雄勝 OH ガッツ通信 号 - 一般社団法人広島県医師会

昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
号)
年(平成
年) 月
日( )
雄勝 OH ガッツ通信 号
沼隈病院 藤原 惠
はじめに
前回の「雄勝 OH ガッツ通信 号」で紹介し
たように、 月 日松から 月 日(月・祝)までの
日間、総勢 名の多彩な顔ぶれで、雄勝を訪問
してきました。
雄勝滞在中の 日間、風はかなり強い時もあり
ましたが、幸運にも天気がよく、 日の朝には、
全員で雅丸水産の雅丸号に乗せてもらい、漁業
体験と雄勝湾のクルージングも楽しむことがで
きました。
今回、いつもの地元の方々との交流会をはじ
め、初めて企画した講演会(立花 貴さん、小倉
健一郎先生、近藤和美さん)
、松永ロータリー
クラブからの義援金の贈呈、荒浜の『希望の壁』
の見学、小倉先生の鯉のぼりプロジェクトへの
参 加、立 花 さ ん を 中 心 に 取 り 組 ま れ て い る
「SWEET TREAT
」の元桑浜小学校再生プ
ロジェクトの見学、雄勝湾での漁業体験とク
ルージングなどと、盛りだくさんの内容でした。
どれ一つとっても、大変意義ある内容が含まれ
ています。とても 回では全部を紹介しきれませ
んので、参加者からの感想文の紹介も交えて、回
程度の連載で、震災後 年目の「被災地支援」に
ついて、一緒に考えて行きたいと思っています。
. 年目になっても、被災地訪問
の意義はあるの?
月 日、帰りの新幹線の中で、立花 貴さん
のブログ「人の根っこにつながる」を読んでい
ました。このブログ、毎週月曜日に更新され、
すでに 回近く続いているそうです。これを毎
月曜日、読むのが私の習慣になっています。
その内容を、紹介したいと思います。
「おはようございます。立花です。震災後から
定期的に雄勝を訪れ応援してくださっている方々
が来てくださいました。全国にいる大切な雄勝応
援団でもあります。仮設住宅住民みんなで迎える
様子は遠方の親戚を出迎えるような感じです。震
災後にできた新しいコミュニティーの形でもあり
ます。また、遠く離れた地で折に触れ、地道に口
コミで、そして継続的に、そだての住人の募集し
てくださっている方々でもあります。昨日は昼に
みんなで餅つきをし、あんこもち、きなこもち、
納豆もち、お雑煮、そして地元のお母さん方が
作った郷土料理がふるまわれました。
月
日 水浜仮設住宅での餅つき大会
『実際に現地に足を運ぶということが大切だと
感じた』とはじめて参加した方がおっしゃって
いたのが印象的でした」
今回のツアーに参加した方々から、「今回、
本当に元気をもらいました」「心が癒されまし
た」などの言葉をいただいています。双方がパ
ワーをもらっているということが実感できます。
震 災 後、で き つ つ あ る「新 し い コ ミ ュ ニ
ティー」の共通ワードは、感謝とおもいやりの
ような気がします。
こうした「新しいコミュニティー」を各地で
どんどん育っていけばいいなと思っています。
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
. 「したたかな」おもいやり −気にかかっていた「牛タン弁当」−
今回のツアーの中で私自身、この 年間気にか
かっていて、どうしても確かめたかったことが
ありました。
それは、
「牛タン弁当」です。広島県医師会速
報第
号(
年 月 日発行)のJ
MAT活
動報告に記載してあります。そこから少し引用
してみましょう。
(
年 月 日 J
MAT元水浜保育所にて
号 J
MAT報告での私の報告の冒頭の写真)
「このような医療活動から、被災者との一体感
が自然と生まれ、ここでは、 日連続、お昼弁当
をいただくことになった。
『弁当が余って困って
いますので、助けると思って、食べていってく
ださい』
『それなら分かりました。助けると思っ
て、弁当をいただきましょう。でも、こちらも
もみじ饅頭が余って困っています。明日届けま
すから、助けると思って食べて下さい』」
「どんなつらい状況にあっても、相手のことを
思いやる」人情の厚さの象徴として、私が水浜
に継続的に関わるきっかけにもなったエピソー
ドです。
この「牛タン弁当」をめぐるエピソードを、
雄勝のことをお話する際には、私は必ず紹介し
ています。そうすると、聴衆から、よく「あの
弁当はやっぱり余っていなかったんでしょう」
と質問されます。その質問に、これまできっち
り答えられず、なんとなくすっきりしない気持
ちが残っていたので今回、 月 日、夜の水浜仮
設の交流会の時に、思い切って、秋山勝子さん
に尋ねてみました。
「あの牛タン弁当は余っていたのですか」
その答えは、以下のような内容でした。
「その日、水浜の出身の方が、 個 , 円の
牛タン弁当を
個作って差し入れてくれまし
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
た。その時、避難所には 名程度いたので余っ
てはいませんでした。しかし、遠いところからわ
ざわざ来てくれた医療支援の方に、どうしてもお
昼弁当を食べてもらいたかったのです。普通に出
しても食べてもらえそうにないので、頭を使い、
考えました。私たちは自力でご飯も炊いていた
し、支援物資もそこそこあり、少し余裕もあった
ので、おいしい宮城の弁当をぜひ食べてもらいた
かったのです。水浜の人は賢いでしょう」
あの牛タン弁当は、やっぱり余っていません
でした。しかし、誰かががまんしても、水浜の
人は遠方から支援に来た人にどうしても食べて
もらいたかったのです。もちろん、生活の維持
に必要な物資の量はきちんと「計算」した上で
の行動ですが。
この「したたかな」おもいやりのおかげで、
あの牛タン弁当はより一層おいしくなったので
しょう。
あのおいしさの「秘密」はここにもあったよ
うです。
いつも雄勝を訪問するたびに、パワーをも
らっています。
. まずは、医学生の感想から
今回、 名の広島大学医学部の学生が参加をし
ました。私の勤務する沼隈病院が、広大医学部
の新入生の初期体験学習や、地域枠の医学生の
研修に協力をしているという経緯があり、一緒
に雄勝を訪問するという縁ができました。
日間の短い期間ではありましたが、内容の濃
いツアーではなかったかと思います。
参加者の皆さんには、感想文をお願いしてい
ますので、順次紹介していきたいと思います。
今回は、すぐに感想文を送付してくれた広大
医学部学生 名の感想文を紹介します。
石巻市雄勝町訪問を終えて
広島大学医学部医学科 年
唐口 望実
私は 月 ~ 日の三日間のスケジュールで
年 月 日に発生した大震災により多大な被
害を受けた、宮城県石巻市雄勝町を訪問しまし
た。その地はリアス式海岸と呼ばれる海岸沿い
に「浜」と呼ばれる集落が点在していました。
初日は新幹線で広島から仙台駅まで向かい、
それより先は線路が開通できておらず、遠回り
になるということで自動車で約 時間ほどかけて
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
広島県医師会速報(第
雄勝町へ到着しました。目的地に近づくにつれ、
景色はだんだんと建物がなくなり、何にもない
平地に変わっていきました。ところどころにが
れきの山が点々とあり、ショベルカーも何台も
ありました。現地の人によると取り壊し予定の
建物も壊され、本当に「何にもなくなり、きれ
いさっぱりとなった」ということでした。その
日の夜は旅館の近くの仮設にある談話室という
ところで現地の方から震災と今に至る復興の様
子を教えていただきました。震災時の映像も流
れたのですが、現地の方は感情的に涙すること
なく、過去の出来事としてとらえているようで、
人間的な強さを感じました。
二日目は朝、周辺を散策し、談話室にてご講
演、午後に雄勝診療所の小倉先生の地域活性の
プロジェクトの一環のお手伝いをさせていただ
きました。周辺を散策すると相当内陸の高い位
置まで津波が到達し、飲み込んでいったことが
視覚的に理解できました。
「復興」というよりは
「整理」がされただけという印象を受けました。
ご講演では震災後に診療所に入られた小倉先生、
OHガッツをはじめ雇用や子どもの支援を精力的
に行われている立花さん、被災した雄勝病院で
働き、生き残った看護師の近藤さんからお話を
聞きました。まだまだ復興は終わっておらず、
これからも支援を必要としていること、現地の
人は前へ進もうと頑張っているということを実
感できるような講演会でした。昼は仮設で餅つ
きをし、外でみんなとお雑煮や餡もちにして食
べました。みなさんとてもお元気で、エネル
ギッシュでとても楽しい時間でした。
三日目は現地の漁師の方の船に乗せてもらい、
養殖の様子や海から被災した陸地の様子を見さ
せていただきました。船着き場が完全に破壊さ
れたということでしたが、彼らは手作りで船着
き場を作っており、養殖も順調のようでした。
その漁師の方はとても冗談がお好きで、いつも
人を笑わせていたところがとても印象的でした。
今回の訪問を通じて、新たな施設の建築はも
ちろん、がれきも片付けきれていない状況に疑
問を抱き、しかし現地の方々のあまりにもお元
気でエネルギッシュであることに驚きました。
そのような方々の支援を行う人とも交流でき、
時間はかかろうとも必ずこの地は日本でも有数
の日本的(人と人のつながりを感じる点)で先
進的な地域になるだろうと思わずにはいられま
せんでした。今回の経験を多くの人に伝えるこ
とが自分の義務のように感じており、今後の活
動に生かしていきたいと思います。
号)
年(平成
年) 月
日( )
最後に、今回このような機会を与えて下さっ
た藤原 惠先生に感謝いたします。
年 月
日 解体予定の元雄勝小学校前の鯉のぼり
被災地訪問を終えて
広島大学医学部医学科 年
枝廣 太郎
このたび私は平成 年 月 日松~ 日(月・祝)
におきまして宮城県石巻市雄勝町を訪問させて
いただきました。今回はそのときの感想などに
ついて書かせていただきます。
私が被災地を訪問したいと思っていた理由は、
単にボランティアがしたいというよりは被災地
の現状を自分の目に焼き付けておきたい、そう
することで次の世代に語り継ぐことができるの
ではないか、と思ったからである。私は広島出
身なので平和学習をよくしていたが、実際に私
が原爆を体験したわけではなく、原爆の本当の
恐ろしさを知ることを難しく感じていた。その
こともあり、今回被災地を訪問して、当時の状
況や津波の被害、現在の復興の進行状況を知り
たいと思っていた。
雄勝町での津波の状況・被害について簡単に
説明すると、まず地震が起きてから津波が発生
するまでの間はたったの 分しかなく、その間
に逃げなければならなかった。海岸沿いの防波
堤や小さな島の底が完全に見える程度まで潮が
引いたそうだ。雄勝の ~ 階建ての小学校・中
学校は屋上まで津波に飲み込まれ、同じように
屋上まで飲み込まれた雄勝病院では医師・看護
師・患者合わせて約 名という多くの犠牲者が
発生した。これほどの高さの津波になるとは予
想外だったという声が多く聞かれた。
訪問して感じたことは、被災された皆さんは私
( )
年(平成
年) 月
日
広島県医師会速報(第
が思っていたよりも明るく元気に過ごされていた
ということである。雄勝町へ向かう途中で北上川
を河口へ下って行ったが、その辺りから景色が一
変した。川沿いにあった家々が完全に流され、そ
のがれきが撤去されて、何もないまっさらな土地
となっていた。雄勝町でも海岸沿いにあった住居
などは完全に流され、現在ではまっさらな土地と
なっていた。津波から 年以上が経過するが、復
興はまだまだの状況である。このような状況であ
るので、被災地の皆さんは心のどこかで悲しい気
持ちを抱えているとは思うが、私たちの前ではそ
のような態度は決して見せず、明るくもてなして
下さり、被災地の現状に打ちのめされている私た
ちを逆に励ましてもらっているような印象を受け
た。被災地の皆さんは津波の被害を振り返ること
よりも復興に向かって一歩一歩確実に前に進もう
としていた。雄勝町で懸命に頑張っている人々の
姿を見ると、私も小さなことにくよくよしている
場合ではない、広島で彼らに負けないように頑張
ろうと思った。
また、今回訪問した雄勝町で被災当時から雄
勝町に乗り込んで、雄勝町の復興のために懸命
に活動されている株式会社オーガッツ(OH!
GUTS!)の発起人立花 貴さん、医師の小倉先
生のお話を伺うことができた。
立花さんは自らの 代を雄勝町に捧げて、雄
勝町をゼロの状態からの復興を目指し、将来的
にはその復興のモデルを日本全体に提供するこ
とを目標とされている。その背景には今の雄勝
町の現状と少子高齢化を迎える日本の現状が非
常に似ているという考えがある。また立花さん
は東京から人を乗せて週 回東京⇔雄勝を往復
し、被災地の現状を知ってもらおうという活動
もされている。立花さんは 年後に必ず雄勝町
は変わると確信されていた。
医師の小倉先生は被災地への医療援助で雄勝
町へ飛び込み、現在は雄勝診療所で勤務されて
いる。小倉先生は崩壊してしまった雄勝町の診
療を現在 人で支え、また診療だけでは意味が無
いということで、雄勝町を盛り上げるために楽
しい待合室づくり、落語会、もちつき大会など
も行っている。今回私たちは 月を迎えるという
ことで、殺風景な町を少しでも明るくする目的
で、鯉のぼりを立てる企画に参加させていただ
いた。立てた鯉のぼりは立派に雄勝の町を泳い
でいた。
このお二方は自らの人生の一部をこの雄勝町
に捧げる覚悟で活動されており、私はこのお二
方から勇気をいただいた。私は将来血液内科に
号)
昭和
年
月
日 第
種郵便物承認
進みたいという気持ちがあるが、正直言ってそ
れでうまくやっていけるかどうか迷うこともあ
る。しかしこのお二方の自らの決めたことに
まっすぐ取り組まれる姿勢や情熱を見て、私も
自らの目指す目標に向かって一生懸命に頑張ろ
うと心に決めた。
被災地の仮設住宅の世話役をされている秋山
さんがこのようなことをおっしゃっていた。
「津
波の被害は確かに残念であったけれども、この
津波によってたくさんの方々がこの雄勝町を支
援などで訪れてくださり、津波が無ければきっ
と出会うことのできなかった方々との新しい縁
ができました、本当にありがとうございました」
私も今回の訪問で被災地の方々と交流させてい
ただき、いろいろなことを教えていただき、そ
して皆さんから元気をいただいた。実際広島に
戻って生活をしていると日々の生活に追われ、
ついつい被災地のことを忘れかけてしまう。し
かし被災地の皆さんは「津波のあったことを忘
れないでほしい、そしてこの雄勝のことを周り
の人に伝えてほしい」とおっしゃっていた。津
波の被害を免れた私たちにとって被災地のこと
を心に留めておくことが一番大切なことではな
いかと思う。今回の訪問、そして被災地の現状
を忘れないようにして、これからしっかり医学
の勉強に励みたいと思う。
最後になりましたが、津波で亡くなられた
方々にご冥福をお祈りするとともに、今回の訪
問で大変お世話になりました藤原先生をはじめ、
私たちをもてなして下さった被災地の皆さんに
心より感謝申し上げます。
. 今後について
「雄勝 OH ガッツ通信 号」では、地元での
交流会の模様、講演会での立花 貴さん、小倉健
一郎先生、近藤和美さんのお話の要点、参加者
の感想文などを紹介したいと考えていますので、
よろしくお願いします。
年 月
日 水浜仮設での立花貴さんの講演会