村上春樹文学におけるアジア

村上春樹文学におけるアジア
― 「中国行きのスロウㆍボート」を中心に ―
鄭 勝 云*
[email protected]
<ABSTRACT>
Murakami Haruki seeks to give consolations to the pains of the past and the present in Asians. First of all, the
hero in the novel who meets the first Chinese is a supervisor of test in his elementary school. To Japanese
students, the Chinese looks like a rooster which grow in a farm. The hero becomes sympathetic toward the
Chinese students who live in Japan, because they seem to be the mass products which are massively spent in the
post capitalist era.
The second Chinese the hero meets is a female Chinese college student who works as a part time worker.
The student falls in panic because of the monotonous mass production. Here again the hero feels a pity toward
the student, imagining a person: “nowhere man” in Beatles’ song.
The third person the hero meets is his highschool classmate who works for an encyclopedia company as a
salesman. The hero thinks that his Chinese friend is growing a goods by selling mass producted encyclopedias
only to the Chinese in Japan. As a result, the hero decides to create his own China and to love it.
Here the mass production seems to say that it bred the Second World War which is the starting point of mass
production. Murakami Haruki’s message is that the shadow of the war still remains in modern Japan.
キーワード
アジア(A sia) 、中国(China)、大量生産(Mass Production) 、もののあわれ(Mononoaw are) 、Nowhere Man
1)
1. はじめに
1980 年4月、村上春樹( 以下、村上) は初めての短編小説「中国行きのスロウㆍボート」を「海」に発表し
ていて、1983 年には最初の短編集 中国行きのスロウㆍボート に、1990 年には 村上春樹全作品集③
1979 1989 短編集Ⅰ 講談社
1) に収められている。
<死はなぜかしら僕に、中国人のことを思い出させる>(p.13) と語っているが、これは何を意味するのであ
ろうか。
我らが街、その風景は何故か僕の心をひどく暗くさせた。都市生活者が年中行事のようにおちいるあのおな
じみの、濁ったコーヒーㆍゼリーのような精神の薄暗闇が僕をまた捉えていた。うす汚れたビル、名もない
人々の群れ、絶え間のない騒音、身動きの取れない中の列、灰色の空、空間を埋めつくす広告板、欲望と
諦めと苛立ちと興奮。そこには無数の選択肢があり、無数の可能性があった。しかしそれは無数であると同
1)* 全南大學校人文大學日語日文學科敎授。日本近現代文学。全南大學校日本文化硏究センター專任硏究員。
1) 本稿の底本とする。
156 日本語教育(第74輯)
時にゼロだった。僕らはそれらのすべてを手に取りながら、それでいて僕らの手にするものはゼロだった。そ
れが都会だった。僕はふとあの中国人の女の子の言葉を思い出した。「そもそもここは私の居るべき場所じゃ
ないのよ」僕は東京の街を見ながら、中国のことを思う。誤謬……、誤謬というのはあの中国人の女子大生が
言ったように( あるいは精神分析医の言うように) 結局は逆説的な欲望であるのかもしれない。とすれば、誤謬
こそが僕自身であり、あなた自身であるということになる。とすれば、どこにも出口などないのだ。(p.38)
濁ったコーヒーㆍゼリーはビートルズのラバーㆍソウル(Rubber Soul、ゴムの魂) 、 ノルウェイの森 にお
ける<中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうした
こうしたという立て看板を書いていた。( 中略)僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞い
た港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界
とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が入りこむことになってしまったのだ2)。>の冷やか
な空気やインスタントㆍコーヒーの瓶、 1Q84 における空気さなぎを思わせていて、機械システム下の部
品として生きている現代の人々の魂を象徴しているのではなかろうか。そして、<東京の街を見ながら、
中国のことを思う>ということは、東京はこの世で、中国はあの世、という象徴性を示しているのではなか
ろうか。
しかし、酒井英行と堀口真利子は中国を無意識にある反感とか敵対感情の対象として受け止めてい
る。
堀口
私は、直子の演技だとは考えていません。性的関係に持ち込むための演技を、なぜ直子はしなけれ
ばならないのか、そうする意図が分かりません。 中国行きのスロウㆍボート の僕が彼女を逆回りの山手線に
乗せてしまった話を思い出しますが、無意識の感情がつい行動に出てしまったというような人間の失錯行為に
似ていると思います。自分を抑制できなかったのだと思います。
酒井
中国行きのスロウㆍボート は、騙したわけじゃなくつて、無意識にある反感とか敵対感情のようなもの
がつい出てしまうのがモチーフ。
堀口
無意識のうちにあった感情が、結局逆回りの山手線に乗せてしまったという点は、直子が泣きやまな
かったことでワタナベの帰りを遅らせたことと似ているように思います。3)
村上は中国を現実の国ではなくて、自分自身の内部にある別の理想的な国として、別の中国を創造し
ているのではあるまいか、という仮説の下で、本稿では「中国行きのスロウㆍボート」を中心にして、村上
のアジアへの認識について考察しようとする。
主な先行研究としては藤井省三(2007) 村上春樹のなかの中国 ( 朝日選書) 朝日新聞社と藤井省三編
(2009) 東アジアが読む村上春樹 東京大学文学部中国文学科国際共同研究 (MURAKAMI
STUDY BOOKS〈12〉) 若草書房等がある。
2) 村上春樹(1991) 村上春樹全作品集⑥1979 1989 ノルウェイの森 講談社 p.119
3) 酒井英行ㆍ堀口真利子(2011) 村上春樹 ノルウェイの森 の研究 沖積舎 p.36
HARUKI