対談 田淵結新院長・村上一平同窓会会長 母校 で 働

巻頭特集 田淵院長×村上会長
七つのキャンパスを持ち、幼稚園児から大学生、大学院生まで約2万8千人が学ぶ関西学院。
大きな
「学びと探究の共同体」
となった今、
スクールモットー“Mastery for Service”に代表される建学の精神を
どう伝えていくべきなのか―。
2016年4月にルース・M・グルーベル前院長からバトンを受けた田淵結院長と村上一平同窓会会長が
語り合いました。
うか。
まずは、
そのあたりからお聞かせい
機会はあまりなかったのではないでしょ
ました。
でも、
ご自分のことをお話しする
村上 田淵院長は今まで、宗教総主事と
してさまざまな場面でお祈りをされてき
こ ろ が 親 が 行ってお り 、「 合 格し ている
いても 入 学 辞 退となってし まいます。と
格 書 類をもらえなかったので、合 格して
でした。当 時は発 表を 見に行かないと 合
と、私は文学部の発表を見に行きません
合格。
二つ駄目なら三つ目も駄目だろう
先に法学部と社会学部の発表があり、不
そして、大 学 受 験を 経てついに憧れだ
った関西 学 院に進むこと ができました。
は公立に進みました。
るわけがないということで、中学校、高校
す ごい と こ ろ に 来 た 、
を受けながら、「本当に
が ら 、いろいろ な 授 業
いろいろな議論をしな
距 離 が 縮 ま り まし た 。
る と 、さ らに 先 生 との
び まし た 。ゼミ が 始 ま
ぼ 全 学 科の 先 生に 学
分 かれ まし た か ら 、ほ
部 、3 年 生で各 学 科に
のうちは皆並んで文学
連 れ て 行って も らい 、
た ね 。千 刈 キャンプに
愛がっていただきまし
関西学院のカルチャーに
引き込まれ
好きになった
貴重な4年間
対談 田淵結新院長・村上一平同窓会会長
にとって身の丈に合わない洋服を着てい
田 淵 遠 藤 周 作 さんは ご 自 身 とキ リス
ト教の関係の中で
「キリスト教は日本人
ただきたいと思います。
ません。
た 。もし 不 合 格 だった ら 、今の 私 はあ り
絡を受けた瞬間、私の人生が変わりまし
よ 」と 連 絡 を くれ まし た 。あの 合 格の 連
もいい学校であることは分かっていまし
な り まし た 。それ ま で
西 学 院が一気に好きに
た 」と 感 じ ま し た 。関
ありがたいところに来
わってきます。
村 上 お 話しぶりか
ら、本当に関西学院がお好きなことが伝
ちに話すほどです。
も 負 けない」と 学 生 た
学が好きなことは誰に
るようなものだ」
とおっしゃいました。私
たが、
さらに実感したのです。
でし た 。始 まってみ た
も6月までありません
学 式 が 行われ ず 、授 業
が弾けるので、「オルガニストが急に来ら
た 。ま た 、う まくはあ り ま せん が 讃 美 歌
手伝いをさせていただくこともありまし
田淵 聖歌隊に入って活動しながら、宗
教センターで実施されるプログラムのお
田淵 文学部を卒業後は、神学部に入学
し大学院まで進みました。
ですので、関西
か。
母校で働いて 年
学院の歴史や
ヴォーリズについて
知ることも楽しかった
ら 、こ れ が 刺 激 的 で 。
れなくなったから、君、代わりに弾いてく
学院に通った年数だけで見ると
で 、私 が 入った 年 は 入
村上 クラブには入っておられたのです
村上 大学ではどのような学生だったの
ですか。
に合った服を着ていないことにならない
かと心配しています。
私は 芦 屋で生 まれ
育ち ました 。祖 父 が 牧
師 、父 親 も 牧 師 で 、キ
リスト教はいつもそば
にありました。
そして、
おじ2 人が関西 学 院
入 学 者 全 体の 人 数 が
れないか」みたいなこと が 時々あり まし
高 大一貫の
年で中
少 な かった ので 、ま ず
た。中 学 部でもオルガンを 弾くこと があ
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学生同士の密度が濃か
年より 長くなります。これ
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の 出 身 だった の で 、い
田淵 ちょう ど 大 学
紛争が起きている時期
が関西学院の院長であることも、身の丈
年間でした。今でも「関
っと 引 き 込 ま れ た 4
とにかく 、関 西 学 院
のカルチャーの中にぐ
ました。
て活動することもあり
ャンプのリーダーとし
オリエンテーションキ
ラクロス部の学生とともに(田淵院長:前列左から2人目)
の こ ろ は 、1 、
2年生
てく だ さいま し た 。そ
う 来 たな 」と 声を 掛 け
部の 先 生 方 全 員 が「 よ
ったですね。また、文学
経験できたのです。中学部の先生にも可
徒しか経験できないことを大学生の私が
帳を開きながらお話をされ、中学部の生
間 近で聞くこともできました。小さい手
り 、元 中 学 部 長の矢 内 正一先 生のお話を
卒 業し て 牧 師 にな り 3 年 が たった こ
ろ 、「 君 、文 学 部 の 宗 教 主 事 に な ら ない
しい学生生活でした。
模で、非常に居心地のいい場所でした。楽
は自慢ですね。神学部は比較的小さい規
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い学校であることは小
さいころからよく聞か
さ れ ていま し た 。し か
し 、ここから が 問 題 な
のです 。当 時の 関 西 学
院の 中 学 部 入 試 も 非
常に 難し く 、お 前 が 通
聖歌隊に所属していた学生時代(田淵院長:中央列右端)
巻頭特集 田淵院長×村上会長
村上 一平(むらかみ・いっぺい)
院長
同窓会会長
第16代関西学院院長、高中部長、初等部長、関西学院大学教育学部教授。
1973年関西学院大学文学部卒業、1975年神学部卒業、1977年大学院
神学研究科博士課程前期課程修了、同神学研究科博士課程後期課程単位取
得満期退学、ロンドン大学キングスカレッジ留学。旧約聖書学専攻。2016年
4月から院長。
1967年関西学院大学経済学部卒業、日清製粉株式会社入社。常務取締役
などを経て2007年株式会社日清製粉グループ本社代表取締役社長就任、
現在同社特別顧問。2012年関西学院大学大学院文学研究科入学、2014
年大学院文学研究科博士課程前期課程修了、現在同文学研究科博士課程後
期課程。2015年から同窓会会長。
田淵 結(たぶち・むすび)
かす 時 は 子 守 唄 代わりに「 A Song for
」
を歌っていました。
Kwansei
ょう ど 娘 が生まれてすぐでしたので、寝
のお 誘いは 本 当にうれしかったです。ち
か 」と お 声 を か けていた だ き まし た 。こ
残っていることはありますか。
村上 教員として、さまざまな学生と関
わってこられたと 思いますが 、思い出に
の中で生きるという経験をしました。
ていただきました。
そこで異文化、多文化
間 、ロンドン大 学にランバス留 学をさせ
女 子 学 生2 人に「ラクロスをやってみな
が 何 人 かお り 、あ る 日 、それを 見ていた
は パス・キャッチをやっている 男 子 学 生
ないか」
と言われたのです。当時上ケ原に
と 思っている 。関 学にもつくっても ら え
村 先 生に「 松 蔭にラクロス部をつくろ う
リ ズについて研 究したり 、学 院の百 年 史
の設計をしたウィリアム・メレル・ヴォー
きちんと 理 解したいと 思い、キャンパス
西学院のキャンパスの美しさをもう少し
当に楽しい時 間を 過ごしてきました。関
りは楽しかったですね。
会を 寮のロビーでしたり 。寮 生との交わ
金がない学生が多かったので新入生歓迎
マスにケーキを買って一緒に食べたり、
お
した。私なりに学生に近づこうと、
クリス
なく紛争の香りがする寮と言われていま
田 淵 学 生 寮の 舎 監 を 務 め た こ と が あ
り まし た 。当 時の 成 全 寮 は 、ま だ なんと
村 上 今 や 全 国 優 勝 す る ほ どのチ ー ム
になりました。
すごいですよね。
方のチームを立ち上げました。
ということになり、結局、男子と女子、両
て、「 僕らもラクロスチームを 作りたい」
れていったから心配になって」
とやって来
ロスをしていた 男 子 学 生たちも「 急に連
来てもらって話をしました。
すると、
ラク
やってみたい」
と言うので、早速研究室に
い? 」と 声を 掛けました。「やれるのなら
村上 そこから今日までずっと関西学院
と関わっておられるのですね。
の編 集に関わったりしました。原 稿を 書
もう一つ、教員生活 年のうち、 年以
上ラクロス部に関わり ました 。ロンドン
田 淵 初 期 に は 女 子 が 全 国 優 勝 もし ま
田 淵 教 員 と し て 年 。入 学 し た の が
1 96 9 年ですから 、お よ そ 年 間 、本
くために学院の歴史を調べるのは面白か
から帰ってきたころ、松蔭女子大学の勝
個性の異なる
キャンパスを包括する
新しいキャラクターの
発信を
を 持って学 生に 接しているでしょうか 。
総じて学生は関西学院へのコミットメ
ントが強いです。
そして、
みんな大学のこ
した。
スが集まっての関西 学 院となりました 。
田 淵 今 ま では 西 宮 上 ケ 原 イ コ ー ル 関
西 学 院だったのが、個 性 が違 うキャンパ
スの設立にも関わられています。
千里国際キャンパスと西宮聖和キャンパ
ンパスも七つになりました 。田 淵 院 長は
「 あ 、仲 間 だ 」と 思ってくれるか ど うか 。
で大学生が初等部の子とすれ違った際に、
を 持ってくれるかど うか。宝 塚 大 橋の上
「 同じ 関 西 学 院の 仲 間 だ 」という 気 持 ち
学院の仲間だ」
と言い続けています。中学
すが、どこに行っても「あなたたちは関西
ャンパスに足を運ぶようにしているので
思います。
部の生徒が初等部の児童に会ったときに
関西 学 院にそれほど 燃えているか、関西
上ケ原のことだけを押し付けてはいけま
親しみが自然に生まれて
「今から学校に
とが好きです。今、教員はそれほどの思い
学 院をそれほど 好きか、問われていると
せん。千里国際や西宮聖和にはそれぞれ
部に行ったりとできるだけいろいろなキ
る「 We are Kwansei!
」
という気持ちが
必要です。私は、初等部に行ったり、中学
人たち が「 同じ 関 西 学 院 だよね 」と 思え
あり ます。
でもそれと 同 時に学 内にいる
ろ ん 今 は 世 界 に 関 西 学 院 を 示 す 時 でも
くらないといけないと 思いま すね 。もち
めた新しい関西学院のキャラクターをつ
ったですね。また、教員になってから2年
したが、私がより積極的にチームに関わ
っていた 時 は な か な か 勝 て ま せ ん でし
た 。でもチャレンジングなチームに 関わ
年 以 上 か けて 体 育 会 に
るのは、非常に面白かったですね。何もな
いと こ ろ か ら
昇 格しましたから 。ラクロスチームの学
生たちはストイックで、非 常に厳しく自
村 上 関 西 学 院 は この 年 で 大 き く 変
わりました。大学の学部は に増え、
キャ
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歴史もありますから、そういうものを含
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分たちを 律していました 。とても 熱 心で
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20
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ターナショナルスクールの生徒たちのキ
しています。実は昨日、上ケ原で大阪イン
らと関わって、“ Mastery for Service
”
を
訴えていかなければならなかったと反省
田淵 大阪インターナショナルスクール
の件は私の責 任でもあります。もっと 彼
と思います。
で学 びたい」という 部 分 が希 薄なのでは
「 関 西 学 院 に もっといたい 、もっと こ こ
した。
これはものすごく心配なことです。
西 学 院 大 学に 進 学し なかった と 聞 き ま
ナルスクールの卒 業 生 が2 、
3人しか関
パスにある関西学院大阪インターナショ
のではと思います。先日、千里国際キャン
的な言葉で発信していかないといけない
うなった時に、阿吽の呼吸ではなく、具体
キャンパスができるかもしれません 。そ
ろうと 思うんですね。これから 海 外にも
部ではどうなのか。聖和ではどうなんだ
らし さ 、それ が 千 里にはあ るのか 。初 等
ケ原で自然に身に付けていった関西学院
た 。でも 、
ノスタルジアではなく 、この上
いかなければいけないとおっしゃいまし
ものを含めた新しい関西学院をつくって
なる 。そんなあいさつができる 関西 学 院
行 くんやな 、頑 張れよ 」と 声 を 掛 けたく
ん だ 人 こ そ が 本 当の 意 味での 卒 業 生で
う意味からすると、ずっと関西学院で学
いくこと が大 切です。
でも 教 育 機 関とい
いては、学 外からも 人を どんどん入れて
もあるのです。研 究 機 関である 限りにお
村 上 大 学には2 面 性 があ る と 思いま
す。研究機関であると同時に教育機関で
す。
たいと 思いま
ってい た だ き
を も う 少し 持
とい う 気 持 ち
を 担ってい る
に は そ の一 端
思います。教員
その 通 り だ と
ゃいました が、
なし 」とおっし
な くして学 院
「聖書と礼拝
岡美國先生は
持って教 育しています。第2 代 院 長の吉
うことです。関西学院は私学の独自性を
どれほどの思いで向き合っているかとい
田淵 熱い思いを持って関西学院に入学
してくる児童・生徒・学生たちに、教員が
た。
村 上 教 員 が 関 西 学 院のこ と を ど れ ほ
ど好きか問われているとおっしゃいまし
これからはもっとしていこうと思います。
言うと学生はやらされる感を持ってしま
田淵 自 分で気 付いてほしいですが 、そ
れは無理なのでしょうかね。
ただ、
あまり
げないといけないのです。
か」
とがっかりしました。誰かが教えてあ
ういう時間なのか分かっているのだろう
唱は上手だったのですが私は「礼拝がど
て文 学 部の音 楽 礼 拝に出 席した
きではないでしょうか。院生とし
もっと 大 き な 声 で 伝 えていくべ
村上 私は、
それはキリスト教主
義であるべきだと 思っています。
ね。
る か ど う か では な く 個 性 と し て
だく。
それがキリスト教主義であ
それを関西学院の良さとして語っていた
していた だくことは 大 切ですね 。そして
と。
一つのものを一緒に求めていると実感
を一つに する という 意 味です ご くいい」
た。例えば「教授会でのお祈りは、気持ち
は 違 う 」とおっしゃったこと があり まし
田淵 ずっと国立大学で教えてこられた
方 が 関 西 学 院に 赴 任 されて、「この 学 校
す。
際、
ある合唱団が出てきて日本の
ていただきたいですね。
も関西学院の一人としてどんどん発信し
な 」と 分 か り ま す 。昔のこ と だ から 今の
す。歴史を知ると「だからこうなったんだ
話を 聞かせてほしい」とお 願いしていま
田淵 私は同窓会に呼ばれるたび、必ず
「皆さんが学生だったころの関西学院の
村上 最後に同窓のみなさんにメッセー
ジをお願いします。
から訴えていきたいと思います。
うことの独 自 性を 理 解しているか、これ
ると 思いますね。関西 学 院で教えるとい
村上 そういうことをどなたかが言い続
けな けれ ばいけないのでしょう 。
いろい
のは先生たちのおかげです。
や教えに応えてきました。今の私がある
いろいろな 先 生 がおられて、先 生の言 葉
田 洋 先 生の教えからなのです。今までに
田淵 私がいつも関西学院のバッジを付
けるよ うになったのは、学 生のころの宮
問題ですから。
ないかは 学 生 自 身 が 考 える 自 分 自 身の
は 違いま す 。クリスチャンになるかなら
村 上 先ほ ど 、
いろいろなキャンパスが
あってそれぞれに個 性 がある 、そういう
あるポピュラーソングを 歌いました 。合
関西学院とは関係ないと思わず、皆さん
田淵 だからこそ、日常的に学生に向き
合っている教員のミッションが大事にな
切です。
で現役の学生たちに伝えていくことが大
ろな方 がいろいろな場 面で、自 分の言 葉
村上 キリスト教主義を押し出していく
ことと、
クリスチャンをつくっていくこと
ャンパス見学がありました。
そこで彼らに
す。
そして、
この人たちが関西学院の精神
います。難しいですね。
にできたらいいなと思いますね。
「 大 阪 だ けではな く 、こ こ も 君 た ちのキ
を伝えていかなければいけないと思いま
関西学院らしさを
もっと大きな声で
伝えていくべき
ャンパスだ」
と訴えました。
そういう話を