WIJC160814勝利の人生へのステップ

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2016 年 8 月14日(日) 聖書:Ⅱ歴代誌20章-節 タイトル:勝利の人生へのステップ
序 論
●ブラジルでのオリンピックも、今や「宴もたけなわ」というところ。嬉しいことに、日本からの代表
選手たちも大変頑張っている。体操の男子団体戦では、予想通りに見事金メダルを取り、水泳、柔道
でも沢山のメダルを獲得しつつある。みんな頑張っている。
●木曜日の晩、女子の体操個人演技の最終戦を見た。その中で、アメリカの Aly Raisman と言う選手
の姿が印象的であった。彼女は、今回のオリンピックの出場は無理かと言われる中、出場を決断した
だけでなく、チームリーダーを務め、アメリカの女子体操チームを金メダルに導いた。そして、木曜
日の晩には、個人としてのメダル獲得に挑戦し、見事、銀メダルを獲得した。その最後の演技種目で
あった床運動を終えた瞬間、彼女は、目に一杯の涙をためて、両手を挙げて観客の歓声と拍手に応え
た。その背後に、どのくらい血を流すような努力が、失望や不安、自分と戦いながらの 4 年間の日々
の苦闘があったことかをしみじみと思い、感じつつテレビを見ていた。
●戦いはスポーツの世界だけではない。人生、そのものが戦いである。
●先週の日曜礼拝で、私たちは、そのことを学んだ。
1.人生は、苦難・試練との戦いであり、罪と悪への誘惑との戦いである。
2.人生が戦いである以上、そこには、勝利が期待される。
3.しかし、感謝すべきかな、神様は、私たちに勝利の約束と宣言を与えてくださっている。ヨシュ
ア記1章 7-9 節、ローマ 8 章 37 節
●しかし、勝利は、いきなりやってこない。勝利には、勝利に至るべき努力とステップが必要である。
●そのことが、正に、今、次々にメダルを獲得している多くのオリンピック選手たちが私たちに教えて
いることである。即ち、勝利の人生への道である。
●そのことを、今日は、聖書の歴代誌Ⅱ20 章に記されている、ユダヤの国が経験した大きな戦いと勝
利の出来事から学びたい。
●その戦いについて簡単に説明すると、
1.当時、イスラエルの国は、南北に別れていたが、南王国のユダヤの王はヨシャパテであった。彼
は、初めのうちは、忠実に神様に従って来た良い王様であったが、次第に、神様を恐れない北王
国のアハブと提携を結ぶなど信仰に妥協が見えて来た。
2.そんな頃、周囲の敵国であるアモン人とモアブ人のが連合して攻めて来たのである。聖書には、
その数はハッキリ書いていないが、12、15 節を見ると、その敵が余りの「大軍」であったの
で、ユダヤの人々が失望、落胆、恐怖に陥ってしまうほどだったと記している。
3.その大きさだけではなかった。2 節を見ると、その敵は既に「早くも、彼らは、ハツァツォン・
タマル、即ちエン・ゲディに来ています」とあるように、すぐそこまで、至近距離に来ていた。
4.そんな大軍を目の前にして、ヨシャパテ王を筆頭にユダヤ人全員が恐怖でわなないた。王は早速
に国民に「断食して祈るように」求め、人々は集まって王様と共に祈り始めた。
5.すると突然、会衆の中から一人の男が立ち上がって預言をし出した。その信仰的預言の前に圧倒
された王様と全会衆は、その場でみなひれ伏して礼拝をし、しかも、その礼拝は大きな賛美で閉
じられたとある。
6.翌朝、王様は、民と相談し、作戦を練った。しかし、その作戦は、実に稀有で、非常識でさえあ
った。それは、一番激しい戦いをするべき隊の戦闘に、武器を持たない、「賛美チーム」を行か
せると言うものであった。
7.この賛美チームが、声を上げ始めたとき、「主は伏兵を設けて」、大軍である敵を打ち負かせ、
イスラエルに勝利をもたらしたのである。
●この出来事のなかに、私たちは、「勝利の人生へのステップ」を見ることができる。
本 論
Ⅰ.勝利への最初のステップは何か? 自分の弱さと無力を認め、必死に神に助けを求めることである。
A.ヨシャパテの場合を見たい。
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1.聖書は 3 節で、彼は「恐れて」いたと記す。彼は、強くあるべき一国の王であったが、実
際、その戦いが「怖かった」のである。
(1)彼は、敵軍が一国ではなく、連合軍であること、更には、その軍の数に圧倒されて怖く
なったのである。
(2)私たちは、しばしば「数」や「量」によって恐れの奴隷となる。
●敵が、相手が、対象となる人数が、大人数であるとき、恐れる
●支払うお金が大金であるとき、借金するお金が大きいとき、恐れる
●大きな仕事、などなどで「怖くなる」のである。
2.ヨシャパテ王も怖かった。しかし、素晴らしいことは、ヨシャパテ王は、その恐れ、自分の
弱さを隠さなかったのである。むしろ人々の前にも、神の前にも、その弱さをさらけ出した。
(1)人々の前に:3 節を見ると、彼は、人々に断食して祈るように求め、訴えた。彼は、国
民の前に、強いリーダーを気取らなかった。自分の弱さを晒した。
(2)神の前に:更に、それは、神への祈りの言葉にも表れていた。彼は告白して言う。「こ
のおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしてはどうして良
いか分かりません。」と。
(3)特に後半の言葉「私たちはどうして良いか分かりません」は、唯に、プライドを捨てた
言葉と言う以上に、王様のようなリーダーとしては、一番言いたくない言葉であり、彼
のリーダーとしての資質をさえ揺るがせる告白である。
3.その王の恐れは、国民、会衆にも伝わった。
(1)だから、彼らは、集まり、主の助けを求めた。4 節
(2)更に、それは、ヤハジエルの言葉「恐れてはならない。気落ちしてはならない」(15 節)。
B.神様は、自分の弱さを認め、告白し、助けと憐みを求める人に近くおられ、救われる。
1.パウロもその一人であった。
(1)彼は、人間的に見ると、最も偉大な使徒、宣教者として、精神的に強そうな人であった。
(2)しかし、彼もまた、実際には、肉体に与えられた「とげ」と呼ばれる「弱さ」のゆえに、
しばしば心も身もくじけそうになったと思われる。
(3)しかし、そんな彼に神様は、そばにおられ、彼をして、「私は弱い時にこそ強いのであ
る」と言わしめた。「・・・・」(Ⅱコリント12:7-10)。
2.度々、引用するブルックリン・タバナクル教会の牧師ジム・シンバラ先生もその一人である。
(1)彼は、正に潰れかけた教会、麻薬と売春婦の町と言われる地域にあった教会、会衆はわ
ずか 20 名ほどにも満たない小さな教会、借金まみれで牧師給も十分に払えない教会、
会堂のベンチでさえ壊れかけていて、うっかりすると安心して座れない教会に遣わされ
たのである。霊的にも、何をアピールしても会衆に響いていると思えない教会であった。
(2)彼自身にしても、十分なと言うか、正式な神学教育を受けていなかった。何もかもが十
分ではない状態でのご奉仕の日々であった。
(3)そんな中で、遂にある日曜日の夜の集会で、彼は説教中に行き詰り、続けられないまま、
講壇をおりてしまった。彼は、恥かしさの中で、会衆に祈りを求めた。
(4)その晩から何かが変わり始めるのである。彼はその晩、ハッキリと確信するのであった。
彼は言う。「あの晩、驚くべき真理を発見したのです。神は弱さに引き付けられるお方
であること。また如何に切実に、主を必要としているかをへりくだって素直に認める者
たちを、主は捨てておかれない、と言う真理です」と。
3.ここに、神を求めることと、自分の弱さを認め・晒すことの密接な関係がある。
(1)結論から言うなら、自分の弱さを本当に知っている人ほど、神様を祈り求める人である。
(2)人は誰でもある程度自分の弱さを知っている。同時に神様の助けの必要も知っている。
(3)しかし、多くの場合、これがどちらも中途半端なのである。
●即ち、「私が弱いことは知っている。確かに私はそんなに強くない。でもそこまでは
弱くない」と言う感じである。それゆえ、
●必然、祈りも逃げ腰の祈りとなり、直ぐに自分を含めて人間的な助けに走るのである。
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(4)だから、あのヤコブのように神様にしがみついて(CLING して)、「私を祝福するまでは
あなたを去らせません」と言うような真剣な祈りにならないのである。
(5)ここで必要なのは、英語で言う desperateness である。
(6)自分の弱さを徹底的に認める人は、その分必死になって祈り、神様の助けを求める。
(7)私たちが、自分の弱さを desperate な気持ちで神様に訴え、助けを求めるなら、神様は
決して私たちを見捨てないばかりか、必ず助けてくださるのである。
Ⅱ.次のステップは、神の前に「ひれ伏す」ことである。
A.それが、次にヨシャパテ王と民衆がしたことである。
1.18 節を見ると、日本語新改訳聖書では2回「ひれ伏した」と言う語が使われ、最後に「主
を礼拝し」たとなっている。
2.これらの言葉は、皆同義語であり、「顔を地面に臥せる行為」である。
3.それは、奴隷の行為であり、敗戦将軍が凱旋将軍に対して行う行為である。
4.それが、勝利に向かって、ヨシャパテ王と民衆がした次のステップであった。
B.そして、この神の御前に「ひれ伏す」ことこそが、真の礼拝の意味である。
1.即ち、これが聖書の伝える「礼拝」である。「礼拝」とは、単に、毎週日曜の朝に、集まっ
てみなで賛美したり、何かためになる、励ましになるお話を聞く集会のことではない。神の
御前にひれ伏すことである。
2.私たちは、私たちが加わっている人生の戦いの将軍ではない。人生の戦いの将軍はイエス様
である。私たちは、そのイエス様に対して、ひれ伏し、降伏し、生涯の服従と信頼と忠誠を
誓うのである。
3.即ち、私たちが、イエス様の前に敗北を認め、イエス様こそ勝利の主としてひれ伏すことが
礼拝である。
4.そのとき、我らの凱旋将軍であるイエス様の勝利の行列に連なり、共に勝利の栄誉と喜びを
体験し、味わうことができるのである。
5.それが、正にパウロが、Ⅱコリント 2 章14節で、描いている勝利の凱旋行列のイメージ
である。「・・・・」。
B.しかし、この降伏としての礼拝は、多くの人々に「人気」がない?!
1.リック・ウォーレンは、その著書、「人生の 5 つの目的(Purpose Driven Life)の中(10 日
目)でこのように言う。「礼拝の本質は、降伏にあります。(しかし) 降伏という言葉はあ
まり人気がありません。服従という言葉と同じくらい嫌われているでしょうか」と。
2.人々は、楽しい礼拝を求めて音楽が楽しい礼拝を求める。生活に役に立つ礼拝を求めて、気
の利いたお話しの聞ける礼拝を求める。それらは決して悪いことではない。むしろ良いこと
である。しかし、同時に、それは礼拝の本質ではない。
3.礼拝の本質、本当の礼拝は、イエス様に降伏することから始まる。でも人々は、誰かに屈服
すること、誰かの言うことを聞いて従がうことを嫌う。自分が主であって、自分の意志が通
らなければ我慢できないのである。
4.しかし、そこにいつも私たちの敗北の原因がある。勝利の原動力はどこからくるか? それ
は、イエス様に敗北し、降伏することから来ると聖書は言う。
5.George Mattheson の賛美:Make Me a Captive, O Lord
主よ、我をば捕らえたまえ さらば我たまは解き放たれん
我が刃を砕きたまえ さらば我が仇(あた)に打ち勝つを得ん
Make me a captive, Lord, And then I shall be free.
Force me to render up my sword, And I shall conqueror be.
I sink in life’s alarms When by myself I stand;
Imprison me within thine arms, And strong shall be my hand.
6.キリストの御前にひれ伏す(真の礼拝)とき、私たちは人生の戦いにおける大きな勝利へのス
テップを踏み出すことになるのである。
Ⅲ.最後のステップは、「賛美」である。
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A.Strange Battle
1.Alexander Maclaren という有名な聖書講解者は、この戦いを “Strange Battle”と
呼んだ。
2.なぜ Strange なのか? その理由は、戦闘軍団の先頭、即ち一番危ない部分に、戦いと
は全く無縁の賛美チームが配置されたことである(3節)
3.そして、彼らが賛美し、歌い始めたとき、神様は、伏兵を設けて(英語では Set
ambushes against) 、アモン人、モアブ人の連合大軍を打ち破ったと聖書は記す。
4.何と Strange で奇異な戦争か? こんな戦い方をする軍隊を見たことがない!? こん
な勝利も見たことがない。だから Strange なのである。
5.このことから何が言えるか? それは:
B.神様は、「賛美する者」を助け、「賛美する者」に勝利を与えられる。
1.詩篇 22 篇 3 節でダビデは、神様についてこのように言っている。「あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます」、
2.神様は、私たちの「賛美」を愛され、「賛美」する人と共に、近くおられる。神様は弱さ
を自覚している人たちに引き付けられると同様に、賛美する人にひきつけられるのである。
3.言い換えるなら、あなたがもし賛美を愛する人なら、神様はあなたの近くにおられ、祝福
し、必ずあなたに勝利を与えられることを確信してよいのである。
4.ヨシャパテ王と民衆たちについて、ここで 4 回も、「賛美」「歌う」と言う言葉が使われ
ている(19 節、21 節、22 節)。
5.彼らが勝利した理由、神様が伏兵を設けて彼らを助けた理由は、彼らが神様を「賛美」し
たからであった。
6.ネヘミヤ 8 章 10 節にはこのように記されている(別訳)。「主を喜ぶことはあなたがたの
力である」と。主を喜び称えることは力であり、勝利の源泉なのである。
C.彼らのした「賛美」の意義
1.ここで、特に、このヨシャパテ王と民がした賛美で特筆すべきことは、それが決して気分
が良いから歌ったのでも、楽しくて歌ったのでもない。
2.賛美とは、ただ歌が好きで歌うことではない。ある意味で「感謝する」こととも少し違う。
良いことがあってもなくても、神様を神様としてほめたたえること、崇めること、「あな
たは素晴らしい」と神様に向かって言うことである。
3.彼らの場合、見えるところは、相変わらず大軍団を前にした恐れ以外何物でもなかった。
自分の弱さも同じであった。何も状況は変わらないが、彼らは賛美したのである。しかも、
無防備のままであった。
4.そのような状況の中での彼らの賛美は、勇気とそれを支える信仰の表現であった。
5.それは、彼らにとって、命がけのものであった。武器も持たないで戦闘軍団の先頭に立つ
ことは、「正気ですか?!」と聞かれるほどに、勇気のいる行為であった。
6.そこには、更に、その勇気を支える信仰もあった。主の勝利を支える信仰であった。
7.私たちは、どうだろうか? 勝利を呼び込む賛美に溢れているだろうか?
結 論
●アジアでも、中国人、韓国人、日本人は、見た目から言っても、文化的にも歴史的にも非常に近い。
●しかし、キリスト教信仰においては随分違う。その中で、以前から冗談のように言われることが、
「中国人が集まると賛美する。韓国人が集まると祈る。しかし、日本人が集まると議論する」と。
●昔から、教会のリバイバルと賛美は一体であると言われる。勝利の最終ステップは賛美である。
●しかし、それは、先の 2 ステップである、自分の弱さの自覚とそれゆえの神への信頼、そして、神様
の前に全面降伏して、自分の生涯を捧げることから始められなければならない。