しいのは私も一緒だと。
私の様子にやや驚いたように短く息を吐いた忠臣さんは、シーツ
の上にあった右手で私の左膝裏を掬う。そして、膝頭にチュッとキ
スをした。
﹁理沙に対する俺の愛情も底なしだが、理沙の魅力も底なしだな﹂
嬉しそうに、それでいてどこまでも艶めいた声で囁いた忠臣さん。
掴んでいる手で私の膝を大きく開き、その瞬間、一気に体重をかけ
てきた。
太腿が左右に開かれたことで忠臣さんの体はより私に密着し、結
果、彼の猛々しいペニスがズブッと根元まで突き刺さる。
一番太い先端が敏感な部分を抉りながら、ヒクつく膣壁の奥まで
辿りついた。挿入はその一度で収まるはずもなく、最初のものより
も二度目、二度目よりも三度目といった具合に、回を追うごとに挿
511
入の深度と激しさが増してゆく。
﹁あ、あぁ!ん、んんっ、ふ、う⋮⋮﹂
ガツガツと腰を打ち付ける忠臣さんに、私の体は大きく揺さぶら
れる。
私を更なる快楽へと誘うために、ガチガチに硬くなっている彼の
ペニスが愛液を纏って何度も何度も突き入れられた。
グチュッ、ジュブッ。
彼の腰の動きとともに、溢れ出る愛液が音を立てる。その音が響
くほど彼の腰の動きは滑らかとなり、私のナカを力強く進む。
ズン、と深く押し込んでは、退かれ。グッと大きく突き入れては、
また下がる。
トロトロと滴る愛液は互いが重なっている部分から伝い落ち、そ
の下にあるシーツをしとどに濡らしてゆく。
抱え上げられている私のつま先が、荒れ狂う快楽によってキュウ
ッと力が入って丸まった。
﹁あ、あっ、ん⋮⋮、く、うぅ、んん!﹂
閉じた瞼の裏に白い光が点滅を始める。気持ちよすぎて何も考え
られない私は、あられもない声を上げ続けるだけ。
そんな私をいっそう追いこもうと、忠臣さんがゆらりと身を起こ
した。彼の背に載せているだけだった私の手はスルリと滑り落ち、
パサリとシーツを打つ。
忠臣さんはフッと息だけで笑うと、引いた腰を思いきり突き入れ
てきた。
互いの体がぶつかる肉感的な鈍い音。
猛るペニスで暴かれる秘部から洩れる水音。
忙しなく繰り返される浅い呼吸音。
そして。
﹁愛してるよ、理沙﹂
この世の何よりも甘い、彼の告白。 体も心も忠臣さんで満たされ、いよいよ絶頂が近づいてきた。光
512
の点滅が間隔を狭め、瞼の裏全体が白く染まってゆく。
﹁あ、やっ、も、もう⋮⋮!﹂
掠れた声が私の限界が近いことを告げる。
それを聞き、前後に揺さぶり、舐めるように腰を回し、忠臣さん
も高みを目指してより激しく動く。
﹁理沙⋮⋮、理沙!﹂
名前を呼び、膝裏にあった手が私の腰を大きく掴んだ。忠臣さん
は腰を突きこむ動作に合わせ、グイッと私の腰を引き寄せる。
私のお尻に彼の太ももが強く打ち付けられ、ペニスがガンガンと
膣奥に捻じ込まれた。
容赦のない挿入に、瞼裏の点滅が閃光となって弾け飛ぶ。彼の剛
直の形が分かるほどに膣壁が収縮する。
﹁ひ⋮⋮、あぁ、ああっ‼﹂
﹁理沙っ!⋮⋮くっ﹂
私の名前と彼の小さな呻きが耳に届くと同時に、体の奥深いとこ
ろで薄膜越しに熱が放出されるのをぼんやりと感じた。
絶頂の余韻に浸り、声も出せずに喘いでいると、体を倒した忠臣
さんにギュッと抱きしめられた。
汗ばんだ肌を重ね合わせ、伝わってくる忙しない二人分の心音を
味わう。
﹁は、あぁ⋮⋮﹂
感極まった吐息が私の口から零れると、忠臣さんが優しく唇を重
ねてきた。官能を促すような深いものではなく、存在を確認するよ
うな穏やかで優しいキス。
私は顎先を僅かに上げ、自分からも唇を寄せる。そんな私からの
キスを、忠臣さんは嬉しそうに受け取ってくれた。
﹁可愛いよ、理沙﹂
513
汗で張り付いた前髪を指先で払ってくれた彼が、静かに囁いて、
また私を抱き締める。
気怠い時間ではあるが、いつもにもまして満たされた感覚だ。
こうして、その日のデートは彼の腕の中で幕を閉じたのだった。
514
︵78︶美味しいのはどっち? :1
土曜日。本社の役付き社員たちが招集され、午前中に会議が開か
れることとなった。もちろん、海外事業部部長補佐の忠臣さんも参
加だ。
この度の会議には秘書が参加する必要はなく、私はセバスチャン
︵妹からプレゼントされた黒い掃除機︶を携えて我が城の片付けに
励んでいた。
小回りが利くうえに吸引力抜群の優秀なセバスチャンは、私が捨
て損ねていたゴミの数々を逃さず回収してゆく。
ビビビビビッと妙な音を立てて、何かの切れ端がまた吸い寄せら
れた。スイッチをいったん切り、張り付いているビニルを引き剥が
す。
﹁あー、今度はドライサラミの袋の切れ端か﹂
それは昨日、夕食後に呑んだチューハイのお供の残骸。
これまでセバスチャンが回収した物は、笹かま、スモークチーズ、
そして、私の手の中にあるドライサラミの袋の切れ端。
いくら多少だらしのないところがある私でも、ゴミはゴミ箱に捨
てる習慣はついている。
しかし、その習慣はアルコールが入ると守られなくなるらしい。
切り離した袋上部は確かに捨てたと思ったのだが、どうやら思った
だけだったようだ。
﹁我ながら、呆れるわ﹂
己の所業に苦笑いを零し、私は再びスイッチを入れてセバスチャ
ンを連れて歩く。
だらしないところはあるが掃除や洗濯は嫌いではないので、それ
ほど部屋が荒れることはない。⋮⋮荒れることはないが徹底した綺
麗好きでもないので、室内は何となく雑然としている。
515
﹁おまけに料理は苦手だし、こんな私のどこがいいのかなぁ﹂
集められた役員たちと顔を突き合わせて、今頃は熱心に会議して
いる恋人を思い浮かべる。
彼の部屋は嫌味じゃない程度にいつでも綺麗に片付いているし、
料理は私よりもずっと上手。見た目は付け入る隙のない男性ではあ
るが、私の前では面倒見が良くて大らかで、とにかく細々と世話好
きだ。
私なんかより、はるかに女子力が高い忠臣さん。そんな彼は、自
分よりも劣る私をそばに置いて嫌になることはないのだろうか。
今はまだ付き合いだしてそれほど時間も経っていないため、嫌気
が差すといっても、それほどではないだろう。
だが、これから先、半年経って、一年経って。積もり積もった嫌
気が、ふとした瞬間に爆発したりしないだろうか。
とはいえ、﹃どんな理沙でも好きだよ﹄という彼の言葉に甘えて
何もしていないわけではなくて、私だって出来る限り努力はしてい
る。
特に最近は料理だって頑張っているし、おかげで恭子もお世辞抜
きに﹃美味しい﹄と言ってくれるようになった。ただし、﹃前より
は﹄という言葉が頭に付くけれど。
自分の事を顧みると、まだまだ至らない己がつくづく情けなくな
ってくる。
﹁はぁ⋮⋮﹂
セバスチャンを所定の位置に戻し、私は大きくため息を吐いた。
その時、携帯電話が着信を告げる。
﹁もしもし?﹂
﹃ああ、俺だ。今、会議が終わった﹄
電話越しに聞いても、忠臣さんはいい声だ。その美声に、鬱々と
していた気分がちょっと浮上した。
しかし、艶のある声がいつもより疲れているように聞こえたので
心配になる。
516
﹁お疲れ様でした。休みの日でも呼び出されるなんて、責任ある役
職の方は大変ですね﹂
そう労えば、 ﹃肩書がある以上仕方がないが、理沙と一緒にいられる時間が奪わ
れるのは心底腹立たしい。せめて、秘書も同席の会議であればよか
ったのだが。⋮⋮そうだ。今後の休日出勤には、必ず秘書を同行さ
せるように申し立てるか﹄
かなり本気の口調が返ってきた。
まぁ、仕事となれば休み返上で出勤するけれど、そういう理由は
よろしくない。
﹁そ、そうだ。忠臣さん、お昼はどうされます?よかったら、用意
しますけど﹂
下手な方向に話が進まないように、私はとっさに割り込んだ。
﹃ああ、用意しなくていい。これからあのハンバーガーを買って、
そっちに向かう。なんでも、土曜にも店を出すようになったらしい
ぞ﹂
忠臣さんの言うハンバーガーは、会社から少し離れたところにあ
る緑地公園内の移動式店舗で売られている物だ。
以前ご馳走になって以来、私もすっかりその味に魅了されてしま
った。
ところが、公園で販売されるのはこれまでは週に一度。しかも平
日。
仕事の都合でなかなか定時に帰ることが出来ない身の上では、す
っかりご無沙汰だったのである。
﹁あれだけ美味しいですからね。週末は公園へ遊びに来る人も多い
ですし、きっと要望も多かったんでしょうね﹂
﹃そうらしい。おかげで、俺たちもハンバーガーを食べることが出
来るようになったな。だから、何も用意しなくていいぞ﹄
﹁分かりました。気を付けて来てくださいね﹂
その話を聞いて、私はすっかり上機嫌で通話を終えた。
517
それから三十分ほどして、玄関のチャイムが鳴った。
﹁どうぞ∼﹂
インターホンで話しかけてからパタパタと玄関に駆け付ければ、
忠臣さんが鍵を開けて入ってくる。
付き合いだして間もなく合鍵を渡したのだが︵いや、あれは強奪
されたというべきか︶、彼はいきなり入ってくる事をしない。一度
チャイムを鳴らしてから、合鍵を使うのだ。
﹃いくら自分の恋人の家だからといって、ズカズカ上がり込むのは
なんだか失礼な気がしてな。ほら、女性は色々と身支度があるだろ
うし﹄
そういう気遣いが出来る忠臣さんは紳士だと思う。
ただ、﹃俺としては、理沙が全裸で出迎えてくれても何の問題も
ない。むしろ、大歓迎なんだが﹄というセリフが後に続かなければ。
﹁お疲れ様です﹂
忠臣さんに声を掛けた。もちろん、全裸ではない。
すると忠臣さんは、少しだけ眉を寄せた。
﹁⋮⋮違う﹂
︱︱え?本当に全裸をお望みでしたか⁉
おかえりなさい
だろうが﹂
彼の言葉に軽く頬を引き攣らせたが、
﹁こういう時は
と言われた。良かった。私の心配は無駄なものだったようだ。
結婚しているわけでもないのに、帰宅した彼に言うのは照れくさ
いながらも、﹁おかえりなさい﹂と口にする。
すると、忠臣さんは形の良い目を細め、
518
﹁ただいま﹂
と返してきた。
そんな些細なやり取りだけど、なんだか嬉しくって、そして、や
っぱり照れくさいものだ。
﹁ええと、思ったより早く会議が終わったんですね﹂
誤魔化すように話しかければ、荷物を持っていない左腕が瞬時に
伸びてきて私の腰に巻き付く。そして、勢いよく抱き寄せられた。
﹁きゃっ﹂
短い悲鳴を上げた時には、彼の胸に縋りつくような体勢に。
﹁た、忠臣さん?﹂
慌てて名前を呼ぶものの彼は私を放すことなく、それどころかこ
ちらの肩口に顔を埋めるようにもたれかかってきた。
そのまましばらくの間、忠臣さんは動かないどころか何も言わな
い。
﹁あ、あの、大丈夫ですか?﹂
心配になって声を掛けると、ようやく彼は顔を上げた。間近で見
たその顔には薄く疲れが浮かんでいる。やはり、電話口の声に張り
がなかったのは、私の思い過ごしではなかったようだ。
心配そうに見つめる私に、忠臣さんは僅かに笑いかける。
﹁思ったより、厄介な議案でな。それぞれの部署が持ち帰って、ま
た改めて会議を開くことになったよ﹂
﹁そうでしたか﹂
それがどうして、こんな風に抱きしめることに繋がるのだろう。
逞しい腕の中で軽く首を傾げる私。
そんな私に、忠臣さんがまた笑いかける。
﹁理沙に触れていると、疲れもストレスも吹っ飛ぶよ。俺にとって、
理沙は本当に最高の恋人だな﹂
そう言って、彼が私の額に優しくキスを落とした。
瞬時に顔が真っ赤に染まる。そんな顔を見られたくなくて、忠臣
さんの胸に顔を埋めた。
519
︱︱女子力が低い私だけど、それでも忠臣さんの癒しになれるなら、
抱っこ人形になってもいい。
彼が少しでも元気になれるように、私は忠臣さんに擦り寄ったの
だった。
520
︵79︶美味しいのはどっち? :2
﹁あの、とりあえず、靴を脱ぎませんか?﹂
いつまでもこのままの状態でいそうな忠臣さんに、ソッと声を掛
けた。
彼はいったん腕を解いて靴を脱ぎ、玄関の上り口に荷物を置くと、
改めて私に触れてくる。
玄関先でしばらくの間、大人しく忠臣さんの抱きしめられていた。
その間、彼は私の耳に優しくキスを落としたり、髪にソッと頬ずり
をしている。
艶っぽい空気も幾分漂っているけれど、それよりも穏やかで甘い
空気の方が濃い。
そういう雰囲気に胸の奥がくすぐったくなるものの、けして嫌な
ものではない。むしろ、幸せというものを深く強く実感する。
私も忠臣さんの腰にやんわりと腕を回し、逞しい胸に擦り寄った。
﹁理沙が甘えてくるなんて、珍しいな﹂
耳のすぐそばで、彼が柔らかく笑う。その声に、私はハッと我に
返って即座に身を剥がそうとした。
が、それよりも早く、忠臣さんがグッと私を抱きすくめる。
﹁なぜ、離れようとする?﹂
さっきとは違い、少しばかり不機嫌そうだ。眉間にもうっすらと
皺が寄っている。
﹁え?ですが、いい年した私が甘えるなんておかしいってことを言
ったんじゃないですか?﹂
見た目も年齢も十分﹃大人﹄とされる私が、まるで子供の用に擦
り寄るマネなんてしてしまったから、彼はそれを笑ったのでは?
そう訴える私に、忠臣さんは切れ長の瞳をゆるりと細めた。
﹁滅多に甘えることをしてこない理沙が可愛い仕草を見せてくれた
521
から、それが嬉しくて、つい笑ってしまったんだ。おかしいなんて、
これっぽっちも思うはずないだろうが﹂
優しく微笑む忠臣さんが、チュッと音を立てて私の鼻先にキスを
落とす。
﹁ふひゃっ﹂
突然のことに驚いて、変な声が出てしまった。恥ずかしくて、か
あっと顔が赤くなる。
それでも忠臣さんは、優しい眼差しを変えることはない。
﹁可愛いよ﹂
そう囁いて、私の頬に唇を押し当てる。
﹁忠臣さんはそう言ってくれますけど、私、もう三十三歳なんです
よ。そんな私が甘えたり取り乱したりして、本当に可愛いと思って
るんですか?﹂
﹁前にも言っただろ。三十三だろうが四十三だろうが、理沙は可愛
いんだ﹂
私の顔にキスの雨を降らせながら、忠臣さんが告げてきた。その
言葉が恥ずかしくてますます顔を赤く染めれば、
﹁やっぱり、理沙は可愛いな﹂
と、いっそう熱心にキスを仕掛けてくる忠臣さん。
見た目と違う私の言動を鼻で笑ってきたり、冷めた目を向けられ
るのはつらいけれど、全面的に受け入れられるのは、それはそれで
また違った意味で居たたまれない。
﹁いえ、あの、私は十分大人ですので、やっぱり可愛いというのは
⋮⋮﹂
彼の腕の中から逃れようと身を捩ると、背中にあった忠臣さんの
左手が不埒な動きを見せ始めた。腰のラインをゆっくり辿ったかと
思えば、お尻の丸みを確かめるように大きな手がスカートの上から
撫でまわす。
﹁⋮⋮た、忠臣さん?﹂
戸惑い気味に名前を呼べば、ニヤリと笑う彼と目が合った。
522
﹁お互い大人だから、こんな風に触れてもいいだろう?﹂
瞳の奥に怪しい光を浮かべる忠臣さん。そんな彼の表情に、今ま
で赤かった顔が徐々に青ざめてゆく。
﹁玄関先で服を着たままセックスするなんて、なかなか刺激的でい
いと思わないか?﹂
艶っぽい声で言ってのけるセリフに、私はますます顔を青くした。
休日はゆったりした部屋着で過ごすことが多い。週末にまとめて
掃除したり洗濯したりするので、基本的には動きやすいスウェット
だ。髪もシュシュで適当に結ぶだけ。
ただし忠臣さんが来るとなったので、一応は着替えた。上はその
ままで、パイル地のロングスカートに履き替えただけなんだけどね。
つまり、今の私はけっこう無防備な状態なのだ。
ウエスト部分が緩いスウェットは簡単に彼の右手の侵入を許し、
その手が今はヤワヤワと私の左胸を揉んでいる。
忠臣さんはスカートを左手だけで器用にたくし上げ、そして現れ
た下着の上から更にお尻を撫で回してくる。
おまけにブラの上から胸の先端を摘み上げられ、私の口からは小
さな喘ぎが零れた。
﹁や、あっ﹂
﹁あんまり声を出すと、外にいる人に聞こえるぞ﹂
耳をやんわり食んでいた唇が告げてきた言葉にビクリと肩を跳ね
させた私は、慌てて口をつぐむ。
﹁ふふ、いい子だな。だが、そうされると、無理やりにでも啼かせ
てみたくなる﹂
忠臣さんは艶を増した声でそういうと、摘まんだ胸の先端をクニ
クニと強く捻りだした。
彼に抱かれる様になって、すっかり敏感に反応するようになって
しまった乳首。ブラの中では、徐々に芯を持ち始めている事だろう。
そこを執拗に攻められては、どうしたって声が漏れてしまう。
﹁う、くぅ⋮⋮﹂ 523
唇を噛みしめても、殺しきれなかった声。ただし、それは喘ぎ声
ではなく嗚咽だった。同時に涙もポロポロと零れる。
こんな場所で抱かれることが、とにかく恥ずかしくて。万が一に
も扉の向こう側を通る人に聞かれたらと、考えただけで怖くなって。
初心なお嬢さんでもないくせに、こんな事で泣くなんてと思うけ
れど、私にとって、﹃こういう場所﹄で彼に抱かれることは嫌だっ
たのだ。
私の様子にハッとなった忠臣さんは、胸を弄る手を止めてスウェ
ットから抜き去り、素早くスカートを元通りに降ろす。
そして、両方の腕でギュッと私を抱き締めてきた。
﹁すまない、理沙。泣かせるつもりはなかったんだ。理沙が俺から
離れようとしたり、つれないことを言うから、少しだけお仕置きの
つもりで⋮⋮。本当に、ここで最後まで抱くつもりなんてなかった
んだ﹂
忠臣さんは腰に巻き付けた左腕に力を込め、右手で何度も私の髪
を撫でる。繰り返して謝ってくる彼に、私は小さく首を横に振った。
﹁わ、私こそ、泣いたりして⋮⋮、ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
いい年の大人のくせに、馬鹿みたいだ。いや、大人になり切れて
ないから泣いてしまったのだろうか。どちらにせよ、情けなくてま
た泣けてくる。
彼の肩口に顔を押し付けてしゃくりあげていると、
﹁理沙が謝ることじゃない。悪いのは俺だから。本当にすまなかっ
た﹂
忠臣さんは右手と左腕にさらに力を込めて、いっそう私を抱き寄
せる。その仕草がたまらなく優しくて、私の涙も少しずつ収まって
ゆく。
最後にハァと息を大きく吐き、私はゆっくりと顔を上げた。
今の彼は艶っぽい雰囲気など欠片も持ち合わせておらず、ただ、
私の事を心配そうに見つめている。
そんな彼に微笑みかける。
524
﹁もう、大丈夫です﹂
ちょっぴり鼻声だったけれど、涙はちゃんと止まっていた。
﹁なんか、泣いたりして恥ずかしいですね﹂
忠臣さんがあまりに真っ直ぐ私を見つめてくるので、照れ隠しに
そんな事を言ってみる。
すると、
﹁恥ずかしがる理沙は可愛いから、いくらでも俺に見せてくれ﹂
こちらが恥ずかしくなることをサラリと言われる。それは場を和
ませる言葉でもあり、彼の望みでもある。
﹁そうは言っても、もう、こんなところで手を出したりしないでく
ださいね﹂
念のために釘を刺せば、 ﹁ああ、分かってる。理沙を抱く時は、基本ベッドの上にするから﹂
と、反省しているのかしていないのか分からない言葉が返ってき
た。私としても、そういった場所であれば、彼に抱かれるのは拒ま
ない。
だけど、彼に泣かされてしまったことがほんの少し悔しかったの
で、目の前のネクタイをキュッと締めてやったのだった。
525
︵80︶美味しいのはどっち? :3
用意しておいたスリッパを履き、忠臣さんが私の後についてくる。
恋人が自分の部屋に来ることにまだ慣れなくて、今の状態がなん
だか気恥ずかしい。
これまでの彼氏と会う時は大体外が多く、部屋で会うとしても大
抵は彼氏の部屋だった。
別に私が恋人を招かなかったわけではない。私が切り出すよりも
先に、彼らが自分の家に呼びつけるのだ︱︱私にあれこれ世話を焼
かせるために。
﹃俺の彼女なんだから、掃除しろ。ああ、台所のゴミも出しといて﹄
﹃女だろ?彼氏の洗濯物ぐらい進んで片付けろよ、気が利かねぇな﹄
﹃また手ぶらで来たのか。電話の一本も入れて、足りないものを聞
き出すとかできないのかよ﹄
付き合ってきた彼氏はみんな年下だったので、当時は私に甘えて
いるのだろうと考えて。自室というプライベートな空間に招いても
らえるのは、私に心を開いているからだと言い聞かせて。
何を言われても、出来る範囲で彼らの要望を受け入れていたのだ。
恋人の世話を焼くことに対して、大きな不満はなかった。
ただ、彼らが﹃都合のいい彼女﹄として私を扱っていたことに、
やはり納得のいかないところはあった。
恋人や彼女という名称であっても、彼らはどこか私を家政婦扱い
していたのだ。
だけど、年上の私が狭量なところを見せてはいけないと思って、
心の奥で引っかかりながらも、そんな恋人たちをずっと許してきた。
今にして思えば、言いたいこともはっきり言えない関係は﹃健全
526
な恋人同士﹄ではなかったのだ。
仕事となったら自分の意見は割と何でも口に出来るのに、恋愛ご
とになると意気地のないところが出てきてしまう。
︱︱私って、変なところで気が弱いからなぁ⋮⋮。
胸に抱えた忠臣さんのバッグをギュッと抱きしめ、そっとため息
を吐く。
すると後ろから左腕が伸びてきて、軽く引き寄せられた。
﹁またクソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根性
が腐っていて、どうしようもないほど救いようがない器の小さなロ
クデナシの腰抜けなボケ野郎共のことでも思い出したのか?﹂
ハンバーガーの入った紙袋を持っていない腕が優しく私を抱き込
み、忠臣さんは痛烈な言葉を口にする。毎度のことながら、忠臣さ
んにかかると過去の恋人たちは﹃とんでもない人たち﹄となる。
﹁でも、そこまで酷い人たちではなかったですよ﹂
クスリと苦笑を零せば、回された腕にキュッと力が入った。
﹁理沙の魅力が理解できていない時点で、アイツらはダメ人間だ﹂
愛してる
って
少し厳しい口調で言ってくる忠臣さんは、ふいに私の耳へと唇を
寄せる。
﹁あんな奴らの事を思い出す暇があるなら、俺に
言えよ。その方が数万倍も有意義だ﹂
打って変わって甘く優しい口調となり、忠臣さんが外耳にキスを
した。
そのセリフと仕草がくすぐったくて、肩を竦めてクスクスと笑う
私。
﹁もう、何を言ってるんですか﹂
呆れたように言いながらも、彼の態度を嬉しく思っている。
真っ直ぐに私を愛してくれる忠臣さんの気持ちは、過去の恋愛で
受けた傷をすっぽりと覆い隠して、沈んだ私の心を瞬時に掬い上げ
527
てくれるから。
たまに暴走してついていけなくなることもあるけれど、忠臣さん
は私にとって最高の恋人なのだ。 小さく笑う合い間に、私は
﹁愛してます﹂
と、自分の想いを告げる。そして、背後の彼にゆるく体を預けた。
そんな私に優しく頬ずりしてくる忠臣さん。
﹁俺も愛してるよ、理沙﹂
低く響く穏やかな声で愛情たっぷりに囁かれ、掬い上げられた心
がフワフワと浮き立ってしまいそうだ。
が、そこで忠臣さんが不審な動きをしていることに気が付いた。
彼は私を後ろから抱き込みつつ、徐々に廊下の右側ににじり寄っ
ているのだ。
リビングに続く廊下に沿って、まず玄関のそばにトイレがあり、
隣が洗面室と浴室。その向かいに納戸代わりに使っている小部屋が
あり、リビング手前が寝室という並び。
そして今、忠臣さんはすぐ近くにある洗面室に私を連れ込もうと
していた。
﹁忠臣さん⁉﹂
﹁いや、理沙の告白が嬉しいから、その喜びを体で表現しようかと
思ってな﹂
﹁は?馬鹿な事を言わないでください!そういうことは困るって、
さっきも言ったじゃないですか!﹂
そういうことはベッドの上で
って!﹂
﹁だが、ここは玄関から離れているから、外の人に聞かれないさ﹂
﹁で、で、でも、
身を捩って逃れようとするが、たとえ片腕でも逞しい筋肉を持つ
忠臣さんからは簡単に逃げられない。
アワアワしている私の耳に、忠臣さんはフッと息を吹きかける。
528
途端にゾクゾクとした妖しい感覚が背筋を駆け抜け、体の力がス
ッと抜けてしまった。
という話だっただろ。つまり、例外もあるってこ
クタリともたれかかる私をしっかりと抱き込み、忠臣さんがクス
基本的には
ッと笑う。
﹁
とだ﹂
艶めく声はやたら楽しそうである。
忠臣さんは最高の恋人だけど、同時に困った恋人だ。
結果からいうと、私は洗面室で抱かれることはなかった。
私が恥ずかしがるということもあるし、彼が手にしていたハンバ
ーガーが冷めてしまうということもあった。
もしここにハンバーガーがなかったらと思うと、ちょっとだけ怖
い。
い、いや、忠臣さんは優しい人だから、私が嫌がることはしない
⋮⋮はず。
とはいえ、うなじや肩口に散々キスをされまくりましたがね!お
かげで、その辺り一帯の肌には小さな鬱血痕が散りばめられている。
恥ずかしいので結んでいた髪を下ろして隠そうとしたけれど、
﹁隠せないところに痕をつけていいのか?﹂
と、ニッコリ艶やかに微笑まれたので︵目は笑っていなかったか
ら、あれは本気だ!︶、私は髪型を崩すことが出来なかった。
ま、まぁ、何はともあれ、ハンバーガーだ!
私はキッチンで飲み物を用意すると、コーヒーとレモンティーが
入ったカップを手にリビングに戻った。
ソファに腰かけて、包装されたハンバーガーをローテーブルに並
529
べている忠臣さんにコーヒーが入ったカップを差し出す。そして、
私はその隣に座った。
﹁さ、食べようか﹂
﹁はい、いただきます﹂
包みを開いた途端、美味しい匂いが鼻をくすぐる。遠慮なく大き
な口で、パクリ。
やっぱり美味しい!バンズもミートパテもケチャップもピクルス
も、相変わらず絶妙だ。
自宅で食べるということもあって、私は口元の汚れを気にするこ
となくパクパク、モグモグ。
三分の一ほど食べ進んだところで、程よく冷めたレモンティーを
口にした。
﹁はぁ。やっぱりここのハンバーガーは美味しいですね﹂
満面の笑みを隣の忠臣さんに向ける。彼は既に半分以上食べ進ん
でいて、同じように飲み物に手を伸ばしていた。
コーヒーのカップを戻すと、私を見て柔らかく微笑む。
﹁美味そうに食うんだな、理沙は﹂
﹁だって、本当に美味しいですし。こんなに美味しいハンバーガー
なら、毎日だって食べたいくらいです﹂
ニコッと笑って、またパクリ。
すると、横から伸びてきた手が私の手首を掴み、自分の方へと引
き寄せる。そして忠臣さんは、私が手にしているハンバーガーを一
齧りした。
﹁どうしました?﹂
﹁そっちの方が美味そうに見えたから﹂
︱︱︱同じ店で買った、同じハンバーガーのはずですけど?
以前と変わらず、販売されているハンバーガーは一種類だけ。そ
れは買ってきた忠臣さんがよく分かっているだろう。
530
首を傾げる私に、忠臣さんが形の良い瞳を細める。
﹁もっと美味いものを見つけた﹂
そう言って、私にキスをしてきたのだった。
531
︵80︶美味しいのはどっち? :3︵後書き︶
●みやこのネタ帳には
﹁もっと美味いものを見つけた﹂
そう言って、私にキスをしてきたのだった。
という部分だけがメモしてあったのですが、そこから妄想が広がる、
広がる。
このセリフを描くまでに、まさか三話も使うとは⋮︵苦笑︶。
毎度のことながらまったりペースで進んでおりますが、少しでも楽
しんでいただければ幸いです。
532
︵81︶寂しい時は:1
朝晩の冷え込みが段々と厳しくなり、日中でもひんやりとした風
が吹き付けるようになった十一月下旬。
海外事業部の社員たちは、慌ただしく業務をこなしていた。
あと数日も経てば十二月となり、日本全国の職場では年末進行を
頭に入れて働かなくてはならない。
それは等しくどの職場でも起こりうる事態なのだが、海外事業部
というのは他の部署よりもちょっとだけ事情が違っていた。
まず、時差が存在する。
海外の支社や顧客を相手にしていると、どうあっても無視できな
いのが、この時差である。
日本にいる私たちは、日本時間でもって目一杯働く。その間、海
外では休憩時間であったり、早朝や深夜という地域があったりする。
そして私たちがそろそろ休もうかな、帰ろうかな、というタイミ
ングで仕事に関するメールやファックスが次々に飛び込んでくるこ
ともしばしばだ。 更に言うなれば、欧米諸国では当然のようにクリスマス休暇&ニ
ューイヤー休暇というものがあり、それはそれは重要な意味合いを
持っている。
私たち日本人からすれば、クリスマスなんて二十四日か二十五日、
もしくはその前後の一日のうちの数時間を使って、普段にないご馳
走を食べたり、ケーキを食べたり、プレゼントを交換すれば、大抵
は無事にイベントが終わるものだ。
お正月に関しても、一応仕事初めまではお休みを貰えるものの、
必ずしも家族で行動することもないし、都合によっては実家に帰ら
なくてもいい。
しかし、欧米諸国の人たちはそうはいかないらしい。特に家族を
533
持っている人たちには、それはそれは大切で重要な休暇なのだ。
その休暇を満喫するために彼らは必死で仕事を前倒しにし、それ
に追われる私たちはてんやわんやなのである。
仕事が大変であるのは一年中変わらないものの、特にこの時期の
忙しさは比ではない。出社直後から退社直前まで、常に気を張って
いる状態なのだ。
KOBAYASHIに派遣されて以来、初めて年末進行を味わう
私としては、肩が凝るというか頭がうまく回らないというか。とに
かく、疲れているのである。
とはいえ、弱音などは吐いていられない。
私は秘書兼通訳だから確かに忙しいけれど、基本的には自分の上
司のサポートと担当地域の業務を請け負えば済む。早朝にいきなり
呼び出されることや、急な残業が申し渡されることも、それほど多
くない。
しかし海外事業部の上司たちは違う。
部内全体の業務の把握は並大抵の苦労ではなく、そして、トラブ
ルが起きた時には、自分が現在抱えている仕事と並行し、率先して
トラブル解消に当たらなくてはならないのだ。
本当に、本当に、頭が下がる思いだ。
﹁はぁ、何とか終わったぁ﹂
午後三時までに回答しなければならないメールたちすべてに返信
を終えた私は、コッソリ安堵の息を漏らした。
周囲を見渡せば、それほど切羽詰った仕事を抱えている社員はい
ないらしく、今日は比較的落ち着いた空気が部内に流れていた。
ただし、それは一般社員に限ってのこと。部長や、部長補佐、課
長や、主任といった肩書のある人たちは、揃いも揃って電話を片手
に書類とにらめっこの真っ最中。
534
そんな仕事熱心な上司たちを、是非とも労わなくては。
﹁よし、飲み物でも用意するかな﹂
首を左右に倒してコキン、コキンと鳴らしてから、私はゆっくり
と立ち上がる。
その様子を三つ離れた席にいた伊藤君が目ざとく発見し、私に声
を掛けてきた。
﹁古川さん、お茶の用意なら僕がしますよ!﹂
一番年下の彼が普段は気を遣って飲み物を出してくれるのだが、
その彼のデスク上には書類の塔がそびえ立っている。
﹁いいのよ。私の仕事は一段落したから、気にしないで﹂
﹁でも、古川さんにお願いするのは申し訳なくて﹂
優しい伊藤君は、書類の塔を倒さないように立ちあがろうとして
いるので、それを手の動きで制した。
﹁その書類、急ぎなんでしょ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
まだ渋る伊藤君に、上司たちが一斉に口を開いた。
﹁どうせなら、古川君のような美人のお茶を入れてもらいたいね﹂
﹁同じお茶でも、癒され度が格段に違うしな﹂
﹁伊藤が悪いというわけではないが、古川君の方が断然嬉しいよ﹂
その言葉に、伊藤君が眉尻を落としてしょげ返る。もちろん、上
司たちは冗談で言っているのだが、素直な伊藤君はすっかり落ち込
む。
そんな伊藤君の肩を、滝さんがポンと叩いた。
﹁大丈夫だ、伊藤﹂
﹁滝先輩⋮⋮﹂
ニッコリ笑う滝さんを、少しばかり潤んだ瞳で見上げる伊藤君。
しかし、滝さんの性格を考えると、単純に彼を励ましているとは
思えない私。
内心ヒヤヒヤしながら見守っていると、滝さんの口元がニンマリ
と歪む。そして、少々大ぶりの紙袋をズイッと差し出してきた。
535
﹁小柄で童顔なお前なら、絶対に女装が似合う。ここに女性の服一
式と化粧道具がある。今から女装して、上司たちにお茶を淹れてや
れ。それで万事O.K.だ﹂
案の定、滝さんはよからぬ提案を持ち出した。
もちろん彼は本気などではなく、少しでも仕事が切羽詰っている
場を和ませようとしての配慮である。⋮⋮と思いたい。
上司も周囲も、クスクスと苦笑いを浮かべている。
伊藤君も﹃ふざけないでくださいよ∼﹄と、いつもの調子でお道
化てくれれば、なお一層この場が和むだろう。
ところが、紙袋を見つめている伊藤君の目が異常なほどに真剣だ。
﹁⋮⋮まさかね﹂
と私が小さく呟いた瞬間、彼はガバッと立ち上がり、滝さんが手
にしている紙袋をグイッと奪い取った。
﹁滝先輩、お気遣いありがとうございます!バッチリ女装して、皆
さんに美味しいお茶をお届けします!﹂
これまでにない気合いを漲らせ、伊藤君は声高らかに宣言する。
それを聞いて、滝さんも周囲もさすがに焦りだした。
﹁おい、ちょっと待て!﹂
﹁伊藤君!それって完全に悪ふざけだからね!﹂
﹁本気にするなって!﹂
﹁待て、伊藤!﹂
トイレで身支度を済ませようというのか、紙袋を胸に抱えた伊藤
君が出入り口を目がけてダッシュする。
そんな彼の事を、滝さんをはじめとする先輩たちが押さえ込んだ。
﹁お、落ち着け、伊藤!﹂
﹁コイツ、仕事しすぎで、頭が混乱してんだよ!﹂
﹁俺たち、お前の女装なんて見たくないんだって!﹂
536
そんな騒動が起きた、ある日の海外事業部であった。
537
︵82︶寂しい時は:2
変な方向に頑張ろうとしていた伊藤君を滝さんたちが必死で宥め、
彼は大人しく業務に戻った。
やたらと残念そうな顔をしていたのは、きっとお茶くみの仕事を
私にやらせてしまうという罪悪感からだろう。⋮⋮女装が出来なか
ったからではないと思いたい。
伊藤君は非常に素直な好青年だが、時折、その素直さゆえにちょ
っとした騒動を引き起こす。
だが、それは大抵微笑ましいもので、職場に漂う張りつめた空気
を程よく解してくれるのだ。
それが証拠に、ついさっきまで忙しさのあまりにギスギスしてい
た海外事業部内が、一転して穏やかな雰囲気に包まれている。
あとは美味しい飲み物でも出せば、みんなの気分もリフレッシュ
されるだろう。
﹁さて、お茶を淹れてきますかねぇ﹂
私はそれぞれのリクエストを聞いてから、給湯室へと向かった。
みんなのデスクに飲み物と笑顔を届けた私は、海外事業部を後に
する。今は飲み物よりも、風に当たってスッキリしたい気分だ。
いつものように非常階段の踊り場にやってきた。
扉を開けて外に出れば、一瞬身がすくんだ。風はかなり冷たいけ
れど、その分、頭がシャキッとする。
ここで甘いものを食べて糖分を補給すれば、さらに頭の回転が早ま
りそうだ。
私は手にしていた小さめのポーチのファスナーに手をかける。
休憩時、常に持ち歩いているこのポーチの中には、キャンディや
一口サイズのチョコレートを入れてある。
538
﹁大好きな苺キャンディ食べよっと﹂
ところが。
開けようとしていたはずのファスナーが、既に大きく開いていた。
﹁あれ?﹂
指を入れて中をまさぐってみるが、何も入っていない。念のため
にポーチの口を開いても、やはり中身は空。
﹁あぁ、あの時かぁ﹂
私は原因に思い至り、苦笑いを浮かべる。
出勤前、家でお菓子をポーチに詰めてくるのだが、今朝は少々寝
過ごしてしまったために、かなりバタバタした中で身支度をした。
相当慌てていたので、ポーチのファスナーを閉めずにバッグに入
れた気がする。しかも、口の部分を下向きにして。
おやつとなるはずだったキャンディやチョコレートは、今頃、私
のバッグの中に散らばっているのだろう。
﹁相変わらず、そそっかしいなぁ、私って﹂
この年になっても落ち着きのない自分に笑いが込み上げる。
﹁でも、取りに戻ってまで食べたいわけでもないから、まぁ、いい
か﹂
私はクスクスと笑いながら、今更ながらポーチのファスナーを締
めた。
その時、背後にある扉が開いて忠臣さんが姿を現す。
﹁何を笑っているんだ?﹂
不思議そうな顔をしながら、彼が私に歩み寄った。
﹁あ、その⋮⋮。自分のそそっかしさに笑っていました﹂
そう言って、私は忠臣さんに持っていたポーチを振ってみせる。
そして、このポーチが空である理由を話した。
それを聞いて、忠臣さんがフッと目を細める。
﹁可愛いな、理沙は﹂
﹁はい?﹂
この間抜けエピソードのことでてっきり笑われると思っていたの
539
に、どうしてそんな事を言われるのだろう。
キョトンとすれば、また目を細められる。
私の前に立った忠臣さんは、その優しい表情のまま、私に手を伸
ばしてきた。大きな手が風に吹かれて少し乱れた髪を直してくれる。
﹁仕事中は隙のない理沙が、ふとした時にみせる隙が何とも可愛い
んだよ。必死な顔で身支度をしたんだろうな、とか。遅刻しないよ
うに駅まで走ったんだろうな、とか。そういう姿を想像すると、理
沙のことがすごく愛おしいと思う﹂
柔らかい笑顔とともに言われたセリフはとてもくすぐったくて、
私は気恥ずかしさで顔を伏せた。
私のことを深い愛情を持って大事にしてくれているのは常々感じ
ているけれど、それにしても、失敗談までもが彼にとっては可愛い
のだと評されるのは恥ずかしい。
下を向いて照れ笑いしていると、髪を撫でていた手がスルリと肩
に降りてきた。その手に力が籠り、私は忠臣さんへと引き寄せられ
る。
アッと思う暇もなく、彼にすっぽりと抱きしめられた。
﹁いつも言ってるだろ?俺はどんな理沙でも愛しているって。仕事
中の凛とした理沙も、プライベートのリラックスした理沙も、どれ
もこれも、俺にとっては愛しくてたまらないんだ﹂
ここまで盲目的に愛されてしまうと窮屈なのかと思いきや、意外
なことに、私自身はそれに対して嫌だと思うようなことはなかった。
多分、私の心の奥の奥の方には寂しがり屋の自分がいるのだ。
がんじがら
親友の恭子からは﹃理沙は割合サバサバしてるよね﹄と言われる
が、きっと、真っ直ぐな愛情で雁字搦めにしてほしいと願う自分が
いるのだ。
たまには強引に突っ走る忠臣さんではあるが、私を傷つけたりす
ることは決してしない人。だから私は、彼の全力の愛情から逃げよ
うとは思わないのだろう。
540
︱︱大人になっても寂しがり屋だなんてね⋮⋮。でも、こんな私で
もいいって言ってくれる忠臣さんに出逢えて、本当に良かった。
小さく笑った私は、静かに彼へと擦り寄った。
休憩しているとはいえ、一応は勤務時間中。それでも、人目がな
いのをいいことに、私は彼に抱きしめられたまま。忠臣さんの温も
りは、すごく心地いい。
﹁こんなところにいて、寒くないのか?ここが理沙のお気に入りに
場所だとは知っているが、もう時期的に厳しいだろう﹂
﹁確かに風がちょっと冷たいとは思いましたが、根を詰めて事務作
業をしていると、やたらと顔が火照ってくるんです。だから、外の
風に当たりたいなって。それに、お菓子を食べる間の短時間ですし﹂
そのお菓子は残念ながら一口も食べることが出来なかったが、十
分気分転換にはなった。
﹁疲れると自然と糖分が欲しくなるというが、それほど疲れている
のか?﹂
忠臣さんが心配そうに私の顔を覗きこむ。
﹁いえ、それほど疲れているわけではないです。ちょっとだけ甘い
ものを食べたいなと思っていただけですよ。何となく口寂しいので
⋮⋮﹂
と、言葉の途中で、忠臣さんにいきなり唇を塞がれた。彼は私の
唇を数回啄んだあと、しっとりと重ねてくる。
背中に回された忠臣さんの腕には徐々に力が籠り、私は身動きが
取れない。
﹁ん、ん⋮⋮﹂
首を振って抵抗しても、その動きに合わせて彼が唇を重ねてくる
ので、一向にキスが止まない。
541
散々好きなようにされてから、ようやく忠臣さんが僅かに顔を放
した。
﹁な、な、何を、するんですか!﹂
真赤な顔でキッと彼を睨み上げれば、
﹁口が寂しいというから、キスをしてやっただけだ﹂
少しも悪びれた様子も見せないで言い返してくる。
﹁そんな屁理屈みたいなこと、言わないでください!ああ、もう、
放して!﹂
彼の腕の中から抜け出そうと身じろぎするが、忠臣さんはますま
す私を抱き締めてくる。
﹁理沙が口寂しくなくなるまで、いくらでもキスをしてやるぞ﹂
﹁いえ、もう十分ですから!﹂
私は忠臣さんと距離を取ろうと、折りたたまれた腕を懸命に伸ば
そうとするものの、それ以上の力で彼が私を抱き寄せてしまう。
﹁お陰様で、口寂しいのはなくなりました!だから、放してくださ
い!﹂
﹁悪いが、俺の口寂しさは少しも収まっていない。もうしばらく、
付き合ってもらうぞ﹂
不敵な笑みを浮かべた忠臣さんが、顔を寄せてくる。
﹁やめてくださっ、⋮⋮んっ﹂
どんなに抵抗しても、やはり力では敵わず。
︱︱いえ、あの、ちょっと!ここ、人目はなくても社内なんですけ
ど!まだ勤務時間内なんですけど!
私は心の中で大きく叫びながら、忠臣さんが満足するまで唇を貪
られたのだった。
542
︵83︶恋愛関係とは?:1
年末進行の仕事も手配がほぼ整い、海外事業部はいったんの落ち
着きを見せ始めた。
残業や早朝出勤、そして時には休日出勤までしてどうにか調整を
付けたおかげだ。
ここまで忙しく働いたのは初めてに近い。私がこれまで勤務して
いた職場は、日本での一般的な年末年始休暇に沿っていたから。
﹁日本人もお正月を大事にしているけど、海外の人ってそれ以上に
熱が入っているのねぇ﹂
海外支社のスケジュールを書きこんだ手帳に目を落として、ポツ
リと呟く。
その時、ポンと肩を叩かれた。
﹁さ、帰るぞ﹂
椅子に座ったまま左側を振り仰げば、海外事業部内の会議を終え
た忠臣さんが立っていた。
﹁お疲れ様です。ずいぶんと早くに打合せが終わったんですね。も
う少しかかると思っていましたが﹂
﹁おおよその目途は立っているからな。細かい調整は週が明けてか
ら、支社から送られてくる報告を聞きながらの方が無駄はない﹂
いつ聞いても、忠臣さんの声は素敵だ。
だけど、いつもよりも張りがない。
海外事業部で肩書もつ社員たちは、この二週間、働きづめだった
から無理もないだろう。
少しばかり疲れた表情の彼を見上げ、私は微笑みかける。
﹁本当にお疲れ様です。このあと、少し飲みに行かれますか?お付
き合いしますよ﹂
忠臣さんは気分転換として、ゆったりとお酒を飲むことが多い。
543
今日は金曜だから、多少飲みすごしても、明日はゆっくり寝てい
られるはず。
そう思って声をかけたのだが、小さな苦笑が返ってきた。
﹁いや、真っ直ぐ家に帰るよ﹂
﹁お疲れのようですから、その方が良さそうですね﹂
今の忠臣さんにはお酒よりも、栄養たっぷりの食事が必要かもし
れない。
私も微笑みを返し、席を立った。
いつものように地下にある駐車場に向かい、彼の車の助手席に乗
り込む。
静かに走り出した車は大した渋滞に引っかからず、順調に進んで
いく。
ここで、いつもとは道順が違うことに気が付いた。
﹁あ、あの、どちらに向かってます?﹂
窓の外に流れる景色と忠臣さんの横顔を交互に見遣りながら尋ね
ると、
﹁どちらって、俺の家に決まっているだろう﹂
と、当然のような答えが。
十二月に入って仕事が忙しい中でも、忠臣さんは私の家まで車で
送ってくれていた。
今日もてっきりそうなのだと思っていたのだが。
﹁久しぶりに残業もないし、明日は休日出勤もない。仕事で疲れて
いる理沙を気遣って、これまでは週末に連れ回すこともしなかった
んだ。今日は俺の家に来るだろ?﹂
チラリとこちらを見遣ってくる彼の流し目には、それはもう色気
満載。
レストランやバーに寄ることさえせずに私を連れて家に直行する
彼の目的に見当がつき、ドキンと心臓が跳ね上がった。
意味深な視線に顔がうっすらと赤くなるが、
544
﹁⋮⋮はい﹂
と、しっかり答える。
もう、初心なお嬢さんという年頃ではないし、忠臣さんとは既に
深い関係なのだから、今さら拒絶することはしない。
それに、仕事に追われている間は退社後にデートをする余裕すら
なかったから、そろそろ忠臣さん不足かも。
今までの彼は年下だったから、会いたいと思っていても素直に甘
えることが出来ず、無理して余裕がある振りをしていた。
だけど、忠臣さんの前では、もう以前のように無理をする必要が
ないのだ。そのことが、どれだけ私にとってありがたいことなのか。
私以上に激務だった忠臣さんには、私のために時間を割くよりも
体を休めてほしいという思いはある。
それでも、下手に気を回すよりも私が思ったことをそのまま言葉
にして、そのまま行動に移すことを彼は望んでくれているから。
私の返事に満足そうに頷いた忠臣さんは、左手を伸ばして優しく
頭を撫でてきた。
﹁忙しい間はプライベートで理沙と一緒にいられなくて、寂しい思
いをさせてしまったからな。週末は二人でゆっくり過ごそう﹂
彼の提案に反対する理由もなく、私は赤い顔のまま頷き返したの
だった。
夕飯は忠臣さんが野菜たっぷりのピラフと、これまた野菜たっぷ
りのコンソメスープを作ってくれた。
その横で私はサラダ用の野菜を盛りつけ、ドレッシングを作る。
親友の恭子に﹃理沙のご飯は殺傷能力ハンパない﹄と言われてい
た頃の私とは、ちょっと違うのだ。ドレッシングぐらい、レシピを
見なくてもちゃんと作れるくらいには成長したのだ。
でも、最終的な味の確認は忠臣さんにお願いする。
545
ドレッシングの材料を合わせた小さなボウルを差し出すと、彼は
指先で掬ってペロリと舐めた。
﹁うん、美味いな﹂
そう言って微笑んでくれると、仕事をやり終えた時と同じくらい、
ううん、それ以上の達成感を感じる。
たかがドレッシング一つまともに作れたくらいで、何を馬鹿なと
思うけれど、忠臣さんは私の成長をちゃんと分かってくれる。
そのことが、すごく嬉しかった。
忠臣さんといると、これまでの恋愛はなんだったのだろうかと振
り返ることが多い。
私は年上だから、年下の彼を受け止めるのが当たり前で。彼の方
もそれを当然と考えていて。
揉め事が起きると、いつも年齢を理由にしていた気がする。
恋人同士なのに、私と彼は対等ではなかった。
﹃年上のくせに﹄
﹃年上なんだから﹄
何かあると、過去の彼達が枕詞のように繰り返してきたセリフ。
それを言われてしまうと、私が折れるしかなかった。
やがてそのセリフは私の中に深く刷り込まれ、我慢をすることが
当たり前となっていった。
それが、忠臣さんと付き合うことになってからは、まるで正反対。
はじめてまともな恋愛が出来ている気がする。
︱︱三十三になって、やっと恋愛と呼べるものに巡り合えるなんて。
私ってどれだけ鈍くさいのかしら。
思わず苦笑いが零れる。
﹁ん?どうした?﹂
546
スープを器に盛り付けていた忠臣さんが、ボウルを抱えてひっそ
りと笑っている私に声をかけてきた。
﹁あの、何と言いますか⋮⋮。この年になってようやく﹃恋愛﹄が
出来ているなって考えたら、今までの自分がおかしくなってしまっ
たんです。三十を過ぎてそれに気が付くなんて、ずいぶんとのんび
り屋だなって﹂
これだから恭子に﹃理沙は意外とヌケている﹄と呆れられてしま
うのだろう。
クスクスと笑い続ける私の手の中からボウルを奪った忠臣さんは、
それを手近なスペースに置くと私を抱き締めてきた。
﹁それを言うなら、俺だってそうだ。この年になって、やっと本気
で大事にしたい恋人が出来たんだからな。これまでの彼女にだって
それなりに誠意をもって付き合ってきたが、それが﹃恋愛﹄だった
かと言えば、少し違うかもしれない﹂
﹁そうなんですか?﹂
と訊きかえせば、忠臣さんは私の髪に頬を寄せてくる。
﹁独り身でいることに引け目を感じて、見栄で恋人を作っていた気
がするな。相手に対してそれなりに好意は持っていたが、それが﹃
愛情﹄だったかと問われれば、ハッキリ答えられる自信がない﹂
小さく笑いながら、
﹁三十八の俺がそうなんだから、三十三の理沙が自分を恥じること
はないさ﹂
と、忠臣さんが私をギュッと抱き込んだ。
﹁十代うちに恋愛の何たるかを分かる人間もいれば、いくつになっ
ても分からない人間もいる。気付けたことが御の字だと思うぞ?﹂
低く響く声が耳に届き、私は彼の肩口にコツリと額を載せる。
﹁そうですね﹂
と返せば、つむじにキスを落とされた。
﹁俺は理沙を愛していて、理沙も俺を愛してくれている。そうだろ
?﹂
547
自信たっぷりに訊かれ、瞬時に耳が熱を持つ。
恥かしいけれど、忠臣さんが言うように、私は私なりに精一杯彼
のことを愛しているから。
額を押し当てたまま小さく頷くと、クスリと笑い声が降ってきた。
﹁どちらかが一方的に相手を思いやることは、恋愛関係ではない。
お互いがお互いを同じくらい大事に思うことが、恋愛では大切なん
じゃないか。年齢云々にこだわる必要はないさ﹂
どちらかが無理をするのではなく、どちらかが我慢するでもない
のだ。
親しき仲にも礼儀ありという言葉のように、時には妥協せざるを
得ないこともあるだろう。
それでも、相手を尊重して、相手からも尊重される間柄こそが恋
愛関係と言えるのかもしれない。
そういった相手に巡り合えたこの幸運に感謝して、私も忠臣さん
を強く抱きしめた。
548
︵84︶恋愛関係とは?:2
出来上がった料理を、キッチンにあるテーブルへと運ぶ。その上
には、既にフォークやスプーンが並んでいた。
色違いで揃えた同じシリーズの食器であり、持ち手の部分が青と
赤で装飾されている。
今夜は洋食なので出番はないが、食器棚にしまってあるご飯茶碗
や味噌汁椀、箸や湯飲みなども忠臣さんと色違いやサイズ違いのも
のだった。
そんな食器類を見るだけで、私は毎回くすぐったい気分を味わう。
過去の彼達は﹃お揃い﹄というものが恥ずかしいと感じていたの
か、くだらないと考えていたのか、私が揃えたいと提案すれば、露
骨に難色を示していた。
私だって、外で着る服をお揃いにしようとか、あからさまな物を
提案した訳ではない。家の中でしか使わない食器類だったり、当人
しかほとんど目にしないキーホルダーだったり、そういったものだ
ったのだ。
本来、食器などは言ってみれば使えればいいというもので、何も、
色や形にこだわることはないとは思う。
ただ、自分と同じ物、または色違いの物を使っているところを見
ることで、無意識下で安心を得ようとしていたのかもしれない。何
かを共有することで、繋がりを得たかったのかもしれない。
親友の恭子が﹃理沙はたまに乙女思考だよね﹄と評してくるのは、
こういったところなのだろう。
だが、彼らは一人としてこの提案を受け入れてはくれなかった。
お揃いの物を持つことで私の尻に敷かれているのではないかと、周
囲に思われたくなかったのかもしれない。今になってはそう思う。
なのに、彼らよりも年上で、見るからに大人の男性という忠臣さ
549
んは、私とお揃いの物が増えることに、一切のためらいがない。む
しろ、彼の方からあれこれと揃えたがる。
おかげでこの部屋に置かれている私のために用意された日用品は、
すべてと言っていいほどお揃いだった。
﹁さ、食べるか﹂
そう言って、忠臣さんが向かいの椅子に腰をかける。彼の椅子に
は薄手のクッションが置かれていて、私の腰の下にある物と同じだ。
﹁はい、いただきます﹂
見るからに美味しそうな食事を作ってくれた彼にペコリと頭を下
げ、私はまずスープを口に運ぶ。
スプーンで掬ってゆっくり含めば、途端に野菜のうまみがジンワ
リと染みわたった。
思わずため息が漏れる。
﹁はぁ、美味しいです﹂
満足げに告げる私に、忠臣さんが苦笑する。
﹁単に腹が減っているから、美味く感じるんじゃないか?特別なこ
とはしてないぞ﹂ クスクス笑いながらスープを飲む彼に、
﹁特別なことをしていないのにこんなに美味しいなんて、何だか悔
しいです﹂
と、唇を尖らせて言ってやる。私なんか、必死になっても美味し
いものが出来ないのに。
拗ねる私に、忠臣さんは苦笑を深くした。
﹁理沙は凝りすぎるんだよ。料理ってものは、シンプルな方が美味
い場合もある。やたらと材料を入れればいいというもんじゃない。
下手に詰め込めば味がぶつかり合って、思ったとおりに仕上がらな
いこともあるんだ﹂
彼の言葉に思い当たることが多々浮かび、私も苦笑い。
﹁確かにその通りだと思います。沢山の材料を使った方が豪華に見
えますし、それに旨味が出るんじゃないかなって思ってしまって﹂
550
﹁まぁ、あれこれ入れた方が美味い場合もあるな。たが、メインに
置きたい食材を決めたら、いじり過ぎない方がいい﹂
﹁分かりました、気を付けます﹂
神妙な面持ちで頷けば、忠臣さんが右手を伸ばして私の頭をサラ
リと撫でる。
﹁理沙は努力家だからな。コツさえ掴めればあっという間に上達し
て、俺よりも上手くなるさ﹂
﹁そうですかねぇ?﹂
殺人ピラフ制作者である私が、忠臣さんよりも美味しい料理が作
れる日など来るのだろうか。
しきりに首を捻っていれば、頭にあった手がスルリと下がり、彼
の親指が私の唇をツツッとなぞる。
そして、切れ長の目でヒタリと私を見据える。
﹁自信がないのなら、俺が教えてやるよ。⋮⋮手とり足とり、丁寧
にな﹂
︱︱な、なんか、違う物も教え込まれそうなんですけど!?
壮絶な色気を放っている忠臣さんの様子に、スープの味が完全に
吹っ飛んでしまった。
そんな一幕がありながらも、久しぶりにゆっくりと食事をするこ
とが出来た。
仕事がひと段落するまでは、朝も昼も夜も、とりあえずお腹が満
たされればいいと言った程度の食事で、手早く済ませられるメニュ
ーがほとんどだった。
昼食は社員食堂を利用していたのでまだまともな食事ではあった
が、朝と夜はちょっと酷かったかも。
551
お茶づけとふりかけは、もはや定番。さすがにそれだけでは栄養
バランスが崩れるので、時間があるときにまとめて作っておいたゆ
で卵を食べたり、前の晩に仕込んだ浅漬けを食べたりはしたけれど。
あとは野菜ジュースと栄養ドリンクを飲んで乗り切った。
これが大人の女性の食生活なのかと言われれば情けない限りだが、
仕事に熱中するとこんな生活はザラだ。
とはいえ多忙な中でもしっかりとした生活を送ることが、自立し
た大人なのかもしれない。
だけど、無理なものは無理。私にはちょっと向いていない。料理
に時間をかけるのであれば、少しでも長く寝ていたい。私は空腹よ
りも睡眠不足の方が堪えるのである。
そんな私とは反対に、忠臣さんは睡眠時間をそれほど長く必要と
していないのだとか。
﹁いつだったか医者に言われたんだが、俺は睡眠の質がいいらしい。
だから、最低三時間も寝れば十分だとか。ま、それは短期間のこと
であって、普段なら六時間くらいは寝ないと駄目だな﹂
サラダボウルに盛られた野菜を皿に取り分けながら、忠臣さんは
言う。それを聞いて、ちょっと驚く私。
﹁ええ?三時間で十分なんですか?私だったら最低でも六時間は寝
ないと駄目かもしれません。出来れば九時間くらい寝たいところで
すけど⋮⋮﹂
彼に比べれば随分と寝汚い自分が情けなく、シュンと眉尻を下げ
た。
取り皿をこちらに差し出しながら、忠臣さんが微笑む。
﹁人によって必要な睡眠時間が違うらしいから、気にすることじゃ
ない。どこかの社長は毎日の睡眠時間は二、三時間らしいし、ノー
ベル物理学賞だかを取ったあの先生は十二時間くらい寝るって話だ
ぞ﹂
﹁そうなんですか。じゃあ、私が長時間寝たいと思うのは、自堕落
な性格だからということじゃないんですね﹂
552
皿を受け取った私は、彼の言葉にホッと胸を撫で下ろす。が、次
の瞬間、あることが脳裏を過った。
﹁あの⋮⋮。私がこの部屋に泊った翌日は、忠臣さんを放っておい
て寝ていることが多いじゃないですか﹂
朝になってもシャキッと起きられず、私がウトウトとベッドの中
で微睡んでいる間に忠臣さんが朝食の支度をしているということは、
もはや馴染んだ光景であったりする。
もしくは私が起きるまで、彼も一緒にベッドで横になっていてく
れることもある。
﹁ああ、そういう時もあるな。それがどうした?﹂
不思議そうに首を傾げる彼に、また眉尻を下げながら口を開く。
﹁もしかして、忠臣さんに寂しい思いとか退屈な思いをさせていま
す?﹂
オズオズと尋ねれば、即座に言葉が返ってくる。
﹁それはない﹂
﹁本当ですか?﹂
訊き返すと大きく頷かれた。
﹁ああ、本当だ。食事の支度をすることに、一度だって苦痛を感じ
たことはないしな。それに理沙がノンビリ寝ているということは、
それだけ心を許して寛いでくれているってことだろ。俺にとって不
都合は一切ないから、気にしないでいいぞ﹂
さりげない調子で告げてくる忠臣さんは、本当に優しくて器の大
きな人だ。
﹁そう言ってもらえると、罪悪感が薄れます。いつも起きようとは
思っているんですが、なかなか目が開けられなくて﹂
はにかみながら取り分けられたサラダを突いていれば、
﹁理沙が泊まった翌日に起きられないのは、俺がしつこく理沙を抱
くせいだろ?罪悪感を抱くなら、それは俺の方だ。ま、だからと言
って、手加減するつもりはサラサラないけどな﹂
ニヤリと口角を上げる忠臣さんを目が合う。
553
こうして短時間のうちに息が出来ないほど濃密な色気に二度も当
てられ、私はお酒を一滴も飲んでいないのに頭がクラクラしてきた
のだった。
554
︵84︶恋愛関係とは?:2︵後書き︶
●作中に出てきたどこかの社長とノーベル賞を取った先生というの
は実在の人物です。あえて明かす必要もないかと思い、ざっくりと
した説明で済ませてあります。
数年前にテレビで睡眠について、そのように話していました。
⋮⋮記憶違いではないと思うのですが︵汗︶
555
︵85︶恋愛関係とは?:3
栄養と愛情がふんだんに詰まった夕食を済ませ、満足げに二人で
コーヒーや紅茶を飲む。
しばらくゆったりとした時間を過ごした後は、私が食器を洗い、
その間に忠臣さんがお風呂の支度。
何てことのない時間なのだが、居心地の良さを感じた。
リラックスできるという意味もあるが、それ以上に、自分の存在
がこの空間にいることが許されているという安心感を強く覚える。
それは、紛れもなく彼のおかげなのだろう。
私より年上という単純な理由ではなく、忠臣さんが持つ器の大き
さが成せる業。こちらを包み込み、認め、許し、与え、そして愛し
てくれる。
そんな忠臣さんがいるからこそ、私は居心地がいいと思えるに違
いない。
その彼に応えるためには、やはり努力が必要だ。具体的に何をど
うすればいいのは分からないが、仕事だったり対人関係だったり、
より良い状況を目指して労を惜しまないという心掛けが大事なのか
もしれない。
︱︱私の場合、もう少し料理の腕を上げることかな。
忠臣さんの料理を食べさせてもらって、このところつくづく感じ
るのだ。手料理を美味しそうに食べてくれる相手の姿に、深い幸せ
を覚えるということを。
彼が食事中の私を見て嬉しそうにしているのは、きっとそういう
ことなのだと思う。
別に、料理に限ったことではないだろう。相手を喜ばせる手段は、
556
世の中に五万とある。
ただ、彼の健康を支えるためには料理が直結していて、かつ、私
にもできる手立てということ。
運動に関しては、彼は時折ジムに通っているから口を出すことで
はない。
生活習慣も、どこかのんびり屋な私よりもよほどきちんとしたも
のだ。
仕事面で私が彼を支えることもあるわけだが、そうそう多いもの
ではなかった。
忠臣さんが心身ともに健やかに過ごすための一つの手段が料理だ
という結論に至る。
もちろん、彼のためであるということが大前提なのだが、手料理
で喜んでほしいという思いもあった。
それほどまでに、彼が作った料理を食べている私を見る忠臣さん
の目が優しいのだ。
私の料理を喜んでくれる彼の姿を見て、私も幸せを味わいたい。
完全な自己満足にしか過ぎないと思うが、それでも、お互いに幸せ
になれるのであればいいではないか。⋮⋮私の料理の腕が上がれば、
恭子にからかわれないで済むし。
そんなことを考えながら最後の食器を水切り籠に入れたところで、
彼が戻ってきた。
﹁あと十五分もすれば、湯が沸く。何か手伝おうか?﹂
﹁いえ、食器はもう洗い終わりましたので。忠臣さんは向こうで休
んでください﹂
リビングにあるソファに目を向ければ、スルリと腰を抱かれる。
﹁なら、二人で休めばいいだろう﹂
そう言って、彼が私の額にキスをした。おおう、何だろう。この
甘さダダ漏れな空気感は。
仕事に追われていた時を取り戻すかのように、今日の忠臣さんは
甘い。笑顔も言葉も仕草も、とにかく甘い。
557
それはとても恥ずかしいけれど、すごく嬉しい。彼に触れられな
かった時間は、やはり寂しいものだったから。
彼に促されるままソファに並んで腰をかけ、お湯が適温になるま
での間、他愛のない会話を交わす。
その間、彼の手は私の体のどこかに触れている。肩であったり、
手であったり。さらには会話の合間に目が合えば、さり気なく頬や
瞼にキスをされた。
まるで寂しさを感じていた私の心を癒すかのように。
︱︱私は、ちゃんと忠臣さんの癒しになれているの?
絡めあった指を軽く握り返し、彼を見上げた。
﹁どうした?﹂
忠臣さんが柔らかく目を細める。
彼の優しい表情に勇気づけられ、普段なら恥ずかしくてなかなか
口に出来ないセリフを告げた。
﹁私、忠臣さんのおかげで、凄く幸せなんです。それで、その、忠
臣さんも、幸せですか?﹂
すると、彼の目がさらに弧を描く。
﹁当然だ。俺は理沙と恋人同士になってから、ずっと幸せだよ﹂
すぐさま返ってきた言葉がくすぐったくて、彼の胸に顔を埋める。
そんな私の肩を強く抱きしめる忠臣さん。
﹁なんだか、今日の理沙は甘えん坊だな﹂
その言葉に、いい年をしてみっともないと思われたのだろうかと、
背筋がヒヤリとする。 慌てて身を剥がそうとすれば、いっそう強く抱きしめられた。
﹁甘えてくる理沙が可愛いくて、俺は本当に幸せだ。理沙はもっと
俺に甘えて、俺を頼ってくれればいい。俺に遠慮をするな。理沙を
受け止めるくらいの度量を持ち合わせているという自負はあるぞ﹂
忠臣さんは私の髪に唇を寄せ、チュッ、チュッと短いキスを落と
558
してくる。
﹁これ以上甘やかされたら、私、ダメ人間になっちゃいますよ。い
いんですか?私が何にもできないダメ人間になっても?﹂
照れくささをクスクスという小さな笑いで誤魔化しながら問えば、
﹁理沙はいくら甘やかしてもダメにならないさ。ちゃんと自分の中
に芯を持っているからな。俺が放っておいたって、前に進んでいこ
うとするのが理沙だ﹂
と、これまでとは違う真剣な声が降ってきた。
オズオズと顔を上げると、優しい目は変わらないけれど、真っ直
ぐな視線が私を見つめている。
﹁忠臣さん?﹂
少しだけ首を傾げると、彼の表情がわずかに緩んだ。
﹁甘やかしたところで、理沙はそれに甘んじないだろう。むしろ、
甘やかされるほどに﹃このままじゃいけない﹄と危機感を覚えて、
かえって奮起するタイプだと俺は思う。甘やかされるままにドロド
ロに蕩けて、俺がいないと息も出来ないっていう理沙も見てみたい
が、きっとそうはならないんだろうな﹂
私の後頭部が大きな手の平で覆われ、軽く引き寄せられる。それ
に従い、私は彼の肩口に頬を埋めた。
骨ばった指が私の髪を掬い撫でる感触に身を任せていると、やや
あってから忠臣さんは再び口を開く。
﹁そういう理沙をすごくかっこいいと思う。それでこそ理沙なんだ
なって。人間は慣れる生き物だ。贅沢を覚えた人間は、それに慣れ
てしまって更なる贅沢を求める。まぁ、万人がそうとも限らないが
な。現状に飽き足らず、もっと、もっとと求めるのが大抵の人間な
んだが。理沙は、本当に違うな﹂
﹁そうですか?﹂
﹁ああ、そうだ。さっきも何か考えていただろう?表情が少し違っ
ていた﹂
﹁それはですね、何と言いますか、料理の腕を上げたいなと思って
559
いたところでして﹂
私は洗い物をしながら考えていたことを、ポツリポツリと話した。
﹁ほらな。俺が料理するのをいいことに、理沙は頼りっきりにして
こないじゃないか。そういうところだよ。ったく、理沙はどれだけ
俺を骨抜きにするんだか﹂
髪に頬を寄せた忠臣さんがフフッと笑う。
﹁俺は一生、理沙に惚れぬくんだろうな﹂
﹁それを言うなら、私の方ですよ。私が嬉しくなることばっかり言
って、何回惚れ直しさせれば気が済むんですか?﹂
問いかけると、ポンポンと頭を優しく撫でられる。
﹁理沙をこの腕の中に留めておくためには、何度だって惚れ直して
もらわないと。ああ、言っておくが、さっきの言葉は単に理沙を喜
ばせようとしたお世辞じゃないぞ。理沙はお世辞を言ったところで
喜ばないのは分かっているからな﹂
こうやって、サラリと嬉しがる言葉を口にするのだから、まった
くもって彼には敵わないと思う。
﹁料理以外に、忠臣さんを喜ばせるにはどうしたらいいですか?﹂
手数は多い方がいいだろうと尋ねれば、
﹁そうだな。この後、俺と一緒に風呂に入ってくれれば、即座に大
喜びだ﹂
との答えが。
正気の状態で、明るい浴室に忠臣さんと裸でいることなど羞恥に
耐えられない私は、その申し出を丁重にお断りさせていただいた。
560
︵86︶恋愛関係とは?:4
やがてお風呂場から、お湯が適温になったことを知らせるアラー
ムが聞こえてきた。
﹁風呂が沸いたな。よし、入るか﹂
そう言って、先に立った忠臣さんが私の手首を掴んで引き上げる。
﹁え?﹂
戸惑う私をよそに、彼の足は一直線に脱衣所へと向かっていた。
﹁う、嘘?ちょっと待ってください!﹂
私はさっき、一緒にお風呂に入るなんて無理だと断ったはず。
これまでに散々裸で抱き合ているのだし、今さらお風呂ぐらいと
言われそうだが、とにかく恥ずかしくて無理なのだ。
そのことを必死に説明して、謝って、それで彼は分かってくれた
と思っていたのに、どうして?
﹁忠臣さん!?﹂
彼の名前を呼べば、掴んだ手首を少し乱暴に引き寄せ、私の体を
脱衣所の扉に押し付けた。
その衝撃により、木で出来た扉がガタッと激しい音を立てる。
﹁何をっ﹂
パッと身を翻し、扉を背にして忠臣さんと向き合った瞬間、顔の
横でバンッと大きな音がした。彼が勢い任せに手を着いたからだ。
顔の左右には彼の手がそれぞれ伸ばされていて、まるで私を包囲
するように佇む忠臣さん。
少し離れたところに照明が付いているので、今の彼の顔は影が出
来ており、それがいつもに増して迫力を醸し出している。
﹁あ、あの、私。忠臣さんとお風呂に入るのは、む、無理だって⋮
⋮﹂
立ちあがったきり一言も発していない彼にオズオズと申し出れば、
561
忠臣さんの顔が徐々に近づいてきた。
そしてゆっくりと私の顔に影が重なってゆく。
︱︱もしかして、キスで蕩かして、なし崩しにお風呂に入る気じゃ
⋮⋮。
吐息が掛かるほど顔が迫ってきたところで、瞼も唇もギュッと閉
じる。
ところがキスされることなく、忠臣さんは私の左肩に額を押し付
けてきた。
﹁⋮⋮え?﹂
キョトンとしている私の顔の横で、彼の手が何かを耐える様にギ
リギリと握り締められてゆく。
﹁忠臣さん?﹂
﹁すまない、ちょっとした意地悪だ﹂
俯いたままの彼の口から、くぐもった声でそう言われた。
﹁は?意地悪ですか?﹂
意味が分からなくて首を傾げると、彼に強く抱きしめられる。
﹁理沙が俺と風呂に入ることをあんなに嫌がるから、なんだか悔し
くなって。八つ当たりって言うか⋮⋮。すまない、軽く脅かしてや
ろうと思っただけなんだ。それなのに、あんなに怯えた顔をさせて
しまって本当にすまない﹂
すっかりしょげた口調で謝ってくる忠臣さんに、強引にお風呂へ
と連れ込まれなかった安堵と、こんな彼にも子供じみた部分がある
のだと分かったことによって、自然と笑ってしまった。
私よりも精神的に数倍も大人の忠臣さんが、一緒にお風呂に入る
ことを拒否したからって、こんな風になるなんて。
クスクスと笑いが止まらない私に、彼が不安そうに問いかけてく
る。
﹁こんな俺に呆れたか?﹂
562
﹁いいえ﹂
﹁本当か?﹂
﹁本当ですよ﹂
答えた私は忠臣さんの背中に手を回し、ポンポンと優しく叩く。
﹁むしろ安心しました﹂
﹁どういうことだ?﹂
彼が顔を上げ、怪訝な表情で私を見遣ってきた。
その顔を見つめながら、私は苦笑と共に告げる。
﹁だって、忠臣さんは何でも出来て頼りになる素敵な男性なのに、
その人がこんな八つ当たりをしてくるなんて。ああ、忠臣さんも人
間なんだなって思えて、それで安心したんですよ﹂
プライベートでは時々暴走することはあるものの、野口忠臣とい
う男性は大概に置いて完璧なのだ。
あまりに完璧すぎて、もしかしたら実は機械で出来ているとか、
未来からやってきた新時代アンドロイドとか思ってしまうほど。ま、
それはちょっと言い過ぎかな。
でも、彼と仕事を共にしたことがある人は、おおむねそのような
感想を抱いている。
そのことを説明すると、忠臣さんは自嘲気味に笑った。
﹁理沙は心が広すぎる。三十八にもなった男が子供みたいな態度を
取れば、普通は呆れるだろ?﹂
﹁うーん、どうなんでしょうか。私としては、他では見せない忠臣
さんのことが見られて嬉しいですよ。⋮⋮あ、でも、一緒にお風呂
に入る話とは、まったく別物ですからね!﹂
すかさず言った私に、忠臣さんは楽しそうに噴き出した。
﹁はいはい、分かりましたよ。俺の恋人は相当な恥ずかしがり屋で
すからね、けして無理強いはいたしません﹂
わざとらしく丁寧な口調になり、まるで白旗を上げる様に、彼は
抱きしめていた腕を解いて手を上げて見せる。 こんな風にユーモラスな彼も珍しい。
563
クスリと笑えば、額にキスをされる。
﹁先に入ってこい。俺は朝食用の米を研いでおくから﹂
もう一度チュッとキスをされ、私は脱衣所に優しく押し込まれた。
そんなやり取りの後、互いに入浴を染ませた私たちはベッドヘッ
ドに押し当てた大きな枕に寄りかかり、薄明りの中であれこれと他
愛のない話をしている。
食事の時も食後もたくさん話したと思ったけれど、次から次へと
話したいことが溢れてくるし、もっと彼の声を聞きたいと思ってし
まう。
こういった会話の時間すらゆっくり取れなかったのだから、今ま
で本当に激務だったのだなと、改めて実感する。
やがて会話がふいに途切れ、静かな沈黙が寝室に流れる。
フッとどちらともなく短く息を吐けば、忠臣さんの右腕がそっと
私の肩を抱いた。逞しい腕に軽く引き寄せられるまま、私は彼の広
い胸に身を預ける。
交わす言葉もなく、何をするわけでもなく、ただ、パジャマ越し
に伝わってくる互いの温もりを味わっていた。
そんな些細なことでも、深く心が満たされてゆく。
そう感じられるのは、相手が忠臣さんだからだ。
意見を一方的に押し付けるのでもなく、無理やりに感情を呑み込
むことでもなく、お互いが相手の存在を認め、必要とする。
彼が言うように、それこそが恋愛関係なのだろう。
そのことを言葉にするのは簡単だが、実際に行うのは容易ではな
い。何しろ、相手があってのことだから。
三十三歳にしてこの関係を築ける人に出逢えて、本当に良かった
と思う。
きっと、今までの﹁私﹂があってこそ、この心境に辿りつけたの
564
だ。
恋人に対して不満に思うことも不安に思うこともなければ、私は
相手を思い遣る気持ちが、どこか欠けたままこの先の人生を過ごす
ことになっていただろう。
これまでのお付き合いの中で自分がそう思っていたからからこそ、
相手には不満や不安を感じてほしくない。私といることで幸せに思
ってほしい。
散々だった過去の恋愛は、こういったことに気付くためにも必要
だったのかもしれない。
︱︱年下の彼氏に振り回されてきた私に、神様が与えてくれた最大
のご褒美が忠臣さんなのかもね。
クスッと小さな笑みを零せば彼の左手が伸びてきて、肉厚の頼も
しい手の平が優しく私の頬を包んだ。
﹁どうした?﹂
忠臣さんが私の顔を少しばかり上向きにさせ、瞳を覗きこむ。真
っ直ぐに、逸らされることなく。 この温もりは幸せを与えてくれ、そしてこの視線は安らぎを与えて
くれる。
私が私でいることをきちんと受け止め、彼のそばに繋ぎとめてく
れるのだ。いつだって穏やかに見守ってくれ、惑う私の心を掬い上
げようとしてくれるのだ。
忠臣さんと視線を合わせたまま、私はもう一度微笑んだ。
﹁さっきも言いましたけど、幸せだなって思ったんです。忠臣さん
に出逢えて、私は本当に幸せ者だなって。私を恋人にしてくれて、
ありがとうございます﹂
照れくさいけれど、自分の気持ちを素直に伝えたかった。滅多に
言えるセリフではないけれど、だからこそ、告げる時はきちんと彼
の目を見て伝えたかった。
565
彼の手の平の下で頬が盛大に火照っている。それでも自分から目
を逸らさずにいれば、忠臣さんは一瞬目を瞠った後に、表情を和ら
げた。
﹁それを言うなら、こっちの方だ。理沙、俺の恋人になってくれて
ありがとう。俺を幸せにしてくれてありがとうな﹂
耳に心地よい低い声で囁かれ、すぐそばにある切れ長の瞳が優し
く弧を描く。その瞳が徐々に近づいてきて、鼻先が触れ、吐息が唇
に掛かった。
私の瞳の中には忠臣さんが、忠臣さんの瞳の中には私が映ってい
る。そんな至近距離で、二人そろってユルリと微笑む。
﹁忠臣さん、好きです﹂
﹁理沙、愛してるよ﹂
囁くような小さい告白を交わした後、私たちの唇が重なった。 566
︵87︶恋愛関係とは?:5
重ねた唇を少し浮かせ、お互いの唇を軽く啄み合う。柔らかく食
み、時折舌先でチロリと舐め合い、上下の唇に吸い付いた。
体の位置を入れ替えながら戯れのようなキスを繰り返すうち、徐
々に深く激しいキスになってゆく。
侵入してきた彼の舌が、攫う様に私の舌へと絡みついた。まるで
味わうようにネットリと動き、クチュクチュと水音を立てる。
その音はいつ聞いても淫靡で、体の奥で燻り始めた熱をどんどん
煽っていった。
どちらかというと忠臣さんから与えられるキスには受け身である
ことが多いが、今日は何だか自分から仕掛けたい気分になっている。
私は彼の上半身に乗り上げ、自分のものより少し硬質な髪に手を
差し込み、彼へと顔を寄せていった。そして唇を強く押し当て、彼
の舌に自身の舌を巻き付かせる。
時に彼の動きに従い、時に逆らい、そうして何度も何度も互いの
舌を絡め合った。
やがてわずかに唇を離すと、舌先を伸ばして重ねる。
唇で塞がれていないため、舌が動くたびに水音が大きく響いた。
ピチャ、ピチャという湿った音に、私の吐息と衣擦れの音も混ざ
る。キスを止めないまま、私たちはお互いの衣服を脱がしていった。
忠臣さんはいつものように手触りの良いバスローブを着ている。
なので、脱がすのは、そう難しいことではない。
ベルトを解き、肩口に手を侵入させて滑り落とせば、簡単に彼の
上半身は裸となる。
下着一枚の姿で中途半端に脱げたバスローブを羽織っている忠臣
さんは、壮絶な色気を放っていた。そんな彼の様子に、心臓がドキ
ドキと早鐘を打つ。
567
︱︱どんな格好でもかっこいいなんて、ちょっと悔しいなぁ。
不貞腐れたい気分になるが、それ以上に、この素敵な男性が自分
の恋人なのだということに誇らしさが勝る。
キスによる水音で高められつつあった疼きがさらに大きくなり、
その衝動のまま忠臣さんの肌へと手を伸ばした。
女性の肌よりも少し乾いているように思えるが、年齢の割には張
りも艶もある。そして、逞しい筋肉がなによりも素晴らしい。
うっとりとした気分で、私は彼の鎖骨にキスを落とした。
チュッと吸いつき、ペロリと舌先で舐める。その動作を繰り返し
ていると、私の髪を大きな手が優しく撫でてきた。 ﹁今夜の理沙は、随分と積極的だな?﹂
クスリと小さな笑みを零す忠臣さん。
︱︱もしかして、はしたないと思ってる?
しかしチラリと見遣った彼の表情は苦笑まじりに呆れているので
はなく、嬉しそうに微笑んでいた。
わずかに湿り気が残っている私の髪を指で梳きながら、忠臣さん
は更に目を細める。
﹁これまでも俺とのセックスを嫌がる素振りはなかったが、こうし
て理沙からも動いてくれると、本当に俺のことを受け入れてくれて
いるんだと分かってすごく嬉しいんだよ﹂
確かに、彼の言う通りかもしれない。
どんな時でも自分から﹃抱いてほしい﹄と言ったことはないし、
キスにしても他の行為にしても、明らかに受け身だった。
別に初心なお嬢さんを装っていたわけではなかった。年も年だし、
忠臣さんは私に恋人がいたことを知っているから。
それでも、自分から積極的ともいえる行動を起こした記憶がない。
568
︱︱これから先も忠臣さんを押し倒すことはないだろうけど、せめ
てもう少しくらいは私から動いてみるのもいいかも。
彼が喜んでくれるのであれば、そうしてみようと思う。
挿入される側の女性は基本的に受け身ではあるけれど、そこに至
るまでの愛を交わす行為には男女の差はないだろうから。
そう心の中でひっそりと呟いた私は、改めて彼の肌に唇を寄せる。
強めに吸い付いて赤い痕をつければ、もっとと促すように忠臣さん
が私の髪を撫でる。
大きな手が与えてくれる温もりに安心して、さらにキスマークを
散らした。
忠臣さんの肌は私と違ってそれほど白くはないし柔らかみにも欠
けるから、痕が付くほど吸い付けば痛みがあるだろう。それでも、
彼は何も言わずに私がしたいようにさせてくれている。
五つほど痕をつけた私は、その部分をソッと指先で辿りながら尋
ねた。
﹁痛くないですか?﹂
それに対し、﹁ま、多少はな﹂と苦笑を浮かべる忠臣さん。
﹁痕が付きにくいだろうに、それでも頑張る理沙が可愛いから気に
ならない。それに、キスマークが増えるほど理沙に独占してもらっ
ているようで、それも嬉しいからな﹂
切れ長の目を細めた彼は、ウットリするほど艶やかだ。
トクンと私の心臓が跳ね上がり、頬にサッと赤みが差した。そん
な顔を見られることがなんだか恥ずかしくて、私は顔を伏せて彼の
上半身に唇を這わせる。
﹁もっと痕をつけていいぞ。俺を理沙のモノにしてくれ﹂
そうやって促しつつ、忠臣さんは私が着ているパジャマを再び脱
がしにかかった。
前身ごろがボタンでしっかり留められているパジャマにもかかわ
569
らず、器用な彼にとっては脱がすのも造作もないようで。気が付い
た時には、パジャマの上着が取り払われていた。
上半身は薄手のキャミソール一枚だが、寝室にはエアコンで適温
が保たれている。それに火照ったこの体では、寒さを感じることも
なかった。
私は彼の逞しい二の腕辺りでわだかまっていたバスローブを大き
く広げ、なおもキスマークを残してゆく。
忠臣さんをまたぐ様にして乗り上げ、少しずつ体を下へと移動さ
せていった。
鎖骨の辺りから始まった赤い痕は、今、彼のみぞおちにまで至っ
ている。おそらく十近くは散らした赤い花びらに、私は満足げに息
を吐いた。
その時、これまでされるままになっていた忠臣さんが、私の左胸
へと手を伸ばしてくる。
下向きにツンと存在を主張している乳首を、キャミソールの上か
ら二本の指でキュウッと摘まんだ。
﹁あ、んん!﹂
途端にビクリと仰け反る。
﹁やっ、な、なに⋮⋮?﹂
思わず視線をあげれば、ニヤリと口角を上げた彼と目が合った。
﹁気にしなくていいから、続けろ﹂
そう言われても、敏感な乳首を摘まんでクリクリと捏ね回されれ
ば、体から力が抜けてしまう。
﹁どうした?まだキスマークを付けられる場所はたくさんあるだろ
う?﹂
クスクスと笑う忠臣さんは、今度は左手でも右の乳首を弄ってく
る。両方の乳首を親指と人差し指の腹を擦り合わせるようにこすっ
てきた。
﹁ん、は⋮⋮﹂
上半身の体重を支え切れなくなり、忠臣さんの胸へとへたり込む。
570
それでも、彼の愛撫は止まらない。
﹁もう、キスマークは付けてくれないのか?﹂
少し意地悪気な口調で告げると、彼の指の力は段々と強くなり、
やがて乳首を捻り潰すものへと変わってゆく。
執拗に弄られた二つの乳首は硬く尖り、プクリと体積を増した。
﹁あん、だ、だめ⋮⋮﹂
吐息を漏らした私は、筋肉のついた胸に額を押し当てて体を小刻
みに震わせる。
﹁なにが駄目なんだ?理沙のココは、弄ってほしそうだぞ﹂
乳首を強く挟み込み、キュッと捻り上げた。
﹁ひゃ、あっ!﹂
ビクッと肩が跳ね、背が仰け反る。
私は肘を立て、忠臣さんの愛撫から身を遠ざけようと試みた。
しかし、そんな動きなどお見通しだったようで、彼は体を浮かせ
た私の腰に腕を回すとグッと引き上げた。
その結果、私の胸元が彼の顔のところに。
アッと思った時にはもう遅く、右の乳首が彼の口の中に含まれて
いたのだった。
571
︵88︶恋人関係とは?:6
淡いサーモンピンクのキャミソールは、彼の唾液によって濡れた
せいで、その場所だけが周りに比べて色が濃い。
そして、しっとり濡れるほど嘗め回された生地は、薄紅色に染ま
った乳首の色をほんのりと透かして見せていた。
肩ひもが緩くずり下がり、卑猥に乱れたキャミソール。布越しに
乳首を舐めしゃぶられ、もう片方の乳首は指で散々弄られ、私の口
からは熱い吐息がひっきりなしに零れ続ける。
﹁は、あぁ⋮⋮、んっ﹂
﹁どうした、理沙。キスマークを付けるのは、もう終わりか?﹂
含んだ乳首を口から外し、余裕の表情でクスクスと笑う忠臣さん。
だけど、片方の乳首は、いまだに弄られている。
爪の先でカリカリと強めに引っ搔いてくる愛撫に、私の体が小刻
みに震えた。
﹁あんっ﹂
乳首の先端からジリジリとした疼きが生まれ、それが全身へとゆ
っくり広がってゆく。
まだキスと胸への愛撫だけだというのに、おそらく秘部は愛液が
滲み始めている事だろう。
今夜はもう少し自分から動いてみようと思ったにもかかわらず、
いつものように彼に翻弄されていた。
それが少し悔しくて。そして忠臣さんを愛したいという衝動に駆
られ、私はグッと上半身を起こす。
﹁どうした?﹂
相変わらず余裕たっぷりの忠臣さんだったが、次に私が取った行
動によって、唖然とした表情となった。
何をしたかというと、大きく開いたバスローブから現れた彼の下
572
着にキスをしたのだ。正確に言えば、一番盛り上がっている部分の
布地に。
しなやかにフィットしているグレーのボクサーブリーフの下にあ
る彼のペニスは、完全に勃ちあがってはいないものの、通常時より
も体積を増していると思う。
私の姿に煽られて反応をしてしてくれているのだと思えば、忠臣
さんの恋人として素直に嬉しいと感じた。
その感情を伝えるべく、私は何度も何度も淫靡な膨らみにキスを
落とす。
呆気にとられている彼をよそに、先端から根元に向かって、唇で
啄みながら竿の部分を移動してゆく。
二、三度往復すると、今度は少し大きめに口を開け、先端をハム
ッと甘噛み。
鍛え上げられた忠臣さんの腹筋が、ビクッと震えた。
チロリと目線を上げると、いまだに驚いたままの彼を目が合う。
いつもは翻弄されてばかりだから、その反応がちょっと嬉しくて、
楽しい。
︱︱たまには、私が気持ちよくさせてあげたいな⋮⋮。
何のスイッチが入ったのか分からないが、今夜の私はかなり積極
的なようだ。
先程のお返しとばかりに、彼の下着が唾液で濡れ染まるまで、先
端を丹念に舌と唇で愛撫した。
女性の下着と違って、男性の下着は生地がしっかりしている。だ
から、布越しの刺激は、彼にとって相当もどかしいのだろう。
時折モゾリ、モゾリと、逞しい腰が微かに揺れている。
そんな彼を見て、私はますます楽しくなってきていた。
意地悪をしているわけではないが、少し焦らす意味で、下着の上
から刺激を与え続けた。
573
竿を横から唇でしっかりと挟み込み、ギュッ、ギュッ、とやや強
めに開閉する。その動きをふっくらしている袋の部分でもやってみ
たら、忠臣さんの腹筋がビクンと強く揺れた。
どうやら、この部分はかなり敏感なようだ。
それでも、まだ制止の声がかからないので、大きく口を開け、陰
嚢を下着ごと可能な限り含んだ。
モニュモニュと唇を動かしたり、丸みに沿って舌を這わせていれ
ば、彼の腹筋は小刻みに震え続けている。
そして堪えるかのように、忠臣さんが注意深く息を零している。
そんな彼を見ていると、もっと感じてほしくなってきた。
私は小さく息を吐くと、下着からゆっくりと顔を上げてゆく。
すると彼はどこか安堵の表情となったけれど、次の瞬間、驚きに
目を見開いた。
下着を引き下げたことによって飛び出してきた忠臣さんのペニス
を、躊躇することなく私が直に咥えたからだ。
﹁う、あっ﹂
その声は快感によるものではなく、純粋に驚いたからだろう。
今まで彼のそのような声は聞いたことがなかったので、私は密か
に笑みを零した。
これまでの愛撫でだいぶ存在を主張していたペニスではあるが、
咥えたことで、グッと硬さと体積を増したように思う。
そのことにどこか誇らしさを感じ、私は口淫を始めた。
張り出した竿を右手で握り、唇をすぼめて吸い付きながら、顔を
上下させてゆく。
忠臣さんのペニスは体に見合って、とても立派だ。頑張って咥え
てみるけれど、すべては口内に収めきれない。
それでも喉奥ギリギリまで咥え、ジュブジュブと音を立ててしゃ
ぶりついた。
そそり立ったペニスの見た目は少々グロテスクであるが、その舌
触りは意外なほどに滑らかである。
574
それと、当たり前のことだが、人によって形や太さ、長さが違う
のだと、改めて感じる。
︱︱そういえば、これが初めてかも。
元彼とのセックスの際、強要されて口淫をしたことはあったけれ
ど、自分から舐めてあげたいと思ったのは、忠臣さんが初めてだ。
それだけ、彼のことを愛しているということだろうか。
これまでになかった恋愛、これまでになかったセックス。それは、
忠臣さんだからこそだ。
︱︱本当に愛していると、何でもしてあげたくなるものなのね。
ふと心の中で漏らした瞬間、自分がこれまでに散々忠臣さんから
色々と施されてきたことが脳裏を過った。
何気ない日常の中でも、セックスの最中でも、とにかく彼は私に
対して一生懸命だ。
何においても、こちらが驚くほどマメで、丁寧で、熱心。
つまり、それだけ私は忠臣さんに愛されているということ。
彼の言動をおざなりに流してきたことはなかったが、しみじみ実
感すると、羞恥と歓喜が一度に湧き上がる。
︱︱うわ⋮⋮。私、メチャクチャ愛されてる⋮⋮。
ホワッと頬が熱くなった。
しかし、そのことに浸るのは後でいいだろう。今は忠臣さんを気
持ちよくさせることが最優先だ。
彼から与えられてきた愛情と幸福を噛みしめつつ、僅かに止まっ
ていた口淫を再開させる。
口に入りきらない根本の部分は右手で擦り上げながら、先端を何
575
度も舐めたり、咥えこんで吸い付いたり。
やがて、ちょっぴり苦いものが滲みだしてきた。
﹁理沙、もう十分だ﹂
熱い吐息を漏らす忠臣さんが、私の髪を撫でてくる。
だけどそれを無視して続けていると、彼がにわかに焦りだした。
﹁り、理沙っ。放せ。これ以上は、さすがに⋮⋮!﹂
ガバッと上半身を起こした彼が、私の脇に腕を差し込み、グワッ
と起きあがらせる。
勢いよく足元から身を剥がされたため、かなり大きくなった彼の
ペニスが、チュポンと口から出ていった。
﹁はぁ⋮⋮、ったく⋮⋮﹂
忠臣さんは私を膝の上に抱え上げ、深いため息を吐いている。
﹁あの⋮⋮、気持ちよくなかったですか?﹂
私としてはけっこうノリノリで咥えこんでいたけれど、忠臣さん
にとっては大したことではなかったのだろうか。
逞しい腕に抱きしめられて彼に凭れかかっている私は、オズオズ
と問いかけた。
すると、痛いくらいにギュウッと抱きしめられる。
﹁こんなにもガチガチに勃っているんだから、わざわざ言わなくて
も分かるだろ?理沙の唇と舌が気持ちよすぎで、あやうく口の中に
出してしまう所だった⋮⋮﹂
もう一度深く息を吐いた忠臣さんが、私の髪に頬ずりをする。
﹁俺のを咥えてくれて、すごく嬉しかった。今夜は理沙にやられっ
ぱなしだな﹂
クスクスと小さく笑いながら漏らす声は、セクシーに掠れている。
限界に近かったというのは、本当のようだ。
私だって、そろそろ彼が欲しい。体の奥で、忠臣さんと一つにな
りたい。
576
その思いを込めて静かに彼を抱きしめると、すぐそばにある切れ
長の目がユルリト細くなる。
﹁今度は、俺が理沙を気持ちよくしてやる番だな﹂
いっそうセクシーに囁いた忠臣さんによって、私はベッドに横た
えられた。
577
︵89︶恋人関係とは?:7
惹かれ合うように、自然と視線が重なった。それから、引き合う
ように、唇も重なった。
唇の柔らかさを感じながら、お互いに衣服を脱がしてゆく。
引きはがすようにして彼がやや強引に脱がしていく様子も、まっ
たく気にならなかった。私のおぼつかない手つきも、笑われること
はない。
それどころか、お互いを強く求める気持ちのあまり、余裕のない
ことが分かるから。忙しなくてぎこちないそれぞれの様子に、どこ
か甘く幸せな気分を味わっている。
だが、これ以上に幸せを感じる時間を知っている。
早く一つになって、体の奥深いところで、忠臣さんを感じたい。
忠臣さんに感じてほしい。
私で包んであげたい
全ての衣服を脱ぎ去り、二人揃って小さく息を吐くと、またキス
が始まる。
私に圧し掛かる忠臣さんの首へと両腕を回し、自分からも舌を差
し出した。そんな私の舌を自分の舌で巻き取り、彼が私の口内をチ
ュクチュクと水音を立てながら攻めたてる。
忠臣さんは左腕で私を抱き寄せ、右手は私の下腹部へと這わせて
いった。
ワレ目に沿って指を忍び込ませ、人差し指と中指を膣口へと差し
入れる。
骨がしっかりした指をツプリと飲みこませると、溢れる愛液を掻
き混ぜるようにして手を動かした。
578
そんな彼の指を、膣壁がキュウッと締め付ける。
すると、キスをしたまま、忠臣さんが喉奥で笑った。
忠臣さんを欲しがる自分がいやらしい人間に思えてくるけれど、
体の反応を止めることは出来ない。
︱︱指じゃなくて、忠臣さん自身が欲しいのに⋮⋮。
彼を誘うように、激しく舌を絡みつかせる。
﹁ん、んんっ﹂
鼻にかかった甘い吐息が、寝室内に絶え間なく響く。
最後にきつく舌を吸い上げた忠臣さんは、ようやくキスを解いた。
﹁俺だって、早く理沙のナカに入りたいんだぞ。だが、準備は必要
だろ﹂
駄々を捏ねる子供を見守る親のように、彼は困った様に笑う。そ
して、二本の指をググッと根元まで差し込んだ。
﹁あっ⋮⋮﹂
ゾクリとした感覚が背筋を駆け抜け、私は軽く仰け反る。
﹁理沙には、痛い思いをさせたくないんだ。必死に我慢している俺
の気持ちも、少しは分かってくれよ﹂
薄く開いた私の唇をペロリと舐め、クスリと彼が笑う。
﹁い、痛くても、いいです⋮⋮。私は、平気⋮⋮﹂
グチュグチュと秘部を掻き混ぜられて喘ぐ私は、吐息まじりに彼
に強請った。
すると、彼の手はいっそう執拗な動きで膣壁を解しにかかる。
﹁俺が平気じゃないんだよ。なんで、愛する恋人を苦しませなきゃ
ならないんだ?それに俺は、そこまで我慢の利かないガキじゃない
ぞ。どんなに理沙が欲しくても、そこは譲れないな﹂
と言って、指を大きく前後に動かし始めた。
﹁や、んんっ!﹂
ズブズブと指が抜き差しされ、私はビクンと肩を震わせる。新た
579
な愛液が、体の中心から滲みだしてゆく。
﹁だいぶ柔らかなってきたな。あと少しだ﹂
チュッと唇を啄んだ忠臣さんは指を奥まで差し込んだまま、さら
に奥まで捻じ込むようにグリグリと左右に捻る。
そんな動きを与えながら、私のナカで感じる部分を指先でグイグ
イと押し上げる。
﹁ひっ、ああっ!﹂
下腹部に大きな熱の塊が生まれ、その塊がうねりながら出口を求
め始めた。苦しいほどの熱が、手足の指先までチリチリと焼き尽く
してゆく。
私は思わずシーツを握り締めた。
だけど、このままではどうにもならない。この圧倒的な熱量を鎮
めるためには、忠臣さんの愛情が必要だから。
﹁た、忠臣さ⋮⋮﹂
震える唇で、彼の名前を呼ぶ。うつろな視線で、彼の姿を捉える。
︱︱お願い。これ以上、焦らさないで⋮⋮。
声なのか、吐息なのか、判別付かないほど弱々しい訴えだったが、
彼にはしっかりと届いたらしい。
浅く息を吐きながら全身を小刻みに震わせている私を見遣やった
彼の喉が、ゴクリ、と大きく鳴る。
﹁ったく、こんなに凶悪な色気を振りまきやがって⋮⋮。俺に抱き
潰されても、文句は言えないぞ。理沙、分かってるのか?﹂
熱に浮かされてボンヤリしている頭では、苦笑まじりに告げられ
る彼の言葉が理解できない。
分からない、分からない。
分かるのは、彼が欲しいということだけ。
この、どうしようもない熱を解放させてくれるのは、大好きな忠
580
臣さんということだけ。
それだけは分かっている。
過ぎた快楽が涙となって溢れ、静かに頬を濡らしてゆく。
避妊具を装着した忠臣さんが、涙が流れる頬を温かい手の平で優
しく拭った。
﹁そんな可愛い泣き顔を見せられたら、本当に抑えられなくなりそ
うだな﹂
肉厚の手の平でフワリと頬を包んだ彼が、私の瞳を覗き込む。
とびきり優しい顔で。だけど、とんでもなくセクシーな表情で、
忠臣さんは微かに笑った。
﹁待たせて悪かった。二人で気持ちよくなろう﹂
その言葉に、私は微かに息を吐く。
ゆっくり二度瞬きをすると、視線の先の彼の表情はいっそう艶を
増し、雄の顔になっていた。
まるで舌なめずりをするかのように、自分の唇をチロリと舐めた
忠臣さんは、私の足を大きく割り開いて、その間に陣取った。
そして、そそり立つペニスの先端を膣口に宛がうと、すうっと息
を深く吸う。
私に視線を向け、口角を緩く上げた。
その表情にドキンと心臓が跳ね上がった瞬間、ズブッと熱い肉棒
が一気に突き立てられる。
十分解されたはずなのに、膨張しきった彼のペニスは相当な容積
を持っていたため、内側を無理やり押し広げられる苦しさを感じた。
﹁ん、く⋮⋮﹂
痛みはないけれど、あまりの圧迫感に、つい眉が寄ってしまう。
﹁大丈夫か?﹂
581
根元までペニスを収めた忠臣さんは、私を気遣って声をかけてき
た。それに対して、唇だけで笑みを作って頷きを返す。
そんな私の様子に、彼はホッと安堵の息を漏らした。
﹁今夜の理沙は積極的だし、それに相変わらず可愛くて綺麗だから、
もうガチガチに硬くなってる﹂
優しく苦笑する忠臣さんは、クイッと腰を突き出す。張り出した
ペニスの先端が、膣壁内のイイところを刺激して、私は甘く喘いだ。
﹁あん⋮⋮﹂
﹁いい声だ﹂
満足そうに呟いた忠臣さんは、なおも腰を揺らしてくる。
その動きは徐々に大きく強くなり、ナカを擦りあげるものから、
こそげ取るようなものへと変わってゆく。
そして私の喘ぎ声も、段々と甲高いものへと変わっていったのだ
った。
582
︵90︶恋人関係とは?:8
﹁は、んっ、やぁ⋮⋮、あぁっ﹂
忠臣さんの動きが激しくなるにつれ、当然、私の喘ぎ声もどんど
ん切羽詰ったものになる。
私の腰を肉厚な手の平でしっかりと掴んでいる忠臣さんは、引き
寄せると同時に自分の腰を強く押し出した。
そしてその勢いのまま引いて、また突き込む。
快感によってヒクヒクと収縮しているナカを押し広げるようにし
て、彼の硬いペニスが激しく前後した。
肌がぶつかる音、私の喘ぎ声、忠臣さんの荒い呼吸。
そして、互いの体が繋がった秘部から聞こえる粘着質な水音。
それらが折り重なって耳に届き、私の中で渦巻く熱をいっそう煽
っていった。
彼のペニスで何度も掻き混ぜられ、滴る愛液が泡立つかのようだ。
ジュブジュブという粘ついた音が、さっきからずっと聞こえている。
繰り返し注挿されてイイところを激しく突き上げられれば、愛液
がとめどなく滲んでゆく。
それによって、忠臣さんの動きはさらにスムーズなものになった。
そうなればますます愛液が溢れてしまい、そのぬめりを借りて、
彼のペニスは激しく深く私のナカで動きまくる。
互いが果てるまで終わらない、快楽のメビウス。
﹁くっ、んんっ!﹂
ガツガツと腰を押し付けられ、たまらず声を上げてしまった。思
わずシーツを掴み、皺が刻み込まれるほど強く握りしめる。
手の中のシーツがキリキリと音を立て始めると、閉じている瞼の
裏が真っ暗な状態から、白い光がチカチカと点滅する状態へと変わ
っていく。それは絶頂の予兆。
583
﹁ふ、うぅ⋮⋮、あ、ぅ⋮⋮﹂
薄く開いた唇から漏れる嬌声に、甘い吐息が混ざる。こうなると
もう、自分の意識に霞がかかり、彼が与えてくれる快楽の頂上を待
つばかり。
いつもであればそうなのだが、今夜は忠臣さんに気持ちよくなっ
てもらいたいという思いが強い。
私は唇を噛み、飛びそうになっている意識を手繰り寄せた。そし
ておへその下辺りに力を入れ、膣壁を締める様に頑張ってみる。
すると、忠臣さんが小さく呻いた。
﹁く⋮⋮﹂
同時に、ほんの少しだけ注挿のペースが緩くなる。もちろん止ま
っているわけではないので、チュプチュプという水音は相変わらず
だが。
﹁すごい、締め付けだな⋮⋮。一瞬で持っていかれそうになった⋮
⋮﹂
そうは言うものの、忠臣さんは射精に至った訳ではない。そのこ
とがちょっと悔しい。
とはいえ、絶頂への階段を上り始めている私としては、そう何度
も彼のペニスを締め付けることはできなかった。
浅い呼吸を繰り返しながら、自分の不甲斐なさを呪う。
﹁こら。なに、落ち込んだ顔をしているんだ?﹂
膣壁内でユルユルとペニスを揺り動かしながら、忠臣さんが私に
声をかけてきた。
それには正直に答えることが出来す、悔しげに唇を強く噛む。
﹁理沙、そんな可愛い顔でむくれるな。俺は十分、気持ちいいよ﹂
チラリと彼を見遣れば、額に薄く汗を浮かび上がらせた忠臣さん
が微かに笑っている。
確かにその表情にはそれほど余裕は窺えないが、私よりも理性が
残っていた。
584
︱︱こんなにも気持ちよくさせてもらっているのに⋮⋮。私はどう
したらいいんだろう。やっぱり私には、彼を満足させることは無理
なの?
喘ぎながら考えるが、この状態で思考がまとまる訳がない。 その時、私の腰から彼の手が離れた。
﹁そんなに気にしているなら、俺が少しだけ手助けしてやろうか﹂
どこか意地の悪い口調で言った忠臣さんは、右手を下に、左手を
上へと移動させる。
そして右親指の腹でプクリと膨らんだクリトリスに触れ、左の親
指と人差し指で私の右乳首を摘まんだ。
指の腹でクニクニとクリトリスを捏ね回され、擦り合わせるよう
に乳首を捻られる。
これまでにもそういった愛撫は何度となくされてきたれど、その
時は強弱をつけて、徐々に私を煽っていく動きだった。
ところが今は、始めから強い力で愛撫されている。
おかげで、無意識に彼のペニスを締め付けてしまった。私が意図
的にしたものよりも、多分力が入っていると思う。
﹁は、あぁ⋮⋮、な、なに⋮⋮?﹂
うつろな視線を向ければ、忠臣さんはニッと口角を上げる。
﹁だから言っただろ、手助けだよ。こうすれば理沙は否応なしに締
め付けてくるからな。俺のこと、こうしたかったんだろ?﹂
ズブズブと私のナカを犯しながら、彼は左右の手をそれぞれ器用
に動かして、敏感になっている部分に刺激を与えてくる。
途端に膣壁がキュウッと締まり、太く雄々しい彼のペニスの形を
ありありと感じさせた。
﹁気持ちいいよ、理沙⋮⋮﹂
掠れた声でセクシーに囁きつつ、忠臣さんはクリトリスと乳首を
執拗に弄る。
﹁ひゃ、んん!﹂
585
たまらなくなって、左右に顔を振った。力が入りすぎて、手の中
のシーツが今にもちぎれそうである。
﹁これなら理沙も気持ちいいし、俺も気持ちいい。これで満足だろ
?﹂
上半身を前に倒してさらに深く挿し入れ、ペニスの先端でグイグ
イと最奥を刺激する忠臣さん。
楽しげに告げてくるが、今の私には頷きを返すことすら難しい。
それでも甘い喘ぎ声と蕩けた表情のおかげで、彼にはきっと伝わ
っているはず。
﹁あ、あ⋮⋮﹂
喉から絞り出すような微かな喘ぎ声が、震える唇から呼気と共に
零れた。いよいよ絶頂も目前だ。
﹁さすがに、さっきよりも締め付けがきついな⋮⋮。俺も、もう⋮
⋮﹂
苦しげに呟いた彼がクリトリスと乳首から手を離し、私の顔の横
辺りに手を着いた。
そしてペニスを擦りつけ、突き上げ、叩きつけるといった、これ
まで以上に激しい注挿を繰り返す。
﹁や、あぁ、んん⋮⋮!!﹂
﹁理沙⋮⋮!﹂
引き攣れた喘ぎと、彼が呼ぶ私の名前が重なった時、私たちは同
時に艶やかな果てに辿り着いたのだった。
忠臣さんは果てた瞬間に私へと覆いかぶさり、強く抱きしめてき
た。
なので私の耳のすぐ横には彼の顔があり、乱れた呼吸が繰り返さ
れているのがよく分かる。
﹁は、あ⋮⋮。理沙を抱くといつだって気持ちいいが、今夜は一段
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と気持ちよかったよ﹂
少しだけ落ち着きを取り戻した忠臣さんは、さらに私を胸に抱き
込みながら、こめかみにキスをする。
柔らかく唇を押し当てられているうちに、私の呼吸も次第に整っ
てゆく。
﹁ほ、本当、ですか⋮⋮?﹂
最終的には彼に手伝ってもらった状態だが、﹃いつもより気持ち
よかった﹄と言ってもらえて本当に良かった。
︱︱今度は、私一人の力で、忠臣さんに気持ちよくなってもらわな
くちゃ⋮⋮。
そんなことを心の中で密かに決心していると、深く息を吐いた忠
臣さんが私のナカから静かに抜け出ていった。
精液を放った避妊具を処理しなくてはならないのはいつものこと
で、当然のこと。
ただ、これまでに何度も繰り返されてきた抜け出る瞬間なのに、
どうにも違和感を覚える。
︱︱忠臣さんの⋮⋮、まだ、硬い?
では、彼は私の中で果てなかったということだろうか?
いや、そうではあるまい。あの一瞬詰めた呼吸と、全身に浮いた
汗が、射精に至ったことを物語っている。
では、どういうことだ?
オズオズと彼を見遣れば、何と、新たに避妊具を装着しているで
はないか。
﹁⋮⋮え?﹂
私は首だけを起こした状態で固まった。
587
︱︱デジャブ⋮⋮、じゃないわよね?
これまでの甘く乱れた時間は夢ではないはず。
なのに、どうして彼のペニスは、今もなお、そそり立っているの
だろうか。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
戸惑い気味に声をかけると、根元まで避妊具を被せた忠臣さんが
改めて私を抱き締めてきた。
そして数回軽く唇を啄んだ彼が、私の耳元に口を寄せて囁く。
﹁今夜の理沙があまりにも可愛くて綺麗で一所懸命だから、一回じ
ゃ収まりがつかないんだ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
︱︱う、嘘よね?
彼の言葉に驚くが、私のお腹に押し付けられている彼のペニスは
臨戦態勢である。ちょっと回復が早すぎやしないだろうか。
イッた直後で敏感になってこの状態で、彼に抱かれると訳が分か
らなくなるほどよがってしまう。
気持ちよすぎて意識が飛んでしまうのは、少々怖い。
﹁や、あの、私⋮⋮﹂
力の入らない手で彼の肩を押し遣るが、そんな抵抗、彼には無意
味だ。
クスクスと笑う忠臣さんは、余裕綽々で私の耳に舌を這わせ、耳
たぶを甘噛みしてくる。
﹁んっ﹂
ゾクゾクとした痺れが背中を駆け抜ける。
ピクンと跳ねた肩を、滝ましい腕で抱き込まれた。
﹁さっきは理沙が積極的だったからな。今度は俺が積極的に理沙を
可愛がる番だ﹂
588
︱︱いえ、もう、十分可愛がってもらいましたけど!
⋮⋮という叫びは、彼のキスで押さえこまれてしまったのだった。
589
︵91︶寒い冬。彼の温もり。:1
いよいよ年末が迫ってきた。
先日、無事に仕事納めを迎えたけれど、仕事初めまでまるっきり
お休みという訳でもない。
緊急事態が起きた時は、すぐさま呼び出されるからだ。
まぁ、それは部長以上の社員に限ったことなので、私はカレンダ
ー通りに十日ほどお休みである。
しかし、忠臣さんはそうはいかないらしい。
彼は部長ではないけれど、海外事業部を実際に動かしているのは
忠臣さんといっても過言ではないと思う。
たぶん、部長と同じくらい色々な状況を把握しているのではない
だろうか。
そういうこともあって、もう、忠臣さんが部長でもいいんじゃな
いかなと、コッソリ考えたこともあった。
だけど彼曰く、﹃部長がドンと構えていてくれるから、俺があれ
これ動けるんだよ。俺なんて、部長に比べたらまだまだヒヨッコだ﹄
とのこと。
まぁね。日本のお客様よりも手強い海外のお客様を相手にしてい
る部長のことだ。人としての器の大きさや仕事の手腕は、忠臣さん
でさえも頭が上がらないのも頷ける。
その部長から多大な信頼を寄せられている彼なので、何かが起き
たち
れば、休みに関係なく会社から呼び出されること必至だし。彼自身
が、気になっておちおち休んでいられないといった質でもある。
そんな訳で年内勤務の最終日、仕事終わりに忠臣さんおススメの
590
バーで飲んでいた時。
休みの間は少しでも長く一緒にいられるようにと、忠臣さんは年
明けの仕事が始まるまで寝泊まりする様に私に持ち掛けてきた。
﹁俺が会社に呼び出されたら、場合によっては徹夜になる。そうし
たら、理沙と過ごす時間が削られてしまうだろ。だが、理沙が俺の
部屋にいてくれれば、いつも以上にそばにいる時間が取れるからな﹂
私は忠臣さんの秘書ではあるが、自分の翻訳能力が必要な事態で
もなければ、出勤扱いとはならないのである。
なので、彼が会社に呼び出されることとなれば、自然と一緒にい
る時間は減ってゆくのだ。
カウンターに並んで座り、上品な店の雰囲気と穏やかな時間を、
美味しいお酒とともに味わっていた私。
まだ酔っていたわけではないが、すぐさま返事が出来なかった。
それは、思う所があったからだ。
忠臣さんのお誘いは嬉しいけれど、その言葉に飛びついてしまっ
てもいいのだろうか。
手の中にあるワイングラスを覗き込み、ライトのやわらかい光を
受けてキラキラと反射している白ワインを見つめながら、ポツリと
呟いた。
﹁⋮⋮でも、いいんですか?﹂
﹁なにが?﹂
ウィスキーが入ったロックグラスに口を付けようとしていた彼が、
動きを止めて不思議そうな声音で訊きかえしてくる。
私は軽くグラスを揺り動かし、どう伝えようかと言葉を選んでい
た。
﹁理沙、言いたいことがあるなら、なんでも言え。俺は狭量な男で
はないと思うぞ﹂
クスリと小さな笑みを零した彼に促され、私は再び口を開く。
﹁一日中、私が忠臣さんの部屋にいてもいいんですか?私たちの家
はそれほど離れていませんし、会う気になればいつでも会えるじゃ
591
ないですか。そりゃあ、たまにはお泊りするのもいいと思いますけ
ど。でも、休みの間ずっとというのは、ちょっと⋮⋮﹂
ここで言葉を止めると、忠臣さんが私の方にスッと体を寄せてき
た。そして僅かに上体を屈め、私の顔を静かに覗きこんでくる。
﹁理沙は、俺と一緒にいたくないのか?﹂
﹁いえ、違います。私は忠臣さんと一緒にいたいですよ。でも⋮⋮﹂
その先を言えない私は、ユラユラ揺れる白ワインから目を離さな
いまま。
口を閉ざした私を咎める様子もなく、忠臣さんは穏やかな表情を
浮かべたまま、やんわりと続きを促してきた。
﹁でも、なんだ?﹂
左側にいる彼にチラリと視線を送った私は、その視線を再びワイ
ングラスに向けて、ポツリ、ポツリと話し出す。
﹁忠臣さんは日頃から、私とは比べ物にならないほど仕事における
重責があると思うんです。だから、お休みの時くらい、ゆっくり過
ごした方がいいのかなって﹂
告げた途端、カウンターテーブルに置いていた左手を、彼の右手
がギュッと掴んできた。
人がいる店内で突然そんなことをされて、トクン、と心臓が跳ね
た。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
オロオロと彼を見遣れば、忠臣さんは苦笑いを浮かべている。
﹁理沙のそういう所が可愛くて困る﹂
﹁はい?﹂
パチパチと瞬きをすれば、彼はさらに苦笑を深めた。
﹁俺のことを気遣ってくれるなら、なおのこと、そばにいてほしい。
愛する恋人と過ごす時間ほど、心が安らぐものはないからな﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
真っ直ぐにこちらを見つめながら告げられたセリフ。頬が熱いの
は、きっとアルコールのせいではないだろう。
592
トクトクと打ち付ける心臓のリズムを感じながら、忠臣さんを見
つめ返す。
いい年して甘いセリフに胸をときめかせている自分に、ちょっと
恥ずかしくなった。恋愛ごとに不慣れなわけではないのに。
気持ちを落ち着けようとワインを一口含む。
よく冷えた白ワインが喉を通っていくと幾分気分が鎮まったが、
﹁それに、結婚したら、休みの間だけじゃなくて一生共に過ごすこ
とになるんだぞ﹂
という次に聞かされたセリフで、またしても心臓が跳ね上がる。
﹁え、あ、それは⋮⋮﹂
いっそう顔を赤らめると、忠臣さんがさらに体を寄せてきた。
﹁理沙、俺の我がままを聞いてくれないか?﹂
それを聞いて、とんでもないと首を横に振る。
﹁そんな、我がままだなんて!私の方こそ、忠臣さんと一緒にいた
いです。だけど、そんなことを言ったら、鬱陶しいオンナだって思
われるんじゃないかなって、ちょっと心配になってしまって⋮⋮﹂
これまでの彼には素直に甘えることが出来なかったから、忠臣さ
んと付き合うことによって、その反動が来ている。
だけど、我慢しなくちゃって。私はもう子供じゃないんだからっ
て。そうやって、自分に言い聞かせていた。
十代の恋愛ではないのだし、出来る限り一緒にいたいなんて言っ
たら、重たいと思われてしまうんじゃないかと、不安だった。
だからこそ、彼の誘いに素直に応じることが出来なかったのだが
⋮⋮。
心の中にしまっていセリフを勢いで言ってしまったことに気が付
き、最後はモゴモゴと口ごもる。
そんな私を見て、彼はヒョイっと肩を竦めた。
﹁理沙は、まだまだ俺のことを分かってないな﹂
﹁え?﹂
﹁俺のどこを見たら、理沙のことを鬱陶しいと考えるという発想が
593
出てくるんだか。むしろ、俺の方が理沙にとって鬱陶しいと思われ
てもおかしくないだろ?﹂
私はまた首を横に振った。
﹁そんなことはありません。忠臣さんと一緒にいると、私はすごく
幸せな気分になれるんです﹂
忠臣さんは重ねた手に軽く力を篭めて、私の手をすっぽりと包み
込む。
﹁理沙﹂
静かな声で名前を呼ばれ、私は改めて忠臣さんへと顔を向けた。
すると、すごく優しい笑みを浮かべている彼と目が合った。
﹁好きな人と一緒にいたいと思う気持ちは、子供だろうと大人だろ
うと関係ない。理沙、改めて頼む。休みの間は、ずっと俺のそばに
いてほしい。もちろん、予定があれば出掛けても構わない。ただ、
俺の部屋に帰ってきてほしいんだ﹂
私に向ける愛情がありありと分かる表情だった。
︱︱こういうところが、ますます好きになっちゃうなぁ。
好きな人に愛されるということは、なんて幸せなことなのだろう
か。
心が温かいもので満たされていく感覚は、言葉に出来ないほど幸
せだ。
﹁はい﹂
今度は躊躇することなく、しっかりと彼の目を見つめて大きく頷
く。
すると、忠臣さんは更に嬉しそうに笑った。
﹁ありがとう、理沙﹂
﹁いえ、そんな。お礼を言われるようなことは﹂
空いている手を小さく振って言葉を返すと、彼は重ねていた私の
手の甲をポンポンと優しく叩いた。
594
﹁タクシーを呼んでもらうか。理沙の家に寄って、寝泊まりに必要
なものを取りに行かないとな﹂
本当に嬉しそうな様子の忠臣さんを見て、私も自然と笑顔になっ
た。
595
︵91︶寒い冬。彼の温もり。:1︵後書き︶
●﹁YOUたち。もう、同棲しちゃいなよ!﹂というお言葉もある
でしょうが、それは少々待ちくださいませ。
いや、同棲どころか結婚しちゃなよと突っ込まれるかもしれません
が︵苦笑︶
付き合い始めてまだ半年も経っておらず、理沙ちゃんの心にある
過去の恋愛による傷が完全に癒えていないので、まだまだ野口氏の
胸に飛び込むことが出来ないといった部分があります。
⋮⋮うまく書ききれていませんが、そうなんです。
596
︵92︶寒い冬。彼の温もり。:2
仕事納めを迎えた日の夜。
バーで、忠臣さんから﹁冬休みの間は、一緒に過ごそう﹂と誘わ
れ。自宅に荷物を取りにいった後は、彼の部屋に向かって。
それから三日目を迎え、本日は大みそかである。
家主である忠臣さんは、仕事のため不在。部屋で一緒にお昼ご飯
を食べ終えたところで、会社から電話がかかってきた。
ヨーロッパ市場でトラブルが起き、緊急に対策が必要になったと
のことだ。
韓国関連のことでなければ私の出番はないので、大人しく留守番。
洗濯物を取り込んで畳んだり、簡易モップで床掃除をして一通り
家のことを済ませると、リビングのソファに腰を下ろした。
テレビを点ければ、買い物客で賑わう商店街の様子や、除夜の鐘
を聞きに有名神社へと向かう人たちで混んでいる道路の様子が映し
出される。
こういう忙しない光景を見ると、いよいよ年末なのだという気分
になる。特別、何がどうだということもないが、心が湧きたつ感じ
だ。
しかし、その気分を分かち合うはずの恋人は、現在、難しい顔で
会議に臨んでいるのだろう。電話を受けた彼の表情が一瞬で曇った
のは、それだけ厄介な事態が起きたということ。
﹁責任がある立場に就くのって、本当に大変そうよね﹂
私はレモンティーを淹れたカップを持ち上げ、一口すする。
﹁帰ってきたら、思いきりのんびりさせてあげよう。マッサージし
てあげたら喜ぶかしら?﹂
それからしばらくして日が傾きはじめた頃、忠臣さんから電話が
かかってきた。
597
﹃やっと会議が終ったよ。事態はそれほど悪化しないで済みそうだ﹄
電話越しでも、彼の美声は健在だ。しかし、声が少し疲れている。
会議がかなり白熱したのだろう。
だけど、その掠れ具合がかえってセクシーで、私は密かに顔を赤
くしていた。
﹁お疲れ様です。仕事はもうしばらくかかりそうですか?﹂
﹃いや。書類をざっと纏めたらヨーロッパ支社の者に任せるから、
そんなに時間はかからない。そうだな、一時間くらいでそっちに着
くはずだ﹄ 私はテレビに表示されている時刻を見た。
今が十七時半なので、彼が帰宅するのは夕食にちょうどいい時間。
﹁分かりました。じゃあ、食事の支度を始めてもよさそうですね﹂
まだまだ手際がよろしくない私なので、そのくらいかかってしま
うのだ。
何気なく零した言葉に、忠臣さんは電話の向こうで小さく笑う。
﹁どうしました?﹂
急に笑った彼のことが不思議で、問い掛けてみると、
﹃家に帰ったら理沙がいるんだなと思ったら、それがすごく幸せに
感じてな。これじゃ、結婚後は残業なんてしている場合じゃなさそ
うだ﹄
そんなセリフが耳に届いた。
忠臣さんの声は穏やかではあるが、嬉しそうにしているのが良く
伝わってきた。
私がただここにいるだけなのに、そのことを喜んでくれる彼の言
葉に、私の方こそ嬉しくなる。
﹁でも、忠臣さんが残業するなら、私も残業になるんじゃないです
かね?今回のように、私の翻訳が必要としない仕事なら話は違って
きますけど﹂
これまでの仕事が評価され、私は順調に契約期間を伸ばしている。
正社員にならないかという打診もあり、もしかしたら、この先も
598
ずっと彼と一緒に仕事をしている可能性がある。
KOBAYASHIでは夫婦でも同じ部署で働いている人がいる
ので、忠臣さんと私が結婚しても、これまでと変わらないこともあ
り得るのだ。
ものすごく漠然とした話で、私としては明確に結婚を意識した上
で返した言葉ではなかったのだが、それでも彼は本当に嬉しそうな
声で、﹃ああ、そうだな﹄と告げてきた。
︱︱ただでさえ良い声なのに、表情が見えるほど嬉しそうな声で言
われると、さらにドキドキしちゃうんだけど。
私は携帯を持っていない方の手で、パタパタ仰いで顔に風を送る。
﹁道路がけっこう混んでいるみたいですから、気を付けて帰ってき
てくださいね﹂
出来る限り普段通りに言ったのに、胸をときめかせている私に気
が付いているのか、忠臣さんがクスクスと笑った。
﹃分かった。本当に理沙は可愛いな﹄
不意打ちで聞かされたセリフに、ボン、と音を立てて顔が赤くな
る。
﹁も、もう!そういうことは言わなくていいですから﹂
すかさず抗議をすれば、
﹃なら、愛してるってセリフだったら言っていいよな?﹄
彼も間を空けずに言葉を返してきた。
さらに私の顔が赤くなる。
﹁で、ですから、そういうことは!﹂
しどろもどろになっていると、 ﹃理沙は?﹄
短く尋ねられた。
﹁はい!?私が、なんですか?﹂
﹃理沙は、俺のことを愛してる?﹄
599
楽しそうに、だけど真剣な声で訊かれ、恥ずかしさで一瞬、言葉
に詰まった。
﹁そ、それは、その⋮⋮、はい﹂
忙しなく手を動かして顔に風を送りつつ、私はモゴモゴと言葉を
返す。
すると、
﹃こら。はい、じゃなくて、ちゃんと理沙の言葉で言ってくれない
と﹄
なんとなく意地悪な口調で忠臣さんが言う。
言えないこともないけれど、こうしていざ口にするとなると、か
なり照れくさい。
﹁ええと、それは⋮⋮、忠臣さんが帰ってきたら言いますよ﹂
とりあえずこの場をしのごうとすれば、大きなため息が聞こえた。
﹃ふぅん、そんなことを言うのか。⋮⋮あぁ、理沙がちゃんと言っ
てくれないから、俺は立ち上がる元気も出ないよ。このまま、会社
で年越しを迎えるのか。寂しいなぁ﹄
そして再び聞こえる、長く大きなため息。
﹃はぁ、寂しいなぁ⋮⋮﹄
今の忠臣さんは、絶対にニヤニヤしているはず。だって、寂しい
なんて言いながらも、声が楽しそうだ。
彼の思惑に嵌められるのはちょっと悔しいけれど、急きょ会社に
出向いた忠臣さんには少しでも早く帰ってきてもらって、家でゆっ
くりしてほしい。
私は僅かに息を吸い込み、ポツリと呟く。
﹁⋮⋮忠臣さん、愛してます﹂
本当に小さな声だったけれど、電話であればきっと聞こえている
はず。
緊張しながら彼の反応を待っていると、ややあってから、
﹃愛してるよ、理沙﹄
と、とても優しい声が返ってきた。
600
﹃今すぐ、理沙の顔が見たくなったよ。これで元気も出たし、急い
で仕事を終わらせて帰るから﹄
﹁それは、その、よかったです。⋮⋮あ、でも、運転中は急いだら
駄目ですよ。事故には注意してくださいね﹂
﹃分かった。じゃ、あとでな﹄
﹁はい﹂
そう言って電話を耳から放そうとした瞬間、﹃チュッ﹄というリ
ップ音が聞こえてきた。
﹁い、今のって⋮⋮﹂
私はその場でヘナヘナと崩れ落ちる。照れくさくなって、どうに
もならなくなったからだ。
﹁で、電話越しにキス、とか⋮⋮。なに、この甘いシチュエーショ
ンは⋮⋮﹂
ソファの座面にへたり込み、握り締めた携帯電話を見つめる。
忠臣さんは年齢的にも精神的にも、いわゆる﹁大人の男性﹂であ
るにも関わらず、こんな風にベタ甘な言動が多い。
それは付き合い始めた当初だけではなく、今でも相変わらず。い
や、ますますその度合いが深まっていると言ってもいい。
忠臣さんがそういう言動をするのは、きっと、私が甘え下手だか
らかもしれない。
どうしても元彼のことがあるから、心の奥で自分の行動にブレー
キをかけてしまう。そんなつもりはないのに、無意識にそうしてし
まうらしい。
そういった私を咎めることなく、彼は自分に出来る最大限で私を
甘く優しく包んでくる。
そのことが本当に嬉しくて、泣きたくなるほど幸せで。
彼に出会い、恋をして、互いに想いが通じ合ったことに感謝せず
にはいられない。
﹁愛してます﹂
私は既に切れてしまった電話に向かい、もう一度、自分の想いを
601
言葉にしたのだった。
602
︵93︶寒い冬。彼の温もり。:3
忠臣さんからの電話で砕けた腰もどうにか元に戻り、私は傍らに
置いていたエプロンを手に立ちあがった。
﹁さて、やりますか﹂
今夜のメニューは天ぷら蕎麦だ。
午前中に彼と出かけた際、通りにあった蕎麦屋さんが持ち帰り用
に生蕎麦を販売していた。それを買っておいたのである。
﹁お蕎麦は忠臣さんが帰って来てから茹でればいいから、とりあえ
ず天ぷらの下ごしらえよね﹂
私は冷蔵庫の中から、海老が並んだパックを取り出す。
﹁殻を剥いて、背ワタを取って、少しだけ切れ目を入れて、軽く伸
ばして⋮⋮。あ、そうそう。尻尾のところの水を抜くんだった。こ
れをしないと、油が跳ねるんだっけ﹂
一人暮らしをしていると簡単なメニューばかりで、天ぷらをわざ
わざ揚げることはなかった。
海老の天ぷらも海老フライも、一人分ならスーパーの惣菜コーナ
ーで買った方が安上がりだ。
炒め物に海老を入れることもあるが、その時は既に処理されてい
る冷凍物を使っていた。なので、下ごしらえの方法はちゃんと知ら
なかった。
しばらく前のことになるが、恥を忍んで料理上手な忠臣さんに尋
ねれば、先ほど私がブツブツと呟いていたことを教えてくれた。
彼は﹃そんなことも知らないのか?﹄と呆れることもなく、﹃教
えてやるから、よく聞けよ﹄と偉ぶることもなく、図解しながら丁
寧に説明してくれたのだ。
忠臣さんの前では意地を張ることも、背伸びをすることもしない
で済む。それは、私の至らないところを見ても、彼が絶対に笑った
603
りしないから。
だから私は安心して、知らないことを訊くことが出来る。
﹁仕事はできるし、かっこいいし、人間も出来てるし。忠臣さんっ
て、向かうことろ敵なしのイイ男よねぇ﹂
そんな素敵な恋人に、是非とも美味しい天ぷら蕎麦をふるまって
あげたい。
私は海老の下ごしらえと共に教わった天ぷらのコツもブツブツと
呟きながら、作業を続けたのだった。
電話で話していた通り、あれから一時間ほどで忠臣さんが帰って
きた。
手を洗ってから玄関に向かうと、靴を脱いでいる彼と目が合う。
﹁おかえりなさい﹂
私の言葉に、忠臣さんは嬉しそうに微笑んだ。
﹁ただいま。やっぱり、理沙が家にいるっていうのはいいな。理沙
に出迎えてもらうと、それだけで疲れが吹っ飛ぶよ﹂ しみじみ告げられたセリフに、私の頬は浅く熱を持つ。
﹁そうですか?﹂
照れながら彼からバッグを受け取ると、忠臣さんはさらに笑みを
深めた。
﹁こういうところ、新婚みたいだな﹂
﹁な、なにを言ってるんですか!﹂
﹁思ったことを、素直に言っただけだ。⋮⋮ということで﹂
忠臣さんの右腕が素早く伸びてきて、私の腰に巻き付いた。
﹁え?た、忠お⋮⋮、んんっ﹂
言葉の途中で、唇が塞がれる。
チュッと音を立てて啄むようなキスをしてから、彼がゆっくりと
顔を離した。
﹁なにって、新婚と言ったら﹃ただいま﹄のキスだろ。まぁ、新婚
じゃなくなってもするけどな﹂
604
﹁もう!やめてくださいよ!それに、私たちはまだ、結婚してない
んですよ!﹂
キスなんて何度もしてきたけれど、彼が言った﹃新婚﹄という言
葉が思った以上にくすぐったくて、とにかく恥ずかしい。
照れ隠しに怒って見せるけれど、忠臣さんはニヤニヤと楽しそう
だ。
﹁そう恥ずかしがるな。予行演習だと思えばいい﹂
そして、左手も私の腰へと回してくる。
﹁理沙。俺に﹃おかえり﹄のキスは?﹂
﹁はいっ!?﹂
目を白黒させていると、いっそう腰を抱き寄せられた。
﹁ほら、早く﹂
﹁いや、ちょっと、それは⋮⋮﹂
色々と居たたまれなくなって、彼の腕の中でモゾモゾと身じろぐ。
しかし、その程度で拘束が緩むはずもなく。
﹁理沙﹂
少し掠れた声で名前を呼ばれ、甘く優しく見つめらたら、抵抗な
んて出来やしない。
﹁⋮⋮おかえりなさい﹂
小さな声で改めて告げてから、少しだけ顔を上向きにして、そっ
とかかとを上げる。
目を閉じて、彼の唇に自分の唇を重ねた。
それと同時に、背に回っている彼の腕にゆっくりと力が篭ってゆ
く。 まるで宝物のように優しく抱きしめてくるその仕草は、私のこと
が好きだと雄弁に語っていた。
私の心臓がトクトクと音を立てる。
︱︱こういう所が、ちょっと悔しいなぁ。
605
しかし、その悔しさは嬉しさの裏返しでもあるので、まったく嫌
な気分にはならない。
ならないが⋮⋮。
腰にあった彼の手がいつの間にか下にずれて、私のお尻を撫で回
していることは無視できない!
﹁ちょ、ちょっと、やめてください!﹂
慌ててキスを解き、彼の腕から強引に抜け出した。自分の身を守
るかのように、彼のバッグを胸にギュッと抱え込む。
﹁なにを考えているんですか!玄関で、こんなことをするなんて!﹂
﹁すまない。理沙があまりにも可愛くて、我慢できなかった﹂
両手を軽く上げて降参のポーズを取りつつも、反省しているよう
には見えない彼を睨み付ける。
︱︱結婚したら、毎日、こんなことをされるの!?い、いえ、それ
だけは絶対に阻止しなくては!
ドア一枚の向こうには、このマンションの住人がいつ通るか分か
らないのだ。そんな状況でキス以上の行為をされたら、全身の血が
沸騰するに違いない。
﹁二度と、こういう事をしないでくださいね!いいですか!﹂
ビシッと言ってのけると、忠臣さんはフッと苦笑を浮かべる。
﹁分かった、約束する。こういうことをするのは、玄関以外の場所
にするから﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
その言葉に﹃あれ?﹄と首を傾げているうちに、忠臣さんはスタ
スタと歩いて行ってしまう。
﹁なんか、違うような⋮⋮﹂
広い背中を眺めていたら、忠臣さんがリビングの手前でクルリと
振り返る。
﹁キッチンや風呂場でなら、問題ないんだろ?玄関じゃないしな﹂
606
ニヤリと口角を上げる彼に、全身の血が一気に頬へと集まり、そ
の血が一気に下がる。
﹁い、いえ、私が言ったのは、そういうことじゃなくてですね!!﹂
﹁洗い物をしている理沙に後ろから襲い掛かるのも、なかなかそそ
るシチュエーションだよなぁ。逃げ場のない風呂場で追いつめるの
も、結構楽しそうだし﹂
クスリと笑いながら告げられたセリフに、下がった血がふたたび
頬に集まっていったのだった。
607
︵94︶寒い冬。彼の温もり。:4
玄関での妙な攻防に終わりを告げるべく、私はそそくさとその場
を後にした。
︱︱大丈夫、大丈夫。キッチンとか、お風呂場とか、きっと冗談よ。
きっと⋮⋮。
パタパタとスリッパの音を立てて、リビングに向かう。
その後から、忠臣さんがのんびりと着いてくる足音が聞こえる。
彼の手が届かない距離を保ちながら先を歩いていると、クスクスと
忍び笑う声が。
﹁理沙は可愛いな﹂
彼の声にはからかいが感じられず、ただ、ただ、嬉しそうなだけ
である。
﹃いい年のくせに、この程度で慌てるなんて﹄ ﹃大人なんだから、うまく切り返せよ﹄
そういったあざけりは一切含まれていない声だった。
些細なことかもしれないが、過去の恋愛のせいで、いちいち自分
の言動が気になってしまう。
忠臣さんがしっかりと愛してくれているのに、心の傷はなかなか
癒えてくれないのだ。
そんな自分が嫌になるが、こういった気持ちの問題は、どうにか
しようとしてもどうにもならない。
困ったことだが、今の私はやらなくてはならないことがある。落
ち込んでいる暇などなかった。
608
リビングのソファに彼のバッグを置くと、
﹁夕飯を仕上げてしまいますので、忠臣さんは座っていてください。
あ、お茶でも入れましょうか?﹂
そう声をかけて、キッチンへと向かう。
﹁天ぷらの下ごしらえは終わったのか?手伝うぞ﹂
スーツの上着をソファの背にかけた忠臣さんが、ワイシャツの袖
を捲りながらこちらにやってきた。
﹁いえ、もう終わりましたから﹂
私の言葉に、忠臣さんはまな板の上に並べられている食材に目を
向け、次いでニコリと笑った。
﹁綺麗に出来てるな﹂
それを聞いて、私はホッと息を吐く。
﹁忠臣さんが丁寧に教えてくれたからですよ。じゃ、私は続きに取
り掛かりますから﹂
﹁俺も何かしようか?﹂
﹁大丈夫です。慣れるためにも、私にやらせてください﹂
﹁ああ、それもそうだな。じゃあ、理沙に任せる﹂
フワリと優しい笑みを浮かべる彼に、私も微笑み返した。
﹁はい、頑張ります﹂
パパッと手を洗い、天ぷらを揚げ始める。しばらくして、多少不
格好ながらも、無事に海老天が完成。
あらかじめ沸かしておいた湯で蕎麦を茹でれば、ほどなくして夕
食が出来あがった。
テーブルに運び、向かい合わせになって食べ始める。
忠臣さんは真っ先に海老の天ぷらを口にして、﹁初めてにしては、
上出来だ﹂と笑顔で褒めてくれた。
忠臣さんが揚げた天ぷらの方が絶対に美味しいはずなのに、彼は
けしてケチを付けない。
おかげで、次はもっと頑張ろうと思う。
そう考えた時、職場における彼の立ち位置というものを改めて理
609
解した。ああ、そうか。良い上司というのは、部下のやる気を引き
出せる人なのだ。だからこそ、部下から慕われているのだ。
そんな彼は、私にとって、もちろん良い恋人でもある。たっぷり
甘やかしてくれるものの、甘やかすだけではない。
﹁でも、衣がちょっと硬い気がします。気を付けていたんですけど、
粉の混ぜ過ぎでしょうか?﹂
そう言葉にすると、
﹁おそらくな。本当にざっくり混ぜる程度でいいんだ。むしろ、少
しダマが残る程度で十分だぞ。混ぜ過ぎると粘り気が出るから、仕
上がりが硬くなる﹂
優しい声が、返ってきた。
間違えたことをすればきちんと指摘はするが、頭ごなしに怒鳴っ
たり、あからさまに馬鹿にしたりすることはない。
こうして冷静に教えてくれるから、素直に疑問を投げかけること
が出来るのだ。
︱︱ホント、出来た恋人よね
下ごしらえの際にも感じた思いを、改めて噛みしめる。
私が忠臣さんにしてあげられることは、彼がしてくれることの半
分にも満たないだろう。
だからもっと頑張りたいと思うし、それに、出来る限り迷惑をか
けたくないと思う。
そう思っていたのに⋮⋮。
夕飯を終え、そのあとに少しのんびりしてから、それぞれが入浴
を済ませる。
急な会議で疲れた忠臣さんを、早々にベッドへと押し込んだ。⋮
⋮つもりで、押し倒された。
610
﹁な、なにをしてるんですか?﹂
馬乗りになって肩を押さえこんでくる忠臣さんの様子に、慌てふ
ためく私。
そんな私の様子に、薄明りの中でもはっきり分かるほど、彼の口
角が上がっている。
﹁なにって、エネルギー補充をさせてもらおうかと思ってな﹂
そう言って、ガッチリ押さえ込んだ私にキスをしてきた。
スルリと忍び込んできた舌が私の舌に絡みつき、クチュクチュと
口内を掻き回してくる。
﹁ん、んんっ﹂
鼻にかかる甘い吐息が零れた瞬間、私は喉の奥がキュウッと締め
付けられる感覚に襲われる。
無理やり彼から身を離し、横を向いて背中を丸めた。
﹁ごほ⋮⋮、けほっ﹂
次から次へと咳が出て、息を吸う暇もないほどだ。
﹁理沙、大丈夫か!?﹂
青ざめた忠臣さんが、私の背中を擦ったり、叩いたりしている。
﹁だ、大丈夫、です⋮⋮、こほっ﹂
そうはいうものの、なかなか咳が止まらない。
私は子供の頃に喘息を発症し、しょっちゅう病院に通っていた。
体を鍛えると喘息が治まると聞いた親が、近くにある空手の道場
に私を連れて行ってくれた。
それからは咳で苦しむ回数が徐々に減り、長時間、咳き込むこと
はなくなった。
それでも、ふとした時に咳が出ることがある。
疲れがたまったり、風邪の引き始めなど、体力が落ちている時。
他にも乾燥した晴天が続いたり、反対に大荒れの天気で気圧が下
がったりした時にも、発作的に咳が続く。
今夜は前線が通過して一気に天気が悪くなると言っていたので、
原因はそれだろう。
611
私は横になったまま咳を鎮めようと心がけるが、一向に治まらな
い。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮。うるさくして⋮⋮﹂
﹁つらいくせに、そんなことを気にするな。水を飲むか?ああ、そ
れとも、病院に行くか?すぐに連れて行ってやるぞ﹂
忠臣さんは、ずっと私の背中を撫でてくれていた。疲れているの
に、私のことを最優先にしてくれる。
彼には迷惑をかけたくないと思った矢先にこれでは、申し訳なく
て泣けてくる。
﹁私、リビングに行きますから⋮⋮。忠臣さんは、そのまま寝てく
ださい⋮⋮﹂
とど
ゲホゲホと咳き込む口元に手を当て、モゾモゾとベッドから這い
出る。
すると、忠臣さんは私の腕を掴んで、その場に押し止めた。
﹁俺のことはいいから、ここにいろ﹂
﹁でも、すぐそばで咳をしていたら迷惑でしょうし⋮⋮。起きてい
た方が、咳は治まりますから⋮⋮﹂
腕を掴んでいる手を引き剥がそうとすれば、彼はその手で私をグ
イッと引き上げ、胡坐をかいている膝に乗せた。
そしてあっという間に毛布で二人の体を包み込んでしまう。
﹁だったら、こうしていればいいだろ﹂
忠臣さんは逞しい腕でしっかりと抱き込み、私の髪に頬ずりをし
てきた。片方の手で、ポンポンとリズムよく背中を叩いてくる。
﹁あの⋮⋮、やっぱり、私、リビングに⋮⋮。このままだと、忠臣
さんは眠れないですよ⋮⋮﹂
彼の胸を手で押しやるが、さらにギュッと抱き寄せられた。
﹁理沙の咳が止まらないと、結局は心配で眠れないさ。ほら、いい
から俺に寄りかかれ﹂
穏やかな声で言われてオズオズと彼に身を寄せれば、ゆっくり背
中を撫でられる。
612
﹁早く咳が止まるといいな﹂
優しい声、優しい想い。
温かいと感じるのは、体温だけではなく、彼の優しさもあるから
だ。
忠臣さんの肩口に頭を乗せ、さらに身を預ける。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
咳の合間にポツリと謝罪を述べれば、クスリと笑われる。 ﹁謝ることはない。こんなもの、迷惑のうちに入らないさ。理沙は
もっと俺を頼れ。もっと甘えろ﹂
彼の大きな優しさに、今度は嬉しくて涙が溢れてしまったのだっ
た。
613
︵95︶寒い冬。彼の温もり。:5
空気の乾燥は喉に良くないため、今は寝室のエアコンは切ってあ
る。
それでも、忠臣さんにしっかりと抱きしめられているおかげで、
少しも寒さは感じなかった。
穏やかな温もりに包まれているうちに体がリラックスし、喉の締
め付け感が薄れてゆく。その証拠に、咳き込む頻度が少なくなって
くる。
それでも忠臣さんは相変わらず私に寄り添い、大きな手で背中を
擦ったり、トントンと軽く叩いたりしていた。
時折、髪やこめかみにキスが落とされる。喘息に苦しむ私を少し
でも労わろうとしているのだろう。
それから、付き合わせてしまっていることに申し訳なさを感じて
いる私に、﹃気にするな﹄という意味も込めて。
愛情たっぷりの抱擁を受けること三十分。ようやく、咳が止まっ
た。
念のために、それから五分ほどおとなしくしていたのだが、小さ
な咳すらも出ない。
私はホッと息を吐き出す。
﹁ありがとうございました。もう、大丈夫ですよ﹂
包まった毛布の中からお礼を言えば、﹁無理してないか?﹂と、
もの凄く心配そうに見つめられる。
彼の前でここまで咳き込んだことがなかったから、今夜の私の様
子を見て、心配が消えないのだろう。
だが、無理や遠慮をしているわけではないのだ。
﹁私の場合、いったん咳が止まると、本当に大丈夫なんです。あと
十分もすれば、百メートルダッシュをしても問題なくなりますよ﹂
614
ニコッと微笑みかけると、忠臣さんの表情がようやく緩む。
﹁そうか。それならよかった﹂
心底安心したように零すと、目尻に唇を寄せてきた。
﹁まだ、涙が残ってる﹂
チュ、チュッと、左右の目尻に優しく吸い付いてくる。
慈愛に満ちたキスだったけれど、少しばかり淫靡な熱も感じる。
それもそうだろう。私を押し倒す気マンマンだった忠臣さんが、
不測の事態によって中断せざるを得なかったのだから。
とはいえ、彼はキス以上のことはしてこない。自分の中で渦巻く
欲を抑え込むように、ただひたすらに小さなキスを繰り返すばかり。
そんな忠臣さんの優しさが嬉しくて、私は彼の頬に手を伸ばした。
﹁理沙?﹂
不思議そうな声で私を呼ぶ彼の唇を自分の唇でそっと塞げば、驚
いた忠臣さんがビクリと固まる。
﹁⋮⋮理沙?﹂
改めて呼ぶ声には、困惑よりも堪え忍ぶ色が濃かった。
︱︱私は大丈夫だって言ったのになぁ。
クスリと微かに笑うと、もう一度彼の唇を塞いだ。そして、スル
リと舌を忍び込ませる。この先の展開を促すように。
戸惑う彼の舌に己の舌を緩く絡み付かせれば、我に返った忠臣さ
んが私の肩を掴んで身を剥がした。
﹁理沙、駄目だ。このままだと、俺は理沙を押し倒してしまう﹂
眉間に深い縦ジワを刻み、忠臣さんは苦悶の表情で告げてくる。
﹁押し倒してもいいんですよ?﹂
クスクスと苦笑しながら言えば、彼の縦ジワがいっそう深くなっ
た。
﹁せっかく咳が落ち着いたのに、俺の理性が吹き飛ぶようなことを
言うな。あんな風に苦しむ理沙を、もう二度と見たくないんだ﹂
615
忠臣さんの表情は真剣そのもので、彼が上っ面の優しさだけでは
なく、本心からそう言ってくれていることがよく分かる。
そんな彼にだからこそ、私はこの身を任せることが出来るのに。
強引なくせに優し過ぎる忠臣さんは、最終的には自分の欲望を抑え
込んでしまうのだ。
︱︱もう、しょうがないなぁ。
﹁そうですか、分かりました﹂
私の言葉に、肩に置かれた彼の手から力が抜ける。⋮⋮と同時に、
私は忠臣さんを押し倒した。
﹁り、理沙っ!?﹂
仰向けにひっくり返った忠臣さんの胸に上半身を乗り上げ、慌て
ふためく彼を楽しげに見下ろしてやった。
﹁私が押し倒す分にはいいですよね?﹂
ニコリと笑みを浮かべて首を傾げれば、
﹁屁理屈を言うな!今夜は大人しく寝た方がいい!﹂
とんでもないとばかりに、すかさず言い返してくる。
﹁だって、忠臣さんが言ったんですよ。エネルギーを補充させてく
れって。もしかして、私を抱きたくないんですか?﹂
﹁この俺が、理沙を抱きたくないわけがないだろうが!理沙が元気
であれば、いくらだって抱きたいんだ!だが⋮⋮。頼む、理沙。俺
の上から降りてくれ⋮⋮﹂
切羽詰った声で懇願されるけれど、私の太ももに当たる彼の下半
身が形を持ち始めているのを知ってしまったので、それをどうにか
してあげたかった。
﹁私は本当に本当に大丈夫なんですよ。⋮⋮それに私だって、忠臣
さんを補充したいです﹂
忠臣さんが好き。大好き。愛してる。
616
その想いを篭めて囁けば、忠臣さんがゴクリと息を呑む。次の瞬
間、痛いほどにきつく抱きしめられた。
﹁ああ、くそっ!どうして理沙はこんなに可愛いんだ!﹂
私の首筋に顔を埋め、吠えるように唸る忠臣さん。
ひとしきり騒いだ後、彼は私を抱き締めたまま、静かに体勢を入
れ替える。
今度は私が彼に見下ろされていた。ほんのわずかな戸惑いと、そ
れを圧倒的に凌駕する愛情と情欲を篭めた表情の彼に。
﹁苦しくなったら、すぐに言うんだぞ。絶対に無理をするなよ﹂
頬を撫でられながら頷き返すと、切れ長の瞳がフッと細くなる。
﹁今夜はいつもと違って、ゆっくり優しく理沙を抱くことにするか。
それはもう、じっくりとな﹂
喉の奥でクツクツと笑う彼の様子に、私は自分がやらかしてしま
ったことを悟る。
しかし、それは後の祭りだった。
617
︵95︶寒い冬。彼の温もり。:5︵後書き︶
●みやこ作品の女性キャラにしては、理沙ちゃんは積極的かもしれ
ません。
小悪魔理沙ちゃんに翻弄される野口氏を書くのは、なかなかに楽し
いです。
いくら理沙ちゃんに押し倒されても、ここで我慢してみせるのが大
人の男性なのかもしれませんが。
こんなにも誘われたら、それを袖にしてしまうと逆に女性がかわい
そうなのかな、と思いまして。
野口氏の行動は﹁大人の男性﹂としては未熟に見えるかもしれませ
んが、そこを﹁人間味﹂として受け取っていただけたら幸いです。
何はともあれ、野口氏が理沙ちゃんのことを大切で愛しい恋人だと
思っていることは変わりありませんから。
そこはご安心くださいませ。
618
︵96︶寒い冬。彼の温もり。:6
馬乗りになった忠臣さんに抱き締められ、情熱的なキスを受ける。
隙間なく唇を重ね、舌を絡め、僅かに漏れる呼気すらも奪う程に深
く。
互いの情欲を煽るための、熱烈なキス。それは、いつものことだ。
しかし、少し違うのは、一回ずつのキスの時間が短いこと。それ
は、私の呼吸を気遣ってのものだろう。
いつだって自信たっぷりで、なにに対しても余裕を見せる忠臣さ
んは、ともすれば尊大に見えてしまいがちである。
ところが私に関することでは、こんなにも細やかに気を配ってく
れる。
な
ま
そこまで大事にされることに、嬉しさや気恥ずかしさ、彼に対す
る愛しさなどが綯い交ぜになって胸に溢れた。
その想いを乗せて、彼の舌に自分の舌をユルリと巻き付ける。与
えられるばかりではなく、自分からも与えたい。
私だって忠臣さんのことを大切に想っているのだと、ちゃんと行
動で示したい。
手の平で、ソッと彼の頬を包んだ。少しばかり右に首を傾け、よ
り深く絡め合える位置を探して舌を伸ばす。
すると、こちらの舌の動きを妨げないように、それでいて、積極
的に彼も舌を蠢かした。
クチュ⋮⋮、チュプッ⋮⋮。
淫らな水音が、二人の口元から零れる。
僅かな衣擦れの音と二人分の浅い呼吸音に交じって水音が寝室に
響けば、羞恥のあまり、ジクリと耳が熱くなる。
いくつになっても、何度抱かれても、恥ずかしいものは恥ずかし
い。
619
元彼には、﹃いい年して、こんなことで照れてるのかよ﹄、﹃も
しかして、可愛い女を装ってんの?﹄、﹃無理に演技なんかすんな
って。マジで醒めるんだけど﹄と言われたことがあった。
もちろん、演技なんかではなかった。自然と出てしまう反応なの
に、﹁年上の女性﹂というだけで、彼らには﹁敢えて恥ずかしい振
りをしている﹂と捉えられてしまったのだ。
︱︱こんなこと、そうそう演技なんかじゃできないのに。
世の中には、セックスを盛り上げるために恥ずかしいと感じてい
る自分を演出できる女性がいるのだろう。
それについて、AV女優さんは本当に見事だと思う︵酔った恭子
に、悪乗りでAVを見せられた経験あり︶。
戸惑いに視線を揺らして、舌っ足らずに喘ぎ、肌を薄紅に染める。
少々大げさなのは、そういう演出だから仕方ないとしても、女の私
から見てもAV女優さんたちは可愛かったものだ。
不器用な私には、到底無理な話である。
つまり、私は素で、本気で、偽ることなく恥ずかしがっていたの
だが、元彼たちには、そんな私をすんなりと受け入れてくれなかっ
た。
ふいに唇が僅かに離れ、私は短く息を吐いた。
﹁大丈夫か?﹂
呼吸の妨げにならないように、忠臣さんは唇の端にキスを落とし
ながら訊いてくる。
頷き返せば、切れ長の目が弧を描いた。
﹁ま、クソくだらなくて馬鹿でだらしがなくてアホで間抜けで根性
が腐っていてどうしようもなくて救いようのない器の小さなろくで
なしの腰抜けなガキ共のことを思い出す余裕があるくらいだから、
本当に大丈夫そうだな﹂
どうして、私の心をここまで的確に読み取るのだろうか。もはや、
620
人間業を超えている気がする。ちょっとだけ、怖い。
それにしても、毎度のことながら忠臣さんにかかれば、元彼たち
は形無しだ。とんでもなく長い形容に、思わず笑ってしまう。
一時期でも付き合った元彼たちには失礼だが、比べる相手が忠臣
さんでは仕方がない。
彼らにも良いところはあったけれど、忠臣さんを前にしてしまう
と、どうしても差を感じてしまう。
︱︱こんなにも素敵な人が、これまで独身だったなんて。本当に信
じられない。
しかし、こればかりは、分からないものだ。
周りが羨む美人でも、優秀な頭脳があっても、独り身の人はいる
のだから。
︱︱人の出会いって、不思議よね。
私があの人に振られなければ。
心機一転で、今の会社に派遣されなければ。
韓国語を得意としていなければ。
おそらく、分岐点はもっと多いだろう。意識せずに選んだ遥か過
去の道ですら、今の私に繋がっている。
そして、その道は忠臣さんに繋がっていた。
それは運命なのか、幸運なのか、意図されずに用意された舞台な
のか。私を深く愛してくれる彼との出会いに、計り知れないものを
感じる。
﹁こら、なにを考えていた?﹂
思考を巡らせた時間は一瞬だったが、それすらも見咎めてくる彼
の独占欲は、どうしてこんなにも胸を甘くくすぐるのだろう。
621
私は彼の頬に触れていた手を滑らせ、逞しい肩を引き寄せた。ふ
たたび重なった唇を数回啄み、満足そうに吐息を放つ。
﹁こんな時に考えるのは、忠臣さんのことに決まってます﹂
切れ長の目を見つめながら告げると、その目がスッと細くなった。
優しいのに、かっこいい。穏やかなのに艶っぽい。そんな微笑みだ
った。
﹁理沙が可愛すぎて、頭がクラクラするよ﹂
ペロリと下唇を舐められたので、お返しに同じく舐め返す。おま
けで、軽く噛み付いてやった。
﹁そんなことをそんな顔で言われたら、私のほうがクラクラしちゃ
うんですけど﹂
私の反撃に、彼の目はさらに細く弧を描く。
﹁そうか?﹂
﹁そうですよ﹂
見つめ合い、同じタイミングで苦笑する。
﹁⋮⋮じゃあ、二人でもっとクラクラすることをしようか?﹂
いつにも増して、忠臣さんが低く響く声で囁いてきた。
流れ落ちる前髪の隙間から、形の良い目でヒタリと視線を合わせ
られる。
彼が纏う空気が、淫靡な色に深まる。
全身が絡めとられ、体の奥が甘く疼いた。
改めて私にキスを落とした忠臣さんは、その唇を耳の裏や首筋に
移動させ、痕を残すために吸い上げる。
あと数日は出社しないということで、服では隠せない部分にも容
赦なくキスマークが散らされてゆく。
肌の上を走る微かな痛みに、ピクリと肩が跳ねた。
すると、肌蹴たパジャマから覗いた肩の丸みにキスが降ってくる。
その辺りの皮膚は首筋と違って、痕が付きにくいだろう。
それでも、忠臣さんは丁寧に、熱心に、唇を寄せていた。
622
同時に、キャミソールの裾から潜り込ませた右手で、私の左乳房
を揉みしだく。
このところの乾燥のせいで、彼の指先の皮膚が少しだけかさつい
ている。
大きくて、男性を感じさせる手にヤワヤワと胸を揉まれ、吐息に
もいっそう熱が篭る。
﹁は、あ⋮⋮﹂
ユルリと首を振れば、髪がパサリと乾いた音を立ててシーツを打
つ。
広がった髪に彼の左手が伸びてきて、人差し指にクルリと巻き付
ける。
﹁理沙は、どこもかしこもやわらかいな﹂
クルリ、クルリと、指を動かし。それに連動して、乳房が揉まれ
る。
大きな手が胸を下から掬い上げ、感触を確かめるように五本の指
を乳房に埋め込んできた。
﹁それに、吸い付くように滑らかだ﹂
と、感心したような言葉が漏らされる。
﹁ん、んん⋮⋮、それは、女性なら、みんなそうだと、思いますよ
⋮⋮﹂
男性とは若干造りが違うだろうし、それに、美容に対する意識は
男性よりも高いだろうから。
もともと持っているものと日頃の手入れをかけ合わせれば、やわ
らかい髪や皮膚を手に入れることは、そう難しいことではないはず
だ。
そのことを説明すれば、﹁そうか?﹂と、不思議そうな声音が返
ってくる。
﹁これまで、お付き合いされた⋮⋮女性だって。は、あんっ⋮⋮。
私と。そんなに変わらないはず、です⋮⋮﹂
彼の問いかけに喘ぎまじりに答えてやれば、忠臣さんは喉の奥で
623
笑った。
﹁覚えてないな﹂
﹁⋮⋮え?﹂
パチリと瞬きをして少しだけ首を起こすと、胸元にいる忠臣さん
に視線を向ける。
彼は困った様に苦笑して、﹁セックスしたことを覚えてないわけ
じゃない﹂と言ってきた。
﹁髪や肌の感触をこんなにじっくり味わいながらセックスをしたこ
とがないから、手触りなどは詳しく覚えてないんだ﹂
自嘲気味に笑った忠臣さんはいったん右手の動きを止めると、コ
ツリと額同士を合わせてくる。
﹁俺にとって理沙は本当に特別なんだって、つくづく思い知った﹂
それは、私にとっても同じことだ。
﹁忠臣さんほどに特別な男性は、今までにいませんでしたよ﹂
ありのままの自分を愛されることが、こんなにも幸せだなんて。
忠臣さんに出会うまで、私は知らなかったのだから。
そして、こんなにも愛せる人に出会えたのは、忠臣さんが初めて
なのだから。
﹁愛してる﹂
﹁愛してます﹂
短いけれど、相手を想う感情を存分に伝える一言を交わし合い、
私たちはさらなる熱を感じるために、お互いを求め始めた。
624
︵97︶寒い冬。彼の温もり。:7
忠臣さんは髪を弄っていた手を移動させて、キャミソールをすっ
かりたくし上げてしまう。
露わになった胸元で、彼の右手は相変わらず淫靡な動きを続けて
いた。
乳房全体を刺激する動きが、やがて乳首だけに集中したものに変
わる。僅かに立ちあがっている胸の先の飾りを、親指と人差し指の
腹ですり潰された。
﹁や、んっ﹂
ビクッと大きく肩が跳ねる。
﹁良い反応だな﹂
低い声で囁いた忠臣さんは、摘まんだ乳首をクニクニと捏ね回す。
さらには引っ張りながら左右に捻ったり、爪を立ててしきりに引っ
搔いてきた。
﹁あっ、あぁ⋮⋮﹂
喘ぎを漏らして体を震わせる私の反応を見ながら、その動きは執
拗さを増す。
両方の乳首にそれぞれの親指の腹を当て、押し込みつつグリグリ
と小さな円運動を繰り返した。
プクリと立ち上がっている乳首はすっかり硬くなり、乳房に埋め
込まれる感触が如実に伝わってくる。
指の腹で転がされた乳首は感度を上げていて、次いでしゃぶりつ
かれた瞬間、悲鳴のような甲高い声が口を衝いた。
﹁いや、ああっ!﹂
左の乳首は彼の口中に含まれ、ジュクジュクと音を立てて吸われ
ている。頃合いを見て、もう片方の乳首も舌と唇での愛撫を受ける。
先に舐められた乳首は彼の唾液で滑るらしく、それに逆らうよう
625
に少し強めの力で摘ままれては捻られる。
さらには最高点にまで感度を高められた右の乳首に、彼が軽く歯
を立ててきた。
﹁ひ、う、んんっ﹂
この刺激はあまりに大きく、背中が弓なりになってしまう程。
﹁もっと啼けよ﹂
クスリと小さく笑った忠臣さんが、手の平と指、唇と舌と歯とい
った手段をフル活用して、徹底的に乳首を刺激していた。
その刺激はとても気持ちよくて、セックスを初めてまだそれほど
時間が経っていないというのに、早くも私の体が蕩け始めている。
元彼とのセックスでも、胸を弄られるのはよくあった。というよ
りも、触るものだという流れの上での愛撫だった気がする。
彼らに乳房を揉まれて、、乳首を舌や指で弄られて、確かにそれ
なりに気持ちよかった。愛液もちゃんと滲んでいた。
だけど、頭の芯がジンジンと痺れるほど、気持ちよかっただろう
いな
か。今、私が感じているような快感を、胸だけの刺激で得られてい
ただろうか。
いや、こうして疑問に思う時点で、答えが否であると言っている
ようなものだ。
彼らのゴールは挿入して射精することで、そこに至る過程の愛撫
は、私をトロトロになるまで気持ちよくさせるものではなかった。
私が濡れていないと挿入に差し支えるから、という意味での愛撫
だったと思う。忠臣さんとのセックスで味わう陶然とした感覚は、
残念ながら記憶にない。それだけに、恋人に愛されながら抱かれる
この時間は、極上のワインのようだ。
﹁は、あ、あぁ⋮⋮﹂
うっとりとした表情で唇を震わせると、忠臣さんは左右の乳首に
軽くキスをしてから、愛撫を止めた。
私の表情を覗き込み、口角を緩く上げる。
﹁気持ちよさそうな顔、すごく可愛いな﹂
626
満足げな微笑みは演技ではないのだろう。彼はいつだって、まず、
私を気持ちよくさせることを優先する。
それがどれだけ嬉しいのか、うまく言葉に出来ない。だから、腕
を伸ばして、彼をそっと抱き寄せた。
忠臣さんはされるままに上体を倒し、私の胸に体重をかけないよ
うにして乗り上げる。 ﹁どうした?﹂
優しさと色気を半分ずつ混ぜ合わせた声で囁く忠臣さんに、﹁な
んとなく、こうしたかったから﹂と掠れた声で返した。
すると、忠臣さんも私を抱き締めてくる。
﹁甘える理沙も可愛いよ。だが⋮⋮﹂
クスッと笑った彼が、いったん言葉を区切る。 どうしたのかと思っているうちに、忠臣さんの右手がパジャマの
ズボンごと下着を膝の辺りまで引き下ろした。
素早く秘部へと伸ばされた手がワレ目を辿りながら陰唇を掻き分
けると、膣口をスルリと撫でた。
﹁今は、もっと乱れている顔が見たいな﹂
そう言って、滲んでいる愛液を下から掬うような動きを取る。
胸への刺激でたっぷり溢れた愛液が、彼の動きに合わせてクチュ、
クチュと音を立てた。
既に十分なほど濡れそぼっているのに、忠臣さんが秘部を弄って
くるため、後から後から愛液が溢れてしまう。
﹁ん、んっ﹂
忠臣さんの首にしがみつきながら、短い喘ぎ声を上げる。
そんな私のこめかみにチュッとキスを落とすと、彼の手が大きく
動き始めた。
膣口からクリトリスにかけて指を動かされて、ビクッ、ビクッと
腰が跳ねてしまう。
何度も何度も指の腹が上下に動き、その辺りをひたすら撫で擦ら
れた。丁寧な愛撫に、いっそう私の体が蕩けてゆく。
627
おかげで、彼の首裏に回していた腕が滑り落ちてしまった。
すると忠臣さんは身を起こし、中途半端に脱げた私のパジャマと
キャミソールを剥ぎ取る。それが終わると徐々にずり下がり、今度
はパジャマのズボンと下着と取り去ってしまった。
忠臣さんは自身の衣服も手早く脱ぎ捨てると、私の足の間に陣取
る。
さっきまで秘部を弄っていた人差し指と中指を、ツプリ、と膣口
に差し込んできた。
二本の指をすべて埋め込むことはせず、半分ほど進んだところで
引き抜く。そして、またユルユルと指を飲みこませてゆく。
同時に左手で陰唇を大きく開き、現れたクリトリスに舌を伸ばし
てきた。
指が突き入れられた拍子にチロリとクリトリスを舐められ、ブル
リと太ももが震える。
﹁あっ!や、あぁ⋮⋮﹂
ヌプリ、ヌプリと、男らしい指がゆっくり膣内に挿入され。尖ら
せた舌先で、優しくクリトリスを舐められ。私の全身が小刻みに跳
ね上がった。
﹁く、んんっ、あう、うぅ⋮⋮、んっ﹂
シーツを握り、与えられる快感に耐える。
優しさと紙一重の執拗な愛撫。その刺激はもちろん気持ちいいけ
れど、絶頂に至るには及ばない。目もくらむような強烈な刺激は、
いつまで経ってもやってこなかった。
セックスを始めてから発作がぶり返して咳で苦しむことはなかっ
たが、今は別の苦しさに襲われている。
ジワジワと焦らされ、イイところばかりを優しく刺激されて、妖
しい熱が体の奥で渦を巻いていた。
放出を許されない熱はもどかしさとなり、ポロポロと涙が溢れて
くる。
それに気が付いた忠臣さんは、ハッとしたように手の動きを止め
628
た。
﹁理沙、大丈夫か?苦しいのか?﹂
心配する声に、私は力なく首を縦に振った。
﹁やっぱり、無理だったんだな。今夜は、ここで終わりにしよう﹂
私の足の間から移動しようとしていた忠臣さんに、泣きながら訴
える。
﹁そういう意味じゃ、ないんです⋮⋮。苦しいのは、もどかしいか
ら。早く気持ち良くなりたいのに、自分じゃどうにもできなくて⋮
⋮。だから、苦しくて⋮⋮﹂
しゃくりあげつつ伝えると、彼がホッとしたように息を吐く。
﹁そういうことか。無理をさせたくなくて、じっくり事を進めてい
たんだが。かえってつらい思いをさせてしまったんだな﹂
彼の言葉に、私はいっそう涙を零した。
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁なぜ謝る?﹂
不思議そうな声音で首を傾げる忠臣さんを、涙で霞む視界に捉え
る。
﹁だって、忠臣さんは、私のことを気遣ってくれているのに、私、
私⋮⋮﹂
痺れた頭ではうまく話すことが出来ない。情けない自分が恥ずか
しくて、私は彼に背を向けるようにして横を向いた。
忠臣さんは背後から私をギュッと抱きしめてくる。
﹁もう、泣くな﹂
逞しい胸にすっぽりと私を抱き込み、唇が届く範囲全てにキスを
降らしてくる。
その優しさが切なくて、私は泣き止むことが出来ない。
﹁頼むから泣き止んでくれ。理沙、好きだよ。愛してる﹂
告白とキスを繰り返されているうちに、ようやく、涙が止まり始
めた。
スン、スンと僅かに鼻を鳴らしていると、うなじに強く吸い付か
629
れる。そして、彼の腰がグイッと押し付けられた。
﹁理沙の泣き顔があまりにも可愛いから、こっちも限界だよ﹂
腰が抜けるほど艶っぽい声で囁かれて、思わず涙が止まった。
﹁た、忠臣、さん⋮⋮﹂
肩越しに振り返れば、情欲一色に染めた瞳で見つめられる。
﹁本当に喘息は治まったようだし、遠慮なく、抱かせてもらうこと
にするよ﹂
ドクリと心臓が跳ねたのは、獰猛な肉食獣を思わせる鋭い視線へ
の恐怖と。その何倍も大きな期待からだった。
630
︵98︶寒い冬。彼の温もり。:8
ドキドキと胸を弾ませて背後の忠臣さんを見つめていれば、チュ
ッと唇に吸い付かれた。
それから舌で口内を軽く掻き混ぜられる。
﹁少しだけ待っていろ﹂
キスを解いた彼が身を起こし、用意していた避妊具を装着する。
そして、私の背中に自身の逞しい胸をピタリと重ねてきた。
﹁理沙、足を上げて﹂
上になっている右足を僅かに動かせば、忠臣さんは右腕を伸ばし
て私の膝裏を掬う。優しく持ち上げつつ足を開かせると、濡れそぼ
る膣口にペニスを宛がった。 ﹁理沙のココはたっぷり濡れてるし、オレのもガチガチに硬くなっ
ているから、ちょっと腰を動かすだけで入りそうだな﹂
楽しそうに呟きながら、先端で膣口を突く。
そう言いながらも、滲んでいる愛液をペニスで塗り拡げるような
動きを見せるばかりで、挿入には至らない。
ヌルヌルと小刻みに滑るペニスに、またしても、もどかしさが募
ってゆく。
﹁忠臣さん⋮⋮﹂
小さな声で名前を呼べば、﹁俺が欲しい?﹂と、僅かに弾んだ声
で問われる。
正直にコクリと頷けば、なぜか﹁ごめん﹂と、謝罪が返ってきた。
﹁俺を欲しがる理沙があまりにも可愛いから、もう一度見たくて、
少しだけ意地悪したくなったんだ﹂
改めて﹁ごめんな﹂と口にした忠臣さんは、これまで以上に私に
体を寄せてきた。
位置と角度を確認するように、何度か腰を揺り動かす忠臣さん。
631
やがてペニスの先端が、足を広げることで侵入しやすくなっている
膣口に照準を合わせられる。
﹁理沙﹂
忠臣さんは艶っぽい声で私の名前を呼ぶと、グッと腰を突き出し
た。
張り出した先端が、クプリと飲みこまれてゆく。
まだほんの数センチしか挿入されていないのに、存在感は十分だ。
思わず吐息が漏れてしまう。
﹁ふ、う⋮⋮﹂
一番太い部分を飲み込ませたところで彼はいったん動きを止めた
けれど、その後は一気にペニスが突き入れられた。
太くて硬くて、そしてゴム程度では熱を遮ることができない熱い
ペニスが、グチュリという湿った音と共に奥まで入ってくる。
﹁あ、ああっ﹂
焦らされた末の衝撃は大きく、私は背を逸らせて啼いた。
﹁ほら、理沙。お待ちかねのモノだぞ﹂
私の耳元で妖しく囁きながら、忠臣さんは激しく腰を振ってくる。
いつもと違う体位は、私のナカにあるイイ所をいつもとは違う角
度で抉ってきた。それがたまらなく悦くて、私は嬌声を止めること
が出来ない。
﹁ん、んんっ、あ⋮⋮、うぅっ﹂
何度か仰け反ったせいで、根元まで入っていたペニスが少し抜け
出てしまった。
すると忠臣さんは軽く体を捻って位置を定め、そこから連続的に
突き上げてくる。
彼のペニスがさっきよりも絶妙な角度でナカを暴き、おまけに侵
入深度も増したものだから、すべてのイイ所が容赦なく攻められる
ことになってしまった。
﹁いやっ、あぁ!﹂
首を逸らせるだけでは耐え切れず、私は必死でシーツを握り締め
632
た。
手の中で強く引き絞られ、乾いたシーツが立てるキリキリという
音。
忠臣さんと繋がっている秘部から絶えず聞こえる、ジュブッ、グ
チュッという水音。
彼の動きに連動して、ベッドが鈍く軋むギシギシという音。
さらに、私と忠臣さんの浅く忙しない呼吸の音。
体と耳で感じるものに、頭の芯が甘く淫らな熱で冒されてゆく。
その芯がグズグズに解け始めると、挿入の動きに合わせて揺れる私
の体も尚いっそう蕩けてゆく。
﹁ふ、く、う、うぅ⋮⋮﹂
突き上げの激しさと絶頂の前兆によって、段々と呼吸が苦しくな
ってきた。
小刻みに全身を震わせてくぐもった喘ぎ声を上げる私に、背後の
忠臣さんは喉の奥でクツクツと低く笑ってくる。
﹁もっと、欲しがれよ﹂
そう言うが早いか、さらに足を大きく広げさせようと、膝裏を抱
える右手に力を入れた。
勢いをつけてペニスを突き入れると同時に、彼の左手が私の左肩
から前へと回ってきて、右の乳房を掴んで激しく揉みしだく。
﹁ああっ!﹂
二ヶ所同時に襲う強すぎる快感に、きつく閉じた瞼の裏が赤く染
まる。喉が引き攣れるほど甲高い嬌声を上げた。
﹁好きなだけ俺をやるから、いくらでも欲しがれ﹂
二人の体がぶつかるたびに肉を打つ音が響き、その音が徐々に間
隔を狭めてゆく。
凶暴なまでに猛々しく育ったペニスがズン、ズンと激しくナカを
犯し、刺激を受けて膣壁が収縮を始めた。
﹁理沙のナカ、良い感じにヒクヒクして、ペニスに絡みついてくる
な。だが⋮⋮﹂
633
呼吸を乱しながら告げてくる忠臣さんが、右の乳首をギュッと摘
まんだ。
﹁ひっ⋮⋮、は、あぁ!﹂ 反射的にビクンと肩が跳ね、ナカのペニスを締め付けてしまった。
﹁ああ、そうだ。理沙、もっと、もっと、俺を欲しがれ﹂
摘まんだ乳首を二本の指ですり潰すようにクニクニと弄られれば、
膣壁はさらにキュウキュウとペニスを締め付けてゆく。あまりの締
め付けで、ペニスの形が分かるほどに。
その状態で膣壁がうねるように波打ち、やがて引き絞る動きに変
わった。
こうなると、絶頂は目前だ。瞼の裏では数色の光が瞬きを始め、
全身が強張ってゆく。
﹁あ、はぁ、んっ⋮⋮、んんっ!﹂
鮮やかな光たちはいつしか白一色へと変わり、そして、弾けると
同時に体の力がガクンと抜けた。
四肢を投げ出した私の背に少し乗り上げ、忠臣さんが猛然と腰を
突き動かす。
私のことを串刺しにしようとしているとも思える乱暴な動きは、
彼の絶頂も間もなくだと知らせていた。 両腕に力を込めて私のことを目いっぱい抱き寄せた忠臣さんは、
私の背に半身を重ねた状態で動きを止める。
﹁くっ、理沙⋮⋮﹂
掠れた声で低く呻くと、彼の体がブルリと震えた。
﹁は、あぁ⋮⋮﹂
深く息を吐き出した忠臣さんがゆっくりと身を起こし、ナカに埋
めていたペニスを静かに後退させてゆく。
その感覚に背筋がソワリと戦慄き、小さく喘いでしまった。
﹁この時の理沙は、普段に増して敏感だな﹂
手早くゴムの処理を終えた忠臣さんに優しく抱き締められる。背
634
中に感じる僅かに汗ばんだ逞しい胸が愛しい。
自分の身を忠臣さんにすっかり預けると、彼は私の耳に唇を寄せ
た。キスと言えないほど微かな接触ですら、今の私には十分な刺激
となる。
﹁んっ﹂
短く啼いて、首を竦めてしまった。
そんな私に﹁可愛い﹂と告げ、額を私の後頭部にコツリと合わせ
てくる。
﹁喉の調子はどうだ?呼吸は苦しくないか?﹂
数回深呼吸を繰り返してみるが、肺の奥がざわつく感覚もないし、
喉が締め付けられる感覚もない。
﹁なんともありません、平気です﹂
私の返事に、彼がホッと息を吐いた。
﹁途中から手加減を忘れてしまったから、心配だったんだ﹂
心底安堵した声を聞いて、私は体に前に回されている彼の手に自
分の手を重ねる。
﹁心配させてごめんなさい﹂
そう謝ってから、次の言葉をどうするか少しの間悩み、それから、
オズオズと口にした。
﹁あ、あと⋮⋮、なんだか我が侭を言ってしまって、ごめんなさい
⋮⋮﹂
自分の言動が今更ながら恥ずかしくなる。後悔はしていないが、
もの凄く恥ずかしかった。
ギュッと身を縮めて背後の反応を窺えば、つむじの辺りにキスが
降ってきた。
﹁なぜ謝る?理沙に抱いてほしいと迫られたら、嬉しいに決まって
いる。むしろ、謝るのは手加減を忘れた俺だろうが﹂
忠臣さんが苦笑しながら、私の肩に頬擦りした。
﹁肩が少し冷たいな。風呂に入って、温まった方がいいかもしれな
い﹂
635
﹁ああ、そうですね﹂
体が冷えているのも気になるが、それ以上に、色々なところがベ
タ付いている方が気になる。
﹁じゃ、ちょっと入ってきますね﹂
脱ぎ散らかした服を手繰り寄せて胸に抱えれば、一足早くベッド
から降りた忠臣さんに横抱きにされる。
﹁えっ?﹂
驚く私を抱き上げたまま、彼が歩き出した。
﹁あ、あの、忠臣さん?﹂
﹁手加減を忘れた詫びとして、理沙の体を洗ってやる﹂
﹁はいっ!?﹂
その提案に瞠目すると、忠臣さんがニッコリと笑う。やたらと良
い笑顔だ。
﹁丁寧に、体の隅々まで⋮⋮、俺の手で、な﹂
﹁い、いえっ、それは、遠慮します!﹂
﹁なにを言う。恋人同士の間で、遠慮は無用だぞ﹂
こうして私は、体を洗っているとは思えない仕草で手を滑らせる
忠臣さんに、またしても啼かされたのだった。
636
︵99︶まる。さんかく。しかく。
冬の朝。
喉のことを考えてエアコンは入れていないため、室内でもけっこ
う冷えている。
おかげで顔が寒いけれど、ふかふかの布団の中はヌクヌクと温か
い。その反比例が、なんともいえない。
覚醒前のおぼろげな状態でその幸せを味わいつつ、コロリと寝返
りを打ち、はぁと満足げにため息を零す。
左半身を下にして少し丸まれば、静かに伸びてきた逞しい腕に引
き寄せられた。そして、広い胸にすっぽり抱き込まれる。
さらなる穏やかな熱に包まれ、極上の幸せに浸る私。
︱︱あったかいなぁ。
ユルリと口角を上げると、チュッと唇に吸い付かれた。
﹁おはよう﹂
響きの良い低い声で挨拶される。寝起き特有の、僅かに掠れた声
が色っぽい。
そっと目を開け、数回瞬きを繰り返した後、すぐそばにある忠臣
さんを見遣った。
艶やかな黒髪が前に下りて目にかかっている様子が、これまた色
っぽい。
色気に当てられてトクトクと心臓が駆け足で動き始めるが、頭も
体もまだ半分夢の中だ。
ボンヤリと忠臣さんを見つめれば、また軽くキスをされた。
﹁理沙?﹂
忠臣さんが私を見て笑っている。彼が笑う理由に思い至れずに黙
637
って見つめていると、大きな手が私の髪を撫でる。
優しい微笑みと共に額にキスを落とし、サラサラと私の髪を梳く
忠臣さん。そんな彼に擦り寄った。
﹁寝起きの理沙は、あどけない子供みたいで本当に可愛いな﹂
囁きと共に、いっそう強く抱きしめてくる忠臣さん。
甘く締め付ける感触により、徐々に覚醒してゆく。
彼のセリフとキスは恥ずかしいけれど、この穏やかな温もりは手
放しがたい。私は顔を僅かに赤く染め、忠臣さんのパジャマに縋り
ついた。
﹁おはようございます﹂
彼の肩口に額を押し付けて声をかけると、ポンポンと後頭部を叩
かれる。
﹁こうして理沙と抱き合っていたいが、そろそろ起きようか﹂
苦笑まじりの忠臣さんが、ゆっくりとベッドの上に身を起こした。
目をこすりながら﹁今、何時でしょうか?﹂と問えば、﹁八時を
過ぎたところだ﹂と返ってくる。
﹁え?もう、そんな時間ですか?﹂
思っていた以上に、時間が経っていた。あれから喘息の発作が起
きることもなかったので、本当にぐっすり眠ってしまったようだ。
というより、ベッドやお風呂場でアレコレされて、ぐったりして
しまったからかもしれない。夜中に一度も目を覚まさなかったとい
うことは、それだけ疲れていたのだろう。
だが、そのことは口に出来ない。忠臣さんに文句を言えば、﹃む
しろ、安眠で来てよかったじゃないか﹄と、ニンマリされそうだし。
おまけに﹃よく眠れるように、今夜もたっぷりセックスしような﹄
と、色気全開で提案されそうだ。
彼に抱かれることは幸せだなのだが、あんな濃密な時間を連日味
わうのは、恥ずかし過ぎて困る。
そして、ちゃんと起きられないと、忠臣さんに朝食を作ってあげ
られないのも困るのだ。
638
モソモソと起き上がり、先にベッドを抜け出した彼の背中を追い
かける。
﹁急いで、お雑煮作りますね﹂
﹁慌てなくていいぞ。出掛ける予定もないんだし﹂
﹁でも、お腹空いちゃって﹂
はっきり目が覚めると、空腹であることを感じたのだ。このまま
では、今にも盛大にお腹の虫が鳴きだしそうである。
照れたように笑うと、忠臣さんが私の肩を抱き、耳元に唇を寄せ
てきた。
﹁昨夜、たくさん運動したからかな?﹂
クスリと微かに笑った彼が、耳をやんわりと食んでくる。途端に、
ゾクリとした感覚が背筋を走り抜けた。
﹁んっ。やめて、ください﹂
身をよじりつつ彼の体を押しのけようとするが、それ以上の力で
引き寄せられてしまう。
﹁どうしようかな﹂
クスクスと楽しそうに笑う忠臣さんを真っ赤な顔でグイグイ押し
やっていると。
クゥゥ⋮⋮。
ついに、私のお腹が鳴ってしまった。
﹁あっ﹂
別の意味で恥ずかしくなってしまう。
﹁仕方ない、まずは朝飯だ﹂
そう言って、忠臣さんは私を解放してくれた。
お正月なのだが、おせちは特に準備していなかった。お煮しめや
数の子など、簡単に作れる物、お互いが好きな物を数品用意するだ
けに留めている。
639
最近の私が料理の腕を上げてきていても、さすがに重箱にびっち
り並べられるほどのおせち料理はまだまだ無理だったのだ。
手早く身支度を済ませ、調理に取り掛かかろうとして、手を止め
た。
﹁どうした?﹂
後からキッチンに入ってきた忠臣さんが、不思議そうに首を傾げ
る。
﹁私の家のお雑煮でいいのかなって思いまして﹂
冷蔵庫の前で思案顔をして見せる私に、彼が小さく頷いた。
﹁ああ、なるほど。理沙の家は、どんな雑煮だ?﹂
﹁鰹節で出汁を取って、醤油で味付けします。そこに、一口大に切
った小松菜と、焼いた角餅を入れるんですよ。忠臣さんのご実家の
お雑煮は?﹂
﹁鰹節で出汁を取るのは同じだが、塩味なんだ。そこに、いちょう
切りにした人参と大根、小さく切った鶏肉を入れるな。餅は父親の
好みで焼いた角餅だが、母親の実家では丸餅を焼かずに入れるそう
だ﹂
私が作ろうとしていたものと、まったく違う代物だ。
﹁お雑煮って、家庭ごとに違う味があって面白いですよね。じゃあ、
忠臣さんの家のお雑煮にしましょうか﹂
そう提案する私に、忠臣さんは首を横に振る。
﹁いや、理沙が作る雑煮が食べたい﹂
﹁でも、塩味のお雑煮を食べてみたいです﹂
﹁それは、明日、俺が作ってやるよ﹂
ということで話は落ち着き、私はお雑煮を作り始めた。
その横で忠臣さんがお煮しめに火を入れたり、お神酒の準備をし
ている。
新年早々、こうして、恋人とキッチンに立つのはくすぐったいけ
れど、すごく嬉しい。
640
テーブルに料理を並べ終えて席に着くと、切子のグラスにお神酒
を注ぎ合う。忠臣さんは青いグラスを、私は赤いグラスを手に持ち、
カチリと軽く合わせた。
﹁新年、明けましておめでとう。今年もよろしく﹂
﹁おめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いしますね﹂
ニコリと笑えば、彼も微笑みを返してくれる。
﹁理沙のことなら、喜んで﹃よろしく﹄してやるから﹂
なんだか﹃よろしく﹄の部分を強調された上に、切れ長の目が妖
しく細められるけれど、そこに突っ込みを入れてはいけない気がす
る。
﹁え、ええと、ほどほどでお願いします⋮⋮﹂
ぎこちない笑顔を返せば、忠臣さんがクスッと笑った。でも、そ
れ以上は何も言わずに、グラスに口を付ける。
﹁さて、冷めないうちに雑煮を頂こうかな﹂
﹁は、はい。どうぞ﹂
一口出汁を啜った忠臣さんが、﹁美味いな﹂と言ってくれた。
﹁醤油味の雑煮も、いいもんだ﹂
お世辞ではない表情に、ホッと胸を撫で下ろす。
﹁お雑煮の味付けもそうですけど、お餅の形も色々あって面白いで
すよね﹂
﹁そうだな。料理は地方の特色や、その家独自の味付けが如実に出
るから﹂
﹁聞いた話だと、味付けや盛り付けの違いで夫婦喧嘩になることも
あるとか﹂
先に結婚した友人たちの中には、そんなことを言っていた人もい
る。馴染んだ味にこだわる気持ちも分かるが、喧嘩するほどのこと
だろうかと思ってしまう。
私はそこまでのこだわりがなく、﹃美味しければ何でもいい﹄と
考えているけれど⋮⋮。
正面に座る忠臣さんをチラッと見る。
641
すると、優しい眼差しを向けられた。
﹁俺は餅の形が丸でも四角でも、それこそ三角でも、理沙が一生懸
命作ってくれたのなら、喜んで食べるさ﹂
そう言って、忠臣さんはパクリと角餅に齧りついたのだった。
642
︵100︶幸せなひと時
お雑煮でお腹が満たされたこととお神酒を飲んだことで、やたら
とまったりしたい気分になる。眠いわけではなく、ただ、ただ、ボ
ンヤリしたいだけ。
二人で手早く洗い物を済ませて飲み物を用意すると、リビングの
ソファに横並びで腰を下ろした。
私はレモンティー、忠臣さんは砂糖抜きでミルクを少しだけ注い
だコーヒーを飲んでいる。
テレビは点けてあるものの、お互い、画面はほとんど見ていない。
年明け恒例のお笑い番組ではなく、動物物のドキュメンタリーが
流れているが、時に愛らしく、時に獰猛な彼らの姿よりも、﹁これ
は知っているか?﹂と披露される忠臣さんの動物豆知識の方が興味
深い。
象の体表に生えている産毛が、実はかなりの剛毛だったなんて知
らなかった。
時折、レモンティーが注がれたカップに口を付け、再び彼の肩に
コトリと頭を載せ、すぐそばで響く美声を堪能する。
仕事中に耳にする上司としての声には、実直さと頼もしさが溢れ
ていた。
それももちろん好きなのだが、恋人としての声は凛とした強さ以
上に優しさと穏やかさ、そして甘さが加わっているので、いつまで
でも聞いていたいと思えるのだ。
︱︱ホント、いい声。
レモンティーとは違う熱源が、ホコホコと心を満たしてゆく。
そして、二人で過ごす時間のおかげで、ますます心が満たされて
643
いった。
豪華なレストランで食事をしたり、夜景が綺麗に見えるホテルの
バーでお酒を楽しんだり、おしゃべりしながら買い物をする時間も
いいけれど。
普段は互いに仕事が忙しいから、こうしてなにもせずに、ただ寄
り添って、他愛のない話をすることも、それはそれで非常に贅沢だ。
思い切って、この部屋で過ごすことを決めてよかったと、つくづく
実感する。
ティーカップを前にあるローテーブルに戻し、私は忠臣さんの肩
口に額を埋めて軽く擦り寄る。
そんな私の鬱陶しいと避けることもなく、それどころか、大きく
て肉厚な手の平で、優しく髪を撫でて抱き寄せてくれた。
忠臣さんも私と過ごす何気ない時間を楽しんでくれているようで、
さらに嬉しくなる。
つい、クスリと笑えば、﹁どうした?﹂と、低く穏やかな声が降
ってきた。
軽く顔を上げて彼と視線を合わせた私は、改めて小さく笑う。
﹁どこかに出かけなくても、特別何かをしていなくても、楽しくて
幸せだなと思いまして﹂
心の内を素直に告げれば、忠臣さんが切れ長の目を細めて、ポン
ポンと私の頭を叩く。
てっきり﹃俺も﹄という言葉返ってくるかと思ったのだが、彼が
口にしたのは、いささか予想外の物だった。
﹁なら、結婚生活も安心して過ごせるな﹂
微睡んでいる頭では言葉の意図するところが分からず、﹁はぁ⋮
⋮﹂と間の抜けた声を出してしまった。
ポカンと口を半開きにしていれば、またポンポンと頭を叩かれる。
﹁あのな、結婚したからといって、イベント三昧じゃないんだぞ。
いくら新婚でも毎日、毎日、﹃今日は○○記念日だ!﹄と騒ぎ立て
ないだろうが。理沙と過ごす毎日は大切な宝物だが、それでも連日
644
にわたって騒ぐのは俺には無理だ﹂
苦笑する忠臣さんに、私もコクリと頷く。
確かに、それはそうだ。
世の中には毎日が何かの記念日という恋人同士や夫婦がいるかも
しれないが、私はそんな風に日々を送れないだろう。イベント事に
関しては大ざっぱだし。
同じように苦笑を浮かべれば、彼の瞳が一際優しい光を浮かべて
くる。
﹁それこそ、何気ない日々を積み重ねていくことが結婚生活だと、
俺は思っている。だから、こうして特に会話をしなくても、傍にい
るだけで居心地のいい時間を過ごせているということは、円満な結
婚生活を送る上で重要だと考えているわけだ﹂
彼の言葉に、改めて大きく頷いた。
﹁なるほど。言われてみると、そうですね﹂
身を寄せ合っていることが自然で。だけど、好きな人の体温を感
じることは幸せで、ちょっとだけドキドキして。
居心地の良さとトキメキが上手い具合に混ざり合った状態は、忠
臣さんが言う通り、とても重要なことなのかもしれない。
いくら好きでも、愛していても、一緒にいる時間や共に過ごす空
間に気詰りを感じてしまったら、関係を長く続けていくことは難し
くなる。
もちろん、いくら結婚して夫婦になったところで、基本は﹁お互
い別の人間﹂なのだから、まるっきり気詰りを感じないわけではな
いだろう。
それでも、﹁傍にいることが自然で、しかも、相手が同じように
感じている﹂ことは大切な事だ。
いっそうホコホコと心が温かいもので満たされているのを感じて
いれば、
﹁そういう相手に巡り合えたのは、まさしく奇跡だな﹂
と、嬉しそうに呟く忠臣さんが、私の頭にコツリと自身の頭を載
645
せてきた。そして、これまで髪を撫でていた手を肩へと移動させ、
やんわりと抱き寄せる。
私は逆らうことなく、逞しい胸に身を預けた。
服を通して微かに響いてくる心臓の音が、やたらと愛おしく感じ
る。
﹁何気ないことが、特別なんですね﹂
うまく表現できないのだが、忠臣さんの話を聞いて抱いた素直な
感想がこれだった。
はにかんだ笑みを向ければ、額に優しいキスが贈られる。
﹁そうやって、何気ない幸せを二人でたくさん積み上げていこうな﹂
キスと同じくらい優しい声に、思わず泣きそうになってしまった。
そんな顔を見せたくなくて、額をグリグリと彼の肩に押し付ける。
﹁理沙?﹂
不思議がっている声音に顔を上げることが出来ず、私はそのまま
の体勢を崩せずにいた。
すると、長い両腕がすっぽりと私を包んでくる。
忠臣さんはクスクスと笑いながらも、私が落ち着くまで黙ったま
までいてくれた。
プロポーズを期待していた相手にこっぴどく振られて以来、結婚
に対して怖気づいていたけれど、そんなに怖がるものではないのか
もしれない。
忠臣さんとだったら、きっと、幸せな結婚が出来るかもしれない。
︱︱もうちょっと、前向きに考えてみようかな。
﹁いつか、そういう日が来るといいですね﹂
ほんのちょっぴり鼻声で呟くと、忠臣さんがギュウッと抱き締め
てくる。
﹁ああ、楽しみだ﹂
646
しみじみ囁かれた短いセリフが嬉しくて、またしても涙がこみ上
げてきたのだった。 647
︵100︶幸せなひと時︵後書き︶
●皆様の温かい応援のおかげで、とうとう100話を迎えました。
ありがとうございます!
更新ペースがかなりマイペースですが、これからも広い心で見守
っていただけますと嬉しいです。
648
︵101︶幸せを食べる?:1
年末に呼び出されたあの日以降、幸いなことに、忠臣さんが会社
に出向くことはなかった。
ヨーロッパ支部担当者から新年の挨拶とともに、﹃おかげで事態
はすっかり落ち着いた。ゆっくりと正月を堪能してくれ﹄というメ
ールが彼の元に届いたのである。
おかげで、残りの休みは忠臣さんも心置きなく過ごすことができ
そうだ。
お雑煮を食べた後はソファでのんびりし、他愛のない会話で幸せ
を感じる。その翌日も、元日と同じような過ごし方をした。
二日間は冷え込みがかなり厳しかったので、テレビを見たり、オ
セロやトランプで対戦したり、忠臣さんに料理を教わったりなど、
部屋の中で過ごしていた。
この冬休みは、心身ともに充実した時間を過ごしている。
ただ、少し気にかかっていることがあった。
こうして彼と二人きりの時間を楽しむのもいいけれど、少し出歩
かないと運動不足になってしまいそうだ。仕事が始まっても、体が
きびきび動くかどうか心配である。
三日目の朝。そろそろ食事が終わる頃合いで、忠臣さんに運動不
足の件を切り出した。
﹁そんなに運動したいなら、協力してやるよ﹂
すると、やたら楽しそうに言われる。
﹁協力ですか?一緒にジョギングとか?﹂
忠臣さんもやっぱり体を動かしたいのだろう。もともと、日頃か
らスポーツを嗜んでいる人だしね。
ただ、彼の提案には素直に頷けなかった。
649
﹁でも、運動できそうな服は持ってこなかったんですよ。スニーカ
ーはありますけど﹂
買い物で歩き回るかもしれないと思い、歩きやすいスニーカーと
適度に動きやすい服装は持参したものの、運動着までは考えが及ば
なかった。
忠臣さんの服を借りようにも、私と彼とでは体格と身長が違い過
ぎる。
それに、私はみっちり体を動かしたいのではなく、時間をかけて
散歩する程度でいいだろうと考えていたのだが。
向いの席に座る忠臣さんが、切れ長の目を意味ありげにニンマリ
と細めた。
﹁服は必要ない。⋮⋮ベッドの上でする﹃運動﹄だからな、裸でい
いさ﹂
やたらと﹁運動﹂の部分を強調した彼がなにを言ったのか理解で
きた私は、即座に顔が赤くなる。
︱︱なんてことを言うんだ、この人は!
﹁そ、それは、遠慮します!﹂
慌てて返した私の言葉に、忠臣さんの目がさらに細くなった。
﹁恋人の俺に、遠慮は無用だぞ。いくらでも、﹃運動﹄に付き合っ
てやる﹂
忠臣さんの様子に、ドキンと心臓が小さく跳ね上がる。
この人は、朝からなんて色っぽい顔をしてくるのだろうか。おま
けに、声にまでたっぷり色気を含ませてくるから、動揺が隠せない。
﹁わ、わ、私は、このあとで散歩にでも出かけますから、運動はそ
れで十分です!﹂
程よく冷めたお茶をゴッゴッと音を立てて飲み干し、私はすかさ
ず立ち上がった。
﹁ごちそうさまでした!食器、洗いますね!﹂
650
二人分の空いた食器を手に、シンクへと足早に向う。
置いた食器に水をかけはじめたところで、私の後ろから腕が伸び
てきて水を止めてしまった。そして、忠臣さんが私をギュッと抱き
しめる。
逞しい腕にすっぽり包まれると、今度は盛大に心臓が跳ねた。
﹁た、忠臣さん?﹂
そのままギクリと体を硬直させた私は、背後の彼の名を呼ぶ。す
ると、後頭部にキスが降ってきた。
三回ほどキスをされたあと、さらに強く抱き締められる。
﹁あ、あの、どうかしました?﹂
﹁慌てる理沙って、本当に可愛いな﹂
微かな苦笑と共に告げられたセリフに、顔の赤みが増した。忠臣
さんの声は、どうしてこんなにもかっこいいのだろうか。
しかも優しい声で囁かれると、それだけで心臓の鼓動が加速して
ゆく。
﹁そ、そうでしょうか?﹂
照れくさくて彼の腕の中で大人しくしていれば、チュッと可愛ら
しいリップ音付きで再び後頭部にキスをされた。
﹁そうだよ。あまりにも可愛いから、こうして、つい抱きしめたく
なるんだ﹂
三十を過ぎた私が可愛いなんて言われる年頃ではないと思うけれ
ど、忠臣さんの目には年齢に関係なく可愛く映ることは、恋人とし
て嬉しい。
心の奥がくすぐったくなるのを感じていると、私の体の前に回さ
れている彼の手が妖しげな動きを見せ始める。
﹁⋮⋮だから、ベッドで一緒に運動しようか?﹂
ハッと我に返った私は、セーターの中に潜り込もうとしていた彼
の手をパチンと叩いてやった。
﹁それとこれとは、話が違います!﹂
忠臣さんに抱かれることを嫌がったりはしないけれど、朝からそ
651
ういうことをするのは、ちょっと恥ずかしい。
例えば、何日も会えなくて、ようやく二人きりで過ごす時間がで
きたとか、そういった状況であれば、朝からでもいいかな、と思わ
なくもない。
だけど、私達は会社が休みに入った時からずっと一緒にいるし、
それに、昨日の夜だって散々⋮⋮。
めげずに不埒な動きを見せる彼の手をバチバチと叩き続けていれ
ば、ようやく諦めたようだ。
﹁分かったよ﹂
そう言って、忠臣さんが私を解放した。
クルリと振り返り、私はビシッと指でリビングを示す。
﹁私は食器を洗うんです!忠臣さんはソファにでも座っていてくだ
さい!﹂
﹁まったく、恥ずかしがる理沙も可愛いな﹂
クスクスと笑いながら、僅かに赤くなった右手の甲を左手で擦っ
ている。その表情は、少しも懲りた様子がない。
﹁可愛いと言ってもらえるのは嬉しいですけど、いい年の大人が朝
から、なんて、よくないことだと思います﹂
照れくささを隠すためにわざとむくれている私の額を、忠臣さん
が腕を伸ばして突っついた。
﹁馬鹿だな。いい年の大人だから、大人らしいコミュニケーション
を取るんだろうが。小学生じゃ、できないことだぞ﹂
口角をユルリと上げて微笑まれれば、いっそう顔が赤くなる。
﹁もう!屁理屈を言わないでください!﹂
彼の胸を両手でドンと押しやり、黙々と食器を洗い始めた。
﹁理沙﹂
名前を呼ばれても振り向かない私に、忠臣さんはまたしてもクス
リと笑う。
﹁まぁ、仕方ない。⋮⋮夜まで待つか﹂
652
そのセリフに耳まで赤くしたのは、言うまでもないだろう。
653
︵102︶幸せを食べる?:2
食器を洗い終えた後、私と忠臣さんは上着を着て、玄関へと向か
った。
今日は寒さが緩んだので、初詣に出かけようという話になったの
である。
当然、﹁ベッドで運動﹂という提案は無視だ。まぁ、忠臣さんは
私が慌てふためく様子が面白くて単にからかっているだけで、別に
本気で言っているわけではないのだろう。⋮⋮と、思いたい。
徒歩で向かうということなので、持参したスニーカーを履いてマ
ンションを出る。
テレビで報道されているメジャーな場所ではなく、このマンショ
ンから歩いて二十分ほどのところにある神社だ。
忠臣さんから聞いた話によれば、お社は小さいけれど、かなり古
くからある神社らしい。地元の人の多くは、その神社に参拝すると
いう。
そのため、境内では温かいお汁粉や甘酒、豚汁をふるまっている
とか。
﹁神社関係者と商工会の人達が集まって、この時期は簡単な食事処
を用意してくれているんだよ。毎年、かなりの盛況だ﹂
﹁そういうところで食べると、すごく美味しいんですよね﹂
外気温の低さにより、温かい料理はことさら美味しく感じるのだ
ろう。白い息を吐きながら食べる熱々の豚汁やお汁粉が楽しみだ。
あれこれと話をしているうちに、神社に到着。話に聞いていた通
り、参拝者がけっこう多い。
みんなに倣って列に並び、順番が回ってきたところでお賽銭を投
げ入れた。
手を合わせて、目を閉じる。
654
︱︱神様、いつも見守ってくださってありがとうございます。今年
も頑張りますので、引き続き見守っていてください。あっ。私以上
に、忠臣さんのことを宜しくお願いします。彼が、どうか健康であ
りますように。なにとぞ、なにぞと、宜しくお願いします!
私に比べて責任も仕事量も多い彼のことを、神様にしっかりとお
願いする。忠臣さんが元気でいてくれないと、私だって元気でいら
れないからね。
お願い事を済ませて目を開けると、一足先に目を開けていた忠臣
さんが苦笑している。
後に続く人たちのために脇へ避けたところで、彼が尋ねてきた。
﹁ずいぶんと真剣だったな。なにをお願いしたんだ?﹂
﹁こういうことって、人に話したらいけないんじゃなかったですか
?﹂
別に秘密にしておくような内容でもないけれど、教えてしまった
ことで、万が一にも忠臣さんの健康が約束されなくなっては困る。
苦笑いを浮かべれば、それ以上、尋ねられることはなかった。彼
もまた、苦笑いを浮かべる。
﹁そうか。理沙も神様への願い事は、人に教えたらいけないと言わ
れて育った口か﹂
﹁はい。父方の祖母から、そう言われていました。⋮⋮ということ
は、忠臣さんもそうなんですよね?だったら、なんで私に訊いたん
ですか?﹂
すると忠臣さんは、バツが悪そうに少しだけ視線を外した。
﹁理沙と神様だけの約束というのが、なんとなく悔しくてな﹂
ヒョイと肩を竦めてみせる忠臣さん。どうやら、神様に嫉妬した
らしい。
そこまで想われて嬉しいと思いつつも、そんな理不尽なやきもち
を妬く彼のことが可愛く見えて、ちょっと笑ってしまう。
655
大人の男性のいい見本のような忠臣さんが時折見せる子供みたい
な一面は、非常に微笑ましい。
人の波から外れたところで、私は彼の左腕に自分の右腕をスルリ
と絡めた。
﹁詳しくは教えられないですが、私と忠臣さんのことをお願いした
んです。だから、心配しないでくださいね﹂
クスクス笑いながら言えば、切れ長の目がスッと細くなる。
﹁今すぐ、ベッドで抱き合いたいとか?﹂
﹁それはないですね﹂
即座にバサッと切り返せば、彼はまたヒョイと肩を竦めて﹁そう
か﹂と呟く。
神聖な境内を歩いているというのに、なにを言い出すのだ、この
人は。
少しばかり呆れていると、忠臣さんがさらに口を開いた。
﹁そうだな。それについては、神様にお願いしなくても、俺がどう
にでもしてやれるしな﹂
まったく悪びれた様子もなく言ってのける彼に、私の方が恥ずか
しくなってしまう。
﹁ですから、そんなことは微塵も願ってもいませんけど!?﹂
﹁まぁ、まぁ、落ち着け。ああ、あそこで甘酒が飲めるぞ﹂
にこやかに笑う彼に、私はガクリと肩を落とす。
︱︱こんなことなら、寒さを我慢して、除夜の鐘つきに参加すれば
よかったかも。そうすれば、忠臣さんの中から少しでも煩悩が消え
去ったかもしれないのに⋮⋮。
今年の年末は、なにがなんでも彼に除夜の鐘を突かせようと、密
かに決心した私だった。
656
それから気を取り直した私は、熱々の豚汁とお汁粉、甘酒もしっ
かり堪能。うん、やっぱり美味しい。
特に、豚汁は絶品だった。たっぷりの野菜とお肉が大きな鍋で煮
込まれているので、旨みがしっかり出ている。これは家庭では出せ
ない味だ。
忠臣さんが以前作ってくれた豚汁も美味しかったけれど、やはり、
煮物や汁物は大量に作る方がいい味になるらしい。
たまに食べたくなって作るおでんは、せいぜい二、三人前。一人
暮らしなので、大量に作っても残してしまう。
ところが、同じような材料を使っていても、実家にいた頃に食べ
たおでんとは味の深みが違った。
家族全員がおでん大好きで、しかも父と兄は山ほど食べる。
おまけに翌日も食べることを見越して仕込まれるため、五人家族
だというのに、母はたいてい二十人前ぐらい用意していた。おかげ
で、いい味のおでんが出来あがる訳だ。
そんなことを考えていたら、母の作るおでんが食べたくなってき
た。
︱︱そう言えば、最近はあんまり実家に行ってないなぁ。
週末の休みには忠臣さんと過ごすことが当たり前になっているの
で、自然と足が遠のいている。
そのうちに顔を出しに行くかと思ったところで、はたと気付いた。
︱︱忠臣さんのこと、家族にちゃんと話してなかった⋮⋮。
十一月の中ごろ、忠臣さんの迎えを待っている時に二卵性双生児
の兄とばったり出くわしたのだが、そこで言われた食事会もまだ開
かれていない。
657
これまで母からしつこく繰り出されていた﹁いい人がいるわよ、
お見合いしない?﹂攻撃がぱったり止んだところを見ると、兄から
両親に多少の話は通っているとは予想がつく。
しかしながら、改めて私の口から恋人の話をするのは照れ臭いの
だ。
とはいえ、後ろめたいことはなにもないので、家族と顔合わせく
らいはしておくべきだろうか。このまま黙っていると、﹃彼氏はい
るが親には会わせたくない=不倫!?﹄という図式が両親の脳内で
描かれかねない。
そして、﹁親に紹介できる相手とお付き合いしなさいよ!ちょう
どいいお話をいただいたから、お見合いしなさい!﹂と、ひっきり
なしに電話がかかって来そうである。
忠臣さんのことだから、私の家族と会うことに躊躇はないだろう。
そんなことを、前に話していたし。
︱︱いや、食事会はまどろっこしいから、いっそ結納の場にしてし
まえばいいって言ったんだっけ⋮⋮。
そう言いきった彼の言葉が嬉しくないわけではないけれど、心の
準備がまだ整っていない私としては早すぎる。
いざ顔合せとなったら、忠臣さんには食事会だとよくよく言い聞
かせておこう。 658
︵103︶幸せを食べる?:3
寒い中で食べる豚汁がとても美味しかったので、お代りすること
にした。
お椀型をした発砲スチロール容器は小振りであるため、二杯くら
いは軽く食べられそうである。
私以外にもお代りしている人は多く、五、六人ほどの高校生らし
き男の子の集団は三杯目の豚汁を頬張っていた。熱々で具だくさん
の豚汁は、一杯百円。学生の彼らでも、それほど財布は痛まないだ
ろう。
競うようにして頬張っているその様子に、フッと頬が緩む。
﹁どうした?﹂
私と同じく、二杯目の豚汁を味わっている忠臣さんが声をかけて
きた。
﹁人がゴチャゴチャしている中で食べるのも、面白いなと思いまし
て。こういう雰囲気が、美味しさにも繋がっているんでしょうね﹂
すると、忠臣さんが小さく頷く。
﹁ああ、分かる。みんなで賑々しく食べると、さらに美味しく感じ
るな﹂
﹁小学校の遠足でお弁当がやたらと美味しく思えたのも、そう言う
理由でしょうね。なんだか、懐かしいなぁ﹂
特別代り映えのしないおにぎりや鶏のから揚げ、卵焼きでも、友
達と一緒に食べると、本当に美味しかったものだ。
当時を思い返して懐かしさに浸っていると、忠臣さんがフッと笑
みを漏らした。
﹁年を重ねると、そういうこともなくなるから、久しく忘れていた
よ﹂
外食をほとんどしない私たちは、週末にはどちらかの家で料理を
659
作って食べることが多い。
また、急なスケジュール変更もある部署なので、お昼ご飯をあら
かじめ用意しておくと食べ損ねたりする。なので社員食堂を利用し
たり、出先で食べることがほとんどだ。
休日にお弁当を持って忠臣さんとどこかに出掛けるようなことも、
これまにではなかった。
﹁たまには、こんな風に外で食べるのもいいものですね﹂
豚汁を食べ終えた私は、満足げにお腹を撫で擦る。
﹁だったら、今度、海外事業部の連中とバーベキューでもやるか?
イベント好きが多いから、きっと盛り上がるぞ﹂
その提案に、大きく頷いた。
﹁ぜひ、やりましょう!私、カレーが食べたいです﹂
﹁ああ、カレーは外せないな﹂
﹁それと、この前、テレビで見たんですけど。軽く味を付けた野菜
やお肉をホイルで包んで焼くだけでも、すごく美味しいらしいです
よ﹂
﹁旨みと水分が逃げないからな﹂
﹁バターを乗せたリンゴのホイル焼き、本当に美味しそうでした﹂
最近では若い女性たちがキャンプにハマっているらしく、手軽で
お洒落なレシピが開発されているようだ。そういった特集が組まれ
ている雑誌もある。
前のめりでキャンプ料理を語る私に、忠臣さんが苦笑い。
﹁分かった、分かった。だが、今の時期は寒さが厳しいし、北風が
強いから、野外の料理は危険だ。もう少し温かくなってからにしよ
う﹂
﹁はい。春になるのが楽しみですね﹂
そんなことを話しながら、私たちは簡易食事処を後にする。
二、三歩足を進めたところで、忠臣さんの左手が私の右手を握っ
た。そして、参拝客で溢れる通路を、私を気遣いながら歩いてゆく。
ごく自然な仕草に、照れくささと同時に嬉しさを感じた。
660
こういう時に、自分は大事にされているのだと、しみじみ実感す
る。
私は小柄な方ではないし、空手道場に通っていたので、華奢とは
言えない体型だ。
それでも、彼にとっては守りたいと思ってもらえる存在なのだと
態度で教えてもらえることが、すごく嬉しいのだ。
忠臣さんに身を寄せ、繋いでいる手にキュッと力を籠める。
すると、彼が私をチラリと見て目を細めると、同じように握り返
してきた。
手袋をしていないにも関わらず、繋がれている手は温かい。繋い
でいない方の手は、コートのポケットに入れてあるけどね。
私も忠臣さんも三十を過ぎているけれど、学生同士のカップルの
ように手を繋いで歩くことが嬉しくて楽しい。
彼の温もりを感じながら、私の脳裏にとあるシーンが浮かんだ。
私が子供の頃に見た食器用洗剤のコマーシャルで、様々な年代の
男女が手を繋ぐというものがあった。趣旨としては、その洗剤は肌
に優しく、思わず手を繋ぎたくなるというものらしい。
そのコマーシャルの中で、髪が白くなった老夫婦が嬉しそうに手
を繋いでいるシーンが印象的だった。
私たちもあの老夫婦のように、いくつになっても手を繋いで歩け
たら、どんなに素敵なことだろう。
こんな風に何気ない日常の中にある何気ない幸せを、忠臣さんと
一緒に積み重ねられたらいいなと思った私だった。
この後の予定は特にないので、腹ごなしも兼ねてブラブラと散歩
する。
寒さは苦手だが、このピンと張りつめた冬の空気は結構好きだ。
ただ、耳も鼻も赤くなって、ジンジンと痛いんだけどね。
子供の時のお正月の過ごし方を話したり、夕食のメニューを相談
しながら、これまでに通ったことのない道をしばらく歩き、頃合い
661
を見てスーパーで夕食の材料を買い込む。
戻ってきたのは午後四時を少し過ぎた頃。たっぷり歩いたおかげ
で、なんだか体が軽い。
食材を冷蔵庫に入れた後、私たちはリビングのソファに並んで座
る。目の前にあるローテーブルには、湯気が立つ緑茶と、つやつや
のみたらし団子。帰り道にあった和菓子屋さんで買ってきたお団子
だ。
忠臣さんは時折このお店で買い物するらしく、特にこのみたらし
団子が絶品だという。
﹁いただきます﹂
私はパクリと齧りついた。
トロリとしたタレは風味がよく、甘さがしつこくない。お店一本
ずつ丁寧に焼かれたお団子は香ばしく、モチモチとした触感が最高
である。
﹁美味しいですね!﹂
満面の笑みを浮かべる私に、忠臣さんが目を細めた。
﹁そうだろう?この店のみたらし団子を食べて以来、他の店では買
わなくなったな﹂
﹁他にもいろいろな和菓子がありましたし、また行きたいです。ホ
ント、忠臣さんは美味しいものを見つける天才ですね﹂
公園で食べたハンバーガーや今日のお団子の他にも、彼がおすす
めだと言ってくるものは、全部美味しい。
しかも、テレビや雑誌で大々的に取り上げられることのないお店
が大半なのだ。知る人ぞ知るといったところか。
人の味覚はそれぞれなのだが、私と忠臣さんが美味しいと思うも
のが一緒でありがたい。おかげで、私も美味しいものにありつける
のだ。
﹁美味い料理を作るには、美味いものを知ることも大切だからな﹂
一足先にお団子を食べ終えた彼が、照れくさそうにお茶を飲んで
いる。 662
じっくり味わった私も、ゴクリとお茶を飲んだ。
﹁はぁ、美味しかった﹂
しみじみと告げる私に、忠臣さんが声を上げて笑う。
﹁ははっ。そんなに喜んでもらえて、俺も嬉しいよ﹂
彼の大きな手が、ポンポンと私の頭を撫でた。
﹁美味しいものを食べると、人って幸せになりますよね。今日の私
は、幸せいっぱいです﹂
忠臣さんににっこり笑いかけると、彼も笑みを返してくる。
﹁俺も、理沙を食べている時は、心の底から幸せだと思ってるぞ﹂
︱︱明らかに﹃食べる﹄と言う意味が、本来のものとは違うんです
けど!? 身の危険を感じた私がビクリと震えると、頭にあった手がスルッ
と肩に移動してきて、ガッチリと私の動きを封じてくる。
﹁あ、あの、忠臣さん?﹂
﹁理沙の鼻の頭も耳も、まだ赤いな。⋮⋮すごく美味そうだ﹂
ただでさえ艶のある低音なのに、掠れ気味の囁きになると、その
威力は計り知れない。
﹁い、いえ、その、食べるというのは、そういうことではなくて⋮
⋮﹂
距離を取ろうと身を捩るが、肩に置かれている手が外れることが
なかった。
ならば、ということで、忠臣さんの胸に手を着いて突っぱねてみ
る。
しかし、さらに強い力で抱き込まれてしまった。
﹁た、忠臣さん!?﹂
両腕でスッポリと拘束した彼の顔が、ジリジリと近づいてくる。
﹁理沙、俺を幸せにしてくれよ﹂
色気たっぷりに囁いた忠臣さんは、私をソファへと押し倒したの
663
だった。
664
︵104︶幸せを食べる?:4
﹁あ、あの、忠お⋮⋮、んんっ﹂
彼の名前を呼んだところで、覆いかぶさってきた彼に唇を塞がれ
た。
唇同士を擦り合わせるように何度も角度を変え、声を出す間もな
いほど、上下の唇が啄まれる。
そして空気を取り込もうと思わず口を開けた瞬間、彼の肉厚な舌
が口内に入ってきた。
衣擦れの音。
ソファが鈍く軋む音。
唇が啄まれる音。
口内を掻き混ぜた時に零れるいやらしい音。
どれもこれもたまらないほど恥ずかしくて、頭の芯を蕩かす不思
議な力があった。
﹁ん、んんっ﹂
鼻にかかった喘ぎが、リビングに小さく響く。忠臣さんの肩を押
し戻す力は、既になかった。
最後にクチュリと口内を掻き混ぜ、彼の舌はゆっくり後退する。
それと同時に、逞しい肩に縋りついていた私の手は、スルリと滑
り落ちた。
﹁は、あぁ⋮⋮﹂
ソファの座面にクタリと背中を預ける私の様子に、上から圧し掛
かっている忠臣さんが嬉しそうな表情を浮かべて眺めている。
﹁理沙、可愛いよ﹂
そう言って、チュッと私の唇に吸い付いた。
恥ずかしさと気持ちよさによって潤んでしまった目で、忠臣さん
を軽く睨む。ちっとも効果がないことは承知だが、このまま簡単に
665
流されてしまうのは悔しかった。
﹁も、もう、なに、するんですか⋮⋮﹂
不貞腐れた声を出すと、彼は喉の奥で低く笑う。
天井に設置された電灯の光を背後から浴びた彼の顔には、絶妙に
影ができていて。おまけに見下ろす格好のせいで、髪形が適度に崩
れていて。
おかげで艶とワイルドさがプラスされた今の忠臣さんは、壮絶に
かっこよかった。
さらには。
﹁なにって、キス⋮⋮、だろ?﹂
と、目元を細めて低く囁いてくるものだから、私の心臓はドキド
キと忙しない。
余裕たっぷりの彼の態度がかなり悔しくて、さらに力を込めて睨
む。すると、忠臣さんは右手で私の頭を撫でてきた。
ゆっくりとした仕草は、大事な宝物に触れるような優しさに溢れ
ている。
前髪をかき上げた手は、そのままつむじの辺りへと移動し、サワ
サワと撫でつけていた。それから、私の左耳の裏を指先でくすぐる。
明らかに官能を引き出す仕草に、ドキドキが止まらない。
視線を伏せ、熱い呼気を静かに吐き出した。
﹁そんなの、分かってます。私が言いたいのは、なんで、キスをす
るのかってことなんです⋮⋮﹂
耳と首筋をくすぐる動きに肩を震わせていると、忠臣さんが上半
身をグッと倒し、私の左耳に唇を寄せてきた。
﹁理沙に、幸せにしてもらおうと思ってな﹂
そう言って、寒さのせいでまだ赤みが残る耳に舌を這わせる。
﹁やっ﹂
途端にゾクゾクとした感覚が背筋を這い上がり、反射的に身を起
こそうとしてしまう。
そんな私の動きよりも早く、忠臣さんは私の手首を捕えてソファ
666
の座面に押し付けた。外耳に沿って舌先を動かし、耳たぶを甘噛み
してくる。
私の背筋は、より一層大きく震えた。
﹁だ、駄目っ⋮⋮んんっ﹂
彼の舌から逃れようと首を振ったところで、追いかけてきた彼の
唇がふたたび私の口を塞ぐ。
奥まで舌が入り込み、私の舌に容赦ない力で絡み付く。互いの舌
を擦り合わせ、巻き付き、吸い上げる。
さっきよりもはるかに大きな水音がリビングに響いていた。
身じろぎする私の動きに合わせ、忠臣さんが絶妙な力加減で体重
をかけてくる。さらに、私の手首を掴んでいた彼の手はいつの間に
か指同士を絡めるように重ねられていて、私はすべての動きを封じ
られていた。
その状態で、熱烈なキスを受け続ける。
寒さでかじかんでいた耳が、別の意味で赤く染まっていることだ
ろう。
ようやくキスを解いた忠臣さんは、浅い呼吸を繰り返す私を見て、
クスリと笑う。
﹁蕩けた顔の理沙は、本当に可愛いな﹂
重ねた手をキュッと握り締め、忠臣さんはうっすらと涙が浮かぶ
私の目尻にキスを落とした。
その唇は頬、顎先、首筋へと移動してゆく。
ブラウスの襟元に辿り着いた彼の唇は、そこに強く吸い付いた。
皮膚の上に、チリッとした微かな痛みが走る。
その刺激が、私の体の中で渦巻く熱をさらに上げてゆく。
付けたキスマークをネロリと舌で舐めた忠臣さんは、繋いでいた
手を解いて、胸の膨らみを揉み始めた。その動きは、明らかに愛撫
である。
キスならまだ平気だけど、さすがにこれは恥ずかしい。場所はと
もかく、明るいのは困る。
667
﹁忠臣さん、やめて⋮⋮﹂
弱々しく制止の声を上げると、彼はすぐに手の動きを止めた。
﹁分かってるよ﹂
小さく笑った忠臣さんは、近くに置かれていたリモコンに手を伸
ばし、照明の明度を下げる。
リビングはすぐさま薄闇に包まれた。
﹁これなら大丈夫だろ?﹂
忠臣さんは、私の額にコツリと自身の額を合わせてくる。
私の様子を楽しんでいるような声だけど、その響きは優しさに溢
れていた。
目を閉じたまま、私はコクリと頷く。
﹁恥ずかしがる理沙も、すごく可愛いよ﹂
彼の吐息がかかった唇が、またしても塞がれる。
ねっとりと舌を絡ませながら、忠臣さんは私の服を脱がし始めた。
カーディガンやブラウスのボタンを外しつつ、左右の乳房をブラ
の上から揉みしだく。強弱をつけ、大きな手でじっくりと刺激を与
えてくる。
そのため、ブラのホックが外されたころには、乳首がジリジリと
疼き始めていた。
纏っていた服の身頃が左右に大きく割り開かれ、キャミソールと
ブラは鎖骨の辺りに押し上げられた。
彼の眼下に裸の上半身が晒されているけれど、エアコンによって
適温が保たれているので寒くはない。
それどころか、こみ上げる熱が徐々に全身に広がり、まったくと
いって寒さは感じていなかった。
忠臣さんは膝立ちになると、セーターとTシャツを脱ぎ捨てた。
逞しい胸と引き締まった腹筋は、いつ見てもかっこいい。
ウットリ見上げていた私に、忠臣さんは少しだけ困ったように笑
った。
668
﹁そんな顔で見られたら、手加減できなくなるぞ﹂
ソファに横たわる私を抱き締めながら、照れた口調で彼が言う。
﹁手加減するつもりなんて、あったんですか?﹂
忠臣さんを抱き返しつつ問い掛ければ、﹁もちろん﹂という返事
が。
﹁本当に?﹂
苦笑を浮かべる私の頬に、忠臣さんがキスをした。
﹁ああ。今から本格的に抱き合ったら、夕飯を食いっ逸れることに
なるからな。⋮⋮だが、理沙があまりにも可愛いから、止められる
自信がない﹂ 色気たっぷりの声でそんなことを囁かれ、心臓がドキンと大きく
跳ねる。
﹁⋮⋮ほどほどで、お願いします﹂
私の言葉に、彼がクスクスと笑う。
﹁了解。俺の可愛い人﹂
その言葉を皮切りに、彼の愛撫が再開した。
669
︵105︶幸せを食べる?:5
私の唇を塞いだ彼の唇が、上半身を優しく辿る。首筋、鎖骨、乳
房、みぞおちと、順にキスマークを散らしていった。
肌を吸われるたびに小さな痛みが走るけれど、熱い呼気を吐き出
す今の私にとっては、それすらも甘い疼きへと変換される。
﹁は、あ⋮⋮﹂
私は緩く頭を振り、もどかしげに息を吐いた。 リビングでこんなことをするなんて、という感覚が余計に羞恥を煽
り、体の奥で淫靡な熱となる。
おかげで、彼の手や唇の感触に、いつも以上の反応を示してしま
う。
肉厚な手の平が私のうなじや肩を撫で、おへその横に新たなキス
マークを刻まれた時、ピクン、と体が跳ね上がった。
﹁いつもより、随分と敏感だな﹂
クスッと笑った忠臣さんの様子に、カァッと頬が熱くなる。
肝心な場所にはまだ、愛撫されていなかった。さっき胸を揉まれ
たけれど、敏感な乳首自体には触れられていない。
それなのに早くも浅い呼吸を繰り返し、震えを止めることができ
なかった。
いやらしい体だと、思われただろうか。
そのことがなぜか心に引っかかってしまう。顔を横に向けて忠臣
さんから視線を逸らし、右手の甲で口元を塞いだ。
すると、唇と手による愛撫を止め、彼が私の体に覆いかぶさって
くる。
﹁理沙﹂
名前を呼ぶと同時に、強い力で抱き締められる。そして、額に優
しく唇が押し当てられた。
670
﹁嫌なら、すぐにやめる﹂
﹁いえ⋮⋮、嫌という訳では⋮⋮﹂
彼と目を合わせることなく、口元を隠したままポツリと呟く。
﹁それなら、どうして、そんな顔をするんだ?﹂
﹁そんな顔って⋮⋮﹂
﹁困ったような、泣きたいような、そういった顔だよ﹂
忠臣さんはさらに私を抱き込み、また額にキスを落とした。
﹁正直に言ってくれ。その顔もすごくそそられるが、俺は理沙に無
理強いしたくないんだ﹂
穏やかな声で告げられ、私は小さく首を横に振った。
﹁嫌じゃないです⋮⋮﹂
﹁なら、どうして?﹂
﹁あ、あの⋮⋮、自分の体が、いつもと違って⋮⋮﹂
ポツリと呟くと、私を抱き締める腕が少しだけ強張った。
﹁どうした?体調が悪いのか?﹂
心配気な声は、私が喘息の発作を起こした時を思い起こしている
からだろう。無用な心配をかけたくなくて、すぐに否定した。
﹁い、いえ、そういうことではなくて⋮⋮﹂
とはいえ、素直に告げるべきか悩む。それでもこのままうやむや
にしたら、かえって事態が悪化しそうである。
少しの間逡巡した私は短く息を吐き、ゆっくりと話し出した。
﹁実は⋮⋮、やたらと敏感になっているといいますか⋮⋮。それが
恥ずかしいのと、あとは⋮⋮﹂
﹁あとは?﹂
気遣いと優しさを含んだ声に促され、浮かんだ思いを言葉にする。
﹁い、いやらしい体だなって⋮⋮。それが、はしたないんじゃない
かと⋮⋮﹂
小さな声でどうにか説明を終えた途端、痛いくらいにきつく抱き
締められた。
﹁た、忠臣さん?﹂
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﹁まったく、理沙は本当に可愛いなぁ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
てっきり呆れられると思っていたのに、それとは全く逆の反応を
示され、ちょっと驚く。
﹁普段と違うシチュエーションだから、いつもより過敏になってし
まうんだろ?はしたなく思うどころか、俺からすれば嬉しい限りだ
よ﹂
﹁そ、そうなんですか?﹂
﹁そうだよ。それに⋮⋮﹂
そこで言葉を区切った忠臣さんが、グイッと腰を押し付けてくる。
冬用の厚手のスラックス越しに、その存在はしっかりと認識でき
た。ソコは既に臨戦態勢の半分ほどの硬度を持っている。
下腹部に当たる感触の正体に気付き、耳が熱くなった。
﹁俺だって、いつもより反応が早い。お互い様だ、気にするな﹂
熱を持つ耳に、彼の唇が寄せられる。
﹁⋮⋮続き、してもいいよな?﹂
艶めいた声で囁かれ、私はコクリと頷いた。
それからは、与えられる愛撫に私の体は素直に反応を返す。
抱擁を解いた忠臣さんは右手で私の左乳首を弄り、口で右の乳首
を刺激してくる。
チリチリと疼いていた乳首が親指と人差し指でキュッと摘ままれ、
クニクニと擦り潰され、時折、人差し指の先でピンと弾かれた。
同時にもう片方の乳首は上下の唇で強めに挟まれ、舌で転がされ、
軽く甘噛みされた上に、チュクチュクと音を立てて吸われる。
ただでさえ敏感になっているのに、弱い部分を同時に攻められれ
ば、体の震えを抑えることなどできなかった。
﹁や、あっ⋮⋮、ん、ん⋮⋮﹂
ビク、ビクと、全身が大きく跳ねる。
ソファの座面から体がはみ出しそうになると、忠臣さんは片腕と
672
片足を使って、器用に位置を直してくれる。その最中にも、空いて
いる手で胸を揉みしだくのを忘れない。
常に刺激を受け続ける状況に、体の奥の熱はどんどん温度を上げ
ていった。
集中的に胸を愛撫され続け、自分で見なくても、乳首がツンと立
ち上がっているのが分かる。
甘く疼く乳首を、忠臣さんがペロリと舐めた。
﹁すっかり硬くなったな﹂
そう言って、忠臣さんが右の人差し指で優しく撫でる。ジンジン
と痺れている乳首には、それだけでもたまらない刺激になった。
﹁あんっ﹂
背中が軽く反り、思わず声を上げる。
私の反応に、彼はクスクスと機嫌よさそうに笑った。
口や指で乳首を弄りつつ、忠臣さんは私の下半身に纏う衣服を剥
ぎ取ってゆく。
頭の片隅では今の状況を恥ずかしいと思っている自分がいるもの
の、彼の存在を
体の奥深くで早く感じたいと思っている自分もいる。
﹁忠臣さん、来て⋮⋮﹂
名前を呼べば、自分の衣服も取り払った彼がこちらに顔を向けた。
なにも言わず、ただ、ジッと見つめていた忠臣さんがフッと息を
吐く。
﹁そのお誘いは涙が出るほど嬉しいが、いきなり突っ込むわけには
いかないよ﹂
忠臣さんはソファから降りて膝立ちになると、私の秘部へと手を
伸ばした。トロリとした愛液に塗れているソコに、彼の中指が埋ま
る。
﹁たっぷり濡れているが、さすがに解さないままでは無理だろ﹂
中指が前後する動きに合わせて、クチュクチュと湿った音がリビ
ングに響く。
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その音が、やけにもどかしく聞こえた。
﹁ん、ふ⋮⋮、大丈夫、です。だから、早く⋮⋮﹂
吐息まじりに告げた言葉に、忠臣さんがため息を零す。
﹁理沙﹂
その声は、子供を嗜めるような声音に似ていた。
忠臣さんに目を向けると、凛々しい眉が僅かに寄っている。
﹁今の俺のは、かなり凶悪でな。どうやら、理沙以上に興奮してい
るようなんだ。だから、ある程度は解しておかないと﹂
﹁⋮⋮いつもだって、凶悪ですよ﹂
硬さといい、太さといい、熱さといい、あの剛直は凶悪そのもの
だ。いや、乱暴とか、そういう意味ではなく、存在感という意味で
ね。
ボソリと呟けば、彼が軽く噴き出した。
﹁それは、褒め言葉として受け取っておこうか﹂
忠臣さんがナカを弄る手の動きを止め、左手で私の手を取る。そ
して身を乗り出すと同時に、私の手を自分の下半身へと導いた。
指先に当たった感触に驚いて手を引こうとすると、それよりも早
く、彼が私の手をペニスにグッと押し付ける。
﹁ほら、分かるだろ?﹂
硬くて太くて熱い肉杭が、私の手の中でビクビクと脈を打ってい
た。確かに、その存在感はこれまでになく凶悪である。
﹁えっ?や、あの⋮⋮﹂
恥ずかしさのあまりにオロオロしていれば、忠臣さんは人差し指
も添えて膣口に挿入した。
﹁んんっ﹂
喘ぎというよりは呻きに近い声を上げてしまう。無意識のうちに、
体も強張ってしまった。
﹁指二本でも、ちょっときついぞ。なのに、本当にコレを今すぐ突
っ込んでいいのか?﹂
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︱︱む、無理かも⋮⋮。
早く抱かれたい思いは変わらないけれど、正直、この大きさは厳
しいかもしれない。
い
少しばかり意地悪そうな口調に、私はフルフルと首を横に振った。
そんな私の様子に、忠臣さんは私の右手を解放する。
﹁大丈夫だ。そんなに焦らなくても、このあとでたっぷり挿れてや
るよ﹂
その言葉と共に、彼の指が念入りにナカを解し始めた。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n8521w/
33歳、苺キャンディ
2016年9月4日09時02分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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